マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

御所市宮前町神農社の薬祖神祭

2017年07月19日 09時20分53秒 | 御所市へ
高取町丹生谷に住む知人のNさんから神農さん関係の行事情報を教えていただいた。

N家は元配置薬家。

父親が各地にある顧客家に出向いて売薬をしていた。

お正月と盆に戻ってくる父親。

そのときに家の床の間に神農さんの掛図を掲げていたそうだ。

ご近所におられる現売薬家の案内で御所市内にある薬製造業社を訪ねられた。

現在はしていないが、家に掛図があると聞いたそうだ。

その昔に掲げていた期日は11月20日ころ。

神社行事を終えた直会の会場に掲げているという。

その行事名は神農祭。

かつては12月の冬至の日にしていたが、現在は一か月前倒しした11月にしていることがわかったと伝えてくれた。

それから2カ月後の11月5日、神農さん関連の情報を伝えてくださったNさんから再び連絡が入った。

御所市の神農さんの行事は11月16日の水曜日。

祭事の場は御所市宮前町に鎮座する鴨都波神社である。

着いてからわかったが、祭事は鴨都波神社摂社の神農社だった。

早めに着いて鴨都波神社松本広澄宮司並びに代表者へ取材の主旨を伝えて了解を得た。

この日の行事に集まった人たちは御所市内の薬関係業者が11社。

五條市から1社。

製薬会社、製薬組合、卸し問屋、配置商業などの組合員が参列する。

今年で35回目になる行事名は薬祖神祭。

行事日は特定日でなく代表役員の集まりで決めるそうだ。

また、組合員は桜井市三輪の大神神社摂社の狭井神社で4月に行われる鎮花祭はなしずめまつり)にも参列しているという。

同祭に供えられる植物に薬草のすいかずら(忍冬)があると話す。

尤も同祭は平成20年4月18日に参拝させていただいた。

社伝によれば、同祭は「平安時代の律令の注釈書『令義解(りょうのぎげ)』に鎮花祭のことが記され、春の花びらが散る時に疫神が分散して流行病を起こすために、これを鎮遏(ちんあつ)するために大神神社と狭井神社で祭りを行う。『大宝律令』(701)に国家の祭祀として行うことが定められていた」とある。



父親早逝により15歳で神職を継いだ松本広澄宮司は82歳。

戦前は学校近くにあった粟島神社で行われていた行事だったという。

昭和の時代のころである。

香具師(やし)と薬屋さんに関係深い神農さんを敬愛する神農会を組織していた。

薬業界の商売繁盛を願って共同で行事を営んでいたという。

香具師(やし)は薬を作るとか、売買していた露天商を指す。

縁日に馴染みのあるテキヤさん商売を昔の通りのヤシと呼ぶ人もいる。

元来、ヤシは薬販売業であった。

薬以外に商売を広げたのは藩政時代のころからのようだ。

明治時代以降、ヤシの言葉は禁じられるようになり、テキヤ(※適当屋と呼んでいたことから)と呼ぶようになって消えた。

年齢がいっている人はテキヤと呼ばずにヤシを称する人も多いやに思うこともある。

それはともかく御所の神農会組織は解散されて廃れたようだが、今では前述した薬関係の組合員が業界の安泰、並びに少彦名神に感謝するとともに繁盛願って神農社の薬祖神祭に参列している。

