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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

大和郡山・新中町春岳院如意地蔵盆の御供膳は串刺し立御膳

2025年08月25日 07時51分07秒 | 大和郡山市へ
豊浦のたぬき地蔵取材を終えても、まだ余裕時間がある。

その時間帯に、ふと立ち寄りたくなった大和郡山の城下町。

史跡・郡山城跡は、日本さくら名所100選

さらに、この年の11月10日付け文部科学省告示第141号の告示により、郡山城跡が正式に史跡指定された。

城郭は徐々に整備されたが、早くも豊臣秀長の時代にほぼ完成し、増田長盛(ましたながもり)の外堀普請(ふしん)によって城郭の規模が定まったとされる。

つまり、郡山城は内堀、中堀、外堀という三重の堀に囲まれた惣堀(そうぼり)の構えを持つものであり、この中に城郭の中心部や武家地、城下町が配置されたのであるが・・

城下町の形成に関わりのあった寺院は、最後の城主であった柳澤家の菩提寺である永慶寺があり、大納言・豊臣秀長の菩提所とされる春岳院もある。

豊臣秀長の肖像画や箱本制度がわかる資料を残した春岳院は、毎年の8月23日、24日において地蔵盆を行っている。

柳町の通り沿い。



車窓から見えた新中町の春岳院・如意地蔵盆。

平成19年に取材した懐かしさから、久しぶりに拝見したく、藺町線に出てからUターンした。

本堂に供えるのではなく、外壁の祠内に埋め込んで設えているだけに、道からでも拝観できる如意地蔵の盆のお供え。

車を近くに停めて拝観する。

この御供膳を見たくて戻ってきました、と当番の男性に挨拶させてもらって撮った一枚。



赤い椀はアカメシですか、それともセキハンですかの問いに、セキハン(※赤飯)であったが、平成19年当時にもらった資料によれば、ササゲ豆のセキハンだった。

来年、できるなら御供膳を調整する様子を拝見(記録)できれば、と思っている。

ちなみに、御供膳は串刺しカタチの立御膳。



湯葉にカンピョウ結びで締めた素麺束。

花麩に椎茸。

そしてインゲン豆ではなく、これもササゲ豆であろう。

気になるのは、一本だけが飛びぬけている素麺。



平成19年に記録した映像には、そのような気配はみられない。

昨今、手間がかかるから、簡易御膳にしている地区も増えつつあるなか、以前と大きな変化は見られなかったのが、嬉しくて・・・

ちなみにこの年は、新型コロナウイルス蔓延対策に一日限りの24日地蔵盆だった。



そのようなことで春岳院の本堂で営まれる数珠繰りは中止した。

(R4. 8.24 SB805SH 撮影)

