マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

飛鳥坐神社の夏越し大祓い

2018年08月09日 09時05分49秒 | 明日香村へ
今年の3月12日

明日香村上(かむら)の薬師堂で行われたハッコウサン行事に出仕されていた飛鳥坐神社の飛鳥宮司さんにお願いした。

その行事は大字飛鳥の飛鳥坐神社で行われる夏越し大祓いである。

茅の輪潜りに藁で作った舟があると知って、それを拝見したくお願いした取材を許可してくださった。

条件は神事の進行を妨げない、参拝者に迷惑をかけない、ということである。

飛鳥坐神社の夏越し大祓いに藁舟があると聞いたのは平成28年だった。

時期は覚えていないが写真家のKさんが、教えてくださった「舟」である。

その「舟は」奉ったあとに近くの川に流すということだった。

これまでまったく存じていなかった飛鳥坐神社の夏越し大祓いである。

ネットをぐぐってみたら、確かに「舟」を奉っているシーンをとらえていたブログがある。

半年間の穢れは身代わりのヒトガタ(人形)に移す。

参拝者、祈願者たちの穢れを「舟」に詰めて川に流すあり方である。

「舟」は祓えつ物(はらえつもの)である。

祓えつ物を直に拝見することはできないが、所作される祓えつ物儀式を拝見した行事がある。

一つは三郷町の龍田大社

もう一つは橿原市曽我町の天高市(あめのたかち)神社である。

いずれも6月30日の大祓。

半年に一度の夏越しの大祓いに見られる神事作法である。

行事は午後4時から始められる。

先に拝見しておきたい茅の輪。

高さは2m以上もある茅の輪の両側に支えの杭を打ち、笹竹を立てていた。

大祓いの儀式が始まる前。



一人の男性が頭を垂れて茅の輪を跨いでいた。

なんでも遠方の地からやってきたという旅行者。

参拝を済ませたいと先に跨いで階段を登っていった。



ちなみに茅の輪は前日までに飛鳥宮司お一人が茅を刈り取ってきて、一人で組み立てた茅の輪。

心棒は竹を3本繋いで立てたという。

参拝者が座る場は2カ所。

一つは立てた茅の輪の真ん前。

もう一つは社務所の前。

暑い盛りに日差しを避けてもらうにテントを立てた場が座る席。

15分前になっても参拝者はまだ来られない。

鳥居のすぐ近くに川がある。

その付近で遊んでいた小学生。

川に何かを落としたようで、木の棒で手繰り寄せて回収していた。

川にはまりなや、と注意すれば素直に応じる子供たち。

もう一つの拾い物は屋根の上にある。

その棒をもって落としてあげたら喜んでいた。

そうこうしているうちに大勢の参拝者が集まってきた。

おかげさまでテント内の椅子は満席である。

祭壇は神事の場になる祓戸社。

祭神は瀬織津比賣神、速開都比賣神、気吹戸主神、速佐須良比賣神の四神。罪や穢れを祓い去る神様とある。

神饌御供は予め供えていた。

上段にお神酒、水に洗い米。

シイタケにコーヤドーフの盛り。

シメジにニンジン、サンドマメの盛り。

トマト、ナスビにチンゲンサイ。

パイナップルにバナナ、夏柑などなど。



献酒の酒が並ぶ前にある造り物は小型の茅の輪。

その横にある朱の色は御守だ。

下段中央に置いたのが、祈願者たちの穢れを納める祓えつ物の「舟」である。

この時点では何も詰めていないので中央は膨れていない。

その左脇にあるのは祈願者が氏名、年齢を書いて送ってきたヒトガタ(人形)であろう。

当日に参拝できない願主が予め送ってきたヒトガタである。



先ずは祓詞に祓の儀である。

次に降神の儀、献饌と続いて夏越の祝詞を奏上される。



次に参拝者の人たちに切幣・ヒトガタを配布される。

参拝者それぞれが身の汚れを払う儀式である。

身の汚れは穢れである。

我の穢れはヒトガタにふっと息を吹きかけて移す。

それをそっと紙に包み込む。

その次に祓い清めるキリヌサ。

穢れを払う作法である。

半年間の暮らし。

知らず知らずに身についた穢れを払ったそれを回収して藁で作った「舟」に詰め込む。

穢れを封じ込めたということであろう。



参拝者たちの身を清めたキリヌサは足元に散らばった。

次は大祓詞の奏上である。



本来は参列者に向かって大祓詞を奏上するのであるが、祓戸社の四神に向かって奏上された。

夏越しの大祓は神さんの祭りではなく、村人や参拝者に対する祭りごとであると聞いている。

教えてくださったのは田原本町の村屋坐弥冨都比売神社の守屋宮司だった。

実際、飛鳥坐神社・神職の飛鳥宮司は「ほんとは皆さん方に向かって申し上げないといかんのですが・・・」と神事後に伝えられた。

これより始まるのが茅の輪潜りである。

宮司が、その作法を解説される。

茅の輪は本来、3度潜る。

まずは茅の輪の正面から入って左に廻る。

ぐるっと廻ってまた正面に戻る。

次の廻りは右回り。

茅の輪を潜ったら右へ旋回して、再び後尾につく。

そして再び茅の輪の正面に立つ。

茅の輪を跨いで一番初めと同じ左に旋回して正面に戻る。

つまり、左、右、左に廻る8の字廻りの3度潜りの作法であるが、2度廻りの作法の場合はこうするのです、と説明される。

まずはじめの廻りは右に旋回。

その場合の茅の輪潜りは右足から跨ぐ。

ぐるっと廻って後尾につく。

正面に戻って今度は左回り。

その際の足は左足から入って跨ぐ、と話されたら、参拝者は、足が右、左、どっちなのか、もつれそうになるわ、と声をあげたら会場はどっと笑いに包まれた。

そして宮司を先頭に前総代、氏子らに一般参拝者が茅の輪を潜る。



茅の輪潜りに唱和する唱詞がある。

「みな月の 夏越のはらひする人は 千歳(ちとせ)の命 延ぶといふなり」である。

つまりは「6月の夏越しの祓いをする人は、寿命が延びて千歳の命を得るということである。



ところで大祓詞に「瀬織津比賣神」や「速開都比賣神」の名が詠みあげられる。

その名は飛鳥坐神社の祓戸社の四神にある。

「罪と言ふ罪は在らじと 科戸(しなど)の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧 夕の御霧を 朝風 夕風の吹き払ふ事の如く 大津辺に居る大船を 舳解き放ち 艫解き放ちて 大海原に押し放つ事の如く・・・」。

「速川(はやかわ)の瀬に坐す瀬織津比賣(せおりつひめ)と言ふ神 大海原に持ち出でなむ 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐す速開都比賣(はやつあきつひめ)と言ふ神・・云々」である。

