マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

富田林市佐備神社の神楽祭

2018年03月04日 10時25分03秒 | もっと遠くへ(大阪編)
平成23年度から25年度にかけて奈良県の伝統芸能調査に県文化財課ならびに大和郡山市教育委員会より委託を受けて調査の任に就いた。

私が担当する調査は四つ。

「大和郡山市白土町・白土の子供の念仏と大人の念仏」、「桜井市萱森・萱森の六斎念仏」、「大和郡山市田中町・田中甲斐神社の御湯焚き」、「田原本町/天理市・法貴寺郷・池神社の神楽と御湯」の調査報告書を執筆した。

その報告書は大書。分厚い報告書になった『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』である。

「大和郡山市田中町・田中甲斐神社の御湯焚き」における神楽の延長線に浪速神楽があった。

その関係性も調査することになった。

当時、気になっていた神楽がある。

八つの湯釜を用いる三輪恵比須神社の湯立て神事である。

湯立ての作法に特徴があると思われた巫女さんの所作を拝見したのは平成26年2月7日だった。

文字数の関係で調査した浪速神楽の件はカットされた。

原案に書いた報告文は以下の通りである。

「『大阪府の民俗芸能-大阪府民俗芸能緊急調査報告書-佐備神社(大阪府富田林市佐備)の浪速神楽-』によれば、神社祭祀においてさまざまな神楽がおこなわれる。演者は「もともといくつかの流派による浪速神楽があったが、神楽の整備と伝承を目的として、大正九年ころに富永正千代氏によって関西雅楽松風会が組織された。富永流は正千代氏から受け継いだ故大平炤・太平千代子両氏、さらに娘婿の佐備神社宮司の宮原幸夫氏に受け継がれている。昭和五十八年より同神社の春の祭を神楽祭として神楽を奉納するようになった」。奉納神楽の一部においておこなわれるのが「花湯」と呼ばれる湯立神楽である。両手に持った笹束で「細かく刻んだ紙を挟んで撒き散らし、湯に見立てた」としていたが、文字数制限のために採用は見送られた。

執筆した時期は平成26年の6月頃だった。

「湯立神楽は湯釜の湯を沸かして神を勧請し清めの舞いをする。奈良県内でみられる湯立神事はすべてに亘って湯を使っている。笹を湯に浸けて湯滴を飛ばす。その湯滴が湯の花のように見えることからその名がついたと思われる佐備神社の「花湯」である。湯に見立てた紙散らしの様相をもってその名がついたと推定される。また、演場は仮設舞台となるために湯が使えず、紙片にしたとも思えるが、田中町の甲斐神社における湯立ての儀式を「湯花神事」と称していたのも頷ける作法である。」

このときの調査の際に知った佐備神社の神楽演目は、午前中に式神楽、扇四方拝、大山、胡蝶吾妻、悠久の舞。午後は四條流包丁道、式神楽、早神楽、御神楽、大海の舞、豊栄の舞、浦安の舞、花湯、鈴扇であった。

午後の部に行われる花湯を直接拝見したい。



そう思ってから数年経った今年、ようやく実現しそうになった。

と、いうのも委嘱期間を終えて解放されたと思ったが、翌年の平成27年7月に身体を壊してしまった。

入院治療に通院を余儀なくされた。

車で自由に行けるようになってようやく実現できる佐備は大阪府富田林市内にある旧村である。

平成26年1月に叔母が亡くなって出かけた葬儀場が富田林斎場。

従弟の誘導で見失った斎場に向かうコースを電話で伝えてもらったルートに佐備があった。

電話で伝える府道を走る際に、ここら辺りに鎮座するのだろうと思っていた。

それはともかく佐備神社は間違わないようにカーナビゲーションにセットして走行する。

旧村になる佐備。

神社の所在地はナビゲーションが案内する道に沿って走るのであるが、村の道はとても狭い。

狭いうえに所在地がわかり難い。

なんとか辿り着いて駐車場に到着した。

取材であるから主宰者にお願いする。

本来なら当日までに挨拶を済ませておきたいが、遠地であるため度々出かけるわけにはいけない。

申しわけないが当日の挨拶になってしまった。

社務所の呼び鈴を押して出てこられた宮司が宮原幸夫さんだった。

取材の主旨を伝えて承諾してもらった浪速神楽の撮影・取材である。

元々は、ここ佐備神社の行事作法に神楽祭はなかったという。

神楽殿を建てたのは平成2年十月吉日。

新築に奉賛会の芳名に金二百万円も寄進した人の名がある。

その名は大平炤氏であった。

神楽殿などを拝見していたときに通りすぎる女性神職とお会いした。

お話しを伺えば、三輪恵比須神社の宮司から何年か前に頼まれて以来出仕されているとのこと。

また、佐備神社では禰宜職を勤めているという巫女さんは宮司の娘さんだった。

宮原幸夫宮司が云うには娘は神楽を継いでもらっているということだった。

ここ佐備神社で習得した花湯神楽を三輪恵比須神社で所作しているとわかって、独特の作法は道理で、と思った。

ご縁があった湯立てであるが、禰宜のNさんが云うには、出仕するまでは三輪の里に住む巫女が作法していたそうだ。

このことを聞いてようやく納得できる巫女さんの交替。

数年おきに交替されたのちに拝見した平成26年に行きついたのであった。

大阪府下、各地に浪速神楽があったが、実にさまざまな形式であったらしい。

各家元によって作法が違っていた。

後世に正しく伝えるべく、浪花神楽をどうしていくか、神社庁の判断は・・。

当時、佐備神社に勤めていた富永正千代氏が研究をされた。

各地にあった我流の浪速神楽は時代とともに変化していた。

作法は楽曲とともに纏められ、統合した。

その神楽舞は大平氏に継承されたが、代を継ぐ者がなく、娘婿の宮原幸夫さんが神社庁のバックアップの下、現在に至る。

継承してきた浪速神楽はDVD化したものを観るだけでは習得できない作法。

視聴しても身につくものではない難しい所作であるという。

大阪府松原市。

河内天美の我堂八幡宮の湯立神楽記事に浪速神楽継承の経緯が書かれている。

また、宮原幸夫さんのプロフィールはこちらのプログラムに書かれていたので参照させてもらった。

また、日本全国の神楽を体形だって解説される巫女ブログもあったので、参考にする。

さて、本日の佐備神社の神楽祭である。

案内によれば今回で35回目になる神楽祭。

ここ4年間はずっと雨だったという。

下支えする村氏子の人たちもそういう神楽の日。

この日は久しぶりの快晴。

空は真っ青に広がった。晴れの舞台に奉納する神楽舞に訪れる人は多くもない。

冨永流の浪速神楽を継ぐ人は宮原家のご一統さん。

浪速神楽を所作する他流派はさまざまであるらしい。

それらと区別するためもあって、創始家元の冠にした「冨永流浪速神楽」である。

所作は演舞ではなく、神さんに捧げる神楽。

精神を込めて舞をする。

楽曲を譜面化しようとした学者さんがいたそうだ。

演奏は雅楽でもない難しい楽曲。

なんとか譜面化したという一子相伝の作法で奉じる。



本社殿前にずらりと提灯を吊っていた。

献灯された人たちの数は多い。

その前に建つ灯籠に刻印が見られた。

奥にある燈籠に「妙見大明神」があった。

もう一つに「天王尊 文化十三(※丙子)年(1816)」。

“天王尊”は主祭神の“天太玉命”であろうか。

また、摂社に水分神社、天神社。末社に相模国一ノ宮寒川神社、丹後国一ノ宮寒川神社、撞賢木神社、山城国一ノ宮加茂神社、信濃国一ノ宮諏訪神社、菅原神社に妙見宮とあることから「妙見大明神」の灯籠である。

ということであれば、「天王尊」は祭神素盞嗚命を祭る天神社である。

素盞嗚命は牛頭天王で呼ばれることも多い神さん。

牛頭天王をもって“天王尊”を記した灯籠であった。

また、灯籠が並ぶ正面門前両脇に狛犬が一対。

刻印は「文政九戌年(1826)九月」であった。



ちなみに鳥居を潜った参道に付近に見つけた瓦屋根の社が不思議な情景を醸し出していた。

社内に詰め込んだ大石である。

その周りには小さな石も詰めている。

何らかの願掛けをしているような気もするが・・。



宮司並びに禰宜が参進される。

神楽舞を舞う八乙女たちが後続につく。

本社殿に拝礼されて祓の詞。

そして祓の儀は供物。



神職ならびに参拝者も祓ってくださる。

宮司一拝に参拝者も揃って頭を下げる。

神楽奉奏中はお静かに、そして本殿前の移動、通行はご遠慮くださいと但し書きがある。

神さんに奉する間は当然のことである。



楽曲が奏でられる中、八乙女が陶器製の器を運んでこられた。

解説によればあまっちゃを神さんに献じるとのことである。

そして、宮司の祝詞奏上。

「佐備の川の畔に遠き古より坐ます大神の・・・春日の・・・かしこみかしこみまぉおす」。

「天安正月(※二年の858年)より、数えること、1459年間の年を迎え・・平成29年の良き年、良き月に神楽祭を奉ること・・捧げまつる・・関西雅楽松風会(8人)、冨永流浪速神楽、八乙女たちの立ち舞う・・まごころをもちて・・世の人々の福、幸をしめしたまえとかしこみまぉおす」と奏上された。(※中略)

玉串奉奠は富田林市議会、町総代代表、神社総代代表、常任世話人、大阪府神社関係者一同、参列者代表らが捧げる。

奉奠を終えて宮司は5年ぶりに快晴になったこの日の神楽祭に歓びのご挨拶をされた。

当神社において継承してきた浪速神楽。

今に至るまでの経緯を話された宮司は関西雅楽松風会の一員でもある。

これより始まる数々の神楽舞を紹介、解説もされる。

この年の楽曲は午前に式神楽、八平手(やひらで)、扇四方拝、八雲(やくも)、朝日舞、悠久の舞。



昼の休憩を挟んだ午後は式神楽(新人八乙女)、剣の舞、神酒調進(みきちょうしん)、豊栄舞(とよさかのまい)<浪速高等学校神楽部)、相舞(あいまい)、浦安の舞、花湯、鈴扇である。プログラムは受付の際に配られるので参考されたい。



