マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

菟田野古市場行きの往路に見た都祁吐山北の稲架けは復路時間帯に跡形もなく

2024年02月09日 08時12分50秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
東京千里眼監修濃厚ラーメンニンニク醤油味を食べていた車中食

落ち着きのある景観に車を停めたその場は、榛原高塚に鎮座する八咫烏神社の鳥居。

国道に面したそこでお昼を摂っていた。

食事を済ませて車を走らせた。

弓なりカーブに見た稲架け。

その位置は、左側に所在する民家も見える地。

目指していた目的地は、まだまだ先にある宇陀の菟田野の古市場。

約束の時間までは、若干の余地はあるが、約束の時間に遅れてはもともこうもない。

心に余裕ができるのは、古市場に所在する民家の民俗取材を終えてからだ。

取材を終えて、再び都祁吐山の地。

東側にあった民家を目指した。

近づけば、近づくほどに圧倒される茅葺民家。

立ち止まって、聞き取りもしてみたい民家。

左手、遠くに見える民家は、なんとなく動きがない。



その奥、かすかに見えたが、はっきりしない。

ずっと奥に車を進めたいが、夕暮れ近い時間帯。

今日は、諦めて、路なりに迂回に、再び国道に入るのだが、その途中の景観。

じっくり拝見したい都祁吐山の景観。

大きく変貌はしないだろう。

国道を越えて西側の地に見た稲架け。



私的には、珍しくはないは、ガードレールを使った稲架けも暮らしの民俗と、思って撮っていた。

実りの柿の7色も入れてとった都祁吐山の田園景観。



晴れの日だったら、もっといい。

贅沢はいわないが、向こうの山々も気にかかる。

ぐるっと、吐山を廻ってきた。

そこで停車した。



山麓に佇む家。

昔は、茅葺民家だったような気もするが。

そこは、稲刈りも稲架けもまったく動きがない。

跡形もなく消えた。

で、あれば今季の稲架けは、今日で納めどきであろう。

菟田野・古市場で取材している時間帯に片付けたようだ。

時間帯は、午後4時半。

ハンドルは、帰路の道程に向けた。

(R3.10.24 SB805SH 撮影)

都祁南之庄・国津神社のデキのいいドウガイ

2022年11月06日 07時38分11秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
都祁白石にかつてされていたカラスのモチ。

体験事例を話してくれた西隣村に住む南之庄のYさん。昭和14年生まれの83歳。

南之庄の年中行事取材の折りに、何かと教えてくださった。

年中行事にいちばんの笑顔で集落を巡っていたYさんの好印象

今も記憶に残っている年初めの正月八日に行われていた国津神社の蛇送り。

平成19年1月8日のこのときのYさんは、村の総代長だった。

村の一年に安寧を願う初祈祷行事

強い風が吹く日だったが、気象状況をもろともせず、笑顔で村の全戸を巡っていた。

さまざまな年中行事の中でも足腰がものを言う岳のぼり。

都介野岳(つげのだけ)の山頂に登り、南之庄の田畑を潤す水の神さんに参拝する。

平成22年に続いて、平成23年4月15日も同行した岳のぼり。

県内事例が少ない岳のぼりを2度も体験したありがたさ。

今の私には到底、挑戦できようのない身体になってしまっただけに、いい思い出になった行事である。

Yさんと、そのような思い出話をしていたら、今日の午前中に飾り付けを終えた国津神社のしめ縄のことを伝えてくれた。

そうか、今朝にされたんだ。

国津神社のしめ縄は、県内事例が少ない、特に大和高原地域にまず見ることのない簾型のしめ縄である。

あるとき、その名称をドウガイと聞いていた簾型しめ縄。

「今年のしめ縄は、えーでき具合になったから、見といてや」と、いわれて帰路に拝見した。

国津神社のしめ縄は、これまで何度も拝見してきた。

平成31年1月6日、一昨年に拝見していたドウガイしめ縄。平成18年12月30日に拝見したときの様相に変化があった。

門松の状態、位置も異なるし、簾の状況も違う。

大きな違いは、簾の密度もあるが、架ける場がまったく違っていた。

そのことを意識しながら、国津神社に向かった。

この日の気象は荒れていた。

強風が吹きまくるし、風も冷たい。

じっと立っているだけでも、その冷たさ、強さに身体が負けそう。

やむなく携帯電話のカメラ撮りに絞って車に駆け込んだ。

位置は、平成31年1月の状況とほぼ同じであるが、簾の密度が高く、Yさんがいう通りの、えーデキだった。

強風と寒さに耐えられず、南之庄を離れた。

帰路のコースは、福住廻りに天理ダム経由で平たんに下りる。

その途中にあった強風下の倒木。

農免道路を西に向かって走行していたそのときだ。

福住の南田辺りの地。

農免道路北側に繁る木々が、強風に煽られて、揺れに揺れている。

走行していた道路のあちこちに倒木の残骸が散らばっている。

自生している樹木がバキバキ折れた道路状態は3カ所にもおよぶ。

危険を感じて、轍がついているそこを狙って走る。

速度も緩めて走っていたそのときだ。

多くの樹木が倒れる寸前状態に遭遇した。

車を停めた瞬間にどさっと落ちた倒木。

バザードランプを点滅して車を停めた。

反対側から走ってきた車も停まった。

直ちにやることは、倒木した樹木を道端に移し、車が通行できるように一時的な緊急措置をするしかない。

身体も強い風に煽られながら、除去作業をはじめた。

停止した対向車の人も。

また、その他、数人も鉄合ってくれた。

おおかたが、除去できたので走行可能と判断し、停止していた車も、みな走り出した。

強風下の対応に感謝するが、今後もこの状態は続くだろう。

(R2.12.30 SB805SH撮影)

都祁白石町にカラスコーイは・・

2022年10月15日 07時54分55秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
都祁白石、辻村商店を表敬訪問する。

ただ、通過していくには申しわけなく、お店に顔出し。

そのときの話題は、氏神社の年中行事。

今回、半年の期間を受け持つ社守を務めるようになり、後半の半年間は、来年6月からはもうそれ以上の役がない頂点役のたゆう(太夫)の任に就く予定にある、という。

白石の座の改革余談を聞く。

奥さんの話によれば嫁入りしたとき義母がしていたカラスコーイ(※カラスコーイモチヤルゾの囃子詞がある習俗)は藁の船に七つの団子乗せる。

ススキの藁積みを隙間に突っ込む。

そうして放っておくと、カラスがやってきて食べる。

そりゃもう、カラスはよう知っとるから、と話す店主のTさん。

ただ、それは以前していたことで、今はしていないと、いう。

だが、これから掃除に向かう、という奥さんが云うには、ご近所さんはしてるし、福住もしていた、という。

ススキのない現在は、畝にしているかも・・・あくまで推定、可能性からして難しい。

どなたがされているのか、わかれば連絡するって、いわれたが・・

果たして、白石町に民俗行事カラスコーイは、どこに・・・

(R2.12.13 SB805SH撮影)