民の穢れを詰めた祓えつ物の「舟」は、ここ飛鳥の寺川から流されて大河の大和川へ。

そして大阪湾の瀬に流れつく。

そういうことだと、田原本町の守屋宮司に教わったことがある。

飛鳥の川も田原本町の川も皆、大和川に合流。

風が吹きほこる大海原の浪速の津に流れついて大阪湾に。



布引き裂き納めの作法はいつされたのか、わからなかった祓えつ物の「舟」を大事に抱えて、寺川に流す場に向かう。

総代に氏子、そして参拝者が後続について行列する。



寺川の今は水を堰き止めているから流れていない。

「舟」を流すにはある程度の水流が要る。

そこは前総代の権限で堰を開放した。



所定の地に着いたら流す場所に向けて榊で祓う。



その場から投げ入れる「舟」。

参拝者は物珍しそうに覗き込む。



流れる水流に身を任せて下流にくだった祓えつ物の「舟」はこうして見送られた。

大祓の式は流すことで〆るわけでもなく、皆揃って神社に戻る。



座っていた席に戻って始まった昇神の儀。

頭を垂れて式典を終えたが、茅の輪はそのままの形でしばらくは残される。



その茅の輪を潜る村の人。

観光客も交えて潜っていた微笑ましい情景を撮っていたが、その方向は逆向きだよ・・。



祭典を終えた時間帯は午後6時ころ。

長い影が伸びていた。



ちなみに式典にいただいた小型の茅の輪がある。

どうぞ持ち帰って祭ってくださいと云われた茅の輪はありがたく賜り、玄関に吊るした。

(H29. 6.30 EOS40D撮影)
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上・庚申さんのさなぶり参り

2018年07月16日 08時44分45秒 | 明日香村へ
ナワシロジマイと呼んでいる家さなぶりの在り方は、今年も無事に田植えが終わりましたので当家の豊作を願う家の祭りごとである。

住居を建て替えたことによってこれまであった竃から炊事場のコンロに移ったものの、今でもこうして祭りごとをしてきたのはFさんのお母さんだ。

昭和5年生まれの母親はこの年の2カ月前に圧迫骨折を患って難義していたという。

なんとか歩けるようになったものの、以前よりは身の安全を考えて行動するようになったという。

その母親が、いつもなら一夜明けた翌日に供える庚申さん参りをしてくださる。

私の記録・取材する点を考慮されて実施してくださる。

前年に取材させてもらった先祖送りや小正月の小豆粥御供参拝も気遣ってくれた。

ありがたいことであるが、外歩きに無理して出かければ、何らかのリスクを伴うのが怖い。

慌てないように、介助するつもりで同行させていただく庚申さん参りである。

昔は4軒の講中でしていた。

それぞれが家の田植えを終えたらF家と同じように竃に供えた苗さんを庚申さんにも供えていたという。

添えものなどを持って庚申さんに向かう。

急な坂道であるが、杖を搗いて歩く婦人の歩きに合わせて登る。

距離はそんなに遠くない。

F家より上にある家は3軒。

うち2軒が庚申さんの前に建つ。

広い場の崖上にあるのが庚申さんであるが、階段の高さに婦人は登ることもできない。

頼まれて私が供えることになった。



三把の苗さんを供えた庚申さんにある花立ては四カ所。

それぞれにお家に咲いていた花を立てる。

お花はカーネーションであろうか。

いろんな色が混ざっているカーネーションが綺麗。



線香立ては三つ。

それぞれにマッチで点けた火を移す。

燭台は二つ。

それぞれにローロクを立てて火を点ける。

準備が調ったところで庚申下に居る婦人に声をかける。



それを合図にそっと手を合してお念仏。

静かに唱える念仏は般若心経であるが、声は聞こえない。

心で念じる心経である。

できる限りお参りをしてきたが、お参りできない場合もある。

そのときは若い人が庚申さんに奉ってくれるので、私は下でこうして参っているという。

(H29. 6.11 EOS40D撮影)
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上・家さなぶりのナワシロジマイ

2018年07月15日 09時24分02秒 | 明日香村へ
明日香村の上(かむら)に、今もなお家さなぶりをされている家がある。

そのお家であるとわかったのは2年前に訪れた平成28年の6月12日だった。

家さなぶりを探すキカッケは我が家にあった蔵書である。

昭和62年4月刊の『明日香風22号』の中に毎季連載していた「明日香の民俗点描」に載っていた写真に喰いついた。

撮影並びに調査・執筆者は大阪城南女子短期大学講師の野堀正雄氏である。

私はお会いしたことがない。

31年前は仕事をしていたビジネスマンの私がお会いすることはない。

ましてや民俗どころか、写真にも興味をもたなかったサラリーマン時代。

大阪から越してきて大和郡山市内に住まいする。

そのころはとにかく奈良の歴史・文化を知ることであった。

どちらかと云えば古墳に興味があった。

そのときの出会いの本が季刊誌の『明日香風』であった。

だから、民俗の写真が掲載されていてもまったく頭に入っていないから「明日香の民俗点描」記事があったことさえ覚えていない。

ふとしたことから我が家の蔵書にあった『明日香風』の頁をめくることになった。

さて、その22号に掲載された「家さなぶり」である。

「明日香村の上(かむら)では田植えが終わると、苗三把を一つに結び、赤飯のおにぎりを三つ重ね、燈明、お神酒などと一緒に、竃の上に供えてお祭りをする。竃がなくなった現在も供える場所は替わったが、カミをまつる人々の心は今も変わらず、丁寧に神饌を調製し、供えてカミにまつる」とキャプションがあった。

三把の苗さんに三段重ねの赤飯が3皿もある。

3、3、3の数が並んだ御供である。

お神酒を供えてローソクに火を灯す。

その写真に品種らしきものを表示する札がる。

小さな文字であったが、拡大したら「四月弐拾五日 蒔キ■■秋晴」であった。

その頁をもって伺ったら、「うちでは・・・」ということだった。

掲載された写真は建て替える前の様相。

なんとなく覚えているが正確には・・、ただ、母親は今でもしていると云ったFさんの出会いは奇跡としか思えない。

その出会いから数々ある上(かむら)の村行事や垣内並びにF家の習俗を記録・取材をさせてもらった。

気都和既神社の村さなぶりに、薬師堂のハッコウサンの他、先祖迎え法要先祖送り、小正月の小豆粥御供参拝である。

そして、ようやく拝見するF家の家さなぶりであるが、この習俗を昭和62年3月に財団法人飛鳥保存財団が発行した『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(※集)-』によれば「ナワシロジマイ」と呼んでいた。

誌面の記載文は「田植えが終わると、苗を三把持って帰り、荒神さんに供える。苗はそのまま残しておき、七日盆の仏具みがきに用いるとよく汚れが落ちるという。上(かむら)では、苗三把、苗松(※飛鳥坐神社・おんだ祭の苗松)、お神酒、灯明、三つ重ねの赤飯のおにぎり、を荒神さんに供え、さらに、翌日、ムラの庚申さんに再度供えられ、稲の無事成長・豊作を祈願される。これは上(かむら)だけで見られる行事である。荒神と庚申さんの音が似ていることと、さらに庚申さんが百姓の神さんとして信仰されているために、生じてきた信仰行事と考えられる」である。