一段登った高い処にある神農社は昭和35年(1960)11月22日に薬関係者の発起人12人が建てたようだ。

と、いうことは宮司が話した神農会は戦前・戦中、或は戦後間もないころまであった組織であろう。

これらのことについては話題も出なかった現在の参拝者とは別の組織であったと思われる。

ただ、直会会場になる建物には組織を表示する案内札があり、「神農講」と書いていた。

本日、参列された団体は「神農講」でもあるようだが、拝見した別の資料では「薬祖神講」を表記していた。

はじめにお会いした代表者は製薬会社に所属するが、「薬祖神講」の代表者でもあったのだ。

いずれであっても神農=薬祖神である。

かつてあったとされる鴨都波神社摂社の粟島神社は戦後に戻した。

戻し還した先は桜井の三輪。

そこから勧請していたので元の処に戻っていただいた、ということである。

さて、薬祖神祭の神事である。



社殿脇に立ててあるのは大阪道修町の少彦名神社に出かけて購入したササドラ(笹虎)である。

同じようにササドラを供える奈良県内行事がある。

薬の町で名高い高取町下土佐恵比寿神社境内社神農社で行われる神農薬祖神祭である。

前年の平成27年11月20日に取材したので、重複しないよう、参考までにリンクしておく。



神農社社殿にたくさんの奉木を積んでいる。

奉木は宮司が予め準備しておいた「少彦名神社神霊」である。

30枚も用意した奉木は本日の参拝者にもって帰ってもらうありがたい薬の神さんである。

神饌御供は神社が用意した。

本社殿前に並べるのも宮司をはじめとする鴨都波神社の人たちである。

神饌御供の一つに生卵がある。

かつては鶏一羽だったが、今では生卵。

このような事例は奈良県各地でみられる傾向にある。

そして始まった神事ははじめに修祓。



神前に向かって祓の詞を朗々と詠みあげる。

聞こえてくるのは宮司の詞と鎮守の森に棲んでいる野鳥の声ぐらいのようなものだ。

厳かに斎行される神事である。

幣で祓って献饌。

献饌はすでに神饌御供を並べているのでお神酒の口を開けて献饌の儀をする。

続けて神農祭の祝詞を奏上して玉串奉奠。

式辞に沿ってそれぞれの代表者は玉串を奉げて撤饌で終える。

神事を終えた一同は場を移動して直会が行われる。



直会が始まるまでに許可を得て神農さんの掛図を撮らせていただく。

直会の会場に掲げられた神農さんの掛図は森本製薬㈱の預かりもの。

掛図を描いた作者名などの記載はないが、白髪老人の立ち姿である。尤も白髪は頭髪でなく髭の方である。

神農さんといえば、薬草をもって草を口で舐め毒見をしている姿を思い起こすが、この掛図は噛むこともない立ち状態を描いていた。

代表者それぞれのご挨拶。



そして乾杯で始まった直会の場は遠慮して退室した。

ネット調べであるが、粟島(淡島)神社の鎮座地は関東の千葉県白井市。

西日本は大阪府大阪市、和歌山県海南市、鳥取県米子市、山口県岩国市、大分県豊後高田市、大分県佐伯市、熊本県宇土市にあり、いずれも少彦名神を祭神とする神社である。

御所市の粟島神社の経緯は今となってはわからないことばかりであるが、少彦名神が医薬の神とされていることや、古事記や伯耆国風土記に、国造りを終えた少彦名神が粟島(あわしま:淡島)から常世|常世の国へ渡って行ったとする記述があることから崇められてきたのであろう。

ちなみに大阪の薬祖講である。

江戸時代、薬を検品する和薬改会所が検査の正確さと神さんのご加護を求めて、安永9年(1780)、薬種中買株仲間の親である団体の「伊勢講」が道修町仲間寄会所に、京都の五条天神宮から分霊をいただいて、日本の薬祖である少彦名命(すくなひこなのみこと)を、以前から祀っていた中国の薬祖である神農氏とともに祀ったことから始まる。