奈良市旧都祁村から平たん部、お盆の習俗を見て廻る

2022年05月18日 07時54分50秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
お盆習俗のサシサバのイタダキサンを拝見させてもらった帰り道。

それからも目にしたお盆の習俗が見つかった。

場は、サシサバのイタダキサンを拝見した奈良市荻町。

取材したT家から下った街道沿いに建つお家。

垣根といえばいいのかどうかわからないが・・・

表現が難しいツタが絡まる垣根に、異質なモノが周りの状態に隠れていた。

途中まで、火が燃え、そして消えた太い藁束。

真ん中辺りから二つ折りの藁束。

これまで取材した事例からいえば、ご先祖さんを迎えた藁火の痕跡である。

藁を刺している棒はススンボ竹であろう。

見つけた時間帯は往路の午前11時半だった。

おそらく、前日の夕刻にされた迎え火である。

断定はできないが、迎え火は夕方。

送り火もまず間違いなく日暮れる直前の夕刻辺り。

お盆の記録として撮っておいた荻町の民俗を背中に車を走らせた。

抜けたその先は、都祁馬場。

ここも街道沿いに建つ民家の玄関前に見たことがある同じ形態の民俗。

針ケ別所から針に出ようとした街道。

走る車の車窓に見かけた杣の川の地蔵は花立

お盆に、と集落の人が飾ってくれたのだろう。

先を急ぐ。

針インターから南へ少し走った奈良市白石町。

この夏もサシサバをつくっていた辻村商店

売れ行き好調に追加のサシサバ仕込み。

それも終わった、この日は14日。

前日にお迎えし、翌15日にはお帰りになる。

その間は、商店もお盆休み。

勝手知ったる駐車場に、サシサバを天日干ししていた道具があった。



焼き網はサシザバを置いた道具。

火を点けて焼いたワケでない。

天日干しに、猫とか野鳥に持っていかれんように黒の虫除け紗を被せて商売のサシサバを守っていた。

さぁて、次はどの地のお盆民俗を見つけに行くか。

気になっていた奈良市の池田町。

三日前の11日。

池田のたいまつ行事に問い合わせの電話が鳴った。

大和郡山市観光ボランティアガイドクラブのKさんからの電話だ。

旧JR奈良駅舎観光案内所にたまたま居たとき、の話しである。

関西発信のラジオ深夜便が伝えていた行事の件。

広大寺池に松明を燃やす行事を伝えていた。

そこに出かけたいが、今年は全国的なコロナ対策中・・

初めて寄せてもらおう、と思っているが、実施状況はどうなのか。

実施されるのか、それとも中止なのか、その事実を知りたい、と尋ねに来た人がいた。

観光案内所に受付担当していた女性は、その行事の件は、まったく知らず途方に暮れていた。

不憫に思ったKさんは、知り合いのKさんにわざわざ連絡し、私の電話番号を聞いてかけた、という。

その行事は、奈良市池田町に行われている盆行事。

集落の人たちが盆に広大寺池堤に立て、夕刻の時間帯に燃やす「池田のタイマツ(※松明)行事。

観光案内をされていた担当女性に、そのタイマツ行事を伝えるも、実施有無については、元自治会長さんが存じているはず。

タイマツ行事を詳しく知りたいのであれば、帯解の南部公民館におられる担当に連絡されたらどうか、とお伝えした。

別途、Kさんには、タイマツ行事を紹介した私のブログ記事を伝えた。

ただ、伝えただけでは、とても気になるコロナ禍のタイマツ行事。

奈良市の池田町に到着した時間帯は、午後2時。

つい先ほどから作業をはじめた人たち。

タイマツの土台に太い竹を伐って運んできた。

長さを揃え、その長さによって用途の位置を決める。



真夏の暑い盛りの作業に汗びっしょり。

その向こう側にいる男性は三脚を立て、ビデオ撮り。

この人が、旧JR奈良駅舎観光案内所に問い合わせた人なのか・・・・敢えて聞かなかった。

痕跡もあれば、今まさに準備作業中も、お盆習俗。

コロナ禍に実施されていた民俗行事に関する情報は、今後のために記録しておいた。

(R2. 8.14 SB805SH撮影)

小倉・観音寺の十七夜観音講会式の造りもの御供

2021年09月27日 09時33分31秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
この年の御供はどのような形になったのだろうか。

その年、その年でないと形がわからない御供は野菜で作る。

元々は、村の住民たちが、お寺に寄進する形式だったと推定される行事。

初めて訪れた奈良市小倉町にもあった。

にも、あったというのは、私の知る範囲のことだ。

野菜作りの御供の2事例目に見つかった小倉の事例である。

小倉町は、かつて旧都祁村にあった。

平成17年4月、市町村合併政策により、添上郡月ヶ瀬村とともに、奈良市に編入された旧山辺郡都祁村大字小倉。

それ以前の小倉が属していた針ケ別所村(※針ヶ別所村、小倉村、上深川村、下深川村、荻村、馬場村)。昭和30年、隣村の都介野村(※藺生村、小山戸村、相河村、南ノ庄村、甲岡村、来迎寺村、友田村、白石村、吐山村、針村)と、ともに合併した都祁村である。

