マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

伊与戸の行事

2011年05月31日 08時23分52秒 | 田原本町へ
伊勢講もあった伊与戸の年度初めは2月。

かつてはニの正月の1日だったのであろうか集落の新年初集会が公民館で行われる。

現在は第一日曜になっており東、西、中垣内の住民が集まってくる。

アマテラスの掛け図を床の間に掲げてオソナエをする。

それは先が円錐の山型にしたダイコンとニンジンにコーヤドーフ。

それを竹串に挿しているというから土台があるのだろう。

ただ飾るだけでは・・と、今年からは拝むようにしたという。

かつては総代の家が勤めていたらしい。

アマテラスの掛け図があるといえばおそらく日待ち籠りであろう。

会計報告などがされる初集会の様相は民俗行事としてとても興味がある。

隣の神社は八幡神社。

その角に大神宮と石灯籠がある。

7月16日には笹を立てるようだ。

その行事はゴーシンサンと呼んでいる。

田原本町ではその名で呼ぶ地域が多いが他所ではダイジングウサンとかダイジグサンと呼ばれている。

まさに大神宮さんだ。

これらの灯籠はお伊勢参りの出発点。

そこで拝んでから伊勢路を向かった。

その様相は現代ではみられないが祭りごとは存在する。

神社と公民館の間には地蔵さんがある。

ここでは地蔵盆の際に大師講のお勤めをされた尼講が念仏を唱えるそうだ。

その公民館は今でも「オドウ」と呼んでいる。

大師講に出向く際には家人に「ドウ」へ行ってくるといってでかける。

「ドウ」はおそらく「堂」であろう。

それを示すものはないがお堂であったようだ。

神社の神宮寺であったかもしれない。

その前にある建物は昔に使っていた米蔵。

農協に貸していたが使用することがなくなり戻ってきた。

(H23. 4.21 EOS40D撮影)

花まつりの伊与戸大師講

2011年05月30日 06時45分50秒 | 田原本町へ
田原本町の村屋神社の北側にある地区が伊与戸(いよど)。

40数軒の集落のうち5軒のI家が神社の綱掛けを担っていた。

農家の営みはモチワラを作ることもなくなり1軒ずつ脱退していった。

小人数ではそれを作ることもできなくなり、その行事を止めざるをえなくなった。

40年ほども前のことだと1軒のI家の奥さんは話される。

昭和59年発刊の「田原本町の年中行事」にはそのころの綱掛け講の様相を写真で残されていることからその後もしばらくは続いていたのであろう。

そんな話をする8人の尼講たち。

毎月21日には昭和61年に改築された公民館に集まって大師講を営んでいる。

この日は花まつりでもある。

かつてはお釈迦さまの誕生日であった4月8日だった。

いつしかそれは大師講の日にまとめてするようになった。

小さな花御堂の屋根の上には奇麗なお花を飾っている。

大和川辺りで採ってきたタンポポに花や栽培しているマーガレットなどの花を添えた。

御堂の内には産ぶ湯に浸かる釈迦像。

「天上天下唯我独尊」と言った姿だ。

木製の桶は年代物だがそれを示す記録はみられない。

湯がそのまま浸かるにはもったいないからと地区に住む人がピッタリはまる金属製の桶を作ってくれた。

湯は甘茶。



参拝する人に飲んでもらう湯でもある。

原材料はアマチャ。

小さな花をつけるアジサイのようだというからアマチャアジサイかもしれない。

以前は自宅などにあったアマチャヅルだった。

たくさんあったが、それは随分前のことで先代のおばあちゃんたちが作っていたので製法はわからないという。

現在は薬局で買ったアマチャを使っている。

お菓子や果物を供えて参拝者を待つ間に始まった大師講のお勤め。

まずは百万偏数珠繰りで法要をする。



本尊や弘法大師像の前にある祭壇にはローソクを点している。

なんまいだー、なんまいだーを繰り返す唱和とともに月当番の導師が叩く鉦の音。

大きな数珠玉がくるたびにそれを上にあげて拝む。

一回回るたびに算盤の珠のような数取りで回数を数えていく。

それがなくなればようやく終わり。

なんまいだと手を合わせて終えた。

大師講のお勤めはそれだけではない。

鉦を叩いて唱える香偈、木魚を叩いて開経偈(かいじょうげ)。

佛説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)、一枚起請文(いちまいきしょうぶん)、発願文、別回向文などなど。

最後は拍子木を打って般若心経で締められた。

お年をめしたわりには声が大きくリズムも早い。

「唱えるお念仏は腹式呼吸をしているから力強く発声できるのです」と話されるおよそ40分間、延々とお念仏を唱えられた。

浄土宗の五重相伝(伝法)を授かった人で組織されている尼講たちはすこぶる元気がいい。

伊与戸の集落はかつて(室町時代とも)三輪さんに向かう門前町だった。

東西には行き交う人が多かったと先代から聞いている。

面影は見られないが街道は商店街のようでコンニャク屋、アブラ屋、トーフ屋、ワタ屋、ゲタ屋、ス屋、ローソク屋、サケ屋、スミ・マキ屋、ショーユ屋、センベイ屋、アメ屋、アンマ屋、カジ屋、サンパツ屋などなど。

