マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

デンガラを供えた家で聞く民俗

2018年07月08日 08時44分48秒 | 川上村へ
ぱくぱく館でデンガラ作りの一部始終を拝見し終えて、この日に取材ができたお礼の報告を伝えたく、I家を訪問する。

この年の2月3日の節分の日にも訪問したI家である。

ご夫婦からデンガラについて教えてもらったのは、前年の平成28年6月10日だった。

そのデンガラをネットでぐぐって検索したら川上村ブログに見つかった。

今でもしているような雰囲気だったので、電話で問い合わせたI家である。

このときの一言がなければ、知ることもなかった郷土料理のデンガラである。

ついさっきに買ったデンガラ4個を挨拶代わりにもってきた手土産である。

そりゃ逆やがな、と云われたが・・・受け取ってくれた。

二人はとても喜んでくれて、仏壇に供えてくる、というから大慌て。

室内に上らせてもらって撮らせてもらった一枚の写真である。

2月に訪れたときのご主人は気持ちが沈んでいたが、この日は元気になっていた。

この日も数々の高原の民俗を伝えてくださる。

芋名月のときである。

「たばらしてやー」と云って近所を巡ってもらいに出かけていた。

お月さんが出てらへんかったら、まだ出てけえへんで、とか言葉を交わしていた。

今でもしているで、という芋名月も取材してみたいが、どうなんだろうか。

平成29年3月20日にNPO法人共存の森ネットワーク関西地区が発刊した『奥吉野高原のへそ』がある。

冊子は32頁。

本日、取材したデンガラ作りを話してくれた代表を務めるIさんの思い出話も載っている。

神社や寺の年中行事も簡単に紹介している冊子は2冊。

A4版とコンパクト版の2冊は村全戸に配布されたようだ。

その冊子に9月15日の芋名月のことが書かれている。

「一升枡にサツマイモ、サトイモを入れた器を庭先に置いて、お月さんに供える。晩になると子どもたちが各戸を巡る。“たばらしてんけー”と云って、芋をもらって帰る。芋の数は、例年で12個。閏年は13個の芋を器に盛る」である。

その様相は平成28年9月15日に取材した十津川村の滝川で行われている十五夜芋たばりと同じような在り方だ。

高原に小さな子どもさんがおられることは風の便りに聞いている。

その家族次第だと思うが、機会があれば取材したいものだ。

その芋名月に関してもIさんはこう語っていた。

「ずいきってコイモの皮を剥いた赤い茎がずいき。

コイモは芋名月に使うもので、高原では“マイモ”と呼んでいる」である。

ただ、拝見した『奥吉野高原のへそ』の記事文がとても気にかかる。

その芋名月の項に書いてあった表現である。

それには「※イモ名月は、高原の“ハロウインと考えられる!”、”トリックオアトリート“の代わりに”たばらしてんけ“と言ってみましょう」と〆ていた。

この文面はとんでもない。

たぶんに執筆者は若い人。

閏年は13個という数でわかる高原の芋名月の歴史。

旧暦閏年は大の月の年は12カ月でなく13カ月だった。

旧暦閏年は江戸時代まで続いていた日本の暦である。

そんな時代に“ハロウイン”という考え方はあり得ない。

昭和の時代の何時だったか記憶になりが、映画、テレビで取り上げるようになった外国文化の“ハロウイン”である。

“ハロウイン”そのものに日本の文化はない。

起源も経緯も由緒もあり方もまったく異なる異文化である。

それをもって芋名月を高原の“ハロウインと考えられる!”と記事にするのはとんでもないことだと思っている。

要職に就くある人が、村の行事を“ハロウイン”のようであるとFBに書かれたので、私は「子どもが集落のあちこち巡ってお菓子などをもらいにいく村行事(例えばイノコとか月見どろぼうとか豆もらいとか)に、外国のハロウィンっやっていう人がとにかく多く見られるようになっているのが気がかりです。ハロウィン行事をあたかも日本で発生したイベントのように伝えるテレビの映像にげんなりすることも度々です」とコメントさせてもらったら、平謝りだった。

問題はテレビや新聞のアナウンスである。

学校教育にまで侵食している“ハロウイン”。

今後の日本の民俗文化がどうなっていくのか、非常に危惧する昨今である。

記事にある”トリックオアトリート“も気になる。

高原の民俗誌にもなるような聞取り報告書のような冊子に”トリックオアトリート“表現は無用であろう。

私は存知したい英語言葉。

調べてみれば単に「台詞」とか「詞章」。

或いは「囃子詞」であった。

わざわざ英語で書く必要もないと思うのだが・・。

さて、高原の話題に戻そう。

芋名月の話題に旦那さんが話してくださったI家の玄関土間である。



土間にある板が気になって、アレはなんですかと聞いたら、それは「芋穴」だという。

土間に三つも四つもあった穴。

戦時中は何も喰うもんがなかった。

米よりも芋の方が主食だった。

大・小問わず芋を焼いて胃袋を満たしていた。

芋は今みたいな細長い芋でなく、丸かったようだ。

芋名月から芋穴。芋話題は道具に移った。

収穫した芋は「イモコジ」で洗っていたという。

水を入れたタライのような「ニダル」に何枚かの羽根板を入れてゴジゴジした。

大の男が寄って「イモコジ、イモコジ」と云いながら風呂に浸かった。

大勢の男たちである。

風呂に入って「イモコジ」していたという。

「イモコジ」道具は簡単なモノで心棒にタライ幅と同じ長さの板を2枚括り付ける。

略図を描いて見てもらったら、実際はタライの半径の長さのようだ。

心棒には通しの棒を据えている。

それを両手で掴んで右、左にゴジゴジするという簡単な道具であった。

ゴジゴジを何度もすることで板に当たった芋の皮が捲れるというような構造は、いわゆる簡易型撹拌機のようなものだ。

芋の子を洗うような感じで風呂に何人もの男が入っていたように想像してみた「イモコジ」民俗であった。

奥さんが嫁入りしたころである。

小屋の軒下に作ったデンガラを吊るしていた。

数は多く、軒下にずらーーとあった。

その様相はとても壮観に見えたという。

その当時のデンガラは米を挽いて作ったシンコの米粉。

湯で練って作った団子である。

水で練って作ったシンコを食べたら口裏にへばりつくから、お湯でしていた。

ただ、この場合でも食べ方があって、シンコは湯掻けば柔らかくなるので、そうして食べたそうだ。

今は、柔らかく艶が出るようにクリームをつけている。

その方が持ちも良いという。

杵で搗いたシンコに塩を入れて搗く。

搗きあがってから色艶を良くするモチクリームを塗って団子にしていた。

甘ったるくもないほどのこし餡を引き立てるシンコモチ(※この場合、餅粉が混ざってないのでシンコ団子が正しい)にしっとり感がある。

ホオの葉の香りと相まったデンガラは高原の郷土の美味しい甘味。

帰宅してからよばれた高原のデンガラはとても美味しかった。

ホオの葉のなんともいえない香り。

甘い香りでもないやすらぎを覚える香りである。

作りたてよりも数時間、ホオの葉に包まれるように寝かしたほうが餡餅に香りが移る。

しっとりした食感が口の中でとろける。

餡そのものもエグくない甘さ。

ほどよい甘さに舌が唸る。

まるで和菓子屋さんが作った上等もんのモチのようなしっとり感が嬉しい。

お相伴にいただいたかーさんも美味しい美味しいと云いながら食べていた。

デンガラと呼ばれるお菓子は他府県にもある。

参考に紹介する飯高のデンガラはネットをぐぐって見つかった。

三重県松坂市飯高町波瀬(はぜ)のデンガラは四角い形。

高原同様の朴葉で作るが、枝付きでもなく、形も異なる。

これも同じく飯高町。

道の駅飯高駅で売っていたデンガラを紹介していた。

もう一つは奈良県東吉野村にあるデンガラ

高原と同様の枝付きの朴葉であるが、写真はなかった。

(H29. 6. 5 EOS40D撮影)
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高原・月遅れの節句のデンガラ