11時8分・・始めに「式神楽」。

採り物の鈴は右手にもつ。

6人の八乙女が舞う式神楽の別名は祭典神楽である。

つまり式、祭典の初めに舞う神楽である。

11時10分・・2番目は4人の八乙女が舞う「八平手(やひらで)」。

始まりと終わりに楽奏者が手打ちをするのも特徴である。

お供えの舞でもある「八平手」に採り物はない。

“素舞い”だという。



11時16分・・3番目が「扇四方拝」。

楽奏に「大和琴」がある。

比較的よく見られる神楽舞であると解説される。

ときおりバチッと弾ける音色が聞こえる。

龍笛の吹く音色に大太鼓、横笛も奏でる。

また、すり鉦の妙鉢も鳴らすし、鼓、笙も。



11時25分・・4番目は「八雲(やくも)」。

楽奏は5人。

「八雲」はその名のごとく八岐大蛇(やまたのおろち)。

特徴的な白い蛇(おろち)が採り物である。



神話に基づいた神楽。

もろ刃の剣の劔。



つまりは天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)である。

木綿の中に線を詰めていると解説される。



11時35分・・5番目は「朝日舞」。

採り物は榊。

昭和25年に神社庁がこしらえた。

男神楽が舞うことから別名に宮司舞の名がある。



11時37分・・6番目に「悠久の舞」。

神前神楽の一つで、昭和15年、奉祝の際に作られた。

当初は男舞であったが、女舞に移り、継承している。



天冠の花簪(はなかんざし)が特徴。

右手に花束をもつ。



春は桜の花であるが、秋は菊の花に替わる「悠久の舞」は華やかで美しさがある。

午前の部は以上である。

お昼の時間帯は楽奏者ならびに八乙女たちも休憩に入る。

参列者は神社が準備された振る舞いをよばれる。

振る舞いのおにぎりは新嘗祭に奉ったお米を炊いて作ったという。



パック折にあしらった柿の葉は彩りある2種。

五目おにぎりが二つに白おにぎりは一つ。

香物に桜漬け、コウコにキュウリも。



しかも、ヨモギの草餅も手造りにお臼まであるもてなし振る舞いにありがたく手を合わせていただく。



ゆっくり寛がせてもらったことに感謝する。

13時1分・・午後の部の初めも「式神楽」。

新人7人の八乙女が舞う鈴神楽である。

奉仕する新人3人の花束贈呈もあった。

座り方が独特。剣の舞とは違うところ見てください、と解説される。



13時10分・・午後の2番目は2人が舞う「剣の舞」。

ポリュラーな舞いであると解説される。

この舞いも座り方が独特。

すっと立てるようになるまでは半年もかかるという。



片刃の剣、ひとり剣、五人剣、などがあり、舞いも長時間になるそうだ。



13時21分・・3番目は「神酒調進(みきちょうしん)」。

久方ぶりに奉納される神楽舞。

雄蝶雌蝶(おちょうめちょう)の金銀の長柄の銚子。

お神酒を注ぐ祭具は祝い事の酒盃に用いられる。

衣装も独特の特徴をもつ「神酒調進」。



金の長柄の銚子から銀の長柄の銚子へ。

そして酒盃に注ぐ。

金から銀。

銀から盃へ。



三杯も注がれたように見えたから三々九度の儀式であろう。

その間にあった所作に長柄の銚子から長柄の銚子の酒注ぎである。

まるで酒を継ぎ足しているかのようの思えた所作は加御酒(くわえごし)であろう。

最後に八乙女から受け取った盃は白いカワラケ盃。

禰宜が受け取って神さんに捧げる。

そして下げた盃は再び八乙女に戻される。



そこで登場する白衣姿の男性。

総代代表が受け取って向きを換える。



神さん向かってから神酒を飲む。



13時50分・・4番目は浪速高等学校神楽部の人たちが舞う「豊栄舞(とよさかのまい)」である。

この舞いは昭和25年、神社庁において制定された祭祀舞。

豊栄舞は別名に「乙女舞」とある。



つまり、朝日舞は男性神職が舞う「宮司舞」で、女性が「乙女舞」に成り立つそうだ。

戦前は代々神楽として継承してきた豊栄舞。

陣羽織の金襴「千早」を着用するが、正確には「舞衣(まいぎぬ)」を着ると解説される。

天冠は黄色い花。

光、影の関係で輝きが見えないときもある。



初々しい姿で舞いを終えた神楽部の人たちは、一人ずつ花束の贈呈を受けていた。



14時00分・・5番目は二人が舞う「相舞(あいまい)」である。

採り物は檜扇(ひおうぎ)に鈴。

一般的に見られる神楽舞である。



14時20分・・6番目は一般的に各地の神社祭礼に舞われる「浦安の舞」。

舞振りはシンプルであるほど難しい。

特に歩きが難しいと解説される。



浦安の舞の歩き方は少し違うらしいが、私にはそれがわからない。

昭和15年、祝賀の会にすべての神社において一斉に奉られた。

今は神殿神楽と云われている浪速神楽であるが、冨永流はさらに神楽らしく、したという。



舞は桃の天冠をつけて檜扇(ひおうぎ)を採りもつ。

舞いは進展するにつれ檜扇から持ち替えた鈴に移り、再び檜扇に換わる。

衣装は昭和15年に奉られた本物ですと紹介される。



14時37分・・いよいよ登場する「花湯」は7番目。

この舞いを拝見しに奈良県から峠を越えて大阪南部地域にやってきた。

始めに屋内に納めていた花湯の道具を舞台に運び出す。

神職でもある若い男性は宮司の息子さん。

神事である三輪恵比須神社の御湯に姉の禰宜とともに出仕されているという。

文楽で名高い国立文楽劇場のこけら落としもあれば、ご神前に奉納するのが本義の神楽の花湯。

神社関係団体に信頼があると紹介される。

幣を抱える禰宜さんが登場する。

キリヌサを山盛りにした花湯釜の前に立ってから腰を屈め低頭する。

龍笛、太鼓の音が鳴る。



幣をもったまま左右に身を動かして頭を下げる。

それを3度繰り返して後方に置いてあった鈴を採りもつ。



右手に鈴、左手に幣をもち左右に広げる。

鈴を鳴らしながら前に動かせて何度か交差させる。

身を右に移して同じ所作。

そして前方に向きを構えて時計回りに2回転。

正面に戻ってまたもや鈴と幣を何度か交差したら、今度は左側に身を動かして同じ所作を。

そして逆回りに2回転して正面に戻る。

何度か正面交差をしたら、またもや右に身を移して時計回りに2回転。

こうして鈴舞を終えたら後方にある台に鈴を納める。

正面に戻って左右に大きく幣を振る。

身を左に移して左右に大きく幣を振る。

後方に身を置き換えて左右に大きく幣を振る。

そして右に身を廻して幣を振る。

おそらく四方拝の祓えであろう。



そして正面に戻った禰宜は幣の柄の部分を花湯釜に差し込むように入れる。

ゆったりと小さくかき混ぜるように柄を動かして前方にすっと跳ねた。

そうすることによって花湯のキリヌサがふわっと前に飛び散った。



次も幣を大きく左右に振る。

そして後方に移動したら幣は台の上に納める。

次の採り物の二束の笹を手にして正面に向かう。

笹は交差したまま正面につく。

何度か上下に振った笹は両手。

花湯を盛っているキリヌサの山を右から、左から寄せるように笹を動かす。

キリヌサは笹とともに揚げるようにして顔に近づける。

まるで花湯を笹でもって拝んでいるかのような所作である。

なんどかしたのちである。



二束の笹で集めたかのようにした大量のキリヌサは身を右から正面、そして左へと移す。

その際に少しの隙間を空けたのか、さらさら、さらさらとキリヌサは空中を舞うかのように、そして流れるような状態に撒かれた。

その間にシャッター音が跳ねる。

連続的なシャッターは機械音。

楽奏の音色に被せてしまうのが辛い。



右へ、後方へ、右へと時計回りに身を動かしながらキリヌサを空中に流す。

次は逆回転。

左に、左に身を動かしながらキリヌサを空中に流す姿が美しい。

そして正面に戻って再び時計回りの所作をする。

その間に押したシャッター数は80。

少ない方だと思うが・・。

再び正面に戻って・・。

キリヌサの山を潜らせるかのように笹を内部に押し寄せる。

と、思った瞬間に立ち上るキリヌサ。

花湯所作が最高潮に達する形に圧倒される。

キリヌサを納めていた桶から次から次へと上空に飛び出して舞い上がる白い点々はまさに花びらが空中一面に百花繚乱する様である。

二束の笹は花びらを舞いあげる扇の役目。

勢いのある所作で舞い上がる速度は早く、量も多いからまたまたシャッター数が増えてしまう。

ときにはもっと上空にも立ち上げて笹の扇で舞いあげる。



桜咲く時期にはちょっと早いが桜吹雪が舞うそのもののように見えた。

桶からすくいあげるようにする花吹雪所作は何度かされる。

楽奏も鳴りも最高潮になった。

桶には何も残らない、空っぽになるまでし続けたのであろう。



座した禰宜と同時に楽奏も静かになって鳴りやんだ。

拍手を2度されて笹束を桶に置いたら下がってゆく。

圧倒されるその間に押し続けたシャッター数は170シャッター。



雪が積もったかのようになった舞台から下がっていった。

花湯の所作はおよそ12分間。

今回、奉納された中では一番の長丁場であった。



14時52分・・締めくくりの神楽は「鈴扇」。



納めの神楽に採りもつ扇はどちらが表か裏か存知しないが、銀色の面から返せば金色になっている。

最後は鈴扇を舞っていた八乙女たちが舞台より観客に向かって鈴を振っていた。



祓いの鈴をいただいてありがたく手を合わす。

今回で35回目の奉納になる佐備神社の神楽祭。

快晴の日、しかもさわさわ流れる風、実に穏やかになったこの日の舞いは始めてだとアナウンスされる。

28曲からなる冨永流浪速神楽の旋律は実に難しいと話される。

この日に舞われた神楽は以上の通りであったが、毎年に同じものを観ることもない。

神楽舞は奉納であるゆえ、毎回、異なるので愉しんでいただきたいと云われた。

また、浪速神楽をネット検索されたらユーチューブにいっぱいアップされていることがわかる。

それが本物であるのか、疑わしいものもあるのでご注意されたいと付言された。

正当な神楽をこれからも勤めていきたいと〆の挨拶に拍手喝采を浴びた。

また、神楽舞に詳しい動画をアップされている「西野神社社務日誌」も参考になるのでリンクしておく。

(H29. 4. 4 EOS40D撮影)
(H29. 4. 4 SB932SH撮影)
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天王区の民俗あれこれ

