マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

福貴畑・S家の先祖さん送り

2018年10月17日 09時15分38秒 | 平群町へ
ツクツクボーシの鳴く声が広がる平群町。

雨は小雨になっているものの、降ったりやんだりのお盆の15日。

シトシト状態になっていた夕方の福貴畑に伺う家は親子3人が住まいするS家である。

初めてお家に伺った日は平成26年の1月7日だった。

氏神さんを祭る杵築神社の座小屋で営まれた正月座取材を終えてからだった。

正月座のしきたり、作法は厳格である。

3個のサトイモに△□の形に形成する蒸しご飯御供もあるが、特筆すべき点は座の料理にある。

砂糖を1kgも入れて作った味噌仕立ての豆腐汁を献する。

お神酒を冷燗、熱燗も献をする三献の儀を拝見してから立ち寄ったS家。

突然の訪問に応対してくださったのはグラフィックデザイナー・イラストレーターを職業とする娘さんだ。

正月座より1年前の平成25年1月8日に行われた勧請縄かけに当家を務めたご両親も再開したこの日。

お茶などをしてくれたが、応対のほとんどを娘さんがしてくれたお礼にご両親をとらえた数枚の写真をさしあげた。

Sさんは、当時「とにかく生きててよかったよ」のタイトルで日々の暮らしを取り上げてブログで公開されていた。

この日の突然の訪問をサブタイトル「タイミング」でアップされた。

描いたイラストはほのぼのほんわか。

温かみ、味わいのあるキャラクターデザインが気にいったと伝えていた。

そのような流れがあったS家との出会い。

尤も福貴畑の村行事は、正月座、勧請縄かけの他にジョウサン池で行われる龍神祭や観音堂で行われる観音祭も取材したことがある。

数年前から藍染めもする彼女は芸術祭「はならぁと」に作品を出展する芸術家でもあるSさんが伝えるブログに「とにかく生きててよかったよ WP版」がある。

そのブログにお盆の送りの記事をアップされた。

これは、と思って、2016はならぁとサテライトぷらす今井町の展示会場に寄せてもらったときに取材をお願いしたのである。

ご両親の了解もとってくださったSさん。

お家を訪れたのは15日の夕刻。

これより先祖さん送りを始められる。



仏壇の前に設えた机に広げる数々の供え物。

椀、皿一つずつに箸を添えている。

アサガラの箸もあるが、一般的な割り箸もある。

どうやら飯とおかずに分けているように思った。

昔はこれよりもっとたくさんのお供えをしていたという。

ざっと拝見して白ご飯に梅干し入りオカイサン、オカラ和え、サツマイモやカボチャの煮もの、シメジに葉物の煮込みに和菓子。

本来は小豆粥にするそうだが、本日は梅干し入りオカイサンにしたそうだ。

ビール、コーヒーの水ものもある。

数は特に決まりもないお供えに、ダンゴ盛りがある。



中央をぺこんと押した凹ましたダンゴは、この日の晩に先祖さんを送るためのダンゴ。

先祖さんに持って帰ってもらうよう沢山作ったえくぼのような形のオクリダンゴ(送り団子)である。

先祖さんを迎える日はムカエダンゴ(迎え団子)を供えるという。

本来は小豆粥らしいが・・。

左側にある三界万霊の礼はお寺さんが水供養をされたものだろう。

お茶は1時間おきに、新しいお茶に入れ替える。



古いお茶は縁側外の軒下に捨てる。

ガキサン(餓鬼)に飲んでもらうための施しである。

ちなみにS家の仏壇内部に掲げた3幅の掛図である。

本尊は中央に配した十一尊仏阿弥陀如来来迎図であろう。

そろそろ送らせてもらいますと伝えられて始まった先祖送り。



まずは燭台の火から線香に移す。

数本の束にして火を移す。

燃える火を手で煽いで消す。

線香は白い煙になった。

母親はその間に三界万霊の礼を取り出して数本のアサガラとともに紙包み。

それを父親に手渡した。

行きますょの合図に3人は揃って家を出る。



父親とともに家を出るSさん。

煙る線香を消さないように持って道路向こうの草木地にでる。

後方についた母親は小型のおりんとおりん棒を抱えて家を出る。

やや早足であれば線香は風を受けて燃え上がる。

その度に手で煽いで消す。

そのようなことをしながら目的地に向かう。

距離はそれほどでもない迎えも同じ場所でしていた神聖な地。

小川が流れる。

その小川は龍神祭をしていたジョウサン池が上流になる。

家々によって迎え、送りの地はそれぞれだ。

迎えるまでに草刈りを澄ませていたという、送りの地に着いたら、まずはアサガラに火を点ける。

ヒグラシが鳴くカナカナカナカナが辺りに流れる夕どき。

降っていた雨も止んだから助かる。

後ろからついてきた母親はおりんを打ち鳴らしていた。

カナカナカナカナに混ざってオリンの音色もこの地に響く。

さっそく始める火点け。

奉書、アサガラを包んでいた紙に火を点ける。



点け道具はマッチだ。草むらは雨に濡れて湿っているから、なかなか火がつかない。

何本か束ねたマッチをこすって火を点けたら燃えだした。

その傍に仏壇の燭台から火を移した線香を立てる。



水供養をした三界万霊の礼にも火を点けて燃やす。

線香の煙にのった先祖さんは空に向かって昇っていった。

こうして先祖さんを送った親子。



母親は、その間ずっとおりんを打ち続けていたのが印象的だった。

先祖さんを送ったあともカナカナカナカナ・・・・の音色が聞こえてくる。

(H29. 8.15 EOS40D撮影)
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結婚内祝いの引き出物は国産しゃぶしゃぶ肉

