マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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確定申告

2011年03月31日 08時55分06秒 | メモしとこっ!(確定申告編)
昨年に続いて確定申告に行ってきた。

場所はといえばこれまた同様に奈良市登美ケ丘にある西奈良県民センターだ。

初めてだった昨年は税理士さんに教わりながら申告をした。

それはというのも原稿料が入ったからその手続きをした。

今年も原稿料なので要領はつかめている。

その原稿料は三つある。

主には新聞連載したやまと彩祭のものだ。

その他には音楽教科書の写真、それに下ツ道のエッセイだ。

合計するとそれなりの支払い調書の金額になった。

これらには取材費用がかかっている。

いわゆる必要経費というものだ。

フイルム代、現像代にデジタルCD化代が撮影に関する費用でその他にガソリン代となる旅費交通費、携帯電話の通信料となる。収入と費用といえばはっきりいってそれこそとんとん。

収入の9割が費用にかかっている。

儲けはわずかだ。

源泉徴収額は支払い額の1割。

源泉徴収額から費用を引き算してもあまりすぎる。

余るということは返戻金があるということだ。

数万円の額だが生活費のたしにはなる。

来年の確定申告ではおそらく原稿料はないだろう。

むしろ年金収入の確定申告になることだろう。

2月24日には申請通りの額面の還付通知が届いた。

(H23. 2. 9 SB932SH撮影)

保護

2011年03月30日 07時31分55秒 | ぽつりと
買い物を済まして家に戻れば次男が玄関に立っていた。

「これ、見るっ?」となにやら袋を差し出す。

何って言えば「鳥」と返ってきた。

死んでいたら鳥インフルエンザかもわからないので保健所に届けやんと・・・とおそるおそる袋の中を覗きこんだ。

「何か、わかる?」と問いに一目見てヒヨドリと答えた。

「生きてるで」と言った次男。

なんでもカラスに痛めつけられていたそうで、可哀想だと保護してきたそうだ。

血は少し。

手のひらでおとなしくしているヒヨドリ。

目は生きている。

元気やったら放鳥してやろうと下水道工事をしている庭に置いた。

ピクっピクっと身体が反応したと思いきや立ち上がったヒヨドリ。

ぱっと飛び立ちあっちやこっちへの枝に移動する。

元気やったんやと手を振って見送った。

小動物を発見したら家で保護しようとする次男。

やさしい心をもっている。

その次男が2月13日にモンゴル、中国に続いて3回目の海外渡航に関西空港から旅立った。

香港経由でインドのデリーへ、そしてムンバイへ。

そこで一週間滞在したのちにアフリカに向かう。

目的地はケニア。キリマンジャロへは行かないらしい。

再びインドへ戻って、帰ってくるのは4月の春に・・・。

二日後に到着したムンバイからメールが届いた。

切符がとれたらしく16日にはナイロビに行くそうだ。

(H23. 2. 9 SB932SH撮影)

始まった下水道工事

2011年03月29日 08時33分56秒 | ぽつりと
市下水道の通樋工事ができたのが昨年。

それより市の通達があって家への引き込み工事などは「私」でしなければならない。

これにはそうとうの費用がかかる。

お隣やその向こうの家も終わった。

残るは・・・。

幾たびか通達が届いている。

「はよせんか」ということだ。

そんじょそこらでかたづけられる費用ではない。

そのまま放置するわけにもいかず、隣近所へも迷惑がかかる。

数社の工事業者に見積もりをとった上で決断した。

周りにあった植木は除去した。

ほったらかしにしていたがらくた鉢も撤去した。

ガレージを掘り起こして管を埋める。

新築した当時以来の大工事が始まった。

4日後の11日には雪が降ったから工事は中止。

休日を挟んでその後の14日も積雪で中止。

15日にようやく完成したがコンクリートが固まるまでは車を止めることができない。

減免措置もなく工事費用は25万円もかかった。

(H23. 2. 7 SB932SH撮影)

