マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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お守りの系譜~記紀の時代から現代まで続く庶民の信仰~

2011年08月31日 16時01分20秒 | 民俗を聴く
今年は講演を聞きにいくことが随分と増えた。

民俗行事の取材はフィルードで見聞きすることも大切だが座学も重要だと機会があれば出かけるようにしてきた。

この日は田原本町観光協会が主催されている歴史講座の事業の一つで奈良女子大准教授の武藤康弘氏の講演。

祈祷を中心とした「お守りの系譜~記紀の時代から現代まで続く庶民の信仰~」が開催された。

参加者はおよそ80人。

いつもなら100人は越えるそうだがこの日は少ない。

それはともかく氏が長年に亘って収集された貴重な収集品も並べて映像がプロジェクターに映し出された。

氏は今年の春に撮りためたビデオ映像(DVD)が付録に付いている「映像で見る奈良まつり歳時記」を発刊された。

その本も購入できるとあって紹介された。

その本は奈良県の無形民俗文化財に指定されたいろんな民俗行事が33祭礼も収録されている。

本文とともに映像を拝見すれば実感がわくことだろう。

古い時代から続く庶民の信仰を民俗学と古代学の接点を繋ぐのは難しいと前置きされて話された。

ヤナギの木を挿す「牛玉」の札が田原本町で見られる。

カラスを文字化した那智の山。

東北にも熊野信仰があった。

秋田では熊野神社を祀るところが多い。

平安時代、神仏混淆された時代にそれは遡る。

石上神宮の茅の輪や人形(ひとがた)を川に流す。

伊賀の注連縄は蘇民将来の飾りが多く見られる。

昭和10年から13年に亘って記録取材された写真が残されている和州祭礼記(昭和19年発刊)などを紹介されて演題に移った。

<牛玉宝印>
疫病は疫病神ほか御霊などがあり、きちんと拝まないと災いがやってくるとされた。東北は馬頭観音であるが、西日本は牛頭信仰が多く見られる。明治に統一されて祭神を明確にしようと統一され神社の名前が替えられた。牛頭社は八坂(阪)神社となった。それは杵築神社や素盞嗚神社でもそうであって合祀されたところもあるそうだ。明治2、30年辺りのことだ。江戸時代の絵馬がかつての神社名が残されている。それを見つけることが重要である。石燈籠の年代記銘があればその当時の名称が判る。牛玉宝印は仏教系、大寺院で行われた国家鎮護を営む正月行事。ときおり「玉」が「王」になっている場合があるが、正しくは点がある「玉」だと話される。チベットでは丸いお札である牛玉札。それが原型なのであろう。神仏に誓った牛玉宝書には裏書に血判をする誓約書が見られる。襖張りの宝書がある。それは水に溶ける。おそらくその宝書を飲んだのではないかという。飲んで神仏に誓約するというわけだ。では、何故に牛玉と呼ぶのか。東大寺の堂司が漢方薬をすり潰して墨に混ぜている。牛の結晶石である牛黄(ごおう)。その名から呼ばれた牛玉(ごおう)は国家鎮護をするだけに皇室にも届けられる重要な牛玉宝印書である。初祈祷は年始めの正月行事。それは大寺院で行われる。民間に下りてくれば地域の安全を守ることになりそれをオコナイと呼んでいる。川西町下永の牛玉刷りがある。ヤナギの木に取り付けて田んぼに挿す。かつて神宮寺の白米寺があった証拠である。都祁針の観音寺では乱声(らんじょう)が行われている。すごい音を立てて邪気を祓う。叩いたフジの木に牛玉宝印書を挟んで水口に立てる。豊作になるようにと祈る農耕の風習である。生駒の往馬大社では牛玉神符となる。長谷寺は牛玉宝印。それは水引で締められている。田原本町の矢部にはツナカケの行事がある。県内中央部に散見するノガミの一例として紹介されているのだが子供の姿は見られない。地区の南側、結界と思われる地に綱が掛けられる。村の入り口だという。その行事では牛絵の版画が配られる。牛をよく見れば頭の上に宝珠があるのが判るだろうか。おそらくノガミの行事ではなく正月行事が移行したのではないかと語る氏。このお札は各戸に貼られているそうだ。ちなみに私は平成17年に訪問した。

その際に配られた牛の版画を持っている。牛の頭部分は突起がでているものの後から墨を塗ったようにも見える。もらった当時もなんかおかしいと思っていたのがこの話ですっきりとした。

