マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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中・小北稲荷神社の厄除け祈願の初午祭

2018年01月22日 10時11分22秒 | 広陵町へ
今月の3月3日に訪れた広陵町中(萱野)の小北(こぎた)稲荷神社。

初午祭にハタアメが配られると知って訪れたが、応対してくださった権禰宜さん夫妻の話しによれば今年はハタアメを入手することができなくなったが神事ごとはしていると話してくれた。

また、当神社行事に出仕されている三郷町の坂本巫女さんは、この行事に参拝される信者さんにご祈祷の剣舞神楽をしていると聞いている。

ハタアメはもう供えることはできなくなったが、神事ごとや境内で行われる護摩焚きを拝見したく寄らせてもらった。

高田川堤防東側に鎮座する小北稲荷神社の創建は欽明天皇の時代に遡るようだ。

天孫降臨の際にお伴した三十二柱の神々と五柱の稲荷神に食物の神である保食神(うけもちのかみ)に仕えた小北大明神を合わせて三十八社を祭っていたという。

前日の7日にも訪れた小北稲荷神社に初午祭を案内するポスターが貼ってあった。

厄除開運、家内安全、商売繁盛に大祈祷・神楽。

そして、大護摩に護摩木を焚いて厄祓い。

しかも、餅撒きに神酒、御守、いなり飴の無料授与もあると書いてある。

着いた時間は9時半。

信者さんたちは神事に拝殿に上っておられた。

宮司、権禰宜さんに巫女さんも上っている。

そのうちに始まった儀式を拝観するにはガラス越し。



受付されている場から拝観していた。

拝殿正面に赤地に白抜き染めした開運厄除け祈願の幟旗が2本。



境内入口付近にも幟旗がずらりと並んで参拝者を迎えていた。

なんとなく奉納した人たちの名前を見ていた。

油性マーカーで書かれた名前は「高橋礼華」。

えっ、である。

名前を書いたところから上に見上げた。

そこにあった文字は「必勝リオオリンピック」だ。

リオオリンピックは2016年(平成28年)、ブラジルのリオデジャネイロで開催された第31回オリンピック競技大会である。

開催期間は平成28年の8月5日から21日までの17日間。

活躍された日本選手が取得したメダル数は金メダルが12枚。

銀メダルが8枚で銅メダルは21枚の成績を勝ち取った。



「高橋礼華」といえば、相方の「松友美佐紀」とともにペアを組んだ女子ダブルスで日本バドミントン史上初の金メダルを獲得した二人。

なぜにここ小北稲荷神社の開運厄除け祈願に名前があるのか。

実は「高橋礼華」選手の生まれ故郷は橿原市。

橿原市立白橿南小学校(橿原ジュニア所属)におられた有名選手。

おばあさんが小北稲荷神社の信者さんであることから縁があった孫の高橋礼華さん。

いわば氏神さんに必勝を願って幟旗を揚げたようだ。



ちなみに相方の「松友美佐紀」さんも幟旗を揚げている。

願掛けは「バドミントン 必勝リオオリンピック」。

拝殿正面に立てていた2本は、獲得した金メダルも、といいたいが、それはなく幟旗は凱旋したかのように昇陽の光を堂々と浴びていた。
 
拝殿内で神事が行われている時間帯であってもおみくじをする参拝者は多い。

そのうち拝殿廻りを動き回っている参拝者に気づく。

せわしくなく動く人もおられるが、ゆっくり回る人も・・・。

おそらく願掛けにお百度参りをしているのでは、と思った。

動きをじっと拝見していたときにわかった竹箆がある。

目を近付けたら「心願成就」の文字があった。

願主の名はそれぞれある。



同名願主の竹箆が何本も置いてあった場は狛犬さんのまたぐらだ。

高齢の婦人がお百度参りをしていた。

廻り終えてから伺った話しによれば、33回も廻っているという。

願掛けの回数は33回。

何周廻ったかわかるように竹箆をもって数えている。

33回の回数で思い起こすのは神仏に祈願する心身清浄、禊ぎの垢離取りである。

奈良県内の行事に垢離取りをするという地域は少なくない。

願掛けに「一万度」と称する地域もまた少なからずやある。

県内事例で最も多い行事は風の祈祷である。

一般的に云われるお百度参りのように境内をぐるぐる回る。

その周回数を数える道具はここ小北稲荷神社と同様の竹箆である。