2018年10月16日 10時47分33秒 | だんらん
姪っ子が結婚した。

家族だけの結婚式にお祝いの気持ちを贈る。

そのお返しにどれがよろしいかと尋ねるブックが家に届いた。

いつから始まったのか知らないがブライダル用のカタログギフトである。

引き出物は結婚式に出席した人だけに贈られる。

最近は出席の有無関係なく祝いをしてくれた人たちにも内祝いカタログギフトが贈られるようになった。

かつての引き出物は新郎新婦の顔写真入りとか、サインとかが印刷してあった。

上等であっても新郎新婦からの贈りものがわかるような印があった。

例えばネーム入りの時計や食器とか・・・。

たいがいがそうであった。

我が家もそうしてきた。

時代がそうだったと思う。

カタログにある商品を選べるようになったのは、2、30年くらい前からであろうか。

ある年齢に達してからは部下からのご招待はなくなり、参列することもない。

親戚筋でも数人の甥っ子、姪っ子の結婚時代を迎えるようになったころからカタログギフトを目にするようになったと思う。

街で見かける結婚式・披露宴帰りの礼装姿の人が手にしていたのは大きな袋に入った引き出物だった。

昨今はそういう風景も見なくなった。

これも民俗の一面。

時代文化の変化はブライダル会社の手によって民俗文化も変革する。

さて、前置きは置いといて、今夜の食事はそのカタログギフトから選んだしゃぶしゃぶ用国産和牛肉。

息子も東京から戻ってくるお盆にはおふくろも呼んでと思って注文していた。

それが、まさかの歩行困難に陥って我が家で見守ることになるとは想像もしていなかった。

ただ、気になるのは国産和牛肉の原産地標記がないことだ。

パッケージには「国産和牛」のデザイン文字しかない。

ただそれだけであれば安心はできなくなった現代。

なんらかの表記は必要であろう。

スーパーで売っている牛肉でさえ産地名がある場合も・・・。

トレーサビリティのことをガンガンは云いたくないが、味は美味い。

ここ数年間で極端に減っている我が家の牛肉消費。

細切れは料理しにくいから買わんといてとか、牛肉100gが300円以内で、赤身の肉のすき焼きパックしているものでないと・・。

しかも、である。

和牛でないとアカンのである。

アメリカンビーフなんぞはもっての外。

和牛一本である。

そんなわけで最近買った条件を満たす買物は、前年の12月29日の「肉」の日の特売日に買った「産直市場 よってって」店内にあるお肉屋さんだ。

大晦日は奈良県中央卸売市場の「ジェネラルフーズ」である。

正月用であったから奮発して買った。

普段の日であればそんな思い切ったことはしない。

ところが、今回はありがたい内祝いのカタログギフトの引き出物。

形が残るよりも普段食べることのない上等もんの和牛狙い一本にした。

今夜は4人もいる。

ご相伴に預かるという表現が相応しい我が家のお盆料理。

白菜、長ネギ、エノキ、シメジ、トーフに太い春雨、ではなく、クズである。

長年に亘って食事を楽しませてくれた現役の土鍋にたっぷりの水を張って湯を沸かす。

出汁はコンブで煮たてて準備が整った。

野菜を先に入れて、「しゃぶ しゃぶ」。

食べ物番組では箸で摘まんだ牛肉を「しゃぶ しゃぶ」と云いながら湯通し。

赤身がとれたか、とれないかも間もなく引き上げて出汁につけて食べはる。

「しゃぶ しゃぶ」は面倒くさい料理である。

熱湯付近まで肉を掴んだ箸をもっていく。

湯気で持つ手が熱くなる。

それがイヤで牛肉は鍋に放り込んだままにする。

でき上がりは自分の眼で確かめて引き上げる。

普段なら胡麻ポン酢も出てくるが、今夜はそれが苦手なおふくろも食べる。

ここは一本化してミツカンの「ゆずぽん」。

最近はしゃぶしゃぶではなく、いろんな料理に利用している「ゆずぽん」に浸けていただく。

旨い、美味いを連発する家族4人。

国産和牛がとても美味しいのである。

幸せな晩食に久しぶりの団欒。

翌日はおふくろの状況を見にきた弟夫婦ともに話題沸騰。

口はすっかり弾けて滞在時間が長くなった。

借りてここまできたレンタカーを返却する時間もやってくる。

帰ろうとして玄関まで動いたときにスマホのスカイプが作動した。

結婚してから遠く離れた九州に住むことになった姪っ子からだった。

おふくろも私もみんながスカイプに向かって顔を見せる。

前々日はもっと遠い国のカナダに住む我が子もスカイプしてきた。

そのときと同じように画面に映る顔にウルルン。

そんなこを思い出していたら、お肉のお礼を伝えるのを失念した。


この場を借りて、美味しくいただいた内祝いの引き出物にありがとうと云っておこう。

(H29. 8.14 SB932SH撮影)
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箸中車谷垣内・悪霊払いの数珠送り

