マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

都祁針稚児頭家榊立

2011年10月31日 06時47分58秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
都祁針の稚児頭家の家では朝な夕なに春日神社のワケミタマ(分霊)を一年間祀っていた。

つつがなく分霊を毎日拝んで守ってきた神さんはお渡りをする一週間ほど前に軒先へと移る。

ヤカタとも呼ばれるその社はオカリヤ(お仮屋)の中に遷される。

オカリヤはヒバ(桧葉)で覆っている。

屋根を桧葉で葺いた建物のような形だ。

その前の祭壇にはお神酒や塩、米、頭付きの魚、野菜、果物を供えて宮司を待つ。

稚児頭家は2軒。

かつて子供が多くいた時代は4軒だった。

春日神社の宮司が小学生だったころはそうだったというから50年ほども前のことだ。

子供が少なくなって現在は2軒。

それぞれの家に宮司が向って榊立の神事が執り行われる。

1軒の頭家では風で倒れては申しわけないとススンボ竹で補強している。

お頭があれば魚は何でもいいのだがさすがにメザシというわけにはいかずタイと思っていたが売っていなかった。

それならばツバスにしたという1軒の稚児頭家。

そうこうしていると宮司が来られた。

いつもと同じように玉串を奉するのですと優しく稚児に伝える宮司。

毎日の拝礼に毎月次祭での神社で参拝していた稚児は行儀よく手を床に揃えて頭を下げる。

一年間の経験は大人も顔負けだと話す宮司。

稚児頭家の神事と言えば家人たちがオカリヤの前に並んで玉串奉奠のように榊を稚児が捧げることにある。



それをオカリヤ内にあるヤカタの前に入れる。

それだけの作法なのだが、これが何を意味しているのか未だに判らない。



推測するには榊、つまり家で祀っていた神さんを一旦、家の軒先の外に出すために霊力がある真榊(マサカキ)を使うのではないだろうかと話す。

さて、そのヤカタと言えばお渡りを終えた翌日の後宴祭の際にワケミタマを遷して次の稚児頭家に引き継がれ床の間などに置かれるのである。

こうして一年間を祀っていくのである。

その順といえば生まれた年齢順。

男の子が4人もいる家ではその度にオカリヤを作られている。

もう1軒の稚児頭家では雨が降ったら神さんに申しわけないと木で社を作られた。



軒下であるだけに雨が降ればヤカタも濡れる。

昨年の榊立ではそうだった。

そういうことから立派な社を作られた。



ここでの榊立が行われたあと、主役の稚児頭家たちは春日神社へ参ってウケミタマをオカリヤに遷したことを報告された。

(H23.10. 8 EOS40D撮影)

九頭神神社宵宮相撲

2011年10月30日 07時19分27秒 | 大和郡山市へ
白足袋を履き白衣へ紋付羽織を着て白の角帯で締めているのは座の長老。

一老、二老、三老の三人は当屋の相談役として世話をしている。

定年制度がなく引退をしない限り長老役を勤めるという。

宵宮を始めるにあたり小泉神社の長寿殿で4人の当屋とともに参籠している。

7人は大和郡山市小泉町の市場垣内の人たち。

市場は60軒であるが、そのうち血縁関係にある家が市場の座員になる。

そういうことから分家であれば市場を離れた人も座員であるという。

清掃をするなど一年間に亘り氏神さんに奉仕する人たちが当屋である。

一人は御供(ごく)当屋を勤め、他の三人は御酒(みき)当屋にあたる。

池堤には祠が残されているが祭礼は小泉神社の境内に遷されたことからそこで行われている。

長老の記憶を通り越した80年以上も前。

合祀され遷されたのは大正年間であったろうと話す。

古文書がなく口から口へと伝承されてきたのでいつの時代か判らないが、と前置きされて語るかつての市場の氏神さん。

今でも池の名が九頭上池と呼ばれることからもしかとすれば九頭神ではなく九頭上であったかも知れないという。

そうとうな大昔、水つきがあって九頭神さんは川から流れてきた。

それは堤防に流れ着いた。

そこに鎮座していたが神職がいないから不自由だと小泉神社の境内社として遷した。

雨たもれと神さんを手に持って田んぼを回り雨乞い祈願をしたことがあるという水の神さんだという。



陽が落ちて真っ暗な境内は九頭神神社をライトで照らされた。

社、鳥居の前に参列される長老と当屋たち。

祓えの儀、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠など厳粛に宵宮の神事が行われたあとに始まる宵宮の相撲。