今でもその屋号でその家を呼ぶらしい。

(H23. 4.21 EOS40D撮影)

南田原のコンピラサン

2011年05月29日 19時51分09秒 | 楽しみにしておこうっと
田原の里では地区の正月寄合い行事としてコンピラサンが行われている。

日笠、長谷がそうであり南田原も行われている。

以前は正月の15日だった。

当時は固定の祭日だった。

ハッピーマンデーによってその日に近い日曜辺りになったそうだ。

朝5時、年当番のにんにょさんが会所に集まってくる。

その日に搗かれるモチの準備だ。

モチゴメを蒸すには時間がかかる。

だから朝が早い。

蒸し終えるころには男衆(おとこし)がやってきてモチツキをする。

それはオカガミモチ搗きだ。

正月を飾った注連縄などはとんどで燃やす。

そろそろ支度ができたころには女衆(おなごし)がやってくる。

そして酒が入って再びモチツキ。

そのときには千本搗きだ。

伊勢音頭を歌いながら搗いていくそうだ。

その日は地区の新年会でもある。

けっこうお酒がはいるらしい。

ほどなく終えれば伊勢や金毘羅さんにお参りする代参を決める籤が引かれる。

代参はいずれも三人が選ばれる。

その道具といえばコヨリ。

ほそい籤には赤い色で当たりが示されているという。

決まった代参の人は揃ってそれぞれお伊勢さんや金毘羅さんに行ってお参りする。

そのときにはありがたいお札をもらってくる。

数日前にそれを授かってきた金毘羅さんのお札は大広間に祀られている舘の横に置かれている。

(H23. 4.19 EOS40D撮影)

南田原十九夜講

2011年05月28日 07時27分15秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市の東山間部、南田原をはじめとする田原の里には如意輪観音菩薩像石仏が誓多林、矢田原、横田、比瀬にも見られる。