2017年10月14日 09時27分22秒 | もっと遠くへ(大阪編)
「フク」を授かったお家にお札があった。

貼ってあったお札に「城南宮方除御礼」の願文がある。

調べてみれば、方違(ほうちがい)に際する災い除けのお札である。

例えば新築するときなど、その方角の地に建ててはならないという場合に、悪除けにお祓いしてくださるお札である。

我が家も新築する際は、大阪府堺市北三国ケ丘に鎮座する方違神社にお参りして祈祷して貰ったお札を我が家の裏鬼門の柱に貼っている。

それと同じようなものだと思われるお札は京都市伏見区中島鳥羽離宮町に鎮座する方除けの城南宮で授かった「ほうよけのお札」であった。

それにしても、ここ取材させてもらったお家の入母屋破風の開き扇文様も気にかかる。



懸魚(げぎょ)の下にある扇がとても素敵に見えるお家はなんとなく元庄屋宅のような気がしてならない。

民俗は景観にもある。

何年か前から「干す」をテーマに撮り続けている。



これだと思ったら撮らせてもらう「干す」は食べるものもあれば衣服に水田も・・。

いずれも燦々と輝く天の恵み。

その様相に思わずシャッターを押す。

この写真は民家を背景にタオルや衣服を干している情景である。

どちらもそうであるが暮らしの一コマ。

暮らし、営みのすべてが民俗だと思うのだ。

次の一枚は地蔵菩薩立像の足元に供えた正月の鏡餅。

パックに詰められた鏡餅だから日持ちする。



傍には賽銭もある。

信奉する村の人の気持ちは、この一年をお守りくださいということだろう。

さらに視線を落としたところにあったお粥。

葉っぱを添えてあることから七草粥。

そう、この日は1月7日。

家で作ったと思われる七草粥は石仏下にも供えていたこの場は臨済宗妙心寺派巨嶺山長林寺(ごれいざんちょうさんじ)である。



史料によれば毎年の1月8日は「八日薬師のトウ(塔)」の名で呼ばれる行事がある。

史料には「牛王木を作って宮座に配る、苗代に立てる」とあった。

「牛王木」とはその字からしてごーさん杖。お札はごーさんであろう。

その八日薬師のトウをされる場が長林寺とあった。

翌日の9日には新年祭参拝を兼ねた「十九日の宮のトウ(塔)」と呼ばれる行事もある。

場は高皇産霊神社および公民館のようだ。

寺、神社揃う神仏混合の行事に興味がふつふつと湧く。

いつかは取材してみたいものである。

キツネガエリの一行が立ち寄る先々にみられる民俗についつい長居をしてしまう。

先に行ってしまった一行は太鼓打ちにキツネガエリの囃子もある。

静かな村里にこだまするからどこら辺に行っているかは判断がつく。

その合間を狙って天王区の民俗あれこれを記録する。

これは鹿の糞。



山間地もそうだが村里に下りてくる獣たちに悩まされているのは農家さん。

奈良県でもそうであるが、「仕事をいっぱい作らしてくれよんや」という言葉が、大変さを訴えている。

ここ天王区は鹿だけでなくアライグマも出没する。

この日は藁で作ったキツネも出没するが、ほんまもんの獣が食べ物を育てた土地を荒らす。

精魂込めた野菜などは全滅することもある。



なんとか捕まえたいと考案されたドラムカン利用の罠も一つの民俗としてとらえるべきか、悩まされるが、暮らし、生活のすべては民俗。

これもまた、有りである。

昨年の11月には亥の子行事に同行していたから、次の家がどこになるのか、ある程度は予測できる。

しかも、風情のあるお家が多い。

狙って撮っておきたい民家がある。

ここも、あの家もと欲張りなことである。

ここのお家は亥の子のときから気になっていた。

亥の子のときには玄関状枠に見られなかった眼鏡型の注連縄がある。



それは当然であるが、その上にある藁で作った輪っかである。

亥の子のときに聞いた話しでは、それはいつの時代か覚えていないが、家の男性がお正月にかけたもので、なにかのおまじないでは、と云っていた。

あらためて聞いたその輪っか。

答えてくださった婦人は前に話してくれた人ではないようだ。

その人の話しによれば、茅の輪だという。

あるところに行って参った。

そのときに作らせてもらったという。

あるこころと云うのはどうやら岡山県の神社のようだ。

もらったのは10年前と話してくれた。

そうか、この輪っかは茅の輪であったのだ。

キツネガエリの一行の行動範囲は広い。

亥の子のときに見つけておいた祠がある。



そのときはもう暗闇になりかけ時間帯。

何を祀っているのかわからなかったから再訪である。

前回の亥の子時期と違いがある。

祠に立派な手造りの注連縄をかけていた。

長い幣を下げているから遠目であってもわかりやすい。

近くに住まいする昭和17年生まれのYさんの話しによれば、かつて庚申講があったという。

たしかにあった「南無青面金剛」の文字でわかる庚申石。



遠目ではわからなかったが、近づいてみれば注連縄に稲穂をつけた新穀もあった。

「こうしんてい こうしんてい おまいりだりや そわか」と春と秋のかのえさる(庚申)のときは講をしていたという。

ご馳走を食べていたが、茶菓子だけにした。

庚申さんの掛軸も廻していたが、お勤めができなくなったことから京都の庚申さんを祀る本山に戻したという。

(H29. 1. 7 EOS40D撮影)
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能勢町天王区のキツネガエリ

2017年10月12日 09時07分26秒 | もっと遠くへ(大阪編)
正月明けの7日に「キツネガエリ(きつね狩り)」をしていると話してくださったのは子供会の会長さんだった。

場所は「亥の子」の行事をしていた大阪府豊能郡能勢町の天王区だ。

「キツネガエリ」に祭具がある。

「亥の子」の祭具は地面を叩くイノコ棒にサンダワラで作る獅子頭であるが、「キツネガエリ」には、まさに狐が登場する。

狐と云っても本物の動物の狐ではなく、藁で作った「キツネ」である。

もう一つの祭具はイノコ棒でなく、竹の棒に挟んだ「フクの神」である。

「亥の子」にも詞章があるが、「キツネガエリ」もある。

村の全戸を巡って玄関前で作法することも同じだが、詞章は異なる。

「亥の子」の詞章は「イノコのもちつき 祝いましょう かーねが湧くやらジンガミさん お神酒を供えて 祝いましょ」であるが、「キツネガエリ」の詞章は「わーれは なーにをすんぞ びんぼうぎつねを追い出して ふくぎつねをよびこーめ」と聞いているが、さてさてどうなるのか。

能勢天王のキツネガエリはかつて1月14日に行われていたという。

つまりは小正月の前日である。

それがどういう理由があったのか、聞きそびれたが、今では1月7日。

子どもたちが藁で作ったキツネをもって各戸を巡る。

玄関前ですることは「亥の子」行事と同じであるが、お家に降りかかる災いを除くとともに、新しき新年を迎える祝福の行事である。

かつては天王地区以外にもあったそうだが、現在は大阪府唯一の伝統行事である。

天王区は旧村全戸で65戸余り。

居住している村人はおよそ百人。

寒さ厳しい大阪最北部の山間地にある小盆地集落である。

杉本尚次氏調査(1970年代)研究ノート・桃山学院大学社会学論集『大阪府の民間信仰』に事例研究の一つに選んだ地区である。

論文にある天王区年中行事に正月8日に行われる寺の薬師さんの「8日トウ」や19日の「宮のトウ」に興味をもった。

「8日トウ」にはハゼノキで作る牛王杖がある。

それは宮衆に配られて苗代に立てると書いてあった。

まさにオコナイ、初祈祷の修正会である。

また、1月11日に7月1日は伊勢講もある。

また、現在は解散されたものの講中の遺産がある。

嘉永七年に建てた愛宕山の灯籠に文政十年の〇金刻印が見られる金毘羅さんの灯籠もある。

いずれも天王区の講中であり、それぞれ愛宕講に金毘羅講の「若中」と呼ばれていた若者組が建てたようだ。

また、5月8日の「ハナオリ」の日には参る習慣があった。

新仏のある家ではオハギ、団子を作って兵庫県三田市にある永沢寺に参ったとある。

永沢寺は秋葉講。

その関係もあったのだろう。

近年には「能勢の文化遺産・再発見」に食文化、住文化、年中行事などの伝統文化に関する調査されてきた関西大学文学部教授(当時)の森孝男のワークショップがある。

森孝男氏と初めてお会いしたのは平成28年11月20日に実施された奈良県立民俗博物館の企画ガイドツアーであった。

住居を専門に調査、論じてこられた森孝男氏の解説に魅了されたことを覚えている。

もう一度、お会いすることがあれば天王区のキツネガエリの調査について詳しくお聞きしたい、と思っている。

杉本尚次氏調査(1970年代)研究ノート・桃山学院大学社会学論集『大阪府の民間信仰』に1月14日の「きつね狩り」行事も書かれており、全文は次の通りだ。

「きつねの藁人形をつけたものを先頭に幣をさした青竹をもち、太鼓を叩いて(天王)神社に集合し、各家をまわる。厄払いである。このあときつねを川に流し、区長宅に引掲げる。菓子を食べ祝金を平等に分配する。小学校4年生以下の子供だが、最近は人員が不足し保育園児も参加する。亥の子よりも古いものと云われている」とあった。

1970代の記録であるが、仮に始めのころであれば、今から45年前の様相である。

それからどのように汎化したのか、それとも変わりなくしているのか興味津々の行事取材である。

昭和39年に撮影された映像記録がある。

平成25年7月10日発行の「三村幸一(※明治36年生まれの写真家)が撮った大阪の祭り―大阪歴史博物館所蔵写真から―」に一部掲載されたPDFがある。

それによれば「天王のきつねがえりは、大阪府内では能勢町天王だけで行われています。1月14日に、男の子たちが集まって藁でキツネを作り、御幣とともに青竹にさし、それを先頭に各家をまわります。最後はキツネの口に賽銭として硬貨を噛ませ、橋の上から川に放り投げます。キツネに象徴される害獣を、集落から追い出して福を招く行事です」とあった。

編集・執筆に関西大学大阪都市遺産研究センター研究員の黒田一充氏。

センターリサーチ・アシスタントに吉野なつこ氏の名が見られる。

良い仕事だけに展示図録があれば、是非とも購入したい「大阪の祭り」映像である。

その映像を見る限り、登場する男児たちの人数規模と当時の服装だけが違っているだけだ。

祭具や所作はまったく今でも同じように見える。

撮られた昭和39年から数えて今年で56年目。

長い年月を経ていても色褪せてはいない写真に感動する。

昼前に参集される天王のキツネガエリ。

亥の子の行事と同じ顔触れの子供たちが集まってきた。

子供会の会長さんもやってきた。

会長が手にしているのは、見た目ですぐわかる動力ヘリコプターのドローン。

村の記録に頭上からとらえる映像も残しておきたいと買っておいた機械を持ちこんだ。

ドローンは初デビュー。

上手く撮れればいいのだが、電波は難なく届くだろうか。

集合場所は区称が天王神社の高皇産霊神社。

大木などが生い茂る社そうに、樹木よりもっと上からとらえる映像はわかるが、その樹木の下から発信されるコントローラーの電波が気にかかる。

樹木がある場合は見た目よりも電波は届かない。

木々の枝や葉で電波が遮られるのである。

試しに操作されてドローンを飛ばす。

難なく動いたから大丈夫と思われたが・・・。



キツネガエリに登場する主役は藁で作ったキツネ。

昔は子どもたちが作っていたが、今は区長さんの役目だそうだ。

この日までに作っておいた藁製のキツネは立派なものである。

真っすぐ伸びる青竹にきつねの胴体に突きさす。

その上にはこれもまた立派な幣がある。

青竹は手で持つ部分だけを葉付きにしている。

亥の子にもタイショウを務めたSちゃんが出発に役目する。

小さな子どもたちは青竹に挿した小幣を持ってキツネのお伴に就く役目だ。

もう一つの役目は太鼓打ち。

タイショウが囃すキツネガエリの詞章に合わせて太鼓を打つ。

太鼓は新しくもないが。

やや古い太鼓のような感じであるが、年代等の文字は見られない。

まずは練習を兼ねた出陣の一声である。



氏神さんを祀る高皇産霊神社に向かって2回繰り返すキツネガエリの囃子。

「わーれ(我)はなーに(何)をするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーし(寿司)を いくおけ(幾桶)つけて ななおけ(七桶)ながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネ(貧乏狐)をおいだせ(追い出せ) フークギツネ(福狐)おいこめ(追い込め)」である。

昨年の亥の子行事の際に聞いていた台詞は「わーれは なーにをすんぞ びんぼうぎつねを追い出して ふくぎつねをよびこーめ」と聞いていたが、それよりもっと長めの台詞であったし、若干の違いもあったことを知る。

詞章に合わせて、太鼓は「ドン ドン ドン、ドン、ドン」の打ち方で繰り返す。

こうして出陣したキツネガエリの子どもたちにSちゃんのお父さんでもある子供会の会長は付き添いを兼ねて太鼓持ちの役目に就く。

神社から祭具を持って地区南にある橋に向かう。

亥の子には幼児の参加は認められないが、キツネガエリは就くことができるから一緒に着いていって、本来の出発地点になる天王川に架かる小谷橋(別名に寺田橋)に再集合する。



橋上で行われる本来の出陣にお父さんが助っ人する。

下流に向かって「ドン ドン ドン、ドン、ドン」打ちの太鼓に「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーしを いくおけつけて ななおけながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネをおいだせ フークギツネおいこめ」を囃す。

その音頭に合わせて小さな子どもたちは青竹に挟んだ幣を上下に振って、さぁ出発だ。

天王区は65戸の集落。

大きく分けて、集落中央を南北に走る県道173号線の自動車道を挟んで北東の上に南西の下がある。

かつてはその2地区にわけていたが、現在は7組になるようだ。

先に向かったのは北東にある集落。



なだらかな村の里道を歩いていく子どもたち。

幼子は母親が付いていく。

何軒か巡ってはその家に持ちこむ「フク」。

「フク」を持ちこむのはキツネであるが、実は御幣である。

年明けのこの日に、神さんではなく「フク」を家に招き入れるのがキツネガエリ。

玄関先でその作法をしている場合は留守の家。

キツネが内部に入り込んでいる場合は家人が在している場合であっても作法はまったく同じ。

台詞も同じで「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーしを いくおけつけて ななおけながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネをおいだせ フークギツネおいこめ」を2回囃し立てる。

