マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

上深川富士垢離

2010年09月30日 07時33分40秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
白装束に身を固めた上深川の富士講中。

頭は鉢巻きを巻き締め帯も締めた。

下着は越中ふんどし。

すべてが白一色だ。

藁草履を履いて深江川に向かって行った。

持ってきたお神酒とオセンマイ(洗米)は土手に設えた祭壇に置く。

そこはヒガシカンジョウの地。

三本の竹で組み立てられた注連縄。



中央に2本の短い御幣、竹葉の部分には長めの御幣を取り付ける。

先代の父親が残された御幣切りを見本に作られた御幣だ。

富士講は6人。一人は東京住まいなので参加はできない。

上着を川堤に立てた竹垣にかけた4人は川に入水して水垢離をする。

お神酒を注ぎ祭壇のオセンマイを川で浸して洗う。

そして東の方角に向かって並んだ。

注連縄の遥か先は富士の山。

つまりその先の富士山に向かって水垢離が行われるのだ。

持参した数珠を左手に持って数えだした。

「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー」と唱えて柄杓で掬った水を頭からかけるような作法が始まった。

頭を低く下げた低頭姿で「やー」のときに頭先へに捧げた柄杓から水を落とす。

富士垢離の儀式である。



数珠玉は八つ。それはひと節ごとにある。

次の節の数珠を数えてまたもや「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー」の「やー」で水をかける。

これを8回繰り返す。

再びお神酒を注いでオセンマイを川で洗った。

数珠を指でくって「ひー、ふー、みー・・・」これも8回繰り返す。

合計で108を数えた。かつては初めの64回の一垢離を終えてから戻ってオコモリの会食をしていた。

いわゆる「籠り」である。

ゆっくりと昼寝の休息をとってから再び川に行って水垢離をしていたが効率を考えて二垢離も含め一度に済ましている。

上深川の富士垢離は先代たちが亡くなり長い期間中断していた。

次の時代にも伝えていかねばと一丸発起し平成21年に復活された。



装束、数珠、柄杓は先代が使っていたものだ。

いつかはと大切に保管していた。

Oさんが持っていた柄杓には3代前のおじいさんの名が記されている。

Iさんの親父さんが残された御幣切りを納めた封筒には昭和57年1月のスタンプがあった。

その5年後に亡くなられたというからおよそ25年前のことだ。

昭和22年から経験してきたNさんはそのときの様相を思い出しながら復活した富士垢離。

撮影年代は不明だが奈良県立博物館で当時の富士垢離映像が残されている。

そのうちの一人がOさんだ。

IさんとKさん、Aさんは教えてもらいながら作法をされた。

親父さんたちが行っていた富士垢離はきっちりと調えてこれからも続けていきたいと話す。

※上深川富士講中の許可を得て記録取材させていただきました。厚く御礼申しあげます。

(H22. 8.24 EOS40D撮影)

※ 参照<県教育委員会文化財・年中行事より抜粋する>

行事名称は浅間講(富士垢離)。行事日は8月24日。場所は浅間さん・元薬寺・山・川。主体は富士講。

センゲンコウともいい、富士講の行事。

富士山の神をまつった浅間(センゲン)神社の信仰で、白装束で登山をしたり、川の水を浴びて斎戒し、浅間神社に一家の安全を祈る。この行事が上深川に残っていた。

近年まで小倉に残っていたが、今はなく、八柱神社の石段の下に浅間さんを祭っているだけである。

上深川のフジゴオリは、八月二十四日の午後二回行う。

富士講員が午後元薬寺に集まり、まず、ゴヘイの竹(新竹)を三本作る。

内一本は長さ十一尺五寸。二本は八尺で、その先にゴヘイを付ける。

別に長さ九尺のシメナワを作り、一同は白装束で深江川の字勘定の渕へ行く。

渕の東側の岸に出ている岩を中心に三本の青竹を立て、シメナワを張り、岩の上に神酒と洗い米をまつり、一同はふんどし一つになって川の中に入り、東に向かって一列に並び、首に数とり用の数珠をかけ「ヒトフタミーヨーイツムーナアヤツ」と言いつつ、竹の小しゃくで頭に水をかけ「浅間大菩薩」と唱える。

