マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

古川町の農神祭

2016年10月31日 08時56分20秒 | 橿原市へ
北海道、東北では雪が舞う。

奈良の朝の気温は9度。

前日よりもぐんと下がって6度。

冷え込むうえに風がきついし手はかじかむぐらいの気温。

体感温度は否が応でもサブイ(寒い)を連発する。

晴れ間が見えたときだけ温かさを感じるが、風が吹けば桶屋が儲かるではなく、冷たい風が肌を通り抜ける。

記録では最高気温が16度であるが、防寒具が欲しかったと思う日だった。

古川町の農神祭を訪れるのは実に8年ぶり。

前回は平成20年4月29日だった。

産経新聞のアーカイブでも取り上げた橿原市古川町の農神祭である。

下見に初めて訪れた日は平成19年4月30日だった。

前日に行われた農神祭に供えたゴゼンサン(御膳)はここに残してあるから見てみるか、と云われて・・・・。

腰を抜かすぐらいにびっくりしたことを思いだす。

このときは一眼レフカメラを持ち合わせていなかった。

当時の下見はだいたいがそうであった。

あるのか、ないのか、実態を知る聞き取りが主だった。

人の顔をした野菜造りのゴゼンサンはメモ代わりのケータイ画像で撮っておいた。

その画像を新聞に載せるとは予想もしていなかった。

掲載された誌面。講中の奥さんから電話があった。

新聞を見た人たちから「あんたらこんなえーことしてはんねんな、と、そこらじゅうからあったんやで。ありがたいし、うれしいし」の言葉に誌面を飾ってほんまに良かった今でもそう思っている。

