マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

ミストシャワーのあるならまち界隈のカフエ

2018年09月21日 09時47分36秒 | 奈良市へ
午後は暑い。

所要で訪れたならまち界隈。

どこからか冷たい風が吹いて顔にあたる。

近寄ってみればミストシャワーだった。

長時間おればずぶ濡れになる可能性があるからすぐに離れようとしたが、これは民俗と思って奥に・・。



そこにあった観光用途化した井戸の手動式ポンプ。

鉄棒レバーを上げ下げして使用するらしいが、「飲まないで」と書いてある。

かつてこの場にあった民家が使っていた井戸も観光素材になった一例であろう。

ミストも井戸も「水」。

「水」をテーマに三枚組の写真。

もう一品が欲しいところであるが、この日は見つからなかった。

(H29. 8. 3 SB932SH撮影)
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古市町・北の地蔵さんの宵縁日

2018年09月09日 18時57分00秒 | 奈良市へ
奈良市の今市、山町を抜けて車を走らせる。

目的地はさらに東へ行った奈良市古市町である。

目的地は未だ探したことのない北の地蔵さん。

この地で地蔵盆をしているとわかったのは町内掲示板に案内する掲示物があったからだ。

物は試しと思って探索のつもりで北の地蔵さんを探してみたい。

そう、思ってやってきた。

古市町集落の南の端に念佛寺がある。

以前、同寺で地蔵盆をしているらしいと他村の人から聞いたことがある。

手がかりでもあれば、と思って立ち寄った前年の平成28年7月18日。

お寺の掲示板に貼ってあった2枚の行事案内に飛びついた。

一つは今年、求めて探した北の地蔵さんの地蔵盆。

もう一枚は念佛寺の「くつはき地蔵尊」の地蔵祭りである。



平成28年9月5日の取材で知った明日香村・飛鳥の弥勒さんの祭り場の小屋内部にある「くつぬぎ石」に対するわけではないが「くつはき地蔵尊」の二つが揃えば靴を履いて、脱ぐ状態が成立する。

両者とも草鞋を奉納しているのも、同じ足に関する願掛けであるが、この日の祭りではなかったようだ。

あれば、写経に紙絵馬。

くつはぎ地蔵の恩謝回向に祈祷や戦没者法要、法話、写経奉納・祈願などがある。

後日にわかったことだが、この年は7月20日に行われたようだ。

「くつはき地蔵尊」の地蔵祭は外したが、地蔵講の営みはどこでしているのだろうか。

念佛寺は南の端。

集落を抜ける旧街道を北上する。

一部は一方通行になっている旧街道へ行くには遠回りせざるを得ない。

北の端から入ってしばらく行けば、貼ってあった掲示物に目がいった。



前年に見た掲示物と同じであるが、色塗りが増えていた。

だが、地蔵盆の時間帯は書いていない。

結局は集落の尤も北部にあった北の地蔵さん。

地蔵堂は平成8年7月23日に落成したと記している。

寄進した講中は地蔵講。

昔も今も変わらず9軒の講中が寄進したと堂内に板書はあるが、どなたも現れない。

訪れた時間帯は午後5時20分。

付近には一般的な長机もあるしパイプ椅子もある。

しばらく待っていたが、どなたも来られない。

真新しい赤と白の涎掛けに替えたと思われる地蔵石仏の前にはお供えがどっさりある。



なかでも気になったのは白い団子。

個数は何個であろうか。

その横にある御膳は朱塗りの膳に朱塗りの椀だ。



中央の椀はぶどうにトマト。

白飯は見た目でわかるが、他は蓋が半開き。

手前右の椀は赤いニンジンがあるから野菜などの煮しめであろう。

その左横の椀はキュウリに麺が見える。

汁けがあるからニュウメンであろう。

左奥の椀にも麺が見える。

小さなカマボコにワカメを盛った汁椀であろう。

これまで各地の膳を拝見したことがあるが、はじめて見る様式だけに供えられた人に伺ってみたいが、おそらく返ってくる言葉はそのときの気分でそうしています、と云われそうだ。