南矢田御日待講祭

2011年03月28日 08時35分06秒 | 大和郡山市へ
清水垣内のとんどを終えたその夜は南矢田公民館で御日待講祭が行われる。

以前は2月5日と決まっていた。

それも清水地区と垣内地区、それぞれで行われていたお日待ちだった。

回り当番のトーヤ(当家)の家で掛け図を掲げて祭礼をしていた。

その家をヤドと呼んでいた。

当時はパック詰め料理をいただいて一晩を明かした。

お日待ちはお日さんが出てくるまでヤドで籠もる。

長い夜を過ごすには時間をもてあます。

ばくちをして時間をつぶしたと長老は話す。

パック詰め料理になる前はヤドで炊きあげられた料理だった。

サバの炊いたものかイカの煮付けだったそうだ。

それにはダイコン、ニンジン、ドロイモをカシワ肉のだしで炊いていたそうだ。

ごはんは白飯だったという。

それを肴に酒を飲んで一晩明かす日待講の行事だったという。

それぞれの地区で行われていた行事は15年ほど前に合同になり矢田坐久志玉比古神社宮司による祭典が行われる。

祭壇の後方には掛け図が掲げられた。

洗い米、小モチ、海の幸や里の幸などの神饌を供えて始まった。

神事は宮司一拝、祓えの儀などだが神さんを呼ぶ降神の儀では灯りが消され真っ暗にする。

「オオォーー」の神降ろしと同時に室内の照明が消された。

祝詞奏上、玉串奉奠などのあとは再び照明が消された。

今度は昇神の儀式だったのだ。

神事を終えてほどなくお神酒が配られ、神さんに感謝をこめて乾杯された。

新しい年を迎える立春の翌日だったお日待ち。

籠もることはなくなったが、近年には立春過ぎの日曜日になった。

来年のお日待ちには垣内の掛け図(アマテラス)が掛けられる。

合同行事になったことから掛け図は毎年交替するという。



日輪光背をもつ仏画のような掛け図はどうやら三社託宣の三尊と思われる。

神道信仰の対象として室町期から江戸時代にかけて広く民間に普及したとされる。

中央に伊勢の天照太神宮(正直)を配し、右が石清水八幡大菩薩(清浄)で左が春日大明神(慈悲)。

生き方に正直で、清き心であれ、慈悲を尊べと人々に対する誡めの言葉などが書かれたものであろう。

だが、私自身はまだまだ修行ができていないのか判読できない。

(H23. 2. 6 EOS40D撮影)

清水垣内のとんど

2011年03月27日 06時43分21秒 | 大和郡山市へ
矢田の寺村から南に行けばそこは清水垣内。

ここでもとんどが行われる。

畑のほぼ中央がとんど場。

街道の辻だったそうだ。

日が暮れるころ各家が持ち寄ったワラ束を積み重ねる。

正月を飾った注連縄や古い御札もとんどに積んだ。

1本の青竹も持ってきている。

これはとんどの火をもらって家まで持ち帰る火種の竹だ。

燃えるとんどに突き刺してほどよく焼いた。

風邪がきついと消えてしまう。

大事な火は神棚の灯明に移す火なのだ。



風を避けて提灯に火を移す人も居る。

これなら風が吹いても安心だという。

ようやく火が点いた竹は消えぬようゆっくり歩いて帰る。

途中で火が消えたと戻ってくる人もいる。

モチを焼く人も見られた。

アルミホイルに包んだモチは火中に入れる。

熱く焼けたモチも持って帰る。

子供の時代には書き初めの習字も燃やしていたそうだ。

上達すると言われたが「上手くならんかった」と回想される。

とんどを終えた夜はお日待ちだった。

そのお日待ちは5日と決まっていたが集まりやすい立春明けの日曜日になった。

(H23. 2. 6 EOS40D撮影)