願いが叶った人が後々に奉納されたと思われる竹箆の本数は多い。

どなたでも使えるように願掛けを遂げたから利用してください、ということだろうか。

数取り竹箆事例は、民俗探訪に訪れた京都府加茂町銭司の日蓮宗妙見山本照寺にもあった。

稲荷神社の境内社は数多い。



その一つずつでもないようだが、お百度参りをされているいくつかのところにお供えを置いている人もいる。



お酒や餅、揚げさんもあったが、何個か目についたのが「浄焰」の焼印を押した饅頭である。

この「浄焰」焼印がわかったのは、手水鉢にあった拭きタオルである。



なんとなく牛玉宝印にも思えるような文様を染めたタオルに「清水」、「浄焰」とあったからだ。

寄進者のお名前かどうか存知しないが、饅頭の焼印が「浄焰」紋様によく似ていたからそう思った。

ちなみにお百度参りをされていた高齢の婦人が云うには「浄焰」饅頭は常用饅頭。

饅頭は「おいなりさん」だと云っていた。

お茶受けの常用饅頭は初午に供えるからお店で買ってきたと話してくれた婦人は33回も廻ることができない身体。



仕方ないので廻る回数はぐっと減らした「短縮型にさせてもらっています」、と、申しわけなさそうに云われていたのが印象に残った。



ところで境内にお百度石がある。

ずっと拝見していたが、そこを支点に廻っていなかったように思えた。

そうこうしているうちに厄除け祈願の神事が終わった。



宮司、権禰宜さん、巫女さんらが拝殿から出てこられ、神饌御供を並べた護摩焚きの場に移られた。

護摩焚き神事に並ばれたのは宮司、権禰宜さんに二人の女性。

ある方の話しによれば、お稲荷さんに神託を伺うイナリサゲ(稲荷下げ)の人だと聞いた。

厄よけの護摩焚きを囲むようにしている参拝者は多い。

「今日はこぎたはんのはつうまや」という人もいる。



祓詞、修祓、降神の儀。

そのとき同時に音花火が揚がった。

そして献饌、祝詞を奏上されて始まった護摩焚き。

藁束を詰めた青竹を手にしたイナリサゲさんが動いた場所は拝殿受付。

オヒカリから移してもらったご神火を授かる。



2本ともメラメラと燃え上がった基火を交差させ、そして護摩焚き内部に入れて点火した。

瞬く間に燃え上がる護摩壇。

音を立てて燃え上がるとともに煙も舞い上がる。

もうもうたる煙が辺りを覆う。



火の勢いを操っているようかに見えた作法。

護摩の火を自在に制御する術であろうか。

修法気合いに「気」を込めて火を動かしているようかに見えた。



火が大きくならないように予め汲んでいた水を柄杓で護摩壇にかける。

それと同時に始まった護摩木に願いを込めた願主の読み上げ。

厄除け願いの護摩木を一本、或いは纏めて護摩火に投入する。

火は舞い上がり、煙が立ち上る。

風も舞い上がったかのように火の手は吹きあがる。



火の勢いを鎮める水やり。

火の勢いは衰えるが、熱気は冷まされることもない。

10分以上も燃え上がった護摩壇に枕にした材の骨組みが現われる。



子どもたちも見守っているが、護摩焚きはまだまだ終わらない。

点火されてからおよそ40分も経ったころだ。

護摩壇の残り火に近寄る人がいる。

下着のシャツを乾かしているのだろうか。

お話しを伺えば、残り火のご利益をもらっているということだった。



下着シャツは乾かしているのではなく、この護摩焚きに来ることができない病者さんが普段に着用している下着を家族が代わりにもってきて、残り火に当てれば病気が治ると聞いてそうしているという。

下着だけではなく病者さんが使っているタオルも残り火にあてる。

「浄火」の火にはご利益がある。

下着やタオルを持ち帰って使えば病気が治ると信じられたから、そうしている民間信仰。

先に拝見したお百度参りも民間信仰。

ありがたい初午行事にお会いした私は巫女さんからも「気」を入れてもらった。

小北稲荷神社の厄除け祈願の初午祭は参拝者に振る舞われる御供撒きもある。



窓を開けた拝殿より放り投げられる御供餅。

土がついても大丈夫なように袋に入れて投げる。

子どもも大人も手が伸びていた。

(H29. 3. 7 SB932SH撮影)
(H29. 3. 8 EOS40D撮影)
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三吉専光寺地蔵盆の立山祭

