マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

毛原八阪神社・御石洗い

2024年01月11日 07時41分54秒 | 山添村へ
この日にする、と聞いていた山添村の毛原。

本来は15日であったが、今は第三日曜日に移した御石洗い(ごいしあらい)の十五夜籠り。

毛原の史料によれば、かつては「名付け」もしていた中秋の宮籠もりは、9月の15日が祭礼日だった。

現在の「名付け」行事は、名替えをする対象の子もなく、村の一年神主のホンカン(本音)が、神さんに名を告げるだけに替えたそうだ。

この年は、コロナ渦中につき、十五夜籠りの呼称もある中秋の宮籠もりは、三密を避けた中止の判断を取った。

だが、こればかりは、中止にできないと判断した氏神社の八阪神社の御石洗いは、実施すると聞いている。

4月3日の桃の節句行事の際に聞いていた八阪神社の年中行事

江戸時代は、牛頭天社と呼ばれていた八阪神社の御石洗いである。

コロナ禍でなければ、午後いちばんにされる御石洗いに続いて、午後6時に再び参集する十五夜籠り。

中止でなければ、例年通りのお籠りをしていたことだろう。

さて、御石洗いである。

山添村の村落に、御石洗いをしている村がある。

平成24年の10月14日に取材した山添岩屋・八柱神社の御石洗い(ごいしあらい)である。

住民、氏子たちがそろって作業していた御石洗い。

その日の作業は、本社殿ならびにその周りの水洗いから拭き掃除。

一年に一度は綺麗にする作業に大勢の氏子たちが集まっていた。

かつては、神社下、道から下ったそこに流れる笠間川の綺麗な石を運び、神社周りに詰めた。

一年の汚れが付いた御石は、再び笠間川に戻して、川の水流で汚れを取り、綺麗になった石を、また揚げる。

川と神社を往復し、石を運ぶ道具は、担ぐオーコに石を運ぶモッコ。

二人がかりで運んだ。

平成24年現在は、笠間川との往復運搬をやめて、神社内にある井戸水。

ポンプを使用し、勢いをつけたホースの出力をもって御石洗い。

一か所に集中して御石を洗う。

綺麗になった石は再びモッコに入れて元の場に戻す。

実は、毛原も同じように、笠間川の御石を揚げ、急な坂道を上ったり、下りたりの運搬をしていたそうだ。

桃の節句のとき、ホンカンや、ジカン(次音)にミナライらが話してくれた毛原の御石洗い。

社殿周りに敷いているゴイシ(御石)。

かつては笠間川まで運んで綺麗に洗っていたが、現在はモッコで運ぶこともなく、消防用ホースの力を借り、強力な水圧でゴイシを洗う。

つまり、敷いた御石をそのままの状態に消防ホースの力で洗うのだ。

参集された人たちは、それぞれの役に就く。



午後1時半、集まった人たち、16人は役ごとに、地区分担する。

本社の洗い分担は、神殿や拝殿廻りに屋根も含まれる。

別途に社務所・参籠所の掃除もあるし、鎮座地が分散している琴平神社、稲荷神社のゴイシも洗う。

場所が離れているので、車で移動する。

社務所に参籠所は、建屋が長いだけにすべてを綺麗にするには、時間がかかる。

これらの洗い、清掃担当する地区は、決まっている、という。

本社の洗い、清掃は西地区と南地区の班が行う。

北の地区の班は、谷を越えた北に鎮座する稲荷神社。

東の地区の班は、ずっと、ずっと山道を上った先に鎮座する琴平神社が担当する。

取材は私一人。3カ所すべての作業取材は、到底できない。

主要な、御石洗いは、本社の神殿や拝殿。

こちらにとどまって撮影することにした。



まず、はじめに動かれた若手の消防団員。

神社下の舗装道に据えている貯水槽に、出力口・金具にホースの先端金具を結合する。

そして、ホースを長く伸ばしていく。

消防水は、おそらく山から流れてくる谷川からひいた水。

水溜めにいつでも供給できるよう、常に定期点検等をしているだろう。

神殿は、山にあり。

長いホースを引きずり上げる。

ホ-スは、頑丈にできており、重たい。

平坦なら転がすだけでホースは伸びるが、急こう配の地では、重たさは何倍にもなる。

引き上げ作業は、いきなりの力仕事である。

一方、大多数の人たちは、神殿下の割拝殿に集まった。



なにやら道具をもって作業をはじめた。

手にしているのは、ちりとりと刷毛。

一定の道具でなく、めいめいがもってきたお家で使っていると思われる掃除用具。

腰を下ろしてはじめた刷毛で掃きとり。

御石に付着した一年間の埃や塵を綺麗に払う。

一方、神殿前で構えている消防団員。

割拝殿に籠って、御石掃きの状況を見ていた。

作業の様子を見る、と同時に、もう一人との合流を待っていた。



およそ10分後の割拝殿の御石。

御石をひとつずつ綺麗にしては、次の御石。

担当する領域の御石のすべてを綺麗にしていた。

見ていただければわかるように、割拝殿の床も綺麗にしていたのだ。

埃や塵はちりとりに。

まとめて捨てる決められた場所(※ブルーシート)。

割拝殿のすべてを終えたら、拝殿周りに敷いている御石も綺麗にする。

そして、貯水槽のバルブを動かし開栓。



神殿際に据えたポンプで引き上げ、消防ホースが噴き出す水流。

その勢いで神殿周りの御石を洗っちゃえ。



決して、水遊びでもない、神聖な場での御石洗い。

相方らは、綺麗になった御石を綺麗な場にスコップで移す。

手でいちいち移動するのではなく、ごそっと移す。



まだまだあるぞ、と先輩たちは声をかけたような気がする。

この場を済ませたら、残り半分は向こう側。

まあまだある、ということだ。

一方、割拝殿の屋根の清掃は、ブロワーで吹き飛ばし。

雨でなくてよかったが、気を抜いていつ滑るかわからにから、余程の注意がいる。

瓦に土がないから、苔は生えにくい。



怖いのは濡れ苔に靴を・・・・その、途端にずるっと滑る。

聴くのを忘れたが、あれは命綱のような気がする。

1時間弱の清掃活動。しばらくは休憩をとって身体を休めて、再び活動。まだまだある清掃作業。



割拝殿の中央部。

正中にあたる中央部の御石すべてを綺麗にした、次は割拝殿建屋周りに敷き詰めた御石も刷毛で掃きとる。

ただ、中央部と違って、吹く風の勢いによって落下の葉が多くある。



これらも綺麗に掃きとって作業を終えた。

終わった時間は、午後3時半前。

それぞれ分担し、清掃作業をしていた班も戻ってきた。



作業のすべてが終われば、道具などを方付け、班ごとに解散する。

この日の、十五夜籠りは中止になったが、午後6時からは例祭と同様、氏子たち各位による一般参拝をもって神事を終えるらしい。

(R3. 9.19 SB805SH 撮影)

大塩・お庭に咲き誇るY家の風蘭に見惚れる

2023年10月02日 07時31分54秒 | 山添村へ
かつてほとんどの農家さんは、農作の妨げに虫を追いやるブトクスベを自作し、利用していた。

今では、まず見ることがない農用具のブトクスベ。

念願叶って、ようやく拝見したYさん手造りのブトクスベ。

村の行事取材に度々訪れていた山添村・大塩に住むYさん。

手入れが行き届いているお庭の植栽を、ゆっくり落ち着いて拝見することはなかった。

今、ちょうど咲いている、と紹介してくれた風蘭の白い花。

一本や二本とかのレベルでなく、広がるような花の姿に見惚れていた。

撮らせてもらっていいですか、のお願いに承諾してくださったY家の風蘭。







とにかく、岩付け、樹木付けの風蘭。

その多くが、見事な姿、形。

すべてを撮るわけにはいかないので、ごくごく一部分をカメラに収めた。

(R3. 8. 1 EOS7D撮影)