これらは文化五年から十一年(1808~1814)にかけて奉されたようで、当地を含め天理、月ヶ瀬、山添、室生と年代も多岐に亘って広く流布している。

南田原の石仏は文化十一年(1814)8月19日に供養十九夜講されたと銘文が残されている。

それは南福寺薬師堂境内にある。

毎月19日には講の当番の人がお花を挿してお参りするらしい。

話しによればその日の朝ではなく先日の日曜日だったようだ。

奇麗に掃除をして、檜の細木を削って作ったウレツキ塔婆に十輪寺の住職に経文を書いてもらった塔婆を置いている。

その日の夜、お寺の会所となる公民館にやってきた講中の婦人たち。

当番の人が点けたローソクの明かりが風に揺らいでいる。

ときおり突風が吹き、雨が降り続けた一日だった。

夜になっても自然の脅威はすさまじい。

そんな日であっても傘をさしてお参りをする。



地面は雨で浸かっている。

履物が脱げてしまうこともあるぐらいだ。

一人、一人がお参りを済ませると会所にあがった。

座った席は小広間。小部屋に一同が座れば今夜のお勤めが始まった。

手元にはいつも使っている十九夜和讃本。

姑さんから引き継いできたという昭和3年(1928)3月や昭和10年(1935)3月の年代ものもみられる。

手書きで写されたものはかれこれ80年以上もなる。

代々に亘って姑さんが使ってきたものだけにありがたさが伝わる。

「きめやう ちようらへ 十九夜の ゆらへをくわしく たづぬれば によいりんぼさつの せいぐわんに・・・」と唱和される。



ゆったりとしたリズムで唱えられた十九夜和讃はおよそ7分半。

その調子は隣村の大野町でおばあちゃん講が唱えられた時間とほぼ同じだ。

ただ、節回しが少し異なるように聞こえる。

和讃は供要の月だという4月だけになった。

数年前までは毎月のお勤めにそれが唱えられていたそうだ。

「なにもないけどよばれてください」と当番の人が配る夜会食のお寿司。

お茶とともに会食する歓談の場に移った。

そのお寿司は和讃を唱えている間に当番の人が如意輪菩薩の石物に供えたものだ。

本人は食べずに家族の食事を用意してくる人も、夕食を済ませてくる人もお供えしたお寿司をよばれる会場は地区の情報交換の場でもあるようだ。

ちなみに朝のお参りは当番の人だけでない。

用事を済ませてくるからまちまちで、寒い日は遅くなるし暑ければ早くなる。

8時、9時、10時とさまざまだという。

<昭和3年3月の十九夜和讃本>
「きめやう ちよらへ 十九夜の
 ゆらへを くわしく たづぬれば
 によいりんぼさつのせいくわんに
 あめのふるよも ふらぬよも
 いかなる志んの くらきよも
 いとはずたがはず けらいなし
 十九夜おどへいるひとよ
 なむあみだぶつ なむあみだ
 とらの二月の十九日
 十九夜ねんぶつ はじまりて
 十九夜ねんぶつ もうすなり
 ずいぶん あらため しよじんし
 おうじよ 志よじの ふだをうき
 なむあみだぶつ
 志して志¨うどへ 申く人わ
 めようほうれんげのはなさきて
 ふきくるかぜも おだやかに
 志¨つぼう はるかなしづまりて
 てんよりによいりんくわんぜおん
 たまのてんがいさしあげて
 はちまんよじよ そのふちは
 によいりんぼさつのおんぜし
 あまねくすじよを すくわんと
 六どうすじよう をたちあり
 かなしきによにんのあわれさわ
 けさまですみしがはやにごる
 ばんぜがしたのいけのみず
 すすいでこぼす たつときわ
 てんもじしんもすいじんも 申るさせまい
 くわんぜおん 十九やおどへまいるなり
 ながくさんずの くをのがれ
 ごくらくじようどへ いちらいす
 まんだがいけの なきじよご
 いつかこころがうつりけり
 きやう十九やとし志きくとくは
 にわかめいどもありがた○
 志¨しんのおや多ちありありと
 すくわせたまへ くわんぜおん
 そくしんじよぶつ なむあみだ
 なむあみだぶつ なむあみだ 南無如意輪観世音菩薩」

<昭和10年3月の十九夜和讃本>
「きみやう ちよらい 十九夜の
