3月21日はお大師さんと云って家で祀っているお大師さんを拝んでいる生駒市高山の大北地区。
かつて地区には講があった。
選ばれた代表者は四国八十八か所に参っていた。
毎年のことだったとK家の母親が話す。
四国に出かけなくとも地区でお大師さんを祀れば近くで順拝ができるのではと、クボシンゾウさん他、3、4人が発起人となって始まった大北地区のお大師さん。
明治34年のことである。
かつては前庭に祠を建てて祀っていたというKA家は発起人の一人で先々代。
昨年にネンニョを勤めた無足人座の一人だ。
先祖が祀ったお大師さんを代々継いで守ってきた。
そのころは屋外だったことから外のヤカタと呼んでいた。
自宅を建て替えた際に屋内に遷したお大師さん。
それから「ウチマツリ」にしたという。
奥の左端に草履(木靴であろう)、右端は徳利と思われるものが置かれている。
お大師さんの左手は数珠で右手に独鈷を持つ。
台座の幅は30cmで高さも30cm。
大きい大師像だと思える。
「イライラしているときに拝むと怒ったらあかんで」というような眼差しで優しく微笑むというKA家の祖母。
「ソトマツリ」していたときよりも優しく穏やかなお顔立ちになったと思うと話す奥さん。
見る側がどういう気持ちであるか、見透かされているように思ったお大師さんは十九番だという。
大北地区ではこのように各家で祀っていたが、どこがどのようにされているか判っていない。
家を一軒ずつ訪ねるわけにもいかない。
拝見する機会は難しいと思われ、KA家に教えられたKB家を訪ねた。
無足人座の長老であるKB氏が云うには、皆が出し合ったお金で講の代表者らが四国八十八所を巡っていた。
お大師さんを信心していたというに、おそらく大師講。
ところが「いつまで持つんや」と意見が出て高山でお大師像を買って八十八所を作ろうということになった。
大北高山地区の傍示(ほうじ)北の庄田から芝までの講中が祀るようになった。
向露寺(むくろじ)、大北(おおきた)、久保、宮方(みやかた)などを含め、一日で巡れるよう八十八番までとした。
辻は共同で祀った。
お大師さんは木造や石造などさまざま。
大阪で造って貰ったという家もあった。
四国八十八所と同じようにお接待もした。それは3月21日。
地区の子供がお供えやお金を持って大北の四国八十八を巡ったらお菓子をあげた。
その様相は9月に行われている月見どろぼうと同じようだったと話す。
今ではそんな光景もなくなったが、お大師さんに助けて貰ったという人が毎年のように参っていた人もいたそうだ。
家と家の横の関係は薄れたがこの日は今でも灯明をあげてお供えをするKB家は「ソトマツリ」の七十五番。
これが本来の形だという。
「この日もそうやけど毎日はお供えしてるんや」とゴマドーフとご飯を供えて手を合わす。
お大師さんは座像。
左手が数珠で右手に独鈷を持つ。
その下には藁草履と木靴が置かれている。
今ではだれも貰いに来ることがなくなったが、貴重な風習事例だと学者が大北地区を調べに来たことがあるという。
現時点、その結果報告は聞きおよびもしないという。
高山のお大師さんのありさまは今でも行われている大和郡山の番条町のお大師さんとよく似ていると思うのであった。
(H24. 3.21 EOS40D撮影)
かつて地区には講があった。
選ばれた代表者は四国八十八か所に参っていた。
毎年のことだったとK家の母親が話す。
四国に出かけなくとも地区でお大師さんを祀れば近くで順拝ができるのではと、クボシンゾウさん他、3、4人が発起人となって始まった大北地区のお大師さん。
明治34年のことである。
かつては前庭に祠を建てて祀っていたというKA家は発起人の一人で先々代。
昨年にネンニョを勤めた無足人座の一人だ。
先祖が祀ったお大師さんを代々継いで守ってきた。
そのころは屋外だったことから外のヤカタと呼んでいた。
自宅を建て替えた際に屋内に遷したお大師さん。
それから「ウチマツリ」にしたという。
奥の左端に草履(木靴であろう)、右端は徳利と思われるものが置かれている。
お大師さんの左手は数珠で右手に独鈷を持つ。
台座の幅は30cmで高さも30cm。
大きい大師像だと思える。
「イライラしているときに拝むと怒ったらあかんで」というような眼差しで優しく微笑むというKA家の祖母。
「ソトマツリ」していたときよりも優しく穏やかなお顔立ちになったと思うと話す奥さん。
見る側がどういう気持ちであるか、見透かされているように思ったお大師さんは十九番だという。
大北地区ではこのように各家で祀っていたが、どこがどのようにされているか判っていない。
家を一軒ずつ訪ねるわけにもいかない。
拝見する機会は難しいと思われ、KA家に教えられたKB家を訪ねた。
無足人座の長老であるKB氏が云うには、皆が出し合ったお金で講の代表者らが四国八十八所を巡っていた。
お大師さんを信心していたというに、おそらく大師講。
ところが「いつまで持つんや」と意見が出て高山でお大師像を買って八十八所を作ろうということになった。
向露寺(むくろじ)、大北(おおきた)、久保、宮方(みやかた)などを含め、一日で巡れるよう八十八番までとした。
辻は共同で祀った。
お大師さんは木造や石造などさまざま。
大阪で造って貰ったという家もあった。
四国八十八所と同じようにお接待もした。それは3月21日。
地区の子供がお供えやお金を持って大北の四国八十八を巡ったらお菓子をあげた。
その様相は9月に行われている月見どろぼうと同じようだったと話す。
今ではそんな光景もなくなったが、お大師さんに助けて貰ったという人が毎年のように参っていた人もいたそうだ。
家と家の横の関係は薄れたがこの日は今でも灯明をあげてお供えをするKB家は「ソトマツリ」の七十五番。
これが本来の形だという。
「この日もそうやけど毎日はお供えしてるんや」とゴマドーフとご飯を供えて手を合わす。
お大師さんは座像。
左手が数珠で右手に独鈷を持つ。
その下には藁草履と木靴が置かれている。
今ではだれも貰いに来ることがなくなったが、貴重な風習事例だと学者が大北地区を調べに来たことがあるという。
現時点、その結果報告は聞きおよびもしないという。
高山のお大師さんのありさまは今でも行われている大和郡山の番条町のお大師さんとよく似ていると思うのであった。
(H24. 3.21 EOS40D撮影)