マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

庵治町のムカシヨミヤ訪ねて

2015年01月31日 08時53分05秒 | 天理市へ
「ムカシヨミヤ」、「庵治」、「カスガ」のキーワードを知ったのはいつだったのか、どこであったのか覚えていない。

特に気になったのが「ムカシヨミヤ」だ。

そう呼ぶ行事は田原本町八田の伊勢降神社にあった。

境内社の道祖神社の祭りに里の女児巫女が舞う神楽があった。

その夜限りの祭りは県内事例に数カ所ある。

田原本町では八尾の鏡作若宮神社、唐古の神明社・八阪神社、八田の伊勢降神社

大和郡山市では石川町の八坂神社、八条町の堂山子守神社、椎木町では東椎木の杵築神社、山田町の杵築神社、伊豆七条町の牛頭神社

天理市では合場町の三十八神社で拝見したが、何故に一夜限りの祭りであるのか判っていない。

充てる漢字は「昔宵宮」もあれば「昔夜宮」も。

大和郡山市横田町の和爾下神社で行われる「十ニ夜宮」もある。

実施月はいずれも9月であって、10月にはマツリがある。

そう思って行事所在地を探していた。

この日は田原本町の阪手北の郷神さんの取材をしていた。

帰路の道中にある信号に「庵治町」があった。

田原本町八田から西側にあたる天理市の庵治町。

カーナビマップが示した神社があった。

伊勢降神社である。

境内社には八田と同様に道祖神社もある。

八田は男神で庵治は女神とされ両社を通ったという伝承があるらしいが、「カスガ」の地ではない。

鎮座地よりさらに西へ向かえば南北に走る下ツ道がある。

北に向かえば庵治町の集落であるが、南に向かえば大木に囲まれた小社があった。

そこに祀っていたのは地蔵石仏であった。

お参りをして格子窓から覗かせてもらった。

小社は地蔵堂。内部には二枚の絵馬が掲げられている。

武者絵のように見える絵馬である。

地蔵尊に絵馬を掲げることもあるのだと知った地蔵堂の常夜籠の一つに「行者講」が刻まれていた。

この地も「カスガ」ではない。

「カスガ」はどこにあるのだろうか。

もしかと思って北にある集落を抜ける街道を走った。

対抗できないほどの狭い道である。

通り抜けていた街道に婦人たちがおられた。

何かの集まりではないだろうか。

停める場所もなく、一旦は国道24号線に戻って廻り道。

車を停めて歩いた集落におられた婦人に聞いた。

この日はゴウシンサンの祭り

行事を終えて解散したばかりだと云う。

ゴウシンサンの祭りは大神宮。

隣にある八王子の石塔にも参ったと云う。

翌週の23日、24日は朝の6時から地蔵尊を清掃していると云うが、地蔵盆でもないようだ。

話しは聞けなかったが、婦人たちは年齢からいっておそらくおばあさん講であろう。

「ムカシヨミヤ」なら「カスガ」さんでしているようだと云う。

地蔵尊から東へ向かって一直線。

石段があるからすぐに判ると聞いて足を伸ばした。

手前にあったヒモのようなものが垂れていた。

干されてから日にちが経過したのであろう。



色もついていた干しものはカンピョウだ。

棒のようなものに藁束を括りつけている。

おそらく、ずれないようにしているのであろう。

背景に見えるのが「カスガ」さんだ。

付近におられた若婦人に聞いたらそうであった。

この日の夕方は、ここの地区のゴウシンサン(御申さんであろうか)。



大神宮塔の前に斎壇を設えていた。

おそらく提灯を掲げるのであろう。

「カスガ」さんはハチが出没しているので、気をつけてくださいと教えてくださった。

本殿前にあった燈籠には「春日大明神」とある。

道を隔てた南側の小字は「春日前」。

間違いない。

庵治町には三つの神社がある。

もう一つは北方にある菅原神社。

大和川を越えた集落内にあるらしい。

行事の手掛かりはゴウシンサンであったが、「ムカシヨミヤ」は聞くことができなかった。

この日は葛城市まで向かわなくてはならないので、下見調査はこれまでだ。

(H26. 7.16 SB932SH撮影)
(H26. 7.16 EOS40D撮影)

