マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

竹之内町十二神社の祈年祭

2017年12月31日 10時07分02秒 | 天理市へ
昨年の5月3日に訪れた天理市竹之内町の苗代。

以前、拝見した場に松苗がなかった。

松苗どころかイロバナも見られない。

しかも、かつて稲作だった地は耕していることもなかった。

探してみれば、そこだけのようだ。

写真を撮っていたら、柿栽培をしている男性が話しかけてくれた。

竹之内町十二(じゅうに)神社に豊作を願う祈年祭がある。

その行事に奉った松苗をたばって苗代に立てているのはたったの1軒。

いずれは消滅するかもしれないと話していた。

そうであれば喫緊の課題。

数年前に神社の所在地を探したこともあるが、村の人が指さす方向には辿り着かなかった。

いつしか、その記憶も遠ざかっていた祈年祭。

行事日は不定と聞いていたので、ますます失念してしまっていたが、課題は待ったなし、と思った。

鎮座地、並びに行事日を確定したく竹之内町をうろついた1月24日。

通院している病院からはそれほど遠くない。

リハビリ運動を終えたらフリーになる。

こういう時間は探訪目的に集落を歩いてみる。

この日もすれ違うことはない。

ある家に車が戻ってきた。

降りた男性に声をかけて教えてもらうが要領を得ない。

あっちの山の方だというから歩いてみる。

坂道を登っていくが、一向にたどり着く気配を感じない。

このまま行けばお山まで。

冷たい風がふぶく。

ここでもリハビリ運動かと思いながら集落を中心部に入った。

数人の声が聞こえたので、ご存じであれば、と思って声をかけたら、今年のトーヤ(当家)務めにあたっている宮総代のFさんだった。

十二神社の祈年祭に務める斎主は石上神宮の担当神職。

日程決めはだいたいが2月半ばの先であるが、2月に入ってから担当神職と日程を調整するとも云われていた。

決まれば電話をしてあげると云われてほっとする。

竹之内町の集落は6垣内。

北、中、輿、南、登り、辰巳垣内である。

池南側に小字“山の神”がある標高100m以上の高地に位置する珍しい環濠集落。

旧村40戸からなる集落である。

祭りに務めるトーヤ(当家)は4人。

祈年祭に奉る松苗作りをする。

祭りの前日に山入りした山中で伐ってくる松はオン松(雄松)。

昨今は山入りしてもなかなか見つからなくて、入手困難な時代になってきたうえに戸数分40本も作るというから苦労絶えないそうだ。

神社の所在地は池の北側にあると教えてもらって徒歩で行く。

小字明神谷に鎮座する神社にたどり着くには軽トラで入ることのできる池(三間塚池:さぎづかいけ)堤つたいの道に沿っていけばよいと云われて、やっと着いた。

神社に登る参道下に手水鉢がある。



どことなく風情を感じた手水鉢に刻印があった。

「享和二壬戌歳(1802)九月」の年代が判読できた。

2月に入ってすぐに日程が決まるようでもなかった。

電話を待ってはいたものの、2月14日もリハビリ運動の通院日。

帰路に足を伸ばして確かめた行事日程日は地区掲示板に貼りだされていた。

その1週間前の14日は未だ決まってないらしく貼ってもいなかった。

半ば辺りに決まると云っていた通りの通知であった。

現認したら、確認したことを宮総代に電話しておく。

あらためて行事取材の承諾である。

平成25年の5月8日

竹之内町で初めて拝見した水口の祭りに感動してから4年も経っていた。

水口に供えられる松苗の在り方が、ようやく実現できることに嬉しさがこみ上げる。



4人のトーヤ(当家)が前日に作っておいた松苗は50本。

2本で一対の松苗を藁紐で1束括り。

そう云っていたが、実際は3本括りだった。

軸の方を稲藁で括る。

祈祷札のようなお札は竹之内町では見られない。

話しが弾んで作業時間よりもしゃべりが多くなり、深夜まで食い込んだ、と笑って話す。

奉る松苗はすべてが大きなチンチロ付き。

そうであるから採取も難しいようだ。

コトハジメの祈年祭に願う村の豊作祈願に奉った松苗だ、という。

2段重ねの大きな鏡餅に洗い米や塩。

新鮮な鯛、ゴボウ、ニンジン、キノコ、ホウレンソウにスルメやコンブ。

さらにはリンゴに柑橘類も供える神饌御供は氏子総代が用意する。

そして始まった祈年祭の神事。



宮司一拝、祓の詞に、御前に一同揃って一拝する。

献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌、宮司一拝で終えた。

下げた御供は神さんの前でよばれる直会の場に運ばれる。

一つは細く切ったスルメに板昆布。



これを肴にお神酒をいただく。

もう一つの皿は果物だ。



包丁で皮を剥いたリンゴは食べやすいようにくし形切り。

「でこぽん」を品種改良した柑橘類の「しらぬい」は皮を剥いて1房ずつ盛ってくれた。

これもするのはトーヤ(当家)の仕事。

男性ばかりの手仕事が実に優しく、県内事例ではとても珍しい、と思った。

しばらくの時間を歓談した直会会場。

時に囁くのは野鳥と風の音だけだ。

かつては鬱蒼としていたという境内の植生。



晴れ間に差し込む光も優しい。

その時間に見つけた折り鶴。



色が褪せていることから、随分前に何らかの願掛けをしたようであるが、氏子たちは気がついていないようだ。

しばらくは歓談していた氏子たち。



40分ほどで直会を終えたら自由解散。

Fさんら他5人ほどが持ち帰る松苗の束。

2束、3束を持ち替える。

松苗は苗代だけでなく、ハウス栽培をしている場にも立てて、イロバナを添えている、という。

コトノハジメに立てると話していたのは柿栽培のFさん。



昨年の5月3日に訪れた際に話してくれた男性だった。

氏子たちが帰ったあとも作業がある4人当家。

神事に用いた器やカワラケは水洗い。



拝殿外にある水道蛇口から流す谷の水で綺麗にする。

タオルで見ず拭いしたら元の場所に戻しておく。

御供下げした大きな鏡餅は4等分。

スルメも板昆布も果物なども4等分して持ち帰った。

ちなみに竹之内町のマツリは10月。

14日の宵宮はゴクツキに幣切り。

そして宵宮のお渡りに神社へ参る。

翌日の15日は本祭。

参拝時にワッハッハと唱和し神石を三周回るらしいが・・・詳しくは聞いていなかった。

(H29. 1.24 SB932SH撮影)
(H29. 2.26 EOS40D撮影)
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勾田町稲荷大明神社の初午祭

