マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

外川町八幡神社の八朔祭

2018年11月23日 09時32分58秒 | 大和郡山市へ
今年の正月2日に訪れた大和郡山市の外川町。

もしかとすれば砂の道があるかも、と思ってやってきた八幡神社。

我が家から車で数分の処にある神社。

何年か前にも訪れたが、その年は砂の形も影もなかった。

雨が降っても痕跡はあるはず。ところがその年はまったくなかった。

何らかの都合でやめたのかも、と思いつつも念のためのこともある。

参拝を兼ねて足を運んでみれば、あった

砂の道の写真を撮っていたところに村の人と出会った。

大晦日にしているという砂の道は正月迎えの準備の一環であった。

神社行事はいくつかある。

秋祭りは当然としても他に9月1日の八朔祭や12月1日の新嘗祭をしていると話してくださった。

あの日から9カ月後。

八朔祭を拝見したく立ち寄った。

現在は9月1日でなく9月の第一日曜日である。

行事の始まる時間はすべてが午後2時。

村の人たちが来られる前に、と思って早めに着いておいた。

しかし、いくら待ってもどなたも来られない午後の2時。

拝殿には祭壇とか椅子を並べていたからいずれはと思うが、不安さはぬぐえない。

その間に拝見していた狛犬に刻印があった。

「安政六年(1859)九月吉日 上村石工生田吉」と読める。

刻印の「上村」とは一体どこであるのか。

一般的にいえば當村の文字が考えられるのだが、“上村”は。

手がかりはないが、考えられるのは“上”の村である。

奈良県内で考えられる地は明日香村の上(かむら)であるが・・。

階段を登ってくる足音が聞こえてきた。

この日の行事を教えてくださったSさんら他数人。

宮総代を務めるNさんらに訪れた主旨を伝えて取材に入る。

そのころにやってきた宮司は久しぶりにお会いした市内池之内町在住の植嶋凞一宮司。

画家でもある宮司が描いた神社全景の絵馬。

直会殿に掲げている。

氏子たちが参拝する時間は聞いていた時間より1時間の差があった。

暑さを避けて1時間遅らせたという。

それまでに準備に余念がない6人の宮役。



今年収穫した稲穂など、神饌を祭壇に運ぶなど忙しく動き回る。

その間に拝見していた直会殿の掲示物。

数々の絵馬が掲げられている。

その一角には棟木もあった。



うち一枚は墨書書きで「天下泰平 五穀成就 奉改遷宮八幡大神寶 柞長久産子繁盛祈修 祭主矢田矢落神社社掌 辰己覚次郎」とあった。

「矢田矢落神社」と云えば、ここより西方に鎮座する矢田町の矢田坐久志玉比古神社のことである。

社掌こと当時の神職は外川町も兼務社であったが、時代はそれほど古くはなさそうだ。

もう一枚はその左。「・・・・文政八乙酉年(1825) 願主不明」とある。

書体が異なることから同じ時期とは想定できないが、これは遺さなければと掲げたのであろう。

時間ともなれば公民館に集まっていた氏子たちが参進する。



鳥居を潜って階段を登る。

一段と高くなった位置に手水がある。

そこで清めてから参進。

直会殿正中から拝殿まで一直線に登っていった。



修祓、開扉、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌、閉扉、宮司一拝で神事を終えた八朔祭。

籾植えから始まって育苗。

田植えから数か月。たくさんの稔り、収穫させていただけますようにと、願いを込めて拝礼する外川の氏子たち。

当地は早米。

伊勢も早いが外川も早い。

ほとんどが1カ月後の10月10日辺りが稲刈りになるという。

10月の第一土曜日は外川のマツリ。

しばらくは大風も遠慮してほしいものだ。

神事を終えた一行は階段を下りて公民館で直会。

かつては直会殿と会所に分かれて直会をしていたが、公民館に移したようだ。

神事に供えたお神酒は境内に撒く。



その場に建つ観音堂がある。

悔しいことに背丈ほどの高さがあった地蔵尊は盗まれてしまったと云っていた。

(H29. 9. 3 EOS40D撮影)
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第7回洞泉寺町夕涼み大会in源九郎稲荷神社・洞泉寺町界隈

