白装束に身を固めた上深川の富士講中。
頭は鉢巻きを巻き締め帯も締めた。
下着は越中ふんどし。
すべてが白一色だ。
藁草履を履いて深江川に向かって行った。
持ってきたお神酒とオセンマイ(洗米)は土手に設えた祭壇に置く。
そこはヒガシカンジョウの地。
三本の竹で組み立てられた注連縄。
中央に2本の短い御幣、竹葉の部分には長めの御幣を取り付ける。
先代の父親が残された御幣切りを見本に作られた御幣だ。
富士講は6人。一人は東京住まいなので参加はできない。
上着を川堤に立てた竹垣にかけた4人は川に入水して水垢離をする。
お神酒を注ぎ祭壇のオセンマイを川で浸して洗う。
そして東の方角に向かって並んだ。
注連縄の遥か先は富士の山。
つまりその先の富士山に向かって水垢離が行われるのだ。
持参した数珠を左手に持って数えだした。
「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー」と唱えて柄杓で掬った水を頭からかけるような作法が始まった。
頭を低く下げた低頭姿で「やー」のときに頭先へに捧げた柄杓から水を落とす。
富士垢離の儀式である。
数珠玉は八つ。それはひと節ごとにある。
次の節の数珠を数えてまたもや「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー」の「やー」で水をかける。
これを8回繰り返す。
再びお神酒を注いでオセンマイを川で洗った。
数珠を指でくって「ひー、ふー、みー・・・」これも8回繰り返す。
合計で108を数えた。かつては初めの64回の一垢離を終えてから戻ってオコモリの会食をしていた。
いわゆる「籠り」である。
ゆっくりと昼寝の休息をとってから再び川に行って水垢離をしていたが効率を考えて二垢離も含め一度に済ましている。
上深川の富士垢離は先代たちが亡くなり長い期間中断していた。
次の時代にも伝えていかねばと一丸発起し平成21年に復活された。
装束、数珠、柄杓は先代が使っていたものだ。
いつかはと大切に保管していた。
Oさんが持っていた柄杓には3代前のおじいさんの名が記されている。
Iさんの親父さんが残された御幣切りを納めた封筒には昭和57年1月のスタンプがあった。
その5年後に亡くなられたというからおよそ25年前のことだ。
昭和22年から経験してきたNさんはそのときの様相を思い出しながら復活した富士垢離。
撮影年代は不明だが奈良県立博物館で当時の富士垢離映像が残されている。
そのうちの一人がOさんだ。
IさんとKさん、Aさんは教えてもらいながら作法をされた。
親父さんたちが行っていた富士垢離はきっちりと調えてこれからも続けていきたいと話す。
※上深川富士講中の許可を得て記録取材させていただきました。厚く御礼申しあげます。
(H22. 8.24 EOS40D撮影)
※ 参照<県教育委員会文化財・年中行事より抜粋する>
行事名称は浅間講(富士垢離)。行事日は8月24日。場所は浅間さん・元薬寺・山・川。主体は富士講。
センゲンコウともいい、富士講の行事。
富士山の神をまつった浅間(センゲン)神社の信仰で、白装束で登山をしたり、川の水を浴びて斎戒し、浅間神社に一家の安全を祈る。この行事が上深川に残っていた。
近年まで小倉に残っていたが、今はなく、八柱神社の石段の下に浅間さんを祭っているだけである。
上深川のフジゴオリは、八月二十四日の午後二回行う。
富士講員が午後元薬寺に集まり、まず、ゴヘイの竹(新竹)を三本作る。
内一本は長さ十一尺五寸。二本は八尺で、その先にゴヘイを付ける。
別に長さ九尺のシメナワを作り、一同は白装束で深江川の字勘定の渕へ行く。
渕の東側の岸に出ている岩を中心に三本の青竹を立て、シメナワを張り、岩の上に神酒と洗い米をまつり、一同はふんどし一つになって川の中に入り、東に向かって一列に並び、首に数とり用の数珠をかけ「ヒトフタミーヨーイツムーナアヤツ」と言いつつ、竹の小しゃくで頭に水をかけ「浅間大菩薩」と唱える。
この仕草を計六十四回行ってヒトコオリといい、午後四時からフタコオリを行う。
最後にオミキと洗い米を川に流して岸に上がり、身体をふき装束を着て、元薬寺にもどり、各家から持参してある重箱入りの精進料理で一献をかわすのである。
富士講には通称フジコウ山(字サカズキ)という六反五畝の山林があって、それで講を維持している。
