マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

岡・祭り終えの産の宮探訪

2018年08月27日 08時59分10秒 | 楽しみにしておこうっと
飛鳥民俗調査会が調査され、昭和62年3月に発刊された報告書『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』がある。

明日香村を多方面に亘って調査した年中行事に目が釘付けになった行事があった。

「岡に産の宮と呼ぶ安産の神を祀る祠がある。岡本神社ともいい、祭神は高皇産霊神・素戔嗚神・神功皇后であるという。7月14日に祭典が行われ、明日香村内だけでなく近郷からも妊婦がお参りにくる。元は、花井家三軒と上田家5軒とで祭祀していたが、数年前からは大字で祀るようになった。昼ごろから清掃を行い、孟宗竹の鳥居を立てる(※現在は常設)。妊婦は竹の鳥居に腹帯を吊るし、安産を祈る。夕方に神職による祭典が行われ、おさがりのゴクマキをする。このゴクをいただいても安産に御利益があるという。元は、当屋の主人が、当日の朝、吉野川でミソギをして、鮎を買って帰り供えたという」。

紹介されていた行事は今もされているのだろうか。

されているとすればその在り方を見ておきたい。

そう、思って大字岡を目指すのであるが、神職が夕刻とあるから、その時間帯までに到着して場所探し、とでも思っていたが、結論からいうとお昼過ぎの時間帯にしていたということだった。

大字岡をカーナビゲーションにセットして車を走らせる。

中心部は岡本寺付近の駐車場辺りで「到着しました」のアナウンス。

さて、どうするか、であるが、外を歩いている様子はない。

ないと思えたが散歩されていた女性に「産の宮」さんがある場所を尋ねてみた。

女性がいうには本日の午後1時に祭典があって飛鳥坐神社の飛鳥宮司が祭祀を務めていたという。

「今日来られたのは安産祈願ですか」と云われたが、いやそうではなく民俗行事の探訪ですとお伝えした。

「産の宮」さんは八阪神社であるという。

それならこの日は祇園さん。

夏祭りと称する神社もあるが、7月14日は京都祇園社の祇園さんが名高い。

奈良県内においても八阪神社、八坂神社に牛頭天王を祀る素盞嗚系の神社ではこの日は祇園さんと称する夏祭りが多くみられる。

「産の宮」さんの祭典の行事名は聞かずじまいだったが、祇園さんの夏祭りと考えていいと思った。

女性が教えてくださった「産の宮」がある地。

ここよりに行くには細い道を行かねばならない。

左折れに道を曲がって、すぐでてくる三叉路を左折れ。

急な坂道を下って右に曲がる。

その道は岡寺に向かう参道道。

そこからは細い道。

両サイドにお寺が見えたらすぐ近く。

さらに細い道を左に行けばあると教えてくださった通りに下る。

右側に「花井」の表札が見えた。

その家の下にたまたまおられた老婦人にも宮さんの場所を尋ねる。

そこはここの細い道を行った先にある。

距離は遠くない目と鼻の先。

ふと見上げた電信柱に表示があった矢印の先にある。

車は一時停車もできないくらいの参道道。

老婦人が云った。

下ってきた道の上流に駐車場があるから、そこへ仮停めしていいと云われて駐車させてもらう。

とはいっても民家の駐車場。

場所がわかったので写真を撮るだけと思って一時的仮駐車。

参道を下ったら老婦人が待っていてくれた。



ありがたいことで、案内してあげると云われて後につく。

たしかにあった高台の上に鎮座していた「産の宮」。

社殿はさらに高い高台にある。



社殿下にあったのが孟宗竹で作った鳥居である。

記事の通り、常設のようであるが、付近には切断した数本の青竹が置いてあった。

伐りとった竹片もあることから、近日に建てた竹製の鳥居であろう。

社務所らしき小屋が建っている。

改築した年号は・・・。

これらだけを撮って参道に戻ったら呼び止められた。

「産の宮」さんへ行く道を教えてくださった女性だった。

場所がわかるかどうか、気になって車を出したそうだ。

女性がいうには停めていた駐車場の車が出られなくなっているという。

こりゃえらい迷惑をかけてしまった。

ぎりぎりいっぱいまで寄せていた女性に頭を下げて、即急に対応する。

狭い参道の切り返しが難しかったがなんとか脱出。

もう一度頭を下げて申し上げございませんと声をあげたら笑顔で返してくれた。

短時間にお会いした大字岡の女性の対応に感謝するばかりだ。

だいたいの様相がわかってきた「産の宮」さんの行事であるが、7月14日と安産祈願の関係性が見えない。

八阪神社名は明治時代になってからの名である。

日本全国どこでもそうだ。京都の八坂神社も元の社名は祇園社。

県内事例の多くを見てきたが、まず間違いなく牛頭天王社、若しくは素盞嗚神社。

素盞嗚神社を充てる漢字は違うところも多くあるが、いずれも江戸時代は牛頭天王社。

灯籠などのその痕跡が残っている。

大字岡の「産の宮」さんにそうした痕跡があるのかどうかわからないが、「産の宮」の名は何かのおりに訛ったものではないだろうか。

つまりは〇〇のさんの宮さん。

しかし、〇〇は何であろうか、さっぱりわからない。

ではなく、先にあげた記事中に祭神は三神の高皇産霊神、素戔嗚神、神功皇后とある。

とすれば三神を祀る宮さん。

そう解したら「三神の宮さん」から、神を略して「三の宮さん」さんに産前か産後に参った女性に御利益があったと伝聞さされる。

伝聞はお産の神さんとなって崇められ、いつしか変化した「産の宮」さんではないだろうか。

いささか、勝手な推測であるが・・・。

さて、「サンノミヤサン」で思い出した行事がある。

同じ明日香村の大字平田である。

平成25年11月5日に取材した庚申講の「サンノンサン」行事

地元の話しによれば、お祭りをされる猿石の一つ。

「山王権現」を崇敬する地元民は親しみを込めて「サンノンサン」と呼んでいた。

(H29. 7.14 EOS40D撮影)
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箸中・車谷垣内の民俗行事に興味湧く

