マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

アスファルト舗装の砂道

2017年09月30日 10時07分23秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市に砂撒き風習が残されている。

今でも実施されている箇所は5カ所。

いずれも神社である。

これまで何人かの人からは「家の砂撒きをしていた」と聞いていたが、随分と前のこと。

神社付近は継承されてきたが、地区の各家がしていた砂撒きは消えたと思っていた。

神社の神さんから家に招き入れる砂撒きは砂の道。

家から家へと砂の道で繋がる。

集落全戸を見守るかのような砂の道はひっそりとどこかに残っていたら・・・あった。

この日は正月二日。

大晦日に砂撒きをしたとすれば2日目。

砂の量はそれほど多くはないが、撒いたとされる痕跡がある。

直線状に結ばれた砂の道が数本ある。

旧家と思われる建物の前の道はアスファルト舗装。



他の舗装路にはなかった痕跡である。

なんとなく、足で蹴り散らしたかのような痕跡もある。

たぶんにここであろうと思ってやってきた地は大和郡山市のT町。

今も当地にお住まいの市職員は「昔は家の前の道から砂を撒いて砂の道を繋いでいた」というのはここでないかもしれないが、あるにはあったのだ。

なぜにここにあるのか。

お正月の三が日に家を訪ねるのは遠慮したいと思ったからはっきりとしたことはわからないが、あるにはあった。

ようやく見つかった砂の道。

存在を知ったのは平成24年である。

あるブログに載っていた砂の道の在り方にはびっくりしたものだ。

当然ながら在所地は記載することのない個人ブログである。

さまざまな記事がある中に、ここはもしかとすれば大和郡山市内であるように思えた事項であった。

その方とは偶然にも奈良市称名寺の珠光忌の日にお会いした。

住職に著書の『奈良大和路の年中行事』を献本しに訪問したときだった。

見知らぬ女性が訪ねておられた。

要件はご住職にブログ掲載の許可願いである。

きちんとした人だと思った。

その後にその経緯をアップされたブロガーさんの記事を拝読して、ご挨拶をネット経由で自己紹介をさせてもらったことを思い出す。

そのブロガーさんが住まいすると書きたいところだが、書くわけにもいかないので町名を伏せて紹介しておくアスファルト舗装の砂の道。

今年の年末前には訪ねてみたい。

(H29. 1. 2 EOS40D撮影)

観音寺町・葉本家の正月の福粥

2017年09月29日 09時15分32秒 | 大和郡山市へ
正月二日に「福粥(ふくがゆ)」を取材させていただいた葉本家。

「福粥」はお家の行事。

しかも正月早々の取材のお願いに伺ったのは昨年末の12月29日だった。

呼び鈴を押して玄関から出てこられたご主人。

時期も近づいてきたのでお電話をしようと思っていた、という。

そろそろ来られるのでは、と思っていたそうだ。

正月二日に「福粥」をしていると聞いたのは、平成27年の11月28日だった。

その3年前の3月のことである。

「大和な雛まつり」会場の一つにある葉本邸に訪れて取材させてもらった。

葉本家は、それこそ大和な歴史を紡いでこられた旧家である。

蔵にあったお宝もんを整理されて展示されている。

それは葉本家の暮らしの歴史でもある。

再び訪れた平成27年。

そのときにお母さんと娘さんがぽつりと口から洩れた「フクガユ」である。

正月二日に供える「フクガユ」は正月祝いの料理。

朱塗りの椀の盛って供えると話していた。

「フクガユ」の件を初めて知った書誌がある。

帯解郷土研究会が昭和28年4月1日に発行、昭和56年7月10日に再販、平成4年4月に加筆されて再編した『語りつごう、くらしの文化 帯解町郷土誌』である。

奈良市の帯解地区(田中町・山村町・(下)山町・池田町・今市町・窪之庄町・本町・柴屋町)における町内の年中行事から生活行事の文化面から歴史をとらえた文化史にかつての民俗が書かれてあった。

中断されて今では見られない行事記録もある。

興味深く読んだ行事は類事例として大いに活用している。

その『帯解町郷土誌』によれば、「福粥(福沸かし)」を「正月二日は福沸かしの日である。雑煮の他に、朝、小豆粥を食べるが、この準備も元旦と同じように、その家の主人がする習慣がある。然(しか)し最近では少なくなった。雑煮と同じように餅を入れる家もあるが、だいたい茶粥に小豆を入れて炊く。神棚や先祖さんにも供える」と解説してあった。