 ゆらへを くわしく たづぬれば
 によいりんぼさつの せいくわんに
 あめのふるよも ふらぬよも
 いかなるしんの くらきも
 いとわずたがわず けたいなし
 十九夜おどへ いるひとわ
 なむあみだぶつ なむあみだ
 とらの二月の十九日
 十九夜ねんぶつ はじまりて
 十九やねんぶつ もうすなら
 ずいぶんあらため しよじんせ
 おふしよじの ふだをうき
 なむあみだぶつ なむじゃみだ
 しして志¨よどへゆく人わ
 めほれんげのはなさきて
 ふきくるかぜも おだやかに
 志¨つほはるかにしづまりて
 てんよりによいりん くわんぜおん
 たまのてんがいさしあげて
 はちまんよしじよの ちのいけや
 かるさのいけとみてとほる
 ろく○おん おふ志¨よの そのうちに
 によいりんぼさつのおんぜしん
 あまねくすじよを すくわんと
 ろくどうすじよを をたちあり
 かなしきによにんのあはれさは
 けさまですみしはやにごる
 ばんぜのしたのいけのみづ
 すすいでこほす たつときは
 てんもぢしんもすいじんも
 ゆるさせたまへや くわんぜおん
 十九やおどへまいるなら
 ながくさんずの くをのがれ
 ごくらくじよどへ いちらいす
 まんたがいけの なきじよご
 いつかこころあがうつりけり
 けよ十九もしきくとくに
 にわかめいどもありがたや
 志¨しんのおやたちありありと
 すくわせたまへ くわんぜおん
 そくしんじぶつ なむあみだ
 なむあみだぶつ なむあみだ 南無如意輪観世音菩薩」

(H23. 4.19 EOS40D撮影)

番条北の四月大師講

2011年05月27日 06時39分54秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市番条町の各家は弘法大師木像を祀っている。

4月21日は厨子ごと弘法大師木造を門屋など移して出開帳される。

合計で88体あるというから1軒、1軒巡ることで四国へんろ道の八十八カ所を巡拝したことになるありがたい村落である。

由来書によれば文政13年(1830)にコレラが流行った際に人々が申し合せて弘法大師を信仰したのがはじまりだとされている。

やむを得ず引越しされた家は隣近所や阿弥陀院、大師堂に預けている。

大師空海が入定された日は4月21日。

そのお大師さんを信仰する大師講(だいしこう)はその日を命日として毎月の21日をお勤めする日としている。

番条町にはその講が北と南垣内に二つある。

南は文化三年(1806)建立の藪大師(昭和33年2月21日に再建)で、北は大正四年(1917)四月二十一日に落成されているものの元は文政13年(1830)の建立の大師堂だったようだ。

北の大師講の始まりは明治の初年、町内の人が四国詣りをして本尊をたばってきた。

寄った7軒が長屋風の建物を手立てた。

その後に再び四国詣りをされて四国のお堂と同じような建物にした。

それが大正4年だったそうだ。

戦後に現在の講となって続けられてきた。

いずれも集まった講中が念仏を唱えているが南の大師講は講の家の持ち回りとしているようだ。

かつて出開帳は1月の初大師、4月の春の大師に8月の盆大師が行われていたが明治時代の末頃に春の大師だけになった。

それが今でも続けられてきた。

北の大師講ではその日は出開帳で忙しいことからお勤めは三日前にされている。

夕食を済ませた6軒の講中たちはお堂に集まってきた。

ほとんどが女性だがお一人は男性だ。

座布団を敷いて本尊にローソクに火を灯し線香をくゆらせた。

大和棟に住まいするSさんが導師となって本尊前に座る。

はじめに開経偈(かいじょうげ)のお念仏をあげ、続いて般若心経を三巻唱える。

線香の煙がお堂のなかに溶け込んでいく。

そしてカーン、カンと鉦を叩いて始まった「弘法大師和讃」。

「きみょう ちょうらい へんじょうそん ほうきごねんの みなづきに たまもよるちょう さぬきがた びょうぶがうらに たんじょうし ・・・」の調べは十九夜和讃と同じような旋律に聞こえた。

