マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

勝原・まじないの紫陽花

2018年08月05日 10時36分19秒 | 山添村へ
シモの世話にならないように願う婦人の願いを叶えてくださるまじないがあると知ったのは、この年の平成29年2月11日

在所は山添村の勝原。

その日は勝原で行われる子供の涅槃を取材していた。

取材にお世話になったお家がある。

そのお家で用足しを利用させてもらったトイレ内にあった逆さ吊りの紫陽花

家人がいうには毎年の6月26日にしているというまじないである。

6月に「6」の付く日が3回ある。

6日、16日に26日である。

その「6」の付く日に、である。

家のトイレに紫陽花の花を逆さに吊るしておけば、女性特有のシモの病気にかからないと云われている。

紫陽花に霊力が宿るとみなして魔除けになるという習俗である。

なかでも一番の効果があると信ぜられた26日に吊るすと話していた民家に向かう。

まじないをする時間帯は夜遅くなると話していた。

取材許可は得ているが、夜遅くはほんとに申しわけない。

ご主人の仕事帰りは遅くなる。

運動クラブに所属している子供さんも遅くなるし、送迎もある。

そうでなくとも例年はもっと遅い時間帯にしているという、S家は、取材に遅くなっては申しわけないと、早めてくださった。

気持ち早めてもらっても夜は夜。

真っ暗な村の道を歩いて呼び鈴を押した。

待ってくださっていたのはSさんの奥さんに母親だった。

夜遅くに訪問させていただくこと、たいへん恐縮しながらの取材である。

S家の紫陽花のまじないに呪文がある。



願文は「鳥枢沙摩明王 オンクロ ダナウ ウンジャク ランラン」である。

願文は例年同じ。

参照する見本通りに書く願文。

奥さんは奥さんの字。

母親は母親の字でそれぞれに書く。

祭るこの日の日付けに生年月日、並びに氏名を書。

願主の証しである。



二人並んで書いた願文を内側に置いて摘んできたお家の紫陽花を包む。

花束を作るようにくるくる巻いて包む。

金・銀それぞれの水引で茎の部分を括って締める。



紫陽花を包んだ花束は先端を折りたたんで毀れないようにしている。

できあがったら紫陽花包みをトイレに持ち込む。

先にしておくのが一年前に吊った紫陽花包み外し。

取り除いてから新しく作った紫陽花包みを逆さに吊る。



締める際に余らせていた水引でタオル掛けのところに括っておく。

このように紫陽花を逆さに吊るした願かけ。

手を合わせることのない願かけは、いつから当家に伝わるようになったのか。

奥さんの話しによれば、実家の桜井市芝がはじまり。

芝にお住まいの母親が、友達から聞いたシモの世話にならないようにという願掛け。

紫陽花をトイレに吊るすまじないであった。

嫁入りした奥さんは嫁いだS家でもするようになった。

それを知った義母もしたいというようになって今では二人揃ってしているという。



先代から教えられ、学んだ伝承民俗が一般的だと思っていたが、当家の伝承はお嫁さんが持ち込んだ出里の民俗文化である。

義母は、これは良いことだとお嫁さんがしてきたことを受け入れた逆の展開。

嫁、姑間にこだわりのない関係性に感動した夜だったが、面白いことに出里の母親が云った言葉。

「まだしてんのん」である。

実家の母親は継続することはなかったが、嫁入りしたS家で民間信仰を繋いできたこともまた驚きである。

この日の午後に取材させていただいたならまち界隈に住む女性は親戚のおばあさんから、であった。

後日にお会いした宇陀市榛原萩原・小鹿野(おがの)に住む老婦人は、最近になってからご近所の人から聞いてはじめたと云っていた。

伝わるルートは人さまざまである。

地域の行事でもなく、人と人の繋がりで拡散していた紫陽花祈願は、特に奈良に限定されているわけでなく、ネットで調べてみれば各地に存在する。

また、各家ではなく、神社寺行事によって行われているところもある。

ところで願主の二人が願文に揚げた「鳥枢沙摩明王」である。

読みは「うすさまみょうおう」或いは「うすしまみょうおう」。

ネット調べであるが、密教の明王の一尊。

真言宗、天台宗、禅宗、日蓮宗などの諸宗派で信仰されるとあった。

飯島吉晴氏が報告された論考『烏枢沙摩明王と厠神』。

「鳥枢沙摩明王」はトイレの神さまで、「うっさま明王」の名で呼ばれているそうだ。

また、陳甜氏が論考された『ポックリ信仰研究序説:ポックリ信仰の諸相(東北文化研究室紀要)』によれば、「鳥枢沙摩明王」はトイレの神様である。

「不浄を厭わず、不浄な場所に巣食って、諸病災厄の因をなす魔鬼の類を抑える呪力を有するための、厠(かわや)の守護神」である。

ごく普通の一般家庭では、お嫁さんに面倒をかけたくない。

とりわけ、シモの世話にならんように、という願う人は多い。

呪文の「オンクロ ダナウウン ジャク ランラン」は鳥枢沙摩明王のご真言であるが、何故に紫陽花であるのか、また何故に「6」の付く日であるのか、謎は謎のままで終わった。

ちなみに一年間もトイレで守ってくれた古い紫陽花はどうされるのか。

お聞きすれば翌年のとんどで燃やすと話していた。

ちなみに南山城にもこの習俗があるようだが・・

(H29. 6.26 EOS40D撮影)
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テントバナに風切りカマ

2018年05月28日 09時24分05秒 | 山添村へ
三重県伊賀市の下見帰りに途中下車して山添村切幡で行われているおつきようかの状況を視察する。

ついさっきに立てたとOさんと立ち話に30分間。

4月30日に田植えをしたけど、蕗が小さくて植え仕舞いのフキダワラは、せんかったということであった。

ところで、この日のテンドバナに、なんと“カマ“があるではないか。

下から登ってきたときは瓦の色に溶け込んでいて気がつかなかったが、家屋前から拝見したら“カマ”に気づく。

インパクトのあるカマ映像が眼前に迫る。

そのように感じた“カマ“であるが、昨年に立てたテントバナの様相からずいぶんと変容した。

同村におられるTさんから聞いていたかつての同家の在り方がこの形。

風を切るカマの立ち姿にしたという。

Oさんが云うには、都合で一日早めた昨日に立てたそうだ。

そのカマはおつきようか竿の先端に括り付けた。

ヤマブキは見つかったので竿に括って飾ったが、フジの花が少なすぎて・・。

また、ベニツツジも見当たらなかったから、普通のツツジをあしらった。



元気でいるから今年もできたというOさんは昭和16年生。

平成23年に行われた村行事の田の虫送りを終えたあとの会話で話してくれた数々ある家の行事。

その一つがおつきようかであった。

昔しは5月9日におtきようかの竿を倒していた。

飾ったお花は括りから外して近くの川に流していたという。

この年は4月30日に田植えをした。

蕗の成長はまだ早かったらしく蕗の葉が小さかった。

植え初めのご飯も載せられないくらいに葉が小さい。

この年は仕方のないことで、断念したという。

おばあさんが生きていたころの植え初め。

蕗の葉の上にご飯をおましていたから、今でも継承している。

蕗の葉の枚数は12枚。

旧暦の閏年の場合は13枚になる。

旧暦の閏年は大の月が2回あるから、月数が13になる。

江戸時代からそうであった旧暦年の在り方である。

家の行事はいつも教えを乞う。

この日はそれだけでなく交友関係も・・。

実は、と云って語る同級生。

室生・下笠間の春覚寺に出仕されるS住職に旧都祁村・馬場の金龍寺のI住職も同級生。

なんと、お二人とも行事取材でお世話になった僧侶である。

また、この年限りで寺住職を引退した福住・西念寺のMさんの話題も出る。

その流れから旧都祁村・白石の興善寺までも。

興善寺は大阪・平野の大念仏寺が本山。

住職は大念仏寺の社務職に移った。

その代わりに息子さんが引き継いで、この年の5月21日に晋山式を務める予定があるという。

(H29. 5. 7 EOS40D撮影)
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箕輪・サシナエからフキダワラの話題

