マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

白土の昔と今覚記

2011年04月30日 09時12分40秒 | 大和郡山市へ
今年8月の念仏はアラタナが5軒ある。

子供、大人それぞれの講はそれぞれの講の家のアラタナに回る。

子供の念仏講は4軒、大人は1軒である。

オトナネンブツはお寺とセセンボにアラタナを回る。

それも7日だけだがコドモネンブツは7日から14日まで毎日。

しかも集落の辻ごとに太鼓と鉦を叩く。

アラタナではタナダイを貰う。

今では現金になったが昔はお菓子だったようだ。

とはいってもアラタナでタナダイを貰うのは一日だけだ。

あとの日はお菓子だ。

アラタナがなければ講中の24軒からお金を集めてそれを分ける。

年長者は倍ほど貰ったそうだ。

お寺山門、本堂前、仲カンベエ元屋敷口の集落中央の辻、北のフダバ(高札場)の辻、旧仲家の墓前の辻(テラノウチ、コバカ)から本堂前は毎日。

14日は大周り。千束、ツチンド(辻堂橋地蔵祠;池の取水口)、南池の北西、池の西(元祠)、セセンボ、フダバ、寺本堂前となる。

年長者の一人があたる太鼓打ち。

二番目の歳の子は太鼓持ちと決まっていた。

当時子供だったNY氏やNK氏の話に寄れば人数が多かったので太鼓打ちは交替していたという。

西大寺中興の祖とされる興正菩薩の生誕地である白土町。

室町時代以前は箕田と呼ばれていた。

その真言西大寺と関係を示す宝篋印塔が浄福寺境内にある。

覆屋の四方は卒塔婆の札に囲まれた珍しい様式は西大寺と同様だそうで、当時庄屋だった仲カンベエが寄進したものだそうだ。

現在は面影がないが分家が現存している。

子供念仏講の一人であるK氏は行者講でもある。

K家の庭には大峰山に向かって献灯していた石造2基がある。

記憶によれば大峰山へ登って山上参りをしていたのは一回だけだと話す。

途切れる前は泊まりがけで行ったようだ。

講には4反の田んぼがあったが、農地改革で手放さざるを得なかった。

当時は実った収穫米の収益で講の費用を賄っていた。

行者講のお勤めは年に一度。

当番の家で営まれる。

ローソク差しや巻物を回している。

昔はタケノコ料理がつきものだったのでタケノコが出る時分だったようだが現在は田植え終いの6月の末辺りの夜に8軒が集まっている。

掛け軸を掲げてホラ貝を吹く。

お酒を1本あけるまで終わらないという。

両氏は数年前まで簾型の注連縄を自作して玄関に飾っていた。

右が頭で左が尻尾。

上方にピョンとあがっていた。

それはドウガイと呼んでいた。

年末に作って正月三日まで飾る。

四日には取り込んで燃やしていた。

早々と農作業をせーよということらしい。

とんどで燃やしていたのであろう。

当時はお餅を焼いたり習字を燃やしたりしていた。

注連飾りも燃やした。

昔しは乾物が付いていた大きな注連縄を燃やした。

今は長い竹を持っていくと嫌われるので短くした竹にしている。

垣内でなくグループ毎にしていた。

オサ(長)が納める田んぼの関係の集いであったかもしれないと話す。

かつて白土村はそれぞれの地区から集まった集合体。

そのグループは元々の集合体であったかもしれない。

南側に道路ができるまでは北側が入口だった。

その証しを示すのがフダバの名。

発志院から千束へ抜ける道でもある。

(H23. 3.21 EOS40D撮影)
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白土オトナネンブツの寄合