2017年12月30日 09時20分10秒 | 天理市へ
「初午祭」行事を案内するポスターを見つけたのは2月7日だった。

たまたまというか、通院終わりに通りがかった街道道は天理市内。

ポスターに場所を明示していた地名は勾田(まがた)町。

祭事の場は春日神社の境内社になる稲荷神社だった。

勾田町の春日神社行事は2度伺っている。

一つは平成17年4月9日の当屋座行事である。

午前中は版木で刷って作るごーさん札、ヤナギの木の挟みに餅つきもあった。

当屋の家はどこであるのか、随分と探し回ったことを覚えている。

当屋の家で行われる作法は厳格な形式。

しかも当屋婦人は和服姿で献酒していたのが目に焼き付いている。

二つ目は同年の12月30日に行われた迎春飾り。

当屋座行事の際に聞いていた行事は門松立てが主だった。

それから12年も経った今年。

十二支も一巡した酉の年である。

酉年とはなんら関係もない初午祭にぜんざいが振る舞われるとポスターに書いてある。

当日は多くの参拝者でにぎわう様相が頭の中で描かれる。

それも大事なことだが、私にとっては初午に供えられる御供である。

近年になって調べ始めた初午祭に供える「旗飴」御供である。

その「旗飴」を供える地域分布を調べている。

これまでわかっている地域は。

桜井市、橿原市、大和高田市、田原本町、広陵町、葛城市、御所市などの県中央部。

東西に広がる幅狭い地域であるが、天理市はどうなんであろうか。

初午祭に来られる氏子に尋ねてみたい事項である。

その件もあるが、12年ぶりにもう一度拝見したくなった当屋座行事である。

12年も経過しているなら行事の変革があってもおかしくはない。

そう思っている。

それも確かめたいから出かけた勾田町の初午祭。

神社に着いたら境内いっぱいに立ててある幟に目が行く。

紅白の幟は稲荷大明神社周辺にある。

神社後方に植わっている木は桜の木。

この時期は葉っぱさえ見られないが、幟に花が咲いた。

12年ぶりに伺った旨を伝えたら、当時に当屋を務めたURさんもおられる。

確か、Uさんはテレビに出演したことがある。

関西テレビで放映していた「走れ!ガリバーくん」という番組だった。

番組は平成8年から始まって平成17年9月に幕を閉じた。

出演されたのは4月以降であるが、仕事場におられる姿だった。

12年前に取材してからの当屋座は随分と改革をしてきたというUT区長。

座行事の場は神社会所になったし、和服姿の当屋婦人はもう出ることがなくなったという。

そういう状況であるが、違いがどうなったのか、拝見したく再取材をお願いした。

さて、初午祭の神事である。

参列者は区長の他、勾田町の評議員である。

一般の人たちの姿もなく、ぜんざいも見られなかった。

旗飴は聞き始め。昔からそのような御供はなかった、ということだ。

神職は石上神宮の神官。

一同は紅白の幕を張った稲荷大明神社の前に並ぶ。



祓えの儀、献饌、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌。



最後に宮司一拝で終えた。

勾田町はかつて36軒だった。

いつしか戸数が減って26軒。

旧村26軒の氏子長男による当屋座が務め、営んできた。

当屋の廻りは年齢順。

12年前に訪れたときは壮年層の年代だった。

それからだと思う。

ぐっと下がった若年層になったというから、今年、4月8日に行われる当屋座(頭屋祭)は、この日に参列された人たちではないようだ。

ただ、当屋座には必ず区長が参列される、ということだ。

早朝に集まった若年層当屋座中はカワヤナギの枝木を用意することから始まるようだ。

座中は52歳の一老から順に下った40歳代の十老まで。

いわゆる十人衆である。

当屋座行事は一年に2度ある。

4月は春の大祭で10月は秋の大祭になるらしい。

また、8月は地蔵まつりがある。

本来なら8月23日、24日であったが、今は一日限りの直近の日曜日。

今年は8月20日の日曜日。

子供会を中心に長寿会や婦人会が催す出店に冷やしソーメンや綿菓子なども。

地区の子どもたちが大勢やってきて賑やかになるらしい。

ちなみに下見に来た2月12日。



記憶はあるのだが、神社の位置がすっきりしない。

念のためと思って探索した際に見つけた竹挟み御幣。



いつここに立てたのかわからない。

八王子の石標があるから八王子には違いないかと思うが、それは岩のような大きな石だった。

(H29. 2.12 SB932SH撮影)
(H29. 2.26 EOS40D撮影)
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住之江お好み焼きおばちゃんの博多焼き-阪神名物イカ焼き