2018年05月22日 09時13分42秒 | 山添村へ
奈良県内の、特に東山間でこれまでずっと行われてきた田植え作業に纏わるフキダワラが瀕死の状態にあるとわかった。

旧五ケ谷村から登っていく旧道。

やがて西名阪国道に出会う。

そこからは高速道。

次のICは天理市の福住町になる。

訪ねてみたい家は見つかったが、不在だったM家。

福住S・ジョブズ・スクール代表のMさんをしばらくは待っていたが、何時になるのかわからないまま待つわけにもいかず、ここ上入田を離れて同市内の山田町に向かう。

山田町は上から下へと下る。

下ると云っても道はなだらかな道。

スピードが出過ぎないようにセーブしながら走らせる。

この地は上山田、中山田、下山田の三村。

数年前から田植え初めに行われるウエゾメ(植え初め)の在り方をみている。

今年はどのような状況になっているのか・・。

昨年に伺ったときはほぼ壊滅したような状況であった。

今年もそうであってほしくない現状調査。

生憎、これまでウメゾメをしていた中山田、下山田には影も形もない。

とうとうやってきた全廃状態に愕然とする。

旧都祁村の荻。

そして山添村の峰寺に室津を辿っていた。

そこから東へ向かう地に北野がある。

何年か前に拝見したことのある田圃に行ってみるが植え初めの痕跡は見られない。

そこからさらに東へ。

大塩に住まいするY家を訪れてはみたものの、先週の4月29日に緊急入院された奥さんの付き添いに今から病院へ行くと云われる。

Yさん夫婦とは私も通院している病院で何度かお会いしたことがある。

今度ばかりは血相抱えて今から・・。

すまんけど、と云われて期待していたフキダワラの件は聞かずじまいだった。

大塩と云えばもう一人。

年中行事の数々の他、お家の行事も取材させてくださったKさんがおられる。

2年前の平成27年5月6日

私が当時勤めていた仕事を終える時間に合わせて、フキダワラを供えてクリの木を立てるミトマツリをしてくださった。

そのご厚意が嬉しかった。

大塩から山手の方に向かう。

神野山へ行けばいいのだが、この日は隣村の箕輪。

田植え時期なら何かうかがえることもある。



そう、思って車を走らせたら田圃でサシナエしている婦人を見かけた。

手を休めたときに話してみたフキダワラ。

今年は足腰が痛くなってできなかったが、いつもならフキダワラを作って食べていたのに・・と。

大豆を入れて炊いたご飯は蕗の葉に包んでフキダワラを作っていた。

例年は24個も作っているフキダワラ。

オツキの花を添えて田植え初めの場所に立てるウエゾメ(植え初め)をしていた。

フキダワラは12個ずつ、1本のオツキの枝2本に、それぞれ括って合計24個も垂らしていた。

話しを聞いただけでも壮観なウエゾメ(植え初め)の在り方。

昨年の平成28年までしていたという。

オツキという花はウツギである。

北野でウメゾメをしていた高齢の婦人はウツギをオツゲと呼んでいたことを思い出した。

ウツギは地域によってオツキ或いはオツゲの名で呼んでいたことを知る。

家はサシナエしているところからすぐ近くに家があるというK婦人。

作ったフキダワラを隣近所なのであげたら、「あんたとこ、まだ、こんなことしてたんか」と云われることもあったが、今年は足が思うように動けなくて断念した身体事情。

来年には是非伺ってみたいと思った。

(H29. 5. 5 EOS40D撮影)
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華香る芝桜庭園

2018年05月21日 09時31分34秒 | 山添村へ
さて、である。旧都祁村荻で売っていた臭い猪肉の原因がわかったところで、次はどこへ行く。

ここより川沿いに下っていく国道25号線がある。

北上すれば山添村桐山にでるが、手前の的野から県道80号と交差する信号の少し手前に集落がある。

そこは峰寺の村外れ。

数日前に通りかかったときに見つけた田植えの初めの在り方と思えるミトマツリである。

田の所有者はたぶんに宮総代のMさん。

伺ってミトマツリの件の教えを乞いたい。

そう思って家までたち寄ったら不在だった。

M家の隣になるお家は平成24年の当家を務めたくO家。

六所神社の祭りに出仕される当家。

宵宮のお渡りに本祭のお渡りについていって取材させてもらった。

祭りを終えて当家に戻ってくれば当家の祭りを家でする。

祝い唄を謡いながら神社奉納から戻ってきた一行は当家家でもてなし宴になる。

賀状でやり取りはしているもののお元気にしておられるのか、表敬訪問する。

玄関扉の向こう側はピンク色の庭園がある。

呼び鈴を押したらOさんが居られた。

懐かしいお顔に再会する。

当家の祭りのときの庭園はなにもなかった、と云えば失礼だが、お渡りの出発地だけにお花を植えるわけにはいかない。

あれから数年かけてここまえ拡がったという芝桜で覆いつくしている。

見事な庭園にうっとりする。

この芝桜はピンク色だけでなく白色もあれば紫色も。

同じピンク色でも濃淡がある。

何種類の芝桜を植えたのですか、ときけば一種だという。

何年か経てばそうなったという華の庭園に寝そべってみたいと思った。

Oさんと別れて隣村の室津に行く。

戸隠神社の祭りも宵宮、本祭ともお世話になった当屋家がある。

撮らせていただいた何十枚もの写真を届けたくて訪れた。

(H29. 5. 5 EOS40D撮影)
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峰寺のミトマツリ