それは神さんの前で奉納される神事相撲である。



三人の長老は一老を先頭に境内を右回りで大きく三周する。

その際には「ウゥーハーイー」と発声する。

一老が「ウゥーハーイー」と発声すれば後の人が声を揃えて「ウゥーハーイー」を連唱する。

そして停止した途端に二老と三老が向き合って「ハッケヨイノコッタ」と行司役の一老が扇子を掲げた。

二老と三老は少し傾倒しつつ、手をそえて腰を掴み静止して、行司が扇子を掲げた。



僅か5秒の一瞬の作法だった。

宵宮相撲はこうして終えた。

神さんを楽しませる神楽と同じ意味をもつと宮司は話す。

祭典を終えれば再び長寿殿に上がった長老と当屋たち。

本来ならば神社拝殿で行われる直会であるが、小泉神社の祭礼と重なっているためこの会場となった。

供えられた神饌は下げられて会場に置かれた。

平たい折敷に載せられた九つのモチ。

どうやら九頭神神社の九つを表しているようで膳は四枚。

当屋の人数分であって祭礼後に持ち帰るそうだ。

ザクロ、エダマメ、帯締めのコンブと小さな幣が置かれた折敷もある。

それは翌日祭典で当屋クジに当たった人にお願いをするときに持っていくもの。

そのときのくじ引きは4人の当屋とカゲ(影当屋)と呼ばれる2人の予備当屋を選ぶ。

カゲは一昨年までは一人だった。

ところがその年の10月に入って家の事情で辞退をされた。

そのことがあってもう一人のカゲを選んでおくことにされたそうだ。

その段階では御供当屋と御酒当屋はまだ決まっていない。

2月11日の小泉神社の御田植祭が行われる日に拝殿で集まってきた当屋の中から選ばれるのだ。

御供当屋は御供モチを作る田を耕作する役目に当たるという。

宵宮の神事相撲の謂れも判らないままこうして九頭神座中の宵宮の夜は更けていった。

(H23.10. 7 EOS40D撮影)

再びたこ焼き和尚

2011年10月29日 06時43分51秒 | あれこれテイクアウト
たこ焼き和尚の味が忘れなくて毎日とは言わないがときおり頭がよぎる。

それもそのはずたこ焼き和尚の店前は一週間に3回も通るからだ。

いくらなんでも毎週も買いに行くとなればどやされること間違いない。

だから2週間も開けることにしていた。

翌日が仕事休みの日で帰宅途中に、と思っていたこの日に決行した。

そんなたいそうなことではないのだが、今回はしょうゆ味を注文した。

この日も数個をサービスしてくれた。

そんなんでいいのやろかと思うが食い気が勝つ。

自宅に持ち帰り買ってきたことをかーさんに告げるやいなや容器の口が開かれた。



パク、パクパク・・・。

数分間でこれまた消えた。

思っていた味とは違ったようだが美味しい証拠であろう。

(H23.10. 3 SB932SH撮影)

