マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

矢田横山の鯉幟

2013年08月31日 07時14分47秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市ではほとんどの地域で鯉幟を見ることがなくなった。

町中では見られるものの長い支柱ではなく短い。

小型の鯉幟である。

場合によってはマンションの出窓ベランダで飾る鯉幟だ。

探している鯉幟の支柱は金属製でなく木製である。

矢田町旧村の横山、中村、垣内の人たちに聞いた話ではかつての鯉幟の支柱はすべてが木製であったという。

中村在住の昭和7年生まれのⅠ婦人が話すには支柱は家の裏山で伐採したヒノキだった。

3本のロープを引っぱって穴に下部を埋めたヒノキを立てたと話していた。

「長さは5間(12mぐらい)もあったのでたいへんやった」と伝える。

寺村に鯉幟があったが、金属製の支柱であった。

いつしか消えてしまったのであろうと思っていた。

矢田坐久志玉比古神社近くにある横山地区を走行していた4月22日。

代掻きを始めていたMさんの門屋に立てていた支柱は木製だった。

この時期になれば孫の鯉幟を揚げたというご主人。

その日は風が舞っていた。

風の向きはたえず変化する。

風に舞った吹き流しが支柱に巻きつく。

仕方ないと諦めて下ろした吹き流し。

しばらくはそのままにしてGW期間には揚げたいと話していた。

それからの2週間後。再び訪れたM家に鯉幟が揚がった。

木製の支柱はヒノキ材。

二人目の孫男児が誕生したから一尾を足したそうだ。

緑色の鯉幟である。

長男は青色で次男が緑色である。

昨日に訪れた御所市多田(おいだ)もそうであった。

三男が生まれたときはどのような色鯉になるのであろうか。

見たことはないが、紫色のようである。

M家の隣家は垣内。

いつもお世話になっているT家で聞いた話しによれば、お嫁さんの出里が祝いでくれたのは葉付きの杉の木であった。

長男が生まれたときのことである。

大型トラックで運搬して3人がかりで立てた杉の支柱。

翌年の2年目は杉葉を伐り落として風車にしたと話していた。

(H25. 5. 6 EOS40D撮影)

筒井町食堂のかけうどん

2013年08月30日 07時58分21秒 | 食事が主な周辺をお散歩
仕事を終えて取材に急がねばならない。

食事は簡単に済ませたいと思ってときおり立ち寄る筒井町食堂に入った。

注文と言えば「かけうどん」を一杯。

税込みで157円だ。

シンプルな価格帯で経費は助かる。

これまでだったらトッピングもされていなかったかけうどんにはワカメ、天カス、青ネギが盛ってあった。

それに気がつかずにスプーンでよそって入れる。

盛り盛りのトッピングになってしまった。

出汁も麺もシンプル。

この味が美味いのである。

食べ続けたときにふと気がついた。

なんとなく出汁が玉子焼の味がするのだ。

出汁をすすっても同じように感じたかけうどんの出汁が玉子焼きになるのは何故なんだろうか。

(H25. 5. 6 SB932SH撮影)

蛇穴の汁かけ・蛇曳き祭

2013年08月29日 06時43分55秒 | 御所市へ
蛇穴の野口行事の日は朝が早い。

夜が明ける前から始まった野口行事は太鼓打ち。

頭屋(トヤ)家垣内の役員らが集落を巡って合図する。

数時間に亘って地区を巡る振れ太鼓であったそうだ。

朝も6時になれば自治会館に集まってくる青壮年会(評議員)の人たち。

頭屋家を手伝う垣内の隣組の人たちも自治会館に集まってくる。

野口行事に参集する村の人たちを接待するご馳走作りに心を尽くして料理される婦人たち。

お揃いの帽子を被っている。

振る舞い料理の下ごしらえは昨日もされていた。

カラアゲの鶏は下味をつけてタレに浸けこむ。

ウインナーソーセージは飾りの切り込みを入れていた。

3日に搗いたモチは袋に詰めた。

なにかと忙しい婦人の作業である。

集合時間ともなれば、揃いの法被に豆絞りを受け取って自治会館にあがる村の男性ら。

そうしてやってきた三人の男性。



座敷に並んで座った区長や青壮年会、青年団らに向かって、お神酒を差し出し、口上を述べる。

「よろしくお願いします」と挨拶をされる当主の頭屋。

挨拶を受ける自治会館の炊事場では美味しそうな香りが漂っている。

一つ一つ割って玉子焼き。

出汁が良いのか、朝食を食べてきたにも関わらずお腹がサインを送る。

大鍋で煮たタケノコ、コンニャクなども良い香りだ。

口上を受けた人たちはこの日の朝まで野口の神さんを祀っていた頭屋家に向かう。



振れ回った太鼓は「昭和拾四年四月参拾日 新調 野口神社用」とある。

頭屋家の玄関前に置いていた。

お渡りの一行がやってくる前に駆け足で急いだ頭屋家。

前日に納めた蛇頭がある。

一行が到着するまでの僅かな時間に座った頭屋家の婦人。

この日を最後に神さんが野口神社、次の受け頭屋へ行く。



平穏無事に一年間も守り続けてきた安堵する頭屋家のご婦人。

お嫁さんととも座した祝いの記念写真を撮らせていただいた。

「野口神社」の高張提灯を掲げた頭屋家の手前で手拍子が始まった。

伊勢音頭である。「枝も栄えてよーいと みなさん 葉も繁る~」に手拍子しながら「そりゃーよー どっこいせー よーいやな あれわいせ これわいせ こりゃーよーいんとせえー」と高らかに囃しながら座敷にあがる。