「なあーむだいしー へんじょうそん」を三回繰り返して、最後に御宝号の「南無大師遍照金剛」を唱えて終えられた。

お勤めを済ませるとお供えのお下がりが配られる。

今はお菓子になっているが講中の先代だった親たちの時代はイロゴハンがつきものだった。

アブラアゲやニンジンなどの季節野菜を入れて炊いていた。

この時期だったらタケノコが入っていたと思うという。

それもそのはずその頃は若いとき。

実際には見たことがなく姑や母親の話を聞いていただけだったが御櫃を一輪車に積んで持っていったことははっきりと覚えているそうだ。

それを用意するのは当番の人だった。

家の漬物はめいめいが持ってきたようだ。

その当番は毎月のお勤めを終えたらカバンごと引き継いでその夜に交替する。

大和北部では明和六年(1769)に郡山の紺屋町に住む池田屋六兵衛が願主となって1番札所の大安寺、番条村では阿弥陀院を5番札所、熊野神社付近にあった光明院は64番札所とした。

その後、光明院は廃寺となり本尊は阿弥陀院(現在は57番)に移された。



大師堂の前には大正15年(1926)に作られた「大和北部八十八カ所64番番条光明院」の石柱があるのはその名残であるが現在も霊場の一つとして御朱印参詣される人もいるそうだ。



講中のお話によれば、後日に箱を整理したら弘法大師座像のお札が出てきたという。

参拝に来られた人にはご朱印帳とともに差しあげようかとも話すが版木は見つかっていない。

そのお堂は不審者を見かけることもあり、何年か前には火点けの仕業現場を見つけたこともあって、数年前には熊野神社とともに防犯ベルや発光装置を設置された。

<弘法大師和讃本>

『帰命頂礼遍照尊(きみょうちょうらいへんじょうそん)
 宝亀五年の六月に(ほうきごねんのみなづきに)
 玉藻よるちょう讃岐潟(たまもよるちょうさぬきがた)
 屏風が浦に誕生し(びょうぶがうらにたんじょうし)
 御歳七つの其時に(おんどしななつのそのときに)
 衆生の為に身を捨て(しゅじょうのためにみをすて)
 五の岳に立雲の(いつつのたけにたつくもの)
 立る誓ぞ頼もしき(たつるちかいぞたのもしき)
 遂に乃ち延暦の(ついにすなわちえんりゃくの)
 末の年なる五月より(すえのとしなるさつきより)
 藤原姓の賀能等と(ふじわらうじのかのうらと)
 遣唐船にのりを得て(もろこしふねにのりをえて)
 しるしを残す一本の(するしをのこすひともとの)
 松の光を世に広く(まつのひかりをよにひろく)
 弘の給える宗旨をば(ひろのたまえるしゅしをば)
 真言宗とぞ名づけたる(しんごんしゅうとぞなづけたる)
 真言宗旨の安心は(しんごんしゅうしのあんじんは)
 人みなすべて隔てなく(ひとみなすべてへだてなく)
 凡聖不二と定まれど(ぼんじょうふにとさだまれど)
 煩悩も深き身のゆえに(なやみもふかきみのゆえに)
 ひたすら大師の宝号を(ひたすらだしのほうごうを)
 行住坐臥に唱うれば(ぎょうじゅうざがにとなうれば)
 加持の功力も顕らかに(かじのくりきもあきらかに)
 仏の徳を現とずべし(ほとけのとくをげんずべし)
 不転肉身成仏の(ふてんにくしんじょうぶつの)
 身は有明の苔の下(みはありあけのこけのした)
 誓は竜華の開くまで(ちかいはりゅうげのひらくまで)
 忍土を照らす遍照尊(にんどをてらすへんじょうそん)
 仰げばいよいよ高野山(あおげばいよいよたかのやま)
 流れも清き玉川や(ながれもきよきたまがわや)
 むすぶ縁しの蔦かずら(むすぶえにしのつたかずら)
 縋りて登る嬉しさよ(すがりてのぼるうれしさよ)
 昔し国中大旱魃(むかしこくちゅうおおひでり)
 野山の草木皆枯ぬ(のやまのくさきみなかれぬ)
 其時大師勅を受け(そのときだいしちょくをうけ)
 神泉苑に雨請し(しんぜんえんにあまごいし)
 甘露の雨を降しては(かんろのあめをふらしては)
 五穀の種を結ばしめ(ごこくのたねをむすばしめ)
 国に患い除きたる(くにのうれいをのぞきたる)
 功は今にかくれなし(いさおはいまにかくれなし)
 吾日本の人民に(わがひのもとひとぐさに)
 文化の花を咲かせんと(ぶんかのはなをさかせんと)
 金口の真説四句の偈を(こんくのしんせつしくのげを)
 国字に作る短歌(こくじにつくるみじかうた)
 いろはにほへどちりぬるを
 わがよたれぞつねならむ
 うゐのおくやまけふこえて
 あさきゆめみしとひもせず
 まなびの初めにし稚子も(まなびそめにしおさなごも)
 習うに易き筆の跡(ならうにやすきふでのあと)
 されども総持の文字なれば(されどもそうじのもじなれば)
 知れば知るほど意味深し(しればしるほどいみふかし)
 僅かに四十七字にて(わずかにしじゅうしちじにて)
 百事を通ずる便利をも(ひゃくじをつうずるべんりをも)
 思えば万国天の下(おもえばばんこくあめのした)
 御恩を受けざる人もなし(ごおんをうけざるひともなし)
 猶も誓の其の中に(なおもちかいのそのなかに)
 五穀豊熟富み貴き(ごこくほうじゅくとみたとき)
 家運長久知慧愛敬(かうんちょうきゅうちえあいきょう)
 息災延命且易産(そくさいえんめいかゆいさん)
 あゆむに遠き山河も(あゆむにとおきやまかわも)
 同行二人の御誓願(どうぎょうににんのごせいがん)
 八十八の遺跡に(はちじゅうはちのゆいせきに)
 よせて利益を成し給う(よせてりやくをなしたまう)
 罪障深きわれわれは(ざいしょうふかきわれわれは)
 繋がぬ沖の捨小船(つながぬおきのすておぶね)
 生死の苦海果もなく(しょうじのくかいはてもなく)
 誰を便の綱手縄(たれをたよりのつなでなわ)
 ここに三地の菩薩あり(ここにさんじのぼさつあり)
 弘誓の船に櫓櫂取り(ぐぜいのふねにろかいどり)
 たすけ給える御慈悲の(たすけたまえるおんじひの)
 不思議は世世に新なり(ふしぎはよよにあらたに)
 南無大師遍照尊<三回> 南無大師遍照金剛』