2018年10月15日 10時26分49秒 | 桜井市へ
桜井市箸中の年中行事は神社行事もあるが、それぞれの地区単位でされる行事もある。

すべての地区がしている地蔵盆の他、地区特有の講行事もある。

中垣内のこんぴら講の行事がそれだ。

また、野神行事のノグチさんもある。

特筆すべき行事をしていると聞いたのは平成29年の4月9日

車谷垣内の地蔵盆の在り方を調べていた際に伺ったOさんが話してくれたその行事はたぶんにここ車谷垣内でしか見られない特殊な在り方だ、と思ったお盆の習俗である。

箸中は車谷垣内の他に中垣内、南垣内、下垣内があるが、お盆のときに数珠繰りをしていると聞いたのは車谷垣内だけのようだ。

数珠繰りがあるなら、何某かの講中行事が考えられる。

講中が集まる当番の家でしていると思うのが一般的な考え方であるが、車谷垣内では屋内でなく、屋外である。

屋外といえば、例えば地蔵堂の内部、或いは堂前にゴザなどを敷いた場で数珠繰りをするのが一般的な概念。

どこの地区でもそのような形式でされる。

ところが、車谷垣内は街道沿いに建つ集落民家の家の前の道が数珠繰りの場であった。

お家の前で2回ほど繰る数珠繰り。

終えたら隣の家の前に移動してそこでも数珠繰りを2回する。

さらに下った隣の民家の前でも数珠繰りを2回。

これを集落すべてに亘って順番に移動していく数珠繰りというのだから驚愕である。

車谷垣内は、一般的概念を覆す道が数珠繰りの場であった。

しかも特定、固有の場でなくお家の前の道路に、である。

車谷垣内の戸数は40戸。

そのお家、一軒、一軒巡って、道路に立ったままするという数珠繰り。

あり得ない様相に驚いたものだ。

是非とも取材したいと、平成29年7月24日に行われた地蔵盆取材の際に取材願いを申し出た。

取材拒否をされる人は皆無だったが、数珠繰りをする日は曖昧だった。

15日なのか、それとも・・・と思って、8月1日に訪れて尋ねたKさん。

地蔵盆のときは家族揃って参拝していたK家である。

8月14日の夕刻近い時間帯にしているということだった。

お盆の14日であれば、施餓鬼と思われるが、お寺さんは登場しない。

念仏はただただなんまいだーを繰り返す数珠繰りである。

夕刻に打ち鳴らす鉦を合図に始める車谷垣内の数珠繰り。

出発地点は集落端の東の先と聞いていた。

そろそろ集まってくる時間帯が訪れる。

Oさんが云っていた集まり方。

下の組の人たち纒向川下流の方から歩いてくる。

一方、上の組の人は上流の方からになると・・。



数人の婦人たちが寄り添って歩いてきた。

いずれも望遠でとらえた婦人たち。

下の組の婦人はてぶらであるが、上の組の婦人たちは数珠を手にしていた。

この先にあろうと思われる上の家で数珠繰りをしていたのだろうか。

7月の地蔵盆にお会いした婦人たちにこの日の取材に寄せてもらったとお礼を伝えて撮影に入った。

この日の行程、数珠繰りの在り方を初めて拝見する車谷垣内のお盆の数珠繰りにワクワクしながら同行させていただいた。



いきなり始まった道端で作法する数珠繰り。

数珠玉の房が手元にくれば頭を下げて次の人に送る。

数珠繰りに調子をとる鉦の音色がある。

カーン、カーン、カーン・・・・。

数珠の繰り方は早い方だと思える。打つ鉦の音で、念仏を唱えていたかどうか聞きとれない。

鉦を打っていたKさんにお話しを伺った。

Kさんが云うには、かつて車谷垣内に念仏講があった。

講元の女性が亡くなり、最後の年はたったの3人になった。

高齢の女性の先々を考えて講は解散した。

解散はしたが、これまでずっと使っていた鉦と数珠が残された。

鉦と数珠は葬儀のときにも使う。

今後のことを考えて、K家で預かることにした、という。

この日の数珠繰りに鉦を打つのは村の男性。

保管、管理をしているKさんと敬神講十人衆を務めるKさんの二人が交替しながら集落を下る。

そのときに拝見した鉦に刻印記銘があったので記録しておく。



刻印は「念仏講中 箸中村 室町住出羽大掾宗味作」である。

これまでの取材した先々で、数々の「室町住出羽大掾宗味作」記銘の鉦を拝見した。

中でも特筆すべきなのは大和郡山市白土町の念仏講が所有する鉦である。

「和州添上郡白土村観音堂什物 奉寄進石形壹 施主西覚 □貞享伍ハ辰七月十五日 室町住出羽大掾宗味作」とあった。

貞享五年は西暦年でいえば1688年。数えること330年前の鉦である。

奈良市今市町・小念仏講、奈良市南田原町・公民館、大和郡山市杉町・会所、大和郡山市井戸野町・常福寺、大和郡山市石川町・観音講、大和郡山市南郡山町・仲仙寺、大和郡山市額田部南町・K家、桜井市小夫・秀円寺(旧念仏衆)、宇陀市榛原戒場・戒長寺、宇陀市榛原篠楽・上垣内薬師堂、宇陀市榛原萩原小鹿野・地蔵寺、平群町福貴畑・S家にもあった「室町住出羽大掾宗味作」記銘の鉦であるが、いずれも年代は見られない。

白土町の鉦を基準にするのも難しいが、風合いなどを拝見した状態から判断して、同年代であろう。

鉦とともに下った次の家の前で数珠繰りが始まった。



一軒、一軒と下っては数珠を繰る。

その度にカーン、カーン、カーン・・・・の音色が街道筋に聞こえてくる。

杖をついてやってきた下の組の婦人も合流する数珠繰り。

みなの笑顔が広がっていた。

7月24日に取材した車谷垣内の地蔵盆。

会食を摂った会所にモノクロ写真を掲示していた。



時代はいつのころかわからないが、当時の数珠繰りの様相である。

掲示写真はカラー写真撮りもあった。



髪型、服装から同時代の写真ではなさそうだ。

モノクロ判は19人。

カラー判は25人の人たちで数珠を繰っていた。

9割方がご婦人たち。

その場に子どもは数人。

大人の男性は1人だった。

いずれにしても貴重な写真である。

車谷垣内の戸数は40戸。

この時点でまだ半分も満たない。

一軒、一軒と下って家の前にくれば数珠を繰る。



輪の広がりは数珠の長さもあるから限定される。

およそ20人を超えたあたりから窮屈さを感じるようになる。

大人の背丈で数珠を繰るから子供にとっては背伸びするしかない。

それでも届かないから繰る腕は上方にある。

地蔵盆のときも家族総出で加わっていたが、数珠を繰る人数は制限されるから脇で拝見するしかない。

建て直した家もあるし、昔の風情をみせる旧家もある車谷垣内の佇まいに見惚れることなく数珠を繰る。



この地で生活をされている村の人たち。

普段の服装でしている姿が美しく見える。



街道の勾配はどれぐらいだろうか。

少し歩いては立ち止まって数珠を繰る。

さらに下って地蔵尊・庚申石仏がある処まできた。



杖をついて数珠を繰る婦人はもう一方の手で繰っているが、まったく苦になっていないようだ。

とにかく皆が愉しんでしているように思えた数珠繰りはおよそ40人に膨れ上がった。

疲れたら交替してもらう。

大人数であるからこそ交替してもらえる数珠繰り。



40戸の家前でそれぞれ繰る回数は2回。

終えたときには80回になる計算だ。

さらに下って三叉路に着く。



その角で子どもさんも混じって数珠を繰る。

三叉路の北筋に行けば穴師に巻野向に繋がる本道になる。

車谷垣内の東の端の小字は古屋敷・屋敷。

上流の笠の地に繋がる旧街道を下れば、小字平田、カハラケ、白、白原草、大手、平田、車谷、青谷、西脇、平山、北垣、三分、観音田、桶水、大報田、畦クラ、赤井、観音講田などだ。