2018年11月11日 07時04分21秒 | 大和郡山市へ
今年で7回目になる洞泉寺町夕涼み大会

第1回の開催は平成23年8月26日、27日(土)の両日だった。

知人のN夫妻からのお知らせに表敬訪問した大和郡山市洞泉寺町。

夕涼み大会の場は源九郎稲荷神社境内だった。

主催していた夕涼み実行委員会の人たちへのご挨拶が目的で立ち寄った。

あれから7年後のこの日の催しに風の盆唄を行うとFBが伝えていた。

通知した関係者は存じている人たちばかりだ。

7年前まで勤務していた市の施設の仕事を通じてご一緒した人たち。

久しぶりに、ということもあるが、今夜の目玉である風の盆唄を拝見するのが第一の目的。

大和郡山市内であの名高い「おわら風の盆」が拝見できる。

踊り、リズムはどのような形でされているのか生身を拝見したい、と思って出かけた。

「おわら風の盆」は富山県富山市の八尾地区で三日三晩も踊りあかす行事である。

三日三晩もそうだが、遙かなる地にまで出かけるには無理がある。

その流れをくむ人たちが披露されるなら、少しでも学びになると思って近場の城下町に向かった。

到着した時間帯は午後6時半ころ。



境内は夕涼みに訪れた人たちでにぎわっていた。

まずは、源九郎稲荷神社社務所におられる代表のN夫妻にご無沙汰の挨拶だ。

鳥居前際にも知人たちが居る。

みたらし団子にかき氷。

大きく太いソーセージもあれば金魚すくいも。

しかもコーヒーショップまである境内いっぱいに広がった夜店に忙しくしているSさん、Iさん、Uさん、Mさん、Aさんの面々は大和郡山市観光ボランテイアガイドクラブの人たち。

カメラをもって被写体を追っかけているNさんはともに仕事をしていた大和郡山市観光協会の同僚。

尤も私は退職したから元同僚であるが・・。

Nさんはとらえた映像を大和郡山市観光協会の公式FBである「金魚とお城のまち やまとこおりやま」にアップすると張りきっていた。

うろうろというわけではないが、会場をぶらぶらしているとまたまた知り合いの人たちに遭遇する。

一人は大和郡山市文化財審議会会長の長田光男先生。

もう一人は矢田寺南僧坊の前川ご住職夫妻。

長田光男先生は民俗行事取材にご一緒することになった大和郡山市西町・良福寺文殊堂の文殊会式だった。

その日は会式を終えてから地区の人たち向けの文化財講演もされた。

歴史的な文化の一端を教わったことを覚えている。

ご住職には正月二日に行われる修正会でお世話になったこともあるが、その修正会に祈祷されたごーさん札をもらったことがある。

尤も私的なことでなく、奈良県立民俗博物館に寄贈はもとより、企画展展示に公開した貴重な祈祷札をご協力いただいたことは忘れない。

市役所に勤務するUさんにも出会えたにぎわいの洞泉寺町夕涼み大会に風の盆 越中おわら節を披露される団体は日本舞踊の「延彌会(えんやかい)社中」に民謡の「郡山美和会(ぐんざんみわかい)社中」だ。



午後6時半ともなれば演奏が始まった。



踊りの披露に演奏、地唄も境内で披露する。



拝殿におられる「郡山美和会社中」は歌い始めた。

演奏楽器は三味線。地唄奏でる歌い手主役は小泉長在住の男性。

市施設勤務時代にお見かけしていた人物が歌い手の代表だったとは驚き。

挨拶をさせていただいたが、覚えてないと・・・。

直に話すこともなかったから、そりゃそうである。

実は、ささゆり奉献神事に賑やかしをお願いしたいと大神神社から相談を受けた大神神社奉賛会会長のNさんが、強力な助っ人の両団体を率いて、ささゆり音頭(大和郡山大神講)・奉献行列をされていることを付記しておく。

陽が落ちた丁度の時間帯。

薄暮に境内の提灯の灯りが浮かぶ。

演奏が始まれば踊り子たちを囲むように拝見する参拝者も集まってきた。



夕べの佇まいに踊り子の動きに見惚れる越中八尾・おわら風の盆。歌い手の声にも聞き惚れているうちについシャッター押しも忘れてしまう本格的な気分を味わわせてくれるおわら風の盆。