この仕草を計六十四回行ってヒトコオリといい、午後四時からフタコオリを行う。

最後にオミキと洗い米を川に流して岸に上がり、身体をふき装束を着て、元薬寺にもどり、各家から持参してある重箱入りの精進料理で一献をかわすのである。

富士講には通称フジコウ山(字サカズキ)という六反五畝の山林があって、それで講を維持している。

                                          以上

下笠間無縁仏地蔵参拝

2010年09月29日 07時32分29秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
下笠間に住むM家とI家。

施餓鬼の朝は地蔵菩薩に参る日だ。

地蔵さんに供えるのはセキハン(赤飯)でこしらえた小さなオニギリ。

両家で合計108個作る。

地蔵さんは平成4年に造成された崖崩れ防止壁を登ったところにある。

昔、山が崩れて流れてきたという石塔もある。

宝印塔のような形が残されている。

かつて山の上に坊があったらしい。

その横にあるのが地蔵菩薩さん。

これらは壁を作る際に山から出てきた地蔵さん。

寄せて一緒にした。

そのうちの一つは元の場所が良いと言ったので井戸傍へ戻したという。

オニギリの数は数珠の数。

オガミさんがそうせよと言ったからそうしているのだと話す。

30年ほど前のことだと語り始めたIさん。

「当時、頭が痛くなった日が続いた。半分は見えるが半分は真っ暗。やたらと主人に当たり散らした。オガミさんにみてもらったら母と子供の無縁さんだという。両家の裏山にある無縁さん、どうか成仏してくださいと自然に車が向かった先は壺坂寺だった。お参りしたら父親が現れ、観音さんが合わしてくれはった。そうするとつきものがとれたようにすっきりした。それからは無縁仏地蔵参拝を欠かさずしている」という。

参拝は施餓鬼のアトサキ3日以内であればいつでもいいそうだ。

線香をくゆらせ始まった。

ガキドウに落ちた無縁さんを成仏するようにと般若心経三巻唱えて供養する。

この行事は「地蔵盆」と称している。

お下がりのセキハンオニギリは山の神さんに供えられる。

裏山は神さんの山と呼んでいる。



正月7日にホウレン(ホウデンが訛った)を供えた磐代の壇など数カ所に一つずつ置いた。

さらに上へ登っていく。

葉っぱの上を歩けばずるずると下がっていくほどの急斜面だ。

しばらくするとMさんが見えなくなった。

一方のIさんは砂防崖の道を行く。



陽が照る方向の斜面にあるのは阿弥陀さん。

ここへもオニギリを供える。

急斜面を登っていくIさん。

樹木の根っこや岩下などに供えながら登っていった。



80歳にもなるが足腰は元気でついていくことはできない。

108個の御供。寒施行の様子を思い出したが、真夏日が続く日はまるで酷暑に彷徨う勤行。

それは山に住む獣(天狗が住む山だとも)に与える施行のように感じた。

かつて薬師堂があった畑。

およそ80年も前に春覚寺に移された。

そこは今でもヤクシサンの地と呼ばれている。

(H22. 8.23 EOS40D撮影)

下笠間のアラタナ

2010年09月28日 07時39分31秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
昨年の暮れに事故に遭遇された息子さんは正月明けに亡くされた。

この年の8月は新盆を迎えた下笠間のM家。

盆入りの7日にアラタナを作って縁側の角に祀られた。

ヒバ(ヒノキの葉)は山で刈り取ってきた。

竹も近くで伐採した。

それらを組み合わせて作ったのはズシと呼ばれる舘だ。

太さを揃えた竹を四方に立てる。

上部には竹で編んだ家型の舘を設えた。

屋根や壁はヒバを埋め込んだ。

中にご位牌が納められる。

白い色の長梯子は買ってきたオガラだ。

その前には「お膳」が揃えられる。

家族と一緒で朝、昼、夜の三食。

このときの膳はメシ椀にゴボウ天の煮物、シイタケなどの煮染め、中央はトウモロコシ。

みそ汁とお茶がセットされている。

肉料理はださないいわゆる精進料理になる。

友人たちがお参りに来てくれたときは亡くなった方が好きだったバーべキューも供えられたが膳にはのせない。

13日はアラタナの新盆、14日はご先祖さんの法要に春覚寺の住職が参られた。

アラタナは8月末まで祀られたあと、翌日の八朔の日に解体して川原で燃やされる。

煙とともに天に昇っていくのだという。

位牌は先祖さんの仏壇に納められる。

その先祖さんのお参りは毎朝な夕なにお経をあげる。

この日も祖母が融通念仏衆在家勤行式にあるお念仏を唱えられた。

合掌。

(H22. 8.23 EOS40D撮影)