大和郡山・城の口の地蔵盆②

2025年08月21日 07時56分28秒 | 大和郡山市へ
大和郡山・城の口の地蔵盆は2カ所

路を隔てた場で、それぞれ二つの自治会が行っている地蔵盆。

一昨年に教えたもらった地蔵尊は近鉄電車が通過する踏切のすぐ傍。

大手前自治会の方たちが守っている。

一方、横断歩道を渡った左側に奉っている自治会は、旧地・五軒屋敷町の自治会らしい。

場所的にいえば、行政的には大和郡山市北郡山町であるが、そこら辺り、北側に五軒屋敷があったことから旧地区でいえば五軒屋敷町になるそうだ。

この日、はじめてお会いできた郡山運送家。

ご当主の話によれば、個人が守ってきた三体並びの石仏地蔵。

かつて入居したときは家の裏。

つまり東側にあった地蔵を家前角に移した、という。

元々は郡山住民でなく、大阪・布施で鉄工所を経営していた。

経緯は聞けなかったが、先々代の時代に転居し、鉄工所を立ち上げ、現在は郡山運送を営んでいる。

仕事柄、遠隔地に出張することも多くあり、あっちこちへ旅に出る。

先代の親父さんは、ここ居住地の自治会会長を務めた。

そのときに話があった踏切前に建つ地蔵堂。

住民から北向きにという意見があった。

一昨年話してくれた高齢女性の家人・・・うち一体は、もともと城内にあったのがその理由だろう?か。

可能性として考えられるのが、天正四年の銘がある双頭の地蔵石仏かも。

結果的には、現在のように東向きにした。

同じ自治会に属しているからあっちで心経を唱えてから、うちの地蔵さんにも心経を唱えている。

この地蔵さんの誕生に謂れがある。

なんでも若い女性を見染めた殿さんとの関係がこじれ、亡くなった。

その供養につくられたという三体地蔵石仏は、当初、城内にあった、と・・・

リハビリ運動兼ねて運動している市施設のトレーニングルームで汗をかく。

その往路に通りがかかった23日の午後5時10分。

女児とともに片付けをしていると知って急遽、車を停めて緊急取材に入る。

孫さんに祖母らも手伝う片付け。



雨が降ってくる可能性もあることから吊るしていた提灯を下げていた。

取り急ぎの参拝に拝見した御供は、カボチャ、ニンジン、ナスビの野菜もあれば、ひと束のソーメンにパイナップル缶。



下げるまでの御供や祝儀も撮らせてもらった石仏の三体地蔵。

赤い涎かけをめくるワケにはいかない撮影。

いつか、また拝観の機会もあろう。

大和郡山で藍染されている本藍染ふれ藍工房綿元を営む“大和の紺掻き”こと(板染め)藍染師・西井康元さんが、毎日散歩に出会った大和郡山情景をFBに公開している。

新聞社やテレビ局。

多くのメデイアに取り上げられ、出演されている西井康元さんは、生まれも育ちも大和郡山。

屋号は、かつては家業であった綿打ち、布団を仕立てていた綿屋の“綿元(わたげん)”。

綿元時代は存じていないが、ふとしたことからお付き合いするように。その後の私はいつも“綿元”さん呼びだった。

地元に生まれ育ってきただけに市内城下町については知り尽くしている。

以前は、ブログで現在はFBで毎日に記事をあげている。

この日、23日に公開した記事に書いていた「追手前の地蔵堂では、知人の女性が地蔵盆の準備中。久しぶりにお話をさせていただきました。綺麗に飾り付けていました。この地蔵堂の二体像には注目です」に、はっとした。

とらえた地蔵石仏が三体並びの地蔵尊にも驚き。と、いうのも前年もその前の年も観ていた地蔵尊。

地蔵堂にお供えしか見ていなかっただけに、えっ。

朝の時間帯にコメントされた「追手前町にある個人の家の三体地蔵です。僕の友人で先輩の方が準備中でした」。

区割りは違うが、綿元家からここまでは少し離れているが、町内会だけにお知り合いだったのだ。

綿元さんこと、西井康元さんの話によれば五軒屋敷があった地だから武家だったろう。

名前は中(なか)さんで、北に同名の親類がある。

そこも旧地の五軒屋敷だった。

当時は、お家の東側に祭っておられたたが、いつしか玄関前横の西側。

つまりお城が見える方角にむけて地蔵さんを移した。

殿さんはといえば歴代の郡山城主のどなたか、と尋ねたら柳澤家というから、近年である。

この地蔵さん、珍しく、なんでも愛知県からわざわざ信者さんたちが団体で参拝に毎年来ていたが、今年は見ないという。

どのような謂れがあるのか、聞きおよばないが、詣りにくる信者さんたち。

団体は高齢者の信者さん。

そのことが理由で、行けなくなったのかもしれない。

可能性としてはありうる話であり、信者さんが属する“講”を解散したのかも・・・

その団体、いつの日だったか覚えてないが、「ここにいやはったんや、愛知県から探してここまできました」と、やってきたそうだ。

当主曰く、盗難にあっては困るので祝儀などは中身のお金は抜いている。

踏切前に建つ城の口地蔵堂を守る大手門自治会の方たちともに心経を唱えていた。

法要を終えて、孫たちが提灯吊りを手伝ってくれた三体地蔵尊。

ネットにぐぐったAI概要が回答する三体地蔵尊。

「過去・現在・未来の三世、三界の霊を供養する、あるいは子宝・子育て地蔵だと推す三体地蔵。また、六地蔵信仰以前の地蔵信仰の一形態とも考えられる三体地蔵」。

年に一度、愛知県から参拝に来られていた信者さんは、今年は姿を見ない・・・

(R4. 8.23 SB805SH 撮影)