額田部推古神社ウツシマワシ

2011年10月28日 06時41分35秒 | 大和郡山市へ
お社と呼ばれるお仮屋を建てられた額田部推古神社の当家たち。

一番当家から四番までの当家は家の玄関口に笹竹を立てて注連縄を張る。



土台は四角い形で上は芝生を植えている。

この年はお店で買ったものだがかつては田畑に生えているシバを土ごと採ってきてそれを土台に被せた。

一番当家ではもっと生えてくるようにと肥料を散りばめている。

当家では組み立て式の神社を祀っている。

それはお社と呼ばれている推古神社である。



四角く塀に囲まれたお社の中には杉の枝葉が植えられた。

中央の頂点には藁束が見られる。

そのお社には日と月を象った燈籠も下げられた。

鳥居には推古神社の名がある扁額も付けられている。

まさにこのお社は推古神社の分霊を祭るお社である。

お神酒、塩、米に生鯛を供えて神職を待つ当家の家族。

後方には一週間前に作られた黒白の大御幣やヤナギの木に根付き稲を取り付けたものも置かれた。

これらは祭りのお渡りの際に息子や孫が持つという。

現在は座敷に置かれているが、かつては家外の庭に設えたお社だった。

昭和58年(1983)に一番当家を勤めたK婦人によれば当時のお社は組み立て式でなく杉葉で覆う造りだったそうだ。

幅は一間ぐらいだった。

当時の資料によれば縦幅1.9mで横幅は1.6m。

高さは約1mの規模で、竹で組まれていた。

周囲の枠は麦藁で社周りはシバを敷き杉葉で覆ったお社は矢来で組み、一辺が80cmの正方形だった。

今年の一番当家のN氏によれば15年ほど前に組み立て式になったという。

平成7年ころには既に組み立て型だったと調査報告もあるからそうなのだろう。

また、40年前というから昭和40年代であろう。

当時、一番当家を勤めたY婦人の話によれば庭を「カド」と呼んでいた。

「カド」と呼ばれるその場は母屋前の広い空間の前庭である。

刈り取った稲籾はムシロを敷き干していたことから「カドボシ」。

農家の家の造りは前庭を「カド」と呼んでいるのだ。

一番当家の付近に住んでいたS婦人やもう一人のY婦人もそうだったと口々に話す。

その場所といえば、十五夜のお月見にススキやハギ花、お神酒、塩、洗米を供えていた丹後庄に住むM婦人もそういう。

それを示す記録写真がY家で残されていた。

先のK家が一番当家を勤めた5年後だというから昭和63年であろう。

その姿は昭和58年に書き記された当家資料の図面と同じであった。

この写真によれば社の前に小石が数個並べられている。

当時行われていた竜田川の小石拾いである。

「ウツシマワシ」が行われる前の9月28日に当家たちが身を清める川に行って10個の小石を拾う。

それを毎日置いていたのであるが、今日を含めその後の祭典では見られない。

ご厚意でその写真を提供していただいたのでここに掲載しておく。

昨今では祭りの際における家の記録を撮られることを度々目にする。

一生に一度の晴れ舞台でもあるわけだ。

それは後年において貴重な民俗写真となっていく。


(H23.10.13 スキャン)

夕方、日が暮れるころに推古神社に集まってきた一番から四番の当家たち。

それにミナライとも呼ばれている新当家の4人。

この夜に分霊を遷す神職を待っている。

到着すれば直ちに分霊遷しの神事が始まった。

祓えの儀、祝詞を奏上されてしばらくすれば口に白いマスクをした神職が神社を飛び出した。

手にしているのはサカキだ。

それは四つある。

四番当家が神職の足元を照らしながら額田部の街中を歩いている。

街灯の明かりはところどころ。

それがなければ闇の道中。



「「オーー オーーー」と唸るような発声でヒタヒタと早足で一番当家に向かう。

無言のまま向う足取り。

道中では人に出あっても決して話してはならないという。

注連縄を張られた当家の家中は真っ暗闇。

燈籠に灯された蝋燭の僅かな光のなかでウツシマワシが行われる。

緊張が走る分霊遷しの儀式である。

そうして二番、三番、四番へと巡っていく。

すべてを四番当家が道先案内をするわけにはいかないから途中で一番当家に替った。

分霊遷しを終えると当家たちは直ちに神社に戻らなければならない。

神社で再び神職を迎えるのだ。

こうして緊張感が張りつめた分霊遷しを終えた当家たちは我が家に戻っていった。

前述の婦人たちがいうにはお社をヤカタと呼んでいる座敷のお社に分霊が遷されたサカキが立てられていた。



この夜から毎日、祭りの日まで朝に蝋燭に火を灯して神饌を供える。

家人は神さんの前で手を合わせて拝むと当家たちが話した。

来週のお渡りの直前にはこの夜の逆順で再び神遷し(戻し)がされるそうだ。

(H23.10. 2 EOS40D撮影)