大塩・七日盆習俗に尋ねた刺しさば食の記憶

2023年09月18日 07時52分15秒 | 山添村へ
お盆の行事に墓参りがある。

10年ほど前に聞いていた山添村大塩の行事。

習俗に「七日盆の墓掃除がある。盆入りに前の7日は、墓掃除、綺麗にして先祖さんを迎える」。

下見に訪れた、この日に出会った村の人。

これまで何度も取材してきた大塩の年中行事に度々お会いしたことがあるKさん。

七日盆の墓掃除の件を尋ねたら、8月初めの日曜日だという。

午前中に墓掃除。

午後は七日盆の井戸替え作業がある。

七日盆から尋ねた、お家の盆行事の刺しさば。

かつては同村、北野の大矢商店で買っていた刺しさば

両親が揃っていたころにしていたお家の行事。

買った刺しさばは2尾。鰓(※エラ)に差し込んだ刺しさばを供えたあとに食べていた。

両親が健在だったころだからずいぶん前のこと。

いつしかサバからトビウオに切り替えた。

購入先は、割合に近い県境を越えた三重県の上野にあった魚屋さんで買っていたそうだ。

これまで聞いた事例に、刺しさばでなくトビウオ地域があった。

同村の桐山、岩屋、遅瀬に大西。

山添村でなく桜井市の箸中もトビウオだった。

他にもあるのでは、と思っていたところに、ここ大塩もそうだった。

刺しさばを売っていた大矢商店の店主も、「昔はトビウオだった」と・・

地域全体が、そうだと言い切れない食文化。

それぞれのお家によって異なる。

Kさんの事例がまさしく、そうである。

そうだ、お盆の前に調べておきたい三重県特有のトビウオ調査に、さあ、出かけてみよう。

平成23年8月13日に訪れた山添村菅生の庭に設える餓鬼棚

籠を伏せるような形式は、珍しく貴重な民俗。

そのときに話してくださったお盆に供え、家族が口にする刺しさば民俗があった。

菅生もまたトビウオ文化。

刺しさばもあったといいうから二通りの習俗。

重なった時代があったのだろう。

桜井から来ていた行商が売っていた魚は加工した塩干魚。

塩干のヒダラも売っていた。

伊勢で仕入れた、というトビウオは名張経由の行商。

2尾のサシサバ、トビウオ、ヒダラ。

いずれにしても両親が揃っている家ではそれらを食べていたという。

食する民俗にお盆の習俗が合わさった民俗。

その魚を運ぶ流通、販売。加工に漁港まで遡る文化があったからこそである。

来月に調べたい刺しさば売り場。

三重県名張に足を運んで調査する予定を入れた。

先に訪問、三重県名張の刺しさば調査に出かけるにあたり、店舗の裏で自家製の刺しさばをつくり、お店で売っている都祁白石の辻村商店の店主にご挨拶をしておこう。

ところで、ここ大塩に訪れた行事調査は、他にもある。

この日の午後4時過ぎに訪れた大塩。

たまたま大塩・観音寺の月詣りに来られていた女性に伺った。

墓掃除などをしていた分家のみねだ、という婦人の話によれば、24日は、極楽寺石塔墓地の「盆入り行灯」。

さて、聞きはじめの「盆入り行灯」とはなんだろうか。

山添村に極楽寺がある大字は切幡。

虫送りの出発に極楽寺に灯しているローソクのオヒカリを松明に火移しする寺である。

また、正月はじめに行われるオコナイ、と呼ぶ初祈祷行事を営まれる極楽寺。

そういえば、お盆の行事は、詳しく聞いていなかったなぁ。

また、31日の「水無月」に仏壇素麺供えも聞いたことがない。

盆の三が日に供えるのは、いつも決まっているが、他家とは違うかも。

そこで尋ねたサシサバも知らないという婦人。

家族の一人が亡くなったら墓石を建てるが、某家なんかは30墓もあるもんだから、それぞれにお花や供物を用意せなあかんし、並べるだけでもたいへん。

虫送り祈祷に北谷住職も来られていたが脳梗塞を患った関係で、息子五人は仏僧に。

代わりに先日の大般若経を務めたのは、針観音寺の息子さん。

そういえば切幡は松明で虫送りするが、大塩は北谷さんに書いてもらった虫送りの祈祷札である。

それは川に流す札や、と思い出した農休みの虫送り

村の周りの四方に竹札を立てるのは大般若経転読法要後の風の祈祷札立て

立てる場所は4カ所。

実にわかりにくい藪の中にも立てていたことを思いだした。

それから伺った、行事取材に何かとお世話になったYさん。

車を停めて登る坂道は急こう配。



ちょっと登っては休憩。

何度も休憩した集落の入口から、行事なくとも幾度か訪れるようになったお家に向かったが、生憎の不在だった。



そのことを隣家のKさんに伝えたら、さっきに家を出たばかり、電話したらどう、といわれてコールしたら三重県・名張に用事があり、お出かけ中。

久しぶりです、と声をかけたが・・・電波事情が悪いのか、切れた。

そこでKさんに伺ったのが、前述した盆入りの墓掃除に井戸替え作業。

Kさんは、村の行事でお会いしていた方。

話によれば、村にミバカが4カ所もある。

この年は8月1日が日曜日。

午前中に八柱神社の朔日坐があるが。

外してもらい、午前は墓地の掃除に。

午後2時から井戸替え作業をする。

すぐ近くに山の神があるミバカに井戸(※給水槽)替え。

来ていいよ、と云ってくれた。

ちなみにかつては大矢商店で買っていた刺し鯖を供え、食べていたが、いつしか三重県の上野に出かけてトビウオ買い。

刺しさばから、トビウオに切り替えたが、今は何もしていないそうだ。

大塩を離れ、帰路にかけたYさんへの電話。

食事も済ませて、やっと電波の届く位置に移動してきたそうだ。

この年は、大塩の村マツリ。

トーヤ勤めに難儀した、という。

Kさんから許可いただいた井戸替え作業。

上(かみ)の組が、今もやっている、と話してくれた。

そして、尋ねたブトクスベ。

ずいぶん前になるが、Yさんが話してくれたぶとくすべ。

平成17年に亡くなられた母親が畑でしていたぶとくすべは、畑の小屋にたしかあった、と聞いていた。

畑作業に難儀する虫に悩ませる時期。

梅雨明けから秋口まで、腰にぶら下げて使っていたぶとくすべは、母親がつくって遺してくれた農の道具。

今でもあるんやろか・・。

その件については、井戸替えのときに聞いてみよう。

(R3. 7.24 SB805SH撮影)

