マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

新地・行者堂の地蔵盆

2018年09月12日 09時36分56秒 | 田原本町へ
かろうじて地蔵盆の状況がわかった南町材木町を拝見して車を走らせる。

旧町を通る道は一方通行に狭い道ばかりだ。

走らせるといっても時速は遅い。

メーターは20km以下。

両サイドの筋道にもあるのか、ないのか、キョロキョロ目で探してみるが、一向に見つからない。

諦めて旧町を離れようとしたときである。

時間帯は午後2時半。

場所は旧町の南の端にある新町である。

南町で拝見したような笹に括り付けた赤白の布が見えた。

そこで緊急停車。

通行の邪魔にならない場所に停めさせてもらって町の人に伺った地蔵盆。

午後の3時には住職が来られて法要されるというのだ。

急なお願いであったが承諾してくださった。

取材させていただけるのは、たいへんありがたいことである。



子どもさんの名前で奉納された祝いの旗立ては何枚あるのだろうか。

白色が男の子で赤い色は女の子。

奉納してから一年経てば笹に括り付ける。

旗に奉納された年号がある。

平成3年、4年、11年、17年、22年の平成生まれもあれば昭和生まれも何枚かあった。

一枚、一枚を捲って見えるようにしたいが、それは無理。

見える範囲内で調べてみれば昭和51年、昭和55年があった。

「私の子どもやけど、もう42歳になるんや」と云う。

随分前の奉納であるが、綺麗に洗って丁寧の折りたたんで残していると云う。

南町の婦人は笹に飾った子ども祝いの奉納旗は整理していると話していた。

婦人が云うには、大きくなって今では町を離れた子どももいる。

いないか、いるのかもわからないケースもある。

不安性のある子どもの存在に「この子はもうおらんやろう」と除外しているが、新地はずっと残しているそうだ。

地域性によって判断に若干の違いがみられる事例であった。

新地の地蔵尊は地蔵盆のときにだけ移動するという。

地蔵さんが普段におられる場は東を南北に流れる寺川沿いの祠に納めている。

その場で地蔵盆をするには車の往来を気にしなくてはならない。

狭い上に堤防地の斜めに立つ位置。

雨が降っては祭り難い場所。

そこで決めたのは、年に一度の地蔵盆だけは移っていただきましょう、ということで、すぐ近くになる行者堂に来ていただくことにした南の地蔵尊。

前日の夕方までに抱えて行者堂に運ぶそうだ。



史跡案内板に書かれた由来によれば「延享三年(1746)、行者堂の前身堂として行者堂の東、ムクの木の傍らに地蔵堂田原本・平野藩・寺院本末御改メ帳に“本誓寺末寺 地蔵堂 開基・開山は不詳、本堂 二間四面、本尊 地蔵菩薩、境内 東西四拾三間、南北三間 但シ無年貢地”とあり、“この場所から卍模様の小型軒瓦があった”と書いていた。明治時代、地蔵堂が廃絶のため、地蔵堂役行者倚像、前鬼像、熊野地方から伝来したとされる後鬼像を“戸久屋”の妻が自宅離れで祀るも、逝去のため本誓寺に預けた。大正三年頃に風邪が大流行し、これは、役行者倚像、前鬼像、後鬼像を新地で祀ることのなくなった祟りであるので、新地青年団が中心に田原本町陣屋町総堀の三前ほどの南堀を埋め立てて行者堂を建立し、現在に至る」とあった。

