マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

鹿背山の勧請縄

2017年10月31日 08時04分47秒 | もっと遠くへ(京都編)
木津宮ノ裏に鎮座する御霊神社の砂盛りを見届けて近くにある木津川市鹿背山(かせやま)に向かう。

史料によれば村の入口に勧請縄を架けるとあった。

それははっきりしている。

昨年のお盆のときだ。

立ち寄った日は平成28年の8月14日

村の入口に架かっていた勧請縄を現認していた。

中央の縄に挿した細い竹があった。

それは御幣であろうと思っていた。

また、葉っぱがちりちりになっていた植物の枝も挿していた。

勧請縄であることからたぶんにサカキの木。

それを確かめたくてやってきた時間帯は午後2時40分。

まさに思っていた通りの仕掛けであった。

(H29. 1.15 EOS40D撮影)
コメント

木津川市木津・御霊神社の砂盛り御幣

2017年10月30日 09時19分39秒 | もっと遠くへ(京都編)
午後2時過ぎに立ち寄った木津川市の木津宮ノ裏に鎮座する御霊神社。

昨年末の平成28年12月10日に訪れたことがある神社の境内に砂モチがあった。

その後、というか、正月の三が日を過ごした境内はどのようになっているのか。

それを見たくて途中下車。

境内中央にあった砂モチ。

実は氏子さんの話しを聞いていないものだから、純粋な砂モチではないかもしれない。

ここは門松がどうも見当たらない。

枯れ葉落ち葉の量は減ったが、相変わらずの量もある。

目立つわけではないから多少の清掃はあった模様だ。

前回に拝見したときと何かが違う。

その違いは白い幣である。

サカキもある砂モチは御幣を立てる砂盛りではないだろうか。

(H29. 1.15 EOS40D撮影)
コメント

木津川市相楽神社の御田祭

2017年10月29日 09時12分42秒 | もっと遠くへ(京都編)
奈良県内で行われている伝統行事の一つに年頭にあたって、その年の豊作を予祝するお田植え祭りがある。

牛面をつけた牛役に田主が所作をする農耕を表現する形がある。

その形に違いがあると知ったのは随分前のことである。

ネット調べに突如として登場したどなたかのブログ記事である。

場所は京都府の南部になる木津川市相楽清水。

その地に鎮座する相楽(さがなか)神社で行われる御田(おんだ)行事である。

昭和59年10月に発刊された京都府立山城郷土資料館編集する展示図録の『企画展―祈りと暮らし―』が手元にある。

地区の砂撒き行事を下見していた際に拝読した史料である。

京都府南部の神社で行われている“御田植祭”事例を掲載している。

一つは本日、立ち寄った相楽清水相楽(さがなか)神社行事である。

その他に木津川市吐師(はぜ)・大宮神社、木津川市山城町平尾・湧出宮(わきでのみや)、相楽郡精華町祝園(ほうその)・祝園神社をあげていた。

場所だけでも確かめたいと出かけた昨年末の平成28年12月30日

たまたまお会いできて、行事のことを話してくれた人は、本日の午後に行われる御田(おんだ)の田主を務めるNさんだった。

Nさんは神社行事を務める宮守さん。

是非とも拝見したいと思うし出たら、どうぞ、であった。

明日香村上(かむら)の民家で行われる小正月の小豆飯御供巡拝を拝見してやってきた。

着いた時間帯は始まる直前。

訪れた大勢の見物人は神社拝殿手前にある拝観仕切り板の冊を囲んで見ていた。

旧相楽村の「大里」、「曽根山」、「北之庄」。

それぞれの実行組合が奉納された献酒の御神酒がある。

斎主による神事があったのか、どうかわからないが、着いたときはすでに所作が始まっていた。

大慌てで撮影にとりかかるが、冊どころか拝観者に遮られて、あんばい撮れなかったことを云い訳にしておく。

相楽神社で祭祀される一連の正月年頭の宮座行事は京都府の無形民俗文化財に指定されている。

一連になる行事は1月14日の「豆焼」から始まって、翌日の15日は「粥占(かゆうら)」と「御田(おんだ)」がある。

その次は翌月の2月1日の「餅花まつり」。

そして旧暦正月十五日(※平成29年は2月11日)に行われる「水試(みずため)」である。

中世的な宮座祭祀の在り方がよく残されているということで昭和59年に府の文化財に指定された。



前日に行われた12カ月における「豆焼」の結果が張り出されていた。

「豆焼」については拝見していないが、平成19年7月に慶友社より著者印南敏秀氏が発刊した『京文化と生活技術―食・職・農と博物館―』に短文で紹介している。

「神社の注連縄を焼いた灰の上に瓦をのせて年越しのいり豆を12個並べて焼く。豆を焼いてできた筋目で、その年の毎月の雨量を占った」と、その手段を書いていた。

「水試」は平成29年2月11日に行われる旨、表示してある。

結果は当日に記される「寸」「分」である。

また、本日の午前中に行われた早稲(わせ)、中生(なかて)、晩稲(おくて)の三品種の「粥占(かゆうら)」の結果も発表されているが、これら占い結果を意識している拝観者は多くないように思えた。

拝観者の動きから想定するに、どちらかと云えば御田の所作だけを見たさに来られているように思えるのである。

三品種、それぞれの小豆粥の詰まり具合で判定する「粥占(かゆうら)」であるが、筆者が見る限りであるが、豊作のようだ。

相楽神社の判定基準はわからないが、優良までとはいかない良の判定ではないだろうか。

その件については付近を探してみたが、見つからなかった。

結果は農家の人、それぞれが見て判定するのだろうか。

ただ、『京文化と生活技術―食・職・農と博物館―』に掲載されている写真に、結果があった。

掲載写真では早稲が九分、中生は五分で、晩稲が三分だった。

写真はお米だけでなく綿が九分、大豆が七分、芋は三分、黍(きび)は八分で梨も八分だった。

写真は昭和59年度に豆焼した結果もあることから、当時は果物の梨までも占っていたことがわかる資料でもある。

奈良県内で行われている「粥占(かゆうら)」行事は3カ所。

奈良市石木町・登弥神社の筒粥祭に大和郡山市矢田町・矢田坐久志玉比古神社の筒粥占祭、天理市新泉町・大和神社の粥占である。

大和神社の粥占は秘儀につき一般拝見は認められていない。

石木町・登弥神社の筒粥祭は神事を終えて作物ごとの吉凶を拝殿に貼り出す。

その結果を見に来るのは近くの農家さんだ。

一方、矢田坐久志玉比古神社の筒粥占祭の結果は神社内に貼り出すことなく、後日に行われる南矢田地区の御日待講祭の際に秘儀とされる12カ月の降水量を予祝する「水試」結果とともに披露される。

日待ち行事に集まるのは氏子の清水垣内と垣内の人たち。

大半が農家の人である。

なお、「豆焼」行事は奈良県内で唯一。

宇陀市大宇陀野依・白山神社で行われる豆占いである。

これもまた12カ月における降水量の予祝である。

粥占も豆焼(豆占)も豊作を予祝する行事であるが、御田祭行事のように多くはない。

極めて限定的な地域でされているのだ。

さて、相楽(さがなか)神社の御田(おんだ)行事である。

進行は『御田祭次第』に基づいて行われる。

進行役は「定刻になりましたので、ただいまより相楽神社八幡宮の御田祭神事を執り行います。この神事は昭和59年に京都府指定の無形民俗文化財になっています」と始まりの詞を伝える。