7時半までにトヤ家へ到着するよう進められたお渡りだ。



一同は揃って一年間を祀ってきた頭屋の神さんに向かって頭をさげる。

今日のお祝いに区長が一節歌う謙良節(けんりょうぶし)。

北海道松前、青森津軽の民謡を伊勢音頭風にアレンジして歌詞をつけたという。「あーよーいなー めでた めでたいな (ヨイヨイ」 この宿座敷 (ヨーイセコーリャセ)・・・」。



酒を一杯飲みほして頭屋家の御礼挨拶を述べたあとに蛇を運び出す。

青年団が担ぐ太鼓を先頭に桶に納めたご神体の龍(蛇穴ではジャと呼ぶ)を頭に上に掲げる団長。

提灯、蛇担ぎの一行はドン、ドン、ドンドンドンの拍子に合わせて野口神社を目指してお渡りをする。

集落の道を通り抜けて旧家の野口本家が建つ集落道をゆく。



高張提灯は鳥居に括りつけて、ご神体の龍は本殿前に置く。

頭屋家で一年間守ってきた神さんは一年ぶりに本殿に戻ったのである。



拝殿内には蛇頭も置かれてからの3時間余りは蛇の胴作り。

櫓に移動するので、僅かな時間帯だけの蛇頭の立ち位置である。

まずは、櫓を組んだ場所に蛇頭を穴から引き上げる。



長い胴体になる「ホネ」が三本。

ぶら下げた状態で見ればまるでダイオウイカである。

モチワラを継ぎ足して胴体を作っていく。

掛け声を揃えて三つ編に結っていく。

長さは14mぐらいになるという胴体作りは力仕事。

およそ2時間半も続く。

その間のご神体は新しく掛けた注連縄下の本殿で静かに見守っている。

大きな鏡餅、米、塩などを盛った器にタケノコ、ダイコン、ニンジン、ナスビなどの生御膳がある。

野菜の生御膳は立て御膳だ。

パイナップルやリンゴなどの果物もある。

中央にはのちほど作り立てのワカメ汁を入れる椀もある。

その前が桶に大量に盛った紅白のモチである。

中央には汁かけ祭で営まれる杉葉の祭具もある。

一方、接待料理をこしらえていた炊事場奥の部屋にはできあがった料理を大皿に盛っていた。

作業を手伝ってくれた人たちや村人に振舞う頭屋家のご馳走である。



タケノコ、コンニャク、キュウリ詰めのチクワ、カマボコ、サツマアゲ、ゴボウテン、コーヤドーフ、ウインナーソーセージに玉子焼きだ。

別途にカラアゲもある。

これらは神主・評議員が座る社務所、宮さんの広場、子供の広場、曳き手・青壮年・青年団らが飲食する自治会館用に分けておく。



運び間違いがないように場所を示す札も付けておく。

汁かけ神事に仕掛けるワカメ汁は大釜で作られた。

四方竹で囲われた神事の場に据えた大鍋にできたてのワカメ汁が注がれる。

一杯は黒い椀に盛ってご神体を祭った場に置く。

そうして始まった野口行事の神事は関係者が拝殿に集まって執り行われる。

神事を終えた神職は胴体とともに境内に持ちだされた蛇頭を祓う。



一升びんすべてのお神酒を蛇頭に注ぐ。

赤い目、赤い口がとても印象的だ。

集落を巡行する安全を祈願する祓い清めだと思われる作法である。

そして、神事の場はワカメ汁の大鍋に移る。

白紙をミズヒキで括った杉の葉を持つ鴨都波神社の神職。

シャバシャバと大鍋に浸けて一気に引き上げる。



それを参拝者に向けてぱぁーと振った。

各地で見られる御湯(みゆ)儀式の湯祓いのようだ。

左右にひと振り、ふた振り、み振りの僅か3秒で行われた一瞬の作法である。

身を構える余裕もなくワカメ汁を被る参拝者たち。

邪気祓いとも思える汁かけ祭の神事はこうして終えた。

なお、ワカメ汁の汁かけ儀式は、平成2年より形式が整えられた作法と聞いている。

前日の蛇頭作りの際に拝見したかつての湯釜。

区長総代らの了解を得て釜の刻印を確認した。

15年前に社務所を建て替えた際に発見された湯釜だそうだ。

湯釜をどのように使っていたか、時期も伝承もなく不明であるが、「和葛上郡三室村御湯釜頭主米田(こめだ)磯七 文化十四年(1818)九月吉日 淠(津)田大名(和)大様(掾) 藤原定次」とある。

大切なものと判断された湯釜は三本脚。

一本が欠損していたことから倒れないように特注のガラスケースで収納している。

刻印の周囲全容が判るように動かしてくださった区長総代に感謝する貴重な湯釜である。


(H25. 5. 4 EOS40D撮影)

三室村はどこにあるのか。

村人に尋ねた結果は蛇穴から国道を越えた西北地にこんもりとした森が見える。

そこは孝昭天皇山上陵。

在地の大字は三室。

小高い丘に坐ます御陵がある「三宝塚」とも呼ばれる台地の小字は博多山だ。

三室は御室を意味していたのである。

その辺りかどうか判らないが、湯釜を寄進した頭主は米田(こめだ)磯七だと記す刻印である。

およそ200年前には御湯の儀式があったのか定かでないが湯釜の製作者は津田大和大掾藤原定次に違いない。

津田大和大掾藤原定次は香芝市五位堂に代々続いた鑄物師。

五位堂は香芝市下田鑄物師のあとを受ける形で16世紀末から17世紀初頭にかけて台頭してきた。

慶長十九年(1614)、「国家安康」で著名な京都方広寺大佛殿の梵鐘鋳造がある。

協力した脇棟梁鑄物師の一人が五位堂の津田五郎兵衛。

功績が認められ「藤原求次周防少掾」の名を賜わった。

津田家子孫はその後の享保十五年(1730)に「大工津田大和藤原家次」の呼名許状を拝領したと伝わる。

蛇穴に残された湯釜の「藤原定次」は名を継いだ後裔であろう。

「文化五年(1808) 明日香村 岡寺鐘 禁裏御鋳物師 大和大目藤原定次 津田五郎兵衛 周防少掾藤原末次 杉田六兵衛石見掾藤原昌次 小原善次郎」の記銘があるという明日香村岡寺の鐘。

