マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

茗荷町イノコのクルミモチ

2015年08月31日 08時47分45秒 | 奈良市(東部)へ
先月の11月16日に「なら民博ふるさとフェスタ」で千本杵の餅を搗いていたOさんは田原の里の住民だ。

家族総出でやってきた。

県立大和民俗公園内に動態保存されている旧臼井家住居前広場で披露されていた。

訪れた人たちがリョウブ(サルスベリ)の木の千本杵で餅を搗いていた。

1回目は興味をもった人たちが群がるように搗いていた。

搗いた餅はふるまい。

キナコを付けた餅を味わっていた。

キナコの原材料は青大豆。

スーパーで一般的に売られている。

この年の「私がとらえた大和の民俗」写真展は「食」が大テーマだ。

私は「干す」をテーマに3点を発表した。

キリコモチ・キリボシダイコン・カンピョウにソーメンの天日干し景観である。

その後も探し続けてきた「干す」モノモノ。

稲架けもあれば梅干し、吊るしカキもあった。

11月ともなれば畑でハダに掛けてあった豆干しもある。

干した豆はどのような形の「食」になっていくのか、農家の作業を通して記録しておきたいと思った。

「キナコ」が引き金に思い出した亥の日に作られるイノコのクルミモチ。

毎年の12月1日は家で作って食べているというOさん。

平成19年にも伺ったことがあるO家のイノコのクルミモチ。

千本杵で餅を搗いて石臼で挽いた大豆を餅に塗して食べるのだ。

挽いた大豆は大量の砂糖を塗して餅にくるむ。

東山間の民家では「クルミモチ」を作って食べる家は割合ある。

何軒で行われている事例を収録させていただいた。

多めに作ってくださったイノコのクルミモチはパックに詰めてもらって持ち帰った。

その味がとても気にいったかーさん。

もっぺん食べたいとこの季節になれば口にする。

そんな話しをすればO婦人が食べにおいでと云うのだ。

ありがたい言葉についつい甘えてしまう。

O家に関係する学芸員や知人のカメラマンにも声をかけた。

Oさんは田原の里の情景をとらえているカメラマンにも声をかけた。

その人たちもともに行動することもある知りあいである。

奥さんの都合もあるし、仕事の都合もあって午後にセットしたイノコのクルミモチ作り取材。

モチ搗きは早めたいと電話が入った。

仕事は休むわけにはいかない。

直ちに手配して3名は先に行っていただくことにした。

仕事が終わったのは午後1時過ぎ。

昼食を摂る時間もなく急行する。

1名は昼過ぎに着いていた。

搗いたモチは千本杵。

Oさん夫妻とともに搗いたそうだ。

できあがったモチは砂糖をいっぱいいれたクルミで食べていたと話す。

O家のクルミは茹で大豆。

クルミの実も入れて挽いたそうだ。

搗いた餅をある程度の大きさにちぎる。

手で丸めていく。

どっさり作って下さるO夫妻。

ミキサーで挽いた茹で小豆を上から落として塗す。

砂糖は混ぜなかったので上から振りかけた。

少々では美味さを引き立てられない。



たっぷり落として食べたイノコのクルミモチはやっぱり美味しい。

とろとろ感もあってクルミモチは1個ですまない。

何個も何個もよばれてしまう。

皿にはキナコモチもあるが、断然うまいクルミモチ。

前回に挽いてもらった豆は青大豆だった。

こっちのほうが香りもあって上をいく。

この日は毎月初めに六人衆がいとなむツイタチ参り。

パック詰め料理をいただいたとテーブルに置いてあった。

仕出し料理なのか、それとも手作り料理なのか聞くことも忘れてよばれてしまう美味しさだ。

茗荷町には氏神さんを祀る天満宮がある。

秋祭りは隣村の中之庄町に鎮座する天満宮で両町合同で行われる。

宵宮に千本杵で餅を搗いて夜には子供相撲があると聞いている。

その日だったか、宵宮だったか覚えてないが、マツリの最中に当家渡しが行われることも聞いている。

Oさんがいうには「ネンニョ」の引き継ぎのようだ。

今年に勤めたネンニョは3人。

次のネンニョを勤める人も3人。

向かい合わせに座って酒を飲む。

酒杯を注ぐのは自治会長。

波々と酒を注いで飲み干す。

その際にはザザンダーと呼ぶ謡曲を披露される。

一曲謡って飲み干す。

これを繰り返すネンニョの引き継ぎに使われる酒盃は「武蔵野」と呼ばれる朱塗りの盃である。

武蔵野膳に置かれた大小5枚の盃。

どの盃で飲むのかはネンニョが希望する大きさだ。

酒好きなら大を。

少し落として3杯目の盃になる場合もあるらしい。

酒を飲んで次のネンニョに残り酒を渡す。

次から次へと飲み渡す。

いわゆる廻し飲みである。

こうして引き継ぎをされる。

何故に盃を「武蔵野」と呼ぶのか。

武蔵野はとても広くて見尽くせない。

大きな盃に注いだ酒は「のみつくせない」。

とてもじゃないが、ひと息では飲みきれない大きな盃という洒落でその名がついたようだ。

奥さんが炊いてくれた栗ご飯もでてきた。

ほくほくの栗ご飯も美味しいのだ。

酒杯をいただきたいが、そういうわけにはいかない。

飲酒運転では帰れない。

辛いが香りだけとする場はまるで忘年会のような感じになってきた。

この前に干したというズイキを持ってこられた。

太めのズイキは赤ズイキ。

細めの棒に挿して吊っていたそうだ。

ズイキは水に浸けて戻す。

熱湯で茹でてアク抜きをする。

アゲとともに炊いて味付けする。

それより美味しいのは酢和えである。

甘酢に浸けていただくズイキは酒のアテによろしい。

それがいちばんだと話すOさんが続けて話した風習。

干しズイキは産後の祝いの土産折りの上に乗せて持っていったそうだ。

ズイキを寄せた祝いの品は「血が湧く」という意味がある。

産後は貧血症に陥りやすい。