(H23. 4.18 EOS40D撮影)
(H23. 4.21 EOS40D撮影)

野遊び①in民博公園と矢田丘陵

2011年05月26日 08時47分22秒 | 自然観察会
平成18年に発足して以来、数々の自然観察会を実施してきたこおりやま野遊びサポ。

その名のとおりフィールドワークは矢田丘陵だ。

一年に8回を開催しているがそのうち6回がそうである。

あれから6年目を迎えた新年度。

春は4月から始まる。

サポータ人数は年々増えている。

戦力は強力だが私自身には観察への成長がみられない。

何年経っても頭に入る情報量の減りはあっても増えもせず。

増えても記憶に残るのが僅か。

メモをとってはいるものの、ブログに吐き出してしまったら頭から消えていく。

ただ、撮った映像だけは鮮明に残っている。

それは繰り返しディスプレイで見ているからだ。

文字の記憶はディスク内に残っているが内蔵されたまま。

それはしゃべる、話すことによって回復されるのだと思う。

手で触ったものや、味を確かめたものも記憶に残りやすい。

いわば体験することが重要なのでは・・・と思っている。

今年度に登録をされた保護者会は10家族。

そのうちの7家族が参加された。

子供たちは10人。例年よりは少ないほうであろう。

スタッフは11人。総勢で30人となった。

田んぼの畦は踏まないように、見つかったらスタッフに伝えましょうと開講の挨拶を聞いて少年自然の家を出発した。

盛かんに鳴く鳥の声があっちこっちから聞こえてくる。

ホオジロ、キジバト、コゲラ、ツグミ、ツバメ、スズメ、カワラヒワ、シジュウカラ、マヒワ、ヒヨドリ、ウグイスが。

少年自然の家の森からキョッ、キョッとこえてくる。

アカゲラ?そんなことはないだろう。

コジュケイかもしれない。

樹木の頂きにはマヒワが飛び交っている。

ニュウナイスズメも集まってきた。

鳴き声はかんだかいからすぐ判るというが私の耳では・・・。

地面をみれば桜の花びらに混じって五弁とも落ちているものがある。



それはニュウナイスズメがぼとっと落としたものだという。

ミツを吸うニュウナイスズメ。

これを「スズメのラッパ吸い」だと呼ぶらしい。

シメやヒヨドリもその行為をするそうだ。

吸うのは理解できるが何故に落とすのか。

聞くところによればすべての桜の木の蜜を吸っているわけではないという。

吸わない木もある。

特定の木になるらしいが理由は定かでない。

それはともかく樹木の下ではいろんな植物が花をつけている。

そこにカエルが飛んだ。アマガエルだ。



大和の民家を移築した家屋を通りぬけて広場に向かう。

前週はたくさんの花見客でいっぱいだったがこの日は少ない。

散り始めの花では満足できないからなのだろうか。

この日の天候は穏やか。

爽やかな風は春の風だ。

ハクモクレンの白い花は朽ちて地面に落ちている。

材木のような茶色のものがそれだ。

花後のハクモクレンは面白い。



ぷっくらと膨らんだつぼみのようなところからオシベがにょっきり。

その下部がメシベだそうだ。

その周りは綺麗な緑色。誕生寸前の葉っぱの色だ。

ツバキには蜜がある。

指をつっこんで舌にもっていけば美味しい蜜味。

子供たちはその味に自然の甘味を舌で覚える。

そのツバキの花に虫がいた。



透き通るような羽根。

美しい羽根をもつクサカゲロウの1種であろう。

草はカヤクグリでしょうか。

安定するかのように十字にとまっていたガの仲間。



体長は1cmぐらいでしょうか、小っちゃかったガ。

文様ははっきりしているが名称は判らない。

ハナモモの木になにやら丸く白い物体がくっついている。

小さな穴が空いている。



トックリバチの巣だそうだ。

スミレ、ヒメスミレ、アリアケスミレなどのスミレが多く咲く。

藪にはヤブコウジの赤い実があった。

そうこうしているうちにいつもの昼食処へ着いた。

春は長閑で心地よい。

一度座ってしまうとなかなか腰があがらない。

すじ雲が青空に溶け込んでいる。

気持ちいい白雲のなかに色付き雲が目に入った。

僅かな色だが赤っぽい。



まるで雲の虹のようだ。

彩雲(さいうん)の現象だそうだ。

地震雲ではないかととり交わされているがまったく関係がない。

その彩雲が出現してもまったくその兆候はない、ない。

そうして春の空気を胸いっぱい吸い込んで戻っていく途中のことだった。

草むらになにやら黒い物体が横たわっている。



シッポをもち鼻がとんがっている小さな動物の死骸は日本の固有種であるヒミズだった。

モグラ科である。

モグラでよりは小さくてもネズミではない。

ヒミズは土中で暮らす。

「日(陽)を見ず」から名を付けられたというヒミズはどうして出てきたのだろう。

死骸は語ってくれない。

アオジの鳴き声を聞いて、戯れる2羽のコゲラを仰ぎみて、アオキの花を観賞して終えた。

帰宅して自宅前の原っぱに咲く花を見つけた。



そこにはベニシジミがとまっていた。

お花はネモフィラ。

植木鉢で育てていたものを山に捨てた。

そのタネがこぼれ落ちて咲いたのである。

(H23. 4.17 Kiss Digtal N撮影)
(H23. 4.17 EOS40D撮影)

ゴイサギ群生

2011年05月25日 06時35分52秒 | 自然観察会(番外編)
西ノ京を通る県道を北へ向かっていた。

いつもの景観が目に入る。

池にはなにやら複数のサギが枝にとまっているのを運転席から発見した。

このときは残念ながらカメラを持ち合わせてはいなかった。

用事を済ませて一旦は帰宅する。

そうしてカメラをナップザックに詰め込んで池に向かった。

足はといえばサイクルだ。

このほうが、機動性があっていいのだが三脚までは担げなかった。

いくら大きいサギといえども超望遠レンズは必須だ。

さすがに重たく肩はずしり。

秋篠川沿いのサイクルロードを走っていった。

そこは唐招提寺の東側を流れる秋篠川を越えたところだ。

池の名は四条池らしい。

慰霊塔公苑の北側にある池だ。



その池の端っこには、なんと、なんと、たーくさんのゴイサギが枝にとまっていた。

数えてみると13羽。

目を凝らせば15羽、18羽。手前の枝にもいるではないか。

それをプラスして22羽・・・結局23羽もおるではないか。

幼鳥の姿もちらほら見える。

はっきりと認識できたのは3羽だった。

ここはゴイサギの営巣なのか。

その後も県道を走る機会があるたびに池の様子をみていた。

5月も入ればいなくなったということは・・・。

(H23. 4.16 EOS40D撮影)

らーめんちゃーはん

2011年05月24日 06時45分10秒 | 食事が主な周辺をお散歩
大和郡山にあるのだから一度は食べてみたいと思っていた新店のラーメン屋は柳町にある。

スーパーオークワの南側だ。

290円の値段が気になっていた。

近所であるだけにわざわざお店に行くことはない。

が、今日は昼食時間帯を過ぎていた。

我が家に帰ってから食べるのが一番なのだが寄り道をすることにした。

カウンターに着くなり注文したのはその税抜き290円の「夜鳴きしょうゆ」。

出てくるのは早い。

一息ついたと思えば、もう出てきた。



器は小さいような気がするから麺も少ない、のではないだろうか。

スープは品書きのとおりの醤油味。濃い目だ。

麺を箸で持ち上げた。

香りがぷーんと鼻に着く。

なんだろう。

油が濃いのだろうか。

でも、油は浮いてもなく、まったくない。

麺はストレート。

するすると持ちあがる。

のどごしも良い。

でっかいチャーシュは薄切り。

これも口にした。

香ったのはこれだった。

味は関東風の醤油味だがどこか違うような・・・。

和歌山ラーメンに近いように思えた。

それにはもうひとつの味がする。

トリガラにニボシが入っているのだろうか。平

日の昼過ぎ。子供を連れた家族もそこそこ入って食べている。

次回は税込み525円のサービスランチを食べてみようか。

それはチャーハンとのセットだがラーメンにはチャーシュがなくてノリ一枚になっている。

味に変化がみられるんだろうか。

(H23. 4.16 SB932SH撮影)