葉本家の二人の婦人が話していたのは、このことであろう。

記事にあるように、昭和28年ころの帯解界隈では、すでに“最近では少なくなった”状況になっていたのである。

その件を覚えていたから、思わず取材を願った次第である。

その経緯もつらつらとブログに書かせてもらった。

その文面を読んでいたご主人が気にされていたのだ。

訪問したのは平成27年の11月28日。

記事を公開したのは平成28年の8月13日だったから、その年の1月2日は取材に至っていない。

本年はたぶんに来られると察知されたご主人は電話で伝えようとしていたところに私はお願いにあがったというわけだ。

ご承諾をいただいてありがたく正月二日にお年賀を持参して訪問する。

早速、上がらせてもらってご先祖さんを祭る仏壇に供えている「福粥」を拝見する。



その仏壇のことを「ごぜんさん」と呼んでいたのが興味深い。

「ごぜんさん」を充てる漢字は「御前さん」である。

「御前さん」は、つまりご先祖さん。



一代前の大おばあさんは福粥を供えていたという話しの展開から考えて、敬意を表して、仏壇におられるご先祖さんを、「ごぜんさん」と呼んでいるような気がした。

仏壇正面に阿弥陀如来立像。

その段に2段重ねのコモチにダイダイ(ミカンかも)を供えている。

それより最下段に一杯の福粥を供えている。

前夜から小豆にお米を水に浸していた。

午前中から夕刻にかけて、少し柔らかくなったところで炊く。

お米は小豆色に染まる。

小豆の粒も潰れずに炊くのが難しいと、他所で聞いたことがある。

正月に「福」をいただく「福粥」。

朝一番のお祝いに家族揃って「福粥」をいただいた、という。

「福粥」は脚のある御膳に載せた。

盛った椀は紋があるそうだ。

男は朱塗りの椀。

女性は黒塗りの椀に盛る。

家の雑煮は朱塗りの椀に盛る。

雑煮は白味噌仕立て。

昔は主人のお爺さんが竃に火を点けて薪をくべた。

一番の年寄りである家長が朝6時から作っていた雑煮を思い出された。

昭和元年、京都で生まれ育ったお母さんは父親が京都で、母親は奈良。

東京暮らしもあった。

正月につきもののクワイにボウダラはなかったという。

先に話題提供してくれた椀にあった紋は京都の里の紋のようである。

そこで配膳してくださった正月の特別接待膳。

葉本家のお味をいただいてくださいと数々の品を盛ってくれた。



右上の福粥は仏壇の先祖さんに供えたものと同じ。

その左上の小椀は黒豆の煮たもの。

飴の蜜に浸して京都風の砂糖水で煮た黒豆は、その通りの甘い味。

黒豆は柔らかくて、粒がほくほく。

正月らしい落ち着いた味であるが、出汁はシロップの味がした。

その下の大きな椀に盛った4品。

伊達巻に紅白カマボコ、昆布巻きカマボコ、タツクリに自家製の柚餅子(ゆべし)である。

柚子の実を刳りぬいて、皮を干す。

カツを節に胡麻を入れた味噌和え。

唐辛子も入れて作った柚餅子である。

その右下にある盛りはカキナマス。

千切りのニンジンにダイコンを塩もみ。

甘酢で和えてできあがるが、奈良県の特徴はそこに細かく刻んだホシガキを載せて、お味を一層甘く引き立てる。

葉本家のカキナマスはさっぱり感がある。

酢そのものはあまり感じない。

そう思っておれば違っていた。

底には思いっきりあった「酢」感がすごかった。

どれもこれも美味しくいただいた葉本家の正月祝いの品々。

我が家では味わえない料理にこの場を借りて厚く御礼申し上げます。

ちなみに柚餅子(ゆべし)は十津川村の郷土料理。



作る家によっては調味がそれぞれ異なるので、それぞれの味になる。

参考までに葉本家のレシピを拝見させていただいた。

材料は柚子が30個であるが、簡単なレシピメモなので予めご了承いただきたい。

材料は柚子の他に味噌、マグロフレーク、干しシイタケ、かつお節、胡麻、餅米、一味に砂糖である。

味噌、砂糖、マグロフレーク以外はミキサーにかける。

餅米は1/3ずつミキサーにかけて潰す。

一味は練って1/3をミキサーに入れる。

ちょっと辛目になる。

これをミキサーから取り外して団子状に丸める。

蒸し時間は2~2.5時間。

干すは2週間とあるから、間を補えば丸めた柚餅子の中身は刳りぬいた柚子に入れる、である。

30個作ってこれを蒸す。

蒸し終えたら天日に干す。

それで出来上がり。

蓋がどれであるのか、わかる線が見える。

柚餅子の皮はしわ皺。

風格ある焦げ目のついた黒皮である。

よばれた柚餅子はむちゃ美味い。

酒飲みにぴったりのアテになる。

見た目は奈良漬けであるが、口に入れたら美味しいのである。

がっつり食べるわけにはいかない柚餅子はちょっと噛んでは口内に放り込む。

食感は良いし、味も濃い。

ちょっとずつ食べてちょびちょびいただく柚餅子は酒が進むくんであろうが、葉本家でよばれるわけにはいかない。

次の取材先に向かうには車の運転がある。

法令は遵守しなければならない。

実は、かつて柚餅子を食べたことがある。

そのときの味は拒否するほど個性が強かったが、葉本家の柚餅子は美味しくいただける。

どこで買ったのか覚えていない強い個性があった柚餅子は観光物産の土産だったように思える。

何が違うのかと云えば出汁である。

先にレシピを挙げたが、出汁のことはどこにも書いていない。

お話を聞けば味噌が手造り。

お姉さんが作っている自家製の味噌が利いているようだ。

ときおりピリリと感じる柚餅子。

一味がいい具合に利いている。

ところで何故に葉本家に十津川名物の柚餅子が登場するのか。

お聞きすればご主人の生まれ育った地が十津川村。

しかも、である。

大字は風屋。

親戚筋にあたるのが民宿津川と聞いて腰を抜かすほど驚いたものだ。

母親は今でも暮らす津川姓。

近い親戚筋だというから、民宿津川の元猟師のおっちゃんも亡くなったおばちゃんも二人のねーちゃんも皆、知っているというのにはまいった。

毎年の旅というか、会社時代の仲間たちと訪れて泊まる宿が民宿津川である。

今度、泊まる際には伝えておきたい巡り会いエピソードである。

まさかの十津川話しになるとは思わなんだ葉本家の正月二日。

ゆったり寛いでいまいそうなところに「お臼」もいただく。



益々、お尻が離れにくくなってしまう。

(H29. 1. 2 EOS40D撮影)

発信者不明の年賀状

2017年09月28日 09時27分52秒 | メモしとこっ!
宛先がなければ発信者に戻されるが、宛先が正しければ届く。

届くには届いたが、発信者もなければ裏面の挨拶文もない、真っ白な賀状では対処できない。

それにしても、だ。

真っ白な賀状は清浄な意味合いを伝えたいのだろうか。

それともあぶり出し・・・・・・。

そう書き込みをしたFBにコメントが入る。

同じようなことをしでかした人もおれば、同一人物に2枚も送ったとか・・・。

空白のまま排出してしまうことは稀どころかまあまあある我が家のプリンター。

ときおりスリップして空白紙が排出されるから要注意である。

そういうことがあるから裏面は宛先を再確認してただしく印刷したか確かめる。

今年は特に注意した。

その症状は2枚もあった。

白紙であれば再印刷する。

間違ったものを印刷していたらボツにする。

知人がコメントした切手バージョンの違い。

始めて知ったバージョンにバージョン別に揃えてみた。

知人によればキティちゃんのりぼんをあしらったデザインは若い女性が多いらしい。

我が家はどうか。

調べてみれば4枚ある。

3枚が60歳前後で、残る1枚は70歳半。

当て嵌まらない。

その後、知人がコメントを発信してくれた。

投稿した画像を見られて宛名の漢字がどうやら「私では・・・」と。

(H29. 1. 1 SB932SH撮影)