大阪の道修町の神農祭の当初は9月11日であったが、明治時代になってから旧暦から新暦祭事日に移した。

コレラが流行するなど、さまざまな事情によって明治10年に現在の11月22日、23日にしたそうだ。

また、京都市中央区にある薬祖神祠では薬問屋の繁栄を願って11月2、3日に薬祖神祭をしてきた。

ここもまた江戸時代後期に始まった「薬師講」の行事である。

「薬師講」は二条の薬業仲間というから組織化した講中の行事であった。

参拝者にお守り袋と陶器製の寅を括り付けた薬効のある笹の葉の頒布しているようだ。



なお、大阪市中央区道修町の少彦名神社の薬祖講行事は平成19年に大阪市の無形民俗文化財に指定されていることもここで触れておく。

(H28.11.16 EOS40D撮影)
コメント

高鴨神社の茅の輪

2017年03月07日 08時52分34秒 | 御所市へ
西佐味大川の神杉注連縄張りを見届けて足を伸ばす。

伸ばすと云ってもそれほど遠くない。

休憩したく訪れた鴨神の高鴨神社。

鳥居より境内側に茅の輪が設営されていた。

この日の夕方は夏越大祓えが行われる。

神事はこれよりずっと奥にある。

そこへ参るに要する茅の輪潜りがある。

もしかとして潜る人もいるかと思って待っていたが遭遇することはなかった。

(H28. 7.31 EOS40D撮影)
コメント

西佐味大川の神杉注連縄張り

2017年03月06日 12時21分22秒 | 御所市へ
お神酒を供えて大祓詞を唱えている。

若いもんも2礼2拍手する。

縄結いは午後。家で昼食を摂った村の人、12~13人が寄って縄結い作業を始めると聞いてやってきた御所市の西佐味。

ここは西佐味の一角にある谷出垣内。

タニデが訛ってタンデ垣内と呼んでいる。

手刈りした稲藁を持ってきた地区の人たち。

作付、刈り取りした稲は粳米もあれば糯米もある。



特に決めてはいない注連縄の材料は2把から3把ぐらいを持ってくる。

集まって作業する場はヤド家の作業場を借りて行われる。

太い注連縄はひと握りの藁束をもつ。

左結いして藁に撚りをつける。

太い藁束が二本。

それ自身も拠っていくが、その際に一握りの藁束を差し込む。

継ぎ足しの藁束である。

そのときからは右に拠る。

力強く拠った二本を左まわしで絡ませる。

結い方を説明するのは実に難しい。



体験して覚えるのが一番だが、撚りの方向は巻く方から見るのか、それとも逆の方からによってかわってくる。

こういう場合はビデオなどで動画を・・と、ついつい思ってしまう。

太い二本撚りの長さを測る。

基準となる紐が用意されていた。

その長さは7m。

大川杉の幹回りに合わせた長さである。

紐はPP紐。

これで尺をとる。

これができたらもう一本の太い藁束を継ぎ足す。

先ほどと同じように継ぎ足して右回りに締める。

それを二本撚りにした縄の下をくぐらせて向こう側にいる相方に手渡す。

交替して同じように継ぎ足して右締め。

そして上から手渡す。

これを交互に結っていく。

太くなった縄は結うごとに捩じれ現象。

後方にある長い縄脚を正常に戻して調整する。

一方、細めの縄を結う人もいる。

これは最後に太い注連縄に取り付けるボンボリを取り付けるための藁結いである。

ボンボリ、或は別名にチンチラの名もある藁の房は三つ作る。

一握りの藁束を結った縄で中央辺りを廻してぐっと締める。

予めにしておくのは先に作っておいた縄を中心部に添えておくことだ。

それがなければボンボリは太い注連縄に取りつけられない。

括った縄の部分から数本ずつ反対側に折る。

向こう寄りに折っていく。

少しずつ、少しずつ折りたたむようにする。



何周かすれば、あら不思議。

奇麗なボンボリの形になったのだ。

その状態であれば戻ってしまうから一本の藁を紐のようにくるっと巻いて締める。

強く締めて結び締め。



藁切り包丁で、ぐさっと不要な部分を切る。

これで完成した房は1m間隔で取り付ける。

一時間余りの作業で太い注連縄が出来上がった。

頭の部分に結った縄を括り付けた注連縄は重たい。

5人がかりで運ぶ。



作業を終えた人たちの出発姿は誇らしげ。

影絵に写った姿はまるで龍のように見えた。

房の間に紙垂れも付けて出発だ。

地区の人たちは全員が長靴姿。

これを見て持ってこなかったことを反省する。

ここよりそれほど遠くない大川杉。



畑内を歩いて運んでいく。

そうして始まった注連縄架け。

先頭に付けていた縄で引っ張って幹回りを通す。

注連縄を架ける位置はやや高め。

架けてから風雨によって若干は垂れさがる。

それを見越してやや高め。



足場が悪い場に踏ん張って背伸びしながら回す。

位置が決まれば頭に取り付けていた縄で縛る。

房や紙垂れが画面に入れば良かったが反対側にある。

とてもじゃないが向こう側には回れない。

さて、お参りをする場である。

前日に拝見した写真家楳生空見さんがとらえた場ではなかった。

その畑から降りた平坦道である。

そこは大川杉の根元から昏々と湧いている豊富な水場である。



祭壇替わりのコンクリート台に乗せたお神酒はワンカップ。

三枚の葉をつけた笹の葉を入れている。

その理由は聞かなかったが、これまで拝見したことのない祭り方に感動するのである。

谷出垣内の命水が湧き出る場に向かって唱える心経は七日心経。



水の神さんに禊の大祓詞も唱えた。

奈良県の天然記念物に指定されている「大川杉」も嬉しかろう。

高鴨神社・県教育委員会・市教育委員会が立てた掲示物に「この杉は、樹齢約六百年幹の周りが約六メートルもあり、地元西佐味の人達によって今日まで大切に育てられてきました。この杉は、井戸杉と称せられ根元から湧き出る水は、古来飲料水として尊ばれ、西佐味の田畑をもうるおしています。七十年ほど前に雷が落ちて、二またの一方が枯れましたが、親木は難をまぬがれました。これも根元に祭られている三体地蔵さんのおかげといわれています。毎年七月三十日には、この杉にしめなわを飾り豊作を祈念して祭られています。高鴨神社に残されている古文書に神社の立ち木は水利のために切(伐)り倒してはならない、と記されていることからも「大川杉」によせられてきた地元の人々の願いを知ることができます」とあった。

水の神さんに参った地区の人たちは慰労会に移る。

クーラーがよく効いている西佐味自治会館に移動していった。

(H28. 7.31 EOS40D撮影)
コメント

西佐味の大杉調査

2017年03月03日 05時57分54秒 | 御所市へ
御所市の西佐味にそびえるほど高い大杉があると知ったのは何時だったか思い出せないが、場所はここにあると教えてもらったのは西佐味の住民のMさん。