2018年07月07日 09時43分40秒 | 川上村へ
川上村の高原に月遅れの節句のデンガラがあると聞いたのは平成26年の6月10日だった。

ホオ(朴)の葉包みのアンツケダンゴを毎年作って食べていると話していた高原住民のI夫妻である。

旦那さんは昭和5年生まれ。

奥さんは10歳ほど下になる。

お会いする度にさまざまなことを話してくださる夫妻に電話を架けたのは今月の2日。

そのときの返答は、もう家ではしていないということだった。

代わりではないが、現在の在り方を話してくださった。

奥さんがいう昨年のデンガラのこと。

お家の上の方にある施設で作っていたという。

そこは高原の山菜加工施設であるぱくぱく館。

昨年は20個も作っていたというデンガラ。

何個か買って親戚中に贈ったそうだ。

今年はいろんなことがあって買う気もない日々の暮らし。

なんならデンガラ作りをしている人に連絡しておくから、あんたからも電話したら、と云われて紹介してくれる。

高原までは足が遠い。

度々出かけることも難しい遠方の地。

奥さんが伝えてくれた電話を架けてみるが、出る気配はない。

鳴るには鳴っている電話であるが、電話に出られないワケがあるのだろうとIさんに問い合わせたら昼間は出かけているということだった。

実は電話番号は加工施設の番号。

利用しているときは電話に出るが、利用しない日もある。

そのときであればどなたも電話に出ることはない。

結果的にわかったのは5日の午後から作り始めるということであった。

作るデンガラの個数は注文数である。

その量によって1日、或いは2日間で作るというデンガラ作りである。

この日までにネットで調べたデンガラがある。

ブログ発信者は川上村の「かわかみブログ」の“きむら@森と水の源流館“だった。

形がよくわかる映像で紹介していた。

源流館施設は14年前までは度々伺っていた施設である。

K学芸員が在職されていた6年間は民俗に教えを乞うていた。

着いた時間帯は午後2時半。

我が家を出発してからおよそ1時間半もかかる片道距離にある高原の地である。

氏神神社下に手書き絵で紹介する高原の史跡を配置した所在地図。

昭和34年9月26日に高原を襲った伊勢湾台風の通り道、というか、台風の目が移動した状態を描いている。

当時の高原住民数は112世帯/488人。

台風によって大規模な山津波(土石流)が発生した。

流失した軒数は1軒。全壊は22軒。

半壊は4軒に亡くなられた方は46人もおよぶ大災害。

未だに不明な人数は12人になる甚大な被害であった。

掲示板があるここより台地上になっている地に向かう。

ぐるっと廻ったところに昭和58年に廃校となった高原小学校跡地がある。

校庭はだだっ広い。

そこからぱくぱく館を探してみるが見つからない。

その筋道向こうに二人の男性がおられたので館のある場所を尋ねた。

うち一人は記憶のある男性だ。

平成22年9月30日に取材したモチツキの夜。

祭りの宵宮祭に動き回っていた村神主役を務めていた白装束姿のKさんだった。

館の場所はと聞けば、振り向いたそこに建っていた。

高原のデンガラ作りの会場は農林水産省の第三期山村振興農林魚業対策事業・山菜等加工施設の「ぱくぱく館」である。

対策事業は昭和54年から平成2年の期間で定住条件総合的整備を図る、特に山村に移住する若者の定住化目的のようだ。

全国1106市町村で計画策定されて4期、5期、6期を経て平成27年より新法に基づく定住促進・・・。

村々で定住している状況は掴めないが・・ぱくぱく館の設備は十分に整っているように思える。



そこから眺める高原の景観。

下方に火の見やぐらが見えるところに絵画的地図板がある場所だ。

この日のぱくぱく館におられた婦人は4人。

代表を務めるIさんに取材主旨を伝えて承諾を得てから撮影に入る。

旧暦のひと月遅れの節句のころにホオ(朴)の葉があるからデンガラ作りをしているというIさん。

4日はもっと早い。

5日でも早い。

葉に茎のあるホオの葉は昨日に採ってきたそうだ。

また、昨年に採っておいたホオの葉は冷蔵庫に入れて保存していた。

それらもあわせて6月7日の節句の前に作っている。

つまりはホオの葉は前日まで摘んでおくということ。

多めに摘んだら、温めの湯で湯掻いておいて、冷蔵庫で保存できるホオの葉である。

奈良東山間部でも今もなお地域で作って食べている「ホオの葉飯」の場合は若葉であれば美味くできる。

ところが、日にちが経過して固くなった古葉では味が落ちる。

産毛が立つ若葉だからこその香りを賞味するのが「ホオの葉飯」であるが、デンガラの場合は若葉でなく、古葉でも構わないそうだ。

ホオの葉は採らずにいると一葉が出ない。

毎年採ってこそ良い葉ができる。

ホオの葉は軸に5枚の葉を付ける。

枚数は固定でなく6枚、7枚、8枚に3枚ものの葉もある。

えーもんは5枚であるが、なかなか採れないホオの葉である。

ホオの葉に自家製の小豆餡を包んで解けないようにする。

その括りに使う紐はシュロの葉。

葉の真ん中を割いて紐にするようだ。

つい数年前までは笹の葉で包んだチマキも作っていた。

ところが鹿が笹の葉を食い荒らして消えてしまった。

そんなわけで作りたくても作れなくなったという。

旧暦ひと月遅れの4月3日の節句はヒシモチ。

かつてはそれぞれの家で作っていたが、今では私たちがこのぱくぱく館で三色のヒシモチを作っているという。

Iさんがいうには、この「ぱくぱく館」の名前は高原の美女が集まる場所ということだ。

デンガラ作りは午前に餡作り。

午後も再び集まって作っているという。



着いた時間が遅かったものだから、すでに20束ほどを作り終えていた。

1束に五つのデンガラを作っている。

これらは注文を受けて作ったデンガラ。

そのうち注文した人が代金支払いと引き換えに持ち帰るという。

後半も注文のデンガラ作りである。

はじめの作業は杵・木臼で搗く餅搗きである。



杵で搗く婦人は76歳のKさん。

餅のカエシをしているのは84歳のIさん。

向こう側で見ている婦人はIさん。

一番若いUさんの4人が愛情込めてデンガラ作り。

原料は聞き取りする間がなかったのでわからないが、Iさんの話しによれば上新粉のようだ。

搗いた餅に艶があるから、たぶんそうだと思うが、粘りを要する餅粉も入っているようだ。

ただ、餅に味を出すために塩水をちょちょいとつけていた。



搗いた餅は木臼からヘラで掬ってコウジブタへ移す。

粘りがある餅に力強さを感じる。



搗いた餅は計量器に載せて測り、ホオの葉に包む餅を一定量にしておく。



計量した餅は手でヘソを作るような感じで押して平たくする。



餡はこし餡。

こだわりはなくつぶ餡でも構わない。

今では米の粉だけで餅を搗いているが、キビとかトウキビなどいろんな雑穀を混ぜて作っていたようだ。

こし餡は予め丸団子のように形作っていた。

これもまた餅と同様に一定量にしていた餡である。



こし餡は搗きたての餅で包む。

餅は搗いているときにわかったように粘りのある餅。

とても柔らかいのである。

こし餡を包んだ餅は俵型のおにぎりと同じような形にする。



餅はホオの葉にのせて包んでいく。



はじめに両側の葉で畳む。



その次は畳んだ葉が外れないように指で抑えながら、手前側にある葉を折りたたむ。

まるで蓋をするかのように閉じる。



折りたたんだら型崩れしないように、青いシュロの葉で解けないように括って1個作った。

なお、シュロの葉は堅い側の部分をはぎ取った中央の部分である。



ホオの葉はこの例で5枚葉。

枝付きのデンガラをぶら下げるとまるで鈴生りのような姿に見える。

軸から切り離さずにそのままの形で次の餅を包んで括る。

そして次の餅も・・。

合わせて5個のデンガラ餅ができあがる。

葉が3枚ものとか5枚より少ない場合でも作るし、5枚以上の多葉ももったいないから作る。

これは5枚葉であったが、汚い葉を千切って作ってくれた2枚もの。

味具合を試しに食べて、と云われてご相伴にいただく。

思っていた以上に香るホオの葉。

ホオの葉の香りがついた餡餅を口にほうばる。

甘さに香りが嬉しい。

かつてホオノハメシを食べたことはあるが、餡餅とはまた違う味。

どちらが良いとか比べるのも難しい。

要はどちらもホオ葉の香りが立っているのが嬉しい。

まるで和菓子屋さんが作った上等ものの餅のようなしっとり感が嬉しい。

それもそのはず上新粉であった。

つい数年前まではチマキ作りもしていた。



チマキの作り方は聞いていないが、2個並んだ間にチマキを並べたら・・の形になるという。

なるほどの形は男のシンボルである。

「セットで●ンタマ」と話してくれたけど・・。

この年の販売価格は1個が110円。

作っているときに予約注文者がやってくる。

手を止めて販売に移る。



注文者は顔のわかる村の人ばかり。

支払った注文者は笑顔で持ち帰った。

注文一覧を壁に貼っている。

注文者、個数、受け渡し/支払い済表示である。

話しによれば、注文してから翌日には追加の注文をする人が多いようだ。

親戚とか友人らに贈る連絡をした際に追加の注文が発生したような具合だ。

味を覚えた人はまた欲しくなるし、味を広めたくなるのでは、と思った。



注文数の多い順に200個、130個、100個、90個、80個、70個、60個、50個・・・。

少ない人でも15個、10個。

受取日を指定している注文者もいる。

5日、6日、7日・・それぞれお家の事情もある。

要望を受けてデンガラを作る。



明日もまた注文に合わせて作業をするデンガラ作り。

個数は少ないが、特別に私も買わせてもらってその場を離れた。

ちなみにその後の平成30年6月12日。

かわかみブログ」がアップしていたデンガラは川上小学校の給食に提供されたようだ。

余談であるが、粽参拝の呼び名もある端午の節句の行事にホオノキの葉を使って粽を作り、供えていたという地域があった。

東山間の桜井市瀧倉・瀧の蔵神社行事であった。

端午の節句であるが、瀧倉のその行事は6月13日だった。

前日の12日は村の各戸がそれぞれの家単位で粽を作っていた。

ホオノキが多く生えていたからこそ、そのホオノキで粽を作っていたということだ。

ホオノキをカシワと呼んでいた村がある。

奈良市の旧都祁村の南之庄である。

行事取材にたいへんお世話になったMさんは、田畑周辺に生えていたホオノキを採取してカシワメシを作っていた。

名称こそカシワであるが、ホオノキのことである。

ホオノキをカシワの木と呼ぶ地域は他にもあるようだ。

粽は柏の葉で作られるが、柏葉が生息しない土地であったろう。

その代用に粽はホオノキ(朴木)で作った。

そういうことであろう。

さて、瀧倉の粽である。

平成27年6月13日に訪れた瀧倉は本頭屋施主に当たっていた前三老のNさんが数日前に死去したというのだ。

Nさんはこれまでずっとしてきたが、継承する人もなく、前年が最後になったということだ。

貴重な在り方であったが、至極残念なことである。

(H29. 6. 5 EOS40D撮影)
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大滝・土倉家屋敷跡の地蔵さん祭り