小字三分が三叉路。

南の里道は観音田、大報田、赤井に繋がる。

三叉路下ともなればそれこそ旧道。

いわゆる村の里道である。



纒向川に沿って下った集落。

ここもまた一軒、一軒に立ち止まって数珠を繰る。

下れば下るほど視界が広がる。

半分の戸数は済んだように思えるが、先はまだまだである。



ここら辺りの景観、佇まいがとても気に入った。

天候が良ろしければもっといいと思うが・・。

この日はお盆。

照りはなくとも暑さは厳しい。

婦人たちは汗を拭いつつも数珠を繰る。

輪から離れた人もタオルで汗を拭い、団扇で煽いでいた。

三叉路での数珠繰りを済ました人。

およそ1/3の人たちは解散して家に戻っていった。

たぶんに上の組の人たちだろう。

下の組の人たちは「送ったってんのに、帰らはったようです」と云っていたから違いないだろう。

それでも大方20人以上も居る。



里道になれば道幅が狭くなる。

数は少ないが車の往来もある。

その都度に数珠繰りを止めて道端に寄り添って退避していた。

鉦の音はカーン、カーン、カーン・・・・。

ときおりツクツクボウシの鳴く音も聞こえる。

お盆辺りから泣き始めるツクツクボウシの声を耳にする度に、大阪・南河内郡の母屋で夏休みを過ごした子どものころを思い出す。



背景に笠山が見える地まで下ってきた。

道歩きのときも鉦を打つ。



すくすく育った稲田が広がる田園地の景観にほっこりする。

数珠繰りの回数は1軒辺りに2回であるが、不幸ごとがあった家の場合は3回になるという。

40年以上も前に車谷垣内に嫁入りした婦人。

そのときからずっと参加して繰っているという。

解散した念仏講の営みは、昔も今も村全戸の行事として継承してきた。

戸数が40戸の車谷垣内。かつてはもっともっと、子どもが大勢居たと話していた。

ところで数珠繰りの回数はどうやって数えているのだろうか。

一般的に座して行う数珠繰り。

数取りの道具はさまざまである。

木札、算盤のような珠。

葉っぱ、マッチ棒などなど実に多彩であるが、立ったままでされる車谷垣内では繰る房の回数を数えているという。

頭を下げるのが2回。

単純な数取りであった。

さらに纒向川沿いの道を下っていく。

道幅はさらに狭くなる。



ここも三叉路であるが、西方の葛城山系の北。

二上山の重なりが見えてきたが、距離は見えるほど近くない。

ずっと下って出合辺りにある橋近くに建つ家も数珠を繰る。

その一軒に懐かしい一品、ならぬ三品を収納していた。



形、機能から見て暖房用具のアンカである。

明治、大正から昭和の時代までを系譜するアンカは瓦土製。

内部に土製の火入れを置いて布団で覆う。

燃料は炭団とか木炭。

子どものころの我が家でも使っていたアンカ。

現在の観念では危険極まりないが・・。

この形式、アンカではなく置炬燵を格子状の木枠で囲む櫓炬燵の部類ではないだろうか。



広い道に出たその場でも数珠を繰る。

いよいよあと数軒になった車谷垣内の数珠繰り。

今年は曇り空で良かったと口にでる。

昨年はカンカン照りに夕立も発生したから難義したというが、今日もまた額から流れ落ちる汗の量はかわらない。

さて、一番西の端になるお家の前の数珠繰りである。



最後にした数珠繰り回数は3回。

これで村から悪霊を追い出したという。

そういえば、今月2日に立ち寄った際に話してくれた中垣内のK婦人。

車谷垣内の人たちは数珠繰りするときには玄関の扉を開けて悪霊を家から払いだしていると云っていたのを思い出した。

各家におった悪霊は数珠にのって垣内外れの西に追い出した、という、つまりは悪霊祓いの数珠送り行為であった。

東の端から西の端までずっとしていた婦人は汗だく。

住む上の組の家に戻るのもまた汗が出る。



戻って双子の孫さんを抱っこする娘さんとともに地蔵さん、庚申さん、大神宮さんに手を合わせていた。

悪霊を追い出して、村中安全、家内安全に感謝して村の守り神に拝んでいたのだろう。

この区間を移動した万歩計は4472歩。

距離に換算してきれば2.9kmだった。

(H29. 8.14 EOS40D撮影)
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野道に咲くキツネノカミソリ

2018年10月14日 09時47分21秒 | 自然観察会(番外編)
桜井市箸中の車谷垣内の集落を抜ける。

ふと視線を下ろした野道に朱色の花が咲いていた。

ヒガンバナ科の花はキツネノカミソリ。

ともに垣内の上流までやってきた村の女性がいうにはキツネノカミソリは違う場所に生えているという。

その女性がいうキツネノカミソリの呼び名は「ケンケンバナ」。

「ケンケン」さんはキツネさん。

「コンコン」さんの名で呼ぶ地域もある。



女性がいうキツネノカミソリはこれでなく、会所の西側に咲く。

咲く時期は秋だというから、一度は見ておかないといけないだろう。

私がかつて拝見したキツネノカミソリがある。

咲いていた場所は奈良市菩提山町である。

正暦寺下に拡がる田畑の隅っこ。

それも山影に近いところの畦道付近に咲いていた。

撮った日は平成14年の8月11日だった。



菩提山町のキツネノカミソリはその名の通りに刃が細くてまるで剃刀のように見える花びらだった。

春に蕾をつけるキツネノカミソリ。

やがて夏草が茂るころにはキツネノカミソリの葉はすべてを落として花茎がひょいと伸びた状態に花を拡げる。

なんと愛らしいことか。

(H29. 8.14 EOS40D撮影)
(H14. 8.11 EOSKISSⅢ撮影)
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危険表示の踏切遮断

2018年10月13日 09時12分11秒 | いどう
高樋町のお盆の在り方を取材してきた帰り道。

午後7時過ぎともなれば辺りはもう暗い。

車のヘッドライトは自動的には点灯しない。

昔、自転車のヘッドライトに暗くなったら自動的に点灯する機能をもった商品を発売されたときは驚いたものだった。

商品名が「テントウムシ」だったような気がするが・・。

私が乗る車は軽の箱バン。

もちろん手動で点灯させる。

ヘッドライトは昼間も点灯させる車がある。

都市交通だけだと思うが、その一つに路線バスがある。

荷物を運搬する会社もしていたし、便配達の単車もそうだった。

いつしか法令化されてバイクは必須の義務化になった昼間点灯。

最近、目にすることが少なくなったような気がする。

(H29. 8.13 EOS40D撮影)
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高樋町・E家の先祖さん迎え

2018年10月12日 09時10分09秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
夕方になる前に着いておきたい地域がある。