キツネも幣振りの子どもたちも裏木戸からは入らずに、門屋の正門から入らせてもらう。



正門が低ければキツネも屈めて潜る。

扉から中に入れば、そこは広がるカドニワ。



広い場所でそれぞれがそれぞれの位置について「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーしを いくおけつけて ななおけながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネをおいだせ フークギツネおいこめ」。

映像でもわかるようにここの家は家人が屋内で待っていた。

キツネは玄関内に入りこんで「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい・・・」。



「フク」を招き入れたキツネ役のタイショウ親子は気持ちよさそうに太陽を仰ぎ見る。

眩しそうであるが、胸を張っている。

やり遂げた感があって撮っている私も気持ちが良い。



役目をこなした幼児も誇らしげ。

意気揚々と門屋から飛び出して走っていく。

この日の午後は晴れ間もあってほどよい温もりを感じるが、実は寒い。

冷えた朝方に凍った池。



鯉は厚く張った氷の下を悠々と泳いでいる。

大阪府中心部の最低気温は1.4度。

最高気温が10.9度。

ところがここ能勢町天王区は大阪府の最北部。

標高は海抜540m。

中心都市部とは5度以上も差があるというからどれほど寒いことやら。

参考までに平成25年に行われた天王区のキツネガエリを取材した朝日新聞社による公開動画の映像は一面が真っ白である。

積雪することが多いと聞いていた天王区。

この日は降雪もなく、車はここまで到達することができたが、例年であればたいがいが積雪。

峠越えすらできない場合が多いと聞いていたから、私にとってはラッキーなキツネガエリ取材の日であった。



天王区の民家の佇まいが美しい。



昔はほとんどが茅葺の民家であったような趣がある。



そのような雰囲気を想定できる民家をバックにキツネガエリの作法をする子どもたちを撮る。

そのときの子どもたちの様相は一定ではない。

それだからこそ思わずシャッターを押してしまう。

今でも農家の佇まいをみせるお家もキツネが持ち込む「フク」。

「フク」は神さんでなく「福」である。

福とくればいわゆる招福である。

出発した時間帯は昼時間。

集落を巡ってまだ半分も行っていない。

まだまだかかる北東の地区である。

小休止する間に撮らせてもらう藁製のキツネ。



まるで生きているかのような姿、形。

目はらんらんと輝く赤い目。

なんの植物であるのか、尋ねた結果はアオイの赤い実だった。

写真ではわかり難いが、ぱっくり開けた、キツネの口には舌がある。

これもまたアオイの葉。

角の尖った葉ではなく、丸い葉を使うそうだ。

亥の子の獅子頭もそうだが、天王区に出没する「フク」や「豊作」招きに自生する花や植物。

場合によったら獅子頭の牙にする干しトウガラシもある。



手造り感もあるが、その姿は美しく躍動するのである。

キツネガエリに随行する子どもたち。

太鼓やキツネ囃子に幣を振る。

勢いよく上下に降る。

その幣は挟んだ青竹から外れてヒラヒラ落ちる。

それが「フク」である。



落ちたヒラヒラを拾い上げてお家の人に手渡して「フク」を授ける。

子どもたちは「フク」をもたらす従者でもあるようだ。

どの家も家人が居るわけでもない。

不在である場合はどうするのか。

見ての通りの郵便受けのポスト。



ポストの口を開けて何枚も何枚も突っ込む。

そんな感じであるが、「フク」はこうして届けているのだ。

何十軒も巡った午後1時であってもまだまだある「フク」を届ける訪問先。

ときにはお家の中で待っている高齢者もおられる。

了解をいただいて屋内でキツネガエリの一行を屋内で高齢の婦人とともに待っていた。

しばらくすれば一行の声が近づいてくる。

玄関の扉を開けて入室するキツネ。



タイショウは男の子に替わっていた。

囃す詞章も大きな声で、「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーしを いくおけつけて ななおけながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネをおいだせ フークギツネおいこめ」。