我が家の正月初め

2017年09月27日 09時12分21秒 | だんらん(正月編)
我が家の正月はいつも私が家に帰ってからだ。

行事取材は大晦日から正月にかけて。

集中する行事は家の行事。

お家の行事を特別に撮らせてもらう。

これらは貴重なもの。

世代が替わっても続けて欲しいと願うが人、家それぞれ。

第三者がいうべきものではない。

我が家もそうだ。

新婚時代から何年間もかーさんがお節料理を作っていた。

おばあさんが生きていたころは黒豆も煮込んでいた。

何時間もかけて煮込んでいたことを覚えている。

数の子は我が家の誰もが食べない。

食べていたのは私の下の次男だけだった。

酢ゴボウにコンニャク。

我が家のお節は特別これが多かった。

酢ゴボウは極端な酸っぱさはなかった。

コンニャクは甘く煮たものだった。

コーヤドーフもどっさり作っていた。

好みのお節は四角い器に丸ごとそれしかなかった。

とにかく早く売れる。

目が出るというクワイは苦みがあるが、薄味で炊いていた。

中ぐらいの海老は茹でていたような気がする。

栗きんとん、紅白カマボコ、伊達巻、ごまめ、昆布巻きはスーパーで買っていた。

元日雑煮は白味噌味。

二日目はすまし汁だった。

いつしか徐々に変化しだした。

いつからそうなったのかは記憶がない。

記録もない。

写真も撮っていない。

ないないづくしに注文するお節料理に移った。

二日目のすまし汁もしなくなった。

今年の我が家のお節は昨年に続いて林裕人シェフ監修の超特大宝船。

産経新聞夕刊に掲載された宣伝記事に飛びついた。

8月末日までの申し込みであれば、通常価格のところを早割価格の15300円になる。

前年価格よりも500円安い。

1カ月早く注文したらそうなった。

お得で超特大お節料理は送料も代引き手数料も無料だ。

それから4カ月後の12月30日に届いたメインの超特大お節料理。

冷蔵状態で宅配された。いただくのは二日後の元日だ。

それまでは冷暗所で保管しておく。

蔵でもあればいいのだが、我が家はウサギ小屋。

冷蔵庫もさほど大きくないから入れることはできない。

しかたなく、寒い、冷たい廊下の奥で保存する。

そんな場所であっても保冷材は欠かせない。

この超特大のおせち宝船は厳選特産品専門店の大阪市西区北堀江にある「匠本舗」の商品である。

盛り付けのおせちパックは壱ノ重のみ。

標準6.5寸に対して、容量は約3.2倍で横に広がる。

蓋を開けたらどでーん。

びっくりするほど品数多いお節料理のお品書きは・・・。



40gの烏賊雲丹明太和え、40gの帆立の生姜和え、75gのリンゴ金団レーズンのせ、35gの金箔黒豆、25gの松前漬け、40gのチュダーシュリンプサラダ(※1)、3切れの海老袱紗焼き、2個の海老錦手まり、4個のパートドフリィイフランボワーズ(※2)、4個のパートドフリィイグレープフルーツ(※3)、3切れの若鶏ピカタ(※4)、2切れの紅蒲鉾、2切れの白蒲鉾、6本のたたき牛蒡、3切れのスモークサーモントラウト、25gのサーモンディップ(※5)、2切れのライブオリーブ(※6)、35gの紅白なます、3切れの鰆昆布〆(※7)、10gのいくら醤油漬け、20gの胡麻くるみ、2粒のあんずさわやか煮、3切れのサーモン彩りテリーヌ(※8)、2切れの雲丹チーズ寄せ(※9)、3切れのにしんおかか和え(※10)、45gのたら旨煮、1尾のロブスター、15gのわかさぎ胡麻和え(※11)、3個の一口昆布巻、3切れの紅芋栗きんとん寄せ(※12)、2個の若桃甘露煮(※13)、2個のひねりこんにゃく、3本のよもぎ麩含め煮串、1枚の梅麩、3切れの椎茸高野含め煮、3本の数の子醤油漬け(※14)、2切れのトラウトサーモン香草焼き(※15)、2切れのスタフドオリーブ(※16)、2切れの鰆西京焼き、1個の手まり餅、1個の活鮑ふっくら煮、4尾の海老艶煮、2個の金柑蜜煮、2本の日向夏網笠串(※17)の45品目。前年より2品も増えた。

うち17品(※1~17)が新作である。

その代わりと言っちゃあなんだが、「若鶏柚子胡椒焼き、日向夏ういろう、小鯛俵焼、博多焼チーズ、烏賊雲丹かんざし、鮎笹巾着、京梅松葉串、紅鮭スモークサーモン、オニオンマリネ、田作り、梅の華練りきり、かき時雨煮、焼湯葉巻き、梅花人参含め煮、帆立龞甲(べっこう)焼き、紅鮭西京焼き」の16品が落ちた。

メインのお節料理以外に賑わす料理がある。

一つは正月料理のお雑煮だ。

我が家の雑煮は昔も今も変わりようがない。

甘さが若干ある白味噌仕立てに白い餅が1個。

画像ではわかり難いが僅かに焦げ目をつけて焼いてある。

具材は丸く切った正月ダイコンにニンジンとゴボウである。

ダイコンとニンジンで紅白。

祝いの色だとテレビが伝えていた。

では、ゴボウは何、である。



我が家の雑煮はこれにかつお節をパラパラ振る。

これが美味いんだな。



箸休めに買っておいた千枚漬けで口直し。

今回はもう一品ある。

この日に取材した松尾の正月のイタダキ

その際によばれた雑煮とお節料理。

別品に添えてもらった正月早々に貰った手造りの漬物。



黄色い漬物はたくあん。

私はついついコウコと呼んでしまう。

これが美味いと家族で評判。

箸が止まらないって言っていた。

もちろん林裕人シェフ監修の超特大宝船も、である。



正月はゆっくり食べて買い置きの日本酒が滑るように口の中へ。

酔った加減で初詣に行きそびれた。

(H29. 1. 1 SB932SH撮影)

下笠間・T家のカドマツリ

2017年09月26日 08時53分09秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
Ⅰ家の隣家になるT家も立ち寄ってみる。