2011年09月30日 07時33分03秒 | 広陵町へ
江戸時代に流行った疫病。

その身代わりとして人形を立てた説、或いは中世に「見立山武士」と呼ばれた土豪細井戸氏が元禄年間に名残を惜しんで武者人形を立てたとか。

諸説がある広陵町三吉(みつよし)の立山祭は8月の地蔵盆の主役になる。

奈良県内でこのような人形などで造り山(立山)を立てるのは、橿原市八木町の愛宕祭、御所市東名柄の天神祭りが知られている。

造り山はかつて県内で広くあったとされる。

40数年前の大和郡山市横田町では納屋5軒ほどを開放して、青年団がムギワラで人形を作ってその年の世相を表現していた。

それより以前には天理市櫟本の和爾下神社の祇園祭でもあったそうだ。

商工会や青年団が造っていたという立山は鳥居から西へ続く街道筋で見せていたそうだ。

山添村の箕輪(みのわ)でも山ツクリがあった。

仏教行事のあとに会食。

酔いも手伝った頃に素人即興劇や寸劇などの俄か芸能が高まり、それが発展して山ツクリがされたそうだ。

人形は顔、手、腕、足、などは菊人形のように。

土や石膏で固めた身体に色を塗ったり化粧を施したが衣装は本物を持ち寄って飾ったようだ。

照明もガス灯からネオンサインの電飾、ゼンマイ式で動く人形までもと変化した。

それは戦時中に途絶えて昭和22年に復活したが再び途絶えた。

平成3年に学習の一環として掘り起こされたがまたもや消滅してしまった。



そのようなこともなく広陵町三吉では現在も続けられてきた立山祭は「大垣内の立山祭」として平成8年に町文化財に指定されており、専光寺と呼ばれている地蔵堂を中心に地区全域に亘って地蔵盆のお祭りがされている。

造りものの立山は公民館、新築や婚礼のあった家が会場となる。

提供するお家にとっては目出度いお披露目の場であり、各家の家紋が入った幕が掲げられている。

その会場は毎年入れ替るし、立山人形も替る。



制作にあたっているのは平成22年に結成された保存会の人たち。

以前は青年団が工夫を凝らして作っていた。

話題性をとりあげ、その年に有名になった出来事や人物をおもしろおかしく表現する。



この年は広陵町のシンボルでもあるかぐや姫、NHK大河ドラマの“お江”、隣町の橿原市新口で名高い梅川忠兵衛の“冥途の飛脚”に、全世界にテレビ放映された英国ロイヤルウエディングに全線開通した九州新幹線までも披露された。



特に興味を惹かれたのは“雨乞い太郎”だった。

奈良県内では雨乞いをしてきた地域事例が数多くある。

今ではその姿を見ることができないが、江戸時代の雨乞い絵馬が残されているところがある。

その当時の様相を表す川西町糸井神社の太鼓踊り(有形文化財)、高取町小島神社の雨乞いなもで踊りや飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社の雨乞いまでも。

伝承によれば耳成山口神社(火振り坂)の雨乞い願満絵馬があったそうだ。

絵馬ではないが春日大社には雨乞い奉納した万燈籠もある。

それらは現代に繋ぐ貴重な有形の記録でもある。

雨乞いには祈願、満願などで踊れる行事が県内で見られる。

それは定例的な年中行事ではなく、雨は降らず旱が続き、田畑がはいてこのままじゃ農作が大打撃を受けるというときに太鼓などを叩いて踊られるもので何十年に一度のときだった。