2018年03月06日 09時09分56秒 | 楽しみにしておこうっと
平成28年7月24日に訪れて地蔵盆の在り方を見ていた桜井市の箸中。

下垣内、中垣内(さらに分かれた南垣内/川垣内)、車谷垣内の三垣内それぞれで行われていることがわかった。

なかでも気になっていたのが車谷垣内。

地蔵尊の祠もあれば右隣に青面金剛の刻印がある石塔もある。

青面金剛は庚申さん。

今年は旧暦閏年であるからもしかとすれば旧暦の年だけに塔婆を揚げる行事があるかも・・と思って出かけた。

場所はすぐにわかる。

ここら辺りは山の辺の道を歩くハイカーコースの一部。

この日も何組かの人たちが歩いていた。

地蔵尊の横、前には採れたての柑橘類を売っていたが、村の人の姿はない。

隣近所の数軒。呼び鈴を押してみても反応がない。

あったのは向かい側に建つお家。

婦人に話を聞けば地蔵尊まで連れてくれて話し出す。

車谷垣内は40戸。

組であろうか、街道筋の下と上からなる垣内のようだ。

奥さんが云うには毎日の夕刻に廻り当番がやってくる。

当番を示す道具にローソク、センコウ、マッチに賽銭収納箱。

夕刻ともなればそれを持って地蔵尊や庚申さんに大神宮の石塔に燈明をあげる。

それが当番の在り方であるが、婦人はいつも番が廻ってくるたびに線香鉢を掃除している。

立てた線香の残りが鉢に溜まる。

溜まれば線香を立てるのが難しくなる。

そうであればと判断されて毎回清掃しているという。

かたやある婦人は家で栽培している花を飾る。

地蔵尊に赤い涎掛けがある。

その涎掛けを洗う人もいるという。

心優しい人たちで守られている地蔵さんは年に一度の祭りごとをしている。

7月24日は竹を組んで提灯を吊る。

その年の7月までに赤ちゃんが誕生すれば名前を書いて寄進する提灯がずらり。

向かい側に建つ車谷公民館にも吊るす。

夕方ともなれば家で作った料理を詰めた重箱を持ち寄って地蔵さんに供える。

昔は若いお嫁さんが作っておばあちゃんが参拝していたそうだが、今は作った人が参って供えているそうだ。

供えた家の手料理は公民館で揃ってよばれているという。

地蔵盆の様相を話してくれた婦人が続けて話してくれた村の行事。

8月15日の午後である。

時間帯は夜でもなく、夕刻でもない昼間である。夏の暑い盛りの15日。

日傘が必須の炎天下で数珠繰りをしていると云う。

時間ともなれば下のほうからカン、カン、カンと鉦の音が聞こえてくる。

聞こえてきたら垣内の上に出かける。

鉦打ちとともに下から運んできた長い数珠もやってくる。

上にある一軒の家の前で数珠を広げる。

そこでなんまいだ、なんまいだを繰り返して数珠を繰る。

大きな房がくれば頭を下げる。

数珠繰りの回数は2回。

それを済ませば次の家に移動してそこでも数珠繰りを2回。

一軒、一軒下って数珠繰りを家の前でする。

家の前は大字笠に向かう街道。

車の往来もままある。

背中を走っていくから注意しながら数珠繰りをしているという。

傘もささずに繰っていたら日に焼ける。

そうであるくらいの時間帯はやはり日傘がいる。

すっとくだって40軒。

集落全戸を巡って法要する数珠繰りはおそらく施餓鬼のようだと婦人は云う。

こんな在り方は初めて知った。

県内事例にあるのかどうかまったくわからない。

珍しい在り方にとても興味をもった車谷の行事は道造りや川掘りもある。

道造りは9月末辺りの日曜日。

川堀は5月初めの日曜日。

作業が終われば公民館でイロゴハンのよばれがある。

そういう車谷垣内の行事であるが、庚申さんや大神宮の行事はしていないようだ。

ただ、地蔵盆の日には「青面金剛」の文字がある提灯は吊るしていたこを付記しておく。

(H29. 4. 9 SB932SH撮影)
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須山町・旧暦十二月十二日朝の水護符

2018年02月15日 08時59分40秒 | 楽しみにしておこうっと
奈良市須山町で行われている子供の涅槃講について廻っていた。

村の戸数は13軒。

お菓子を貰いに一軒、一軒を訪ねる子どもたちが立ち止った玄関に、である。

ここにもあったと思わず指をさした「旧暦十二月十二日朝の水」と書いた護符である。

用意していたお菓子を子どもに渡していたご婦人に尋ねる護符。

これまで拝見したことがある護符は、逆さに貼っていた「十二月十二日」の文字であった。

五右衛門所縁のある護符とされているような証言がある護符であるが、信憑性は薄らいでいる。

京都検定問題にまで登場する護符である。

釜茹で処刑され、亡くなった日が12月12日であると解説される。

ところが、公家日記の『言経卿記(きつねきょうき)』によれば、文禄三年8月24日(西暦1594年10月8日の記述として、“盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり”の記載があることから、亡くなった日に不一致が認められる。

