マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

千股・ささいわ祭の山の神

2018年06月01日 08時56分48秒 | 吉野町へ
大宇陀野依、栗野に吉野町の小名を探訪してからの帰路の道をどこにするか。

小名から吉野町の佐々羅に下って新鹿路トンネルと思って車を走らせていた。

ふと思い出した明日香村桧前(ひのくま)。

Ⅴ章の年中行事の章に「5月8日、桧前のウヅキヨウカは花より団子といってツツジやカヤを括って竿を立てたら、鼻の高い子ができる」と書いてあったのは、昭和62年3月に発刊された『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』である。

調査および報告、発刊したのは飛鳥民俗調査会。

名の有る執筆陣であるが、そのことは今でもしているのかどうかは伺わしい。

というのも奈良県内で、ウヅキヨウカのテントバナをしていることは考え難いのである。

コイノボリは揚がっているが、テントバナはいわゆる旧態に属する民俗。

あれば奇跡的・・だと思うのであるが、念のためのと思って明日香村桧前を目指す。

セットしたカーナビゲーションシステムが誤解したのかどうか、わからないが新鹿路の道はなぜか案内せずにこれまで行ったことのない道を誘導する。

こうなれば試したい気持ちが強くなる。

さて、ここを行けばどこに着くか、である。

走っている道はなんとなく旧道のように思える。

集落を抜けたそこ、に・・。

川を挟んだ向こう岸に小祠がある。

その祠の前に注連縄のような祭具が見えた。

太い注連縄が崩れたような形になったモノがぶら下がっている。

ここはどこなのだ。

カーナビゲーションシステムが表示する地域名は吉野町の千股(ちまた)であった。

車を停めて向こう岸に歩いていった。

小祠の向こうにあるのは立岩。

そこに文字があったからわかった山の神さんである。

小祠の前にぶら下がっていた藁製の祭具は一体何であろうか。

ぶら下がる太い部分内部に何かがあるような気がする。

その横にもぶら下がる藁細工。

モノは小さいが草鞋のように思える祭具。

丸っこい草鞋で思い出すのは牛の草鞋。

御所市鴨神・大西垣内の申講の山の神行事である。

牛の草鞋事例はもう一つ。

桜井市笠・牛頭天王宮の「テンノオイシキ」の祭りにあった牛の草鞋は鳥居にかけていた。

2例の事例より想定した千股の藁作り祭具である。

このことについて早急に調べたくなって集落に戻ってみる。

それほど離れていない場に散歩休憩中の二人の男女が椅子に腰かけていた。

先ほど見てきた藁飾りの祭具がご存じであれば、と思って声をかけたら、詳しいことはすぐ近くにすむNさんが一番だという。

何故ならその藁細工はNさんが作っているというのだ。

その作り方は難しく、若い者にはまだ伝授されていない、というから、先にある行方が見えてくるのが怖い。

訪ねた家におられた男性は少し耳が聞き取り難いという昭和3年生まれのNさん。

この年が89歳のNさんは、よくぞここを訪ねてくれたと喜んでくれる。

奥にいた奥さんも玄関土間にやってきた。

足が不自由な奥さんも喜んでくれて、冷たい飲み物でもてなしてくれた。

Nさんが云うには、祭りの日までに作っておくという。



あの太くなったところには12粒の小豆を入れているという藁棒。

牛の草鞋だと推定した藁細工はナベツカミだというNさんの説に、なんとなくそう見えないこともないが・・・。

現在は10月末の日曜に移したというささいわ祭りである。

旧暦の9月晦日にしていたささいわ祭りはやがて固定化されて10月30日に移して継承してきたが、近年になって村の人が集まりやすい10月末の日曜に移したという。

山の神の地はささいわ祭りの出発地。

火を点けた松明を翳して下流に向かう。

その在り方はまるで田の虫送りに似ているが、時期は雲霞の発生する時期とはずいぶん離れているから虫送りとの関連性は極めて薄いと思える。

昔、子どもが多くいたころは二手に分かれてしていた村行事。

西と東に分かれている地区ごとに出発する。

以前は山の神の地であったが、今はもっと下った地からようだ。

西と東の地区の子どもたちが松明を振り翳しながら、向こう岸にいる子どもたちに悪態を囃し立てる。

かつては石を投げ合ったというから印地(いんじ)争い、若しくは印地打ちのような様相である。

今ではそうすることなく松明を翳して下流で合流する。

それで終わりでなく、出発前に山の神に供えたセキハンのにぎりめしを食べているという。

帰宅してわかった千股で行われている「ささいわ」という行事。

数年前に知人のHさんが史料として送ってくれた昭和28年刊の『奈良縣綜合文化調査報告書-吉野川龍門地区-』が詳しい。

一般的に米を挽いて粉にしたものを水か湯で練ったシトギと同音語のシトギがある。

千股では藁細工したモノをシトギと呼ぶらしく、を千股集落ではこれを“ホデ”であると書いてあった。

ぶら下げていた太めの藁細工は“シトギ”であるが、他村で見られる山の神に奉る藁細工は“ホデ”の呼び名というのも面白い。

私が牛の草鞋と推定した藁細工は“ミミツカミ”とある。

その説明に「鍋の耳を掴む道具」とあるから、家庭的民具のナベツカミ道具と思いこんだような気がする。

何故ならナベツカミには曲がりのない構造。

平たい構造である。

ところが牛の草鞋は牛の足に履けるように曲げをつけて細工している。