訪れたのは平成25年の7月24日。

その月の末に大杉に架けてある注連縄を張り替えると云っていた。

張り替えるには相当な人数を要するであろう。

その人たちの在所を訪れておこうと思って大杉の場所を探した。

たぶんにこれだろうと思っていた。

ところが付近には人を見かけない。

商売をしているお家であれば何かの手がかりがみつかるかも知れないと思って入店した梅田商店。

奥からご婦人が出てこられた。

Mさんが話していた注連縄掛けについて尋ねてみる。

婦人がいうには当番のヤド家が注連縄を作って昼前に架け替える、である。

大杉が植生する地は谷。

湧き水が滾々と湧く。

水量は豊富で、ここら辺りの3~4軒の家には井戸があったという。

井戸と云えば盆入りに井戸浚えがあるのではと聞けば、その通りだった。

今では井戸も用をなしていないが、かつては8月盆入りに井戸浚えをしていたというのだ。

盆の在り方も聞いた地は上流もない谷。

そこはタンデ垣内と云っていたのは前述した水野垣内のMさんだ。

タンデを充てる漢字はおそらく谷出。

タニデが訛ってタンデになったのだろう。

その年の月末は仕事があった。

取材するにも仕事があれば無理がある。

来年に持ち越しと思っていたが、その後も日程が合わずにいた。

そして、昨年は7月10日に発症した僧帽弁逸脱による弁膜異常でそれどころではなくなった。

今年こそをと思って当番をされる村人を探してみる。

作業小屋にたまたま居られたご婦人に声をかけた。

尋ねるキーワードは大杉に架ける注連縄だ。

当番になっていないから詳しいことはわからないが、この地が何故に谷出垣内と呼ばれるのか話してくださった。

西佐味の田んぼは「キシ」と呼ばれる段々がある。

石垣で組んだ段々だ。

上下があるから上部は上の「キシ」。

下は下の「キシ」と区分する。

「キシ」を充てる漢字は「岸」。

谷出垣内の「岸」である。

我が家も井戸があった。

それゆえ「谷井」の名がある。

つまり上流は水野垣内。

水が湧き出る「野」である。

水が豊富なここら辺りの垣内の名で物理的な地形がわかる。

なるほどと思った上の「キシ」に下の「キシ」がある段々畑は土地台帳でいえば「ケイハン」である。

つまり「キシ」は「ケイハン」でもあると話してくださるが「ケイハン」を充てる漢字はわからない。

ご婦人に書いてもらった漢字は「畦反」。

決して段々の傾斜の「傾」ではなく「畦反」だった。

こういうことは初めて知る農の田んぼ。

ちなみに婦人が云った「ヒロミの田に「キシ」はない」である。

確かにそうだ。「ヒロミ」とは平坦をさした言葉。

段々もない平坦に「キシ」はあり得ない。

ちなみに帰宅してから「畦反」を調べてみれば、正しくは農業用語の「畦畔」であった。

昭和59年に建てた大杉のことを書いた案内板がある。

正確にいえば大杉は「大川杉」の名がある。

昭和58年3月15日に奈良県が指定された天然記念物であるそうだ。

それによれば「大杉に水湧く稔りの水」とあるようだ。

谷出垣内の「畦反」の田地を潤す、まさに稔りの源泉となる「大川杉」である。

ヤド当番のことなら隣家を訪ねるがよいと云われてその場を離れた。

ここより少し登った家がある。

呼び鈴を押して尋ねる大杉に架ける注連縄。

かつては7月31日にしていたが、今は最終の日曜日。

今年は明日の31日になる。たまたまであるが、今年は昔にしていた日と重なるときに訪ねてくれたのはこれもご縁だと云ってくれた婦人がこれまでの経緯を話してくださる。

注連縄架けが始まったのは大杉を伐るという話があった時代だ。

昭和27~28年のころだと思う。

保育所を建てるに材が要る。

そこでもちあがった大杉を伐って材にするという意見だ。

大杉から湧いている水は7丁の田を養っている。

飲料水は川の水を汲み上げていた生活だった。

荷桶を担いで飲料水を運んでいた。

荷桶を運ぶには苦しい急坂道だった。

我が家はここらで初めて井戸を掘った家だ。

お風呂の水にも井戸の水を使った。

家の前を掘ったら湧いた。

10ケン(2m)ほど掘った。

そこで湧かなかったらやめようと思っていたが、水が湧いた。

それで皆が掘りあった。

そのうち市営の水道水が通った。

今でも現役の4軒の井戸がある。

パイプを引いてモーターポンプで揚げて利用している。

上の山に植林をした。

昔はクヌギの木だった。

木が大きくなったら水湧き量が減った。

吉野川分水が敷かれた。

下市から寺田。

ポンプ揚げなので電気代がかかると云う。

吉野川分水がまだ来ていない時代。

大杉を伐ろうとしたが、念のために所有地はどこにあるか調べたら高鴨神社だった。

明治元年に生まれたお爺さんが云った。