13回目のテーマは実成りに感謝

2015年01月30日 11時18分47秒 | しゃしん(カメラのキタムラ展示編)
平成14年から始まったカメラのキタムラ写真展は今回で13回目。

テーマは稲作における「実成りに感謝」にした。

苗代の場の注連縄立てから始まって鎌納めまでの8枚組を展示する場は奈良市杏町153番地のカメラのキタムラ奈良南店。

私が紹介する写真は行事が主体。

見にこられた人が店員さんに「これなんですのん」と質問をうけ始めたのが平成19年。

解説の必要性を感じたが毎日出向くには無理がある。

そう思って作った解説シート。



A4用紙に場所・写真。解説・撮影日を一枚ごとに書いた。

ご自由に持って帰ってもらえるように何枚か展示場に置いている。

これで店員さんも困らない。

それからは毎年続けている解説シート付きの写真展。

本日出向いたら早くも数枚が減っていた。

持って帰られたのであろう。

少なくなれば補充をする。

展示は1月末辺りまで。

それまではときおり立ち寄って残枚数の確認を要する。

(H27. 1. 3 SB932SH撮影)

8枚組のテーマは「実成りに感謝」。

これまでは原版リバーサルフィルムのプリントだった。

今回はデジタル画像もあるしフィルム画像もある混在だ。

いろいろな観点から混在となった作品選び。

いっそのことすべてのプリントはデジタルから起こしてもいいだろうと思って依頼したプリントはクリスタルの4pw。

仕上がったプリントは混在していてもまったく判らない。

良い仕上がりだ。

できあがりを見ていた店員さん。

「これは何っ」と云った「サブラキ」の映像。

田植え初めに行われる農家の在り方は初めて見たという。

もう一人の店員さんは「カマ納めのカリヌケ」写真を見てこう云った。

「実家で暮らしていた子供のころ。稲刈りが終わったら稲を刈ったカマを箕に納めていた。豊作であったことに感謝する家の風習。納めたのは座敷だった。減反政策もあって今では家人が食べるだけの稲を栽培している」と云うのだ。

もう一枚の写真を見たKさんは「これもしていた」と云う田んぼの注連縄。

大晦日だったか覚えてないが、玄関扉や納屋などに家で作った輪っかの注連縄を飾っていたと云う。

その日は苗代にも竹に挿して立てた。

ミカンはなかったがウラジロはあったと思いだされる。

裏山の山の神さんにも注連縄を飾ったと話すKさんは淡路島が出身地。

阪神大震災で活断層がむき出しになった一宮(いちのみや)で暮らしていたそうだ。

奈良県内ではおそらく今市だけであろうと思われる田んぼの注連縄。

在り方もまったく同じである。

Kさんが思い出したもう一枚。

1月15日の小正月に正月のモチとかアズキガユを供えていた。

その場も苗代田である。

朝にアズキガユを食べた。

カヤススキの茎の堅い部分を十数cmに切って箸代わりに食べていたと云うのだ。

さらに思い出した「ミトマツリ」。

イロバナはなかったが、割った竹に白い紙片を挟んで苗代に立てていたそうだ。

今回展示するほとんどを体験していたのだ。

例年のとおり、今回も写真付きで解説シートを準備した。

カメラのキタムラで写真展をされる人やグループには解説なんてものはなく写真だけである。

写真展はどこでもそうだが、私が展示する写真は毎回において閲覧者が店員さんに質問をするそうだ。

困ったことに何を尋ねられても判らない行事や風習の写真展。

そうであれば解説シートを作ればいいのだと思って毎回作るようにした。



Kさんも体験したことがない「クワハジメ」、「サブラキ」もある稲作の一年を紹介する。

(H26.12.16 記)

