マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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斑鳩町目安・春日神社

2017年11月24日 09時26分15秒 | 斑鳩町へ
斑鳩町目安の春日神社に豆交換があると聞いていた。

その日は「トシコシ」の名で呼ぶ節分行事である。

2年前の平成27年2月3日に訪れた春日神社では当番の宮守さん一人が炒った豆をオヒネリに包んで三方盛りをしていた。

その後にどなたか村の人が参拝して供えた豆を交換している可能性があると思って立ち寄った。

この年は時間帯も考慮して朝10時ころに着くように車を走らせた。

思っていた時間に着いてはみたものの、誰一人としておられない。

しばらく待っては見たものの、どなたも来られないし、2年前に拝見したオヒネリの豆もない。

一日中、置いておくと聞いていたコウジブタもない。

2年前に当番をされたSさんに、この状態を伝えたくてお家を探してみる。

村の人、何人かに聞いたお家の所在が見つかった。

2年前の取材のお礼に記念の写真をさしあげてこの日の現状を伝えた結果は・・・。

前日の前夜。

2月2日の晩10時に宮守の人が豆を準備して供えておく、という。

早い人であれば午前零時になったら参って豆を供える人もおられるから早めに準備をしているというのだ。

一昼夜間、供えた豆はどれぐらいの交換があったのか、神社にずっとおって見張るわけにはいかないから、言葉は悪いが、いわゆる放置状態である。

そして、3日の晩になればコウジブタを回収すると云っていたが、そのコウジブタすらなかったこの日のトシコシ。

この年の当番さんの動きを知りたいものだが・・・。

(H29. 2. 3 記)