で、あれば泥棒除けのまじない護符はそれで良し、としても、「十二月十二日」の日は一体何であるのか、である。

流行りの護符はいつから始まったのか、そしてどこから始まったのか、であるが、推測の域を出ないが、明治時代以前の旧暦のように思えて仕方がない。

私が推定するのはトシハジメの日。

尤も12日ではなく、13日である。

12月13日は新しい年が始まる基点というのでしょうか。

トシハジメの日になる。と、いうことは、前日をトシオワリの日と呼んでもいいだろう。

一年の切り替わりに厄を祓う。

そんな日に護符を貼って、新しき一年を御守りくださいという願掛けのように思えるのである。

逆さに貼る「十二月十二日」泥棒除け護符の県内事例を調査したことがある。

ある、といっても分布までとはいかない、ごくごく一部の地域の一例である。

一つは平成23年12月12日に取材した桜井市脇本の元一老家である。

同家でこの習俗をしていると知ったのは前年の平成22年の10月15日だった。

元一老から知人の家でもしていると聞いて訪問した同市脇本のK家

ルーツを辿りたかったが、過去記録・記憶が途絶えて断念した。

翌年、たまたま話題になった歯医者さん。

実家にあるとよ、と云われて取材させてもらったこともある大和郡山市満願寺町の民家である。

また、ラジオで放送されていた情報に興味をもって始められた天理市荒蒔の事例もあるが、須山で拝見した護符は、異種のようである。

前置きはそれくらいにして肝心かなめの「旧暦十二月十二日朝の水」である。

玄関柱に貼ってあった護符より前に目についたのは節分のヒイラギイワシだった。

それを撮っていたら、この日に同行取材していた写真家Kの、ここに、と指摘されたのである。

カメラのファインダーはヒイラギイワシをどの方向からとらえたらいいのやらと、向き、角度の焦点は、ヒイラギイワシだった。

まさか、その下にあるとは思っては見なかった、

指摘の気づきにぐっと引いて撮ってから、話しを伺った。婦人の話しによれば、「朝一番に水を汲んで、墨を擦った。夜に書いた」という。

書いて貼る目的は「火事にならんように」である。

なるほど、である。

朝一番の水は井戸水。

柄杓で掬ったかどうかは聞いていないが、目覚めのとき(※実際は起床して落ち着いた時間帯の午前10時ころらしい)の朝一番の水である。

まるで元日の朝に汲む「若水」のように思えた朝の水は防火のためのまじないであった。

婦人の実家は近隣村の奈良市南田原町。

母親が実家で毎年にしていたお札貼り。

当地へ嫁いで来てからも母の教えをずっと継承しているという。

須山町は旧添上郡田原村にある一村。

明治13年に制定された当時の旧田原村行政地区は、須山村をはじめとして茗荷村、此瀬村、杣ノ川村、長谷村、日笠村、中ノ庄村、誓多林村、横田村、大野村、矢田原村、和田村、南田原村、沓掛村、中貫村からなる村。

現在は奈良市が行政区域の東山間部に位置する。

南田原町と云えば、平成23年4月19日に取材した十九夜講や、南福寺薬師堂で行われている八日薬師のイセキの行事を思い出す。

平成22年9月5日に2年後の平成24年の取材である。

婦人の実家はどこにあるのか、わからないが機会があれば訪ねてみたくなる護符であるが、先に拝見したい習俗は須山の同家である。

一応は取材許可をいただいたが、気になっていた「旧暦」である。

実施される日は新暦の12月12日なのか、それとも毎年日付けが動く旧暦の12月12日であるのか、だ。

厳密に確かめたくて、再訪したのはこの年の12月2日。

十日早い2日に立ち寄って、あらためて取材の許可願いをした。

承諾してくださった同家の習俗は旧暦の12月12日であった。

旧暦の12月12日と云えば、まだまだ先の年明けになる。

直前になれば家の事情と重なり、できない場合もあるから電話して、と云われたが・・・。

それはともかく再確認させてもらった同家の習俗。



護符を貼る所は、玄関の他に風呂場、茶小屋、農小屋など火を使う建屋の桟に貼るという。

火事にならないように願掛けの護符を桟に貼る。

貼った護符は剥がさずに、前年の他過去に貼ったお札の上に貼る。

水は井戸水ではないようだ。

過去はそうであったかもしれないが、蛇口を捻って注いだコップ1杯の水を硯に落とす。

その水で墨を摺って「旧暦十二月十二日朝の水」を墨書する。

何年か前、母親がまだ生前のころである。

例年、母親が書いたに7枚のお札をもらってきて貼っていたそうだ。

亡くなられた以降に継承するようになったと話していた。

婦人のお札を拝見して、類事例をネットで探してみた。

「朝の水」を書く事例は見つからなかったが、「水」例がヒットした。

東京都品川区にある㈱アイデアポインの社員さんが記した社のブログにあった「十二月十二日 水」の順当貼りのお札である。

ライターは社員さん。

その社員さんの体験ではなく、いろいろと調べて纏めてくださった記事のようだ。

ライターが云うには、このお札の目的は1.泥棒除け、2.火難除け、3.水難除けになるそうだ。

特に注目すべき点は地域分布である。

記事によれば、逆さ文字の「十二月十二日」護符は、京都・大阪・奈良・和歌山辺りにある泥棒除けであるが、防火のまじないになる「十二月十二日 水」の場合は大阪から和歌山の県境に見られるそうだ。

ときには遠く離れた北海道根室にもあるらしいが、その根拠は紀和山間部の多くの開拓民が移民先に持ち込んだという推論。

ただ、根室は漁港。水難、火難除けである。

年寄りが願いを込めて書いて貼っているようだ。

実に興味深く拝見したブログ記事。

出典を書いてあれば、なお嬉し、であるが・・。

探してみればそのまま転載されていた記事が二つあった。

一つはブログ

二つ目はベストアンサーであった。

(H29. 3.26 EOS40D撮影)
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遅瀬の年中行事