踊り子たちが境内を何周か踊っているうちに隊列を組んだ。



そして鳥居を潜っていった幽玄な情景。

オレンジ色の灯り具合が踊り子たちを染めてくれる。



ゆったりとした調子に合わせて踊る踊り子たち。

その姿をとらえるストロボも発光する。

源九郎稲荷神社の鳥居を潜れば目の前が洞泉寺町界隈。



古き良き木造建築が建ち並ぶ路地を踊りながら前に行く。

燈花を並べた灯りのみちライトアップの洞泉寺町界隈の佇まいは、懐かしい風情。

みなは追っかけで隊列についていったが、無理のできない私はここまで。



界隈の路地の距離はそれほど遠くない。



町内巡行はおよそ15分間で戻ってきた。

(H29. 8.26 EOS40D撮影)
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雨後のガス晴れ生駒山

2018年11月08日 09時06分34秒 | 大和郡山市へ
この日の午後4時は俄に曇りだした生駒山山頂辺りの空。

大阪側は真っ白な煙のような雷雲。

午後4時45分に突然のごとく降り出した大雨。

集中的豪雨に耐えられなくなった駐車場水溜の雨水に往生した午後5時

脱出するには30分以上もかかった。

その間に雨は止んで晴れ間を覗かせる。

帰り道に選んだ主水山地蔵尊で見納めの奉納御膳を拝見していた午後5時40分。

村の人らにお礼を述べて帰ろうとしたら生駒山の空は夕陽色に染まりかけ。

雨に打たれた里山や田畑から水蒸気が湧き上がる。

上昇していくガス化現象にも夕陽が当たる。

これはと思ってシャッターを押そうとしたら、手前にアンテナがある。

アンテナが向いている方角は林立する電波塔がある生駒山。

むしろあった方が良いと思ってシャッターを切る。

(H29. 8.23 EOS40D撮影)
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城町主水山地蔵尊の見納め奉納御膳

2018年11月07日 09時12分37秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市小泉町市場・楠地蔵さんの数珠繰りを拝見しているときだ。

みるみる近づいてくる真っ黒な雲。

生駒の山から奈良平坦部に向かって降りてくる雷雲。

楠地蔵さんに吊るしていた提灯は間に合ったのだろうか。

車を動かしてから数十秒。

ワイパーを強めにしても前が見えないくらいの土砂降りに緊急対応と思って避難した駐車場があっという間の水浸し。

夕立だった雷雲がもたらす土砂降りは止んだが、駐車場の水が引くまで30分間待ち

自宅に着くまでのアクシデントだった。

退避していたケーズデンキから出てきたら駐車場は満水状態でどうにもこうにも車まで向かうことができない。

その駐車場は「大和川流域調整池基準に基づき洪水調節を目的とした設計になって・・・云々」と告知されている。

そのことは施設の開発段階から聞いていた。

雨宿りに費やした時間は短時間。

晴れ間も見えてきたから帰路につく。

駐車場からおよそ3分で我が家に着く。

大和中央道を北に延伸、奈良県総合医療センター(※奈良県立奈良病院)の移転にともなう病院導入路の新設道路工事である。

現在工事中の三叉路を左に折れたら角度60度にもなる急カーブ。

すぐ傍に地蔵尊がある。

旧村主水山の地蔵尊は公道の付け替え工事に地蔵尊は移転対象になった。

数か月前の4月20日には新しくなった地蔵堂が、移転先に建っていた。

完成された地蔵堂に退避していた地蔵さんは遷されたのだろうか。

ビニールで保護していることから完成したばかり。

いずれは落慶法要をされることだろう。

そう思っていた主水山地蔵尊はこの日が地蔵盆。

我が家から歩いてごく数分の場にある主水山地蔵尊。

平成20年の8月23日に訪れて地蔵盆の在り方を撮らせてもらった。

あれから9年も経った。

その9年間、年齢がいったとういうこともあるが、大きな変化があったのは前述した公共道路工事による地蔵尊の移転である。

ここよりもう少し走行した地に我が家が建っている。

ここまで来ればほっとする主水山地蔵尊。

いずれ開通するが、その場合の通行はまず間違いなく、右上の工事中に道を走ることだろう。

だと、すればこれまでずっと安全交通を見守っていて地蔵さんは旧道を通る車だけになってしまうな、と思いつつ・・。

新しくなった地蔵尊に婦人が。



しかも、地蔵堂の扉を開けてなにやら作業をされている。

青い幕を張った地蔵堂内にお供えが見えた。

作業をしていたのはNん。

落慶法要をされた主水山地蔵尊、移転後初の地蔵盆に御膳を供えていた。

話しを伺えば、この日は移転後初の地蔵盆。

先ほど降った突然の大雨。

営みは午後7時から行われる西国三十三番ご詠歌であったが、いつまた大雨になるかもしれない状況に地蔵尊の前でするのは難しいと判断されて主水山自治会の集会所で行うことになったという。