蛇穴の湯釜製作とほぼ同時期の製作者である大和大目藤原定次だ。

湯釜がどのような形式で祭事されたか判らない野口神社の遺物。

新暦ではあるが、9月の末に行われる宵宮祭がある。

詳細は聞いていないが、トヤ提灯を掲げて御膳帳を披露するようだ。マツリの宵宮祭は10月4日。

そのときであったのかも知れない。

かつてはその宵宮祭において御湯神事があったと推定したのだが果たして・・・。

蛇穴地区にはかつてススキ提灯があった。

御所や葛城圏内の広い範囲で見られるススキ提灯。

地区によっては十二振り提灯と呼ぶこともある。

戦前までは氏子域の鴨都波神社のマツリに出仕していたススキ提灯。

戦時中にあった砲火。

葛城の二上山(ふたかみやま)の向こうの大阪が焼夷弾によって真っ赤になった。

昭和20年3月のことだ。

蛇穴では防空頭巾を被って竹ヤリで防戦しようとしていた練習の場は墓地である。

藁人形を作って竹ヤリで突いていた頃は、二カ月後の5月であったと話す高齢者たち。

汁かけ祭を終えれば頭屋が接待する振る舞い食の直会。

手伝いさんらが作っていたご馳走をよばれる。

ワカメ汁をカップに注ぐ手伝いさんは忙しい。

食べる余裕もない。

蛇綱曳きが出発してようやく食事となる。

寄ってきた村人らにも食べてもらう頭屋の接待食は大賑わいだ。

村人の接待食であるにも関わらず、一般の人たちが我も我もと先に群がっている。

地域の行事に大勢が集まることは好ましいが、その様相が見苦しく心が痛む。

そうこうしている時間になれば音花火が打ち上がった。

12時の出発時間の合図で蛇綱曳きの巡行が始まる。

ドン、ドンと打つ太鼓とピッピの笛の音に混じって「ワッショイ、ワッショイ」。

先頭を行くのは胴巻きにいただいたご祝儀を詰め込む青年団長。

三代目の団長が着こなす法被は代々の引き継ぎ。

歴史を物語るかのような色合いになった。

団長に続いて駆けずり回る太鼓打ちの団員の汗が噴き出す。

後方から聞こえてくるピッピの笛の音。

それとともに囃したてる「ワッショイ、ワッショイ」は蛇綱曳きの子どもたち。

かつては子どもだけだったが大人も一緒に曳く。

胴体をそのまま担ぐわけではなく蛇に取り付けられた「足」のような紐を持つ。

野口神社を出発して北から東へぐるりと周回する。



その道筋は旧家の野口本家を回って自治会館となる。

そのあとの行先は南口を一周する。

太鼓、笛、掛け声は遠くの方まで聞こえている。



戻ってきた蛇曳きの一行は北上して南口垣内辺りを練り歩く。

1時間後、1回目の休憩場で休息をとる。



例年5月5日は天気が良い。

日射も厳しく暑さが堪える。

飲み物やアイスキャンデーに潤う曳き手たちのやすらぎ時間は短時間だ。

南口からは東口、中垣内、北口、西垣内、中垣内の順で六垣内を巡行する。

藁で作ったジャの長さは全長が13m。

胴体だけでも10mもある。

胴体の径は20cmでウロコ部分も加えると50cmにもなるジャである。

Y氏とともに計測した蛇頭は径が30cmで長さは70cmであった。

野口本家には『野口大明神縁起(社記)』が残されていると聞く。

それには野口行事のあらましを描いた絵図があるそうだ。

江戸時代に行われていた様相である。

複写されたその一部は神社社務所に掲げられている。

その中の一部に不可思議な光景がある。

桶に入った龍の神さんを頭の上にあげて練り歩く姿は当時の半纏姿。

紺色の生地に白抜きした「野口講中」の文字がある。

男たちは草鞋を履いている。

その前をゆく男は道具を担いでいる。

その道具は木槌のように思える。

同絵には場面が転じて家屋の前。

木槌を持つ男は、なんと家屋の土壁を打ち抜いているのだ。

木製の扉は閉まったままで、土壁がもろくも崩れてボロボロと落ちている。

打たれた部分は穴が開いた。

そこは竹の網目も見られる。

まるで打ち壊しのような様子が描かれている絵図である。

その件について尋ねた當麻のY氏の答えはこうだ。

ジャはどこなりと通り抜ける。

土塀に穴を開けたのもジャが通る道だ。

邪悪なものは何でもかんでも、このように土壁を崩してでも通すのである。

その絵図の土塀は本家の野口家の門屋口であるかも知れないと話す。


(H24. 5. 5 EOS40D撮影)