今回のテーマを選んだのは田植え・稲刈りイベントの報道を見て「これは本質ではない」と思ったからだ。

収穫したお米で炊いたオニギリをほうばる子供たちの笑顔。

映像にでてくる親の微笑ましい顔。

「田植え」や「稲刈り」の日だけに参加する米作りオーナー制度に応募した人たちの姿をとらえる報道に違和感をもった。

今日の朝刊に「棚田オーナー制度」の募集があった。

「草刈り」を入れて年3回の農作業に参加するが普段の日常管理は農家が行うと伝えていた。

しんどいところは体験せずに「えーとこ撮り」。

ましてや、今回のテーマに挙げた写真で紹介する農家の祈りや感謝は「教え」もない。

オーナー制度そのものの批判はしたくはないが、「アイ」の日の田んぼで何が行われているか足を運んで「気づき」をしてほしいと思って投げかけた写真展。

見られて感じた「思い」を伝えてくださったら、私も「気づき」になると思っている。

(H27. 1. 4 記)

阪手北の郷神さん

2015年01月29日 09時27分33秒 | 田原本町へ
2月にケイチン(華鎮祭)の弓打ち行事をされている田原本町の阪手北。

昨年末の注連縄飾りの際に村人から聞いていた7月16日のゴウシンサン。

充てる漢字は「郷神」さんである。

「八坂神社すぐ傍の辻に建つ石塔にお神酒を供えてお祭りをする」と云っていた。

その石塔は「寛政七乙卯年(1795)霜月吉日」に建之された「常夜燈」だ。

「式下北坂手村 惣中」の刻印もあった常夜燈は村の人たちが建てたものである。

常夜燈ではあるが、お伊勢参りに出かける際は、ここで拝んで旅だったというから大神宮の石塔に違いない。

7月16日に県内各地で行われている大神宮(太神宮)の祭りをダイジングサンと呼ぶ地域は多いが、田原本町・三宅町・川西町ではなぜかゴウシンサンと呼ばれている。

天理市庵治町や武蔵町もゴウシンサンと呼んでいたことから、この辺りの地域固有の呼び方のように思える。

阪手北の郷神さんを祭る行事は地区を三つに分けた東・西・中の廻り順で行われる。

この年の当り当番は東であった。

注連縄飾りの際に話してくださった3人がおられた。

「よう来てくれた」と温かく迎えてくれるゴウシンサンは、始めに作業がある。

八坂神社の蔵に納めていた角材を常夜燈に運び始めた。

ほとんどが男性だが、婦人も運ばれている。

小学三年生の孫さんも手伝う角材運び。

土台・柱・梁・桁で支えて棟木・垂木を置いて屋根で覆っていく。

角材にそれぞれのホゾもあり、東・西・上・下などの印しも書いている。

それどおりに組立てていく。

およそ30分間で組み立てた。

棟木には「昭和四拾七年七月吉日建之」と書かれていた。

それ以前にもあったそうだが、新しく造り替えたと云う。

それまでの角材は蔵が古かったので、隙間風でほこりまみれ。

近くの川に運んで洗っていたそうだ。

斜め材の筋違いがないので、風に煽られると倒れそうにもなるが、それはそれでしっかりとした造りである。

祭壇の板を置いてお神酒やつまみ、お菓子を供えて提灯にローソクを灯す。



一同揃って2礼・2拍手・1礼のお参り。

しばらくはその場で直会るゴウシンサン。



1時間も経てばお参りを終えて角材を解体して終えた。

大正14年生まれの長老の話しによれば、戦後まもない昭和30年代前半まではホラ貝を吹いて、地域に呼出をしていたそうだ。

子供たちは下げた御供の「ショウジセンベイ」を食べていたと話す。

「ショウジセンベイ」は大和郡山市の小林町住民からも聞いたことがある。

長方形のセンベイは障子のサンのような格子状の焼きがあったそうだ。

豆入りもあれば、ないものもあったと云う「ショウジセンベイ」は、稀にスーパーでも売っていたそうだ。

阪手北の人も同じようにスーパーで見たことがあると云う。

懐かし「ショウジセンベイ」が記憶のなかで蘇った。

そのような話題に、婦人たちは「子供のときに参ったら“コウシセンベイ”を3枚もらっていた」と云うのだ。

「ゴウシンサンやったらセンベイ」という記憶があると口々に伝える。

ちなみに、長老が寿司屋をされたいたころは、田原本町味間のゴウシンサンに20本の巻き寿司を配達していたと話す。

味間のゴウシンサンの場は存じている。

いつかは訪ねてみたいものだ。

(H26. 7.16 EOS40D撮影)