平成20年9月17日の観音寺の観音講会式。



初めて見る小倉の会式に、野菜で作った御供を供えていると教えてもらったのは、小倉が出里の婦人だった。

平成20年6月4日、旧都祁村小山戸の行事取材でお世話になったI区長の奥さんとの出会いが、ご縁を繋げてくださった。

話は遡るが、そもそもの縁繋ぎになった行事がある。

旧都祁村より西方の地にある天理市福住。

上入田(※かみにゅうだ)の不動寺で行われた「御膳」行事である。

そのことを知ったのは、奈良新聞に載っていた小さな囲み記事。

後日判明したその記事は読者投稿によって採用された新聞記事。

上入田に住むOさんが、村の行事を紹介したく奈良新聞社に投稿されたのである。

モノクロ写真に写っていた野菜御供。

それは「御膳」行事に供え、法要を営む行事であった。

是非とも拝見したく、区長に取材許可をいただき撮影に入った。

平成19年9月15日、村の人たちが仕切る「御膳」つくりを、小倉でなく天理市福住の上入田に初めて拝見した。

大きな野菜もあれば、小さいものも。

丸こい形に細長いもの。形も多様なら、色合い、風合いもみな異なるさまざまな野菜。

高齢の人たちが作る野菜御供は、村の人が寄進した自家野菜。

そのまんまの形、色を考えて組み立てる。

包丁で切るとか、曲げることもない。

手を入れずに、作り上げた御供は、まるで人を模したようにも見えるものもあれば、はてな・・というような形も。

作り手の思いつきもまたはさまざま。

表情豊かな、御供の形は、みな違う。

どれを見ても、感動する野菜御供。

笑えるものもあれば、これって、というのもある。

設計図もなく、あれこれ思考を凝らして作った御供は、福住・上入田不動寺の不動寺の本尊に供える。

無住の不動寺に僧侶は不在。

導師に合わせて、一同が揃って唱える般若心経で終える。

「こんなの見たことないやろ」と、村人たちは口々にいう自慢の作品群。

「他所にでもあるなら、一報してほしいな」と、願われた。

その願いは、小山戸を経て小倉に繫がった

それからの8カ月後である。

平成20年の4月20日に取材した旧都祁村小山戸都祁山口神社行事の御田祭

お世話になったお礼に写真を持って、小山戸区長のI家を訪ねた。

応対してくださったのは、区長婦人である。

民俗行事に興味をもつ婦人。

御田祭の写真から、話題が拡がる他地区の民俗行事に、福住上入田で拝見した野菜つくりの御供のことを伝えたら、なんと・・・。

出里の小倉のお寺でも同じようことをしていた、という。

まさかの展開に胸が躍った。

嫁入りしてから数十年。

今も、小倉に福住のような行事があるのだろうか。

行ってみなきゃわからない旧都祁村・小倉の地。

下見を兼ねた聞き取り調査に走った平成20年の7月13日

観音寺の所在地がわかったところで、村人探し。

畑作業をしていた村の人に教えてもらった寺総代家を訪問する。

お会いできた寺総代のKさんに小倉の年中行事を教えてもらった。



大きなカボチャなどの野菜でつくる御供の形は人面型。

9月17日に行われる十七夜観音講の行事に作って供える。

午前中に持ち寄った野菜で御供つくり。

昼食後に観音講会式を営む。

作り手は、丸山、西区、東区、中区、南出、北出の6垣内代表の檀家総代ら6人。

寺総代を筆頭に責任役員の2人が役に就く、という。

6月16日に行われる虫送りは、陽が沈むころにはじめる虫祈祷。

そして地区2カ所に祈祷札を立てる田の虫送り

2組に分かれて出発する。

1月6日は村の安寧を願う初祈祷。

漆の木と藤の枝先をはたき(※払塵)のような、房状にしたものを持ち寄って、お寺の縁側を大人や子供が激しく叩いていたというランジョウ作法をしていたが、今は、肝心かなめの藤の樹は自生地から消えた。