ありがたいお叱り

2010年09月27日 07時47分56秒 | メモしとこっ!
行事を取材撮影して10年になる。

ときおりお叱りを受けることがある。

この度は大目玉を頂戴した。

知人が私の紹介だと突然訪問したそうだ。

が、足下を見るなり帰ってくれと伝えられた。

「素足にサンダルは神事に相応しくない。参列者はそれなりの正装で来ているのにどういうことか」と一喝された。

しかもだ。「名刺はださず、名も名乗らない。そんな人に許可ができるわけがないでしょ」。

ごもっともです。

宮司さんの集まりで非常識な撮影マナーが話題に上ることが多くなっているという。

たしかにそういう人たちを見かける。

カメラを持つ人は特権と思いこむのかずかずかと上がり込む。

許しを得たわけでもなくだ。

私は撮影の了解を得るが、どこまでが許せる、許せないのか範囲なのか、その確認をとった上で取材に臨んでいる。

ある宮司は「神事をしている最中は静かにすべし」と言った。

当然でしょうが、「しゃべって何が悪い」うそぶく人もたしかにいる。

こうあるべきだと話しても聞く耳をもたない人たち。

挙げ句の果てにカメラマン同士が神事中に言い合いをしたケースもある。

とんでもない人がいるのを何度も目撃する。

こうしなくちゃあきませんでと伝えたら睨まれる始末だ。

学術調査だと称して大学の学者も取材に来ることがある。

その人たちはその後何の音沙汰もないという。

何を調べたのか、どのようなモノに使われたのか、すら判らない。

そのような話は何カ所で聞いたことがある。

お礼とフォローは欠かせない。

礼を尽くす最前の努力はしなければならないと常々思っているが・・・時間が。

あんたは忙しい身やからかまへんでと言われるのが辛い。

カメラマンは決して特権でない。

写させていただくことにありがたさを感じろと、我が身の行動を振り返り反省する一日。

過去にも「玉垣の中に入るにはお祓いを受けてからです」、「鳥居を潜るときには拝礼してから」、「参道は中央を歩かない」などと指摘されたことがある。

これらは学び。

この度の適切なありがたいお叱りに御礼申し上げます。

(H22. 8.22 記)

菅生の納涼盆踊り

2010年09月26日 07時22分54秒 | 山添村へ
昼間に施餓鬼法要を営まれた山添村管生の十二社神社。

夜は村の納涼盆踊りに転じる。

舞台は境内だ。

中央には四方を竹で囲った櫓がある。

幕は紅白。

飲み物コーナーや子供たちのお目当ての綿菓子コーナーや輪投げコーナーも用意された。

宵闇が迫ったころ、夕食をたべ終わった村人たちがやってきた。

浴衣姿の男性、女性も多く見られる。



大人は冷たいビールに手がいき、子供は輪投げへと向かう。

「一年間のご無沙汰です。今夜は楽しく盆踊り大会を楽しんでください」と挨拶された。



第一幕はマイクを握ってカラオケ大会。

選ばれた人たちののど自慢が数曲唄われる。

そして出番は伝統を繋いできた管生のおかげ踊り保存会のみなさん。

手には白い房が付いたシナイを持って櫓を囲む。

唄い手は3人。

先輩から教わった歌を披露する。

囃子は太鼓だ。

ベテランの太鼓打ちは今年が服忌。

参加は遠慮されたことから急遽バチを持ったNさん。

春日の申祭りで榊の舞を演じた人だ。

ご婦人から節回しを教えてもらい打ち始めた。

おかげ踊りは「お陰おどり」と書く。



「アーヨイサー お陰阿波から ヨイセ、コラセー  踊りはー河内 アーヨーイセー コラセー せんぎょ(ナヤー) 初めはヨイリャ 大和から ササヤートコ セイノヨイヤナ コリャ アレワイサッサ コレワイサッサ ササナンデモーセー」の1番歌に続いて踊りを舞う。
 