かつては5月3日にされていた古川町の農神祭は平成14年より4月29日に行われている。

古川町の農神祭がどの場所でどのように行われているのか。

この行事を存じている人はどこにおられるのか、である。

判らないことは地元の人に尋ねるしかない。

そう、思ってやってきたのは平成19年4月30日だった。

畑を耕していた人に尋ねれば、その行事は前日の4月29日だったという。

「詳しいことはトーヤさんに聞いたらえーで」と教えてもらった家を訪ねる。

訪ねた家はM家。

午後5時ころだった。

玄関から出てこられたのは婦人。

「そーですねん。昨日でしたわ」と、いう。

農神祭は前日に終わっていたが、なぜかお供えが、家にまだ残っているという。

奥から玄関に運ばれたお供えはなんと、なんとの野菜で作った「顔」だった。

普段なら行事を終えたら始末する。

始末といっても野菜だけに調理されて口に入る。

そう話していたお供えは「御膳さん」と呼んでいた。

玄関入ったところでは暗がり。

もっと明るい処で撮るためには場を移動しなければならない。

了解をいただいて塀の下に置かせてもらってシャッターを押した。

撮ったカメラはケータイ電話だが、とっぽな口が特徴のダイコン顔が鮮明に撮れた。



この野菜の御膳には、今年の流行り言葉でいえば「びっくらぽん」、である。

とにかく強烈なインパクトで迫ってくるダイコンで作った人面顔は平成19年の4月30日に撮ったものである。

トーヤによっては作り方・飾り方が毎年違う。

そのときに旬の野菜で形作ると話していたことを思いだす。

農神さんを祭る祠は大正二年に建てた瓦葺。

重さに耐えかねて銅板葺きに仕替えた。

そのときに取り換えた古瓦はすぐ傍に置いている。

風雨に晒されても傷みは見られない。

その瓦材で作られたのが祠前に立つ灯籠である。

「大正二年 松田商店」と「五月吉日 細工人瓦留」だ。

当時、講中であった一人が火鉢屋の松田商店に作ってもらった瓦製灯籠。

あまり見ない形式である。

数年前までは6軒の講中であったが、やむをえず脱退されて5軒の営み。

平成20年に取材させていただいたこともある行事である。

送迎ドライバーの仕事をしていた3年前の平成25年のときだ。

行事当日の12時40分ころにMさんから電話があった。

今からノガミ塚に参るけど・・・という電話だったが、今から追っかけるには無理がある。

その後も仕事で重なった29日の祝日。

送迎の仕事は退職した。

いつでも出かける状況になった。

電話をもらったこともあって古川町の農神祭を久しぶりに拝見したくなって出かけた。

早めに着いた古川町。

農神祭に供える御膳作りは公民館で行われる。

早く着いても扉は閉まっている。

まずは数年間も失礼しているMさんにご挨拶だ。

久しぶりの顔を見られた婦人が云う。

そろそろ講中が集まるから・・・。

ついさっきまでは閉まっていた扉が開いている。

お声を掛けて上がらせてもらったら、

御膳の調整が始まっていた。

懐かしいお顔の講中に変わりはない。



仕掛り中の御膳を拝見しながら撮らせてもらう。

中央に皮付きのタケノコを配してキュウリやナスビを立てる。

赤いニンジンに緑のピーマンも立てる。

正面はコーヤドーフに串挿しのシイタケだ。

形作りは特に決まりはない。

当番の人の創意工夫で作る立て御膳である。

そういえば平成20年に寄せてもらったときの同じような作り。

講中によれば毎年がこういう形になっているというに対して思わず発した声は「えっ」である。

平成19年にMさんが見せてくれた御膳はダイコンを立てたとにかくユニークな顔だったことを伝える。

そうすれば「そんなことはない。

それはダイグウサンに供えたときのんとちゃう」と云う。

ダイグウサンの行事はこれまで2度、取材したことがある。

一つは平成19年5月16日

もうひとつは平成19年7月16日

月一回の廻りで参る家は違うが、御膳の形は2度とも立て御膳ではなく寝かせていた。

まして、ダイコン顔の御膳を拝見したのは4月30日。

ダイグウサンは毎月の16日である。

2週間以上も経った30日までそのままの状態で残せることは不可能だと思うのだ。

何かの思い違いの勘違い。

産経新聞に紹介した記事にウソ有りになってしまいそうだが・・・これ以上のツッコミはしない。

御膳さんが出来あがればノガミ塚に向かう。

前回に訪れたときは作った御膳は三方ごと抱えて歩いた。

神饌ものは一輪車に乗せて運んだ。

久しぶりに訪れた今年は車に積み込んで運んだ。

ノガミ塚周りはすっかり変貌していた。

北、東側にはつい数年前に新設された広い農道もある。

当地は国有地の0番地になるという。

毎月の清掃があるノガミ塚。