旧五ケ谷村もしていると教えてもらったオショウライサン迎えである。

そのことを話してくださったのは奈良市興隆寺町に住むIさんだった。

藁の松明を門口に立てて火を点ける。

そして、家にある小鉦を打ちながら先祖さんを迎える。

夕刻と云っても時間幅は広い。

鉦の音色が聞こえてくれば間違いなくされている。

待っておれば巡り合うかも、と思ってバス停近くで待機していたが、気持ちが少しずつ萎えてきた。

確定的にされているお家がどこであるのか、それがわからずに待っていたら気が重たくなるのは当然であろう。

エンジンを始動して場を離れた。

下った旧五ケ谷村の旧道沿いにある高樋町の民家はどうなんだろうか、と思って神社下の駐車場に停めた。

ここでも鉦の音を待っていたが、あてのない状況待ちに時間ばかりが過ぎていく。

ここもまた待ちきれずに諦めて場を離れた。

駐車場から十数メートル。

開放していた車の窓。

鉦の音があればわかるようにしていた。

急な坂道を下っていった十数メートル。

車窓の向こうに人だかりが見えた。

その姿は、まさに先祖さんを迎えている状況である。

車は道端に緊急停車。

大急ぎで駆け付ける迎えの場。

ご家族に急なお願いをして撮らせてもらう。

息子さんと思われる人は燃やした藁火から線香に移していた。

その横では孫の女児が小鉦を撞木(しゅもく)で打っていた。

線香に火を移し終えたら、自宅に戻る。

先祖さんを迎えた線香の火が消えないようにそろりそろりと歩く。

さらに、お願いする当家の在り方取材も受けてくださった。

取材主旨を伝えて上がらせてもらう。

慌てていたからストロボは持ち合わせていない。

部屋中はやや暗い。息子さんは仏壇にあるローソクに火を移した。

小鉦はいつのまにか消えていた。

どうやら屋内に入る手前、玄関口までだったようだ。

先祖さんを迎えた線香は線香立てに。



手を合わせて拝んでいた。

仏壇のお供えはお盆のハクセンコウ。

一つは蓮を象った形である。

御供下に広げた大きな葉っぱは蓮の葉。

その周りにいっぱい並べている何かがある。

撮影時は気がつかなかったが、帰宅してから画像を拡大してみればヘタのある青柿だった。

長めの細い節のある植物は何だろうか。

それぞれが2本繋がりの形。

今まで見たことのない青物である。

輪切りした若干数の茄子もある。

短く切ったアサガラは2本ずつ。

先祖さんが食べるアサガラの箸とともに、小さ目の蓮に盛っていた。

奥さんに話しによればかつては蓮の葉でなく、カボチャの葉を使用していたそうだ。

今は、スーパーで売っている蓮を買ってきて供えているという。

奥さんは陽のあたる廊下に移動した。



そこにあったのは大きな深鉢に盛った御供さん。

これは「ガキ(餓鬼)」さんのお供えだという。

仏壇と同じように花を立てて御供を盛る。

大きな蓮は皿代わり。

ヘタのある青柿にササゲ豆。

仏壇にあった節目のある植物は二股形のササゲ豆であった。

輪切りのキュウリも盛っていた御供に青りんごも。

ちなみに青柿はミズガキと呼ぶそうだ。

いずれも家で栽培している植物である。

七ツの穴を開けた輪切りの茄子は線香立て。

こうする方が安全性を保てるという。

線香を立てたらローソクにも火を点ける。

そして、ガキサンにお茶を入れた一杯を添える。



初盆(にいぼん或いははつぼん)の家では廊下に「アラタナ(新棚)」を建てる。

丸い形のアラタナに四角く杉の木の葉を被せるのが高樋町の習わし。

その習わし話しに教えてくださった生駒の習俗も。

生駒のどの地域か存じないが、ある村落ではアラタナを祭る家に村の人たちが参りにくるという。

その参拝の在り方に水に浸けた葉っぱで清めるという。

参拝者は身体を清めてから屋内にあがるのがしきたりである。

ちなみに水に葉を浸けて供養するのは一般的に水供養という作法である。

先祖さんをお迎えする時間帯は午後5時半ころ。

送りの15日は午後6時。

少しでも遅くまで家に居てもらいた送りの時間帯である。

話しをしてくれたのは旦那さんのEさん。

なんと氏神さんの行事に何度も世話になったMさんだった。

急な取材にお礼を述べて屋外に出たその向こうに、今まさに火を点けて燃やした藁火から線香に移していた二人がおられた。



こちらの二人にも急なお願いをして撮らせてもらった。

男性は昭和8年生まれのMさんは旧五ケ谷元自治連合会長。

その姿、矍鑠(かくしゃく)とされているMさんは娘さんと思われる女性とともに先祖さんを迎えていた。

当家もまた同じように小鉦を打っていたようだ。

E家もそうだが、家を出た辻で先祖さんを迎えていた。

線香は先祖さんなので家に連れていくが、燃やした藁火は火が消えたのを確認してから、捨てるというMさん。

先祖迎えの日は朝早ようにお寺さんが参ってくれたと話していた。



2軒の先祖迎えを取材して再び立ち寄った興隆寺町。

高台の方から鉦を打つ音が聞こえてきた。どこでされているのか、場だけでも知りたいと思って急な坂道を昇ったら見つかったが、遠慮して村を離れた。

高樋町では午後5時半ころ。

興隆寺町は6時ころにされていることがわかった。

当地へ来るまでに帯解街道にも先祖迎え。

山町の先祖迎えは線香を手にした婦人が東から西に向かって歩いていた。

そのときの時間帯は午後5時15分。

地域によって、或いは個々のお家の考えで時間はさまざまのようだ。

高樋町から帰路に選んだ集落道は天理市中之庄町。

鉦の音でも聞こえてきたら、と思って走らせたら通り過ぎた。

そのままずっと下れば森本町になる。

時間帯は午後6時半になっていた。

そこで遭遇した2人の老婦人。

車を停めて話しを聞けば、手にしている線香。

もう一つはホームレスと云ったのが印象的だったこれらの様相も記録と思って付記しておく。

(H29. 8.13 EOS40D撮影)
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スーパーで売るお迎えの牛に送りの午