2番 お陰なりやこいて わしのような者が 赤いおゆ巻き 買うてもろた
3番 揃ぅた揃いました 踊り子が揃うた 稲の出穂(でほ)より 尚揃うた
4番 お陰なりやこそ 世間の人は 欲をはなれて せんぎょする
5番 お伊勢参りに 扇をひろて 扇めでたい 末繁盛
6番 伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ

シナイを右手でもって左手で支え、振り回すように踊る。

4番の囃子を終えたときに扇に持ち替える。

そのとき、シナイは背中に挿す。

両手が空いて二枚の扇で舞い踊る。

優雅な踊りの1曲に拍手喝采だ。

菅生のおかげ踊りは奈良県の無形民俗文化財に指定されている。

かつては4年に一度、おかげ踊りが披露されてきたが高齢になったこともあり中断され伊勢参りだけになっている。

それが今夜の盆踊りで披露されているのだ。

歌い手や踊り子たちは伝統を先輩から引き継がれようとしている。

管生の夜はまだまだ長い。



中締めは豪華な花火が打ち挙げられた。

パーン、パーンと花火の音が山村に響き渡る。

徐々に花火の火が大きくなってきた。

締め花火は大玉だ。

脇坂火薬店から特別に仕入れてきた大玉花火は6千円。

値打ちがある花火はどこの花火大会にも負けないくらいだという。

2番幕がほどなく開いた。

歌うは再びカラオケのど自慢だ。

プロ級の歌い手も出演した。

2幕の締めは保存会が踊る「伊勢参り」だ。

「アーヨイサー お伊勢参りて ヨイヨイ アー飲んだかよお酒を アーヨイセコラ 天のナ 岩戸のソーレー 菊屋酒 ソリャヤートコセイ ヨーイヤナー アレワイセイ ア、コレワイセイ ソリャヨーイトセー」と1番。

2番 伊勢へ七度 熊野へ三度 愛宕さまへは 月参り
3番 お前百まで わしや九十九まで 共に白髪の生えるまで

踊り子に混じって村人も繰り出した。



最後、最後と言いながら納涼盆踊りが続く。

山添踊りや大和踊りなどの曲が入って総踊り。

何度も踊った。



踊りのあとは楽しみの抽選会。

籤を引く順番待ちの長い行列は少しも縮まらない。

「1等と3等はまだやでー」の声に出た玉は赤色。

粗品とは思えない生活用具を手にした。

(H22. 8.15 EOS40D撮影)

管生の施餓鬼の痕

2010年09月25日 08時57分32秒 | 山添村へ
施餓鬼が営まれた山添村管生。

毎年8月15日のことだ。

村中の人たちが十二社神社の参籠所に集まってくる。

施餓鬼は本来お寺の行事だが狭いことから参籠所が営みの場となっている。

竹を編んでヒノキの葉で覆い尽くす。

それは餓鬼棚と呼ばれている祭壇だ。

参籠所の一角にそれを設えて大きな椀に盛ったメシを供える。

中央には水を浸しシキビの葉を置く。

傍らには輪切りにしたナスとキュウリも供える。

飾ったお花はオミナエシにキキョウ。

手前に長い箸。

集まった人たちは70人にもなったそうだ。

隣村の春日の僧侶が施餓鬼法要を勤められる。

前年の16日から前日までに亡くなられた人たちの回向供養。

過去帳を詠み上げる。

過去帳には亡くなった年の記載はない。

月日だけだ。

今回の施餓鬼は6人が対象者数だった。

初施餓鬼といって家族の人たちは喪服を着衣して送る。

無縁仏を供養するのは彷徨っている餓鬼どもとともに「えーとこへ送るのだ」と長老は語る。

「長い箸は自分への口に持っていくものでない。相手の口に食べ物を持っていくのだ。施しの箸だ」と僧侶が説法で話されたという。

「あるとき目の悪い旅人がやってきた。家人は暗い道を歩くのは不憫だと懐中電灯を持たせた。旅人は目の悪い私には懐中電灯は何の役にも立たないと言い返した。家人は電灯の灯りがあれば交通事故に遭遇しないと持たせた。自分本位に捉えた事象は相手の思いやりを見えなくするのだ。」ともうひとつの説法に感動したと話す長老。