ちなみに、ここ新地の行者堂は役行者椅像を安置する田原本町の「御佛三十三ケ所巡礼 第十七番」の一つ。

毎年4月の第一日曜日に加持祈祷の春季護摩法要をしているそうだ。

寄贈者を募り大金を捻出されて昭和34年10月に新造された現在の行者堂。

そのときに新調された幕は三像を安置する前に張って本誓寺住職を待っていた。

本誓寺住職が新地の行者堂に来られる時間帯。



いっこうに、やってくる気配がない。

自治会長さん他、役員の人たちは地区周辺を巡って、今、どこで法要しているのか探された。

現在は近くの大門西に来ていると伝令が戻ってきた。

その次は大門中。

そして大門東などなど。

新地に到着するまでの待つ時間が伸びていくそのころ。

町内の人たちと話していた男性と目があった。

思い出した男性は田原本町法貴寺に住むMさん。

お家まであがらせてもらった元田原本町教育委員長である。

届く年賀状には「いつもブログ拝見し、参考にしています」と書かれているから恐縮する。

その場に慌てて駆け込む男性がおられた。

何故にここにおられるのか・・。

男性が住まいする地は田原本町の佐味。

7月3日にカンピョウ干し作業を取材させてもらったFさんだった。

たまたま立ち寄った新地に見たことのある車が停まっていたので、もしかとしたらと近寄ったら、私だったというわけだ。

何という奇遇であろうか。

ちなみにここ行者堂に掲げている史跡の案内板の写真・文は奈良県文化財保護指導員のNさん。

みなさん、ほんまにお世話になっている。

この場を借りて感謝申し上げる次第だ。

結果的に云えば本誓寺住職が法要に走ってこられた時間帯は午後4時。

例年通りの時間帯に始められた。

蝋燭、線香に火を灯して法要をされる。



町内の人たちも手を合わせて拝む。

その時間はほぼ2分間。

待っている方が圧倒的に長かったわ、と話す。

参拝されていた町内のある人は行者堂での法要を済ませた住職を我が家に案内すると云っていた。

そこまで着いていくことはしないが、旧町は、自宅内に地蔵尊を安置している家も何軒かあるようだ。

住職が離れたあとの行者堂の飾り付けである。

お供えはばらして分ける。

笹を下ろして紅白の祝い旗も片づける。

かつては大鍋を炊いて作っていたカントダキもあった。

子どもたちには握ったおにぎりも。

盛夏だからスイカも出して食べていたそうだ。

そのころの行者堂の地蔵盆は賑わった。

いつの間にか、町内から長男は出ていくわ、町内は年寄りが多くなった。

回覧を廻すと同時に町内会の集金もする。

そのときに住民の存在を確認する。

昨今は安否確認のようになってしまったという新地もかつては立山も造っていた。

紐を引っ張ったら動く立山だったと回顧される。

ちなみに行者堂に移して地蔵盆をするようになったのは20年前。

いやもっと前だったかもという人も何人かがおられたことを付記しておく。

自治会長ら参拝者に急なお願いして取材をさせてもらった田原本町新地・行者堂の地蔵盆。

終れば元の祠に戻される。時間帯はすぐではないので、場所だけでもと聞いて探してみればあった。



開いていた扉の奥は空っぽであったから間違いない。

新地は22軒。

昔は遊郭もあった町。

北から南へ繋がる中街道の名もある下ツ道は山上詣りのルートにもなっているという。

室町時代、浄土真宗などの寺院や坊を中心に形成された田原本町

寺院が中心体に集落構成の地域を寺内町と呼ぶ。

寺院信者に商工業を寄せ集めた自治の町を守るための構造は濠に土塁を構築した。

奈良県に見られる寺内町は、ここ田原本町の他に橿原市の今井、大和高田市の高田、広陵町の箸尾、御所市の東御所、下市町の下市、吉野町の飯貝などが知られる。

田原本町のHPによれば田原本町の概要は、水陸交通の要衝の地にあることから、中心旧町になる田原本地区は中世に楽田寺の門前として開け、近世は浄土真宗教行寺の寺内町として発展した、とある。

水陸交通と云えば東に流れる寺川がある。

陸は古代の幹道である下ツ道。

中世は中街道と呼ばれた大動脈であった。

江戸時代は交代寄合(参勤交代を行う格式畑旗本家の平野氏の知行地)であった。

平野氏の陣屋町として栄え“大和の大坂”といわれるほど商業が盛んとなったとある。

陣屋は、文禄四年(1595)の戦い賤ケ岳の七本槍の一人である平野長泰が拝領した田原本村の地に二代目長勝が寛永十二年(1635)に着工したそうだ。

長勝は支配権が対立する軋轢があったことから寺内町形成を進めていた真宗教行寺を田原本町の箸尾に転座させ、陣屋を慶安四年(1648)に竣工、明治四年(1871)の廃藩置県までを代々が継いできた平野家であるが、正式に田原本藩になったのは最期の領主の長裕のわずか3年間であった。

平野家の菩提寺である浄土宗本誓寺は元々八幡町であったが、二代目長勝が正保四年(1647)に教行寺の跡地に移した。

本誓寺南にある浄土真宗浄照寺(創建時は円城寺)もまた二代目長勝が創建である。

いわば、平野家が陣屋、寺院を配置して町を形成してきたかのようである。

当時の寺内町の区域はどこまでか判然としないが、町名をみれば理解しやすい。

三輪町の他に味間町、堺町がある。

三輪は桜井、味間は田原本町旧村の味間に大阪の堺町である。

中心部は本町、市町、魚町、茶町、材木町がある。

大和郡山の城下町でもそうだが、これらの町名でわかるように、また、日本各地にある城下町と同じように本町、市町(※市場)、魚町、茶町、材木町がある。

濠で防御した城下町もまた門がある。

ちなみにかつての郡山城の外堀に九条町大門があった。

外堀の北にあった大門である。

その他、北東に鍛冶町大門、東に高田町大門、南に柳町大門。

4つの大門があった。

田原本町に話しを戻す。

本誓寺、浄照寺に出入する濠に橋を架ける。

その橋に門があった。

いわば関所のようなもので門番がついていた大門中。

その両サイドに大門西、大門東もあれば、殿町もある。

浄土宗本誓寺が元々建っていた八幡町もあれば、祇園町、戎通、廓町もある。

他にも南町、根太口、小室、幸町もある寺内町であるが、本村には江戸時代以前(西暦927年の延長五年以降の創建)より牛頭天王を祀る祇園社だった津島神社もある。

津島神社の創建は寺内町が形成される以前からあった。

明治時代中頃に書写された棟札に天治二年(1125)があったことからわかる創建年代。

津島神社の神宮寺は京都祇園社と同様に感神院があった。

(H29. 7.24 EOS40D撮影)
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材木町・濠水路にある地蔵盆

2018年09月11日 09時52分32秒 | 田原本町へ
田原本町の中心部。

三輪町・南組の地蔵盆を拝見して北組に向かったが、跡形もなかった。

ぐるりと方角を替えて西の筋道に入っても同様。

地蔵尊の祠は多数見られるが、どこもかしこも店仕舞い。

住職の法要をしてもらったら、直ちに仕舞うようだ。

若干は残っているものの撮るとこまではいかない。

車窓から眺める次の筋道に提灯が見えたが、一方通行の道ではハンドルを切れない。

仕方なくそっち方面に行ける道を探して迂回。

ようやく見られた地蔵尊は材木町のようだ。

濠水路にあった地蔵盆は終わっていない。

用意している蝋燭も線香も火点け前。

住職がいつやってくるのかわからない。

訪ねたい家もあるが、車を停車したら人も通れない幅しかない道に置くわけにもいかないからさっさと撮って車を移動する。



後日、撮った画像を、じっくり眺めて見れば仏飯は山盛りだった。

ニンジン、ピーマン、ナスビの盛り椀に乾物のシイタケ、カンピョウ、コーヤドーフにマメをのせたのは愛嬌のようにも見える。

右上の椀は大葉にのせた茹でのコエビ。

左下の椀はキュウリの漬物に黄色いコウコが良い。

(H29. 7.24 EOS40D撮影)
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三輪町・南組の地蔵盆

2018年09月10日 09時27分04秒 | 田原本町へ
何年も前から気になっていた地蔵盆地域がある。

田原本町の中心部。

近鉄電車駅でいえば、田原本駅。

人は云う。田原本町は奈良盆地平坦部の中心地である。

とは云っても奈良県のヘソとまでは言い切る人はいない・・・と、思う。

田原本町の民俗行事は昭和59年3月に田原本町教育委員会が発行した『田原本町の年中行事』が詳しい。

ほぼ、であるが、「ゴウシンサン」若しくは「ダイジングサン」と呼ばれている行事と地蔵盆の行事場が近似する地区である。

かつては、というか、平成20年ころまであった立山は祇園さん行事のときだった。

今では見ることもできない造り物の立山であるが、田原本町の旧町にある地蔵盆にも興味がある。

『田原本町の年中行事』によれば、大門西南組の御膳は二つ切りジャガイモに、串で挿したトマトや太目の曲がりキュウリにコーヤドーフの串挿しが。ピーマン、ナスビの串挿しもあると書いてあった。