カフェWAKAの500円ランチ

2011年10月27日 06時41分33秒 | 食事が主な周辺をお散歩
一週間に三度も通る国道25号線。

気にかかる立て看板が目に入る。

「ランチ500円」の案内だ。

いまどきランチがワンコイン500円で食べられる店はカフェWAKA。

大和郡山市筒井町の交差点から東へ300メートルほどのところだ。

見過ごしてしまえば佐保川を渡り国道24号線と交差する横田町まで行ってしまう。

近くに住む老婦人の話ではそこそこ美味しいと言っていた。

けっこう食べ歩きをしている人だけに信憑性はある、と思う。

気になる看板の文字を見続けて早や4カ月。

それはとうとうやって来た決断の日。

そんなたいそうなもんじゃないけど・・・。

おそるおそる店内に入って注文した日替わりランチ。



何人かのお客さんはそれを食べていたのだろう。

白いセット器がテーブルに残されていた。

空っぽだった。

何があったか判らない。

店内は、といえばまさしくカフェ。

つまりカウンターもある喫茶店であるが、夜であればバーカウンターの雰囲気かも。

しばらくするとランチがやってきた。

メインはハンバーグでサラダやスパゲッテイも付いている。

ミニトマトはミニとは言えないくらいに大きい。

ご飯はお皿に盛っている。

それだけと思いきやスープも出てきた。

そりゃそうだろうランチだもの。

ところがまだあったランチ料理。

蒸かしたサツマイモに揚げギョーザが一つ。

コナスの煮ものもあるし香物も。



小鉢じゃないけど四品もついているランチをさっそくいただいた。

コナス味は薄めだがしっかりしている。

きざみショウガが味を引き締めている。

メインのハンバーグは量が多い。

食べども食べども小さくならない。

ソースはまろやかで美味いほうだ。

スパゲテイの味はなんだろうか。

その他は見た目通りだったがこれで500円とは驚きだ。

近くのスーパーでは480円で数種類の弁当パックを売っている。

それよりも遥かにしのぐ味と量の手料理ランチはご飯のおかわりもできるし、100円足せばコーヒーも飲める。

このランチサービスは11時半から14時までだけに昼食時間帯。

コーヒー飲みたしなのだが打合せ時間に間に合わなくなるので後日にとした。

(H23.10. 2 SB932SH撮影)

額井十八神社造宮の予行

2011年10月26日 06時42分04秒 | 民俗あれこれ(ゾーク事業)
翌週の日曜日に造宮の儀式をされると聞いていた宇陀市榛原区額井に鎮座する十八(いそは)神社。