シトギと呼ぶホデやミミツカミに注連縄も作る。

12粒の小豆を入れるシトギ。

閏年は13粒にするそうだ。注連縄とともに山の神の祠の側にある木に掛ける。

ミミツカミと箕は握り飯と一緒に山の神に供える。

また、竹の“ゴー”を二つ作ってお神酒を入れてぶら下げる。

さて、“ゴー”とは何である、だ。

県内事例からいえば“ゴー”は竹を割って作る“ゴンゴ”の神酒入れである。

平成21年12月19日に拝見した奈良市柳生町・山脇垣内の山の神に割った竹を2本挟んだ道具は神酒入れ。

これを“ごんご”と呼んでいたことを思い出す。

山脇垣内の山の神にバランの葉に載せてトンド火で焼く“シトギ”がある。

山脇垣内でのシトギはまさに米粒から挽いて作る食べ物である。

こうした疑似例から推測するに、千股でもかつては食べる“シトギ”があったと思われるのである。

いつしかシトギ作りが廃れてしまって“ホデ”がシトギの名に転じた、と思われるのである。

現在はお米と12粒の小豆(閏年は13粒)を入れているということから、米粒はかつてシトギであったと想定できる。

いつしか内部に入れていたシトギが米粒に替わった。

米粒になったが、藁で作った本体のホデをシトギと言い表すようになったと考えられるのである。

今年の10月の最終日曜。

それまで元気にしていてくださいと声をかけてN家を出た直後である。

注連縄もそうであるが、若い者が作れなくなってきたので、例年ともNさんにお願いして草鞋一足も作ってもらっていると、N家を出てからお会いした同家北にお住まいのN家の婦人もそういっていた。

(H29. 5. 8 EOS40D撮影)
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小名・新築庚申堂は移転の場

2018年05月31日 08時42分06秒 | 吉野町へ
大宇陀の野依、栗野を抜けて吉野町に。

国道370号線が国道28号線と交差する地点に信号がある。

その表示は三茶屋(みっちゃや)である。

ここより信号折れしてトンネルを潜れば吉野町の小名(こな)に着く。

下垣内から中垣内。

そして上垣内を巡ってみるが、やはり見つからない。

当地で聞取りをしていた知人のHさんが聴いた話ではごく数年前まで卯ツキヨウカのテントバナをしていた、ということだ。

Hさんが聴きとった年は平成25年。

その年から数年前。

1軒のお家がしていたということだが、知り得る人もまた探すのも難しい。

車を走らせた奥の上垣内。

そこに地蔵堂が建つ。

山の上にあった地蔵堂を下ろしてここに移転したという。

平成26年4月3日に訪れて撮らせてもらった上垣内の地蔵さんの祭り。

このときのお堂は地蔵堂だけが建っていた。

その隣に真新しいお堂がある。

その場より車道側のコンクリート造りの崖。

その崖に凹みがあった。

拝見したのは平成24年の12月7日だ。

北谷の山の神行事を取材した折に足を伸ばした場のコンクリート造りの崖は山崩れの防止対策。

その凹んだところに安置していたのは青面金剛仏の庚申仏だった。

この日に訪れてみた崖にそれが見当たらない。

もしかとすれば、この新しく建てた小堂に遷したのでは、と思った。

お花を立てているところを考えれば、すでに安置済みであろう。

辺りをぶらぶら歩いていけば話し声が聞こえる。

そこに居られた二人は幾つかの行事取材でお話してくださったかつて総代を務めていたIさんと、小名の花まつりに当屋を務めたことのあるMさん。

小堂のことを聞けば、やはり移転したということだった。

Iさんが思い出す昭和30年代の民俗行事。

小名の端午の節句は菖蒲に蓬がつきものだった。

長めの蓬葉は屋根の庇に挿した。

カヤに栗と枝豆をお月さんに供えていた宮さんの行事があった。

Iさんの出里は吉野町の津風呂。

その津風呂の鬼輪垣内の3軒でしていた豆名月があった。

豆名月の日は旧暦の8月15日。

垣内周辺に住む子どもたちが豆たばりに来ていたという。

鬼輪の豆名月を調べに訪れた吉野町の津風呂湖。

鬼輪を探してみたものの、わかったことは津風呂湖の湖水に沈んだということだった。

調査に立ち寄った日は平成28年の8月28日

当時の関係者の記憶を聞けたのが嬉しかった。

Iさんが続けて話される当時の体験記憶はまだある。

稲作における民俗である。

一つは6月の田植え。

カヤを挿していたというから、植え初めの作法である。

本数は聞けなかったが、おそらく12本のカヤ。

田植えを始める前に田んぼに挿す作法である。

5月はマクラと呼ぶ2本の藁束を苗代田に置いた。

そこにイロバナも立てていた。

話しの様相から大宇陀の平尾と宇陀市榛原萩原・小鹿野玉立の水口まつりの様相と同じだと思った。

マクラと呼んでいたのは平尾のI家である。

遠く離れているこの三つの地域と直接的な関連性はないと思えるが、何らかの生活文化が伝わったのでは、と思える記憶の断片である。

すくすくと育った稲が稔れば稲刈り。

12月に稲刈りをしていたのは、当時は麦も作っていた、二毛作時代の農事暦だったからである。

そんな話を聞いた小名にコイノボリが揚がる。



風を待っていたが・・・。

(H29. 5. 8 SB932SH撮影)
(H29. 5. 8 EOS40D撮影)
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樫尾十二社神社の節分の豆御供