串挿しトマトはまるで二見が浦の日の出の情景。

ナスビの串挿しは帆かけ船の様相であると記している。

その地はどこになるのか、一見の価値がありそうだと思って、車を走らせる。

旧町は広い。

ただ、車路は狭いうえに、一方通行道が多く、走行どころか停車に難儀すると思われた。

実際、その通りのところもあるが、ここからと思って入ったところに地蔵盆の飾り付けが目に入った。

地蔵さんに赤白。

目立つ景観に飛びついた。

子どもさんの名前で奉納された祝いの旗立てが壮観である。



御膳にソーメンも供えているここはどこであるのか。

向かいのお家の方に話しを聞けば、三輪町(みわまち)だという。

飾り付けした地蔵さんは南組。

朝の8時に飾り付けをしてお寺さんを待つ。

それから4時間後の12時ころに旧町にある本誓寺住職が法要に来られた。

ほんの数分で終えた住職は次の場に向かっていったという。

ちなみに北に浄照寺もあるようだが、この日に探す時間は持ち合わせていないので、後日としよう。

ここら辺りは南組の他、北組にもあるし、西のところには、ほんま、多いくらいにあちこちでしていると話してくれたので車を移動した。

ちなみに南組の地蔵盆に何をお供えされていたのか。



御膳の椀を覗かせてもらえば、一つは仏飯である。

ご飯粒が立っているように見える仏飯である。

手前左はコーヤドーフの煮たもの。

中央は黄色いコウコ。

その右上はトーフと青菜の汁椀であろうか。

左上の椀はオクラと豆の煮もののようだ。

そしてもう一つのお供えがソーメン束。

カボチャにナスビと昆布であった。

昔はもっと多くの子どもが居た。

笹の飾り付けはこん盛りするぐらいに多かった。

飾り付けにある子どもの名前を手掛かりに、現在は不在していると断定された飾り付けは除外したそうだ。

某学芸員のYさんがお勧めする昭和60年刊の『田原本町の歴史』のある号にゴウシンサンや大神宮燈籠を調査した特集を載せているようだから、一度、田原本町図書館で探ってみたい。

(H29. 7.24 EOS40D撮影)
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佐味・早朝のカンピョウ干し