寺坂深谷垣内のとんど

2011年03月26日 07時35分33秒 | 大和郡山市へ
大和郡山の西の端になる矢田町。

矢田山の中腹には矢田山金剛山寺がある。

お寺を下るとそこは寺坂と呼ばれる地区。

そこで恒例の大とんどが行われる。

深谷(ふかだに)地区との合同行事だ。

数年前までは2月6日だった。

その日は小学校の創立記念日。

それに合わしているのだと南矢田自治会のMさんは話す。

今年はたまたま同一日となったが来年は5日になるという。

昨年に子供たちも集まりやすい日曜日に変更されたのだ。

かつては子供たちがとんどで燃やすシバを集めていた。

各戸を巡ってワラを一束ずつ集めた。

そんな記憶があるという。

正月飾り、竹、木材などで組まれた大きなとんどは昼過ぎに作業を終えた。

点火時刻が近づくにつれ地区の人たちが道具を持参して集まってきた。

なにやら鉄製の四角いものだ。

脚がついている鉄編み目の道具。

それはモチを焼く道具だという。

十年ほど前に鉄工所で作ってもらったもの。

そこにとんどの火をもらってモチを焼くというのだ。

この日だけに使われるモチ焼き道具は年代物のように焼けて錆び色に染まっている。

「とんどのモチを食べたら風邪を引かん。無病息災のモチなのだ」と話す。

風の向きを考えて火を点ける場所を決める。

火を点けるのは長老だ。

火を点けた種火のワラでとんど周りに火を移していく。

あっという間に燃え上がる。

傍らでは小さなとんどが見られる。

服忌の家では大とんどに手をいれることができないのだという。

遠慮しながら小さなとんどを焚きつけている。

焼けた竹ははぜてポン、ポンと音が出る。

山間に反射して大きな音になった。

とんどを知らない人はなにごとがあったのだろうと思うだろう。

間違って消防車を呼ぶことはなくとも、万が一のために消火器や大量の水を入れたタンクも用意している。

長老たちが子供のころは書き初めした習字も燃やしていた。

燃えた書は天まで上がると上達すると言われていた。

モチは焼けた地べたに石を組んで焼いていた。

炭になった火種は持ち帰っておくどさん(竈)の火に移した。

そういった風習は生活文化が変わったので昔のことだと話す。

そうこうしているうちにモチを焼く炭ができてきた。

鉄製のスコップでモチ焼き道具に投入する。

その上は金網。

そしてモチを乗せていく。



白いモチ、赤いモチ、緑色のモチと色とりどり。

黒豆、小エビ、青ノリなどが入っている。

それらは各家で作られた自家製のモチだ。

シソが入っているモチもある。

グループホームの人たちは「年寄りやさかいのどをつめんよう、食べやすいように」と言って、モチ米、うるち米を半々にしたモチにしている。

これをドヤモチと呼んでいる。

「火の粉が飛んできたらご利益があるのよねえ」ととんどに近づく。

各家もドヤモチを焼いている。

ウルチモチ、コゴメモチ、コガネモチとも呼ばれているドヤモチは食べやすく美味しい。

塩味が利いているモチもある。

多種彩々な味は家庭の味。

それはイナカモチとも言うそうで呼び名も多彩だった。

(H23. 2. 6 EOS40D撮影)

企画展ラストデイ

2011年03月25日 08時40分48秒 | 民俗を観る
企画展、最後の日となった今日。

松尾寺でたばった牛玉宝印書を展示されたと連絡いただいたので訪問した。

観光ボランテイアガイドクラブのSさんとIさんがおられた。

カルタの確認だったそうだ。

正月明けてからも展示品が増えていることをと伝えたら話を聞きたいというので解説した。

その場には交流館の利用者もおられた。

二人は昨夜に案内した人たちだ。

屋外の民家とか民具に興味があるという。

それもそのはず建築関係だった。

もう一人は古文書クラブの会長さん。

昨日に施設に行ってラストデイに気がつかれ大慌てで来館したそうだ。

こどもサポートセンターのIさんも来てくれた。

番条のお大師さんを見ている。

それもそのはず地元の人なんですもの。

そして民俗研究者のTさんも来てくれた。

バレンタインデーのチョコレートを持って・・・。

合わなかったらどうするつもりだったんだろうか。

翌日に観光協会のNさんや女王卑弥呼のOさんからも家族で行ってきましたと報告を受けた。

後日には地元で踊りをしておられるSさんも行ったって・・・。

みなさんほんまにありがとうございました。

(H23. 2. 6 SB932SH撮影)