仕方ないが、水戸まつりに立てる漆の木だけになった。

1月7日は山の神。

カギヒキもしていそうな山の神の話だった。

同月15日は、6垣内それぞれが行うとんど焼き。

簡略化した亥の子行事もあるやように話してくれた。



代表の寺総代のKさんに了解を得て、小倉の行事の初取材に訪れたのは、それから2カ月後の9月17日だった。

朝早くに集まった人たち。

作りはじめて数時間後。

午前11時ころに作り終えた。

会式の行事に、ご本尊の十一面観音菩薩立像前は大きなズイキを一対、供えていた

その様式を見ていて思い出した他村の行事。

小倉町同様の旧都祁村にあった南之庄町。

平成19年9月14日に行われた金剛地蔵会式

ご本尊の前に供えた野菜は大きなズイキだった。

小倉のような一対ではなく、太く大きな1本のズイキに、小さなズイキがたくさん。

いずれもご住職が一本、一本に小刀を入れて細工していた。

日程は、異なるが、いずれもご本尊に捧げ、供える野菜は子芋をたくさんつけて増やす親芋ズイキ。

子孫繁栄を願い、収穫に感謝する親芋ズイキである。

また、福住・不動寺の「御膳」行事に見られなかった大根の茎と葉を束ねたものと半月切りのカボチャを並べた折敷の板御供が小倉・観音寺の「観音講会式」にある。



その数多く、70枚。

整然と並べた板御供(※7枚の折敷は一枚板に固定している)は、村の戸数だといっていた。

その昔は、赤飯もあったそうだが、いつのころか、供えなくなったらしい。

昼前、村の人らも参集されて会式の法会をはじめる。

小倉もまた無住寺。

田の虫送りには、山添村・真言宗豊山派、一心院神野山・神野寺の住職を迎えて祈祷されるが、十七夜観音講会式にお勤めするのは、寺総代以下責任総代ら。

導師に寺総代が就き、木魚を叩いて三巻の般若心経を唱える。

それから、寺務所に移って、みなはパック御膳を並べた席に座り、直会をはじめる。

夕刻、解散されるまでは、御供などはそのままにされているので、学校の授業を終えた子どもらも参拝していたことを思い出す。

その後の、平成28年9月17日も取材した十七夜観音講会式

寺総代、責任役員に檀家総代ら、顔ぶれは一新されていた。

また、平成20年には大きなズイキを供えていたが、この年は見られなかった。



導師が叩いていた木魚もなかった。

8年間の年月を重ねていくうちに、徐々に変化がみられた年だった。

一年空けて、立ち寄ったこの日の十七夜観音講会式の造りもの御供。



三度目の拝見に、この年もまたユニークな、それもちょっと刺激的な御供も、数多く並べていた。



到着した時間帯は正午前。

作りものの作業は早くに終わっていた。



板御供も並べ、一段落した午前11時ころには三巻の般若心経を唱えていた。

正午の直会がはじまるまでの時間帯をこうして寛いでいたそうだ。

この日に訪れた目的は、作りものの製作工程でなく、参拝者が途絶える時間帯。

そのころは夕刻の時間帯。

待機していた役の人たちが解散されてからの御供の行方である。

前年にNHK奈良放送局が伝えていた福住・上入田の「御膳」行事である。

製作工程から営み、そして会式を終えた御供である。

夕刻のころにやってきた野菜を寄進した女性は、受け取りに来られていた情景を放映していた。

寄進した野菜は、形を整えて本尊に供えた。

ありがたい御供は、寄進者に戻される。

そういう状況を伝えていた。

ふと、小倉では、どうされているのだろうか、と思った。

はじまりがあれば、終わりがある。



上入田と同じように寄進者が受け取られるのか、それとも役の人たちが持ち帰るのか、そのことを知りたくて訪れた。

そのことは、北垣内に住む73歳のIさんが話してくれた。

実は、小倉においても同じように村の人が貰いに来ていた。

ずいぶん前まではそうしていた。

時代は遡ること50年前までのあり方であったが、その後において処置がくだった。

その対応は現在も続けている、一晩おいた翌朝の廃棄処分。

村によって判断は分かれたようだ。

ずいぶん昔のことを話してくださったIさん。

続いて話すかつてしていた村の行事に腰を抜かすほど驚いた。

一つは「おつきようか」だ。

毎年の5月8日に行われていた「おつきようか」。

村全体で行われている組織的な行事でなく、おうちの習俗である。

県内事例に体験、記憶を話してくださった奈良市別所の事例もあれば、近年において復活された天理市福住・西念寺の事例もあるが・・・。

昭和59年3月、田原本町教育委員会が発刊した『田原本町の年中行事』には、当時されていたというおつきようかの写真が掲載されている。

春まつりの項に書かれた「おつき8日」。

「春の季節のまつりの古い姿に“おつき8日“がある。4月8日の”てんとばな(※天道花)“である。仏教の灌仏会」は、“おつき8日“の日に重なって行われている」とあった。

ちなみに掲載された「おつきようか」の”てんとばな(※天道花)“を撮影した地域は伊与戸。

民家の角地に建てた長い竿に、十字結びに括りつけたお花はモチツツジ。

掲載写真はモノクロであるが、かろうじて判断できる。

竿にもうひとつの祭具がある。

奈良市別所で聞き取った、まさに三本足のカエルが入ると信じられていた編み籠である。

今は見ることもない”てんとばな(※天道花)“。

町教委が、当時に聞き取った伊与戸の人。

他にも竿を揚げていた経験者は、多くあったようだ。

隣接する旧二階堂村でも”てんとばな”にカエルが入るといいことがある、と話していたらしい。

掲載写真にある民家の屋根にテレビアンテナが、また焚きあげ風呂の煙だし煙突も映っている。

当時の生活文化を知るお家の形がわかる民俗写真に感動を覚える。

Iさんが、小倉の地で体験したオツキヨウカは、高さ3mくらいの竹の先端に、括り縛っていた花は3種。

赤い躑躅、黄色の山吹に青紫の藤の花。

カドサキに建てていたそうだ。

小倉のオツキヨウカのその日は、花まつり。

御釈迦さんを納めた御堂を建てて、甘茶の木の葉を煎じ、炊いて作った甘茶を、御釈迦さんにかけていた。

山添村のある村の一角にも建てている事例がある。

県内事例では、まず拝見するのも難しいオツキヨウカのあり方。

今は、体験談でしか得られない小倉のオツキヨウカもまた、貴重な民俗事例であった。

また、1月7日は、山の神をしている、という。

朝5時のころ。暗いうちに3人がウツギの木で作ったカギをひいて山の神参り。

唱える詞章は「にしのくにのいとわた(西の国の糸綿) ひがしのくにのぜにこめ(東の国の銭米) うーちのくーらへどっさりこ(※家の蔵へどっさりこ)」。

声を出してカギを引く。

カギヒキをしたら、藁で作って持ってきたホウデンの内部に、男の数だけ正月のふところ餅を詰める。

家で作った七草粥も持ってきて、笹の葉を皿代わりに七草粥を盛って山の神に供える。

まだまだありそうな小倉の民俗行事。

みなが揃ったからと、奥の部屋で直会をはじめられるから、聞き取りはここまで。

山の神も、一度は取材したいが朝の5時では、無理がある。

せめて一時間後の朝6時なら拝見できるかも、と伝えたら、どうぞ、と承諾してくださったが・・・。

本堂を下りて帰路に就こうとしたそのとき。

目線に入った「庚申」に「馬頭観音」石仏。

「庚申」の営みはたぶんに庚申講であるが、今でも講中が勤めているのだろうか。



また、県内事例ではあまり見ることのない「馬頭観音」石仏も合わせて、次回、訪問の際に尋ねてみよう。

ちなみに馬頭観音をキーに検索したら、まま見つかった

一つは、香芝市穴虫の穴虫峠に建つ馬頭観音石仏

二つ目に、南都七大寺の一つにあげられる大安寺・嘶堂安置の馬頭観音菩薩立像がある。

三つ目に生駒市北新町・大佛寺に建つ馬頭観音菩薩立像もあるが、名号があるのは小倉だけかもしれない。

この「馬頭観音」、「庚申」石の背景に映りこんだ稲作風景。

実り真っ盛りの銀穂の波。

その情景をFBに揚げた際、知人のFさんがコメントしてくださった「バックの稲穂の黄色がいい感じですね!」の言葉が嬉しい。

今日の野菜御供も、稲作も村の豊作祈願が秋の稔りに通じたのであろう。

(H30. 9.17 EOS7D撮影)

上荻の天王行者祭を訪ねて

2021年03月29日 10時10分16秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
今年、平成31年2月9日に訪れた奈良市旧都祁村の荻町。