T家もオンボサンを立てているが、奥さんはカドマツリと呼んでいた。

Ⅰ家もT家も伊勢講の講中。

平成21年の12月13日に訪れて、6軒で営みをされていた伊勢講を取材させてもらったことがある。

T家はそのときの送りのヤド家だった。

ご主人は正月のお酒を飲み過ぎて寝ているらしい。

久しぶりなので、お声をかけたいが、かけることもできなくて奥さんにお願いするカドマツリのお話し。

Ⅰ家と同じように3本立て。



オン松、メン松に雄のカシの木を立てる。

雄カシの木の本数は家の男の人数でもあるし、おれば2本だということも。

逆に男が居なければ1本にするという。

このカシの木は家によって異なるようだ。

ホウソの木をする家もあれば、葉の無いクヌギの家もある。

また、雌カシの木をする家もあるというから多種多様のようだ。

三本通しの注連縄を張っているところもカシの木の巻き付け方も、太めの注連縄もある。

昔の松は5段であったという。

段は徐々に減っていって3段。

それから今日の2段になったそうだ。

近所の家では1段で先っちょだけの家もあるらしい。

太めの注連縄には蛭子さんのタイを架けたというからカケダイであろうか。

家のエビスサンに供えているのは生のカケダイという。

生のカケダイは初めて聞くが、当初は、ということであろうか。

串にさしているというから特徴的ではあるが、拝見はできなかった。

干したカケダイはと話題は続く。

そのカケダイは魚屋さんで買う。

昔は桶を担いで村に売りに来た行商から買っていたという。

カケダイの昔。

田籾を蒔いたときのミトマツリ(水口祭り)に食べた。

時期が来て、田植えをする日(植え初め)にも食べた。

その都度に食べたというから2尾だった。

そう、カケダイは2尾の一対腹合わせが特徴なのである。

話しをしてくれた食べる時期は農作の節目。

田植え初めにフキダワラをこしらえていたという。

拝見はできなかった床の間に供える正月祝いの鏡餅の膳は餅にクシガキ、トコロイモ、クリ、コウジミカン、お頭付きタツクリに昆布を供える。

この7品目は家のいろんな処に供える。

雑煮もお神酒も供える元日。

昔の正月は二日間の朝、晩にお節を食べる。

ヒル(昼)はヌキみたいなものだったという。

ちなみにコウジミカンは村に行商に来ていた売り子さんから買っていたという。

今では売りにくることはないから、購入するのは難しいようだ。

ちなみに「オンボサン」の呼び名を聞いたことがある。

平成24年の11月23日に訪れた山添村大塩のKさんが話した「オンボサン」である。

「正月の雑煮を炊く火点けはフクマルの火。雑煮はカシライモ(頭芋)。キナコに塗して食べる。カシの木はヒバシにする」と云っていた。

そのカシの木のことを「オンボサン」と呼んでいたことを思い出した。

その証言に感じる「カシの木」である。

オンボサンではないが、オンボダケの表現があったのは曽爾村の伊賀見。

平成3年11月に発刊された中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』の記事である。

伊賀見のトンドはかつて1月15日の朝だった。

伊勢湾台風襲来による被害があった。

川原に生えていた竹が消えて取りやめになったが、そのトンド組の芯に真竹を立てる。

これをオンボダケと呼んでいた。

また、このオンボダケに書初めした書を括り付けて、灰が高く昇ると手が上がるといって喜んでいた。

燃えて最後にアキの方角に倒すオンボダケ。

割って持ち帰り、味噌樽の上にのせて置けば味噌の味が落ちないとあった。

こうした民俗事例から判断するに、「オンボ」とは心棒。

例えば家長も家の心棒。

重要な位置についている諸々に威厳さをもって「オンボ」と称したのかもしれない。

(H29. 1. 1 EOS40D撮影)

下笠間・I家のオンボさん

2017年09月25日 09時34分14秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
正月行事の在り方もさまざま。県内各地を渡り歩いて調査していたが、午前中いっぱいの時間まで。

「うちの家の正月は何時になったら始めるんや」の声が取材地まで届きそうな気配がする。

できる限りのことだが、同行する写真家のKさんに観ていただきたい民俗事例がある。

山添村松尾のイタダキから天理市福住や室生小原のカンマツリもそうであるが、室生に来たなら下笠間と思って足を伸ばす。

下笠間にはこれまで幾度となくお家の民俗を撮らせてもらったお家がある。

その家は正月の膳はあるし、竃にもお供えをする。

エビスダイコクさんにはカケダイも吊るしている。

もう一つは県内事例で他所には見られないオンボさんの門松立てがある。

元日の朝から突然の訪問に驚かれることだろう。

お年賀も準備した表敬訪問である。

実は気になっていたのがご夫婦のお身体だ。

前年の平成28年5月21日に訪問したときの奥さんは腰痛で難儀しておられた。

その後の状態は克服されているかもしれない。

ご主人はお元気な様子だったが気になる年齢である。

今年もオンボさんの門松を立てておられたのでほっと安心した。

I家のオンボさんを拝見したのは平成25年の12月31日

慌ただしい大晦日の日に取材させてもらった。

オンボさんの存在を初めて知ったのはその年の1月11日だった。

オン松、メン松にカシの木の三本を立てる。

注連縄を張って、カシの木には長くなった注連縄をぐるぐる巻き。

ウラジロにユズリハもあれば、幣もある。

なんとなく注連飾りの発展型のようにも思えるが、「オンボ」さんとは一体何ぞえ、である。

オンボさんの祭り方は、今もかわらないので平成25年取材の記事を参考にしていただきたい。

オンボさんを先に拝見して表の玄関から声をかける。

屋内から聞こえてくる奥さんの声。

扉を開けたら玉手箱、ではなく私であるから驚かれたことであろう。

年賀の挨拶をさせていただいて玄関に入る。

ご主人は奥の居間で寛いでいたが、身体を壊されていた。

交通事故に遭われて手術もした。

気力も衰えていながらも炬燵から出ようとされたので、無理しやんといて、と思わず静止した。

なんとも、辛い正月の顔合わせになってしまった。

奥さんの腰痛も治ることはないという。

不自由な身になってもお家の正月飾りをしているご夫婦にただただ頭が下がる思いだ。

奥さんは昔も今もよく話してくださる。



「戌亥の井戸の若水をいただく。薬を飲むときは朝に飲め。若水に注連縄に餅とコウジミカンを供える。家の神さんにも仏さんの水にも井戸の若水。すべての椀に入れる」という。

Ⅰ家に立ち寄る際に必ずといっていいほど竃を拝見させていただく。

今でも現役であるが、そこにある大鍋の蓋にたいがいの場合にお供えをおましている。

節目、節目に竃の神さんに捧げる御供であるが、この日は当然ながらの鏡餅。

三段重ねの鏡餅は暮れの28日に家で搗く。

例年そうしているⅠ家である。



「いつもニコニコ仲睦まじく」の10個の干柿を串挿ししたクシガキにトコロイモ、ゴマメ。オンボさんと同じようにウラジロに輪〆の注連縄で奉っている。

これらを丸盆に載せている。

その隣にも丸盆。

いつの時代も湯飲みを三杯置いている三宝荒神さんのお正月である。

奥さんがいうには「三宝荒神さんはすべてが三つ。餅もトコロイモもコウジミカンもクリも皆三つ」である。

そこへもってもう一つのお供えは元日と十五日のお酒である。

イタダキの正月の膳は床の間。

療養中のご主人がおられる居間は遠慮して、ダイコクサン(大黒)とエビスサン(蛭子)のお供えを拝見する。

これは必ず見ておかないといけないカケダイ。



年末にカケダイを作って販売している宮崎商店さんのカケダイとの比較である。

宮崎さんに聞いて始めて知ったⅠ家のカケダイは商店で買ったものではない、ということだ。

それを再確認したくて撮らせてもらった。

造りはよく似ているが、なんとなく違う雰囲気をもつが、ツノムスビ(角結び)は同じ結びのようだ。

後方に吊っている注連縄はたぶんにご主人が作られたものであろう。

どことなく違うのは藁の形作りである。

カケダイの鯛はたぶんに真鯛。



横にある赤い色の幟旗に三重県の「名張八日市蛭子祭」の白抜き文字。

2月8日は「えべっさん」の祭りで大賑わいする祭りの日に買ってきたもの。

奥さん曰く「カケダイは昨年のもの。名張で売っていたものを買ってきた」というから間違いない。

ちなみにダイコクサン(大黒)とエビスサン(蛭子)のお供えはカケダイだけでなく下にもある。



コウジミカンにクシガキにトコロイモ。

餅は2枚である。

傍にはトーフとズイキの煮物も添えていた。

(H29. 1. 1 EOS40D撮影)