2018年08月19日 10時09分48秒 | 田原本町へ
ユウガオの実の皮を剥いて白い中身を薄く、薄く剥く。

剥く道具はカミソリそのもの。

散髪屋さんで髭を剃ってもらうカミソリ道具そのものであった。

これを竹とか木片を加工して手に馴染むような形に調整して作る。

これまで拝見した皮剥き道具はどの人も工夫して作っていた。

手の大きさも違うし、剥く感触も違うのでいろいろ作ったという人もいた。

今どきはアマゾンで売っているらしいが、平成22年7月17日に取材した田原本町の多に住んでいた高齢の婦人はこの道具を「カンナ」と呼んでいた。

「カンナ」は木を削る道具。

カンピョウの皮剥きは削るような感じでもないが、自作する道具作りもまた民俗。

まったく同じというものはなかった。

ただ、実際に皮剥きを見たことはない。今回がはじめてである。

皮を剥いて干す日は天気予報が頼り。

数日続く晴天になりそうな日を前日までに決めておく。

まずはユウガオの実の収穫。

畑に出かけて採ってくる。

その時間はどことも4時ころと聞いている。

収穫したユウガオの実は持ち帰って皮を剥く。

その時間はだいたいが朝の6時。

自宅から1時間以上もかかる地区であれば遠慮していた。

まぁ遠慮というよりも起床してから身体の準備を整えるまで2時間も要するから断念していたわけだが・・。

前日、3年ぶりに出会ったUさんは田原本町佐味に住む。

大和郡山の我が家から30分もかからない。

取材させてくださいとお願いしたら、皮剥きは朝6時にしましょうと云ってくれた。

ありがたいことである。

この日に収穫したユウガオは2玉。

品種は長玉や丸玉があるらしいが、奈良県内では長玉が多いような気がする。

気がするだけで、どこかに丸玉を育てている家はあるかもしれない。

カンピョウは多いときでも玉三つか、多くても四つ。

皮剥きから干すまでの作業時間は一玉で30分くらい。

数が多ければ多いほど作業時間はかかるし、体力も要る。

これくらいが丁度いいという。

皮を剥く前の作業は見ての通りの円盤切り。

大きな刃の包丁で、ずこっと切断する。

切る幅はカミソリの刃に合わせた3cm~4cm辺り。

ざっと、という感覚の幅に包丁を入れて輪切りする。

だいたいが目安の幅である。

厚さは計測していないが、1cm~2cmくらいはあるような感じだ。

薄っぺらであれば途中で切れる。

分厚くすれば乾きが悪くなる。

微妙な厚さであるが、皮剥きしている状態を観察している限り困った様子でもない。



実は道具のカミソリの刃の角度や隙間。

手でもつ部分の間隔で決まる。

カンピョウの皮に当てて右手で剥いたら、左手でもって円盤を動かす。

左手で支えながら剥いては廻す。

リズミカルな動きで剥いては廻す。

そういう感じに見えたが、やってみなけりゃわからない。



ただ、種がある中心部になれば、くにゃくにゃ状態。

柔らかい部分になれば力の当て具合が難しくなる。

種がある部分近くまで剥いたらひと巻き分が終わる。

種も、柔らかいワタの部分も不要。

廃棄するのであるが、これはジャンボタニシのオトリのエサにするという。

水田や水路辺りに住み着いたジャンボタニシをおびき寄せて捕殺退治する。

柔らかいのが好みらしく、スイカも同じような効果があるらしい。

それはともかく、剥き始めから剥き終わりまで、途中で切れることなく綺麗に剥けても、そのまま干すわけにはいかない。

干す場面になればわかるが、Uさんのカンピョウ干し竿の高さは手が届くところまでだ。

高さは2メートルぐらいなるが、地面につくところまでは伸ばさない。

だいたいが膝頭辺りまでである。



というようなことで長く剥いた皮は適当なところを、指で千切るように切り離す。

作業は見ての通り。

手を伸ばしながら適当な長さを手尺で測って切る。

ある人がお家でしているカンピョウ作りをブログ公開していた。

道具や干し方などに違いがある。

地域はどこであるのか、わからないが参考にしたい民俗である。



この映像はユウガオの両端を切断した断面である。

端っこはヘタ。

この方がわかりやすいからと、適度な厚さに切った断面を見る。

厚い表面皮。

内なる面に緑色の粒が見えるだろうか。

均等についている粒の正体。

植物学的にどういう構造になっているのかわからない。

その部分もそうだが、もう一段内部にある粒も目立つからと云って捨てる。

一つ目のカンピョウの皮剥きを終えたら藁でくるんだ竿に架けて垂らす。

デキが不ぞろいだったので長さも不ぞろい。

竿半分に垂らした右は空間。



ちょうどそこに収まるように位置したUさんは二つ目のカンピョウ作りに入る。

一つ目と同じように円盤形スライスの包丁切り。

ザックザクと切っていた。

一つ目に剥いたカンピョウはまるで簾のように垂れていた。

こうしてみると太目のベルト幅であるが、天日に干せば水分が飛ぶ。

一日ではそこまでならないが、二日目、或は三日目に亘る二度干しをすれば、幅広いカンピョウもチリチリの縮れ麺のようになる。

純白だった幅広のカンピョウも焼けた色になる。

白い簾も風がそよいでくれれば、と思うが、そうはいかない自然現象。

皮剥き作業は一つ目と同じように坦々としていた。

外側から見ていたカンピョウの皮剥き作業も小屋内部から見ればどういう具合になるのか。

外はお日さんが昇って日差しが次第にキツくなってきた照り。



暑さを避けるためもあって、Uさんが作業する小屋内に移動しただけであるが、広がる田園景色に目が開いた。

小屋の向こう側の左は野菜作りの畑。

中央は聞いていないが、ある野菜作付の畝。

その右は田植えの場である。

三者三葉の畑の奥に見える段丘は曽我川の堤になる。



二つ目の皮剥きを終えたカンピョウも竿干し。

情景を見ているだけで癒される。

小屋内部ではどこまで干しているのかわかり難い。

外側に回って干す作業を拝見する。

こうしてみれば二つ目のカンピョウ干しの長さが揃っている。

長く剥いた皮は適当なところを指で千切るように切り離しているように見えていたが、実はそうではなかった。

手尺で測った長さはきっちりしていたのだ。



おもむろに動いたUさん。

竿を吊るしていた紐を解いて前に擦りだした。



作業小屋に置いていた支柱を取り出して土中に挿す。

その位置に埋めた穴あきパイプがある。

そこに鉄製の支柱を挿して固定した。

その支柱もUさんの手造り。



昔取った杵柄に工作はお手の物。

ビスネジは溶接して固めた。

そこに差し込むU字支えはねじ込み型。

カンピョウ干しの時期が終われば取り外す。



作業小屋の天井に収納しているカンピョウ干しの木製支柱がある。

支柱の長さは測っていないが、大方5~6mぐらいになるだろうか。

支柱は2本。

2本とも、てっぺんに針金で縛った滑車がある。

母親がしていた道具はこれであった。



二本の支柱の滑車ごとに上げ下ろしをする紐を通していた。

その紐はカンピョウを干す竿の左右のそれぞれ両端に括っている。

手が届くところまで下ろしてカンピョウを垂らす。

すべてを垂らしたら二人がかかりで竿を上げる。

一人でする場合は、片方ずつ。

上げては紐を支柱に結わえて解けないようにする。

反対側の竿も滑車に通した紐を引っ張って上げる。

またもや紐を支柱に結わえて竿が落ちないように固定する。

こうした作業を繰り返して、高く、高く竿を上げてカンピョウを干す。

昨年の平成28年7月31日に訪れた田原本町の矢部。

高齢の夫婦二人がそうしていたことを知る。

ここ佐味のUさんが話していた母親の作業ぶり。

矢部の高齢夫妻を思い出した。

朝6時からはじめたカンピョウ干し作業は午前7時20分に終えた。

私に喋りかけながらの作業であったから、いつもよりは若干の時間オーバーで終わった。

昇ってきた朝日の光を浴びて眩しい。



干したカンピョウも真っ白に染めてくれる。

どの方向から見ても美しいものは美しい。

撮っている間に時間の影が短くなる。

作業を終えて家に戻れば入浴。

ヒンネ(昼寝)は時のごとく午後にひと眠りする。

それまではさっぱりした身体で他のこともしたいと云って帰っていった。

こうした作業を見せてくださったUさん。

それから20日後、同町本村の旧村にあたる新地で地蔵盆の取材をしているところに顔を出した。

佐味からは直線距離にして4km。

なんでここに、とお互いが顔を見合わせた。

写真、えーのん撮らしてもらったので、今度、持っていきますよ、といって別れたが、我が家の事情でほぼ一年後になってしまった。

(H29. 7. 3 EOS40D撮影)
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佐味に巡り合わせたカンピョウ干し

2018年08月18日 08時38分18秒 | 田原本町へ
所用で訪れた田原本町の佐味。

氏神さんを祭る天神社の近くに住んでいると聞いていたが、自宅がわからない。

昨夏の7月である。

携帯電話が鳴った。

来月はその天神社で「ヤマモリ」行事をするという電話だった。

今年はどうするか、決めていない。

訪れたワケはUさんに渡しておきたい昨年に撮らせてもらったヤマモリ行事の写真である。

電話をくださったお礼にと思ってやってきたが、家が見つからない。

探す前は登録した電話番号でコールしたが、出てこなかった。

どこかに置いてあるのだろうと思って付近の民家の表札名を探してみる。

百メートルほど歩いたところに白いものがある。

より近くまで寄っていけば、それはカンピョウだった。

カンピョウだとわかった瞬間に、作業小屋から出てこられたUさんの目と目が合った。

両者見合って「あれぇ」である。

Uさんと初めてお会いしたのは平成26年8月3日の日曜日。

その日はヤマモリ行事の日であったが、降雨続きで早々に雨天中止を決めていた。

訪れた天神社には誰一人もおられないのは、そういうことだった。

その中止を教えてくださったのは63歳と70歳のご婦人二人。

雨天中止でやむなく各家が注文していたパック詰め弁当は廃棄、ではなく配布である。

その配布中に教えてくださった、次に出会ったのが「ヤマモリ」行事を尋ねたUさんだった。

そのときに手渡しておいた名刺に電話番号があること覚えていたUさんが伝えてくださったのである。

ありがたいことだが、Uさんとはそれ日以来お会いしていない。

昨年の「ヤマモリ」に遭遇していたらしいが、顔を合わせる機会はなかった。

だが、3年ぶりのお会いするUさんであることは、すぐにわかった。

積もる話はさておいて、干しているカンピョウが気にかかる。

梅雨の晴れ間が続くと判断されて本日が初めてのカンピョウ干し。

早朝に採ってきたユウガオの皮を剥いて干した。

柔らかい状態のうちに一旦は下ろして二度干ししたばかりだという。

まさか、Uさんがここでカンピョウ干しをしていたなんてはじめて聞く。

なんでも母親が亡くなったあと、定年満了になってから、母親がしていた記憶を辿って復活したそうだ。

ちなみに明日もする、と云われてこんないい機会を逃すわけにはいかないので約束をお願いした。

(H29. 7. 2 SB932SH撮影)
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矢部・杵都岐神社のさなぶり