2011年04月29日 07時33分48秒 | 大和郡山市へ
一方、大人の念仏講には三組の講がありそれぞれで寄合をされている。

一つは当番の家でもう一つは公民館。

残る組は秋に集まっているようだ。

白土の念仏講は子供の念仏講を合わせて4組。

それぞれが異なる場に分かれて寄り合い会合をしている。

当番のY家に集まったのは10軒の大人の念仏講。

お盆に鉦を叩いてアラタナやお寺、セセンボ(先祖墓)へ鉦叩きをする。

その営みをするのは半数の5人。

毎年入れ替わる。

他の組も同じように半分に分けていて3組15人で営んでいる。

その人たちが一斉に集まるのは彼岸の夜。

Kさんがドーシ(導師)となってローソクを灯した厨子の前に座って拝む。

その作法は一瞬で終える。

子供の念仏講の寄り合いと同じよう寿司とすまし汁で会食をする。

話しに寄れば念仏講は大念仏(だいねんぶつまたはおおねんぶつとも)と呼ぶようだ。

鉦(5個)を叩く音からチャンガラガンとも呼んでいる。

座敷には古文書が置かれている。

寄り合いを終えると次の当番の人がそれを引き継ぐ。

話によれば白衣やシンバルみたいな大きな鉦もあったがお寺に頼んで昨年に処分したそうだ。

(H23. 3.21 EOS40D撮影)
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白土コドモネンブツの寄合

2011年04月28日 09時17分28秒 | 大和郡山市へ
白土町には子供の念仏講と大人の念仏講がある。

それぞれの講は盆のときに集落を巡って念仏鉦を叩いていた。

チャチャンコとも呼ばれる子供の念仏講の営みは子供たちだけで行われる。

鉦(7個)と古文書を預かる当番を勤めるのは2軒。

24軒で構成されている念仏講にはその人たち以外の大人の出番がない。

一度に集まるのは彼岸の中日の祭日の夜。

浄福寺の本堂横にある観音堂だ。

例年なら浄土宗のお寺が所有する曼荼羅絵図が掲げられるがこの年はお寺の配慮で涅槃の掛け図となった。

ひと月遅れの涅槃だというお寺さん。

実は念仏講が所有する古文書によれば2月と9月の営みであった。

それがいつしか3月の彼岸になった。

3月はタネオトスといって村の評議員(だんな衆)の決済だったそうだ。

お盆に叩かれた鉦や古文書には観音堂什物と記されている。

ヤクとも呼ばれる当番のNさんが話すには浄福寺は文禄元年(1592年)の江戸時代に創建された、

その前(中世)からあったのが真言宗の観音堂。

なんらかの事情で大きな変化があった。

享保21年(1736年)2月15日の覚帳が残されていることから、そのころには既に念仏講があったことは違いない。

以前の状況は不明だが観音堂との関係があった。

その涅槃の掛け図は発起人権右エ門によって正徳3年(1713年)7月15日に奉納されたことが判る。

南都の絵師与兵衛が描いた掛け図と念仏講の深い関係は判らないが當寺念佛講中が施主となって添上郡白土村浄福寺の什物にしたようだ。

饅頭を供えてローソクに火を灯した。

当番のNさんは掛け図に寄って拝んだ。

それが今夜の儀式。

それを終えて会計報告や講員の確認および次の当番や子供の存在を確かめられた。

寄合の主目的はここにある。

検討会議を終えたら食事に移る。

注文していたお寿司を広げて口にする。

もう一人の当番のKさんは吸い物の椀を運ぶ。

一時間ほどの寄合はそうして終わった。

(H23. 3.21 EOS40D撮影)
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ロストでホットメール