カンマツリの民俗調査転じて正月風情を撮る

2017年09月24日 09時02分29秒 | 天理市へ
奈良県内の事例に正月の「カンマツリ」がある。

ただ、家の正月の在り方だけに目に触れる機会もまずない。

これまで私が取材した事例でもたったの3例。

一つは天理市福住町別所の民家。

二つ目も奈良市長谷町の民家である。

三つ目は宇陀市室生小原

これもまた民家の習俗である。

この3例はとてもよく似ている。

ほとんど形状が同じであるといっても過言でないくらいに似ている。

それは割り合い太目の一束の藁束である。

中央辺りで中折れ。

およそ90度に折る。

元の形状は注連縄である。

それを中折れして作る。

角度が戻らないように縄、或いはppロープなどで括って止めている。

長谷町や福住町別所の造りは中折れ部分を拡げている。

しかもその部分に四角くさいの目状に切ったモチと炊いたご飯を盛ったのは長谷町の事例。

福住町別所は長谷町と違ってコウジミカンにモチ。

クシガキも盛っていた。

長谷町の呼び名は「シメナワサン」であるが、福住町別所は「カンマツリ」。

両地域民家とも玄関を出たところに祭っている。

福住町別所ではこれを「外の神さんが来やはるので供えている」という。

一方、室生小原の民家は玄関でなく庭の門(かつては玄関口)であった。

注連縄を90度以上の角度をつけて折る。

そこにはしめ飾りと同じように葉付きのダイダイを括っていたそれは「注連縄の正月飾り」である。

それにはお供えという観点はない。

私が思うには何者かわからないが、外にも神さんがおられる。

その神さんにもお供えをさせてもらう。

それが「カンマツリ」と推定している。

「カンマツリ」は「寒まつり」でもなく「神まつり」が訛って「カンマツリ」に転化したものと大胆に推定した。

尤も「カンマツリ」の呼び名もなく、こうした注連縄を変形させた藁作りではないが、注連縄に飾るユズリハにご飯を供える習俗があった。

一つは大和郡山市小林町に住むHさんは「そこにおっぱんを供える」と云っていた。

「おっぱん」は「御飯」。

仏事にご飯盛りをする場合も「おっぱん」と呼ぶ地域・人は多い。

大和郡山市内には小林町と同じように、同市番条町の酒造りのお家は正月三が日の毎日に注連縄飾りのユズリハにご飯を盛っていたと聞いたことがある。

これらも外の神さんにお供えをするという慣習であろう。

それはともかく福住町別所、長谷町事例である藁作り(ワラズト)の注連縄に米御供をしている民家があるということだ。

平成6年11月に初芝文庫より発刊された『藁綱論―近江におけるジャノセレモニー―』がある。

著者は橋本鉄男氏だ。

氏が論ずる「藁」「綱」にはさまざまな民俗があると伝えている。

主なフィールドはサブテーマに挙げているように滋賀県近江。

「藁」で作る「ジャ」の民間信仰をとらえている書物に「ヤスノゴキ」関連民俗資料一覧がある。

「ヤスノゴキ」とは何ぞえ、である。

書物はこの日の民俗行事取材に同行してくれた写真家Kさんが手に入れたもの。

論考は私が存知しない滋賀県のあり方を事例に基づいて執筆されている。

一度に拝読するには時間の確保が要る。

そう思って診察の待ち時間にたっぷり時間をかけて読んだことがある。

「ヤスノゴキ」は「ヤスコギ」、「ヤスゴキ」とかの呼び名があるらしい。

そもそも「ヤス」とは・・・。

書物を読んだ限りであるが、「ヤス」は藁作りの細長い形状である。

魚捕りの道具に「モンドリ」というものがある。

形はなんとなくそれに似ているらしい。

豊中市のHPであるが、越前敦賀の民家施設の解説に「ヤスツボ」が登場する。

その解説によれば、「正月の雑煮やご馳走をヤスツボという藁の容器に入れて大黒柱に供える」とある。

続きが書いてあって「柱の信仰も後には床の間や神棚に移った」とある。

状況説明だけでもわかるように、供え方は異なるものの信仰の時期、あり方が同じである。

さて、「ヤスノゴキ」の一覧表である。

氏は日本全国の「ヤスノゴキ」を整理するために「歳神祭の祭具・用具に用いられる」と「・・以外に用いられる」ものとに区分された。

「ヤス」の名称は地域によってさまざまである。

用いられるものを県別に挙げれば、群馬県、千葉県、東京都(大島・三宅・南多摩)、神奈川県、長野県、静岡県、愛知県、富山県、石川県、岐阜県、福井県、滋賀県、奈良県、三重県、愛媛県、鹿児島県である。

以外に用いられるものの県は、青森県、岩手県、秋田県、山形県、福島県、神奈川県、新潟県、長野県、山梨県、静岡県、岐阜県、和歌山県、兵庫県、愛媛県、高知県、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、鹿児島県である。