目安春日神社のトシコシ

2015年11月11日 07時32分48秒 | 斑鳩町へ
2月3日は節分の日。

県内行事に鬼が出没する節分行事がある。

村では昔ながらの風習に節分の日は豆を氏神さんやお寺の本堂に供える地域がある。

先に参っていた人が供えた豆をかわりにもらって帰る風習だ。

大晦日の数日前。斑鳩町目安に鎮座する春日神社の正月飾りをしていた宮守さんが話していた目安に「トシコシ」の豆御供がある。

これまで大和郡山市新木町・額田部北町や奈良市佐紀町の在り方を拝見してきた。

他にも大和郡山市田中町、奈良市山陵町、天理市藤井町・長滝町・南六条町、山添村切幡などで行われているやに聞く。

立春が一年の始まりの新年とすれば、前日の節分は大晦日にあたる。

平安時代の宮中では旧年の厄や災いを祓う追儺行事が行われていた。

室町時代より発展したとされる豆撒きは邪鬼を追い出す行事であるが県内各地の豆交換の在り方を調べている。

目安の宮守さんは3人が交替して勤めている。

今年の当番の宮守さんは朝8時前にやってきてオヒネリに包んだ豆を本殿、末社などすべてに供えていた。



いずれ参拝者が訪れるであろうと判断されて供えた豆を下げる。

拝殿には何も供えなかった三方は七つ。

七社の数だが、白いカワラケを裏向けに置く。



これをどうするのか、と思っていたら、そのまま蔵に仕舞われた。

これを「ゴゼン(御膳)」と呼んでいる。

節分には何もなかったが、マツリのときには洗い米、ケンサキスルメ、イワシ(アユの時代もあった)を供えるゴゼンである。

供えたオヒネリの豆はすべての扉を閉めて拝殿前にプラスチック製コジュウタに置いておく。



参拝者は我が家の豆を持ってきて、これと交換して持ち帰るというのだ。

かつては三方に盛っていた。

いつしか増えていった御供で零れそうになった。

それから木のコジュウタにした。

宮守さんはずっとこの場に立ち会わない。

盗まれては困るからと考えられてプラツチック製にしたという。

晩の10時ころともなれば引き上げる節分の御供豆。

宮守さんが栽培した大豆である。

豆を干してから棒などで叩いてマメオトシをした。

豆は一般的な大豆よりもやや小ぶり。

フライパンで煎った豆を供えたと云う。



下げた豆を帰宅してからよばれた。

堅さはあるが香ばしくて美味かった大豆の品種は聞きそびれた。

5月5日は目安の五月節句。

アズキアンを入れた七つのカシワモチ御供を供える。

七つは七社の数だが、御供はチマキもある。

モチワラを湿らして括っていたチマキは五本束ね。

家で作っていた。

法隆寺付近の池に出かけた。

採取したカヤは水に浸けて綺麗に洗う。

米粉で溶いて作ったダンゴをカヤで包む。

一つ、一つのチマキをモチワラで括った。

米粉はカラウスで搗いていた。

アズキのコシアンはスリコギで潰していた。

10年前まではそうして作った御供を供えていたチマキ。

下げて5軒の宮守さんに5本づつ配っていたが、今はすることがないという。

10月のマツリに御供がある。

洗い米、ケンサキスルメ、イワシだ。

過去にはアユもあったそうだが、供えている時間が長くて魚は臭くなる、後始末の管理がかなわんという意見が出て取りやめたようだ。

御膳には五品のオカズがある。

コーヤドーフ、乾物シイタケ、ニンジン、サトイモ、インゲンマメなどだ。

マツリは10月25日だった。

作付米が晩生だったから収穫にあわせた行事日だった。

いつしか十日早めた15日になったが、現在は第一日曜日に行っているという。

(H27. 2. 3 EOS40D撮影)

北庄の六日座

2015年10月16日 07時26分03秒 | 斑鳩町へ
斑鳩町北庄に鎮座する春日社は三神を祀る。

小社に八坂神社、猿太彦社、地主社、土坂社、月読命社など七社がある。

正月を迎えたドウガイの呼び名がある注連縄が雨に濡れて美しい。

この日の行事は御湯立て。



雑木に火を点けて沸かしていた。

祭祀に使う湯釜は古い。

それよりもっと古い釜に刻印があると云って蔵にあるものをわざわざ出してくれた。

拝見すれば村北庄春日大明神御湯釜 明和五戊子年(1768)八月廿五日」の刻印があった。



三老とともに確認した湯釜は247年前の釜だ。

村の文化財は大切に保存してくださいと伝えた。

かつて元宮座の呼び名がある北庄の「座」中は十二人衆だった。

座を脱退、或いは身体の都合で座休みされている人もおられて実際は5軒の座中で営まれている。

この日は正月初めの座の行事の「六日座」だが朝から降り出した雨はやまずである。



本来ならば御供モチは本社、小社に供えるがこの日は拝殿に場を替えた。

座中も拝殿中央に並ぶ。

御供モチはお盆に12個ずつ。

十二人衆の数を盛る。



版木で刷った「牛王 春日社 寶印」の書も12枚。

挟んだウルシ棒も12本。



すべてが十二人衆の数であるが、お札は余分に刷って20枚にしておくという。

一老のMさんが書き記された『春日神社と氏子のあゆみ』によれば、明治以前までは当社に観音仏や阿弥陀仏を安置するお堂があったという。

地区の北の山麓に宮山がある。

小字観音堂の呼び名がある地である。

春日社はかつて小字観音堂に建っていたそうだ。

観音堂は春日社の神宮寺。

今では「春日社」名のお札であるがかつては「観音堂」であったかも知れない。



やむなく斎行される龍田神社宮司に雨があたらないように傘をさして八社の祓えをする。

各社にお供えがある。

ダイコン、ニンジン、シイタケ、スルメ、コーヤドーフなどだ。

献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌を経て始まった「御湯立」の神事。

沸かした湯に笹を浸けて湯立てを斎行する。

雨が降ってはいるが、傘は要らないと申し出た宮司。



それに対して座中たちも傘をささずに湯釜の周りに立つ。

湯に浸けた笹で参拝者に清めの湯で祓えば湯気が立ち上がる。

僅か数秒間で行われた「御湯立」神事であった。



御湯立を終えれば「座」に移る。

膳の料理は正月のおせちと同じゴマメ。



クルミも合えていた「年行(ねんにょ)」と呼ばれる当番家の手料理。

ぐるぐる巻きはチョロギだ。

味付けに生姜が入っている。



黒豆、クリキントンにユズを入れたトーフ汁もある。

お神酒をいただいてしばらく時間を過ごす。

「座」を終えたころは本降りの土砂降り。



ウルシ棒に挟んだ春日社の牛王寶印を持ち帰る。

春の苗代に挿す家もあるようだ。

元旦に参った白い砂道は雨にも負けずにそのままの形を残していた。



座中の話しによれば、病に伏している家では牛王寶印のお札を布団の下に敷くらしい。

病に効くということであろう。

そのお札は後日に行われるトンドで燃やすようだ。

穢れを祓うという意味もあるトンド焼きである。

(H27. 1. 6 EOS40D撮影)