2018年07月30日 09時40分36秒 | 田原本町へ
この日はずっと雨だった。

雨の日のさなぶり行事が行われる田原本町矢部の杵都岐神社。

実は12年ぶりの再訪問である。

平成17年は6月26日の日曜日だった。

村の各戸の田植えが終わるころを見計らってさなぶり行事の日程を決める。

前年の平成28年は当初予想よりも早く終わったこともあって第3週目の日曜日。

6月19日に実施された。

そのことを知ったのは一週間後の6月26日

6月の最終日曜日と判断して出かけたが終わっていた。

今年こそはと思って前週の18日に訪れて前自治会長のFさんに確認していたから間違いない。

そういう経緯があって拝見する杵都岐(きづき)神社のさなぶり。

なにが見たいかといえば、苗さんの御供である。

苗さんは一把の苗。

田植えを終えて残りの一把を神さんに供えて、村の田植えが無事にすべてを終えましたと伝えるさなぶり行事である。

伝えるのは祝詞を奏上する神官である。

矢部に出仕する神官は多神社の神職である多宮司であるが、昨今は息子さんの禰宜と数多くある当該地域を振り分けて出仕されている。

その数は兼社。

26社にもなるから手分けせざるを得ないということである。

神事が行われる時間よりずいぶん早めに到着して新任交替された自治会長らにご挨拶をしておきたい。

そう思って早めに着いた杵都岐神社に存じている男性がおられた。

雨天にかかる雨に濡れながらも、予め準備をしていた神饌御供。

すべてではなくある程度の御供を並べていた。男性は矢部のの行事取材でお世話になったNさんだった。

ハツホ講のハツホ参りは平成28年の7月7日

その日の夕刻は祇園祭の燈明灯し

ヨミヤ参りは平成28年10月17日

和服姿の奥さんとともに参拝された。

Nさんと初めてお会いしたのは先に挙げたさなぶり行事を終えた一週間後

残念な日であったが、その日に目にしたカンピョウ干しに話しを伺ったNさんである。

それから1カ月後も拝見したN家のカンピョウ干し撮りの際に他家のカンピョウ干しも教えてもらった。

それから1年後にお会いしたさなぶりの日は新任の自治会長になっていた。

矢部の自治会役員は抽選で決まった5人。

杵都岐神社の年中行事を支える地域の役員さんの任期は2年である。

今年は雨が少なくて水不足に陥っていた。

池の水を足してもらってなんとかしたが、苗が育つかどうか心配していた日々であるが、この日は前夜から大雨状態。

今も降っているのが珍しいくらいだと云いながら並べていた。

一旦は、家に引き上げて再び神社にやってきたNさん。

今度は神饌に捧げる生鯛を持って来られた。

先に供えていると猫が食べてしまうから、神事が始まる直前ぐらいにと思って持って来た。

カボチャ、ダイコン、ニンジン、ホウレンソウ、ナスビにトウモロコシ野菜にコーヤドーフに板カマボコ。

スルメ、昆布にシイタケ。

リンゴ、バナナの果物など。

お神酒横に大きな鏡餅を盛った。

さなぶりに相応しい一把の苗さん。



ピンと育った稲苗の葉が美しい。

そのころに到着した多神社の神職。



鯛は神職の到着をもって供える。

矢部は神職が来られるのを確認してから村全戸に伝えるマイク放送をする。



その合図を聞いた村の人たちがぞろぞろとやって来た。



傘を要するこの日の参拝に、祝儀を役員さんに手渡して拝殿前に立つ。

幣で祓ってくださる祓い清め。



これをシャンコと呼んでいたのはNさんだった。

シャンコの祓いは順番待ち。

行列にはならなかったが、途切れることはない。



拝殿前、少し距離をとって順を待つ。

お一人参拝もあるが、家族単位の参拝も。

祓いを受けた人たちは右へ廻って木戸から入って、本殿向かい正面に立って参拝する。



祓いを受けてから氏神さんに頭を下げる。

矢部のいつもの参拝の仕方である。

待っている人たちも合わせて撮っていた際に声をかけられる。

平成29年2月3日のトシコシ行事の際に撮らせてもらったW婦人である。

先週に立ち寄った際に撮らせてもらった写真を前自治会長にお願いしていた。

お手数をかけますが、写っている人たちにどうぞ、と伝えていた。

その写真が手元に届いたというお礼である。

真っ暗な状況で撮っていただけにお顔ははっきりと認識していなかったが、撮られた方が覚えておられた。

ありがたくも嬉しいお声であった。



それはともかくお祓いをしてもらった参拝者は自治会役員からハクセンコウを受けとる。

この日の祭礼に多神社の神職がもってこられたハクセンコウである。

12年前にも見た同じ光景である。



夏祭りや秋の祭りは参拝者でいっぱいになるが、さなぶり行事の参拝者は農業を営む農家さんである。

この日は雨が降っているので少ないだろうと想定していたが、村全戸が90戸のうち1/3になる31人も参拝された。

もう来ないだろうと、参拝者が途切れたころを見計らって神事が行われる。



今度は役員の皆さん方のための祓えの儀である。

祝詞を奏上されて玉串奉奠。



そうしている間にも参拝者がやってくる。

時間ともなれば多神社の神職も腰をあげなければならない。

次に向かう兼務社のさぶらき行事の時間帯は午後5時。



出仕する兼務社すべてに苗さんを供えているという。

それぞれの神社にはそれぞれの神社役員がおられる。

矢部もそうだが、任期をもって交替する。

役員の引継ぎが上手くできずに継承できなくなればさぶらき行事は御供なしになる。

そういうことにならないように、苗代は必ず準備していただきたいと常々話しているというが、現状は24大字のうち、20大字が苗さんを供えているらしい。

また、神職や自治会役員が伺える範囲によれば、このような矢部の村さなぶり行事はあるとして、ここら付近は各家がする家さなぶりはたぶんになかっただろうという。

確かにここら辺りでは苗代田の水口まつりはまったく見られない。

そのことについては多神社神職も驚くべく現状であった。

(H29. 6.25 EOS40D撮影)
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矢部のトシコシ