そのあとは参籠所いっぱいに広がって(上座、下座に)村人が座る。

座席の前に半紙を置いてジャコを配膳。

お酒を一人ずつ盃に注いでいくドウゲ。

年当番にあたる役目の名であって道化と充てるようだ。

一人ずつ拝むので営みは2時間もかかったそうだ。

その営みの餓鬼棚が燃やされていた。

役目を終えたわけだ。

そのころ各戸では松明を持って先祖送りをしているという。

じいちゃんはさっき済ましてきたと話す婦人。

13日は先祖迎え。

お家にやってきた先祖さんは煙となって再び天に昇っていったという。

(H22. 8.15 EOS40D撮影)

汗が流れ落ちる

2010年09月24日 07時19分02秒 | メモしとこっ!
撮ってほしいという依頼で県立民俗博物館にでかけた。

普段なら手持ちで十分というわけだがポスターに使うらしいのでそういうわけにはいかず滅多に使わない三脚を立てた。

指定の宇陀・東山集落の古民家はどこを切り取ればいいのだろうかとあっち、こっちと視線を替えてトライする。

暑い。あーでもない、こーでもないと構えている最中は汗が流れ落ちる。

メガネも汗で視野が狭くなる。

頭から汗が滝のように流れていく。

暑い夏だ。

秋口にしてほしかったと思うのだがもう遅い。

突然の依頼にためらうことなく受けたことに後悔する。

それはともかく吉野集落の前には夏花が咲いていた。

この時期には自然観察会は催されない。

白い花に紫花が咲いている。

お花はなんだろうか。

自然な植生ではないだろう。

タネが蒔かれたものであろう。



観察会の先生方に見立ててもらったら、濃いブルーの花はセイジだそうだ。

もしかしたらメキシコセイジかもしれないという。



白い花はハマダイコン。

花弁が4枚のように見えるが5枚。

花が終わって長さ10cmほどのプクプクとくびれた果実を付けるそうだ。

タキイのカタログによれば葉の様子からナデシコ科のサポナリア・バッカリアという花のようだという。

古民家を捉えるのはとてもハードだ。

全身がびっしょりと汗に包まれて体力が激しく消耗していく。

花に熱中するあまり身体が熱中症になりそうだ。



国中集落や町屋集落も撮るには撮ったが、さてさて。



(H22. 8.14 EOS40D撮影)



(H22. 9.30 SB932SH撮影)