大和郡山・城の口の地蔵盆①

2025年08月18日 07時25分47秒 | 大和郡山市へ
朝の7時半に見た七ツ井戸の地蔵盆御供は夕方に戻ったころはもう見ない。

工事がはじまった大和郡山市・城廻り線

西大寺から橿原まで向かう近鉄電車が走る奈良・橿原線と交わる踏切・交差点。

車の往来が多く、バスもトラック・配送も自家用車もみな停止する踏切に大行列が発生する。

通勤・通学に忙しいバス運行に気ぜわしく、乗車しとられへんくらイラチになる踏切。

その城廻り線は、近鉄の奈良・橿原線を跨ぐことなく、地下通路になる。

その拡張工事のために、江戸期の水道事業を記した碑ごと消えた七ツ井戸

七ツ井戸の跡地の状況を確認し、向かった先は、史跡郡山城跡。

近鉄電車が通る東から入ればそこは旧くからの景観がわかる城内入口。

踏切にすぐ近くに据えている地蔵堂があり、横断歩道を渡った、左側に据えている地蔵尊を奉っている小堂がある。

城入口踏切前の地蔵堂の所在地は北郡山町。

一方も北郡山町であるが、地蔵尊を管理している自治会は異なる
ようだ。

午後3時半の時間帯。影がはっきりわかる晴天の日。

鉄工所のように思えたそこは引っ越し専業の郡山運送。

シャッター下していたその建物の右の方に奉っている地蔵盆。

子どもたちの名はない地蔵盆の提灯。



子どもたちの雰囲気はわからないが、三体の石仏地蔵にお供えがあった。

カボチャ、ナスビ、ニンジン、スイートコーンなどの野菜御供。



後方に供えていたのは色付きの麩であろうか。

よく見れば、もち麩。

奥に手延べソーメンも供えていた。

西日が差し込む時間帯にどなたも遭遇なく、一旦は場を離れて再び訪れた城入口踏切前の地蔵堂。

日差しはさらに落ちてきた午後5時半。



地蔵堂に寄りそうご婦人がおられた。

どうやら地蔵盆の扉を閉じているようだ。

取り急ぎ、車を安全な場に停めて伺った。

ご婦人は、介護事業所の並びにあるお家の方。



大手前自治会の地蔵盆の当番であろう。

お話してくださったK家の奥さんだった。

丁度、地蔵盆に供えた御供を下げて、仕舞うところに遭遇した。



もし撮るなら、さっきの状態に戻してあげるわ、と扉を開けてくれた。

ご厚意に甘えて撮らせてもらった今年の地蔵盆は、いつもより早めの仕舞いらしい。

例年であれば、テントを張ってたくさんの子どもたちにきてもらう地蔵盆。

これまで法要に来てもらっていたご高齢になられた新木町(にきちょう)浄土宗派の万福寺住職が体調不調。

尤も、令和2年は新型コロナウイルス蔓延対策に遠慮されたのであろう。

そこで、考えたKさんは、午後4時ころからはじめたスマホアプリに見つけたユーチューブ仕様の般若心経をかけたそうだ。

実は、と話すKさん。

嫁入りしたときの地蔵石仏は、踏切の右側にあったお家の庭地にあった、という。

だが、道路拡張工事に後ろへ下がることになり、地蔵石仏の場が確保できなくなり、現在位置の踏切前に地蔵堂を建て、全部の地蔵を収めて現在に至る、という。

が、これら多くの地蔵石仏は、墓石の転用したもんやという人もいるし、珍しいと人から云われた二つの地蔵さんが並ぶ石仏地蔵があると話す。

時間帯はさらに暗いお堂の内部。

レンズをやや望遠にして撮った双頭地蔵の左肩。

涎掛けで全体は見られなかったが、天正四年(※織田信長が安土城の築城を開始した年として知られる安土桃山の時代)の刻印を現認した。



撮った映像を、カメラのビューで見てもらったKさん。

なんと、織田信長の時代、ほんまにびっくりやと驚かれた。

天正四年(1576)といえば、織田信長を後ろ盾に大和の地を支配した筒井順慶が思い浮かぶ。

翌年の天正五年(1577)十月十日は、順慶宿敵の松永弾正が信貴山城に滅んで大和が平定。

織田信長の命によって、筒井城を捨て、天正六年から十二年にかけての築城工事。

一国一城の郡山城を築き、天正八年(1580)十一月十二日に入城。

初代郡山城主の誕生である。

入城する以前から郡山一体は市場が形成され、賑わっていたというから、天正四年造立も頷ける石仏地蔵尊である。



風化もなく、端麗な石仏地蔵尊。

刻印もはっきりした天正四年銘。

機会あれば、赤い涎掛けの下にある月日なども拝見したいものだ。



ちなみに城下町・雑穀町の辻にも寄せている石仏地蔵尊がみられる。

その集合体の中に、「三界万霊・・」の刻印でわかる三界万霊の供養塔も祀っている。



右側には「備前国」で左に「天文十七」とあった。

天文十七年は西暦の1548年。

その時代はまだ城下町を形成していない室町時代後期。

戦国時代たけなわの年。

斎藤道三が織田信秀と和議を結んで道三の娘を信秀の嫡子である信長に嫁がせた年である。

目を凝らして何度も拝見したが、どう読んでも「天文」に見える。

備前の国(※現在の岡山県)から移されたのか、それとも城下町形成に備前の国からやってきたとされる何某かが建之した可能性も拭えない。

(R2. 8.23 SB805SH/EOS7D撮影)
(H24.12. 2 SB932SH撮影)