雑草がはびこれば刈り取る。

ゴミが落ちていれば拾う。

祭っているサカキは入れ替える。

オヒカリのローソクに火を灯して手を合す。

それが月当番の役目だという。

大きくなったヨノミの木は伐採したが、すぐにニョキニョキと若葉があがってくるらしい。

着いてすぐにこれまでと同じように御膳さんはノガミの祠に置く。



前にはテーブルを組み立ててそこに神饌や御供を置く。

ローソクに火を灯す。



そうしてノガミさんの前に並んで般若心経を唱える出雲講の女性たち。

冷たい風が吹きぬくなかでの唱える心経は手が凍えそうになった。

(H28. 4.29 EOS40D撮影)

懐かしい季刊明日香風から発掘

2016年10月30日 10時06分58秒 | 明日香村へ
知人の雑賀耕三郎さんが古本屋で見つけた『季刊明日香風』のことをFBで伝えていた。

これは、と思われた雑誌は一冊が70円。

即座に一括購入した冊数は60冊。

カルチャーで話すことにもなると購入された。

とにかくものすごく勉強されている方である。

雑賀さんのFBに若林梅香さんがコメントを書いていた。

「創刊から10号までは近鉄広報室で社内報を編集していたご縁で編集指導をしていた・・特に1号~10号は基調・・・蔵書しているが1号だけは誰に貸したか行方不明のまま・・・あればほしい」とあった。

そのコメントを拝読して思いだした我が家の書庫。

たいそうなものではいが、買い溜めた本が、書架にぎっしり埋まっている。

そこにあったのが懐かしい『季刊明日香風』だ。

発刊されたときの第1号を買ってから・・・25号まで買いそろえたつもりが、書架にあったものを再確認したら18号は欠番だった。

背表紙が日焼けしてすっかり色褪せて文字が見えない。

明日香に魅入られて10号辺りまで読んでいたが、中身はすっかり記憶にまったくなく・・・思い返しても思い出せない。

こんなもんである。

これも記念にと思って撮った本の並びを雑賀さんのFBに投稿して、「もっててもしゃあないんで、入用な方は差し上げます」と書いた。

と、したら「1号だけ誰かに貸して戻らない・・・お渡ししたい」と書いてこられたので返答した。

「1号だけじゃアレなんで、25号までの全24冊(欠損18号)、もってけー。と、お伝えください」と書き込んだら雑賀さんが受け取りに伺うということになった。

若林さんはその行為に喜ばれて話はとんとん拍子。

そのような経緯を見た借りた本人さんが若林さんにお詫びと返却の電話があったという。

そういうことがあって行方不明になっていた1号が戻ってきたと云う。

そういう経過があって我が家の『季刊明日香風』の嫁入り先は消えた。

一旦は嫁入りすることになりかけた『季刊明日香風』をあらためて見れば、9号も欠損していた。

なんとも、である。

文字を拝読するには膨大な量。

古代史に関する件は私にとっては必須でなくなった。

文字を読むことなく掲載写真だけをぱらぱら捲る。

すると、だ。13号に載っていた写真に手が止まった。

森本富雄写真集「しめかざり つなかけ とんど」である。

次の頁は飛鳥民俗調査会代表の柏木喜一氏がまとめた「飛鳥の風習 正月の行事」であった。

細目は正月準備、餅搗き、正月三ケ日、七草、トンド、綱掛け、上平田の十六日講、ロクヤハンとサンヤサン。

じっくり読ませていただいて今後の副読書に残しておきたい。

また、16号には飛鳥研修宿泊所研修主幹の阿部乾六氏執筆の「なもで踊り 雨乞いの行事」もある。

サブテーマのひでりの災厄、降水量、地形、地質、歴史、雨乞いの儀式、絵馬、絵馬所有社、曲名や詞章、なもで踊りの記事も大いに助かる。

気になる行事の紹介もある。

カンジョカケやトンドの季節の風情を載せた17号の「季節のまつり」は日本民俗学会の野掘正雄氏がとらえた写真がある。

19号には同じく野掘正雄氏が取り上げた飛鳥川東岸にあるミロクさんの祭り。

20号は大字越の亥の子の弁天さん。

21号はトンドの風習になるビワの葉に載せた御供のアズキガユ。

22号は田植え終了後のサナブリの御供。

23号は下平田にある耳なし地蔵の立御膳の様相。

24号はマツリに於ける特殊神饌の立て御膳。

いずれも現地を訪れて現況を調べて拝見してみたくなった伝統行事である。

こうように我が家の表舞台に出た『季刊明日香風』が伝える明日香村の伝統行事。

キッカケを作ってくださった雑賀耕三郎さんと若林梅香さんにこの場を借りて感謝申し上げる。

(H28. 4.27 SB932SH撮影)

寺口置恩寺の薬師会式

2016年10月29日 07時54分30秒 | 葛城市へ
葛城市の大字寺口の行事は十二灯提灯を献灯する博西神社地区ごとに行われるダイジングサンの献灯などを取材してきた。