寺口博西神社夏祭りの十二振提灯献灯

2015年01月28日 07時20分17秒 | 葛城市へ
夏祭りに十二振提灯を献灯されるとか、女児巫女が拝殿で神楽の舞いがあるようだと聞いて訪れた葛城市寺口の博西(はかにし)神社。

何年か前のことだ。当地を探してみたものの判らずじまいだった。

神社の鎮座地はどこにあるのだろうか。

それも判らず早めに着いた寺口の山の上方。

集落を抜けても神社は見つからない。

田畑におられた婦人に尋ねてみれば、神社はもっと下のほうにあると云う。

その辺りは20日に行われる商工会主催で3000発の花火が打ち上げる葛城市の花火大会の会場。

山手から街灯りを眺める景観を入れて撮ってみたくなる景勝地である。

「寺口の十二振提灯は」、と聞けば、「今日ちゃうで、明日やで・・・」と返された。

「前年に当番を勤めた人が持っている資料を見てみるわ」と云われて家にあったものを見せてくれた。

それには15日も16日も大神宮(ダイジング)さんであった。

「十二振提灯を調えてしますんや」と云うのだ。

「確かな情報は隣の奥さんが知っているはずや」と呼んでくれた。

結果は、15日が博西神社の献燈。

「他の大字はもう出発しているころや」と云う。

婦人たちが話す大字集落では「当番さんが軽トラに乗せて神社近くで組みたてしますんや」と云うので、大慌ててで目当ての博西神社へ急ぐ。

神社近くまで行けば、提灯を肩に乗せている人が見えた。

車は「どこに停めたら良いのでしょうか」と聞けば、「神社前に一台置けそうやから、そこに停めな」と云われて駐車。

ありがたいことである。

博西神社に十二振提灯を献燈する大字は6カ大字。

寶前組・問屋・北側・二塚・北方が寺口村で、鎮座する地の西にある大字大屋を入れて6カ大字になると云う。

提灯には寺口の各大字を示す寶前組の「敬神氏子中」、「問屋氏子中」、「大屋敬神中」、「二塚氏子中」、「北方」、「敬神中」が見られた。

本殿下の前庭に設えた所定場に提灯を括りつけて立てる。

「これまでは提灯の向きがバラバラだった」ので、数年前に「御神燈」の文字が中央に寄せるようにしたと宮総代は話す。

そのころにやってきた神職は調田坐一事尼古神社の高津和司権禰宜。

お話しを伺えば、なんと、なんとである。

奈良女子大の武藤先生の同級生だと云う。

武藤先生とは県内の伝統行事取材でさまざまな伝承を教わったことが多々ある。

おつき合いをさせていただくようになって十数年。

今でも学生を引き連れて現地学習をされている。

神職は調田坐一事尼古神社が本家。



「19時半には始めなくてはならない」と云われてお祓いを済ませて戻られた。

そのようなわけもあって、本年の女児巫女の神楽はされることはなかった。



陽が落ちた19時半ころともなれば、ローソクの火を灯した十二振提灯が宵闇に浮かびだす。

おつまみとお神酒をよばれて一時間。

「そろそろ終わりましょ」と宮総代の声で夏祭りの幕を閉じる。

かつてはスモウもあった。

夜店も多く出店していたそうだが、今では面影すらなく献燈を終える。

いつの時代か判らないが、大神楽の獅子舞も来ていたと云うのだ。

また、正月の4日から6日の期間は「甘酒をふるまいますねん」と云う寺口の様相は村の正月迎えの在り方。

再訪してみたいものだ。

解散宣言をされて一大字ごと肩にかかげて村に戻っていく十二振提灯。



大慌てで撮ってはみたものの、ブレブレである。

三脚を立てる時間もなかった。

(H26. 7.15 EOS40D撮影)