北庄春日社の砂撒き

2015年09月26日 09時29分35秒 | 斑鳩町へ
用事を済ませて再び訪れた斑鳩町北庄。

日が暮れる時間帯だった。

一輪車に砂を入れて運んでいた一老は神域燈籠から拝殿まで「砂」を敷き詰めていた。

午後3時から始めてまだ半分ぐらいだという。

「砂」の巾は鳥居柱の間隔。



運んでは金属製のクマデで広げる。

何度も繰り返す作業であるが足・膝に傷みをもつ一老はひと休みすることも多い。

これまで何度も事故に見舞われたことがあると話す。

一つはチェーンソーのノコギリ歯が外れて右腕肩にあたった。

骨が見えるぐらいの怪我だったが、なぜか筋や神経は切れなかった。

二つ目は単車に乗って電柱に正面衝突。

ヘルメットがころころと飛んでいった。

倒れたときの記憶はなかったがなんともなかった。

三つ目は拝殿の屋根から落ちた。

溝にすっぽりと肩ごと身体が埋まった。

そのときも怪我はなかった。

四つ目はモミの木が倒れて当りそうになった。

当たった燈籠は上部が吹っ飛んだ。

こうした事故に遭った一老であったが、81歳になる今でも元気でいられるのは神さんのおかげ、喜んで奉仕していると話す。

場を離れたあとも黙々と一人で作業をしていた「砂」の道は除夜の鐘が鳴るころに、氏子たちが参拝する新年を迎える新しい道だと云っていた。

前年に拝見した「砂」は一老が労力をかけて作っていたことを知って、思わず手を合わせた。

ご主人の笑顔が実に逞しい。

参拝者はめいめいが白い布に包んだ小さな鏡餅を供えるそうだ。

多くの参拝者が供えるので本殿前にずらりと並ぶらしい。



それより一日前の拝殿扉にあった鏡餅。

観音講に属する信仰深い97歳のおばあさんは早めに供えていたと云う鏡餅にウラジロが僅かに見える。

翌日の31日の午後にはウラジロ、ダイダイなどの飾りつけをする。



「砂」の道造りを終えたら山に出かけると話していた。

「砂」の道の砂盛りは門松を立てるときの土台にしていた大和川まで出かけて川砂を運んでいたのは50年前。

当時の十人衆が作業をしていた記憶があるという。

もっと前の時代の砂採り川は龍田川だった。

汚れが目立つようになって大和川に替えたという。

大晦日は忙しい。本社、小社に供える御供の準備もある。



スルメやダイコン、ニンジン、コンブなども揃えなければならない一老である。

(H26.12.30 EOS40D撮影)

