マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

香束・牛滝まつり調査に道案内受けた神武さんの丘

2023年11月20日 07時23分16秒 | 吉野町へ
奈良県内に行われている「牛滝さん」行事を調べていた。

かつては、各地それぞれ。

数多くの地区に見られた「牛滝さん」行事。

農耕作業に活躍くれた牛や馬。

祭神の農耕の牛馬の神をまつる神社もあった。

働いてくれた牛馬は、今では見ることもない時代。

耕運機にとって変わった牛馬。

保食神(うけもちのかみ)を祭る牛滝神社の存在も・・

平成25年の9月15日に訪れた橿原市の一町(かずちょう)

天満山長法寺に牛滝祭を行っているとわかり、訪問した。

行事に牛は登場しないが、かつては農協主催に牛の品評会をしていた。

品評会会場は、長法寺の境内。

農耕に飼っている牛の背中にかけた化粧まわしのような襷(たすき)。

それは美しかった、と・・

その後の昭和32年のころ。

子どもや大人が、消防ホースをマワシにして奉納相撲をしていたそうだ。

年代は、異なるが明治三十四年に奉納された「奉納 大日如来」の絵馬に、飼っていた牛に袈裟をかけてお参りする姿だ。

品評会をしていた昭和の時代よりもずっと前に行われていた当時の牛滝祭の様相であろう。

一方、大淀町内の村に牛滝神社がある、と知った。

大字は、馬佐(※ばさ)。

字名は”馬”であるが、神社名は”牛”。

いずれも農耕に働いてくれた”馬”や”牛”。

今では、全国のどこを探しても、農耕に働く”馬”や”牛”は見られない。

農耕における機械化への発展。

トラクターの登場によって、今や、稲作に”馬”や”牛の姿は、見ることもない。

一挙に入れ替わったワケではなく、徐々に浸透していった機械化、自動化。

およそ10年のあいだ、日本の農業から”馬”や”牛”は見なくなった。

昭和の時代の東京オリンピック。

昭和39(1964)10月10日に開幕した。

同年の昭和39年10月1日、東京~新大阪区間を開業した新幹線。

つまり、東京オリンピックの開幕に合わせて開業、運行したのである。

実は、そのころから、急激に変化したのが日々の暮らしである。

文化的な生活に大転換が始まったワケだ。

昭和45年(1970)3月14日。

雪が舞うその日に開幕した昭和時代の大阪・万国博覧会。

稲作を営む農家にとって家族のように扱ってきた”馬”や”牛”。

農家に貢献していた”馬”や”牛”たちは、昭和30年代から40年代にかけて、徐々に変化していた暮らしの文化。

気がついたときには、すでに農耕に貢献していた”馬”や”牛”は日本から消えた。

今じゃ、写真か、動く映像にしか残っていない暮らしの文化。

村の行事にあった牛滝まつりに、牛が消えた。

牛は、登場しなくとも、行事のあり方に変化が起こった。

それらもできる限り聴き取りなど、調査しておかねば、と思って出かけた大淀町馬佐の「うったきさん」こと「牛滝まつり」。

平成25年9月16日に行われた「牛滝まつり」
であるが、本来は15日であったが、ハッピーマンデー法令により月曜の祝日に移った敬老の日。

令和時代の東京オリンピックの開会に伴い、一時的な変則対応、その年限りの祝日移動。

結局は、これまで通りの、9月の第三月曜日に戻した。

ところで、奉納、寄進された絵馬に興味深い牛の絵馬に出逢えた。

その地は、大和郡山市の田中町。

氏神社は甲斐神社。

正月飾りに簾型しめ縄かけ取材していた平成24年12月31日。

しめ縄には、なんと活きている伊勢海老を括り付ける珍しい形式。

その後、訪れる何人かのカメラマンが撮影にくるようになった甲斐神社。

飾り付け作業の合間に拝見した割拝殿に掲げていた絵馬。

数頭の牛を姿を描いた絵馬の寄進者は、町内の「牛講」。

明治四年に奉納された絵馬の額にあった記録。

寄進者は「氏子牛講中」


どのような活動をされていたのか、現在に伝わっていないが、珍しい牛講絵馬。

貴重な絵馬だけに、この1件も紹介しておく。

一方、奈良市三条添川で行われている野神行事がある。

ここでは、馬の姿を描いた絵馬をケヤキの幹に数枚束ねて奉納する。

もう一つの事例は、同じく野神行事。かつては農耕牛を祀ったとされる牛塚に毎っていたが、拡張工事によって存在が消えたため、その昔の姿を描いた牛塚に参る牛の姿を描いた掛け軸を、会所にかけて参拝するようになった奈良市法蓮町で行われていた野神行事

いずれも、農耕に働く”馬”や”牛”に、感謝を込めて奉納、参拝していたのだろう。

行事取材になにかとお世話になっていた大和郡山市・小林町に住む高齢者たち。

普段でも、行事のときでもおしゃべりが停まらない元気な高齢者男女が話した云十年前の体験い記憶。

県立民俗博物館の学芸員からお願いした体験記憶を語っていただく会合。

当館会議室の場に集まり、聞き取り会が行われた。

語っていただいたサブテーマは、八つ。

一つは、「農耕に飼っていた牛は、山間地域とに貸し借りしていた」

二つ目に、「牛の貸し借りに行く博労さんにはソラマメを袋に入れて持たせた」

三つ目は、「唐耒(※カラスキ)や、馬鍬掻き(※マンガカキ)は手綱(たづな)でもって「チャイ チャイ」と云いながら引っぱった」

四つ目に、「宇陀の榛原には赤牛がいた」

五つ目は、「ムギは皮を剥いてぺしゃっとして柔らかく」

六つ目、「小林町・杵築神社に奉納していた絵馬」

七つ目、「牛は田んぼの盛り土を歩く」

八つ、「雌牛に角があった」


今では語られることのない、牛は農耕牛であり家族の一員であった時代の体験。

小林町は奈良県の平坦中央部が所在地。

尤も、北部、南部、西部、東の方角の所在地での牛の営みは若干違いがあったろう。

それぞれの地域文化はさまざまである。

さて、本題は香束の牛滝まつりであるが、先に知った吉野町山口に行われた牛滝まつり。

取材日は、平成30年9月24日。

本社山口神社の神事でなく、意賀美神社(おがみじんじゃ)に続いて行われた牛滝社の行事
だった。

現在は、御供を奉り、拝礼するだけになったが、かつては牛滝社の前身、本地堂が建っていた地である。

由緒板に、「・・云々・・明治の神仏分離のため廃寺となり、最初は竜門小学校に転用されたか、明治十年ころ、破損甚だしく、取り壊された。その跡地に牛の守り神である牛滝さんとして祭り続けてきている」と、あった。

行事を終えて話してくださった「牛滝さん」の記憶。

「今では想像もできないが、相撲の土俵があった。やや高い台地がかつての土俵。男の相撲だけでなく、女相撲もしていた。当時をとらえた写真も残されている。その土俵周りを牛が歩き回った。手綱をひく牛飼いの田主が連れてきた農耕牛が土俵の周りを歩かせる牛参りをしていた」。

牛滝まつりの原点は、牛をひき連れて廻る牛参りだった。

その様相は牛の品評会だった、とYさんが話してくれた。

そこでだ。気にかけていた隣村で行われていたであろう、と推定していた吉野町香束(こうそく)の牛滝まつりである。

その、香束の牛滝まつり。

写友のUさんが、4月3日に現地訪問。

予め調べていた情報を伝えてくれた。

牛滝神社の牛滝まつり行事は、9月の第一日曜。時間帯は、わからないだけに、身体状態の関係に自宅を出る時間調整が難しい。

情報によれば、「牛滝神社の祭神は、農耕牛馬の神である保食神(うけもちのかみ)。昭和六年、畜産振興の風潮が高まり、当地もその一環として古老達が区有地を開いて放牧場を作り家畜の育成につとめた。当時、牛は四十頭余り、耕地は田、畑とも二十町歩以上あった。ここに香束の牛滝の神を祀り、畜産の振興・豊年満作・家内安全・無病息災を祈った。祭日にはごく撒き・牛の品評会、相撲などのイベントがあった。時が移り農業の変化が著しく、祭祀の意義が薄れていった平成十三年、県の施設が設けられたのを機会に祭祀の便を考え、現在地に牛馬のいない現在であるが先人の心を心として祭りを続けている」とあった。