勢野北垣内天王祭り

2015年01月27日 10時27分36秒 | 三郷町へ
三郷の坂本さんが教えてくださった三郷町勢野の天王祭り。

行事の場は北垣内になる。

「ややこしい場所なので見つけにくい」と話していた。

二週間前、南畑の帰り路に立ち寄ったが、「北垣内」の住居地図があるにも拘わらず、結局判らずじまいだった。

坂本さんの話によれば、「北垣内」は行政町名の勢野東3丁目らしい。

集落内にある成就寺であるが、安寿さんが亡くなられてからは一般的な家屋になったと話していた。

尼寺・成就寺には牛頭さんを祀っている。

7月14日には、その場で行われる御湯神事は自治会主催の行事。

日が聞き間違いでなければ人が集まっているはずだ。

そう思って北垣内を巡ってみた。

民家らしき家にはテントを張っていた。

おそるおそる尋ねた自治会の人の話しによれば、成就寺は曹洞宗の大阪府柏原市本郷の河内薬師寺の末寺になると云う。

で、「どうしてお寺さんであるのに牛頭さんが・・・」と聞けば、昭和14年に焼失した成就寺敷地内の西側に建つ小社がそうだと云う。

小社は牛頭天王社だった。

明治時代の廃仏毀釈のおりに、何らかの理由があって勢野薬隆寺に鎮座する八幡神社に遷されたと云う。

マツリには獅子舞もやってきたと云う八幡神社の境内社に浅間(せんげん)社がある。

そこに元あった社を祀っていると云うのだ。

この件は、10月に訪れた薬隆寺の八幡神社に出仕された坂本さんの話しによれば絵馬殿こと参籠所内に神像があったと思いだされる。

いつしかその場でなく他所に遷したらしいと話す。

八幡神社に寄進された常夜燈の一つは北垣内が建之されたもの。

明和二年(1765)の刻印があるようだ。

成就寺敷地内に建つ牛頭天王社の神像は、気になされていた安寿さんが生前中に新しく木像の牛頭さんを製作して祀るようになったと尋ねた人が話す。

そのことを機会に集落の長老たちが立ちあがり、14日の夕刻にはアゲメシを炊いて地区の人にもてなすようになったと云う。

アゲメシは葬儀のときにだしていた食べ物。

北垣内の東・西それぞれが炊いていたそうだ。

次世代を担う人たちに継承してもらいたいという願いで始まったと云う。

天王さんの祭りには御供がいっぱい供えられている。

ソーメンやスイカなどもあるが、多くはお重いっぱい盛ったお米だった。

社殿下に設えた湯釜は三本脚でもなくレンガ造りの火場だった。

湯釜は記銘もなく、古くでもなく、新しくもない感じだ。

2軒の当家さんは湯焚きさん。

竹の幣も作る。

二本の竹幣は一本が90cmで、もう一本は38cmの長短だ。

北垣内は旧村28戸。

本家・分家の人たちの廻りとなる当家は14年に一度廻ってくるようだ。

かつては母家筋の特定家。

「講のもんやった」と83歳のK当家が当時を振り返って話してくれた。

御湯の神事は坂本さんのお勤め。

神職は登場しない。

いつもながらの作法で行われる。

集まった人たちで「後方からでは写しにくいやろ、前から撮ってもかまへんで」と云われて立ち位置を移動する。

ありがたいお言葉に甘えて撮らせてもらった御湯の作法。



大きな幣で沸かした湯を掻き混ぜる。

二本の笹束を湯に浸けて北垣内に神さんを勧請する。



祝詞とも思える「神の呼出し」の神楽歌である。

左側に座っているのは娘さんの考江さんだ。



御湯の作法を終えれば、牛頭さんの御前で神楽を舞う。

牛頭天王社下の燈籠には「牛頭天王 天保二年卯(1831)六月吉日」の刻印がある。

そして、御湯をされた笹とともに鈴を手にして参拝者一人ずつ湯祓いをされる。

いつもそうされている湯祓いだ。

次は考江さんが舞う神楽舞である。



「すめ神」の神楽舞、「このや乙女」の神楽歌に二本の剣をもち舞う神楽。

鈴ももって舞う神楽が行われた。