2018年02月12日 09時44分55秒 | 川上村へ
奈良東大寺二月堂の修二会が終われば温かくなる。

彼岸も過ぎればさらに温かくなる。

県内の人は何時、どこの地でもそういう人が多い。

奈良に住んで30云年。

いつのまにか私もそういうようになったが、この日は寒い。

テレビの天気予報が伝える“春”は今月いっぱいも待たなければならないという。

そうであれば蕾が膨らんできた桜の花は一斉に咲き始める。

4月になればどこでもかしこもあちこち。

桜の名所もぱっと咲く。

咲いたかと思えばこれもまた一斉に散ってしまう。

何年か前もそういう年があった。

この日に訪れた川上村は冷たい風が吹く。

決して強い風ではなく、嫋やかな風であるが、体感は冷たい、である。

訪れた地は川上村の大滝。

前年の平成28年4月24日にも訪れていた。

気になっていた大滝の行事を拝見したく下見に出かけた日であった。

行事日は3月24日であったが、どことなく曖昧な雰囲気だった。

もう一度訪れて正確な行事日を知りたくて再訪した。

尤もこの日の取材地は大滝よりもさらに南下した高原である。

高原行き道中にある大滝の住民に聞けばわかるだろうと思って辻井商店を訪ねる

お店から出てこられた婦人の話しによれば3月23日に近い日で、だいたいが第三木曜日になるという。

間違いはないだろうと思うが、念のためをと思って、平成28年2月3日に訪問した際にお会いした辻井酒店主に電話を架けた。

少し待って教えてもらった行事は3月24日の木曜。

聞いていた条件通りであるが、来年の場合だったら、何時にされるのかわからなくなった。

行事が始まる時間も聞いてほっとする。

大滝に土倉庄三郎屋敷跡地がある。

その跡地に地蔵まつりがあると伝えるブログが何かの折に見つかった。

ブログ執筆者は森林ジャーナリストの田中敦夫氏である。

詳しいことは書いていないが、どことなく、それとなくという感じだった。

思いは募っていくばかり。

いつしか自分の目で確かめたいと思った。

川上村在住のMさんが、土蔵生誕百年祭があると賀状で伝えてくださった。

平成28年3月26日、たまたまの場でお会いしたのがキッカケになって土倉庄三郎屋敷跡地で行われている地蔵まつりを是非とも取材したくなったのである。

「土倉屋敷の地蔵さん祭り」は何時知ったのか。

私が残したメモによれば平成22年(2010)だった。

3月であるが日程は不明。

推定した場所は川上村大滝土倉庄三郎翁屋敷跡裏庭。

小学校跡地でもあるようだった。

その日の行事に赤飯ニギリの御供をする。

前日にはヨモギで搗いた草モチも作っているとメモを残してしていた。

その件に関しては、私の記憶から消えたが、当時、なんらかのネットを参照したのであろう。

いずれにしても地蔵まつりを知ってから7年も経っていた。

ようやく実見することになって取材熱が高揚する。

これまでの経緯を手繰る前置きが長くなってしまった。

着いた時間は10時半ころ。

私が来るのを待ってくださっていたのは電話を架けるなどお世話になった辻井酒店主。

当地は大滝の茶出垣内。

茶出と書いて「ちゃいれ」と呼ぶ。

おそらく「ちゃいで」が訛った「ちゃいれ」であろう。

かつてはお茶屋があった並びの軒。

現在は7軒の並びだという。

大滝は茶出垣内の他に、北出、中出、下出、上出に越出、小滝からなる。

茶出垣内が所在する地区の前を流れる川は吉野川。

大きく蛇行するところにある集落である。

田中敦夫氏がアップされる“幻の土倉屋敷”記事に掲載された昔の様相を伝える絵図を見ればご理解できるであろう。

絵図にあるように大滝の茶出垣内は蛇行する曲がり角にある集落である。

待っていたら、何人かのご婦人たちが動いていた。

御供の準備が始まったようである。

取材の主旨を伝えさせてもらって写真を撮る。

場所はバス停留待合所。



座る場所に並べていた。

手前や奥にも置いたコウジブタにはどっさり盛った紅白餅に緑色のヨモギ餅がある。

ご婦人が立っている場には皿に盛った漬物や酒の肴のようだ。

せわしなく動くご婦人はこの日の当番のMさん。

昨年に採取しておいたヨモギを冷凍していたという。

紅白の紅色は海老餅だという。

漬物は自家製。

コウコに菜っ葉である。

肴はチクワに明太子を詰めたものやチーズ入りのチクワもあればコンニャクを煮たものとか玉子焼きなどなど。

当番一人で作ったわけではなく隣近所の婦人たちも一緒になって作った。

それぞれが家で作った得意分野の料理をもってきたそうだ。



鏡餅や次から次へと運ばれるお供えは採れたて新鮮野菜もあれば、シイタケ、シメジもある。

神饌ものはスルメ。

お菓子に饅頭まであるお供えが満載でテーブルから毀れそう。

二段重ねの鏡餅にお神酒も供える。

真新しい赤い帽子や涎掛けをしてもらった地蔵さんは喜んでいるように見える。



地蔵さんの周りに花飾り。

風で消えないようにローソクに工夫して火を点ける。

そして、一同はブルーシートに座る。

導師はTさんが務める。

拍子木を打って唱える三巻の般若心経。



手を合わせて念じておられる人たちは茶出垣内7軒の隣近所組のみなさんだ。

前月の2月3日に訪れた大滝。

行事の日程や時間などを知りたくて再訪した。

訪ねたお家は辻井商店だった。

お店に出てこられた婦人が話してくれた昭和33年に襲来した伊勢湾台風である。

その年に嫁入りされた婦人。

台風の影響で大雨になった吉野川は豪雨。

前述したようにこの地は大きく蛇行する曲がり角。

一気に溢れた水の勢いに集落前の道路は水浸し。

あっという間に住まいが流されるほどの甚大な被害があった。

田中敦夫氏がブログにアップされている絵図でも読み取れるように垣根に囲まれた大きな家屋がある。

その家は土倉庄三郎屋敷跡の一部であろう。

30~40年前には屋敷があった。

屋敷の中に地蔵さんを祭るようになった。

そんな話をしてくださる割烹着姿の大滝茶屋のTさんである。

この日は吹き降ろす冷たい風が吹く。

熱心に唱える姿を目でとらえていた通りがかりの集団が居た。

何事をされているのか不思議そうに見ていた。

心経は5分間。

ただ、ひたすらに心経を唱えていた。

この場に居られたのは茶出垣内の人ばかり。

若い男性も茶出垣内の住民。

一人はこの日の行事を教えてくださった辻井酒店主。

もう一人は駐在さんである。

実はと云って話された特技がサックス演奏。

その腕を活かして駐在さんバンドを編成している。

バンド名は「川上駐在挽音(ばんど)」。

大滝駐在所に勤務する巡査部長のMさんもメンバーの一員。

音楽で地域での啓蒙、広報活動に慰問演奏もしているようだ。

地域安全に貢献する駐在さんは村の一員。

行事の場にも参列される。

女性が何人かいる。

うち一人の女性は賀状のやり取りをしていたSさんの奥さんだった。

Sさんは大滝より北方にある大字西河・大名持神社の神主役を勤めたことがある方だ。

平成19年12月2日に行われた神主鍵渡しの儀式を取材した。

そのときの神主であった。

引き受けたときに名を『神事記録簿』に書き記す。

これまで勤めた方々の記帳名簿を見られたSさん。

親父さんにお爺さんの名もあると云った。

親子三代に亘って記帳されていたのが印象的だったことを思い出す。

奥さんがいうには、この場に神社の神主を昭和54年12月1日に「右相受け申候也」と記帳した昭和5年生まれの父親も参列していると伝えられたときは驚いたものだ。

直会の準備をしている間に聞取りさせてもらったかつての土倉庄三郎屋敷。

当時を知る人は高齢者の記憶が頼り。

導師を勤めたTさんや大滝茶屋のTさんに昭和54年に大名持神社の神主役を勤めたSさんたち、高齢者だった。

昔は建屋の前に中庭があった。

そこは昭和33年に襲来した伊勢湾台風で流された。

そこにはひょうたん型の泉水があったが、建物は本屋の裏に移したという。

かつての建屋の配置を教えてくださる。

話される配置を聞き取った私は図面に書き記す。

田中敦夫氏がブログにアップされる絵図を思い浮かべていただきたい。

大きく蛇行する川に沿って道路を敷設している。

屋敷前の道路向こうにも茶屋が建ち並ぶ。

屋敷を見ていただこう。

道路に面する建屋が本屋と呼ばれる。

右にあるのが蔵である。

逆に左側は離れである。

離れは本屋よりも屋根が高い。

その関係で内庭が隠されている。

そこにひょうたん型泉水があったのだろう。

右手前は門屋。

左手前にも門屋があったそうだが、絵図では囲われており門屋らしきものが見られない。

樹木があるところが座敷。

ここら辺りが現在の地蔵さんがある場であろう。

石塔があったようで、「はっちゃんが下ろした」と口々に云う。

「昔に土倉家に出入りしてはった人がおった時代。家で地蔵さんの祭りごとをしていた。当時は8月24日にしていた」と話す。

また、「8月24日はお盆でもあった。お寺行事がそうだった。地蔵さんの祭りは4月24日にしている所もあった。その時期は柿の葉寿司作りが忙しい。そういうことがあって3月に移した」という断片的な経緯を話してくださる。