案内看板によれば、往古は廃寺となっている極楽寺の鎮護社であるという。

いつしか神社は額井の産土神として崇敬されてきた。

訪れてみれば造宮の儀式というのは「上棟祭」のことであった。

20年前の平成3年11月23日以来のことだ。

そのときを記念する造営竣工石碑が建てられている。

今回の式典はといえば石碑、ではなく木の名札。

それは拝殿に掲げられる。

本来はそういものだと今回の造営委員は話す。

総代らの中には前回の造営委員を勤めた人がおられる。

記憶は曖昧でうっすらとしか覚えていないと話す。

額井の戸数は28戸。

およそ40人、関係者や村人たちが集まった。



委員長や区長の挨拶を経て宮司にバトンタッチ。

今日は来週の本番に向けて予行演習なのである。

春日大社では平成27年11月5日に第六十次の式年造替(ぞうたい)が行われる。

その春日大社では式典の予行演習があると聞く。

造営の式典は20年に一度行われるだけに入念なリハーサルをされるのだ。

20年に一度と言えば、式年遷宮で名高い伊勢大明神を思い起こす。

古来よりいにしえの姿を変わりなく保つ式年造替は、神威のさらなる発揚を願う信仰でもあると春日大社は述べている。

さて、額井のリハーサルはどのような形式で上棟祭が営まれるのであろうか。

当日の祭典にはさまざまな儀式がある。

例祭などで行われるのは村人にも馴染みがあるだけに省略をされたが、儀式はそうはいかない。

20年前に体験されていても細かい作法はすっかり忘れている。

本殿などは既に造宮されて真新しいく美しい姿を見せる。

本来ならば造宮を始める儀式があるのだが、額井では龍神祭の日に上棟祭をされると決められていた。

頭屋や氏子たちは奇麗に補修された本殿や末社などを布で丁寧に拭いている。



「村を守ってくれる氏神さんは大切に」という気持ちがここにあり「足元までもやで」という台詞がその証しだ。

降神の儀、献饌の儀を経て行われる祭典のメインは宮大工の棟梁たちも参加する。

まずは棟札を神前に置く。

そして地区の女児が扮する巫女が作法する献酒の儀。

祝詞を奏上して舞台四方を紙ぬさで四方を祓う。

三器を神前に置いてからは四人の巫女が舞う神楽舞。



舞台には赤い色のカーペットのようなもうせん(毛氈)布が敷かれる。

舞いといえば浦安の舞だ。

それを終えるといよいよ工匠の儀式となる。

始めに丈量の儀。長い棒のようなサシを舞台前に設えた場所で棟梁が測る儀式。

サシは木材を測量する道具である。

次に棟木を曳き上げる。

両端にはロープが二本。

それを引っぱりあげるのは村人で、舞台前に立つ棟梁が日の丸御幣(予行では代用棒)を振り掛け声をかける。

「エイ、エイ、エイ」と三回の掛け声を発声すれば、村人は「エイ、エイ、エイ」と応えながら三回の曳きで棟木を曳き上げる。

これを三回繰り返して舞台まで曳き上げる。



「エイ」を充てる漢字は曳き上げるということから「曳」の文字である。

そして、樵(きこり)の儀。

金銀で装飾したノコギリ(鋸)で山から伐り出した大木を切る作法をする。

次に墨指しと墨打ちの儀。

これも金銀で装飾されたスミサシ(墨指)とスミツボ(墨壺)が使われる。

釿(そまうち)打ちの儀はヨキ道具で木材を荒く切る。

手斧の儀ではチョウナ(手斧)を使って荒削り。

鉋の儀でさらにカンナ(鉋)を使って奇麗に仕上げる。

このように工匠の儀式は木材を伐りだして製材する工程を表現しているのだ。

製材された棟木は社の骨格。

それは組み立て打ちこむことで建てられる。

そこにも儀式がある。

槌打ちの儀である。

氏子たちは舞台に登って槌(ツチ)を手にした。

五人が並んで整列した。舞台前には棟梁が御幣(予行では代用棒)を手にして立つ。

それを左右に振って「せんざいーー、とーー」と発声すれ氏子たちは「オー」と応えて槌を「トン、トン、トン」と打つ。

次は「まんざいーー、とーー」で、その次は「えいえいーー、とーー」となるが、いずれも「オー」と応えて槌を「トン、トン、トン」と打つ。



すべて三拍子だと宮司は解説する。

予行演習だけに「元気ないでー」と周りの人たちが声を出した槌打ちの儀。

「せんざい」は「千歳」、「まんざい」は「万歳」で「えいえい」は「永々」の漢字の目出度い詞であった。

このように改修工事は終わっているのだが儀式は造営がどのようにして行われるのかを工匠たちの一連の作業を表現したのであった。

そして、舞台から対岸のマキ(槇)の大木に掛けられた紅白の曳き綱に生鯛を吊るす。

これを曳いて舞台に曳き上げる。

生ものだけにそれは本祭しかされない。

ちなみに巫女女児たちは小学4年生が3人で中学1年生が1人。

そのうちの二人が舞台で献酒の儀が行われる。

二人は祭壇の両側に立つ。

一人は酒樽を持って上段に構え振り上げるような作法を三回する。

向い側の巫女は扇で仰ぐ。



次は役を交替して湯とうを持つ巫女。

同じように三回振り上げ、相方は扇で仰ぐ。

その次は長柄の調子となるが扇仰ぎは見られなかった。

そうして献酒された御供は棟梁に差し出されそれを供える。

こうした作法は20年に一度の祭典でしか参加することができない。

千載一遇の大役だけにたいへん目出度いことだと母親たちは目を細めた。

綿密なリハーサルを終えた氏子たちは自信に溢れている。

この後の上棟祭は寿調奏上、玉串奉奠、散餞(さんせん)、散餅(さんぺい)の儀、撤饌、昇神の儀で終えると伝えられて解散した。

なお、かつては社務所の屋根の上から撒かれた御供蒔きの散餅はこうした奉祝行事で祝辞を述べられた後に2か所の舞台から撒かれる。

また、本番当日は上棟祭を始めるにあたり竣工奉告祭が行われ、その後に参道下の辻からお渡りをされることを付け加えておこう。

(H23.10. 2 EOS40D撮影)