毛原・八阪神社の神武さんの籠りは桃の節句

2023年04月24日 08時13分29秒 | 山添村へ
4月3日は、神武さんの籠りをしていると聞いていた山添村・毛原の八阪神社行事。

4月3日は、桃の節句でもある毛原の行事。

神社に供える御供に草餅。

それに桃の花を添えるから桃の節句とも。

その御供は、以前取材した6月5日に行われる端午の節句

御供はチマキである。

取材した前年までは、カヤの葉に包んでいいたチマキ。

手間のかかるチマキつくり。

行事の負担を避けて、同村・勝原にある上島製菓にお願いし、つくってもらったチマキに替えた。

今日の、御供も端午の節句同様に桃の節句の御供も上島製菓にお願いした、と聞いている。

桃の節句の御供の原材料は蓬。

村の人たちは「ヨゴミ」と呼んでいる草の蓬。

山や野の原になどに出かけて籠いっぱいに摘む。

その量は、籠が2杯にもなる、というから相当な量だ。

摘み取った蓬を蒸す。

蒸した蓬は、3升の餅米とともに炊いてつくる。

桃の節句の御供は木枠に摘めて押す。

時間をかけて乾燥させ、固くなる前に蓬餅を包丁切り。

ひし形に成型して出来上がる。

これらの作業に負担をさけるために菓子屋さんに注文してつくってもらうように切り替えた。

桃の節句に供える蓬のひし餅。

今も、家庭でつくられ、神棚などに供えているお家もあるようだが・・・

早めに自宅を出発した。

毛原の神武さんの籠りは午前11時と聞いていたので、その時間に合わせて出発した。

車の流れがスムーズだった早くに着いた。

停めた駐車場は、毛原・構造改善センター前。

この年もコロナ禍。

世にある年中行事のほとんどが中止。

実施されたとしても氏子役員だけに絞った神事のみの行事が多い全国的な事態である。

そうしたコロナ禍状況に毛原は、神武さんの籠りは、中止を決断された。

右に表示していた「ひな祭り」も中止、とある。

たあ、構造改善センターの窓は開いていた。

ひな祭りの段飾りがあるが、人はいない。

中止とあるが、中止でもないよな、逆にあるような・・・さっぱりわからぬコロナ禍の「ひな祭り」。

その状態だけでも撮っておこうと、思ったところに、やってきた村の人が運転する軽トラ。

伺えば、なんと、いつもお世話になっているFさん。

同乗者は、山添村・春日のMさんの息子さん。

Mさんもまた大字春日の年中行事取材にお世話してもらった方だ。

息子さんは、山添村の教育委員会所属。

Fさんもまた元教育委員会・委員長を務めた人だ。

今日の”籠り”は中止であるが、午後4時から始める行事ごとは実施する、と教えてくださった。

そうか、そういうことだったのだ。

村の人が集中しないよう午後6時からの籠りは中止。

膳は取りやめ持ち帰り対応に決めたそうだ。

これから教育委員会の会合があるから、と軽トラを走らせた。

ふと振り返った毛原の構造改善センター。

あれま、である。

玄関も、窓もみな締めて、どなたもおられない。

後に、聞いた話によれば、かつて木造の集会所だった。

ずいぶん昔であるが、お雛さんの段飾りを設えていた。

ひな祭りに欠かせない女児が集まっていた。

ひなあられなどを年長の子からもらって喜ぶ年少の子たち。

ここ毛原も少子化に集まることなく、構造改善センターの前に用意した御供。

それをもらいにくる。

詳しく聞こうとした家族さんも家に戻ったようだ。

少子の今は細々と続けている、という毛原のひな祭り。

あらためて再訪したいが、次はないような口ぶりだった。

行事は、午後4時からはじまるとわかって、一旦は毛原を離れて隣村の下笠間に向かう。

笠間川にかかりそうな桜樹が見えた下笠間の取材先も、また午後とわかって近場の針テラス辺りでお昼を摂って、再びやってきた毛原。

早めに着いて、代表のN区長に取材許可もらい。

神事ごとに祝詞を奏上される村神主。

この年は、ホンカン(本音)を務めるSさんにも取材許可をいただいた。

特に、ホンカン(本音)を務めるSさんは、つい先ほどまで出先だった。

出先とは、本日行事の八阪神社の神武さんの籠り・桃の節句。

これより八阪神社での神事がはじめる。

ただ、その前にホンカン(本音)とジカン(次音)は、境外末社の2社に御供上げに参拝しなくてはならない。

その仕組みは、平成28年6月5日に行われた端午の節句行事であった。

先に参拝する2社は、山の中に鎮座する琴平神社に、ここ八阪神社から、谷筋ひとつ越えた毛原廃寺内に鎮座する稲荷神社だ。



その2社を廻って、今やっと到着したホンカン(本音)とジカン(次音)。

早速、本社と遥拝所の神武さんそれぞれに供える。

午後3時半ころに、向かった2社参拝。

本社神事より先に行われる2社参拝。

ミナライのジカン(次音)が御供あげ、禊詞を唱えていた。

そして、御供を下げた2社参拝。

こうして本社に戻ってきたのだ。

ホンカン(本音)とミナライのジカン(次音)は、御供上げ。



それとほぼ同時に、参拝される毛原の氏子たち。

本社は、階段下から参拝。



場を移して神武さんも参拝する。

その間に撮らせてもらった遥拝所の神武さんの御供上げ。

お神酒に水と塩。

洗い米が大皿のカワラケに盛る。

丸ごと林檎に、同じく丸ごと大きいままのキャベツ。

そして今日の神饌御供に大切な桃の節句の蓬餅。

二段重ね蓬餅は、前述したようにかつてはひし形に成型していた蓬餅だった。

桃の節句だけに、枝付きの桃の花。



開いた桃の花が美しい。

この桃の節句の御供を見たくてやってきた毛原の伝統行事。

神事がはじまる直前に整えた生鯛。

生鯛だけに、最後にのせるという。

そして午後4時より始まった神武さんの神事。

この年が担当の村神主。

ホンカン(本音)を担うSさん一人が社殿に登り、祓詞ならびに祝詞を奏上される。



その間の氏子たちは、社殿下の境内後方に横並びの一般参拝。

立ち姿で参列していた。

平成28年10月22日に行われた毛原の宵宮取材。

そのときと同じ、境内に並んだ立ち姿の参拝のあり方である。

神事を終えたら御供下げ。

氏子らもそろって御供下げ。

段取りが調えば直会(なおらい)。

いつもと同じ、社務所で接待するお神酒注ぎ。

黄色いコウコを肴にお神酒を口にする。



しばらくは、その場で寛ぐ談笑に繋がる輪。

短時間に終えた神武さんの行事。

一旦は解散し、再び参集する午後6時よりはじまる座の儀式。

社務所内に用意された席に就く神武さんの籠り。

今年も生憎、コロナ禍によって三密を避けて中止の決断。

再開の見込みは誰も答えの出ないコロナ禍対策。

今日は、そのような状況であるが、9月に行われる「御石洗い(ごいしあらい)」の年中行事。

実施の予定など、ホンカンにミナライのジカンらが話してくれた。

社殿周りに敷いている御石を綺麗に洗う作業がある。

神社に敷いた御石は、水で洗う。

かつては、笠間川まで運んだ御石を清流の川水に戻しって綺麗に洗ってした。

御石を運ぶ道具はモッコ。

石だけに相当な重さになる。

二人がかりで支えたモッコ運びは重労働。

川から神社。神社から川へ往復運び。

が、負担削減に、現在はモッコで運ぶことなく消防用ホースの力を借りる強力な水圧で御石を洗う。

本社の他、洗う場を整備したという琴平神社に、稲荷神社の御石も洗う「御石洗い」。

午後4時からは、例祭と同じように、氏子たちの一般参拝で神事を終える、と放してくれた。

そのときもまた、取材に寄せてもらうことにした。

(R3. 4. 3  EOS7D/SB805SH撮影)

勝原の送り松明

2021年03月12日 09時55分25秒 | 山添村へ
前日訪問に続いて、今日も伺った山添村勝原のS家。

訪問目的は、S家のお盆の民俗

前日の13日は先祖さん迎え。

本日の14日は、先祖さん送り。

一般的には、13日の夕刻に迎え、送り日の15日も夕刻(※先祖さんはできるかぎり長く居てもらいたいから夜間という地域もあるが・・)であるが、ここ勝原の地は一日早い14日に送る習わしのようだ。

特に伺ったのは、14日にサシサバを供え、晩に食べると聞いていたからだ。

勝原は、迎えと同様に3本の藁松明を焚いて送る。

明るいうちに送る、という時間帯は午後6時を過ぎてから。

決まった時刻ではなく、それぞれの家事情で行われる。

西日が当たるころの松明が美しい。

カド庭に立てた3本の藁松明。



松明が倒れないようにブロック台に挿していた。

松明の竹は、青竹でなく、シノダケ(※充てる漢字は篠竹)を利用する。

お墓の花立もシノダケを使うが、花立に藁は無用だ。

今では稲藁になったが、二毛作時代の藁といえば、麦藁だった。そのころではないが、茅葺家だったころは、萱だけでなく、麦藁をも利用していたと、74歳の父親が話してくれた。