なるほど、である。

大淀町馬佐、吉野町山口、橿原市五条野、橿原市一町と同じように、昭和6年ころの畜産振興の高まりにはじまった牛の品評会・相撲行事が行われた牛滝まつりだったのだ。

行事の時間はわからない。

牛滝神社の場も知らない。

下見の気持ちで車を走らせた9月5日。

午前10時30分、途中下車に訪れた奈良市・旧都祁村の白石に立ち寄り。

三重県名張に調査した刺しさば状況の報告に伺った


場を離れた直後にかかった電話。

山添村・切幡に住むT家からだ。

ぶとくすべのつくり方を知りたくて、取材をお願いしていた件である。

村の選挙の選挙に忙しく、駆けずり回っていた。

それも昨日で終わり、今日、やっと解放されたから、つくってあげるから、こっちに来るかい、という連絡だった。

もちろん、受諾したが、現在は吉野町の香束に取材があるので、時間帯は午後になりますが、是非ともお伺いさせてもらいます、と伝えた。

それからも走った大宇陀付近に見た稲穂景観。

そこに建っていた朱塗りの鳥居


午前11時10分から11時20分。

立ち寄った宇陀市の大宇陀。

平尾の鳥居に野依の韓国とうがらし干しを緊急取材していた。

正午時間の午後12時10分。

ようやくたどり着いた吉野町・香束(こうそく)。

まずは人探し。本日に行われる牛滝神社の牛滝まつり。

村の人であれば、存じている可能性が高い。

車を停めた道路下におられた男性に声をかけた。

たしか、ここはハザカケをしていた場だ。

作業を止めたM夫妻に牛滝まつりの件を尋ねた。

そのことなら、任期2年の自治会長をすることになったTさんが、知っているからと、電話をかけ、紹介してくださった。

取材主旨を伝えたところ、今年も昨年もコロナ禍のため、みなが集まることを避け、午前中に自治会長だけが参拝することにした。

供物を供えて、祭事を終えた、という。

本来は9月3日に行っていた牛滝まいり。

例年であれば、固定日だった3日から移行した第一日曜日の午後1時にはじめている行事。

ゴクマキもしている、と教えてくださった。

牛滝まつりの状況がわかったところで、M夫妻があっちの方にある小社のジンムサンのまつりもゴクマキをしている、と話してくれた。

じゃぁ、案内するから、と軽トラに乗って、場を案内してくれた。

道路南にある苔むした階段。



割合に長く続く階段を登った。

そこは、小高い丘。



広地の左下にぽつんと鎮座している小社。

扉に龍の造形。



見事にひかり輝いている海老錠をかけているが、小社の祭神は知らないそうだ。

だが、右上前方に建つ、まるで碑のようにも見える大岩が社らしく、こちらが神武さんのようだ。



大岩に年号などがあれば、いいのだが・・。



実は、ゴクマキはここからしている、という。

小高い位置に建つ大岩に祭具がある。

どことなく仏具のように思えるソレはおそらくローソク立てであろう。

案内してくださったMさん。

おもむろに話してくれた、ここ香束に住まいすることになった経緯。

実は、話してくれたMさんの出里は、川上村。生まれも育ちも金剛寺がある神之谷地区。

筋目らしく、御朝拝(※おちょうはい)式典によばれるので参列、例年営まれる御朝拝の儀。

懐かしい響きに、思わずえっ、と返答した。

まさかのまさか。

吉野町香束の地と川上村神之谷金剛寺・御朝拝の地にどういう関係があるんだろうか。

御朝拝式は、平成17年2月5日に平成19年2月5日の2回、取材に訪れたことがある。

特に、2度目に訪れた平成19年は記念すべき550年祭だった。

御朝拝式は、神之谷とは別に川上村高原の地においても筋目衆によって行われていた

平成16年2月5日に取材した高原の御朝拝式は、その年を最後に、550年祭をもって、両筋目衆は合同でされることになった。

御朝拝式は、新たなる時代を迎え、神之谷金剛寺の地におき、村民全体の行事に転換、将来に亘り絶やすことなく、今後とも継続されることになったのだ。

京都・淡交社から出版した著書『奈良大和路の年中行事(2009刊)』に掲載した「御朝拝式」。

550年の節目に出逢えたことは、私としても嬉しい限り。

3頁にわたる記事および裏表紙写真も載せさせてもらった著書もまた記念になった。

香束と神之谷との繋がりは、かつて勤めていた大手企業のトヨタの整備工場時代のころにご縁があった。

M家に婿入り。生まれた娘さんは、吉野山蔵王堂に近く、柿の葉寿司を営業している「やっこ」にご縁があったそうだ。

学生時代に知り合ったやっこの家に嫁入りした娘さんは、テレビにもよく出演している。

と、いうのも来店レポーターの多くがタレントさん。

自然な応対に、お店をコマーシャル。

口コミ評価も高い

Mさんは、将来を考えて、孫たちが伸び伸びと遊べるように、案内してくれたこの地を所有者に依願し契約したそうだ。

草木はともかく草刈り機で除去できたが、ここらは湿気が多く、何層にも積み重なった苔類の除去に難儀した、と話す。

その証拠に軽トラにも苔、苔、苔がまとわりつく。

いくら除去しても、また苔、苔・・・などなど会話がとまらない。

今、何時に・・正午時間も過ぎた午後1時。

奥さんにご迷惑かけてしまった。

場を離れて、目的の牛滝神社の所在地を教えてもらって車を走らせた。

自治会長のTさんは、午前中に供物を供えて参拝していた、と話していた。

それから数時間の経過。

供物は果たして残っているだろうか。



ようやく、というか、やっと出会えた香束の牛滝神社

何年か前は、もっと上にあった小社を今の位置(バス亭下香束)に下ろし、札を立てていた香束の牛滝神社。



お供えは・・・消えていた。

おそらくは野鳥が喰い荒らしたか、小動物かも・・・

小社周りの草むらをみれば、どことなく違いがわかる。



たぶんに洗い米に清めの塩であろう。



そこらに撒かれたようでもある。

はっ、と気づいた小社の裏側に収めていた札のような物体。



錆が蔓延している物体に、文字らしきものが見えるが、判読はできない。

写友のUさんに電話を入れた。

香束の牛滝神社の現状を伝えた。

Uさんが、昨年に撮られた高札。

撮っておいて、よかった、と電話口でそういった。

(R3. 9. 5 SB805SH 撮影)

吉野町・山口の牛滝まつり

2021年10月29日 10時03分12秒 | 吉野町へ
昭和28年に発刊された『奈良県総合文化調査報告書-吉野川流域・龍門地区-』によれば、牛滝社は大淀町の馬佐だけでなく、吉野町の山口・志賀、大淀町の比曽、高取町の壺坂にもあったようだ。

平成25年9月16日、その一行にある大淀町の馬佐に伝わる牛滝まつりを取材した。

その後の平成28年8月24日に訪れた吉野町・山口は、夜間にゴクマキをしていた。

行事は地蔵盆。行事を終えてから話してくださった山口の年中行事に、9月1日の八朔盆踊りがあった。

八朔行事をした夜に盆踊り。

今や、ここ山口だけでなく、奈良県内の盆踊りは、とんと見られなくなった。

山口もたぶんにそうであったとして二百二十日の八朔日は、大風がやってくるころ。

せっかく育った稲も倒れる時季。

生産者にとって荒れる大風が来ないように、と祈願。

豊作を願う八朔行事を拝見したく訪れたが・・・。

時間帯も聞いていなかった八朔行事。

お店の方ならご存じでは、と思って尋ねた。

一段下がった位置に建つ商店。

伺った女将さんが云うには知らない、という。

あったとしても、吉野山口神社の役員さんがしているのでは、と。

ずいぶん昔しのことですが、と話してくれた十七夜の盆踊り。

8月17日の夜は、盆踊りがあった。

また、その数日前の14日は、小学校校庭で盆踊り。

打ちあがる花火もあったので、賑わったそうだ。

十七夜、といえば、観音さまの縁日。

各地の観音霊場にて十七夜行事の法要などがある。

平成5年に復活した東大寺二月堂の「十七夜」盆踊りや、橿原市小房町のおふさ観音の「十七夜」の夏祭りがある。

十七夜行の盆踊りは、ともかく大勢の子どもたちで溢れるほど賑わう行事に地蔵盆があり、盛大に撒かれるゴクマキがある。

11月のマツリもそうだがゴクマキが賑わうのは、村外に住む外子たちが大勢やってくるからだ。

女将さんの話題提供は、そこまで。

伺いたい人は、地蔵盆の夜に年中行事の一部を教えてくださった元観光協会会長のYさん。

訪ねた公民館におられた。

その日は、一日限りのプロジェクト・イベントの「吉野森林セラピー拠点賑わいプロジェクト」実施日だった。

そのプロジェクトにも関与していたYさんとばったり出会えた。

この年から、八朔行事は9月1日に近い日曜日に移した。

ちなみに、今年の日程は、8月2日。

以前は、午後1時から始めていた神事を、夜の午後7時に移した。

行事の場は、社務所。

その場より山口吉野神社の拝殿に向かって拝礼。

豊作を祈願したあとは直会に入る。

そう話してくれたYさんが、9月24日に牛滝まつりを、春に祈願するお田植祭は、4月22日の固定日にしていると教えてくださった。

山口に牛滝まつりがあると知ったのは、昭和28年に発刊された『奈良県総合文化調査報告書-吉野川流域・龍門地区-』の記事もあるが、取材し、アップしたブログ記事の「大淀町馬佐牛滝社の牛滝まつり」に、平成30年8月12日投稿してくださったY・Gさんの指摘コメントだった。

「吉野町 山口の間違いかと存じます。吉野町 龍門地区の山口は志賀よりはるかに大きな神社の中にあります。9月の行事でした。60年前の遠い日の出来事です。懐かしいですね。」