太鼓は屋外で打っている。

家人が在室している場合のキツネガエリ作法は2回。

不在であれば1回になる。



幣を振っていた次年度のタイショウになると思われる女の子が玄関に入ってきて祝儀を受けとる。

受け取ればたくさんの「フク」を授かる。



あまりにも多いから手から「フク」が毀れそうになるが、授かった高齢の婦人は毀れそうな笑みになっていたのが印象的だった。

授かったヒラヒラの「フク」は神棚などに奉る人が多いように聞く。

ところでキツネガエリは天王区以外にあるのだろうか。

大阪府内では天王区にしか残っていないようだが、ここより北隣村になる兵庫県の丹波篠山の福住にもあるらしい。

そこでも同じようなマツリの様相であるが「福の神」の名で呼ばれる村の伝統行事であるが、近くの福住中・では「福の神・キツネガエリ」の名で呼ばれている。

「きつね狩り」は兵庫県養父市大屋町にもあるようだ。

ここも1月14日の行事日である。

「キツネガエリ」を「きつね狩り」とも称する地域もあれば、「フク」を各家にもたらす「キツネ」を「福の神」と称する地域もあることを知る。

ネットで検索すれば、もっと多くの地域に存在しているようだが、これ以上は当項で述べるつもりはない。

村の各戸をあまねく巡る一行は1時間ほどでどれほどのお家に「フク」をもたらしたのか、一軒、一軒、数えてはいない。

ざっと見渡して、未だ半分もいっていない。



本日の天候は晴れであるが、雪が舞う日であれば、歩きも困難であったろう。

祝ってくれる子供たちに目を細めていた高齢者の眼差し。



作法をされたあとにたくさんの「フク」を貰って一層、目が笑っていた。

そこよりすぐ近く。



アスファルト舗装にキツネが躍っている姿がある。

「こんにちは きつねがえりでーす」の文字で迎えたキツネガエリの一行。

道路に描いたのは子どもさんではなく、ヤッサン一座のだんまるさんだった。

どこかで見たことがある人だと思った。

会話してすぐに思い出した映像は大阪朝日放送の超有名な「探偵!ナイトスクープ」である。

登場していたのはお弟子さんのぼんまるさんであるが・・。

各地で活躍するプロの紙芝居屋である。

一年前に当地に引っ越してきただんまるさん一家。

ぼんまるさんとともに生活しているという。

天王区は素晴らしい村。

ここに惚れこんで移住したという。



村の一員でもあるだんまるさんの家にも「フク」を授けるキツネガエリ。

太鼓を打って、「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい・・・」。

「フク」の幣は振る勢いもあってお庭に散らばる。

ここらで一服して食べてやと云われて差し出す手造りのおにぎり。



イロゴハンのおにぎりではなく、ふりかけを振ったおにぎり。

味付け海苔を巻いたおにぎりをほうばる子どもたちにとっては「フク」の神。

美味しそうによばれていた。



午後2時ころになってようやく半数の戸数をこなした一行は、集落を南北に貫く県道173号線を跨いで南西下の集落に向かう。

一軒、一軒に「フク」を授けてきた一行の先頭は3人のタイショウたち。

昔は数え年十歳の子どもが「テン」と呼ぶ「大将」を務めていたと子供会の役員が話す。

本来は1月14日であった。

昔は学校も休みにしてくれた。

次の日も休みだった。

男の子だけが行う村の行事だった。

キツネガエリはとにかく一番寒い日だったとことも記憶にあるという。

ちなみに白い幣は青竹に挟んでいるが、その青竹は「キネ(杵)」と呼び、幣を含めて「御幣」の名があるという。

タイショウが3人揃って作法するキツネガエリ。

お家の向こう側に見える建物は平成27年3月末をもって閉校した能勢町立天王小学校だ。

タイショウたちも御幣を振る小学生の子どもたちもみな、平成28年4月創立の小中一貫校の能勢町立天王小・中学校へ学び舎を移した。



不在のお家であっても、同じように作法をするが、一回限り。

散らかした「福の神」を拾い集めて郵便ポストに詰め込んだお家の窓には眼鏡型の注連縄。



ウラジロもある注連縄には緑色の松葉も飾っていた。



それを見届けて先を急ぐ。

前もってお願いしておきた家がある。

亥の子のときもお世話になったH家。

お家は立派に組まれた石垣の家。



門口には自作の松、竹、梅の門松を立てていた。

亥の子のときに撮らせてもらった玄関口をあがった場。

今回のキツネガエリもそうさせていただきたく、お礼を兼ねてお願いしたら了解してくださった。

要件を先に済ませて一行を待つが、やってくる気配を感じない。

今か、今かとやきもきされていた石垣の家の隣家婦人。

そういえば、ある時点になれば、どこかで昼食を摂ると聞いていたことを思い出す。

待つこと40分。



ようやく顔をみせた一行は隊を組んでいるようかに見えた。

待つ位置にやってくる一行をデジカメに撮っておきたいと話していた隣家の婦人にシャッターチャンスを教えていた。

きちんと撮れたかどうかはわからないが、一目散に戻ったお家。



キツネを玄関口から迎える婦人の姿は屋内だ。

太鼓打ちもそうだが、タイショウも次の年代の子どもに交替していた。

そしてやってきた石垣の家。

大急ぎでお家にあがらせてもらってスタンバイ。



キツネは玄関口を入ったところの立ち姿。

太鼓打ちは玄関前。



後方に本来のタイショウたちが並んで「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい・・・」。



祝儀を受け取る子どもはさらに若い幼子。



そして「フク」を授けるタイショウ。

お昼を済ませた後半は役目を入れ替わっていた。

これもまた次世代への引き渡し。

体験することで次の年代へ継承してきたのであろう。

休憩した子どもたちは英気を取り戻していた。



次の家、次の家へと巡ってキツネガエリに台詞を発声する。



どこかの時点で私も一服する時間を設けなければならない。

そうは思っているものの時間も場所も確保できない。

昨年の11月には亥の子行事に同行していたから、次の家がどこになるのか、ある程度は予測できる。

しかも、風情のあるお家が多い。

狙って撮っておきたい民家がある。

ここも、あの家もと欲張りなことである。

眼鏡型の輪っかの正体がわかったところで一息つける。

キツネガエリの子どもたちは子供会の親が運転する車に乗って南部に位置する新興住宅地に向かっていった。

ここより歩いては到底追いつくこともできない遠い地。

亥の子のときもそうだったが、そこまでは、と思ってここで待つことにした。

見送った時間は午後3時15分。

ようやく食べられる遅い昼食。

食べた時間帯は午後3時半。

冷えた身体に冷えたおにぎりを立ち食いした。

一行が再び戻ってくると思われる場で待っていた。

天王川に架かる橋である。

そのすぐ傍にあった建物に窓が開いていた。

どなたかがおられるようで人影が動く。

民家でもないような建物内に器械が見える。

興味のあるものは何でも聞いてしまう民俗収集癖がある。

屋内におられた数人の女性は作業の中休め。

お仕事は中高校の運動用のジャージ縫製であった。

縫製の機械であったのだ。

長年においてこの仕事をしているという女性が云うには「家内工業の規模ですわ」という。

昭和17年生まれのYさんの話しによれば、ここ天王区は凍り豆腐が盛んな土地だったという。

天王区は標高が高いだけに冬場はとても寒い。

この日の朝もマイナス5度になった、という。

ここ天王区は霧が降りない土地。里も篠山になるらしい。

凍り豆腐は天然の畑で干していた。

窓から指さす県道の向こう側の畑。

今ではすっかり消えて面影すらない。

凍り豆腐の製造に適していた天王区に10軒以上の工場があった時代は昭和33年ころ。

但馬の人が凍り豆腐の仕事に就いていた。

父親を亡くした時代になるそうだ。

当時はこんな幅広い県道もなかった。

今から40年も前の昭和38、9年になって開通した新道の県道である。

幅広い県道に天王川に架かっていた橋は下流に移動せざるを得なかった。

一回移してからもう一回下げたという。

その橋の名はキツネ橋。

当時の橋といえば、丸太にトタン板。

垂木で橋にしていた。

話しをしてくれる婦人はここへ嫁入りして50年にもなる、という。



このキツネ橋が架かる辺りに生息しているのがオオサンショウウオ。

地域を定めない生息確認域の天王川、細谷川、奥野々川を所在地とする国指定の特別天然記念物であり、大阪北部農と緑の総合事務所による保護活動がなされている。

Yさんはさらに話してくださる。

お爺さんは板を並べて、凍り豆腐をイデかしていた。

イデかすとは凍らすということだ。

「イデる」は濁音だが、本体は「いてる」である。

「いてる」は「凍てる」である。

「凍てる」が濁音化して「イデる」となったわけだ。

ちなみに凍り豆腐を作っていたお爺さんが云った言葉がある。

アレを川に流したら凍らないという伝えがある。

「アレ」とは何ぞえ。

それは「キツネ」である。

もうすぐ戻ってくるキツネガエリの一行。

戻ってきたら、キツネの口に5円玉を銜えさせて川に投げ込む。

投げ込んだか川の流れにまかされてキツネが流れる。

そうすれば、凍り豆腐は凍らないということである。

そのキツネは昔も今も一匹。

昔は子どもが作っていたが、今は区長が作る。

小学4年生以上の子どもたちが集まってキツネガエリをしていたが、いつまで続けられるか心配される少子化時代である。

ここで凡そ45分も待っていた。

新興住宅地にも「フク」を授けていたキツネガエリの子どもたちが戻ってきた時間帯は午後4時15分。

数年前までの出発時間は午後2時。

すべてを終える時間は夜の時間帯の午後7時。

少子化によって女の子に幼子も入れて継承してきたが、あまりも遅くなっては子どもに危険が及ぶ可能性もあると考えられて、これまで時間よりも2時間早くした。

そのおかげもあって、現在は午後12時から午後5時まで。

日が暮れないうちに終えるようにされた。

残すはあと1軒。



最後の力を振り絞って元気よく声をだす。

「わーれ(我)はなーに(何)をするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーし(寿司)を いくおけ(幾桶)つけて ななおけ(七桶)ながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネ(貧乏狐)をおいだせ(追い出せ) フークギツネ(福狐)おいこめ(追い込め)」の詞章である。

「わーれ」は「我」であるが、「藁」の可能性も拭えない。

奇妙なのは「きーつねのすーし」である。

この「すーし」はお寿司である。

何故にお寿司が詞章にあるのか。

福井県おおい町の川上上方事例に「狐の寿司は七桶八桶 八桶に足らんとて 狐がえりするわ」がある。

同県同町の川上父子事例では「狐がえりがえりよ わら何するど 若宮をまつるとて 狐がえりがえりするぞ 狐のすしは七桶なから 八桶にたらぬとて 狐がえりがえりよ」である

福井県事例から考えるに、天王区の詞章に「寿司」があってもおかしくはない。

しかも天王の詞章に「いくおけ(※幾桶)つけて ななおけ(※七桶)ながら・・」がある。

寿司は七桶であるが、遠く離れた土地に類似性をもつのはまったく不明である。

また、兵庫県美方郡香美町(香住区香住)に町指定無形民俗文化財に「入江きつねぎゃあろ」がある。

同町のHPには「キツネ狩りは播磨・丹波そして但馬の全域、県外では東が福井県の白木半島(三方町)西は鳥取県米子市に至ります。大体兵庫県・京都府北部を中心に、若狭から伯耆[ほうき]に至る山陰地方に広がっており、入江の「キツネ狩り」は嫁の「シリハリ」と習合した形態をもつ伝統行事で貴重な文化財」とあるかた、相当広範囲に亘ってキツネ狩り(キツネガエリ)があるわけだ。

ちなみに兵庫県のわらべ歌に朝来町の「狐狩り」の詞章がある。

その他の地域も多種多様。

鳥追いと同じ意味をもつというのが興味深い。

各地の民俗事例から考えるに、天王区のキツネガエリは、狐追い行事のような気がするのだが・・・どうだろうか。

さて、天王区のキツネガエリは各戸に「フク」を授けて、終わりではなく、最後にキツネの川流しで終える。

場所は出発地点と同じ、天王川に架かる小谷橋の上である。

午後4時半の記念写真。



4時間半にも亘って行ってきたキツネガエリは笑顔で〆た。

そして始まった〆のキツネガエリ囃子。

勢いよく太鼓を打って御幣も振る。

詞章も大きな声で力強い。



そして、「いっせーのっ」とみなが声をかけて放り投げる。



Yさんが話してくれたキツネに銜えさせる5円玉は確認できなかったが、天王区の人たちに「フク」を授けたキツネは流れる川に身を任せるように下流に流れていった。

すべてを終えた一行は天王公民館に集合する。

講堂と思われる場に大きな版画を掲示していた。



「貧乏ぎつね追い出せ 福ぎつね追いこめ」の文字がある版画の背景にある民家は茅葺家。

その前に並ぶ5人の子どもたち。

キツネをもつタイショウの顔はどことなく女の子に見える。

右に並ぶ小さな子どもも女の子。

服装は昔風であるが、この様相から近代になって描かれたものであろう。

かつての情景であるなら、男の子だけのはずだが、作品は素晴らしい。

さて、今年の子どもたちは、といえば、座敷で寛いでいた。

冷えた身体を温めてくれる部屋ストーブ。

薪でもなく電気フアンストーブである。

子供会の会長や役員さんは各家からいただいた祝儀を集計して分配される。



袋のお金はいったいなんぼやろと透かしてみる子どもは中学生。

下の子どもは眼中にないように見えた。

携帯電話に記録された歩数計。

実質の歩行時間は1時間41分。

距離にして5.2kmだったことを付記しておく。

(H29. 1. 7 EOS40D撮影)
(H29. 1. 7 SB932SH撮影)
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道の駅とれとれ野菜能勢町観光物産センターのふるまい七草粥に舌鼓

2017年10月11日 09時16分35秒 | もっと遠くへ(大阪編)
自宅より阪神高速道路を走り続けて大阪府の能勢町にやってきた。

正月も数日過ぎれば車も多くなると思っていた。

いつもはたいがいが大阪の東大阪辺りで渋滞に巻き込まれる。

そう覚悟していたがさっぱりと遭遇しない。

どこへいったのか知らないが車はすいすい走る阪神高速道路。

1時間10分ほどで能勢町の道の駅に着いてしまった。

1時間も走れば尿意をもよおす。

利尿剤を服用しているからだいたがが1時間おき。

早ければ30分単位で尿意を感じる。

高速道路を走行中であれば一旦は下りなければならないが、難なく道の駅に着いた。

採れたて野菜がいっぱい売っている。

着いた時間は10時半。

お店の前で店員さんが声を揚げていた。

もう少しで七草粥がなくなります。

あと数杯で終わります。



ここで見逃すわけにはいかないふるまいの七草粥はラッキーな時間に到着したから1杯がいただけた。

緩い塩味が美味い七草粥を食べていたら「しゅうーりょーぉーー」の声が揚がった。

(H29. 1. 7 SB932SH撮影)
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能勢天王区の玄関飾りの民俗

2017年07月08日 09時31分08秒 | もっと遠くへ(大阪編)
長時間に亘って亥の子行事に滞在していた大阪府の能勢町天王区に見る玄関の民俗。

干し物もそうだが、すべての家がしているわけでもない。

亥の子行事に巡る天王区の各家。

亥の子の取材のときにふと目がいく玄関の上である。

奈良県内においても何カ所かの民家で特別なものを拝見することがある。

なかでもお札を収納する札入れがある。

一年間もそこで保管してトンドに燃やす。

燃やして天に帰ってもらいということだ。

神さんではないが、奈良県内でよく見るのは八十八歳祝いのシャモジである。

屋内側の玄関には手形を押した紙を貼っている家は結構ある。

ここ天王区で見かけたモノはなんであろうか。

うち一軒は獅子頭に飾り付けする黄色い菊の花をどっさりくださったK家である。

これは何なのか。

注連縄にしては見たこともない形態だ。

丸い注連縄は伊勢のゲーター祭を思い起こすが、もっと大きくて海へ流すものだ。

お家の玄関に掲げている藁作りの輪っかは尋ねて見なければ・・・と思って、同家の婦人に聞く。

答えははっきりとはわからないという。

いつの時代か覚えていないが、家の男性がお正月にかけたそうだ。

男性はお爺さんか旦那さんなのかわからない。

いつの間にかにあったという。

なにかの神さんのおまじないでしょう、という。

もう一軒に見つけた玄関の民俗。

形は屋根有のヤカタ風である。



「除疫病 三十番神 無量神」の文字が鮮明に読める。

たしかH家だったと思う。

「本」の字もあったから本家であろう。

帰宅したからネットでぐぐってみた「除疫病 三十番神 無量神」。

三十番神」は30日の毎日を交替して守護する三十柱の神々。

神仏混合思想に基づいた法華経守護の三十神が著名らしい。

初めに天台宗の最澄伝教大師が比叡山に祀ったのが最初で、後に日蓮宗・法華宗で重視されたそうだ。

(H28.11. 6 EOS40D撮影)
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能勢天王区の干しもの

2017年07月07日 09時02分14秒 | もっと遠くへ(大阪編)
長時間に亘って亥の子行事に滞在していた大阪府の能勢町天王区でいくつかの干し物が見つかる。

奈良県内にも見られるが特徴的なものがあるのか、ないのか。

なかったとしても写真を撮っておく。

干し物をしている人はほとんどが女性。

それも高齢者である。

二十歳そこらとか、三十歳代でされている方は非常に少ない。

もんぺではないが、時代とともに廃れていく可能性がある。

そう思って記録しておく。

午前中の花集めの際に見つけた干し物は軒先に吊るした柿である。

何の変哲もない干し方であるが、夕方から始まった亥の子の巡回に同家もやってきた。

ふと見れば玄関脇に剥いた皮を干してあった。



瑞々しいからこの日に剥いたのであろう。

亥の子の子どもたちに祝儀を手渡した男性に話を伺う。

実は軒先に吊るしていた柿は男性がそうしていたという。

剥いた皮はこうして広げて天日干し。

この日の天候は曇天だったが干していた。



皮の使い道は・・。

その答えは漬物である。

吊るし柿は干してから数日間の経過をみて下ろす。

粉がふいたら甘くて美味しい吊るし柿になる。

皮は捨てることもせずに漬物にする。

はじめて知る再利用であるが、皮そのものの漬物ではなく、大根などの漬物をする際に干した柿の皮を放り込んでおくと甘くなるというのである。

漬けた大根の色具合もよくなるし防腐剤と同じような効果があるそうだ。



そこから数軒向こうの家は玄関横にスライス切りした生柿を干していた。

ザルに広げた輪切りの柿は天日干し。

何日間も放っておくと甘くなる。

柿一個丸ごと干しておいたら柔らかくなる。

とても柔らかくなったらうましガキ。

いわゆるずくし(熟し)の柿は食べられる。

これ、あげるから持って帰れと云った高齢夫妻。

ありがたく受け取って、数日後の我が家の駐車場屋根に干した。

吊るしではなく箱の上蓋にちょこんとのせてだ。

ほしてから3週間後。

渋柿の「ウマシガキ」は、ずくし(熟し)になった。

ご夫妻が云われた通りに干していたらできあがった。

とても美味しかったことをここで報告しておく。

そこから数軒出向く。

またもやあった柿の皮干し。

これもまた瑞々しいからついさっきに干したのであろう。

皮は長目に切っていたから針金に引っかけるように干していた。

干し方はお家によって違うのもわかった。

もう一つの干し物はトウガラシである。



私は昔から、というよりも子どものころから「トンガラシ」と呼んでいる。

トウガラシの名であれば青い鞘のイメージがある。

トンガラシは辛い。

辛いトンガラシは赤い。

そう使い分けてきたのかな・・・。

ビニールハウス室内に獅子頭の牙になるトウガラシを吊っていた。

亥の子の行事に欠かせないトウガラシである。

その室内にもう一つの干し物があった。



一つは竹で編んだ器。

もう一つは新聞紙を広げたところに広げて干していた。

何日か経過してから莢を取る。

バリバリに乾いた莢は叩けば弾ける。

そうすれば中から黒豆がでる。

いわゆるマメオトシの作業をして豆の実だけにする。

たぶんにそうだと思う黒豆はお正月の祝いの料理に使われるはずだ。

(H28.11. 6 EOS40D撮影)
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能勢町天王区の亥の子