2017年11月30日 09時47分49秒 | 田原本町へ
田原本町矢部に「トシコシ」と呼ぶ行事があると聞いたのは昨年の平成28年7月7日の祇園祭の燈明灯しの夜だった。

ツナカケの場におられたM婦人が教えてくださった「トシコシ」は2月3日。

夕刻になれば各家めいめいがお参りに来て節分の豆を供える。

その際には必ずローソクを立てて火を灯すと云っていた。

話しの様相から神社行事ではないようだ。

川上村吉野町の行事を取材して矢部に着いた時間は午後6時15分前。

夕陽が落ちて暗闇になりかけていた時間帯だった。

先に杵都岐神社に向かおうとしたが、ツナカケの場には、すでにトシコシのお供えをしていた。

ツナカケは真上。藁で編んだ簾型の注連縄が架かっているその真下である。

火が消えたローソクが2本。

オヒネリに包んだ節分の豆がひと包み。

よく見れば隣の岩にのせていた。

しばらく、その場で状況を撮っていたら、集落中央に鎮座する神社の方から歩いてこられた男女二人。

もし、トシコシをされるなら写真を撮らせてもらってもいいでしょうか、と声をかけたら承諾してくださったW夫妻。

薄っすら残る夕暮れの空の下。

豆御供をしてローソクに火を灯す。

お二人が手を合わせていたトワイライトタイム。

残りの時間帯に駆け回る。



夫妻はツナカケの場の交差点向こう側の祠に安置している地蔵さんにも供えて手を合していた。

夫妻の話しによれば、先に神社に参ってきたというから、急いで神社に向かう。

着いた時間帯は午後6時10分前。あちらこちらにローソクの火が見える。

とにかく急ぐ灯りを求めて三社参り。



右から八王神社、榎木神社、愛宕神社であるが、ここに弁天さんがないぞ、と云ったのは孫さんと連れだって参拝に来られたM夫妻。

名刺をお渡しして許可取りした上で撮らせてもらうが、弁天社はどこにあるのだろうか。

三社のローソク立ては社殿下にある囲いの中。

灯りが浮き上がるような光で神々しく見える。

7月7日の祇園祭の燈明灯しもそうだったが、ローソクの灯りで美しさを感じる。

ずっと撮り続けていたい気もあるが、参拝者の情景も、である。

写真ではわかり難い豆御供の場。

それぞれ三房の注連縄下にある。



M家族が次にローソクを灯したのは杵都岐神社拝殿の真ん前にある踏み石に、である。

三社には囲いがあったからローソクの火は煌々と燃えていた。

拝殿前には風除けがないから、ふっと風が吹いたら消えてしまう。



なんとか火を点けて手を合わせる。

M家族が次にお参りする場は杵都岐神社右にある金比羅さんの石碑。

ここも風が吹き抜けだから思うように灯せない。



午後6時になれば辺りは真っ暗闇。

そこに浮かび上がるローソクの火によって幻想的な情景を醸し出す。

次は観音堂・薬師堂に、である。



両堂に祈りを捧げる観音講がある。

取材した平成22年23年当時は9人であったが、今は若い人4人で継いでいる観音講が営む場が観音堂である。

お堂の前にオヒネリに包んだ豆御供。

ここも同じようにローソク灯し。

手造りのような燭台にローソクを立てて火を灯す。

ここでお別れしたM家族は南の辻にあるツナカケの場に地蔵さん参りは7カ所であった。



そうこうしているうちに参拝者はお一人。

F家から西に住むご婦人も承諾してもらってシャッターを押す。



これまで灯されたローソクの火がいつのまにか増えていた。

風吹きも弱まったので火が消えずに参拝者を待ってくれていたかのようだ。



しばらくはどなたも来られない時間帯にローソクの灯りに照らされていた杵都岐神社全景を撮っておく。

少し離れた位置から撮るローソクの灯りは三カ所。

右手に見える石碑が金比羅さんである。

しばらく佇んでいたが、参拝者が途絶えたころを見計らって帰路についた。

ところで弁天さんはどこにあるのか。ぐぐって検索したネット情報によれば、弁天さんの古墳が見つかった。

(H29. 2. 3 EOS40D撮影)
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八田伊勢降神社の特異な門松砂盛り

2017年10月04日 09時39分13秒 | 田原本町へ
天理市の檜垣町から同市の遠田町を経て田原本町の唐古。

さらに北上して大和郡山市に入ろうとする前に拝見しておきたい地がある。

田原本町の八田(はった)である。

神社は伊勢降神社。

春の御田植祭にたばった松苗を立てる苗代祭りも取材した神社行事である。

もしかとすれば簾型の注連縄があるのでは、と思って寄り道する。

期待は空しく、それはなかったが、砂の盛り方がユニークだった。

伊勢降神社は本社殿内にある社は市杵島社、住吉社、多賀社、春日社の四社。

その他に南側に道祖神社と保食社がある。

その間の境内中央に祖霊社を配置する。

本殿・拝殿前の玉垣前に設えていた松、竹、梅の門松に、である。

これまで拝見した県内各地の神社門松を立てる砂盛りとはちょっと違う。

砂盛りは前へ、前へと伸ばす。

これはいったいどういう意図をもっているのだろうか。

見慣れない形式の砂盛りではあるが、逆にユニークさを醸し出す。

その同じ形式で盛った砂盛りは境内社の祖霊社にも見られた。



拝見していたときに参拝者が訪れた。

お声をかけたら地元の女の子の二人連れ。

お正月の参拝に来られなかったので、今日にしたという。

何故にこのような形式にされているのかの問いには答えられなかったが、よくよく聞けば平成27年の2月26日に訪れた際に八田のさまざまな情報をお話してくださった昭和6年生まれのSさんのお孫さんだった。

なんでもこの年は父親が宮守さんを務めるという。

八田の宮守さんは4人。

その中でも一番若いという。

もう一度お会いしたいSさんは富士講でもある。

ずいぶん前にある学者が話しを聞きに来ていたと話していたことを思い出した。

まさかのお孫さんと遭遇するとは思っても見なかった八田の伊勢降神社の出合い。



南側にある道祖神社と保食社の門松立ても見ておく。

ここでは場所柄の関係かどうかわからないが、本社や祖霊社にあったユニークな砂盛りではなく、一般的な形式であった。

(H29. 1. 2 EOS40D撮影)
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矢部杵都岐神社のヨミヤ参り