一連の所作に登場する役は田主(宮守)の「太夫」に田植え役の早乙女(ソノイチの名で呼ばれる巫女、氏子)。

囃し手の地謡に音頭取りの太鼓打ちが並ぶ。

御田の所作は①鍬初め(くわぞめ)から始まって、②鋤初め(すきぞめ)、③野もち肥、④厩の肥、⑤苗代締め、⑥畦こね畦塗り、⑦煙草一服の休憩、⑧種蒔き、⑨春田打ち、⑩田植え、⑪神酒授与に⑫謡いの高砂で終える。

種蒔きの所作は巫女、氏子が務めるが、所作のほとんどは太夫である。

目出度い詞で述べる口上に所作をする姿はまるで独り舞台のようにも思える。

所作ごとに謡われる囃し手の地謡は古風な田植え唄。

これらは神事であるが、御田の途中で軽口やかけ声もかかる。

滑稽な一面も見せる御田の所作に魅了されるのである。

御田所作の諸道具がある。

木製のヒラグワにオーコで担ぐ苗籠もあれば曲げのある棒もある。

到着したころはすでに始まっていた。

初めに所作されたのは牛耕のようだ。

曲げの棒は耕牛に見立てた道具である。

紅白仕立ての綱で牛を操っていたと思われるが、拝見していないので何ともいえないが、どうやら2番の所作の鋤初め(すきぞめ)に登場した模様だ。

牛耕の場合に用いられる農具にカラスキがある。

その所作が鋤初めである。

もう一つ重要な道具、というか面である。



翁の面は尉(じょう)(※肉色尉)。

太夫が面を被って登場する。

太鼓が打たれて烏帽子を被った太夫が神殿に進み出て述べる祝詞口上は「世の中よければ ほなかのじょ(穂中の尉)へ参りて候」である。

そして始まった最初の所作は「鍬初め」。

「日も良う候程に鍬初めを せばやと思い候」。

「ひと鍬打ち候らえば ふるさき(古崎)のカカ(香)、はっとして候」。

「ふた鍬打ち候らえば、こわひのカカ、、はっとして候」。

「み鍬打ち候らえば、西の国、古米、早米、絹糸、綿、染物迄此の所へ すっぱと打ち寄せて候」。

田を耕す所作に使われたヒラグワに奉納記念に記した墨書文字は「奉納 栗本幸次郎 昭和四十二年一月吉日」とあることから、当時に務められた宮守さんが寄進されたと思われる。

2番に鋤初め(すきぞめ)。(※カラスキの断片的道具を用いる)

「日も良う候程に鋤初めを せばやと思い候」。

3番は野もち肥(こえ)。

四方を順に、四荷(しか)持つ。

そして、即興に、四方の土持ちをする。

4番は厩(うまや)の肥(こえ)。

四方を順に、四荷(しか)持つ。

そして、即興に、四方へ肥を撒く。

このシーンは太夫が観客(この場合は進行役)に向かって肥えを撒いたのであろう。



「臭いなぁ」と云いながらのけ反って避けたのかどうか、わからないがどっと笑いがでた。

引き続いて四荷(しか)を担いで四方を廻ったのだろうか。



5番は苗代を締める。

口上詞章は「苗代を しめばやと思い候」。

6番は畦こねに畦塗り。



太夫は「畦こね、畦塗りを せばやと思い候」を口上されて所作をする。



畦捏ね、畦塗りは田んぼ四方に亘ってまんべんなく作業する。

本チャンの仕事をしている人ならわかるが、労力の要る作業である。

長丁場するには無理がある。

ときおり休憩もとりたくなる。



そんなわけの身体休めの休憩であるが、演技として所作される煙草一服である。

農作業の一服姿も、面白おかしくウケ狙いも即興で考えた世間話で間をとる。

数えて7番目になる台詞に参列する氏子たちが軽口やかけ声をかけるほどにどっと笑いがでる。

8番は種蒔き。

左手に籾種を入れた枡をもった太夫は「日も良う候程に苗代を見回うて、水を入れ、種を蒔かばやと思い候」。

その台詞とともに発声される「一粒やう万歳 まちに万石、せまちに千石、南無八幡大菩薩、南無八幡大菩薩」(※節)。

そして、種蒔する際に、まずは正面に向かって「蒔こよ、蒔こよと福の種を蒔こよ」(※節)を繰り返し唄う。

次は北向きに「近江の国を通れば、賀茂の長者のとう(問う)みこす。葺合(ふきあい)に行き違い、浄土はどこへぞ、相楽の御荘(みしょ)へ」(※節)。

続けて太夫は「福の種を蒔きに参(ま)かるなりと申せば、吾も具してましませ。易き程の事とて、かいぐ(介具)して参りたり」(※詞)。

続けて「蒔こよ、蒔こよと服の種を蒔こよ」(※節)を繰り返す際に籾種を撒き散らす。

太夫は右手にもった扇を、その方角に差し向けて、次の東に向けて「陸奥の国を通れば、とう丸長者のとうみこす。葺合に行き逢い、浄土はどこへぞ、相楽の御荘(みしょ)へ」(※節)。