「なんぞ書いたもんがあるやろ」である。

神主を訪ねて古文書を調べたら大杉の地の件の覚書が見つかった。

大杉が植生する地は高鴨神社の領地。

ご神木とわかった大杉である。

かつては2本もあったが、カミナリが落ちて1本が焼け落ちた。

60年以上も前のことのようだ。

区長、氏子どころか、谷出に水利の人たちがいる。

15~16人ぐらいの谷出の人が水利を利用している。

“せんぞ”奔走して文書がでてきた。

大杉を伐って水が枯れたらあかんと云われて伐採はやめた。

山麓線ができて大水になったらあかん。

大杉周りに枠をこしらえたら根元が見えなくなる。

そんなことがきっしょとなって7月31日に注連縄を架けるようになった。

何年もそうしてきたが、今では月末の最終日曜日に15人が集まって注連縄結い。

出来あがれば大杉まで運んで行って架けている。

そんな様子を撮りたいという人が現われた。

撮った写真をもらった。

その写真を拝見したら注連縄を張った向こう「キシ」の処にかたまって手を合している村人の姿を映し込んでいる。

今では大きく育った竹藪で向こうの「キシ」は見えなくなったから、写真家楳生空見さんがとらえた映像は貴重な写真。

しかも撮り方が実に上手い。

寄贈されたお家のご婦人の了解を得て公開することにした。

こうした西佐味大川の神杉注連縄張の経緯を話してくださった同家には金剛山登山のオサの札もあるらしい。

(H28. 7.30  EOS40D撮影)
コメント

葛木御歳神社祈年祭の湯立神事

2015年11月14日 08時13分24秒 | 御所市へ
この日は雨で中止となった自然観察会。

急遽、行き先を御所市に切り替えた。

何年も前から訪問したかった東持田の御歳山に鎮座する葛木御歳神社。

祈年祭に湯立神事を斎行される。

雨にも拘わらず傘をさして訪れていた大勢の参拝者。

俳句の会の方々だ。

この日行われる祈年祭は「としごいのまつり」。

年の初めに豊作を祈願する。

初々しくもこの年初めてデビューする巫女さんは二人。

おぼこい(初々しいの俗語)ように見えるが高校一年生だ。



緊張した面持ちで、拝殿内および拝殿前におられる参拝者を鈴で祓ってくださる。



祓ってもらった参拝者は大幣を受け取る。

祈年祭神事を終えれば場を替えて湯立神事が行われる。

境内前庭に設えた四方忌竹で囲んだ神事の場。

境内は雨だまりだ。

周りを囲むように見守る参拝者は傘をさしていた。

湯釜に向かい拝礼し祝詞を奏上する東川宮司。



雨に打たれながらも斎行される。

洗い米、酒、塩を湯釜に注いで清めてからクマザサを持つ。



湯に浸けて大きく上方に掲げ両手に広げる。

南、西、北、東に向かって同じ所作をする。



四方を祓う湯立神事はこれまで数々の「御湯」神事を拝見してきた県内各地で行われる所作とは若干違うように感じた。

この所作は東川流だと話していた宮司。

まるで天を仰ぐような所作だと思った。



四方を祓ったクマザサで参拝者も祓ってくださるありがたい湯祓い。

この場を借りて東川宮司に厚く御礼申しあげる。

詳しくは葛木御歳神社HPの「鎮守の森から」ブログにアップされているので参照されたい。

(H27. 2. 8 EOS40D撮影)
コメント

鴨神實講の宵宮還幸

2015年05月22日 09時36分27秒 | 御所市へ
戌亥講が会食されている時間帯。

もしかとすれば上頭講が参拝しているかもしれないと思って高鴨神社に向かった。

到着していた講中はネクタイを締めたスーツ姿である。

講中は4人。

宮司の承諾を得て撮らせていただくが、神事であるゆえ邪魔にならないようにと指示があった。

平成3年刊・中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』によれば鴨神の宮座講は9講ある。

「土地永住の子孫の組織せるものにして、最も権威のあるものゆえ、決して座外の氏子は加入せしめず。今後、新座を組織する場合も同じ。座の首座を一老または年頭という」と書いてあった。

発刊当時の宮座講は8座から新座を加えた9座である。

内訳は上頭(19人)・諸頭(10人)・戌亥(4人)・実の出座(8人)・冨田(6人)・古捿(3人)・弥栄(7人)・垣内(6人)・実寿毛登(4人)である。

奈良県図書情報館所蔵の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』に載っている鴨神の宮座講の内訳は上頭座(19人)・諸頭座(10人)・戌亥座(4人)・實(巳)の出座(8人)・冨田座(6人・上頭座にも加入)・古捿座(3人)・彌榮座(7人)・垣内座(6人・5人は上頭座にも加入)・實壽毛登座(4人)とある。