送りの前に拝見しておきたい14日のお供え。

先に拝見したいサシサバ。

大きなドロイモ(※一般的には里芋と呼ぶが、若い人以外はドロイモと呼ぶことが多い)の葉にのせた一尾のサシサバ。

旧都祁村内の一角にある奈良市都祁白石町。

西名阪高速道の針ICを下りてすぐ近くにあるショッピングセンター“たけよし”で買ったというサシサバ。



お供え用に1枚。

家族が食べる分にもう1枚を買っておく。

食べるサシサバは、今晩若しくは明朝に食べるそうだ。

売値は480円。

今日は“たけよし”で買ったが、普段の年なら勝原にやってくる行商売りから入手する。

その行商は、なんと大和郡山から来ている行商。

一週間に一度は、トラックに載せて売りにくるらしい。

時間帯はやや変動することもあるが、正午の時間帯の1時間ほど。

終われば隣村などに移動するようだ。

以前、天理市の藤井町でも見かけたことがあるトラック売りの行商。

山間地にときおり見かける行商であるが、ここ勝原では魚屋さんと呼んでいるようだ。

また、大和郡山市内の街中でも見かけたことがある車移動の行商。

山間地だけに限っているわけでもないようだ。

また、スーパーマーケットと契約している移動販売の「とくし丸」も、行商の一つの形態。

県内広く売りに廻っている豆腐専門店も、また行商の一種。

山添村切幡の住民から聞いた苗籠とか、箕、竹編み細工に鍋、鎌など売りのかなもん、荒もんの行商もある。

行商が売りに来る商品は、食料品や生活用品が主になる。

日々の暮らしに必ず要る大切なもの。

江戸時代から今も形態を替えて商売してきた行商もまた民俗。

出会ったとき、できる限り記録させていただければ、と思っているが、滅多に合うこともない。

週に一度は来る、と聞いていても空振りする場合もあるし、出会ったとしても、その都度に行商の店主ならびに買い物客の承諾をいただかないと・・。

※ちなみに関西では、かなもん屋をかなもの屋。

充てる漢字は金物屋。

鍋・包丁・釜・鎖など、金属製の器具を売っているお店があらもん屋。

一般的呼称があらもの屋。充てる漢字は荒物屋。

ざる・ほうき・ちりとりなどの家庭用品を売っているお店をこまもん屋。

別名にこまもの屋。充てる漢字は小間物屋。

荒物より小さいつくりの細々した家庭用品や日用品を売っているお店がせともん屋。

綺麗な呼び名がせともの屋。

充てる漢字は、もちろん瀬戸物屋であるが、せともん屋の主力は、お茶碗やお皿などの食器に花器などの瀬戸焼。

つまり、陶磁器などで作られた製品を売っているお店になる。

話題を戻そう。



ドロイモの葉にのせたお供え用のサシサバ。

左側に並べているのは先祖さんに食べてもらう柿の葉のせのソーメン。

茄子のおひたしを盛って、オガラのお箸を添える。



別途にこしらえた柿の葉のせのソーメン。

前日と同じく、屋外裏カドに供えるガキンドウに供える。



お供えは直接、地面に置くのではなく発泡スチロール製のトロ箱(※トロール船で漁獲した魚を詰める箱をトロ箱と呼んだのが語源)に入れて供える。優しいガキンド(※餓鬼)こと、無縁さんにも優しく心遣いされる。

そろそろ時間に近づいてきた。

お外に出たら隣近所の人たちが、送り火を焚いていた。

ついさっきに送ったばかりだというお向かいさん。



当家もまたシノダケ。

通称、ススンボ竹の名もあるシノダケは腰の強い竹だ。

終わったばかりの状態に送り火にまだ煙が出ている。

その状況を撮らせてもらってから、火消しに用意していたジョウロで水をかける。

その様子から、うちは今からする、という下のお家。

藁松明を立てる台はなく、山の崖地に直接立てる。



力を入れて、ぐぐっと押しこんだシノダケ。

3本、横一列に並んだ竹に半折りの藁束をシノダケに挿す。

これもまたぐぐっと押し込んで藁束を固定した。

土中が固いところは、身体全体を使って押し込む。

おもむろに火を点けた藁松明。

3本揃ったところで火の勢いが強くなった。



もうもうと煙る松明。

ある地域では、先祖さんは煙にのってやってくるし、送りは煙になって空に・・と、話していた。



また、松明でなく、線香を用いて迎える地域でも、煙にのってやってきて、また、お帰りになる、と・・。

その様子を見ていたS家も送りにお家から出てきた2人。

父親と次男さんもまた、藁の先っぽに火を点ける。

3本とも藁に火が点いた。

天を仰ぐような松明の状態が美しい。

燃える藁から煙も吹きだす。



空へ、空へと向かって、高く昇っていく先祖さん送りの松明火。

その状況を、熱い眼差しで見送る父と息子。

そこに用事を済ませた母親も一緒になって見送られた。



見送った直後、下のお家からご高齢の男性もまた先祖さん送りの準備をはじめた。

みなさん方は一斉にするわけでなく、時間差をつけて先祖さんを送っていた。

以前、取材した桜井市の北白木

在所に住むTさんが云った。

ここらは、藁松明に火を点けるが、お迎えも送りも鉦を打つ。

迎えであれば松明火の状態をみて、お家にあがって仏壇の線香を点ける。

逆に送る場合も鉦を打つが、松明火はカド庭に着いてからになる。

打つ鉦の音は、キーン、キーン・・・。

それと同時に迎えのときは「かえらっしゃい かえらっしゃい」。

送りのときは「いなっしゃれ いなっしゃれ」と云いながら送る。

そのときの鉦の音が聞こえてきたら隣近所もされる。

近くに鳴っていた鉦が、徐々に遠ざかっていく。

隣近所から、離れた隣近所へ。

鉦の音によってご近所に伝える迎え火に送り火。

鉦打ちは見られないが、ここ勝原も同じようにされているかのように思えた。



支度をはじめた高齢者は昭和8年生まれのKさん。

前回にお会いしたときは、真っ白な雪に埋もれていた日だった。

平成29年は2月11日、子どもの涅槃取材に向かう道すがらにお会いしたKさん。

丁度、そのときのKさんは、滑らないように雪掻き作業をしているときだった。

雪国でもない奈良県内で初めてみた雪掻き作業

その姿が逞しく、見惚れていたが、はっと気がつき、シャッターを押していた。

雪掻き道具はKさんの手造り。

それもまたえー感じだったことも思い出す。

雪国景観に出会ったその日から1年半後のこの日は真夏日のお盆

寒さから真逆の真夏日に、今日もまた、松明焚き姿も撮らせてもらった。

Kさんもまた着火型のライターで火点け。

直接、藁に点けるのではなく、丸めた新聞紙に一旦は火点け。



そして、藁に火点け。

乾いた藁松明は一気に燃えあがる。

一本の火点けから、もう一本。

3本目の藁松明も確実に火を点けた。



二毛作時代は麦藁だった。

油がある麦藁、燃える勢いも違ったそうだ。

明日は15日。

先祖さんは、西国浄土に帰るから・・・箱根八里は遠いから、とKさんはそう言いつつ、松明を燃やした。

つまり、13日は迎え。

14日に送って、15日は西国浄土にいる、ということだ。



その15日は、村行事の施餓鬼がある。

営みの場は勝原の薬師寺。

隣村の山添村毛原・長久寺住職にきてもらう。

真言宗東寺派の豊原山長久寺住職は京都住まい。

毛原、三カ谷に、ここ勝原檀家の営みがある場合に来られる。

先祖さんを送ったS家。

送る時間までに並べていたお供えも見せていただいた。



先祖さんには、白餅も供える。

ソーメン同様に柿の葉のせ。

山間地だけでなく、平たん部の民家でも見られる皿代わりの柿の葉を用いて供える。



それにしても何故に柿の葉にのせるのだろうか。

小正月に供える小豆粥は枇杷の葉。

チマキや団子は笹の葉。

すべて抗菌作用がある葉であるが、用途がそれぞれであるのは、何だろうか。

考えられるのはすべて常緑であるが、季節感は異なる。

その時季に間に合う自然の産物。

文明的な容器がまだなかった時代から、そうしてきたように思えるが・・。

次のお供えは昨日からの続きであろう。

大きな西瓜にマッカ瓜、カボチャ、胡瓜、茄子、ゴーヤなど同じだった。

あらためてお聞きしたS家のお供え。

13日の朝はない。

お昼はシンコで夜はおはぎ。

14日の朝は塩漬けのダイコ葉におかい(御粥)さん。

昼は野菜の煮ものにソーメン。

晩が餅。

そして先祖さんが帰らはるときには、中に餡を詰めたアンモチをもって帰らす。

今ではアンパンになったが、以前はアンモチだった。

いつ、持って帰ってもらうのか。



家族が寝る前におまして(※供えて)もって帰ってもらう、と話してくれた。

2日間に亘ってS家のお盆を取材させていただいた。

この場を借りて厚く御礼申し上げ、お外に出た時間帯は午後7時過ぎ。

赤く染まった夕景。



下弦の月は西の空にあるが、松明火に送られた先祖さんは、今ごろどこに行っているのだろうか。

(H30. 8.14 EOS7D撮影)