2018年04月24日 09時05分54秒 | 山添村へ
山添村大字北野・津越のヤッコメ行事を拝見してから南に向かう。

大橋の信号を曲がって西名阪国道に出るコースを選んだ。

大橋の信号より少し走ったところに数軒の集落がある。

そこはお世話になった祭りのトーヤの家もあるし、六所神社の宮総代もおられる。

在所は山添村の峰寺である。

カーブを曲がった直後に現われた水田。

田んぼは水を張っていた。

よくみれば苗がある。

田植えはもう始まっていた。

そういえば奈良市の田原の里。

特に矢田原ではほとんどが田植えを済ませていた。

通った時間帯は朝一番であるか、本日の田植えではない。

日曜とすれば4月23日であろうか。

ここ峰寺もそうだと思った田植え後の田んぼに白いものが目に入った。



もしかとすれば、それはお札・・・。

停車して近寄ってみれば半分に割ったところに白く長い紙を挟んでいた。

上から覗いても文字は見えない。

もう一本は竹筒である。

そこにあった植物はサカキであろう。

で、あればお札もサカキも2月25日に峰寺に鎮座する六所神社の祈年祭に奉られる御供である。

この御供は峰寺、的野、松尾の三カ大字、それぞれの神社名を記したお札である。

峰寺は六所神社、的野は八幡神社、松尾は遠瀛(おおつ)神社。

それぞれの大字に鎮座する神社名を記して朱印を押していた。

平成22年2月25日に訪れた祈年祭。

拝殿に置かれた御供は御田のお札と聞いている。

ここら辺りの村では苗はJAで購入するから苗代はない。

苗を買ってすぐさま田植えをする。



その場に供えることからミトマツリと称しているが、田植え初めの場であればウエゾメ(植え初め)であるかもしれない。

田主はおそらく宮総代のMさんだと思うのだが・・。

(H29. 4.29 EOS40D撮影)
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北野・津越のヤッコメ

2018年04月22日 08時57分36秒 | 山添村へ
平成23年に取材して以来、6年も経った。

その後の状況はどうされているのか。

前回取材時と同じように姉妹3人が集落を巡ってお菓子貰いをしているのだろうか。

かつては焼き米貰いに巡っていたからそれを「ヤッコメ」と呼んでいた山添村の大字北野・津越のヤッコメ行事に再訪する。

ヤッコメとは焼き米もらいのことだ。

今ではその姿さえ見ることのない焼き米。

郷土料理でもなんでもない昔からあった米の保存食。

籾のついたままの新米を煎って、爆ぜた殻を取り除いたもの。

平成22年5月8日に取材した桜井市小夫でのときだ。

植え初めに話してくれたヤッコメ(焼き米)。

水口の両脇に2本の松苗を挿して、ヤッコメ(キリコやアラレの場合もある)を田に撒いた。

そのときに囃した詞章に「ヤッコメくれんなら どんがめはめるぞ」だった。

美味しいヤッコメをくれなかったら、どんがめと称していた石を田んぼに投げるぞ、という囃子詞である。

ここ山添村の大字北野・津越に小夫ととてもよく似た詞章があった。

「ヤッコメ(焼き米)くらんせ ヤドガメはなそ(放そう)」という囃子詞である。

今ではこの詞を聞くことはないが、平成5年に発刊された『やまぞえ双書1 年中行事』に記されている。

ヤッコメならぬイリゴメの名称であったが、意味はまったく同じ囃子詞を知ったのは平成29年3月15日に訪れた天理市和爾町・和爾坐赤坂比古神社行事の御田祭植祭に参列していた一人の長老であった。