一軒、一軒巡って太鼓を打つ。

ピピピピーにドドドドドの太鼓打ちが門屋を潜って玄関から家になだれ込む。

回転しながら連打で太鼓を打つ。

祝儀を手に入れた青年団はピッピの音とともにすばやく立ち去る。

そのあとに続く蛇綱曳きは門屋の前で、ヨーイショの掛け声とともに蛇を三度も上下に振り上げる。



その姿はまるでフライングしているかのようなジャである。

旧家である西京本家にも祝いのジャがなだれ込む。

そこからは北口垣内だ。



墓地向こうの民家にもジャを曳いてきた一行は疲れもみせず巡行する。

中垣内辺りに着くころは15時を過ぎていた。



何度も何度もジャを振り上げる子供たちは常に元気である。

およそ100軒の旧村を含め新しく住みついた新町の家も巡ってきた。

蛇穴の集落全域を巡るには3時間半以上もかかる。



もうひと踏ん張りだ。



平成16年に頭屋を務められたMさんも笑顔で応えて祝儀を手渡す。

ご主人とお会いするのも実に久しぶりである。

ほぼ10年前のことを覚えてくださっていたご主人の手を握った感謝の握手である。

その年に撮影したひとこまは『奈良大和路の年中行事』で紹介した。

紙面スペースの関係で短文になったことをお詫びする。

昔は頭屋が村の人にワカメ汁を掛けていたと話す額田部に嫁入りしたS婦人。

「昭和の時代やった。かれこれ40年も前のこと。

そのときは子どもだけで蛇綱を曳いていた」のは男の子だけだったという。

それだけ村には子どもが大勢いた時代の様相である。

雨天の場合であっても決行する蛇綱曳き。

千切れた曳行の縄を持って帰る子どもたちがいる。

家を守るのだと話しながら持ち去っていった。

蛇頭を北に向けてはならないという特別な決まりがある蛇綱曳き。

北に向ければ大雨になるという言い伝えを守って綱を曳く。

それゆえ集落を行ったり戻ったりで前進後退を繰り返してきた。



蛇穴の家々の邪気を祓ったジャは野口神社に戻ってきた。

なぜか今年の頭屋受けをする家には向かわなかった。

これまでは垣内を12組にわけた1組から12組の回りであった。

翌年からは13組も加わるそうだ。

これまでは手伝いさんは垣内の隣近所であったが、村全体の行事にすべく手伝いさんは村の組、それぞれが担うことになるだろうと話す。

村行事の在り方の改革である。



戻ってきた太鼓打ちは何度も境内で打ち鳴らす。

オーコを肩に載せたまま回転しながら打つ太鼓妙技である。

曳いてきたジャは蛇塚石に巻き付けて納めた。

昭和30年代までの蛇巻きの場は鳥居下であったと話す村人。

蛇曳きの間はご神体の龍が本殿で待っていた。

蛇は龍の化身となって村全域を祓ってきたのである。

ご神体はすぐさま新頭屋となる受け頭屋には向かわない。

村にご祝儀をいただいた会社関係にお礼としてご神体を見て貰う法人対応が含まれる村行事でもある。

およそ30分で戻ってきたご神体を桶にとともに頭の上に掲げて旧頭屋を先頭に受け頭屋家に向かう。

西日が挿す時間帯の行列はご神体、提灯、宮司、青壮年会、青年団。



ひと目見ようと村の人が門屋の前で出迎える。



受け頭屋の座敷へあがりこんだ一行は、野口神社の分霊(わけみたま)神を祀った横に座った。

拝礼、祓えの儀、祝詞奏上など厳かに神事が行われる。

こうして頭屋渡しを終えた蛇穴の村行事。

区長や青壮年会代表がこの日の行事が無事に、また盛大に終えたことを述べられた。

滞りなく分霊神を受けた受け頭屋も御礼を申しあげる。

目出度い唄の伊勢音頭を歌って締めくくる。

村の行事はそれで終わりではない。

最後に頭屋家の振る舞いゴクマキ。

群がる村人たちの楽しみだ。

一日かけて行われた蛇穴の行事をようやく終えた。

こうした蛇穴の汁かけ・蛇曳き祭の行事の様相を季刊雑誌の奈良地域づくりマガジン『俚志(さとびごころ)』の夏号に掲載させていただいた。

地域研究会俚志の編集長の願いで今特集の「地域の絆を支える祭り」に寄せた事例のひとつ。

県内各地の所定地で販売しているが同編集部が立ちあげているインターネットでも受け付けている。

アドレスはこちらだ

(H25. 5. 5 EOS40D撮影)

蛇穴蛇頭の頭屋納め

2013年08月28日 06時55分10秒 | 御所市へ
この年は8月3日に御所市制55周年を記念したイベントがあるそうだ。

場所は葛城公園。鴨都波のススキ献灯行事などを含めさまざまな地区のススキ提灯も集まるという。

その数、なんと100本も。

壮観なイベントになりそうであろう。

その場には当村の蛇穴の蛇も出典する。

その関係もあって蛇頭作りは2体も作った。

昨年もイベントの関係で2体作った。

その年ごとの自治体要請に応じて蛇体作りをしてきた蛇穴の人たちである。



すべての作業を終えた「蛇穴青壮会」の人たちは蛇頭を抱えて昨年の5月5日に頭屋受けをした頭屋宅に向かう。



野口本家の家筋を通って、蛇穴集落を北に向けてお渡りをする一行。

大きな門屋の前も通る。



西京の本家である。

さらに東へ向かった先は一年間もご神体の龍を祀ってきた頭屋家だ。

床の間に掛軸を掲げて斎壇に御供を供えていた。

モチゴメで搗いた紅白のモチは大きな桶に2杯。

土足でも上がれるようにシートを敷いた座敷にあがるが、履きものの靴は脱ぐ。



蛇頭を頭屋家に納めた一行は手打ちの儀式。



差し出された頭屋家のお茶を一服してから祝いの唄を献上する。

(H25. 5. 4 EOS40D撮影)