道路付替え工事が始まった直後の平成27年6月4日

その日はまだ旧道にあった。

その日以降であろう。

旧道路沿いにあった主水山地蔵尊は僧侶に性根を抜いてもらって地区の人が工事中の2年間を預かっていた。

毎年の8月23日に地蔵盆をしてきたが工事中の期間は中断せざるを得なかった。

前述したように4月20日以降であろう。

新しくなった地蔵堂に一時預かりの主水山地蔵尊を戻して再び性根をいれてもらったそうだ。

出会った時間帯は午後6時前。

当番の人がお供えを並べたばかりだった。



主水山の地蔵石仏は数体ある。

平成20年に拝見したときにはなかった立像の地蔵さんもある。

新しくなった地蔵堂内に並んだ地蔵さんの前。

御供の形態に特徴がある。

斜めに切った太いズイキの茎は2本。

扇を広げたような形の昆布はカンピョウで括っている。

その中心部に一本の棒のようなものはユバでできている。

割り箸に湿したユバをぐるぐる巻いている。

太くなったら箸を抜いて中空にする。

ズイキの後ろに一本のゴボウがあるのも特徴だ。

手のこんだ御供作りは手間がかかる。

これまでずっとそうしてきたが、継続は難しく、今年を最後した、という。

左側に洗米。

右にアズキを盛った地蔵さんのお供え。

珍しい形態と思われる御供に名をつけることはなかったが、これがほんまの見納めになった。

午後7時ともなれば地蔵さんの前に座った婦人たちが西国三十三ヶ所のご詠歌を唱えるつもりでいたが、暗雲は立ち止ったまま。

雨はいつ降ってくるかもわからない状況では無理がある。

今年のご詠歌は、ここより少し離れたところにある主水山自治会の集会所で行うことになった。

(H29. 4.20 SB932SH撮影)
(H29. 8.23 EOS40D撮影)
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小泉町市場・楠地蔵さんの数珠繰り

2018年11月05日 09時34分33秒 | 大和郡山市へ
朝8時からは安養寺の住職が来られて法要を営まれる大和郡山市小泉町の地蔵盆。

富雄川に架かる橋のすぐ傍の楠地蔵はご利益があると信ぜられ、手を合わせている光景は通る度に見ることがある。

その朝の法要を拝見したのは平成25年の8月23日である。

今から4年前のことであるが、もっと以前のように感じてならない。

富雄川に架かる橋の袂にある地蔵さんは「市場の楠地蔵」。

大和郡山市小泉町の市場垣内にある。

由緒書に「昔、富雄川下流から逆に流れついた楠の化石と俗称されている六字名号碑と半内の石地蔵名号碑の正面」。

続き文に「天正二年甲戌(1574)十一月十五とあり 光背正面 天明八戌甲(1788)正月二十四日以 助力、道入建之表裏 御神前 嘉永六(1853)発五歳 十二月吉日 施主市場半右衛門」とあることから刻印を判読されたのだろうか。

実物の2碑光背を拝見したが、刻印そのものが判別できず、まったくわからない。



六字名号碑と石地蔵名号碑の刻印が混ざって記されたような気がするので、判読しやすいように由緒書を区切ってみて読み取った。

“光背正面”というからには六字名号碑ではなく、地蔵石仏であろう。

由緒書に続き文がまだある。

「高さ六尺五寸巾 二尺五寸余厚さ一尺内 外板碑型で縦に筋の多い一種の水成岩(※堆積岩)だから楠地蔵と呼ばれる」。

「天明の地蔵の光背の右肩に淡赤く色付いている此れは 昔 此の前で相撲を取って戯れていた子供に此の右佛が倒れ掛かり下敷きになって膓(はらわた)が飛び出して死んだ其の時の血痕と云われている 恐ろしいが 一方で なんでも聴いてくださる有難い佛様だと言い傳へられている」とあった。