白土町子供の念仏講

2010年09月23日 08時50分59秒 | 大和郡山市へ
白土町は環濠集落のひとつ。

白坂神社から西へ、そして南から北へと囲まれている。

集落の垣内は北、西、中に東垣内。

さらに南は城垣内と称される。

東隅に鎮座する白坂神社の存在が知られるのは天文年間(1532~1555)以降のこと。

永禄年間(1558~)に土豪の白土氏は筒井党(順慶)とともに松永久秀の大和侵攻に戦った。

そのころの居館跡が白坂神社になったのではないだろうか。

念仏講のNさんの話では白土は寄せ集めの村だったという。

それぞれに神社があった。

それを合祀したのが白坂神社であるという。

先に記述した城垣内。

旧地名が示すように付近に鎮座する天神神社辺りがおそらく旧在所の平城郭であったろうと思われる。

そこは個人で所有する神社。

数軒が関係者らしい。

天神神社は合祀に賛同されず現代に至っているそうだ。

その集落の環濠周囲を巡って辻ごとに太鼓と鉦を打ち鳴らす子供の念仏講がある。

白土の念仏講は大人の念仏講と子供の念仏講が実在する。

大人より子供の念仏講のほうが古いとされている。

『浄福寺念仏講享保21年(1736)2月15日覚帳』が残されている子供の念仏講。

明治、大正、昭和の時代も連綿と記帳されている重要な証しだ。

享保21年といえば甲府から柳沢世吉里が転じて郡山城に入部した13年後のことだ。

子供の念仏講が始まったいきさつは定かでないが、昔は・・・と前置きされて語ったNさん。

「村の旦那さんは古い家ばかりだった。お念仏は旦那さんがするんじゃなくて子供にささはった。出て行くのがおっくうだったのだろう。」と。



最初にドンチャンドンチャンチャチャチャのリズムで太鼓を叩く。

これを10回ぐらい繰り返す。

すかさず両手にバチを持ってホデホテスッテントン、ホデホテスッテントンと連打する。

これを3回ほど繰り返す。

昭和50年代ごろまではバチはヤナギの枝だった。

子供が採ってきて皮を剥いで細工した。

持つ位置は皮付きのままだった。

鉦はチャンチャンチャチャチャと打つ。

太鼓の打ち方は変わっても、鉦の打ち方は同じ調子だ。

太鼓打ちが先導し、形がつくまで練習していた。

それから何十年も経つが今でもその様子を覚えていると語る経験者。

役目を担うのは小学6年生までの男の子だけだ。

3人だけになった時代もあったが続けてきた。

少なくなった男の子。

女の子入れたらどうかと何度も会合で検討されてきた。

数人になった現在は「頼みの子」を入れて継続している。

春の彼岸にはお寺に集まって、子供が何人いて、継承できるかどうか対応策を検討しているそうだ。

その会合ではお寺で保管している念仏講の大きな曼荼羅の掛図を掲げるという。

毎日が暑さ厳しい夏日。

夕方近くになってもその暑さは衰えない。

7日から始まった子供の念仏講は今日で7日目を迎えた。

毎日のお勤めにほとほと感服する。

子供だからできるのだろうか。

大人の念仏講が一日だけになったが元気な子供は毎日だ。

合図もなくいきなり始まった太鼓打ち。

ドンチャンドンチャンチャチャチャの音色に合わせてチャンチャンチャチャチャと鉦を打つ。

打ち方も一週間すれば慣れたものだ。

いつものようにお寺の門下で打って本堂前の念仏の音を響かせる。

彼らは自転車に跨って次の場所に飛んでいった。



今日の太鼓持ちは講中の家族。

自転車の後ろに乗せて後をついていく。



かつて仲家の玄関先であった辻、フダバ(フダワとかフザワと訛る場合もあるが漢字にすれば札場)の辻、セセンボ(祖先墓が訛った)の前の辻、旧仲家の墓地の前の辻へと移動して太鼓、鉦を打ち鳴らす。

先祖供養でもあるようだが、それぞれの辻で打ち鳴らすのは厄払い。

悪霊が地区に入ってこないようにしているのだという。

中央の辻は別格として北と南は橋の上。

そこは現在も生活水路として残る環濠を示す北と南の辻でもある。



白土の村は仲家と喜多家の両家で支えられてきた。

N家はその一字をもらって名字にされたそうだ。

字地に箕田があるという。解体されそうになった唐箕を貰った。

そこには箕ノ田と書いてあった。

実る田のことだろうと話すNさん。

稗田も念仏講があるという。

喜多家は藤原氏の末裔だという。

半数が子供の念仏講中だそうだ。

もしかとすればだが。

両家の発案に拠って始められてもおかしくはないと思うのは私だけであろうか。

(H22. 8.13 EOS40D撮影)

道路交通法違反

2010年09月22日 07時50分08秒 | いどう
『登録車両の使用者殿、「駐車違反 速やかに移動してください。この車は“放置車両”であることを確認しました。この車の使用者は奈良県公安委員会から放置違反金の納付を命ぜられることがあります。云々』とある。