御所多田の鯉幟

2013年08月27日 08時28分11秒 | 民俗あれこれ
昼食を終えた三人。

再び蛇穴に戻ろうと思ったときのことだ。

スーパーセンターオークワ御所店から遠望した先に鯉幟が見えた。

国道を越えた集落に立っている。

望遠鏡は持ち合わせてないがよくよく見れば鯉幟の支柱の頂点が羽根車でなく樹木の葉っぱのように見えた。

もしかとすれば、5年間に亘って県内で探し求めていた葉付きの鯉幟の支柱ではないだろうか。

そう判断して走っていった集落は御所市の多田(おいだ)集落。

近づくにつれてはっきりとした葉付きの支柱。

見間違いではなく本物であった。



呼び鈴を押して当主にお会いした。

貴重な鯉幟の撮影主旨を伝えて承諾を受けた。

急なことであるにも関わらずの承諾に感謝する次第である。

鯉幟の支柱は産地吉野の杉材。

太さも立派な長い支柱は、購入した木材店へお願いして昨年の5月5日に立ててもらった。

倒れないような頑丈な造りにしてもらったそうだ。

孫の誕生祝いの鯉幟の支柱の初年度は杉の葉を伐り落とさずにそのまま残しておく。

田植えが始まる前の5月末に下す鯉幟。

翌年もその鯉幟を立てるが杉の葉は伐り落としてカザグルマに替える。

つまり初誕生のほんの一時期しか見ることができない木材仕立ての鯉幟支柱。

我が家で生まれた長男のときにも立てた鯉幟。

木材ではなく金属製のポールである。

我が家の庭にその残骸がある。

流れるように泳いでいた鯉幟を見る二階の窓から抱きかかえるかーさん。

その写真を下から撮ったことを覚えている。

木材支柱の鯉幟は県内で拝見することが少なくなった現代。

多田においても15年ぶりに立てたという当主。

滅多に拝見することが難しくなってきただけに撮らせていただいたこと、感謝するのである。

昭和の初めに立てた母家の前で泳ぐ鯉幟にぶるぶると感動しながらシャッターを押した。

この日は二人目の孫誕生で、家族揃っての祝いの場であったにも関わらず了承してくださった。



多田集落を探索してみれば、もう一軒にも木製の鯉幟があったが羽根車であった。

一番下に泳ぐ小さな鯉幟は緑色だ。

二人目の男児が誕生したときに継ぎ足すと話していた様相もあった多田の鯉幟。

そういえば我が家で次男が生まれたときはどうしたのか。

思い出せないのが辛い。

蛇穴の行事を終えた夕暮れ。

再び多田を訪ねて気にかかった史跡へ。



墓地とも思える石塔婆群がある。

その場の中央にある形に目がいく。

塔身の総高は2m185cm。

方形の石塔婆に乗せた平たい石。

大きさはそれほどでもないが、その姿から勝福寺笠塔婆の名称がある。

四面とも座像仏が刻まれている。

寶珠を乗せた笠塔婆の建之は文永七年(1270)五月二日。

今から740年前の石塔婆は願主「沙弥妙蓮敬白」とあるから尼僧であったのだろう。

ちなみに蛇穴地区には鯉幟が見られない。

いつのころか判然としないが、自然消滅したと村の人が云う。

(H25. 5. 4 EOS40D撮影)
(H25. 5. 4 SB932SH撮影)

粉もん処わっぱ蛸のお好み焼きそばセット

2013年08月26日 07時53分08秒 | 食事が主な周辺をお散歩
蛇穴での蛇頭作りが一段落した頃は昼どき。

同行取材していた写友人たちとともに足を運んだ昼食処は御所市室にあるスーパーセンターオークワ御所店。

ここであれば胃袋を満たす食事処があると判断して出かけた。

いつもならオークワ店で販売されている弁当類を選ぶのだが、同店内にあった「粉もん処わっぱ蛸」で早速注文を済ませていた写友人。

さてどれにするかと選んだ食事は「お好み焼きそばセット」。

先日も食べた焼きそばは大和郡山市横田町にある「実六久(みろく)」店。

とても美味かった。

味はどれほどの違いがあるのか試してみたくて選んだのであった。

セットメニューは550円。

二品もあってお買い得のセット。

代金を支払えば機械番号札を渡される。

既に頼んでいた写友人は何を頼んだのか。

出来あがればピーと鳴る機械。

受付に手渡せば注文した品が渡される。

先に注文した二品とほぼ同時にできあがったのだ。

並べてみれば3人とも同じセットメニューだったお好み焼きそばセット。

一口食べて思わず辛い味だと思った。

こってりソースがからまった焼きそば味。

私は美味しいと感じたが・・・豚肉は少ない。

ここんところが専門店の「実六久」と大きく異なる。

こってり、こてこてのカラ味の焼きそばとほぼ同様の味だったお好み焼き。

使っているソースが同じではないだろうか。

この味によく似ている我が家のソースは「ヘルメスとんかつソース」。

これも辛い味である。

「粉もん処わっぱ蛸」に隣接するお店はうどん屋さん。

かけうどんが280円だったか。

すっきりさっぱり味だと思われる「よくばり河童」店は「粉もん処わっぱ蛸」の系列店。

今度に来たときには入店してみよう。

調べてみれば「粉もん処わっぱ蛸」店はオークワ桜井店にもあるようだ。

(H25. 5. 4 SB932SH撮影)