そういうわけがあって産後祝いにズイキを寄せるのである。

田原の里には各地域で十九夜講がある。

以前は毎月の19日が集まりの日。

寄ってくるのは若い婦人たち。

姑の悪口を言える場でもあった。

昨今は地域によって異なるが中之庄では春(3月)、夏、秋の三回。

いずれも19日にしていると云う。

朝に境内などを清掃して昼ごろには炊き込みご飯を炊いてよばれる。

それから唱える十九夜念仏。

「きみょうちょうらい・・・」の念仏を思い出す。

十九夜講は此瀬町にもあるという。

田原の里の幾つかの地域では山の神参りもあるらしい。

1月10日辺りだったという山の神参りは「山の口」。

いわゆる山仕事に入る日だ。

参る際には「ゴンゴ」と呼ぶ竹で作った筒に酒を注いて供える。

節目、節目を残して竹を伐る。

中央は竹の皮一枚を残して伐る。

細くなった部分を曲げてできあがった竹筒に酒を注ぐ。

柳生で聞いた神酒入れ竹と同じ様相である。

柳生では木の枝にぶら下げていた。

中之庄では山の神を祀る祠がある。

そこに参るようだ。

でかけるのは男たちだけだ。

山の神は女。

婦人は参ることはできない。

逆に十九夜講は婦人だけ。

男はその場に加わることはできない。

マツリ参拝に男女の棲み分けである。

話題はつきないイノコの日。

この年の亥の日は3日であるが、茗荷町では12月1日に決まっている。

O家の前は旧伊勢街道。

かつては往来する伊勢参りの人たちで賑わったそうだ。

今では旧街道を行く人は文化歴史を訪ねる人しか見られない。

多くは北にある車道を闊歩する。

横田町を通り抜ける車道は昭和の時代に新設された。

完成したときには祝いの渡り初めがあった。

渡り初めをする人は夫婦三世代。

揃ってなければ渡ることはできない式典であったと話す。

そのような式典は月刊「田原」に書いてあるらしいが探すのは困難だった。

開けた昭和11年2月の記事には多くの子供たちが寄せた「大じしん」があった。

マグニチュード6.4の大地震は大阪・奈良府県境で発生した河内大和地震であったろう。

奈良県内の地震に昭和27年7月18日に発生した吉野地震があった。

そのころはまだ一歳だった私はまったく記憶がない。

話題はあっちことに飛んでいく。

「天然の麹菌を見たことがあるか」、である。

天然どころか麹菌そのものは見たことがない。

Oさんの話しによれば、実った稲穂が出穂するころに黒い粒が着く。

それがカビの塊の麹菌。

「稲霊(いねだま)」と呼ばれる麹菌が出穂すれば豊作になると云われているが関係性は証明されていない。

平坦ではおそらく天然の麹菌を見ることはなさそうだ。

薬剤散布によって発生することはない麹菌。

自然農法では希に発生すると云い、脱穀しているときに見つかる場合もあると話す。

黒い塊に混じって自然発酵した麹菌は白っぽかったそうだ。

黒と白を分けるのが一苦労したと云う。

話題は尽きないO家。



そろそろ始めようかとわざわざ座敷に置かれた石臼。

挽く棒はないから上部の石を手で回すしかない。

ぐるぐる回す石臼回転は反時計回しだ。



茹でた豆を穴に落とし込んでぐるぐる回す。

けっこうな力が要る。

「あんたが今回の発案やから、やってみなはれ」と云われてぐるぐる回す。

始めは重たい石臼。

しばらく回せばやや軽くなった。



豆が挽かれて汁がでる。

それで軽くなるのだ。

茹で汁を入れてやればもっと軽くなるといってスプーンで掬った茹で汁を投入した。

明らかな違いがでる。

何度も何度も回転していけば上部・下部の合せ目から液体がずるずると出てきた。

これが大豆を挽いた、というよりもすり潰した液体状のクルミである。

かつておばあさんは一人でこなしていた。

左手で臼を回して右手で茹で大豆を落としながら作業をしていたと云う。

何十回も臼を回していたら汗がじんわりと湧いてきた。

労働は汗をかくものだ。

労働体験は汗を流して民俗を知る。

クルミの液体は下に流れ落ちる。

どろっとした固体がクルミになる。

それを包丁の刃でぬぐい取る。

今回はスプーンでしたが、それでは取り難い。

知人たちも入れ替り立ち替わり交替して汗を流す。

この日の体験は講演など身振り手振り、なんらかの形で伝えていきたいと思うのである。

貴重な体験ですり潰したクルミ大豆はきめが細かい。

お土産にいただいたクルミはミキサー挽き。

食感は石臼に軍配を挙げる

(H26.12. 1 EOS40D撮影)

貰ったハイビスカス⑤

2015年08月30日 08時18分52秒 | 我が家の花
11月初めに一輪咲いた我が家のハイビスカス。

それから数週間はまったく動きがない。

20日過ぎにポクっと蕾がついた。

色はまだない。

徐々に色が見えてくる。

数日経った24日の朝は、もうすぐ咲くよというような感じになった。

昼過ぎに姿を現した。

翌日は動きがない。



26日の朝7時過ぎ。

仕事に出かけたい忙しい時間帯。

ぱっと開いた。



その日の夕方近くともなれば花弁は反り返った。



雨が降った日は暗くてピンが定まらない。

翌日27日の昼はピーカンで撮りごろ。



そのまま萎むだろうと思っていたが変化がない。

変化がないのは天候もだ。

オシベ・メシベが立っている。

昆虫も少ない時期。受粉することはないだろうと思う。



28日もしっかりと咲いていた。

咲いたハイビスカスの右下に蕾がある。

まったく変化がない。

変化がなかったので29日は撮らなかった。



が、30日も咲き続けていた。

萎まずに5日間も咲いている。

8月28日、始めて咲いたハイビスカスは一日花で萎れた。

気温が下がれば長もちするようだ。

(H26.10.24、26、27、28、30 EOS40D撮影)