<オンダ祭り>
年初に農耕の予祝として祭礼されているのがオンダ祭り。一般的には6月頃に実際の田んぼで田植えをされるのだが、それを前もってその年の豊作を祈願しているオンダ祭り。それは田植えの真似事をしている。それが特徴である奈良のオンダ祭。予めにその豊作を願う行事である。農家の人たちはその祭礼でたばったお札を水口に供えて豊作を祈る。それはなかなか見られないものになってきた。なぜかと言えば苗は本来、モミオトシをして自家で苗を作る。JAが普及するようになってその苗は包括的にされるようになった。そうすることで苗はJAで購入されることになった。そうして農家の水口祭りが廃れていった。須佐之男神社のでたばった松苗は箸中の田んぼの中にあった。田原本町の村屋神社はそれを宮司が作っている。田の神さんが天から降りてくるときに目印になった水口祭のイロバナ(色花)。水路を遡って疫病がやってくるので水口祭が求められる。都祁友田では枡があった。それは都祁水分神社の祈年祭でたばったものだ。桜井市の小夫ではその場にアラレがあった。田原本町の伊与戸の水口なども紹介された。農家の人が稲育に対する思いやりであろう。同町の鍵では松苗だけであったという。

田原本町の阪手のケチンで弓を引く際に祭文(さいもん)の奉読がある。天理の藤井では弓矢が水口に挿される。なんと下永では唐招堤寺で行われる宝扇が田んぼで見つかったそうだ。

<サビラキ(サブラキ)>
サビラキにフキダワラを供える。それは盆地部ではなく山間部である。焼き米をフキの葉に包んで供える。子供たちは唄を歌ってその中のお米を取っていった。奈良市日笠町のサブラキ小夫のサビラキが映像で紹介される。その小夫の枝村になる小夫嵩方はクリの木が見られる。田植え初めの儀式に対してサナブリがある。それは無事に田植えが終わったことを氏神さんに報告される儀式。それは村全体でされる村サナブリと各戸でされる家サナブリがある。矢部のサナブリの際にはサナブリモチやタコの酢ものがつきもの。タコが出るのは稲の根が張るようにという願いの食べ物。昔はカマドに稲苗を供えたと京都山城町の事例も紹介される。

蘇民将来
それは何者なのか。備後風土記逸文の記述によれば武塔(むとう)の神が茅輪を付けると命が助かるといったそうだ。疫病が流行ってもそれを祀ることで救われた。武塔の神はいつしかスサノオの神と入れ替わった。祇園祭に粽がある。それは蘇民将来の子孫成り。京都の壬生寺境内の遺跡から発掘された木簡には「蘇民」の文字が浮かぶ。それは平安時代だった。静岡浜松の中村遺跡から出土されたのは室町時代。信濃の国分寺からも出土された。

<夏越しの祓>
半年に一度は穢れ(ケガレ)を人形(ひとがた)に移して祓えをする。奈良時代の遺跡からもその人形が発見されたようだ。罪や穢れを祓って川に流した。春日大社に春日祭がある。勅使が祓え戸神社に参って行う作法。そこではオオバクの木を使った人形だったそうだ。石上神宮では神の剣である御神宝が使われる珍しい儀式。環境問題でいつしか川に流せることができなくなった人形。それも祈願した人の名があるから個人情報流出だと昨今は最近の法令が近年の行事に影響が・・・。夏越しの祓は神道だけにお寺でされているのは・・・首をかしげる。ならまちには多く見られる夏越しの人形。クルマ型もあるらしい。

<ヒイラギ>
オニノメツキとも呼ばれるヒイラギの木に挿した魚。春日権現霊記の絵巻には屋根にとりついた鬼が登場している。魚のアタマをくっつけた棒のようなものが見られる。鬼をもてなしたのであろうと語る。

<虫送り>
御霊信仰と虫送り。殺生した虫を供養する証しにそれを祈祷したお札を立てる。そこから疫病が村に入ってこないようにというお札だ。稲を脅かす病害虫は御霊信仰からだと説く。村から松明で追い払ってお札を立てる。「イネの害虫に祟って出てきてやる」と言ったサネモリ伝承。サネモリ人形は御霊が実体化したものであるという。奈良坂の善城寺の虫供養はハライグシ(祓櫛)で祓った疫病を虫送りのように村外へ追い払う。京都和束町の虫送り人形や奈良十津川村などが紹介される。

<さまざまなお守り>
珍しい形態の山添村切幡の一万度ワーイ。東吉野村の木津川の祈祷念仏は風祈祷が念仏踊りと結びついた。雨乞いは干ばつの時期に行われる祈祷。吉野川分水ができてからは県内からは消えていった雨乞いの風習。天保十二年の雨乞いの様相が描かれている川西町結崎の糸井神社の雨乞い絵馬。そこにはスイカ売りの姿もある。
道教系の祈祷札がある。修験道のクジの護法。台湾には「急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」が書かれたお札がある。上に戸、中は鬼(上の点がない)、下は□が三つの文字。離れているからオニのシカバネだというそうだ。神教も道教もごっちゃにしたお札だそうで、その文字は平城京跡からも発掘されている呪符(じゅふ)木簡。どうやら伝染病を祓った木簡らしい。

奈良町に多く見られる屋根瓦の鍾馗さん。十字路の突きあたりといったところだ。疫病は直進しかしないとされたからそういうところに立てる。日本人の信仰はなんでも取り込んでいく。矢部でツナを巻き込むのは除災の意味があるという。また、ケチンやケイチンと呼ばれる祭礼は結願(けちがん)が訛ったものであろうと締めくくられた。

(H23. 8. 6 記)