今度は鈴と剣で祓えたまえ清めたまえと一人ずつ祓っていく。

神楽を舞う時間と同じぐらいに費やした。



テント後方におられた方は順番待ち。

一人ずつされるまで順番を待っていた。

念仏講もあると云う北垣内。

昔は、天王さんの祭りのときには大勢の子供たちがやってきて花火をした。

集落を巡るキモダメシもあったと話す。

夕方5時から始まる垣内の行事。

今ではそのような様相もないようだ。

ここにおられた婦人が話してくれた出里地域の行事。

天理市竹之内町である。

氏神さんの十二神社では風鎮祭をしていたと云うのだ。

いつなのか覚えておられなかったが、家で作った料理をお重に詰めて神社に参り、ゴザを敷いて食べていたと話してくれた。

(H26. 7.14 EOS40D撮影)

田中町甲斐神社夏祭り

2015年01月26日 14時20分31秒 | 大和郡山市へ
代々とも呼ぶ夏祭りの行事が行われる大和郡山市田中町の甲斐神社。

この日は朝からどしゃぶりの雨だった。

午後はどうなることだろうと心配したが、雨は小雨。

なんとか実施された。

甲斐神社では8月の祖霊祭、9月の八朔祭、10月のマツリ宵宮と本日の夏祭りにおいて御湯が行われる。

一年に4回もされている地域はおそらく当地だけではないだろうか。

かつて3月のお田植祭でも行われていたが、今では見られない。

釜湯を沸かすのは一年で交替する「湯焚きさん」と呼ばれる二十歳代の若者だ。

御湯作法をされるのは小泉神社宮司家妹の森本明美巫女である。

宮司家の姉さんの旦那さんは璒美川勉宮司。

森本明美巫女の旦那さんも宮司で璒美川勉宮司の実弟である。

兄弟姉妹で結ばれたご夫婦が神事を勤めているのだ。

森本明美巫女が作法される神楽・御湯は璒美川先代の藤井家に嫁いだ叔母から母親へと伝えられた。

明治32年生れの叔母は大三輪・大神神社の巫女だったそうだ。

大神神社では御湯は慶応四年(1868)の神仏分離令によって廃された。

第二次大戦後には復興を試みられたが、継承されることなく現在に至っているやに聞く。

廃れたものの、里巫女家によって継承されてきたと考えられるが、どうも違うようだ。

2月7日に行われる三輪恵比須神社の御湯の神事がある。

作法を拝見した限りではあるが、「浪速神楽」と思えるのだ。

平成21年に大阪府教育委員会が発刊した『大阪府の民俗芸能-大阪府民俗芸能緊急調査報告書』に4月に行われる大阪府富田林市の佐備に鎮座する佐備神社の春の祭・神楽祭がある。

佐備の御湯神楽に「花湯」がある。

一方、田中町の氏子が書き残した『氏子総代と年中行事』に御湯名を「湯花神事」と書いていた。

類似点等より推測するに、田中町の御湯・神楽の作法は「浪速神楽」と思えるのである。

祭りの神事に拝殿へ登るのは宮守五人衆と自治会長・水利組合長。

氏子たちは参籠所に座っている。

いつもこうしているのである。

この日の参拝は男性が18人で女性は16人。

ほとんどが長寿会の人たちである。

修跋、祝詞奏上、玉串奉奠を終えた氏子たちは境内前庭に設えた湯釜を囲むように並ぶ。

始めに神楽を舞って、それから御湯の作法に移る。

湯釜に酒、塩、シトギを投入して幣でかき混ぜる。

そして、2束の笹を湯に浸ける。

当地で云う「湯花神事」である。

巫女は祝詞を唱えることなく、笹を湯に浸けては氏子たちに向けて湯を飛ばす。



この日の湯飛ばしは数えられないぐらいに多いのである。

浸けては飛ばす。

これを何度も繰り返す作法。

小雨が降っていたが、御湯の熱気で感じることはない。

笹に浸けた湯の量は多い。

衣服がびしょ濡れになるぐらいの量であるが遠くに居る人には届いているだろうか。



そのあとは、笹を湯に浸けて一人ずつ前に向かって鈴と笹湯で祓う。



ありがたいことに私までも祓ってくださった。

(H26. 7.13 EOS40D撮影)