子どもの涅槃講調査の際にお会いした氏子総代のIさんの許可を得て拝見していた荻坐神社の祭典行事表に7月7日に近い日曜日は「天王行者祭」とあった。

上荻が当番大字。

場所は上荻にある天王社であろうと待っていた。

午後1時と書いてあった行事表であるが、その時間が訪れても誰一人として来られなかった。

祭典場が違ったのか、それとも都合によって前後する日曜日に移されたのか・・。

「天王行者祭」の名がある行事に天王社は外せないだろうと思うが、“行者”も併せもつ行事を知りたくて待っていたが・・。

草刈りもなくひっそりと佇んでいた天王社境内に山乃神の印しがある。



鮮やかな朱の色で彩色している山乃神の鳥居に目がいく。

苔むしていることもない山乃神に行事はあるのだろうか。

ちなみに現在は、本堂が壊れた関係に建て替え工事中の本堂。



総代の話によれば安置する本尊は観音立像。

で、あるならお堂は観音堂になろうと思うが・・。

この年の平成31年2月10日に取材した下荻のネハンコ行事。

本来なら涅槃図は、安穏寺本堂に掲げるのだが・・。

仕方なくであるが、本堂代わりに設営した仮安置所に納めて実施された。

神社から下ったところに上荻集会所がある。

付近の道路に停車していた十数台の軽トラ荷台に草刈り機や鎌があった。

いずれの荷台にもそうあるから、この日は道作りだと思った。

集会所内に集まっていた人たち。

なにやら会議をされているように思えたので声かけをせずに場を離れようとした、そのときに解散された。

順次、軽トラに乗車して離れる上荻の人たち。

一人の男性に声をかけた。

事情を話してわかったその方は前年の一年間、村神主を務めたというIさん。

2月9日に訪れたときのことを兄から聞いていると・・。

まさかの出会いに伺った天王行者祭。

道作りは午後も作業があり、それを終えてから代表がお供えをするだけになっていると・・。

前年に村神主を務めたIさんは、上荻の天王社に参ることはなかった、というから、荻坐神社で行われる行事のように思えてきた。

ところで、天王社境内にある山乃神行事について尋ねたら、神社下に住むYさんが詳しいという。

不在なら仕方がないが、尋ねてみる価値があるように思えたYさん。

Iさんの紹介でこちらに・・と山乃神のことについて教えを乞う。

話してくれたのはずいぶん前のことであった。

山乃神がある場にサルスベリの木が生えている。

その木に山行き道具のナタやカマ、ノコギリなどを供えていた、という。

山行きする人は限られていた山の仕事をする人たち。

個々に参って山に行く。

製材業の人でなく山へ出かけて伐採する人たちである。

マサカリもあったし、竹の筒にお神酒を入れてお米も供えていたそうだ。

もしかとして、お神酒入れの竹筒は背中合わせに一枚皮で繋がる、このような形でしょうかと、図示したら、薄れているが、そんな形だったように思える、と・・。

昭和40年の初めまではしていた山行きのお供え。

中学生からはじめて二十歳のころまでしていた山行き。

割り木を焼く炭窯も作っていた。

昭和40年代に燃料革命が起きた。

窯で焼いた割り木の炭は燃料。

その後は石炭とか練炭時代。やがてプロパンガスの普及とともに炭焼き窯がほぼ全村から消えた。

山添村に炭焼き窯をもっていた知人がいた。

趣味の範囲でしていた、という知人。

やがて廃した。

窯で焼いて作る炭は網焼きに最適。

肉に鰻、焼鳥くらいしかない需要になんとかやっていたが、次第に高齢化。

そういうことで廃したようだ。

最盛期は荻でも4、5軒でしていた窯焼き。

手入れをしていなかったら途端に崩れる。

窯は火を焚いておけば崩れることはないが、放置しておけば湿り気によって屋根辺りから落ちる、という。

炭焼き窯をつくることを“カマウチ”と呼ぶ。

作り終えたらアカメシ(赤飯)を炊いて祝っていた。

“カマウチ”に必須の材料は赤土。

これがなければ作れない。

炭焼き窯の厚さは10cmにもなるから大量の赤土が要る。

窯の周囲に槌で叩いて固める。

何回もくるくる周回して打つ赤土を思い出してくださった。

地域差はあるが、窯の製造法を載せているブログ「陸奥新報の木炭づくりの今昔」がある。

ちなみに上荻の天王社はある時代に荻坐神社に合祀したそうだ。

天王社のご神体は荻坐神社。

ここ荻町は上荻、中荻、下荻それぞれに神社があったが、それら纏めて合祀した、という。

そういうことから天王社は上荻にあるが、神事は荻坐神社で行われている、ということだ。

村行事に移したことから敬神講を組織化したという。

役行者像も奉っているが、大々的な行事でなく上荻地区の道作りも兼ねる日であった。

状況がわかったところで、下荻に足を伸ばした。

今年の2月10日に行われた下荻の子供のネハンコ(涅槃講)行事の写真である。

伺うお家はネハンコのオヤ家を務めたT家。

ネハンコにお米貰い(※現在はお金もらい)にオヤ家の子どもが中心となった下荻に住む子供たちとともに各戸を巡る。

その子のおじいさんが応対してくれた。

荻坐神社の祭りに子供神輿を導入したSさん。

息子が初乗りしてくれた。

やがて村の子どもたちは減少化。

やむなきこと廃すことになったが、〆の納めに乗ったのが孫だった。

その孫も子供のネハンコを終えた次年度は中学3年生。

対象となる年齢は中学2年生まで。

クラブ活動が終わって帰ってきたときに伝える行事のお礼に写真を手渡し。

母親も喜んでくださった写真。

下荻にまだ下の子どもは要るがごく数人。

しばらくは実施できそうにあるが、その先が見えない少子化である。

(R1. 7. 7 SB805SH撮影)

都祁白石・刺しさばを売る店の先祖迎え

2021年02月21日 09時27分57秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
山添村勝原の盆のあり方を取材してから立ち寄った奈良市都祁白石町の辻村商店。