また、平成30年8月12日の投稿はブログ「吉野山口の地蔵盆」の記事に。

同じく投稿してくださったY・Gさんのコメントの「吉野町山口は私の生まれ故郷。60年前の遠い日の思い出。あの頃は子供も多く、盆踊りもありました。盆踊りは17日の盆踊りが盛大で、各村々の青年団が高張り提灯で山口神社に集結します。山口神社の神殿の前の広場での盆踊り。浴衣と下駄で両親に連れられ盆踊りに。山口には多くの行事が有りました。何十年も前に訪れ時は多くの行事は無くなっていました。このブログを拝見していると涙が止まりません。」のコメントに、是非とも訪問したくなった山口の牛滝まつりである。



牛滝まつりが始まる時間は、午後1時。

その時間までに着いた山口の公民館。

前に拡がる稲作田園地に、作りものの大鳥が舞う。

稔り近くなった9月後半の大空に張りぼての大鳥が気持ちよさそうに舞う。

大鳥の姿はまるで鷹。

スズメやカラスを追い払う。

野菜畑のある山口の稲作地。

稲刈りを早くもしていた耕作地。



ハザにかけた収穫したてのお米。

次に予定する稲刈りはもうすぐだ。

おっと、こうしてはいられない。

祭りをはじめるにあたって運ばなければならない餅がある。



二つの桶にたっぷり詰め込んだゴクマキの白餅は、前日に搗いた。

臼、杵でなく電動餅つき機。

餅を絞って取り出す餅絞り機も器械頼り。

最後に綺麗に餅を丸めるのは手作業。



この日の行事は自治会が主催。

みなが集まって搗いた餅や神饌御供などは、車に積んで運んだ。



拝殿前に停めて運ぶ御供は、人手で運ぶ。

一旦は、拝殿回廊に置いて社家宮司が確認され、ものものが揃った。



本日に第一神事をされる場は、意賀美神社(おがみじんじゃ)。

中央に配置した吉野山口神社の左側に建つ。

元々は、吉野町・宇陀市の境ある山。

龍門岳・龍門の滝がある辺りにあったそうだ。

創建は500年前であるが、昭和59年に寄進し、今の位置に下ろした、と話す。

一度、龍門岳に登って岳のぼり行事を拝見したことがある。

平成19年4月17日、吉野町山口の嶽神社で行われた岳ノボリである。

新鹿路トンネル入る手前にある林道を、注意しながらひたすら低速で走った先に・・。

今では記憶も薄らいだ既知の道だが、よくまあたどり着いたものだ。

車を下りて、さらに登ったそこに鎮座する嶽神社。

情景は覚えているが、山道は記憶の外に消えてしまったようだから、もう一度、と云われてもごめん被る。

なぜなら、行きも帰りも西谷地区の人たちとともに行動したからだ。

とてもじゃないが、単独行動は危険を伴う山行きである。

吉野山口神社の右手にある社は、高鉾神社

春に行われる祈年祭・御田祭神事をされる社である。



自治会役員、みなそろって神饌御供を調える。

塩、洗米、お神酒。生鯖一尾にスルメ、昆布、キャベツ・カボチャ・大根・人参・茄子・キュウリの野菜に梨・葡萄・林檎・バナナなど7種の果物。



宮司とともに揃えていく。

当初は、神饌御供の真ん前に置いていたが、社殿前に移された御供餅も奉る。



自治会会長のNさんを頭に、自治会役員、氏子、生産組合員ら、普段着姿の一同がそろったところで整列された。

夏は、とうに終わったというのに、秋にも告げるツクツクボウシが鳴く社そうに神事がはじまった。

まずは修祓。

祓詞に祓の儀。



献饌、祝詞を「かしこみ かしこみ かけまつる おがみじんじゃの 神さんに」、と奏上される。



そして、玉串奉奠、撤饌、宮司一拝され、意賀美神社の神事を終えた一行は、場を移動し、境内社の牛滝社に参拝する。

素盞鳴尊を祀る牛滝社は、かつて存在していた吉野山口神社の境内の神宮寺である本地堂跡地に鎮座する小社にあり。



そのことを伝える由緒板に「本地堂跡 古来山口神社の別当寺として宮寺-本地堂があり、その鐘楼には、建長八年(1256)銘の釣鐘があった。これはもと添上郡辰市村(※奈良市杏町辰市神社辺りか?)の廃寺、聖峯山のもので、方々を転々とした末に、伊勢相可の豪商大和屋某が寄進したもの(※現在は吉野町佐々羅意運寺所有/「大和国添上郡辰市郷聖峯寺鐘」「建長八年丙辰二月廿八日」の刻銘がある銅梵鐘は平成4年3月に奈良県指定有形文化財に指定されている) 明治の神仏分離のため廃寺となり、最初は竜門小学校に転用されたか、明治十年ころ、破損甚だしく、取り壊された。その跡地に牛の守り神である牛滝さんとして祭り続けてきている」とあった。

朱塗りの小社は、昭和55年4月に復旧再建された牛滝社。

意賀美神社(おがみじんじゃ)での神事を終えた一行は牛滝社に参る。



当社に御供することなく、一同拝礼し、牛滝まつりの神事を終えた。

神事を終えたらお楽しみのゴクマキ。

嶽の神さん、古来より雨を司る八大龍王にお供えした御供餅。

ご加護をもらいたく孫も伴ってやってきた氏子たち。



自治会役員が、ほうれ、そらっ、いくぞっ、と放り上げた白餅に手が伸びる。



ゴクマキに盛り上がる歓声。

ほんの数分ですべてを撒き終えた時間帯だけ、境内を静かにしていたツクツクボウシは再び鳴きだした。

用意してきた袋にいっぱい詰め込んで、お家に戻っていく。



役員さんも解散されたこの場に佇んでいた。

牛滝社があるこの広地。



今では想像もできないが、相撲の土俵があった。

やや高い台地がかつての土俵。

男の相撲だけでなく、女相撲もしていた、という。

当時をとらえた写真も残されているそうだ。

その土俵周りを牛が歩き回った。

手綱をひく牛飼いの田主が連れてきた農耕牛が土俵の周りを歩かせる牛参りをしていた。



牛滝まつりの原点は、牛をひき連れて廻る牛参りだった。

その様相は牛の品評会だった、とYさんが話してくれた。

先に揚げた大淀町・馬佐の牛滝まつりも、かつては上半身裸に晒しで巻いたふんどし相撲に土俵もあった。

また、吉野山口同様に、手綱で引き連れた農耕牛も・・。

橿原市の五条野は、昭和30年ごろまで牛滝参りがあった。

たくさんの幟を立て、綺麗な衣装を牛に着せてやってきた素盞鳴神社。

牛滝参りは、牛の品評会。

草相撲もあった、と庚申講中に教えてもらったことがある。

橿原市の一町(かずちょう)も同じような状況だった。

取材当時は総代だったMさんが、記憶を遡って話してくださった。

農協主催の牛の品評会の場は、旧長法寺大日堂に鎮守社がある境内。

美しい化粧まわしのような襷を牛の背中に掛けて参っていた。

子供や大人が消防ホースをマワシに奉納相撲もしていた。

特筆すべきなのは願主7人の名が見られる絵馬である。

明治参拾四年に奉納された「奉納 大日如来」の絵馬に描かれた牛の姿。

農耕に飼っていた牛に袈裟をかけてお参りする姿である。

牛の品評会が催されていた時期よりも、もっと以前の時代の様相だと推定される牛参りの絵馬はとても貴重だと思う。

(H30. 9.24 EOS7D撮影)

ささいわの山の神の祭り

2020年05月19日 10時08分26秒 | 吉野町へ
上比曽の亥の子祭りを拝見した時間帯。

夕刻まではまだまだ時間がある。

ならば少し足を伸ばして大淀町を離れ隣町の吉野町に車を移動する。

上比曽からはそれほど遠くない地にある吉野町の千股。

昨年の平成29年11月5日に取材した千股のささいわ行事である。

聞いていた日程であれば、本日であろう。

そう思ったら見に行くしかない。

今の時間帯なら、山の神に祭った情景だけでも見ておきたい。

到着した時間は午後5時。

山の神の前に吊った注連縄にあるある三種の藁細工。

右に吊っているのはナベツカミ。

牛の草鞋ではなくナベツカミだといっていた。

左は見た目でわかる細身つくり。

これは男のシンボル。

えっ、昨年に吊るしたときと左右の配置が逆になっている。

どちらが正しいのか、あらためて確認しなくてはならない。

中央は、ひと際大きい丸太形のつくりのキンダマ。



キンダマの内部には大豆を12粒納めていると聞いている。

旧暦の閏年の場合は13粒。

つまり大の月もある13の月数を一年間とする旧暦閏年の月の数えである。

あらためて、仕込むところを拝見したくなるキンダマである。

(H30.11. 4 EOS7D撮影)