令和7年”城下町の寺社めぐり”事業の運営をサポートしてくださるボランティアスタッフ募集中

2025年07月29日 17時00分32秒 | 大和郡山市へ
令和7年”城下町の寺社めぐり”事業の運営をサポートしてくださるボランティアスタッフを募集しています(〆 当年9月半ばまで

< 8月11日をもって予定していたスタッフ人数を満たしました  感謝申し上げます   田中眞人 >


私もボランティアスタッフ登録している「奈良県大和郡山市 大和郡山歴史同好会」が、主催事業に取り組む令和7年”城下町の寺社めぐり”

来年の1月から放映されるNHK大河ドラマ豊臣兄弟!

主人公は、天下の郡山城主を務めた豊臣秀長


天下人になった兄・豊臣秀吉を生涯にわたって補佐役を務めた豊臣秀長

天正十三年の築城は筒井順慶であるが、城下町を整備するとともに百万石国の居城に城下町を整備した豊臣秀長



この機会に、昨年に続いて10月25日(土)・26日(日)実施の「令和7年”城下町の寺社めぐり”事業の運営をサポートしてくださるボランティアさんを募集しています

感心のある方、この機会に城下町の文化・歴史の一コマを知る・学ぶ・出会いに運営をサポートしませんか

申込については、シェアした資料のQRコードからアクセスしてください。  

昨年も参加し、お手伝いしました当gooブログ運営の田中眞人が案内しました

  以上

ボランテイア募集の詳細は、インスタグラム通信から・・・

 ボランテイア参加申し込みは、HP 「城下町の寺社巡り - N Studio」から・・
 
(R7. 7.29 記)

久しぶりに開催される郡山八幡神社の夏祭り

2025年06月16日 07時58分34秒 | 大和郡山市へ
柳町通り南方・大門湯前に鎮座する郡山八幡神社の夏祭り

市内城下町の柳町通りの南方。

大門湯前に鎮座する郡山八幡神社の夏祭り。

コロナ禍ではありますが、なんとか実施に・・。

子供たちが待ちに待っていた、夏祭りがもうすぐはじまるよー。

その話題を、かーさんに伝えたら、思い出話になった。

長男5歳、次男が3歳のとき、思い立って詣でた二人の七五三。

バスに徒歩で行ける郡山八幡神社にお願いしたら、縁もゆかりもない3人の願いを受けてくださった。

30年ほど前の記憶に残る宮司さんの姿は、男性神職だったか、それとも女性神職だったのか、そこは曖昧。

ただ、丁寧に子どもの成長を願って祈祷してくださった。

しかも、記念に写真まで撮ってくださった、と話す。

その七五三詣でに私は不在だ。

なぜなら、そのときは高槻の大阪医科大付属病院に入院中だった。

肝膿瘍処置中の私は身動きがとれない。

おそらく伝えていたと思うが、その記憶が一切ない子供たちの七五三。

さて、写真はどこに・・・

ところで、2週間ほど前から、少しずつ増えていたコロナ感染者数である。

一気に、対前週の2倍~2.5倍に。

顕著に増加の数がわかる。

13日が1036人。

14日は1148人。

15日に1004人。

三日間連続の千人強。

なにも奈良県だけの状況ではなく、全国的に発症している事態に、またか・・の思い。

10万3311人になった15日の全国発症者数。

政府も第7波に達した、と伝えているが、蔓延星宣言を発令する都道府県は、今のところ、どこもない

政府も、行動制限は考えず、としている。

再び、重苦しい状況になろう、とするコロナ感染に、どうにか終えた祭典。

京都の祇園祭・山鉾巡行に露店出店も復活。

九州・福岡の博多祇園山笠も3年ぶりに実施された、とニュースが報じていた。

第7波が急増する要因は、これまでのオミクロン株とは異なる変異株のBA.5

急激な発熱に、いきなりの38.5度。

倦怠感をともなう症状に、多くの感染者が医療機関に殺到している、とも・・・

(R4. 7.13 SB805SH 撮影)

郡山城跡公園の整備事業 第二期整備工事①

2025年06月15日 07時58分48秒 | 大和郡山市へ
伐採すると、気持ちがいい。

すっきりした公園整備事業。

第二期工事
は、もうはじまっていた。



これまで見えていなかった、赤い鉄塔も見える。

天候、怪しい日だけど、向こうの山並みが見える。

お城の石垣は天守台。

そこから眺める大和の景観。

整備工事を終えたら公園化つくり。

先になるが、愉しみが一つ増えた。



ただ、気になるのが、大勢の子供たちがやってくる憩いの場。

駄菓子屋(※耳塚菓子店)さんは、さてどうなるの?かな。



ちなみに、第一期整備事業にイメージバースを公開しているので、参考まで・・

(R4. 7.12、13 SB805SH 撮影)