伊豆七条子守神社・牛頭神社新嘗祭

2015年08月29日 09時20分53秒 | 大和郡山市へ
櫟枝町の新穀感謝祭を終えた神職はやや離れた隣村の伊豆七条町に出向いていた。

奈良県図書情報館所蔵の『昭和11年祭祀並宮座調』によれば櫟枝町には宮座は「なし」と書かれていた。

伊豆七条町も同じく「宮座の記載はなし」である。

伊豆七条町の神社行事はこれまで牛頭神社で行われる昔ヨイミヤとも呼ばれるムカシヨミヤマツリ頭屋を取材したことがる。

勝福寺の行事では尼講による朔日参り春の彼岸に村行事の施餓鬼もある。

馴染みの人も何人かいる伊豆七条町では大晦日に子供たちが各戸を廻るフクマル行事もある。

いつもお世話になっている神職を追っかけて伊豆七条町に着いたときは神事が始まったばかりの子守神社に村人たちが参集されていた。

神事は開式、修祓の儀、開扉、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌、閉扉、宮司一拝、閉式である。

式典の途中に一同が拝礼をする。

頭を下げたのは天照皇大神宮のご神号だ。



ご神号は「皇大神宮禰宜天見通命裔荒木田神主謹書」とある。



ダイコン、ニンジン、ホーレンソウ、ミカンにカマボコを盛った御供は天照皇大神宮の掛軸下にもあった。

御供を下げて伊豆七条町の西南の地に向かう。



氏子一同は式典道具や御供をもって牛頭神社に向かうのだ。

牛頭神社は「テンノオサン」とも呼んでいるもう一つの神社は小高い丘の上に鎮座する。



子守神社と同じように神事が行われる。

お神酒はいずれも葛城酒造のにごり酒である。

鎮座地には八王子神社もある。



ここでも拝礼された一同は勝福寺でもある会所へ行く。



御供下げしたカマボコを肴ににごり酒をよばれる直会が始まった。

(H26.11.30 EOS40D撮影)

櫟枝八幡神社新穀感謝祭

2015年08月28日 08時20分20秒 | 大和郡山市へ
神嘗(かんなめ)祭とも呼ぶ新穀感謝祭が行われる大和郡山市の櫟枝町。

旧村の佇まいをみせる村であるが建て替えられて現代的な民家造りに移りつつある。

集落を歩いていたら屋根越しに萱葺きが見えた。

奈良盆地、平坦部にもあったのだと驚く。

実成りの柿の色が添えてくれていたので思わず撮らせてもらった。

氏子たちが参集する場は当家の座敷。

マツリの際にも拝見したが墨書がうっすらと残っている衣装箱が気になっていた。

「衣装箱」文字左横に並べて書いてあった年代記銘は「正徳(1711~)」だった。

年期は不明であるが、「櫟枝村 座中」や「一老 善吉」の名もある。

代々の氏子が300年間も引き継いできた村行事は近年において随分と簡略化されたそうだ。

御供を調整するのはかつて一老・・・・四老と呼ばれていた四人の手伝いさん。



コーヤドーフ、シイタケ、ドロイモ、ニンジン、リンゴ、バナナを盛った御供に稲刈りした稲穂を乗せる。

収穫した新穀に感謝するマツリに相応しい実った稲穂である。

稲穂は翌年2月に行われる「座」とも呼ばれる祈年祭においても供えられる。

御供には見慣れない二本の植物らしきものがある。

聞きそびれたがおそらくカヤの茎で作った一膳の箸であろう。

神さんに食べてもらうように置いていたのだ。

お神酒は新穀で酒造したにごり酒。

奈良県内ではどことも供えられる葛城酒造のお酒だ。

洗い米に水、塩盛りもある。

お椀に入れた粗塩に水を加える。

ひっくり返せば見事な形になった塩盛りである。

出発間際にタイも載せた御供を抱えてお渡りに出発する。



その茅葺民家が建つ筋も通って行くお渡り行列。

普段着姿で大御幣を持つ当家を先頭にお渡りだ。

快晴だったこの日。

絞り具合が難しい。

祓えの儀、献饌をするが、瑞垣周りの四隅にも神饌を供える。



当家の奉幣、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌などの神事が行われる。

滞りなく神事を終えた氏子たちは境内でゴザを敷いて直会をされる。

9月から11月の期間はいつもそうされる櫟枝町のマツリの在り方だ。



ツマミをアテににごり酒を飲んでしばらくの時間は直会。

神職は次の祭典場に急がねばならず早めに退席された。

(H26.11.30 EOS40D撮影)