由緒文に句読点がなかったものだから、判読しにくい。読みやすく区切って補正した。

4年前の同一日。

朝8時からの地蔵法要を拝見したことがある。

法要するお寺さんは浄土宗派の安養寺。

年に一度のお勤めであるが、楠地蔵さんの営みは地元市場に在住する婦人たちは毎月の23日がお勤め。

楠地蔵さんに三巻の般若心経を唱えている。

8月23日は、朝の8時の法要に加えて午後4時からは数珠繰りもする。

今回、訪れた目的は数珠繰りをどのような形式でされているのかを拝見することにある。

4年ぶりにお会いする高齢の婦人たち。

「あれから、そのまま歳がいきましたわ」という。

それは私にとっても同じこと。

あの日から4歳もプラスした年齢になっていた。

拝見したかった大念珠。

それを納めていた数珠箱の表面の色具合を見て、江戸時代に違いないと思った。

その箱の上蓋を開けたら裏面に墨書文字が見つかる。



「上品数子 正□三巳癸年 河出浄頓」の文字だ。

「正」の字がある年号で三年。

干支の「巳」、「癸」があるのは正徳三年しか見当たらない。

正徳三年は西暦1713年。

今から300年以上も前に新調された大念珠であったことがわかった。

そのことを婦人たちに伝えたら驚いておられた。

どこの村、講中であっても同じように所有物が相当な年代ものとわかれば、一様に驚かれる。



大念珠数珠繰りの回数は10回。

数取りの道具は数珠でもなく、数取り木片でもない。

あっと驚くなかれのマッチ棒で数えるのだが、特に珍しいわけではなく、県内でときおり見かける数取り道具である。



数珠の輪の中に入った導師が小型の伏せ鉦を打って調子をとる。

「なむあみだー(ぶつ) なむあみだー(ぶつ)」を繰り返しながら数珠を繰る。

数珠繰りのテンポは割り合い早いほうだ。

付近にキン、キンの音が響き渡るが、街道をゆく人々の耳には聞こえないようだ。

大珠の房が廻ってくれば拝むように頭を下げる。

どこの数珠繰りであっても同じ様相が楠地蔵の前でも行われる。



およそ10分間の数珠繰りを済ませたら、束ねた数珠で無病息災、身体健勝をしてもらう。

これもまた、どこでもそうだが、数珠は肩から背中にかけてさすってもらえば、思わず手を合わしてしまう。



そのときも通行人は誰一人として立ち止まらない。

(H29. 8.23 SB932SH撮影)
(H29. 8.23 EOS40D撮影)
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南郡山町・大織冠仲仙寺の地蔵盆