新住のお仮屋

2011年10月25日 06時40分07秒 | 下市町へ
前週に建てられた下市町新住(あたらすみ)のお仮屋。

当地ではこれをお仮宮と呼んでいる。

八幡神社の祭りに際して今年の頭家に当たられた家の庭にそれがある。

氏神さんの分霊を祀るお仮屋である。

巨大で特異な形を建てるには工務店を営んでいることから車の出し入れを考慮した場所を設定された。

四方を竹とクリの木で囲った土台を築き大きな青竹を立てる。

周りには上下にたくさんの檜葉を竹で編んだものに括り付ける。

中心に太い孟宗竹、後ろ側は斜めに水差しの筒を挿し込む。

これは神さんが遷ったご神体のサカキや葉の付いた笹などが枯れないようにする水入れである。

後からサカキを通すので挿し込み具合は加減が要る。

そこに水を注ぐのだが、その水汲みは毎日のことだ。

氏神さん八幡神社は山の方角。

氏神が鎮座する宮山から流れる水は地下水となって吉野川に注ぐ。

水が昏々と湧きでる大自然の清水は「風呂の場」。

温めだからその名が付いたようだ。

味はまろやかでコーヒーに丁度いいのだと話す頭家のN氏。

お仮屋は正面に御簾(みす)を据えて、下部は斜めに竹矢来を、さらにその下の檜葉を切り取って間に加える。

そうして恵方の方角に鳥居を、右横に木製の燈籠を立てて杭を打ち込み、周りは二重の竹囲い。

吉野川の川原で集めてきた玉砂利石を敷き詰め飛び石を配置して苔を置いてできあがった。

平成20年に取材させていただいた時の様子はそうであった。

この年も同じように設計図を基に建てたようだ。



その夜。とはいっても日付けが変わった午前3時。

頭家は人に見られないように八幡神社へ行って神遷しされたサカキ(宮山で採取)を手にして戻ってきた。

「お遷りください」と神さんに申して帰った。

それをお仮屋の頂点に挿し込んで注連縄を張った。

それからの毎日はお神酒、洗米、塩を供えて灯明に火を点けて手を合わせる。

神社へ参拝するときと同じ作法でそれをされる。

夕刻も同じようにするが、木製の燈籠にローソク一本を立てて、火を灯す。

ご婦人とともに手を合わされた。



こうして頭家の参拝は9日の仮宮祭の営みを経て翌月16日の本祭まで続けられる。

かつて新住の宮座は上座が8軒、下座も8軒であった。

昔はアンツケモチを作って村内60戸に配った。

その量といえば八斗も搗くというから相当なモチの量である。

現在は村の行事になったことから年中行事の詳細を記した「新住八幡神社祭典行事誌 宮座講」として纏められつつある。

つつあるとしたのは誰でも理解し判りやすいようにさらに工夫を凝らしているからだ。

50頁以上にもなる誌料は立派なものであった。

その頭家では古い寺などの改築工事を担うことが多い。

そこから出てくる廃材の一つに鬼瓦がある。

捨てるには惜しいと貰って帰ってくる。

江戸期のものも相当数ありさまざまな形がある。

所狭しに並べられた瓦は屋根の上。

まるで瓦の博物館のようだ。瓦の研究者にとっては垂涎で貴重な文化財であろう。

(H23. 9.25 EOS40D撮影)

大淀町の民俗―継承と活性化

2011年10月24日 06時46分01秒 | 民俗を聴く
下市の鶴萬々堂の和菓子をいただいてお茶席の抹茶を一服した大淀町文化会館。

まずは饅頭を口にする。そして抹茶を飲む。



申しわけないが無知な作法しか持ち合わせていない。

隣に座っておられたご婦人と廃れていく行事の話で盛りあがったあとはあらかしホールで展示物を拝見する。

この日は半年ぶりに再開された「大淀町の民俗―継承と活性化」をテーマにした大淀町の伝統文化を考えるシンポジウム。

3月11日に発生した東北関東大地震によりやむなく中止されて6カ月。

ようやく実現の日を迎えた。

大淀町は2万人の町。新町、旧村半々人口の町である。

民俗は一般の人たちの習慣。

「習わしやから、昔からやっとんやと語る人々。官民でなく、常民(じょうみん)が織りなす年中行事。決まった日に決まった行事をする。言い伝えがある行事は処によって異なる。人から人への言い伝え・・・それが必ずしも正しく伝わったものではないが、それが民俗なんだ。」と挨拶で述べられた地域活性化専門委員長の岸田文男氏の言葉。

年寄りだから委員長に指名されたと言えば会場から拍手喝さい。

挨拶はさらに「こんなん昔からやっている・・・。モノを作る、農家は米を作る、ダケサンに登って雨乞い、神さんにお礼を申す、供えたものを神さんとともに食べる直会、感謝の気持ちは農民の素直な姿。ところが観衆に見せる考えも出て休みの日に移った。そして、民俗行事は衰退のいっぽうだ」と口調も激しくなった長話に基調講演などが十数分ずつ遅れていった。