勝原・S家の先祖迎えの法要日

2021年02月08日 08時35分22秒 | 山添村へ
知人のSさんの了解を得てご自宅に伺う。

毎年の8月13日は、ご先祖さんを迎える盆の日。

S家の在所地は、山添村の勝原。

村の伝統行事に子供の涅槃がある。

平成21年は2月21日

該当する対象年齢の子供がいなければ、その年は行われない。

8年ぶりに伺った平成29年は2月11日だった。

ご縁を得て、村行事を取材させていただいた。

取材の一環にあがらせてもらったご自宅に、吊るしていた初めて見る形式に不思議を感じた。

後日、あらためて取材させていただいたまじない願文が「鳥枢沙摩明王 オンクロ ダナウウン ジャク ランラン」。

まず拝見することのない、貴重なお家のあり方だった。

そのときに話してくださった、S家のお盆。

先祖さんに供える朝、昼、晩の食事。

付随するサシサバも供える、と連絡をいただき伺った。

勝原は、13日が先祖迎えで、14日に早くも戻られる。

奈良県内では、一般的に13日が迎えで、15日が戻りであるが、勝原は、14日に早くも戻られる。

その理由は、後世に伝わらず、比較してはじめてわかった期間日程の件は、さておき、お迎えした先祖さんが戻って食べる朝、昼、晩の食事を教えていただく。



Sさんの母親が、話してくださる。

今年の迎え日、前日の12日。

法要に来ていただくお寺さんは朝。

お参りされて他家にも参られる。

本来は13日であったが、都合があった関係でお供えも前日になった。

仏壇の前に並べた先祖代々の位牌。

左横に配置したお供えの数々。

カボチャに黄マッカ、トマト、茄子、ニンジン、キュウリ、かぶら、万願寺トウガラシにゴーヤなどの野菜と乾麺タイプのソーメンは、サトイモの葉に載せている。

県内事例の数々を見てきた皿代わりの葉は、地域に或いはお家によって異なる。

ここS家は、サトイモの葉であるが、一般的にはハスの葉。

集落付近に蓮があれば、その葉をもらって、供えていると話す取材先もあれば、近くに蓮がないものだから、代わりにサトイモの葉をしているという取材先もある。

平坦であっても、山間地であってもサトイモの葉を敷くお家は多いように思える。

大きな西瓜は丸ごとのまま。いずれもS家の自家栽培の野菜、果物。



朱塗りの角盆に載せて奉っている。

その手前の角盆は母親手造りのおはぎ。

一枚の柿の葉におはぎが1個。

先祖さんに食べてもらうための箸はオガラ。

折って短くしたオガラは一膳ずつ。

六つあるから先祖さんも6人と思いきや、位牌が6柱です、と云われた。



なんでも、S家の先祖代々は江戸時代から続く家系。

たくさんある位牌を、一度、きちんと拝見してみたいと思っていましたから、と云われて御開帳。

母親と、ともに拝見した過去帳位牌の数々。

数えてみれば16柱。

尤も1柱は「惣法界菩提」だから、さらに古い、歴代の先祖さんを纏められた歴代碑であろう。



知人の母親とともに並べた歴代年順。

右から順に延宝五年(1677)、宝永元年(1704)、宝永二年(1705)、宝永四年(1707)、天明元年(1781)、天明四年(1784)、天保九年(1838)、天保十二年(1840)、文政八年(1825)、文政八年(1825)、萬延元年(1860)、嘉永六年(1853)、嘉永七年(1854)、明治十二年(1879)。黒ずんだ位牌の一部は判読不能だったが、少なくとも350年以上も前の位牌。

それ以前は不明なだけに惜しまれるが、建ててから300年にもなる、というお家は大和にどれくらいあるのだろうか。

取材地で聞くリフォーム。

すっかり様変わりした新しいお家に残したのは位牌だけのような話もある。

さて、モチ米で作ったおにぎりに餡子を塗したおはぎである。

昨今の隣近所は、おはぎから転じたアンパンと家もあるようだ。

また、おはぎでなく白い餅の家もある。

家それぞれのあり方である。

実は、本来晩に供えるおはぎであるが、取材のために用意してくださったのと、お昼にシンコをおましたから合わせて用意してくださったようだ。



おはぎは、同じように柿の葉にのせて、屋外裏カドのガキンドウに供えるが、食べ物だけにパックに入れてお供え。

オガラの箸も添えてやる供える時間帯は夜になる。

なお、おはぎは、13日、14日の両日とも供えるが、カギサンのおはぎは13日だけ。

14日は、ソーメンにお漬物にする。



仏壇から出した位牌の前にはおっぱんと呼ぶ御飯を三杯並べる。

その前もまた三杯のお茶であるが、お水は一杯。

これもまた、同じように両日ともおます。

お茶は、三度の食事ごとに、新しいお茶に入れ替え、古いほうのお茶は縁の下に捨てる。

14日の朝は、五つの野菜を入れたオカイさん(お粥)。

昼はソーメンにする。

朝に出かける墓参り。

14日の夕刻。

3本の竹に取り付けた藁松明に火を点けて、先祖さんを送る。

翌日の15日。盆棚に供したものは川に流していたが、それは昔のこと。

今は、セキトウバカ(石塔墓)に収めている、と話す。

(H30. 8.13 EOS7D撮影)

箕輪の民俗調査

2020年05月13日 09時44分45秒 | 山添村へ
昨年の5月5日に訪れた山添村の箕輪。

植え初めを実施している地域調査。

結果的に云えばまったく見つからなかった日である。

いろんなところを回遊してきたが、とうとう見つからなかった。

ぐるっと巡ったところにサシナエをされていた婦人。

その婦人はKさんの奥さん。

前年までは植え初めになんとフキダワラをしていたと話してくれた。

出会いに一つの事例に遭遇であるが、その年でやめたという「幻のフキダワラ」である。

実物はもう見ることはできないが、当時していたあり方は、記憶の一部であるが、文字で記録させてもらった。

箕輪に着いた時間は午前10時。

特に時間を決めたわけでもなくK家に向かう表敬訪問であるが、先に出合ったご夫婦に少しばかりのお話を伺う。

除草剤を撒きたいが強風で煽られて今日も難しい、という85歳の男性。

植え初めにしていたフキダワラは昭和20年代にやめた、というからずいぶん前の戦後のことである。

牛耕は、昭和30年代までしていた。

そのころに導入された農村の機械化。

戦後も早や10年も経った時代に発展する近代的文化。

牛に代わった耕運機である。

実は、箕輪に寺はない、という。

えーっ、そうなんだ。

村、それぞれにお寺は必ずあるものだと思っていたが、思い込みの認識が覆された日である。

調べてみれば、箕輪以外にもお寺の存在がない村もあるが、このブログもそうだが、調べきれていないだけだろう。

寺院欄が空白の松尾、的野、峰寺、遅瀬、中ノ庄、吉田、箕輪であるが、遅瀬に地蔵寺がある。

涅槃会を取材した地蔵寺は間違いなく存在している。

遅瀬にはもう一つある。

現在は集会所になっている中南寺で取材した観音講の営みである。

吉田も集会所内に自作寺が存在する。

それはともかく、寺院はなくとも信仰のお家に来てもらって拝んでもらわなあかん。

ここは旧都祁村の針にある観音寺から北谷さんに来てもらっていた、と。

現在は身体を壊した北谷さんに替わって息子さんに来てもらっているそうだ。

北谷さんといえば、務めていたお寺は大字伏拝(ふしょはい)にある真言宗豊山派の神野寺(こうのじ)。

先代住職の北谷さんの後任に弟さんの北谷住職が継いだ、と話してくれた。

息子さんも北谷住職も村行事取材になにかとお世話になったことがある。

85歳の男性が続けて話すお寺関係。

旧都祁村の針・小倉・下深川も檀家。

総数は400軒にもなるという。

なお、下深川の隣村である上深川は檀家でないが、頼まれ、で法要しているとも。

檀家話題を聞いてすぐ近くのK家に立ち寄った。

訪ねていけば、ご夫妻とも屋外に座って日向ぼっこ。

こんな日もあるらしく、ほのぼのとした時間に迎えてくれたが、フキダワラはもうすることはないという。

植え初めのカヤサシはもうすることはないが、田植えは当然なこと。

明日にしますが、のお言葉に甘えることにした。

箕輪から離れて車を走らせる。

道なりに行く坂道カーブに見た花畑。



目に焼き付けておきたいくらいの花は菖蒲。

さて、ここはどこだろう、とカーナビゲーションを見たら隣村の大字助命(ぜみょう)。

奇麗に咲く花から、その坂道は、菖蒲街道と呼んでみようか。

ところで、後年にお会いしたKさんに尋ねた箕輪の山の神。

めいめいが参る箕輪の山の神は最近になってみなやめた、と。

平成5年11月に発刊された『やまぞえ双書』によれば、箕輪の山の神は以下のような状況だった。

「一月七日、丑の刻から、だれと出会っても口を開かず、無言で参拝する。その男の数だけそろえた“カギ”を担いでいく。その家の男の数の餅、柿、蜜柑などをお供えする。ご神木の木に“カギ”をひっかけ、引きつけながら無病息災、山仕事の安全を祈願する。“西の国の糸綿(いとわた)、東の国の銭かね、赤牛の鞍に積んで、どっさりこ”のかけ声をかけて引く、という。前の参拝者が供えた御供さんをいただいて帰るのが通例であったが、最近は供えてすぐに持って帰るようになった。この日は、終日とも山仕事のたぐいの仕事をしてはならないことになっている(※若干補正)」と書いてあった。