太夫は「福の種を蒔きに参かるなりと申せば、吾も具してましませ。易き程の事とて、かいぐ(介具)して参りたり」(※詞)。

続けて「蒔こよ、蒔こよと服の種を蒔こよ」(※節)を繰り返す。

次は南に向いて「大和の国を通れば、市もり長者のとうみこす。葺合に行き逢い、浄土はどこへぞ、相楽の御荘(みしょ)へ」(※節)。

太夫は「福の種を蒔きに参かるなりと申せば、吾も具してましませ。易き程の事とて、かいぐ(介具)して参りたり」(※詞)。

続けて「蒔こよ、蒔こよと服の種を蒔こよ」(※節)を繰り返す。

次は西に向いて「河内の国を通れば、みの丸長者のとうみこす。葺合に行き逢い、浄土はどこへぞ、相楽の御荘(みしょ)へ」(※節)。

太夫は「福の種を蒔きに参かるなりと申せば、吾も具してましませ。易き程の事とて、かいぐ(介具)して参りたり」(※詞)。

続けて「蒔こよ、蒔こよと服の種を蒔こよ」(※節)を繰り返す。

太夫は続けて「万石の種を時の間に蒔いて候」。

9番、春田打ち。

再びヒラクワを手にして登場する太夫は「日も良う候程に 春田を打たばやと思い候」。

「打つ出の小槌に 春鍬がそよの」(※節)を繰り返す。



「北代(きただい)も千町も、打つ出の小槌に 春鍬がそよの」(※節)を繰り返す。

「東代(ひがしんだい)も千町も、打つ出の小槌に 春鍬がそよの」(※節)を繰り返す。

「南代(みなみんだい)も千町も、打つ出の小槌に 春鍬がそよの」(※節)を繰り返す。

「西代(にしんだい)も千町も、打つ出の小槌に 春鍬がそよの」(※節)を繰り返す。

太夫は「合わせれば四千町、四千町の田をば、時の間に打ったりとー」。

「打つ出の小槌に 春鍬がそよの」(※節)を繰り返す。

太夫は「萬町の田をば、時の間に打ったりとー」。

10番、田植え。

台の案に乗せているのは氏子に配られる松苗の松と竹に挟んだごーさん札だ。



ごーさん札があるということは、かつて神宮寺があった証拠である。

江戸時代は八幡宮と称されてきた相楽神社に神宮寺と想定される真言宗派の不動寺があったそうだ。

不動寺は文化元年(1804)に無住となり、その後の廃仏毀釈令がでた明治時代に廃寺となり撤去された。

当時、建っていた場所は南の仮宮の南側のようだ。

江戸時代、旧相楽村に宮座があったことから僧侶と村神主による神仏混合の行事を継承してきたのだろうが、いつしか途絶えたと考えられる。

奈良県内の行事においても、僧侶と村神主による神仏混合の行事を今尚継承されている事例は多い。

ここ相楽神社にも古事を示す何かが見つかれば、と思ってしまうのであるが・・・。

太夫は「日も良う候程に 苗代を見回うて 田植えをせばやと思い候」。

続いて「早乙女(さおとめ)たち 拵え(こしらえ)候えぇー」。

その詞をもって早乙女3人が登場する。

早乙女は正面を向けば、お尻は拝観仕切り板の冊側になる。

後へ、後ろへと後ずさりしながら、模擬苗を植える所作をする。



その際に太夫が謡う詞章は「若苗とるとよ、女子(おなご)の手早や、」。

引き続いて地謡は「とる手もゆくや、左手(ゆんで)もゆくや」。

太夫の「苗代の隅々に何故に立てるぞや、」に続いて地謡は「栴檀(せんだん)の木かや、松、柳かや」。

太夫の「苗代の隅々の水は鏡(かんがみ)かんな、」に続いて地謡は「かんがみかんな、思い人の影を見や、水はかんがみかんな、かんがみかんな」。

長めの松苗は植える所作を繰り返しながら後ずさりする。

奈良県内の事例では一束ごと田植えの所作をするごとに田んぼに見立てた処に置いていくのが多いが、相楽神社では田植えされた痕跡は残らない。

太夫の「西の三反、田の代かく、しろうま(白馬)のそばへ寄るは如何に、」に続いて地謡は「とれかし口、又やはら、しなやかに」。

太夫の「おおくの白石の 燕(つばくろ)の巣くうたる 今年の稲は、」に続いて地謡は「稲 三把に米(よね)八石」。

興味を持つのは早乙女が被っている竹を垂らしたかとのような造りの日除け笠である。

太夫の「京から下るなる、福まん、この稲を此の処にや、」に続いて地謡は「此の処にや、つくりにしようとてや、」。

太夫の「京から下るなる、ふしくろの稲は、」に続いて地謡は「稲 七把に八升ついて、やはに九升(ここのます)」。

太夫の「せぞの せぞの 千載(せんざい)なる、なふらきの藤の花、誰に賜(たも)うとてや、」に続いて地謡は「我らに賜うとてや、男、つきを問うて」。

太夫の「うえ、うえ、早乙女(そうとめ) 笠買うて着せうぞ、」に続いて地謡は「やうら、嬉しや、しってんや、昼は着せようぞ、夜は抱いて寝よぞ」。

太夫の「ひぐらし とりとよ、笠の上を回るか、」に続いて地謡は「植えとて回るか、上がれとうて回るか」。

そして、地謡の「追い苗やー 追い苗やー」の声に合わせて、模擬苗の追苗をする。

田植え仕舞いに太夫は「田を作らば、門田にもようありや、あたらさびらき(早苗植え初め)、たびら(野草花)咲いたり、」に続いて地謡の「ありやとんど」をもって御田のすべての所作を終える。

続いて、11番、神酒授与。

進行役の合図に御神酒授与が始まる。



上座から順に一人ずつカワラケに注ぐお神酒。



合わせてお酒の肴の黄色いコウコに煮豆も配膳されるが、盛るのはお皿替わりの半紙に、である。



盛ってもらったら授与してもらった人も給仕もお互いが、豊作を願って手を合わせていた。

御神酒授与の最中に流される目出度い曲の「高砂」がある。

授与の儀が一巡して、すべての人たちがお酒に肴をいただいたら謡曲を止めて終える。

一同は本殿に向かって2礼、2拍手、1礼をされたら進行役は「これをもちまして、相楽神社八幡宮の御田祭の神事を無事終了いたしました。みなさま、お寒い中、ご協力賜りありがとうございました。お気をつけて折帰りください」とアナウンスされて、拝観者は解散した。



御供下げしているのも見やずに、一般の拝観者は帰ってしまったが、旧相楽村の「大里」、「曽根山」、「北之庄」の氏子は御田祭に供えられた御供を村代表の人から貰い受ける。



3種の御供はありがたくも行事を取材させてもらった私どもにもくださる。



大きなごーさんの朱印が三つも押されたお札。

文字は特にない。

このお札は割った竹に挟みこんでいた。

もう一つは御田の所作、つまりは田植え所作にも用いられた松苗である。

もう一つは数粒の籾だねを納めてある相楽神社の御供である。

(H29. 1.15 EOS40D撮影)
コメント

サークルK天理柳本店のチーズカレーまん・チーズたっぷりピザまん

2017年10月28日 08時40分49秒 | あれこれテイクアウト
上(かむら)上垣内の取材が長引いた。

話してくださる民俗話題が豊富で尽きない。

思っていた以上に長居をしてしまった。

次の取材地に向かわねばならない。

申しわけないが次回に、ということで失礼する。

昼12時を告げる私のケータイ電話がホーホケキョと鳴いていた。

とにかく何でもいいからお腹に入れるものを、と車を走らせる。

走る街道にスーパーはないがコンビニエンスストアが見つかる。

明日香村を抜けて最初のコンビニをと考えていた。

天理市を南北に走る街道にあったお店はサークルKの柳本店。

外での取材に身体が冷えた。

温かいものを欲しがる身体はホットを求める。

いつもならおにぎりか弁当ぐらい。

時間がないから弁当は求めない。

おにぎりも冷たいから求めない。

尤もレンジでチンすればいいのだが・・・。

店員さんが居る場所に温かいものが目についた。

豚まん、肉まん、餡まんではなく最近流行りの中華まん。

黄色い色にオレンジ色が気に入った。

黄色い中華まんはチーズカレーまん。

税込価格の130円。

もうひとつのオレンジ色はチーズたっぷりピザまん。

セール期間中に乗っかって20円引きの税込価格が100円。

これってお買い得。

製品には表示はないが塩分量は1個につき1gぐらいであろうか。

こういう商品はどこにも表示されていないからとても不安になる。

レジで支払った際に目にした黄色い小袋。

カラシである。

豚まんには必須のカラシ。

それがあってこそ豚まんの美味しさが倍増する。

大阪人なら当たり前のカラシを頼んだら店員さんはキョトンとしていた。

袋に入れてくれた二つの中華まんを撮る。

いやらしい色でもない中華まん。

目立たない薄皮からがっつり口行き。

中からジュワー。

チーズ感はあまり感じないがとても美味しい。

特に気に入ったのは具が目いっぱい入っているのだ。

濃くもない優しい味に惚れ惚れする。

帰宅してからネットをみればチーズカレーまんはCoCo壱番屋が監修したらしい。

(H29. 1.15 SB932SH撮影)
コメント

明日香・共同墓地の小正月風習は皆無

2017年10月27日 09時33分36秒 | 明日香村へ
午後は明日香村を離れて北上する。

少しの時間も調査に費やす。

飛鳥民俗調査会が調査・編集し、昭和62年3月に財団法人飛鳥保存財団が発行した『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』もあるが、その一部を掲載した昭和56年から62年にかけて発刊された『明日香風』が手元にある。