「寺口」をキーワードにネットを検索していたときだ。

お薬師さんの会式が行われている置恩寺を紹介する葛城市HPの観光にそれがあった。

本堂で當麻寺の僧侶らと村人による法会である。

機会があれば訪ねてみたいと思っていた。

退院後のリハビリ運動の経過状況を鑑みながら出かけるか、それとも否かを決断せざるを得ない日々の身体状況。

川上村大滝の下見では特に発症することもなかった。

これなら行ける、と踏んで行先は吉野町、下市町、御所市から葛城市。

着いた時間帯は12時半。

午後1時からとHPが伝えていた始まる時間より少し前だった。

なんとか間に合ってはみたものの僧侶や村人たちは寺務所で会食をされていた。

ご挨拶は会食を終えてからになった。

神社行事ではたいへんお世話になった区長や神社役員にこの日の取材をお願いすれば、本堂に上がっても構わないと云う。

村人や一般の参拝者も来られるような状況にまずは遠慮。

というよりも行事の全容を知るには一歩引いた方がよかろう、である。

村人が誘われたのかどうか知らないが、少人数のハイカーらしき人たちもいる。

本堂には白い幕が張ってあった。

「昭和60年4月吉日 観音講一同」とある。

高野山真言宗派の置恩寺のご本尊は薬師如来坐像である。

観音さんを信仰するのは村の観音講。

現在は11人が毎月の17日に集まってお勤めをしている。

朝早くに集まり御詠歌を唱えると話す。

御詠歌はおそらく西国三十三番の御詠歌であるだろうと思った。

観音講の件はいずれ取材したいものだが、この日の行事に話しを戻そう。

本来、薬師会式は25日であったと話す。

現在は村の人らが集まりやすい直前の日曜日。

同寺には檀家が存在しない。

法会は13院からなる當麻寺の塔頭(真言宗5院・浄土宗8院)の一つにある高野山真言宗中之坊の僧侶によって行われる。

会食を終えて装束を着替える間に場を設営される村の人。

古くから伝わる六百巻からなる大般若経を納めた経箱。

蓋を開ければ積み重ねた大般若経典が現われる。

経箱は12箱。

本尊の目の前に座る僧侶が唱える箱は四箱。

左右の内陣にはそれぞれ4箱ずつ。

村の人がそこに座るから合計で12人。

六百巻をそれぞれ一人ずつ担うわけではなく一人50巻ずつ分担するのだ。

ご本尊のお供えに立てた採れたてタケノコが目立つ。

太めで大きなタケノコは緑色も突出する。

少し育ち過ぎたと云われるが、いただくには十分な値打ちもの。

果物のお供えもあるが、洗い米、カンピョウで括ったコーヤドーフ、エノキ・シイタケの生御膳に調理御膳の煮物のカボチャもあれば盛り塩もある。

お花を立ててローソクに火を点ける。

導師が中央に座ってご真言。

5人の僧侶が揃ってあげられる声明のが本堂に響き渡る。

ときにはジャン、ジャーン。大きな椀型のリンの音も響き渡る。



そして始まったはらみたきょう・・・ とう(唐)のげんじょうさんぞう(玄奘三蔵)ぶじょやーく だーいはんにゃはらみたきょう・・・」と大きな声で読誦(どくじゅ)しながら手にした大般若経を取り上げて上方にあげながら広げて、下方に流す。

経典の流し詠みのようなさまは転読。

60億40万字の経典を短時間で誦(ずうず)する。

それはあたかも経典一巻のすべてを詠んだことになる。



パラパラというかバラバラーというような感じで経典が下方に流れていく。

まるで開いたアコーデオンを閉じていくさまのように見える。

一巻を詠み終えるたびに経典を机(箱)に打ち当てる。

バーン、バシーと勢いのある打ち方である。

大きな声と叩く音。堂内にそれが響き渡り、その度に背筋は引き締まってシャンとする。



その動きを始めて見たかのように見入る子どもの姿もあれば、物珍しそうに拝観する人もいる。

導師が手にした大般若経の一巻に「大般若波羅蜜多経巻第五百七十八 大唐三蔵法師玄奘奉 ・・・」の文字が読めた。

また、第一百一十の巻には「新庄東町 施主 悦□善兵衛」や「新庄東横町施主 □□□□」の文字もある。

六百巻の大般若経典を寄進した施主名であるが、年代墨書はどこにあったのか、カメライアイでは見つからなかった。

ありがたい大般若経の転読法要をもって営まれる薬師会式の締めは般若心経である。

これもまた、重厚な声明。

ありがたく手を合わせる。

ご真言を唱えた僧侶たちは頑丈に建てた観音堂(収蔵庫)に移る。

お堂は狭いから僧侶しか入ることはできない。

村役も村人たちもお堂の外で佇みながら拝聴する。



この日は特別のご開帳。

檜一木造りの十一面観音立像に向かってお経(観音経かも)を唱えられる。

法会が終われば村人楽しみのモチマキだ。

本堂や観音堂からモチを撒く役員さんの前に立って待ち構える。



境内は溢れんばかりの盛況。

いつの間にこれほどの人たちが集まってきたのだろうか老若男女。

だれもかれもナイロン袋を手にしてモチを拾う。

観音堂を見れば先ほどまで大般若経を転読していた中之坊の僧侶たちだ。



笑顔に応えて前日に搗いた4斗(150kg)のモチを笑顔で撒く。

モチを手に入れて解散。

村人からの直接的な話しを伺える余裕もなかった寺口の薬師会式。

葛城市のHPによれば、会式が終われば初夏。

農作業は本格的になり忙しくなる、とか。

また、古くから土地の人たちは“山登り”と云って、裏山の薬師山の三宝池まで登った。

遠方から帰郷した親戚らとともにその場でご馳走を食べた。

歌も唄った“山登り”の様相はまるでレンゾのようだ。

田の作業が始まる前に一息つけて山を登る。

當麻の山口辺りでは“岳のぼり”。

當麻のお練りの日は付近の村でも“レンゾ”。

いわゆる當麻のレンゾである光景はどこの村でも同じようであった寺口の“山登り”は昭和40年代のころまで。

今では家ごとに屋内でよばれると書いてあった。

(H28. 4.24 EOS40D撮影)