氏が話される挨拶にうんうんとうなずく。

その様相は県内各地でも同じような傾向にある。

<吉野川に沿う農村と山村の交差する民俗>
基調講演で浦西勉氏が語る「吉野川に沿う農村と山村の交差する民俗」。稲作と畑作に行事食、吉野川流域に沿って東西南北に交差する文化圏、信仰の吉野川などを話される。
生まれ育った郷里はどういう処なのか。庶民が伝えた民俗行事に関心を寄せて話された大淀町の民俗。26カ大字からなる大淀村落。今日の村が誕生したのは西暦1600年、江戸時代初期に村落の名称が見えてきた時代。竜門、高取の谷合いの小さな集落から形成されてきた大淀。それ以前は東に池田荘、北に北ノ荘・・・宮ノ荘、阿智賀荘、佐名伝荘に亘る広範囲な地域であった。水田と畑は五分五分の地域。昔から農作生産の割合は全国的比率と同じだそうだ。

秋祭りに供える御供はオモチ。代表的な御供である。岩壺では甘酒があった。それはお米を素材にしてできあがった形。11月のイノコは上比曽でされている。藁棒のホンデンを作って新婚を祝う。そのときにはイノコのボタモチが作られた。ご飯のなかにサトイモを入れてアズキで包ませたモチ。11月23日のこと、各家ではそれを作って親戚中に配った。収穫の祝いである。7月2日は半夏生。そのときに作られるのがコムギモチ。コムギとコメを蒸してキナコを付けて食べた。収穫・・・古い資料によればアカネコムチの名で呼ばれるモチもあるそうだ。普遍的な雑煮にしてもそうで、それらは収穫した畑作と稲作の食材が混ざって入っている。ゴクマキの風習がある。どこでもされているものと思っていたが・・・。吉野山を含めた北ノ荘。千本杵が搗かれる蔵王堂の行事などで見られる。

大淀へは北の峠を越えてやってくる。西の和歌山からは南伊勢街道。開かれた街道は東西南北に走る。日本を代表する吉野山に大峰山は南の山岳信仰の山々。そこへ向かう人たちはここを通らなければならない要所の地。松尾芭蕉は伊賀上野から葛城竹之内で泊りって吉野へ。野ざらし紀行にそれが書いてあるという。浄土真宗は信仰を広めるために蓮如が宇井、西吉野、下市へとやってきた。夏祭り前後に柿の葉寿司を作って食べた。祭りの代表的な食べ物は腐りやすいサバ魚。瀬戸内、或いは熊野で獲れたサバは塩漬けにして柿の葉で包んだ。早やでもなく、ナレでもない柿の葉寿司はその中間にあたるそうだ。京都の祇園さんでは北陸から持ち込まれたサバ寿司があるが、柿の葉には包まれていない。地方で製法が異なる伝統的な行事食である。

大淀町の生活文化は吉野川にある。ゴリキ、ヨヅケの名がある川魚の獲り方。正月14日は正月の神さんを送るとんどがある。それは川堤の場。お盆の8月15日に迎え入れた先祖さんを送る川でもある。吉野川は信仰の川でもあった。吉野川の水を汲む風習。オナンジ参りの石を拾う風習の川でもある。地味ではあるが、勤勉な人が住む大淀は決して閉ざされた町ではないと強調される。

ホンコ、十夜で食べる煮しめ、アズキ粥も畑作の収穫物。天領だった大淀は室町時代に仏教の影響を受けたと思われるのは吉野山、大峰山の麓であった地域性が絡んでいる。
かつては文字で書かれた歴史が。それには限界がある。文字を残せなかった歴史は復元できない。遺物痕跡で歴史を見出す。金石文(きんせきぶん)や絵画図、神像など多くの文化財がある大淀にはそれが存在し、次世代の子供たちに伝えられていくことだろうと締めくくられた。

そのあとは「大淀町の民俗調査2010~2011」のスライド解説、「大淀町の民俗~継承と活性化」をテーマにパネルディスカッションが行われた。

スライド解説は今年の春に発刊された「大淀町地域伝統文化活性化事業調査報告書 大淀町の民俗~平成22年度の記録調査~」に纏められているので是非拝読してほしい。

岩壺の子ども相撲、佐名伝のオカリヤたてとオワタリ、上比曽のいのこ、畑屋のカンジョウカケ、今木の招福行事、大岩のとんどなど貴重な行事が紹介されている。

シンポジウム当日はあらかしホール内でさまざまな行事をパネル展示されていた。



同調査報告書には納めていない隣接する村々(吉野町、五條市、下市、桜井市、黒滝村、上北山村、野迫川村、明日香村、十津川村、東吉野村)の行事もあっただけに見ごたえがあったシンポジウムだった。

(H23. 9.25 SB932SH撮影)