昭和10年生まれのUさんが話してくれた過去の体験はおよそ70年前の戦後間もないころだった。

「イリゴメ(※煎り米はつまり焼き米)喰わさなきゃ 亀を這わすぞ」の囃子詞の様相は津越や小夫とほぼ同じである。

植え初めした稲は亀が這うことによって倒され、潰してしまう。

つまりはイリゴメを食べたい子供は亀を植えたばかりの田んぼに放して悪さをしてしまうぞ、ということだ。

田主にとっては亀を放されては困るから、イリゴをあげるから放さないでと嘆願する、ということだ。

ほぼ一年後の平成30年4月10日に訪れた際に話してくださったカメのことである。

こちら津越ではドンガメといえば、昆虫のカメムシだった。

ところ変われば、名も替わるという事例である。

奈良県内におけるヤッコメ行事は極めて珍しい。

おそらくここ山添村の大字北野・津越だけではないかと思う。

その珍しさというか、貴重な行事を拝見したいと願った写真家Kさんの希望を叶えるために予め取材許可をもらっていたご家族。

お盆の風習行事であるサシサバイタダキや先祖さん迎え火も撮らせてもらったことのあるお家。

なにかにつけてお世話になってばかりいて恐縮する。

ヤッコメならぬお菓子貰いにでかける民家は10軒。

前回より1軒少なくなったが、津越は度々の村行事も取材しているから顔なじみの家もある。

1軒は我が家の長男が勉学していた大学の友達の家。

親父さんのKさんも存じているから話題と云えば東京から奈良に帰省する道中の出来事である。

それは夕方に発生した。

津越の友達と一緒に東京を出た長男の愛車が走っていた東名高速道路で負った追突事故である。

渋滞に巻き込まれた道路に停車した。

そこへブレーキもかけずに眠り運転で走行してきたトラックに追突されてしまった。

バックミラーでトラックの動きを見ていた長男は危険を察知して二人とも横になった。

そのおかげもあってむち打ち症にはならず。

とっさの判断が功を奏した。

長男の車は軽自動車。

後の窓ガラスは割れて、ボコボコ。

命は助かったし、車もそこそこの損傷で済んだのが幸いだった。

私も親父さんも冷や冷やであったが、身体が無事やっただけにほっとしたことを覚えている。

親父さんは「息子が同乗したから事故したんや、すまんかった」と云われるが、予期しない出来事に巻き込まれただけ。

むしろ、二人とも無事だったのが嬉しいのです、と伝えた。

そんな話題は二人だけに通じる話し。



長話はさておいて、お菓子をもらった子どもたちは母親と共に先に向かって去っていた。

急な坂道を駆けあがっていく子どもたち。



着いた家はいつも薪割りをした割り木を揃えている。

今年も待っていたという婦人は笑顔で渡すお菓子袋。

姉妹二人分はそれぞれが受け取る。

平成22年に訪れたとき。

6年前の下の女児は母親が押すベビーカーに乗っていた幼子だった。

上の子は保育園児。

ともに成長して小学一年生、小学四年生になっていた。

都合で、中学一年生になった上の子は都合によって今年は参加できなかった。

大きくなった姿を毎年見ている村の大人たちは目を細める。

もう一軒は元裁判官のAさん。

かつては重箱をもって神野山へ山登り。

おやつも持っていたというから5月3日の春祭りの様相を話してくださる。



道を下って何軒か。

次の一軒は平成22年の八幡祭京の飯行事に年預を務められたKさん。

平成18年に取材した豊田楽のときにお声をかけてくださった先代の親父さんも存じていたが・・・。



庭に立ち入った子どもたちが声をかけたら屋内から飛んで出てこられた奥さん。



嬉しそうなお顔でお菓子を手渡す。

いつもなら朝9時に家を出て村を巡るのであるが、この日は中学一年生の長女はあいにくの不在。

表彰式出席のために馬見丘陵へ出かけたという。

その長女のためにもお菓子袋は用意してくださっていた。

ふと振り返ったK家の玄関。



「二月堂」の焼き印を押した木札に紅白の水引結びをしていた。

その横には少し焦げ目が見られる杉の葉。

たぶんに修二会の行法に先導をいくおたいまつではないだろうか。

確かめる時間もなく次の家へと先を急ぐ。

さらに下ったら県道80号線に出る。

道沿いに下った隣家はH家。

製材所を営むH家の発注に写真家Kさんのお仕事関係もお願いしたことがある。

なにかとお世話になるHさんも平成22年の京の飯行事に年預を務められた。



姉妹にお菓子を手渡すHさんは目を細める。

Hさんが云うにはヤッコメはキリコ或いはカキモチだったそうだ。

もらって集めたカキモチは敷いた筵に広げて、公平に分け合った。

子どものころはもっと大勢が居た時代。

軒数も今より多くあった時代のヤッコメ行事は半日もかかった。

お腹が減った、でもなく巡っている途中で食べていたそうだ。

Aさんも云っていたように、当時子どもだったころの焼き米は美味しかったそうだ。

話しをしておれば、つい焼き米を喰いたくなってくると思いだされる。

さらに下って何軒か。



家で待っていたFさんもお菓子を手渡す。

持参した大きな袋が溢れそうになっている。

残すは数軒。



少女は一年生、四年生になりましたー、と告げる津越のヤッコメ行事の日。

毎年の成長を報告する台詞は挨拶代わり。

大きくなったなー、が合言葉のように思えてきた。



1時間足らずで自宅に戻った姉妹は喜んで家に入っていった。

孫の成長に目を細める店主のOさんもやはりキリコ或いはカキモチだったという。

かつてはフライパンで煎ったカヤの実もあった。

カヤの実は特に美味しかったと懐かしそうに話される。

昔は男の子だけが廻っていたが、少子化の波を受けて女児も加えた。

下はヨチヨチ歩きの幼児から上は中学2年生までが対象年齢。

再来年は長女も参加できなくなるO家が頼りのヤッコメ行事。

今年、下の子どもが小学一年生だから、あと数年は続けられるようであるが・・・。

(H29. 4.29 EOS40D撮影)
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遅瀬・地蔵寺の涅槃会

2018年01月28日 09時00分06秒 | 山添村へ
山添村遅瀬の行事取材はずいぶんと間が空いた。

「マジャラク」とはどのような形であるのか。

拝見したく訪れたのは平成22年の10月10日

その日に寺行事があると聞いて伺った場所は集会所にもなっている中南寺(なかなんじ)。

毎月の17日に集まってくる観音講の営みである。

訪れたのは平成23年の9月17日だった。

遅瀬にはもう一つの寺がある。

場所は村当家祭が行われた八柱神社。

その年は生まれたばかりの男児がいなくて村当家(むらどー)

対象の幼児がおれば本来の当家祭になる。

神事を終えた一行は公民館でもある八柱神社の参籠所に上がって「座」の営みが行われる。

その参籠所奥にあるお部屋が地蔵寺。

その場で正月初めの初祈祷が行われる。

そう聞いていたが、なかなか都合がつかなくて未だに拝見できていないが、祈祷したハゼの木に挟んだごーさん札があると聞いていた。

あれから7年も経過した。

当時にお会いできた長老たちは元気にされているのだろうか。

村の代表者も替わったことだろう。

気にはなるものの、どうするか迷っていてもしかたないので、毎年の年賀状を届けてくれるUさん家を訪ねる。

訪れたのは通院を終えてからだった。

天理市内から山添村に走る。

お家は見つかったがUさんは職場におられるということだった。

訪ねた職場は山添村の役場だった。

受付にお願いしたら出てこられた。

久しぶりに顔を合わせてお願いする現在の氏子総代を紹介していただく。

尤も紹介は電話でのこと。

地蔵寺で行われる涅槃会取材の許可取りができてほっとする。

参籠所の扉の向こうには人がおられる。

声がするから扉を開けて声をかける。

どうぞ、と云われて上がらせてもらった参籠所の奥の部屋におられた3人の氏子総代にご挨拶をさせてもらった。

こうして拝見するこの日の行事は涅槃会。

地蔵寺の正面壁に掲げていた涅槃図はとても大きい。

高さは200cm。

幅は165cmの涅槃会は彩色が美しい。

劣化もない涅槃図の最幅は表装部分を入れて185cm。

氏子総代らが云うには15年ほど前に表装をし直したということだった。

遅瀬の涅槃図は猫もいる珍しい様式だと話される。

探してみれば右下にちょこんといてはる。

涅槃図に猫が描かれているといえば、京都の東福寺である。

縦が15mの横幅が8m。

とてつもなく大きい大涅槃図は室町時代の応永十五年(1408)の作。

私は未だ拝見しない大涅槃図にたいへん珍しい特徴があるという。

それが「猫」である。

東福寺ではこの猫を「魔除けの猫」縁起として伝わっているそうだ。

一般的に涅槃図は「」を描くことはないそうだ。

遅瀬の涅槃図にも「猫」が描かれていた。

「猫」の表情、構図はまったく違うが、珍しい。

村も自慢する涅槃図であるが、調べてみれば他所にもあるようだ。

ネット検索して見つかったお寺は千葉県安房郡鋸南町にある瑞雲山天寧寺

寺名は不明だが神奈川県にある寺院にもあるらしい。

また、茨城県守谷市にある雲光山華厳院清瀧寺にも涅槃図があるそうだ。

探してみれば奈良県内にもあるがわかった。

一つは橿原市正連寺大日堂にも。

記録によれば涅槃図を寄進したのは、当時橿原市豊田町住民。

寄進年代は延享三年(1746)。

同寺では涅槃会の法会をすることなく大日堂資料室で拝見できるそうだ。

ネット探しはそれぐらいにするが、FBでの知人たちからここにもあると伝えてくれた猫有り涅槃図。

一つ京都市東山区の御寺泉涌寺の涅槃図である。知人がいうには縦が16m。

横幅が8mもある。

凄いとしか言いようのない大きさは日本一とか・・で、吊り上げるだけでもたいへんな作業を伴う。

また、薬師寺東京別院にもあるとメールで伝えてくださった。

年に数回行われる特別大写経会のうちの2月13日~15日が釈迦涅槃会。

同院のHPにその日程が書かれていないことから特別な方の写経会であろう。

ちなみにその涅槃図の年代は天正五年(1579)である。

もう一人のFB知人が伝えてくれた山添村勝原の涅槃図。

私も実際に拝見したことはあるが実測はしていない。

寄進年代が寛文十年(1670)とわかったのはこの年に訪れた2月11日だった。

年代ばかり気になっていたので、猫があることは失念していた。

県内だけでなく、探してみれば全国あちこちにあるような気がしてきた猫入り涅槃図。

先に挙げた東福寺HPの解説によれば、同寺の涅槃図は室町時代の画聖とされる兆殿司(吉山明兆;きつさんみんちょう)によって描かれたとある。

寺伝によれば、裏山の谷から絵具を銜えた猫が現われて献じた。

そのことを大いに喜んだ画僧明兆はお礼に描き加えたという説話に続きがある。

涅槃図には鼠がいる。

その鼠が薬袋をかじって落とそうとしていたので猫が阻止したとうのだ。

三重県鈴鹿市にある龍光寺

同寺にも猫が描かれた涅槃図がある。

毎年3月の第二土曜日より3日間に亘って行われる「かんべの寝釈迦まつり」と呼ぶ涅槃会である。

同寺の涅槃図も吉山明兆の作。

東福寺は龍光寺の大本山。

その関係があったものと推定される。

紹介するブログによれば、同じく三重県津市榊原町にある林性寺にも。

同寺は毎年3月14日より3日間に亘ってご開帳されているが、東福寺繋がりでもなさそうだ。

暗黙のルールを外して猫を涅槃図に描き加えた吉山明兆は正平七年(1352)~永享三年(1431)。

室町前期、後期に亘って活躍した臨済宗の画僧。

明兆以前には猫入り涅槃図の存在が見られないとすれば、各地に存在する猫入り涅槃図は、応永十五年(1408)明兆作の東福寺涅槃図を模して各地の絵師が描いてきたものと考えられる。