上(かむら)に着いた時間は午後1時。

Fさんは忙しくしていた。

朝から始めた田植えは奥さんと息子さんが手伝ってできる作業。

棚田は自宅より離れている。

午前中いっぱいどころか午後の時間帯もたっぷりかかる作業である。

家の前にある田んぼは田植えを一番最後にする場である。

例年、この場を苗代田にしている。

4月後半にしている苗代田。

育苗機は一切使わない自然にまかせる苗代作り。

今年は生育が遅かった。

水溜めしたのもこの月の3日から5日間の期間。

息子さんに応援を仰がなくてはならないし、自然相手に悩ませる毎年のこと。

「ナワシロジマイ」の日に田植えをすると一旦決めたら日程を覆すことはない。

当日が雨降りになってもカッパ着こみで作業をする。

昔は汗蒸れしない蓑であったが、現在はかいた汗でむんむんしながらでもしやんと・・と、いう。

本来なら田植えのすべてが終わった段階で母親がする苗取りであるが、この日は私の記録・取材のために作業を早めてくれた。

ありがたいことである。



何枚か畦に並べておいた一枚を門屋の前まで運ぶFさん。

置いたら、これから始めますので、と云った母親。

苗箱から適当に掴んで取り出した苗。



「こないぐらいに掴んで・・」と見せてくれる苗の本数は正確に数えられないが、割り合い多いように見えた一掴み量である。

根分けするような感じで、少しずつ解きほぐして苗箱から取り出した苗束である。

画面ではその取り具合がわかり難いが、右手、左手とも親指と人差し指を動かして数本ずつの苗を手前に、手前に取り寄せるという感じである。

その繰り返しで束にしてゆく。

手のにぎりいっぱいに寄せる苗の根を引き離すという具合。

根分けというか、株分けの方法である。

両手いっぱいに掴んだ苗束。

根分けした苗の根に土がいっぱい付着している。

両手にあった苗束を一つに合わせる。

そして、土付き苗を持ったままの状態で、手元に置いていた藁を手にする。



「こないして・・」と云いながら稲と根の間辺りにぐるぐる回して締める。

一本の藁では足りない場合もあるが、だいたいが3回締めで括って、外れないように挿しこんで止める。



苗束は三把。

「昔からそうしている・・」という苗三把はこうして取り揃える。

昔は水田の水で根洗いをしていたが、今は山から流れてくる水で洗っている。

流れる水は田んぼの間に造った水路。

そこに電動ポンプを設置している。

スイッチを入れたら吸い上げられた谷水が勢いよくホースから出てくる。



排出するホース水で根を洗う。

洗うというよりも泥落しである。

根に絡まった砂や土を水の勢いで落とす。

あらかたしたら、水を汲んだバケツに根を浸して洗う。

バケツに入れて上下に振ってジャブジャブ。

これこそ根洗いのジャブジャブにすっかり泥が落ちて綺麗になった。

昔は、直播きだったという母親。

撒いたモミダネが生育した直播き田に入って同じように何本かを集めて束にしていた。

今のような密集するようなものではなさそうだから、根絡みはそれほどでもなかったろう。

苗取り作業をしながら、かつてしていたことを話してくださる。

「昔は、今のような機械植えでなく、田んぼに入って手で植えていた。育った苗を採って、この日のように苗を集めていた。苗を摘んでは集める。集めた苗が相当な量になれば、それで1把。揃えた3把を竃に供えたという。その際には育苗した品種を札に書いて立てた」と話す。

品種の札を立てていた当時の様相は前述した『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(※集)-』に掲載された写真がそうだった。

「籾を蒔いたときにイロバナを立てる。立てた端っこに品種名を書いた竹の棒を苗代に挿していた」と云うから、供える段階で書いたわけでなく、苗代作りの段階で品種札を立てていたということだ。

苗が育って田植えをする。

田植えのすべてが終われば、3把の苗を竃に供える。

そのときに品種札は供えたところに移したということになる。

当時の品種は「穂の柔らかいアサヒボ。穂が堅かったのがカメジ。いずれも粳米だったけど、他に糯米もあった」」と思いだされる。

しばらくして当時の情景を思い出したように「昔は赤飯おにぎりをしていた・・」と云った。



門屋で三把の苗束を作った母親は玄関にたどり着く前にもう一度根洗いをする。

さらに綺麗にした苗さんは力強く地面に振って水を切る。



一旦は玄関にある靴箱の上に置いた三把の苗さん。

大きくなった金魚もびっくりする苗さん。



初めて見たわけではないと思うが、じっと見ている姿が面白くて撮っていた。

撮らせてもらっていた三把の苗さんはとてもお綺麗になった。

綺麗さっぱりに泥を落とした三把の苗は倒れないように纏めて一括りにしておけば、何十年も前にとらえられた「明日香の民俗点描」と同じような姿になった。

まずは、荒神さんに供える。

かつて竃があった時代の祭り方は、蓋の上に、であった。

今の竃はガスコンロ。

コンロの上に荒神さんはないから祭られないという。



仕方ないから荒神さんに最も近いその下にある水屋のところに供えようとローソクに火を灯した。

今までそうしていたが、今回は特別に、ということで、コンロの荒神さんに供えることにした。

竃は今ではガスコンロ。

昨今は現代的文明のIHコンロもあるが、火の神さんを祭る現代の“竃“である。

火があるところには”火の用心“の護符もある炊事場のコンロに丸盆で供えた苗三把。



傍に塩、洗米を揃えて、燭台のローソクに火を灯した。

手を合わせて拝むこともない荒神さんの祭り方であるが、誌面にあった赤飯はみられない。

こうした習俗は一般的民俗でいえば“家さなぶり”と呼ぶ在り方である。



平成22年5月10日に取材した奈良市旧都祁村・藺生T家の家さなぶりであった。

田植えのすべてを終えたTさんが供えた場はかつての竃さん。

今では炊事場になっているが、戎大黒さんを祭っている下に供えていた。

藺生はその場に煎った青豆とお米を包んだフキダワラも供えていた。

(H29. 6.11 EOS40D撮影)
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稲渕の苗代イロバナ

2018年06月02日 08時35分52秒 | 明日香村へ
この日は特に水口まつりを調査しに行ったわけではなかった。

目的地は吉野町の小名であったが、やはりというか、ずいぶん前に消滅していた卯月ヨウカのテントバナである。

何度か取材で世話になった総代の話しによれば、それなんやというぐらいだった。

代わりといえばなんであるが、榛原萩原の玉立(とうだち)に小鹿野(おがの)地区。

榛原ではもう一カ所の笠間で拝見した水口まつりに設える藁束である。

あれは「マクラ」だと云っていたのが嬉しい。

榛原から南へ下った吉野町の小名でも水口まつりをしていたという証言である。

「マクラ」の呼び名は大宇陀の平尾もそうであった。

地域を離れて同一表現があったのが嬉しい。

吉野町を離れてもう一つの目的地は明日香村の桧前。

着いた時間は午後6時半。

訪ねる家が見つからず断念した。

その代わりといっちゃあなんだが、桧前に来るまでに見つかった苗代田のイロバナ。

場所は稲渕である。

前年、取材したドウコウ(堂講)のお札は今年もあった。

もう一つ取材した苗代田は荒れたまま。



そこより少し離れたところにあった苗代田のイロバナ。



飛鳥坐神社のマツノナエもないが、イロバナがあっただけでも嬉しいのだ。

(H29. 5. 8 EOS40D撮影)
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八釣の情景を巡る