2017年11月29日 09時10分22秒 | 吉野町へ
川上村高原に住むⅠ家の節分を拝見して下ってきた県道169号線。

いつも通る度に気にかけていた神社がある。

吉野町の樫尾(かしお)の地に鎮座する十二社神社である。

車窓に人影が写った。

ガラスウインドウではなく流し目した視線に入った人物は高齢の婦人である。

思わず停車した倉庫前。

カメラをもってその場から駆け付けたら、本社殿に登る急な階段下にじっとしていた。

たぶんにお参りされているのだろう。

その姿に思わずシャッターを押してしまう。

拝礼されて頭を下げておられた婦人の後方。

道路際に建つ木造の鳥居から本社殿を眺める位置に参拝する高齢者を配置してシャッターを押す。

ここからは境内内。

砂利を敷いている境内を歩くには音が出る。

驚かしてはなるまいと、近づくこともしなかった。



時間は短時間と思うが、佇んで拝見していた私の感覚では長時間だった。

立ったままずっと拝んでいた婦人はもう一度頭を下げてお参りを済まされた。

ここでお声をかける。

婦人は昭和6年生まれのSさん。

節分の日には数え年に一つ足した煎り豆を供えて、一巻の般若心経を唱えていたという。

事後承諾になった後ろ姿のお参りに感動したことを伝えたらはにかんでおられた。

毎年、こうしてお参りにくるのは厄祓い。

畑でこけたこともあったのでお参りに来たという。

この日は神事もない節分であるが、村人めいめいが夕刻前に参拝しているという。



そういえば、階段に参られた人が供えていったオヒネリ包みの豆がある。

婦人以外に二人の参拝があった。

時間帯は午後5時前。

夕暮れは近い。

婦人が参っていた階段下両脇の境内に建つ灯籠に正徳五乙未年(1715)の年代刻印が見られる。



「奉寄進 常夜燈 正徳五乙未年十一月吉日 吉野郡樫尾氏子」とあった。

樫尾(かしお)の社務所に掲げていた神社表記に三社。

「十二社神社」、「式内川上鹿塩神社」、「天皇神社」の三社である。

お参りをされていたSさんが話してくださる神社行事。

毎月の1日、15日は朝8時から境内の清掃。

老人会が主となった掃除をしている、という。

どおり、である。

いつ通っても境内が綺麗なのはそういうことだったのだ。

祭りは11月22日と23日。

22日は8時半から一日早いゴクマキをする。

餅搗きは前日の21日。

朝4時に集まる厄年の人。

42歳、61歳の厄年の男性がその日に厄祓いする餅搗きである。

餅搗きは朝6時から搗き始めるというから、早起きもよほどの早起きをしないことには到着しない。

我が家から当地へ行くには1時間以上もかかる。

現況の身体状況では無理があるから断念するが、餅を丸める時間帯であれば、なんとかできるかも・・。

Sさんの話しによれば、歩きで行ったら40分の所に五社神社(※川上鹿塩神社)があるそうだ。

搗いた餅をもって上がって参拝するのは厄年の男性たち。

軽トラに乗って出かけるらしい。

五社神社の他にも天王さんなどミトコ(三所)もあるという各神社に参拝して餅を供えるそうだ。

うち一カ所は十二社神社から見える急な山道の向こうになるという。

そこが五社神社なのかそれとも天王さんなのか。

Sさんが云われる天王さんは社務所に掲げていた神社名の一つ。

天皇神社であろう。

で、あれば天王さんは牛頭天王社が比定されそうである。

23日はゴクマキ。

村の人、大勢が集まってくる、という。

なお、8月14日は樫尾の盆踊りがあるらしい。

村の盆踊りが廃れていく時代になったが、樫尾では今尚盛ん。

一度は拝見したくなってもみる。

(H29. 2. 3 EOS40D撮影)
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佐々羅不動明王のアオキ葉注連縄

2017年11月18日 09時16分54秒 | 吉野町へ
吉野町丹治の厄除け祈願参りを取材したら北上する。

走行距離はどれほどあるのか。

目指す地域は京都府南部。

丹治から新鹿路のトンネルを抜けようとしていた道すがらに神社らしきと思われた石柱構造物があった。

この日は2月1日。

もしかとすればであるが、二ノ正月にお供えがあるのではと思った。

その勘はずばりの大当たり。

県道37号線を北上する街道の左側に、である。

佐々羅の四叉路信号を越えてからすぐ近く。

とは云っても歩きではそうとうな距離にある。

階段を登ってみれば、そこには社殿もなかった祭場。

灯籠に「不動明王」の刻印があったことから、ここは不動明王を祭った場であった。

平成21年4月吉日に施行されたさい銭箱に男女25人の寄進者名が刻まれていた。

地区はどの垣内になるのかまったくわからないが、この辺りに住む人たちに違いない。

さて、不動明王の祭場である。

中央は奥の不動明王石がある。

それを拝見するにもガラス張りのローソク立てで見えない。

その前にお供えが三つ。

いずれもミカンである。

ガラスコップにコーヒーカップはお酒であろうか。

それよりも気になったのが左側の神さんを祀っていると推測される社の前に置かれた注連縄である。

ウラジロに手造りの注連縄にミカンもあるが、葉っぱにえっ、である。



注連縄であれば、間違いなくユズリハであるのが、ここは赤い実をつけたアオキである。

付近を歩いて探索したら同じ実のアオキがあった。

身近にあったアオキが注連縄飾りに適用されている事例は初めてである。

(H29. 2. 1 EOS40D撮影)
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丹治の厄除け地蔵参り

2017年11月17日 09時45分02秒 | 吉野町へ
吉野町の丹治に厄除け地蔵参りが行われていると知ったのは奈良新聞に載った記事が発端。

行事というか、丹治の風習のような。

何十カ所に亘って出かける地蔵参りに1カ所ずつ餅を供えると云う厄除け祈願であった。

吉野町在住と思われるTさんが投稿した平成22年2月2日掲載の「雑記帳」記事にその在り方を次のような短文で紹介していた。

「私の住む吉野山のふもとの丹治地区には何カ所もお地蔵さんがあり、住民の生活の中にある糧、安らぎを与えてくれます。この地区の風に、男性42歳の厄年になれば餅(もち)米一升で42個のお餅を作って2月1日にその数だけのお地蔵さんにお供えして厄除け祈願をするという習わしがあります。昨今はこの風習も実行されることが少なくなったようですが、私は息子の前厄、本厄、そして今年2月1日は後厄で3年続いた地蔵まいりを無事終えてほっとしました。・・中略・・このお地蔵さんはいつごろから存在したのか、また、こういう風習がいつごろ始まったのかは分かりません。隣接する他の地区ではこういう風習は聞きません」とあった。

続いて書かれていた文は「8月24日の地蔵盆には、赤、黄、緑の色を散りばめて花や野菜などの抜き型で抜いた美しいしんこと呼ばれる米粉のお団子をたくさん盛ってお供えする習わしも、この地区だけのようです」である。