2018年11月04日 09時41分48秒 | 大和郡山市へ
近くに住んでおりながら30云年間も知らずにいた大織冠仲仙寺の地蔵盆。

先に聞いていたのは地蔵盆ではなく、毎月の24日に営まれる地蔵法要である。

訪れた日は平成27年1月24日であるが、法要は朝の6時に済ましたと安寿さんが話していた。

本尊の石造地蔵菩薩立像は毎月の24日、正月の三ガ日に法要されるので、特別に拝観することができる。

できるといっても安寿さんの了解を得なければならない。

毎月の法要時間は不定時。

特別に決まっているわけでもないから、なかなか難しい。

昨年の、と云っても平成27年12月31日の大晦日

除夜の鐘を取材させてもらった日から1年と8カ月も経ったこの日は夏の地蔵盆。

準備を調えていた場に寄せてもらったら安寿さんが喜んでくれた。

それよりもお身体はいかがですか、と身体状況を心配してくださる。

寛文年間(1661~1679)に郡山城主の本多政勝が生駒の蓮台寺にあった本尊を遷したと伝わる地蔵石仏がある。

高さはおよそ170cm。丸彫りの地蔵石仏の手に金属製の錫杖をもつ。

大織冠の地は地蔵山と呼ばれている小高い丘。

そこに建つお堂は地蔵堂とも呼ばれている。

大和郡山市内の城下町に柳町がある。

商店街がある中心部であるが、この地にも柳町の町名がある。

仲仙寺から見れば、市内中心部の城下町からは遠く離れている。

文禄検地帳に記された新開地であった地蔵山は柳町の枝村であった。

仲仙寺が建つ地区の行政地は南郡山町と云うが、ゼンリンの住宅マップで確認しても柳町である。

南郡山町の飛び地でもあるのだろうか。

ネットで所在地の698番地を調べてみたら、柳町であった。

南郡山町ではなく飛び地の柳町である。



地蔵盆が始まる直前に法要される安寿さん。

般若心経を唱えて、この日の参詣者の身体健勝願う。



地蔵盆の運営は東西の大職冠自治会が主で、法要関係は仲仙寺の安寿さんが担う。

地域の子どもたちに来てもらって数珠繰りをすると聞いていた。



それだけであると思っていた地蔵盆には金魚すくいに今年が初のシャボン玉飛ばしもある。

小さな子どもたちにとっては地域の夏祭りみたいなものだ。

普段ならこんなにいっぱいになることはない。

シャボン玉を飛ばす道具も準備した。



金魚すくいの道具は手配されたが、シャボン玉道具は手造り。

ストローの口を工作して玉になりやすいように工夫した。

慣れない子どももいるが、年長者の真似をしたら、ふわーっと浮き上がった。

飛んだシャボン玉はどこまで飛んだ。

あっちへ、こっちの風に揺られて飛んでいく。



団扇で扇いで追いかける幼児もいる。

普段の境内では見ることのない賑やかさ。

地蔵盆案内は旧村60戸だけでなく新町も含めた自治会は218戸に配る。

すべてに通知されるから大にぎわいの様相であるが、大織冠鎌足神社までは届かない。

本尊は地蔵堂に安置されているが、子どもたちが数珠繰りする地蔵盆の地蔵さんは外にある2体の石仏地蔵である。



左の石仏地蔵は高さが1mほど。

深い肉彫りに右手は錫杖、左手に宝珠をもつ。

お菓子や飲み物を供えて線香を灯す。

2体の地蔵石仏を納める祠の前にある花立てがある。

一つは「交通安全地蔵尊」で、もう一つが「大職冠念佛講」の刻印が見られる。

数珠繰りする場に白いテントを張っていた。

この日の天候は怪しい。

地蔵盆が始まる1時間前には暗雲がやって来た。

遠くから聞こえる雷ごろごろが近づいてきたが、結局は降らずに済んだ。



雨が降る可能性もあるから張ったテントの奉納者も「大職冠念佛講」。

昭和44年8月に寄贈された講中は19人。

「あの中に、うちのばあさんの名前がある。あとを頼むとは云わずに亡くなった」から代を継ぐものこともなく解散したという。

同寺に念仏講があったことは平成27年1月24日に訪れたときに知った。

講の所有物が遺されていたから、その存在を知っていた。

遺物はこれより始まる大念珠に伏せ鉦である。

一つは「室町住出羽大掾宗味作」の刻印があったことから類事例より手繰っておそらく300年前の代物。

そのころから念佛講があったか、どうかは実証もできないが、大和郡山市内の旧広島町では子どもが導師となって鉦を叩いていると安寿さんに話したら、それは今後のためにも良いことだから、子どもに頼んでみましょうと云った。