大人念仏講の調査3

2011年10月23日 07時51分00秒 | 大和郡山市へ
仮称A組、B組、C組とした白土の大人念仏講の保管物調査はようやくC組で終える。

昨夜の寄り合いの際に六斎鉦と古文書を拝見させていただいた。

表紙は念佛講中とあるものの年代は記されていない。

年代がしるされた頁があるかどうか一枚、一枚をめくっていった。

そうすると7頁辺りで「文政十一年」が見つかった。

西暦でいえば1828年だ。

B組の文書年とほぼ一致する宿帳である。

鉦は5枚でいずれも「白土村念仏講中」の刻印があり、内3枚が内面に墨書があった。

B組の鉦と同じような筆跡で「酉ノル九阝大極上重目(月かも)・・・」が判読できた。

「他にも2枚が家にあるよ」と聞いたのでN当番家を訪問した。



それは足が三本ある鉦だった。

「室町住出○宗味作」の刻印があり、内面にも墨書が見られたが薄くて判読できなかった。

ただ、うっすらと「白土村」が確認できた。

もう一つの鉦といえば、それはお椀型だった。



中央に穴が開いて紐を通している。

そこには鉦を打つ棒のようなものである。

小さなキンではなかろうか。

また、念佛講器具入れ箱には大きな湯とうが二つ。

銅製の道具だ。



おそらくトーフ汁を注いだ容器であろう。

湯とうはまだ他に二つもあった。

それは蓋付きで色合いも形も異なる。

真鍮製であろうか。

昭和3年や56年の新聞紙で包まれていたことからそれまで使っていたものだろう。

また、A組、B組と同様に枡(幅が12cmぐらいなので三合枡か)も見つかった。

お米を計っていたのであろうか。

かなり前のものであろうかボロボロに朽ちている。

(H23. 9.23 EOS40D撮影)
(H23. 9.24 EOS40D撮影)

白土町大人念仏講の彼岸講

2011年10月22日 09時06分39秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市白土町には子供の念仏講と大人の念仏講がある。

お盆の時期に六斎鉦を叩いていた講中だ。

鉦が叩かれる音からチャチャンコ、チャンガラガンとも呼ばれている講中である。

その大人の念仏講には三つの組に分かれている。

それぞれの組には名称がないことから仮にA組、B組、C組としておこう。

お盆に六斎念仏を営まれた三つの組はそれぞれに分かれて寄合をしている。

A組とB組は春の彼岸の夜に集まって会食をしている。

鉦や文書を納めている箱を管理する当番家を挽き継ぐ日でもある。

場所はといえばA組が公民館でB組は宿と呼ばれる当番家であった。

C組も公民館であるが秋の彼岸の日に集まる。

かつては春と秋に寄っていた。

ところが春はイチゴの栽培が忙しい。

そういうわけで秋だけになった。

3年ほど前までは当番家の宿でしていたがA組と同様に公民館に移った。

集まった講中は9人。

女性がほとんどである。

鉦を叩くのは男性。

旦那は仕事が忙しいからと婦人に任しているそうだ。

昭和46年は13戸が講中であったが現在は9戸になった。

座敷には一合半の寿司折り。それを肴に酒を飲む。

「ビールは要らん。お酒は五合と決まっている。」と話した長老さん。

B組がされた拝礼もなく会食が始まった。

男性が多かったときはそれくらいのお酒が要ったのだが女性が多くなれば酒の飲みも少なく半時間ほどで終いのトーフのすまし汁が出されてお開きになった。

その間には次の当番家やチャンガラに行く人を決めておられた彼岸講と呼ばれる寄合いの夜はこうして終えた。

膳のトーフ汁は今でも変わらないが昭和26年ころはアゲ、イモ、ゼンマイ(改めカマボコ半切り)、コンニャク、ゴボーオなどが(煮ものだったと思われる)文書に書き記されている。

これをオヒラ(平の漢字が書かれていた)と呼んでいたHさんは80歳。

他に昭和48年に嫁入りされたN婦人の話ではその頃は既にトーフ汁と一合半の寿司だったというから、それ以前に膳料理に変化があったのであろう。

昭和40年頃、白土ではないが天理櫟本で川沿いに建つ家々の門口(イヌヤライ)で竹製の祠があったことを思い出された当番のNさん。

そこには人形さんみたいなものがあったという。

添上高校辺りから中街道に至るまでの筋道だったそうだがさてさてそれは・・・。

(H23. 9.23 EOS40D撮影)