タイトルは「お地蔵さん」。

丹治に2件の行事と風習をされているのなら、是非とも取材をしてみたいと思って車を走らせた平成24年2月1日

到着した時間帯は午後1時。カーナビゲーションも装備していなかったころは予めパソコンで印刷出力しておいた丹治の地図を片手に地区を探してみた。

旧街道におられた製材所を営む男性に尋ねてみた丹治の厄除け地蔵参り。

ご主人の話しによれば、今朝7時に奥さんが厄除けの地蔵参りをしていたそうだ。

ご主人の息子さんの厄は今年が前厄。

息子は仕事にでかけたが、地蔵さんにお餅を供えて巡拝したのは奥さん。

厄除け対象年齢になった男も参拝することがあるらしいが、地区では決まって男性の奥さんが巡拝の役目を担っているという。

ちなみに独身であれば、どうなるのか。

その場合は母親が巡拝する、という。

すべての地蔵さんを参るには1時間もかかるらしい。

その年に厄年になった男が複数人の場合であっても、それぞれの家ごとに巡拝するからどこで出会うのかわからない。

出会えたらまだ良い方だが、対象年齢の男がいなければ、いくら待っても出会うことはない。

自治会でもなく、講でもない。

団体集団でもないから、出発する時間も、初めに参る地蔵さんもそれぞれであろう。

ましてや対象年齢の男を地区で把握しているわけでもないので、取材は非常に難しいと感じたこの日であった。

2年後の平成26年2月1日にも訪れた。

2年前に聞いていた午前7時が出発時間。

前厄を済ました男性はこの年であれば後厄になる。

お家もわかっていたのでやって来たが、午前9時半まで待っても現れなかった。

仕方ないが諦めた。

ただ、巡拝されているならお供えが残っているかもしれないと思って、付近の地蔵尊を探してみる。

1、2、3、4カ所の地蔵さんを探してみたが、お供えは見つからなかった。

その理由は聞かずじまい。

その代わりといっては何だが、8月24日に行われている地蔵盆に「シンコ」団子を供えているという婦人に出会った。

「シンコ」団子以外に驚いたのが野菜などで作った造りものもあると知った。

「雑記帳」に投稿されていた地蔵盆の在り方を記録写真で拝見できたわけだ。

その年に早速拝見した丹治の地蔵盆行事

地蔵さんがあるところそれぞれの垣内ごとに行われている。

それらの地区は分かっただけでも上第一・第二・第三・中一組、向丹治、地蔵院、金龍寺、中二組(木戸口垣内)。

他にも数か所の地区でしているらしいが、調査する時間もなくて諦めた。

それは近鉄電車吉野神宮駅より南に向かう山の中にもあれば線路沿いの地もある。

駅近くの製材所に中二組(木戸口)から東に下った地にもあると話していたが・・・時間切れだ。

それから2年後の平成28年8月24日

写真家Kの希望を叶えたくて訪れた丹治の地蔵盆。

特に見てもらいたかった向丹治の地蔵盆。

この日に出会ったお家でシンコ団子作りを取材させてもらったご婦人が話してくれた厄除け地蔵参り。

この年が本厄参りで翌年の平成29年は後厄参りをする予定があると云う。

後厄になるのは娘さんの旦那さん。

仕事で生憎参られないが、娘さんに婦人夫妻がすべての地蔵さんに参って餅を1個ずつ供えると話してくれた。

まさか、このお家に厄除けの男性が・・・。

千載一遇の機会は逃しては一生悔やむことになるだろう。

思い切ってお願いしたら承諾してくださった。

ちなみに奈良新聞に投稿された「雑記帳」の記事を書いた女性はよく知っているという。

新聞記事を拝見してから7年も経っていた。

奇遇な出会いによってようやく実を結ぶ。

だいたいが朝の7時に出発するが娘さんの都合もあって子どもを保育所に送る関係もあって、それからにすると話していた。

また、地蔵さんに供える餅は家で搗くのではなく、和菓子屋さんに頼んでいるからそれが出来上がって受け取ってからになると聞いていた。

受け取り時間は約束できないが、その前後になるようだ。

そして、その時間帯に合わせてやってきた向丹治。

お家近くの道路で出会った3人は自家用車で巡拝する。

実はと云ったのが向丹治の山の中におられる地蔵参りは先ほどしてきたというのだ。

山の中におられる地蔵さんは向丹治の地蔵さん。

年に一度の8月24日は向丹治の集落に移される地蔵さんである。

そこに参って近鉄電車の吉野神宮駅近くの踏切にある2体の地蔵さんにも供えてきたという。

そこの参拝を終えて戻ってきたという。

携帯電話の番号を伝えておけば良かったね、と云われてもう遅い。

ここから再出発する地蔵参りは旧街道を順番に下りていく。

はじめに巡拝されたのは上第一地区の地蔵さん。

地蔵盆を終えてから地蔵堂は土台を残して撤去していた。

それから数カ月には新築された地蔵堂に戻された。

屋根は銅板に葺き替えられて美しくなった。



ローソクを灯してオヒネリに包んだ餅1個を供えてお参りする。

次はそこより下った地にある上第二地区の地蔵さん。

上流の吉野温泉地辺りから流れてきた水流は丹治集落を南北に流れ落ちる。

やがて本流の吉野川に流れる水流であるが、その途中の三叉路に架かる橋のすぐ近くに建つ地蔵堂がある。



そこも同じようにローソクを立てて火を灯す。

御供餅はオヒネリ包み。

仮に地蔵さんがここに2体あれば2個の餅を供える。

丹治すべてのお地蔵さんに供える後厄の餅の数は43個。

前年の本厄であれば42個の餅。

3年前の前厄であれば41個の餅を供えるのが習わしである。

3年間に餅は1個ずつ増えるが原材料の餅米は一升である。

搗いた餅をそれぞれの個数にしていたというから分配する計算が難しかったと想像できる。

次は橋を渡らずに右奥手にある地蔵さんに参る。

その場は上第三地区の地蔵さん。



ここも同じようにローソクを立てて火を灯す。

同時に餅1個をオヒネリにしてお供えすれば3人揃って手を合わせる。

願い事は厄除け一筋。

若い旦那さんの健康を願って拝んでいた。

ここは中垣内。