長々と猫入り涅槃図について調べてきたが、話しは遅瀬の涅槃会に戻そう。

遅瀬の涅槃図を納めている「涅槃像入箱」に目を移す。

その箱に墨書文字がある。

「大和國山辺郡遅瀬村地蔵寺什物」とある表面。

黒光りはしているものの古さはそれほどでもないように思えた。

ただ、念のためと思って表面の蓋を裏返してみたら文字がでてきた。

「昔 明治十五年春貳月新調現在越後國高橋教連」とあった。

やはり、時代は新しい。

とはいっても明治時代のことである。

さらに拝見した「涅槃像入箱」。

今度は底の裏面である。

表も裏もひっくり返したあらゆる面から探りを得る。

その結果が報われること・・。

箱の側面に貼ってあった白いシールの印刷文字が「釈迦念仏供養(涅槃会)掛図」。

いや、これではなく底面に、あった薄っすらとした墨書文字は「干時 正徳六丙申(1716)三月十□五日」である。



正徳年間は西暦1711-1716年/6月まで。

「涅槃像入箱」の底面を拝見してようやく年代がはっきりした。

法会を終えてから拝見した涅槃図の裏面にも墨書があった。

「添上郡月瀬村大字尾山 表具再調人 岡本重五郎 長老世話人(連名で西山菊松 長島岩松 奥端猪々松 井戸根市松 上峰駒石 井尾□吉 永谷岩吉 井戸元由松 昭岩松 今中由松 以上10名) 昭和四年七月二十二日調之」とあった。

15年ほど前の表装し直しどころか、89年前に再調されていたのだった。

「涅槃像入箱」などを拝見させているころに来られた僧侶は山添村大字春日の龍厳山不動院住職の前川良基さんである。

平成26年の9月5日に行われた自寺院の高野山結縁行脚である。

直近にお会いしたのは2カ月前に行われた大字大西のオコナイであった。

支度を調えて始まった地蔵寺の涅槃会。



総代はご本尊を安置するところに立てた燭台に火を灯す。

本堂には総代の他、区長に7人のネンヨ(以前は8人/8組だった)と呼ばれる組長さんらが座る。

地蔵寺の空間は広い。



壁際いっぱいに座られているから超広角でもない限り、全員が座る様相は撮れなかったことをお詫びする。

まずは礼拝。

そしてお堂は・・・。

漢語、和語で唱える涅槃の法会。

お釈迦さんの入滅について讀まれた釈迦仏法要和讃を唱える。

節をつけてゆっくりとした調子で唱える。

時間にしてはおよそ30分。



その途中に廻される焼香。

一人、一人に廻される。

和讃を終えたら般若心経に移る。



そして礼拝で法会を終えた。

住職が云うには、山添村の涅槃会はここ遅瀬と上津しかない。

そう云われたが、僧侶の姿のない涅槃会は勝原にある。

(H29. 3.15 EOS40D撮影)
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勝原の子供涅槃