日暮れのころに先祖さんを迎える、と話していたので伺った。

13日の先祖迎えの日であっても刺しさばを求めるお客さんがやってくる。

只今販売中であることを伝える「遠くは江戸時代より続く都祁の里の刺しさば」。

看板は一日中、出しっぱなしだ。

なんと、看板下に、枯葉の束がある。

藁の松明でなく燃えやすい杉材の枯葉。

倒れないように繰り抜いた材に挿し、準備を整えていた。

今年の刺しさばは売れに売れた、という。

追加に作る刺しさば。

急なことであるが、お客さんのお願いだけに、大急ぎで作り、なんとか間に合った、という。



実は25尾も追加したと聞いたのは前日のことだ。

神戸から来た人とか、見知らぬ人がサシサバ売りの看板文字を読んで、車を停めるそうだ。

通り抜けてからわざわざUターンして戻ってくる車も多い。

うち一人は、奈良朱雀国際ビジネス企画指導先生。

桜井市棚倉に住む食の文化研究者として知られる富岡典子先生も。

サシサバ求めて来る人たちに、献本した『サバが大好き!旨すぎる国民的青魚のすべて』のコラム頁を広げて見せている、と奥さんが笑顔で伝えてくれる。

どうやらお店の宣伝に一役買っているようだ。

これなら都祁のお米も謳い文句つくって看板に揚げてみよう、と・・。

天気の具合を観て干す作業は、連続5、6日間。

日暮れ前に下げて、また翌日に干す。

急な雨にもすぐに対応。

晴れ間になる天気のえー日にまた干す。

その作業の繰り返しに、刺しさばは見事な焼け具合になる。

1回当たりに干す枚数は多くない。

刺しさば干しの取材に訪れた7月14日に20日。

以降も、お盆を迎えるまで、何度も作業をしてきた辻村店主である。

「自家製さし鯖」の文字が、食い気を誘う。

思わずよだれが出そうになる刺しさばの色具合。



売れに売れて3度も干した、という。

間に合わせるために、キズシ用に使う予定だった鯖までも・・。

また、お盆だけに蓮の葉も売っている。

只今、入荷の札を表示し、売っている蓮の葉。

大和郡山市の筒井に蓮を栽培している家がある。

蓮池は泥の池。

筒井れんこん”の名で評判高い大和の名産。県も推奨、認定された大和の伝統野菜の一つであるが、後継者問題などもあって近年は、少しずつ、蓮池は農地転用に。

若い人たちは見向きもしなくなった蓮根。

シャキシャキ感がたまらんほどに美味い蓮根。

おふくろの出里に母屋があった。

そこで食べた酢蓮根の味は、今でも口が覚えている。

我が家のお正月。

云十年前まではお節料理の一品に必ずあったが、中国産が広く市場を埋めるようになったころ。我が家から酢蓮根は消えた。

私の知るれんこん畑が一つ、二つと消えていく状況に、為す術もない。

そのような状況に、今年はさらに追い打ち。

不作の年に大きい葉が手に入らない、という。

仕方なく、他所で入手した蓮の葉であるが、大きな葉が見当たらなかったそうだ。

小さな葉であっても、購入するお客さんのために仕入れた。

足らなくなって、何枚もまた仕入れに走って、都合つけている。

お店の扉を締め、これからはじめる先祖さんを迎える火焚き。

火焚きの用具は枯れた杉の葉。

火点けに相応しい枯葉はすぐ火が点く。

杉葉が醸し出す松明は珍しい方法だと感心したが、実は例年なら藁松明に青竹を使用するらしい。

どちらであってもご先祖さんがお家を間違えないように火が灯った。



今夜は、大阪寝屋川に住む妹夫婦もやってきた。

仕出し料理の支援に就いていたご夫妻は、孫女児ととともに先祖迎えをする。

日も暮れる時間帯。空は明るいブルートーンから暗めの色合いに変化しだした。



おもむろに打ち出した鉦の音。

年長の孫女児が手にした小型の平鉦。

テンポ早い打ち方から、徐々に調子を落として打つ音色に。

灯した松明に向かって先祖さんがやってくる。

その間、店主の奥さんはずっと手を合わせている。



鉦打ちも、途中で妹にバトンタッチ。

小さなお手てで打つ鉦の音も、また愛おしく聞こえる。

迎え松明に火があるうちは、家の鉦を打ち続けるのが当家の習わしのようだ。

ご先祖さんを迎えて入れてから始める御詠歌。

屋内の座敷に設えた先祖さんを迎える棚。



仏壇から移した位牌の数々。

先祖さんから数えること六代に亘った位牌。

およそ19人の戒名を並べた。

六代前は東隣にある室生の多田。



もっと古い先祖さんは、大阪・摂津より室生に移り住んだ多田経実(つねざね)が祖。

摂津源氏の嫡流になる多田経実は源満仲(多田満仲)の8代孫にあたるらしい。

鎌倉時代の建保年間(1213~1218)に移り住んで土着した。

多田氏家の末裔になるT家は融通念仏宗派。

興善寺で行われる先祖供養に「多田屋敷云々・・」と回向されると話していた。

祭壇に盛ったお供えは、野菜に果物が溢れるほどに・・・。

黄色のマッカもあれば、大きな瓜に枝付き畦豆も。

青柿、無花果、胡瓜にキウイ。

奥に並べたそれらの下にはお皿に例えた柿の葉。

箸はオガラ。

先祖さんの人数分を並べた。

大皿に盛った果物は、桃に葡萄と蜜柑。

準備を整えていた先祖さんを迎えた棚に蝋燭の火を灯していた。

両脇に立てた盆提灯の明かり。

ここら旧都祁村辺りから田原の里、山添村など各地で見られるお盆迎えの置き提灯

お家によっては、縁の場に吊るす家もある。

先祖さんの他にも供える場がある。



大きな蓮の葉に盛ったお供えは、ガキサンを迎える棚。

これもまた、当家と同じように縁に、という処もあれば、屋外の場合も・・。

先祖さんの棚と同じように、シキビを立て、いろんな花を飾っている。

果物は葡萄に無花果、青柿が。

柿の葉にのせた胡瓜と茄子に小さな蝋燭に火を灯す。

よく見れば、その後方にもお供えがある。

あっ、と声をあげたそのお供えはみたらし団子。

お店に売っていた団子であろう。

”ぶっぱん”こと、仏飯は茶碗盛り。

お茶も淹れた。

お茶は、一日に数回淹れ替える。

古いお茶は、縁の下に捨てるのが習わしだ。

お孫さんが線香に火を点ける。



「手を合わすねんで」と云われて、拝ませてもらう孫たち。

そして始まった家族揃って唱える西国三十三番の御詠歌。

平鉦を打って導師を務めるのは当主のTさん。



「四国三十三か所におかれましては、第一番 紀井の国 那智山の御詠歌~」、を告げて、まずは一番の紀の国の那智さん。

導師が打つ鉦の調子は緩―く、長めに伸ばすゆったリズム。

隣村の小山戸や友田の方では、途中で早くなる、とか・・。

一番の歌詞の「補陀洛や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬」を唱える時間は、およそ1分間。

「ふ~ぅ~う~だ~ぁ~あ~く~ぅ~や~ぁ~・・・・」文字にするのが難しいくらいの調子で唱える御詠歌。

孫さんも、妹夫妻とともに唱える御詠歌。



1番から33番までを一気に通して唱えても1時間超え。

どこでもそうだったが、たいがいは24番の中山さんでひと息つけて、休憩。お茶をいただいたりしてから25番の清水寺から続きを再開する。

それなりの持続時間を保つ蝋燭であっても、途中で消える。



その間を見計らって蝋燭も休憩、ではなく取り換えて継続していた。

ちなみに、先祖さん迎えは、どことも8月13日であるが、送りの日は、地域によって異なるらしく、14日にする家もあれば、15日の朝にする家も・。・

※また、T夫妻が話してくれたサシサバ関連情報。

当店舗ではなく、大阪の鶴橋に、である。

鶴橋の駅近くにある大阪鶴橋鮮魚市場

左側に駐車場がある。

そこにサシサバを広げて干しているショウエイ(大黒屋;おおくにや)さんがあるそうだが・・。

大宇陀の人がしている、というから一度は訪ねてみたい仕入れ先の源流探しもまた、民俗取材である。

(H30. 8.13 EOS7D撮影)