2017年12月29日 09時18分13秒 | あれこれテイクアウト
大阪の住之江に行ってから神戸の魚崎に向かう。

途中下車におふくろを乗せるのもあるが、手土産に買いたいケーキ屋さん行きもある。

昭和51年に結婚して数年間は住之江で暮らしていた。

引っ越した先は奈良県の大和郡山であるが、私本人は生まれも育ちも住之江の北島。

同じ地である。家を出て高校に通った3年間のうち半分は電車に乗って通学していた。

最寄りの駅は南海本線住ノ江駅。

そこから天下茶屋経由で天王寺駅に着く。

そこからはチンチン電車に乗って・・・・。

半分は自転車通学だった。

その住之江駅近くに「サボア」というケーキ屋さんがある。

会社の帰りもあるが、かーさんがお気に入りの美味しいケーキ屋さん。

結婚した弟ら夫婦もそう云っていた。

いつしかそのお店が消えた。

所在地だった処に行ってもケーキ屋さんがない。

お店を畳んだのか、それとも移転したのか・・・。

姪っ子が近々に結婚すると聞いて出かける。

その手土産にケーキをと思ってネットを見ればあるやん。

以前あった処からそれほど遠くない。

遠くないというよりもほんの少ししか動いていなかった。

そのケーキ屋さんは「サボア」。

ネットのHPによれば創業は昭和46年。

私が高校を卒業した年だった。

そのころの住之江駅は地上駅。

住之江車庫がある大きな駅だった。

乗り降りは駅構内にある踏切を渡っていた記憶がある。

その駅も高架化事業によって駅も高架になった。

昭和52年4月に利用できるようになった。

ときどき夢の中に出てくる住之江駅は地上駅だ。

懐かしい映像が蘇るが写真はない。

さて、ケーキや「サボア」が移転したのは平成26年3月。

これは買いにいかなきゃ・・である。

HPに書いてある地図はすぐにわかる。

長年に亘って、通学、通勤などで行き来した通りである。

昔と違って一方通行になっていた。

以前よりは瀟洒な店構えになったような気がする。

車を降りてケーキを買うのはかーさん。

私は隣にあるお店が気になった。

お好み焼きが250円の表示に釣られて近づく。



大きな価格文字で書かれている値段もあるが、「博多焼100円」っていったい何だ。

ここは大阪市内の住之江区。

昔は住吉区の西住之江だった。

人口増加に伴って区の再編成で住之江区になったのは昭和49年だ。

住之江に「博多」の存在はない。

売っている店主に聞いたら昔の一銭洋食(一銭焼きとも呼ばれる)と同じようなもんだと見せてくれた。

物珍しさでこれにした。

一枚が100円なので二枚。

当然な買い枚数だ。

ところで昔、ここに住んでいたが、お店は何時できたのかと聞けば15年前という。

それなら私がこの地を離れてからに開店したことになる。

高校生のころはこの道を通っていたといえば店主は安立(あんりゅう)小学校という。

私が通学していた小学校は敷津浦小学校。

「津」も「浦」も名があるから察しがつくであろう。

大昔は海、港もあったのだ。

現在は面影すら見えない。

大昔の古地図を見ればここより北方にある住吉大社の鳥居前。

そこも海。

つまりは旧国道26線沿いの西側は波が押し寄せる海岸だったのだ。

国道から西は敷津浦小学校。

住之江駅がある東側は安立(あんりゅう)小学校の校区。

中学となればどちらも南稜中学校になる。

小学校を卒業して南稜中学校になった一年生。

すぐに友達になった。

今でも数人がペーパーだけの付き合い。

ペーパーは年賀状である。

そんな話をすれば店主は私も南稜中学校だったという。

年齢は聞かなかったがあまり私とかわらないように見えるお歳ごろ。

懐かしい記憶が蘇ってきた。

今度、ここへくればお好み焼きと焼きそばは買いたいといえば・・笑って応えてくれたお店の名前は「お好み焼き おばちゃん」だった。

さて、お味である。

1パックに一本の割り箸をつけてくれていた。



マヨネーズもソースもたっぷり塗ってくれた「博多焼」はとても柔らかい。

ちゅるちゅるっていうような食感だ。

噛むことも不要。

ちゅるっと吸い込めば喉を通っていく。

なんともいえない美味しさが口の中で広がる。

一銭洋食は水で溶いた小麦粉を鉄板で焼く。

焼いているところは拝見していないから何とも言えんが、具材を舌が感じた。

シャキシャキ感があるのはモヤシ。

ぐにゅっと感はコンニャクだ。

分量は多くない。

それでも美味い。

たまらん美味しさだが、かーさんはそのぐにゅっと感が嫌いらしい。

味は美味しいが、それがアカンという。

私と云えば数秒でたいらげた。

味見をしておふくろとこへ行く。

ここからはすぐ近くの市営住宅に住んでいるおふくろを乗せて神戸の魚崎に向かう。

阪神高速道路の湾岸線を利用すれば20分ほどで着く。

お土産のふわふわチーズケーキを弟宅でよばれてお茶をする。

ここで出る話題はケーキ屋さん。

「サボア」は移転してここにあったから買って来たといえば喜んでいた。

その隣で売っていたおばちゃんが焼く博多焼もあったで、といえば冷凍していたイカ焼きがあるという。

そのイカ焼きはテレビでも度々紹介される阪神百貨店の地下で売っているイカ焼きだ。

関西人なら誰でも知っている、あまりにも有名な阪神名物のイカ焼きは一枚が152円。



レンジでチンしてもらってよばれた。

食感は一銭洋食のような柔らかいものではない。

堅くもない焼き方である。

焦げ目が入っているイカ焼きのなんといっても最大の特徴が大量に入っているイカである。

あんこだらけのたい焼きではない、イカだらけのイカ焼きである。

ソース味は濃くもない。

どちらかと云えばやや焦げ目を味わう粉モンである。

私はあまりのイカの多さにまいってしまった。

いや、旨さではなく歯ごたえがありすぎて、である。

私的にいえば勝者は一銭洋食の博多焼き。

イカ焼きは買うこともないが、わざわざ住之江に行く用事を作ってでも食べたいと思ったぐらいだから・・・・。

翌日の26日。



残していた一枚も電子レンジでチンして食べた。

一日経っても美味かった。

(H29. 2.25 SB932SH撮影)
(H29. 2.26 SB932SH撮影)
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日清食品のスパイシーカレーメシ