2011年04月27日 08時57分05秒 | ぽつりと
次男のアフリカ一人旅は順調にいっているようだ。

持っていった携帯電話も繋がる。

だからかーさんも安心する日々をおくっている。

旅立ってから1ヶ月経とうとした6日のことだ。

エチオピアかアジスアベバ辺りで日本人が格安で宿泊できる宿をインターネットで探してほしいと連絡があった。

探しても日本語で出てくるかどうかっていう。

私は日本語しか読めない。

まぁそれでも探してみるかと適当なワードで検索してみた。

するとだ。でてくる、でてくる、ぞろぞろでてくる。

日本人が旅行に行った際に残してくれた紀行文。

それも一覧にしてくれている宿泊先。

価格帯もあるし居心地、寝心地、食事に連絡先、対応などなど。

しかもだ。ほとんどの人が南京虫にやられたと報告している。

シーツにビニールシートを敷いて防備しなくちゃならんらしい。

それもありがたいことだ。

その件も含めて良さそうな宿を選んでメールで伝えた。

こういうときってほんまに役立つ携帯電話。

翌日にメールが届いた。

アジスアベバで日本語が読めるカフェが見つかったそうだ。

ところが既に南京虫にやられていたって。遅かったわ。

その後には震災の状況などを伝えていた。

そして電話が鳴った。

なんちゅう番号や。

携帯でもなく固定電話でもない。

見慣れない12桁番号の羅列。

それも前に「+」の表示がある。

イタズラ電話なんだろうかすぐに切断される。

3回目でオレオレでなくて次男の声が聞こえてきた。

携帯電話が盗られたのか失ったのか、とにかく消えてしまったという。

だから電話してきたのは公衆電話。

こっちからかけても繋がらないはずだ。

口早に解約してくれといって切れた。

その日は取材が入っていたので身動きとれず、翌日に回線を停止した。

あんしんパックに入っているから同じ機種を安く買えるがそれは帰ってからのこと。

その直前のメールは「宿泊先でネズミに噛まれた」だった。

医者にいけばペストにかかっているかもしれないと念のため注射されたそうだ。

三カ日おきぐらいに治療があるという。

中国へ渡りたいが10日間ほどは滞在地のとどまざるを得ない。

海外保険に入っているので保険会社を通じてその状況が知らせられるが・・・。

2日にはその保険会社のシンガポール拠点の担当者から電話があった。

コルカタの病院で治療を受けた。

病名はそのままズバリの「ネズミに噛まれた」であった。

東南アジア地域では狂犬病がある。

念のためにウッドランドの病院で1回目の治療をした。

この治療は数日明けて5回しなければならない。

2回目は4日で滞在する予定のバラクシ。

病院は保険会社が手配する。

3回目の8日は行き先のネパールカトマンズ。

その後、15日、28日の治療日を予定している。

最後の日はジャパン。

その次男。25日に天津を出発して帰ってくる。

直接帰らずに27日には讃岐うどんを食べるのだといって四国に渡るそうだ。

その翌日に戻ってくるのが28日。

どの病院に行くかは・・・探さなければならない。

(H23. 3.20 記)
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サルボボはサルボコ

2011年04月26日 08時02分45秒 | もっと遠くへ
深夜に目が覚めた。

つけたテレビには深夜放送があった。

意識はもうろうなのに見入ってしまった民俗。

それは飛騨高山でのこと。

お土産ものに「サルボボ」があるという。

それは安産の守り神らしい。

奇妙な名前だがどこかで聞いたことがあるような・・・。

それはひょっとしたら「サルボコ」ではないかと尋ねていった先は王滝村の御嶽山十二大権現。

地区は判らないが祠の横にある箱の中にわんさかと積み重なったサルボコがある。

それは安産を願う人が参ったときに持ち帰るもの。

子供ができたら願いが叶ったということで新しくサルボコを12個作ってもってくる。

何故に12個なのか。

それは十二大権現だからだ。

安産を願い叶った人たちによってその行為が繰り返されていく。

この放送を拝見して思い出したのは天理市福住別所の如意輪石仏のよだれ掛けの交換と同じ安産を願う行為だ。

各地でみられる節分の豆の交換もご利益を求める行為。

形式は異なっても願う気持ちは変わらない。