2018年01月29日 09時22分45秒 | 楽しみにしておこうっと
遅瀬の初祈祷である。

地蔵寺の床の間に遺してあったハゼの木に挟んだ2本のごーさん札を拝見していた。

ハゼの木をもって米寿を祝う。

早朝から作業を始める古い版木でごーさん刷り。

朱印を一枚、一枚押して作られる。

遅瀬は65戸の集落。

かつては版木刷りも多かったが、JAから稲苗を購入するようになった関係で苗代作りをすることはなくなった。

そういう関係があって、ごーさん札を立てる苗代もない、時代になってからとんと見なくなった。

刷る枚数は極端に減った。

かつては、各家が四方の木肌を削った家の男の人数分だけハゼ木に“ソミンノシソンナリ”の文字を書いて祈祷してもらっていた。

床たたきのダンジョーや額押しもしていたが・・今はしていないという。

初祈祷行事は版木刷りを終えてから住職による法会がある。

枚数は少なくしたが、それでも余るという祈祷したハゼの木のごーさんは、苗代がなくとも、無理やり渡して貰って帰ってもらうそうだ。

遅瀬の初祈祷を初めて知ったのは平成22年10月10日の村当家祭行事の取材に来たときだ。

表小屋のガラス窓に挿していたごーさん札であった。



ところで遅瀬の寺行事は季節ごとに行われている。

3月は初午の厄除け大般若祈祷会。

同月21日は彼岸会。

7月20日前後は収蔵する経典の虫干し。

8月はどの地域でもある施餓鬼行事の盆供養もある。

10月の16日に近い日には氏神さんの行事もある。

また、山添村など付近の山間地区にもあるフクマル行事がある。

氏子総代らが云うには、数軒でしているらしい。

家から出てきた家長は藁に火を点けてとんど焚きにする。

その際に唱える詞が“フクマル コッコイ”とか、“フクマル コイコイ”、或いは“フクマル コッコー”など、フクマル呼びをする。

大工棟梁家がしている時間帯は除夜の鐘撞のころのようだ。

さまざまな行事のことを教えてくださる総代ら。

「遅瀬」の村名は二つからきているという。

一つは郡山藩の「おそせ」。

もう一つは藤堂藩の「うそせ」。

「おそせ」は「遅瀬」であるが、「うそせ」を充てる漢字は動物のカワウソの「(川)獺」の漢字だと話していた。

(H22.10.10 EOS40D撮影)
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大岩・涅槃会の日に拝見する村の文化財

2018年01月26日 09時31分59秒 | 楽しみにしておこうっと
フェースブック(以下FBと表記する)で知り合った大淀町大岩のK区長は、3月に大日堂で旧安養寺涅槃図を掲げて涅槃会をすると伝えていた。

K区長がリクエストしてくださったFBで繋がったのは平成29年の1月19日のころ。

かつては御所市戸毛にも立山があったと伝えてくれた。

50年前ではあるが、貴重な体験をされていた。

体験した年代は10歳のころの子供時代。

そこでサイダーを飲んでいたという。

区長が住む大字大岩は戸毛より一山超えた南側にある地である。

大字戸毛に立山があったと知った私は隣村の高取町丹生谷に住むNさんに尋ねた。

戸毛、丹生谷、大岩はまさに近隣の村。

一山を境にある地区である。

Nさんはあったという情報を基に地域在住の何人かに聞き取り調査をされた。

その結果わかったことは、確かにあったということだった。

Nさんから送られてきたメール文は「場所は戸毛の街道沿い。時期は8月23日と24日の地蔵盆の時。規模は街道沿いの町家や倉庫等数カ所で、夜店も出て花火もあがって賑やかでした。主催は、昔は商工会が主催し、その後戸毛の各隣組が、それぞれが一つの山を出したようです。動きがあるような山もあり、作り手が戸毛でいなくなった時に、上市の作り手から購入した事もあったという情報も得ました。いつまでやっていたのかは定かでないです。昭和40年頃まであったかな。今では元の戸毛小学校跡で同時期にイベントが行なわれています」。

続けて送ってきたメール文に「それは凄い人盛りでした。私が住む地区は高取町丹生谷ですが葛駅を挟んで西側が御所市戸毛、子供のころの買物の場、遊びの場でした。7月の23日、24日は隣の高取町谷田の地蔵さんで花火が上がり、8月には戸毛の地蔵さんで沢山の夜店が出て花火もあがり・・・。懐かしいです」とある。

さらに続くメール文は「場所は葛駅前でなく、飛鳥時代の紀路→高野街道→中街道(奈良~五條)→現県道高取-五條線の街道筋で行なわれました。当時は奈良交通のバスが御所~下市まで運行されており、この街道を走っていました。現在では国道309号戸毛バイパスが出来、車もそちらへシフトしましたが、御所市のコミュニティバスはこの旧街道を走っています」。

「カーバイト燈で照らされた夜店では、たこやきなどの食べ物やサイダーなどの飲物、金魚すくい、型抜き、あてもの、お面等が売られ、その日だけに和菓子屋が販売する「しんこ」(赤福のようなあんころ餅)が何よりの楽しみでした。今でもこの“しんこ”は存在します」だった。