見納めに大和郡山市の旧庁舎解体工事

2025年05月07日 07時49分26秒 | 大和郡山市へ
家人を送った朝。

行先は三の丸会館。

9時10分前に見た大和郡山市の旧庁舎解体工事。

新庁舎は完成し、オープンした5月2日の月曜日。

3日、4日、5日は祝日だったから、実質の業務オープンは6日みたい。

それから1カ月半も過ぎた。

旧庁舎は全体を覆っていたから、工事の進展はわからなかたが、この日から解体工事がはじまったようだ。

解体に活動するコンクリート圧砕クレーン車。

首折れするクレーン車の動き


まるでキリンのような動き。

以前、寺院の解体に見た機械は、まさにきりん。

折れ曲がる機械の模様がきりんの模様だった


今朝に見ていた圧砕機は、筋に黄色。

破砕する頭・口は青色。

ガガガっと音がしたとたんに破砕したコンクリートが落下する。

破砕機の両側に水防ホースが捲く散水。

破砕時の粉塵が拡散しないよう、軽減・防止作業もしていた。

何日か経った旧庁舎はすっかり消えていることだろう。

二度と見ることのない解体現場の一部分。

メモしておこう。



手前に見る石橋(※鉄筋コンクリート造)は、百壽橋(ひゃくじゅばし)。

竣工は昭和11年


当時の市民の寄付によって造られたそうだ。

平成28年度に、社団法人土木学会が、土木遺産に選奨、認定された構造物


町のシンボルのような存在であるが、その後のあり方は、どうされるのか、私は知らない。

それからの数日後である。

ようやく解体工事の一部が終わりそうな段階に移った。

そして消えた旧の庁舎。

幕をあげたかのように、百壽橋の向こうに新庁舎の姿が見えた。



工事は、まだまだ続く。

大きな事故が起きませんように・・・・願

(R4. 6.21、25 SB805SH 撮影)