ちなみに隣村の大字助命(ぜみょう)にも山の神の記述がある。

「一月七日は、山の神で男子の行事である。七日の未明の時間帯。重箱に詰めた男子の人数分の餅に串柿、蜜柑、勝栗(かちぐり)、昆布、ところ芋などをもって参拝する。健康、すなわち無病息災を祈願する。お参りは無言。道中は、人と出会っても挨拶は交わさない。お供えの御供はいただくが、男子のみとし、女子はいただかず、朝食は家族揃って七草粥のお粥を食べる(※若干補正)」とあった。

(H30. 5. 5 EOS7D撮影)

大西・稲荷神社の初午

2020年02月06日 09時57分35秒 | 山添村へ
今年こそは失念せずに訪れたいと思っていた山添村大西・稲荷神社の初午行事。

この年の1月7日に立ち寄らせてもらったジンスケ屋敷跡の山の神

早朝、いやその時間帯よりももっと早く来る人もいるという山の神行事であるが、事情があって訪れたのは遅い時間帯の午前中。

山の神に捧げ供える七つ道具などを拝見していたときである。どなたもおられない時間帯に足音が聞こえた。

やってきたOさん親子。

次いで来られたOさんもまた、遅めの時間帯の山の神参り。

そのときに話してくれた初午行事。

来るか、来るかと待っていたそうだ。

初午はその年初めの「午」の日であるが、稲荷社行事の場合は、2月初めの「午」の日にされる初午と3月初午の二ノ初午にされる地域がある。

大西は二ノ初午であるが、近年は3月の第一日曜日に移行された。

大西の稲荷神社行事を拝見するのは、平成28年12月4日に行われた新嘗祭以来の2回目である。

新嘗祭と同様に参籠所に幕張り。



白地に狐の姿を大きく描いた狐の幕。

よく見れば赤味がかかっている幕は大正四年二月に寄進された。

狐の目の前にあるのは三方に盛った三つの牛玉の寶印。

炎のような線描き。

おそらく手書きしたものであろう。

大西の稲荷神社の狛犬は獅子狛犬でなく、稲荷大明神の使いである眷属の狐である。

大正十四年一月に野村佐次郎十二歳が寄進建之した狛狐の台座にも三つの牛玉の寶印がみられる。

もう一つの印は、2本の幟旗である。

いずれも一反の長さ。

およそ7mの幟旗に圧倒される。

「奉納 稲荷大明神 村内甚七」とある。

もう1本は、風合いが魅力的な薄紺色地に白抜き文字の「稲荷大明神」。



その下にある柄模様に見惚れる。

上から正面に向き合う2匹の狐の姿。

その下に、三方に乗せた神酒口。

扇のように広げた形にコヨリのようなものまである。

また、花瓶のような神酒口には、見たこともない彩色柄がある。

その下にあるのもまた彩色した五つの牛玉の寶印。

こんなに素晴らしい図案の幟旗は今まで見たことがないだけに嬉しさ一頻りだった。

集まった村の人は35人。

一昨年、先代のT神職から引き継がれた柳生・阪原在住のO宮司が祭主を務める。

境内に並んだ役員たちに氏子ら。



祓詞に祓の儀、宮司一拝、開扉、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠と続く。

玉串奉奠の順は区長。

氏子たちは区長の動きに合わせて拝礼する。

次は大トウ(大当家)に小トウ(小当家)。

両当家に合わせて関係者も揃って拝礼する。

撤饌、閉扉、宮司一拝で終えた初午神事。

参籠所に場を移して直会を始める。

稲荷社左側にはずらりと末社が並ぶ。



左側から金毘羅大神、橿原神社遥拝、金峰神社遥拝、大国主大神、大宮姫大神、廣田神社。

右側に保食神社がある。



その前の灯籠に「干時 天保八丁酉年(1837)二月初午」とある。

直会はじめに説明される大西の稲荷神社のこと。

同神社は、元々隣村の菅生(すごう)領であった。

昔は菅生と大西の人たちが祭っていた神社。

いつしか菅生が離れて、大西だけが行事を継承してきた。

昭和27年6月に宗教法人化。

設立時の神社規則によれば在地は波多野村の大字大西である。

ところが規則が変更された昭和31年4月には、大字菅生に移った。

移ったといっても同じ番地だから事実上は移動していない。

なんらかの事情で大字名が菅生になったようだが、正しい在所の大西番地に規則を変更した。

63年を経て正しい地番表記に法務局へ出向き登記変更した、と伝えられた。

上座に並ぶのは宮司に区長に、上の老人と云われる座の一老、二老、三老。

四老は右列の上座側に座る。



大西の歴史変遷がすっきりしたところで始まった乾杯。

初午に供えたお神酒を一杯。

早速、動きだした両当家。



お酒注ぎに動きまわるし、酒の肴のジャコと竹輪もまわす。

ジャコと竹輪は新嘗祭と同じ。



いつも決まった肴であるが、かつてはこれに煮しめもあったそうだ。

直会が始まっておよそ50分後。



当家が動きだした。

実は、神事が終わっても神饌御供は拝殿に置いたままだった。

不在であればエサを求めて飛んでくるカラスの餌食になっては、と当番の人がずっと見張り、現れたら追い返すそうだ。



神饌ものは、お神酒・塩・水の他、洗米、丸太の生鯖、海苔、キャベツにバナナ。

そしてゴクマキに登場する大量の御供餅。

オーコで担いで運んできたと思われる桶の餅が4杯。

お重に盛った餅もまた大量である。

下げた生鯖は早速、調理にかかる。



この年、当家を務めるFさんは、入院中の身であるため与力が代理参列。

また、当家婦人は鯖を切り身に包丁を入れていた。

切り身にした鯖は、炊事場のコンロで焼いて作るが、そのときの道具はアルミホイルを敷いたロースターやフライパンである。

切り身自体の焼き時間はそれほどでもないが、大勢に食べてもらうにはちと時間がかかる。

表を焼いて裏面も焼いてできあがった鯖は熱いうちに配られる。



並行して供えたバナナも配るが、これもまた食べやすいように三つ切り。



盛った皿が廻ってきたらめいめいがとっていただく。



その後もしばらくは団らんの渦。

お酒も入って賑やかに直会時間を過ごした人たちは、場を移した境内でゴクマキに興じる。



当家や役員たちが放り投げる御供餅に歓声が飛び交う。

僅か数分ですべての御供餅を撒き終えた。

初午行事にしか立てない幟旗も撤収。



一年後もまた美しく色彩豊かな牛玉の寶印に狐さんを見せてくれるだろう。

ところで、直会を終えた直後に、上座におられた上の老人に声をかけられた。

実は、上の老人はF当家の与力でもあった。

奉行与力でなく、いわゆる村落における与力制度をここでは詳しく述べないが、与力は本・分家を支援するようだ。

F家の助け人でもある上の老人のお願いは、本日撮らせてもらった写真である。

入院中の身だけに参列できなかったF家に、本日の初午行事はこうして、無事に終えたから安心してほしく、写真で伝えたい、ということである。

後日に整備した初午写真と、前年の1月6日に撮らせてもらったチョウジャドンの膳写真とともに持参した。

不在だったのでポストに投函しておいたら翌日にお礼の電話をもらった。

初午行事の写真はすぐさまお願いされた上の老人の手から入院中のFさんに届けたそうだ。

記録の映像がお役にたった。

写真家冥利に尽きるお礼の電話が嬉しい。

(H30. 3. 4 EOS40D撮影)