2017年06月16日 08時44分16秒 | 田原本町へ
境内にずらりと提灯を立てる。

灯りが点くころには村の人たちが大勢寄ってきて参拝する。

矢部は家の提灯をもってヨミヤ参りをすると話していた婦人がいる。

その人はいつも和装で出かけると云っていた。

そんな姿を見たくてやってきた田原本町矢部。

鎮守の神社は杵都岐(きづき)神社である。

そういえば秋の祭りには伺ったことはなかった。

祭りの日は一般的な神事だと話す。

そうであれば夜のマツリの雰囲気を味わいたい。

早めに出かけて関係者に取材願いをしたい。

そう思って出かけた矢部。

着いた時間帯にいたのは近所の子どもたちだ。

自転車に跨って来たという。

鬼ごっこなのかわからないが既に立ててあった提灯辺りで遊んでいた。



社殿をいえばこれもまた神饌も供えていた。

ヨミヤの準備も終わっていたのである。



しばらくというかそれほど時間も経っていないころに男の人たちがやってきてローソクに火を点けていく。

底蓋を開けて火を点けたローソクを提灯内に入れる。

時間帯は午後5時半だった。

10月半ばも過ぎれば日が暮れると同時に夕闇に進んでいく。

1分、2分と時間が進む度に提灯の灯りが濃さを増していく。

撮りごろといえば撮りごろである。



神社の提灯に火が灯されたことを知って村の人も家の提灯に火を点けていた。

提灯は鳥居を潜って神社拝殿に向かって参られるに仕掛けている。

そう思うのである。

こういう在り方は天理市武蔵町も同じだ。

県内のあちこちで見られる形態であろう。

神社の提灯に火が灯されたことを知って村の人も家の提灯に火を点けていた。

設営並びに提灯灯しをしていた人たちは自治会役員。

祭礼の出仕される神職の手配から参拝者を迎えてお神酒を注ぐ役目をしている。

矢部は100戸の集落。

参拝者は多いという。

村に案内している時間は午後6時。

ヨミヤに大勢の人たちがやってくる。

ところが肝心かなめの神職が来られない。

連絡した時間が間違ったのか、それとも・・・。

緊急連絡する電話の返答は30分間違っていたということだ。



「こちら矢部放送、秋祭りは午後6時でしたが、神主さんのご都合で30分遅れの開催となります。よろしくお願いします」のアナウンスが村設置のスピーカーから聞こえてきた。

やむを得ないアクシデントに村全域に届くようにアナウンスされた。

大急ぎで支度した神職が到着した。

神職が位置する場は拝殿。



参拝者がお供えを役員に渡してから幣串で祓ってくださる。



低い声で祓の詞を唱えてから幣串で祓う。

頭を下げた参拝者に振る幣は左右に数度。

ありがたい祓はヨミヤの祓い。



祓ってもらえば役員から御供下げの紅白のハクセンコウをいただく。

次の参拝者も同じようにお供え、祓い、御供下げいただき。

次から次への順番待ち行列は鳥居辺りまで伸びていた。

祓ってもらった参拝者は拝殿右側に廻って本殿の前に向かう。



その場に立ってから氏神さんに向かって拝礼。

一般的な神事もそうだが、祓の儀があってから神事。

祝詞奏上などが行われる。



矢部のヨミヤに祝詞奏上は見られないが、まずは祓の儀を済ませてから拝むのである。

この形式は6月のさなぶりも11月の新嘗祭も同じようにして行われている。



神さんのお参りを済ませばお神酒をいただく。

役員さんがどうぞと差し出すカワラケにお神酒を注いでその場でいただく。

参拝者が少なくなって待ち行列が途切れるようになった時間帯は午後7時ころ。

和装で参ると話していたご夫妻も参拝するこの夜のお月さんはほぼまん丸。

前日は満月であった。



見ることはなかったが、この日の夜もまん丸お月さん。

老眼の私の目ではそう見えた。

(H28.10.17 EOS40D撮影)
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黒田孝霊神社のヤマモリ

2017年04月25日 08時53分51秒 | 田原本町へ
8月7日に取材した田原本町・佐味のヤマモリで聞いた黒田のヤマモリ。

今でもしていると佐味の人たちが云っていた。

昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』に黒田のヤマモリの記事がある。

「以前のヤマモリは9月1日の早朝から村中の人が川の雑魚取りをし、それを弁当のご馳走に加えて、夕方からお宮さんの庭で帖地を吊り、むしろを敷き、そこで弁当を開いた。ヤマモリに参会した者は村から少しの振る舞いが出た。現在はこの日に婦人会、老人会、子供会が歌をうたったりして楽しむ」と書いてあった。

『田原本町の年中行事』は続けて次のようなことを書いていた。

「日待、風日待、ヤマモリ、八朔のヤマモリなどの呼称があるが、多くは八朔の村行事で共同祈願の夜籠りの姿が顕著である。ヤマモリはやまごもり(やま籠り)であろう」である。

たぶんに調査・執筆された保仙純剛(ほせんすみひさ)氏の判断であろう。

私もそう思うが「やま」とは何ぞえ、である。

以前、このことについて教わった同町法貴寺の藤本保宮司が云った「夜」は「よる」であるが、「よ」或は「や」でもある。

「よるごもり」が訛って「やごもり」。

さらに濁音が消えて「やこもり」から何故か「やまもり」に転化したと考えられるのだ。

「やま」は「山」でもない。

「夜」なのである。

夜の間に籠るから「ヤマモリ」であるが、未だ、他の論証はみられない。

田原本町の黒田で行われていると聞いて予め訪れた鎮守社は孝霊(こうれい)神社。

辺りを見回しても人影が見当たらない。

境内に登ってとりあえず参拝した日は8月24日である。

神社には祭神や由緒を書いた掲示板が立っていた。

孝霊(こうれい)神社は元々あった法楽寺の鎮守社であるが、明治時代の初期にこの地に遷座した。

旧地より移した際に移した灯籠に明和七年(1770)の記銘があると書かれてあった。

今より247年前に寄進された灯籠のようだ。

また、田原本町観光協会が立てた掲示板には明治二年(1869)の『申請状之事』文書に遷座のことが書いてあったと伝える。

むしろその掲示板に書いてあった長禄三年(1459)の「法楽寺伽藍坊院図板繪(絵)」に当時の孝霊神社に法楽寺本坊、本堂、多宝塔、御影堂、鐘楼、宝蔵、山門などを配置した様相を伝える絵図でよくわかる。