巡る二つの写真展

2015年08月27日 09時17分24秒 | しゃしん
村行事の取材でお世話になった同年代の男性から申し出があって県立民俗博物館に出かけた。

私がとらえた大和の民俗写真展である。

当番の日の8日は事情があってこられなかった。

じゃぁ、特別に解説しましょうということで訪れたのだ。

1時間ほどそれぞれのカメラマンが独自の切り口でとらえた「思い」を伝えながら「食」文化を展示された写真をもとに語らせてもらった。

写真のウラ側にあるものを知る限りの情報で話した。

世界遺産の公認講師資格者でもあるAさん。

地元の歴史・文化や奈良大和も深い造詣もお持ちだ。

しかもだ。平成21年に発刊した『奈良大和路の年中行事』も買ってくださっている。

ありがたい方に、どこにでもあるような小さな「民俗」を話させていただいたことに感謝する。

伝えなきゃならないことは数多くあるが所用もあるので館を離れた。

次に訪れたのは橋本町にある「きらっ都・奈良」だ。



他界された飯田敏男さんが遺した数々の写真が展示されている。

案内されたのは関係者のみ。

案内ポスターに映し出されたお顔を拝見した。

見覚えのあるお顔だ。

近鉄郡山駅で電車を待つ姿をお見かけしたことがある。

たった2回ほどであった。

始めて拝見したのは大宇陀の野依(のより)だ。

5月5日に節句のオンダが行われている野依は平成16年に訪れた。

そこにおられたのが飯田氏だった。

お話しをする機会はなかったが、お顔や姿は記憶に残っていた。

愛用のカメラであろうと思われたカメラは一眼レフでもなく手巻きマニュアルカメラを首にぶら下げていた。

その印象が強く残っていた。

近鉄郡山駅で見かけたときもそのカメラを首から下げていた。

待つ駅は反対側だったのでお声はかけられなかった。

たぶんに住まいは地元の大和郡山だと思った。



故人となられた飯田氏が遺された写真を拝見したく訪れた写真展。

作品はすべてがモノクロ。

平成23年から25年にかけて撮られた写真プリントを展示する。

展示と云っても額縁に入れて掲げたものではない。

遺族から預かられて世話人が会場に持ちこまれた800枚のプリント。

大量な作品は机に並べられた。

マツリ、縁日、観光、街などの情景に集まる人を捉えた作品群に圧倒される。

二人連れ、三人連れもあれば群集もある。

被写体人物は高齢、壮年、若者、学生、子供までの男性、女性、男児、女児。

一見ばらばらのように見えるがそうではない。

写し込んだ人たちがまるで会話、談笑しているかのようだ。

家族、知人なのか、それともたまたま遭遇した集まりなのか判らない。

通り過ぎる人もおれば、そこに居る人たちもそれぞれに表情・動作がある。

人々が点々としているにも拘わらず、それぞれに存在感を示す被写体。

しかも空間を感じさせない。

無駄な隙間がない群像をとらえた情景は、まるで計算しつくした上で作品群なのだ。

巧みな人物配置・構成を拝見してつくづく思ったのは「人それぞれの人生を語った」作品ではないだろうか。

とらえた写真は自宅で現像してベタ焼き。

より洗練された作品をプリントする。

人生最後のプリントは何十年も通い続けた五個荘の祭りだったそうだ。

その日限りの展示会は大勢の友人たちが集まってにぎやかし。

「飯田氏からのメッセージ」は和やかに惜しまれた。

(H26.11.27 SB932SH撮影)

榛原山辺三の干し物

2015年08月26日 09時33分31秒 | 民俗あれこれ(干す編)
濡れ地蔵さんの様相を拝見して山間部に立ち寄る。

ハサカケ
イネコキ作業を撮らせてもらった榛原山辺三の農家を訪問した。



隣家にあった干し物に目がいった。

そこに婦人が顔を出した。

竿に干してある長いものの正体を伺った。



それはズイキの茎であった。

ズイキと云っても赤ズイキ。

六寸ぐらいに切って茹で、酢和えして食べていると云うのだ。

隣家の農夫の話しでは毎年作られていると云うズイキは茹でて煮る。

味付けしたズイキは柔らかくてとても美味しいと云う。

ズイキを干していた家は2階窓に吊るしカキをしていた。



鳥が食べないようにネットで防いでいる。

(H26.11.23 EOS40D撮影)

榛原内牧の干し物

2015年08月25日 09時03分06秒 | 民俗あれこれ(干す編)
曽爾村小長尾を目指していた街道。

榛原高井を走っていたときのことだ。

自転車走行している人たちが整然と並んで走っている。

通り過ぎたあとも遭遇するサイクラーはとても多い。

高井を抜けたら内牧だ。

右手にあったダイコン干し。

小屋内で掛けていた。

気になっていたダイコン干しは小長尾の行事取材を終えて拝見したく立ち止まった。

家の呼び鈴を押しても反応がない。

どうやら不在のようだが、ここで失念すれば申しわけないと勝手な決断で撮らせてもらった。

ダイコン干しの裏側にも何かが干してある。



よくよく見れば大きな魚だ。

魚には斑点模様がある。

大きな口を開けた魚はサケ科。

一つはアマゴと判った。

もう一つはおそらくイワナであろう。

同家では大きな水槽があり、魚が泳いでいた。

アマゴとイワナである。

大きく育てて燻製にしているようだ。



奥には赤色のトウガラシも干していた。

軒下には太めの牛蒡がある。



おそらく宇陀金牛蒡であろう。

後日に訪れた際には声をかけたい。

その場から見渡せば神社が見える。

傍には真っ黄に染まった大樹も見える。

輝く紅葉の情景を入れて撮らせてもらった神社は高井の伊豆神社。

伊勢本街道沿いに鎮座する。

平成3年刊・中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』によれば内牧に当屋制度がある。

神社前におられた婦人に行事のことを尋ねた。

神社では毎月の月並祭があると云う。

これまでは昼前の11時頃だったが、最近になって9時半に移したそうだ。

12月は14日の日曜に新嘗祭がある。

別の日であったと思われる新嘗祭は月並祭とともにされるそうだ。

史料によれば例祭は11月3日。

布団太鼓に枕太鼓台が担がれるようだが、集落に貼りだされていた「内牧秋祭り」のダンジリ巡行は前月の10月25日、26日に行われたようだ。

後日に調べた映像によれば拝殿に登った長老らが千本杵でモチを搗いていた。

音頭はモチ搗き唄のようだ。

その間に村を巡行する神輿もあれば布団太鼓台もある。

マツリの〆はゴクマキ。

同神社境内には山の神が祀られている。

気にかかる存在である。

(H26.11.23 EOS40D撮影)