昭和60年1月に発刊された『明日香風―13号―』に小正月のビワの葉乗せ小豆粥のことを書いてあった。

1月15日は小正月。

川原でもトンドの火で煮ていた小豆で粥を炊いた。

神仏から家の戸口に墓にも供える、とある。

また、昭和62年1月に発刊された『明日香風―21号―』の「明日香の民俗点描」に載せた“季節の神饌”テーマ。

それが墓地に供えた小豆粥であった。

カラー写真で紹介する解説文は「1月14日の夕方(一部の地域では1月15日の朝)のトンドの火を提灯等で持ち帰り、小豆粥を炊く。

この小豆粥を15日の早朝から、家の隅々、家敷周り、田畑、ムラの神仏などに供える。

この際に、ビワの葉に盛って供えるところが多い。

稲渕では古くはユズリハの葉を用いた家もある。・・・中略・・・明日香村における小正月の小豆粥は、小正月の来訪霊のための供物・・・神饌と解釈できる」とあった。

執筆は大阪城南女子短期大学講師(当時)の野掘正雄氏。

『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』を調査・報告した飛鳥民俗調査会の一人であった。

掲載されていた写真は墓石の前にいっぱい並べていたビワの葉に盛った小豆粥。

その数、なんと45枚もある。

壮観な情景に驚くばかりであるが、現状はどうであろうか探してみる。

掲載写真に「稲渕・阪田・祝戸の共同墓地の小豆粥」とあるから、ここに違いないと断定した。

探し当てた墓地は数段に分かれている。

そう思ったのは六地蔵が二つあることだ。



下段というか入口付近にあった六地蔵は3体、3体の分かれ石仏。

もう一段高い所にあった六地蔵は造りも石も新しいように思えた。



大字の違いであるのかわからないが、この六地蔵を含めて各戸の墓石にはまったくと云っていいほど皆無だった。

昭和60年初めにはどこともしていた小正月の風習は30年も経てば皆無になっていた。

(H29. 1.15 EOS40D撮影)
コメント

上・上垣内の小正月の小豆飯御供巡拝

2017年10月26日 09時23分16秒 | 明日香村へ
飛鳥民俗調査会が調査・編集し、昭和62年3月に財団法人飛鳥保存財団が発行した『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』に一文がある。

「Ⅴ 年中行事」の「明日香村の年中行事」である。

一年中、何がしかの年中行事がある明日香村。

習俗は県内の他地域とそれほど変わらない。

一部については地域固有の習俗もあるが、ここではトンドの火から派生する小正月の小豆飯御供についてあるお家の在り方を伝える。

文中の解説に「明日香村では、ほとんどの大字が1月14日のトンド(高齢者はドンドと言い慣わす)を行う。上(かむら)の上垣内は15日の朝に行う。前日までに子供たちが正月の飾りやワラをムラ中から集め回る。・・・中略・・・上居(じょうご)・上(かむら)・岡などもアキの方から火を点けるという。上(かむら)の火点け役はF家が担っている・・・」とある。