気になるのは奈良県のデータである。

地域は3カ所。

一つは十津川村であるが、在所は書いていない。

呼び名は「ツトゴキ」で形状は苞状である。

二つ目は天理市の豊田町。

呼び名は不詳だが、形状は苞状である。

三つ目が天理市福住町の井之井。

ここもまた呼び名は不詳だが、形状は苞状である。

これらを供えていた場所である。

十津川村は門松のモチクイとある。

豊田町も井之井も門松である。

供え物は十津川村がトビ(ご飯・雑煮・粥)で豊田町も井之井も雑煮である。

また、豊田町の事例備考では門松は庭に一本を立てるとある。

これら3件の出展文献は十津川村が『民間伝承・十二の二・十二』。

豊田町も井之は『日本民俗・奈良』とあった。

つまり、氏は実物を拝見しているわけでなく、書物より探し出したということだ。

出展本の調査日は不明であるが、井之井(正しくは井之市)は私が見聞きした「カンマツリ」をしていた福住町別所にとても近い。

距離にして3km程度である。

前置きが長くなってしまった。

さて、平成23年1月1日にされていたカンマツリの様相を撮らせてもらったN家である。

久しぶりに訪れる別所は申の日に行われる「申祭り」行事がある。

今では12月23日に固定されているが、以前は申の日であった。

初めて取材した日は平成21年12月23日だった。

翌年の平成22年12月23日も取材させていただいた。

この日のことである。

「デンボ」の呼び名がある注連縄を結っていた男性が話してくれたのが元日に家の玄関口に供える「カンマツリ」であった。

あれから7年も経っている。

今でもされているのか、どうか不安であった。

元日早々に訪れたが、「カンマツリ」の存在はなかった。

時間が早かったのか、それとも、もうすることはしなくなったのか、元日の朝だけに呼び鈴を押す気持ちは萎えて周辺の正月風景を拝見することにした。

坂道つたいに集落を巡ってみる。

玄関の注連縄は当然ながら存在を示していた。

市販の注連縄ではなく、しっかり作った手造りの注連縄にウラジロ、ユズリハにミカンがある。

注連縄は弓なりになるように両端を結った縄で括っていた。

隣家の注連縄も手造り。

同じようにウラジロ、ユズリハにミカンもあるが、ミカンの位置だけは違っていた。

全戸を見たわけでもないが、県内では減少の一方にある手造りの注連縄が嬉しい。



注連縄は玄関だけでなく農小屋にも飾っているが、ミカンはない。

もう一つの違いは七、五、三の房を垂らした簡便な造りである。

玄関は太くて立派な注連縄。

房もフサフサというか何本も垂らす簾型のようにも見える注連縄に比して簡便である。



農業に忙しく活躍する軽トラを納める駐車小屋にも同じ形式の注連縄がある。

思わず見惚れる情景にシャッターを押してしまう。



このお家にもあった七、五、三房の注連縄。

その小屋には編んだ藁紐にホシガキを吊るしていた。

同竿には干し藁も見られる。

しかも、だ。

お家のカドニワにはススキもあったから驚いてしまった。

ご挨拶はできなかったから、この場を借りて撮らせてもらったことを報告させていただく。

時間帯は朝の9時。

そろそろ来るかなと思っていたところにやってきた郵便屋さん。



元日に伝える年賀状配達姿に、これもまた身体が反応してシャッターを押していた。

泥かけ地蔵を解説した真新しい立札がある。

「明徳元年(1390)南北朝時代 向かって、右が来迎印の阿弥陀如来、左に錫杖と宝珠をもつ地蔵菩薩を刻む双石仏である。病気になったとき、その病箇所にあたる、石仏の躰の部分に泥を塗り、病平癒の祈願をする。治るとその泥を洗い落としお礼参りをする。このことから泥かけ地蔵と呼ばれる。また安産祈願で、男の子が欲しいときは、右側、女の子が欲しいときは左側の石仏にお願いをする」と書いてあった。



親しみを込めて泥かけ地蔵と呼ばれている双石仏の高さはおよそ1.5mの大型。

下部に笠石をもつ形態どころか、南北朝時代の威容が残存しているケースにおいても稀で珍しい。

現代と違って医者も薬の調達もままならぬ時代に石の仏さんに願をかけるしかなかった。

別所の泥かけ地蔵の事例もあるように、何かに縋りつきたい願掛け。

眼病に効くなら、足に効くならと願いを込めて祈った。

その始まりがいつ、誰の手によってそうなったのか、どこにも真相を語るものはない。

胸を患えば胸元に、足の怪我なら傷む部位に泥を塗りつけた。

県平たん部に油掛け地蔵なるものがある。

大阪であれば水かけ不動尊もある。

いずれも願掛けに重宝されてきたのだろう。

ここ別所の泥かけ地蔵は願が叶えば泥を拭い去る。

奇麗に洗い落としてお礼参りをする習わしがあったが、川西町の油掛け地蔵はそうすることもなかった。

水をかけてばかりの不動尊に苔が生える。

洗うことはなかったのである。

こうした在り方は地区それぞれさまざまな区々である。

正攻法の位置から泥かけ地蔵さんを撮らせてもらうが、なんとなく平凡に見えてしまう。

尤も、いろんな供え物があるから正月供えは見えない。

そうであれば大胆な角度をつけて御供を撮る。



ウラジロを敷いて二つ折り半紙を置く。

左右どちらも同じだと思うが、二段重ねのコモチに2個の串柿とミカンを重ねた。

その両横には芽付きのシキビもある。

丁寧な正月の祭り方に思わず手を合わせて「あけましておめでとうございます」と心の中で念じた。

後日に拝読した季刊誌がある。

奈良の情報雑誌「naranto(奈良人)2013春夏号」の記事である。

「里人の願いを一身に 泥だらけで仲良く並ぶ隠れ仏」のキャプションに誌面写真を飾っていたのが、この「泥かけ地蔵」だった。

そこより少し下った処にも石仏がある。

場は福住町の大字浄土の地。

氷室神社があるすぐ傍である。

どっしり構えた十王を刻んだ笠石仏である。

十王石仏は江戸時代中期の作らしいが、よくよく見れば十一体もある。

と、いうことは一番上の上段中央が阿弥陀仏で他十体が手に笏をもつ道服姿の十王であるということだ。

十王石仏には正月のお供えはなかったが、左横の祠の前に正月飾りがあった。



松に芽のついたシキビにウラジロを注連縄で括った飾り物。

別所の泥かけ地蔵のお供えとは異なるが信仰の篤い人が飾っていたのであろう。

ちなみにネット情報であるが、正月飾りをしてもらっていた石仏は二体。

右が文化十年(1817)建之の僧座像。

右手に五鈷杵をもつ。

左の一体は安政六年(1859)建之の如意輪観音座像である。

ここも手を合わせて現地を離れる。

次の行先は宇陀市室生の小原であるが、結論から云って正月に飾る門扉の半折り注連縄はなかった。

記憶にある家はどこへいったのか、すっかり頭の中から消えていた。

門扉のある家が見つからないのだ。

思い出せずにあっちへウロウロ。

坂道を上り下りしてこっちもウロウロ。

記憶にある門扉の家が見つからない。

たまたま玄関ドアを開けた人がいた。

その人に尋ねたお家のご主人。

身体を壊されて現在は病気療養中の身にあるという。

たしか年齢的にも私より若干上だと思うご主人に初めてお会いしたときは元気だった。

復帰はどうなるのかわからない療養の身にあるらしいから、もう見ることはないだろう。

尋ねた男性が云うには村でそういう注連縄をしているのはご主人だけだと話される。

辛いことだが致し方なく現地を離れた。

(H29. 1. 1 EOS40D撮影)