2017年12月28日 09時34分10秒 | あれこれインスタント
数週間前のことだった。

何を思ったか思い出せないが我が家のインスタント食品蔵に日清のカレーメシがあった。

こんなんがあるんやと思って食べた。

お湯を注いで5分待つ。

蓋を開けたらぷっかり浮かぶ・・・ではなく、泡が浮き上がっていた。

なんじゃ、こりゃといった第一声。

まさになんじゃ、こりゃ、である。

泡がぶくぶくなんてものが出てくるなんて想像していなかった。

蓋に商品によく混ぜてと書いてある。

混ぜたらどうなるんだ。

スプーンでぐちゅぐちゅ混ぜた。

底から掻きだすように何度も、何度もひっくり返す。

そのうちにじゅくじゅくだったカレーメシはカレー色。

泡状態のときはどちらかといえば白い。

白いよりもより透明に近い。

それが混ぜることによってカレー色になってくる。

しかも、だ。じゅくじゅく度合いがだんだんと固くなっていく。

これって何なの、ていう感じだ。

食べごろいつなのか決め手がない。

適度にかき混ぜたカレーメシをスプーンで掬って口に入れる。

あれぇ、である。

味は立派なカレーやんか、である。

とにかく美味いカレーメシは止まらない。

口に入れてはスプーンが動く。

動いて、動いて口の中はカレーの香りが広がる。

そんな味はしっかりと記憶に残った。

どこで売っていたのか、記憶にないが、すぐにわかった。

毎週一度は出かけるラ・ムー店がある。

見つかったのは京終店だ。

たしか税抜きで198円だったと思う。

スペシャルなラーメンもそれぐらいの値段だが塩分が多い。

多いから買うことも食べることもできない。

ところがカレーメシの塩分量は2.8g。

これはいけると判断して即、購入。

同じ棚に並んで売っていたスパイシーカレーメシも食べてみたくなって買っておいた。

この日に選んだ我が家の簡単昼飯はスパイシーカレーメシだ。

作り方は同じ。

お湯を注いで5分待つ。



泡がぶくぶく。

スプーンでたっぷりかき混ぜる。



カレールウが溶ける時間は何も書いていないが適度な回数をしてさぁ、いただきます、だ。

味は大きく違う。

カレーにコクがない。

それよりも口の周りがヒィ、ヒィ。

熱くはないが、そんな感じだ。

不味くはないが、前回に食べたカレーメシとは感動度合いが落ちた。

商品パッケージに「ちきんかれーらいす」とある。

たしか、カレーメシはビーフ味だったと思う。

コクがないのはその違いか。

それとも旨味成分がないからか・・・。

もうひとつの違いは飯の炊き具合だ。

お湯かけ5分だから炊き加減はない。

ないが商品化するときの炊き方がビーフのカレーメシと違うんでなかろうか。

また、混ぜ方表示に「よく混ぜると無駄にウマイゼ!」のキャプションがある。

無駄にウマイってどういうこと。

さっぱりわからん表示が書いてあるところに成分表示がある。

食塩相当量が2.8g。

塩分量は申し分ないが、2回目の購入はないだろう。

それにしても主な原産国に中国産表示の多いこと。

カレー粉、オニンンパウダー、チキンエキス、かやく、フライドポテト、味付け鶏肉、人参だ。

なんちゅうことだ。

米、豚脂以外すべてに入っとるやないか。

(H29. 2.24 SB932SH撮影)
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東洋水産の秋限定の四季物語りバター風味さけ節味噌らーめん

2017年12月27日 09時31分36秒 | あれこれインスタント
久しぶりのらーめん喰い。

塩分が気になる心臓病になっていらい商品に表示されている成分表の値が気になって仕方がない。

とくにらーめん、うどん、そばなどの麺類は麺でなくスープが、である。

スープの塩分量を見てもらえればびっくりされると思うが3g以上もあればすごい量。

4g以上ともなれば具材、麺、スープすべて合わせて6g以上にもなるカップ麺。

とてもじゃないが塩分含有が低い麺類はとても少ない。

逆に塩分量が多いラーメンは○○屋店主監修のなんとかラーメンである。

濃い味、コクあり、ぎとぎとラーメンは特に多くて8gなんていうのもある。

一般の正常な人でさえ一日の塩分摂取量は7gだ。

それを超えるラーメンは私から見れば非常識。

とんでもない代物である。

今回、試し買いしたカップ麺は・・・。

塩分量は3.8g。

日清のカップヌードルが4.8gだからそれより低塩分に思わず手が出た。

買ったお店は天理のハッスル3。

あまりにも美味しかった東洋水産のマルちゃんのあつあつ牛すきうどんのカップ麺を探してやってきたが、それはない。

代わりに見つけたのがこれだ。

塩分量は低いうえにお買い得の価格で売っていた。

それもそのはず季節限定の四季物語りカップ麺である。

ま、いえば売れ残り商品だから特価。

それでも味はまずまずだった。



蓋を開けて香味と思われる特製油を注ぎこんで箸を突っ込んだ。

かき混ぜても麺をすすってもタイトルにあるさけ節の味はまったく感じない。

どろっと感のあるバター風味に薄めの味噌がよく似合う。

不味くはないが美味くもない。

中途半端といえばそれになるが、お腹を満たすには充分なカップ麺。

具材の野菜はコーンもそうだが大量。

これが気に入った。

ちなみに同額の58円で売っていた鯖節カップ麺は次回廻し。

(H29. 2.23 SB932SH撮影)
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半年、3カ月検診含むリハビリ療法