何時来られるやもしれない講中を待っていても仕方がない。

この調子であれば、始まる時間は午後7時と判断して、近くのスーパーに出かけて我が家の買物を済ませていた。

戻ってきた時間帯は午後6時50分。

長机に座って歓談されていた十数人の人たちが居る。

雰囲気的には始まりの体制ではなく、終わってゆったりの落ち着いた状態である。

パック詰め料理を肴に缶ビール中であった。

自己紹介に取材の申し出をすれば、ついさきほどの午後6時半は法螺貝を吹いて心経を唱えていたという。

北の地蔵講の参拝は終えたばかりで、これより参拝に来られる村の人たちを待っているという。

その間に撮らせてもらった北の地蔵さんのお供えはさきほど拝見したときよりも増えていた。

参拝者が来られたのは午後7時。

講中の孫さんたちを連れ添ってやってきた。

子どもたちは揃って浴衣姿にパジャマ姿。

幼子がこれほど多いとは、想定していなかっただけに感動ものである。

他村と比較すれば少ない方になるが、以前に取材した千軒講の営みのセンゲンサン参りもほぼ同数ぐらい。

講中のお爺ちゃん方が孫を連れてくる。

古川町の講の特徴のような気がした。

手を合わせることはなかったが、小っちゃな幼子も地蔵さんにお参りする。



後ろの母親たちに見守られて始まったお地蔵さんの参拝。

鉦に吊るした名前入りの鈴緒が風に揺れる。



戯れる幼子の動きが可愛らしくシャッターを押させてもらった。

この日が特別なのかわからないが先導は幼子の参拝であった。

それがはじまりの合図かもしれない北の地蔵講の佇まいはこの時間帯が、実質の始まり時間。

次から次へと訪れる村の参拝者は順番待ちの参拝。

それぞれは地蔵堂に祀っている地蔵さんに手を合わせていた。

それほど多くなると認識していたのは、予め供えていた御供の数である。

お供えをしている人は必ずや子供たちを連れてくると想定していた。



参拝を終えた子どもたちに手渡すお菓子。

幼子にとっては一番の幸せではないだろうか。

ゲームに熱中する子は独りもいない。

風情に佇まい情景は想定以上である。



私の粗相で講中の参拝タイミングを逃したが、ここへ寄せてもらってよかったと思っている。

数分も経たないうちに夕闇が迫ってくる。

子どもの参拝が終われば一段落する。

賑やかさもどこかに行ってしまったかのような・・・静けさも佇まい。



少し間をあけて、一人、二人と参拝される人はたいがいが婦人だった。

その間の講中は会食に歓談で和気あいあい。

講中の仲の良さがよくわかる。

子どもたちの参拝を終えてからの30分後。

時間帯は午後7時半になっていた。



小規模な夕焼けであるが、マジックアワーに心が躍る。

スマホでも撮れますよ、と、声をかけた女性は喜んでくれた。

昔は当番の家で会食をしていたという。

自前の食事にお寿司とか弁当も持ってきていたが、手間のかかる当番家の負担をなくして場所を地蔵尊の前に移した。

心地いい場で歓談は、御供した人が御供下げに来るまで会食しているという。



御供は講中以外の村の人も持ち寄るそうだ。

御供下げの時間は午後9時くらい。

たばりに来る人の時間も考慮して、設営の後片付けは翌朝になると話していた。



ちなみに9月1日は春日山に登って「こうぜんさん」参りをするという。

「こうぜんさん」は「鳴雷神社」のことらしい。

山歩きにヤマビルが出没するから足まわりは万全の体制にしておく必要がある。

また、参る先は春日山の禁足地。

普段はだれも侵入できない地を普段着で参る。

午前10時に集合する人たちの中には地蔵講の人たちも居るが、古川町の水利組合員が総勢になるのでバスに乗って出かける参拝。

春日山に行く道は有料通行の「奈良奥山ドライブウエイ」の利用。

その日の参拝に取材をお願いしたら了解してくださったが、バスには乗ることはできない。

なぜなら参拝後の組合員は一席を設けるので、バスの後ろに付いていく条件である。

(H28. 7.18 SB932SH撮影)
(H29. 7.23 SB932SH撮影)
(H29. 7.23 EOS40D撮影)
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帯解周辺の地蔵盆巡り