松尾・H家の正月のイタダキ

2017年09月23日 08時42分44秒 | 山添村へ
通院しているT病院でばったり出会った平成28年6月14日

お会いした人は山添村松尾に住むHさん。

奥さんとともに3カ月おきに検査する診察だった。

医師は違うが循環器内科医師の診察を仰ぐ。

奥さんも足の障害をもっているが、いたって元気に暮らしている。

平成23年のマツリに当家を務めたHさん。

その年よりマツリの度に伺うようになった。

昨年の平成28年の8月14日はお盆の習俗である「サシサバのイタダキサン」も収録させていただいた。

尤も「サシサバのイタダキサン」は平成24年の8月14日にも撮らせてもらった。

前年に撮らせていただいた「サシサバのイタダキサン」の際にも家の習俗取材をお願いした。

何度もお家の習俗を撮らせてもらうは遠慮したいところだが、同行していた写真家Kさんの願い事も叶えてあげたい。

そう思って無理な願いであるが、本日の「正月のイタダキ」も取材させていただくことになった。

この場を借りて厚く御礼申し上げるところである。

昨夏にお願いしたときは息子さん夫婦にしてもらう予定であったが、所用があることから高齢のH夫妻の出番となった。

昨夏にお願いしてそのままでは申しわけない。

そう思って年末の12月26日に伺った。

正月準備をしている最中であったにも拘わらずお相手してくださるのが嬉しかった。

さて、「正月のイタダキ」とはなんであるか、である。

山添村など奈良県内の東山中で今もなお行われているお家の正月祝いである。

県内平坦では滅多に見られなくなった元日の習俗は過去数カ所において取材させてもらったことがある。

但し、である。

一部を除いてほとんどが祝いの作法を終えたそのお飾りというか、祝いの膳を拝見したにすぎなかった。

本来の作法時間は除夜の鐘が鳴って正月を迎えた直後の時間帯。

地域や家によっては朝日が昇る前の早朝時間帯。

一般的にいえば起床時間のような場は遠慮すべきと判断して無理なお願いはしていなかった。

奈良市長谷町のN家のイタダキの膳は平成23年1月1日だ。

作法時間は例年よりも遅らせてもらった。

天理市福住町別所のN家のイタダキの膳も平成23年1月1日である。

ここは膳だけを拝見した。

奈良市丹生町のF家のイタダキの膳も平成23年1月1日

家族が膳を廻す作法も拝見した。

山添村大塩のK家の祝い膳は平成24年の12月31日である。

除夜の鐘が鳴るまでに奥さんが調理をして配膳した祝い膳。

作ったばかりの祝い膳を拝見した。

宇陀市室生下笠間のⅠ家のイタダキサンの膳は平成22年の1月4日に拝見した。

膳の作法は1月1日であるが、4日もそのままにしているからと云われて撮らせてもらった。

松尾のH家の作法も同じようなものであるが、膳の盛りが異なる。

膳の盛りはこれでなくてはならないというものはない。

家によってそれぞれ、区々なのである。

あけましておめでとうございますと声をかける取材日は元日の朝。

本当にもうしわけないと思う取材日にはお年賀を準備した。

H家の「正月のイタダキの膳」は2種ある。

右にあるのが「十二月さんのモチ」。

一年の月数を表現するモチの数だ。

大の月がある旧暦閏年であっても12個のモチである。

モチは他にも「ミカヅキさんのモチ」に「オツキさんのモチ」もある。

弓なりの三日月の形にしているのが「ミカヅキさんのモチ」。

その上に載せた丸いモチがお月さん。

形どおりの名がある「オツキさんのモチ」である。

「十二月さんのモチ」の餅は家族とともに正月七日の七草の日に食べるが、「オツキさんのモチ」を食べられる男性に限るそうだ。

ウラジロを敷いて数個のミカンも盛る。

そこに“ニコニコナカムツマジク”の干柿10個を串挿ししたクシガキも添える。

これを「十二月さんの膳」と呼んでいた。

左側の膳は「イタダキゼン」の名がある。

白餅は「イタタダキのモチ」。

この餅は1月15日の小正月に食べる。

数個のミカンに日高昆布。

祝い袋はお年玉。

この膳に特徴的なのはサイフに現金、預金通帳があることだ。

これらはお金が貯まりますようにという願いである。

おもむろに始まった正月のイタダキの作法。

まずは当主のご主人が「イタダキゼン」を両手で抱えて前方にもつ。

頭を下げて降ろす。

特に祈りというか願いの詞は述べずに頭を下げる。

ご主人は位置を移動して、今度は「十二月さんの膳」を抱えて、同じように頭を下げる。



その際には奥さんも横について、ご主人と同じように「イタダキゼン」を抱えて頭を下げる。

奥さんは持ち上げる力がないと云って揚げるのが辛そうだ。

少しでも恰好つけたいと思って抱えるが、ここまでだ。



その様子を優しい眼差しで見守るご主人。

二つの膳のイタダキ作法を終えたご主人は退いて、奥さんは「十二月さんの膳」に移った。

これもまた重たい膳であるから持ちあがらない。

「申しわけないことで・・」と云われるが、「もうそこで良いですから・・・」と思わず口がでた。

「十二月さんの膳」はコモチであるが十二月のモチが10個。

三日月のモチもあればお月さんのモチも。

しかもミカンは6個もある。

総量を計ってみればわかるが、若い者なら楽々と抱えられる膳であっても、高齢者や腕に力が入らない人にとっては揚げるのが苦痛である。

息子夫妻がいたら男、女の順で同じように家族全員がする正月の作法である。

「イタダキ」作法をしてからは半帖の紙に包む。

「半帖」は「はんじょう」。

「半帖」が繁盛に繋がる洒落であるが、半帖の紙に包むことによって「家が繁盛」するという願いを込めているのだ。

H家が正月の朝5時に拝む方角は決まっている。

まずは、お日さんが昇ってくる東に向かって拝む。

次は西、その次は南、そして北に向かって拝む。

東におられる神さんは南にもおられるということらしく、四方を拝して拝むと話す。

つまりは東西南北に向かってこの新しき年を祈念して、お日さんが出る前の5時ころに拝む四方拝である。

こうした正月のイタダキ作法を撮らせていただいたH家。

「我が家のお正月のお節や雑煮を食べてや」と云われる。



別室に運んでくれたH家の正月料理の盛りに感動する。

雑煮は云わずと知れたキナコ雑煮。

ご自宅にある井戸から若水を汲んで、その水で炊いた雑煮のだし汁。

昆布出汁で炊いたという。

味噌は白味噌でなく合わせ味噌。



でっかいカシライモ(頭芋)に豆腐とダイコンが入っている。

この中には雑煮餅もある。

これを取り出して添え皿に盛ったキナコにつけていただく。