川上村村長を勤めた土倉家が当地を離れ、屋敷跡だけになったのはいつ頃であったのだろうか。

その件は聞きそびれたが、現在の地蔵まつりを始められたのは辻井商店のおばあさんが発起されたことによる。

時期は3、40年前だったというからずいぶんと幅がある。



そうこうしているうちに直会の準備が調った。

ペーパー皿に盛った手造り料理が席に廻される。

先にも挙げた煮込みコンニャクの椀もあれば、明太子詰めやチーズ入りなどなどチクワ盛り。

香物の皿もある。

その場にあったお櫃に目がとまった。

実はお供えはもう一つあったのだ。



栗入りの赤飯握りの御供はお櫃に盛っていたが、すっかり忘れていたと法要が終わってから直会の場に登場した。



他にエノキを添えた豆腐味噌汁もある直会料理を囲んでの会食。

国道から見れば、不思議な光景に見えることだろう。



国道辺りから様子を覗っていた集団が垣内の人たちに声をかけた。

その集団はNHK奈良放送局の撮影クルーだった。

クルーの話しによれば、毎夕方に放送している「ならナビ」の取材撮影隊であった。

近く放映が始まるシリーズ“やまと偉人伝“。

そのシリ-ズ1回目に選ばれたのは「土倉庄三郎」。

つい先ほどまで取材していた帰り道。

屋敷跡に建つ土倉庄三郎像を撮っていたときに気づいた地蔵まつり。

何をされているのか、と思って立ち止まって見ていたそうだ。

私はその間、ずっと心経を唱える様相を撮っていた。

終ってから高齢者が私に云った。

「あんたの仲間か」に「いやいや・・違います」、だ。

もしや、と思ってクルーに声をかけて説明したら、これはラッキーな場に巡り合わせ。

急遽、のことである。

土倉家が残した地蔵さんの祭りを取材しようということになった。

撮影隊の質問に応じてくださったのは当番のMさん。



皆が食べている間に応じていた。

懐かしい昔の話は割烹着姿のTさんがしていた。

そのときの模様は平成29年4月4日に放送された。

番組はNHK奈良放送局開局80周年の記念番組

村では英雄扱いされている土倉庄三郎編である。

天保十一年(1840)、大滝に生まれ育った。

偉人伝については放映を見ていただいたらいいのだが、いつの間にか放映当初にあったシリーズ1回目“やまと偉人伝 土倉庄三郎”編の動画が消えている。

録画しておいた当日放送の映像は、赤い帽子に赤い涎掛けをした地蔵さんからズームアウト。

「3月下旬、庄三郎の自宅跡に、地区の人たちが集まっていました。年に一度、庄三郎を偲んで、敷地に残る地蔵をお祭りするためです」と紹介する映像に図らずも・・一村民のような恰好で出演してしまった。

場面はすぐさま展開して、大にぎわいの御供撒きに転じた映像でフレームアウトした8分間放送。

地蔵祭りをしていた村人の承諾を得て、急遽差し込み映像にまさかの1.5秒も写り込んでしまったが、「写っていただろう」と連絡してきた人は誰一人いない。

映像に馴染んでいたから気づかれることはなかったようだ。

なお、放送された地蔵まつりについては、田中敦夫氏もブログでアップされていた

大にぎわいの御供撒きを撮影している撮影隊も撮りこんで記録する。



撮影隊が撮っていることもまったく気にせず、御供撒きに熱中する村の人たちの表情は実に明るい。

御供撒きをする側には駐在さんも。



白い餅に赤い餅、緑の餅が飛んでいるし、お菓子や饅頭も宙を飛ぶ。

そのうちに飛び出す黄色い色は蜜柑だ。



一緒に宙を飛んでいるのはサツマイモ。

なんと、どでかい白菜までも宙を飛ぶ。



これには笑えた。

県内各地で行われている御供撒きに白菜は飛ぶことがあるだろうか。

戦利品はダンボール箱に詰めて持ち帰る。



そんな様子にほっこりした大滝の地蔵さん祭り。

これからもずっと続けていくことだろう。

ちなみに当番のMさんは、奈良新聞社雑記帳集いの会員でもある。

随分前のことであるが、「雑記帳」に投稿された記事に興味をもったことがある。

平成22年2月2日号に掲載された吉野町丹治の「お地蔵さん」である。

その記事を拝読した私は投稿記事にあった厄除け地蔵参りを取材した。

それも先月の2月1日である。

雑記帳を拝読してから7年後にようやく実現した行事の記録である。

投稿記事にはもう一つの村行事があった。

丹治の地蔵盆である。

これもまた、平成26年の8月24日に取材した。

吉野町に住む投稿者のおかげは感謝である。

そんな話をMさんに伝えたら、奈良新聞社会議室にて数月に一度は20名ほどが集まる講演会を開催しているという。

機会を設けて講演をお願いするかもしれない、という。

読者に喜んでいただけるならば、講演はさせていただきます、と伝えたが・・・さてさて。

それはともかく、長年、賀状のやり取りをしていただいているSさんに、本日の地蔵祭りに寄せてもらったことを伝えておきたい、と思って勤務する役場を訪ねる。

ほぼ8年ぶりになるSさんは、またもや大名持神社の神主役を勤めることになったという。

2度目の神主勤めはそうそうないらしい。

(H29. 3.23 EOS40D撮影)
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高原・Ⅰ家の節分