中田太造著の宮座講の引用は『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によるものであろう。

水野垣内で聞いた「やさか講」はおそらく彌榮座のことであろう。

訪れた時間帯に参拝されていた宮座講は「みのり講(實講)」と呼んでいた。

宮司が一礼されて祓え詞を唱える。

サカキを左右に振って講中を祓い清める。



そして、「ヨロコビノ ヨロコビノ ゴヘイガ マイルーマイルー ワーイ」と発声されて最奥に鎮座する社殿に向かった。

「みのり講」はおそらく實壽毛登座であると思われる。

会食をしていた戌亥講のYさんの話しによれば西佐味の人たちのようだ。



高鴨神社への宵宮参拝は9講それぞれが順に参拝されて夜8時までに終わらなければならない。

それは8時から東佐味・西佐味・鴨神下・鴨神上の4カ大字における寿々伎提灯の献灯があるからである。

なお、大御幣を持って参拝する翌日11日のマツリは朝8時頃から10時過ぎまで各宮座講が順次行われるようだ。

(H26.10.10 EOS40D撮影)
コメント

鴨神戌亥講の宵宮還幸

2015年05月21日 08時44分19秒 | 御所市へ
度々訪れる御所市鴨神の行事取材。

この日は高鴨神社の分霊を祀っていたそれぞれの宮座講が還る還幸祭が行われる。

そのうちの一つである上頭講(じょうとうこう)がある。

講中の一人は鴨神の大西垣内に在住する。

12月に行われる大西垣内の申講でもある。

訪れる度に一度来てほしいと云われていた。

昼には講中のトヤ(当家)家でヨバレがある。

会食を済ませて高鴨神社に参ると話していた。

上頭講は7軒。かつては倍以上もあったそうだ。

尋ねていった鴨神は佐味郷と呼ばれる地域。

東佐味・西佐味・鴨神下・鴨神上の4カ大字からなる郷村であるが、営みの場となるトヤ家が見つからなかった。

毎度停めさせてもらっている場で佇んでいたときのことだ。

下にある民家の前庭で動き出した男性。

屋内から運んだ社や行燈を設営されたのだ。

男性は申講の一人でもある顔馴染みの人である。

設営された社は何であるのか尋ねてみた。

この日の夕刻には高鴨神社へ参拝する。

出発するにあたって分霊を祀った社に向かって拝礼をする。

その際には太鼓を打って「ゴヘイガマイルゾー マイルゾ ワーイ」と囃すと云うのだ。

男性は上頭講でもなく「いぬい講」であると云う。

方角を示す漢字であったと話しで思い出した。

平成19年の10月10日は高鴨神社に献灯される秋祭りの寿々伎提灯取材だ。

それより始まる2時間前。

神社鳥居付近に集まる3人の男性がおられた。

話しを聞けば宵宮の日には白い幣を掲げて参拝をすると云うのだ。

その際に囃す詞がある。

「ヨロコビノ ヨロコビノ ゴヘイガマイルー ウワーハハーイ」である。

高鴨神社の宮司にも承諾を得て撮影させていただいたのが戌亥講(いぬいこう)だった。

当時、参られたのは男性の父親だった。

引退された父親を継いで講中を勤めている。

なんという出合いであろうか、不思議な縁は7年後の再会である。

設営された男性は神前に米・酒・水やサツマイモ・ナシ・コンブも供えてローソクを灯す。

手を合わせて戌亥講の神さんに手を合わせる。

これより2時間半後には二人の講中が参集する。

それまでの時間は上頭講のトヤ家を探すのだが見つからない。

家の玄関前には提灯を下げていたが不在であった。

仕方なく大西垣内を探索してみる。

1軒が見つかったが「やさか講」だと云うのだ。

講中のトヤ家は水野垣内。

山の神弁天さんとんど焼き観音さんなどの水野垣内の行事を取材させていただいた地である。

訪ねて行ったM家には大西垣内のFさんの奥さんが居た。

奥さんはM家の奥さんと親しい間柄。話しが弾むのである。

「やさか講」は夕方5時にトヤ家でヨバレ。

それより先に御幣を作る。

お米を包んだ紙包みを御幣に括る。

今ではパック詰め料理になったが、かつてのヨバレはすき焼きだった。

今では簡略化したそうだ。

高鴨神社に参るのは夜の7時。

歩いていくというが遠方地である。

その際に囃す詞は「マイルゾ マイルゾ オヘーガマイル」だそうだ。

「オヘー」はおそらく御幣のことであろう。

再び戻って戌亥講のトヤ(当家)家に向かう。

戌亥講はかつて4軒であったが、今は3軒。

平成19年に取材させてもらったときも3軒であった。

そうこうしているうちに二人の講中がやってきた。

二人は福西垣内。

お一人の顔は覚えているYさんだ。

平成21年12月から翌年にかけてカメラのキタムラ奈良南店で「御渡りのトーニン」をテーマに鴨神の還幸祭も展示したことがある。

「写真が展示してあった」と村の人から伝えられたそうだ。

平成19年にはトヤを勤めたYさんも私のことを思い出してくれた。

懐かしい話しで盛り上がったのは云うまでもない。

講中が揃ったところで御幣作りが始まった。

この日は翌日のマツリの御幣も作る。

始めに手掛けたのは大御幣。

三枚の扇を括りつけた日の丸御幣である。



御幣の扇には赤紙を半月のように切り取って貼り付ける。

一つはお月さん。

もう一つはより鋭角に切った半月を二枚重ねで貼り合わせる。

それはカラスだと云う。

一枚の扇にそれぞれ貼り付ける御幣である。

宵宮のこの日に持っていくのは小御幣だ。



シノベダケの先端をナタで割って20枚ぐらい重ねた幣を取り付ける。

幣は一枚、一枚ひっくり返すように反転させる。

盛り上げはまるで雪洞のように見えるような形にした。

適量のお米を半紙で包んだ御供を小御幣に結び付ける。



ハチクに取り付ける大御幣。

挟む部分を伐り落として紙片を充てる。



キリで穴を開けて水引きで括る際には二枚重ねの赤・白の幣も通す。

小御幣とも長さは七尺および六尺だそうだが、小御幣よりもひときわ大きいように見える幣である。



これは翌日のマツリ参拝の際に持っていく大御幣である。

御幣ができあがればトヤ家でのヨバレ。

参拝に出発するまでの時間帯は会食である。

鴨神の宮座講ではそれぞれ参拝する時間が決まっているようだ。

トヤ家には太鼓があった。



片面は破れているが、打った音色はドン、ドンと鳴る太鼓には「大正村字鎌田丸や佐五郎 大正六年拾月□□太鼓張替」と書いてあった。

数時間の会食を終えた講中。

そろそろ出発の時間がきたと云って腰をあげた講中はネクタイを締めたスーツ姿だ。

この時間帯は真っ暗である。



傍に小御幣を立て、分霊を祀った社にローソクを灯す。

拝礼をされて立ちあがる講中は小御幣を一人ずつ手にした。

「ヨロコビノ ヨロコビノ ゴヘイガ マイルーマイル ワッハァーイ」と2度発声されて出発だ。



本来ならトヤ家から歩いて出かけるが、この日は乗用車で向かう。

運転手は奥さんだ。

小学生に幼稚園児の子供も連れて向かっていった。

出発の際には太鼓を打つと云っていたが、この日は打つことはなかった。

道中にある福西垣内のY家辺りや適当な場の数か所でも発声するお渡りの先頭はトヤ家だ。

神社に着けば鳥居を潜って宮司を待つ。

お祓いをしてもらって発声する。

その様相を拝見したのが7年前だったのだ。

この日は談山神社の御供作りの取材がある。

申しわけないが神社参拝を拝見する時間はない。

(H26.10.10 EOS40D撮影)
コメント

東佐味弥勒寺千灯供養

2015年03月22日 09時01分58秒 | 御所市へ
4月に行われた峰山百体観音祭は時間的に間に合わず拝見できなかったが、寺総代らから御所市東佐味の弥勒寺で千本灯明が行われると聞いていた。