奈良県特有の、といってもすべての地域でなく、特定地域であるが、こうしてキナコをつけて食べる習慣がテレビで放映されて放送を見ていた全国に激震が走ったようだ。

県民ならどこの家でもしていて、誰もが食べていると紹介された特定地域の風習は放映で特徴づけた。

誤解の放映が全国に拡がったテレビ効果が怖い。

お節も食べてや、と云われるがご主人はもう出なくてはならないと正装姿になっていただけに大慌て。



折角の料理だけにそれぞれの品物を一品ずつ、口に入れて美味しさを味わう。

なかでも美味しかったのは煮凝りのある甘辛く味付けしたエイである。

年末に訪れた室生下笠間のカケダイ作りを拝見したM商店も売っている甘辛味のエイである。

実は初めていただくエイである。



大阪生まれの大阪育ちの私の家ではエイの料理はなかったから初めての味覚である。

こんなに旨いとは、はじめて知った。

舌鼓に感動に浸っている場合ではない。

軽トラに乗って走っていったご主人の行先は峯寺に鎮座する六所神社である。



初詣する姿をなんとかとらえることができた。

大字松尾の氏神さんは松尾に鎮座する遠瀛(おおつ)神社。

地区の神社の初詣は1月3日にしているという。

Hさんが参拝を済ませた午前8時過ぎ。

初詣の六所神社は鎮座する峯寺の他、松尾、的野の三カ大字の神社。

それぞれの大字の宮総代らも集まっての初詣参拝。

みなさん顔を合わせるなり「あけましておめでとうございます」と年頭のご挨拶である。



隣町に住む奈良市丹生町の神職もおいでになった。

神職をはじめとして何人もの宮総代は存じている。

「あけましておめでとうございます。今年も、どうぞよろしくお願いします」と挨拶させていただいた。

(H29. 1. 1 EOS40D撮影)

でっかいエビ天の晦日ソバ

2017年09月22日 09時39分40秒 | だんらん(大晦日買い出し編)
大晦日の取材を終えて自宅に戻る。

大晦日は例年通りの早朝の買い出しから幕開け。

午後は民俗取材に明け暮れる。

夕刻、或は除夜の鐘の直前にされるフクマルがあるが、冷え込んだ身体は行こうともしない。

元気なころの2年前なら勢いで行っているかもしれない。

明日の元日もまた民俗の取材。

早朝にされることもあって今夜は早く寝たい。

そういう事情もあって午後7時は帰宅した。

お風呂に浸かって身体を温める。

おふくろが喜ぶマグロ盛りにぶつ切りタコも添えた。



いずれも買い出しに出かけた奈良県中央卸売市場で買ったもの。

マグロは㈱大丸水産。

タコは㈱丸二商店で買った。

中トロとも思えるマグロに歯ごたえもあってシコシコ柔らかのタコに舌が唸る。

このタコ。

火で軽く炙ってあげるともっと旨くなる。

身は締まり、タコの味も旨みを増す。

大晦日のご馳走に日本酒が美味い。

ほろ酔い気分で夜を待つ。

晩食を済ませた2時間後。

早くも寝る時間を迎えた。

酒量が増えてほろ酔いどころではない。

それでも食べなきゃならない晦日ソバ。

ソバ麺は美味しいのか、である。

それよりも気になるエビ天。

2尾入りで350円。



1尾で175円のエビ天は奈良県麺類卸売㈱で買った。

見た目も美味しそうな衣。

にょっきり出ている尻尾が大きい。

これをソバに入れる。

入れようとしても丼椀からはみ出すエビ天。

こんなに大きいとは思わなんだ。

味はどうか。

エビ天は美味いが、麺は普通だった。

(H28.12.31 SB932SH撮影)

今年最後のリハビリ運動に異変ありか

2017年09月21日 08時41分26秒 | むびょうそくさい
この日の血圧は異常値を示す。

いつも通りに受付を済ませて血圧計で測定する。

ぐぐっと腕を締めていく器械。

なんとなく計る時間が長いように感じる。

終ったら表示する。

えっ、と思った血圧は170-93。

脈拍は程よい54拍である。

到着する時間はいつもより5分遅れ。

入庫に手間取り焦っていた。

トイレも行きたかった。

それが影響したのであろうか。

リハビリ室におられる療法士にはその状態を伝えておこう。

ここで心電図機器や血圧計を取り付けて、なんやこれはってことになれば大騒動にもなると思って伝えておいた。

いつもの通りの装着時は47-48拍。

最近は上り調子であったのに、この日はガクンと落ちた。

落ちたからといってもひどい状態ではない。

一般的な人から見れば、えっ、これで大丈夫なのと云われそうだが、私にとってはこれぐらいの拍数なら普通になるのだが・・・。

準備体操を経てスクワット運動。

そのときの脈拍は52-53拍。

きつ目の運動の場合は56-58拍。

なんもせーへんかったら45-46拍。

ひどい状態に陥ったもので、本日のリハビリ運動が思いやられるような気がせんでもない。

自転車ペダル漕ぎの慣らし運転。

そのときの血圧は132-70。

脈拍は48-49拍だ。

踏み始めて1分後のワークは55。

回転しだしてから1分後の脈拍は52-53拍。

最近の傾向はこの時点で70拍台に上昇するのだが、何か月も前の状態に戻っている。

逆行したように思えて仕方がない。

6分後の血圧は129-62。

脈拍は66-67拍。

あんばい出ているので一安心する。

11分後の血圧は124-57。

脈拍は65-66拍。

血圧はすっかり普段の状況に落ち着いている。

脈拍もそれほどおかしくはない。

隣でペダルを漕ぐ患者さんが言った。

今日は湿気が多いからしんどい・・という。

それが不安定な状態にしているのかも知れない。

16分後の血圧は132-58。

脈拍は65-66拍。

この日も窓を開放してくれた。

外気温はやや高めになっている。

午前中は寒かった。

午後もここへ来るまでの時間帯も緩んではいるものの気温は低い。

ところが運動中に晴れ間になった。

穏やかだが湿気が多い日だ。

ここで発汗が始まった。

21分後の血圧は135-59。

脈拍は65-66拍。

汗、汗、汗がでる。

ラスト、26分後の血圧は121-58。

脈拍は63-64拍で終えた。

終えたらすぐに定位置に戻って49-50拍になった。

循環器内科の血圧計で測ったら171-89。

脈拍は56拍。

なんてこったい。

始まりと終わりの結局は高血圧になっていた。

帰りの血圧を測るときは漏れそうになっていた。

焦る気持ちを抑えてトイレに駆け込む。

すっきりした状態でもう一度測ってみれば120-65。

脈拍は47拍。

脈拍は問題視していないが、急激に変動する血圧値に泌尿が原因だったかも知れない。

(H28.12.26 SB932SH撮影)