地蔵さんから見て北に向かって見上げる。

頂上はまったく見えないが、その山は城山(しろやま)の地

かつて蔵王堂を本丸、奥の高野山の高城城(標高702m)を詰城。

濠の役目をしていた吉野川の南岸に出城の丹治城(標高260m)を築いたそうだ。

中垣内の人たちに、いっぺん見に行っておいたらいいよと云われていたが、この日はその余裕もなかった巡拝取材である。

旧街道は狭い道。

通行の邪魔にならないように停めていた車に乗って北上する。

距離にすれば遠くもない地に地蔵院がある。

お寺さんに申し出て参らせてもらう本堂に延命地蔵尊が安置されている。

本来なら本堂の上り口に餅を供えるだけであるが、お寺さんのお許しをいただいて上がらせてもらって祈願する。



燭台にローソクを3本立てる。

厄除け祈願に訪れた3人の数のローソクに火を灯して祈願する。



地蔵院には別室に地蔵菩薩立像も安置している。

その部屋でもローソクを立てて火を灯す。



お供えの餅1個を祭壇に置いて手を合わす。

これまでと同じように時間をかけてきっちり唱える厄除け祈願である。



地蔵院からそれほど遠くない木戸口垣内の地に建つ浄土宗金龍寺にも巡拝されるが本堂ではなく境内にある地蔵立像である。

中央に立つ地蔵さんも両脇にちょこんと座った地蔵さん、それぞれにオヒネリに包んだ餅を供える。



ローソク立ては木片に2本の燭台。

火を点けてから手を合わされる。



その右隣に建つ地蔵堂は古くから安置されている地蔵さん。

お堂の扉を開けてオヒネリ餅を供えて手を合わせる。



ちなみに前述しておいた丹治城への登り方だ。

実はここ金龍寺の裏にある山が出城の丹治城。

山頂に向かう小道を登っていけば、西曲輪や帯曲輪ならびに主曲輪に到達するようだ。



次の地蔵さん巡りは金龍寺下の四叉路の角地に立つ木戸口垣内の地蔵さん。

丹治公民館下でもあるこの地蔵さんすぐ横に郵便ポストもあるからわかりやすい。

次は場所が離れて製材所が立ち並ぶ地域に向かう。

すぐ近くには吉野水分神社があるようだが、そこではなく製材所の角地に建つ地蔵堂である。



土台などは新しいが地蔵堂はそれほどでもなく古くもない。

近年において土台だけを整備されたように思える。

参っては次の地蔵さんに向かう。

その繰り返しもここらあたりで終わりかと思えどもまだまだ続く厄除け地蔵参り。

再び戻った道は東西を走る旧街道である。

木戸口垣内から東は飯貝(いがい)の地区。

街道から南側に奥まったところに建つ地蔵堂がある。

世話人は飯貝の飯貝茶屋/第三隣組。

ここもそうだが、丹治、飯貝の地蔵さんは綺麗にしてはる、と思った。

第三隣組の地蔵さんはやや高台。



覆い屋根があるから雨の日でも安心してお参りができる。

お花も手向けているが、お地蔵さん側に花びらを向けているのが嬉しいが、どうやって上がったのだろか。

ここよりさらに下って、というか、東に向けて車を走らせる。

勢い余って通り過ぎてしまうくらいにわかり難い土地勘もあるし、車を一時停車させる場所も難しい。

対抗する車に迷惑をかけたくない。

気持ちは少しでも離して停めざるを得ない旧街道に神経をつかう。

次の行先は「神武天皇旧跡 井光の井戸伝承地」を誘導する看板が目印。

その伝承地ではなく街道から少し歩いたところ。



石で作った扁額「水分大明神」をかけている鳥居右横にある地蔵堂である。

鳥居の先、300mほど登った地に鎮座する飯貝の水分神社があるらしい。

お参りされている向こう側にある街道にグリーンマークの「30ゾーン」表示が見えるから、この街道の最高速度は30km以内。

速度を増しておれば対抗する車に気づくのが遅れて、事故を起こしかねない街道は要注意だ。

巡拝に残すはあと2カ所。

もうすぐ満願する。

街道はさらに東へと向かった先の一段高い地に建つ地蔵堂。



ここもまた飯貝であるが、在垣内はどこになるのだろうか。

どの地蔵さんであってもローソク灯しに餅御供は欠かせない。

今年は後厄の43歳であるから餅は43個も供える。

前年の42歳は本厄で餅は42個。

前厄の41歳は41個。

厄年の歳の数の餅を供えて厄祓い。

3年間とも一升の餅米で搗いた餅を供えて気がする。

およそ14カ所にもなる丹治・飯貝(一部)の地蔵さん巡拝は残すところあと1カ所。

旧街道から離れて大河の吉野川の畔にでる。

堤防沿いの道は車も通行が可能。

桜橋南詰め傍に建つ地蔵堂にラストラン。

並んだお堂は二つ。



手前の地蔵さんに参拝してすぐ横に建つ地蔵堂に向かって手を合わすこの地の地蔵さんは上ノ町の地蔵尊である。

厄に各地区に安置する地蔵さんに厄除け餅を供えてきた。



これほどの箇所に亘って地蔵参りをする地域は奈良県内では聞いたことがない。

こうして厄除け祈願した餅は関係者でなくても貰える。

もちろん祈願した餅である。

供えた餅は厄除け祈願を込めて参った地蔵さんのお下がり。

厄の人は出会った人に下げた厄除け餅をさしあげることができる。

受け取った人はありがたい餅ではあるが、差し上げた厄の人からみれば、受け取った人に厄移しをしたということになる。

そう話してくれたF家族。

厄移しをしてくださった餅はありがたくいただいた。

数時間に亘って貴重な風習に同行させていただき感謝する次第だ。

この場を借りて厚く御礼申し上げます。



「・・・地区の昔の人は一番身近にあった地蔵さんいろいろな願い事をして生活の中に溶け込んでいたのでは?と思います。現在も毎日必ずお地蔵さん参りをしている人も見受けられますし、順番でお花やお水を取り換えている所もあります。・・中略・・人々の生老死を見つめてきたお地蔵さん、どうかいつまでもみんなを見守ってください」と投稿者が結んでいた。

(H29. 2. 1 EOS40D撮影)
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丹治の山の神祭