白石町の虫干し・大般若経転読法要

2021年01月03日 09時26分10秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
数日前にも訪れていた奈良市白石町。

お盆に供える刺しサバつくりをしていた辻村商店店主のTさんが、教えてくださった虫干し行事。

行事の場は国津神社の社務所である。

寺屋敷の名もあるその場で六百巻もある大般若経経典の虫干しをするという。

すぐ近くにある融通念仏宗・興善寺の住職を迎えて拝んでもらう。

シキビで作法もするという大般若経は転読法要であろう。

経典を納めている籠は、山伏が担ぐような道具であるらしい。

元々は神社に寺があったという。

その寺名はわからないが、真言宗だったようだ。

氏子総代が参集して営まれる虫干しは、民俗行事の採録から外すことのできない「干す」テーマ。

事情で、店主は参加できないから、区長に伝えておくと云っていた。

虫干し行事が始まる30分前に着いた国津神社。

区の氏子総代が来る前から社務所を掃除していた役員さん。

お声をかけて、自己紹介ならびに取材主旨を伝えたM区長さん。

辻村商店にも立ち寄ることが多く、献本した淡交社刊、著書の『奈良大和路の年中行事』も見ておられた。

県内行事映像に感動したらしく、今、持っているなら買いたいと伝えられた。

ありがたいことに、この場におられた前区長のⅠさんも、お願いされた。

こういうケースはままある。

機会損失のないように、いつも車に積み込んでいるから、突然のお願いに応えることができた。

氏子総代らの集合時間は午前10時。

はじめに六百巻からなる大般若経典を棚蔵から下ろす。

その場は、神宮寺収蔵庫と表記している。

廃寺になったのか、区長らも存じない寺の歴史に大般若経が遺されていた。

経典箱は、重さがあるから2人がかり。



虫干しに広げる縁側近くまで運んでおく。

経典は、それぞれに巻数を表記し、収める箱、棚にも表記して収納する。

引き出し式の棚は10段。

一段の棚に10巻の経典を収納できるから1箱で百巻。

6箱で六百巻である。

蓋を開けて取り出した経典は、縁側に並べて虫干し。

昨年に入れておいた防虫剤。



昔は、樟脳(しょうのう)と呼んでいた。

今も、我が家の和服ダンスに樟脳を入れている。

樟の葉を見つけたら、ついつい嗅ぎたくなるが、現在、最も多く作られている防虫剤は、化合物のナフタリンであろう。

白石町の虫干し行事は日曜日。

固定の日ではなさそうだ。



元々の日程は何時だったのだろうか。

県内各地の事例から推定するに、土用干しを想定した。

農家は土用の入りに、根が生えた稲田の水を抜く。

田んぼを干上がらせて稲の根を丈夫にする。

農家にとっては重要な土用の入り。

世間では鰻がどっとお店に溢れる売り出し日である。

天日に布団を干すのも虫干し

それはともかく大般若経をこの日に虫干しをするのは、その土用干しと日にちが関連する。

ただ、どこの地域もそうであるかといえば、そうでもない。

旧都祁村の白石町周辺の近隣村ではほぼ20日辺り。

曇りでなく晴天のときにするという地域もある。



他の行事日に合わせた村もあるが、虫干しはやはり土用干し。

正倉院も納めている貴重な書物も虫干しをする。

そのおかげもあって正倉院展で貴重な宝物を拝観できる。

かつては曝涼(ばくりょう)(※衣類や書籍をカビ、虫から防ぐため、夏、或いは秋の天気のいい乾燥した日に天日にさらす虫干し)期間中に限られた人たちだけが拝見できた時代であったが、今は正倉院展で一般の人たちが拝見できるようになった。