2017年07月06日 09時29分58秒 | もっと遠くへ(大阪編)
昔は12月の亥の日が行事日だったという大阪府の能勢町天王区の亥の子行事。

夕方の6時に出発して村全戸を巡って亥の子をしていたという。

子どもたちが勝手に集まって廻っていたが、今では子供会が中心。

勝手といっても子供たちの年長者が号令をかけて、どういう具合にして廻るか、相談の上で決定していたのであろう。

ただ、育ってきた時代によっては方法も違っていた可能性がある。

そのときおりの年長者の考えもあって変化があったと推定できるのは、奈良県内の子どもが主体の行事を取材してきたのでよくわかる。

わかると云っても村の在り方は区々である。

住んでいる地理的環境もあれば受けてきた教育関係の影響もあろうかと思う。

奈良県内はもとより県外の民俗行事をみているとそう思うのである。

民俗はあるべき論ではなく地区それぞれの生活文化によって区々なのである。

能勢町天王区の現在の亥の子行事は子供会が中心。

午後4時ころに神社か公民館に集まってそこから出発すると情報を掴んだ写真家Kさんとともに取材する。

村の全戸を巡る亥の子行事。

その前にしておかなければならない作業がある。

亥の子の道具にサンダワラで作った獅子頭がある。

先立つのはサンダワラに飾るお花の摘み取りである。

二枚のサンダワラに摘み取ったお花で全面を覆うようにして作る花飾り。

材料は野草でなく、村の人が庭などで栽培しているお花である。

この花を集めることから始まるのだ。

実は能勢町の亥の子は始めての取材ではない。

先に訪れていたのは平野区の亥の子行事だ。

元会社の若手職員が村に戻って暮らす平野区。

親父さんの代を継いだ職人だ。

彼が生まれ育った平野にイノコ行事がある。

数年前までは天王区と同じようにサンダワラで作った獅子頭があった。

獅子頭を作るにはサンダワラが作れる人がいることが条件。

その条件が崩れてやむなく木で作った獅子頭。

彼が作った獅子頭で継承していたのである。

天王区では未だ健在のサンダワラ作りの獅子頭がある。

また、正月明けにはキツネガエリと呼ぶ子どもの行事がある。

その二つの行事を拝見したく訪れた天王区である。

到着した時間帯はにわかに黒い雲が一面に広がっていた。

天気予報は見ていなかったが、週間予報では毎日が晴れマークだった。

強い風に煽られて木の葉が舞う。

小雨混じりの風が吹く。

気温は10度以下である。

帰宅してからかーさんが私に云った寒さ。

奈良県内もとても寒かったという。

奈良市内の最低気温は8.5度。

最高気温でも15.8度である。

寒いといっても上限は15度もある。

10度を切るような気温であれば、もうたまらない。

それが突然にやってきた。

予報を覆す寒さは標高とも関係する。

標高が300mになるという大阪府豊能郡能勢町。

大阪府の北の端になる。

しかもだ。

天王区へ行くには天王峠越え。

とても寒い地域だと能勢のショッピングモールの店員さんはそう云った。

天王区に着いて神社の所在地を確かめる。

ここら辺りと思って来てみたが、さっぱりわからない。

石垣のある集落民家前の田んぼに鍬を入れていた男性に尋ねたら平成27年3月末をもって閉校した能勢町立天王小学校(閉校後は平成28年4月創立の小中一貫校の能勢町立天王小・中学校-送迎車で通学)の向こう側にあるという。



もうひとつ尋ねた本日行事の亥の子。

「子どもは少なくなったが、花集めからしよるからそこら辺におれば誰か来るやろ」と云われて神社を探す。

神社はすぐに見つかる。

鳥居を潜って石段を登る眼前に迫る建物が特徴的だ。

奈良県内にはこのような構造物はないように思える。

はじめてみる構造物はなんであろう。

裏側に登ってみればそこはオープン形式の拝殿のような気がする。

神社は高皇産霊(たかみむすび)神社の名であった。

能勢町教育委員会が掲示する由緒書きに「推古天皇の御宇、剣尾山に月峯寺が開創されるやその奥地にあたる“天野村=天王村”に“奥の院”として七堂伽藍が創建されたと伝えられる。さらに宮ノ尾には“大梵天王を勧請し、村の産土神として祭祀された。伝えるところによれば、村名も祭神の大梵天王によると云われている」とあった。