2017年12月17日 09時03分53秒 | 山添村へ
山添村の大字勝原の子供涅槃を取材したのは8年前。

平成21年の2月21日だった。

勝原の子供涅槃は大きく分けて三つの段階がある。

はじめに米集め

そして、オヤが接待役を務めるヤド家で昼の膳のよばれ。

昼食を済ましたら薬師寺のお堂廻りを駆け抜けて竹でオヤを叩く試練なども。

再びヤド家でよばれる夜の膳の3部構成行事である。

平成21年は12人の子どもたちによって涅槃行事が行われた。

今年はオヤを入れても3人だけになった。

しかも、前日から降った雪は大雪。

降り積もった雪道を歩いて村全戸を巡る米集めは大人の判断で中止された。



やむを得ないことであるが、午前中にもてなしをしてくださったS家の玄関には、子どもたちに渡す白米はお盆に盛って待っていたが、叶わぬことになった。

勝原の涅槃には昭和56年から記帳してきた『涅槃帳』がある。

内訳の一つに図もある献立がある。

椀は五つ。

大きい皿に盛るコンニャク、豆腐、ほうれん草、人参で作る白和え。

少し薄味で調理する里芋に三角切りの大根に焼き豆腐の煮しめ。

小さい皿に盛る漬物に小切りの豆腐を入れたすまし汁と白ご飯は昼の膳の献立。

なぜか夜の膳の献立は書いていなかったが、但し書きに「昼食後はぜん(※膳)に名前を書き置き夜、そのまま使う」とあった。

また、「ごはん、すまし汁はざしき(※ヤド家の座敷)で子供がよそう。おにぎり(黄な粉にぎり)はこない人の分と2つぐらい寺(※薬師寺)でたべてもらうこと」とあった。

涅槃行事に諸祭具を要する。

祭具はオヤ家(当屋)からオヤ家(当屋)に引き継ぐものもあれば、区長保管もある。

また、供える御供や食事はもとよりオヤ家が食材まで揃えて料理もする。

オヤ叩きをする笹竹は竹林から伐り出す準備もあるから主体はオヤ家である。

『涅槃帳』に書いている諸具を列挙しておく。

一つは薬師堂本堂に掲げる釈迦涅槃図である。

保管責任者は区長である。

薬師寺正面入り口にかけて、その前に黄な粉おにぎりを大重に入れて供える。

その両側に2本のローソクを立てる。

二つ目は、黄な粉おにぎり。

薬師寺で配る分以上に2個作っておく。

配るのは昼食に来られなかった子供だけとし、半紙や新聞紙を用意することとか、どんぶり山盛りの表記もある。

またビニール袋へ入れることも書いてあった。

三つ目が、膳に食器。

これらは薬師寺にあるから区長や公民館長に連絡しておく。

四つ目は、叩く笹竹に半紙。

御幣状態に切っておいた紙片を子どもたちが竹に括り付ける。

五つ目に、呼び使いで、保育所の子どもより呼ぶこと、と書いていた。

他に、区長にお願いする村のマイク放送とか、夜は同じメニューの膳を作り、ご飯だけはかやくご飯(※)とメモ書きもあった。

奈良県内で呼ばれるかやくご飯はイロゴハン、或いはアジゴハンとかばかりである。

郷土の言葉は親や村人が伝えてきた名称。

しょうゆ飯が訛ったショイメシの呼び名もあるが、実はかやくご飯(混ぜご飯の呼び名もある)は大阪である。

昨今は炊き込みご飯とか五目ご飯は一般的。

関東に倣えという具合になった時代。

この『涅槃帳』にメモっていたかやくご飯の記入者は大阪で育った女性が嫁入りした結果ではないだろうか。

そう思うのである。

尤も、この年に取材したオヤ家(当屋)の人はアジゴハン若しくはイロゴハンと呼んでいた。

基本的な涅槃の献立料理は決まっているが、その他にも子どもたちが大好きな見計らい食がある。

昼食の見計らいは、まめたき、サラダ、コロッケ、ハム(焼きブタ)、かまぼこ、さや豆のみそあえ、冷ややっこ、ウインナー、キュウリ、果物だった。

当初に書かれていた別途料理は変化があった。

コロッケは抹消されて唐揚げに。

さや豆のみそあえはハンバーグに。

冷ややっこはエビフライ。

キュウリはモテトサラダに。

いつしか変更したポテトサラダも、まめたきもかまぼこも消えた。

大人の料理はことごとく消えて子どもたちが食べたいという料理になっていた。

夜の膳も変化があった。

当初の料理は昼の膳の残り物にスパゲティ、ナスのでんがく、あじご飯(※)である。

ここでもわかるように『涅槃帳』本来の記帳はかやくご飯でなく、あじご飯なのである。

夜の膳で消えた料理はナスのでんがく。

追加した料理がフルーツポンチである。

こうしてみれば年代は不明であるが、子どもの好きな料理に変っていく様子がよくわかる。

変化は料理だけでなく、合間に出すお菓子にもあった。

午後3時ころに渡していた袋詰めのお菓子は150円程度。

それが300円になっていた。

お菓子は夜の膳を済ませてから帰宅する子どもに持たせていた。

それも同じように一人、ひと袋ずつに詰めた当初のお菓子は300円だった。

物価が上がったのか、それとも子どもたちの要望で増量したのかわからないが、500円になっていた。

お菓子の注文先注記は「上嶌」とある。

「上嶌」は大字勝原にある和菓子製造会社の上島製菓である。

隣村の毛原で行われた節句行事に供えるチマキは上島製菓製であったことを付記しておく。

諸要綱はこれまでだが、『涅槃帳』にあるのは各年に引き継がれてきたオヤ家(当屋)の実施日と家名に参加した子どもの人数である。

この日の午前中にもてなしてくださったS家は昭和58年の2月13日がオヤ家。

参加人数は16人だった。

昭和56年に起こした『涅槃帳』の実施年月日は毎年ではなかった。

昭和56年から平成2年までは毎年であったが、平成3年は空白だった。

主役対象となるオヤ家(当屋)を務める子どもは15歳の中学3年生。

その年は対象年齢の子どもがいなかったということである。

平成6年、10年、11年、14年が空白の年であった。

私がかつて取材した年は平成21年。

平成18年、19年、20年は3年連続の空白の年であった。

先にも伝えたが、今年の子どもたちはオヤを入れても3人だけ。

この年にオヤを卒業する子どもは高校生になって参加資格を失う。

残った2人の子どもはまだ小学生。

次の年も次の次に年も対象者は不在。

その明くる年になってようやく調うが、笹竹でオヤ叩きをする子どもは一人。

オヤに対してたった一人で戦うことになる。

昭和56年から記帳し続けてきた『涅槃帳』。

これまでの時代では考えられなかった状況は否が応でも実現してしまうのが辛い。

午後一番に始めると聞いていた薬師寺に向かう。

平成5年に山添村が発刊した『やまぞえ双書1 年中行事』に勝原の涅槃講を報告している。

「釈迦入寂は陰暦の2月15日。大字勝原の15歳男子をかしら(※頭)を筆頭に、村で生まれた長男たちによって涅槃講の会式を行ってきた。室町時代の前期。勝原氏と称する土豪が支配していた。村の氏寺として薬師寺を建之したころから、涅槃講会式が始まったと推察される」と書いてあった。

明治31年、豊央(とよなか)小学校を開設した以降から、陰暦でなく新暦の2月15日前後の日曜日に移された。

そして、昭和28年より、長男枠を解いて、15歳以下の男子すべてを参加できるようにした、とある。

昭和10年までの薬師寺は本堂だけであったが、その年と昭和37年の2度に亘って改築し、本堂と庫裏が同じ棟になった。

さて、涅槃講会式の子供涅槃である。

先にも書いたようにこの年は大雪になったことによって米集めは中止されたことになったので、『やまぞえ双書1 年中行事』から行事の在り方を以下に書いておく。

涅槃の日は15歳男子が、当屋になる。

その年に15歳男子が一人になる場合もあるが、同い年生まれが複数人ある場合は、最年長男子が年下の子どもたちを接待する親当屋(オヤトウヤ)を務めることになる。

早朝、年下の子どもたちを従えて村の全戸を巡ってお米貰いに出かける。

天竺木綿布で作った米集めの袋を背中に背負って一軒、一軒巡っては、村に人から涅槃に対してお米を寄進してもらう。

「ネハンですけどー」と声をかけた玄関口。

子供たちは、声を揃えて「ネハン キャハン オシャカノスズメ」を囃(はや)す。お家の人が入れやすいように、お米集めの袋の口を拡げてやる。

今ではお米だけでなく、お菓子も貰って、次の家に向かう。

「キャハン」は足を保護して歩きやすくする脚絆布。

「オシャカノスズメ」はお釈迦さん寄進する米を拾うスズメ。

お釈迦さんの修行を見習って、その使いとなった子供たちがお米を集めるという説である。

また、米を食べる雀ではなく、「涅槃の勧め」が訛った「ネハンのスズメ」という説もある。

こうした詞章は県内各地で伝承されている。

大和郡山市椎木町・光堂寺の涅槃会である。

今では子どもの涅槃を見ることもないが、平成3年10月に発刊された『(大和郡山市)椎木の歴史と民俗』によれば、昭和10年頃までは子供の涅槃があったそうだ。

子供たちは「ねはんさんのすすめ ぜになっとかねなっと すっぽりたまれ たまらんいえは はしのいえたてて びっちゅうぐわで かべぬって おんたけさんの ぼんぼのけえで やねふきやー」を三辺繰り返しながら村中を廻ってお供えのお金を集めていたようだ。

