マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

櫟枝の大峰山上六十六度供養塔

2018年07月12日 06時35分14秒 | 大和郡山市へ
気になっていた供養塔を拝見したくなって車を走らせた。

供養塔にある刻印は「大峰山上 六十六度 供養」とある。

裏面は西日に当たって文字の判読は難しい。

昭和5年生まれのAさんとお会いしたのは、先月の5月3日

Aさんが云うそこに建てている供養塔である。

大和郡山市の櫟枝町に住む人が66回も大峰山上詣りをした記念に建てたと話していた。



上段の文字は風化が激しく、崩れている部分があってほとんど読めない。

「大□□□□」、「右□□□三谷」に世話人の連名に6人もあったが、年号はないようだった。

(H29. 6.10 SB932SH撮影)
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横田町にかつてあった植え終い

2018年07月11日 09時23分37秒 | 大和郡山市へ
田植えを終えた農家の方の田植え終いの在り方が聞けるかもと思って大和郡山市の横田町に出かけた。

数年前になるが、大和郡山市で観光ボランテイアガイドを務めるIさんからの情報である。

ガイドの下見に訪れていた横田町の畦道に見たことのないようなモノがあったという。

その写真を見せてくれたがあんばいわからなかった。

場所は西名阪高速道下の側道だったという。

その話しをしてくださったのは平成26年の4月10日。

田植えにしては早すぎるからたぶんに苗代に立てたお札若しくは松苗であるかもしれない。

ただ、私のメモに残されていた情報は平成25年の6月10日であった。

そのメモの内容は「10日過ぎ辺りに田植えをすべて終えてナエサン二把を広げてオニギリを載せる」だった。

苗代ではなく、田植え仕舞いにおける豊作願いの習俗。

苗さんを供える習俗はさなぶりである。

思い当たるその地を探してみたが見つからなかった。

あれから4年も経った。

Iさんの記憶を頼るしかないと思って電話した。

かつてあった横田の寿司屋の筋辺りを東に歩いて行ったところだという。

そうであれば横田町の北方にある圃場である。

そのお供えについて近くにおられた婦人に尋ねたら、そう答えてくれたという。

Iさんが伝えるその婦人の口調で思い出した。

たぶんに間違いなく平成21年5月6日に苗代の水口まつりを取材させてもらったOさんの奥さんだ。

奥さんは骨折で2年前から療養する身になったと聞いている。

それなら旦那さんに、と思って出かけたこの日は田んぼの水溜めをしていた。

一部の田んぼは畦に苗箱を並べていた。

もうすぐ田植えを始めようとする時期にきていた。

田んぼにおられた二人の男性に聞けば、この日は池水の引き込み。

それぞれの農家さんは田植えが忙しいということだった。

そこよりさらに東へ行けばOさんの苗代田がある。

小屋にいたOさんに声をかけた。

久しぶりにお会いするOさんに尋ねたさなぶりのこと。

Oさんは85歳。

そんなことしていなかったという。

えっ、である。

見たことも聞いたこともない、というから、またもやえっ、である。

そんなはずではないと思って、Iさんに再確認の電話をする。

場所、人物像も同じであるが、実際は田んぼではなかった。

Oさんの奥さんが話していたのは、田植えをすべて終わったあとのこと。

田植えに残した2把の苗さんを自宅に持ち帰った家の竃に供えたということだった。

それならわかるし、それがさなぶりの習俗。

竃の蓋に供えたという事実もわかった。

奥さんは今も療養中の身。

やや歩けるようになったものの歩行支援の要る介護の身。

入院中の身だから聞いておくとOさんが云ってくれたが・・・。

Oさんが記憶にないのは、こうしたさなぶりの在り方すべてを仕切っていたのは奥さんである。

そのことをまったく今の今まで知らなかったというのも事実であろう。

介護の身となれば退院はできたとしても畑作業は無理だろう。

しかもOさん曰く、今は竃もないIHキッチン。

敢えなく断念したO家のさなぶりであるが、かつての状況はリアルに思い浮かべることができる。

停めていた車に戻ろうと農道を歩いていたら農小屋から話し声が聞こえる。

もしかとしてご存じであるかも、と思って声をかけた二人の婦人。

83歳のKさんと75歳のYさんのお二人。

実は3姉妹で、もう一人の姉とともに暮らしていた実家。

その家にはO家と同様に竃があった。

小さいときにしていたが、今はもう・・・という。

横田町は、かつて5カ所にあった農小屋で見せる“立山“があった。

立山の造りものは青年団がしていた。