さて、そのサルボボであるが、それはおよそ40年前に、ある会社がサルボコをお土産にできないかなと企画考案されたものだった。

それが定着したようだ。

その業者がいうには奈良時代に中国から遣唐使が運んできた天から授かった大切な児。

天児(あまがつ)が原型だという。

それはくくり猿と「這子(ほうこ)」と呼ばれる形に分かれた。

ホウコは廃れて人形になったが、飛騨高山においてはくくり猿がサルボコになったらしい。

(H23. 3.19 記)
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矢部彼岸の観音講

2011年04月25日 08時40分22秒 | 田原本町へ
田原本町矢部の杵都岐神社境内地の北側にあるのは明治7年に廃寺となった観音寺を継承する観音堂。

江戸時代には「大和国三十三ケ所霊場9番札所」だった。

そこで毎月お勤めをされている観音講の婦人たち。

以前は12人も居たが今は9人。

それが始まる前に当番の人が花を飾る。

本尊の十一面観世音菩薩立像や弘法大師、隣棟の毘沙門天にも花を添えている。

自宅などで綺麗なお花をは当番の人だけでなく講の人も持ち寄ることがある。

観音講の営みといえば19日だが老人といっても忙しい身。

集まりやすい第三土曜に決めている。

毎月のお勤めには地区内の安楽寺の住職が法要をされる。

狭いお堂に上がられた。

講の人たちは70歳から80歳。

参加したのは5年前、10年前とさまざま。

80歳で定年したいけど若い人が入ってこないのでそれはと・・・みんなから声がでる。

それよりも60歳になったら入るという規約がいいんではという意見もでる。

今後のことを心配そうに話される。

いつの時代か判らないがそうとう古い写真が残っている。

そこには18人もの顔ぶれ。

お堂の姿は変わらないが講の顔ぶれは時代とともに減っていった。

当時は大勢の人がお堂に入っていたのだろう、そんな話しを笑顔で語る観音講の人たちは座椅子に座って導師が唱えるお念仏に合わせてお勤めをしだした。

鉦や磬(キン)、それに木魚を叩く音が堂内に広がった。

それを済ませると導師は位置を変えた。

今度は弘法大師の前に座った。

同じようにお念仏を唱える。

矢部はほとんどのお家(70軒)が融通念仏宗徒だ。

お寺も大念仏寺。

10月12日には地区を如来さんが駆けめぐる。

それはともかく三度のお念仏。

さらに奥まった棟の毘沙門堂に座席を移した。

さすがに狭いから3人ぐらいしか入れない。

外からの日差しは明るい。

線香の煙が光線になって斜光する。

「身体堅固 ゆーずーねんぶつ なむあみだー なむあいだぶっー」。

およそ一時間のお勤めを終えた。

当番の人が差し出すお茶。

この光景は毎月変わらないが、春と秋のお彼岸にはご詠歌が加わる。

住職が帰られたあとはご婦人たちだけになった。



本尊前の祭壇にはお彼岸につきものの「彼岸だんご」を供えた。

だんごと呼ばれるが中身は店屋で注文したおはぎだ。

昔は家でおはぎを作って食べていたという婦人も居る。

「では始めましょうか」と当番の人が挨拶されて導師の席に着いた。

一番、二番と唱えるのが西国三十三ヵ所のご詠歌。

観音講の主題曲だ。

長丁場なので二十三番辺りで小休止。

お茶をすすって一息つく。

それからまもなく後半のご詠歌。

番外の曲も含めて一時間ぐらい。

「ただ たのめ ほのほが きえて たちまちに いけとなるちは ふかくちかよる」。

最後は矢部のご詠歌で締めくくられた。

一人の婦人が言った。

剪定していたとき梯子から落ちた。

怪我は少々だったが命はあった。

もう一人の婦人も言った。

介護宅配をしているバイクが盗まれた。

警察官の努力もあって翌日には戻ってきた。

これは毎月観音さんに拝んでいるご利益だと話す。

なお、本尊前に置かれていた大きな丸い石は村のジンクロウさんが信心して祀っていたものをここに移したそうだ。

昭和40年代のことらしい。

意味はまったく判らないと講の人が話す。

(H23. 3.19 EOS40D撮影)
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野依の涅槃会

2011年04月24日 08時14分21秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
野依にはかつて神宮寺があったそうだ。