これから取材させていただくお家はF家。

ただ、『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』の一文に書かれたF家ではない可能性もある。

上(かむら)には数軒のF家がある。

上垣内に住む本家、分家のF家は存じているが、当人たちの記憶は尋ねていない。

F家を存じたのは前年の平成28年6月12日

家さなぶりをされているお家を探していた。

伺ったFさんの話しを聞くうちに本家とわかった。

誌面で紹介されていたものの、そのときだけだったかもしれない。

当時に調査、報告された調査員に伺うしかないが、遙か30年前の状況に息子さんは覚えがないようだ。

と、いうのもかつては大トンドであったが、今は各戸がそれぞれにされる小トンド。

昔と今ではトンドの形式も替わっていたのである。

お会いしたこの日に数々の行事・風習を教えていただいた。

その一つが本日に取材させていただく小正月の小豆飯御供である。

炊いた小豆粥を供える。

粥はビワの葉に乗せて供える。

ビワの葉は裏側を表にして、そこに盛る。

ビワの葉は50枚にもおよぶと話していたから、屋内どころか屋外の50カ所である。

家にある神棚に戸口。

かつては火を焚いていた竃にも供えた。

屋外では庚申さんや田んぼまで供えていると話していた。

それはどのようにされているのか、写真を撮らせてくださいとお願いしていた。

時間は当日のある時間になる。

本来はもっと早い時間帯であるが、取材があるこの日は時間帯を考慮してくださった。

お会いするなり確かめたい上(かむら)の行事がある。

大晦日の31日に村の人たちは各戸めいめいの時間帯に氏神さんに供える鏡餅である。

供える神社は気都和既(けつわき)神社である。

息子さんの話しによれば今年は14軒も供えていたそうだ。

昔は40軒も50軒もしていたというから壮観な状況であったろう。

気都和既神社は上(かむら)に鎮座しているが、関係する大字は上(かむら)の他に細川と尾曽の近隣三カ大字だけに多かったのである。

正月の祭り方は早めに拝見しておくことも必要だと思った。

さて、F家の小正月の小豆飯御供の在り方である。

屋敷内は花輪に2カ所、庭に3カ所。

三輪明神に庭の神さん、トイレの神さん、床の間、仏さん、などなど・・。

供える場所を一挙に云われるが、どこにどうあるのか、探してみなければ・・。

息子さんが付いて案内してくださる。

実は、屋敷内については到着するまでに済ましていたのだ。

まずは玄関。金魚鉢ではなく、花輪と云っていたシクラメンの花鉢に、である。

ふと気がついた玄関内側に貼っていた2枚の小紙片。



一つは逆さ文字の「氷柱」で、もう一枚は正立に貼った「立春大吉」だ。



僅か数cmの小紙片には、それ以外の文字がない。

呪いを書いた特徴のない護符は、いつのころにもらってきたのか、誰が貼ったのか記憶にないということである。

「立春大吉」は度々目にかかる護符。

邪気を家から追い払って「福」を招き入れるが、これまで訪れた民家の玄関内側のお札には「氷柱」の護符は見られない特徴的なもの。

2枚とも手書きではなく印字文字。

糊をつけて貼ったと思われるが、「氷柱」の護符の意味はさっぱりわからない。

風情がある中庭を先に拝見する。

何の神さんかわからないが供えているという。



それは五輪塔の名残とも思える石造物に大岩もある。



これらは庭の神さん。



祠に祀っているのは三輪明神のようだ。

離れの縁側にも供えている。



撮りやすくするためにガラス窓を開放してもらった。



トイレの神さんはトイレがある廊下の窓の桟に乗せていた。



屋敷内は数々あるが、部屋内を物色するわけにはいかず、仏さんに手を合わさせてもらってシャッターを押す。

今年のトンドは1月8日に行った。

かつては1月15日の朝にしていたトンドであるが、今は第二日曜日に移った。

その日は垣内の初集会があるからそれも日程を替えた。

現在のトンドの日は、祝日の成人の日の前日。

つまりは第二日曜日となる。

トンドで燃やす竹の具合もあるが、燃えていくにつれて竹は破裂する。

その音は大きな音でポンを発する。

景気が良い音が鳴れば今年は豊作やな、と云っていた。

長めの竹に串挿すようにモチを取り付けてトンドの火で焼く。

上垣内のトンドでは、「ブトも蚊もいっしょくた、まとめて口や」というて投げていた。

「ブトの口、ハブ(普段はヘビと云っている蛇のことをトンドのときはハブの名称になる)の口」と云いながら、小さく千切ったモチをトンドの火に投げ入れた。

噛まれたら、刺されたら、そこが腫れる。

毒虫というて、ヘビとか、ブトとかの代わりにちょっとずつ千切ってはモチをトンドに投げて供養する。

トンドの話題はまだまだある。

トンドに燃えカスがある。

カスと云えば失礼な表現であるが、竹など燃えた材は炭になる。

昔のことだが、という但し書き。

燃えた炭は持って帰って竃の火にした。

その火で炊いていた正月の餅。

炭火は薪直接には移らない。

畑で育てた黒豆を収穫した際に残しておいたマメギ(豆木)である。

マメギは火点けの常とう手段。

どこでもそうしていたが、昔は白豆だったというから面白いものだ。

毎年の餅搗きは4臼も搗いていた。

今では3臼になったというから、まま多い。

正月の餅搗きは12月29日。

現在は30日にしているという。

餅の名に「マルクタのモチ」というのがある。

これは小餅のことで、搗いて柔らかいうちに指で押してできるエクボの窪みを作る。

これを「マルクタのモチ」と呼んでいる。

雑煮は砂糖を入れた白味噌仕立て。

ニンジン、ダイコン、コイモに豆腐を入れた雑煮である。

トンドの話題は尽きないが、これより始まるのは屋外の神さんなどに供える小正月の小豆粥である。



坂道を下って参る地蔵さんもあるので息子さんも共にする小豆粥御供。

お供えする場はとても多い。

農小屋にあるトラクターをはじめに作業小屋、山の神さん、神社の庚申さん、金毘羅さんに地蔵さん。

地蔵さんは足痛地蔵もあれば子安地蔵もある。

杖をついて出かけるのは昭和5年生まれの母親。

この年には87歳になるご高齢の身。

供える小豆粥にビワの葉などを風呂敷に包んで運ぶのは昭和28年生まれの息子さん。

昨年来からの行事取材にたいへんお世話になっているご両人である。

まずは自宅すぐ近くにある農小屋というか農機のガレージも兼ねた駐車場がある作業部屋である。