東にある天理市の櫟本の方が数は多かったと述懐される。

また、横田に伊勢講があった。

毎月集まる敬神講や庚申講に行者講もあった。

庚申講は複数の講組があったが、講はみな解散した。

伊勢講や庚申講の掛図は返したという。

講の寄り合いはいずれもご馳走しやなあかんから朝から忙しかった。

解散する最後はパック詰め料理にしたそうだ。

講はみなやめたが、法螺貝に掛図もあった行者講の道具は講元が保管しているという。

そういえば横田町に鎮座する神社である。

ずいぶん前のことだが、八幡神社に簾型の注連縄があった。

撮っておこうと思ったときは、とき既に遅しでやめてしまった。

そのことを聞いたのは平成25年の11月12日

西興寺で行われる十夜であるが、営みは拝見できなかったが、知人のSさんにお願いして十夜の供養袋を取材したときである。

注連縄は一般的な作りに、そして門松もしなくなった村行事の変容を思い出して、隣村の櫟枝町に移動する。

(H29. 6.10 SB932SH撮影)
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矢田町寺村の水口まつり

2018年06月15日 09時52分51秒 | 大和郡山市へ
この日は2年ぶりに参加した大和郡山のボランテイア自然観察会だった。

観察会を終えて解散したら、私自身の観察に移る。

矢田町にはあちらこちらに水口まつりがあるが、調べるエリアはとにかく広い。



矢田坐久志玉比古神社付近の北村、横山、中村地区の集落の水口はイロバナに綱掛行事にもらったお札を立てる。

寺村、垣内地区は矢田寺(金剛山寺)の修正会のごーさん札。



これがそうであるが、垣内の垣内は東明寺八阪神社の御田植祭にもらった松苗を立てると聞いているが、未だ発見できていない。

ちなみに矢田町の南の端にある山田原地区にも神社はあるが、関係する行事がないことからイロバナだけである。

(H29. 5.14 EOS40D撮影)
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宮堂町の水口まつり

2018年05月29日 07時20分25秒 | 大和郡山市へ
イロバナにほとんど萎れがみられない。

鳥獣除けのネットを全面に被せている状況から判断して前日の日曜日に苗代作りをされたと思われるこの圃場の管轄はどこの地区なのか。

ネット地図で検証すれば大和郡山市宮堂町、川西町下永に天理市二階堂がほぼ交差している地である。

昨年の5月10日である。

雨が降る日であった。

通りがかったこの場にイロバナがあった。

お札はない。

たぶんにイロバナだけを立てる農家さんだと思っていたこの地を示すカーナビゲーションは天理市二階堂だった。

今年も同じ場所にあったイロバナにお札。

文字は折りたたんだ内部にあるから判読はできない。

苗代田は鳥獣除けにネットを張っているから内部に入ることもできない。

撮る位置を替えて撮った写真を大きく伸ばした。そ

こにあった文字は半分であるが、なんとか判読した。



その結果は「観音寺」。

下永にあるお堂は八幡神社境内にある旧白米寺だ。

正月初めに宮守五人衆がお札刷りをすると聞いているが観音寺ではない。

二階堂のお寺は融通念仏宗派の善照寺。

お札そのものの存在はない。

で、あれば大和郡山市宮堂町の観音寺しかない。

住宅地図精度で調べてみれば苗代田の所在地は宮堂町であったが、生憎のところ神社行事も含めて取材不可だった。

あえなく断念して今日に至る。

(H29. 5. 8 EOS40D撮影)
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井戸野の水口マツリ

2018年05月14日 09時02分40秒 | 大和郡山市へ
天理市中之庄町の苗代作りの一部始終に水口まつりを拝見して一旦は自宅に戻る。

その帰り道に選んだ道は大和郡山市の井戸野町を通る道。

これまで何度も通っていたのにまったく気がつかなかった苗代のイロバナ。

まさか、ここにあるとは・・。



ここより西方にある地は同市の美濃庄町や、大江町若槻町、稗田町。道沿いにある苗代田にはイロバナに松苗がある。

井戸野町もそうだが、これらの地域は大和郡山市にある旧春日神領地。



その他の地域に下三橋町、上三橋町、番匠田中町、横田町、発志院町、中城町、石川町もある。



今では少なくなったが、農家は村の鎮守社の春祭りなどでたばったお札などとともに春日大社の松苗も立てている。

(H29. 5. 4 EOS40D撮影)
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上三橋の水口マツリ