現在地に遷したのは流行り病の疫病によって村は半滅、高僧の神勅によったものだ。

永禄二年(1559)六月十九日にこの高台に遷座したとある。

高皇産霊神社名になったのは、明治時代の廃仏毀釈によるものだ。

正式社名はそうであるが、今でも天王神社の名で呼ばれている。



さて、珍しい構造の拝殿は表から見れば高床式の楼門のようだが「長床(ながとこ)」の名がある。

今では見ることはないが、由緒書きによれば「村の天変地異に際して神の心を慰め、神徳に報いるために芝居などを催した」とあるから、拝殿は舞台でもあったようだ。

その「長床」の屋内から天井を見上げたら茅葺構造であることがわかった。

丸棒と竹で組んだ天井裏にびっしり詰めた茅が見える。

なお、平成15年10月に土塀などを改修された記録写真がある。

展示場はその「長床」の壁面である。

子どもたちがやってきたのは午前10時。

付近には親がいないことから子どもに名刺を渡して取材目的を伝える。

花集めはタイショウと呼ぶ年長の男女が務める。

集め終わって神社拝殿で獅子頭に飾り付けをするまでは子どもたちだけで進行する。

尤も、子どもたちの話しによれば、今日の亥の子行事は子供会が伴うようである。

後ほど来るというからそれまでは子どもたちについて花集めに同行することにした。

3人のうち男女2人は天王小学校の最後の卒業生。

当時は小学6年生であったが、今は中学2年生。

もう一人の女児は中学1年生である。

亥の子の今年のタイショウは二人の中学2年生。

タイショウとは一般的に云えばリーダーである。

下の子どもたちを引き連れて行事の務めする。

タイショウを充てる漢字は大将である。

花集めから戻って神社に合流した下の子どもは小学生だ。

閉校式に出席した最後の在校生はたったの4人だったそうだ。

閉校式には参列していなかった2人の子どもも入れて6人。

その子たちだけで亥の子行事が行われる。

天王区は65戸の集落。

県道173号線の道を挟んで北東(上)・南西(下)にある。

花集めに向いている場所は決めていたようだ。

行こうとしたら先に出かけて黄色い花を採ってきた男の子。



自転車に乗って走り回っていた男の子は颯爽と戻ってきて収穫した花を二人の女の子に見せていた。

それならば、と目的の場を目指していく二人。



冷たい風が吹き抜けるこの日は寒い。

今にも小雪が舞いそうな寒さに手がかじかむ。

やや高台に建つ民家下に植栽している畑がある。

黄色い花はあるが、それは菊ではない。

もう少し行けば黄色い菊があった。

花畑には人がいない。

勝手に採るわけにはいかないので近くにいた男性に花集めの許可をもらう。

ついさっきまでトラクターで畑を耕していた男性がいった。



「そこにあるのは採ってもかまへんで」と答えをもらってから持参したハサミできって摘む。

白色やオレンジ色の花とかいろいろあるが、菊の花でないとあかんという。

菊の花は葉っぱの形でわかる。

匂いが独特な菊は鼻で嗅いでみてもわかる。

これがそうだと伝えたら喜んで摘んでいた。

働いてきたトラクターを水洗いしていたNさんの時代の亥の子は50人の子どもたちで賑やかだったそうだ。

花集めをして獅子頭を作る。

天王全戸を巡って終わったのは夜の11時ぐらいだったという56年ほど前の体験。

数年前は10人。

当時の1/5になった天王区の亥の子の子どもの人数だ。

この日は6人になるから、1/8。

少なくなったものだという。

ちなみに能勢町では天王区、平野区以外に何カ所もしているそうだ。

上山辺若しくは東山辺地区にはナマハゲがあったようだ。

ちなみに写真家Kさんが調べた地区の上山辺・東山辺・栗栖、稲地、大里に現存、継承しているそうだ。

上山辺・東山辺・栗栖、稲地は集めた菊の花を飾り付ける。

天王区と同じようにサンダワラの獅子頭がある大里であるが、菊花飾りの状況は掴めていない。

『大阪の民俗信仰』によれば大字の小吹にも亥の子行事があるらしい。



自転車で駆けずり回っていた男の子と合流した。

花集めは下の子どもはしないが、年長のタイショウらはあっちこちに手分けして集めていた。

男の子は集めた花の具合を確かめにきたようだ。

以前は茅葺家であったことがわかる民家がある。

何人かの高齢者が畑におられた。



声をかけたらこの菊は採っていっていいよと云われてハサミで切るが、白色が多い。

花は何でもかんでもえーもんでもない。

「この菊はあかんねん」といって白菊のお花を摘む。

黄色や朱色、桃色とか、飾り付けに役立ついいものを選ぶ。

そのお家の垣根に咲いていた菊の花。



真ん中に芯があるからこれは違うという。

見つけては父親に電話をして確認していたタイショウだった。

しばらく歩けばハウス内に目がいった。

そこに吊るしていた赤いトウガラシ。



どうやら予め頼んでいた花ならぬトウガラシである。

トウガラシは獅子頭の牙になる。

眼の部分や口も色や種別の異なる植物で飾り付ける。

南西(下)の地区をぐるっと巡って1時間。



「菊集めにきましたー」と民家の玄関で大声をあげて亥の子行事の花集めに来たことを告げる。

「今日はないわ」という人もおれば、「これを渡そうと待っていた」という人も・・。

この家は後者だった。

息子がもうすぐ戻ってくるからと云われて待つ。

しばらくすれば軽トラが戻ってきた。



お目当ての黄色の菊の花はどっさりある。

コトが一挙に済んだ二人は神社に戻る。

時間は午前11時半を過ぎていた。

これから始める作業は獅子頭の花飾り。

タイショウら3人だけでなく待っていた小さな子どもたちも入って飾り付け。



この作業は意外に時間と手間がかかる。

手間がかかるのは一つ、一つの花を軸から取り外し。

千切っては花をテーブルに並べる。

それを獅子頭になるサンダワラにとりつける。

縫っているわけでもなく、括り付けているわけでもない。

ましてや接着剤でくっつけているわけでもない。

軸をサンダワラに深く挿しているのである。

サンダワラは上下2枚で獅子頭の口になる。

頭全体が口になるような形である。

挿すのは女の子。

軸を千切るのは男の子。

特に決まりはないが、そうしていた。

サンダワラは子供会の父親が先週に作ったそうだ。

午後には始まる亥の子行事の道具にイノコ棒がある。

サンバイコ同様に稲藁で作ったイノコ棒はここにいる子どもたちも一緒になって作っていたという。

まだまだかかる手作業。

このまま状態では数時間もかかる。

一旦は家に帰って昼食。

休憩を取って午後4時に再開してはどうかと子供会の親からアドバイスを受けて一時的に解散する。



それより早い時間にやってきて作業を開始していた子どもたち。

目途はほぼついてトウガラシのキバもできている。



キバも眼もできあがった獅子頭が喜んでいるようだ。

獅子頭は唐草模様の胴体が必須。

タイショウが頭役で後ろは後輩の女の子がつく。

二人が演じる姿はまるで生きているかのように動く獅子。

主に頭を左右に振れば舞いになる。



大きな口広げたらガォーの声が聞こえてきそうだ。

学年下の子どもも子供会の親たちもその動きに大はしゃぎ。

かつては唐草模様の風呂敷ではなく、藁製の蓑であった。

蓑を纏ったもう一体。

赤い目のお面を被った道化役のような一体をナマハゲと呼んでいた。

今では見ることのないナマハゲは写真に残っていると子供会のO会長がいう。

ちらりと拝見したナマハゲはこれまで見たことのないような面相だ。

眼と口に特徴はある。

それ以上に目立つのはずんべらぼうのような顔。

髪の毛はないように思える。

思い出しても怖くなるナマハゲは上山辺若しくは東山辺地区にありそうなことを聞いたので一度は拝見したいと思った。

獅子舞以外の子どもたちは藁で作ったイノコ棒をもつ。

このイノコ棒には名前があるらしいが、それは他の地区。

「ツチ」とか「キネ」の名で呼んでいるらしい。

まずは天王神社こと、高皇産霊神社に向かってひと舞する。



獅子頭は左右に振りながら口をぱくぱくする。

奉納の形式なのだろうか。

「せーの」とかけ声をあわせてから「イノコノモチツキ イワイマショウ カーネガワクヤラジンガミサン オミキヲソナエテ イワイマショ」を2度唄いながら、獅子が舞い、下の子どもたちはイノコ棒で地面を打つ。

打つというのか、それとも叩くのが相応しいのか悩ましき所作である。

この詞章から考えればイノコ棒は餅搗きの「杵」である。

そういうことであれば地面は打つでもなく、叩くでもない。

「搗く」のである。

ちなみに「ジンガミサン」とは不思議な名称だ。

子供会会長の話しによれば「地神」さんである。

つまりは土地の神さん。

土地の神さんといえば産土神に想定されようが、地面を叩くことから正真正銘の「土」である。

「杵」で搗く「土」は豊穣の地。

稔りの地を叩き興して豊作を願う行為ではないだろうか。

豊作になれば「金が湧く」くらいに村の生産量を増やして五穀豊穣を叶える。

子どもたちが所作することによって村の生産は向上するのであろう。



氏神さんに向かって豊作祈願に奉納した子どもたち。

神社から下って一軒、一軒を巡って所作をする。

「こんにちは 亥の子でーす」とまずは声をかける。

玄関が開けられなければ呼び鈴を押す。

こうして屋内から出てこられた家人に「中に入らせてもらっていいですか」と伝える。

お許しをいただいたら「お邪魔します」といいながら玄関土間に入る獅子頭。

下の子どもたちは玄関前で「杵」を搗きながら「イノコノモチツキ イワイマショウ カーネガワクヤラジンガミサン オミキヲソナエテ イワイマショ」だ。

所作を終えたら家人は祝ってもらったお礼に祝儀を手渡す。

男の子のタイショウは予備の「杵」を入れた袋を運んでいた。

「杵」は打てば打つほどに壊れていく。

どうしようもないくらいに壊れたら予備の「杵」と交換する。

もう一軒、もう一軒と巡る天王の亥の子。



すべての民家に家人が必ず居るとは限らない。

不在の家であっても亥の子の所作はする。

ただ、違いがある。



不在であれば詞章は一回。

玄関は開くことはないので獅子頭は「杵」搗きと並んで獅子を舞うが、終われば「ありがとうございます」と必ずお礼を云っていた。

時間が経つにつれて暗くなってくる。

すぐ隣になる家もあれば少し離れたところにある家もある。

あっちへ、こっちへと行先は特に決まりはなく、タイショウが決めるコースである。

朝に到着したときに訪ねた石垣の家がある。

天王区に着いたものの地域勘がなかったものだから、氏神さんを祀る神社の所在地や亥の子の在り方を教えてくださったお家だ。

お許しをいただけるなら玄関土間で舞う獅子頭の様相を撮らせてもらえないかというお願いである。



石垣の前の道を行く子どもたちの姿を一枚撮って大急ぎでH家の門屋を潜らせてもらう。

実は予めに承諾を得ていた土間からの撮影である。

子どもたちがH家に着く前に先に上がらせてもらう。



奥さんは屋内に座って亥の子の祝いを受ける。

彼らは所作をし終わってありがとうございます。

私も頭を下げ、礼を伝えて退室する。

石段を下りて次の家に向かう。

集落を出発して1時間。

何十軒も巡ってきた彼らは慣れてきたものだ。



余裕十分の笑顔で亥の子の所作をする。

午後5時ともなれば辺りは夕暮れ。

曇天の日だっただけに日暮れ時間は早い。

何軒か所作をしてきたらお家の灯りが点いた。

あっという間に暗くなる。

暗くなっても明るい笑顔で所作する元気な子どもたちだ。



一番小さな男の子は小学3年生。

茶目っ気たっぷりに所作をしてくれる。

男の子のタイショウは予備の「杵」を入れた袋を運んでいた。

タイショウらしい気遣いだ。

「杵」は打てば打つほどに壊れていく。

どうしようもないくらいに壊れたら予備の「杵」と交換する。

何度も、何度も力強く地面を打っていたらえー加減にくたびれる。

持つ部分もほどけて打つこともできなくなる。

そういう状態になれば新品と交換だ。

そこからも何軒かの民家を訪ねて亥の子の所作をする。

その外れにあった建物。

暗がりに点々とライトが点いているお家だ。

そこは民家でもなくログ造りの建物でカフエを営業しているその名もわかりやすい「カフエ能勢ログ」だ。

それにしても建物が燃えるようなラインテイングにはびっくりしたものだ。

このお店も天王区の住民になるらしい。



そういうことでお店も対象に亥の子所作をする。

そういえば天王区の中央にある喫茶店にも入って祝いの亥の子をしていた。

これよりは歩いて遠い南部の地。

新興住宅地になるようで、遠くになることから自家用車で向かう。

時間帯は午後5時半も過ぎていた。

車では追いつかない。

戻ってくるまで多少の時間がいる。

それを待つのも良いが体力の限界を感じる。

ここまで亥の子をしてきたお家の数は28戸余りの北東(上)。

出合った男性がいうには村の戸数は65戸。

それはかつての戸数のようで、子供会会長がいうには50戸。

不在になった家もあって実際は46戸になるらしい。

新興住宅を含まない旧村戸数である。

新興住宅の亥の子を終えても午前中に花集めをしていた南西(下)だけでも30戸余りある。

すべての戸数を廻り終えるのは、トラクターを水洗いしていたNさんがいう午後11時までとはいかないが、ついていくにはもう限界だ。

会長ら子供会の役員さんにお礼の挨拶を告げて現場を離れた。

亥の子行事と同じように集落民家を巡っていく行事がある。

その行事の名は「キツネガエリ」。

巡るコースも同じだし、巡る子どもたちは亥の子と同じ。

同じようにタイシヨウが先導する「キツネガエリ(きつね狩り)」はかつて男の子だけの行事だった。

対象の子供は小学1年生から6年生までだったそうだ。

いつしか少子化の時代を迎えた。

子どもは少なくなるから男の子も必然的に少なくなる。

奈良県内においても子どもが主役になる行事がある。

同じように男の子だけであった、止むを得ず女の子の参加を認めた行事がある。

村の行事を継承するにはそれしかなかった。

ところが今や極少子化。

もっと子どもが少なくなっている。

外孫に来てもらって継いでいくことも念頭にあると云っていた地域もある。

杉本尚次氏調査(1970年代)研究ノート・桃山学院大学社会学論集『大阪府の民間信仰』によれば小学4年生以下の子どもが対象だった。

子どもが不足するようになって保育園児も参加するようになったとある。

この日の亥の子のタイショウは中学2年生。

下に保育園児はいないが、男女の子どもたちだ。

キツネガエリに必要な祭具がある。

どうやら稲藁で作ったキツネのようだ。

それは子どもたちが作るのではなく天王区の区長が作るようだ。

集落全戸を亥の子と同じように巡って最後は祭具に用いた藁製キツネを川に流すという。

「わーれは なーにをすんぞ びんぼうぎつねを追い出して ふくぎつねをよびこーめ」というような台詞がある。

本日の亥の子にも詞章があったが、キツネガエリもある。

だいたいはそんな感じだと詞章を教えてくださったが、現実は1月7日に行われるキツネガエリを見たいものだ。

正月初めは雪が降るころ。

どっさり降ったこともあって、その場合は中止順延する。

積雪程度もあるが、翌日になる場合もときおりあるらしい。

この日の寒さを体感した天王区。

可能性は十分に考えられる。

また、亥の子にはなかったが、キツネガエリには太鼓打ちが登場する。

来年になるがスケジュールさせていただく旨を伝えて帰路についた。

(H28.11. 6 SB932SH撮影)
(H28.11. 6 EOS40D撮影)
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南加納の村行事から

2016年09月06日 08時10分53秒 | もっと遠くへ(大阪編)
大阪・南河内郡河南町の南加納に住むいとこのねーちゃんから電話があった。

夜の9時半だった。

何事か起きたのか、夜の電話を取るのが怖い。

今回はそうではなかった。

数年前から村の講中に属するようになって当番もしている。

当番をすることで細かい部分が見えてくる。

伝統的な行事が今でも行われているのは、南加納ぐらいなものだと云う。

そういえば昨年の9月6日のことだ。

いとこの旦那さんが亡くなった。

亡くなったときの私は入院していた。

それから一か月後のこの日は四十九日だった。

お寺さんは法要をする。

その次が村の観音講が弔う西国三十三番のご詠歌を唱えというものであった。

ねーちゃんの電話は観音講ではなく、南加納の村から出た人のなかに刀鍛冶氏が居るというのだ。

当時住んでいたのはいとこのねーちゃんちのすぐ下のようだ。

89歳になるおふくろもよく知っているという現刀鍛冶は88歳。

同年代のようだ。

いつ奈良に越したのか判らないが、奈良市内のH町に住んでいるようだ。

刀鍛冶の場はそこではなく柳生の里だという。

定年になってから修業した刀鍛冶を取材してはどうかという電話だった。

今は動ける身ではない。

年齢からいっても先を急がねばならないがメモに残すぐらいしかできない。

ちなみにその刀鍛冶は製作した刀を春日大社に奉納したそうだ。

2人の弟子もいるらしい。

村出身の人だけに名はすぐに判った。

昭和4年生まれのAさんは刀匠の名をもつようだ。

その名も江住有俊(えすみありとし)だ。

インターネットの時代。

それからぐぐって調べてみれば柳生の里は寺行事を取材したこともある南明寺がある奈良市阪原町。

工房は「有俊日本刀鍛錬道場(設立1985・昭和60年」のようだ。

が、それは誤りだった。

電話で伝えたかった件はまだある。

一つはこの日に行われた村のトンドだ。

昔は1月15日の朝にしていたが、現在は集まりやすい成人の日の朝。

16軒ぐらいが寄り合って焼け残ったトンド火でヤキイモ(焼き芋)を作る。

モチの焼いて食べていると云う。

もう一つはお日待っつあんだ。

行事日は成人の日の前日にあたる日曜日の夜。

場所は仏さんもある村の集会所に寄り合う。

お日待っつあんは親しみを込めた行事名。

正式にはお日待さんだ。

当番になったいとこのねーちゃんは朝からお供え作り。

ニンジン、コンブを半紙で巻いて水引を掛けて本尊大日如来像に供える。

ローソクに火を点けて拝む。

お祈りしたら翌朝まで泊まった集会所で過ごす。

いつまでかと云えば、朝が来るまでだ。

つまり、その名のごとくお日さんこと太陽が昇る姿、日の出を待つ行事である。

お日待さんは全国各地で見られるが、ほとんどが数時間。

泊まることもなく初集会を兼ねた村の行事。

夜の会食を済ませて自宅に帰る。

本来、南加納のお日待つは朝までの籠りであったが、現在は24時過ぎに解散する。

火を点けたローソクを手にして帰宅するようだ。

その火は安産の神さん。

願いを込めて持ち帰るようだ。

4月はコンピラサンもある南加納の村行事は奈良県内行事とよく似ている。

(H28. 1.11 記)
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住之江北島高砂神社に祈願参拝