2018年04月30日 09時23分36秒 | 明日香村へ
明日香村八釣の苗代作業を見始めてから1時間が経過した。

すぐ傍を走る旧道を南に走って山越えをしたら飛鳥らしい風景が現われる。

辺り一体を巡る観光客が目につく飛鳥の石舞台である。

そんな観光地と違って、ここ八釣は農村風景が一面に広がる。

ときどき飛鳥坐神社へはどこの道を行けばいいのですか、と尋ねられることも多いそうだ。

この日も一台の車が迷い込んで尋ねていた。

カーナビゲーション全盛の時代にまだまだ不慣れな人もいるのだろう。

苗代作業の進展を見計らって、合間に八釣集落をぶらぶらする。

今年の1月15日も訪れていた八釣集落。

その日は小正月。

小豆粥を供える風習を撮っていた。

引計皇子神社、浄土宗妙法寺、庚申石、地蔵石仏、稲荷社などなどだった。



小正月の日の集落は真っ白だったが、苗代の日はレンゲ畑が一面に染めていた。

ニホンミツバチもぶんぶん飛んでいたと思われるが、この日は自然観察をする余裕はない。

地蔵尊辺りを歩く二人の女性がおられた。

一人はご高齢の女性。

板一枚を乗せた運搬車を綱で曳いていた。

箱運搬はソリではなく小型の4輪である。

空気入りの車輪だからたやすく運搬できる。

傍には若い女性が付いていた。

一人では危ないと判断されて共にしていた。

周回して苗代田に戻ったときには畑におられた。



その運搬機に腰かけて作業をしていた二人の後ろ姿が妙に愛おしくて撮らせてもらった。

横にある籠には丸々太ったタマネギがいっぱい。



二人は栽培した玉ねぎの収穫だった。

一服、休憩中に何を語っているのだろうか。

(H29. 4.30 EOS40D撮影)
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八釣・M家の苗代作りにイロバナ立て

2018年04月29日 09時44分25秒 | 明日香村へ
前日に訪れた明日香村の八釣。

以前もお願いしたが、あらためて苗代作りの取材願いをした八釣の総代家。

朝は9時前から作業をしていると云っていた。

長男、長女に次男も支援して苗代田作りの作業である。

種蒔は前日にしたという苗箱の枚数は700枚。

前回が430枚だったところを700枚に増やしたそうだ。

できるだけ例年に倣ってしているという苗代田。

すべてが終わったときに水口に立てる豊作願い。

それを拝見したくて願った記録取材である。

大字飛鳥に鎮座する飛鳥坐神社で行われる奇祭。

私はそう呼びたくないが、正式行事名は御田植祭り。

一般的には「おんだ祭」が充てられている。

奇祭の内容は当ブログでは触れないが、豊作を願う奉りものがある。

所作は見られない御供は稔る稲に見立てた松苗である。

八釣もそうだが、稲渕の住民もそれを「ナエノマツ」と呼んでいた。

松苗読みよりも相応しい読みと思った「ナエノマツ」である。

御田植祭りを終えた「ナエノマツ」は大字飛鳥の総代が持って来てくれるそうだ。

昨年の5月初めである。

稲渕の住民Mさんが苗代作りをすると聞いて訪れた日である。

稲渕に向かう道すがら。

走る車窓から見えた八釣に苗代があった。

その際にこれはと思って拝見したのが、水口まつりの松苗だった。

イロバナも添えていたので、近くに住む人であろうと思って尋ねたら、総代家だった。

応対してくださった婦人に伺った苗代のナエノマツを是非とも取材させていただきたくお願いした。

苗代作りの日は変動すると思われた。

念のためと思って訪れた4月29日。

明日、30日にすると云われて・・。

明日香村八釣の苗代作りの取材は一年越し。

ようやく実見できる総代家の有難さに感謝する。

朝の9時ころからパレットと呼ぶ苗箱を運ぶ。

品種はヒノヒカリ。

モミオトシは山土を使用する。

以前というか、時期はわからないが、昔は直蒔きだった。

苗代田の水は池水、若しくは吉野川分水の水をひく。

池は古池に新池もある。

“かじる”というのは耕すこと。

苗代田を平たんに均す道具はレーキ。

T字型のトンボとか、エブリ、サラエのことだろう。

始めに穴あきシートを敷く。

新聞紙を敷く。

防鳥に黒色の寒冷紗を張る。

白い幌シートの寒冷紗もある。

苗箱の枚数は多く、すべてを並べ終える時間帯は午後1時ころになる。

苗が育ってから田植えをするが、時期的には6月10日くらい。

概略を話してくれたのであらかたは想像できるが、やはり現地で間近に拝見するのが一番である。

少しでも早めに着きたいと思って出発した。



が、到着した午前の8時50分にはすでに苗代田にご家族が作業を始めていた。

予め均しておいた苗代田。

整えた苗床にまずは穴開きシートを敷いていく。

ロール状になっている穴開きシートがずれないように気をつけながら広げていく。

キャタピラを回転させて移動する、最大積載能力が300kgの三菱製運搬機のBP416ピンクレデイ

銘板に軽井沢・・ではなく、軽井技とある。

型番から探したら㈱築水キャニコム社製。

オークションにあったが、現在は終了している。



この運搬車に積み込んだパレットは40枚。

育苗している所から直接ここまで運んだわけではなく、軽トラの荷台にたくさんのパレットを運搬して、この運搬車に移し替えていた。

なぜに2度手間のようなことをされるのか。

近いところであれば、身体で抱えて運ぶのだが、パレットを置く度に戻って、次のパレットを運ぶので何度も往復しなくてはならない。

その労力を避けるために、一旦は運搬車に移し替え、そして遠くまで移動する運搬車の力を借りる。



これまでいくつかの地域でパレット運びを見てきたが、人から人へ手渡すか、数枚ほど重ねて運ぶ人力である。

どこともそうだが、距離が伸びるほど作業に負担がでる。

ある田んぼでは一輪車に載せて運搬していたが、畦道を転がすには不安定。

支える力も要るし、押す力も。

その点、この運搬車利用によれば、安全に、しかも負荷をかけずに済む。

中古でもお高い商品であるが、高齢でなくとも作業軽減にお勧めしたいと思った。

総代家の苗代作りは家族総出。



弟さんはこの方が動きやすいと靴、靴下を脱いで裸足姿。

私の小さい時の体験でも感じたぬるっと感。

妙にそれが気持ち良かったことを覚えている。

昨日、総代が話していた均す道具のレーキを見せてくださる。



回転するので操作に負担はなく楽々。

水を引いた苗代田はくるくる回している間にいつの間にか平らに均してくれる。

パレットを並べる前にしておいた苗床はこうして平らにしていたという。

力をかけることなく水平にコロコロ転がすだけで苗床が綺麗に整地される。

この農具の元々は種籾転圧機

目の細かい金網(※縦横2ミリほどの網目)を筒状にして押すことにより回転する、種籾を転圧し、表面を均一化して苗の伸び具合が全体的整えることを容易にするための道具である。