同寺でかつて8月13日に東佐味の六斎講による六斎念仏が行われていた。

講中はお一人であるため現在は中断している。

お寺さんや寺総代らに話しを伺いたく早めに出かけた。

到着した時間帯は寺総代や村役員たちが本堂前や弁天さん、地蔵石仏、墓石などにローソクを立てていた。

千本灯明というだけに多いローソクの本数。

いったいいくらであるのか尋ねてみた。

使用したローソクの箱は空っぽだ。

箱には20本入りと書いてあった。

このローソク箱を数えてみれば60箱にもなる。

単純計算してみれば1200本。

風でローソクの火が消えないようにすべてのローソクは紙で巻いていた。

役員たちは手分けして作業した。

「けっこうな時間がかかった」と云うのに納得する。

この日の寺行事は千灯供養。

始めに施餓鬼供養が行われる。

この日は14時に行われたようだ。

しばらく間をおいて19時より千灯供養が行われる。

千灯供養は巡拝する地蔵菩薩や弁天さんに紅白の御供餅を供えていた。

2斗も搗いた御供餅。

木桶の内部にいっぱい詰まっている。

その上にはセンベイのような形の「テンゴク」と呼ぶ餅も供えている。

こうした御供餅を予め供えておいて始まった千灯供養。

まずは本堂にあがった住職が本尊に向かって法要を営まれる。

お堂には数人の婦人らが上がっていた。

手を合わせてご真言を唱えている。

弥勒寺は高野山真言宗派である。



本尊法要は18時40分ころより始められて数分間の法要が行われる。

その間に何人かの村人たちが参拝に来られる。

「誰でもいいから」と云って鐘楼を撞く。

総代も鐘を撞いていた。



やってきたご婦人も撞けば連れてきた子供も撞く。

いわゆる呼び出しの鐘撞き。

これより千灯供養が始めるという村人への合図である。



鐘の音色を聞いた村人たちはぞろぞろとやってきて、本堂前庭に立てたローソクに火を点けていく。

ローソク立ては前庭だけでなく地蔵菩薩の前にも立ててある。



そこにもローソクに火を点ける。

村人はあっちこっち、と火点けに移動する。

葛城山系に陽が落ちて夜に移る寸前の地蔵法要である。



地蔵菩薩の石仏は高野山開創1200記念の大法会奉修供、弥勒寺改築の際に亡くなられた物故者の追善法要の為に造立したそうだ。

檀家たちは我が家の墓地にもそれぞれローソクを灯していく。



その間も住職は地蔵菩薩に向かって法要をされる。

暮れていく夕闇に灯したローソクの灯りが幻想的になってきた。



子供連れの家族もやってきてローソクの火点け。

水平にすれば火が消える、立てれば蝋が落ちてやけどをする。

始まる前に注意事項を述べた住職が話した通りに火を点けるが、子供たちは遊びのつもりもあってかトーチにする子もいた。



地蔵さんに法要をした住職は本堂本尊、弁天さんにも弔いの供養念仏をされる。



そのころともなれば婦人たちが住職の後列について並んでいた。



ぐるりと境内墓地を巡って再び地蔵さんに参る。

これを3回繰り返すのであるが、この夜はサービスがあったのか4回も巡った。

巡礼或いは巡拝のような千灯供養の在り方のように思えたが、墓石の前で拝む人は見られなかった。

ちなみにこの辺りで行われている施餓鬼は弥勒寺が最後だと云う。

千灯供養も〆になるのでは・・と思った。

1時間20分も保つというローソクの火。

30分も経てば消えているローソクもあった。

紙で巻いていたことから風に煽られて燃え方が早かったようだ。

ぞろぞろ住職についていく檀家たち。その数は多く、子供もついていく。

伸びた行列は20数人にもなった。

「千灯供養の巡礼は昔からこういう感じだった」と寺総代らが話していた。

こうして千灯供養を終えたら「ゴクマキ」に転じる。

供えた餅を撒く場合は「ゴクマキ」。

供えずに単に餅を撒く場合は「モチマキ」と呼ぶが、そういうことも知らないのは見かけしか知ろうとしない町の人。

誤解する人も多いので敢えてここで書かせていただく。