家の夏花

2015年01月25日 08時23分41秒 | 我が家の花
庭にある夏の花のギボウシが蕾状態。

前夜に降った雨が滴になっていた。

後方に黄色い花がちらほらあるのはゴーヤの花。



上のほうにあったゴーヤは実成りになった。

もうすぐ食べられそうだ。

夏の花は庭だけでなく前の丘にも咲いていた。

黄色い花の名は知らない。

皆目見当がつかなかった花の手掛かりを教えてくださったFacebookトモダチが教えてくれた。

葉はギザギザでなく、見た目は柔らか毛風の葉が決めて。



大輪はキク科のルドベキアと判ったが、もう一つが判らない。



もしかとすればキクイモかも知れない。

(H26. 7.13 EOS40D撮影)

東包永宵宮赤童子祭り

2015年01月24日 12時03分50秒 | 奈良市へ
昨年に訪れたときには神事を終えていた時間後だった。

この年も訪れた奈良市東包永(ひがしかねなが)町は「ならまちきた」の一角にある。

かつては7月14日・15日に行われていたが、今では集まりやすい第二土曜・日曜に移った町内会の祭りである。

7月6日に通りがかった東包永町。

町内には子供たちが描いた「赤童子祭り」を貼りだして案内していた。

町自治会調べによれば、明治十二年(1879)に大和一円で流行ったコレラ病いが発端。

明治三十五年(1902年)に再び発生したコレラ病いで死者が12名にもおよんだと伝える。

それから数年後の明治41年(1908)には天然痘、ペストも発生したそうだ。

その後も流行り病いは止まらず、大正五年、九年にも発生した。

東包永町においても患者が発症したコレラ病。

悪病を祓い断ち切るために守り神である赤童子を祀って夏祭りをしたと云う。



会所に掲げたお軸は2幅。

右が中央に天照皇太神を配して左右に春日大明神・八幡大菩薩の文字軸は三社託宣だ。

左が祭りの主役の町内守護神の赤童子像。

昨年に訪れた際に自治会長らとともに拝見した赤童子軸を納めた箱には「明治弐年(1869)十月」の墨書があった。

流行り病いのコレラ病発症よりも10年前である。

かつては総代家で、7月4日、5日に赤童子を祀ってお祭りをしていたが、昭和10年頃には14日、15日に替えて祀る場を会所に移したそうだ。

赤童子祭りのお供えは赤く染めた餅だ。

翌日の本祭りが終わってから地区85軒に配る赤餅である。

洗い米、塩にアズキを盛った神饌も供えた場に幕を張っている。

下がり藤のご紋がある幕は昭和8年吉日吉祥とある。

一方、会所に張った紅白の幕は昭和38年5月に新調したもの。

東包永町永友会の文字がある。

永友会は町の青年団。現在は休眠中だと云う。



宵宮神事は赤童子・三社託宣に関係する春日大社の神職によって行われる。

祓えの儀、祝詞奏上に一同揃って唱える「神拝詞」のなかの大祓詞。

正式には中臣の祓えであると云う。

参詣者の顔が写るように「ここから撮ってや」と云われて立ち位置を移動する。



ついでにとお願いされた記録の撮影。

神職からは春日大社の記録を残したく、持参されたデジカメを渡されての撮影を手伝った。

玉串奉奠で終えた自治会役員はローソク立て、行燈などを会所に整える。

この日の夕方は子供が大勢やってくる町内の夏祭り。

昨年同様にガラガラ抽選引き、金魚すくい、みたらしだんごなど手作りの夜店で賑わう。

(H26. 7.12 EOS40D撮影)