T字型のトンボとか、エブリ、サラエであれば、力が要る。

道具の荷重もあるし、力も要るが、この道具はとても簡単である。

総代が云うには、かれこれ40~50年間も使い込んだ道具。

市販品のようだ。



実演してくださった種籾転圧機を置いたところにある太い塩ビ製パイプは水路に流れる水を苗代田に引き込むために繋いだもの。

上流に据えた塩ビ製パイプの受け入れ口は紐で結わえていた。



必要な場合は紐を解いて水路に落とす。

そうすれば流れてきた水は勢いをつけて流れていく。

なるほど、と思った仕掛けである。

そうこうしているうちに軽トラで運んできたパレットのすべてを並べ終えた。

ひとまず戻る作業場は農機具などを納めている小屋である。

小屋には何段にも積み上げた苗箱パレットがあった。

前日にしていたモミオトシ(※タネオトシとも)作業は半日も費やしたという。

その前にしておくのは土入れだった。

品種は粳米がヒノヒカリ。

糯米はハブタエモチだという。

量的に多いヒノヒカリのすべてを終えてからハブタエモチに移る。



軽トラに載せる前にしておく水撒き。

ジョウロで注ぐのは単に水ではなく、薬剤散布。

立ち枯れを防ぐ液剤商品の「タチガレ」を混ぜた水を撒くことによって稲の病気を防ぐ。

小屋の外にパレットを並べては薬剤散布をしていた。

今年の作付け枚数に応じて苗箱の数量が決まる。

粳米はおよそ400枚。

糯米は30枚であるから総量430枚にもなる。

薬剤散布を済ませたパレットは軽トラに積んで運ぶ。

荷台に載せられる枚数は約160枚。

量的に3回も往復しなければならない。

作業の進展具合は並べたパレットの数でわかる。

手前の苗床はロングレール。

半分整えるだけで1時間もかかる。

集落を巡っていたら会所の場所がわかった。



そこから眺めさせてもらった農小屋の様相。

忙しく動き回る積み込み作業。

とらえていた私の姿を見たご家族は、そこに居たんかいなと笑って返してくれた。

それから1時後は2列目の水苗代に入っていた。



3度目のパレット運搬である。

運搬してはキャタピラ駆動の運搬車に乗せ換える。



苗床傍を移動してパレットを並べる。

単調な作業の繰り返しであるが、体力が要る。

ご家族は休憩することもなく作業をしていた。

すべてのパレットを並べたら白い沙を苗床一面に広げて被せる。

この紗もロール状。

回転させて伸ばしていく。

一面を被せ終えたときにご婦人が動いた。



水口辺りでなく苗床の端っこに立てたイロバナ。

お家で栽培していた2種のツツジにコデマリと洋もののフリージア。

そのときに咲いているお花でイロバナを立てた。

今年の水口まつりはこれだけである。

えっ、である。

昨年の水口まつりにはナエノマツもあった。

実は今年はナエノマツが手に入らなかったからイロバナだけになったというのだ。

ナエノマツは飛鳥坐神社で2月第一初めの日曜日に行われるおんだ祭(御田植祭)に奉られたもの。

そのナエノマツは大字飛鳥の総代が各村に配る。

ところが今年はナエノマツが届くことはなかった。

理由は何であったのか。

実は今年の総代はサラリーマンらしい。

農業の営みを知らずに失念したようだ。

そういうわけで今年はイロバナだけになったということだ。

水口まつりをするのは奥さんと決まっているわけではない。

誰がしても構わないという。



さて、沙は敷くだけでなく、風に煽られて飛ばされないようにしなくてはならない。

苗床にある泥土を沙に寄せていくか、乗せるという作業である。

飛ばないように泥土をもって重しにするわけだ。

要は隙間を開けずに、ということで、ところどころに乗せていく。

昔はロール状に仕立てた新聞紙を利用していたそうだ。

最後にする作業はトリオドシの据え付け。

苗床の四方、数か所に亘って枯れ竹を埋め込む。

ハンマーで打ちこんで倒れないようにする。



そして釣り糸のようなテグス糸を張っていく。

鳥には見えにくいテグス糸を張り巡らしてようやく終える。



ちなみに隣村の大字豊浦では苗代の〆にヨモギダンゴとキリコをお盆に盛って供えているらしい。

さらにカヤの実もあるというから、随分前の様相である。

今どきカヤの実があるとは思えないが、ツツジやナエノマツも立てると聞いたので、いずれは調査したいと思った。



小屋裏にあった唐箕がある総代家。

今も現役の唐箕は10月15日前後に再稼働するらしい。

収穫を終えた稲籾の殻落しもするし、小豆や大豆の豆落としにも活躍しているという。

ちなみに9軒集落だった八釣。

今は7軒の営みになった八釣に行事がある。

今年は1月14日にされたという明神講の行事である。

藤原鎌足公謂れの般若心経をしているそうだ。

時間帯は午後。

講の寄り合いを済ませてからとんど焼きをする。

時間帯は夕刻。

アキの方角の言い方もあるその年の恵方に向けて火点けをするという。

機会があれば、是非とも取材させていただきたい行事である。

(H29. 4.30 EOS40D撮影)
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上のハッコウサン

2018年01月25日 10時32分39秒 | 明日香村へ
明日香村の大字上(かむら)に「ハッコウサン」と呼ぶ行事があると知ったのは、上(かむら)に家さなぶり習俗を探しにきたときだ。

祭事の場は長安寺の一堂とされる薬師堂である。

本来は3月11日の行事日であったが、現在は村の人たちが集まりやすい第二日曜に移された。

薬師堂に祭っている小像が「八講さん」。

つまりは藤原鎌足公である。

年に一度の開帳に飛鳥坐神社の飛鳥宮司が出仕されて神事をされる。

伝承によれば、藤原鎌足公の子、藤原定恵は多武峰の山上、山腹、山下に建てたという「八講堂」の一寺として薬師如来像と鎌足公の木像を奉ったそうだ。

3月12日が鎌足公の縁日。

昭和62年3月に発刊された飛鳥民俗調査会編集の『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』がある。