以上
頭は鉢巻きを巻き締め帯も締めた。
下着は越中ふんどし。
すべてが白一色だ。
藁草履を履いて深江川に向かって行った。
持ってきたお神酒とオセンマイ(洗米)は土手に設えた祭壇に置く。
そこはヒガシカンジョウの地。
三本の竹で組み立てられた注連縄。
中央に2本の短い御幣、竹葉の部分には長めの御幣を取り付ける。
先代の父親が残された御幣切りを見本に作られた御幣だ。
富士講は6人。一人は東京住まいなので参加はできない。
上着を川堤に立てた竹垣にかけた4人は川に入水して水垢離をする。
お神酒を注ぎ祭壇のオセンマイを川で浸して洗う。
そして東の方角に向かって並んだ。
注連縄の遥か先は富士の山。
つまりその先の富士山に向かって水垢離が行われるのだ。
持参した数珠を左手に持って数えだした。
「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー」と唱えて柄杓で掬った水を頭からかけるような作法が始まった。
頭を低く下げた低頭姿で「やー」のときに頭先へに捧げた柄杓から水を落とす。
富士垢離の儀式である。
数珠玉は八つ。それはひと節ごとにある。
次の節の数珠を数えてまたもや「ひー、ふー、みー、よー、いつ、むー、なな、やー」の「やー」で水をかける。
これを8回繰り返す。
再びお神酒を注いでオセンマイを川で洗った。
数珠を指でくって「ひー、ふー、みー・・・」これも8回繰り返す。
合計で108を数えた。かつては初めの64回の一垢離を終えてから戻ってオコモリの会食をしていた。
いわゆる「籠り」である。
ゆっくりと昼寝の休息をとってから再び川に行って水垢離をしていたが効率を考えて二垢離も含め一度に済ましている。
上深川の富士垢離は先代たちが亡くなり長い期間中断していた。
次の時代にも伝えていかねばと一丸発起し平成21年に復活された。
装束、数珠、柄杓は先代が使っていたものだ。
いつかはと大切に保管していた。
Oさんが持っていた柄杓には3代前のおじいさんの名が記されている。
Iさんの親父さんが残された御幣切りを納めた封筒には昭和57年1月のスタンプがあった。
その5年後に亡くなられたというからおよそ25年前のことだ。
昭和22年から経験してきたNさんはそのときの様相を思い出しながら復活した富士垢離。
撮影年代は不明だが奈良県立博物館で当時の富士垢離映像が残されている。
そのうちの一人がOさんだ。
IさんとKさん、Aさんは教えてもらいながら作法をされた。
親父さんたちが行っていた富士垢離はきっちりと調えてこれからも続けていきたいと話す。
※上深川富士講中の許可を得て記録取材させていただきました。厚く御礼申しあげます。
(H22. 8.24 EOS40D撮影)
※ 参照<県教育委員会文化財・年中行事より抜粋する>
行事名称は浅間講(富士垢離)。行事日は8月24日。場所は浅間さん・元薬寺・山・川。主体は富士講。
センゲンコウともいい、富士講の行事。
富士山の神をまつった浅間(センゲン)神社の信仰で、白装束で登山をしたり、川の水を浴びて斎戒し、浅間神社に一家の安全を祈る。この行事が上深川に残っていた。
近年まで小倉に残っていたが、今はなく、八柱神社の石段の下に浅間さんを祭っているだけである。
上深川のフジゴオリは、八月二十四日の午後二回行う。
富士講員が午後元薬寺に集まり、まず、ゴヘイの竹(新竹)を三本作る。
内一本は長さ十一尺五寸。二本は八尺で、その先にゴヘイを付ける。
別に長さ九尺のシメナワを作り、一同は白装束で深江川の字勘定の渕へ行く。
渕の東側の岸に出ている岩を中心に三本の青竹を立て、シメナワを張り、岩の上に神酒と洗い米をまつり、一同はふんどし一つになって川の中に入り、東に向かって一列に並び、首に数とり用の数珠をかけ「ヒトフタミーヨーイツムーナアヤツ」と言いつつ、竹の小しゃくで頭に水をかけ「浅間大菩薩」と唱える。
この仕草を計六十四回行ってヒトコオリといい、午後四時からフタコオリを行う。
最後にオミキと洗い米を川に流して岸に上がり、身体をふき装束を着て、元薬寺にもどり、各家から持参してある重箱入りの精進料理で一献をかわすのである。
富士講には通称フジコウ山(字サカズキ)という六反五畝の山林があって、それで講を維持している。
以上