2018年09月08日 07時46分29秒 | 奈良市へ
この日はとにかくあちこちで地蔵盆がある。

どこへ行くかは選択肢が多すぎて迷いに迷う。

なんせ、在住地の大和郡山市内では7月にも8月にも地蔵盆がある。

7月は22地区で、8月は39地区にもおよぶ。

尤も大和郡山市内の地蔵尊は119地区にあるが・・・。

比率は大和郡山市内とは異なるが、7月、8月分かれの地蔵盆は天理市も奈良市もあるし、下市もそのような状況であることは認識している。

地域で行われる年中行事の中では最も多い行事が地蔵盆ではないだろうか。

それだけにどこを取材するか、実に悩まされる選択である。

大和郡山市内だけでも未だ40地区しか取材ができていない。

そこを振り切って出かけた目的地は奈良市の帯解地域。

かつて奈良市今市町帯解寺の子安地蔵会式や、そこより街道を南に下った奈良市柴屋町龍象寺の地蔵会式を拝見したことがある。

街道には夜店もたくさん並んで賑わいの地蔵盆に人々がごった返す。

その街道を東西に走る旧街道(五ケ谷街道)がある。

朱塗りの鳥居を挟んだ街道向こうに地蔵さんが目に入った。

鳥居がある神社は今市の春日神社。

今夕の子安地蔵会式の出発地である、その真ん前にあった地蔵さんを祀る祠の天井に提灯がぎっしり。

なんぼほど、あるんや、と声が出てしまうほどに多い吊り提灯に圧倒される。

奥には塔婆が数本ある地蔵尊は福徳延命地蔵尊。

野菜などのお供えがあった、その場に丸めたゴザがあった。

行事は終わったのか、それとも未だなのか。

尋ねてみる時間的余裕はないが、なんとなく念仏講の営みを想像してみた。

今市には「コネンブツ講」と呼ばれている講中がいる。

これまで公民館で行われる7月地蔵盆の数珠繰りやチバミ墓地内で行われる春彼岸の数珠繰りを取材したことがあるが、ここ福徳延命地蔵尊でもしているとは聞いていない。

別の講があるのか、それとも地区婦人会がされているのか、一度訪ねてみたい。

東西に抜ける街道を走る。

奈良市今市の一番西の集落外れに地蔵尊がある。

そこは通る度によく参拝者を目撃する。

高齢の婦人であるが、お顔は見る度に違うように思えてならない。

思わず車を停めて話しを聞いてみたいと思っては思うが、一瞬にして思いは消える。

そこから東へ、東へと行けば前回に紹介した福徳延命地蔵尊に巡りあえる。

そこよりもう少し行けば、JR桜井線を跨ぐ鉄橋越え。

最寄りの駅は右手にある帯解駅。無人駅である。

さらに東へ行けば古来は上ツ道と呼ばれていた南北に貫く旧街道(初瀬街道の名もある上街道)にでる。

さらに東に向けて走る。

それほど遠くない距離。

左手に地蔵尊がある。

そこもお供えをしているが、先を急ぐ。

もう一つは山町の八坂神社裏にある地蔵さんである。



お供えは採れたてと思われる野菜盛り。

白色のゴーヤに長茄子。

ピーマンに赤パプリカに、これまた赤いトマト。

仏花も飾って奉っていた。

それを拝見していたときのことだ。

南側にある道から一輪車を動かす男性の顔が見えた。

畑で収穫した帰り道に遭遇した男性は実に久しぶり。

長年において関わっている自然観察会でたいへんお世話になっていたY先生だった。

しばらくぶりに地蔵さんの前で立ち話。

お顔も喋りもお元気になられてはいるものの、見た目では気がつかない息苦しさを話してくださるのが辛い。

病いの状態は違うが、わが身もそうだけに辛さは共有できる。

愛鳥会も退いて、今は朝、夕の畑に孫の送迎だけの暮らしにしているそうだが、来年2月の馬見丘陵の観察会は一緒に行動できそうだといわれる。

「無理しやんといてください」と伝えて別れた。

(H29. 7.23 SB932SH撮影)
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ならまち界隈・民家の魔除けの紫陽花