伊豆七条町勝福寺施餓鬼会

2011年08月30日 07時28分20秒 | 大和郡山市へ
伊豆七条町の勝福寺では毎月1日に朔日参りをされている。

おばあちゃん講とも呼ばれている尼講の人たちだ。

その寺では8月に施餓鬼会が営まれる。

早朝から集まった檀家の世話人たちは先祖供養の塔婆申込の取り纏めに忙しい。

その場には二人の僧侶が一心に塔婆書きをされている。

一枚、一枚、申込者の名前を確認しながら丁寧に墨書される。

Nさんはこれをトーバツキと呼んでいる。

塔婆を作るということなのだろうか。

それはともかく普段が無住のお寺では毎月の営みのお念仏は尼講の人たちで、この日やお彼岸、十夜には僧侶がやってきて法要をされる。

天理市の南六条にある西福寺の住職だ。

以前は小林町在住に移った新福寺の住職が住んでいたそうだ。

事情があって西福寺になったが二人の僧侶を示す額も掲示されている。

僧侶が替っても感謝の気持ちを込めているのだろう。

ご本尊の阿弥陀如来さんにお花を飾って供物を供えた。

かつてはそこが本堂だった。

生活改善で市内ではいち早く会所となった勝福寺。

座敷は縦長である関係であろうか、中央には施餓鬼の祭壇が組まれている。

位牌や過去帳などが置かれている。

中央にはどでんと大きなスイカがある。

黒皮スイカと呼ばれるものだ。

戦中体験がある東隣村の南六条北方に住むNさんの話ではその色合い、姿、格好からこれをテツカブト(鉄甲)と呼んでいた。

大和のスイカは古くはテツカブト、昭和の時代の薄い色を経て縞しまのスイカに移っていったそうだ。

最近はこの黒皮スイカになっている。

皮が軟らかい縞シマのスイカはカラスの餌食になるが、高価な黒皮スイカも出没するアライグマが・・・。

ところが皮が固いので手形だけが残っているという。

Yさんの話によればスイカの最盛期の出荷は力仕事だという。

それでも丸くて大きいスイカをひょいひょいと持って運搬トラックに投げ上げたという。

そのころはコムギを栽培していた。

二毛作である。

そのコムギワラは輸送の詰め物にしていた。

刈り取ったワラを長いままで敷きものにもしていた。

その後、紙に替って箱入りとなったスイカの出荷は美装になったそうだ。

大和スイカの最盛期はこれだったのだろうNHKアーカイブに残された映像が物語る。

その映像によれば東京汐留駅を出荷された大和スイカで埋め尽くす風景があった。

トラックに載せるスイカをひょいひょいと投げる男たち。

そのスイカの山にはYさんが話したワラの詰め物が見られる。

映像ではその問屋の人気ぶりが判り高値で卸されたようだ。

このアーカイブに出てくるスイカは縞しま模様だった。

スイカのブームに載って作り上げられたのが全国に大和スイカをピーアールするスイカ音頭だった。

姉さんかぶりの着物姿の女性たちが舞い踊るスイカ踊り。

「そろた そろたよ すいかの本場 大和西瓜の 踊り子がそろた そろた踊り子が 何踊りませう 西瓜一代 旅日記 わたしゃ 大和の日の丸西瓜 さても みなさん・・・」昭和5年頃の貴重なフィルム映像だ。