大和郡山馬司町・蘭友会2022春の洋ラン展の花に囲まれて

2024年12月30日 07時47分19秒 | 大和郡山市へ
案内状をもらったけど、行けないからという家人に代わって代理に出かけた蘭友会春の洋ラン展。

今年も、春に咲く洋もののランを拝見した。洋ラン展の主役はカトレア。

展示会場の大数を占めるカトレアの香りが、馬司町・昭和地区公民館一面に拡がる。

開場時間前からたくさんの愛好家のみなさんがやってくる。

デンドロ・デンファレ系もあるからわくわくする展示会。

おまけに格安販売コーナーもある。

私が求めるランは、和もの。

いちばんにセッコク。

二番にデンドロビウム。

三番手はフウラン。

いずれも手のかからない空気中の水、成分で育つ植物なんだよな。

展示がはじまる前に着いていたい公民館の駐車場。

展示がはじまってからでは駐車できないほどの人気の洋ラン展。

家人宛に届いた洋ラン展の案内。

都合ができたから代わりに行ってくれる?といわれていそいそ出かけた奈良蘭友会が主催する第48回秋の蘭展(※令和2年10月)。

それは、それはすっごい香りに包まれたカトレヤ会の人たちが育てた蘭展。

カトレヤ花に見惚れ、香りを愉しませてもらった展示場にあったセッコク。

久しぶりに見た斑入りの銀竜が一鉢500円。

思わず手にして買い取り。

これがキッカケとなって、春と秋に開催される洋ラン展に足しげく通うようになった。

到着した公民館の駐車場でばったり出会った二人連れ。

懐かしい二人は、数年前まで大和郡山市観光ボランティアクラブに属していた一期生(※若しくは二期生だったか?)。

80歳を前に限界を感じて引退したそうだ。

実は、出会いは今回の展示会でなく、昨年に開催された第49回春の洋ラン展だった。



出会ってすぐに賑やかになる。昔も今も変わりなくおしゃべりするTさんとFさん。

その前年。



秋の蘭展の第48回に会場を去る二人を見て、たぶんそうだろう、と思っていた姿は見間違いじゃなかったんだ。

今、どないしてんのん、と声をかけてくれたTさんにFさん。



行事の写真、撮りに行ってるんでしょ、と云われて話した「私がとらえた大和の民俗⑩」写真展

先月の27日まで開催していた写真展。

今回と前回の図録が車にある。

洋ラン展を見終わったら、公民館の談話室で解説するので、と伝えたら、その写真展に二期生(※だったか?)のIさんもSさんも見にいってたそうよ、という。

そうだったんだ。会場に置いていた芳名帳に記載がなかったから気がつかなかった。

また、どこかでお会いできるかも・・。

そのときにでも図録を手渡しておくから、と伝えたが・・・。

ガイドクラブ発足時の方たちとはよく出会い、よく会話した。

現在の大和郡山市観光ボランティアクラブは、第10期養成講座を経て、この4月から活動をはじめているそうだ。

1期、2期の人たちと、はじめて遭遇した場は、矢田坐久志玉彦神社(やたにいますくしたまひこじんじゃ・大和郡山市矢田町)だった。

今から20年前の平成15年1月8日。

神社行事の綱かけ神事
だった。

矢田坐久志玉彦神社での綱かけが終った途端に、乗ってきた自転車に跨って疾走・・・・どこへ行くのですか、と尋ねたら、ぬすっと神社。

えっ、ぬすっと神社って、盗人???は、はてさてどこに・・・

本社から、南の地に鎮座するぬすっと神社は、主人神社。

祭りの際に行幸する御旅所。

そこにも綱をかけると教えてもらったものの、所在地がわからず・・・。見つかっても車を停める場もなく・・



あれからもう20年、感慨にふける年齢になったもんだ。

ちなみに、談話室で解説したのは「私がとらえた大和の民俗写真展⑨-つくる-」

すべての民俗テーマを話したら、昼めし時間になろうか、と思い、なかでも貴重な”カンピョウ干し“に”カケダイ“、”多段型稲架け“の民俗話題を提供し、献本した。

帰宅して、すぐさまセッテイングしたパンダ風蘭。



母体に交配種ランダーウィナラチャームブルームーンが入っているらしい。

(R4. 4.16 SB805SH 撮影)

大和郡山・慈光院の枝垂れ桜

2024年12月08日 07時50分23秒 | 大和郡山市へ
すごく気にしていた枝垂れ桜がある。

大和郡山市小泉町にある慈光院(※抹茶付き拝観料は千円)。

サツキが咲く時季ともなれば、観光客が多くなる。

書院前に拡がる枯山水庭園景観が美しい。

茶道をたしなむ方なら、一度は訪れたくなる慈光院であるが、私は一度も伺ったことがない。

入庭したことはないが、慈光院に枝垂れ桜がある。

そのことを知ったのは、2年前の令和2年4月2日。

買い物に来たスーパーサンデイ店。

車を停める駐車場に入るとき
だ。

えっ・・・・。

思わず声をあげた。

サンデイ向かいにある慈光院。

往来激しい道路から見える「石州茶室名庭園」。

大きな文字で誰しも気づく「慈光院」の看板柱。

天から降り注ぐように咲いていた枝垂れ桜に、息をのんだ。

それから一年後の同場所にある枝垂れ桜に花がつかなかった。

細い枝ばかりの毎日だったように思う。

尤も、しょっちゅうサンデイの買い物があるわけでもない。

令和3年の4月初めは何していたんだろう。

サンデイに用事はなくとも、慈光院の通りは、2日に一度は走っていたはずだ。

それから1年後の本日に見た枝垂れ桜が美しい。

実は、ほぼほぼ昨日、一昨日は、蕾かな?と思えるほどの枝状態だっただけに、驚いたものだ。

2年前に撮ったときよりも、ふくらみの少ない慈光院の枝垂れ桜。



花つきの状態は、2年前より隙間が多く見える。どことなく寂しい感じがする枝垂れ桜であるが、この年は、この状態が満開なのだろう。

横から見れば、一目瞭然。

枝先の花つきが少ないようだ。

2日後も通った際に見た枝垂れ桜は、すべての花を落とし、すっきりした枝状態になっていた。

(R4. 4. 6 SB805SH 撮影)