今市田んぼの注連縄

2011年03月24日 09時20分49秒 | 奈良市へ
やまちゃん先生から耳寄りな情報を寄せていただいた。

画像を見るにはそれはまぎれもない田んぼの中にある注連縄だ。

注連縄は正月飾り。

とんどで燃やされることが多い。

2月を過ぎた日だけにいくらなんでも残ってはいないだろう。

先生は先月の22日にそれを確認したというからひょっとしたらと思い探索してみた。

田んぼの注連縄は広大寺池の西側にあった。

トラクターで田起こしをしている人が居る。

時期的には荒起こしだ。

その付近を探索してみればそれがあった。

竹を挿したものが畑の中にぽつんとある。

輪じめの注連縄が掛けられており、そこには風雨にさらされたウラジロやユズリハも見られた。

それは2本ある。

付近で農作業をしていたご婦人の話ではそこは苗代を作る田だという。

床の間に飾る注連縄と同様にオシメサンと呼んでいる。

年末の日に苗代をする田んぼにもそれを挿しておく。

こうしておかないと気になって仕方がないと話す。

2本あるのはそれぞれのお家の苗代だそうだ。

その時期には花を飾って春日大社からたばった松苗を挿すという。

今市の自治会役員が大社へお参りに行って授かってくるそうだ。

池側に寄ればもう一カ所が見つかった。

そこではダイダイが残っていたが野鳥たちに囓られている。

田んぼの神さんとも思われる役目を終えたオシメサンはとんどで燃やされるらしい。

他所で見られるような大とんどではなく各家でされているそうだ。

隣町の池田町にもあるのだろうか。

(H23. 2. 5 EOS40D撮影)