明日もある一日限りの学生プロジェクトCafe

2020年02月25日 09時14分09秒 | 吉野町へ
この日に吉野町の山口神社で八朔をしていると聞いたのは2年前に訪れた地蔵盆のとき。

時間帯も教えてもらっていたので、神社に出かけた。

ひっそりした神社にいくら待ってもどなたも来られない。

近くにある村の商店に居た女店主に尋ねたらそんなんあったかなって。

えっ、である。

諦めて帰ろうとした際、近くにある公民館に数台の車がやってきた。

村の役員たちの集まりだろうと思って立ち寄った。

声をかけてみたら2年前に八朔のことを話してくれた人だった。

実は・・昨年からその日に近い日曜日に移ったという。

今年は先週の日曜日。

時間帯も大きく替えて昼間から夜にしたという。

あれま、であるが、今日の賑やかな状況は・・・いったい何ですのん。



なんと、神戸にある流通科学大学の学生たちが運営する「吉野森林セラピー拠点賑わいプロジェクト」だった。



案内チラシのすべては村人に配られ、会場は村の人たちでにぎわっていた。

3年前に始まったプロジェクトは観光マーケテイングゼミの一環。



学生による商品開発、営業、おもてなし接待などの経営学を実体験して学ぶそうだ。

予定していた7月は台風到来の影響を食らって本日に延期。



たまたまお邪魔したということだが、主力の新規開発パスタは売り切れ。

明日の2日は場を移して上市の「三奇楼」に・・・。

アイスコーヒーをいただいて一服していた。



3年生が行うプロジェクトは単年度。

翌年は就職活動になるため次年度の3年生に移る。



この経験は次の学生に引き継ぐこともない。

ノウハウはその年限り。

事業は単年度では受け継げない。

(H30. 9. 1 SB932SH撮影)

吉野町・西谷/佐々羅の水口まつり

2019年09月17日 09時28分39秒 | 吉野町へ
4月末、知人の写真家Kさんが伝えてくれた水口まつりの所在地。

場所は吉野町の上市に“吉野山口神社”のお札が苗代にあったという情報である。

上市町も吉野山口神社も認識できるが、その吉野山口神社の鎮座地は吉野町の大字山口になる。

神社の氏子域は郷村の山口、香束(こうそく)、西谷、平尾、佐東、峯寺の六カ大字と聞いている。

よくよく聞けば地域は吉野川流域の龍門地区の一つである大字西谷・佐々羅であった。

場所は新鹿路トンネルを下った地区にあったというから探してみる。

下った道の一番最初に出くわした処は、道路の左右に建つ6、7軒の民家。

民家より先に出会った白い幌で被せた苗代場が見つかった。

走行中に見た一瞬に白いモノが目に入った。

車を停車するような広地はない。

ほんの1分もあればいいと思って緊急的措置をとった路上駐車。

車から降りて見たそれは、護符であった。

杉苗もある護符に文字の一部、「吉野山・・」に「高・・」が読めた。

1枚の写真を撮ってさらに下ったところに筋道があった。

車を寄せるところはここしかないと判断して停めた。

場は民家が建つ真ん前。



田に水を張っていたお家だった。

そろそろ田植えを始めようとされるお家にご高齢のご夫婦が椅子に座って日向ぼっこをしていた。

お声をかけて、カドニワにあがらせてもらって、ご夫婦の前に立って、緊急停車の承諾をしてもらった。

「まぁ、こっちに座りや」と云われて行事などの四方山話。

尤も、この時季に相応しい、共通項になりそうな話題に、田んぼ、苗代、護符、神社行事に岳ノボリなどを投げかけて拾った民俗話題、である。

神社行事はさておいて、ダケノボリは4月17日。

あの山道の尾根つたいに行ったことがある、と話した吉野山口嶽神社の岳ノボリに驚かれたご主人。

岳ノボリのこと、村の人以外の人が知っているってことが、驚きだったようだ。

ご主人はやや耳が遠かったが、会話は通じる。

生まれは新鹿路トンネルのもっと山の上にあった20から30数軒の集落があった「細峠」。

そこを下ってきて、ここ「西谷」に住んでいる、と云う。

つい先ほどに見た苗代の護符にイロバナ。

そこにあったと話したら思い出された。

何十年も前のことである。

苗代をしていたころは吉野山口神社・高鉾神社の護符とともにイロバナを立てていた。

おっぱん(※御飯のこと)も供えて、拝んでいたという。

花は何でもいいわけでなく、ヤマブキは立てない。

なぜに、である。

ヤマブキは実がならないから相応しくないというのである。

実ができない花を植えたことで稲に穂がつかなかったらエライことである。

なるほど、と頷けた花である。



記憶は鮮明に蘇ったらしく、話がつきない高齢の男性は大正12年生まれの94歳。

「身体も耳も目もあかんようになったから苗代はようしやん。苗はJAで購入してこの3日に持ってきよる。その日は息子らが田植えをしてくれる」と話すOさん。

田植えは5月連休に入れば、息子家族が手伝ってくれるから水を張っていたという農家さんだった。

「苗代はしなくなった。今はJAから苗を購入している。田植えをする畦に立ててあるから、見てみな」と云われて移動する。

水を張った田んぼの一角にあった護符は神社役員が配ってくれたもの。



なるほどの位置に立ててあった護符はビニール袋包み。

Oさんがいうには「雨に打たれてはあかんやろ」ということだ。

「これは神さんがくれはった護符や。神棚に置いておくもんではない。苗代とか田んぼに挿して豊作にしてもらうんや」と、強く云われた農家さんの心に、ごもっとも、である。

専業農家は少なくなり、ほとんどがサラリーマン兼業農家。

県内事例もそうだが、全国的な傾向に吉野山口神社の氏子たちもまた神棚のまつり方に移っている状況である。

Oさんの話題提供はまだある。

今年かどうかわからないが、岳ダケノボリのときに乾杯の音頭もとったし、導師の務めをしていた、そのときである。

突然に息が苦しくなって、嵩神社の裏に隠れていた、という。

急に発症したのは心筋梗塞。

今は独りで出歩くのも難しくなった、という。

話だけでは時間が過ぎていくばかり。

腕時計を見れば午後4時。

田んぼが山陰に隠れてしまいそうになるから一旦は西谷から離れることにしたが、さきほど撮ったばかりの護符に杉葉の映像をビューで見てもらった。

上のお家の方が立てたと思う護符の映像を見たOさん。

「神さんごとは疎かにしたらあかん。昔は拝んでいたもんや」と、涙ぐんでいた。

大字西谷からさらに下った所に十字路に信号佐々羅がある。

そこからすぐ近くだった。

ネットで囲った苗代は2列。



それぞれに護符・杉苗にイロバナを立てているから2家の苗代である。

護符に模擬苗の杉苗もあることから4月に行われると聞いていた吉野山口神社の祈年祭で奉られたものであろう。

萎んでいたイロバナの具合からある程度の日数が経過していることがわかる。



護符にある文字は「式内 高鉾神社 吉野山口神社 五穀豊饒御祈祷牘」。

豊作を願った祈祷札である。



ネット囲みの苗代御供を撮っていたら単車に乗ってきた男性がやってきた。

不審者が何かをしていると思ったらしく、数十メートルも離れたところから凝視していた。

視線を感じた私はその男性に大声をかけていた。

「苗代田を見ているんで親戚の者と思った」と、いう男性。

実は、と申し出た取材主旨。

「それならうちの家の苗代にも立てている」という。

みなは短いが、うちのは長いススンボの竹に括っている。



ただ、イロバナはしていないという男性は二日後には田植えをするという。

そういえば周辺数か所で田植え作業をしていた家もある。

2日後には雨が降る予報に急遽早めたそうだ。

ところで苗代はいつされたのか。

バイク乗りのNさんの話しによれば、村全体が前月の4月半ばの日曜にする予定だったそうだ。

ところが、また雨の予報に前日の土曜に切り替えたという。

その際に護符と杉苗を立てた、のではなく翌週の日曜日。

つまり22日に行われた吉野山口神社の祈年祭で奉り、終わってから神社役員が各戸に配ったというから、当日或いは以降である。

受け取ったその日に立てたという人もあれば翌日に、という家もある。

これまでいくつもの苗代・水口まつりを地域ごとに拝見してきたが、まず間違いなく苗代作りをしたときに、である。

行事の日程によって一週間遅れに立てる事例もある、と初めて知った。

ちなみに私がもつデータによれば、吉野山口神社の祈年祭は4月22日。

固定日であるが、今ではどうされているのだろうか。

昨今は日曜日に移す地域が増えつつある現代。

4月半ばには訪ねたいものだ。

聞いている範囲であるが、お札型の杉葉苗に小正月の小豆ガイ(粥)にカヤの箸で作った御供をするとか・・・。

すっかり失念していた吉野山口神社・高鉾神社の祈年祭行事。

今年はすでに終わっている。

できるだけ早くに取材したいと考えさせられた両社名で祈祷された「五穀豊饒御祈祷牘」の護符がきっかけになってくれたらいいのだが・・。

この日は数軒のお家が、苗代の幌を外して田植えをしていていた。

護符を立てることなく、田植えをしておれば早生品種。

さきほど、拝見させてもらったN家の作付品種はヒノヒカリ。

米を買いたい人が何人かいるらしく、90枚の苗箱を並べた、という。



明治22年の町村制時代の龍門村に属する大字村は佐々羅村・峯寺村・河原屋村・千股村・志賀村・滝畑村・三津村・西谷村・平尾村・津風呂村・山口村・香束村・柳村・色生村・小名村・大熊村・北大野村・牧村・栗野村・田原村・東平尾村・上片岡村・下片岡村。