2017年12月26日 09時37分56秒 | むびょうそくさい
この日は半年検診の心エコー検査がある心外科診察。

前回が昨年の9月6日だから半年後。

予定ではこの日でなく来週の2月28日だった。

数か月前に連絡があって診察日程が前のめり。

医師の都合で一週間前に変更された。

その日は循環器内科の3カ月検診もある。

どうでしょうかと相談されたが、なんとかなるでしょうと云うのは私だ。

検査は血液検査に心電図検査。

ちゃちゃっと進めば十分に間に合う心エコー検査。

血液検査の結果が出なけりゃ循環器内科医師の診察はできない。

血液採取をしてから1時間から1時間半もかかる。

一方の心エコー検査に関わる時間はほぼ30分。

その検査結果も出るには1時間以上もかかる。

スタート時間を早くすれば何とか間に合う。

後ろがなければ急ぐこともないのだが、午後はリハビリ療法の時間枠になる。

こういった3本立て一挙公開・・・ではなく一挙に検査、診察、リハビリをするに順番を決めていた。

始めは血液検査。

二番目に心電図検査と心エコー検査。

そして、結果が判明する時間を見計らって循環器内科診察時間を設定する。

それが終わるくらいに心外科診察の時間を決める。

こういう設定で診察が終わるのは午後12時半を想定した。

そうすることで心臓のリハビリ療法は午後1時半には充分間に合う。

もちろん、その間に昼食を摂るという計算である。

さて、上手くいくかどうか、である。

自宅を出発して途中にあるコンビニエンスストアで、ぱぱっと食べられるオニギリを買っておいた。

駐車場の門が開くのは午前8時半。

計算通りに着いた。

そこから歩いて10分。

総合受付を済ました時間は午前8時41分。

2階に上がって採血の整理券をもらう受付。

20人も並んでいた受付。

採血に入ってくださいと伝える整理番号は140番。

私が受け取った整理番号は232番。

こりゃ30分以上も待つことになる。

レントゲン検査でもあればそちらに廻ることも可能だが、今回の検査にレントゲンはない。

たいがいの心電図検査は10分で終わる。

心エコー検査は30分。

待ち行列がない場合は丁度いいが・・。

それらの検査を受け付ける生理検査受付担当者が云った。

心エコー検査の予約時間が9時半になっているから採血を優先してくださいと・・。

採血が9時半を過ぎるようであればこちらに来てくださいといわれたが、ビミョーである。

採血の待合ロビーで待つ。

その時間帯にアナウンスしていた整理番号は170番。

生理検査受付で相談している間に30人も進んでいた。

この状態であればなんとかいけるだろうと思って待つ。

ようやく呼び出しされた「232番までの方、お入りください」アナウンスは電光掲示板も「232」。

発光した時間は9時20分だった。

呼び出しはあるが実際に採血するにはまたもや順番待ちがある。

僅かの待ちもあって採血された本数は4本。

結果が判明する予定時間は午前10時51分だ。

循環器内科医師の診察は午前10時半であるからこの時点で遅れがあった。

今回の検査に特別なものはないからいつもの4本である。

そうしてまたもややってきた生理検査受付。

丁度の9時30分に呼び出しの心エコー検査である。

上半身裸になって横向けになる。

エコー検査の器具を動かしながら心臓の動きを検出される技師。

10分ほど経過したころに云った。

「鼻を何回か、吸ってください」という。

指示された通りに鼻をずずっとすする。

これは何のまじないなのか。

検査を終えた技師に尋ねた結果は呪いでもなかった。

心臓血管は動脈と静脈がある。

心臓の働きで全身の血管に送るのが動脈。

逆に送られた血液が心臓に戻ってくるのが静脈。

静脈は動脈と違って細い血管。

血圧も低い血管である。

検査するにはその静脈を広げて状態を掴むということですと云われた。

その結果、特に問題もなく、順調に流れていると伝えられた。

平成27年の8月に壊れた心臓の僧帽弁の形成手術を実行された。

それからは不整脈など心不全に陥ったものの弁の動きはまったく問題もなく作動しているということだった。

ところで次いでと云えば申しわけないが、気になっていたおお腹の出具合を尋ねた。

心エコー器具の幅は狭い。

もっと広い器具でないと脂肪肝などの検出はできませんと云われた。

見た目では膨満でもないので問題はないと云う。

こんなことにも応えてくれた優しい技師に頭を下げる。

一旦は生理検査受付に戻って心電図検査待ち。

呼ばれた時間帯は午前10時。

いつもの通りに衣服を脱いで裸で横たわる。

身体に装着する検査器具は多い。

息を済ませて身体の力を抜いてくださいと云われて俎板の鯉になる。

検査が始まって数分後。

技師が「ななめにします」と云った。

そう聞こえた私は斜めってどちらの方にですか、といえば、そうではなく、「長めにします」ということだ。

技師が云う「長め」は5分間。

一般的にはだいたいが3分。

長めであれば5分間。

その間に発症する不整脈を診るにはそれぐらいが要るらしい「長め」は毎回がそうである。

心電図検査を終えた時間は午前10時10分。

次に向かう受付は循環器内科。

血圧を測って待合室で待ってくださいと伝えられる。

待合室の長椅子はすべてが埋まっていた。

患者さんはなんとなく多いように感じた。

予定時間は午前10時半であるが、患者さんの動きがほとんどない。

呼び出しの声かけも少ないように思える。

そうであれば診察時間はたぶんに11時を超えるだろう。

そう思って受付に相談すれば、本日は飛び込みの患者さんが多くて予約も大幅に遅れていると云う。

ここで待っていても進展見込みがないと判断された受付の職員が指示したのは心臓血管外科診察だ。

予定していた時間は11時。

受付に診察案内を渡せばすぐにどうぞ、である。

待っていた患者さんはゼロだったのだ。

今回診察してくださる医師は心臓外科医師のH医師。

前回の平成28年9月6日に診察してくださった医師だ。

その後はどうですかと問われる医師に反応するのは特に大きな変化はなくて・・・である。

術後のその後は心エコーの検査結果。

問題はまったくなく、僧帽弁は正常に動いており血液の逆流は見られないと云う。

脈拍は低いのは術後の直接的な影響ではない。

起床時、安静時にみられる低い脈拍は38拍前後。

場合によれば若干上がりの43前後の時もある。

脈拍が低ければ心臓ポンプに動きも低い。

低いから動脈・静脈も悪い。

悪いから尿が溜まりやすい。

ところが運動をすればそれは解消される。

脈拍は60拍から70拍にもなる。

送り出し、戻しは問題なく正常な状況になる。

ずっと運動をし続けるわけにはいかない。

人間は安静状態の時間の方が多いのである。

尿が溜まれば膨満どころか浮腫み症状が出る。

息を吸いこむのも苦しくなる。

それを抑制するのが利尿剤である。

大晦日から正月二日間は民俗取材もあったが、戻ってきては泊まりにきていたおふくとろ酒飲。

ついつい気持ちも大らかになって酒を欲する量が自然と多くなる。

多くなるといっても通常缶ビールが2本になるだけだ。

そこへもって取材に出かけた昼間に服用する食後の利尿剤を失念していた。

薬を持っていくのを忘れる場合もあれば、持っていっても服用を忘れる。

気がついたら夕刻時間。

晩食が近いから短時間の合間の服用は拙い。

そう判断して、連続ではないが三日間も失念した。

きっちり応えてくれたのは我が身体だ。

浮腫みまではいかなかったが膨満である。

食欲もない日を迎えてえらく反省した我が行動である

ラシックス利尿錠は朝に1錠、昼に1錠。

一日2錠のところを1錠にすればてき面に症状が現れるのである。

キツイ運動は避けて服用も忘れずに日常を送るようにしてくださいと云われて退室する。

次回の診察は半年後の8月8日。

忘れないようにカレンダーとか日誌にメモっておこう。

診察は短時間。

午前11時20分には再び戻った循環器内科の受付にお願いしますと伝えて待合室に移動する。

立って待たざるを得なかった先ほどの混雑ぶりと違って座れた。

そこにあったマイク放送。

「Ⅰ医師の予約の状況は大幅に遅れて90分待ちになっています」というアナウンスだ。

私の診察予約は午前10時半。

単純計算すれば診察は12時になるであろう。

期待時間を覆して11時50分に呼び出しがかかった。

前回の診察は平成28年11月29日。

3カ月ぶりにお会いする医師は主治医のⅠ循環器内科医師。