2018年10月11日 09時34分48秒 | 民俗あれこれ(売り場の民俗歳時記編)
今年もお盆の祭具がスーパーで売られている。

いつごろからお盆の祭具をスーパーで売るようになったのか記憶にない。

いつのまにか、「売っているなぁ」と思ったぐらいだから意識していなかったに違いない。

意識しだしたのは県内の民俗・習俗取材をするようになってからだ。

お盆の在り方にある特に民間信仰である。

アラタナもそうだが、先祖さんを迎える手段は違えども宗派問わずにされているのではないだろうか。

ただ、宗派によってはこうでなければならない、というのもある可能性がある。

すべてのお家の調査をするわけにはいかないのであくまで推定であるが・・。

これは住まいする家の近くにあるイオンタウン富雄南のスーパー山陽マルナカで売られていたものだ。

胴体に飾った着物?は何であろうか。

たぶんにお迎えの午に送りの牛だと思うが、これはどこの地方のものであろうか。

私が拝見した奈良県の先祖さんの祭り方にはない。

この商品はどの地方で作られたのか。

ラベルを見ていないからなんとも云えないが、売っているスーパーは岡山県が本店の山陽マルナカ。

もしかとして岡山県の習俗なのであろうか。

そうであれば奈良県の習俗とは一致しない。

買っていく人はそのことを知らずに購入することが考えられる。

大晦日になれば大どころか中小スーパーから小売店まで正月しめ飾りを売るようになっているが、地方固有の形は見たことがない。

ということは一般的な形のしめ飾り。

それであれば問題はないが、お盆の在り方では異文化。地方独自、宗派独自、家独自であった在り方が、崩れてしまうことが考えられる。

仕入れ担当者はそういう地方文化をご存じなのであろうか。

(H29. 8.12 SB932SH撮影)
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介護申請は住民票のある地区

2018年10月10日 09時42分39秒 | むびょうそくさい(おかん編)
友愛会病院の医師から聞いた介護問題については役所。

昼食を摂っていた手打ちうどんの店さぬき茶屋からみれば道路を渡った向こう側にある。

向こう側にあるといっても東にもう少しある。

相談ぐらいなら早いだろうと思っておふくろとかーさんを食事処に置いたまま出かけた。

役所は住之江区役所。

駐車場は満杯だ。

エンジンをかけて車内に人が居る車は3台もある。

待ち人まだ来ず、であろうか。

そのうち戻ってくる人も居るだろうと待っていたら1台が動いた。

待ち時間は5分程度で済んだが、後ろに待っていた車は3台にもなっていた。

どの部署に相談すればいいのか。

玄関を入ったところに総合受付がある。

その受付女性にその旨を伝えたら、そこの介護関係の窓口で整理券を発行してもらって待ってくださいという。

そこで引いた整理券は670番。

相談窓口は二つあるが、相談は長時間かかっているように思えた。

現在番号は663番。

こりゃあ随分待つことになるだろう。

食事処に寄せてもらっている二人に連絡しなくてはと思ってケータイにかける。

こういう事情で待ち時間は長い。

お店に事情を伝えて待たせてもらいたいと申しておきなさいと指示をだす。

それから待つこと数十分。

区役所の書棚にあった「大阪市 ハートページ」という一冊の本があった。

“介護が必要となった方や家族のための介護と介護保険のナビ・マガジン“である。

その中にある申請の下りを見ていた。

だいたいのイメージがわかってきた。

番号呼び出しをされるが二人はその場にいない。

トントンときて廻ってきた。

事情とここへ来た目的を窓口担当者に伝えたら相談にのってくれた。

特にお聞きしたいのはどこの市役所でも申請をすることができるのか、である。

つまりは私が一番にきになるのは申請を受け付ける役所はどこであるか、である。

介護は私が住む奈良県になるであろうが、まずは現住所だと思っている。

答えはその通りである。

申請は「大阪市認定事務センターに要介護認定支援認定の申請をする」ことである。

申請に必要な書類は「介護保険要介護認定・要支援認定申請書」に「介護保険被保険者証」である。

その申請書に記入見本がある。

必要な個所だけに印を入れてくださる。

問題は主治医である。

病気にかかっている病院、或いは主に通院している医院である。

大阪市から委託を受けた認定調査員が心身状況などについて調査する。

必要に応じて区役所の保健師も同行するらしい。

この認定調査員が心身状況を調査する際に主治医の心身障がい原因などに関して意見書の作成を依頼するようだ。

本人手続きは不要だが意見書作成してもらえる主治医はどなたにすればいいのか、である。

友愛会病院は一見さんの医師である。

相談窓口者曰く内科医院か整形外科になるという。

内科も整形外科も通院しているから馴染みであるが・・・。

原因部位は頭でもなく、内臓でもない。

血管でもなく、骨や神経系でもない老人性の衰えであるから、どちらの医師に頼むべきか判断に悩む。

いすれにしても申請書を送付すれば本人の心身状況の確認もされて、専門家による介護・支援の審査がある。

保健、医療、福祉の専門家である介護認定審査会が、介護を必要とする要介護状態区分、つまり度合いを審査・判定する。

その区分は要介護のレベル5が上限で下限は1だ。

介護を要するところまでいかないケースは要支援。

レベルは2、1である。

該当しないのは“自立”生活ができる人である。

これらを経て判定結果がでるまで1カ月はかかるという。

介護の場は我が家になっても、一刻も早く申請をしなくてはならない。

住所を移転すれば一番の問題は居住している市営住宅は明け渡さなくてはならない。

そのよう手続きや転居そのものをしている場合ではない。

身体状況の衰えは日増しに進むと想定されよう。

住民票がある現住所でとにかく申請。

認可が下りたらそれから転居で良いと判断した。

尤も介護を受ける自治体の違いは支援サービスもあるが、費用負担の差がでる。

つまりは高齢者比率が高い自治体は本人負担が高額になるわけだ。

これを比較検討する余地はない。

余地はないどころか比較のしようがない。

とにかくケアマネが決まってケアプランの作成がその次になる。

それからケアのサービスが決まる。

それはあくまでも認定されてとしての話しだ。

ただ、認定の有効期間は原則が半年間。

更新の場合は一年間であるが、その間に今後の在り方を考えればいい。

そう思って、帰宅直後に内科医院の畠中さんに電話をしたら誰も出ない。

そう、もうお盆の季節である。

何時までかわからないがお盆休みに入っていた。

ならば、整形外科と思って、須見さんにも電話をするが、休診日の留守電。

翌日の11日も電話をしたが、やはりの留守電。

休み明けは何時になるのかわからないが、16日辺りにどちらかに電話をしてお願いをしてみよう。

そんなあれこれあった今夜も我が家で暮らすおふくろ。

食欲があるのが嬉しい。

大きな問題はなかって気持ちも落ち着いた。

6日の日曜以来入浴できていなかったお風呂。

かーさんが一緒に入って介添えしながら入浴した。

気持ち良かったと云ってくれたのが嬉しい。

そうそう、忘れていた。

必要書類に同封で送付しなくてはならない介護保険被保険者証である。

住之江の自宅にあるはずだが、万が一見つからない場合は「介護保険被保険者証紛失届出書」を送付しなければならない。

申請書には押印不要であるが、紛失届は印鑑が要ることを覚えておこう。

(H29. 8.10 SCAN)
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住之江区手打ちうどんの店さぬき茶屋のカレーうどん