それは仏母寺(ぶつもじ)と呼ばれていた。

廃仏毀釈のころであるかどうか判らないが現在は白山神社の社務所内。

普段の本尊は襖の向こう。

その左の床の間に掛けられた涅槃の掛け図。

床の間には造宮された神社の御幣も飾られている。

年代記の記録は残っていない掛け図にはお釈迦さまの姿が描かれている。

その前に祭壇が組まれた。

社務所は仏間になったのだ。

そこに当番の人が供えたのがアワメシだ。

茶碗いっぱいに盛られたメシには箸を立ててある。

イチゼンメシやマクラメシとも呼ばれているアワメシは涅槃に相応しい。

モチゴメ1合で茶碗いっぱい。

アワは一割ぐらいを混ぜて炊いたそうだ。

その前に並んだ10個の桶。

中には小さな団子がいっぱい入っている。

当番の人と両隣の人たちが手伝って作ったネハンダンゴだ。

4斗5升のお米は蒸して搗いた。

小さな団子にするには時間がかかる。

粉にしたモチゴメを2割ほど混ぜているという。

早朝から作りだして終わったのは夕方近い時間帯。

たいへんな作業でしたと当番の婦人は話す。

そんな準備をしていると村の人たちが続々とやってきた。

神社に向かって参拝したあと座敷に上がる。

座敷は全面にシートを敷かれている。

これはのちほど行われる様相で理解できる。

集まった人たちは総勢で50人を越した。

8割がたはご婦人と子どもたちだ。

村の長老が導師となって掛け図の前に座った。



村の人たちは2組の円座。

一つ目の円座に数珠が置かれる。

ローソクに火を灯して線香をくゆらせる。

そうして始まった涅槃会。

般若心経を唱える間は数珠繰りをする。

大きな珠がくれば頭を下げる。

何十人もの手によって数珠が繰られていく。



心経は3巻。その半分辺りでもう一組の円座に数珠が移動した。

そちらも同じように作法が営まれた。

短時間で終えた涅槃の営み。

供えられたアワメシは当番の人が参拝者一人一人に配られる。

とはいっても受けるのは手だ。

少々の塩味が利いているアワメシは美味い。



そうこうしているうちに男性たちは法被を着た。

オンダ祭のときに着ていた法被だ。

供えられたネハンダンゴを撒く会場はゴクマキに転じて一層賑やかになった。

これらを終えるとお札を授かる。

梵字であるから文字は読めないと役員たちはいうがそれは「降三世(ゴーサン)」と呼んでいる。

正月の日に当番の人が版木で刷ったお札だ。

朱印も押してある。

紛れもない牛玉宝印のお札であろう。

村々で行われてきたオコナイ。

お寺さんが存在しない野依では村の行事となるひと月遅れの涅槃会として行われてきたようだ。

なお、ねはん団子は乾いて堅いので焼いて食べるそうだ。

(H23. 3.15 EOS40D撮影)
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畑屋の行事

2011年04月23日 08時09分12秒 | 楽しみにしておこうっと
畑屋の集落には山の頂辺りに鎮座する八大龍王社が祀られている。

天水分神社とも呼ばれている神社を守っているのは東の講と西の講の宮座講の人たち。

年中行事を営んでいる。

正月前には畑屋川を跨るカンジョを掛ける。

その下がり房は八大龍王にちなんで両講とも八つ作りぶら下げている。

カンジョは勧請縄(カンジョヅナと呼ぶ)のことであるが綱作りの作業を含めて「ツナナイ」と呼んでいる。

綱を結うことから称した表現と思われる。

宮座講のトヤにあたればなにかと忙しいそうだ。

十数年前にあたられたトヤ家の奥さんの話では秋祭り宵宮の前日はたいへんだったと話す。

当時の家は牛の部屋もあったし玄関土間もあった。

そこにミシロ(ムシロが訛った)を敷いて臼を置いた。

座敷畳み側には6人。

長いゾーキ(雑木)の棒をもってモチを搗く。

いわゆる千本搗きだ。