後日、白土町の住民Nさんから伺った話では大和西瓜は一代種。

その種を栽培していた地域は田原本町の八田(はった)辺り。

一大産地にあるのは土壌が栽培に適していたからで種苗を販売しているという。

水質も関係していたのであろう大和川水系は大和郡山の平端までの広い地域。

それは三輪から流れる川に沿った一大産地だった。

大和の西瓜と言えばスイカそのものを思い起こすがそうではなくて、実は種苗だったのだ。

横道に逸れ過ぎた。話は施蛾鬼会に戻そう。

お供えはそれだけではなく、ウリ、カボチャに果物のナシ。

それにカンピョウ、コーヤドーフ、ソーメンもある。

一息つけてお茶をいただく世話人。

勧められた一服ではあるが住職の手は止まらない。

それは150枚もの塔婆書きをしなくてはならないからだ。

寄せられた牌名に違和感をもった住職。

世話人はその家まで行って位牌を確認して訂正された。

読み名も間違ってはいけないので一字、一字を確認される。

伊豆七条町はおよそ40軒だが地区を出た人も塔婆を申込されるだけにその数をこなすには午前中いっぱいかかった。

施餓鬼会の法要では僧侶が四人となった。

隣町の横田町から来られた西興寺の住職も加わって始まった会式。

本堂も含め僧侶たちは融通念仏宗派。

毎年11月9日は大阪平野の大念仏から如来さんがやってくる融通念仏の地区なのだ。

祭壇の前には低い椅子が並べられた。

そこに座る檀家の人たち。

ほとんどが尼講のみなさんでおよそ20数人が参列された。

カン、カン、カンと鐘が打たれて施餓鬼のお勤めを始めると挨拶された住職。

読経が始まって間もないころに手に持ったシキビの葉をパラパラと落とした。

いわゆる散華の作法であろう。

座敷にそれが散らばった。

僧侶たちは本尊と施餓鬼の祭壇の間に座って法要をされる。

参列者から見れば祭壇に飾られたお花などでその向こうは見えないが手を合わせて拝んでいる。

「のーまーく さらまんーだー」のお念仏が聞こえてくる。

そして用意されていた串に挿した五色の仏旗を供物の横に添える。

それは椀に盛られたごはん(仏飯)にも・・・。

ここでは山盛りの頂点に挿された。



その姿は亡くなったときに供えられる箸を挿したマクラメシのようだ。

住職も「そう言えばそのように見える」と話す。

それを頭上に高く掲げて念仏を唱える。

それと同時に始まったご焼香。

祭壇の前にでることも不自由なので焼香盆は順次席に回される。

そのころには申込をされた塔婆回向。



一枚、一枚詠みあげる代々の先祖供養だ。

「なーむあみだーぶつ なーむあんだいだー なんまいだ」。この年の塔婆回向では東日本震災にあった霊も慰まれた。

こうして地獄に堕ちて苦しむ蛾鬼どもを果物などの供物やお経をあげて助け上げた施蛾鬼の法要は先祖供養も併せて終えた。

(H23. 8. 5 EOS40D撮影)

太鼓と鉦の民俗上映会

2011年08月29日 06時42分23秒 | 民俗を観る
平成23年4月30日から約4カ月間(9月4日まで)に亘って企画展「モノまんだらⅡ~太鼓とカネ」が開催されている奈良県立民俗博物館。

展示されているモノを映像で語る「民俗映像上映会~大和のカネ」が催された。

展示されているものは叩き、音色、作法など、どのようなときにどのようにモノが使われるのか。

それが知りたくて上映会で観覧した。

安堵の大寶寺六斎念仏講の人たちも来られていて席は30人で埋まった。

六斎念仏は空也上人が平安時代に始めた踊り念仏が起こりとされる。

仏教を民衆に広めるために毎月、8、14、15、23、29、30日の六斎日に亘って鉦や太鼓を打って念仏を唱えたという。

精進潔斎する六斎日の念仏は時代とともに変遷していって今日に至る。

かつて六斎念仏が広まっていた鉦や太鼓が残されている県内事例は数多く見られるが、今日でもそれが続けられている事例は極めて少なく、御所東佐味、東安堵、奈良市八島の六斎念仏が無形民俗文化財に指定されている。

<東佐味の六斎念仏>
白装束を着用する念仏講中。映像では7人が登場していた。東佐味を含め御所辺りは高野山真言宗の地域だそうだ。春、秋、盆、十夜で行われていた念仏。左手には数珠をつけて鉦を持つ。石仏の周りにローソクを立てて灯した。墓地でも鉦が叩かれ念仏が唱和された。「シハン」という念仏曲だ。寺や家の前で唱えていたのは「バンド」で仏さんに向かってされている映像は昭和53年10月に記録されたもの。テンポは少し早目に聞こえた。夕闇に鉦が鳴る。頭塔のように見えた石塔周りのローソクの数はおよそ100本。「バンド」の音色とは明らかに違って聞こえる念仏は「ハクマイ」。味のある抑揚で唸るような念仏である。その他にも「シンハクマイ」が紹介された。取材当時は二十歳代だった学芸課長の鹿谷氏。「これが判るか」と問われても答えられなかったと話す。現在はたったの2人となった念仏講中。再開することが困難になっている。なお、五條市西福寺には六字の名号が刻まれた六斎念仏供養碑があるという。

<東安堵の六斎念仏>
平成4、5年に映像が記録された東安堵の六斎念仏。「三界萬霊年平等利益」の掛け図。今回の企画展ではそれが展示されている。その掛け図は私も拝見したことがある。大寶寺で練習をされていた平成18年11月のことだった。その掛け図を掲げて念仏鉦を練習する。
そのときの様子を次のように綴っていたことを思い出した。
『日が暮れる頃、六斎念仏講衆が大寶寺に参集されます。仏さんとして崇めている講員の名前が記された「三界萬霊平等利益」書の掛け軸を掲げ、その前で祈りを終えると念仏講唱和の練習が始まります。「ナァームアムダーブツ、ナンマイダー」と唱和していく練習曲はシンパンドー、シンワドー、ユウズウエコウ、ハクマイなど。昔しは講員の家を持ちまわって練習していたが、10年ほど前からはご好意で大寶寺本堂を利用させていただいているそうです。八月の盆月を除く毎月一回が練習日。練習を終えると頼んでおいた弁当を広げ夕食に饗じます。』

(H18.11.18 Kiss Digtal N撮影)