その前にすべき場所は畑を耕してくれるトラクターだ。



今は農閑期だから埃を被らないように白い布で覆っている。

その次は事務室にもなっていそうな作業部屋である。

どこに供えるのかと拝見していたら、ダルマストーブの上に、であった。



こうした供え方をされているとは予想もしていなかった。

次は作業部屋から出たすぐ傍にあるコンクリート片である。

何本かあるが、何であるのか聞かずじまい。



ビワの葉に箸で摘まんだ少量の小豆粥を供えた。



ここまで見てきたが、いずれも手を合わせることはなかった。

そこからは急な坂道を下っていく。

今では集落の前を走り去る車路がある。

その道路は談山神社へ通じる自動車道。

10数年前に開通したそうだ。

下る道はそこではなく元々ある村の道。

つまりは里道である。

急な坂道だけにお年寄りには辛い道であるが、軽トラ一台ぐらいは通れる道に沿って流れる川がある。

その向かい側の茂古(もうこ)ノ森に鎮座する神社は気都和(けつわき)既神社。

江戸時代までは牛頭天王社の名であった延喜式神名帳の大和国高市郡に登場する神社である。

上(かむら)に細川、尾曽の近隣三カ大字の神さんを合祀した神社にも小豆粥を供える。



神社の前に供える場は庚申さん。

どなたかわからないが、先に供えたビワの葉に盛った小豆粥があった。

枚数を数えてみれば5枚。

いずれも積もった雪に埋もれていた。

何時ころに降ったのか知らないが、民俗取材に訪れた時間帯は10時前。

F家が屋外に供えていた時間帯は午前11時過ぎ。

白い雲に拡がる青空であった。



先行する村人の供えた傍に供えるご主人も一枚。

神社に登って本社殿にも供えて降りてくる。



次は金毘羅大権現の刻印がみられる場にも供える。

ここにも先客が供えていた。

神社の次は里道向こう側に立つ路傍の石仏地蔵



ここにも先客が供えていた。

その次は西田地蔵。

厚めの石板のように思えるが、刻印文字が読み取れない。

そこよりすぐ傍にも石仏地蔵がある。

ご主人が供えている姿をずっと横で見ていた母親。

お供えを済ましたら、入れ替わるように降りてきて手を合していた。



たしか名前は足痛地蔵だったように思える地蔵さんは屋根付き。

隣に灯籠もあるぐらいの珍しい形態のように思えた。

その向こうにも石仏地蔵がある。



そこに供えている間も、足痛地蔵にずっと拝んでいた母親の姿が愛おしい。



こうして並んだ3体に供えたら母親は坂道を登って歩く。

ご主人はさらに下って子安地蔵にも供えるが、母親は先に自宅に戻ったようだ。

子安地蔵は高さが相当ある。



立派な祠の内部に安置されている地蔵さんは涎掛けもあるが、昔のままのようだ。

子どもの誕生がなかったのか、それとも信仰が薄くなったのか、そのことについては聞いていないのでわからない。



子安地蔵さんも先客が供えた小豆粥が3枚。

どれもビワの葉に盛っている。

そこへ一枚の小豆粥を供えたご主人も自宅に一旦戻る。

これまで拝見してきた小豆粥。

Fさんも云われていたが、昔は粥だったが、最近はご飯になったとか。

こうして並んでいるお供えをじっくり見れば、小豆ご飯であった。

この小豆ご飯をアズキメシと呼んでいた。



自宅に戻られたご主人は玄関前にも供えた。

次に向かう先は新墓。



自宅から歩いて近距離の場に新しく作られた。

旧墓は山の上。

そこへ行くには母親の足では無理がある。

他村でも聞く旧墓から新墓への移設対応である。

県内各地の民俗事例を取材していれば見えてくる私設墓地。

自宅近くに建てる場合が多いように思える。

朝一番はここにも雪が積もっていたという。



供えた場所は何カ所になっていたのだろうか。

正確な数字はわからないが、摘み取るビワの葉が50枚にもなるというから、相当な枚数というか、相当なお供えの数である。

すべてを供えきるまでの時間も相当要した。

お供えをしながらも上(かむら)でしていることもお話しくださった農作業など。

当地もハザカケをしていた。

3本の木材を組んで収穫した稲を干すハザ。

その作業を「ダシカケ」と呼んでいた。

「ダシ」とは何であろうか。

水平に架ける竿そのものの名であろうか。

用例としては「これからダシカケをする」という、作業初めの声かけである。

また、ダシカケをする3本組み足に水平竿をひっくるめて「カコ」と呼んでいた。

朝に干して、イネコキをする。

上(かむら)の上垣内は5軒の田んぼがある。

苗代をしているのは4軒というから、今年の苗代時期には寄ってみたいと思ったが、実際はJAから苗を買っているそうだ。

昔の苗代作りは直播き。

育った苗の苗取りをしていたという昭和5年生まれの母親。

田植え仕舞い(ウエジマイ)に家さなぶりをしているようだ。

また、3月に行われる「ハッコウサン」はかつて11日にしていたが、現在は12日。

祭事時間は午後になると伝えてくれた。

(H29. 1.15 EOS40D撮影)
コメント

八釣のキリボシ大根干し

2017年10月25日 08時59分48秒 | 民俗あれこれ(干す編)
干し物が目に入ればついついシャッターを押す癖がある。

生活民俗は突然にして現れる場合がある。

明日香村八釣の小正月の小豆粥御供の状況をくまなく探そうと思って集落を巡る。

前夜か今朝に降ったと思われる雪の痕跡は茅葺家の屋根にも白く染めていた。

下を見れば農作物を栽培している場にも遭遇する。



集落景観に薄雪の情景を撮っていた付近に干し物が見つかった。

材料はキリボシ大根。

細く切った大根は猫若しくは野鳥の餌食にならないように防虫ネットの中に入れて干しているものもあれば、平たいトロ箱に撒いて干しているものもある。

よく見れば、とろ箱にも網目のネットを被せるようにしてある。



雪は止んで青空が広がってきたから、覆いのネットを外された。

(H29. 1.15 EOS40D撮影)
コメント

八釣の小正月の小豆粥御供

2017年10月24日 09時07分59秒 | 明日香村へ
飛鳥民俗調査会が調査・編集し、昭和62年3月に財団法人飛鳥保存財団が発行した『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(※集)-』がある。

その中に大字八釣の小正月の習俗を記録していた。

トンド焼きの翌日に、燃え尽きた灰を「豊年、豊年」と云いながら、畑に撒いたという事例もあれば、その日の朝は摘み取ったビワの葉に小豆粥をのせて村中の何カ所かに供えるという記事である。