椎木の詞章は「ねはんさんのすすめ」である。これを「ねはんのすずめ」と呼んでいたのは奈良市日笠の子供の涅槃だった。

今では廃れたが、奈良市菩提山町にあった子供の涅槃も「ねはんのすずめ」だった。

こうした詞章事例は山添村の桐山でもかつては「ねはんコンジ、コンジ ねはんコンジ、コンジ 米なら一升 小豆なら五合 銭なら五十銭(または豆なら一荷)」であった。

「コンジ」はなんとなく「献じ」のように思える米集めである。

桐山事例ではもらう米の量が明確で、「米なら一升」である。

対して勝原では三合程度の量である。

ただし、初入講する男の子が生まれた家は一升の米を寄進するのが習わしであると『やまぞえ双書』に書いてあった。

また、昭和33年までは玄米であったから、当時は村内の家から臼を借りた子どもたちがウスツキ(臼搗き)をして白米にしていたそうだ。

集めたお米はオヤ家(当屋)に手渡されて、昼の膳、夜の膳に配膳される子どもたちがよばれるご飯になるのだが、この年は、その昼の膳の接待も中断された。

そのようなわけもあって始まった子供涅槃である。

先に薬師堂に来られていたのはオヤ家(当屋)のN夫妻。



下の子どもを接待する15歳男子の両親は本堂に大きな釈迦涅槃図(※縦1m76cm×横1m67cm)を掲げていた。

平成21年に訪れた際に拝見した釈迦涅槃の納め箱。

黒ずんだ箱は相当古いと察してじっくり拝見したことを覚えている。

このとき一緒に見てもらっていたのがSさんだった。

釈迦涅槃図は1670年以前とされていたが、箱の蓋にあった墨書年号は、なんとなく寛政年(1790年代)のように思えた。

もう一度拝見してみたい。

そう思っていたが、涅槃図そのものに年号を墨書していたことがわかった。



上部右側が「勝原村持(※現物は手へんでなく木へん)物」で、上部左側に「寛文拾庚戌(1670)ニ□□」とあった。

『やまぞえ双書』によれば、納めていた涅槃図箱の墨書年号は「寛政九(1797)丁巳年二月九日」。

涅槃図と箱の年代が異なっているのは、江戸時代に涅槃図をよそから購入したとある・・・。うん?。

で、あれば、箱より古い涅槃図を買ったことになるのだが。

年代は箱より古い・・・。なんで・・。



そして、オヤ家の父親が作業しだした、幣で作った護符の括り付けである。

このころも雪は舞っていた。

吹雪とまではいかなが、冷たい外気に作業をしていた。

本来は子どもたちがする作業であるが、この年はオヤ家がしていた。

涅槃の祭具が揃ったところで会式が始まった。

本来であれば、護符括りした竹を担いでオヤ家を出発する。

薬師寺までの道中においても「ネハン キャハン オシャカノスズメ」を囃すのであるが、オヤ家で昼食も摂っていないので、これもまた省略された。



本堂に登った子どもたちの前には重箱に盛った黄な粉を塗したおにぎりがある。

大きなおにぎりは一つずつナイロン袋に詰めて御釈迦さんに供えていた。



燭台に立てたローソクに火を点けて一同は揃って参拝する。

きちんと正座して手を合わせて拝んでいた。

今年の会式はこうして始まった。

記念写真を撮った子どもたちは一斉に本堂を飛び出した。

下の子どもは護符を括り付けた笹竹を担いで走り出した。

スタートラインについたわけでもなく、運動会のようなバンという鉄砲の音もなく、突然のごとく走り出した。



今年は下の子どもが二人。

年齢差は1歳か2歳ぐらいの差。

走る勢いが違うから離されてしまう。

走る場所は薬師堂廻り。

反時計回りに駆け抜けていく。



その様子を見守るオヤの男子は本堂にあがる階段に座っていた。

参加できるのは男子だけ。

女の子は見ることしかできない行事である。

雪が積もった寒い日であっても、村の行事を一目見ておこうとやってくる人もいる。

平成21年は参加者が12人もいた。

親家族は高齢者とともに見に来ていたことを思い出す。



堂廻りの儀式は静の姿で見守るオヤと駆け回る動の姿の子どもたちで描かれる。

下の子どもは2人。

足が早い男の子に下の子どもは離されるばかり。



一周早く追いついてしまった。

一周遅れであっても13周も廻らなければならない堂廻り。



オヤの男子は数えていたのだろうか。

「疲れたわ」という年少さんの声の余韻もそのままに、オヤ叩きが始まった。

二人の前に登場するオヤ。

立つ位置は特に決まっていない。

笹竹を手にする子どもたちはオヤを遠巻きに。

人数が多ければ、取り囲んでしまうような状況になるが、1対2ではモロの戦い。



バシバシとしばくように叩く長い笹竹を振り下ろす。

叩くつもりがしかりと掴まれた。

その一瞬、翻ったオヤは笹竹をがっつり握って離さない。



掴んだ竹は両手で握って足で踏んだ。

踏んで両手をぐっと引き上げたら折れた。

オヤの勝ちである。

一方、年少の子どもはただただ見ているばかりで戦いどころではない。

戦意喪失したのか、オヤの成すがまま。

この子の持つ竹は叩きもできないうちに勝負がついた。

時間にして1分もかかっていないオヤ叩きの儀式はこうして終えた。

『やまぞえ双書』の記述では、「ネハン キャハン オシャカノスズメ」の声を張り上げて、オヤを叩くとあったが、台詞どころではなかった。

すべての竹を折って儀式を終えるオヤ叩きは、子どもから大人への通過儀礼だとされる。

竹を折る行為は子どもに戻らないという覚悟を表しているのだろう。

オヤは15歳の中学3年生。

昔は元服の年であることから、大人社会に出る試練でもあるようだ。



オヤ叩きを終えた子どもたちは、もう一度本堂にあがってお釈迦さんに手を合わせる。

オヤの父親も一緒になって手を合わせていた。

堂内に掛けていた時計は午後1時45分。

儀式を始まる前に拝礼していた時間帯は午後1時31分。

短時間で終えたのがよくわかる。

一連の儀式を終えた子どもたちは、この日の涅槃会に参加できなかった子たちに食べてもらうために、本堂下に建つ民家まで下っていった。

その間のオヤの親は供えた黄な粉おにぎりを下げて、集まっていた人たちに配っていた。

丸盆に盛った黄な粉おにぎりを少し崩して箸で摘まむ。

摘まんだおにぎりは、参拝者が拡げた手のひらに落とす



箸(はし)は使わずに手で受けのテゴク(手御供)でいただく。

黄な粉の味は涅槃の味だというお釈迦さんのおすそ分け。

これら一連の行為もまた、涅槃行事の一つであった。

涅槃講会式を終えた子どもたちはオヤの家に集まる。

オヤ家の心を込めて接待する料理もあるので、是非いらしてくださいと云われて大雪の道を歩く。

着いた時間帯は午後4時50分。

会式を終えた子どもたちはオヤ家で遊んでいた。

遊んでいたのは下の子たち。



オヤを務める男子は庭に積もった雪を箒で掃いていた。

普段からこうして親の手伝いをされているのだろう。

しばらくしたら、ヤド家のおばあさんが夜の膳を始めますから座敷に上がってくださいと云われて靴を脱ぐ。



大人入りした孫はこの日はじめてのご飯を椀によそう。

昼の膳がなかっただけに夜の膳料理は親の心がこもっている。



特に目から毀れるほどに可愛がっているおばあさんにとっては一番大事なことである。

「こうするんよ」、と先に教えていたのか、よそう手付きも慣れているように思えた。

夜の膳の献立は主食のアジゴハン(イロゴハンとも)。

アゲサン、チクワ、ゴボウ、シメジに鶏肉をどっさり入れて炊いたそうだ。



もう一つの椀はコンニャクに豆腐、ほうれん草、人参で作った白和え。

中央に配した椀盛り料理は里芋に三角切りの大根と焼き豆腐を薄味で煮たもの。

その他、コウコの漬物に豆腐のすまし汁の5品である。

黒色の高膳は村のマツリのときも使用されると聞いている。

高膳に乗せられない子どもたちが大好きな料理は畳に置く。

平成21年もそうしていた膳以外の料理は現代版。

ハンバーグにベーコン入りケチャップ味のスパゲティ皿。

唐揚げにチキンナゲット、エビフライなど。プチトマトを乗せたフライ盛りはマヨネーズを混ぜたソースを付けてよばれる。

チャーシュー肉にポテトサラダも盛ったごちそう料理。

ヤド家のご厚意をいただいて、釈迦涅槃図に手を合わせていた子供たちが夜の膳を共にする場面を撮らせてもらった。



しかも、炊きたてのアジゴハンも食べていってくださいと椀に盛ってくださった。

とても美味しくてお代わりを迫られたが、ここは遠慮する。

長時間に亘って取材させてもらったヤド家のN家族にはたいへんお世話になった。

一連の行事を案内してくださったS家に感謝する。

この場を借りて厚く御礼申し上げる次第である。

この日は大雪で米集めは出来なかったが、涅槃の釈迦さん参拝にお堂廻り、オヤ叩きも体験した勝原の子どもたち。

ヤド家がこしらえた美味しい涅槃の料理を舌鼓。

勝原の歴史を紡ぐ子供たちは、村の行事を体験することで継承していくのだろう。

(H29. 2.11 EOS40D撮影)
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巡り合えたあじさい節句