子どもに託した大念珠数珠繰りの鉦叩き。

初の試みに大役を預かった小学6年生の男の子は笑顔で応じる。

雷音は遠ざかっていくと同時に鳴きだしたツクツクホ-シ。

続いてジージーと鳴くアブラゼミも後追いする。



そうして始まった地蔵盆。

安寿さんは交通安全地蔵尊に向かって心経を唱える。



テント内では子どもたちが輪になって大念珠を手にしている。

唱える心経が聞こえている間はじっと待っている。

さっきまで鳴いていたセミの声も静かになったが、輪になる子どもたちの賑やかな声が逆に広がる。



導師は安寿さんから指名された男の子。

輪の中に入って鉦を叩く。



その間に唱える安寿さんの後ろはワイワイガヤガヤの子どもの声。

賑やかすぎて心経がまったく聞こえないのも仕方ないか。



昨年は40人も子どもが集まった。

今年はさらに増えて47人にも膨れ上がった。

大念珠ではあるが、さすがに全員の子どもは入ることはできない。

「なむあみだぶ なむあみだぶ」と安寿さんが唱える「なむあみだぶ」の調子にあわせて鉦を打つ。

それと同時に数珠が繰り出した。

「なむあみだぶ なむあみだぶ」を繰り返す大きな声に鉦も良い調子。

にわか導師であっても立派に役をこなす男の子。

いつまで数珠を繰っていくのか。

以前は、長く繰っていたから、「いつまでやんのん」と子どもたちから云われたそうで、それからの数珠繰りは3回にしたという。

地蔵盆にやってきた子どもたちは赤ちゃん、幼児から上は高学年小学生まで。

他府県から地区に転居されてきた子どもたちがほぼ総数。

旧村の子どもは少ないが、提灯を吊るした境内は新町の子どもたちで溢れていた。

なかでもあどけない幼子の仕草があまりにも可愛かった二人に目がいく。



「あんた、仕事してきてや」と言ったかどうか知らないが、「じゃ、金もうけに行ってくるわ」と言って仕事場に出かけた、なんてことも想像させる。



そういや、大昔の大昔。

幼児だったころの私である。

ゴザを敷いて「ままごと」なる遊びをしていた遠い昔を思い出す。

そんな様子を見守る母親たちの姿も微笑ましい。



行事取材に誘ってくださった安寿さん、ありがとうございました。

(H29. 8.23 EOS40D撮影)
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櫟枝の大峰山上六十六度供養塔

2018年07月12日 06時35分14秒 | 大和郡山市へ
気になっていた供養塔を拝見したくなって車を走らせた。

供養塔にある刻印は「大峰山上 六十六度 供養」とある。

裏面は西日に当たって文字の判読は難しい。

昭和5年生まれのAさんとお会いしたのは、先月の5月3日

Aさんが云うそこに建てている供養塔である。

大和郡山市の櫟枝町に住む人が66回も大峰山上詣りをした記念に建てたと話していた。



上段の文字は風化が激しく、崩れている部分があってほとんど読めない。

「大□□□□」、「右□□□三谷」に世話人の連名に6人もあったが、年号はないようだった。

(H29. 6.10 SB932SH撮影)
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横田町にかつてあった植え終い