大和郡山・富雄川桜づつみモデル事業地の桜

2024年12月04日 07時54分44秒 | 大和郡山市へ
富雄川の源流は、生駒市・高山にあるくろんど池

大阪府民の森・くろんどの森は、大阪の交野市(かたのし)私部(きさべ)にあるくろんど園地。

最寄りの電車駅は京阪電鉄の私市(きさいち)駅から歩くハイキングコース。

たどり着いたくろんど池の位置は奈良県。

その奈良県側から行くには、奈良市を経て大和郡山に流れる富雄川沿いがわかりやすい。

私ら家族が大阪から転入した大和郡山市内。

西の地に流れる富雄川沿い、高台に立地する居住地。

転入した当時は、護岸工事がまだなかった時代。

土手から下りた川は綺麗な砂地があった。

護岸に生えていた葦や野の草。

土手は土。そこから竿を出して釣った魚は、小魚。

鮒もおれば鯉に貴重なモロコ魚も住処にしていた葦や野の草。

姪っこが釣った小魚は、モロコに養魚池から流れてきた黒や赤の金魚も・・・。

大雨に養魚池から逃げ出した金魚は水路を経由し、富雄川に・・。

やがて再び大雨に、富雄川から大河の大和川に・・流された金魚の行先は大阪湾に・・・。

大移動の金魚は、当時、子供のころの体験。

住んでいた大阪・住之江も流れる大和川に、何度も目撃した泳ぐ金魚。

母親に祖母も云った。

この金魚は大和郡山から流れてきたんよ・・・。

小学生高学年のころだから60年も前の記憶。

辿っていった記憶に鰻の稚魚がある。

大阪湾から大和川を俎上する鰻の稚魚。

集団で泳ぐ稚魚は、岸辺の水際にそって、くねくね泳いでいた。

鮮明に遺っている情景は、頭の中に思い浮かぶ。

この日は、おふくろが入居している施設に伺う。

富雄川は、家からほんに近い。



右岸に農家さんが小売りしている場がある。

夏はトマト。

春は苺を直売りしている




近ごろ、苺買いに行列ができているらしい。

へぇ、そんなに有名になったんや、と・・・

苺が食べたい、と訴えていたおふくろに食べもらおう、と近くのスーパーで買ってきた。

味見したら、水くさい苺。

味はよくわかるおふくろの舌。

誤魔化せない、と判断し、買い替えに伺った右岸の農家さん。

誰一人並んでいない時間帯に、買い占め・・ではなく、いちばん美味しい、お店の人が推奨する古都華(ことか)。

昨今は、地産地消店でよく見る古都華であるが、買ったことがない。



これならいい、と選んでくれた古都華を、施設に住まいするおふくろに食べてもらおう。

食べる場は、居住者が朝、昼、晩に食事を摂る食堂でなく、住まいする居住室だ。

部屋には冷蔵庫の設備はない。

食べ残しの食を自身で管理できない場合は、設置許可はおりない。

なぜなら職員が、そこまで手が届かないからだ。

食べ物の差し入れは可であるが、食べ残しは不可。

だから苺はほんの数個。

持っていったら、ぱくぱく食べきった。

こんなに美味しい苺。

初めてや、と喜んでいた。



苺を売っていた場から、小橋を渡ったそこは、奈良県事業・富雄川桜づつみの一角に咲く満開の桜並木。

富雄川に架かる橋は城栄橋であるが、お城はすぐ近くでもない。

徒歩にしておよそ15分の地にある郡山城跡。

今年のお城まつりに訪れた桜見観光客。

さくら名所百選や、続日本100名城に選定されている郡山城跡の桜はおよそ800本。

御殿桜とも呼ばれる桜は観光の目玉

コロナ禍でなかった例年は、8万人もの人たちが訪れるそうだが、ちょっと離れた富雄川桜づつみには、興味はわかないらしい。



ほんの近くにある桜づつみなのに、今はゆっくり落ち着いて愛でる時間も確保できない。

日々のあれこれ事情がある。

ついさっきに撮った場から三歩移動した。

ここは農家さんたちが耕す稲作地に畑地がある。

農機を移動する道は農道。

近くに住まいする私たちもショートカット利用している農道。

向こうに見えるゲート。

越えたそこから桜づつみの公園地に入れる。

車道でなく、人道坂を登った場は、芝生の園。

吾妻屋や藤棚もあるし、親水の広場、スポーツ・コミュニティの広場、木陰の広場もある。

さらにはトイレもある川堤の散策道。

自治会活動のクリーンキャンペーン・清掃活動を終えて、ご近所さんたちとともに移動した。

アルコ-ルも持ち込んだ花見の会。

急遽決めたものだから、家庭の料理がほとんど。

おおかた20年前。

地元民もみな覚えている憩いの場。

さて、今年が最後になった「私がとらえた大和の民俗」写真展である。

展示した3枚組テーマは「コロナ禍、そのときのT家・・」
である。

1枚目のサブテーマは「看る」。

3枚目のサブテーマは「で、あっても、なかっても・・」。