弥勒寺では争いに巻き込まれないように配慮して先に小さな子供にお菓子を手渡し。

狭い境内前庭にひしめくように座った村人たち。



夜のゴクマキをとらえるのは難しい。

(H26. 8.20 EOS40D撮影)
コメント

鴨神上郷大西垣内の愛宕参り

2015年02月14日 08時28分22秒 | 御所市へ
12月に申講の山の神参りをされている御所市鴨神上郷大西垣内。

垣内に建つ石燈籠は刻印が見られないが「愛宕さん」と呼んでいる。

愛宕さんは火伏せの神さん。垣内が火事に会わないように願って建てたと思われるが「伝え」はないようだ。

三つの桶に盛った紅白の餅を供えた石燈籠に集まる。

丸餅はコモチ。

煎餅のような形はカガミモチと呼んでいた御供は、ヤド家はこの日までに集落を巡った米集め、蒸した米で餅を搗いた。

三つの桶に盛った紅白の餅は1斗。

餅搗きは農協に頼んで搗いてもらったと話す。

神饌はタイ・モモ・ナス・ピーマン。

「そろそろ始めようか」と声を掛けた垣内の人たちが燈籠前に集まりだす。



導師が前に立って大祓えを唱える。

元々は虫を弔う虫供養だったと話す。

愛宕さんと虫供養の関係は判らないが、一同、手を合わせて拝礼で終えた。

直ちに場を替えてゴクマキに転じる。



ゴクマキの櫓はトラックの荷台。

適当な人がモチを撒いて拾う人たち。

笑いが絶えないゴクマキはあっという間に終わった。



これを「秒殺のゴクマキや」と話していた。

子供や婦人たちは手に入れたゴクモチをもらって帰るが、男性たちは手料理などで酒宴。

延々と飲食されるそうなので大西垣内を離れた。

ここら辺りでは地蔵盆の様相は見られないが、愛宕さんは隣村の伏見の北窪や西佐味にもしているようだと話していた。

(H26. 7.24 EOS40D撮影)
コメント

御所鳥井戸ひ孫のコイノボリ支柱

2014年11月18日 08時45分17秒 | 御所市へ
風の森から峠越え。国道24号線を北上していた。

昼過ぎから降りだした雨で葛城山系が霞んでいる。

五百家(いおか)を通りぬけてしばらくは下り坂。

往路にも通っていた国道である。

そのときに気がついた。

高く伸ばした木製の支柱があった。

支柱の先は矢羽根でもなく、木の葉でもない。

どことなくカマの形に似ていたのだ。

それは一体何であるのか。

気がかりにしたまま帰宅するわけにもいかず、念のためと思って訪ねた家は鳥井戸の住民。

母屋から出てこられた婦人は95歳。

支柱に掲げてあった正体を教えてもらった。

それはカマでもなく、ひ孫が生まれたときに立てたコイノボリの支柱であったが、最初の年は木の葉付きで2年目はくるくる回る矢羽根に取り替えた。

ひ孫は大きくなったが、そのままにしておいた。

もう何年も経っているという、それは矢羽根の欠片。

一枚が残っていたものがカマに見えたのである。

同家にはもう一本あったが、孫の誕生のときのもの。

どちらも山から伐り出したヒノキの木である。

それは門屋の前に立てていた。

用を終えたコイノボリの支柱は記念に門屋のツシに掲げている。

長い支柱は立派な太さ。

でんと構えている。

婦人の出里は五條市の野原。

それほど遠くない。

嫁入りしたときの家は現在の国道24号線よりも下の旧街道だった。

今でも田畑はそこにあって、この日は若い者がモミオトシをしてきたという。

この日は数か所で田んぼ作りをしている農家があった。

東佐味ではすでに苗代を済ませている田んぼもあった。

旧道はかつての本道。

バスの終着点でもあった。

国道24号線は山麓を走る新道になったころに旧道からあがって、この地に新居を建てた。

建築材は近くの山から伐り出して10年の廻り。

それから旦那とともに自前で建てたという。

かつての鳥井戸は葛城の心斎橋の名がつくぐらいの賑やかさがあったと思い出話。

いずれひ孫の支柱にもコイノボリを泳がせたいという支柱はネジで止めているから、緩めて倒すこともできるそうだ。

(H26. 4.28 EOS40D撮影)
コメント