北庄春日社のトウガイ

2015年09月25日 07時57分14秒 | 斑鳩町へ
一年前、簾型の注連縄が掛けられていると写真家のNさんに教えてもらった斑鳩町北庄。

その年の正月明けに所在も注連縄も現認していた。

どのような手法で作り、掛けているのか。

それを知りたくて出かけた北庄。

春日社の年中行事を祭行されている元宮座・十人衆。



最長老の一老と二老の二人が本殿前で作っていた注連縄は「トウガイ」と呼んでいた。

足・膝に傷みをもつ一老は椅子に腰かけてモチワラを二老に手渡す。

本数は適当だ。



葉付きの笹竹に一握りのワラ束を竹に沿って折り曲げてぐるっと捻って竹に添える。

次のひと束をそこに重ねて同じようにする。

それを繰り返して先っぽを尻尾のように結う。

支えていた左右の竹は門松の竹である。

不要な竹枝はノコギリを入れて伐りとる。

門松の土台に砂を盛る。

太めのメン松を土台に埋め込む。

芽吹いた梅の木や赤実がついたナンテンも挿して竹に括る。

ハボタンを添えてできあがる。



いつも二人でこうしていると云う「トウガイ」注連縄掛け。

境内を清掃して終えた。

午後には山へ出かけてウラジロを採取してくるそうだ。

ダイダイもご近所でもらってくると話していた。

春日社に安政二年(1855)に建之された狛犬がある。

社の創建はそれより古く平安期まで遡るらしい。

改築の際に発見された棟木に書いてあった年代より室町前期(1450年)と判っているようだ。

一老のMさんが書き記された『春日神社と氏子のあゆみ』によれば、明治以前までは当社に観音仏や阿弥陀仏を安置するお堂があったという。

地区の北の山麓に小字観音堂の呼び名がある地がある。

春日社はかつて小字観音堂に建っていたそうだ。

当地に仙光寺がある。

その寺には藤原初期に造立された十一面観音仏が安置してあるらしい。

廃寺になった際に遷されたのであろう。

春日社は昭和35年に改修された。

そのときに発見された棟木に「宝徳二年(1450)建之」があることから室町前期と確定されたのだ。

昨年の1月6日に訪れた春日社に「六日座 春日講」の文字を書いてあった書が貼られていた。

1月6日に行われる正月六日座のことである。

「春日講」とは一老から十老までの十人衆。

衆中の名称は「春日講」ではなく「元宮座」が正式名称であると一老・二老は話す。

(H26.12.30 EOS40D撮影)

西里東垣内の地蔵尊

2015年04月24日 09時37分23秒 | 斑鳩町へ
写真展を見終えて西里へ向かう。

前月の8月23日に行われた法隆寺西里・東垣内の地蔵盆。

その日は雨を避けて建物下の駐車場で行われた。

数体の石仏を並べた法隆寺西南の角地を確かめたくて出かけた。

それぞれの石仏に飾ったお花は新しい。

信仰深いお方が立てたのであろう。

そこを通りがかった村の人。

農作業をした返り路。



自転車を押して通っていった婦人に頭をさげる。

午後も作業にもでかけるのだろうか。



足を伸ばして集落に向かう。

地蔵盆でお世話になった家を訪ねる。

そこは西岡常一氏の生家だった。

(H26. 9.21 EOS40D撮影)

斑鳩西里東垣内の地蔵盆

2015年03月29日 07時35分54秒 | 斑鳩町へ
斑鳩町西里の地蔵盆は東垣内でも行われていると聞いた。

地蔵さんの場所は法隆寺西南の角地である。

歩いていけばどことなく鉦の音が聞こえてきたが、どなたもおられない。

付近を探してみればそこより南へ40m。

食事処建物下の駐車場であった。

雨がいつ降ってもおかしくないこの日。

雨を避けて屋根を借りたこの場に移したそうだ。

般若心経を三巻唱えて数珠繰りが始まりだした。

昨年に聞いた件を伝えて撮影を承諾していただいた。

東垣内は15戸ぐらい。

集まった人たちは婦人や子供たちだ。

ゴザを敷いた場に丸く座って数珠を繰る。

「なっまいだ なんまいだ」のお念仏を唱える数珠繰りは23回。

子供が数取りをしていた。



大きな数珠を束ねて背中をさする身体堅固。

大人も子供もしてくださる。

お供えはオニギリとパンにお菓子である。

お下がりをもらって解散した時間帯は真っ暗になっていた。

(H26. 8.23 EOS40D撮影)