2017年12月16日 08時56分26秒 | 山添村へ
長居をするにつれ溜まってきたものが気にかかる。

徐脈もちの関係で利尿剤を服用している。

少なくとも1時間に一度は排尿しないと身体が膨満、浮腫みになる。

トイレを貸してくださいとお願いして使用させていただく。

それからしばらく経ったことだ。

同行取材しているKさんがトイレに吊っている包に文字があるという。

もしかとしてこれは、といって確認した。

紙包に書いてあった文字は日付である。

家人に尋ねた「これなんですのん」の答えは「毎年の6月に庭に咲いているあじさいを摘んできて包んでいます」という。

では、「この文字はなんですのん」とまたもや問合せ。

これは女性が、シモの世話にならないように祈願するまじないのようなものだと教えてくださる。

このあじさい花のまじないはある民俗本に載っていたと云ったのはKさんだ。

地域は不明であるが、なんとなく山城町の上狛のようだった、という。

女性だけに信ぜられた民間信仰。

Sさんの奥さんの母親が住む桜井市芝の友だちから聞いたまじないを嫁入り先のS家に伝えたという民間信仰。

そのことを知った義母は、それは良いことだと、私も一緒にしたいと云って続けてきた民間信仰である。

こうした民間信仰は母親、或いはおばあさんから子どもに伝えていくのが常であるが、年齢を遡る逆の形態が面白い。

さて、このあじさいのまじないには呪文がある。

ほぼ半年前にトイレに祭っていた紫陽花はとっくに枯れている。

一年間はそのまま放置して翌年に新しい呪文を書いた紙で、新しく摘み取った紫陽花を包んでいるから、拡げて中身を見せてくださった。

呪文の願文は「鳥枢沙摩明王 オンクロ ダナウウン ジャク ランラン」。



さて、それがどういう意味をもっているかわはまったくわからない、という。

願文に日付はもとより、願主の名前、生年月日も半紙に書く。

書いた願文は紫陽花を覆い隠すように包んで水引で括る。

それをトイレにもっていって、逆さに吊る。

手を合わせることのないまじないである。

ネットで調べた「鳥枢沙摩明王」は、「うすさまみょうおう」或いは「うすしまみょうおう」読みとする密教の明王の一尊。

真言宗、天台宗、禅宗、日蓮宗などの諸宗派で信仰されるとあった。

しかも、である。

飯島吉晴氏が報告された論考『烏枢沙摩明王と厠神』があると・・。

「鳥枢沙摩明王」はトイレの神さま。

「うっさま明王」の名で親しまれているらしい。

また、陳甜氏が論考された『ポックリ信仰研究序説:ポックリ信仰の諸相(東北文化研究室紀要)』によれば、「鳥枢沙摩明王」はトイレの神様也。

「不浄を厭わず、不浄な場所に巣食って諸病災厄の因をなす魔鬼の類を抑える呪力を有するために、厠(かわや)の守護神」である。

ごく普通の一般家庭では、周囲の人の世話をする役目とされる嫁に面倒をかけたくない、とりわけシモの世話にならんように、という願う人は多い。

大事なことはS家の嫁と姑は、お互いがシモの世話にならんようにと思いやっていることである。

シモの世話の件に関しては嫁、姑間のことでもないと思っている。

親子、或いは義理親子であっても、男女関係なくご互いが、寝たきりにならず、家族の世話もかけずにポックリと逝く安楽往生が理想ではないだろうか。

葛城市染野の傘堂祈願もシモの世話にならんようにとする民間信仰。

方法論が違うだけで願いは同じだと思っている。

呪文の「オンクロ ダナウウン ジャク ランラン」は鳥枢沙摩明王のご真言であったが、何故に紫陽花であるのか。

何故に6月の節句であるのか、謎は残った。

ちなみにネットをぐぐって得られたあじさい祈願の方法である。

あじさい神社で知られる兵庫県相生市若狭野町野々に鎮座する「若狭野天満神社」のHPで「魔除けあじさいお守り」を詳しく紹介されていた。

(H29. 2.11 EOS40D撮影)
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勝原・S家のもてなし

2017年12月15日 09時06分35秒 | 山添村へ
白の世界を拝見していた山添村の勝原。

この日は子供涅槃が行われる。

当初の予定では朝から2人の子どもが集落全戸を巡ってお米集めをする予定であったが、生憎の大雪にやむない決断がくだされた。

午後に始まる薬師堂での行事はあるが、何時間も待つことになる。

この日にお邪魔した家は昨年の11月16日に行われた奈良県主催の「農とつながる伝統祭事フォーラム」を主に担当する職員さんだった。

ひょんなことから出合ったSさんとは、これもまた昨年の12月4日、山添村大西で行われた新嘗祭で再びお会いした。

仕事の関係もあってマツリに供えられる芋串の取材をしておられた。

奇遇にもこの日に同行取材していた写真家Kさんも居た。

そこでお願いした勝原の子供涅槃の取材願いに承諾してくださった。

ありがたいことであるが、涅槃行事が始まるまでの時間はたっぷりある。

どうぞ、ごゆっくりと云われても、ほんまに申しわけない、といいつつ家人に甘えてついつい長居してしまう。

シャーレのよう見えた容器の蓋に落としたビーンズ。

さまざまな種類があるから実にカラフル。

点々のある文様は鶉のように見えるから鶉豆のネーミングがある。

それ以外はなんの豆であろうか。

緑色に鶯色。

淡い黄色もあれば白色に茶色も。

これら含めて鶉豆なんだろうか。

いや違うような気がする。

形から云えばやや扁平。

レンズ豆なんだかなぁ。

ネットをぐぐって一つ、一つを検証するのもなんだかなぁ。

昼食までの時間帯は、初めて拝見したあじさい節句に感動するやら、写真家Yさんが当村で世話になっているO氏と山添村で開催する山添村の風景写真展示会への取り組み方などを相談する日でもあった。

そろそろお昼ご飯、といわれてS家のもてなし料理をいただく。



自家製のコンニャクに味付け。

漬物は白菜、蕪。いや、違った、日野菜漬け。

大盛りの漬物もあれば、ハムに茹でブロッコリーに胡麻和えサラダも。

主役はカレーライス。

これがまた、美味しいんだなぁ。

なにもかも世話になりっぱなしで、この場を借りて厚く御礼申し上げる次第だ。

(H29. 2.11 EOS40D撮影)
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