小長尾天神社造営祭典

2015年08月24日 09時34分29秒 | 曽爾村へ
12月29日、配られた新聞チラシのなかにあった春日大社の「春日通信20号」。

20年ごとに行われる式年造替(しきねんぞうたい)のスケジュールも載っていた。

平成27年は仮殿遷座関係儀式、平成28年は本殿遷座関係儀式だ。

同じように20年ごとに行われる曽爾村小長尾の天神社。

寛文四年(1664)の創建と伝えられている。

内・外氏子たちの寄附を募って本社・小宮・鳥居などを新しくされた。

造営祭典に子供が槌を打つ儀式があると知らされて出かけた。

その件を聞いたのは同年の7月29日

小長尾で行われている「センゲンサン」行事の聞き取りの際に教えてくださった。

造営祭典には槌打ちの儀式がある。

槌を打つのは法被姿の村の子供たち。

センゲンサンに導師を務めるYさんの孫たちも槌を打つと話していた。



槌打ちは男の子だけでなく女の子も参加する。

0歳児は親が抱っこして参加する。

上は15歳までと決まっている子供が槌を打つ造営祭典は、これまで取材した地域に見られない在り方。

是非とも拝見したく訪れた。

伊勢本街道を走る。

曽爾村に着いたときの道路情報が知らせる朝の気温は3度。

さすがに寒い。

Yさんに教えてもらっていても村役を存じているのは元区長のOさんだけだ。

同氏からは是非ともと云われていた。

神社は造営実行委員の方々が準備作業に忙しく駆け回っていた。

委員長でもある総代を紹介してもらって取材に入る。

委員の一人は曽爾村少年自然の家で仕事に就いているOさん。

自然観察会で長年お世話になっている山ちゃん先生の教え子だった。

奇遇な出会いである。

祭典舞台櫓には扇3枚に五色の垂れがある大幣が1本、小幣が17本あった。

奥には弓やさすまた(刺股)もある。

造営委員会を立ち上げたのは平成25年。

この年の造営祭典は例祭の新穀感謝祭も兼ねている。

子供たちが集まっている場は村の集会所。



法被を着た大勢の子供たちが親とともに来ていた。

法被姿で集まった子供たちは内氏子に外氏子の45人。

生まれたての子供から年長は小学生。

かつては内孫の男児だけであったが、少子化の影響を受けて男児は少ない。

女児も含めて外孫までもということにしたそうだ。

20年前の造営祭典と同様に黄色い襷に豆絞りの鉢巻をした子供たち。

裃姿になった造営棟梁が説明する槌打ち作法に耳を傾ける。

こういう機会は滅多にないと元区長から記念の集合写真を依頼されて撮影に応じる。



失敗は許されるものでなく責任は重いがなんとか撮れてほっとする。

集会所を出発した子供たちは日の丸扇を翳した造営委員についていく。



一種のお渡りであるが、造営棟梁らは先にでかけてしまった。

「本来なら先頭は造営棟梁なんだが」と委員は云ったが時すでに遅しであった。

神社で子供たちを待っていた内氏子に外氏子。

この日はめでたい20年に一度の造営祭典。

「造営」と書いて「ゾーク」と云う。

奈良県東部の東山中では一般的にそう呼んでいる本殿の建て替えであるが、西の葛城地方では「ゾーク」の祭典もなく一部修理で継いでいるようだ。



続々と参拝する内・外氏子たち。

槌を手にした子供とともに参拝する。

祭典の場は紅白の幕を張った舞台櫓だ。



時間ともなれば造営祭典関係者一同は参集する。

委員たちはその下の境内に整列した。

大御幣・弓矢などを立てた舞台櫓に上がるのは総代、棟梁、長老だ。

境内に立っているのは造営委員たち。

氏子らは道沿いに集まって祭典に望む。

小長尾の造営祭典の式典は開式、修跋、降神、献饌、祝詞奏上、造営棟梁による四方祓、棟梁祝詞(よごと)、玉岸奉奠、子供たちの上棟槌打ち、式辞、挨拶、本殿報告祭、例祭、鏡開き、乾杯、ゴクマキ、閉式である。