Nさんの思い出話は尽きない。

貴重な体験話しにある「上市の作り手から購入した事もあった」という下りである。

実は上市町に今でも立山を実施していることがわかった。

平成28年7月30日にその実態を聞取りしていた中に“六軒町の立山”は橿原市の八木町に引き取られていたということだ。

上市の立山は廃れて、今では六軒町でしか見られないが、かつては街道沿いに連なる隣町でもしていたというこから、いずれかの町が戸毛に譲られたのであろう。

お二人の記憶が上市の立山に繋がったのであった。

さて、大岩の涅槃会である。

間に合うかどうかは、明日香村大字上(かむら)で行われていた「ハッコウサン」次第だった。

大岩の涅槃会は午後2時から行われると聞いていた。

上(かむら)の「ハッコウサン」の行事が始まる時間は午後1時。

短時間で終わりそうな気配だったが、直会も含めれば1時間以上も要する。

上(かむら)の村人たちに失礼してそこそこ早めに退席する。

明日香村から大淀町へ行くには一山越える。

距離はざっとみて片道12km。

距離はそれほどでもないが、カーブ道にアップダウン道。

しかも初めて訪問する大字大岩。

涅槃会をすると云っていた大日堂の場所すらわからない。

あっちでもない、こっちでもないと車を走らせたら町経営のパークゴルフ場を貫く峠道まで行ってしまった。

Uターンして下ったところに行事帰りの男性に尋ねた大日堂の場はわかった。

場所だけでもと思っていたが、お堂に待っていた人がいた。

丁度終わったばかりで扉を締めようとしたときに、村の人から訪問者が来たという連絡が入ったから待っていたといったのは区長さんだった。

時間は午後3時を過ぎていた。

ありがたいことに仕舞ったばかりの涅槃図を広げてくださった。

屋根瓦の風化に板材の腐食による雨漏りが激しかったことから、平成24年度に改修工事を実施された大日堂。



その工事のおかげもあって屋根裏から延宝八年(1680)の銘を刻んだ鬼瓦が発見されたそうだ。

安置されている仏像に木造大日如来坐像がある。

元禄十年(1697)に他所から移されたと伝わるが、来歴は定かでない。

平安時代後期の作と考えられている大日如来に伝わる話しがある。

「夏の日照りが続いたとき、大日さんが雨を降らせてくれると、お堂の前で雨乞い行事が行われていた」という伝承である。

大淀町に貴重な民俗行事を伝える大日如来。

吉野地域でも優れた仏像としての価値が認められて平成2年に大淀町の有形文化財に指定されたと町のHPに書いてある。

涅槃会行事には間に合わなかったが、89歳のおばあさん(区長の母親)が唄っていた雨乞いの詞章があると史料を見せてくれた。



書き遺した詞章史料は「たんもれたんもれ 大日たん 雨下され大日たん ナスビもキュウリも 皆やけた 雨下され大日たん たんもれたんもれ 大日たん たんもれたんもれ 大日たん 雨下され大日たん ナスビもキュウリも 皆やけた 雨下され大日たん たんもれたんもれ 大日たん」とある。

今にも母親が唄う声が聞こえてきそうな詞章である。

県内事例に「雨たんもれ・・・」と唄っていた事例は数多くあるが、全文が遺っている事例は多くない。

しかも自筆。

後世に遺しておきたいという思いが伝わる貴重な史料である。

大岩の雨乞い行事に、現存する打ち鉦も遺されていた。



外縁含む全幅直径は32cm。

縁部分を除けば28cm。

内径は25cmで高さは9cmの打ち鉦に刻印があった。

「和刕吉野郡大岩村安楽寺 住僧楽誉極念代 寶永三丙戌歳十月十五日 施主念佛講中」である。

寶永三丙戌歳は西暦1706年。

製作した年より雨乞い道具として叩いていたと推定してもざっと数えて310年間。

打つ鉦の音に合わせて「雨たんもれ」と唄っていた。



打ち継がれてきた鉦の音色はどことなく優しい。

大日堂は明治時代に廃寺になった。

現存する扁額に「安楽寺」とあったことから、寺の小堂であったようだ。

その「安楽寺」の刻印がある打ち鉦は大岩の歴史を物語ってくれる。

打ち鉦を寄進したのは当時の念仏講中であったことがわかる。

これまで私が拝見した雨乞いに打っていたとされる鉦の事例は2枚ある。

桜井市萱森・集福寺薬師堂の六斎念仏講が所有する雨乞い鉦と奈良市法蓮町の阿弥陀講が所有する農休みのアマヨロコビに叩いていた鉦である。

いずれも年代を示す刻印はないが、作者は西村左近宗春であった。

戦後間もないころまでしていた大岩の雨乞い。

今から70年も前のことである。

標高240mにある尾根道に井戸のように湧く泥水を掬って、「タンゴオケ(肥桶)」に入れて運んで尾根を下りた。そして、「雨たんもれ」と云いながら大日堂の屋根に泥水を放り投げていた。

行列を組んで尾根の井戸に向かうときに唄ったのが「雨たんもれ」である。

長らく井戸の所在がわからなかったが、現在77歳の男性が兄とともに行ったことのある記憶を頼りに探してみたら見つかった。

僅かに残っていた頭の中の記憶を頼りに探し当てた。

その地はまさに尾根であるようだ。

日照りであっても水が湧く不思議な地の池。

名前のない池であるが、そこは“大日さんの井戸”の呼称がある池。

高取町丹生谷の微妙な地域内になるそうだが、隣村の御所市葛と大淀町大岩3村の境界地点。

尾根そのものになる場に池がある。

そこには大日如来がおたびらをしていたという。

おたびらとは大和方言で“胡坐“を意味する。

おたびらしていた大日如来は大岩の大日堂に連れてきて納まったと伝わる

“大日さんの井戸”から運んできた泥水は大日堂の屋根に放り投げた。

その屋根を洗い流そうとしたら、雨が降ってきたという。

泥水が汚れておれば、なお一層の効果があったという。

雨乞いの詞章に打ち鉦。

そして、“大日さんの井戸”。

三つ揃った大岩の雨乞いは文化財。

90歳の男性体験者が生きている間に再現、復活したいと区長が話してくれたのが印象的だった。

この日の涅槃行事取材は翌年に持ち越しとなったが、雨乞い行事の復活に力添えができれば、と思った。



また、3月の涅槃会以外に大日堂行事は2月の「大日さん」と呼ぶ行事もあるそうだ。

大日堂は元真言宗派。

区としては宗派替えもあって現在は浄土真宗。

大岩区は東垣内と西垣内の二つ。

同じ浄土真宗であっても寺は異なる。

東垣内は大願寺。

西は西照寺になるそうだ。

また、月に一度は「おっぱん」を供えているらしい。

「おっぱん」は「仏飯(ぶっぱん)」である。

その「おっぱん」を盛る杯がある。

杯を納めている箱は当番が持ち回りする。

この日行われた涅槃会にも「おっぱん」をしていたという。

長々と話してくださった区長が云う。

家に来てもらったら、貴重な鰐口をみせてあげようと、いうことで上がらせてもらう。

箱に納めていた鰐口に刻印がみられる。



「城山国 相楽郡 賀茂 東明寺 永享ニノ十 六月十七日」と読めた鰐口は西暦1430年に製作されたものだった。

今から588年前に製作されたと考えられる城山国相楽郡賀茂(現京都府加茂町兎並寺山)東明寺の鰐口が何故に区長家にある経緯はわかっていない。

加茂町と大岩の繋がりすらわからない、という。

調べてみれば、加茂町に日蓮宗寺院の燈明寺がある。

寺伝の元禄九年記の「東明寺縁起」によれば奈良時代の行基が開基したと伝わるそうだ。

東明寺”は法人登記があるものの現在は廃寺同然にある燈明寺であったようだ。

“東明寺”は建武年間(1334-1336)の兵乱で廃絶したのち、康正年間(1455-1456)に天台宗の僧忍禅が復興したそうだ。

鰐口の製作年が永享ニ年(1430)とあることから、復興する前から寺の存在はあったとしても、持ち主を失っていたのではないだろうか。

製作はしたものの行き場を失った鰐口が、どういう経緯で大岩に行きついたかは不明であるが、これもまた歴史を物語る逸物である。

また、区長が伝えてきたFBメールがある。

「奈良県薬業史によると、文久三年(1863)に大淀町大岩に合薬業を営んでいた人がいたそうです。私の家には“重訂 古今方彙(安永九年(1780)版本”が残っています。なぜに我が家に残っているのか、大岩の薬業の歴史をこれから調べていこうと思っています)とあった。