2017年08月11日 09時41分20秒 | 吉野町へ
山の神を祭る日は7日。

圧倒的に多い県内事例は1月7日であるが、地域によっては12月7日とか、11月7日もある。

稀に6月7日にしているという地域もある。

山の神の行事をされている地域は山間地。

木材業が盛んである地域にある。

この日に訪れた地域は吉野町丹治であるが、当月の11月行事であればこれまで取材した地域に吉野町小名の上出垣内もある。

天川村は天河弁才天社西の坪内垣内。

東吉野村は鷲家の川向垣内や上鷲家の大西垣内

五條市は旧大塔村の阪本

御所市であれば日程は申の日である鴨神上郷西佐味水野垣内。

東山間部にあたる奈良市柳生町の山脇もあれば桜井市の横柿もある。

また、話しは聞いているが、未取材地域に吉野町の喜佐谷や天川村の南日裏、黒滝村の赤滝がある。

桜井市の鹿路にもあると聞いているが時間帯は判然としない。

県内くまなく取材をしたいものだが、同一日行事であるだけに何十年もかかってしまう。

吉野町の丹治に山の神行事があると知ったのは平成26年2月1日

所在地を探してみたが見つからなかった。

この日も見つからない。

聞いていた時間帯であるが、早く着き過ぎたのか人影すら見えない。

山の神の所在地は山の中かもしれない。

そう思って急坂を登ってみるが見つからない。

諦めて下ったところに軽トラが停まっていた。

たぶんにここであろうと思って近寄ってみれば、そうであった。

今年当番の上第一、第二垣内の人がお供えをしていた場所は幹回りが太い年代ものの大杉の下。

厚めの一枚板をコンクリート祭壇に載せて御供を置く。

塩、洗い米に生鯖が一尾。

プラスチック製のコウジブタに白い餅がある。

特殊なものなど、一切ない。

饅頭屋に頼んで作ってもらった御供餅はもっとあるが、祭壇に載せられないからゴクマキの場に置いていた。

参拝者はめいめい。

神饌料を奉げて手を合わせる。



丹治の山の神祭には神職は登場しない。

めいめいがやってきて参拝する自由参拝。

山の神の場はハイトダニと呼ばれる谷の地。

勾配のキツイ斜面を登って参拝する。

丹治の山の神は神木の大杉。

百年ぐらいはここに立っているという。



山の神がある山は区有地。

丹治の北の口にあたる。

山の向こう側は大字吉野山の境界になる。

近鉄電車の吉野線に沿って県道を少し南下すれば吉野の千本口駅だ。

丹治に貯木場がある。

川上村から伐り出した木材は丹治に運ばれて加工している。

そういう関係もある製材仕事の従事者はこの日は休みだ。

昭和13年の殖産制度に発展した丹治の江戸時代はタバコの葉の生産地。

養蚕業に欠かせない桑畑もあったという。

そんな話をしていた神木の地はしっかり踏み込んでいなければ後ろに反ってしまうぐらいの急勾配の地である。

参拝を済ませた村の人はここより下ったところで暖をとっている。

その場の方がやや広い地。

しかも安定しているから皆が集まって寄り添う場所でもある。

30分も経ったころだろうか。

立ち状態でトンドにあたっていた参拝者たちは場を移動した。

コンクリートの崖上より投げるゴクマキがこれより始まる。



実は聞いていた時間がそのゴクマキ時間であったのだ。

高齢のご婦人たちは山へ登ることができずにアスフアルト道路のゴクマキ場下から拝んでいた。

トンド場にいた村の人の数の倍以上もおられるゴクマキ場を見て、そう思った。

思う存分の御供餅を投げる男性たち。

道路にいる人たちは右や左に手が伸びる。

ときには後ろに転がっていく。

面白いことに逃したモチが落ちた痕跡が白、白の点々。



ハ、ハ、ハか、ヘ、ヘ、ヘの文字に一、一、一の数字もある。

そんなことはお構いなしに餅を手に入れたい人は動き回っていた。

ちなみに丹治は山の神以外に神社の年中行事がある。

マツリは10月。

新嘗祭は11月23日。

山の神と同じようにゴクマキをしているらしい。

丹治にある神社は2社。

一つは吉野神宮駅近くにあるこうもり神社。

充てる漢字は子守神社のようだ。

もう一社はおおもり神社。

充てる漢字は大森神社であろうか。

また、場所はわからなかったが、弁天社もあるようだ。

また、丹治会館があるところの山の上はシロヤマ(城山)。

この地は以前も聞いている街道を歩く侍を上から見下ろして監視していたという地。

一度は拝見してみたいものだが、機会があればの話しである。

(H28.12. 7 EOS40D撮影)
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津風呂入野の九月子安地蔵会式