祝詞奏上の次は造営棟梁による儀式。

舞台櫓のそれぞれの角に移動する。



そこでまき散らすキリヌサは四方祓である。

引き続いて造営棟梁が祝詞を奏上する。

これは目出度い詞で詠みあげる「よごと」と呼ぶ祝詞である。



メインイベントは子供が作法する槌打ちの儀式だ。

舞台櫓袖に立った棟梁が「まんざい トー」と声を挙げて大御幣を「トン」と床を打つ。

それに合せて子供たちが横にした棟木を「トン トン」と打つ。

次は「せんざい とー」だ、同じように槌を打つ。

次は「えいえい トー」で終える槌打ちの儀式である。

「まんざい」、「せんざい」、「えいえい」を充てる漢字は「万歳」、「千歳」、「永々」。

村が永遠に栄えるよう、益々の繁栄を願った目出度い詞の槌打ちは上棟の儀式である。

鶴と亀の文様に「祝 上棟天神社」とある。

記念撮影に一度は立った子供は座って槌を打つ。



背が低い子供たちは太い棟木で被ってしまい顔が見えなくなった。

子供たちが打った太くて長い棟木は水平に置いていた。

それには本社の屋根まで繋げていた紅白の曳綱があるが、曳綱の儀式は見られない。

これまで奈良市誓多林・長谷・都祁南之庄上深川で拝見した槌打ちは長老の役目。

子供が槌打つ小長尾の在り方は極めて珍しく貴重な存在だ。

話しによれば隣村の門僕神社でも子供が槌打ちをしているらしい。

この地方特有の在り方だろうか。



一生に一度しか味わえない槌打ちをした子供たちを記念に撮っておきたい親たちの気持ちはよく判る。

祭典は造営委員長の式辞、長老の祝辞挨拶に続いて本殿で報告祭が行われる。

神職を先頭に造営委員長。



続いて棟木を恭しくもつ大工棟梁の順に参進される。

この日は例祭の新穀感謝祭も兼ねている村の祭典。



神饌を献上し棟木を新しくなった本殿に納める。



祝詞奏上、玉串奉奠などの例祭を終えれば再び村の祝典に移る。

これより始まるのは氏子総代らの鏡開き。



菰酒樽を祝いの紅白小槌で蓋を打つ。

ぱっと割れた瞬間にお酒の香りが飛び出した。

樽酒を柄杓で汲んで四角い枡に注ぐ。

何杯も何杯も汲んでは氏子に配る。

大勢であるだけに子供を除く全員に回るには時間を要する。



酒枡が揃ったところで乾杯。

子供たちは横目で様子を見ていた。

それからしばらくは村人らの歓談の場。

ひしめき合いながらも久しく顔を合わせて喜びを分かち合う。

酒の肴は村の接待料理。

手作り料理が配られる。



胡麻を振ったスゴボウ、ニンジン・コンニャクに煮しめ、鶏のカラアゲ、たまご焼き、ハム、ソーセージ、キュウリ・チーズ詰めチクワにカマボコなどなど。

箸でつまんで移した紙皿でいただく。



お酒にビールに目出度い料理が飛ぶように売れていく。

大勢の村人が楽しむ直会にごちそうをよばれる。

居合わせた一人の男性と話し込んだ。

橿原市在住の娘婿は元神職。

石上神宮や龍田大社、小泉神社などで奉仕したが退職したという。

それぞれの神社行事でお世話になっただけに話が盛り上がる。

直会の時間は1時間余り。

神さんに供えた御供餅を下げる。

御供餅はお重に盛っていた。

前日の朝から作業場でダンゴモチを搗いていた。

モチは棒状にして伸ばす。

それを一つずつ包丁で輪切りした。

夕方までかかると話していたのは元区長の奥さんだ。

この年はネンギョ(年行)にあたる同家。

ゴクツキは杵でなく機械で搗く。

コメコとモチコは半々の分量で御供を搗く。

それをネコモチのような棒モチにこねて伸ばす。



少し堅くなったところでモチを輪切りにする。

モチコにコメコを混ぜているからダンゴである。

ちなみに隣村の長野はダンゴでなく、カサモチや十円玉を入れたモチを撒くそうだ。

舞台櫓や拝殿から放り投げるゴクマキ。

御供を撒くから「ゴクマキ」である。



祭典を飾るゴクマキは熱気で溢れた。

解散されて私も役終い。

帰路にも見た道路情報の気温は13度だった。

晴れ間になって穏やかな日であったが、それほど上昇していない。

(H26.11.23 EOS40D撮影)