2018年10月09日 06時57分21秒 | 食事が主な周辺をお散歩
入店したのは何十年ぶりになるだろうか。

大阪市の住之江に在住していた時代だから30云年前に入って食べたことがある。

場所も店構えも記憶にあるが、味はまったく覚えていない。

ただ、なんとなく美味しかったことだけが残像にある。

3時間もかけて検査・診察を終えた時間は午後をとっくに過ぎて2時半。

昼食はどこにするかいと尋ねたおふくろの答えは蕎麦。

蕎麦と云えば区役所前にあるうどんと蕎麦の店である。

駐車場も停めた記憶があるが、どこに停めたらいいのやら。

お店の奥さんに尋ねたら[B]という。

30云年前はお店の名前があったような記憶はあるが、すっかり様相はかわっていた。

足が不自由なおふくろのためにできるだけ移動する距離を短くする。

駐車場に車を入れたらそれだけ距離が伸びる。

それは避けたいと思って歩道に乗り上げたところで降りてもらう。

もちろんかーさんと私の介添えである。



入店して席に座ったらほっとする。

さあて、何を頼もうか。

おふくろは蕎麦。それにかやく飯を一杯。

それで税込780円。

かやく飯一杯が300円であるから、蕎麦は480円になるのかな。

かーさんは税込700円の天ぷらうどん。

大きなエビ天がのっかって配膳された。

私といえば最近は家でよく食べるようになったカレーうどん。

カレーは買い置きのレトルトカレー。

麺はコシの強い冷凍麺。

たまに乾麺うどんも食べるが、これが実に美味い。

専門店に来れば、一度は頼みたかったカレーうどん。

迷わず頼んださぬき茶屋のカレーうどんは税込630円だ。

見た目も美味しそうなカレーうどんが配膳された。



黒が勝っている、そう思ったカレーうどんの麺が柔らかい。

柔らかいうどんは浪速うどん。

店主に聞かなかったが、そうだと思う。

しかしまーなんですわ。

ぶっちぎれ、細切れのうどん麺にはまいった。

チュルチュル感はまったく望めず。

カレーうどんだけにカレースープに絡ませているのか麺がねじねじの捩れに絡んだまま。

箸で揚げようにもちょっと上げただけでぶっちん切れるからちょびっとした口に入らない。

カレースープは辛口。

どちらかといえば最近流行りの大辛に近いかも。

出汁が利いているから旨い。

旨いのであるが、ちょびっとしか味わえない。

きつねうどんとか湯麺はずるずると揚がってくるが、カレーの場合はスープ自身に重みがある。

だから重みに負けてぶっちん切れる。

どない、頑張ってもぶっちん切れ。

私の脳みそもぶっちん切れであるが、カレー味が口に合うのでヒフテイヒフテイ。

創業40年のさぬき茶屋さん。

どうか、店主さんにお願いしたい。

カレーうどんの麺だけはコシの強いさぬき麺にしてください。

お願いしますから。

食べ終わったのは午後3時。

今夜の晩ご飯は午後9時にした。

(H29. 8.10 SB932SH撮影)
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診察結果による病名を敢えて云うなら超高齢者老人的身体筋肉衰退病