それいけ、それいけと高らかに伊勢音頭を唄いながらモチを搗いた。

モチはコロンコロンになった。

千本搗きは勢いがあるので3人は臼が倒れないように支えていたそうだ。

モチは3升搗いた。

お供えするセキハン(蒸しモチゴメ)も3升だったそうだ。

親戚じゅうが集まってそれは賑やかだったようだ。

そのモチはヨミヤの晩にモチマキをしていた。

青年団があったころはススキ提灯が2燈もあった。

上から2、4、6個の提灯だったという。

村を巡り急な坂道を登り切った神社まで肩に担いで上がった。

解散してからそれはなくなった。

若者が少なくなって祭りを行うことが困難になった。

お供えにはモチの他に枝付きのエダマメや8尾の生サバがある。

それは人身御供だったと言い伝えがあるそうだ。

様相は随分と寂しくなったと話す婦人。

そのなかで現在では貴重な形式となった宮籠もりがある。

ヨミヤの神事を終えて神職とともに酒を飲む。

それを終えたらトヤを残して下っていく。

残ったトヤといえば持ち込んだ布団にくるまって寝る。

その日は10月15日と決まっていたが今は第三土曜の夜で、神さんとともに一晩泊まって朝を迎える。

翌日の祭りの朝は早い。

起きてからが祭りの始まり。

ダイコンとトーフが入ったショウユ汁を作って食べるのだ。

食べることに意味があるように思えるがその様子を一目見なければ断定はできない。

7月は夏祭り。

かつては18日だったが集まりやすい第三日曜になった。

モモ、ハランキョ(スモモ)に8尾の開きトビウオを供える。

カンジョと同様に二つの祭りには「八」の数が絡んでいる。

それよりもたいへんなのが毎月月初めの太鼓叩き。

朝は4時半のことだ。

神社に登って太鼓を叩く。

月参りの日は村の人に参りにきてやといって「マイレー、マイレー」と叩く触れ太鼓。

叩くのは一年間もそれをするタイコタタキの当番の人だ。

朔日の日の宮さん参りなのである。

季節関係なく4時半というからに春はまだしも冬場は真っ暗。

急な坂道を登っていくトヤとタイコタタキの姿は神々しいのではないだろうか。

一年間きっちりとこなす二人には「座」にあたったというそうだ。

(H23. 3.13 SB932SH撮影)
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判断、決断

2011年04月22日 07時39分38秒 | メモしとこっ!
3月11日に発生した東北関東大地震で地震、津波、火事に続いて原発事故までも。

襲いかかる災害にデマメールが飛び交う。

発生から数時間後にはツイッターちゅうもんで早くもデマメールが出回った。

不安を煽るチェーンメールだ。

政府発表もしていないし確認もとれていないメールが大半。

義援金詐欺まででるであろうと思っていた矢先にかーさんが言った。

友人から大手電力会社の備蓄が底をつくから節電協力も支援になるからってことらしい。

知りあいに連絡を・・・。

広めて?ってなによ。

周波数が異なる関西から関東に・・・変換は大掛かり。

そんなことを一般のメールでお願いするはずがない。

「それはチェーンメールだ」直ちにデマだと返信しなさいといった。

かつてハガキでそんな内容のことがあった。

ハガキに書かれてあった電話は絶対するなといっておいた。

「騙り」、「支払詐欺」や過去には「幸福の手紙」のそれだ。

いつの時代もそんなデマ伝達が跋扈する。

テレビ映像を見続けているとおかしな情報でも正しいと認識してしまう。

だいたい送られてきたメールに正式な部署名がありますか。

連絡先がない電話なんてありますか。

ないでしょ。

それだけで気付くはずなんですけどね・・・。

そもそも“電力会社で働いている”個人がメールでお願いするはずがありません。

しかも「拡散希望」って、それだけでも怪しい。