2017年05月18日 09時08分28秒 | 吉野町へ
吉野町入野(しおの)の子安地蔵尊に会式をしていると知ったのは前月の8月28日だった。

調べていたのは子安地蔵ではなく吉野町津風呂・鬼輪垣内で行われていた旧暦の八月十五日のイモ名月である。

鬼輪垣内は開発された津風呂湖中に全村もろとも沈んだ。

行事は見つからなかったが隣村の入野(しおの)で子安地蔵会式をされていることがわかった。

着いた時間帯は午後1時前。

何人もの人たちが地蔵堂に集まっていた。

前月にお話ししてくださったKさんもおられる。

参拝される村の人たちにお声をかけて取材の主旨を伝える。

代表を受けてくださったのは区長のUさん。

珍しい地蔵さんも行事も大いに宣伝してくださいと云われて取材に入る。

普段の地蔵堂は扉が閉まっている。

格子戸から見えなくもないが、本尊の扉は閉まっているので実態は見えない。

ご開帳されるのは一月二十四日と九月二十四日。

ただ、平成22年からはいずれも第三日曜に移された。

それがこの日である。



本尊の地蔵さんは「元正天皇期の霊亀元年(715)に入野の亀之尾という所に霊亀に乗って金色の光を放ちながら天から降りてこられた」という伝承がある。

安置されている「子安地蔵は江戸時代作の塑像であるが、蓮華座でなく、亀の背に乗っている」ということだ。

特徴的なのは一般的に胸にかける涎掛けであるが、入野の地蔵さんは亀の首にかけているそうだ。

さて、行事日のことである。

毎年の正月と九月の年二回。

いずれも24日が会式(看板では例祭とあるが仏行事なので会式であろう)である。

お堂に近寄ってみれば但し書きが貼ってあった。

平成22年からはいずれも第三日曜日に移されている。

浄土宗の僧侶が来られて法要をするらしいと聞いていたが、どうであったのだろうか。

もっと早くに済まされていたのでろうか聞かずじまいだった。

見上げるように子安地蔵さんを拝ませてもらった。



安産などを祈願した涎掛けがあるその首は龍でもない。

耳があることからもしかとすれば玄武だろうという村人たち。

確かに亀のような脚が見える。

のっそり、のっそり今でも歩きそうな脚に似つかわしくもない顔は一体何であろうか。

中国の説話に龍の一番末っ子が亀の形をしていると云う。

調べてみれば龍の頭に身体が亀の龍亀のようである。

それにしてもだ。

龍であれば長い髭があるのでは・・・と思ったのだが、類例が見当たらない。

地蔵尊を称える板書がある。

要約すれば「霊験あらたかな子安地蔵さんは子供を安らかに生ませて、健康を守り、病気や悪い癖まで治してくれる。首にかけてある涎掛けを一枚受けて、腹帯に差入する。安産が叶えば新しい涎掛けを持ってお礼参りをする習慣、信仰がある」である。

子供に恵まれたい人は願掛けにくる。

生まれたら新調した涎掛け寄進する。

古いのは1月14日の午後2時から行われるとんどで燃やす。

そう話してくれたのは村の人たちだ。

入野(しおの)の戸数は15、6軒。

かつては20軒もあったが、少なくなったという。

この日の当番は4軒当家(とうや)さん。

上、下の組のそれぞれ2軒が務める。



左手に珠を持つ地蔵尊の目の前に当家(とうや)さんが仏飯を供えていた。

云われてみなければ失念していたかも知れない。

仏飯杯を納めていた箱も見せてもらった。



年号を示すものがあればと思ったが時間がない。

適当な時間までここに居て参拝者を待つ。

そろそろ場を替えましょうといって会所に移動する。

会所は入野生活改善センター。

これより始まるのはゴクマキだ。

この日は朝から雨が降っていた。

本来ならば地蔵堂の場でゴクマキをされるのだが、雨天の場合は安全を考慮して入野生活改善センターで行われる。



参拝者の楽しみはゴクマキ。

当家が撒く御供餅に手を伸ばす。



子どもたちも大人も大はしゃぎで餅を手に入れる。

僅か数分で終えたゴクマキ。



降り出した小雨に傘をさして家に戻っていった。

ちなみに入野に鎮座する神社がある。

この場より少し外れた処にあると聞いて立ち寄った上宮(じょうぐう)神社。



11月23日の午後3時からこの日もゴクマキをすると話していた上宮神社は神社庁表記では「うえのみや」になるそうだ。

(H28. 9.18 EOS40D撮影)
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求める鬼輪の前に出合った入野の子安地蔵尊