広大な旧地区であるが、ほとんどが未だ行けていない。

(H30. 5. 1 EOS7D撮影)

千股のささいわ行事

2019年03月18日 10時34分01秒 | 吉野町へ
この年の5月8日である。

下見取材を終えて岐路につく。

どこをどう誤ったのか、もう記憶にない行程。

なんだか山の方に向かっているような気がしていた。

ほぼ集落を離れた地に不思議なものが目に入った。

車を降りて立ち寄れば注連縄である。

しかも不可思議な形のものも吊っていた。

「山神 山中・・」の文字を刻んだ大岩。

その前に建てた社に祭る、それは山の神。

村の人を探して下ったところにお二人。

散歩の途中に一息つけていた二人に、そのことを尋ねれば、まさに山の神。

不可思議なものはすぐ近くに住む高齢の方が作って祭るというから、N家まで押しかけて詳しいことを教えてもらった。

Nさんは昭和3年生まれ。

歴史文化にも詳しい、地域の生き字引のようなお方だった。

ここは78戸からなる吉野町千股(ちまた)である。

間違って入り込んだ山の方を臨んでみる。

峠を越えたら明日香村の栢森にたどり着く。

かつて飛鳥に住む宮中の人たちが吉野町の宮滝までを行幸していた峠道である。

聞取りから5カ月後の10月9日。

取材の許可取りに再び訪れた千股である。

大淀町・岩壺の行事に取りすがりにお会いした矢走の路上売り夫妻の取材を終えて車を走らせた。

時間帯は夕刻。日が暮れるまでに代表のK(総代区長にお会いでき、当日取材の承諾を得た。

それから20日も経ったころだった。

台風22号の影響によって川は増水。

上流にある上水道施設の濁り。

本来ならば山の神の前を流れる川で米を洗う。

洗った米で赤飯を炊く。

清流の濁りでできなくなった関係で赤飯は市販品に切り替えた。

また、その関係によって行事日程も変更することになったという。

こうした状況もあったが、ようやく拝見できる千股のささいわ行事。

これくらいの時間であれば山の神に何人かが集まっているだろうと思ってやってきた午後2時。



ついさっきまでは山の神周りを綺麗に清掃していたそうだ。

午後1時より始めた「デアイ」の道作りは、草刈り清掃。

作業を終えて一段落していた村の人たちはトンド火にあたって暖を取っていた。

K区長や事前に教えてくださったNさんもおられる。

神饌はお神酒に塩、水。

大きな鯛に丸太の鯖一尾を供える。

サトイモ、ハクサイ、ニンジン、サツマイモにダイコン、ピーマンの作物。

キノコに果物のリンゴ、キウイも供えていた。

山の神の前に吊るした藁細工は三種。

この年もNさんが3日前に作っていたそうだ。

宮さん(※氏神社の葛上白石神社)の注連縄を作る要領で太く作っていたという。



そのNさん、デアイに集まってその状況を見届けてから先に参拝を済ませて川渡り。

堤の端を渡って、足元は濡れずに帰ったようだ。

張った鉄線に吊り下げた注連縄。



三か所それぞれに何束もある房を垂らしていた。

右側の頭部分は黄色に紅白の水引で縛っている。

中央に針金で引っかけたモノ。

ひと際大きいというか、丸太いのを「キンダマ」と呼んでいる。

その「キンダマ」の内部には大豆を12粒納めている。

旧暦の閏年の場合は13粒。

ここ千股にも旧暦閏年、つまり大の月もある13の月数を一年間とする暦があった。

形態はさまざまであるが奈良県内事例にこうした13の月数がいろんなところに登場する。

そのことによって、明治時代より前の時代にもしていたということがわかる史料でもある。

右に吊っているのは見た目でわかる細身。

これは男のシンボルだという。

山の神に近寄れるのは男性のみ。

「女性は近寄ることさえ許されないのです」と村の人はいう。



左に吊っているのはナベツカミ

牛の草鞋ではなくナベツカミだという。

武蔵野美術大学の民俗資料室に鍋掴みと牛の草鞋資料を掲載されているので参照されたい。

ちなみにこの日の取材にもう一人。

写真家のHさんも興味をもたれて、朝から滞在しているという。

山の神の御供上げが調ったところでローソクに火を点ける。



村の人、一同揃っての参拝でなくめいめいが参って頭を下げる。



場は鬱蒼とした樹木下。

午後3時半であっても夕刻のような暗さに錯覚する。

山の神の前の道はコンクリート造り。



平坦な道に長机を4枚据えた場にご馳走が並ぶ。

ささいわ行事のメインでもある松明行列を終えた村の人は再びここへ戻ってきてよばれる直会の場である。

台風22号の影響で濁り川になったから米洗いができなくなった。

そういうことで市販のパック詰め赤飯になったが、実は場も替えようとされていた。

尤も急な雨天になった場合の対応であるが、その際はお家でしようという意見もあったらしい。

紙製の大皿に盛ったのは酒の肴。



練り物の天ぷらにたくあん、コウコ。

胡瓜を詰めた竹輪など。

写真は撮っていないがお造りなど多様な肴がいっぱい並べて、そのときを待つ。

午後4時半も過ぎれば辺りはもう暗くなってきた。

山の神の場はもう夜の時間帯に移ろうとしていた。



トンド火にあたっている人たちは松明行列が終わって戻ってくるまではここで待つ。

料理狙いの動物の目にでも食べられないようにして見張っている当番の人たちだ。



一旦、家に戻って自作の松明を持って集合場所に出かける。

火を点けた松明行列が出発する時間帯は午後5時半。

これより始まる松明行列は千股川を挟んで村二手の東西地区に分かれて行われる。

長老の話しによれば、西千股は池田郷。

東千股は龍門郷になるそうだ。



火の点いた松明を持って下る道。

両地区の道の間隔はままある。

距離にして60mも離れている。

身体は一つなので選択はどちらか。

西地区の出発地がわかったから川向こうの長い坂道の手前。

東地区の道外れにある広地に集まりかけた人たちにお声をかけて撮影に入る。

到着寸前に始まった火点け。

大慌てにカメラを構える余裕などなくシャッターを切る。

明るくなった火点け場に子供の姿が見える。

大人に混じって火点け。



かつてささいわ行事は主に子供、若衆たちとともに松明を翳して練り歩いたそうだ。

少子化の流れはここ千股も同様。

若年層も少なくなった近年は、年齢に関係なく大人たちが占めるようになった。

松明に火が移ったら、道を下って歩き出した東千股の人たち。

辻を曲がって千股川沿いの道を行く。



川沿いといっても距離はある。

里道にぽつぽつと立つ街灯の灯りよりも煌々と燃える松明の火。

辺りは赤々色に染まると同時に持ち手の人たちのお顔も火照る。

向こう岸は西千股。



囃しているのか、それとも声が届かないのか、辺りは静かに松明の火だけが動いていく。

声がなければと、こっちからと云いつつ、大きな声で「ほっからかせ まめかせ」。

続けて「西の国の こばせくい」。

「もっと声ださな」とみなにも伝えて「ほっからかせ まめかせ」、「西の国の こうばせくい」と囃す。

西の国とは西千股をさす。

「こうばせくい」は、若干訛っているようだが、記録によれば「西の国の こうばし喰い」である。

「こうばしくい」とは米の屑、つまり米糠につく蟲のことであるという。

「こうばし」とは「麦こがし」である。

焼いて焦がした麦は食べ物。

麦粉菓子の漢字を充てる。

ブリタニア百科事典によれば「大麦とか裸麦を炒って粉にしたもの。関西ではハッタイコ」といえば、思い出す懐かしい味。

ハッタイコで育った私の記憶にあるのはお湯を注いで練った食べ物。挽いた粒は粗かった。

おーい、おーいと対岸に向かって声を揚げるが西の国からの反応が聞こえない。

静かに流れる千股川に声は響けども、反応があるような、ないような・・。

「ほっからかせ まめかせ」、「ほっからかせ まめかせ」、「ほっからかせ まめかせ」を連呼する東千股の人たち。

西千股から却ってくる囃しは「ほっからかせ まめかせ」に続いて「東の国の せんちむし」であるはずだが、小さな声では西千股までは届かなかったようだ。

ちなみに「せんちむし」とは何ぞえ、である。

西千股の人がいうには「せんちむし」は便所の蟲。

ぽっとん便便所に居た蟲の「せっちんむし」。

充てる漢字は雪隠蟲。

まさにその通りである。

私の子供のころはぽっとん便所。

ぶーんと羽根音がする便所蟲はいつもいた。

大阪市内に住んでいた市営住宅はぽっとん便所。

尤も、落ちた便の跳ね返りは「ぼっとん」だったから「ぼっとん便所」である。

当時、木造だった市営住宅はやがて鉄筋コンクリート造になった。

昭和50年代初頭のころである。

そのときから文化的衛生面のある水洗便所に移っていった。