大滝土倉屋敷跡の地蔵さん祭りを訪ねて

2016年10月28日 10時03分48秒 | 川上村へ
祭りをいつ、どこで、どのように知ったのか、まったく記憶にない。

なにかの折にパソコン画面にでてきた一行に釘づけ。

何らかの行事をしているかもしれないと思った

3月スケジュールメモに記録していたキーワードは「土倉屋敷の地蔵さん祭り」。

メモっていた時代は平成22年だから6年前。

書いてあった行文から推測してメモした行事名は推測である。

場は川上村大滝の土倉庄三郎翁の屋敷跡の裏庭。

小学校跡のように思えた場である。

地蔵さんに供える御供は赤飯のオニギリ。

前日にヨモギ草を混ぜて作るモチ搗きがあるような感じであった。

川上村へ出かけた最後はいつであろうか。

探してみれば平成22年の9月30日だった。

この日の行事は大字高原の宵宮。

十二社氏神神社の宵宮に餅を搗く。

その日以来ばったり途絶えた6年間。

遠ざかってしまったのは他地域の取材が増えたことだ。

増えるだけではなく緊急性を要した取材ばかりであったからだ。

もう一つの理由は平成23年9月4日に発生した台風12号がもたらす大雨の影響で大規模な崩落で道路が塞がったことによる。

役場より北にある山の斜面の崩落で国道169号線が塞がった。

復旧工事はされたものの私の心も塞がったように感じてしまった。

それが突然のごとくに芽吹いた。

きっかけは川上村東川在住のMさんからの賀状である。

そこに書いてあったコメントは「土倉庄三郎100年記念行事」だ。

土倉庄三郎氏の名を知ったのは森林ジャーナリストの田中淳夫氏のブログであった。

その名は川上村大滝にあるそそり立った崖にある磨崖碑にある。

大きな白文字で書かれている(没後4年後の大正十年)ので気づく人も多いだろう。

日本林業の父と呼ばれていた土倉庄三郎は吉野林業の山林王。

詳しいことはここで挙げないが、跡地はどこであるのか、そちらに興味が惹かれる。

記念行事はいつであるのか賀状には書いていなかったが、跡地だけでも知っておくほうが望ましいと思っていた。

前月の3月26日のことである。

「奈良の文化遺産を活かした総合地域活性化事業実行委員会」が主催。

「ねじまき堂」たる名の者が大柳生や吐山、篠原で行われてきた「大和の太鼓踊り」の講演会や体験ワークショップが奈良県立図書情報館で行われると知った。

元京都学園大学准教授青盛透講演もあると案内されていたイベントは是非とも拝見したく訪れた。

その会場におられたのがMさんだった。

Mさんは川上村の森の水の源流館職員のNさんとともに参加していた。

参加の理由は川上村で今でも行われている大古踊りであるが、経年実施ではなく祝い事があれば、である。

電話をするか、Mさん宅を訪ねようと思っていたときに出合った。

土倉庄三郎100年記念行事は来年の平成29年が没後百年目になる記念事業の始まりだった。

一年間の記念事業はこの年の6月19日を皮切りにいろいろあるらしいが発表はその都度だ。

午前に大滝にある土倉家菩提寺の龍泉寺で百回忌法要(主催大滝区)が営まれる。

午後はやまぶきホールで基調講演(主催川上村)がある。

前述した森林ジャーナリストの田中淳夫氏の講演である。

県立図書情報館でお会いしたMさんに知りたかった地蔵尊の行事の件について伺った。

Mさんが云うには毎月の24日にしているようだ、ということだ。

私がこの行事を知ったのは3月24日だったと思っていたが、そうではなかった。

毎月であるなら、百回忌法要が行われるまでに出かけてみようということにしたのだ。

行けばなんらかの手がかりが掴めるであろうと思って車を走らせた。

一応の目安時間は午前10時である。

6年ぶりに走る国道169号線。

崩落した場所はここだと判る状況であるが、道路は復旧していた。

大字の大滝はそこより手前である。

久しぶりの大滝に着くことはできるのか。

不安にかられる空白の6年間。

現地は覚えているが、距離感が掴めない。

大滝はもっと遠くにあるのか・・。

走りながら思いだした大字西河に大名持神社がある。

これまで幾度となく行事を取材した神社である。

ここの行事は西河と大滝から一人ずつ。

一年神主が選ばれる。

一年神主はいわゆる村神主。

一年に一度は交替する。

その引渡し儀式が12月初めの日曜日に行われる。

儀式の基本は神主記録簿の記帳である。

平成19年の12月2日に取材していた。

それより先に取材していたのは十二灯参りだ。

火を点けた大トンドに灯してオヒカリを持ってそれぞれの大字に戻っていく。

オヒカリの火が消えないようにして戻っていくと話していた大滝の人はあの山の方だと云っていた。

その山を示す我が車のGPS。

カーナビゲーションが示す行程を走っていけば山の中。

家は数軒あるが、なんとなく違うように感じた。

集落とは思えない雰囲気をもっていた。

おそるおそる下って国道に戻る。

そして、行きついた大滝は国道筋。

大きなカーブを曲がったところに派出所がある。

そこで聞こうとしたが不在。

隣にある施設は消防団。

郵便局もあるそこはどなたも見かけないがすぐ傍に銅像が立っていた。

銘板によればこの銅像は三代目。

もしかとすればここが土倉家の跡地。

そう思って辺りを見渡せば地蔵尊らしき石仏が立っていた。

たぶんで終わってここを離れるには後ろ髪をひかれる。

実際に地蔵尊を祭る行事があるのか。

あればヨモギの草餅はいつ作っているのか。

祭りをされている人たちはどのような人なのか。

とにかく聞くしかないと思って集落内を歩いてみるが人影は見当たらない。

一周して戻ってきたときのことだ。

消防団員だと思しきお二人が戻ってきたので地蔵尊について伺った。

お一人が反応してくださったその人はここの住民。

辻井酒店の店主だった。

辻井さんが云うには商店筋の6軒が営んでいると云う。

毎年の3月24日の営みを終えたら地蔵尊の前に敷いたゴザに座って直会をしていると話す。

どうやらヨモギの草餅も作っているようだが、詳細は存知していない。

Mさんが云っていたのは毎月。

どうやら間違いであったようだ。

交換した名刺から話題は著書に移った。

辻井さんの父親は二度も本を出版している。

一つは辻井さんが貰ってくださいと云われて受け取った『吉野・川上の古代史』。

サブタイトルに「神武天皇が即位前七年駐在した村」である。

奈良新聞社から平成26年10月に発刊された。

亡くなる直前に発刊された遺言のような本である。

息子さんが云うには「信憑性は判らないから、信用しないように」と釘を刺す。

それはともかくこんな上等な本であるが、ISBN(国際標準図書番号)の日本図書コードは印刷されていない。

これがないことを思えば自費出版。

この本に記した番外土倉家のことが書かれている。

番外はもう一つある。

写真で見る後南朝遺蹟である。

詳しくではないが読みやすい。

お礼にというわけではないが、私の活動の一つを紹介する奈良県立民俗博物館が発行する『私がとらえた大和の民俗―衣―』をさしあげた。

ちなみに百回忌法要をされる龍泉寺はここより上の方である。

辻井さんが指さす方向にあるという。

そこへ行く道は急坂で細い道。

記念事業の日は大勢の人たちが来村するであろうと思われ消防団員は道しるべ。

案内役に就くそうだ。

(H28. 4.24 EOS40D撮影)

番条町北垣内のお大師さん

2016年10月27日 09時03分52秒 | 大和郡山市へ
一旦は離れた大和郡山市の番条町。

桜井市の竜谷白河の取材を終えて再び番条町のお大師さんを拝見する。

先に南垣内のA家に立ち寄ったそれからはJR郡山駅に向かう。

ちゃんちゃん祭の調査の際に預かっていた道具の返却と調査情報資料の提出である。

受け渡しの場は判りやすい駅にした。

そこで学芸員と落ち合う。

用事はそれだけだが、時間があればと誘った番条町のお大師さん。

行事などの民俗を調査していいる学芸員の仕事にプラスになるかどうかは判らないが、僅かであるが見聞きするだけでも良かろうと思って誘った。

着いた時間は午後3時20分。

午前中は雨であるにも関わらず巡礼する人たちは多かった。

雨が降ってなければもっと多いがこれくらいがいちばん良いと思う参詣人数。

雨天であろうがなかろうが、村の人はお接待やと云ってヨモギダンゴやモチを置いている。

今年は少ないと集落に住む人々が口々にいう雨の日。

降りが激しくなった午後はまったくといっていいほど人影を見ることはない。

人は見ないが、村の人はお大師さんを開帳している。

学芸員とともに参拝するお家は数軒。



お大師さんにお厨子と台飾り。



門屋、或は玄関口に作業場もある各戸さまざまな開帳の場を見て回る。



お花飾りもあるが御膳の椀。



料理の内容の詳しさは調べている余裕はない。

1時間も経てばそろそろ仕舞われる家もある。

急いで巡礼する北垣内。



ヨモギモチは色で判るが薄い茶色のように見えたモチもある。

もしかとしたらトチモチではないだろうか。

あるお家のお大師さんにこれまで見たことのないようなお札があった。



阿弥陀如来坐像に「第二番極楽寺」とある。

その下にあるお札は全容が見えないが、「弘法大師 報恩謝徳」、「□□□太平」・・「□□□八十八カ所霊場巡拝 息災延命 域内安全 仏法興隆」、「四国 第二十二番 白水山平等寺」の文字が読める。