先ほどの心臓外科医師と同じようにお身体の具合はいかがですか・・に答える同じ回答。

大晦日から正月二日間における失態である。

利尿剤の服用を連続三日間も空けてしまうとどうなるかを伝えた。

今から14カ月前のことだ。

年末に起こった膨満状態に浮腫みに苦しんで緊急処置をしてもらった効き目がすごい利尿を促進する注射処置。

正月三日目はそうしたかったぐらいに辛かった。

もし翌日もそうであれば緊急連絡をしようと思っていたが、服用を再開すればなんともなくなった。

ありがたい毎日の2回に服用するラシックス利尿錠。

先生、今後は絶対に適用された薬は忘れないように注意しますっと伝えた。

ちなみにこの日の血液検査結果である。

これまでなんとも云われなかったワーフアリンである。

効き目が少し弱くなっているが常態は拙くないので様子をみましょう、ということだ。

そのワーフアリン効き目を数値で現わしているのはPT―INRである。

平成28年7月12日の診察以来に耳にしたPT―INR。

問題はないがと云われたが念のために過去状況を振り返ってみた。

同年5月17日の値は1.23。

翌月の6月14日は1.52。

次月の7月12日は1.60。

そのときの診察に云われたのはPT-INRは1.5以上が望ましいということだった。

この日の結果は1.33。

前回の平成28年11月29日は1.64だっただけにおかしいと気づかれたのだ。

ワーファリン効果があって順調に推移していたと思っていただけに私の記憶の中から消えてしまっていたPT-INRは血液の凝固状態を伝える数値。

低ければ血液の流れが良くないということだが、逆に2.2以上であればそれもまた危険度である。

ちなみにワーフアリン服用者はその効果を弱めるビタミンKをもつ納豆やクロレラ、野菜汁を摂ることは厳禁である。

もっとも私は納豆もクロレラも大嫌いなので口にすることもないが・・・。

BNPもヘモグロビンも基準値には達していないが、異常を示すものはなく今回も安定している。

前回の9月6日の値は75.2。

前々回の11月は62.8。

この日のBNPは75.4。

基準値は18.4以下であるが、現状はそこまでいかない62-75の間を行ったり来たりである。

ヘモグロビンは前回の11月が13.5。

今回も13.5。

基準値が13.7だからまったく問題はない。

痔は今でも完治していないが、大量の出血は発症していない。

たんまにもよおしが悪くなる時がある。

お腹はぐりぐり言うてるが脱糞が少ない。

お腹になにかが残っている。

そんな日は気分も身体も憂鬱だ。

一日二日はそんな日があったとしても快便の日がやってくる。

こんは日は身体も軽くなったような気がする。

もちろん膨満感もない。

その日が必ず来るやと思って通じが悪くなっても気張らない。

それを続けてきたかた大出血はない。

大はないが稀に小出血はある。

尻を拭いたときにべったりつく場合がある。

これを放置すればとんでもないことになる。

そんな状態で長時間の立ち仕事をすればてき面に出血する。

それが怖い。

利尿剤服用の関係で一時間も経たないうちに小便はしたくなる。

立ち小便を繰り返す立ち仕事が長時間になる場合も度々ある。

それとなく西洋式トイレ施設を探して籠る。

出血してきた痔核を押し込む。

昔はそれも難儀したくらいの大痔核だが、今ではちょこっとだけの痔核。

ほぼ顔出しもないぐらいの痔核だからすぐさま収まる。

一時間おきになんども処置をすれば事象は発症しない。

循環器内科の診察には余談なことだが私にとっては重要な日課である。

もうひとつ気にしておかなければならないγ-GTPの値。

前回の11月は143。

今回は158。

9月は97で7月は104だった。

毎日が発泡酒を1本にサイダーで割って飲んでいる甲種焼酎が2杯。

飛び切り数値が上がっているわけでもないからついつい飲んでしまう。

そんな血液検査であったが、一番気になっていた突き出したお腹の具合が心配になって診てもらった。

診察室のベッドに寝て腹を出す。

ぽん、ぽんとタヌキの腹叩きのように音を立てて触診される。

横臥の状態も診てもらったが特に問題はないと云われて一安心であるが、脂肪肝はなんとかならんもんだろうか。

こうしてすべての診察を終えた時間は午後12時20分。

次回も3カ月先の5月16日の予約日を設定された。

その次は午後1時半までに受付する心臓リハビリ運動。

それまで1時間以上も待ち状態に昼食を摂る。

外来棟にくる途中にあった新規開店したコンビニエンスストアがある。

場所は天理市中之庄のローソン店。

弁当でもと思っていたが、値段シールを見たとたんに手が動かない。

昨今はラ・ムーの格安弁当を食べることが多い。

税抜き価格の185円が魅力的。

もちろんおかずもご飯も値段以上に美味しい。

ローソンに限らずコンビニエンスストアの弁当に特徴がない。

これは食べてみたいというのになかなか遭遇しない。

外来棟で昼食を摂らざるを得ない日はこの日のように午前中診察と午後のリハビリ運動がある場合だけだ。

待ち時間に昼食を摂る。

外来棟にある食事処なんてものは1000円から1400円の定食だ。

もう一カ所の食事処は軽食。

うどん一杯が650円なら外来棟からすぐ近くの得得うどんに行くべし、だと思っている。

売店では上等な寿司弁当がいっぱい並んでいる。

この日の一番は鰻ばかりのセットもん。

一折りが1000円。

一度、ここの寿司を食べたが、ギュギュっと詰め込んでいる寿司飯に嫌になった。

尤も品名のわりに中身は大したことがなかった。

そう思う私がローソンで買った昼食は三角おにぎりである。

昨今はス-パーで格安おにぎりを売っている。

一個が79円もあれば68円というのもある。

定番のおにぎりは鮭とかシーチキンなどだ。

結局選んだおにぎりは2品。

税抜き102円の中具たっぷり!シーチキンと111円の味付海苔使用玉子かけ風ごはんの2品である。



はじめに食べたシーチキンおにぎりは表示の期待を外す具量。

シーチキンの特徴ある味もない。

たんなる海苔で包んだ薄味のごはんおにぎりである。

もう一つの玉子かけ風ごはんは、といえば、これは絶品。

一般的にご飯を椀に盛って中央に穴を開けて生卵を落とす。

醤油をたらたら落としてかき混ぜる。

飯椀は黄色い色と醤油色が混ざってどろどろ。

ずずっと口に落とす食べ方が嫌いやという人もいるようだが、一番上手い食べ方だ。

飯椀のたまごかけはとにかくじゅるじゅるであるが、この日に口にしたおにぎりはそれがない。

そりゃそそうだ。

じゅるじゅる状態のおにぎりは食べ方がわからん、というか商品にはならない。

堅めでもなくじゅるじゅるでもないやさしく握ったおにぎりを大量生産する技術はすごい。

すごいと云ったのはとても美味しくいただけるたまごかけを表現していたからだ。

ちなみの気になる塩分量である。

シーチキンは1.4g。

たまごかけは1.57g。

僅かであるが軍配はシーチキンに揚がった。

おにぎり二つを食べる時間はそれほどかからない。

昼の薬を飲んでからはたっぷり休養をとってリハビリ室に向かう。

丁度の良い時間になったリハビリの受付を済ませて入室する。

心電図機器の装着時脈拍は45-46拍。

整備体操は47-48拍。

スクワット運動の場合は57-58拍。

運動によっては59-61拍。

終ってゆったりすれば56-57拍。

運動状況で動く心拍数である。

有酸素運動のエルゴメーター付きの自転車のペダル漕ぎに乗って測った血圧は92-59。

今まで見たこともない血圧にびっくりする。

あまりにも低い血圧にただただ驚くばかり。

たぶんに誤計測のような気がする。

で、脈拍は57-58拍だからフツーである。

55-60rpm回転数の範囲内になるようペダルを漕ぐ。

6分後の血圧は124-60。

脈拍は62-65拍。

頭が熱くなる。

11分後の血圧は125-50。脈拍は66-67拍。

16分後の血圧は129-54。脈拍は66-67拍。汗が出はじめた。

21分後の血圧は127-57。脈拍は67-68拍。じわーの汗が噴き出す。

26分後の血圧は113-54。脈拍は67-71拍で終えた。

(H29. 2.21 SB932SH撮影)
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鹿谷勲氏が語る山添村の祭りと民俗in山添村スポーツセンター大研修室