それはともかく「せんちむし」に「こうばし喰い」は西と東がお互いに揶揄する詞を言い合ったというわけだ。

昭和18年生まれのYさんが子どものころ。

千股にあった小学校の生徒数は70人。

およそ60年前の小学校は複式学級だったそうだ。

平成6年12月24日に発行された吉野小学校PTA広報誌の「川波 第52号」によれば、その年に参加した子供の人数は5人だったと記す。



向こう岸の里道を行く西千股の松明と合流する場所は”ミツバトウゲ“に架かる橋である。

里道から下って橋に集まってきた両地区の松明。



欄干から川を覗き見る顔、顔。

ころあいを見計らって一斉に松明を投げ入れる。



その際、何人かの子どもの声がしたから複数人だったようだ。

川にいる村の人は水際に集めた松明のすべてを燃やして水に流す。

安全のため、消火を考えた到着地点である。

昔のことであるが、「松明行列を終えた子どもたちは区長の家に行って小遣い銭をもらっていた」。

「竹代をくれ、と云って村中一軒ずつ歩いて廻っていた」と「川波 第52号」が伝えていた。

さて、「ささいわ」とは何であるか、だ。

村の長老が遺したメモ書きによれば、起源は150年前。

明治時代初めのころのようだ。

山の神の前を流れる清流は水泳の場であった。

その場で何の争いかわからないが、山の神さんの祠が原因だった、と。

山の神さんの所有をめぐって、東千股と西千股で争いが起こった。

生じた争いは和解、成立し、それを祈念して平和の誓いをたて、「笹祝」の行事として、毎年行うようになったとある。

何故に「笹」「祝い」なのか、メモ書きにはないが、取り合いになったと思われる山の神の祠。

争い詞に「祠を返せ」。

つまり「ほこらをかえせ」から「ほっこらかせ」に、と。

「豆返せ」はお互いが罵る一番嫌いなものが、せんち蟲、つまり便所の蛆虫。

こばし喰いは、麦の皮の食べられない部分。

だから「豆返せ」という論であった。

なんとも納得しがたい面もあるが・・。

明治時代になるまでは西千股は池田郷。

東千股が龍門郷。

明治維新後の町村合併によって合わさった行政区にどちらの村が優位性を保っているのか、住民同士が罵り始めたのでは、と推定したが・・。

そうであったとしても、長老が充てた漢字は「笹祝」。

私自身、今のところ理由は思いつかない。

千股のささいわはかつて旧暦の9月晦日に行われていた。

1953年(昭和28年)に調査報告の上、奈良縣教育委員会から発刊された『奈良縣総合文化調査報告書―吉野川流域龍門地區―』に、そう記す。

旧暦から新暦の10月30日に移したのは明治時代の初めであろう。

『奈良縣総合文化調査報告書』によれば、子ども仲間でするのと、若衆仲間でする2部構成になっていたとある。

夕方に集まる子どもたちは学校へ行く年ごろから15歳までの青年団に入るまでの年齢層であった。

火振りの竹を幾つも束ねて、先端を割り、燃えやすいように枯れた杉葉、松葉を詰めた松明であった。

両地区に分かれた子供たちは、お互いが罵りあいながら里道を下って、ヒトツヤ(一つ家)という処で、燃やしていた。

その場に集まった子どもたちの声。

よく燃えた場合は自慢しあい、相手の東(或いは西)の燃え方が悪いと“東(或いは西)の奴は燃えへん、ヒンソ(貧相)な”などと悪口を云った。

それから東西の子どもたちはそれぞれが“竹代をくれ”と云って、村中を1軒ずつ廻って小遣い銭をもらっていた。

千股川上流の家でもらったお金を分配していた。

年長の子どもは多め、余計に多く取って、年少の子らに残りを分配していた。

その後、やり方は替わり、子どもたちに任すことをせずに区長家で一括化。

一人当たり5円ずつ渡すようにしたと書いてある。

昭和27年のときの子どもは37人。

子供組というものは特になく、ただただ年長の子どもが世話をしていたとあるから、その後において区長預かりになったようだ。

その時代以前の子ども。

カコ(※刈り取った稲を干すために架ける竹の棒)の先端に藁の玉を括り付け、若い衆たちも手伝って、ダメ(※一番最後の意)にそれを振ったとある。

さて、山の神である。

松明送りを終えた人たちは、北に向かう。



5分ほど歩けば山の神の場である。

火の番をしていた当番さん。

真っ暗な場にサーチライトを照らして食事の料理が見えるようにしている隣のテーブル。

松明送りをしてきた男たちが集まる場に灯りが点いたら、山の神に吊るした藁作り捧げものが浮かび上がった。

お神酒をいただいて料理を愉しむ。

話題はさまざま。

トンドの火に近寄って暖を取る人たち。

飲んで身体を温める人もあれば、火に温まる人も賑やかに山の神の恵みをいただいていた。

山の神まつりにおいても『奈良縣総合文化調査報告書』より引用し、一部抜粋、補正の上、記しておく。

「青年團は、各戸から60歳までの男一人について、二合五勺に少しずつの小豆をもらい、夜の10時ころに村の北外れにある山の神の場に集まった。山の神の場。以前は樫の大木があったが、大風で倒れたために石に「山神」と彫って納めた」とある。



それは今もなお山の神の社の後方に建つ「山の神」の指標である。

また、「家の神棚に祭っていた古いお札は山の神に納める」、とある。

「山の神の前を流れる千股川の清流で米を洗った。洗う回数は、“七度半”」。

その都度、川の水を入れ替えて洗っていたようだ。

「山道の真ん中に設えた簡単な石の籠。2カ所に大鍋を2個も架けて赤飯を炊いていた。ひと寝入りした男の子や、60歳までの男は、赤飯が炊きあがる時間。深夜時間の午前1から2時ころ。“ささいわの握り飯をもらいに行こうや”と声をかけ合って、集まってきたら、一人ずつ3個のおにぎりをくれた」とある。

「若い衆は、別に新しいシトギ(※シトギ、つまり米粉で作る粢であるが、千股では粢はなく藁で作った“ホデ”をシトギと呼んでいた)、ミミツカミ(※前述したナベツカミであり、鍋の耳を掴むことからミミツカミとも称する)、箕に注連縄の太いものと注連縄の“タスキ”を作る」
「藁で作ったシトギの内部に、米と12粒(※旧暦閏年は大の月数になるから13粒)の小豆を入れ込み、注連縄とともに山の神の傍に立つ樹木にかけた」。



また、「ミミツカミと箕は握り飯とともに山の神に供えた。また、竹のゴーを二つ作り、その竹筒にお神酒を注いで木にぶら下げた」とある。

この日に拝見した山の神の御供に箕と竹のゴーは見られない。

失念したようでもない。

と、いうのも、今年の10月9日に訪れたとき、すでに山の神にはなかったから、毎年そうしてきたのであろう。

作り手のNさんの口からもその件は話しにでなかった。

気になるのは文中の“竹のゴー”である。

竹のゴーとは竹で作ったお神酒入れである。

これを“オミキドックリ”と呼んでいたのは宇陀市榛原の額井である。

充てる漢字はお神酒徳利。

まさにその通りである。

“竹のゴー“の呼び名は「十津川かけはしネット」にある。

執筆は十津川村教育委員会の教職者。

学校教育の一環に構成されたネットである。

「十津川かけはしネット」の「十津川探検」、「十津川郷民語彙」に「※ タケノゴー(竹筒のこと)」とある。

山行きさんが山の神さんに参る際の道具である。

その事例に紹介しておく奈良市柳生町・山脇の山の口講の祭り方。

ここでは竹のゴーという呼び名でなく、「竹のゴンゴ」である。

この呼び名は田原の里と呼ばれる奈良市東部山間地で伝わる詞。

平成26年12月1日にイノコのクルミモチ作りに訪問した際に教えてもらった地域の語彙が「竹のゴンゴ゙」であった。

話しは戻すが、千股にあった“竹のゴー”も同じような形状であったと推定されるのである。

また、シトギについても柳生町・山脇の山の口講の祭り方を参照していただきたい。

千股のささいわ行事に話しを戻そう。

『奈良縣総合文化調査報告書』に次のことも書いてあった。

「ささいわの握り飯は、女が買いに、行きにもせず、たべもせず。山の神のまつりをしているとき、女の人が通りかかると、石が転げて飛んでくるという。昭和26年、千股のある女の人がささいわ行事の日を忘れて、火を焚いているところを通る際、川の向こう道に切り替えて息を殺しながら通りすぎたという」。

今もなお千股の山の神は女を嫌う。

山の神は男やから、その場に女は一切立ち入り禁ズ、という。



さらに次のことも伝えていた。

「女ばかりでなく、ささいわ行事のときは人通りが少なかった。この道は、芋峠を越えて高市郡の飛鳥に。或いは磯城郡の多武峰に出る道なので、平常の人通りは多かったのだが、昔は一度、刀を差したシニビキヤク(※死に飛脚、つまり死亡を伝える通知便を運ぶ飛脚)が、二人も通ったのを見た記憶がある」という証言もあったそうだ。