2018年08月02日 08時36分12秒 | 奈良市へ
6月20日は第7回目の「私がとらえた大和の民俗」写真展の打合せ。

この日で7回目の開催になる会場は奈良県立民俗博物館。

近々に取材する魔除けの紫陽花を学芸員に伝えていた。

見るのも聞くのも初めてである紫陽花の民俗。

つい先だって、あじさい祈願をしていると知った久米寺に訪問

あらかたはわかったが、原点は個人のお家でしているということだった。

その魔除けの紫陽花民俗を取材させていただくお家は山添村の人。

そんな話を学芸員に話したら、実は奈良県立民俗博物館に問い合わせがあったという。

問い合わせした人が拝見した民博ブログにそのことを記載していたというのである。

何日か前にあった県民と思われる人の問合せに、学芸員たちは紫陽花の話題で沸騰したそうだ。

当時にアップした記事の映像。

紫陽花の花を半紙に包んで水引をかけていたという。

その記事があったとはつゆ知らず。

しかも、当時勤めていられたSさんが書いていたというのだ。

今は、もうその記事は削除され、失効しているという。

どんな様子であったのか、詳しく聞いてみたくなった。

Sさんは何年か学芸課に所属していた方。

なにかといろいろ話すことがあった。

気の利くSさんならお話を聞きたい。

そう思って本人に繋いでほしい旨を伝えた。

後日、私宛にメールが送られてきた。

文面はお断りであった。

あじさい祈願をお家でされている母親であった。

ちょっと、という母親。

それもそのはずあじさい祈願をしている場はトイレ。

そこを撮るのはちょっと、ということである。

なら、あじさい祈願をするに至った経緯でも、と伝えたが、それも無理なことであるようだ。

それが、直前になって一転した。

ありがたいことに許可してくださったのだ。

Sさんの声を久しぶりに聴いてほっと安堵した。

お家に伺うのは初めて。



母親にお会いするのも初めて。

気遣いを持参して伺ったならまち界隈の民家である。

車も指定される場所に停めさせてもらった。

Sさんが民博ブログで伝えたあじさい祈願は体験談であった。

あるときに、である。親戚のおばあさんから母親に頼んだこと。

我が家に生えている紫陽花の花を摘んで持ってきて、と云われた。

おばあさんの家に紫陽花を届けに行ったら、紫陽花を逆さに吊るしていた。吊るす場所はトイレである。

おばあさんがしていた逆さ紫陽花吊りは魔除けであった。

それを知ってからはS家でもするようになった、ということだ。

山添村の民家でも同じようなことをしているが、そこはまじないと思われる呪文を書いていた。

ところがS家にはそれが伝わってなく、紫陽花を逆さに吊ることだけが一緒だった。

S家では6月の「6」の付く日に摘んだ紫陽花を半紙に包んで水引で括る。

それをトイレに逆さ吊りする。

紫陽花の花粉は落下するが、花は枯れたまま付いている。

そうして一年間をトイレに祭っていた紫陽花は、翌年に降ろして、また新しく吊っているという。

今年は26日にしようと思っているというから、山添村の民家と同じ日になった。

その日のSさんは仕事の日。

休むわけにもいかないから、直接母親にお会いして撮らせてもらう習俗取材である。



早速はじめてくださった魔除けの紫陽花。

まずは、S家を一年間も守っていた古い紫陽花を下ろして捨てる。

紫陽花を包んでいた半紙は綺麗なままであるが、中身の紫陽花はカラカラに乾いた色落ちの枯れ花である。



次は、摘んできた紫陽花を半紙に包む。

花束を作るような感じで、丸めながら包む。



そして、落ちないように茎の部分に水引をかける。

きっちり括った形は花束そのものである。

それを持ってトイレに吊るす。



逆さに吊るした紫陽花が落ちないように水引で締める。

拝みのない習俗は括り付けて終わった。

元々は斑鳩に住むおばあさんが、ご近所かどこかで聞いてきた習俗。

シモの世話にならないようにと毎年していたと云う。

母親の母親も同じように、みなに世話かけんように、と願って紫陽花を逆さに吊るす。

下世話をかけたくない家族の願いでしているまじないであった。

(H29. 6.26 EOS40D撮影)
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佐紀町・隆光墓の隆光大僧正顕彰会