白石の辻村商店の奥さんは土用干しと聞いて、梅干しを思い出されたが、土用入り辺りにほぼできあがるようにサシサバを干すのが一般的だという。

また、祭りの装束を干す地域もある。

桜井市小夫・天神社境内いっぱいに広げた土用三郎の日に行われていた虫干しの装束が、壮観だった。

虫干しは、古来から行われてきた通例でもあるが、一般の目に触れることは少ない。

さて、経典箱を開けた蓋の裏面に墨書があった。



ひとつは「染田寺大般若箱□上様□□入」、「六」。



二つ目に「白石村」、「染田寺大般若□□祈願成就□□」とある。



三つ目が「染田寺大般若大方殿様□□□入」、「四」。

区長ら他のみなさん方とともに判読したが、「染田寺」の存在すらわからず、ここまでだ。

一部が、室生の染田から伝わったのだろうか。

村の古い歴史でもあれば・・と思うがここまでだ。



引き出した経典は、収めていた箱近くに並べる。

その数多く、廊下の端から端まで広げて虫干しする。



1人が5段。

大般若するから500巻を並べたところで、「全部するんやでー」と指示が出て、結局は六百巻すべてを並べた。

この日は、急遽、寺年季が入ったことから午前11時より始まった。



僧侶は、融通念仏宗・興善寺の住職。

本尊、不動明王に捧げる大般若経。

祭壇に神饌御供を供えて、蝋燭に火を灯す。

座敷に座した白石北、中、南地区の氏子総代。



水湧、東部、都祁、八坂、古市場、南部に丸山垣内の7垣内の代表人である。

区長ら他、氏子総代の席には、虫干ししていた経典すべてを回収し、長机に積み上げていた。

六百巻の転読作法を9人で分担するわけだ。



まずは、転読法要に融通念仏勤行。

次に般若心経を一巻。

なむあみだー、なぶあみだー、なむあみだー、なんまいだーと唱えていた。

それでは始めましょうと、住職が合図されて始まった転読法要。

棚から取り出した経典、一巻ごとにペラペラ、ペラペラ・・。

住職は1巻目を取り出して、ペラペラ、ペラペラ・・。



アコーデオンのように広げて、右上から流れるように左下へ流す。

1年に一度の転読に、経典が上手くさばけない。

どちらかといえば、頁をめくるようにパラパラ・・。

なかなか上手いことできんなぁ、と転読する区長さんらの表情は笑顔で緩んでいた。



本来なら、「だーーい はんにゃきょうーー」と大きな声を挙げて転読されるのだが、にわか坊主では無理がある、と笑って作法する氏子総代。

住職も、唱えることのない「だーーい はんにゃきょうーー」。



一巻を転読したら、長机に叩きつけるように、バンバン打つ。

縁側に置いてお日さんにあてて虫干し。

経典をこのように広げるのも虫干し。

バンバン叩いて虫を落とすのも、白石の虫干しのあり方だ。



経典は、こうして綺麗にしておかないと、カビが生える。

だから、力を入れて転読するが、湿気に経典の一部が、密着状態。頁がうまく剥がれてくれないから、苦労する。

経典一巻を順次、箱の棚から取り出してパラパラとめくる。

そのめくる作法。

経典を広げるように、空中から下にあるいは左右へ流す。

そうすることで頁が、さらさらとめくれるようになるが、千切れてしまわないかと、不安もあるからそろっと流す。

上手い人は右手にもって、左手で撫でるようにパラパラと・・。

何度もされている村役は、サラサラと綺麗に上から落とす名手のように見えた。

人それぞれに流し方があるようで、見ていて、それぞれが工夫している、と思った白石の虫干し・大般若経転読法要である。



すべての経典を終えるころに唱えた一巻の般若心経。

最後に、なむあみだー、なぶあみだー、なむあみだー、なんまいだー。

1時間ほどかけて行われた転読法要は、南無阿弥陀を唱えて終えた。



さて、大般若経は真言宗派以外の宗派にあるのだろうか。

ふと、疑問に思ったネット調べであるが、天台宗に曹洞宗や臨済宗、浄土真宗にもあるとわかった。

また、融通念仏宗総本山の大念佛寺にもある転読大般若

宗派問わず、広く、教義されている。

唐の三蔵法師のお一人であった玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が、17年の歳月に亘って、インドより唐の国にもって帰られた尊いお経が「大般若波羅蜜多経」。

巻数は六百巻。字数にすれば、6億4千万にもおよぶ文字数。

その功徳に際し、目を通すだけでもご利益があるといわれている大般若経。

文字を見るだけでもありがたく、翻訳後の百日に、玄奘三蔵は亡くなられた。

転読とは、一つの経典をすべて通読する真読(しんどく)に対して、経題や経の主要な部分を拾い読むことをいう。



なお、村役や氏子総代は国津神社のお勤めもある。

毎月の一日は“さへい“と呼ぶ月次祭がある。



また、同じ場で、1月10日に近い日曜日は、仏事行事の「オコナイ」もあるそうだ。

また、機会を設けて正月早々に伺いたい初祈祷行事である。

(H30. 7.22 SB932SH撮影)
(H30. 7.22 EOS7D撮影)

都祁南之庄・国津神社の簾型注連縄

2020年09月10日 17時56分12秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
久しぶりに立ち寄った今は奈良市であるが、十数年前までの行政区域は都祁村であった都祁南之庄。

17年前の平成15年からちょこちょこと村々を訪れては年中行事を拝見していた。

南之庄の氏神さんは国津神社。

初めて拝見した行事は結鎮であるが、神職は登場せずに歓楽寺住職が打つ鬼的打ちであった。

祭りごとは本社の国津神社でなく末社の歳徳神社であったが、平成24年を最後に幕は下ろされた。

頭屋家に調えられる結鎮御供に弓、矢、鬼的などの祭具作りがあった。

明治時代の初めのころに纏められた「結鎮方法目録」に基づいて作っていく様相の一部を撮らせてもらった。

それから幾たびか訪れては年中行事を拝見してきたが、注連縄作りだけは日程が合わず、取材落ち。

この日は隣村の白石にあるオコナイ行事の取材。

時間が間に合うので寄り道して拝見した。

簾型注連縄は今年も継承されていた。



ただ、なんとなん架ける位置が違うような気がする。

平成18年の12月30日に撮った映像と見比べたら・・・・。



当時は門松の松に架けていた。

大きな松だったからできたのだろう。



今は象の鼻のように見える「木鼻」に架けている。

長さも合わせて若干短くしたようだ。

ちなみに旧都祁村で同じように簾型注連縄を架けているのは小山戸に鎮座する都祁山口神社だけであろうか。

振り返り見れば、簾型注連縄は大和郡山市内だけでなく他市町村にも見られる。

奈良市、天理市、田原本町、斑鳩町に旧都祁村にも存在していた。

(H31. 1. 6 EOS7D撮影)
(H18.12.30 Kiss Digtal N撮影)

白石町・国津神社の門松立て・勧請縄

2020年07月31日 09時22分15秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
長谷町のT家の習俗を取材し、午前中の時間に余裕が生まれた。

宛てもなく、さてどこへ行こうか。

時間の許す限りの民俗散策に立ち寄った奈良市白石町・国津神社。

伺ったこの日にされていた門松立て。

朝早くに集まった宮守さんらが立てた門松。

先に拝見した場は祓戸社。

両手を拡げたように見える立派な松の形に圧倒される。

門松飾りは松、竹、梅のほか赤い実を付けた南天に葉物の葉ボタンもある。



拝殿前に設えた門松も出来上がった。

時間帯は午前11時過ぎ。



砂利を敷いている境内に落ちた樹木の葉や作業にこぼれた屑塵などを掃いて奇麗にしていた。

翌年に迎える国津神社の元旦祭。

正月三が日過ぎの日曜日に行なわれる初行事がある。

今年の夏、辻村商店の奥さんから聞いた初祈祷のオコナイ。

お寺さんはすぐ近くにある融通念仏宗派興善寺。

神社・社務所内で行われる神宮寺行事と云われる初祈祷は僧侶とともにあげる般若心経中にランジョー所作をされるようだ。

宮守さんに取材許諾し、どうぞ良い御年を、と挨拶して場を離れた。

次の行先は、宮守さんらが、先に済ませたという勧請縄かけの場。

その場は、雪が積もった平成27年1月3日に来たことがあるからすぐわかる。



集落辻にかけた勧請縄を見上げる。

大木間にかけた一本の綱。

ロープのように見える勧請縄であるが、印しが見つからない。

実は、平成27年1月1日にも立ち寄っていた。

その1月1日にも見つからなかった印しが、再訪した3日はくっきりはっきり鮮明に見えた。

そんなことがある不思議な勧請縄。



本日も、目を凝らして探してみたが見つからなかった

(H30.12.25 SB932SH撮影)
(H30.12.25 EOS7D撮影)