蛇穴頭屋の蛇頭作り

2013年08月25日 09時10分02秒 | 御所市へ
かつては「ノーグッツアン」と呼んでいた御所市蛇穴(さらぎ)の野口行事。

「ノーグッツアン」とは不思議な呼称であるが、橿原市地黄町で行われる行事は「ノグッツアン」だ。

夜が明けない時間帯に野神の塚に参って帰り道で「ノーガミさん、おーくった。ジージもバーバも早よ起きよ」と囃しながら帰路につく子どもたちの行事である。

桜井市の箸中で行われている野神行事は「ノグチサン」と呼ばれている。

同市の小綱町で行われている行事も「ノグチサン」である。

なぜに「ノグチサン」と呼ぶのか判らないが、藁で作ったジャ(蛇)やムカデを野神さんに奉る。

ジャは水の神さんだと云う蛇穴の蛇綱。

雨が降って川へと流れる。

貯えた池の水を田に張って田植えができる。

農耕にとって大切な水の恵みである。

奈良県内ではこうした蛇を奉る野神行事を「大和の野神行事」として無形民俗文化財に指定されている。

この日に訪れたのは理由がある。

治療に通っている送迎の患者さんは85歳のS婦人。

大和郡山市の額田部町にお住まいだ。

Sさんが嫁入りするまでは生活をしていた蛇穴の村。

生誕地であった母家の生家は野口神社のすぐ近く。

60年以上も前のトヤ(頭屋)家はマツリの前日に家でモチを搗いていた。

隣近所の村の手伝いさんが支援していた。

懐かしいが遠い地の蛇穴。

かつての母屋は自治会館に譲られて野口行事の食べ物を料理する場になったものの「もっぺん行ってみたいが・・・」とつぶやいていた。

Sさんが子供のころは毎日のように神社を清掃していたと話すのはトヤを務めたときのことであろう。

嫁入り前に2回、嫁入り後も2回のトヤ受けをしたという実家はN家。

料理に使うタケノコはたくさん積んだ荷車で運んでいた。

ドロイモもあったように思うが遠い時代の記憶。

モチゴメはどっさり収穫してモチを搗いた。

トヤ家の竃は大忙しだったと話す。

そのSさんの実弟は今でも健在で蛇頭(じゃがしら)を作っているという。

年老いたが生家のN家を継いで今でも作っている。

「会いたいが、私は行くことが難しい」と話すSさんの声に背中を押されてやってきた5月4日の蛇頭作り。

早朝から集まった「蛇穴青壮会」の人たち。

既に作業は始まっており、蛇の胴体になる心棒の綱を編んでいた。

「ホネ」と呼ぶ長い綱(市販のロープ)は三本ある。



神社拝殿内では注連縄なども拠る。

「ミミ」にあたる部分はそれよりも太く三つ編みだ。

そんな作業を見守る二人の長老。

一人がSさんの実弟のNさん。

もう一人はSさんの同級生になるUさん。

弟さんは顔がそっくりなので一目で判った。

お姉さんからの伝言を話せば嬉しそうに応えた二人の表情。

焼けた顔に笑みが零れる。

蛇穴の集落は150軒ほど。

かつては蛇穴村をはじめとして池之内村、室村、条村、富田村の五カ村からなる葛上郡秋津村であった。

若い人たちが村を離れて老夫婦が多くなったと村人は話す。

「ミミ」をも含めた蛇頭の材料はモチワラ。

12株で一束。

それを20束でひと括り。

さらに、それを20組も用意するというから相当な量(12株×20束×20組)である。

モチワラは農家で作ってもらう。

収穫したワラは蛇作りに使って実のモチゴメは頭屋が奉納する紅白の御供モチにする。

その量は1斗。

前日の3日にモチ搗きをしていた。

沢山のモチワラを束ねた蛇頭は三つ編みした「ミミ」と「ホネ」と呼ばれる胴体の骨格になる三本のロープを内部に入れ込んで作る。

「ミミ」はU字型におり込んで組みこむ。

蛇頭は太く、丸くするから大量のモチワラを使う。

ひとワラで縛って「ミミ」部分は輪っかのような形で、両袖に広がった。

崩れないようにさらに強く縛る。



蛇頭本体の形が崩れないように何重にもロープで括る。

槌で叩いて締める。

「ミミ」から上部に括り終えれば、その次は下部もしっかりと締め括るという具合だ。

一方、蛇頭の眼になる竹を細工する。

ほどよい太さの竹の節下数cm部分をノコギリで切る。



およそ半分ぐらいで止めて先が尖がるように切り落とす。

先端辺り2か所に小さな穴を開けた。

節部分は黒く塗って中は赤くする。



それが蛇の眼になる。

昔からそうしていると残しておいた見本もそうであった。

蛇の眼を含めて重要な蛇頭を調えるのが前述した二人の長老である。

取り出して手にしたのが刺身包丁。



ざっくり、ざくざくと切り落とす蛇の面。

そぎ落とすこと数回。

断面をざっくりとそぎ落とす。

僅かな角度をつけて凹面になるよう切っていく。

刃をあてて慎重にそぎ落とす。

蛇のツラ(面)は奇麗なツラいち。



その面に赤色で印をする眼と口の位置。

口の部分はざっくり切り込む。

おおかたが口のように見える一直線の大きな切り込みで蛇顔が判る。

先ほど作った眼はどうするのか。

番線針金を掛けた2か所の穴。

番線はほどよい堅さ。

それを胴体側に通す。

通した番線を引っぱれば竹の眼が内部に入っていく。

ぐいぐい押しこんで眼が蛇頭に引き込まれる。

槌で打ちこんでツライチになった。



もう一方の眼も入れ込んだ。

眼ができあがれば口を調える。



赤い舌ベロは堅い紙片。

外れないように一本の針金を通して取り付ける。

蛇頭生命体の誕生である。

(H25. 5. 4 EOS40D撮影)