その下にあるのはおそらく般若心経のご真言であろう。

朝に縁をもらった南垣内のⅠ講中や阿弥陀院住職のKさんから聞いていた。

この日は特別に本場の四国からある一寺の僧侶が巡拝に来られると話していた。

番条町に来られる詳しい経緯は存知しないが、市役所を通じて連絡があったそうだ。

それがこのお札の寺であるのかどうか知らないが、奇妙な動きをする二人の男性が村を廻っていた。

二人の手には何枚かのモノを持っていた。

一人が指図をして一人が手にしたモノをお大師さんに置いていた。

二人は僧侶姿でもない白シャツにズボン。

一般的なビジネスマン風の姿である。

番条町に開帳されるお大師さんは88体。

僧侶であるならば一体ずつ真言を唱えると思う。

仮に唱える時間を5分としよう。

5分間の根拠は昨年に参拝された市内小林町の真言宗豊山派新福寺住職は般若心経を唱えられた。

場は北の大師堂。

そのときの時間がおよそ5分間だったのだ。

すべてのお大師さんへのご真言(般若心経の可能性もあるが・・)の合計時間は単純計算では7時間20分。

移動する時間を1分として加えれば9時間40分。

朝の9時から始めたとしても、休むことなく連続であった場合でも午後6時はとうに過ぎてしまう。

もしかとすれば四国に戻られて、お札は代理の人が置いていった。そう思った。

その北の大師堂に立ち寄った。

例年どおりの北の大師講のみなさんに歓迎される。

テレビ番組で取材されたSさんご夫婦

先日に行われた北の大師講の際に心経を唱えられたことを思いだす。

婦人はご主人とともに出演された番組は「綾小路きみまろの人生ひまつぶし」。

綾小路きみまろが大和郡山の城ホールでライブをした帰り道に立ち入った地域が番条町だったのだ。

茅葺の豪邸を発見してお邪魔する綾小路の口の聞き方は上から目線のように感じた。

築二百年を超える茅葺家のS家はもともと地元の大庄屋。

当家の茅葺の材はカヤススキであるが、同家では珍しく「ヨシ」を利用する。

「ヨシ」は通気性をもちつつ断熱性も優れている材。

15年に一度は葺き替えをすることで維持していると伝えていた夫妻はふたりとも90歳越え。

耳は遠くなったが今でも元気だ。

北の大師講で最も世話になったのは中谷酒造の会長だ。

一年ぶりにお会いする二人の元気な姿をみるだけで私は嬉しい。

ゆっくり話しを聞いている時間もなく次の家に向かう。

そこは先ほどおられた婦人の家。

下門屋前に立っていたのは友人らを案内していた次男さん。

この日のお大師さんに来てくれるんやろな風のメールが届いていた。

客人を迎えた当主とともに屋内に消えていった。

ここより造り酒屋の中谷家に向かうまでの間にある家がある。



そこは預かりのお大師さんも並べるお家。

納める厨子が一体化したように見える。

馴染みの方らに顔を合せば、近況報告もあってどうしても話しが長くなる。

ここまできての時間帯は午後4時を過ぎていた。

少なくとも何軒かは屋内に戻されていた。

締めは造り酒屋のお大師さん。

会長のご厚意で出開帳したことがある。

門外不出のお大師さんが出開帳した先は奈良県立民俗博物館。

平成22年12月11日から翌年の平成23年2月6日まで開催された企画展「大和郡山の祭りと行事」に一般公開されたのである。

こんなありがたいことはない。

当時、拝観していた数人は手を合わせていたとか・・・。

(H28. 4.21 EOS40D撮影)

白河のイロバナに農小屋のカラウス

2016年10月26日 08時37分56秒 | 桜井市へ
竜谷の取材を終えた時間は12時ジャスト。

この時間帯であればすぐ近くの白河に立ち寄ることは距離的時間に余裕もある。

可能であると判断した理由は昼どきである。

昼どきであればたぶんに在宅されていることだろう。

3月に行われた「シンコ」行事の写真を手渡したい。

そう思ってお世話になったS家に向かう。

家の手前に畑がある。

もしかとすればSさんだろうと思って声をかけた。

小雨であるにも関わらず畑作業。

初めてお会いした平成26年の2月7日

秉田神社で行われるケイチン(鬼鎮)行事のことについてお声をかけた婦人だった。

そのときもこの畑だった。

撮らせてもらった写真はフイルム版。

撮ることも難しい状況であったがなんとか撮れた記念の作品に喜んでくださった。

時間も時間なので立ち去ろうとした場の向こう側。

道路を隔てた向こう側に苗代の白い幌がある。

奥さんがいうには今月3日に苗代を作ったという稲の品種はアキタコマチ。

先月いただいたS家のお米は美味しくいただいた。

そのお礼も伝えたら、立てているイロバナを教えてくださる。

写真では判り難いが水口に立てたイロバナはそこら辺りに生えていた草花を摘んで立てたそうだ。

遠目であるから判り難いが黄色い花。

菜の花のように見えた。

帰宅してから拡大してみる。

なんとなく樹木の枝のようなものもある。

村の行事とは関係なくS家の在り方はイロバナを立てて豊作を祈願する。

祈願であるが、祈りはない。

虫がつかないように願う一種のまじないのように思えた。

苗代の田はシシ除けに電柵を張っている。

ここら辺りはどこでもそう対応している。

隣の田は昨今見られなくなったレンゲソウ。

畑一面に広がったレンゲの花が咲いている。

ちなみにこの日は雨天。

一か月前にも撮らせてもらったS家の農小屋にあるかつて使っていたカラウスの再撮影。

竜谷に向かう前に先に立ち寄っていた。



小雨ならば農小屋もカラウスもシトシト感があるだろう。

そう思って撮らせてもらっていたことも伝えておいた。

(H28. 4.21 EOS40D撮影)