「飯を喰ったら講中から抜けられん」と当時の映像が語っている。取材したおりも同じようなことを話していたことを思い出す。「念仏をあげることはけっこうなことや。無我の境地になってバッチリと決まる」と映像は続けて語っている。「ハクマイ」はゆったりとしたリズムで他の人がヒラガエシをする。
8月13日は極楽寺で念仏してから歩いて七墓参り。平成18年8月に取材したときは自転車で走っていった。暑さのなかで行われるからそうするようになったのであろう。9人の講中はアドの墓へ向かう。お迎え地蔵、六地蔵、受けとり地蔵、2カ所の無縁仏、長治郎墓、大寶寺の寺墓へと移りながらそれぞれの個所で六斎念仏を唱える。
8月14日の朝6時半。大寶寺で念仏をされてから地区120軒を2組に分かれていく。衣装は黒い装束だ。家々では戸を開けて講中を待っている。盆に戻ってくる先祖さんに「シンバンドー」を唱える。新仏の家でも「シンバンドー」だった。「ゆーずーねんぶつ なんまいだー」と融通念仏が聞こえてくる。新仏の家ではハシゴを掛けてアラタナを祀っている。すべてを参り終えば高塚でゴザを敷いてこの日最後の念仏が唱えられた。8月15日はお布施開き。タクマサンの掛け図を掲げて融通回向を唱える。念仏は昨日までのハクマイやバンドーとは明らかに違いがあり、鉦叩きは少なめであった。掛け図はハコに納めて肩に身体堅固をされる。

<八島の六斎念仏>
八島は融通念仏の地区。ここでの六斎念仏は太鼓が使われる。京都や和歌山、若狭などで見られる芸能化した六斎念仏では数多く見られるそうだ。芸能化しても最後は「ナムアミアダ」である。それに比べて大和は純粋な念仏系の六斎。文字にしても「なんまいだ」だけとなる。難しい念仏ではなく、なんまいだの念仏を唱えることで極楽浄土へ行けると民間信仰が広まった。15世紀のころだそうだ。八島の六斎念仏の記録映像は平成7、8年に収録されたもの。寛永十八年の刻印がある鉦が残されている八島の六斎。カンコと呼ばれる小太鼓と大太鼓をもつ。
3月15日は鉦講の涅槃講営み。まずは会食から始まる。36軒のうち20軒が鉦講に所属している。ドウシンと呼ばれる導師とヒラが鉦念仏を唱える。不動、釈迦、文殊、普賢、地蔵、弥勒、薬師、観音、勢至、阿弥陀、阿閦(あしゅく)、大日、虚空蔵と唱えるのは「バンド」。仏さんの名が連なるのは十三仏のお念仏であろう。収録された映像では「念仏講」と呼んでおり、アブラゲなど精進料理を食べるのが楽しみだと語っている。この状況については平成21年に取材させていただいた。そのときの様子は次のように綴っていた。
『暗くなったころ、奈良市八島の公民館に集まってきた八島の鉦講衆。3月15日はお釈迦さんが亡くなった日で涅槃の掛け図を掲げて講を営む夜だ。徳融寺から住職を迎えて始まった涅槃の回向法要。その直前ではパックの膳をよばれる直会の場。30年ほど前、かつて家の並ぶ順で決まっていたタキバン(炊き番)と呼ばれる三軒のうち一軒がヤドとなってもてなしをしていた。カマスゴを蒸したもの。酢の味がしたというから酢でしめたものであろう。大鍋で炊いた平たいアブラアゲとドロイモと一緒にヤドの家でよばれていた。ネハンサンのゴッツオを食べるのが楽しみじゃったんだと懐かしそうに話される。掛け図の前に供えたオソナエはオシャカノハナクソと呼ぶ。昔は切り子モチやったが今はあられのオカキ。一人ずつ持ってきて供えている。灯明に火を点けて法要が始まった。住職の読経が唱えている最中に講衆は法被を纏って着替えをしている。お経の声が聞こえるなか焼香の順が回ってくる。焼香は一回だけだと決まっている。そして始まったチャンカラカンと呼ぶ鉦念仏。「ナムアミダーブツ ナムアンダー」、カン、カン、カンとお念仏に鉦が叩かれるシセン。「ユーズーネンブツ ナマイダー」の句が入るバンドとハクマイの三曲を終えたころは外気も低くなってきた。夜遅くまで鉦の音が館を響かせていた涅槃の夜はこのあとも会合が続いている。』

(H21. 3.15 Kiss Digtal N撮影)