小豆粥はハツヤマに採ってきた穂付きカヤの軸を箸代わりにして食べたという記事もあるが・・・。

気になるのはビワの葉乗せの小豆粥である。

この日は明日香村の上(かむら)にある家が屋内どころか屋外の何カ所かに亘って同じようにビワの葉に小豆粥を盛って">お参りに行くと云っていた。

取材を約束させてもらった上(かむら)に向かう道すがらに立ち寄った大字八釣。

可能性は否定できないと思って途中下車をする。

『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』には地図が掲載されている。

その地図は概略図であるがお供えする箇所を明示している。

氏神、田んぼ、庚申、観音、寺、寺の石仏、稲荷、倉庫の8カ所である。

それらはどこであるのかも調査の対象として村内に入った。

この日の朝は冷える。

幹線道路は難なく通行できたが、村内は薄っすらと積もった雪に村の道はカチコチ。

凍り状態に近いからノーマルタイヤでは滑ってしまう。

もちろん運動靴であっても滑る可能性がある。

ゆっくり、かつ慎重に歩いて小豆粥を供えている場を探ってみる。

そろりそろりと歩いたところに情緒が見られる土塀がある。

空は雪、ではなく、青空が広がる。

爽やかな空気は凛としていた。

土塀の向こうに見える建屋は大和棟造りの民家。

土塀も入れた佇まいが美しい。



はじめに見つけたのは村の里道沿いにある石仏である。

見ての通り、右は庚申石。

左は錫杖をもつ地蔵立像である。



その前に並べたビワの葉のせの小豆粥は七つある。

小豆色に染まった小豆粥もあれば、白い小豆粥もある。

小さく千切ったモチ(キリコモチ)を添えている小豆粥もある。

7人の村人が供えたのか、それとも・・。

アイスバーン状になっている緩やかな坂道の向こうに森が見える。

そこはたぶんに神社であろう。

滑りやすい坂道はしっかりと足を踏みしめるように歩く。

神社は弘計皇子(おけおおおじ若しくはをけのみこ)神社だった。

平成28年5月3日に訪れた八釣。

ナエノマツにイロバナを苗代に立てると話してくださった総代の奥さん。

毎日のオヒカリを灯していると話していた神社である。

境内から村の女性が出てこられた。

お話を伺えば、神社に参拝して小豆粥を供えてきたばかりだという。

村で今もなおビワの葉に小豆粥を盛って供えている家は4軒ぐらいだそうだ。

お家によって供え方が違うという。

炊いたご飯の家もあれば、餅を供える家もある。

小豆粥を供えるのが基本であるが、そうしている家もあるということだ。

弘計皇子神社に供えていたお供えはどこにあるのだろうか。

辺りを見渡したら、あった。



拝殿中央扉の左右の格子棚に供えていた。

右に4個の左に3個。

合わせて7個ということは、先ほど拝見した庚申さんに供えた数と同じである。

神社より登る道はあるが、ここより行けば桜井市の高家との境界地。

畑地にはたぶんに供えることはないだろうと判断して戻った下り道。

庚申さんよりそれほど離れていない辻の角に祠がある。

そこが地蔵さんのようだ。

お堂と云ってもいいぐらいの立派な造りの祠に安置されている地蔵さんは庚申さんの横にある地蔵さんよりも背丈が高いようだ。



溶けない雪の粒が点々。

祠の祭壇まで風に煽られて溜まっていた雪に同席するかのように馴染んでいた小豆粥は5個だった。

その地蔵尊に架かる橋の向こうにビワの大木がある。



新葉が生えているところに白い花が見える。

このビワの木の葉を摘んでお供えの皿に利用しているのか、存知しないが、付近を見ても他にはそれらしきものが見当たらなかった。

その辻だったか覚えてないが、近くに浄土宗寺院の妙法寺がある。



村中央道より一段と高いところに建つ本堂の扉は開いていないが、回廊に供えていた。

そこからもう少し奥に入る。

段丘の向こう側に小社が見られる。

狐さんがあるから稲荷社である。

建つ地はこれもまた一段と高い位置にある。



雪が積もった登り道は不安定と思われたのか、お供えの数は少なかった。

他にもあるらしいが、ここまでだ。

『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』が伝える小豆粥地図には特記事項がある。

弁天さんは個人の家内。

どこの家が該当するのか、探すには一軒、一軒の呼び鈴をおして尋ねなければわからない。

村中巡ってから家に戻れば、家のトイレや井戸、竃、神棚の神さん、仏壇に小豆粥を供えるとあった。

(H29. 1.15 EOS40D撮影)
コメント

中白木高龗神社のマトウチのオコナイ

2017年10月23日 09時22分51秒 | 桜井市へ
桜井市の山間部地域。

それぞれの大字ごと。

今もなお行事を継承してきた。

大字中白木にオコナイのマトウチがあると知ったのは平成27年2月20日のご挨拶がてらの訪問時に拝見させてもらった高龗神社拝殿に保管していた鬼の的を見つけたときだ。

その際に中白木の年中行事を教えてもらった。

それからというものは幾度となく訪れるようになった。

中白木の村行事を始めて拝見したのは平成24年11月10日

その日の行事は山の神に供える行事であった。

話題はオコナイ行事に戻すが、かつての行事日は1月14日であった。

いつしか日程は12日になった。

山麓から急な坂道を登ってきたら集落に入る。

山間の道は急なカーブの連続。

道沿いのそこにあったトタン屋根。

被せていただけであるから、その下に何があるか、すぐわかる。

今でも飲用に使うこともある村の井戸である。

その左側に青竹を土に埋め込んでいた。

しかもそれに松と梅を挿している。

後から村の人に聞いてもわかったこれは松、竹、梅の三種。

まぎれもなく正月を迎えた村の井戸にも門松を立てたということである。

それからさらに登っていけば高龗神社に着く。

当日は年当番の人が神社拝殿にお重を供えておく。

中身を拝見させてもらうために承諾願い。



蓋をとって写真を撮らせてもらった御供の一つは煮豆。

以前に拝見したマツリのときもパンダ豆だったから、これも同じであるが、料理人は替わっているから味は違うという。

もう一つのお重はゴボウ煮。

太目に切ったゴボウを醤油などで味付けする。

正月初めの行事だけにお節に近い様相の御供である。

予め、これもまた年当番が作っていた木製枠の鬼の的。

木製枠は毎年に使うものだから、毎年に貼りかえるのが鬼の的。

矢を射る弓はカシの木。



弦は農作業に括るバインダー紐で作ったという。

今回はバインダー紐にしたが、本来であれば神聖な麻緒で作るそうだ。

チンチロ付きの松は苗代に立てる稲に見立てた松苗である。

松苗は村の戸数の9本。

実際は数本プラスして今年は11本にしたそうだ。

松の軸はワラを巻いている。

本来は粳米の藁であるが、今年は餅藁にしたという松苗に白紙に包んだ洗い米も括り付けた。

矢はススンボの竹。

半紙を切って1/4折りした矢羽根を挟む。

矢の本数は9本。

これも数本プラスした11本を準備した。

不思議なのが、矢羽根は尖がっている矢の先の方に挟んでいることだ。

だが、実は矢羽根に文字がある。



右から「平成廿九年度 牛玉 中白木 」である。

一枚、一枚のごーさん札を墨書して朱印を押す。



相当古くから伝わっていると思われるごーさんの宝印。

印もベンガラ器も木製。

虫食いの数が中白木の歴史を伝えているようにも見えてくる。

今では神社行事になっているが、かつては寺行事であったと思われるオコナイ行事に欠かせないごーさん札である。

神社社務所は村の会所でもある。

座敷奥には本尊を納めていたと思われる厨子もあるが、何年にも亘って無住寺が続いた。

村の人の記憶もないが、厨子横に立てかけていた棟札が気にかかる。

墨書の一部は黒ずんで読み難い。



文字は不鮮明だけに判読できる範囲で調べてみれば、「奉再建 極楽寺一宇□二世安楽 天下泰平 五穀豊穣 □年三月十五日」だった。

年号の一部が黒ずんで読めないが「□保十三年寅三月十五日」までがわかった。

キーは「保十三年寅」。

その時代で年号を紐解けば、天保十三年が壬寅であった。

そうとわかれば西暦1842年。

今から176年前に再建されたことがわかる極楽寺。

その当時の僧侶名は二世・安楽で、再建の功労者であったろう。

その文字の下にも小さな文字で何かが書かれているが、まったく読めない。

写真に撮って拡大してみる。

ある程度が判読できた。

右端列より「式上郡小文□ 大工長右□門 ・・・」。

ほとんどが判読できなかったが、大工とあるから棟梁たちの名前を記していたのだろう。

昭和36年に発刊した『桜井市文化叢書 民俗編』には“座“のことは書いているが、オコナイ行事については触れていない。

ところがよくよく読めば”白木の宮座“の項に書いてあった。

”白木“は元々一つの村。

それが分割されて北白木と中白木に南白木に分かれた。

『桜井市文化叢書 民俗編』に”北白木“、”中白木“と区分けして書いている項もあれば単に”白木“としているケースと判断し、その記事中の内容から判断して”白木の宮座“は”中白木の宮座“のことを書いてあると断定する根拠となる文に「長男が座人になる。その年に初めて長男に生まれたものが座を受ける。十一月九日座人を呼んで御供つきをする。十日にお供えする。カニの餅といって蟹の形にした餅を高龗神社の本社と加津が大明神、金毘羅大明神の三神に供える」とある。

この文だけでもわかる三神社は北白木にはなく中白木に存在する。

平成24年11月10日に行われた山の神御供行事にその三社に供えたガニノモチが証明してくれる。

次の文は「一月十四日の弓打のおこない行事がある。桜の弓にすすだけ七本をつくり天地東西南北を打ち終わりに鬼うちする。これは一老がする。北白木は昔は僧侶が行った。これを行った安楽寺は北白木も中白木にもある」である。