南六条町南方の苗代作り

2013年08月24日 08時41分16秒 | 天理市へ
GWともなれば奈良県内の平坦盆地部では一斉に苗代作りが始まる。

天理市南六条町の南方においても農家を営む人たちがせわしく作業をしている。

南方の苗代田は杵築神社の北側。

何軒かの農家がそれぞれの苗代田をもつ。

午前中にされる家もあれば、午後いちばん。

或いは15時頃。

特に決まっている時間でもなく、手伝いさんが支援できる日程、時間となるために農家の事情によりけりだ。

この日は15時頃に訪れた。

5年前に取材したときは4日の朝だった。

苗代作りを終えた朝8時前。

杵築神社から授かった牛玉宝印のお札と共に花を添えて立てる。

お札を結ぶ箇所は二股になっているヤナギの木。

それが決まりだといっていたDさん。旧頭屋の一人である。

既に苗代作りを済ませた農家は5軒。

それぞれにお花とヤナギの木に挿したお札が見られる。

そのほとんどがイロバナを巻きつけたような形式である。

お札もなぜか苗代の水に沈んでいるようだ。

その付近で苗代作りに励んでいた農家はM家とT家の2軒。

いずれも手伝いさんの支援を煽いでの作業である。

モミオトシをした苗箱を軽トラに乗せて運んできた。

それまでに済ませておいた苗床作り。

一つ一つを運んで苗床に並べていく。

手伝いさんは家族や友人。

お店を営むT家では店のアルバイトの人まで応援を求めた。

穴空きシートを被せて苗代田の泥を手で掬ってダンゴ状にする。

それをシートの両端に間隔を空けて置いていく。

M家ではこれからイロバナを買いにいくといって走り去っていった。

T家は泥だけでなく、棒を両脇や上から押さえるように置いていく。

風でシートが飛ばされないようにしているという。

昨年は東の池にいた鵜がたくさん飛んできた。

苗が育って芽が出たころだ。

蒔いたモミダネを食べてしまった野の鳥の鵜。

これでは実りが少なくなるといって30枚ほどの苗箱を買い足したそうだ。

カラスが何十匹も死んだというニュースを聞いて思わず拍手したそうだ。

一旦は家に戻ってイロバナと神棚に奉っていたお札を持ってきたご主人。

苗代傍、泥で塗り固めた畦に挿す。

ヤナギの木に括っているお札は雨風に耐えるようにとビニール袋に入れている。

お札は正月初めに行われた旧頭屋のオンダ祭。

行事を終えて南方の各家に配られる。

神社の東側にある田んぼは旧ドーヤ(頭屋)の田。

その行事にはフリアゲがある。

お伊勢さんに参って授かったお札で当番の人を決める神事には区長や農家組合が立ち会って見届けるそうだ。

苗代にお札を挿したTさん。



豊作を願うのは「心のヤスミ」だと云う。

水口のマツリをしているが、鵜には利き目が通じないと話していた。

M家、T家とも苗箱は160枚。

家族や一族が食べられるだけの米を作っていると話す。

(H25. 5. 3 EOS40D撮影)