2014年01月09日 07時36分02秒 | もっと遠くへ(大阪編)
検査を経て入院することになったおふくろが住む町は、私の生まれ故郷の大阪市住之江区の北島町。

子供のころの遊び場だった高砂(たかさご)神社がある。

良性でありますように、そして手術が無事に終わりますようにと願って参拝した。

記憶にあったイメージと違う高砂神社。

もっと広かったように思えたが、それは子供の目線の頃。

祭りはたしかだんじりやったように思える。

青年団があった頃は担いでいたと記憶するのである。

青年団もなくなった今では夏祭りに子供御輿が巡行し、茅の輪くぐりをする夏越しの大祓いがあるようだ。

高砂神社の創建は元文二年(1737)。

元禄十六年(1703)に幕府の布令を受けて、享保十三年(1728)より開墾した新田北島新田と名付けられた。

河内の国の石川郡新堂村(現在の大阪府南河内郡富田林市新堂)の産土神である天水分大神を勧請した神社と伝わる。

謡曲に『はや住之江に着にけり』と謡われる「高砂」にちなんで神社名としたそうだ。

新堂村の鎮守社は十二社権現のようだが、天水分大神を祭る神社に美具久留御魂(みぐくるみたま)神社がある。

ところが坐位置は旧喜志村であって新堂村ではない。

天水分大神を祭る神社の上水分社は建水分(たけみくまり)神社で千早赤阪村に鎮座する。

美具久留御魂神社は、建水分神社を上水分社と呼ぶに対して下水分社としている。

高砂神社に勧請した天水分大神がどこであるのか判らなくなってきた。

(H25. 9.10 SB932SH撮影)
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能勢平野の亥の子

2013年01月11日 07時17分17秒 | もっと遠くへ(大阪編)
オリガミを切り刻んだ華吹雪をぱぁーっと撒いた。

「ほうねんじゃ ほうねんじゃ」と声をあげて玄関扉を開ける。

かつては突然に飛び込んだと話す大阪府豊能郡能勢町の平野地区の亥の子行事。

11月初めの亥の日だった能勢平野の亥の子行事。

現在は翌日が休みの日曜か土曜になるようにしている。

今年は翌日が日曜日の前日。

11月3日の祭日であった。

御幣は子供たちが手作りする。

定規をあてて正確に切り取る5段の幣。

何年か前のときは3段だったそうだが一時的なことであろう。

今年の亥の子に参加したのは16人。

幼稚園の子供は参加ができないから出発を見送る。

シシガシラ(獅子頭)はらんま職人のOさんが作った。

見よう見まねで造った最初のシシガシラは丸太を切り抜いて作った。

どうも違うようだと構造を検証したOさん。

そうしてできたのが組立型のシシガシラ。

数年前までは藁で作ったシシガシラだった。



倉庫に残ってあった藁製のシシガシラを拝見した。

3年前まではモチワラで作った2枚仕立てのサンダワラ(桟俵:俵の両端の円型の蓋)であった。

それが獅子の口になる。

ブリキ(或いはアルミ)金属で作ったノコギリ歯を取り付けた。

頭のツノ(角)は麦わら帽子の頭部分を切り取って被せていたのは雄のシシガシラ。

雌のシシガシラは頭にツノはない。

残っていたサンダワラの獅子頭は朽ち果ててボロボロ姿。

目と口はタコイトで括ったトウガラシ。

菊の花を接着剤で一面に貼りつけて飾っていたそうだ。

名残のシシガシラから元の形を想像するしかないサンダワラ。

これに手を入れてパカパカしていたと蔵出しをしてくださった男性が話す。

歯の色が金色でツノがあるほうをオトコシシマイ。

歯は銀色でツノがないほうをオナゴシシマイと呼んでいた。

そんな話をしてくださったらんま職人はかつて勤めていた会社の同僚部下。

平成24年の5月8日に能勢町長谷で行われたオツキヨウカ、八阪神社の御田植え祭り以来だ。

「うちの子供も参加する亥の子があるんや」と云っていた。

再び訪れた能勢町平野の行事取材。

「ツチ」と呼ばれる藁棒で地面を叩くのは奈良県内の亥の子行事と同じであるが獅子舞が登場することに興味をもったのである。

亥の子行事は夕刻から始まる。



それより数時間前。

特別養護老人ホームの「青山荘」に向かう子供たち。

ホームの建設、そして入所。

それ以来慰問をしている平野の亥の子。

シシガシラに喜んで頭を預ける人もいる。



突然の取材に承諾を得て手を消毒する。

さすがに「カメラの消毒は要りません」の言葉にほっとするが入所者のお顔を写すことは厳禁通達。

一年に一度の獅子舞の演戯にホームの職員たちも撮影に余念がない。



シシガシラの子供から竹で作った幣を受け取った職員。

それはホームの玄関に挿しておくと施設長は話す。

平野の亥の子たちは小学1年生から中学2年生までで年長の子を「タイショウ」と呼ぶ。

小学生までの子供たちは幼稚園児。

近所や親せきに教えてもらって練習をするが亥の子となって巡ることはできない。

そんな子供たちを「ゴマメ」と呼ぶ。

「タイショウ」の云った通りに進行する亥の子行事。

「よう聞いとけ」と云われたものだと話すOさん。

「小学6年生のときは子供が5人。上がおらんかったからタイショウを勤めた」と云う。

亥の子行事をしている能勢の地区では一番早い日になるそうだ。

平野の旧村は21軒。

今では新町の子供たちも参加できるようになって35軒を巡る。

かつては男の子だけで巡っていた。

Oさんがタイショウを勤めたころは既に女の子も行事に参加していたと話す。

かつての亥の子は訪れた家がもてなしをしていた。

処によってはゼンザイを振舞う家もあったそうだ。

亥の日にはボタモチを作って食べていたという時代は随分前のようだ。

それをイノコのボタモチと呼んでいた。

シシガシラの舞いには囃し手が二人。

笛吹きと鈴持ちである。

現在は学校の音楽授業でも使っているリコーダーであるが40年以上も前の笛は横笛だった。

鈴は手作り。

手で振ればシャンシャンと音がする。

竹の幣も手作りだった。

鈴もシシガシラも手作り。

もしかとすればだが、横笛も手作りであったかも知れない。

「青山荘」で慰問を終えた子どもたちは一旦家に戻る。



1時間後に再び集まった地区の公民館。

出発の前のひとときは館内で夕飯。

ほかほかのラーメンや持参したオニギリをほうばって腹ごしらえ。

日が暮れたころに出発する。

この年の「タイショウ」は女の子が二人。

Oさんが製作した木製のシシガシラを持つ。

サンダワラから木製に替っても菊の花が一面にある。

金色のツノがあるほうがオトコシシマイだ。

オナゴシシマイとも唐草模様の風呂敷を付けている。

らんま職を活かして造ったシシガシラ。

さすがに出来は見事である。

鈴と御神刀を持つ女の子とリコーダー吹きの男の子は「豊年」の文字を書いた三角帽子を被る。

御神刀の刀はと言えば、これも手作り。

太鼓と摺り鉦が揃えばまさに伊勢の大神楽だ。

平野の各家を巡るコースは決まっている。

中地区から下地区。

そして上地区を1周するには何時間もかかる。

「うちはいつも遅くて21時頃になる」と云う家もある。

すべての家を巡り終えるのは22時ぐらい。

長丁場の亥の子行事である。



最初の家は決まっていると云って出発した子どもたち。

巡る家の扉を開ける。



「ほうねんじゃー ほうねんじゃー」と声を掛けて家人を呼び出す。

屋内から家人が出てきたら始める獅子舞。

鈴を持つ女の子がツチを手にした年少者に声を掛ける。

「座って」である。

位置につけばせーのーの合図。



「いのこのモチやー 祝いましょ おひつにいっぱい祝いましょ いおぅとけ いおぅとけ」と2回囃しながらツチを叩く。

平野の子どもたちは元気がいい。

亥の子のツチを叩いている間は鈴がシャンシャン。

リコーダーピロピロの音色。

それに合わせて舞う獅子の舞い。

右に左に上下しながら舞う獅子は巧みな動きをみせる。

1曲舞えば目当ての祝儀に小さい子供の順から並ぶ。

手にした子は笑顔。

整列して受け取ったあとは年長者となる。

先輩は後輩のあとにつくのだ。

それこそ「タイショウ」たる者なのである。

祝儀のあとは「もひとつ いわって帰りましょ いおぅとけ いおぅとけ」。

先ほどと同様に獅子舞の舞いとともに囃す亥の子たち。

ありがとうと云って立ち去るが、鈴の女の子が差し出す御幣。



それを受け取る家人。

ありがたい御幣は神棚に供えるという。

獅子の舞いとともにツチ叩きを終えた子どもたちは次の家に向かう。



かつての屋敷は玄関土間が広かった。

ほとんどの家がそうであったと話す。

その時代の亥の子たちは中庭まで入り込んでツチ叩きしていた。

今では改築されて玄関土間が狭い家。

あふれた子どもたちは玄関先で叩いている。

出発した時間帯からはほんのわずか。

すぐさま夜の様相に包まれた平野。

先を目指すが真っ暗ななか。

山を越え、森を越えての家巡り。

道なき道を巡っていくが、照らすライトがなければ崖下へ。

随行する親もいないのにしっかりとした足取りで前を進む。

はぐれてしまえば遭難に陥ってしまうような山麓の地区だが、子どもたちにとっては生活道。

行き慣れた道である。

平野の子供は実に逞しい。

稀には家人が不在の家もある。

呼び声を掛けても出てこない。

次の家に行こうと再出発。

真っ暗な森を戻っていく。

今か、今かと待ちかねた住民。

いつもこの時間ぐらいにはやってくるという。

玄関を開けるときには体制作り。

「ほうねんじゃー ほうねんじゃー」の声に門戸が開かれる。



シャンシャン、ピロピロの音色とともに舞う獅子舞。

嬉しそうな顔はどの家も同じだ。

健やかに育つからと云ってシシガシラに頭を噛んでもらう幼児もいる。

駄賃の祝儀を手にする子供も嬉しそう。

17時半からスタートして終わったのは22時半。



集落34軒も回るから相当な金額の駄賃。

それとは別に祝儀を貰うこともあって合算すれば多寡な金額。

「タイショウ」の思いと計らいで分配するという。

かつての子どもたちはお菓子であったが、現代的な子供はゲームを購入するとも。

走行の歩数はおよそ6300歩。

かなりの距離数である。

親が付いていくこともなく亥の子の行事はこうして終えた。

(H24.11. 3 EOS40D撮影)
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