2018年07月11日 09時23分37秒 | 大和郡山市へ
田植えを終えた農家の方の田植え終いの在り方が聞けるかもと思って大和郡山市の横田町に出かけた。

数年前になるが、大和郡山市で観光ボランテイアガイドを務めるIさんからの情報である。

ガイドの下見に訪れていた横田町の畦道に見たことのないようなモノがあったという。

その写真を見せてくれたがあんばいわからなかった。

場所は西名阪高速道下の側道だったという。

その話しをしてくださったのは平成26年の4月10日。

田植えにしては早すぎるからたぶんに苗代に立てたお札若しくは松苗であるかもしれない。

ただ、私のメモに残されていた情報は平成25年の6月10日であった。

そのメモの内容は「10日過ぎ辺りに田植えをすべて終えてナエサン二把を広げてオニギリを載せる」だった。

苗代ではなく、田植え仕舞いにおける豊作願いの習俗。

苗さんを供える習俗はさなぶりである。

思い当たるその地を探してみたが見つからなかった。

あれから4年も経った。

Iさんの記憶を頼るしかないと思って電話した。

かつてあった横田の寿司屋の筋辺りを東に歩いて行ったところだという。

そうであれば横田町の北方にある圃場である。

そのお供えについて近くにおられた婦人に尋ねたら、そう答えてくれたという。

Iさんが伝えるその婦人の口調で思い出した。

たぶんに間違いなく平成21年5月6日に苗代の水口まつりを取材させてもらったOさんの奥さんだ。

奥さんは骨折で2年前から療養する身になったと聞いている。

それなら旦那さんに、と思って出かけたこの日は田んぼの水溜めをしていた。

一部の田んぼは畦に苗箱を並べていた。

もうすぐ田植えを始めようとする時期にきていた。

田んぼにおられた二人の男性に聞けば、この日は池水の引き込み。

それぞれの農家さんは田植えが忙しいということだった。

そこよりさらに東へ行けばOさんの苗代田がある。

小屋にいたOさんに声をかけた。

久しぶりにお会いするOさんに尋ねたさなぶりのこと。

Oさんは85歳。

そんなことしていなかったという。

えっ、である。

見たことも聞いたこともない、というから、またもやえっ、である。

そんなはずではないと思って、Iさんに再確認の電話をする。

場所、人物像も同じであるが、実際は田んぼではなかった。

Oさんの奥さんが話していたのは、田植えをすべて終わったあとのこと。

田植えに残した2把の苗さんを自宅に持ち帰った家の竃に供えたということだった。

それならわかるし、それがさなぶりの習俗。

竃の蓋に供えたという事実もわかった。

奥さんは今も療養中の身。

やや歩けるようになったものの歩行支援の要る介護の身。

入院中の身だから聞いておくとOさんが云ってくれたが・・・。

Oさんが記憶にないのは、こうしたさなぶりの在り方すべてを仕切っていたのは奥さんである。

そのことをまったく今の今まで知らなかったというのも事実であろう。

介護の身となれば退院はできたとしても畑作業は無理だろう。

しかもOさん曰く、今は竃もないIHキッチン。

敢えなく断念したO家のさなぶりであるが、かつての状況はリアルに思い浮かべることができる。

停めていた車に戻ろうと農道を歩いていたら農小屋から話し声が聞こえる。

もしかとしてご存じであるかも、と思って声をかけた二人の婦人。

83歳のKさんと75歳のYさんのお二人。

実は3姉妹で、もう一人の姉とともに暮らしていた実家。

その家にはO家と同様に竃があった。

小さいときにしていたが、今はもう・・・という。

横田町は、かつて5カ所にあった農小屋で見せる“立山“があった。

立山の造りものは青年団がしていた。

東にある天理市の櫟本の方が数は多かったと述懐される。

また、横田に伊勢講があった。

毎月集まる敬神講や庚申講に行者講もあった。

庚申講は複数の講組があったが、講はみな解散した。

伊勢講や庚申講の掛図は返したという。

講の寄り合いはいずれもご馳走しやなあかんから朝から忙しかった。

解散する最後はパック詰め料理にしたそうだ。

講はみなやめたが、法螺貝に掛図もあった行者講の道具は講元が保管しているという。

そういえば横田町に鎮座する神社である。

ずいぶん前のことだが、八幡神社に簾型の注連縄があった。

撮っておこうと思ったときは、とき既に遅しでやめてしまった。

そのことを聞いたのは平成25年の11月12日

西興寺で行われる十夜であるが、営みは拝見できなかったが、知人のSさんにお願いして十夜の供養袋を取材したときである。

注連縄は一般的な作りに、そして門松もしなくなった村行事の変容を思い出して、隣村の櫟枝町に移動する。

(H29. 6.10 SB932SH撮影)
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矢田町寺村の水口まつり

2018年06月15日 09時52分51秒 | 大和郡山市へ
この日は2年ぶりに参加した大和郡山のボランテイア自然観察会だった。

観察会を終えて解散したら、私自身の観察に移る。

矢田町にはあちらこちらに水口まつりがあるが、調べるエリアはとにかく広い。



矢田坐久志玉比古神社付近の北村、横山、中村地区の集落の水口はイロバナに綱掛行事にもらったお札を立てる。

寺村、垣内地区は矢田寺(金剛山寺)の修正会のごーさん札。



これがそうであるが、垣内の垣内は東明寺八阪神社の御田植祭にもらった松苗を立てると聞いているが、未だ発見できていない。

ちなみに矢田町の南の端にある山田原地区にも神社はあるが、関係する行事がないことからイロバナだけである。

(H29. 5.14 EOS40D撮影)
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宮堂町の水口まつり

2018年05月29日 07時20分25秒 | 大和郡山市へ
イロバナにほとんど萎れがみられない。

鳥獣除けのネットを全面に被せている状況から判断して前日の日曜日に苗代作りをされたと思われるこの圃場の管轄はどこの地区なのか。

ネット地図で検証すれば大和郡山市宮堂町、川西町下永に天理市二階堂がほぼ交差している地である。

昨年の5月10日である。

雨が降る日であった。

通りがかったこの場にイロバナがあった。

お札はない。

たぶんにイロバナだけを立てる農家さんだと思っていたこの地を示すカーナビゲーションは天理市二階堂だった。

今年も同じ場所にあったイロバナにお札。

文字は折りたたんだ内部にあるから判読はできない。

苗代田は鳥獣除けにネットを張っているから内部に入ることもできない。

撮る位置を替えて撮った写真を大きく伸ばした。そ

こにあった文字は半分であるが、なんとか判読した。



その結果は「観音寺」。

下永にあるお堂は八幡神社境内にある旧白米寺だ。

正月初めに宮守五人衆がお札刷りをすると聞いているが観音寺ではない。

二階堂のお寺は融通念仏宗派の善照寺。

お札そのものの存在はない。

で、あれば大和郡山市宮堂町の観音寺しかない。

住宅地図精度で調べてみれば苗代田の所在地は宮堂町であったが、生憎のところ神社行事も含めて取材不可だった。

あえなく断念して今日に至る。

(H29. 5. 8 EOS40D撮影)
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