冷静な判断ができていたかーさんもそれにはまってしまった。

パニックは風評からですが、その夜は政府通達で正式に翌日からの計画停電が始まった。

遠く離れた奈良では直接的に影響はないがイベントなどは中止としたケースがある。

大淀町文化会館で催される予定であった民俗のシンポジウムは当日の朝に急遽中止とされた。

前夜までは実施の方向だった。

それは原発事故の大きさを考えて中止とされた。

被害に遭われた地域では数多くの民俗行事が営まれている。

関係者への配慮をされて中止の決断。

それでは申しわけないと写真の展示はされている。

前日、施設に居たとき多数の電話が入った。

ひっきりなしにかかってくる問い合わせの電話。

それはリレーウォークが開催されるかどうか心配されてのことだった。

主催者からは中止の連絡は届いていない。

夕方までそれはなかったから実施されたのであろう。

そしてお城まつりも決断された。

行列、パレード、鳴りものなど派手なイベントは一切中止となった。

(H23. 3.13 SB932SH撮影)
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中誓多林の行事

2011年04月21日 07時50分42秒 | 奈良市(東部)へ
木を伐採するにはチェーンソーが要る。

根っこの部分を切るのだが倒す方向を間違えばとんでもないことが起きる。

それを避けるには方向付けをしなくてはならない。

方向を決める道具がロープの先に取り付けた棒だ。

目標となる枝に向けて棒を放り投げる。

するとロープがするすると飛んでいく。

棒は枝に絡まって停止する。

一方のロープは輪っかになっている。

そこに端を入れてたぐり寄せる。

力いっぱい引っ張れば棒は枝に食い込んだ。

そのまま人間の力で絶えるには危険だ。

それだから端は木の幹に括り付ける。

近くの幹にも通して枝が目指す方向に来るようにする。

チェーンソーは幹を切断したら引っ張る。

張った緊張は解けて尻餅をついた。

そんな作業をしてきた誓多林の人たち。

村では年中行事が行われている。

若いもんがいうには「いっぱい飲んでぐだぐだしているだけや。

行事なんかやめたほうが・・・」の声が高くなり徐々に消えていった村の行事。

当時はトヤ制度もあったそうだ。

上誓多林は宮さんを中誓多林に合祀したのでジュウクヤサンだけになった。

昭和40年代後半のころだそうだ。

それからは上と中の合同行事となった。

先月は萬福寺で大般若転読法要が営まれたそうだ。

それは毎年2月11日と決まっている。

トヤ制度はなくなったがそれに替わる当番は居る。

かつては八王子神社と呼ばれていたのであろう灯籠にはそれを物語る刻印がみられる八柱神社で秋祭りをしている。



以前は10月15日だったが体育の日に変わった。

その日は朝から千本搗きをしている。

6臼も搗くそうだ。

そのあとは昼寝をしてスモウの儀式をする。

ムシロを敷いて刀を担ぐ力士が登場する。

ムシロの外周りをぐるぐる回る。

それから子供のスモウになる。

とはいっても村には子供はいない。

昼寝もそうだがかつての話しだ。

そのあと力士はぶつかり合う。

納めはやはり刀を担いでぐるぐる回る。

ただそれだけだというがれっきとした神事相撲である。

夏には風の祈祷もしている。

8月の日曜だが何週目にするかはその年にならないと判らない。

神社に行って誰かが手を合わせてパンパンとするだけだという。

その宮さん平成24年は造宮にあたる。

神社は小さいから起重機で吊り上げて入れ替えたらと冗談交えて話された。

(H23. 3.13 SB932SH撮影)
(H23. 4.19 SB932SH撮影)
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