2017年11月28日 08時51分53秒 | 川上村へ
この日の山間部は寒い。

前日までに降った残雪は溶けることなく山々だけでなく集落民家の屋根も白色に染めていた。

冬場は寒い。

外には出ずに割り木の薪を燃やして暖を取る。

こたつはつけっぱなしになるという。

2月3日の節分の日はスコンニャクを作っていた。

水を切って油を落として炒めていたと話す川上村高原に住むⅠ家。

スコンニャクは酢と味噌を塗して胡麻を振って作った。

もう一つのご馳走はニンジンにコンニャク、ダイコンを煮たお煮しめ。

もう一品が節分の日に食べる主食の巻き寿司。

朝から作って晩には食べていたと話していたのは昭和12年生まれの奥さんだ。

親父さんは昭和5年生まれ。

平成15年に訪れて十二社氏神神社行事を取材していたときにお会いした人。

当時は総代・大目付を務めていた。

その後の村の行事に何度も訪れて行事のことを教わった。

川上村辺りに来たときは必ずといっていいほどご自宅を伺った。

その度にお茶してくれるのでついつい長居をしてしまう。

節分の日のご馳走もあるが、習俗もしているというからまたもや訪れた。

昨年の夏の大祭に訪れた際に顔をだしたら、畑作業の手を止めて6年ぶりの語らいになった。

そのときに話してくれたのが節分の日のご馳走と習俗である。

神社行事は午後6時半と聞いているし、それが合図であるのか、「鬼は外 鬼は外 鬼の目うと」の台詞を囃しながら豆を撒く。

村の各戸は大声で遠くへ向けて「オニノメウトー、オニノメウトー」と叫ぶ。

それを聞いた隣家もオニノメウトーと叫ぶと話してくれた。

県内の節分行事は数々あれどこのような台詞は初めて聞くものだ。

「オニノメウトー」を漢字で書けば「鬼の目 打とう」である。

鬼の目を打とうというのは豆撒きにおける所作に発せられる台詞であるが、「鬼の目」を打つにはもう一つ道具が要る。

メツキバの異名があるヒイラギの木である。

メツキバを漢字で充てたら「目突き葉」である。

鬼の目を突いて追い出そうとする節分の習俗を拝見したくなって訪れたのであるが、それは昔のことで今はしていないと云った。

えっ、である。



神社行事も廃れたが、各戸の習俗も消えてしまっていたが、メツキバはⅠ家の玄関脇に挿してあった。

中身の腹や背は焼いて食べる鰯。食べずに残すのが鰯の頭は生魚。

生臭い鰯の匂いで鬼を入らせないようにするまじないである。

メツキバも玄関にさして鬼の目を突いて追い出す。

全国各地で見られる節分の習俗である。

Ⅰ家の玄関脇にはメツキバ以外に、村のお寺である岡室御所・高峯山福源寺で授かった大般若の祈祷護符もあれば、県消防協会が頒布する火の用心の護符もある。

大般若の祈祷護符は1月17日に行われた観音初祈祷行事。

大般若経典六百巻の写経会がなされると聞いているが、未だ拝見していない。

生鰯の頭の匂いが強いので逆に家人が困らんようにラップで包んだのか、それともハエが寄ってこないようにしたのか、聞かずじまいだった。

節分の豆は夜に撒く。



それまでは神棚のエビス・ダイコクさんに供えていた。

煎った大豆は一合枡いっぱいに盛った。

そこにはきっちりメツキバも添えていた。

話しによれば、本来は一升枡で供えるようだ。

供えた一升枡の豆。

二人一緒に手を突っ込んだらあかんと云われて、一番少ない一合枡にまずは移し替える。

その枡にある豆を歳の数だけ数えて取り出す。

豆はほうらくで煎った。

かつてはそうしていたが、今は市販品の豆である。

前述した「オニノメウトー」の豆撒きは孫でも来ておればするかもしれんが、今年はなぁという。

昨年末の12月26日に電話を架けたことがある。

架けた理由はⅠ家の正月習俗であるイタダキゼンの取材願いである。

このときも今年はなぁ、であった。

事態はなんとなくわかったが、奥さんが云うには娘婿が亡くなったというのだ。

服忌だから正月の餅も搗けない。

親父さんは心労で寝込んだままだと云っていた。

孫は年末に見舞いに来るし、イタダキゼンは喪が明けた来年にしてや、と伝えられていた。

この日の親父さんは年が明けても元気なく、打ち拉がれていた。

声をかけても目も開けない状態で炬燵に潜っていた。

うとうと居眠りする親父さんはそっとしておきたい。

その間に巻き寿司を作り始めたのは奥さんだ。

撮らしてもらっても良いですか、と声をかけた承諾願いもお許しがでた。

巻き寿司の具材は四種類。

コーヤドーフに三つ葉とニンジンにシイタケ。

黄色は玉子焼き。

三つ葉は湯がいただけだが、コーヤドーフにニンジン、シイタケは味付けしておいた。

アジシオに隠し味の砂糖を少し塗して焼いた玉子焼きも午前中に作っていた。

ニンジン、シイタケはやや太めに切っておく。



酢飯も予め作っておいて寿司桶で冷ましておいたので準備万端。

Ⅰ家を訪れることは先に電話をしておいた。



私が来るのを待って仕掛け始めた巻き寿司作り。

お皿にそれぞれ5本分の具材を並べて作り始める。

こうしておけば足る、足らないことにはならない。

そういえば、寿司飯も5等分にしていたな、である。

簾巻きを拡げた上に寿司海苔を一枚。

分量測っておいた寿司飯を手で拡げる。

具材を置く順番は特にない。



5本分ずつ並べたから、残り具合がわかる。

巻き忘れも、重複することもないのである。



具材を載せたら一気に簾巻きで巻いていく。

5本の巻き寿司はおよそ十数分で終えた。



子どもが小さかったころは何本も作っていた。

親戚に送る本数も作っていたが、今年は5本。

少なくなってしまったという。

今ではご近所3軒だけがしているという手造り巻き寿司。

Ⅰ家は1合の寿司飯で2本の寿司を巻く。

あんたも食べてや、と差し出された作りたての巻き寿司。



海苔の香りに酢飯の丁度いい具合の味加減が奏でる絶妙のハーモニー。

具材の三つ葉はシャキシャキ感が利いて美味しい。

三つ葉がないスーパーで売っている巻き寿司は巻き寿司ではないと思っているくらいに、三つ葉の存在が大きい。

シイタケもニンジンも口の中でわーっと広がる。

旨い、美味いを連発していただくⅠ家の巻き寿司。

味付けは、昔、我が家で作っていたおふくろ以上の味かもしれない。

ご馳走になってしまったⅠ家の習俗は見られなかったが、巻き寿司作りを見せてくださって、この場を借りて厚く御礼申し上げる次第だ。

Ⅰ家を下って夏の大祭を務めたO家を訪ねたが不在だった。

仕方がないから持参した大祭写真は玄関口にある郵便受けに入れておいた。

それから2日後。

電話を架けたら、すまんことしたと云ってくれる。

実は昨年末の12月に10年間も治療をしていた奥さんを亡くして見送ったというのだ。

辛い話しは2件の訃報も続く。

その訃報に合掌する。

Oさんが云うには、神社のマツリは年に4回だけになったという。

1月7日にしていた七草粥の「トウト トウト」もしなくなったし、豆撒きの「オニノメウトー」もないのが寂しいと電話口で話してくれたのも辛かった。

しかも、Oさんは宮さん勤めをする人が少なくなって、再び、この年も神主勤め。

ご苦労さまですとしか言いようがない。

15年ぐらい前の時代はお伊勢参りに村を代表してお札を授かりに行く伊勢代参もあった。

配る村の戸数が100軒であったからお札の数も100本。

戻ってきてほうぼう散らばっている各家に配っていた。

(H29. 2. 3 EOS40D撮影)
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久しぶりの再会

2016年12月24日 08時57分17秒 | 川上村へ
夏季大祭に拝見した神饌所に真っ白な石があった。

「シラス」と呼ばれる神聖な石である。

清流にある真っ白な石を拾ってきて本社に供える。

本社に着くまでに一旦停止する処がある。

神社よりすぐ近くに小川が流れる。

小さな川に跨る橋がある。

欄干はコンクリート製だ。



そこに拾ってきた「シラス」石を一旦は置く。

「シラス」石は108個も集める。

揃ったところで本社周りに敷き詰める。

これを「コオリトリ」と呼んでいる。

充てる漢字は県内事例から考えて垢離取りに違いない。

決まった日でもないときに行われる「コオリトリ」。

例えば、宮参りに詣でるときにしていると云う。

「シラス」石を一旦置く場の向こうにかつて総代・大目付を務めていたⅠさんが住まいする家がある。

6年ぶりに訪れた高原。

顔を出さずに帰ってしまえば失礼にあたる。

そう思って上がって来た。

もしかとしたらと思って畑に向かう。

そこに奥さんと一緒に作業をしていた。

元気な黒光りのお顔を拝見してオォと声があがる。

懐かしい場で寛がしてもらった。

Ⅰさん夫妻とばったり出会ったことがある。

大淀町の土田(つった)をお互いが逆方向に走っていたときだ。

眼前に浮かんだ車の運転手の顔。

同乗していた奥さんの顔も判った。

クラクションを鳴らしたら気づいてくれた。

大慌てでUターンして手渡した本は出版数か月後の奈良本。

著書の『奈良大和路の年中行事』である。

著書に高原の行事を収録している。

お盆行事の「法悦祭(ほーえっさい)」である。

珍しい作法があるマツリもあったが、誌面の都合でこれ一本にさせてもらった。

そんな話も懐かしいし貴重な特別な山野草に思い出話の花が咲いて村の風習などを話してくださる。

6月7日は山の神さん。

それからヨウカ竿立てでひと月遅れのコイノボリをする。

ヨウカ竿はいわゆるオツキヨウカのテントバナと同じ形態であろう。

それは6月8日に立てるというから違いない。

一本の杉の木を山から伐り出す。

葉を少し残す。

残す場所はてっぺんである。

その葉の下にボタンの花やヤマブキを飾ったヨウカ竿は高原で一番遅そうまでしていたと云う。

ヨウカ竿は一日限り。

これを倒してコイ竿を立てた。

コイ竿はコイノボリを揚げる木材の支柱だ。

その日は笹の葉に包んだチマキを作っていた。

チマキの原材料は米粉。米を挽いて粉にしたものを熱湯で練って蒸した。

笹の葉で包んだチマキの形は尖がっていた。

その日はホオの葉でくるんだアンツケダンゴを作っていた。

朝から作業をしていたと述懐されるホオの葉包みのアンツケダンゴは高原では「デンガラ」の名があった。

※参考 高原の「デンガラ」と呼ばれる朴葉包みのダンゴ

4月3日はオヒナサンのヨモギがあった。

ヨモギ摘みをしたヨモギは昨年に採取したものと今年のものとで2升5合。

タンサンを入れて作るようだと聞いたがあやふやだ。

それをヒシモチの形にする。

オヒナサンに供えたら「はよたたまなあかん」とよく言われたことを思い出すと云う。

年末の12月28日は家の餅を搗く。

30日は朝から大掃除。

注連縄(たぶんにコジメ)をかける場所は戸口などあらゆる処に架けるので15ケ所にもなるそうだ。

午後は正月迎えにイタダキ作法をするイタダキの膳を作る。

膳の盛りは洗米にサトイモ、葉付きダイダイミカンや吊るしカキなど。

これらを三方に載せて大盛りにする。

昔は二段重ねの鏡餅に老寿の伊勢海老も立てたそうだ。

イタダキの膳にはお金を入れたのし袋も供える。

なお、イタダキの作法をするのは元日の朝になるが、作りは拝見したいものだ。

そのイタダキの膳はお寺の先祖さんにも供えると話していたI家の在り方は村神主が話していた神社行事の節分まで詳しく話してくれた。

神社行事は午後6時半より節分の豆撒きがある。

撒く場所は小宮さんに鳥居、御供所、拝殿である。

そこで撒くときに行う詞章がある。

「鬼は外 鬼は外 鬼の目うと」と云いながら撒く。

神社ではそうしているがI家も節分の日に家の行事が行われる。

その日は奥さんがスコンニャクを作る。

水を切って油を落として炒める。酢と味噌を塗して胡麻を振って作っていると云う。

また、ニンジンやコンニャク、ダイコンの煮ものもあれば、巻き寿司も作る。

すべてが自家製である。

料理はそれぐらい。

節分の作法につきもののイワシヒイラギがある。

生イワシの頭はメツキバラ(ヒイラギ)の枝木に挿す。

戸口とかトイレなどに立てる。

さばいた生イワシの腹や背は焼いて食べる。

これも料理であるのかと云えば、ちょっと違って残り物のおすそわけだ。

肝心かなめの節分の作法といえば豆撒き。

そのときの台詞(詞章)が「オニノメウトー、オニノメウトー」だ。

「オニノメウトー」は前述した「鬼の目うと」。

つまりは鬼の目を打とう、ということだ。

時間ともなれば村の各戸で節分が行われる。

それぞれの家々で行われる節分の豆撒きに「オニノメウトー、オニノメウトー」と大声が響き渡る。

(H28. 6.10 EOS40D撮影)
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高原十二社氏神神社の夏季大祭と神主カギ渡し