2017年04月24日 09時31分42秒 | 吉野町へ
史料名は記憶にない。どこで見つけたのかも覚えていないが、そこから抜き出した簡単なメモ記がある。

平成25年の9月のコメントに付記していたのでメモっていたのはその年だ。

メモの内容は「吉野町津風呂・鬼輪垣内では旧暦の八月十五日にイモ名月があると書いていた。

旧暦の八月十五日は十五夜(じゅうごや)。

いわゆる中秋の名月にあたりサトイモの皮を剥いだダンゴをお月見と称して夕方のころから屋敷内に供える。

そういう風習は今も昔も変わらないが供えるのはサトイモではなく餅若しくは饅頭。

いずれも甘い和菓子。

本来の意味を失っている。

サトイモの皮を剥いだら真っ白。

楕円形ではないまん丸な形のイモはお月さんに見立てたもの。

例年であれば12個のイモを供えるが、旧暦閏年は大の月が13カ月となることからイモの数は13個になる。

そういうことをしていた鬼輪垣内の風習は「芋の子」の名があった。

果たして鬼輪垣内はどこにあるのか・・、である。

カーナビゲーションにセットした津風呂を示す通りに走っていく。

南国栖に抜けるトンネル道。

その手前、右折れを示すカーナビゲーション。

下っていけば右手に本堂が建っていた。



それは入野(しおの)の子安地蔵尊であると案内板書があった。

板書を要約すれば、「地蔵さんは元正天皇期の霊亀元年(715)に入野の亀之尾という所に霊亀に乗って金色の光を放ちながら天から降りてこられた」という伝承がある。

「現在、安置している子安地蔵は江戸時代作の塑像であるが、蓮華座でなく、亀の背に乗っている」ということだ。

特徴的なのは一般的に胸にかける涎掛けであるが、入野の地蔵さんは亀の首にかけているそうだ。

さて、行事日のことである。

毎年の正月と九月の年二回。

いずれも24日が会式(看板に例祭とあるが仏行事と思われるので会式とした)である。

お堂に近寄ってみれば但し書きが貼ってあった。

平成22年からはいずれも第三日曜日に移したとある。

もしかとすれば拝観させて行事取材も、と思って現地住民を探してみる。

一人の男性がおられたので声をかければ、なんと3週間前に村入りした東京の人だった。

一時的に住んでいた川上村を離れて当地に来たのは農業従事の専門者になるためだそうだ。

そういう男性が紹介してくれた婦人が住む家を訪ねたがお留守だった。

そこら辺りで見渡せば畑に婦人がおられる。

声をかければもともと当地で生まれ育った婦人。

住まいは田原本町だがここで畑仕事をしているという。

娘さん時代にはおばあさんが尋ねるイモ名月をしていたという。

が、離れて云十年。

村の姿は・・・わからないという。

そこよりさらに下った処は津風呂ダム湖の東の端。

旧家があったのでここでも尋ねるが鬼輪のことは知らないというが、子安地蔵のことはご存じだ。

来月の会式にはお菓子を撒くゴクマキがある。

午後の時間帯、浄土宗の僧侶が来られて法要をするらしい。

とにかく知りたい鬼輪垣内のこと。

場所も判らず、湖畔を回遊するかのような道路を走って探し回るが集落どころか家、一軒も見当たらない。

かつてダム湖に沈んだ村がある。

垣内はたぶん上津風呂に下津風呂であろうか、72戸の人たちが移転を余儀なくされた。

その人たちの一部(20戸)が移住した先は奈良市内。

山陵町(みささぎちょう)内にある津風呂町地区になるそうだ。

さて、鬼輪垣内のことである。

津風呂湖で一番賑わっている場所はといえば津風呂湖観光株式会社があるところだ。

ここなら何かの手がかりが掴めるのでは、と思って尋ねたら社長が一番よく知っていると云われて紹介された。

社長の話しによれば、鬼輪は昭和37年にダム湖が完成する以前の建設が始まった昭和29年ころに移転したという。

ここより見渡す向こう岸。

左手は平尾垣内。

谷を隔てて右寄りに津風呂垣内があったという。

そこら辺りが鬼輪垣内だった。

昭和26・27年発行の地形図に「鬼輪」の文字があるらしい。

村はダム湖建設によって沈んだ。住民は移転したという。

鬼輪の戸数は3軒だった。

うち、一軒は津風呂町に移転した。

2軒は隣村の大字平尾に移転したという。

移転したうちの1軒を教えてもらって探してみたが、結局は判らなかった。

万事休す。である。

(H28. 8.28 SB932SH撮影)
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吉野山口の地蔵盆

2017年04月18日 08時24分25秒 | 吉野町へ
吉野町の香束(こうそく)から下っていけば吉野山口に着く。

当地に鎮守の神社がある。

吉野山口神社である。

神社行事の一つに秋祭り大祭がある。

その行事は平成18年の12月3日に取材させてもらった。

ここを通る度に奉納される餅御供を詰めた器の「ぼっかい」を思い出す。

「ぼっかい」は「ほっかい」が濁った「ぼっかい」の呼び名で表現していた。

充てる漢字は「行器」である。

通り抜けようとした吉野山口に明かりが灯る。

今まさに始まろうとしていた地蔵盆である。

当番と思われる女性が提灯にローソクを灯していた。

その先にも明かりが見える。

近づけばそこも地蔵盆。

ローソクを灯した場に僧侶が立つ。

周りを囲むように地区の人たちが居る。



僧侶は地区浄土宗西蓮寺のご住職。

念仏を唱えていた。

そこの念仏を唱え終わると先ほど拝見した地蔵さんに向かう。

何人かの人たちが付いていった。

急がねばならないが、念仏を唱えた地蔵さんに供えた野菜造りの立て御膳を拝見することを優先した。



香束と同様に串挿しの土台はカボチャ。

香束とは違って大小2個のカボチャを雪だるまのように二段構えにしている。

眉毛はオクラ。

目はトマト。

鼻はナスビに口は赤ピーマン。

耳はホウズキで両手はナスビだ。

お腹部分には花丸模様であろうか。

この立て御膳は怖い顔のように見えた。

話しを聞けばその通りの怪物版。

20年ほど前から立て御膳をするようになったと云う。



そこには木桶に盛った平べったい餅がある。

3斗も搗いたハンゴロシオゴクだという。

「ハンゴロシ」は餅米1に対して粳米は2の量。

米の角を取って半日がかりで搗いたそうだ。

「オゴク」は御供である。

それらを拝見して先の地蔵さんの場に急行する。

お念仏は終わっていなかった。

提灯の灯りだけなので辺りは真っ暗だ。



申しわけないがストロボを当てさせてもらって撮った。

24日は地蔵さんのお勤め。

なむあみだぶつと十篇唱えさせてもらっていますと云う。

お念仏を終えたら恒例のゴクマキ。

地蔵さんにそなえた「ハンゴロシオゴク」を撒く。

この場もそれほど明るくない。

これもまたストロボを発光させてもらってシャッターを押す。

小さな子供たちは前へ。



そこに優しく手渡す「オゴク」である。

それもあれば皆が喜んで取り合いするゴクマキに熱中して地蔵盆を終えた。



吉野山口の行事はこの日の地蔵盆以外に8月17日の十七夜(かつては盆踊りがあった)や同月28日の風日待、9月1日の八朔盆踊り、同月の24日の午後と夕刻にマツリをしているという。

また、7月10日はコムギモチもあれば柿の葉寿司もある。

これらは村の各戸が作って食べているそうだ。

12月7日もマツリ。

かつては青年団が戸板に餅を乗せて運んでいたそうだ。

吉野山口の行事は多彩。

是非とも再訪したいものである。

(H28. 8.24 EOS40D撮影)
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香束の地蔵盆

2017年04月17日 08時32分32秒 | 吉野町へ
吉野町の香束(こうそく)。

三茶屋の信号から国道28号線は佐々羅へ抜ける道。

ここら辺りは幾度となく車を走らせた街道である。

午後6時55分に通っていた地が香束である。

集落が固まっている地に灯りがある。

そこには何人かの人が居る。

車から見えた地蔵さんにお供えがある。

それは立て御膳のように見えた。

車を停車させて場に近づく。

居られた人たちに声をかけて立て御膳を撮らせてもらう。

それはまさしく立て御膳。



半切りしたカボチャに串挿し。

彩り豊かに挿した野菜は赤ピーマン、ホウズキ、ナスビ、ミョウガにキュウリだった。

地蔵さんの下には祭壇がある。

ガラスケースにしているローソク立て。

ローソクの灯りがガラス板に反射して明るい。

その前にある線香は何本あるのだろうか。



赤く燃える線香に煙がくゆる。

辺りは真っ暗だが地蔵さんには電灯も照らしていた。

もうすぐやってくる村の導師が般若心経を唱えるそうだが、先を急がねばならない。

申しわけないが失礼させてもらった。

(H28. 8.24 EOS40D撮影)
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