8月7日は七日盆。公民館で行われる。彼岸の涅槃講と同じようにまずは会食から。パック詰め料理をいただいている。そのあとに営まれたのが「念仏行者」と「ハクマイ」だった。
8月13日は夕方に墓参り。オショウライサンを迎える藁に火を点けている。鉦を叩く人もいる映像だ。辻で線香に火を移して家にもって帰る。いわゆる迎え火である。新仏の家ではトーシ(籠もある)に供えたものが縁に吊るされている。八島の特徴らしくローソクの火も映された。そして日暮れに軽快なリズムで叩く太鼓念仏と鉦念仏が唱えられる。アラタナ(新仏)を祀る家では年齢に応じて曲が替る。親より先に亡くなった逆縁の若死の場合は「地獄地獄」で、幼児では「西院の河原」。順当であれば「念仏行者」で供養の曲とそれぞれにある。鉦念仏の「ハクマイ」は「16節もおまんねん。習うのは一節だけやからちょっとくらいを毎日やっていたらいいのだけど、なかなか覚えられんわ」と映像が語っている。
8月14日の午後。すべての檀家の家を回ってお念仏をする。新仏の家にはアラタナがありハシゴを掛けている。客ダナを設けた家も映っていた。そして、かつて家があったとされる広場で「ヤシキ念仏」。夕方近くには戦没者墓地で「地獄地獄」で、御陵の池の傍の地では「シゼン」の鉦念仏。日が暮れた夜は太鼓念仏。広場に移ってゴザを敷き「ヤシキ念仏」。最後の家でお布施開きとなる。そして道中では太鼓の打ちこみをしながら共同墓地へと向かう。7回繰り返す「墓念仏」に最後は「ハクマイ」で終える。墓地では持参したシキビをお墓に供えて各自が鉦を叩いて戻る。それは23時ごろ。長い夜であった。「兄貴に生まれたおかげで苦労しなあかんねん」と語って結ばれた映像であった八島の現在は15、6軒で営まれている。
大和では念仏寺が6割以上もあるらしい。その多くが鉦念仏をされる音色からチャンカラカンとかチャンガラカンと呼ばれることが多く、桜井市の萱森では今でも講員6人で営まれているそうだ。

(H23. 6.19 記)

大塩八柱神社茶願すまし

2011年08月27日 06時52分55秒 | 山添村へ
夏神楽と同じような形式で始まった大塩八柱神社の「茶願すまし」。

この日は茶の豊作を祝う日である。

5月8日に茶の豊作を祈る願掛けが行われた。

それから3カ月後、収穫されたお茶は高値がついて販売された。

願掛けの祈りを込めたお茶は実って豊作になった。

願いが叶ったということで氏神さんにそのお礼をする願満行事である。

昭和40年代初めには40軒もあった大塩の茶業。

一軒、二軒と徐々に減っていいき、今では茶業を営む家が9軒。

その人たちが奉納されたお茶と清酒を供えて氏神さんに報告された。

そのことを参拝者に伝える2人のドウゲ。

座に座る席、配られる肴の膳も夏神楽と同じだ。

口上を述べられたあとの酒杯も同じようにドウゲが盃に注いでいく。

茶の出き具合や村のことなどで会話が弾む。

顔ぶれもほぼ同じだがいつものように酒がすすんでドウゲが忙しく回る。

いつのまにか総代たちまでが酒酌に・・・。

一列が二列になっていった。

それから1時間を越えたあたりでセキハンが配られた。



受け皿もなく箸でつまんだセキハンを手で受け取って口に入れる。

「テゴク」の作法と思えるセキハン喰い。

そうこうしているうちにまたもやドウゲが動いた。

この日の朝から搗いたモチを参拝者に配っていく。

三つずつ袋に入れて配られる。

参拝に来られなかった人の分も預かる参拝者。

預かることができない場合はドウゲがそれを各家に持っていく。

奇しくもそれは10軒ずつになった。



夏神楽のお札配りと同様にこれを済まさなきゃドウゲの仕事は終わらない。

茶の生産が盛んだったころは村の人たちのほとんどが神社までやってきた。

それは祝いのモチマキが目当てだった。

そうした光景はこれからも再び見ることができないだろうと総代らは話す。

「茶の願すまし」とも呼ばれる「茶願すまし」の儀式はカナカナカナと鳴くヒグラシセミの声とともに終えた。

ちなみに今年の茶の売値はかってない高値で例年の3倍にもなったそうだ。

その要因は関東辺りなど風評がでて買値がつかんかったそうで、その結果が高値になったという。

嬉しさも風評の影響なので被災者からみれば悲しいできごとだと話すY総代たちだった。

(H23. 7.31 EOS40D撮影)