2016年12月22日 08時39分08秒 | 川上村へ
実に6年ぶりに訪れた川上村の高原。

平成22年9月30日に行われたマツリの宵宮に搗くモチツキ。

翌日のマツリも訪れたが、その日はマツリを終えた午後4時過ぎ。

前日のお礼を兼ねて訪れたのを最後に高原行きは永らく中断した。

その理由は台風12号襲来によって起こった巨大な深層崩落による土砂崩れだった。

崩落の規模は高さが300mで幅は100mにもおよぶようだ。

人的な被害はなかった崩落だったので救われるが、高原入りが遠のく一因でもあった。

遠のく因はもう一つある。

遠出がなかなかできなくなった時代を迎えたのだ。

翌年の平成23年1月に奈良県教育委員会文化財課職員から奈良県緊急伝統芸能調査を頼まれたことである。

県や在住する大和郡山市から委嘱された調査は3カ年。

精魂込めて調査した。

すべてが終わって分厚い報告書が発刊されたのは平成26年6月。

調査員の仕事はやっとのことで解放された。

が、翌年の平成27年は大病。

長期間に亘る闘病生活が待っていた。

完全復帰でもない身体になったが、動ける範囲内で調査取材を続けていくことにした。

思いもかけない写真家Kとの出会いが端を発してこれまで伺った取材先に再訪する機会が与えられた。

この日に訪れた高原もその一つである。

昭和44年の高原住民は480人になっていた。

それより10年前の昭和34年9月。

伊勢湾台風によって800人も住んでいた高原は壊滅的な被害に遭遇した。

土地が崩落して土砂で埋もれた神社傍の谷会いに被害にあった村人が静かに眠っているという。

そのような経緯もあった高原。

当時の戸数は73戸。

正月のときに一軒、一軒に御供を配っていたという。

高原は曹洞宗派。

曹洞宗、臨済宗などの中国禅宗五家の一つ。

日本では曹洞宗の他に日本達磨宗、臨済宗、黄檗宗、普化宗がある。

本日、行われる高原の行事は十二社氏神神社の夏季大祭に村神主の引継ぎがある鍵渡しである。

神社には4人の男性がおられた。

うち、一人のお顔は存じている。

かつて行事取材にお世話になった元区長のUさんだが、すっかりお忘れになられたようだ。

他の3人は初めてお会いするが、一人は顔を覚えている。

何度も、何度も繰り返して拝見していたマツリのときに行われる人寄せの御供撒きである。

掛け声をかけながら先頭を走る男性の顔はすっかり目に焼き付いている。

もしかとして平成15年10月1日に撮っていた携帯電話の動画を見てもらう。

なんとなくそうだと云う男性はNさんだった。

ところでこの日に渡したい写真があった。

それは平成22年9月30日に行われたマツリの宵宮に搗くモチツキの様相である。

搗いたモチを棒のような長細いモチにしている写真である。

それを見たOさんが云った。

「その棒モチは「ネコモチ」と呼ぶ。ネコモチを包丁で切断しているのが私だ」と云った。

良き出会いの写真に喜んでもらった。

この日、夏季大祭後に引継ぎされるアニ神主。

オトウト神主のUさんとともに一年間の神社行事に祭祀される二人だった。

そういう話しをして旧来から取材していたことに納得された現アニ神主のOさんは区長も兼務されている。

もう一人は現オトウト神主のOさん。

アニとオトウトと呼ぶのは年齢が単に年上・年下であるということだ。

かつては55歳になれば神主役を務めていたようだ。

許可をいただいて取材に上がらせてもらった参籠所。

この部屋だけは絶対に入ってはならないと釘をさすその場は神饌などを調製する部屋。

神聖な場所は神主しか入ることのできない神饌所である。

「干時文久二歳(1862)壬戌 祝 八月新調」の墨書文字が見られる御供箱。

オカモチ風の御供箱は寄進した三人の名(神主 善兵衛 長右衛門 四□左衛門)がある。

その反対側には12人の名を墨書した十貮人の連名がある。

驚くべきことに12人とも名字があったからそれぞれが特定家であったようだ。

それはともかく、神饌所は炊事場でもある。

大きな炊飯器で炊いたご飯は器に詰め込む。

器の形は尖がりのない三角錐。

径の広い側から詰め込む形になっている。

詰め込んだ器は高坏に盛る。

これを「タキゴク」と呼ぶ。

「タキゴク」を充てる漢字は「炊き御供」に違いないが、枠に詰め込んで型をとる形態から申せば、多くの県内事例でみられる「モッソ」である。

充てる漢字は物相。地域によっては「モッソウ」の呼び名もある「モッソウ飯」である。



「タキゴク」を運ぶための道具がある。

いわゆる御供箱であるが、それには江戸時代末期の「干時文久二歳(1862)八月新調」の墨書があった。

オカモチ風の取っ手があるから運びやすい。

三つ作ればもう人揃えの「タキゴク」も調製する。

これら六つの「タキゴク」は上に低い高坏、下に高い高坏を並べて本殿下の祭壇に供える。

御供は他にもある。

前日に4人の村神主が搗いた餅は大鏡餅に小鏡餅がある。

本殿は大鏡餅であるが小宮さん、八幡さんなどの末社は小鏡餅になる。

これらの餅は神主家で搗いた。

前日の餅搗きは杵搗き。

宵宮の場合と同じの杵搗き。

用意したモチゴメは9kg。

二臼も搗いたと云う。

御供にもう一つ。



県内事例ではあまり見ることのない「カケダイ」がある。

充てる漢字は「掛鯛」。

そのものであるが、同じような形態で行事の際に供える地域は極めて少ない。

私が拝見した事例は2地域。

一つは奈良市川上町の祇園社ならびに川上蛭子神社の蛭子祭

もう一つは田原本町蔵堂の恵比寿社の三夜待ち

いずれもエビスサンを祭る行事である。

高原の氏神神社には恵比寿社の存在がないようだけに特別なものを感じる。

カケダイの姿も含めてご厚意で撮らせていただいた。

なお、カケダイはこの日の夏季大祭だけでなく元日祭祀の元旦祭やマツリの秋季大祭にも供えられるようだ。

かつては11月の霜月大祭にもあったが、である。

こうしてすべての御供の調整が終われば本社、末社など神饌御供を並べて夏季大祭の神事が行われる。

参拝者の姿は見られず四人の村神主が粛々と行われる。



その際にはカケダイを供えた本殿に御簾を下ろされる。

一人の現神主が本殿に上がって神事をする。



神主はアニにオトウトの二人。

神事ごとは交替しているという。

本殿に向かって一同は拝礼する。

始めに拝殿で禊ぎ祓い。

次は本殿に登って大祓詞。

本殿に登るさいには草履を脱いで左足を先に社殿に登り、御簾を上げる。

次は夏季大祭の大祓奏上。

次は「皇社皇宗遥拝所」の場に移って「天地一切清浄祓」を奏上する。



村神主曰く神武天皇以下の第五十五代文徳天皇までの天皇を遥拝する場であると云う遥拝所前に供えた二段重ねの小鏡餅は六つ。

小宮は六社。

太政大臣、中納言、少将、中将・・など六人を祀る。

そこも同じように六つの二段重ねの小鏡餅を供えていた。

「皇社皇宗遥拝所」の次は小宮に移る。

唱える詞は「六根清浄大祓」。

次は二社さんと呼ばれる社殿に移って「一切成就祓」になる。

こうして神事を終えた四人は揃って直会の会食。

頼んでおいたパック詰め料理でお神酒をいただく。

十二人衆のミナライに4人の継後(けいご)が存在する。

4人は年齢順に繰り上がって十人衆を務めていた。

今日の勤めをした四人の神主は平成12年に務めた十二人衆。

年齢が近いこともあって四人の仲が良いという。

それから数時間後。

直会を終えた神主は鍵渡しをする。

とはいっても神事は夏季大祭と同じように大祓などを奏上するだけある。

始まるまでの空いた時間。

神饌所にある今では使っていない器があると棚から下ろしてくださったコジュウタに「上平四□(郎)右衛門寄進」の墨書がある。

何代も前の上平家の名だという。



その箱にはさまざまな形、大きさがある陶器を収めていた。

色合い、くすみの様相から材は明らかに古いように思えるカワラケがある。

裏面を返せば墨書文字があった。

「天正十三年(1585) 自天親王神社甲 五個ノ内四号」であろうか。

「乙酉」の文字でもあれば実証できるのだが・・・。



後年に書かれたような筆跡であるように見受けられるが、否定も肯定もこの段階ではできない。

同じ大きさのカワラケに「天正十三年(1585) 自天親王神社 五個ノ内三号」があることから5枚であったろう。

他にも古い器があるが年代を示すものはなかった。

なお、この箱の蓋に「薬師御□帳入」の墨書があった。

もしか、であるが、「薬師」の文字から思うに、薬師観音本尊を安置する福源寺の什物であるかも知れないが、たぶんにお盆に「ちゃんごかご」行事をされる神社隣接の元安楽寺の薬師堂である可能性が高い。