2018年07月09日 09時20分17秒 | 奈良市へ
この日は近畿地方全域にわたって梅雨入りしたと気象庁が発表した。

この日が隆光僧正の命日にあたる日。

隆光僧正の遺徳を偲ぶ寺院僧侶たちが参拝すると聞いていた。

参拝される場は墓域。

昭和53年11月、遺徳を偲んだ有縁者らの手によって墓域を整備し顕彰碑を建之したようだ。

命日の法要であるが、お寺さんの都合もあって日にち、曜日は変動するから、出かけても外れることがある。

しかも、この日は梅雨入りの日。

雨天の日に命日供養をされるのか。

その確認もあって出かけた奈良市佐紀町。

場は旧佐紀幼稚園の南裏になる。

通りに立て看板があった。

ペンキ色は薄くなり錆も見られる立て看板は有志の人たちが立てたと思われる『隆光大僧正の墓石』に「この奥に隆光大僧正(慶安二年:1649~享保九年:1724)の墓石があります。隆光は慶安二年にこの付近で生まれました。長谷寺で学んだ後、江戸へ出て、関東新義真言宗本山の護持院を創設しました。大和の社寺修復につくし、特に東大寺大仏殿の再建にあたり、東大寺の公慶上人を助け、将軍綱吉とその母桂昌院に援助を勧めた人として知られています。後年はこの地にあった超昇寺に引退し、享保九年(1724)に没しました」が書かれていた。

2年前の平成27年6月7日にも訪れていた隆光墓である。

その日は日曜日だった。

供養されたと判断できる塔婆があった。

その塔婆に願文があった。

「平成27年6月4日 護持院大僧正隆光榮春大和尚貮百九拾壹年忌菩提也 顕彰会」である。

供養日から三日も過ぎていた。

この場で供養をしていると教えてくださった歓喜寺住職を尋ねて立ち寄った。

三日前だったのですねと伝えた住職の回答は「本来なら命日の七日にするのだが、法要に参列される僧侶らの都合で今年は早めた」と云っていた。

その都合は曜日の関係にある。

つまり、命日の7日が土曜、日曜の場合はしない、ということだった。

その年の7日は日曜日。

それで早めた金曜日であったわけだ。

今年の7日は水曜日。

間違いなく、聞いていた時間には来られるだろうと思ってやってきた

車が往来する通りに何人かが忙しく動き回っていた。

一人は僧侶でもう一人は事務の人だろうか。

本日の参拝に来られた顕彰会の人であろうと思ってお声をかける。

もちろん、この法要を教えてくださった佐紀二条町の歓喜寺住職のお名前も告げて承諾してくださった取材である。

歓喜寺住職が顕彰会を話してくださったのは平成26年7月23日に行われた二条町にある辻の地蔵尊の法要のときだった。

教えてもらってから3年経ってようやく拝見できる雨の日の顕彰会である。



会式に集まった僧侶は12人。

歓喜寺住職の他に長谷寺、元興寺、般若寺、福智院に、遠くは大阪泉南にある真言宗派のお寺さんも。

長谷寺からは僧侶以外に寺院職員関係者も来られて、一同揃って行われる顕彰会式である。

顕彰する墓石は「カラバカ」と聞いている。

その場に今年の塔婆を掲げてローソクに火を灯す。



墓石周辺にある石塔・石仏など、すべてに花を立てて唱える般若心経。

土砂降りの雨に心経は耳に届かない。

俄に張ったアウトドア用のテント内におられる僧侶に、入りきらずに傘をさしながら唱える僧侶も。

風はそれほど吹かなかったからいいようなものの濡れた身体では寒さを感じる。

いつもなら30分以上もかけて唱えるが、この日は昨夜から降った雨がやまない日。

簡易的に設営したテントでびしょ濡れは避けられたが、肩にどうしてもかかる土砂降り。

衣服も徐々に浸みこんで色が替わる。

参列者の中に隆光僧正が生誕した地に住む二条町の人たちがいる。

中でも本家を継ぐ川辺家に隣村の佐紀東に住む川辺家の分家になる3人の女性たちも参られる。

詳しいことは省くが、僧正隆光の初名は河辺隆長である。

ここ佐紀の川辺家出身。

名主二男の河辺隆長が出家されて、万治元年(1658)に仏門入。

その後、長谷寺に唐招堤寺で修学された。

心経を唱える間に焼香する僧侶。



顕彰会のみなさん方に隆光僧正に直接関係するお家の方々が終えてから一般焼香に移る。

一般焼香はこの日に取材していた私ともう一人であった。

塔婆の願文は「平成29年6月7日 護持院大僧正隆光榮春大和尚貮百九拾参年忌追善菩提也 功徳者 顕彰会」であった。



亡くなられてから293年目の顕彰供養。

7年後には記念の300年目を迎えることになるだろう。



供養を終えて一般の私にも配られた粗供養に「隆光僧正 顕彰会」の記しがあった。

なお、お布施は一切断っていると会の人たちが申しておられたことを付記しておく。

雨に濡れながらも顕彰会をされたそれからの毎日。

パラパラの小雨はあっても降ったような感じでもない日が続く。

曇りマークの日もあるが晴れ間ばかりの毎日。

20日ころまで続いていた。

(H29. 6. 7 EOS40D撮影)
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窪之庄・幌を外した苗代田に立てるお札