小林町の苗代作り

2013年08月23日 06時25分00秒 | 大和郡山市へ
朝の5時にはモミオトシをしたという大和郡山市小林町のH家。

苗箱は220枚だから九反のたんぼ。

少し余分に作っておいたというH家の苗床はいつも村の知人たちが寄りあう農作業場付近。

GW期間にされると話していたのでふらりと訪れた5月3日。

何軒かの村人たちも苗代作りをしていた。

あちらこちらで見られる苗代作りだ。

H家の苗代作りはすでに半分を終えていた。

予め作っておいた苗床をジョレングワで均していくご主人。

苗床が乾かないように奥さんが泥田の水を柄杓で掬って床に撒く。

幅広い木片を取り出した。



それを二人がかりで滑らすように苗床を均す。

木片の面を利用して平らに均す。

この方法が効率的で、作業が捗るという。

苗代作りはそれぞれ農家によって違いがある。

こういう工夫もあるのだと感心する。

苗箱を置く前には肥料蒔き。



上の方から広がるようにパラパラと蒔く。

肥料は「天然有機肥料の綿実(めんじつ)油粕」。

なかなか手に入り難い綿実油粕製品を作っているのは日本で唯一のただ一社。

大阪府柏原市にある明治25年創業の岡村製油㈱。

粒状の肥料を丹念に蒔いていく。

一方、既に苗箱を置いた隣の苗床は土を上から被せる。

被せると云っても肥料蒔きと同じように蒔く。

その土は黒い色。

「田植え用育苗床撒きのくみあい粒状培養土」の黒土である。



二人の息子も手伝っての苗代作りは分担作業だ。

苗箱を置く目安のスジは一直線。

外れないように「田植えナワ」で引いていく。

昔から使っているナワは今でも現役。

麻緒であれば水に浸かればすぐに切れるが、ナイロンナワは浸かっても切れない。

苗箱を一輪車に積んでは苗床に運んでいく。

結構な重さである。

黒土をばらまいた苗床にはシートを張る。

そのシートは新聞紙と穴空きシートの二枚重ね。

それぞれを丸太の棒に巻いておいた。



新聞紙のロール巻き棒一本について二日間もかけて作った。

稲田を4丁も作るH家。

苗箱は2000枚。

新聞紙のロール棒は一週間もかかったと話す。

二枚重ねの保護シートを被せた次は泥土で固める。

泥水から掬った泥をダンゴ状にしてシートの端に置いていく。

一つ、一つ、端から端まで置いていく。

こうして出来あがった苗床に水を入れてヒタヒタにする。

水口も空けておいて近くにある水路へ垂らしたポンプ。

水が溜まる板で堰きとめておく。



ガソリンで動くポンプ。

紐を引っ張ってエンジンを回す。

ぐいぐいと水を吸いこんで吐き出す水路の水。

苗箱にあたるぐらいが丁度いいと話す。

苗代作りを終えれば豊作願いの祈り。

栽培しているイロバナを刈り取る奥さん。

イロバナは一本でなく数本だ。

一本であれば良くないと話す婦人。



それとともに持ってきたオコナイのお札。

3月3日は新福寺本堂の観音堂内でオコナイが行われる。

度々取材している村の人たちが桃の節句とも呼んでいる村の行事である。

本堂に上がるのは杵築神社の座中に婦人たち。

学校の授業を終えた子どもたちがやってくる。

主役の子供たちだ。

住職が唱える初祈祷の勤行。

お経の途中に発した「ランジョウ」。

それを合図にフジの木で激しく叩く内陣の縁。

今年は家族揃って有馬温泉に出かけていたので拝見できなかった小林町のオコナイ。

心の内にひそめる悪魔を祓う作法だと話していた住職。

オコナイで祈祷されたお札は「新福寺 寶印 牛頭天王」の墨書に宝印が押されている。

小林町の鎮守社は祭神が素戔嗚命の杵築神社。

江戸時代には牛頭天王社と呼ばれていたようだ。

ごーさんのお札に書かれた「新福寺」と「牛頭天王」。

かつては僧侶と宮座で行われていたと思われる印である。

オコナイを終えれば奉ったヤナギの木の枝を折る。

パキパキと折って4cmぐらいの長さにする。

それを束ねる括りはランジョー作法をした叩き棒のフジの木。

剥いだ皮で括る。

初祈祷されたお札折りたたんではヤナギの木に挿す。

イロバナとともに持ってきたお札は泥を塗り固めた場所に挿す。

手を合わせて豊作を願った。

2年前に話していた座中の一人がHさんだ。



苗代作りの時期はツツジの花が多い。

赤や桃色に白色もある。

色彩がいいこともあるから添えているがが、そもそもは「実のならない」花を添えるのだと云っていた。

6月に入れば田植えをする。

昔は女の人が四人。

タウエサンと呼ばれる女性に来てもらって田植えをしていた。

二条田植えの機械が導入されるまではそうしていた。

今では四条の田植え機。

不要になった二条田植えの機械は柳生の人にあげたという。

当時の苗代は直蒔きだった。

機械化されるようになって苗箱が登場したという。

その田植えは今年の6月9日にされたようだ。

(H25. 5. 3 EOS40D撮影)

今市の苗代作り

2013年08月22日 06時50分39秒 | 奈良市へ
延享期(1744~)の地権書(検地帳)が残されているという奈良市今市町在住のM家。

ご主人の話しによれば、享保九年(1724)に郡山城転封された柳澤吉里の時期と重なるそうだ。

現在の住まいは今市であるが、檀家寺は大和郡山市洞泉寺(とうせんじ)町内にある浄慶寺。

かつては奈良の七条村にあったが天正時代の戦火によって当時の郡山城主であった増田長盛が現在地に移したと伝わる。

「理由は定かでないが、城下町を追い出されて今市に居を構えることになった」と話すご主人。

今市には宮座があるが、転居人を受け付けられず未だに座入りは認められていない。

それはともかく、柳澤家以前の殿さんが転封されたときに連れてこられた家臣だったかも知れないと話す。

時代を遡る家臣の話題をしてくれたM氏はこの日が苗代作り。

先月末に伺ったときは5月1日にされる予定だった。

急な用事ができたことから翌日の2日になった苗代作り。

その場は大晦日に田んぼのオシメサンを立てた処だ。

苗箱は400枚。土を入れてモミオトシは済ませていた。

土を被せて軽トラで運んできた苗箱である。



家族揃って一枚、一枚を丁寧に苗床へ置いていく。

下部には穴空きのシートを敷いておいた。

苗が育って根が張った苗箱から剥がしやすいようにするためだと話す。

並べた苗箱を保護するシートも被せていく。

ロールの養生シートが外れないように作業を進める。

水路を堰きとめて田んぼに水を入れる。

水路を流れる水は東の窪之庄町から田中町を流れてきた菩提仙川の水だ。

作業をしながら語られた山の水利権。

東にある山林には各村の飛び地がある。

油阪町、芝辻町は奈良市内の住宅地であるが、東山間に飛び地があるそうだ。

山の飛び地は永井町、横井町にもあるそうだ。

大和郡山市の石川町にも飛び地がある。

天理市の田村は龍王山で、もう一つが椿尾の五ケ谷になると云う。

平坦盆地部にある村落に必要な農業用水。

水利権は山にもあり、その地はほど遠い山間の飛び地である。

生活に欠かせない水の源は山、川、里へと繋ぐ。

油阪・芝辻には「ダイブツセキ」と呼ばれる小字があると云う。

東大寺の大仏殿の礎石を採っていた跡地がそうだと云う。

今でも2mぐらいの大きな岩がゴロゴロしているらしい。

今市の小字に「古川」がある。

小字チバミより西方の小字西垣内と小字脇田の間である。

現在の菩提仙川から南西へ角度をつけるように斜めの小字地が「古川」だ。

それは運河であったとM氏が推測される人工の川であったのだろう。

氏が話す小字に「コマツナギノバ」がある。

ここより広大寺池の方角に松の木が生えていた。

その松に繋いだ馬の綱は弘法大師の馬だったと伝わる。

西の方角には「チャノマエノタカハシ」がある。

漢字を充てれば「茶屋の前の高橋」というわけだ。

そこは上街道。

古代の幹道であった中ツ道である。

その街道沿いにある大和郡山市の白土町・石川町・新庄町鉾立住民は橘街道と呼ぶ人が多い。

M氏が所有する田んぼからドカン(土管)が出土したそうだ。

当時の栽培主力であった綿の栽培には大量の水を要する。

スイカ栽培と同じように排水しやすいように施設した土管であったのだろうと話す。

今市辺りは茶の生産や、カイコさんに食べてもらう桑畑もあったそうだ。

そうこうしているうちに次の作業に移ったM家。



苗代の両端に一本ずつ挿していく細い支柱の棒。

僅かながら斜めに挿していく。

それはカラス除けだと云う。

ヒタヒタに水を張った苗代田の水口をクワで開放する。

水を逃す箇所の傍に挿したのは春日大社の御田植祭神事でたばった松苗だ。



2本の松苗とともに挿すのは家で咲いていたお花。

いわゆる「イロバナ」である。



水口を泥で埋めて張った水が流れないようにして一日仕事の苗代作りをようやく終えた。

(H25. 5. 1 EOS40D撮影)
(H25. 5. 2 EOS40D撮影)