それだけに拝見することは甚だ難しい。

数年間も時が経っていれば踊りも忘れてしまう。

村落にとって踊りを継承していくことは、計り知れない努力がいるのである。

南無天と書かれるなもで踊り。

南無は念仏。雨が降ってくれと天に通じるよう祈る踊りだ。

県無形民俗文化財に指定されている太鼓踊りに吉野町国栖の太鼓踊り、下市町丹生の太古(鼓)踊り、奈良市大柳生の太鼓踊りがある。

指定はされていないものでは奈良市都祁吐山の太鼓踊り、川上村東川の古典太鼓踊り、奈良市月ヶ瀬石打の太鼓踊り、宇陀市室生区大野のいさめ踊りが知られている。

また、雨乞いの踊りには復元された大和神社の紅しで踊り(願満成就)、同じく安堵町飽波神社のなもで踊り(願満成就)がある。

奈良市中山町の龍王神社ではかつて龍王さんのナムデ踊があった。

王寺町明神山頂の雨乞いなむで踊り、平群町平等寺春日神社のなもで踊り、奈良市池田町の勇み踊、雨乞い太鼓踊りもそうだがそれらは随分前に途絶えた。

室生向渕では雨乞いで登った山(堀越神社)がある。

40年ほど前、松明を手にした人たちは山頂まで登って淵の周りを巡ったそうだ。

囃し言葉は覚えていないというからなかったかもしれない。

少し暗かったというから陽が落ちた直後であろう。

いずれにしても龍神信仰があったと思われる向渕だ。

室生下笠間では「あめたんもれ」と囃して山に登ったと長老が話していた。

御杖村村史によれば神末では雨が降らなければ雨乞いのダケノボリをしていた。

三畝山の山の口にある滝壺に木を切って放り込み流れたら雨が降る伝承がある。

般若心経を唱えてタイマツに火を点けて帰ったようだ。

桃股ではアナノオサンと呼ばれる岩穴に参ったようだ。

ここでもタイマツに火を点けて帰った。

菅野ではダケサンだった。

曽爾村史によればここでも雨乞いがあったようだ。

葛では始めにお寺や庚申さんに願を掛けて般若心経を唱えた。

それでも降らないときはダケノボリ(ヤマノボリ)をした。

オダケサンとも呼ばれている鎧岳峯だ。

さらに室生の龍穴神社に参ったそうだ。

ダケノボリは大字ごとで一番高い山に登った。

それは「ヒアゲ」とも呼んでいた。

塩井ではタイマツを作って古光山に登る。

頂上には「アメノミヤハン」の祠がある。

そこで般若心経を唱える。

タイマツに火を点け、太鼓を叩いて「アメタモレ タモレ タモレ フネノミズガカワイタゾ」を唱えながら下っていった。

途中にある不動の滝の滝壺にタイマツを投げ入れた。

山粕では穴野山だった。

そこには穴野神社があった。

掛では八辻峠、長野は屏風岩、今井は甲岳の奥にある歳城峯。

太良路は亀山。

伊賀見は甲岩とあり岳山信仰と雨乞いが結びついている。

葛城の二上山もそうであった。

干ばつのときの雨乞いには「嶽の権現さん」とも呼ばれていた二上山に登った。

提灯と幟を持って雨を貰いに登った。

「岳の権現さんは幟がお好き。幟もってこい雨ふらす」と盆踊り唄で歌われたとある。

それは昭和20年代まで行われていたそうだ。

さて、地蔵盆の立山祭で描き出された雨乞いといえば「雨乞い太郎さん」である。



かつて「雨ください 太郎さん 池の水もカンカラカン (囃子 アメクダサイタロウサン) 稲田の田んぼが焼けた (囃子 アメクダサイタロウサン) スイカもマッカもみな焼けた」という台詞で雨乞いの唄を歌って祈願していた。

地蔵堂にあった木彫りの仏像こと「太郎さん」をヒデリのときに持ち出して、今は真美が丘になった田んぼに担ぎ出した。

そして宮さんの向こうのセンガリ(千刈)池に放り込んで(はめて)浸け、ドボンと沈めた。



「稲穂は立つが、実らないときや。それがヒデリ。」だと78歳のY氏は話す。

その頃の雨乞い様相を伝える手作り人形たち。

65歳のY氏ほか保存会の人たちが昨年の10月から作りだしたという精巧なものだ。

先頭を歩くのが羽織姿の長老。

両脇には火を付けたタイマツと提灯持ちが見られる。

木を組んで布団を乗せた台を担ぐ男たち。

昭和35年代のことだという。

その上に置かれた木の仏像が判るだろうか。

その原形は専光寺と呼ばれている地蔵堂に納められている。



この夜に展示された「雨乞い太郎さん」は町内の図書館で再展示されたあとは焼却するという。

人形で再現したとはいえ、珍しい行事だけにとても残念だと思った。

(H23. 8.24 EOS40D撮影)
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