第3回目のゆうべ

2011年08月26日 07時02分13秒 | 大和郡山市へ
えっ、第3回。

いつから始まっていたのだろうと聞いてみれば随分と間が飛んでいるという「旭ケ丘ワイワイふれあいの日ミニミニ夜店まつり」。

2回目の開催以来のことだ。

それは子供がまだ小さい頃だった。

当時は盆踊りもあって賑わっていた。

婦人会の方らが夜店を広げていた。

近所の旦那衆とビールを飲んだことを覚えている。

秋には運動会もしていた地区のグランド。

そこで踊っていた盆踊りは老齢化に伴ってしなくなった。

子供会も解散され入っていた野球部も卒業していった。

中学、高校、大学へと続いた野球はその子供会の野球から始まったのでその存在は大きい。

地区からイベントが消えて何年が経っただろうか。

長く中断されていた夜店が久方ぶりに復活したポスターは掲示板に貼られていた。



自治会の回覧にも案内されていた。

ちょっとぐらいは来るんだろうと思っていたが、なんのなんの。

集会所の前に設営された夜店には子供たちが大勢来ていた。

交通規制をしていたので問題はなかったが道はふさがるほどだ。

それほど多くの子供たちが居ることさえ知らなかった地元旭ケ丘。

住んでもう30年近くになる。

子育てを終えた人たちが増えつつある。

自治会にはゴルフや野球、踊りに歌などいろんな会がある。

ふれあいの会に名称を替えた女性会。

先月に催した写真展にも来られていた。

手が離れた子供は育ち、もっている能力を生かそうと夏休みの学習会「いっしょに宿題をしましょう会」も予定している。

その人たちが中心となって第3回目を開催された地区のイベント。

焼きソバ、フランクフルト、ソースマヨせんべい、かき氷、みたらしだんごなど売り物がいっぱいの夜店が並ぶ。

あてものが始まるころにはそれらがすべて売り切れた。

そのことが次々と報告をされる。

それを聞いた自治会長も嬉しさがこみあげる。

そうそう、金魚すくい選手権で名高い町である大和郡山。

ここにもそれがやってきた。



市役所から借りてきた金魚すくいグッズ一色にボランティアまで付いてきた。

顔なじみの大和郡山市レクリエーション協会の人たちだ。

スポーツ、ノルディックウォーキングや歩きなどで積極的に支援活動をされている。

子供たちはそれが初体験の金魚すくい。

水につけたとたんに破れてしまう。

それでも楽しむ子供たち。

突然の雨でも決行した夏のゆうべのミニ夜店まつりは好評を得て年末に向けてさらに走り出した。

(H23. 7.30 SB932SH撮影)

北吐田油掛地蔵盆

2011年08月25日 06時41分19秒 | 川西町へ
大永三年(1523)に造られたとされる川西町北吐田の地蔵菩薩は願かけに油を掛けた習わしがあることから黒光り。

古来から塗られてきた年代を表す油であろうか。

舟型光背を持つ石造り立像は泥田の中に埋まっていたものを引き上げて祀ったという。

クサ(できもの)が発症した子どもを持つ母親。



地蔵さんに油を掛けていればそれが治ったという伝説がある油掛け地蔵に夕陽が挿しこんで油が光った。

ここでは一年に一度の地蔵盆が営まれる。

夕方、日が暮れる前に幕を張って提灯を設える。

お花を飾って御供をおます。

自治会地蔵講の当番の人だ。

お供え膳の椀は五つ。

中央に茶葉の椀、四方にはシイタケ、カンピョウ、コーヤドーフの椀とナス、キュウリ、ジャガイモの椀。

それにソーメン、ユバの椀だ。

いずれも調理をしていないことから生御膳の一種であろう。



それには洗いコメに地蔵さんが食べられるようにと箸が添えられている。

この膳を仏膳と呼んでいる。

暮れなずむ頃、提灯に灯りが点った。

電球の灯りだ。

傍らには参拝者が手にしてきた提灯をぶら下げる提灯棚がある。

そこに一つずつ掛けていく。



その多くは古いもので家の名が記されている北吐田は40軒。

住職の法要が始まる前には相当な提灯にローソクの火が燈された。

油掛け地蔵さんの周りは田んぼ色の一色。

周りには住まいもなく風が吹き抜けていく。

その間、子供たちが楽しみにしていた花火もある。

村公認の花火大会なのであろう。



東方の斑鳩辺りからは大きな花火が打ち上げられている。

その様子は大和中央道を通り抜ける車からも見られるであろう。

田園の中で行われている地蔵盆の灯りは不思議な景観を醸し出す。



法要を終えてお下がりをもらって帰る人々。

灯りが点いた提灯を手にして暗がりの道中を帰って行った。

(H23. 7.23 EOS40D撮影)

馬司町南の地蔵さんの地蔵盆

2011年08月24日 06時38分33秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市の馬司町では北と南の地蔵さんが存在しており南は7月23日、は8月24日に地蔵盆が行われている。

いずれも杵築神社の長老十人衆が地蔵さんの前に座って参拝者を待つ。

「死ぬまで現役で勤めるんや」という長老たちの年齢は平均年齢80歳を超えているのでないだろうか。

日に焼けたお顔はいぶし銀の色をみせる。

子供の頃のことだが、と前置きをされて語ったのが筒井町と馬司町の境界で石投げ合戦。

子供どうしのケンカであったが、実際は怪我をせんような他愛ない遊びであった。

年齢からいえば戦前のようだった石投げ遊び。

今では「そんなことはでけんなぁ」と口を揃えて話す。

ところでその北の地蔵さんは夜泣きの絵馬もあって子供を守る。

南は村の安全を守っているのだという。

昔の地蔵盆は8月だったと話す十人衆。

明治になって新暦が導入されてからは7月にしている南の地蔵盆。

村の中心部を通る道には提灯を掲げている。

その道は筒井から天理へ抜ける旧街道。

今でも往来が激しく車や単車が通っていく。

その街道を歩いて参拝者が次々とやってきた。

筒井から住職が来るまでの時間帯は御供を供えるようだ。

新興住宅に住むIさんの話によれば車が突っ込んで地蔵さんの祠が壊れてしまってコンクリート製に建て替えられたそうだ。

ぶつけられても地蔵さんは村の安全を守った。

そんなありがたい地蔵さんに手を合わせて村や家の安穏を祈っているのだろう。

お下がりをいただいて帰途につく。

浴衣姿の女児も稀に見られる馬司の地蔵盆。

赤ちゃんを抱いた女性もやってきた。

付いてきたのはそのおじいちゃん。

地蔵盆で待っていたのは83歳のおおじいちゃんだった。

孫を抱き上げて二コリと目を細めた。

(H23. 7.23 EOS40D撮影)