もう一つは明治21年に築造した黒田池築造絵馬を紹介する映像に興味がわいた。

それぐらいしか得るものがなかった下見の日。

鳥居を潜って階段を下りたら道路向こうにある角地に立つ婦人がおられた。

行事日が何時であるのか尋ねてみれば毎年の9月1日。

午後6時には村の人たちが参詣して境内でヤマモリをしていると話してくれた。

日程・時刻がわかれば早めに着いて関係者に取材を申し出ようと思って出かけた。

着いた時間帯は午後5時。

少し早いと思っていたが境内にはブルーシートを敷いて準備を整えていた人たちがおられた。

数人の人たちは婦人会の役員さん。

30年前の昔は綺麗な服を着て子供連れの婦人が着ていたと話す。

何人かの男性もおられる。

その中におられた男性が私の名前で呼んだ。

なんという奇遇であろうか。

男性は存じているSさん。

かつて大和郡山市の職員の教育関係者だった。

ずいぶん前のことだがお世話になっていた大和郡山市の施設である少年自然の家の館長だった。

Sさんの名前は橿原市の飯高町でも聞いたことがある。

平成20年の3月2日に行われた飯高町のお綱祭の取材のときにお会いした地区役員のMさんはSさんのことを長年の友人だと云っていたことを思い出した。

その年はたしか大和郡山市内の校長先生になっていた。

矢田山の自然観察でばったり出会ったことも思い出。

取材に来てくれたことは驚きでもあるが嬉しさあってお互いが手を握るのも自然にそうなった。

この日は自治会の役員の務め。

会費を徴収するなど受付をしていた。

時間も午後5時半を過ぎるころには次から次へと村の人たちがやってくる。



まずは氏神さんに向かって手を合わす。

そうして境内に戻って準備されたシートに座る。

黒田は105戸の大字であるが旧村戸数は80戸。

他所から転居された新しい人たちもおられるが旧村戸数としては多いほうになるだろう。

一人の婦人が云った言葉に黒田のヤマモリは八朔と重なっているかも・・・である。

たぶんに私もそう思う。

8月末にされる地区は若干数あるが、圧倒的に多い日は9月1日である。

田の水の井出があるのは大字黒田の境界地になる三宅町伴堂(ともんど)の境目。

黒田池から流れでた排水は下流の伴堂に向けて流れるが、井出がその境界にある。

井出を開けなければ伴堂への供給はできない。

9月の始めは農作業が忙しくなるのでその景気づけだという人もおれば、井出の水納めに感謝する夜籠りかもという人もいる。

黒田のヤマモリは婦人会、自治会役員、老人会に神社方の世話人もおられるが男性のなかには農家の方も多い。

井出の話しができる人は間違いなく農家の人たちである。

その黒田池が築造された絵馬に「新溜池工事實景之主図 明治廿壱年壱月着手同年五月成功」という具合だから短期間の工事だった。

笠を被ってモッコ運びをしている工夫の姿もあればシャッポ帽を被る工事委員のすがたもなる。

当時の民俗を伝える絵馬は貴重な村の資産。



ガラス張りであるが、神社拝殿内に納めた絵馬を拝見することができる。

そういえば鳥居脇にある灯籠に明治二十一年九月の銘記年がある。

遷座したときに建てた灯籠であろう。

そのすぐ近くの場に建つ石灯籠があった。

刻まれた文字は大神宮。文化四卯(1807)十二月吉日とあるから遷座の際に持ちこまれたのか、それとも元々のこの地にあったのか、断定できない大神宮の石塔である。

やがてブルートーンの夕暮れ時。



午後6時も過ぎれば頼んでいた弁当を貰った人たちで埋め尽くされる。

役員たちはブルーシートをして場を調えてはいるものの村の人たちは座布団、

或は折りたたみ椅子を持ってくる人も・・。

よくよく見れば北と南に分かれて座っている。



北側は女性ばかり。

南の方は男性ばかり。

自然体にそうなっているように思えた黒田のヤマモリは自治会長の挨拶で「籠り」が始まる。

籠りと云っても数時間。

一夜をずっと朝まで籠ることはない。



午後6時半ともなれば神さんに供えたお神酒を下げて皆に配られる。

照明のライトは境内を明るくする。



男性も女性もそれぞれが座った場で談笑を重ねる。



一時解散は午後7時。

残った人たちはその後も宴を続けていたようだ。

ちなみに長老が云った話がある。

「尾崎常次郎が中心となって黒田池を築造した。井出を開いて苗代田に水を入れた。米の神さんやと云ってモミダネを蒔いて田植えをした。農業を営む者にとっては水が一番大切や。井出の一つにジャコ取りがあった」という。

池を浚えて残った池の水がすくなくなったところに魚が跳ねる。

それを掬い捕って食べたのがジャコである。

もちろん生ではない。

ここ黒田ではないが、煮て食べたと話していた老婦の話だ。

続けて話す黒田池に纏わる農水の話題提供。

「米の水が穂も稔らせる。今年も育ったんでお礼に参って神さんの前で食べる。それが神さんとともに食するヤマモリや。この時期になれば田んぼに水は要らん。井出のおった魚を捕るのもこの時期や」と話してくれたのが印象に残る。

この日のヤマモリには神職は登場しない。

秋の祭りなどの祭礼に出仕される神職は大字八尾の鏡作神社の宮司と聞いた。

秋の祭りは10月の第二土曜がヨミヤで翌日の第二日曜が祭りである。

ヨミヤは午後6時の参拝。

鏡作神社里巫女による参拝者鈴祓いがある。

第二日曜は祭りの繁盛日。

奈良県内で二番目に多い地区の行事である。

二番目と聞いて、何でと思われる人は多いだろう。

一番多いのは地蔵盆である。

7月にされるところもあれば8月も。

地区に神社は一つであっても地区にある地蔵尊は辻ごとにあるから数えきれないほどに膨れ上がる。

それはともかく黒田の祭りは桃太郎神輿が町内を巡行する。

神輿に続いて子供が打つ太鼓神輿も出るようだ。

(H28. 8.24 SB932SH撮影)
(H28. 9. 1 EOS40D撮影)
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