なぜなら、福源寺に伝わる本尊薬師如来座像は神仏分離令が飛び交う明治時代に元安楽寺薬師堂から移したという座像。

胎内に「藤原宗高大施主 仏師僧禅大法師 応徳二年(1085)十一月日」と書かれた墨書があるそうだ。

その本尊を尊ぶ薬師観音大祭の営みがある。

平成20年の4月8日に取材させてもらった行事である。

歴史を知るかつての什物に感動しておれば「予定していた時刻を過ぎてしまった」という神主。

そろそろ始めたいと云って鍵渡しの神事に入った。

神事に大祓などを奏上するのは現村神主のオトウト。

夏季大祭と同じように神事が行われるが、一般的にみられるサカキは高原に登場しない。

夏季大祭に供えた御供は下げずに行われる。



粛々と始められる鍵渡しの神事であるが、夏季大祭と同様に拝殿に向かって大祓の奏上。

「皇社皇宗遥拝所」の場に移って「天地一切清浄祓」を奏上。

小宮に移って「六根清浄大祓」。

二社さんに「一切成就祓」を奏上して終える。

本殿などの鍵はこうした神事を終えて引き受ける次神主に引き継がれる。

かつては神事があったという。

この日の夜中にしていた。

本殿の前に座って黙々と引き継がれた。

この日まで務めた神主は引退する旨を引き受ける神主に言い渡された。

鍵渡しと呼ぶ神主の引継ぎはこの日の夏季大祭以外にもうひとつある。

それは11月に行われる霜月大祭の日。

アニとオトウト神主揃って引継ぎではなく、例えば1回目は夏季後にアニ神主とすれば2回目の霜月後はオトウト神主となる。

もっとややこしいのは夏季大祭に受けた神主が次に引き渡すのは翌年の霜月大祭の日。

の霜月大祭に受けた神主が次に引き渡すのは翌々年の夏季大祭。

つまり一年間でなくそれ以上の期間を勤める二人神主制なのだ。

滞りなく引継ぎされると『高原氏神正一位十二社権現 神主記録』帳に日付、曜日、天候、氏名、特記事項などを記載されて役目を終えた。

ところでこの日に引退されたアニ神主のOさんは「ゲー」を切る作法があったと云う。

それは「ゲイキリ」とも呼んだ作法。

三日三晩、清めに籠った。

三日間とも籠るに食事がいる。

その料理は籠る神主が作った。

一人で調理して一人でいただく潔斎籠り。

サカキの葉を口に銜えて高原にある地域の神さんすべてを巡ってお参りをする。

衣装は裃と決まっていた「ゲイキリ」の作法であるが、今は見られない。

(H28. 6.10 EOS40D撮影)
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入之波・節句に揚げる軍神幟旗

2016年11月07日 11時27分03秒 | 川上村へ
この日は朝から熱い。

奈良市での最高気温は29.7度。

北部もそうだが県内南部も高かったほぼ夏日。

吉野川では海パン姿の男性たちがいた。

ニュースで伝える公園の水場は小さな子供も同じように水着ではしゃぐ姿を報じていた。

写真家のNさんが教えてくださった幟旗。

その地は懐かしくもある川上村。

豪雨による崖崩れ以来、足が遠のいている。

期待していた稲渕の苗代作りは翌日持越し。

ここまで来ればもう少し。

足を伸ばすことも大事だが道を思いだす絶好の機会を探索にあてた。

当主がおられるかどうかは別として実態があるのかどうか。

これを確かめたくて車を走らせる。

行先は入之波(しおのは)だ。

入之波へ出かけるのは何年ぶりになるのだろうか。

記憶から蘇る秋の景観。

初夏のころに度々でかけた北股川に本沢川が流れる大迫ダム。

その辺りの川は濃い青色。

秋の色が水面に染まっていた。

そこから奥に行けば三之公川。

平成15年11月27日に訪れた入之波は晩秋の彩だった。

それ以前の入之波といえばアマゴを求める釣りの川。

釣果はそれほどでもなく、渓流に居られることに幸せを感じていた。

そのころの年齢は30歳前後、だったと思う。

30歳になったときは現住居の大和郡山市に引っ越していた。

それまでの暮らした家は大阪市の市営住宅。

年に何度かを出かけた奥吉野の渓流。

なぜか川上村にある渓流がとても気にいっていた。

釣り行きはいつも一人だった。

北股川、本沢川、三之公川以外に伯母谷川、中奥川、上多古川、下多古川があった。

そんな随分と昔のことを思いだしながら169号線を南下する。

大滝ダムから寺尾、対岸の白屋、人知、井戸、武木、下多古、上多古、柏木を通過してやっとことで大迫ダム。

入之波はそこから湖岸沿いの道を走らなければならない。

距離にすればたいしたことはないが、なぜか遠くに感じる。

13年間の月日がそうさせるのかも知れない。

短いトンネルを越えれば集落が見える。

右手に折れればたしか民宿があったように思える。

ゆっくり走らせる車。

走るというよりも歩くような速度だ。

そこに現われた大きな幟。

Nさんが教えてくださった幟旗は二人の軍神を描いている。

到着した時間帯は午後5時50分。

日暮れ近い時間帯は西日。

もうすぐ山影に遮られようかという時間帯は逆光。

雰囲気だけでも、と思って撮った。

撮ってから呼び鈴を押す。

奥から女性の声が聞こえる。

出てこられた女性に幟旗を尋ねるも、それはたぶんに無理がある。

外国の人だった。

女性に奥に居られた男性に声をかけた。

男性は当家の主。

孫が生まれたときに探した蔵にあった軍神の幟旗に感動して揚げたという。

軍神は二人。

上に描かれているお顔は陸軍大臣の大山巌元帥(1842・天保十三年~1916・大正5年)。幟旗には「大山君」とある。

その下に描かれているのは海軍大臣の東郷平八郎元帥(1847・弘化四年~1934・昭和9年)。

「東郷君」の文字がある。

当主のSさんが云うには明治42年生まれの祖父が誕生したときに旗屋で作ってもらったらしい。

大山巌元帥が凱旋帰国した年は明治38年。

一方、東郷平八郎元帥は明治38年から42年にかけて海軍軍令部長。

大正2年に元帥となった。

陸軍、海軍の軍神を描いた幟旗はおそらく日清(1895・明治28年終結)日露(1905・明治38年終結)の戦勝記念に製作されられたのであろうか。

お爺さんの誕生祝いに揚げた年は明治42年。

日露・戦勝に湧きかえった4年後のことである。

当主の親父さん、昭和18年生まれの当主が生まれたときに立てた幟の支柱。

ずっと残してあった支柱に揚げたのは軍神幟ではなくコイノボリだった。

当主の息子が誕生した時もコイノボリだったという。

ところがだ。

孫が生まれた平成25年。

探した蔵から幟旗が出てきたのである。

コイノボリを立てていた支柱に揚げた軍神二人の幟。

その後の平成25年、26年、27年。

孫の誕生は立て続け。

その都度、孫の名前を旗に追記した。

今では4人の孫の名が連なる幟旗。

もう一人、追加になるかもしれないと云う。

幟旗には家紋がある。

作ってもらったときに染めた家紋は「まるにけんはなびし(丸に剣花菱)」。

戦に勝つようにという願いを込めた家紋であれば、話しは合うが・・・。

この幟旗は5月1日に立てる。

ずっと立てたままで、旧暦節句の6月5日まで。朝はだいたいが9時に幟を揚げる。

下ろすのは夕方の午後5時ぐらいの毎日であるが、雨が降ったときや強風の場合は下ろすと云う。

ちなみに当主は何代も続く木材の生産者。

植えてから百年経ってやっと利用できる木材作り。

孫の時代になってようやく材の木材が“財”になるということだ。

当主の三男坊が代継ぎをしてくれた。

今は隠居の身でもあるが、頼まれた吉野林材振興協議会の仕事は重い腰を上げて引き受けたと云う。

川上村といえば御朝拝式がある。

筋目衆の在り方は将来も永続できるよう村行事として継承することになった平成19年2月5日の550年祭。

そのときは私も取材させてもらって発刊した著書にも収録させていただいた。

当主はその事業の副会長でもある重鎮だ。

来年の平成29年が560年祭。

あれからもう10年も経っていた。

ちなみに材関係者であることから山ノ神を祭る行事の有無を尋ねた。

それは二つの系統がある。

一つは村全体で山ノ神に参る行事がある。

例年は1月7日。

県内事例で一番多い日である。

それとは別に家の山ノ神をマツリがある。

6月7日と11月7日の固定日。

お神酒や塩なでの神饌を供えるらしい家の行事。

都合がつけば伺いたい行事である。

(H28. 5. 2 EOS40D撮影)
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大滝土倉屋敷跡の地蔵さん祭りを訪ねて