2018年05月12日 08時32分01秒 | 大和郡山市へ
この日も朝から水口まつりの取材がある。

そこへ行くまでに見ておきたい苗代田がある。

今でもしているなら赤と白の御幣があるはずだ。

そう思ってこのルートを走った。

目指す地は大和郡山市の上三橋町である。

道路右手に白い幌が見える。

今年も西側に立てていた赤と白の御幣。

松苗もイロバナもそこにある。

御幣は4月3日に行われる須佐之男神社行事のテンマサンの祭りで配られたものだが、松苗は3月15日に行われた春日大社御田植祭の松苗である。

上三橋町は春日大社の旧神領地。

上三橋以外に美濃庄、稗田、下三橋、井戸野、若槻、大江、番匠田中、横田、発志院、石川、中城の旧村である。

なお、同町にお住まいのIさんは春日若宮おん祭りに出仕される大和士であることを付記しておく。

(H29. 5. 4 EOS40D撮影)
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櫟枝町の水口マツリ

2018年05月11日 08時42分49秒 | 大和郡山市へ
旧五ケ谷村の田んぼを見て廻り、下ってきた。

初めて入った村もしていると聞いた。

それは翌日になるが、帰り道は大和郡山市の櫟枝町を通ることにした。

ここ櫟枝町は東西を走る街道の北と南側に田畑が広がる。

これまで拝見してきた苗代田は南側。

一度は見ておきたいと思って今回は北側の田んぼ道を行く。



8カ所の苗代田すべてにあるあるごーさん札。



ヤナギの枝に各家さまざまのイロバナもある。



このごーさん札は2月11日に鎮守社の八幡神社で行われる祈年祭に奉られる。



版木は「寛永七年(1630)正月吉日 和州添上郡 櫟枝村」に願主の升屋が寄進したもの。

祈年祭は拝見していないが、9月に行われる当家祭のおりにごーさん札の版木を現認した。



摺る墨は竃の煤を混ぜていたからお札を触ればすぐにわかる。



今回のお札はどうかと思って触ってみればザラザラ感がない。

最近は墨汁を用いて摺るのが多くなったと聞いていたから、煤はない。

トラクターで荒起こしをしていた男性は氏子総代のAさん。



かつてトーヤを務めたときは風呂釜の煤でそうしていたと話す。

Aさん曰く、2年前の当家祭で一老から四老の4人を決めるコヨリ籤を改め、竹箆籤に切り替えたという。

かつては竃や風呂焚き口とか煙突の煤を墨に混ぜて版木刷りをしていた櫟枝町。

私が知る範囲の県内事例はたったの2例。

ここ櫟枝町と桜井市の箸中だけである。

貴重な煤の摺り込み事例は他にもあるのかどうか。

生活文化は大きく変貌してきた昭和から平成時代。

現役の竃があったとしても、このような煤利用の例はもう考えられない。



水口マツリを拝見して車を停めた場に戻ってこようとしていた。

西の田んぼでは苗代田の代掻きをしていた。

代掻き道具はレーキのような代掻き棒だった。

懐かしい匂いがする代掻き棒の様子を見ていた。

その場に居られた長老がAさん。

昭和5年生まれの87歳。

今では見ることのない八幡神社に架ける注連縄。

その形式は簾型の注連縄。

一本の竹に簾のように縄を結う。

竹の葉は右手にあったという注連縄を「ドウガイ」と呼んでいた。

ドウガイ注連縄にはユズリハにトコロ芋。

ダイダイにカタスミ、吊るし柿をしていたと話してくれた。

今となっては貴重な注連縄の呼び名は櫟枝町にも存在していた。

(H29. 5. 3 EOS40D撮影)
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大織冠鎌足神社の幟

2018年04月10日 09時36分25秒 | 大和郡山市へ
つい数日前。

リハビリを兼ねて近所廻りを歩いていた。

道路工事中の関係で、いつもと違う方角に足を向けて歩いていた。

通行道に御例祭とかの幟旗があった。

その近くにあるのは大織冠鎌足神社しかない。

そこへ向きを替えて歩いた。

神社に着けば階段も境内も落ち葉が広がっていた。

掃除はしていない様子が伺える。

で、あればその日は行事日ではない。

気にかかるので翌日も同じコースを歩いた。

状況はまったくかわらず、紺地の幟旗に白抜きの大織冠鎌足神社も見つかった。

旧家の屋根の向こうに泳いでいるコイノボリが見えたのでケータイ画像で撮っておいた。

それから二日後の27日も同じ状況だった。

本日は29日の土曜日。

午後5時に通ったら幟はなかった。

(H29. 4.25 SB932SH撮影)
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小林町・南照山新福寺本堂の落慶法要