竜谷のお大師さん

2016年10月25日 08時51分28秒 | 桜井市へ
大和郡山市の番条町で行われていたお大師さんを振り切ってやってきた桜井市竜谷(りゅうたに)。

この日は本尊の子守地蔵尊を安置する竜谷寺でお大師さんをすると聞いていた。

参るのは老人会の人たちになると云っていた。

竜谷の年中行事に氏神さんを祀る三輪神社のマツリがある。

平成26年平成27年の連続取材。

マツリの日はいずれも11月3日である。

竜谷寺でお大師さんをしていると聞いたのは平成27年のときだった。

お話を聞いていたこともあるのでできる限り早めに伺いたいと思っていた。

この日は午後辺りから雨になるという天気予報だった。

着いた時間は午前11時半。

大和郡山を出発してからおよそ1時間もかかる。

早めに切り上げたが雨は待ってくれなかった。

着いたときはすでに土砂降り。

マツリの場でもある会所に集まる老人会。

杖をついてやってくる人もいる。

杖をつく老婆には傘をさす婦人がついていた。

履物を脱いで会所に上がるのはちと難しい。

これもまた婦人が援助する。

団地では考えられないような光景が目の前にある。

すごく胸が熱くなった村の人が村の人に手を差し伸べる介護に国の援助はどこへ行ったやら、である

老人会が頼んでいたパックの膳をよばれるのは営みを終えてからだ。

子安地蔵尊を安置する本堂は薄暗がり。

目を凝らしているうちに慣れてくる。

この日は弘法大師の縁日。

僧侶の姿はどこにもない。

導師の婦人は花を飾った弘法大師坐像の前に座る。

右手の壁には弘法大師像を描いた掛軸だ。

鴨居から吊るしているが、堂師の正面は弘法大師坐像である。

ローソクを灯して線香をたてる。

本尊の子安地蔵尊にもローソクと線香がある。

線香の数は7本であるが、略して3本にしているという。

手前にあった木魚を叩いて唱える般若心経。

その前に唱えるのはご真言。



大きな器型の大徳寺リンを打てばカーンと鳴る。

お堂に登った人たちは手を合わせてご真言を唱える。

次が般若心経。

木魚を打つ速度は早いほうだと思った。

それも徐々に、少しずつ早くなっているのでは、と思ったぐらいの心経は三巻唱える。



そして、最後に「なむだいし へんじょう こんごう・・・」を唱えて終える。

営みを終えた導師に話しを伺った。

導師は昭和7年生まれのNさん。

息子さんが交通事故におうてな、と云われかけて思いだした。

平成26年2月に初めて訪れた竜谷。

年中行事のお供えは特に覚えておられた婦人。

記憶は鮮明で正月初めの七日座行事やマツリなどを教わった。

婦人は先代のおばあさんから引き継いだ導師を20年間も務めてきた。

おばあさんがついていたときはお供えがあった。

近くで摘んできたヨモギの葉。

若い新芽のヨモギだ。

それを蒸してヨモギのクサモチを作っていた。

いまではそうすることはしなくなったという。

畑もしているNさん。

「えー歳になったんで、そろそろ潮時や」と思っていると云う。

雨は降りやまずの日。

会所に集まった人たちはこれより会食。

頭を下げて失礼する。

(H28. 4.21 EOS40D撮影)

番条町の北の環濠

2016年10月24日 08時18分15秒 | 大和郡山市へ
南垣内に滞在しているときに降りだした雨。

取材を終えて地区を離れようと思ったが、ふと、頭のなかに映像が出てきた。

環濠である。

南垣内の環濠は昨年に整備された。

整備される前の環濠は素敵な情景だった。

訪れる度にいつも思うのが、そこで立ち止まって佇んでいたい、である。

整備工事が終わってすっかり変容した南垣内の環濠。

国の助成金を得て整備したようだ。

いずれは北へ500mの方角にある稗田町の環濠のようになってしまうかも知れない。

稗田町の環濠は教科書に載るぐらいに有名な環濠である。

観光目的に石垣で囲って綺麗になった。

昔の様相はまったく消えてしまった。

それでも名高い環濠は絵描きでもある男性俳優がやってきて絵を描いていた。

テレビ番組で紹介していたから覚えている。

稗田町の環濠の昔を知るには東側に廻らなければならないが、環濠らしさをとらえるには難しい環境になった。

写真に残しておきたいと思う昔ながらの環濠はどこが相応しいのか。

ふと、思いだしたのが地元住民が必ずといっていいほど推薦される地は北垣内の北の端。

東の山間から流れてきた菩提山川が北の平城京跡から流れてきた佐保川と合流する地点。

番条北橋を渡った処の環濠である。

北垣内の集落民家を背にした深い濠。

小雨であれば濠に雨の輪があるはずだ。

大雨であれば撮影どころではない。

このときの小雨状態ならば民家や植物の色合いが映えるのでは、と思ってでかけた。

判断は間違いなかった。

濠に降ってきた雨の輪っかが一瞬に残る。

家屋の濡れ具合も想定どおり。



場を換えたり、カメラアングルを換えたりして、何回もシャッターをきったが、雨足が強くなってきた。

滞在時間はわずか数分。

雨のしずくが肩に感じる。

重くなってきた頃合いを見計らって番条町を離れた。

(H28. 4.21 EOS40D撮影)