民俗の断片を知る手掛かりになる記憶証言である。

「だいたい、ささいわ行事はキラダメル(※地域語彙と思われるが意味不明である)とて、死を忌み、不幸の家は“ここの家、火や悪い”と云って、その家だけは別にした。忌みのかかった家は“今年はブク(※服忌)かかっとるから握り飯もらいに行こまい”と、云ってもらいに行かなかった」。

「40年ほど前(※仮に昭和26年を基点として計算すれば明治44年辺り)、米が不作の年だったというが、若い衆の全部が出てする山の神まつりは廃せられた。明治42年、小学校建設の地均しをするために、千股を7組の垣内に分けて、それをもとに垣内単位で交代する山の神まつりにした。その結果、青年團は特に参興することがなくなった。それからも続く山の神まつりは垣内が当番組の男の子は交代するが、お供えは替えることなく・・」、毎年が同じであった。

それから65年後の今日。

山の神のまつりに寄り合う男たちは青年どころか壮年時代に移っていた。

子どもの少子化は県内どころか全国的。

男の子だけでするには無理がある。

十数年前からは女の子も受け入れて継承してきた地域行事がある。

なんとか繋いできたが、それすらも難しくなった絶対数も少ない少子化時代。

外孫も受け入れて継続している地域もまた増えている。

子どもが主体で行われてきた地域行事は、今後、どうなっていくのだろうか。

近い将来の問題は喫緊の課題であるが・・・。



千股でいただいた赤飯をよばれながら、伝統を紡いできた日本の民俗の将来像に夢をみていた。

(H29. 5. 8 EOS40D撮影)
(H29.11. 5 EOS40D撮影)

千股・ささいわ祭の山の神

2018年06月01日 08時56分48秒 | 吉野町へ
大宇陀野依、栗野に吉野町の小名を探訪してからの帰路の道をどこにするか。

小名から吉野町の佐々羅に下って新鹿路トンネルと思って車を走らせていた。

ふと思い出した明日香村桧前(ひのくま)。

Ⅴ章の年中行事の章に「5月8日、桧前のウヅキヨウカは花より団子といってツツジやカヤを括って竿を立てたら、鼻の高い子ができる」と書いてあったのは、昭和62年3月に発刊された『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』である。

調査および報告、発刊したのは飛鳥民俗調査会。

名の有る執筆陣であるが、そのことは今でもしているのかどうかは伺わしい。

というのも奈良県内で、ウヅキヨウカのテントバナをしていることは考え難いのである。

コイノボリは揚がっているが、テントバナはいわゆる旧態に属する民俗。

あれば奇跡的・・だと思うのであるが、念のためのと思って明日香村桧前を目指す。

セットしたカーナビゲーションシステムが誤解したのかどうか、わからないが新鹿路の道はなぜか案内せずにこれまで行ったことのない道を誘導する。

こうなれば試したい気持ちが強くなる。

さて、ここを行けばどこに着くか、である。

走っている道はなんとなく旧道のように思える。

集落を抜けたそこ、に・・。

川を挟んだ向こう岸に小祠がある。

その祠の前に注連縄のような祭具が見えた。

太い注連縄が崩れたような形になったモノがぶら下がっている。

ここはどこなのだ。

カーナビゲーションシステムが表示する地域名は吉野町の千股(ちまた)であった。

車を停めて向こう岸に歩いていった。

小祠の向こうにあるのは立岩。

そこに文字があったからわかった山の神さんである。

小祠の前にぶら下がっていた藁製の祭具は一体何であろうか。

ぶら下がる太い部分内部に何かがあるような気がする。

その横にもぶら下がる藁細工。

モノは小さいが草鞋のように思える祭具。

丸っこい草鞋で思い出すのは牛の草鞋。

御所市鴨神・大西垣内の申講の山の神行事である。

牛の草鞋事例はもう一つ。

桜井市笠・牛頭天王宮の「テンノオイシキ」の祭りにあった牛の草鞋は鳥居にかけていた。

2例の事例より想定した千股の藁作り祭具である。

このことについて早急に調べたくなって集落に戻ってみる。

それほど離れていない場に散歩休憩中の二人の男女が椅子に腰かけていた。

先ほど見てきた藁飾りの祭具がご存じであれば、と思って声をかけたら、詳しいことはすぐ近くにすむNさんが一番だという。

何故ならその藁細工はNさんが作っているというのだ。

その作り方は難しく、若い者にはまだ伝授されていない、というから、先にある行方が見えてくるのが怖い。

訪ねた家におられた男性は少し耳が聞き取り難いという昭和3年生まれのNさん。

この年が89歳のNさんは、よくぞここを訪ねてくれたと喜んでくれる。

奥にいた奥さんも玄関土間にやってきた。

足が不自由な奥さんも喜んでくれて、冷たい飲み物でもてなしてくれた。

Nさんが云うには、祭りの日までに作っておくという。



あの太くなったところには12粒の小豆を入れているという藁棒。

牛の草鞋だと推定した藁細工はナベツカミだというNさんの説に、なんとなくそう見えないこともないが・・・。

現在は10月末の日曜に移したというささいわ祭りである。

旧暦の9月晦日にしていたささいわ祭りはやがて固定化されて10月30日に移して継承してきたが、近年になって村の人が集まりやすい10月末の日曜に移したという。

山の神の地はささいわ祭りの出発地。

火を点けた松明を翳して下流に向かう。

その在り方はまるで田の虫送りに似ているが、時期は雲霞の発生する時期とはずいぶん離れているから虫送りとの関連性は極めて薄いと思える。

昔、子どもが多くいたころは二手に分かれてしていた村行事。

西と東に分かれている地区ごとに出発する。

以前は山の神の地であったが、今はもっと下った地からようだ。

西と東の地区の子どもたちが松明を振り翳しながら、向こう岸にいる子どもたちに悪態を囃し立てる。

かつては石を投げ合ったというから印地(いんじ)争い、若しくは印地打ちのような様相である。

今ではそうすることなく松明を翳して下流で合流する。

それで終わりでなく、出発前に山の神に供えたセキハンのにぎりめしを食べているという。

帰宅してわかった千股で行われている「ささいわ」という行事。

数年前に知人のHさんが史料として送ってくれた昭和28年刊の『奈良縣綜合文化調査報告書-吉野川龍門地区-』が詳しい。

一般的に米を挽いて粉にしたものを水か湯で練ったシトギと同音語のシトギがある。

千股では藁細工したモノをシトギと呼ぶらしく、を千股集落ではこれを“ホデ”であると書いてあった。

ぶら下げていた太めの藁細工は“シトギ”であるが、他村で見られる山の神に奉る藁細工は“ホデ”の呼び名というのも面白い。

私が牛の草鞋と推定した藁細工は“ミミツカミ”とある。

その説明に「鍋の耳を掴む道具」とあるから、家庭的民具のナベツカミ道具と思いこんだような気がする。

何故ならナベツカミには曲がりのない構造。

平たい構造である。

ところが牛の草鞋は牛の足に履けるように曲げをつけて細工している。

シトギと呼ぶホデやミミツカミに注連縄も作る。

12粒の小豆を入れるシトギ。

閏年は13粒にするそうだ。注連縄とともに山の神の祠の側にある木に掛ける。

ミミツカミと箕は握り飯と一緒に山の神に供える。

また、竹の“ゴー”を二つ作ってお神酒を入れてぶら下げる。

さて、“ゴー”とは何である、だ。

県内事例からいえば“ゴー”は竹を割って作る“ゴンゴ”の神酒入れである。

平成21年12月19日に拝見した奈良市柳生町・山脇垣内の山の神に割った竹を2本挟んだ道具は神酒入れ。

これを“ごんご”と呼んでいたことを思い出す。

山脇垣内の山の神にバランの葉に載せてトンド火で焼く“シトギ”がある。

山脇垣内でのシトギはまさに米粒から挽いて作る食べ物である。

こうした疑似例から推測するに、千股でもかつては食べる“シトギ”があったと思われるのである。

いつしかシトギ作りが廃れてしまって“ホデ”がシトギの名に転じた、と思われるのである。

現在はお米と12粒の小豆(閏年は13粒)を入れているということから、米粒はかつてシトギであったと想定できる。

いつしか内部に入れていたシトギが米粒に替わった。

米粒になったが、藁で作った本体のホデをシトギと言い表すようになったと考えられるのである。

今年の10月の最終日曜

それまで元気にしていてくださいと声をかけてN家を出た直後である。

注連縄もそうであるが、若い者が作れなくなってきたので、例年ともNさんにお願いして草鞋一足も作ってもらっていると、N家を出てからお会いした同家北にお住まいのN家の婦人もそういっていた。

(H29. 5. 8 EOS40D撮影)