2018年04月03日 07時48分12秒 | 大和郡山市へ
前日は午後から低気圧が西からやってきた。

夜ともなれば雨も降ってきた。

翌日は320年ぶりに再建された大和郡山市小林町の新福寺本堂の落慶法要がある。

天気予報では朝から午前中いっぱいは小雨、若しくは曇天と伝えていた。

朝、起きたときは予報通りの曇天だった。

それがしばらく経てば青空が見えてきた。

予報は大きく外れてこの日は真っ青。

建て替えた本堂の宝珠が眩しく輝く日になった。

前日から天に願っていたのが良かったのかどうかわからないが、天に思いが通じ、叶えてくれたのかも知れない。

美しく輝いた本堂の宝珠が光っていた。

新福寺住職から参列願いの電話をもらったのは8月7日だった。

9月30日にも電話があった。

朝の9時より受付が始まる。

村に希望者を募ったお稚児さんは28人にもなる。

引率に親がついてお練りをする稚児行列がある。

公民館を出発して小林町の旧村を一周する。

落慶法要の式典は稚児行列が終わった10時ころになる。

参列の席を設けているのでお越しくださいとのことだ。

なお、落慶法要式典の記録写真は写真館に依頼しているから・・という。

ありがたいお言葉を伝えてくれる携帯電話。

録音だったら何度も聞き返したくなるほどのありがたいお言葉である。

その日に届いた「新福寺本堂観“落慶法要・記念式典”出席ご依頼状。

「初秋の候 皆様には益々ご清祥の段大慶に存じ上げます。平素は、小林町並びに本寺の護持興隆に特段のご配慮を賜り、厚く御礼申し上げます。さて、標記の件について左記の通り落慶の式典を挙行致すはこびとなりました。施工主古市工務店及び宮大工等によります最新の施工技術を駆使すると共に伝統的寺院建築様式を織り交ぜたすばらしい新福寺本堂が完成致しました。江戸・元禄九年以来320年ぶりの再建となる歴史を刻む一日を、小林町民並びに新福寺檀信徒が一堂に会してこの日を祝し、同時に新福寺本堂建立実行委員会及び現住職より深甚の謝意を表したく存じております。ご来賓の皆様方には万障お繰り合わせの上、是非ご出席の栄を賜りますよう心よりお願い申し上げます」とあった。