数々の歴史文化がある大岩に魅力をもったのは云うまでもない。

(H29. 3.12 EOS40D撮影)


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興隆寺町の年中行事

2018年01月07日 08時34分55秒 | 楽しみにしておこうっと
撮った時間帯は午前9時過ぎ。

帯解経由に旧五ケ谷村に向かう旧道を行く。

奈良市の高樋町を抜けて興隆寺町、そして米谷町に向かう道すがらに撮っておいた興隆寺町八坂神社の境内である。

この日の午後は祈年祭神事を終えて食べる佐平御供を下げて食べるシロモチ喰いがある。

シロモチを焼いて食べる場は本社殿下の境内である。

火の気のない場は午後ともなれば焚き木を燃やす。

トンド場に設えている金棒は鉄網を乗せる台脚である。

枯れた杉の葉は火点けに用いる。

予め準備していたのであろう。

午後に取材した祈年祭のシロモチ喰いの際に話してくださった興隆寺町の年中行事である。

一つは3月の第一日曜日の午前中に行われる「シバシ」である。

二つ目は、その日の午後に行われる「賀祝(がしゅ)厄祝い」である。

三つ目は秋のマツリで、四つ目に小正月のトンド焼きがある。

今年は3月5日が「シバシ」の日であるが、昔は3月1日であった。

山行きにシバ(柴)を伐ってくる。

朝8時ころに出発。村の山林に入ってシバ刈り。

伐った材木は割り木にする。神社行事の直会の場のトンド火に使う割り木は焚き木にする。

一年に一度、纏めて割り木作りをする日が「シバシ」の日であるが、なぜに「シバシ」の名であるのか・・。

「シバシ」の日の午後に行われる「賀祝(がしゅ)厄祝い」とは、村の厄年の人、男女関係なく厄年の人を祝う(賀祝)村行事である。

かつてはこの行事も3月1日にしていたが、祈年祭と切り離す村行事に分けて3月第一日曜日に移して、祝いの場を公民館にしているという。

祝いのヨバレに振る舞いもある。

大鍋で炊きあげるおでん料理がある。

また、10月のマツリの日も振る舞い料理がある。

それは千本杵で搗いたモチにキナコ塗し。

醤油と味噌で包んだモチもある。

松茸飯も炊くし、豚汁も。

神事を終えてもまだある。

後宴のシシ肉焼きパーテイがあるから、また来てやのお誘いに喉の奥がごくんとなる。

小正月のトンド焼きは成人の日。

午前7時の火点けに書初めの習字焼きをして天に飛ばす天筆(てんぴつ)の習俗も。

トンドの火で焼く餅は三ツ割の竹に挿して焼いている、というから、是非とも機会を設けたいと思ったが、お腹はパンクしないだろうか、といらん心配をしてしまう。

(H29. 3. 1 SB932SH撮影)
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大宇陀・拾生の稲荷寒施行の聞取り

2017年11月15日 08時57分10秒 | 楽しみにしておこうっと
大宇陀・万六の自治会館でゆったり落ちつかせてもらっていたときである。

万六のカンセンギョ(寒施行)巡拝中にさまざまなことを教えてくださったⅠさんが飛び込んできた。

まさに、そんな感じだった。

今、行けるのなら隣町の拾生(ひろう)の住民を初回したいと云うのだ。

拾生(ひろう)の稲荷寒施行(かんせぎょう)を取材するなら、この人に話しを伺え、ということで口利きしてくださったM家に急行する。

Mさんは平成18年6月に発足した大宇陀まちおこしの会の代表者になる会長さんだ。

会の担当者はなにかにつけて宇陀・松山のことを教えてくださるUさんである。

拾生(ひろう)自治会の軒数は17軒。

街道沿いに商売をしているお家。

昔は街道に建つ家、皆が商売繁盛であったが、減債はたったの3軒になってしまったという。

元々は二つの拾生であった。

町屋にある地区は松山の拾生。

旧村にあたる神戸(かんべ)地区の拾生の2地区である。

拾生は万六(まんろく)と上新(かみしん)の間の区間。

そこをただ単に拾生と呼んで、向こうも拾生。

川向うとこっちと真っすぐ分かれているが、入り込んでいるところもある、というから実にややこしいことであるが、整理すれば、現町屋の松山町と宇田川西の元農村部神戸(かんべ)村が統合されてできた町ということである。