小名・新築庚申堂は移転の場

2018年05月31日 08時42分06秒 | 吉野町へ
大宇陀の野依、栗野を抜けて吉野町に。

国道370号線が国道28号線と交差する地点に信号がある。

その表示は三茶屋(みっちゃや)である。

ここより信号折れしてトンネルを潜れば吉野町の小名(こな)に着く。

下垣内から中垣内。

そして上垣内を巡ってみるが、やはり見つからない。

当地で聞取りをしていた知人のHさんが聴いた話ではごく数年前まで卯ツキヨウカのテントバナをしていた、ということだ。

Hさんが聴きとった年は平成25年。

その年から数年前。

1軒のお家がしていたということだが、知り得る人もまた探すのも難しい。

車を走らせた奥の上垣内。

そこに地蔵堂が建つ。

山の上にあった地蔵堂を下ろしてここに移転したという。

平成26年4月3日に訪れて撮らせてもらった上垣内の地蔵さんの祭り。

このときのお堂は地蔵堂だけが建っていた。

その隣に真新しいお堂がある。

その場より車道側のコンクリート造りの崖。

その崖に凹みがあった。

拝見したのは平成24年の12月7日だ。

北谷の山の神行事を取材した折に足を伸ばした場のコンクリート造りの崖は山崩れの防止対策。

その凹んだところに安置していたのは青面金剛仏の庚申仏だった。

この日に訪れてみた崖にそれが見当たらない。

もしかとすれば、この新しく建てた小堂に遷したのでは、と思った。

お花を立てているところを考えれば、すでに安置済みであろう。

辺りをぶらぶら歩いていけば話し声が聞こえる。

そこに居られた二人は幾つかの行事取材でお話してくださったかつて総代を務めていたIさんと、小名の花まつりに当屋を務めたことのあるMさん。

小堂のことを聞けば、やはり移転したということだった。

Iさんが思い出す昭和30年代の民俗行事。

小名の端午の節句は菖蒲に蓬がつきものだった。

長めの蓬葉は屋根の庇に挿した。

カヤに栗と枝豆をお月さんに供えていた宮さんの行事があった。

Iさんの出里は吉野町の津風呂。

その津風呂の鬼輪垣内の3軒でしていた豆名月があった。

豆名月の日は旧暦の8月15日。

垣内周辺に住む子どもたちが豆たばりに来ていたという。

鬼輪の豆名月を調べに訪れた吉野町の津風呂湖。

鬼輪を探してみたものの、わかったことは津風呂湖の湖水に沈んだということだった。

調査に立ち寄った日は平成28年の8月28日

当時の関係者の記憶を聞けたのが嬉しかった。

Iさんが続けて話される当時の体験記憶はまだある。

稲作における民俗である。

一つは6月の田植え。

カヤを挿していたというから、植え初めの作法である。

本数は聞けなかったが、おそらく12本のカヤ。

田植えを始める前に田んぼに挿す作法である。

5月はマクラと呼ぶ2本の藁束を苗代田に置いた。

そこにイロバナも立てていた。

話しの様相から大宇陀の平尾と宇陀市榛原萩原・小鹿野玉立の水口まつりの様相と同じだと思った。

マクラと呼んでいたのは平尾のI家である。

遠く離れているこの三つの地域と直接的な関連性はないと思えるが、何らかの生活文化が伝わったのでは、と思える記憶の断片である。

すくすくと育った稲が稔れば稲刈り。

12月に稲刈りをしていたのは、当時は麦も作っていた、二毛作時代の農事暦だったからである。

そんな話を聞いた小名にコイノボリが揚がる。



風を待っていたが・・・。

(H29. 5. 8 SB932SH撮影)
(H29. 5. 8 EOS40D撮影)

樫尾十二社神社の節分の豆御供

2017年11月29日 09時10分22秒 | 吉野町へ
川上村高原に住むⅠ家の節分を拝見して下ってきた県道169号線。

いつも通る度に気にかけていた神社がある。

吉野町の樫尾(かしお)の地に鎮座する十二社神社である。

車窓に人影が写った。

ガラスウインドウではなく流し目した視線に入った人物は高齢の婦人である。

思わず停車した倉庫前。

カメラをもってその場から駆け付けたら、本社殿に登る急な階段下にじっとしていた。

たぶんにお参りされているのだろう。

その姿に思わずシャッターを押してしまう。

拝礼されて頭を下げておられた婦人の後方。

道路際に建つ木造の鳥居から本社殿を眺める位置に参拝する高齢者を配置してシャッターを押す。

ここからは境内内。

砂利を敷いている境内を歩くには音が出る。

驚かしてはなるまいと、近づくこともしなかった。



時間は短時間と思うが、佇んで拝見していた私の感覚では長時間だった。

立ったままずっと拝んでいた婦人はもう一度頭を下げてお参りを済まされた。

ここでお声をかける。

婦人は昭和6年生まれのSさん。

節分の日には数え年に一つ足した煎り豆を供えて、一巻の般若心経を唱えていたという。

事後承諾になった後ろ姿のお参りに感動したことを伝えたらはにかんでおられた。

毎年、こうしてお参りにくるのは厄祓い。

畑でこけたこともあったのでお参りに来たという。

この日は神事もない節分であるが、村人めいめいが夕刻前に参拝しているという。



そういえば、階段に参られた人が供えていったオヒネリ包みの豆がある。

婦人以外に二人の参拝があった。

時間帯は午後5時前。

夕暮れは近い。

婦人が参っていた階段下両脇の境内に建つ灯籠に正徳五乙未年(1715)の年代刻印が見られる。



「奉寄進 常夜燈 正徳五乙未年十一月吉日 吉野郡樫尾氏子」とあった。

樫尾(かしお)の社務所に掲げていた神社表記に三社。

「十二社神社」、「式内川上鹿塩神社」、「天皇神社」の三社である。

お参りをされていたSさんが話してくださる神社行事。

毎月の1日、15日は朝8時から境内の清掃。

老人会が主となった掃除をしている、という。

どおり、である。

いつ通っても境内が綺麗なのはそういうことだったのだ。

祭りは11月22日と23日。

22日は8時半から一日早いゴクマキをする。

餅搗きは前日の21日。

朝4時に集まる厄年の人。

42歳、61歳の厄年の男性がその日に厄祓いする餅搗きである。

餅搗きは朝6時から搗き始めるというから、早起きもよほどの早起きをしないことには到着しない。

我が家から当地へ行くには1時間以上もかかる。

現況の身体状況では無理があるから断念するが、餅を丸める時間帯であれば、なんとかできるかも・・。

Sさんの話しによれば、歩きで行ったら40分の所に五社神社(※川上鹿塩神社)があるそうだ。

搗いた餅をもって上がって参拝するのは厄年の男性たち。

軽トラに乗って出かけるらしい。

五社神社の他にも天王さんなどミトコ(三所)もあるという各神社に参拝して餅を供えるそうだ。

うち一カ所は十二社神社から見える急な山道の向こうになるという。

そこが五社神社なのかそれとも天王さんなのか。

Sさんが云われる天王さんは社務所に掲げていた神社名の一つ。

天皇神社であろう。

で、あれば天王さんは牛頭天王社が比定されそうである。

23日はゴクマキ。

村の人、大勢が集まってくる、という。

なお、8月14日は樫尾の盆踊りがあるらしい。

村の盆踊りが廃れていく時代になったが、樫尾では今尚盛ん。

一度は拝見したくなってもみる。

(H29. 2. 3 EOS40D撮影)

佐々羅不動明王のアオキ葉注連縄

2017年11月18日 09時16分54秒 | 吉野町へ
吉野町丹治の厄除け祈願参りを取材したら北上する。

走行距離はどれほどあるのか。

目指す地域は京都府南部。

丹治から新鹿路のトンネルを抜けようとしていた道すがらに神社らしきと思われた石柱構造物があった。

この日は2月1日。

もしかとすればであるが、二ノ正月にお供えがあるのではと思った。

その勘はずばりの大当たり。

県道37号線を北上する街道の左側に、である。

佐々羅の四叉路信号を越えてからすぐ近く。

とは云っても歩きではそうとうな距離にある。

階段を登ってみれば、そこには社殿もなかった祭場。

灯籠に「不動明王」の刻印があったことから、ここは不動明王を祭った場であった。

平成21年4月吉日に施行されたさい銭箱に男女25人の寄進者名が刻まれていた。

地区はどの垣内になるのかまったくわからないが、この辺りに住む人たちに違いない。

さて、不動明王の祭場である。

中央は奥の不動明王石がある。

それを拝見するにもガラス張りのローソク立てで見えない。

その前にお供えが三つ。

いずれもミカンである。

ガラスコップにコーヒーカップはお酒であろうか。

それよりも気になったのが左側の神さんを祀っていると推測される社の前に置かれた注連縄である。

ウラジロに手造りの注連縄にミカンもあるが、葉っぱにえっ、である。



注連縄であれば、間違いなくユズリハであるのが、ここは赤い実をつけたアオキである。

付近を歩いて探索したら同じ実のアオキがあった。

身近にあったアオキが注連縄飾りに適用されている事例は初めてである。

(H29. 2. 1 EOS40D撮影)