理科フィールドワークin平城宮跡+水上池

2011年03月23日 09時11分53秒 | 自然観察会
ほぼ一年ぶりに開催された奈良教大附小理科フィールドワーク。

今回の平城宮跡+水上池となると2年ぶりだ。

参加人数は毎回多い。

今回も55家族で150名の参加者となった。

これでは観察しにくいので赤組と青組の二つの班に分かれて逆方向で周回する。

平城宮跡駐車場から北へ進む。

そこから水上池へと向かう。

いわのひめご陵、こなべ陵墓をぐるりと回って戻ってくる。

観察する距離は短いが、ここを3時間かけて野鳥を見て回る。

題して「佐紀路 見てみて!冬の鳥」だ。

平城1300年祭が終わったあとの宮跡は自然を取り戻している。

双眼鏡を首からぶら下げてさぁ行きましょう。

スタッフも大人数だ。

解説するのは専門家の野鳥の会の先生たちに私たち野遊びサポーター。

安全面などはたかまど会のみなさん。

交通誘導など、いつも対応してくださることに感謝する。

愛嬌のあるスズメから見てみよう。

こういう初期の段階で双眼鏡の使い方を知るのだ。

始めに何をみるか。

判りやすい、馴染みやすい鳥から入れば楽勝だ。

まずは中央でピントを合わせ。

こんどは右目だけでピント合わせ。

これで完璧と思いきや両目の巾は人さまざま。

狭めてちょうど丸一点になればいい。



草むらにはいろんな種類の鳥が居る。

ツグミ、ハシボソカラス、ムクドリ、ヒヨドリ、モズ、ケリなどだ。

大きさ、鳴き声、飛び方などそれぞれの特徴を解説する。

上空を大きな鳥が飛んで行った。

トビである。

トンビと呼ばれることが多い。

駐車場辺りで旋回して東に飛んでいった。

水上池に行けばそこは水鳥がずらりと並ぶ。

大きな鳥なので見分けも容易い。

遠くにある桟橋に居たアオサギやコブハクチョウも肉眼視野に入る。

コブハクチョウはいつのころか判らないが人間が住み着けたものらしい。

エサを撒いて餌食をしている人も居るらしい。

こうして日本の自然界にいない鳥が住み着いてしまったのだ。

池にはコガモ、カルガモ、マガモがスイスイと泳いでいる。



カワウはのんびりしている。

アシの向こうに鳥の陰が見える。

近くなのだが双眼鏡で覗いてみよう。

そこには2種類のサギが居た。

エサを求めて夜に行動する鳥たち。



ひとつはホシゴイ(ゴイサギの幼鳥かも?)で隣りにいたのはゴイサギ。

私自身は久しぶりに見るゴイサギだ。



ホシサギは始めてみる鳥だ。

白い姿は幼鳥かと思った。

もう少し歩いてみよう。



池には仮面ライダーの悪役かと思ったオオバンがいる。

そしてバンもいた。

大きさも違うが嘴の色も違う判りやすい鳥だ。

遠くにはオシドリが数羽いた。

木の茂み辺りをウロチョロしている。

美しい色合いだけに感動する子たちも多い。

そして発見したのがヒクイナ。



木々の下でこれもまたウロチョロしている。

最初に見たときは何が動いているのか判らなかった。

大きさはツグミぐらいであろうか。

それよりもう少し小さめか。

3羽もいた。

ここではクイナの目撃例がある。

下見された先生方はそれを見ている。



その傍らにあるのがゴミの山。

近くの人は野鳥たちが可哀想だとゴミ集めされた。

綺麗な佐紀路を歩いてほしいと清掃されている。

ゴミを捨てる人と清掃する人。

環境は人間の手によってどうにでもなるのだ。

陵までもう少し。

ここで分かれて出発した青組と接近遭遇した。

草むらのなかをアオジが囀り飛び交っている。



歩道を行けばそこにジョウビタキ。

目と鼻の先まで寄ってきた。

人慣れしているのだろうか。



♀も♂も同一場所で見られた。

そこに自転車が何度も通る。

歩道はサイクリングロードになっていた。

こなべ池にはカワラヒワ、ハシブトカラス、キセキレイ、ミコアイサがいた。

そこへカワセミが一直線で飛んでいった。

再び水上池に戻ってカイツブリ、シジュウカラが。帰り道にホオジロ、キジバトやヒバリが。

短いコースだったが見た野鳥の種類は多い。

合流して赤、青組の発見鳥を確認すればまだあったそうだ。

メジロ、ウグイス、ベニマシコ、アトリ、アオゲラ、ハクセキレイ、ハイタカを加えておこう。

初参加のK先生は「その場所、そこに居るのを見ることができたのは奇跡に近いので感動した」と話される。

心配された天候も恵まれた。

インフルエンザの影響も少なかったようだ。

アンケートを書いて手にしたお土産は子供が慈光院ツバメ。

グルグル回して楽しもう。

大人は野鳥の写真。

お気に入りの野鳥は目や心に焼き付いたであろう。



今回もいただいた手作りクッキー(マドレーヌ)を載せておこう。

元PTAの方の差し入れだ。

(H23. 2. 5 EOS40D撮影)
(H23. 2. 5 Kiss Digtal N撮影)

野依白山神社節分豆占い

2011年03月22日 07時23分34秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
明日は立春。旧の新年を迎える。