大宇陀中学校の跡地は市場にあたる。拾生は旧の町だった。

松山城の築造。

城は秋山城にくら替えになったときに旧町から新町名になった。

そのときによろづ町と呼んでいた「万」地区にろっけんしょう(六軒庄であろうか)呼んでいた「六」地区が合体して万六地区ができた。

合併というか、町が統合されて町名を一本化したわかりやすい事例を話してくださる。

ちなみに一番にお聞きしたかった拾生(ひろう)の稲荷寒施行(かんせぎょう)。

その件にさしかかったころにお客さんが来られた。

約束事のお客さんだけに退席したが、万六で若干の話しを聞いていたのでメモを残しておく。

稲荷寒施行の実施時期は、大寒期間中であるが、だいたいが2月1日前後の日曜になるらしい。

この年の実施日はすでに決まっている。

月末の日曜日の1月29日である。

施行に出発する時間帯は2回(2組み)に分けている。

そのわけはといえば、子どものことを考えた上でのこと。

夜間についていく子どもが施行をする場合は危険性があるという山は若い者がセンギョ(施行)する午後1時。

もう一組が出発する第二部は日が暮れた時間帯の午後6時。

出発地は大願寺からになるらしい。

センギョ(施行)に供える御供は赤飯のおにぎりにアゲサン、煮干し。

万六の会所で話してくれたある婦人の話しによれば、伺ったMさんの意向で奥吉野名物のサバメシのオニギリにしているようだ。

また、万六の“志を乃屋”野口昇栄堂のご主人の話しによれば、ドンゴロスの袋に御供を入れて、オーコ担ぎで廻っていたようだと話していた。

今年の日程は明日。

二日続きの施行は身体に無理をかける。

来年の楽しみにさせていただきたいと伝えて退席した。

ちなみに、その29日に行われたことを記事にしているブログが見つかった。

会長家で伺った件や、取材した万六施行のことを伝えたい人が居る。

前述した・・会の・・人であるUさん宅を訪ねる。

記した私のノートにこうある。

「もともとは高原(3代目)の稲荷講。野生の里山は獣の生活区域。供え物は寒中に供える。町に下りてこないように供える」と・・あるからUさんが話したことだと思う。

(H29. 1.28 記)
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大宇陀・万六の年中行事

2017年11月14日 10時10分43秒 | 楽しみにしておこうっと
すべてのカンセンギョ(寒施行)巡拝が終わって戻ってきた一行。

大宇陀・万六自治会館に戻って食事を摂るというのであるが、お酒が飲めない男の人たちは自宅に戻っていった。

お仕事の関係もあって、巡拝が終われば開放のようだ。

町内のご婦人たちは、あっけに取られていたが、どうぞ休んでくださいと、熱々のお湯を注いでくれたきつねうどんのカップ麺をよばれた。

温かいもてなしはキツネの施行ではなく、取材に同行していた私への施行である。

昔は子どもも大勢おった万六のカンセンギョ(寒施行)。

ぜんざいと呼んでいたイロゴハンは炊き込みご飯。

いわゆる混ぜご飯で巡拝者を慰労する直会であるが、やがてちらし寿司に替えた。

その後に子どもも極端に少なくなって、手間のかからないカップ麺にしたようだ。

ありがたくいただいたお部屋に高さが1mほどもある長細いヤカタがある。

ヤカタは2本。右の黒ずんだ方が古い。

色具合から判断して明治時代を下った江戸時代のものであろう。

昔は愛宕さん、お伊勢さんの参会に近所の人たちがヤド家に寄っていたようだ。

ヤカタはどちらになるのか、聞きそびれたが、毎年に交替するヤド家に祭っていたそうだ。

なんせ大きなヤカタはヤド家からヤド家に運ぶのが困難になってきたことから、新築した自治会館の納めることにしたという2体はともに動いたというから人手が要ったわけである。

ちなみに万六の参会(さんかい)は御日待(おひまっつぁん)である。

万六は15軒で組織する自治会。

1月24日、5月24日に9月24日の年3回の御日待参会に2幅の掛軸も掲げる。

1幅はアマテラスオオミカミ(天照皇太宮)のようで、もう1幅は愛宕社であろう。

神饌は小豆を混ぜた洗い米に塩と水。

自治会館に提灯を揚げてめいめいが手を合わしているという。

また、3月の初午(旧の初午)はオゴク(御御供)を搗いて佐多神社でゴクマキをする。

朝の10時から三方に五品の神饌を供えて祭っている自由参拝。

午後3時に「なればゴクマキをする。

ちなみに万六が崇敬する神々は佐多大明神、地車大明神、朝日大明神、朝照大明神。

御日待の際には4神にお参りされて町内安全を願っているようだ。

(H29. 1.28 EOS40D撮影)
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嵩の行事

2017年06月20日 09時49分35秒 | 楽しみにしておこうっと
嵩の山の神行事は1月7日。

日にちが替わった7日の夜の時間帯からお参りに来るひともいるらしい。

遅くても朝8時には村の人すべてが参っているであろうという場は八柱神社と薬師寺の裏地である。

これがそうだと云われなければ気がつかない山の神の印しは埋もれた小岩である。

家の男の数だけ作った藁ズト。

1戸について1個の餅を詰め込む藁ズトはフクダワラ(村史ではホウデン)と呼ぶ。

それを山の神の木に結びつけてぶら下げる。

その木の枝にホウソ(ナラの木)の木で作った「カギ」を引っかける。

カギを引っ張り揺らすように作法をしながら「うーちのくーらへどっさりこ」と言いながらおじいさんがしていた。

山の神に参りにくるのは今では6軒ぐらいと話してくれたのは宮総代のⅠさんだ。

ちなみに村史によれば、コウジミカンを山の神の地に立てていたようだ。

また、「カギ」引きの詞章は「東の国の銭金(ぜにかね) 西の国の糸綿(いとわた) 赤牛につけて こちの蔵へ皆ござれ 皆ござれ」であった。

嵩では春と秋に道造りをしている。

朝は村の農道で、昼は県農道。

道造りにつきものの料理は大釜で煮るオデンがある。

オデンは春であるが、秋はマツタケご飯になる。

かつてはマツタケすき焼きだった。

当時のすき焼きは牛肉よりも松茸の方が多かった。

今から40~50年前のマツタケすき焼きにイロゴハンもあった。

料理の材料費は村でもつ。料理をするのは村の役員。

この年は9月25日の実施。

例年も9月の最終日曜日にしていた秋の道造り。

春もそうだがいずれも雨天決行である。

夏の第一日曜日は墓サラエ(浚え)。

おそらくは7日盆の墓掃除のことであろう。

盆の風習にサシサバがあった。

ちなみに嵩には主に女性で構成される薬師講がある。

この年は1月10日だった大般若行事は六百巻の大般若経を転読法要。

聞くところによれば天理市福住の別所でお会いした僧侶が来られるようだ。

なお、昭和10年までは厄年の人の餅一重村各戸配りをしていたそうだ。

(H28.10.22 EOS40D撮影)
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菟田野平井から萩原小鹿野の民俗探訪