行列ができていた受付に綺麗な和服を召した女性たちがいる。

住職の息子たちのお嫁さん。

うちお一人はたしかオコナイ行事のときに赤ちゃんを抱いていたと思う。

尤も息子たちは受付もそうだが本日の落慶法要のために入念に打合せをしてきたと思う。

忙しく動き回る息子たちが頼もしい。

受付を済ませて、まずはお稚児さんに囲まれてにこやかな表情の住職を撮らせてもらう。

写真館のカメラマンは高い位置から撮っているが、私なりの撮り方で撮影する。

この日はピーカン状態の真っ青な晴天。

一同が並んだ位置は本堂の陰になる人たちもいる。

しかも本堂いっぱいに広がる。

この日のレンズはCanonEF28-80mm F3.5-5.6 V USM。

10日ほど前に活躍していたCanonEFS17-85ISUUSMレンズが「Err01」の故障。

修理を出していたが間に合わなかった代替品は広角でない。

これでは撮りたくても範囲が狭すぎて目いっぱいに広がったお稚児さん全員が写らない。



こういう現状になってしまって申しわけないが、限界まで下がってシャッターをきる。

そして、出発したお稚児さんたちのお練り巡業。

華やかな衣装で旧村を彩る。

先頭はおりんを打つ僧侶。

すぐ後ろにつくお稚児さん。

親御さんは手を繋いで歩く。

我が子の華やかな姿を撮ろうとしてビデオやスマホのカメラが横につく。

そのうちドラの音色が響いてきた。



数人の僧侶の次が住職。

赤い番傘を持つスーツ姿の人たちは本堂建立実行委員会の代表者。

晴れやかなこの日に顔も晴れやかである。



最近にできた新興住宅地もお練りする一行。

予定では9時50分に着く予定だったが、若干の遅れで本堂に戻ってきた。



そして、お稚児さんたちはありがたくご加持を受ける。

一人ずつというわけにはいかないから、前の方に詰め寄ってもらってのご加持である。

予定よりも若干の遅れで始まった落慶法要。

ご本尊は平安時代末期の造立と思われる木造聖観音立像。

これまでの本堂は幕を下ろしていたから観ることもできなかった。

旧本堂で行われた3月3日のオコナイ行事を何度も取材してきたが、本尊をはっきりと認識したことはなかった。

これまでは帳に隠れて本尊のすべてを拝観したことはない。

それが見事にそそり立つ聖観音立像。

320年間もの期間の小林町をずっと見守ってきたご本尊は新しくなった本堂に住まいを替えて村の未来を据えてみる。



あらためてお会いしたご本尊の前に座って見上げる。

そして、今日の出合いに感謝。

お招きをいただき感謝していますと手を合わす。

参列者一同は先に席について僧侶たちを迎える。

おりんの音を先導に入堂する。

支援する僧侶たちは本尊の左手に。

招待客は右手に設けた席に座る。

内陣についてまずはご真言。



荘厳な響きが堂内に広がる。

そして、声明。

僧侶がそれぞれに唱える声明は和音。

美しい音色になって堂内に響応する。

そして、今日に至った320年ぶりの落慶法要の表白を敬って申す。



散華をされ、小林町の未来、安寧を願って焼香をする。

招待者に続いて村の本堂建立実行委員会の人たちも焼香をする。

そして、功労者の皆さん方を称えて表彰状と記念品の授与。



そして、住職も功労者。

授与された住職は本堂より下におられる参列者の皆さん方にお礼の言葉を述べられた。

住職を務めるようになって40年。

村の人たちがおられてこそこうして落慶を迎えることができたと心を込めて特別な祝いのこの日に挨拶をされた。

記念式典のすべてが終われば小林町の住民たちや檀家並びに来賓者との交流を兼ねた会食の膳に移る。

会場は真新しくなった新福寺と数年前に造営事業をされた杵築神社の境内である。

前夜の雨にテントを張っていたその下でいただく祝いの膳。

馴染みの婦人たちに手招きされて同席する。



祝いの膳はあづまケータリングサービスの㈱東鮓である。

蓋を開けたら豪華な盛りの膳。

お魚などの造りはないが、どれもこれも美味しくいただく。

そのころともなれば風がやや強くなっていた。

ときには日陰になったテント内に風が吹き抜ける。

寒いと零した老婦人の声に立ち上がったSさん。

家から持ち出した服を着せてあげた。

ありがとうと言って防寒したご婦人もいっしょになって食べた膳に話題は尽きない。

住職家族や住民たちにお礼を伝えて帰路につく。

時間帯は予想していた時間よりも早かった。

ハレの日の晴れ間に今日も歩行のリハビリ。

家にいるときの欠かせない運動である。

晴れのお日さんに背中が温もる。歩いているうちに汗も・・、ということもない日だった。

強い風は青空の向こう側、天により近いところでピュー、ピューと唸っていた。

たぶんにこれは木枯らしの音。

この日の夕刻ニューで木枯らし1号の名を伝えていた。

※ 手違いで公開が長期間に亘って遅延したことお詫び申し上げます。

(H28.10.29 EOS40D撮影)
(H28.10.29 SB932SH撮影)
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豊浦町のとんど

2017年12月03日 08時57分19秒 | 大和郡山市へ
奈良市の米谷町の取材を終えて帰路につく。

どの道を利用して帰るかは、そのときの判断もあるが、気分もある。

この日は吸い込まれるように車が動く。

東山間の玄関口とも言える五ケ谷を下って真っすぐ西へ走らせる。

大和郡山市内に入って井戸野町、稗田町、美濃庄町、杉町から豊浦町。

我が家はもうすぐだ。

ふと左に目が動いた。

そこにあった大きなとんど組み。

2月の第一日曜に行われている豊浦町のとんどである。

夕陽が射し込む時間帯。

建てたとんどの竹が赤く染まりつつある。

田園の向こうは小南町の外れから筒井町の新興住宅地。

新興とはいってもずいぶんと前のことだ。

家屋が目立たないような位置でレンズを構える。

大和郡山市内の二ノ正月とんどは1月31日の午後から2月6日ころまで。

豊浦町の隣町になる小南町もあればさらに西。

矢田町の懐になる南矢田垣内、清水垣内寺坂深谷垣内、東村、矢田横山、垣内垣内西

豊浦町より東になる天井町、丹後庄町番条町井戸野町、稗田町、大江町もあれば南の筒井町長安寺町柏木町、額田部町も。

とにかく多くの地域で見られる二ノ正月とんどである。

豊浦町は明日の5日の朝7時に点火される。

天気予報では雨が心配されるが・・・土砂降りにならないようにと祈るばかり。

翌朝5日の朝は6時半ころから降り出した。

それから日中がずっと涙雨だった。

ところが住民から伝えられた便りによれば雨天決行したという。

無事に終えられてほっとしたことを付記しておく。

(H29. 2. 4 EOS40D撮影)
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