2018年10月08日 09時48分28秒 | むびょうそくさい(おかん編)
8日に診察を受けたが特段の変化は見られない。

7日に診察してもらった友愛会病院の若い医師が云うには安静にしておけば負荷のかかっている部分が治るかも・・と云っていた。

つまりは安静にしてください、というわけだ。

その指示通りに我が家で安静状態していた。

安静と云っても寝込むのではなくソファに座っているか、座敷に敷いた座布団の違いはあるが、そこに座ってテレビを見ている状態。

ときにはウトウトしているときもあれば、ソファで横になっていることもある。

トイレに行くには廊下の壁に手を当てて伝い歩き。

特に変化もない。

つまりは回復の兆しがまったくない、ということだ。

それがだ。

奥の部屋でパソコン作業をしていた部屋に突然やってきたおふくろ。

傷みはまったくなくて、普通に歩けるようになってん、という。

膝もこれだけ上がるし、一本足で立つこともできると見せてくれる。

それを横でみていたかーさんは涙ぐむ。

安静の効果が出たと思ったが、実は湿布を貼ったというのだ。

そうか、それは良かったと思っていたがそれから1時間半後の午後6時半。

痛くなかった背中が痛だるいという。

その後も痛だるい箇所は時間が経つにつれて移動するんやという。

結局は元の木阿弥。

膝は上がらなくなった。

ついさっきの喜んだ顔は消えてしまった。

アレは一体何だったのか。

もしかとして2カ月前に倒れた後遺症。

市営住宅のゴミ捨て場はコンクリート。

角では打っていないが、頭を打った。

そのときは何でもなかったが、むち打ち症のように何か月も経ってから発症することもある。

もし、そうであれば脳に何かの障害があるのかもしれない。

そう思って翌日の10日は再来院の友愛会病院に行くことにした。

今日も同じように第二阪奈道路から阪神高速道路を走る。

ところがだ。第二阪奈道路の長いトンネルを抜けて阪神高速道路に入った直後の電光表示板の道路状況である。

ICでいえば水走辺りだ。

天保山から荒本区間が渋滞である。

その距離、たしか13km。

これはえらいことである。

渋滞に巻き込まれた時間は午前10時過ぎ。

9時半に家を出て途中でガソリン補給して第二阪奈道路を走ってきた。

阪神高速道路は神戸行きがとにかく多い。

平日なんてものは環状線まで抜け切るには30分以上もかかる。

たいがいは荒本手前で混みだすが、本日はもっと手前の水走より少し向こう辺りで渋滞に巻き込まれた。

荒本手前のところで近畿自動車道も考えてみたが、ここも渋滞状況。

距離は16kmにもおよぶ。

友愛会病院の受付時間に間に合うか、である。

助手席に居るかーさんに頼んで病院に電話をする。

その結果は午前11時半までに受付してください、である。

それを過ぎれば脳神経外科の診察は打ち切り。

整形外科は午後の診察になるという。

これはえらいこっちゃ。

その上、私の身体はもよおし状態。

緊迫の状態が始まった。

家で出るときにはトイレもしていたが、どうやら本日の利尿剤が利きだした。

田北病院で処方してもらった前立腺肥大症の薬。

6日より前立腺の緊張を緩めて尿を出しやすくするタムスロシン塩酸塩OD錠を服用している。

服用しだしてから尿道の痛みはすっかり消えて排尿もジョンジョロリンである。

その効果もあっての排尿は量が増えたような気がする。

短時間でもよおすようにもなった。

心臓病にとっても良い状況であるが排尿が頻繁であれば、困る場合がある。

トイレがすぐ近くにあるか、である。

高速道路の渋滞に巻き込まれりゃどうしようもない。

出口、若しくはSAまで我慢するしかない。

実は我慢も前立腺には支障を与えてしまうのだ。

困った大渋滞に無理やり車を停めて小便をしたい。

そう思うが、できるわけがない。

こういうときに備えてし尿便器を整えておかんとならんな、と思った。

荒本は料金所。

入口もあるから数車線に広がる。

一旦は広がったものの再び2車線になる。

つまりは渋滞の原因は神戸行きが多いというのもあるが料金所の問題もある。

もう一つの長田ICはこういう場合は閉鎖する。

ところが荒本は閉鎖しない。

車両を少なくして流路を確保する。

で、なければ車線を拡げるしかないのである慢性渋滞路線に泣く。

ところで荒本料金所を通過する際に表示された電光掲示板。

環状線までは25分とある。

これがほんまなら病院に着くのは午前11時15分。

間に合う可能性がある。

料金所を出ればスムーズではないがこれまでのトロトロ進みではなく、ツルツル進行具合。

流れが停まっていないのである。

これなら予想25分は間違いないだろう。

そう思って渋滞を乗り切った環状線に入った時間は午前10時55分。

環状線はラクラクスムーズ。

特に堺に向かう路線は車数が少なくスイスイである。

余裕時間もあって下りた住之江IC。

もう待てない排尿にコンビニ利用で助かった。

そこから数分で着く友愛会病院。

一方通行の道だけにぐるりと周回して玄関前の信号・横断歩道に入らざるを得ない。

と、いうのもおふくろは歩けない。

歩けないから病院の車いすを借用するしかない。

その車いすと愛車の横に並べるには信号手前では段差があって無理がある。

仕方なく玄関前の信号・横断歩道に停車しておふくろを降ろす。

受付はかーさんが付く。

私は2日前にも利用した院の立体駐車場に停める。

戻ってきたら受付にいない。

で、あれば奥の脳神経外科の受付だ。

そこに居た二人。

トイレにやっと行ける。

二日前の緊急時はいきなりの点滴があった。

後で医師に確認したら栄養剤でなく水分だというから元気が出るちゅうものでもない。

この日は点滴されることもなく待合室で待つ。

そのうち看護師さんがやってきて今から頭や脳の状態を探るレントゲンCTを撮りますと云われて放射線検査室へ。

受診表を受付に提出したらすぐに呼び出し。

その結果は・・・。

脳外科医師の診断は何も異常を示すものはない、という。

血管系、脳系、どれをとっても異常がない。

いったい何が足の動きを悪さしているのか。

この日の検査結果に次は整形外科医師の判断に持ちこまれた。

前回の検査の部位では肋骨辺りだけなので臀部、大腿骨辺りも検査することになった。

再び移動する放射線検査室。

その度に車いすえ移動する。

検査ベッドには車いすから降りてベッドに登る。

登るというよりもベッドに腰かけてから足を揚げて横たわる。

時間はかかるがなんとか横たわることができた。

それからは結果待ち。

名前を呼ばれて診察室に入る。

さっきに撮ったレントゲン画像を診られた。

剥離骨折もなく骨折ひびも見られない。

骨そのものは、年齢の割には丈夫のようであるが、隙間があり、そこにある神経が動くたびに何かに接触して痛みがあるのだろう。

それは高齢であればあるほど緩衝域がすり減って神経が微妙に当たることが多い。

91歳の今まで何もなかったこと自体が不思議である。

つまりは年齢相応の年寄り病。

筋肉の衰えに尽きる。

正式な病名はないが、云ってみれば老人病。

ただ、いろんな患者さんを診てきた医師がいうには91歳にしてははっきりとした口調で伝えられ、聞く耳も正常。

本日の日付け、曜日まで答えられる。

記憶力もある。

脳も血管系もまったく異常がない。

肋骨などの骨も骨粗しょう症にもなっていないが、現状維持は難しい。

老人にとっては年齢が増す度に衰える。

それなりの自覚・認識をもって暮らしていただきたい、というようなことを伝えられたが、本人もそうだが私ら家族はどうしたらいいのか。

私は4年間に亘って接骨鍼灸院に通う80歳以上の超高齢者をドア・ツードアで送迎していたドライバーをしていた。

患者さんが具体的にどのような診療をしていたかわからないがなんとなく筋肉マッサージだと思う。

終った帰りはすっきりして身体も気持ちもラクになったといって帰っていった。

それから数日後の通い。

元の木阿弥状態である。

患者さんは現状維持するのが精いっぱいで昔のような身体に戻らないのが辛いですけど、こうすることしかできなくて、と云っていたことを思い出す。

最高年齢者が99歳だった患者さんは杖も持たずにさっさと送迎車に乗っていた。

医師は云った。

百歳の人で同じような患者さんがいたが、それは稀で、大多数は衰えていくのが現実。

つまりは筋肉マッサージなんてものは金がかかるだけ無駄な行為。

気持ちだけなら行く必要性もないという。

私も実はそう思っていた。

ところで、今後は我が家に連れてくる屋内生活。

外を歩くのは無理だとしても我が家の室内なら安心であるが、今後のことを考えれば、介護専門にお願いすることになるのだが、そのときは医師にどうしてもらったらいいのか尋ねてみれば、最寄りの役所に相談してケアマネを決めるなりしてくださいと云う。

そうか。病的なことは他院への紹介状は書いてくれるが、介護は別問題だった。

(H29. 8.10 SB932SH撮影)
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