2017年06月17日 08時54分24秒 | 楽しみにしておこうっと
宇陀市榛原の石田に住むUさんが教えてくださった神社行事がある。

一つは上平井のヒトミゴクに9種の御供。

二つ目は下平井のモッソのセキハンである。

両行事をされている地区は宇陀市菟田野平井にある上平田と下平田。

マツリの日は宇太水分神社祭礼の前日になるというから出仕される神職は宇太水分神社の三家宮司であろう。

宇太水分神社の鎮座地は宇陀市菟田野の古市場。

平成12年10月15日の秋祭りや平成17年2月7日の祈年祭に出かけたことがある。

ずいぶん前のことである。

宇太水分神社祭礼は10月15日。

前日であれば14日であろうか。それともUさんがいう20日であろうか。

時間帯も含めて神社所在地を見ておきたい。

そして祭事関係者にお会いして行事の状況を教えてもらおうと思って出かけた。

一つ目に訪れた地域は菟田野の平井。

Uさんが話していた神社はどこだろうか。

ネットの地図を拝見しても掴めない。

そうであれば付近の民家を訪ねる。

畑に人が見えたらその人に聞くのだが、生憎この日は待てども、待てども現れない。

ここまで来て諦めるわけにはいかないから旧家の佇まいをみせる民家に訪ねてみる。

呼び鈴を押せば奥から男性が出てこられた。

話しを伺えば男性は上平井八王子神社氏子のNさん。

平成28年は10月15日にマツリがあった。

本来は20日であったが、現在は宇太水分神社祭礼の前日の第三土曜になる。

御供はシラムシ(白蒸)ご飯にザクロやカキ、クリ、トコロイモ。

他にも長めの串に挿したコンニャクやダイコン、サトイモに半切りのチクワもあるという。

それは氏子に配られる御供であるが、3本であったが近年に縮小して1本にしたという。

夜は甘酒の接待というからヨミヤとマツリを一本化したのかもしれない。

ちなみに神職はやはり宇太水分神社宮司の三家さんだった。

話しを伺って教えてもらった神社の鎮座地に向かう。



神社には石板に願いを込めた由緒書きがある。

当社祭礼に人身御供と称する特殊神饌を供するとあった。

Uさんに氏子のNさんが話していた御供の形がそうなのであろう。

本社、境内を見てまわる。



「文政十二年(1829)次己丑九月」の年代刻印がある灯籠。

それより古かったのは手水鉢。



「元禄六年(1693)九月一日」の年代記銘がある手水鉢には「八王子」。

手水鉢を寄進したと思われる当時の村人7人の名がある。

それを見届けて次の訪問地に出かける。

二つ目は下平井の皇大神社である。

マツリを知る人はどこにおられるのだろうか。

ここでも田畑に村人はいない。

これもまた仕方なくそれと思しき民家の呼び鈴を押す。

出てこられた男性のTさんに尋ねたがマツリのことが要領得ずにまったく掴めない。

近くの家も訪ねてみるが不在だ。

もう一軒のM家も行事のことはわからないという。

その辺りをうろうろしていたら一人の男性が車でやってきた。

宮総代のKさんであるが、Uさんが話していたモッソのセキハンもなく、村総会を兼ねたヨイミヤマツリは一般的な神事であると云われた。

そういう状況であるが皇大神社の鎮座地は拝見しておこうと思って畑におられた婦人に聞けば、そこだという。

なるほど、ここにあったのか、である。



車止め前に停めて本社、境内を見てまわる。

何年か前にゾーク(造営事業)されたのだろうか、本社殿が朱塗りで美しい。

その社殿下右側にあったのが庚申塔だ。



葉は椿のようだが花一輪。

お参りしている人が供えたのであろう。

マツリの情報は少なかったが、得るものもあった。

いずれは訪れてみたい菟田野の平井の行事を後にして帰路につく。

その帰路の道中に行っておきたい地域がある。

宇陀市榛原の萩原(はぎはら)の小鹿野(おがの)である。

半年前に訪れた際に田畑におられた婦人たちにだいたいの行事場を聞いていた。

そこへどうのようにすれば行けるのか。

それを確認したくて帰路に立寄った。

行事場は村の中心部。

それも急な坂道を行かねばならない上に軽トラ幅丁度くらいの狭い道。

バックをするにも難しいし、最初に登る道の角度は勢いをつけないと上がれない。

何度かトライしたがその先がどうなっているのかとても怖い。

狭い上に曲がり道。人が歩いてでもいたらと思えばぞっとする道。

迂回しても同じような村の道である。

昨年の平成28年4月15日に訪れた際は村の北側から登ってそこから下ったことがある。

その道は難なく走れるがこの南側が狭いのである。

その日は南側の苗代立て状況を撮っていた。

その畑の真上にあるのが小鹿野の公民館。

地蔵堂があるとされる村の会所である。

そこへ行くには坂道を登ったところでバックする。

それも来た道をバックするのではなく右にある狭い道をバックで登るしかなかった。

一旦、山側に登ってそこから下れば良いとわかったのは半年後だった。

それを知らずに無理をするこの日の行事場探し。

バックで到達した地は平ら。

会所であることはわかったが鍵が締まっている。

当然である。



その会所裏側に立っていた朱塗りの鳥居。

掲げてあった扁額をみれば「小鹿野弁財天社」とある。

行事があるのかどうかわからない。

戻って会所前にある祠を見る。



それは庚申さんだった。

左右に枯れた竹があった。

その形から右は花立。

左は御供台だ。

たぶんに閏年の庚申講の営みがあるはずだ。

これらを書くにするには区長と会わなければならないが、自宅は不在だった。

仕方なく隣家を訪ねる。

お声をかけたら若い男性が出てこられた。

行事のことや場を調べにきたと話せば若干なら知っているという。

地蔵寺は集会所内になる。

寺所有と思われる菩薩像や四天王像が安置しているらしい。

苗代田に立ててあったお札は祈祷札。

正月初めのだいたいが1月7日の午後に打合せを兼ねる初寄合がある。

その際にお札を刷っているのだろうと勝手に推測する。

その日の夕飯会食に籠り。

そのときに初祈祷をしているとこれもまた想定される。

区長に伝えられるならばお願いして場を立ち去った。

(H28.10.20 SB932SH撮影)
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