毛原・長久寺の子供涅槃

2019年08月23日 10時53分05秒 | 山添村へ
山添村毛原の長久寺で子供涅槃をされていると知ったのは何時だったのか。

ずいぶん前のことだけにすっかり忘れている。

尤も毛原の涅槃は平成5年11月に山添村教育委員会および同年中行事編集委員会が発刊した『山添双書』に書いてあった。涅槃会及び子供の涅槃講である。

「数え年、17歳までの男子が主体となって、講を営むことになっており、それを子供涅槃講と呼んでいる。釈迦の亡くなった2月15日に行うのが建て前であるが、当日は学校が休みでない場合は、休日に繰り上げて営むことにしている」とあった。

「当日の朝9時ごろ、講員の子どもたちが集まって、2班に分かれる。大スズメとなる大きい子は、米を入れる袋を肩に掛けて他の子スズメたちは大声で“ネハンノスズメ 米ナラ一升 銭ナラ百ヤ”、と連呼しながら各家々を巡り、米またはお金の喜捨(きしゃ)を受ける。“ネハンの雀(すずめ)”、と唱えているようだが、おそらくは“ネハンの勧め”、の意味であって、“勧め”が転訛(てんか)、“雀”、になったと考えられる」とあった。

長久寺では毎月のお勤めに村の東寺大師講の人たちが参られる。

東寺大師講のお勤めは21日であるが、都合によってはその日より前にする場合もあると聞いていた。

2月に行われる子ども涅槃のときもそうである。

初めて毛原を訪れた日は平成22年2月21日だった。

子供の涅槃など毛原の年中行事を教えてくださったのはFさんだった。

その年の4月1日。

毎月の月初めに八阪神社で行われる再拝(さへい)を拝見した。

翌年の平成23年は1月10日に訪れて長久寺のオコナイを拝見したかったが、すでに終わっていたと、当時区長だったOさんがいっていた。

子供の涅槃のことも聞いたと思うが、たぶんに日程が合わなかったように思う。

次の平成24年の1月7日

写真家3人を連れだって毛原の山の神の様相を撮りにきたことがあるが、他所の山の神を拝見したく、このときもまた子供の涅槃は聞かずじまいだった。

2年後の平成26年、意を決して車を走らせた2月16日

日曜日だったその日にしているのでは、と思って雪道をトコトコ走ってきたが、一週間前に済ました、と京都東寺から息子さんの住職とともに来ていた母親のHさんが話してくれた。

翌年の平成27年は2月15日が日曜日。

本来の日であるから、間違いなくその日にしていると判断して訪れたが、前日土曜日の14日に済ませたという。

まことにショックなことであったが、お寺さんの都合もあるので例年とも固定の曜日でもなかったわけだ。

翌年の平成28年の2月は身動きがとれない状況下にあった

平成27年7月に発症した心臓弁破損による手術。

同年の12月にはカテーテル処置にために再び入院。

退院したものの車を運転できる状態ではなかったから取材どころではない。

ほぼ復帰できたのは平成28年の3月半ばだった。

主治医の許可を得て再び民俗取材に立ち上がった。

毛原に再訪したのは、その後の5月21日

Kさんや村教育委員長になられたFさんの奥さんに聞いた年中行事をきっかけに、八阪神社の端午の節句、そして云十年ぶりに復活された田の虫送り、八阪神社のヨイミヤまでも取材させてもらった。

子供の涅槃は不定期日程。

村の長久寺・東寺大師講がお寺さんと日程調整されて決めているようだと思ってN区長に電話した平成29年2月11日。

時すでに遅しで、その年もまた終わっていたと知る結果に、平成30年は早めに電話を架けて確認することにした。

電話したのは2月7日。

実施日は2月11日であるが、檀家総代など関係者の確認を要するということで、今夜の集まりに確認しておくということであった。

子供の涅槃の件を聞いてから8年目のこの年になってようやく拝見することになった。

お聞きしていた時間帯は午前10時。

扉を閉めていた長久寺本堂。

堂内から洩れ聞こえるご詠歌。

毎月の例会に唱える西国三十三番のご詠歌である。

そろりと扉を開けさせてもらって入堂する。



実は東寺大師講の講員のうちお一人は存じている。

再拝に端午の節句。田の虫送りの祭にもお世話になった女性はN区長の母親だった。

よろしくお願いしますと頭を下げて取材に入る。

例月のご詠歌はいつも7番まで、だという。

左手におりんを持って鳴らし、右手は小型の鉦を打つ撞木(しゅもく)。

ご詠歌を唱えながらおりんに撞木。

穏やかに、そしてゆったりと流れる東寺大師講の所作にうっとりする。

観世音菩薩のご詠歌を願わくば・・とから始まる長調子のご詠歌。

導師に合わせて14人の講員が唱えるが、おりんに撞木を持っているのは前列の7人だけである。

後方に座った講員は詞章に合わせて唱えている。

導師はYさん。

伸び伸びと、そして優しく唱える調子がまた心地良い。

7番を唱え終えて、打ち止めの33番を唱える。

そして、「巡り来る人も願ひのかずあれば 慈悲もつもるや長久の寺」とある毛原長久寺本尊地蔵菩薩詠歌で締めくくり。

なーむだいし、かんぜんのんぼーさつ・・そくしんじょうぶつ・・なむだいしへんじょうこんごう・・ねがわくば・・と唱え、おりんを置いた。

およそ15分のご詠歌に引き続き唱える涅槃和讃もまた長調子で唱える講員たちであるが、掲げた大きな涅槃図に向かってである。



座布団ごと向きを少し移動して唱える涅槃和讃。

「くしなの森に夕日落ち 尼蓮の河水瀬をとどむ 天地静かに声なく 沙羅樹の花ぞ乱しく 時しも如月十五日の夜に 月も御空にかかる時 如来は涅槃の床に座し 最後の法門説き給う ・・・・」もまた、ゆったり和讃の長丁場におよそ10分もかけて唱えていた。

子供たちがそろそろやってくる時間帯であるが、来る前に拝見しておきたいお軸を収めている軸箱の墨書文字。



「大恩教主釋迦年尼如来涅槃像」とあった。

また、子供の涅槃を終わった際に拝見した涅槃図の裏打ち文字は「明治廿八年二月大吉祥辰長久寺現住寶山智龍代」であった。



寶山智龍とは・・・山添村の語り部にあった高僧智龍が詳しい。

明治2年に大和長谷寺に入門、修行された高僧智龍は、明治7年に無住荒廃していた長久寺の住職に就いた。

その後の明治13年、病に伏していた智龍は夢枕に現れた弘法大師のお告げを聞いた。

明治15年、裏山に霊場大師山を開き、山にあった自然石を利用するなど四国八十八カ所に倣って自力で造った大師石仏をはじめ、大師堂や大師夢想湯など数々の施設を調えたとあるから、さらに、その後の明治28年に涅槃図を新調したようである。