Ⅵ章「飛鳥と多武峰」によれば、談山神社の郷中になる多武峰北麓の桜井市側。

大字横柿、今井谷、生田、浅古、下、倉橋、下居組(下居・針道・鹿路)、音羽組(多武峰・八井内・飯塚盛)の廻り。

つまり8年に一度が先に挙げた大字の順に毎年交替する八講祭を営んでいる。

かつては大字それぞれにあった小堂の八講堂で行われてきたが、近年になって、すべての大字が祭事の場を談山神社の神廟拝所で行うようにされた。

しかも縁日であった12日ではなく近い日曜日に移して行っている。

一方、明日香村にも八講祭がある。

その在り方を調査された柏木喜一氏が足を運んだ結果、次の大字で行われていたことがわかった。

明日香村の八講祭は「八講さん」或いは「明神講」の名であった。

桜井市側と同じようだが、また異なる在り方。

大字上(かむら)の八講祭は鎌足木造立像を祭る。

桧前の八講祭は村4戸の藤原鎌足講営みに当番家で鎌足親子三像掛図を掲げる。

大根田は観音寺で区長預かりの鎌足親子三像掛図を掲げて立御膳を供える。

入谷は大正期に中断したものの、「ハッコウサン」の営みがあったそうだ。

また、明神講行事として営みをしている地域は細川、尾曽、小原、東山、八釣、阪田がある。

細川は14戸の西垣内と東垣内が毎年1月実施の輪番当番が鎌足尊像掛図を掲げる。

尾曽は8戸。

1月庚申の日に区長家で鎌足公掛図掲げて初集会をする。

小原は7戸。

毎年1月末に鎌足親子三人像を床の間掲げる。

東山は10戸。

1月に当番家で鎌足親子三人像を祀る。

八釣は1月14日に当屋家で鎌足公の掛図を掲げる。

その日は午前10時に講中が寄合って三巻の般若心経を唱える。

阪田は宮座の当屋が翌年正月中に営み。

鎌足親子三人像を祭って立御膳を供える。

かつては稲渕や飛鳥にも営みがあったようだ。

また、桜井市の高家では1月中に旧中垣内の三組/四組が組共有の鎌足親子三人像と鎌足公掛図を当屋家に掲げる。

同じく桜井市大福の八講祭は1月1日と8月15日に大織冠尊像掲げる。

多武峰以外の周辺地域にこれほど多くの「ハッコウサン」営みがあったとは驚くべきことである。

『飛鳥の民俗』による「八講祭」の起源である。

「はじめは山階寺の維摩経が天台宗系になって、法華八講を多武峰中興の祖増賀上人がはじめたとの説があるが、私(柏木喜一)は民間行事として大織冠を(大和)郡山へ遷座したため郷中が一層結束を固くしたための行事なのだと思う。そのことを明らかにする文書がある。八釣の区有文書である二通の『談山権現講式』。天正十三年(1585)酉卯月五日文書と元和七年(1621)二月上旬文書である。この二通は昭和18年12月15日に当時の八釣妙法寺住職が写した文書。末尾に“右は天正十三年談山寺院台の命により郡山に移転せし際、寺領二三村民悲哀の極、相談して八講堂を組織し、毎年各村に尊影を巡奉して祀った」とあった。 

ここでいう山階寺については興福寺のHPにこう記されている。

「南都七大寺の一つとして隆盛した興福寺は中臣鎌足(のちの藤原鎌足)夫人の鏡大王によって建てられた山背国山階陶原を起源とし、その後は藤原氏の氏寺として星霜を重ねてきた・・中略・・興福寺の起源とされており・・」とある。

さて、『飛鳥の民俗 Ⅵ章 飛鳥と多武峰』にある明日香村・上(かむら)の「ハッコウサン」である。

「3月12日に薬師堂にまつる鎌足の木像の入ったヤカタの開帳をする。予め、月当番が御膳を用意して供えておく。午後、区長中心に村中が寄ったところに神主が来てミユ(御湯)でお祓い、祭典となる。お供えは立御膳といって大根、人参、ほうれん草などを立てて飾る。別に一対の大鯣(するめ)を広げて立てて供える。元は弁当持ちで参り、夕方まで遊んだというが、今は簡単にお下がりのお神酒とするめで直会して解散」しているらしい。

区長こと総代にも了解をとってやってきた。

奇しくもこの日は3月12日。

元々の縁日と第二日曜日が重なった嬉しい日であった。

指定された場所に車を停めて山に向かう。

薬師堂はそれほど遠くない地にある。

当番役は焚き木に火を起こして湯立てていた。

湯釜は古くもないが、年号などの刻印は見られない羽釜である。

御湯作法に必要な熊笹にお神酒、洗い米も用意していた。

薬師堂本堂は扉を全開。



本尊の木像薬師如来坐像もご開帳。

明日香村史料によれば本尊薬師さんは平安時代中期の造立になるそうだ。

本尊左側にある四体は四天王像。

本尊薬師さんと同じ時代の造立。

両像とも明日香村の有形文化財に指定されているが、右の脇像はわかっていないというが、十一面観音菩薩立像である。

大字上(かむら)にあった寺は長安寺に教雲寺、薬師堂の三カ寺。

江戸時代中期のころである。

本尊左下にあるヤカタに鎌足公神像を納めている。

さらにその下にあるのが御供。

大根、白菜、ほうれん草、キャベツ、サツマイモ、レンコンにシイタケ。するめに果物のリンゴもあるが、立て御膳様式ではなかった。

しばらくすれば飛鳥宮司が来られた。

神事は御湯である。

御湯作法は先に拝見したことがある。

平成28年6月19日に行われた気都和既(けつわき)神社の村さなぶりである。

大字上(かむら)の戸数は11戸。

上垣内が4軒であるから下垣内は7軒になる。



役員、当番が御湯作法に周りを囲む。

熊笹と青竹の御幣を手にして作法をされる宮司の着衣が汚れないように裾を掴んで対応していた。



その姿は土砂降りに行われた村さなぶりのときと同じであった。

御湯を終えれば宮司をはじめとして一同は薬師堂に登る。

開帳していた鎌足公を奉るヤカタに御簾を下ろされた。

宮司曰く、鎌足公は神さん。

見てはならぬ、撮ってはならぬということであったが、先に拝見していたときの薬師堂ではご開帳姿。

胡坐姿であるが、左足を下ろしていたお姿であった。

多武峰郷中の八講祭における掛図は藤原鎌足父子肖像。

父子ともどものご神像であるが、御簾もないので、その状態で拝することができる。

昭和32年発刊に発刊された『桜井町史続 民俗編』によれば、かつて大字多武峰は神式であった。

下居は神仏習合、その他の村はすべて仏式であった。

いつのころか寺は廃れて神式に移っていく過程がある。

明日香村においても寺は廃れて神式に移る。

こうして神主が寺行事に祝詞を奏上されるようになったのはいつごろなのだろうか。



本尊、鎌足公の宝前にローロクを灯して祝詞奏上。

神妙に拝聴する村人たち。

こうして一年に一度の八講祭を終えた。

(H29. 3.12 EOS40D撮影)
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里道に華梅

2018年01月24日 08時45分26秒 | 明日香村へ
なにげない毎日を穏やかに迎える、なんて今日は気持ちの良い日なんだろうか。

そう思える明日香村の上(かむら)。

窓を開けると爽やかな風が通り抜ける。

この場は薬師堂に登っていく村の里道(りどう)。

平成21年12月に開通したアスファルト新道が里道を跨っていた。

(H29. 3.12 EOS40D撮影)
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明日香・共同墓地の小正月風習は皆無

2017年10月27日 09時33分36秒 | 明日香村へ
午後は明日香村を離れて北上する。

少しの時間も調査に費やす。

飛鳥民俗調査会が調査・編集し、昭和62年3月に財団法人飛鳥保存財団が発行した『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』もあるが、その一部を掲載した昭和56年から62年にかけて発刊された『明日香風』が手元にある。