その前日は節分で一年間の天候を占う行事が野依の白山神社で行われている。

社務所にやってきた総代、区長に一年当番の大頭と小頭。

氏子たちもぞろぞろとやってきた。

炊事場を預かるのは両頭の隣り近所。

お茶やお菓子、お酒の接待に追われる。

座敷にどんと置かれたのが鉄製の火鉢。

錆具合が年代を現しているが記銘は見られない。

火起こししたクヌギの炭が燃えている。

ここが占いの神事の場となるのである。

区長の挨拶で全員は本殿の前に座った。

灯明の明かりだけが怪しく揺らぐ。

黒豆や大豆の他野菜など神饌を供えて始まった。

白山神社に神職は存在しない。

集まってきた人たちだけで般若心経が唱えられる。

暗闇のなかに聞こえる氏子の唱和。

心経は3巻唱えられた。

社務所に再び座った氏子たち。

そろそろ始めようかと火鉢に炭が加えられる。



炭の投入、炭火をじっとおこす二人は火鉢から離れられない。

真っ赤に燃えた炭火は高温の色になってきた。

火鉢周りにまんべんなく火がおきた。

そうして三方から選び出された黒豆は12個。

火鉢に橋渡しされた鉄製の皿に乗せられる。

それは火箸を折った一片である。

側はくるりと変形しているから豆は転がらない。

これからが長い時間を要するのだ。



氏子たちは酒を飲み交わして豆が焼けるときを待つ。

なんでも数時間後に豆が焼けて白い灰と黒い灰が出現するらしい。

それの出現具合で天候を占うというのだ。

白い灰は晴れ、黒いのは雨天だ。

判定は総代を区長が行う。

それによって作物のできに影響を与えるというのだから判定は責任重大。

昨年の結果は社務所に公表している。

1月は雪が多い月だった。

それはまさしく当たっている。

例年、6、7割は当たっているという。

黒豆を置く位置は決まっている。

恵方に向けて2月、3月・・・・1月の行列なのである。

節分の月に行うのだから2月から始まって1月までの一年間である。



今年の恵方は南南東。

じわりじわりの炭火が燃える。

しばらくすると豆から水分というか油のような液体が出だした。

三十分ほどすると豆は黒光りになった。

「もっと継ぎ足さんと焼けんで」と長老から指示がでる。

火力を検分しているのだ。



せかしたらあかんが、何度も何度も炭を入れて継ぎ足す。

その火の温もりが室内に充満するが、酸素もついでに不足するから玄関は開放している。

両頭はほっぺが真っ赤か。

身体全身がほてる。

ストーブにあたっていた氏子たちは寒いという。

それもそのはずプロパンガスが切れたのだ。

それはともかく1時間半を経過したころだ。



一列に並んだ黒豆に炎があがった。

一斉に燃え上がったような感じだ。

焼け付く温度に達したのであろうか。

炎がでたらぼちぼちやという。

そのときだ。黒豆は白くなった。

全部ではない。ところどころだ。

その状況を確かめにくる氏子たち。

視線は火鉢の黒豆に集中する。

それからしばらくは焼ける状況を見続ける。

変化が見られなくなったら豆の検分が始まる。

およそ2時間が経っていた。



総代と新区長が覗き込んで判定する。

台紙に書いた丸い形。

そこに鉛筆で仮の線を入れる。

あとで黒い部分に墨をいれるのだ。



こうして節分の豆占いを終えた。

かつては24時から始めていた。

サラリーマンも多いことから翌朝の出勤に支障がでるということで徐々に開始時間を早めた。

当時は朝方までかかったそうだ。

江戸時代から続く豆占いは天候に左右されやすい農業の祈りでもある。

晴れの日も雨の日も重要である。

5月5日はハレの節句オンダの行事日。

それまでに植え付けしなくてはならない。

雨が降り続ければ田植えの日程も崩れる。

晴ればかりなら田んぼの水も心配だ。

農作業を営む人にとっては重要な行事。

不思議とその年の天候結果が現れる。



神前に供えた黒豆は持ち帰って神棚に供える。

「雷が鳴った時には豆を一粒食べると神さんが守ってくれるので安心します」とご婦人はいう。

年越しの豆を喰えば鬼が嫌がる。

その鬼は雷としてとらえられた。

雷は鬼となれば雷に豆。

豆を食えば怖い雷(鬼)は落ちてこないと信じてきた。

雷が落ちないように豆を食う。

いわゆる雷除けのまじないとされてきたのであろう。

このことはなにも野依に限ったことではなく全国的にある魔除けの風習(ことわざ)のようだ。

(H23. 2. 3 EOS40D撮影)