なお、本日はお寺さんの都合もあってやむなく欠席された住職。

実は、と聞いたのはこの日のお勤めである。

日が重なった長久寺住職は、この日に隣村の勝原に三カ谷へ出向いて先祖供養の回向をしていたそうだ。

午後11時のころ。

次々と本堂に集まってきた子供たち。



これより始まるのが子供の涅槃であるが、現在は涅槃図に向かって手を合わせ、そして東寺大師講のみなさんとともに般若心経を唱えるだけになっている。



かつては前述したあり方であったが、実に簡素化されたのである。

この日に親ヤド家を務めるのは昭和47年生まれのFさん。

子供さんの女子中学生がオヤ。以前は男子が務めるオヤであったが、現在は緩和されて女子も務めるようにしたそうだ。

父親のFさんが子供のころ。お米貰いに中学3年生のオヤとともに村各戸を巡っていたという。



米を集めることはなくなったが、今でも継承しているのは涅槃図の前に供えるきな粉ご飯である。

お茶碗一杯に詰めたご飯にきな粉を塗して供えたきな粉ご飯。

めいめい一人一人が賽銭をあげて手を合わせる。



偉大な徳に感謝、心からご加護を願って祈っていた。

熱心な姿で祈る子供たちの作法を見守る東寺大師講のみなさん方。



お詣りを済ませたら、お下がりのお菓子をもらう。

順番に廻ってくる参拝の列。

今年は17人であったが、少ない方だという。

前年が25人だった、というから毛原の子供が実に多いとわかる。

今日はいい機会だから、と講員たちは子供たちとともに般若心経を唱えることにした。

導師は涅槃図の前に座って申した。



最初にご真言を唱えて、般若心経を一巻。

そして、なーむだいし~ぼさつ。

神妙な面持ちで手を合わせる子供たち。

落ち着きのない子もみな手を合わせていた。

「この涅槃図に一匹だけ動物が多いって知っていますか。知っていることだけ、知っていたらええんよ」と伝えたら、一人の子どもが、声をあげて「猫」と云った。

十二支にならんかった猫のことも知っているとは、たいしたものだ。

ちなみにヤド家を務めたFさんの父親は、端午の節句などの神社行事で世話になったFさんだった。

その節はたいへんお世話になった、と息子さんにもお礼を述べた。

心経を唱えたら場は解散。

子どもたちは寺下にある構造改善センターに集まって涅槃の食事。

現在はカレーライスになっているが、かつては五品の煮物が主。

大根と里芋の煮付にコンニャクもコーヤドーフも煮付け。

その他にネギの酢和えやホウレン草のおひたしに油揚げ飯であった。

構造改善センターを利用するようになったのは平成元年から。

その数年後には会食の材料である豆腐粉が入手困難になったことから、この一品は廃止したとある。

献立のあり方を簡略化。

カレーライスに移っていったのは何も毛原だけでなく、奈良市東部も同じような傾向にあった。

カレーライスを味わっていた子どもたち。



部屋中で遊ぶよりも外の方がいいようだ。

(H30. 2.11 EOS40D撮影)

大西のジンスケ屋敷跡の山の神

2019年05月31日 09時26分18秒 | 山添村へ
ホウの木で毎年作り変えるのは手間がかかる。

区長の役目であるホウの木造りの刀。

山添村の下津でも聞いた役目であるが、ここ大西も同じだった。

山の神の祭場に供える数々の祭具。

刀の他に山仕事に関係する七つ道具。

それらを拝見したくやってきた山添村の大西。

平成28年10月9日に拝見した座祭り。

八王子神社の参拝に座祭りされた旧極楽寺会所。

格式のある座行事であった。

大西の神社行事は八王子神社から少し距離が離れた地の稲荷神社においても行われている。

平成28年の12月4日は芋串祭りとも称される新嘗祭だった。

また、1月6日は旧極楽寺で行われるオコナイも拝見させていただいた。

この日の行事は神社行事でもなく寺行事でもない山の神に参る行事であるが、集団で行われるものではない。

各家、めいめいが個々に行われる山の神参り。

カギヒキの作法もあると聞いていた。

早い家では夜中の0時過ぎになれば参拝する。

朝日の昇らない時間帯に来る人とか、明るくなってから参るとかまちまちの時間帯。

毎年を同じ時間帯に来る人もおれば、毎年が違うという人もいる。

ずいぶん前のことである。

同村の春日の山の神を拝見したことがある。

どなたが何時来られるのか、さっぱりわからないが、何人かが参られるだろうと出かけた大字春日。

真っ暗な山の道を歩いて着いた山の神の場

辺りはシーンとしていた。

ときおり風が囁く。

何かの動物が動いたような音もするが・・・。

時間の経過は覚えていないが、参拝に来られた人に撮影許可をお願いして撮らせてもらったことがある。

真っ暗な時間帯の山の神参りにピントが合わずに難儀したことを覚えている。

大字大塩では予め許可をいただいてお家を出発するところから同行させてもらったこともある。

そんなことも思い出す山の神の取材。

地域、それぞれの様相がある。

供えたホウの木造りの刀の他に七つ道具。

毎年、造ってきたが手間のかかる作業。

区長の役目であるが、これは数年前に作ったものらしい。

ホウの木造りの山の神はニス塗り。

汚れは多少つくが1月15日になれば下ろして奇麗に拭きとって次の区長の廻りに保管預かりをしてもらうようだ。

予め聞いていた大西の山の神。

到着した時間帯は午前11時。

車を停めさせてもらう場から眺める田んぼ付近に人だかりができていた。

かすかに見えた“火”遊びではなく、とんど焼きであろう。

気になるとんど焼きにブルーシートを被せている藁積みもあるが、今日の本題は山の神。

大欅があるからすぐ見つかるといわれて先に出かけた「ジンスケ屋敷跡」。

実はこの日は大字大西のとんどの日。

そのことを教えてくださったのは同大字大西在住のFさん。

正月3日に行われるチョウジャドンの膳を取材させていただいた際に話してくれた地区4軒のとんど焼きである。

地区はまさにその方角。

とんどは大きなものでなく小っちゃなとんど、といっていたから間違いない。

かつては習字焼きもしていたが、今は誰も・・・といっていたが火点けの時間帯は早朝ではなかったようだ。

ちなみに「ジンスケ屋敷跡」下に住んでいる高齢の婦人がいうには、ここもとんどをしていたそうだ。

道路向かい側にある共同井戸。

その前の道でしていたが舗装路になったことから中断に至ったそうだ。

その婦人が指さした山の神行きの道。

急な坂道を登ってすぐ。

鬱蒼とした樹林の向こうに大木が見える。

それが大欅。



その地に整然と並べられた山の神に奉る刀と七つ道具。

真上に注連縄を張っていた。

注連縄右横にあるのはフングリ。



近くにクリの木で作ったカギヒキがある。

中央に刀。

艶のあるニスを塗ったホウの木に「五穀豊穣、字中安全」の墨書文字。

下部の柄に付けた×××印でわかる刀。

裏側も確認したかったが、触ることは厳禁だ。

左右に並べた七つ道具。

左からカマ・ナタ・ノコ・ヨキ・・・2本のクワ・スキ。

クマデもあると聞いていたが見当たらない。

2本のクワとみたが、うち1本がクマデかも・・・。

道具の前にあるのがクラタテ。

他地域とは違いのあるクラタテ。

蔵になる部分の四本柱のない1本柱の構造にシデ。

三角巾のように敷いた半紙の上に二段の鏡餅。

クシガキに栗、葉付き蜜柑を揃えた周りに置いてあるのは参られた各家が供えた御供。

長さは短いが同じようにクシガキ、栗、蜜柑にキリコ餅(切り餅)。

メザシや髭のあるトコロ芋を供える家もある。



これら祭具に御供を撮っていたとき、下から登ってくる家族連れに出会った。

存じている男性は平成28年10月9日に行われた座まつりに相当家を務めたOさん。

持参した一束の藁をとんど場に置いてから2個の御供餅を山の神に供える。

手を合わせて拝んだら手前にあるクリの木でカギヒキの所作をする。



山の神呼びの詞章は聞こえなかったが、もう一度手を合わせて参拝を終えた。

実は心の中で五穀豊穣を唱え、カギヒキは3回したという。

参拝したら供えた餅を持ち帰る。

山を下る前にとんど場で火を点ける。



藁束を燃やして餅を焼く。

その様子を見守る息子に孫さん。

ここでは少し焼くだけで、家に持ち帰ってから本格的に焼いて、家族揃って食べるという。

それから数分後。一人の男性が登ってきた。

なんと、座まつりに大当家を務めたOさんだった。



前相当家と同じように御供餅を供えて、カギヒキの所作をする。

前大当家のOさんも同じように心の中で五穀豊穣を唱えていたのだろう。

Oさんも同じように話してくれた共同井戸の前でしていたとんど。

新道路が完成してきれいになったから止めたという。

とんどはしなくなったが、この共同井戸は8月7日に井戸替えをしているという。

今でも使用している共同井戸はポンプで汲み上げる。



汲み上げた井戸水はパイプを敷設して地区の家に供給しているようだ。

8月7日は七日盆。

オコナイをしていた極楽寺にある石塔墓地である。

7月24日からの毎日。

輪番の人がその墓地に行燈を灯す。

井戸替えは7日にしていたが、現在は第一日曜日の朝。

6~7人が集まって井戸周りに生える雑草刈り。

大欅の周りも奇麗にするが、井戸そのものは洗ったことがないという。

洗いがあれば拝見したいと思った七日盆の井戸替えであるが、10日盆も清掃しているらしい。

座まつり取材にお世話になった両人。

3月の第一日曜日に行っている初午行事。

ゴクマキに来てくれるやろと思って待っていたという前年行事の稲荷神社の初午。

失礼したことが申しわけなく、今年こそは寄せてもらいますから・・。

(H30. 1. 7 EOS40D撮影)