昭和60年1月に発刊された『明日香風―13号―』に小正月のビワの葉乗せ小豆粥のことを書いてあった。

1月15日は小正月。

川原でもトンドの火で煮ていた小豆で粥を炊いた。

神仏から家の戸口に墓にも供える、とある。

また、昭和62年1月に発刊された『明日香風―21号―』の「明日香の民俗点描」に載せた“季節の神饌”テーマ。

それが墓地に供えた小豆粥であった。

カラー写真で紹介する解説文は「1月14日の夕方(一部の地域では1月15日の朝)のトンドの火を提灯等で持ち帰り、小豆粥を炊く。

この小豆粥を15日の早朝から、家の隅々、家敷周り、田畑、ムラの神仏などに供える。

この際に、ビワの葉に盛って供えるところが多い。

稲渕では古くはユズリハの葉を用いた家もある。・・・中略・・・明日香村における小正月の小豆粥は、小正月の来訪霊のための供物・・・神饌と解釈できる」とあった。

執筆は大阪城南女子短期大学講師(当時)の野掘正雄氏。

『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』を調査・報告した飛鳥民俗調査会の一人であった。

掲載されていた写真は墓石の前にいっぱい並べていたビワの葉に盛った小豆粥。

その数、なんと45枚もある。

壮観な情景に驚くばかりであるが、現状はどうであろうか探してみる。

掲載写真に「稲渕・阪田・祝戸の共同墓地の小豆粥」とあるから、ここに違いないと断定した。

探し当てた墓地は数段に分かれている。

そう思ったのは六地蔵が二つあることだ。



下段というか入口付近にあった六地蔵は3体、3体の分かれ石仏。

もう一段高い所にあった六地蔵は造りも石も新しいように思えた。



大字の違いであるのかわからないが、この六地蔵を含めて各戸の墓石にはまったくと云っていいほど皆無だった。

昭和60年初めにはどこともしていた小正月の風習は30年も経てば皆無になっていた。

(H29. 1.15 EOS40D撮影)
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上・上垣内の小正月の小豆飯御供巡拝

2017年10月26日 09時23分16秒 | 明日香村へ
飛鳥民俗調査会が調査・編集し、昭和62年3月に財団法人飛鳥保存財団が発行した『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』に一文がある。

「Ⅴ 年中行事」の「明日香村の年中行事」である。

一年中、何がしかの年中行事がある明日香村。

習俗は県内の他地域とそれほど変わらない。

一部については地域固有の習俗もあるが、ここではトンドの火から派生する小正月の小豆飯御供についてあるお家の在り方を伝える。

文中の解説に「明日香村では、ほとんどの大字が1月14日のトンド(高齢者はドンドと言い慣わす)を行う。上(かむら)の上垣内は15日の朝に行う。前日までに子供たちが正月の飾りやワラをムラ中から集め回る。・・・中略・・・上居(じょうご)・上(かむら)・岡などもアキの方から火を点けるという。上(かむら)の火点け役はF家が担っている・・・」とある。