弥生の里~くらしといのり~春季特別展

2011年05月23日 08時53分22秒 | メモしとこっ!
待ちかねていた春季特別展が始まった。展示されているのは奈良県立橿原考古学研究所附属博物館だ。何年振りに訪れたのだろうか。馴染みのある会場に懐かしさを感じる。その初日、入館はさほどでないのが助かる。失礼な言い方だが落ち着いて拝観できるのがいい。古代の発掘が新聞報道されるとワクワクする。何度か機会があればでかけていた。発掘調査を終えれば再び地面の中に戻される。一生に一度しか見ることができない。行事の取材が増えるにつれて行けなくなってきた。この4月からはフリーな毎日。ありがたい日々を送っている。発掘は現地説明会で見聞きするのがいちばん。際立った発掘がされれば報道も力が入る。そんな現説には大勢の古代史ファンが訪れる。

今回の企画展示は「弥生の里~くらしといのり~」。弥生時代の発掘成果に古代のくらしや祈りを伝える企画展。古代には祀りがあった。それは農耕の祈りでもある。弥生時代から稲作が発展してきた日本列島。奈良でもその証が土の下から発見される。時代名称となっている弥生。いつからそれが呼ばれるようになってきたのだろう。解説によれば明治17年に東京の弥生町から発掘された土器が発端だとある。縄文土器とは異なる文様が発見された。藁縄の文様が消えていた。それが特徴だと出土地の名をとって弥生土器と名付けられた。そうだったのか。普段なにげなく使っている時代名称はここにあったのか。このころに稲作が始まったとされているが土器の変遷とは一致しないそうだ。明確な基準点が見つからないようだ。静岡の登呂遺跡にはスキやクワなどの農具が発見されている。もちろん土器は弥生式だ。1970年代、日本各地で発掘された水田遺跡は小区画水田だという。そこにはウリ、トウガン、ヒョウタンなどの食べ物も発見されている。もちろんそのタネであろう。
奈良県で発掘された、かの有名な唐古・鍵遺跡は弥生時代の大規模集落。他にも大和高田の川西根成垣(ねなりがき)、橿原の一町(かずちょう)や萩之本、御所の今出や中西遺跡。いずれも洪水によって砂に埋もれていた状態で水田が検出された。暴れ川であったのだろうか。自然災害の洪水の恩恵で古代からのメッセージをこうして現代に伝えられたのだ。発掘されたのは大和御所道路の工事である。現在も工事は進められており、その都度新たな発見がされている。解説にある根成垣は環豪集落だったそうだ。溝に架けられた橋跡も発見されている。それがあるということは飛んでも渡れない、川幅が広かったということだ。唐古・鍵遺跡は大規模の環豪集落だった。県内の盆地部の旧村ではいたるところが環豪集落である。それは150~200カ所もあるという。それらは室町期に発達したとされる。環豪は村を守る濠である。戦いの際の防御の役目だ。旧村の環豪は溢れる水を逃がすためでもある。弥生から室町へとどのような変遷があったのだろう。人口増加、農作の発展、独立する小村落・・・。いずれにしても弥生時代から環豪集落があったことは事実だ。中西遺跡では付近に森林があった。ヤマグリ、オニグルミ、アカガシ、エノキ、ムクノキ、クリ、トチノキ、マメノキ、クスノキ類など多様な樹木。森の樹木は若いもので5年、古木は100年だった。それは農具の材料にもなっていた。実は食糧だ。森はムラを守る生活維持の場であった。
銅鐸に描かれている動物や昆虫。それには一年間の暮らしのなかの古代の季節が刻印されている。ツノの無いシカを射る弓矢をもつ人物絵。魚をくわえたサギやスッポン、ヤモリ、カエル、ヘビなどの動物にクモ、カマキリ、トンボなどの昆虫も・・・。いずれも季節ごとの水田に生息する生物だ。ここには自然とともに暮らす弥生人がいた。カマキリやクモは稲に害をあたえる虫たち。カニやシカは農作物を荒らす。そのシカを捕える姿。描かれた絵には稲作の予祝儀礼を現わしているのかもしれない。平安時代の虫追いの様相が書き記されたとされる「古語捨遺」。イナゴ害を払う手段として「牛のシシ肉」を溝口に置いて男茎(オハゼ)の形を造ってツスダマ、ハジカミ、クルミノハ、シオ(塩)を畔に置くとあるそうだ。当時の様相ではなく、かつてのことで記億の領域であったかもしれない。そのあり方は現代に伝わらず、松明を持って田畑を荒らす虫を追い払う仏式行事となったのだろうか。
唐古遺跡ではさまざまな動植物が発掘された。カモ、キジ、ツグミ、イノシシ、シカ、ハタネズミ、ムササビ、アオダイショウ、トカゲ、スッポン、ドジョウ、シジミ、コクワガタ、オオスズメバチ・・・。古代人はそれらを食べていたのだ。現代でも食べられているものが土中に埋もれていた。美味いものは時代を超えても同じ味覚なのであろう、私が食したのはイノシシ、シカ、スッポン、ドジョウ、シジミ、オオスズメバチなど・・・。剥製や骨格標本などで実物を紹介している。里山とともに暮らしてきた弥生人の自然文化誌が再現されている。
今回の特別企画展では農耕儀礼を紹介する行事写真で協力している。写真のことはともかく、県立民俗博物館からはその行事に使われた道具を出展協力されている。田原本町今里の蛇巻きの牛と馬や農具のミニチュア。ハシゴ、カラスキ、クワ、スキ、ツチ、オノなどは丁寧なつくりで道具とは思えないぐらい精巧な出来栄えだ。橿原地黄町の野神祭からは大きな絵馬がある。「例年の通り大豊作 五月五日」と記された絵馬には農夫が牛を引いて田んぼを耕作する姿の風景だ。水口祭りに奉られる松苗、ゴーサンの祈祷札もある。虫送りに使われたでっかい松明。イノコのデンボまである。
機械化で消えて行った牛耕。農耕のあり方は変わっていったが、昔も今もそれほど変わらない一年間の稲作。会場ではその一部始終を写真や解説で紹介している。発掘された過去の遺物から弥生時代の暮らしぶりやいのりを物語る。現代の様相は農耕儀礼を祭る行事として展開された。そうした接点を考えさせる春季特別展に感動するが、来館される拝観者の視線は煌びやかな発掘装飾品に目が奪われていく。自然とともに暮らす農耕に興味をもつ人は少ないが、次世代を担う子供たちの学校教育には最適な教材になるだろう。これら展示物を開設した図録はそれに活用できるものと思っている。