撮影地は、ここ富雄川の桜堤だった。

満開だった桜は突風に煽られて飛んできた花付きの小枝。

散った花びらも自然体。

ありのままの情景を背景に据えて撮っていた。

初めての試みに、あれこれ試作したが、満足できず。

百均に売っている大判の木製ボードに、携帯電話で撮った映像を自宅プリンターで出力したL版プリント。

あーでもない、こーでもない、と配置した。

これだ、と思って行こう、としたその日は、風がキツかった。

何十枚ものL版プリントすべてにセロテープをくるりと巻いた両面テープ。

芝生の上に置き、すぐ横にあったベンチに立った。

手持ち撮影に身体が安定しない。

ファインダー覗きもできない位置に両腕を伸ばしてバシャバシャ・・・。

見えないファインダーに無作為シャッター。

何度も、何度もトライした中の一枚。

ゆがみがわかり難い一枚が撮れた。

自然光が効を奏した一枚に納得できた。

2枚目の「通販もテイクアウト」の撮影時期は夏。

紫陽花にランタナが咲く我が家の南庭を撮影地に決めた。

3枚目の「で、あっても、なかっても・・」の撮影地は、桜時季と同じ桜堤。

秋の時季に実成りの数々をあしらった。

従兄妹が贈ってくれた栗の実。

そればかりじゃ地味ぽっい。

茶色以外の色を探してスーパーへ。

柿にミカンも並べようとしたら、もう一人の従兄妹が、大阪からわざわざ出かけた大淀町で栽培されたでっかい梨を贈ってくれた。

栗も梨も、「看る」テーマの95歳のおふくろに喜んで食べてもらおう、と思って送ってくれた。

秋の実成りに彩りを添えることができた。

感慨無量のテーマ写真。

拝観してくださったほとんどの人たちは、小さな写真に目線を落とされたが、周りに散りばめた桜や秋の実成りに気づかれることなく、写真展は、3月27日を最後に幕は下りた。



平成4年、YAMATO郡遊回廊コースの一つに設定された川の道WALKの富雄川堤。

下流の桜は満開状態に見ておきたい地がある。

大和中央道が完成と同時に、ほとんど通行しなくなった道がある。

東城(ひがしんじょ)地区に繋がる農道になった道。

受動信号機付近の桜堤が始点。

桜づつみの始点の状態も見ておきたい、と思って回り道をした。

富雄川桜づつみモデル事業地に駐車場はない。

ほんの数分、一時的に停車できそうなやや広地に停めさせてもらって撮った桜のトンネル。

暖かいこの日に散歩する人は多い

大きな犬とともに散歩していたご夫婦。



南の端からここまで歩き。

車をちょい停めしているから戻りも歩き。

ぽかぽか天気に気持ちが浮かれて自宅を出た。

遠くから来られたのですか、と尋ねたら、方角北に数キロメートル離れた丸山古墳付近に住んでいる、という。

そういや、うちにもワンコが居た。

長男が生まれる前。

家に住み着いた野良犬。

隣近所の人らは懐くことはなかった中型犬。

痩せた犬が愛おしく、一泊二日の旅から、戻ってもまだいてたら飼ってやろう、と・・・。

それから13年間もともに暮らした柴犬もどきの「チロ」。

あっちこち散歩に連れていった。

この日にお会いしたご夫婦が住まいする丸山古墳や追分梅林まで散歩に連れていった「チロ」。

車に乗るのも大好きだった「チロ」は、なぜか数キロメートル走ったところでいつも、ゲーゲー嘔吐。

遠出ができなかたから旅にも連れていけなかった生前の「チロ」を思い出した。

実は、大阪暮らしの時代である。

60年も前のころのワンコ。

同じような境遇に飼ったワンコは三匹。

クロにシロにチロ。

三匹とも当時なりわいとした犬捕りにやられた。

だから、チロは縁もゆかりもない二代目のチロ。

悲惨だった飼い犬第一号のクロは、停留所でバス待ちしていたおふくろについていった・・・・キャン、と鳴いた一撃を目撃し、懇願したが・・・・。

そんな時代もあった。

今の子たちには、言葉も出ないくらいの時代の生業があったのだ。

辺りを見渡したその場に、落下した桜の花びらが一面に広がっている。



ひらひら落ちた芝生に点々とあるし白い花びら。

満開を過ぎた時季がわかる状態に、まるまる花弁状態の桜が落ちている。

あちらこちらに見られるそれは野鳥が落としたラッパ落としの痕跡

別に不思議なものではなく、野鳥が啄んだ雌蕊。

吸い終わった桜は、付け根に蜜のある軸ごと落とした現象。

スマホ時代に入った近年は、SNS上にアップする人が、やたら多くなったように思える。

近ごろは、ウエザーニュースにも取り上げる野鳥と桜の花の関係性

そのときの季節を教えてくれる自然観察のテーマが、毎日のニュースで知る。

(R4. 4. 5 SB805SH 撮影)