これから取材させていただくお家はF家。

ただ、『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』の一文に書かれたF家ではない可能性もある。

上(かむら)には数軒のF家がある。

上垣内に住む本家、分家のF家は存じているが、当人たちの記憶は尋ねていない。

F家を存じたのは前年の平成28年6月12日

家さなぶりをされているお家を探していた。

伺ったFさんの話しを聞くうちに本家とわかった。

誌面で紹介されていたものの、そのときだけだったかもしれない。

当時に調査、報告された調査員に伺うしかないが、遙か30年前の状況に息子さんは覚えがないようだ。

と、いうのもかつては大トンドであったが、今は各戸がそれぞれにされる小トンド。

昔と今ではトンドの形式も替わっていたのである。

お会いしたこの日に数々の行事・風習を教えていただいた。

その一つが本日に取材させていただく小正月の小豆飯御供である。

炊いた小豆粥を供える。

粥はビワの葉に乗せて供える。

ビワの葉は裏側を表にして、そこに盛る。

ビワの葉は50枚にもおよぶと話していたから、屋内どころか屋外の50カ所である。

家にある神棚に戸口。

かつては火を焚いていた竃にも供えた。

屋外では庚申さんや田んぼまで供えていると話していた。

それはどのようにされているのか、写真を撮らせてくださいとお願いしていた。

時間は当日のある時間になる。

本来はもっと早い時間帯であるが、取材があるこの日は時間帯を考慮してくださった。

お会いするなり確かめたい上(かむら)の行事がある。

大晦日の31日に村の人たちは各戸めいめいの時間帯に氏神さんに供える鏡餅である。

供える神社は気都和既(けつわき)神社である。

息子さんの話しによれば今年は14軒も供えていたそうだ。

昔は40軒も50軒もしていたというから壮観な状況であったろう。

気都和既神社は上(かむら)に鎮座しているが、関係する大字は上(かむら)の他に細川と尾曽の近隣三カ大字だけに多かったのである。

正月の祭り方は早めに拝見しておくことも必要だと思った。

さて、F家の小正月の小豆飯御供の在り方である。

屋敷内は花輪に2カ所、庭に3カ所。

三輪明神に庭の神さん、トイレの神さん、床の間、仏さん、などなど・・。

供える場所を一挙に云われるが、どこにどうあるのか、探してみなければ・・。

息子さんが付いて案内してくださる。

実は、屋敷内については到着するまでに済ましていたのだ。

まずは玄関。金魚鉢ではなく、花輪と云っていたシクラメンの花鉢に、である。

ふと気がついた玄関内側に貼っていた2枚の小紙片。

一つは逆さ文字の「氷柱」で、もう一枚は正立に貼った「立春大吉」だ。



僅か数cmの小紙片には、それ以外の文字がない。

呪いを書いた特徴のない護符は、いつのころにもらってきたのか、誰が貼ったのか記憶にないということである。

「立春大吉」は度々目にかかる護符。

邪気を家から追い払って「福」を招き入れるが、これまで訪れた民家の玄関内側のお札には「氷柱」の護符は見られない特徴的なもの。

2枚とも手書きではなく印字文字。

糊をつけて貼ったと思われるが、「氷柱」の護符の意味はさっぱりわからない。

風情がある中庭を先に拝見する。

何の神さんかわからないが供えているという。



それは五輪塔の名残とも思える石造物に大岩もある。



これらは庭の神さん。



祠に祀っているのは三輪明神のようだ。

離れの縁側にも供えている。



撮りやすくするためにガラス窓を開放してもらった。



トイレの神さんはトイレがある廊下の窓の桟に乗せていた。



屋敷内は数々あるが、部屋内を物色するわけにはいかず、仏さんに手を合わさせてもらってシャッターを押す。

今年のトンドは1月8日に行った。

かつては1月15日の朝にしていたトンドであるが、今は第二日曜日に移った。

その日は垣内の初集会があるからそれも日程を替えた。

現在のトンドの日は、祝日の成人の日の前日。

つまりは第二日曜日となる。

トンドで燃やす竹の具合もあるが、燃えていくにつれて竹は破裂する。

その音は大きな音でポンを発する。

景気が良い音が鳴れば今年は豊作やな、と云っていた。

長めの竹に串挿すようにモチを取り付けてトンドの火で焼く。

上垣内のトンドでは、「ブトも蚊もいっしょくた、まとめて口や」というて投げていた。

「ブトの口、ハブ(普段はヘビと云っている蛇のことをトンドのときはハブの名称になる)の口」と云いながら、小さく千切ったモチをトンドの火に投げ入れた。

噛まれたら、刺されたら、そこが腫れる。

毒虫というて、ヘビとか、ブトとかの代わりにちょっとずつ千切ってはモチをトンドに投げて供養する。

トンドの話題はまだまだある。

トンドに燃えカスがある。

カスと云えば失礼な表現であるが、竹など燃えた材は炭になる。

昔のことだが、という但し書き。

燃えた炭は持って帰って竃の火にした。

その火で炊いていた正月の餅。

炭火は薪直接には移らない。

畑で育てた黒豆を収穫した際に残しておいたマメギ(豆木)である。

マメギは火点けの常とう手段。

どこでもそうしていたが、昔は白豆だったというから面白いものだ。

毎年の餅搗きは4臼も搗いていた。

今では3臼になったというから、まま多い。

正月の餅搗きは12月29日。

現在は30日にしているという。

餅の名に「マルクタのモチ」というのがある。

これは小餅のことで、搗いて柔らかいうちに指で押してできるエクボの窪みを作る。

これを「マルクタのモチ」と呼んでいる。

雑煮は砂糖を入れた白味噌仕立て。

ニンジン、ダイコン、コイモに豆腐を入れた雑煮である。

トンドの話題は尽きないが、これより始まるのは屋外の神さんなどに供える小正月の小豆粥である。



坂道を下って参る地蔵さんもあるので息子さんも共にする小豆粥御供。

お供えする場はとても多い。

農小屋にあるトラクターをはじめに作業小屋、山の神さん、神社の庚申さん、金毘羅さんに地蔵さん。

地蔵さんは足痛地蔵もあれば子安地蔵もある。

杖をついて出かけるのは昭和5年生まれの母親。

この年には87歳になるご高齢の身。

供える小豆粥にビワの葉などを風呂敷に包んで運ぶのは昭和28年生まれの息子さん。

昨年来からの行事取材にたいへんお世話になっているご両人である。

まずは自宅すぐ近くにある農小屋というか農機のガレージも兼ねた駐車場がある作業部屋である。

その前にすべき場所は畑を耕してくれるトラクターだ。



今は農閑期だから埃を被らないように白い布で覆っている。

その次は事務室にもなっていそうな作業部屋である。

どこに供えるのかと拝見していたら、ダルマストーブの上に、であった。



こうした供え方をされているとは予想もしていなかった。

次は作業部屋から出たすぐ傍にあるコンクリート片である。

何本かあるが、何であるのか聞かずじまい。



ビワの葉に箸で摘まんだ少量の小豆粥を供えた。



ここまで見てきたが、いずれも手を合わせることはなかった。

そこからは急な坂道を下っていく。

今では集落の前を走り去る車路がある。

その道路は談山神社へ通じる自動車道。

10数年前に開通したそうだ。

下る道はそこではなく元々ある村の道。

つまりは里道である。

急な坂道だけにお年寄りには辛い道であるが、軽トラ一台ぐらいは通れる道に沿って流れる川がある。

その向かい側の茂古(もうこ)ノ森に鎮座する神社は気都和(けつわき)既神社。

江戸時代までは牛頭天王社の名であった延喜式神名帳の大和国高市郡に登場する神社である。

上(かむら)に細川、尾曽の近隣三カ大字の神さんを合祀した神社にも小豆粥を供える。



神社の前に供える場は庚申さん。

どなたかわからないが、先に供えたビワの葉に盛った小豆粥があった。

枚数を数えてみれば5枚。

いずれも積もった雪に埋もれていた。

何時ころに降ったのか知らないが、民俗取材に訪れた時間帯は10時前。

F家が屋外に供えていた時間帯は午前11時過ぎ。

白い雲に拡がる青空であった。



先行する村人の供えた傍に供えるご主人も一枚。

神社に登って本社殿にも供えて降りてくる。



次は金毘羅大権現の刻印がみられる場にも供える。

ここにも先客が供えていた。

神社の次は里道向こう側に立つ路傍の石仏地蔵



ここにも先客が供えていた。

その次は西田地蔵。

厚めの石板のように思えるが、刻印文字が読み取れない。

そこよりすぐ傍にも石仏地蔵がある。

ご主人が供えている姿をずっと横で見ていた母親。

お供えを済ましたら、入れ替わるように降りてきて手を合していた。



たしか名前は足痛地蔵だったように思える地蔵さんは屋根付き。

隣に灯籠もあるぐらいの珍しい形態のように思えた。

その向こうにも石仏地蔵がある。



そこに供えている間も、足痛地蔵にずっと拝んでいた母親の姿が愛おしい。



こうして並んだ3体に供えたら母親は坂道を登って歩く。

ご主人はさらに下って子安地蔵にも供えるが、母親は先に自宅に戻ったようだ。

子安地蔵は高さが相当ある。



立派な祠の内部に安置されている地蔵さんは涎掛けもあるが、昔のままのようだ。

子どもの誕生がなかったのか、それとも信仰が薄くなったのか、そのことについては聞いていないのでわからない。



子安地蔵さんも先客が供えた小豆粥が3枚。

どれもビワの葉に盛っている。

そこへ一枚の小豆粥を供えたご主人も自宅に一旦戻る。

これまで拝見してきた小豆粥。

Fさんも云われていたが、昔は粥だったが、最近はご飯になったとか。

こうして並んでいるお供えをじっくり見れば、小豆ご飯であった。

この小豆ご飯をアズキメシと呼んでいた。



自宅に戻られたご主人は玄関前にも供えた。

次に向かう先は新墓。



自宅から歩いて近距離の場に新しく作られた。

旧墓は山の上。

そこへ行くには母親の足では無理がある。

他村でも聞く旧墓から新墓への移設対応である。

県内各地の民俗事例を取材していれば見えてくる私設墓地。

自宅近くに建てる場合が多いように思える。

朝一番はここにも雪が積もっていたという。



供えた場所は何カ所になっていたのだろうか。

正確な数字はわからないが、摘み取るビワの葉が50枚にもなるというから、相当な枚数というか、相当なお供えの数である。

すべてを供えきるまでの時間も相当要した。

お供えをしながらも上(かむら)でしていることもお話しくださった農作業など。

当地もハザカケをしていた。

3本の木材を組んで収穫した稲を干すハザ。

その作業を「ダシカケ」と呼んでいた。

「ダシ」とは何であろうか。

水平に架ける竿そのものの名であろうか。

用例としては「これからダシカケをする」という、作業初めの声かけである。

また、ダシカケをする3本組み足に水平竿をひっくるめて「カコ」と呼んでいた。

朝に干して、イネコキをする。

上(かむら)の上垣内は5軒の田んぼがある。

苗代をしているのは4軒というから、今年の苗代時期には寄ってみたいと思ったが、実際はJAから苗を買っているそうだ。

昔の苗代作りは直播き。

育った苗の苗取りをしていたという昭和5年生まれの母親。

田植え仕舞い(ウエジマイ)に家さなぶりをしているようだ。

また、3月に行われる「ハッコウサン」はかつて11日にしていたが、現在は12日。

祭事時間は午後になると伝えてくれた。

(H29. 1.15 EOS40D撮影)
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