斑鳩西里中垣内の地蔵盆

2015年03月28日 09時05分26秒 | 斑鳩町へ
昨年、斑鳩町西里の廻り地蔵さんの地蔵会の際に伺った西里の地蔵盆。

前日の23日に垣内単位で地蔵盆が行われていると婦人が話していた。

この日は雨が降りそうな気配だった。

訪れた地は中垣内。

西里の集落は古い家も建っているが、新築・改築された家も多く、旧村のような景観はごく僅かのように思えた。

門屋前にはどことも懐かしい赤色の防火バケツを置いていた。

集落中央には火伏せの神さんである愛宕さんの石塔がある。

総会で決まった二人が正月明けに京都の愛宕神社に参ってお札をもらってくる代参があるようだ。

どの家も防火バケツを置くようにしたのは、集落で火事は起こしてはならないという地域全体を守る防火活動の一貫である。

地蔵尊は訪ねた家の門屋前。

家人の話しによれば、台座ごと盗まれて付近の畑に捨てられていたという。

ところが後日に見つかった地蔵尊は下半身と台座だけだった。

門屋前に安置する石仏の地蔵さんは上半身が見られない。

欠損はしていても地蔵さん。

朝、夕、欠かさず水差しの水は入れ替えていると云うご婦人は家の花を飾っていた。



この日の花はコウヤマキ、ケトなどだ。

中垣内の地蔵盆は3軒で営まれている。

この年は直近に親戚筋が亡くなったことから服忌で参加できずに2軒で行われた。

本来ならオムスビを供えるのであるが、門屋の婦人宅もなんやらあって忙しく、コンビニで買ってきたオムスビを供えることにした。



近くに住んでいる孫家族もやってきて、隣家の奥さんもそろって一巻の般若心経を唱える。

地蔵盆の営みはそれで終わり。

おばあちゃんが元気だったころは通りすがる子供や大人の人に供えたオニギリをあげていたと云う。

門屋の旦那さんが西垣内の住民に地蔵盆をいているかどうか電話をかけて確かめてくださった。

結果といえば、1時間前に終わっていたそうだ。

そこでは軒数も多く数珠繰りをしていたようだと伝えられた。

(H26. 8.23 SB932SH)
(H26. 8.23 EOS40D撮影)

斑鳩町高安天満宮の簾型注連縄

2014年06月10日 08時05分38秒 | 斑鳩町へ
さらに足を伸ばして斑鳩町にある神社を探してみた。

平成23年10月に秋祭りの様相を取材した高安である。

高安は富雄川の東側にある旧村。

マツリの営みはトーヤ六人衆が勤めていた。

門松は撤去されたのかどうか判らないが、天満宮の本殿前にある鳥居に掲げてあった簾型の注連縄。

誰ひとり居られなかったので聞取りはできなかったが、注連縄は二本の竹を用いている。密度、長さは程良いできで美しい姿。

中央にはカタスミ、ダイダイ、ウラジロに紙垂れもある。

(H26. 1. 6 EOS40D撮影)

斑鳩町目安春日神社の簾型注連縄

2014年06月09日 07時22分10秒 | 斑鳩町へ
斑鳩町の北庄にあった簾型の注連縄を拝見して、もしやと思って足を伸ばしたこの日。

これまで大和郡山市を中心に近在の天理市、田原本町に奈良市も調査していた分布地域。

広範囲にあるのではないかと考えたのである。

北庄のマツリに出仕されるのは龍田神社の宮司。

目安においても出仕されると知った。

目安は斑鳩町の南端にある旧村。

大和川堤防付近に鎮座する春日神社に門松が残されていた。

簾型の注連縄は近年に改築された本殿に掲げてあった。

少し短めであった一本の竹に編んだ簾型の注連縄中央にはカタスミ、ダイダイ、干しガキ、ウラジロを括りつけてある。

葉の方向は右側だ。

垣の一つになにやら風習であるかのように思えた印し。

四方を竹で支えるようにして紅白の紐で括りつけていた。

集落を巡ってみたが人影はなかった。

帰ろうと思ったときだ。神社前に住む男性が庭におられた。

何かを知るのではと思って声をかけた。

簾型の注連縄を尋ねるが、始めて見たと云う。

奥さんに聞けば、いつもあるようだと云う。

立派な門松は植木屋を営む人が作ったようだと話す。

これまでは砂盛りをしてそこに松・竹・梅を飾っていたそうだ。

一年に2度は境内の大掃除に仕えると話す通りに境内は奇麗になっている。

門松・注連縄飾りはおそらく晦日の30日の午前中だろうと云う。

神社行事を聞くなら宮守を勤めているT家が良かろうと伝えられたが、後日にするとした。

気になった玉垣の印し。

それは気がつかなかったと案内してくださった。

それは傷んだ玉垣の補修であった。

そう云えば割れている玉垣がちらほらある。

かつては今より大和川の堤防辺りだったそうだ。

大晦日には村各戸が川砂を採って境内に撒いた。

撒いたというよりも積みあげるぐらいの量を運んだそうだ。

少なくなった境内の砂は川の砂を持ちこむ。

いわゆる砂モチの風習であるが、子供の頃の記憶。

今ではそういうことはしなくなったと話す。

その大和川の堤防下でとんどをするそうだ。

今年は1月12日の日曜日。朝8時から行うと公民館の案内に書いてあった。

正月飾り、お札などを持ちこんで、とんどで焼く。

消防団はいつでも消せるようにしていると云う。

ちなみに春日神社境内にあった燈籠の刻印は天保十五年(1844)四月日だった。

狛犬は文政五年(1822)十二月吉日であった。

(H26. 1. 6 EOS40D撮影)