番条町南垣内のお大師さん

2016年10月23日 07時41分40秒 | 大和郡山市へ
この年も番条町一帯の各戸で祭られるお大師さんに伺う。

これまで何度も伺ってはいるもののすべてのお大師さんを参ったことがない。

すべてというのは四国八十八カ所の同じ数だけ祭ってあるから88体。

祭る家はその数ではなく80戸余り。

一度はすべてを拝みたいと思ってくるのだがどうしても途中で止まってしまう。

この年もそうだった。

昨年に撮らせてもらったA家。

家で作ったヨゴミももらったAさんは送迎する患者さんの一人だった。

送迎をすることもなくなったAさんを見舞うことも要件にある。

それもあるし、撮らせてもらった写真をあげることも要件。

もう一つは送迎運転ができずに退職したことの報告。

元気な姿をみたいということもあって、朝一番に訪ねるA家。

到着した時間帯は8時半少し前。

ご主人とともに屋内に安置していたお大師さんを門屋に移す。

安置するお厨子は吊り下げる。

大工さんに頼んで仕掛けてもらったそうだ。

そういう家は何軒かあるようだ。

花を立ててヨモギダンゴを置く。

この日に参拝される人は賽銭を投入して手を合わせる。

お礼にダンゴ若しくはモチをいただく。

家によってはヨモギダンゴでなくヨモギモチの家もある。

ヨモギではなく白モチに換えた家もある。

お礼に貰うのは一個だ。

別に決まってはいないが、当然な数であろう。

ゆっくりと会話を楽しむわけにはいかない。

先を急がねばならない。

ここから西の方角を見る。

佐保川土手にある南の藪大師。

祠にあるお大師さんの石仏は文化三年(1806)。

北垣内には北のお大師さんを崇める大師講がある。

一方、南垣内には南の藪大師を崇める南の大師講がある。

ここでは11軒の講中がそれぞれにある幟を立てるのである。

集落から眺めればすでに数本が立っていた。

今年も遅れたかと思ったが、一人の男性が現われた。

話しかけながら撮らせてもらった幟立て。



赤い幟に白抜き文字で「奉納 南無大師遍照金剛」がある。

幟に各戸講中の願主名が記されている。

いずれも年号は平成5年4月吉日だ。

藪大師に登る石段脇や玉垣に結び付けて倒れないようにする。

これも何かの縁と云われてご自宅を案内してくださった。



ご主人は四国七十五番の善道寺のお大師さんを安置するⅠ家。

南の大師講の一人でもある。



Ⅰ家のヨモギモチは粳米、もち米を半々で作ったという。

作ったのは米屋。

ウスヒキしたコゴメも混ぜて作ったモチはドヤモチの名がある。

おふくろも私もこれがモチのなかで一番美味しいと思っている。

コゴメと聞くだけで口がもぐもぐする。

同じ印象をもつⅠさんがいうには、これも含めて親戚中に配るようだ。

Ⅰ家のお大師さん御供は御膳料理もある。



膳椀は五つ。

ニンジン、シイタケ、アブラゲなどを混ぜて炊いたイロゴハンもあれば、シイタケ、タケノコ、アツアゲ、フキなどを煮込んだ煮物椀もある。

三つ葉のおひたしや汁椀。

採れたてタケノコは立てている。

番条町にみる御膳につきもののタケノコは存在感がある。

イロゴハンで思いだされたⅠさん。

南の大師講のお勤めは4月と10月を除く毎月にある。

廻り当番になる講中の家に上がってヨバレがあった。

季節に応じた料理があったがイロゴハンがつきものだった。

ヨバレに出かけるときは家で食べている茶碗一つを持参した。

集まる時刻は午後7時半。

その椀にイロゴハンを盛って食べていたようだ。

今ではイロゴハンを炊くこともなく大幅に簡略化したという。

ここでも長居をしてしまいそうにある。

お礼を述べて六体も預かっているお大師さんを厨子ごと本堂に並べている高野山真言宗の阿弥陀院を訪ねる。



本堂前、階段登ったところに大きな厨子がある。

もちろん、納めてあるお大師さんは阿弥陀院のお大師さんだ。



集落を出た家の預かりのお大師さんではない。

阿弥陀院のお大師さんにもモチがあるものだから賽銭を奉げて手を合わせる参拝者がいる。



本堂に預かりのお大師さんがあることを知らない参拝者は次の家へと向かっていった。

お参りにくる参拝者は圧倒的に女性が多い。

単独で来られる人もあるが、団体、或は少人数のグループ連れが目立つ。

住職と座り話。ここでゆっくりと会話を楽しんでいる時間はない。

前年に訪れた桜井市の竜谷集落にもお大師さんがある。

離脱する時間を限界。

住職にお詫びを申し上げて腰をあげた。

数時間後の午後2時半。

再び訪れた番条町のお大師さん。

午後に降りだした雨は本降り。

集落道は落ちてくる雨が跳ねていた。

訪ねた家は朝一番にご挨拶をさせてもらった南垣内のA家。

雨にあたる八十四番のお大師さんは門屋の前。



それを避けて門屋の奥に移されていた。

朝に拝見した吊り下げの型枠があるから移動しやすいのである。

再訪したのは朝の約束。

Aさんが戻ってきたらヨモギダンゴをあげるから待っていると云われていた。



手作りのヨモギダンゴはコジュウタに並べてあるが、袋に入れて待っていたという。

ありがたいことである。

(H28. 4.21 EOS40D撮影)

榛原萩原小鹿野のごーさん札

2016年10月22日 08時45分48秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
帰路になる榛原萩原。

場所はなんとか覚えている。

国道の信号を折れて山側に向かう。

その地は小鹿野(おがの)。

昨年の4月18日に訪れた場はイロバナとともに苗代田に立てていたごーさん札があった。

今年もしているのだろうか。

そう思って再訪した。

あった。

昨年に拝見した同じ場所である。

それも2カ所。

違うのは若干の花の種類だけだ。

前回に拝見したごーさん札の墨書文字は「牛」、「地蔵」、「不動」、「宝」だった。

四つ折りされているので全容は相変わらず判らない。



お札を撮っているときに現われたキジ。

雄の姿だった。

遠目であるが、真っ赤な鶏冠が見える。

この日は時間的な余裕がある。

集落を巡って他にもあるのか、ないのか調べたくなって車で駆け巡る。

ここより反対側の地に白い帆を被せた苗代田があった。

近くによってみればごーさん札があるが、これまで拝見した形式とは違った。



お札は変わりないがお札を挟んだ材である。

一つは裂いた竹に挟んでいた。

もう一つは竹そのものを割って挿していた。

今回、初めてみるものは竹筒型だ。

一つはイロバナを、もうひとつは裂いた竹に挿していた。

近くを見渡したが、人の姿は見られない。

(H28. 4.15 EOS40D撮影)