2018年06月25日 09時21分29秒 | 奈良市へ
今年の5月4日も気になって立ち寄ったが、苗代田はあるもののごーさん札もイロバナもなかった奈良市窪之庄町の田んぼ。

たまたまの機会に田主から不要になったお札を貰ったことがある。

お札は三つの朱印を押した「牛王 八阪神社 宝印」である。

版木刷りではなく墨書である。

そのお札はイチジクの枝木に挿す。

その名は「ゴボウサン」だった。

昨年の11月8日、天理市楢町の興願寺で十夜の法会があった。

そこに来られていた4人の檀家は窪之庄の人だった。

神社行事が廃れてしまって何もかもなくなったと話していた。

苗代に立てるお札もないような言い方だった。

その件は数年前に訪れた田主から聞いていた。

神社に行ってもトーヤが納める御幣も昔のまんまに放置していた。

もうすることはないだろう、と諦めていた。

もしかとすればと思ってその日に取材する目的地コースを外して苗代田に向けてハンドルを切った。

4日は白い幌がかかっていた。

それから20日間は育苗。

気温が上がれば風通しする。

その状態を撮っておこうと車を停めたら、あった。



それで思い出した田主のお札立て時期。

初めて見つけた平成22年は5月16日だった。

その2年後の平成24年は6月5日であるが、田植えの真っ最中だった。

そのときに聞いた田主は苗代田をしてもついつい忘れてしまって、後日になってしまうと話していた。

その翌年の平成25年にお会いした時も苗代にお札は・・と聞けば、忘れていたであった。

その後もお会いしたが神社行事を続けていくことが難しくなってきたと云っていた。

心配はしていたが、平成28年に訪れた5月21日はあった。

今回も発見したのは5月半ばも過ぎたほぼ月末。

田植え前に気がついて立てているのだろう。

その田んぼ。

6月4日に通りがかったら水溜していた。

そろそろ始まる予感がする。

(H29. 5.26 EOS40D撮影)
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七条西町に揚がる“風”のコイノボリ

2018年03月15日 09時07分08秒 | 奈良市へ
リハビリ兼用の散歩道にコイノボリが揚がった。

揚がったのはこの日ではなく4月2日の日曜日だった。

それからの毎日に揚げるわけでもない。

雨の日、曇りの日、強風の日は避けて揚げない。

どこともそうであるコイノボリ。

この日はさやさやと風が流れていた。

気持ちよさそうに青空を泳ぐコイノボリ。

同家に子供さんの名前は□風に風〇。

二人とも「風」があるお名前だった。

(H29. 4.14 SB932SH撮影)
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人力車でならまち巡り