確認開始時間は午後4時16分。

違反時刻が午後4時19分。

場所はといえば自宅住所番地が明示してあって「先 付近道路」とある。

態様は「放置駐車違反(駐車禁止場所等(高齢者専用以外))、左側端に沿わない放置0時3分間、右側駐車、補助標識なし・・・。

これがなんのことだが判らなかった張り紙を見つけたかーさんは携帯電話で伝えてきた。

なんちゅうことか。

自宅前に停めた愛車に張られていた違反通知。

ちょっと、ちょっと、呼び鈴ぐらいは押してほしかったと署に伝えてもへの突っ張りにもならん。

署の話に拠れば路上駐車が頻繁にみられる住宅地から通報があったという。

そこはうちの住宅地ではないというがさてさて。

いわゆる強いクレームが署に届けられたというのだ。

動かざるを得ない署が行動を起こした結果だ。

法令は遵守しなければ・・・と思いつつも安易なほうを選んでしまう。

それがこの代償となって還ってきた。

さる住宅地は後日に判明した。

住んでいる人に聞いたのだ。

そこはあまりにもひどい状態だったそうだ。

その状況は署の人がいうとおりだった。

実際、路上駐車はなくなりすっかりと変貌したそうだ。

うちもそうなることだろう。

ちなみに「左側端に沿わない放置0時3分間、右側駐車、補助標識なし」の意味が判った。

2日後に配られた自治会の回覧板にそれが絵図付きで解説されていたのだ。

要は向きが逆なんだ。

左であれば左側駐車だったら検挙しなかったそうだ。

自宅の門の反対側。

門から3m範囲は駐車できないが反対側であれば3m50cm離れていれば検挙に至らない。

そうだったんだ。

もっと早く言ってくれよと思わず叫んでしまった。

10日後、同署の刑事課の方に話しによると、クレームが多々あったのはY住宅地だと聞いた。

それはともかく、隣家は下水道引き込み工事に入った。

駐車場の下を掘り起こすために、工事車両は当然ながら自家用車も停めることができない。

仕方なく道路に停めざるを得ない。

そこをミニパトがやってきた。

見回りなのでしょう。

それぞれ路肩左側に停めていたら、それも警察官が停めたらあきまへんというわけ。

工事どころでなくなった。

署の人はいった。

法令に基づくかもしれないが、それはやり過ぎ。

親しまれる警察になってほしいと呟かれたが、今後は客人も停めることができなくなった一般住宅道。

配送車両、電気製品搬入車両、なんでもかんでもおかまいなしに放置車両で摘発されることだろう。

どうすればいいのか思案にくれる反則金は1万5千円。

その後も摘発に来ていたミニパトを目撃した隣家。

27日の昼時にも出没して切符をはっていたのを目撃したそうだ。

(H22. 8.10 記)

揃ってわらじや

2010年09月21日 08時31分23秒 | 食事が主な周辺をお散歩
夏休みをもらって長男が東京から戻ってくるというのでおかんを呼んだ。

久しぶりに5人になる。

そうなれば外食。

コースは決まっている大和路うどんのわらじやだ。

家族一同が好評のお店。

どれを注文しても全員が喜んで食べられる。

予約を数日前にしていたかーさん。

お風呂も入って気持ちよくでかけた。

お店に入って予約のこと告げるとそんなの聞いていないという。

ありゃりゃ。

店員さんがちゃんと受け取ってなかったようだ。

10分ほど待ってもらったら席が空きますとの答えに待つことしばし。

その間、飛び込みの客が来たが満席で断られた。

気の毒に。

行列ができる店になるんだろうか。

美味しい店だがそうはなってほしくない。

空きましたのでどうぞの案内で席に着く。

そのうち隣のテーブルも空いたのでくっつけてくれた。

しかもだ。最初のドリンクを1杯サービスしますという。

ありがたいお店の心遣いに心地よく生ジョッキを飲んだ。旨い。

久しぶりに本物の味にのどがぐびぐびと鳴る。

注文といえばお決まり。



にぎり盛り合わせ980円。

これが美味いんだ。新鮮な魚に舌がうなる。

とてもじゃないがクルクル寿司にはもう行けない。

次は鶏のから揚げ700円。



3人前を注文したのにあっという間になくなった。

ジューシーな味はいつもと変わらない。

おかんまでが3個も食べた。

造りは5種盛り合わせ1580円を注文した。



トロまである。マグロも上々。

ペロペロと皿から消えていく。

イカげその天ぷらを頼んだが品物が切れたという。



それならタコの天ぷら580円。

前回来たときもそうやったんとちゃう。



定番のだし巻き450円。

次男はなぜかこれを食べない。

ダイコンおろしが丁度良いだし巻きたまごだ。



次男はメシが主食。

ミニうどんが付いている親子丼700円をぱくついた。

サラダも頼んだ。

毎回、一杯のサラダを注文する。

今回はこれだ。



牛肉サラダ880円。

どのサラダも美味しかった。

今度はどれにするかいな。

口直しにデザートも頼んだ。



マンゴーアイス480円が艶々に凍っている。

味はたしかにマンゴー。

凍りすぎてフォークが入らない。

もうひとつはこれだ。



かーさんが頼んだ抹茶アイス380円。

満足な今夜のわらじや料理。

締めて1万4千円だった。

一人当たりは3千円を切った。

安くて美味いわらじや。

こんな美味しい店がなんでグルメマップにでていないんだ。

(H22. 8. 8 SB932SH撮影)