2016年10月28日 10時03分48秒 | 川上村へ
祭りをいつ、どこで、どのように知ったのか、まったく記憶にない。

なにかの折にパソコン画面にでてきた一行に釘づけ。

何らかの行事をしているかもしれないと思った

3月スケジュールメモに記録していたキーワードは「土倉屋敷の地蔵さん祭り」。

メモっていた時代は平成22年だから6年前。

書いてあった行文から推測してメモした行事名は推測である。

場は川上村大滝の土倉庄三郎翁の屋敷跡の裏庭。

小学校跡のように思えた場である。

地蔵さんに供える御供は赤飯のオニギリ。

前日にヨモギ草を混ぜて作るモチ搗きがあるような感じであった。

川上村へ出かけた最後はいつであろうか。

探してみれば平成22年の9月30日だった。

この日の行事は大字高原の宵宮。

十二社氏神神社の宵宮に餅を搗く。

その日以来ばったり途絶えた6年間。

遠ざかってしまったのは他地域の取材が増えたことだ。

増えるだけではなく緊急性を要した取材ばかりであったからだ。

もう一つの理由は平成23年9月4日に発生した台風12号がもたらす大雨の影響で大規模な崩落で道路が塞がったことによる。

役場より北にある山の斜面の崩落で国道169号線が塞がった。

復旧工事はされたものの私の心も塞がったように感じてしまった。

それが突然のごとくに芽吹いた。

きっかけは川上村東川在住のMさんからの賀状である。

そこに書いてあったコメントは「土倉庄三郎100年記念行事」だ。

土倉庄三郎氏の名を知ったのは森林ジャーナリストの田中淳夫氏のブログであった。

その名は川上村大滝にあるそそり立った崖にある磨崖碑にある。

大きな白文字で書かれている(没後4年後の大正十年)ので気づく人も多いだろう。

日本林業の父と呼ばれていた土倉庄三郎は吉野林業の山林王。

詳しいことはここで挙げないが、跡地はどこであるのか、そちらに興味が惹かれる。

記念行事はいつであるのか賀状には書いていなかったが、跡地だけでも知っておくほうが望ましいと思っていた。

前月の3月26日のことである。

「奈良の文化遺産を活かした総合地域活性化事業実行委員会」が主催。

「ねじまき堂」たる名の者が大柳生や吐山、篠原で行われてきた「大和の太鼓踊り」の講演会や体験ワークショップが奈良県立図書情報館で行われると知った。

元京都学園大学准教授青盛透講演もあると案内されていたイベントは是非とも拝見したく訪れた。

その会場におられたのがMさんだった。

Mさんは川上村の森の水の源流館職員のNさんとともに参加していた。

参加の理由は川上村で今でも行われている大古踊りであるが、経年実施ではなく祝い事があれば、である。

電話をするか、Mさん宅を訪ねようと思っていたときに出合った。

土倉庄三郎100年記念行事は来年の平成29年が没後百年目になる記念事業の始まりだった。

一年間の記念事業はこの年の6月19日を皮切りにいろいろあるらしいが発表はその都度だ。

午前に大滝にある土倉家菩提寺の龍泉寺で百回忌法要(主催大滝区)が営まれる。

午後はやまぶきホールで基調講演(主催川上村)がある。

前述した森林ジャーナリストの田中淳夫氏の講演である。

県立図書情報館でお会いしたMさんに知りたかった地蔵尊の行事の件について伺った。

Mさんが云うには毎月の24日にしているようだ、ということだ。

私がこの行事を知ったのは3月24日だったと思っていたが、そうではなかった。

毎月であるなら、百回忌法要が行われるまでに出かけてみようということにしたのだ。

行けばなんらかの手がかりが掴めるであろうと思って車を走らせた。

一応の目安時間は午前10時である。

6年ぶりに走る国道169号線。

崩落した場所はここだと判る状況であるが、道路は復旧していた。

大字の大滝はそこより手前である。

久しぶりの大滝に着くことはできるのか。

不安にかられる空白の6年間。

現地は覚えているが、距離感が掴めない。

大滝はもっと遠くにあるのか・・。

走りながら思いだした大字西河に大名持神社がある。

これまで幾度となく行事を取材した神社である。

ここの行事は西河と大滝から一人ずつ。

一年神主が選ばれる。

一年神主はいわゆる村神主。

一年に一度は交替する。

その引渡し儀式が12月初めの日曜日に行われる。

儀式の基本は神主記録簿の記帳である。

平成19年の12月2日に取材していた。

それより先に取材していたのは十二灯参りだ。

火を点けた大トンドに灯してオヒカリを持ってそれぞれの大字に戻っていく。

オヒカリの火が消えないようにして戻っていくと話していた大滝の人はあの山の方だと云っていた。

その山を示す我が車のGPS。

カーナビゲーションが示す行程を走っていけば山の中。

家は数軒あるが、なんとなく違うように感じた。

集落とは思えない雰囲気をもっていた。

おそるおそる下って国道に戻る。

そして、行きついた大滝は国道筋。

大きなカーブを曲がったところに派出所がある。

そこで聞こうとしたが不在。

隣にある施設は消防団。

郵便局もあるそこはどなたも見かけないがすぐ傍に銅像が立っていた。

銘板によればこの銅像は三代目。

もしかとすればここが土倉家の跡地。

そう思って辺りを見渡せば地蔵尊らしき石仏が立っていた。

たぶんで終わってここを離れるには後ろ髪をひかれる。

実際に地蔵尊を祭る行事があるのか。

あればヨモギの草餅はいつ作っているのか。

祭りをされている人たちはどのような人なのか。

とにかく聞くしかないと思って集落内を歩いてみるが人影は見当たらない。

一周して戻ってきたときのことだ。

消防団員だと思しきお二人が戻ってきたので地蔵尊について伺った。

お一人が反応してくださったその人はここの住民。

辻井酒店の店主だった。

辻井さんが云うには商店筋の6軒が営んでいると云う。

毎年の3月24日の営みを終えたら地蔵尊の前に敷いたゴザに座って直会をしていると話す。

どうやらヨモギの草餅も作っているようだが、詳細は存知していない。

Mさんが云っていたのは毎月。

どうやら間違いであったようだ。

交換した名刺から話題は著書に移った。

辻井さんの父親は二度も本を出版している。

一つは辻井さんが貰ってくださいと云われて受け取った『吉野・川上の古代史』。

サブタイトルに「神武天皇が即位前七年駐在した村」である。

奈良新聞社から平成26年10月に発刊された。

亡くなる直前に発刊された遺言のような本である。

息子さんが云うには「信憑性は判らないから、信用しないように」と釘を刺す。

それはともかくこんな上等な本であるが、ISBN(国際標準図書番号)の日本図書コードは印刷されていない。

これがないことを思えば自費出版。

この本に記した番外土倉家のことが書かれている。

番外はもう一つある。

写真で見る後南朝遺蹟である。

詳しくではないが読みやすい。

お礼にというわけではないが、私の活動の一つを紹介する奈良県立民俗博物館が発行する『私がとらえた大和の民俗―衣―』をさしあげた。

ちなみに百回忌法要をされる龍泉寺はここより上の方である。

辻井さんが指さす方向にあるという。

そこへ行く道は急坂で細い道。

記念事業の日は大勢の人たちが来村するであろうと思われ消防団員は道しるべ。

案内役に就くそうだ。

(H28. 4.24 EOS40D撮影)
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高原十二社氏神神社宵宮餅搗き

2010年10月29日 07時27分42秒 | 川上村へ
一日中小雨が降る日だった。

川上村高原は標高千m以上の山々に囲まれている。

急峻な山道は濃いガスで前方が見えない。

まるで山の神に覆われているように感じた。

それを越えるとさっと消える。

ある一定の標高だけに発生する現象だという。

十二社氏神神社では明日の秋祭りに際して役員たち総出でモチを搗く。

一石二斗のモチ搗きは長時間要する。

雨の夜でもテントを張れば支障はない。

餅米は4基のガス釜で蒸す。

かつてはクドさんと呼ばれる竈で蒸したそうだ。

大きなゴトクに釜を乗せ薪木でくべた。火に勢いがあったという。

蒸した餅米は木臼に入れる。

ほっかほかで湯気がでる。

杵でぺったんぺったん搗いていく。

できあがったモチは棒モチに伸ばす。

これをネコと呼んでいる。

婦人たちに混じったモチ切りの男性は巧みな包丁さばきで切っていく。

これをキリモチと呼ぶ。

それらはザルに入れて草履を履いた神社役員が本殿前に持ってあがる。



何度かキリモチを作られたあとモチ搗きは神主に替わった。

白装束を身につけた神主はモチ搗きの前に祝詞を奏上された。

本殿や小宮さんに供える神聖なモチ搗きは神主の役目。

合いの手の声が聞こえないと搗く息が合わないという。

ぺったんぺったんのモチ搗きの音。

そのうち伊勢音頭が飛び出した。

バチを手にした大目付が太鼓を打つ。

くりだす唄は伊勢音頭。声を揃えて大合唱になった。

「けさのでかけた ヨー(ヨイヨイ) おうぎをひろた おうぎもめでたい ヨー(ソウリャ) ありゃすえひろいよ (ヨーリャーヨートコセー ヨイヤノ アレワイヨーイ コレワイヨーイ ソリャヨーイントセー」の囃子が搗くリズムに心地よい。

掛け合いをして唱うのが伊勢音頭なんだと村人はいう。

その伊勢音頭は伊勢参りの道中歌だった。

向こうの白屋山(しらややま)を越えて井光(いかり)や武木(ぶぎ)の尾根つたいに越えて、伊勢街道を歩いて行った先は三重県だったと話す。

道中で唱っている人に出会ったら掛け合いをしたそうだ。

伊勢音頭は根太のような石を打つ際にも唱われた。

それは石搗き唄とも呼ばれたそうだ。

新築のときに歌う唄だ。

嫁はんに来てもろうたとき、逆に娘を嫁入りさせるとき。

結納のときもそうだ。

祝うときに必ず歌うのが伊勢音頭だと話す。

「伊勢と大和の境の松はホダは大和で根は伊勢」と歌ったそうだ。



そうこうしているうちにモチが搗きあがった。

これを大きなモチと小さなモチに丸めていく。

二人の神主は手際よく作っていく。

大きなモチは鏡餅。本社に供える。

カサモチと呼ばれる小さなモチは小宮さんに供える。

すべてが出来上がったのは夜遅く。

後片付けをして明日の祭りの準備に移った。



今夜の婦人も交えてのモチ搗きだった。

かつては男性だけで行われていたモチ搗き。

当時は十二人衆制度によるものであったゆえすべての段取りは男性だけだった。

十二人衆の上に神主。

その上は大目付。

それはデンガミさん(デンガンとも呼ぶ)と呼ばれる頂上人。

漢字で「先神」と書かれる。

平成6年を最後に解体したその制度。

その名残はモチ切り人に残されているようだ。

(H22. 9.30 EOS40D撮影)
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続、丹生川上神社上社例大祭舞楽

2008年11月26日 08時40分25秒 | 川上村へ
くじ付きの餅。

(H20.10. 5 Kiss Digtal N撮影)
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