2018年02月10日 09時48分03秒 | 奈良市へ
これほどの賑わいになるとは思ってもみなかった「ならまち」。

行政区域にその名はない。

「ならまち」の中心部はどこであるのか・・・。

元興寺極楽坊を中心としてもあまりにも広範囲。

近鉄電車がお勧めしているならまち巡りのコースは近鉄奈良駅がスタート地点。

東向き商店街から南に歩いてもちいどのセンター街を突き抜ける。

信号を東折れして元興寺極楽坊を目指す。

そこから奈良町資料館、庚申堂、十輪院、今西家書院としていた。

奈良市観光協会がお勧めする大まかな観光コースは四つ。

文化財、満喫、昔話、高畑コースである。えらい増えたもんだが、私が初めて「ならまち」を訪れたのは随分前のこと。

一眼レフカメラなんてものは持ち合わせていない。

手でフイルムを送るパノラマも撮れるOLYMPUS TRIP PANORAMA 2のコンパクトカメラ一台をもって闊歩していた。

たまたま入手したならまちを巡るスタンプラリーシートに載っていた有形文化財、施設などを見て廻った。

走っていたのは人力ではなくマウンテンバイクに跨ってである。

そのころはマウンテンバイクに目覚めて遠出を計画していたころ。

足慣らしにあちこちを走っていた。

入手したシートは「スタンプラリーならまちウォーキング’98」ラリー。

’98の表記があるから1998年の平成10年。

その年は9月8日から9日の二日間もかけて淡路島を一周していた。

話は戻すが、ならまちを訪れていた平成10年は観光客どころか町の人も見当たらないほど簡素な状況であった。

それを長閑だとはいえない町屋の佇まいがあった。

スタンプラリーで訪れた施設は行った順に奈良町物語館、奈良町資料館、時の資料館、寧屋工房、御霊神社、ならまち格子の家、元興寺小塔院跡などなど。

24カ所の施設を巡ってスタンプを台紙に押してもらったらプレゼントが貰える。

スタンプは全カ所でなく13カ所。

それが目当てだったスタンプラリー

主催は財団法人世界建築博覧会協会・ならまち振興財団であった。

このスタンプラリーがいつまでしていたのかは覚えていないが、翌年の平成11年に再訪したときはわりあい、というか、そこそこの人たちが訪れていた。

この日に訪れた19年後のならまち界隈に人力車夫(平成5年設立・観光人力車やまと屋奈良)が観光案内をしていた。



ここまで賑わうとは想像だにしていなかった。

「ならまち」の町づくりの始まりから現在に至る変遷は『新奈良町にぎわい構想(修正案)』に詳しい。 

ちなみに撮影地は奈良町資料館の真ん前である。

先月の2月28日から開催されていた川島朱実さんの写真展は好評のうちこの日がラストデイ

何度見てもほれぼれする写真に感動していた。

私も何度か展示をしたことはあるが、展示する写真は定型版である。

大多数は大判であるが、私は4pwオンリー。

展示するサイズはすべて同じである。

それが一般的な写真展の在り方。

尤もクラブなど団体展は若干の差異はある。

それが、だ。

川島さんの作品は定型でない。

大きな枠の中にいろんなサイズの写真で表現している。

形式に拘らない写真作品は一枚、一枚、どれをとっても見飽きない。

無駄のない写真もさることながら無駄のないような配列は縦横自由往来。

余ったわけではないが、数枚の写真は床に2枚。

細めの壁板に一枚。

これらの写真もモノを言う。

まいった、である。

(H29. 3.20 SB932SH撮影)
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ならまち散策

2018年01月01日 13時11分22秒 | 奈良市へ
2月28日から始まる写真家Kさんが表現する「つくるもの 祈りのかたち」写真展。

指定された前日の時間帯内に搬入・設営する。

前回の展示は私の作品展。

設営は慣れたものだと思っていたが、想定亥以上・・・。

私の作品は展示物品の大きさが一定していたが、Kさんの作品は実に多様な大きさ。

とらえた映像に合わせてフレームを大胆にも切りとっていく。

すごい人だな、と思った次第だ。

1時間もあれば設営できると思っていたが、倍ほどかかった。

設営が終わった時間帯はとうにお昼を過ぎていた。

食事処を求めて散策するならまち界隈。

奈良町資料館から離れてどこへ行く。

足の行くまま気の向くまま流離うならまち。

意外と思うような食事処が見つからない。

どこをどう歩いたのかわからない。

先に見つかったのは建物が新しい「真言律宗 元興寺玉華院(2016/1竣工)。



玄関だと思われる場に掲げてあった「面」に目が向く。

これは何だろうか。

木彫りの面はどことなく納曽利とか蘭陵王など舞楽に登場するような面に似ているような感じがするのだが・・。

ならまち界隈にはお風呂屋さんがとにかく多い。

昔からそう思っている。

井戸が多いのはわかっているが、何故にお風呂屋さんが廃れずに今尚現役でおられるのか・・・。

それはともかくもうここしかないな、と入店した食事処は和彩Restの「紅絲(こうし)」。

場所は西寺林町にある。

外に掲げていたメニューは数種類。

一つは丸揚げ湯葉刺し、手造りおからに湯葉胡瓜の酢の物、厚揚げ明太子挟み焼き、地鶏のささ身サラダ、じゃこ飯、味噌汁に豆乳ぷりんがセットの丸揚げセットが1800円。

二つ目に豆腐三種盛り、湯葉刺し、厚揚げ明太子挟み焼き、手造りおから、じゃこ飯、味噌汁に豆乳ぷりんがセットのあっさりセットが1580円。

三つ目が一人用湯豆腐、湯葉刺し、河内揚げの素焼、地鶏のささ身サラダ、手造りおから、じゃこ飯、味噌汁に豆乳ぷりんがセットのSpecialヘルシーセットが1800円。