2017年12月25日 09時29分22秒 | 民俗を聴く
奈良民俗文化研究所を立ち上げて代表を務めている鹿谷勲氏が「山添村の祭りと民俗」を題して講演されると知ってやってきた。

講演会場は大字大西にある山添村スポーツセンター大研修室である。

会場控室におられる鹿谷氏にご挨拶をさせてもらおうと思って入室したら、山添村教育委員会委員長のFさんが応対されていた。

Fさんは大字の毛原。

昨年の平成28年は6月25日

長らく途絶えていた毛原の田の虫送りでお会いした。

直前に行われた神社行事の端午の節句

はじめてFさんにお会いしたのはずいぶん前の平成22年の2月21日ことだった。

毛原で行われている行事を尋ね歩いた日だった。

村人に出会うこともなく、村を歩いていた。

こうなれば呼び鈴を押すしかないと判断して、あるお家の呼び鈴を押した。

そのお家がF家であった。

大字毛原には子供の涅槃や西と東の山の神さん。

その日の女性は室生川の向こう岸にある弁天さん参りもあれば長久寺の「ダンジョウ」とか。

長久寺には大師講が存在する。

八坂神社では月初めに再拝(さへいもしくはさいはい)と呼ぶ行事に植付け籠りもあると教えてくださった。

当時の役職は平たん三宅町の教育委員会勤務だった。

それから6年経った今は、在住する山添村の教育委員長務め。

なかなか休ませてくれないと云っていたのが昨年だった。

鹿谷勲氏が語る山添村の祭りと民俗はまさに教育委員会の範疇である。

たぶんに応対されていると判断して入室させてもらったら、やはりである。

なにかとお世話になってきたこともあって、鹿谷氏ともども共通の民俗話題が拡がる。

その部屋にやってきたのはこれまた存じ上げている大字春日のUMさん。

同じく大字菅生大垣内のUKさんだ。

UMさんは平成19年の10月20日に取材したキョウワウチ宵宮参りに翌日21日のオトナ祭り(※若宮祭とも)も当屋家を支援する手伝い六人衆を務めていたお方だった。

また、UMさんは大字春日の申祭りに能狂言を演技、伝承している古金春流春楽社(※結成は明治25年)の一員でもある。

UMさんと村外でであうこともあった。

平成28年の11月11日

天理市の福住公民館で行われていた民俗画帳展示会に居たときに、たまたまお越しになられたUMさんが、「げんげ」の意味を教えてくださった。

もう一人のUKさんも古金春流春楽社の一員であるし、大字菅生のおかげ踊り保存会でもある。

踊りの練習は平成23年の7月22日

盆踊り披露の前に慣らし踊りをする際の太鼓打ちを務めていた。

平成23年の11月11日は、2週間前に迫った近畿芸能大会に出演するおかげ踊りの予行演習もしていた。

UKさんとは平成27年の1月7日に訪れた山の神の日にカギヒキの作法をしてくださった。

さまざまな出会いがあった山添村の民俗探訪。

これまで訪れた山添村の大字は、毛原、春日、菅生の他、岩屋、鵜山、大塩、大西、遅瀬、勝原、北野、切幡、桐山、中峯山(ちゅうむざん)、西波多、広瀬、広代(ひろだい)、松尾、的野、三ケ谷、峰寺、室津に吉田の22カ大字。

山の神を祭っている情景をとらえただけの地区も含めてのことであるが・。

未だに訪問できていない大字は、片平、葛尾、助命(ぜみょう)、堂前、中之庄、伏拝(ふしおがみ)、箕輪の7カ大字。

とにかく山添村は広いと感じている。

鹿谷勲氏が奈良民俗文化研究所を立ち上げる前の職は奈良県立民俗博物館の学芸課長だった。

平成23年8月のころだった。

鹿谷氏が私にお願いしたことが一つ。

山添村の民俗行事を紹介する写真はお持ちでないか、である。

なければ特定地区でも、といわれた。

その一つが大字菅生であった。

6年前のころはまだ多くの行事を取材できるところまで至ってなかった。

いつかは実現するであろうと思って、当時、取材していた範囲内で蔵写真より引っぱりだした写真を整理していた。

大字菅生で59枚。

菅生以外は72枚もあったが、鹿谷氏が得意とする奈良県の無形民俗文化財に指定されている菅生のおかげ踊りは、盆踊りに出演している写真しかなかった。

もう一つの無形民俗文化財は大字北野、峰寺、松尾、的野、桐山、室津で継承されてきた「東山の神事芸能」である。

当時、未だ私が取材できていない「東山の神事芸能」地区は的野だけであった。

その代わりになったわけではないが、その年より始まった「私がとらえた大和の民俗」写真展である。

大和の民俗を撮っていた写真家の人たちに声をかけてお願いした写真展。

地域限定でもなく幅広い民俗要素から写真家自身が描く映像で紹介することになったのだ。

そのような経緯を思い出しながら講演会場に向かった。

会場には神職も来られていた。

奈良市丹生町にお住まいの新谷忠宮司夫妻である。

宮司が出仕される地域は広い。

山添村では桐山に北野、峰寺。

在地の丹生町により近い地域が持ち場。

以外に奈良市の旧五カ谷村の9カ村も。

その一つに興隆寺町がある。

その興隆寺町・八阪神社の月例祭にシラムシ御供があると教えてくださる。

出仕されている旧五カ谷村では唯一の珍しい御供。

シラムシは粳米、餅米のそれぞれの米粉を塩水で練って作ったとても珍しい御供であるから、是非とも訪問してあげたら、と云われる。

実は、先日に伺った際に氏子さんからシラムシのことを聞いたので、3月1日の行事は是非出かけてみたい、と伝えたら、当日は奥様が出仕されるという。

当日は興隆寺町で出会うことになる。

ありがたいこの日の出合いに感謝する。

会場には顔見知りの山添村観光協会局長のMさんや、大字勝原在住のSさんも。

村外からは山添村と明日香村をフイールドに風景写真を撮り続けている写真家のYさんもおられた。

教育委員長の挨拶で始まった「鹿谷勲が語る山添村の祭りと民俗」講演会。

会場はぎっしり埋まって立見も多い。

席に溢れた人も数えてみたら、およそ100人にもおよぶ大盛況。

予想以上の反響は、来場していた顔ぶれでわかる。

鹿谷氏と面識のある村の人は行事を継承してきた人たち。

記録、聞き取りなどで長年に亘ってお付き合いをしてきた村の人が、是非とも聞いておきたい山添村の祭りと民俗の講話である。

はじめに紹介されたのは山添村の伝統芸能奉納の上映会だ。

収録は春日大社の式年造替記念に奉納した大字北野、峰寺、松尾、的野、桐山、室津の人たちが演じた「東山の神事芸能」である。

鹿谷氏から出演依頼があったのはずいぶん前のこと。

大字ごとに出演依頼の行脚をすると聞いていた。

奉納日は平成28年11月20日の日曜日。

その日に行われる造営奉祝行事の大和高原神事芸能の撮影に協力できないか、奉納のすべてを記録に撮ってほしいと願われたのはその年の8月23日だった。

電話で受けて承諾したものの、自宅に戻ってよくよく日程を確認したら、奈良県立民俗博物館のイベントがある日だった。

第6回目を迎えた「私がとらえた大和の民俗」写真展のイベントで出展写真家が併設する大和民俗公園にある古民家を利用して語らうテーマ「住」をめぐる大和の民俗―古民家座談会だった。