中誓多林の行事2

2011年08月23日 07時13分40秒 | 奈良市(東部)へ
春に彼岸講のオコナイが行われている中誓多林。

ランジョウを済ませた祈祷札を田んぼに挿すという。

それを見つけたく桜が咲くころに探索していた。

田植え前のことだった。

それはどこにも見当たらない。

数軒しかしていないと言っていたから見つけるのは至極困難である。

そうして再びやってきても田植えを済ませた田んぼの稲はすくすくと育ってなおさら判らない。

オコナイのときにお世話になったN家を訪ねてみた。

奥さんの話によればそれは3月末ころの良い日にビールハウスのところに挿したという。

ハタタテとも呼ぶミトマツリは半紙を広げたところに煎ったコメをばら撒くそうだ。

それは苗床にモミオトシをするマツリのようだ。

育った苗は田植えをする。

それは4月末から5月初めあたりで良い日とされる大安らしい。

フキの葉にタツクリ(アライコメかも)を入れて藁縄で十字に縛る。

それを笹竹にぶら下げる。

手作りの御幣とともに最初に田植えをする場所にそれを立てる。

それをサビラキと呼んでいる。

いまどきこんな風習をしているのは中誓多林では2軒だけだという。

もう1軒は竹でなくクリの木だそうだ。

それから機械で田植えをしていくのやと話すご主人。

N家のご婦人は十九夜さんを営まれている。

八柱神社の会所に集まるのは4人の講中。

掛け図を掲げてお参りをする。

「トラの二月の十九日 十九夜みどうへまいるべし」と唱えるお念仏だけに19日であったが集まりやすい土曜か日曜にされている。

昼の会食も兼ねている十九夜さんは久しぶりに会うので「会話が盛り上がって帰ってくるのは夕方ぐらいや」とご主人は笑って話す。

それは下誓多林でもしているのではと話す。

その八柱神社で行われる秋の祭り。

元々は10月15日だったが集まりやすい体育の日になった。

その前日はヨミヤで神事相撲が行われる。

その日の昼に集まってきた氏子たちは千本杵で餅搗きをする。

長老、消防団の若い男たちに婦人たちも交替して搗くというから村あげての秋祭りだ。

搗いたモチは神社に供えられるものやお下がりにもされるので6臼も・・・。

モチ搗きを終えればおもむろに始める宵宮神事。

そのなかにはスモウがある。

藁でこしらえた土俵にあがるのは上、中誓多林のトヤ家の若い男性。

2人のスモウトリだ。

まずは刀をムシロの中央に置く。

そしてその外側をグルグル回る。

子供がいれば子供相撲をする。

それを終えて再び登場する2人の力士。

ぶつかり合うような所作。

そして納めの所作は刀を担いでグルグル回るようだ。

裸力士は本来褌姿だったが今は下着の上から付けるようになったという。

そのありさまは大塩のスモウと似通っている。

昔は夜だったがまだ陽があるうちに終えるようだ。

(H23. 7.23 SB932SH撮影)

鉢伏峠の東金坊子安地蔵尊

2011年08月22日 06時41分16秒 | 奈良市(東部)へ
須山の子供涅槃の際に聞いていた東金坊(とうこんぼう)子安地蔵尊。

それはどこに存在するのか探し求めて山間を巡った。

須山もなく茗荷でもない。

それは鉢伏町との境界付近になろう鉢伏峠だった。

大きく立派な地蔵さんは祠の中。

周りには奉納された人たちの名が記されている。

須山の住民の話によればかつてそこに住んでいた人が古市に下った。

その人たちが寄進したのであるのか判らないが今でも参拝をされているようだ。

お花を飾ってお神酒も口開けをしている。

この日は各地で地蔵盆が営まれているが当地ではその様子が伺えない。

地蔵堂には何やら歌が記されている。

「<1.>つきに一どは とくぼさんえまいり (ホンニナ) ふくよ あたえて (コオリヤ) くださるでね (ホンニホンニ) <2.>なやみあるなら とくぼさんえまいり (ホンニナ) むねのなやみは (コオリヤ) たすけておくれる (ホンニホンニ) <3.>とくぼさんえまいるひと みんながよいおかた (ホンニナ) よくよかけるに (コオリヤ) みながまいるね (ホンニホンニ)」とある。

これは昭和51年5月吉日と記されている。

歌のことも判らず、帯解子安地蔵の分家だという話も聞いていたがそれも確かめられず美しい地蔵さんに手を合わせて山を下った。

(H23. 7.23 EOS40D撮影)