山田のカンピョウ干し

2015年01月23日 12時17分12秒 | 民俗あれこれ(干す編)
6月28日に立ち寄った桜井市山田の茶ノ前垣内のF家。

「そろそろ始めなあかん」と云って栽培したカンピョウ原材料のユウガオの実を見せてくれた。

天気予報を伺って「晴れまをみせる」数日間が連続する日にカンピョウ干しをすると云うFさん。

それから数日間は晴れの日が続いていたが、朝6時半のカンピョウ皮剥き。

他所の行事取材が重なっていたことから7月に入ってからと思っていた。

ところが7月になってからは連続した晴れ日もなく曇天続きだった。

台風8号も通り過ぎたこの日に出かけた。



着いたのは8時過ぎ。

早朝に皮向きを終えて竿を高く揚げていた。

白く垂れさがるカンピョウ干しである。

当主の話しによれば、朝6時から栽培していたカンピョウを取ってきて皮を剥いていた。

1時間そこらで2個の皮剥きを終えて、水平棒に一本、一本を垂らしたと云う。



水平棒はバランスを崩してしまうと傾く。

そうなればずずーと外れてしまう。

水平になるように、気をつけながら一本、一本を竿に掛けたと云う。

手持ちのメジャーがないので正確な長さは判らないがが、当主は「6m以上・・8mもあるかな」と云う。

もっと長いカンピョウはくるりと二重巻きにして垂らした。

水平を保って「カッシャ」と呼ぶ機械を徐々に揚げていく。

両端にある支柱は風に煽られてくるくる動かないようにしている支えだそうだ。

数年前にみられた田原本町の多・矢部や天理市の嘉幡・吉田のカッシャのカンピョウ干しは中断した。

「若いもんはそんな面倒なことはしやへん。年寄りの作業はできる限り、続けていきたい」と云う当主は80歳も越えた年齢。

一人でする作業は「いつまで続けられることやら・・・」と云って、皮剥きの道具をみせてくれた。



自作の皮剥き道具は竹製・木製に型を作って刃をタコヒモで括っていた。

中央は窪んでいる。

刃はカマの刃を電動ソーで切って、合うような長さにしたそうだ。

3本の自作皮剥きがあるが、竹製が一番使いやすいと云う。

カンピョウは予め畑から取っておくのであるが、日にちが経過し過ぎると中身がコンニャクのような感じになって剥きにくい。

何時するかはとても判断が難しいと云う。

カンピョウのヘタがある上部は種が少なくて堅い。

下部は種が多いし、柔らかいので、皮は長くしにくい。

一旦、輪切りにしてくるくる回すように皮を剥いていくと話す。



この日はつい先ほどにカンピョウ干しを終えたばかり。

カッシャを揚げて一服されていたときであった。

明日も雨になりそうで、台風9号も発生した。

次回はいつになるか悩ましい今年の天候不順。

達者で続けていくのが難しい年齢。

貴重な映像を撮らせてもらって感謝する。

(H26. 6.28 EOS40D撮影)
(H26. 7.12 EOS40D撮影)

夏はセミの声

2015年01月22日 09時30分07秒 | 自然観察会(番外編)
数日前にシャーの声が聞こえた。

一瞬であった。

なんとなくクマゼミの鳴き声のように思えたが、続かなかった。

我が家の駐車場に停車した。

ドアを開けたら脱け殻があった。

挟まったらペシャコになってたろうに。

たぶんにクマゼミだけど、出かけるときはなかった。

駐車場はコンクリート。

どこから出てきてここまできたんやろか。

その後の16日。

送迎中の櫟本辺りの木々からシャワ、シャワと聞こえてくるクマゼミの鳴き声。

一斉に出てきたのであろう。

天理の庵治町でも聞いたクマゼミの鳴き声。

セミセミセミーと聞こえるのである。

翌朝の17日。

雨戸を開けようとした際に見つけたセミはアブラゼミだった。

ガラス窓と障子に挟まれていたのだ。

死んでいるのかと思えばそうではなかった。

カメラを準備しようとしたが、間に合わなかった。

ジーと発しながらお外に飛んでいった。

その後の18日の朝は自宅周りで盛んに鳴きだしたクマゼミ。

五月蠅い夏の声で目が覚める。

(H26. 7.11 EOS40D撮影)