調査、報告に記事を書いた人には失礼だが、前述した棟札の表記を見れば一目瞭然。

寺は安楽寺でなく、僧侶が安楽。

寺名は再建した極楽寺であったのだ。

いつもであれば一老が弓を射る役目に就く。

しかし、である。

一老は現在入院中。

そのため息子さんが役目に就いた。

取材させてもらったときの頭屋祭は二老の他、何人かの男性たちも来られていて賑やかであったが、今年は寂しい状況になったという。

中白木マトウチのオコナイには神職の出仕がない。

村人だけが集まって行われる。



それぞれがやってきて神社参拝。

落ち葉を燃やしたトンドにあたって暖をとる。

これだけ揃ったからとおもむろに始まったマトウチ所作。



一老代役の息子さんが務める矢打ち。

はじめに天をめがけて矢を射る。



その次は地に向けて矢を放つ。

そして東西南北。

坦々と進行するマトウチ。

打つ度にその先に村人の目が集中する。

ごーさん札の矢羽根がなんとなく可笑しいように見えるだろう。

弦側でなく弓側にある矢羽根が不思議な感覚をもたらす。



7本目の矢は鬼の的。

見事に貫いて穴が開いた。

そのあとも矢を射ろうとしたが、勢いがついて弦が切れてしまった。

鬼を射止めるにはもう少し。



手で投げる矢で傷められた鬼は降参した。

正月初めに行われたマトウチのオコナイをもって村の安全祈願、五穀豊穣を願ったわけだ。

放たれた矢を拾い集める村人たち。



籠に入れていたチンチロ付きの松苗も持ち帰る。

これらは4月末の祝日から5月連休の祝日期間中に苗代に立てる。

昔はそうであったが、今は早成り。

そのころは田植えどきになるから「植え初め」を祈念して立てるようになったそうだ。

そのころは村の桜樹に花が咲く。

これを「桜花立て」と呼んでいる。

植え初めにかつてはフライパンで煎った糯米の玄米を半紙に包んで田んぼの畦に供えた。

煎った玄米はアラレ。

桜が咲くころだから、これを花咲きアラレの名で呼んでいた。

今はお菓子のアラレをパラパラと撒く。

中白木の植え初めを是非拝見したいものだ。

だが、日にちや時間は固定していない。

各家がめいめいにしているから、という。

外は寒い。

暖房を入れている会所に温もりの直会が始まる。



お神酒もよばれる直会の肴は神さんに供えたお決まりのことこと煮の甘いパンダ豆と醤油と味醂で炊いたたたきゴボウだ。

お神酒はどぶのにごり酒に盛りあがる。



「貰い物やけど、これも食べてね」と云われて口にした手造りパンも美味しい。

(H29. 1.12 EOS40D撮影)
コメント

初期化不可の外国製DVD製品

2017年10月22日 09時11分23秒 | つうしん
我が家のリビングで活躍しているDVD付きのビデオデッキは東芝製。

ダブルチューナー地デジ付きのRD-Z300だ。

特に問題もなく作動している。

ただ、難点はデッキでテレビ録画した映像は編集ができない。

マニュアルを見れば編集ができると書いてあるが、使い方がよくわからなくてまったく編集ができず。

仕方ないが撮ったままの映像をDVDにダビングしている。

DVDは50枚入りを買う。

特にメーカーは拘らず電気屋さんで一番安いものを買っている。

稀に一枚、二枚程度でエラーがでる。

エラーの症状は初期化ができない場合ばかりだ。

一旦、エラーになれば再挑戦は不可。

初期化ができなければ使い物にならず、ゴミ箱行きになる。

今回のDVDも一番安価な製品。

正月番組を撮ることも考えられたので年末に買っておいた。

それが本日になった。

初登場のDVDをデッキにセットする。

始めに動作するのは円盤状態を検査。

何をしているか私はわからないがヘッドがカチカチ動いている。

数十秒もあれば「確認」のメッセージが出て検査完了。

決定を押して初期化のプロセツに移る。

いつもそうしているし、もう一台あるチューナー付きビデオデッキも同じプロセスを踏む。

ところが、だ。

今回は違った。

新品、おニューのDVDをセットしたから戻された。

というよりもエラーが出力されて弾かれた。

稀にあるからもう一枚。

それも弾かれた。

2枚連続は初体験。

仕方ないがもう1枚。

今度はうまく検査ができたのか「確認」が出た。

決定を押して初期化する。

ところが、この初期化でエラー。

媒体が読めないという現象なのか、ようわからんがここでも弾かれた。

3枚連続は初めてだ。

こういう事象が発生した場合は諦めずに購入したお店に相談してみる。

買ったお店は車で走って2分の距離。

店長さんと思しき店員さんに検証してもらう。

試したお店のデッキはシャープ製。

難なく「確認」が出る。

それが出れば問題はない。

試しにパナソニック製を使って検証してもらった。

これもまた問題は発生しない。

これって我が家のデッキがおかしくなったの・・である。

東芝製のダブルチューナー地デジ付きビデオデッキはRD-Z300。

平成23年7月5日に買った代物だ。

年数からいえば5年と半年。

デッキのピックアップにゴミでも付着している可能性があるという。

そうであれば、試しに我が家にあるシャープ製の装置で試してください、だ。

ただ、念のためと店長(と思われる)さんは購入した同一製品と交換してくださった。

実をいうと本来はレジシートがなければ対応はしない。

当然である。

どこで買ったのかわからないモノを交換できるわけがない。

買ったお店はジョーシン富雄南イオンタウン店。

クレジット付きのポイントカードでいつも買っている。

それがあれば購入履歴がわかる。

そう伝えたら見てくださった。

購入したのは昨年末の12月20日。

そうであれば当店舗で買ったことに間違いはない。

そういうことで交換してもらったHIDISC磁気研究所製のDVD。

50枚入りの製品はたしか1360円だった。

値段はともかく家に持ち帰って我が家のシャープ製デッキに挿入した。

トレイが閉まってピックアップが作動する。

数秒もかからないうちに戻された。

メッセージは「規格外」である。

我が家のシャープ製デッキは平成22年の4月9日に買ったDV-ACV52。

この機種でもエラーではどうしようもない。

交換してもらったときにお名刺をもらっている。お

店に電話をして状態を伝える。

商談中だったようで、受けた店員そう返した。

こうなりゃ折角、交換してもらったものは返品で他社製品を買うしかない。

これこれかくかくしかじか。

素早い対応で返品対応を済ませてあらためて買った三菱化学メディア製のVerbatim。

値段はHIDISC磁気研究所製より若干高いだけだ。

以前も使ったことがあるDVDメディアを手にして心を落ち着かせる。

東芝のRD-Z300に挿入する。

ピックアップが作動して「確認」が出る。

初期化も問題なくできた。

これで決まり。

HIDISC磁気研究所製のDVDは2度と買わないことにした。

それからの11カ月間も経過した。

VerbatimのDVDメディアは何の問題も発生せずに利用していた。

ところが、だ。

残枚数が15枚くらいになったときである。

今回の事象とまったく同じどころか新品で挿入したメディアが、これは読めませんとデッキが弾くのである。

あれっ、である。

一旦、これが出たDVDは使うことはできない。

じゃぁといって次の新品DVD。

これもまた弾かれる。

結局は5枚連続で弾かれた。

これはピックアップの問題。

昔懐かしいテープデッキ時代もあったクリーニングである。

当時はしょっちゅうしていたが、DVDでも発生しうるということで、クリーニングDVDが販売されている。

湿式、乾式の2種類。

性能的には湿式のほうが良いだろうと思うが、買ったのは乾式だ。

とりあえず近くにあるジョーシン富雄南イオンタウン店に向かうのが我が家の決まり、ではなく必要に迫れてプリンターインクやフォト用紙などを買いに行っているだけだ。

車で2分着の近場は我が家にとっては重宝な地の利である。

クリーニングDVDにライテイング可能な日立マクセル社製のDVDも購入した。

Verbatimメディアが完全不良であるなら、DVDを切り替えたく、そうしたのは11カ月後の12月1日だった。

師走の月ともなれば、気が焦る。

で、自宅へ戻って早速のクリーニング。

何回もする必要はないと思っている。

1回のクリーニングの試しにVerbatimメディアを装填。

結果は同じだった。

4枚チャレンジしたら、弾かれずに上手くいった。

えっ、である。

そうなりゃ初期化もできる。

ダビングも正常にできた。

10枚ほどの新品DVDは捨てたが、なんとなくできたことを追記しておく。

(H29. 1.12 SB932SH撮影)
(H29.12. 1 追記)
コメント