四つ目にサラダ付き地鶏のカリカリ焼き、一人用湯豆腐、河内揚げの素焼、湯葉刺し、手造りおから、じゃこ飯、味噌汁に豆乳ぷりんがセットのSpecialセットが2380円。

他にも1480円の自家製豆腐コロッケ定食や1630円の自家製豆腐ハンバーグ&豆腐コロッケ定食、1980円の特大サイズ地鶏のカリカリ焼き定食などがある。

これら定食には湯葉刺し、手造りおから、こだわり冷奴、ご飯、味噌汁に豆乳ぷりんが付いている。

車で来てなかったら湯葉刺し、河内揚げの素焼、手造りおからの3品が付いた1000円の地酒セットやこだわり豆腐、河内揚げの素焼、手造りおからの3品が付いた1000円の生ビールセットにしたかったが、相方のご希望により2380円のSpecialセットに決まった。



1時間半ほど、ゆっくりと寛がせてもらったお店に「おいしゅうございました」と声をかけて店を出たが、反応はなかった。

過ごした時間帯は午後3時ころから。



他にお客さんもなく、お暇だったようでこっくりと船漕ぎをしていたようだったが、後々にネットで拝見した「紅絲(こうし)」のランチタイムは午前11時~午後3時。

デイナータイムが午後3時~午後10時半までだった。そうだったんだ、と今ごろになって気がついた。

(H29. 2.27 SB932SH撮影)
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写真展に向かう道すがらに拝見する角振新屋町の隼神社

2017年12月09日 08時41分50秒 | 奈良市へ
プリントはとても綺麗。

そこそこ上手い秀作が並ぶ素晴らしい作品群。

手慣れた造りの作品作り。

これまでいろんな写真展会場で、或いはSNSなどで、何度も見たことがある定番映像に感動するものはない。

度肝を抜くような、これはどうやって撮ったの?か、この映像はどこで撮ったのとか、というようなドキドキ・ワクワク感を味わえる作品を見てみたい。

なにより違和感をもったのは、あるイベントの公式写真についてであった。

停めた駐車場に戻る帰り道も隼(はやぶさ)神社の前を通る。

鎮座地は奈良市角振新屋町(つのふりしんやちょう)。

神社右に建つ地蔵堂に延命地蔵を安置する。

ネットによれば毎月の24日は地蔵さんの縁日。

近くかどうか知らないが、阿弥陀寺住職の法要をしているらしい。

地蔵像は立像ではなく、珍しい片脚を踏みさげて座る半跏像。

ところで隼神社で思い起こすのが薩摩隼人。

現在の薩摩隼人ではなく、古事記に登場する海幸彦を祖人とする九州の大隅・薩摩地域に居住していた隼人族である。

大和朝廷に制圧されて、後に朝廷に服属した隼人族。

宮廷守護や歌舞教習の任に就いて、大嘗祭などの節会に隼人舞を演じたとある。

未だに拝見していない隼人舞。

ぐるぐると渦を巻くような盾の紋様に特徴があったように思うのだが・・。

ところで、大和の宮廷を守護し、隼人舞をしていたと伝わるが、奈良県内では舞うことはない。

2010年、警固の職に就いた隼人族が居住したとされる京都府京田辺市大住・大住隼人舞保存会(昭和46年結成)が舞った場は平城京跡。

1250年ぶりに、古都奈良の都で披露された。

ちなみに大住は“おおすみ“。

かつての居住地であった九州の大隅(おおすみ)と同音。

地名は旧地を充てる漢字を替えていたことがわかる。

それはともかく、今まで何度も通っているのに、これは何っ、と思って撮っておいた。

ネットによれば境内に植わっている木は柿の木であるらしい。

その木に注連縄を架けていた。

長さは割り合いあると思われる注連縄を樹木の幹回りにぐるぐる巻いているのであれば、晦日若しくは正月に地域の人たちが架けているのだろう。

注連縄にエフ札のようなものがあるのが、気になるが・・。

と、思ったが違っていた。

きちんとした紙垂れのシデであった。

その奥に建つのは弁財天社である。

毎朔日が月次旬祭であるようだ。

なお、大祭は年に4回。2月1日の祈年祭。

例祭は7月7日に8月1日もある。

〆が11月21日の新嘗祭であることから、新年を迎えた1月1日の歳旦祭に注連縄を架けているように思える。

(H29. 2. 7 SB932SH撮影)
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