野遊び⑦in矢田丘陵+矢田山遊びの森

2015年08月23日 09時41分39秒 | 自然観察会
下見から9日後は野遊び自然観察会の本番。

下見と同じ県立大和民俗公園~矢田丘陵~滝寺廃寺~矢田山遊びの森~東明寺コースを観察する。

スタッフを入れて総勢14人。

保護者会家族は1組(4人)になった。

少ないがいつもの通りに大和郡山市立少年自然の家のロビーで受付をする。

この日は雲ひとつない天晴れの日。

風もなく穏やかな日は清々しい。

県立大和民俗公園の西入口より入園する。

いつものコースである。

正面には萱葺き民家が見えてくる。



手前が旧都祁村針にあった旧八重川家(平成4年移築)で、奥は旧室生村黒岩の旧岩本家(昭和54年移築)だ。

萱葺き屋根が美しく見惚れる。



葉が落ちた枝垂れ桜の並木、旧室生村上笠間の旧松井家(昭和62年移築)を通りすぎて吉野町吉野山旧前坊家(昭和63年移築)も拝見する。



ここら辺りでは若い芽がたくさん発芽していた。

シラカシの芽である。



昨年に落ちたタネが生長して芽がでた。

林立するシラカシの芽は大量にあるが、すべてが成長するわけではない。

なんらかの事象で親木の生長がとまる。

そのときになってこうした芽のいずれかが育つ。

シラカシの芽がたくさんあるのは保険をかけているようなものだ。



これより向かう先の矢田山遊びの森・子ども交流館まではトイレがない。

早めに用を足しておくトイレ休憩は児童広場。

いつもそうしている。



その場には高くそびえるメタセコイア(スギ科もしくはヒノキ科)がある。

下見では葉っぱの色は緑色だった。

9日間も経てば葉は黄色くなっていた。

ただよくよく見れば上の方はまだ緑色が残っている。

徐々に上がっていく紅葉色素の変化である。

この時期ともなれば松ぼっくりが落ちていると思われ、一部落葉した地面を探してみる。

あるあるである。



メタセコイアのタネは行燈提灯のような形の珠果。

一枚一枚のタネが集まった姿だ。

種子を庭に植えたらたいへんなことになってしまう。

児童広場から眺望する田園。

下見の際にも拝見したイネカケがある。

変化が見られないことから藁干しだと思う。



公園内にも紅葉が見られる。

赤い実が弾けていたトベラ。



下見のときよりも増えていた。

公園を抜けて矢田丘陵を目指す。

田畑の道を行く。



葉っぱの下に隠れていたサトキマダラヒカゲ。

じっとしている。

年越しをするのだろうか。



下見のときには強風で煽られて撮れなかったアキノキリンソウ。

秋の野の花でいちばんのお気に入り。



ツリガネニンジン、アキノタムラソウも薄い紫色。



リンドウはもう少しで濃くなる。



下草刈りもされずにセンブリも残っていた。



下見の日の最高気温は14度だった。

この日はうってかわって20度。

着こんでいたセーターは脱ぎたくなる暑さだった。



野の鳥が鳴いていた。

枝に留っている鳥もいれば、飛んでいた鳥もいる。

カワラヒワ、ヒヨドリ、モズ、シジュウカラだ。

こんなときはタカも飛んでくれればいいのにと話していたら、ほんまもんが飛んできた。

最初はカラスのように思えたタカはノスリ。

矢田山の上昇気流にのって高く舞いあがる。

上空に飛んでいったかと思えば旋回もしている。

肉眼でもはっきり見えたノスリであるがカメラレンズでは届かない。

カシラダカが枝に留っていた。

双眼鏡ではっきり見えた。

カシラダカはそこから歩いたところの樹木にも飛んできた。

久しぶりに拝見したアリジゴク。



農小屋下に住みついている。

アオサギが飛んだ場に聞き慣れない野の鳥の囀りが聞こえてきた。

林のなかにいるのだろうか。

耳を澄ませてじっと待つ。

囀りの主はおそらくルリビタキ。

高山から下りてきたのだろう。



そんな鳴き声を聞いていた地にはモチツツジの花が咲いていた。

不時花開(狂い咲き)・季節外れの返り花。

蕾も多い。もしかとしたら穏やかな気温が数日間続き、春の気温と勘違いしたのであろうか・・・。

ここからは鬱蒼とした森林に入る。



下見の際にも見た大きな塊の白いキノコ。

サルノコシカケではないように思えるが名前は判らない。

暗がりだった山道に花後のコクラン。



葉の姿で判る。

かつてされていたと思われる行場がある谷川を山道に沿って遡る。



倒木に密生しているキノコ。

9日前の下見では小さな姿のシメジだったが、この日はぐんと大きく傘を広げていた。



立派に生長したシメジであるが腐った匂い。

食べられそうにもない。

県指定の史跡である磨崖仏がある滝寺廃寺でひと休み。



ここまでは急坂。

これより先も急坂。

汗をかく山道である。

登りきったところにクチベニタケが見られると思っていたが、今年は一つもない。

赤い実をつけたヒヨドリジョウゴの傍にあったテイカカズラ。

春は香り高い白い花をみせてくれる。



そのテイカカズラが種子をつけた。

莢の形は想像もできないヤジロベエだ。



どういう変化があってこのような形になるのか。

植物の生態は興味いっぱいで面白い。

片方の莢がねじれていた。

パクッと広がる莢。

内部には横たわるように種子が入っている。

取り出した状態ではまだ湿り気がある。



乾けばパラシュートのような傘になって広がりフワフワと空中に浮かぶ。

矢田山遊びの森には二つの池がある。

池の名は峠池。

北側が上池で南側が下池。

その下池の土手堤がたいへんな状態になっている。



イノシシが土中のミミズなんか探して穴ボコだらけ。

イノシシアラシの無残な状態である。



アラシは土手のみならず植樹した場も荒らしていた。

しばらく歩けば樹木を伐採していた。



伐り口の状態は真新しい。

最近になって伐ったようである。

一部分をアップしてみた。



茶っぽい色の部分はナララケ菌の被害を受けたところ。

粉っぽく白い部分は若干腐り始めているようだ。

部分の匂いは嗅がなかった。

もう少し歩けばここも伐採した樹木の根本がある。

下見の際に確認したナラ木。



砂みたいなものが上がっていた。

ナラタケ菌にやられた高木はすべての葉が枯れていた。

いずれ倒木するであろうと思われた木は遊歩道にあった。

歩く人に突然襲いかかる危険状態であった。

その状況を伝えた子ども交流館は伐採の手配をされたのである。

伐り倒された根本。

気持ち悪いほどの根腐れ状態が判るだろうか。

食事の場を借りた子ども交流館。

職員が云うには17日に済ませたと云う。

早めの対応に安堵する。

交流館には8月末のニュースで取りあげられているカエンタケの写真が掲示されている。

生駒山麓で発見されたカエンタケ。

テレビニュースが報道するコメンターはオドロオドロ恐ろしい。

触っただけで火傷するとか・・・。

食事を済ませて東明寺を目指す。

矢田山遊びの森には芝生広場がある。



そこには自転車が走行した轍跡が何十本もある。

なだらかな丘陵地を何回も登っては下っているようだ。

たしか芝生広場内は乗り入れ禁止であったと思うのだが・・・。



この辺りもイノシシアラシの痕跡がある。

惨たらしい現状を伝えるが、対策はあるのだろうか。