春季特別展「弥生の里-くらしといのり―」
開催期間 平成23年4月16日(土)~6月12日(日)
開催場所 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 <奈良県橿原市畝傍町50-2> 9時~16時半
休館日 月曜日
入館料 大人800円、高・大学生450円、小・中学生300円
図録 700円(館内販売)
<館内は撮影禁止>

(H23. 4.16 SB932SH撮影・スキャン)

都祁南之庄都介野岳の岳山籠

2011年05月22日 07時38分14秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
4月15日は都介野岳山頂に登ってお参りをする都祁南之庄の神社役員たち。

山頂に祀られているのは岳神社。

水の神さんだという。

昨年は寒かったが今年は暖かい。

風もなく暑いくらいの日となった。

中腹までは乗り合わせた車で向かう。

そこから山頂まではもう少し。

急な山道は険しく杖をついて登っていく。

木製の階段やガードレールで登はんを楽にする。

若いころに整備したのだというから20年以上も経っている。

そのわりには腐ってもいない。

その恩恵は今でも立派に役立っている。



到着すると御供を供えて村の神主が祝詞を奏上した。

一方、役員たちはサクラの木の下でシートを敷いた。

風呂敷に包んで持ってきた弁当を広げた。



手作りもあればコンビニ弁当にオツマミも・・・。

お下がりのお神酒やジャコ、スルメなどとともに会食をする。

2本のサクラは咲きはじめ。一輪、二輪・・・の花びらが見える。

「いつだったかそれは満開やった。お酒も三升飲んだ。唄や踊りまで飛び出して賑やかだった」と話す。

「あのときにはおまいさんも唄っていたな」と遅れて登ってきた二人の婦人に元総代が話しかける。

若い人は登ってこないからそのまま平均年齢があがっていった。

一週間ほど雨は降っていない。

前週の日曜日辺りには水口祭りを終えた苗代もある南之庄。

神社付近に3カ所、岳山籠の出発地など僅か。

そこにはお札を取り付けた棒がある。



これは正月三日に歓楽寺で行われたオコナイの行事で祈祷された牛玉宝印のゴーサン札だ。

棒は村から悪病を追い払ったランジョウで叩かれたフジの木。

フジの木を剝した皮で括っている特徴あるゴオウ杖である。

雨は降らなくとも水口祭りは行われている。

しかしだ。田んぼには水が要る。

荒起こしも済ませた田んぼには水を引かなければならない。

その水は天から降ってくる。

雨は水の神さんに降ってくれと願う。

それが岳山籠の本質なのである。

山頂で会食するのは岳のぼり。

天気の良い日はこうして岳山に登るが雨天の場合は国津神社で営まれる。

ゆったりとした時間が流れていく。

下山したとたんに雨が降り出した。

岳山籠りの願いが通じたのであろう。

65年前の戦後まもないころの南之庄。

年寄りは畑のカボチャ、ジャガイモを醤油や出しジャコで炊いていた。

砂糖は配給だったのでそれには使えなかった。

子供はそれをおやつとして食べていた。

飢えた時代だったのでそんな味でも美味しかった。

だから夕食前にはなくなっていたと話す婦人たち。

男たちは松のジンを採りに行ってた。

それは飛行機に使う材料だったらしいというから戦中のことであろう。

紙の原料となるコウゾも採りに行ってた。

運動場には鉄棒がなかったが竹を2本立ててそれを垂直に昇った。

タケノボリに夢中になって遊んだ。

麓のガケは貝の化石がでてきた。

隣村の貝ケ平山もそうだ。

「勉強なんぞしてられへんかった」と笑って話す。

(H23. 4.15 EOS40D撮影)