その広場にはムラサキシキブとよく似たヤブムラサキがある。



実の色、つき方は同じ。

いずれも食べてみれば甘い。

若干美味しいと思われたのはムラサキシキブだが、はっきりと認識できるのが葉の裏。

手で撫でるように触ってみる。



ウラ毛の触感がはっきり判るのがムラサキシキブ。

ヤブムラサキはどちらかといえばツルツルだ。

広場を離れて山道を下る。

下見同様にツチグリは見当たらない。

下見の際に見つけたロクショウタケは僅かに色が変化していた。

その近くにあったやや小型のまん丸いキノコ。



ショウロのように見えるが、これは食用にならないコツブタケ。

半分に割って中身を拝見する。



不気味な感じだ。

さらに下っていった。



下見のときよりも輝きが鮮明になった真言宗派の鍋蔵山東明寺のモミジ色。



真っ赤に染まる情景にただただ佇む。



9日前の下見のときはまだ緑色だったモミジも真っ赤になった。



手前に挿し込む光を浴びた常緑樹の葉を透かして撮ってみた。

どの角度から撮ればいいのか少しずつ移動する。



全面真っ赤も良いが、萌黄色になった桐の葉を僅かに入れてみた。

本堂より見下ろした寺門。



周りはすっかり紅葉仕立て。

覆いかぶさるようになっていた。



階段下の境内はうってかわって荒れ放題。

荒らしたのはイノシシである。

なんとも手の施しようもないくらいに荒らしていた。



下って落ちていたカヤの実を拝見する。

触ってみたらねちゃっねちゃだった。

その下にたくさんの赤い実をつけたヒヨドリジョウゴがあった。



陽に照らされて美しくも美味しくも思える赤い色が輝いていた。

一見、美味しそうに見えるが、食べられないヒヨドリジョウゴである。



さらに下ってビナンカズラ。

それほど赤身は帯びていない。

もう少し下った地に花後のキチジョウソウがあった。

暗がりの場では撮るのが難しい。

この日はキチジョウソウを撮るがためにストロボを持参した。



花後であるが美しさを感じた。

またまた下って太い竹にからみつくムカゴを発見する。



人の手が入らないように垣根で保護している。

さらに下ってハダ架けのマメ干しを見る。

下見のときよりも半分になっていた。

おそらく自宅へ持ち帰り豆オトシをされたのであろう。

もう少し下った三の矢塚付近に立つススキ。

三本足に組んだ竹に藁を干す。

出発地はもうすぐだ。



帰路に見つけた赤い実はトキリマメ。

日差しがキツイこの日。

色合いは下見よりも濃くなっていた。



カマツカの赤い実を拝見して戻った。

エナガが喧しく飛び交うし、コゲラが鳴きながら飛ぶ姿も見たこの日の観察会。

気温は20度に達していた。

出発地点に戻って万歩計を見れば9000歩であった。

同じコースを歩いてきたのに下見のときは8400歩。

600歩も増えたのは何故だ。

たぶんにキチジョウソウである。

(H26.11.22 EOS40D撮影)

川上町蛭子神社終いエビスの蛭子祭

2015年08月22日 11時11分29秒 | 奈良市へ
奈良市川上町に鎮座する蛭子神社の燈籠に「天保十三年(1842)壬寅拾月吉日 為繁栄建之世話人 蛭子社 発起人笠置屋清三郎 河上村五郎衛門」の刻印がある。

本社が蛭子神社で事代主神・大国主神を祀る。

末社は三神。

天照大神を祀る廣田神社や伊稚神社(豊受媛神)、住吉神社(筒男神)である。

この場で待っておれば役員たちが来るからと云われて境内などを散策していた。

待つこと20数分。数人がやってきた。

この日の蛭子祭は6人の農家組合の役員さんが参られる。

前夜の宵宮には大勢の参拝者が訪れるがこの日は誰一人といない。

祭典が始まる一時間前には燃やしていたトンドにしめ縄をくべていた人もおられたが神事参拝には来られなかったようだ。

前夜の宵宮をトン汁でふるまう人たちは蛭子社の有志50人。

何人かは奈良「きたまち」を盛り上げるボランティア活動をされている「きたなら」グループだそうだ。

転害門にかける太くて大きな注連縄を作っている。

毎年ではなく4年に一度の取り組みである。

前回は平成25年だった。

次回の4年後は平成29年。

その年の9月23日の朝8時。

川上町会所の前で作られる。

かつては手向山八幡宮氏子圏の人口が多かった。

その当時は5組に分けていたことから5年に一度の架け替えだった。

いつしか人口減。

4組にしたことから4年に一度にしたという農家組合の人たち。

材料のモチワラは村が供出。

10時ごろにできあがった注連縄を担いで運ぶそうだ。



注連縄架けの話題を提供してくれた役員たちはつい先ほどできあがった「ニラミダイ」を吊るした注連縄を本社や末社に架けた。

事代主大神・大国主神を祀る本社は二対の「ニラミダイ」。



末社の廣田神社・伊稚神社・住吉神社はそれぞれ一対ずつ吊るす。

腹合わせにしているから「ニラミダイ」。

漢字で現せば睨み鯛である。

今では生鯛であるが昔は干し鯛であった可能性があると手向山八幡宮上司延禮宮司は話す。

「ニラミダイ」を吊るす注連縄は朝8時から会所で作っていたそうだ。

縄はモチワラ。

上の田んぼで栽培したモチワラは硬いイナワラより柔らかくて結いやすい。

作り終えたら先に川上祇園社へ出かけて架けていたという。

農家組合の人たちが遅かったのはそういうことだったのだ。

エビスさんの行事に生鯛を吊るす神社は多くない。

12月23日に行われる田原本町の三夜待ちがある。

蔵堂に鎮座する村屋坐弥冨都比売神社の摂社に恵比須社がある。

ここでは宮司自ら結った縄で鯛の口からえらへ通して繋げた縄を張った。

平成25年に取材させてもらった「昔からそうしている」という三夜待ちのお供えである。

川上町の蛭子神社とほとんど変わりない祭り方であるが、平成22年1月4日に拝見した室生下笠間の民家では干した鯛だった。

正月元旦の日に吊るす干し鯛はエビスサン(恵比須さん)・ダイコクサン(大黒さん)を祀った神棚に吊るす。

奥さんはこれを「カケダイ」と呼んでいた。

吊るし鯛ではなく架けるから「カケダイ」と呼んでいるのだ。

本社、末社にローソクを灯して神事が始まった。



祓え詞、祓えの儀、祝詞奏上、玉串奉奠などだ。

昨年は雨だったそうで、木漏れ日が射す今日は良き日であった。

末社の伊稚神社社殿に描かれた文様に気がつかれた役員たち。



三つの珠はおそらく宝珠であろう。

その話題から思い出されたご神体の版木である。

エビスサン・ダイコクサンの2体を象った版木に「河上社」の文字があることから、かつては蛭子神社を河上社と呼んでいたようだ。

手向山八幡宮宮司が云うに版木は元禄八年(1695)正月に寄進されたもの。版木の角や面はやや丸みをもっていることから、お札を刷っていたのだろうと話される。

今では錠をかけた収蔵庫に納めている。

農家組合の人たちも滅多に見ない版木はご神体として大切に祀っている。

版木には2本の杓子、三つを象った牛王寶印に巾着袋や海老錠もある。

エビスサンは釣った鯛を抱えている姿。

ダイコクサンは打ち出の小槌を持っている。

大きな風呂敷を肩に担いだダイコクサンは二つの米俵の上に乗っている姿だったことを付記しておく。

(H26.11.20 EOS40D撮影)