実は鹿谷氏も出展写真家の一人。

イベントの語らいも出るはずだったが、春日大社の奉納日と重なってしまった。

鹿谷氏は奉納に関わる重要な人物。語りイベントは私たち写真家で対応すると伝えた。

その年の民俗行事取材に出かけた山添村。

10月15日は室津に居た。

宵宮のお渡り取材に伺ったトウヤ家で聞いた出演の話し。

トウヤ家のOさんや東山地区神事芸能保存会会長のⅠさん。

出演を承諾して誰に出てもらうか、これから相談すると話していたが、おそらくはこの日と翌日の本祭に出仕される渡り衆になるであろう、ということだった。

それより以前の8月27日に立ち寄った大字北野・津越の大矢商店店主もたいへお世話になっている。

11月20日は北野も春日大社の林檎の庭で披露する。

時期はまだ早かったから誰が出演するかは決まっていない。

というのも、北野の場合は各垣内から選ばれる渡り衆。

順番が決まっている垣内は明確であるが、籤を引いて決める垣内はまだ、である。

すべての垣内が決まった段階で、この記念の奉納をしてもらうことになるから、口外できない。

もちろん、私もその一人、である。

上映された映像は北野、室津の「東山の神事芸能」に菅生のおかげ踊りであった。

こうして始まった講話は、鹿谷氏が初めて入った山添村に関する村の調査である。

内容が濃い講話を聴講するままノートにメモった。

一部は聞き取れない部分もあり、私が誤記していることもある聴講メモ。

できるだけ綴っておきたく、不明な点もそのまま列挙させていただき、また、私が知る範囲内で補足すること、ご容赦願いたい。

★最初の出会いは30云年前。

布目ダム建設に伴って、水没する村もあることから、その民俗調査である。

調査報告書は北野の津越。

当時の人たちにUさんが云った「マツリのホーデンガク」の言葉である。

その言葉に気づいて、山添村に「奉田楽」があるのか、調べることになった。

奈良晒(ならざらし)の紡織(ぼうしょく)や十九夜講が桐山にあった。

いろんなことがあることがわかった山添村に来ることが多くなった。

★特色は正月迎えをするフクマル呼びがある。

鹿谷氏が当時撮ったと思われる山添村の写真を会場正面に設置したスクーリンに映し出す。

正月神さん、正月どこまですとってた。

便所も関係ある正月っつあん。

新しいものが生まれる場が便所である。

びっちんくさ・・・はうちでもあったといったのは、隣で聞いていた風景写真家のYさんだ。

広陵町に住むYさんにとって、便所は「びっちんくさ」である。

私は大阪が生まれ育った地。

田舎は富田林の錦織。

母親の実家であるが、「びっちんくさ」の言葉は聞いたことがない。

「びっちんくさ」の「びっちん」は大便のことであろう。

大便は誰でも臭いというから「くさ」である。

「びっちんくさ」はそのまま大阪弁で云えば「うんこくさ」であろう。

★山の神も・・。

谷出などの菅生集落入口は七ツある。

平坦の地蔵さんと同じように、集落にやってくる悪の侵入を防ぐ地に、7カ所それぞれに山の神がある。

クラタテに“まぐわい”もある山の神。

祭具は男と女を想起する雑木がある。

★“はしおと“。

橘流の橘紋の上着がある。

明治2年の大和万歳の映像を披露されて、山添村には尾山万歳に伏拝の万歳がある。

貴重なものが伝承されている。

ちなみに伏拝(ふしおがみ)は山添村が行政区域。

一方、尾山は奈良市の旧月ケ瀬村に属している。

それほど遠くでもない距離にある両村。

万歳文化の交流があった、と思われる。

★無形民俗文化際に指定した「東山の神事芸能」で所作される田楽は平安時代に始まった風流(ふりゅう)である。

・・楽器する、目出度い古典的詞がある。

生活の安定を願う。

御幣を振る。

なかでも注目すべき点は、扇ぐ、である。

楽器を床に置いて外へ・・・。

次の場面は内側に向けて煽ぐ。

煽ぐ道具は扇である。

音をたてる楽器は、扇に煽がれる。

奈良市丹生町では楽器を蹴る、とかする所作がある。

大風を表現する煽ぎは農耕に擬えた所作をする。

こうした各大字で行われてきた田楽は一覧表に整理したが、今ではだいぶ変わっているようだ。

名前も当時取材したときと違ってきているし・・。

オドリコミの唄を謡いながらトーヤ家に上がり込む。

その際には小豆とお米を撒いて、福をトーヤ家に呼び込む。

それは呪術的な・・、来てもらう場所に便所もある。

おかげ踊りもオドリコミに用いられている。

安芸乃島のミチビキの唄は奈良市上深川で行われている題目立(だいもくたて)のミチビキの安芸乃島・・・が唄われる。

「イリハ」は入ることの入室。

「デハ」は逆の退室を表現する言葉である。

楽器は苗に見立てたササラなど。

煽いで、煽いで育てる。

いわば仕事としての所作が考えられる。

映し出されたシーンは奈良市北野山町の田楽。

同町は山添村の桐山、室津が分かれになった三カ村。

田楽文化は元々が桐山を中心に据えて、室津、北野山町の三カ村がそれぞれ一年おきに田楽を奉納していた記録がある。

長い年月を経て所作も詞章も変化したことで知られる。

私的にはいっそのこと「東山の神事芸能」に加えてもいいのでは、と思っている。

田楽はさらに奈良市の柳生町も紹介される。

柳生の舞はヨーガの舞のヨーゴーの松。

漢字で現わせば影向の松である。

目出度い松を呼び込む所作がある。

少し離れた下狭川町にも田楽がある。

所作の楽器の音色からと考えられるバタラン・バタラン。

大保町の横跳びもある。

田楽を継承してきた地区分布を地図上で見ていただければ理解しやすいと思える。

そうそう、山添村峯寺の六所神社で所作される場は本社殿下の拝殿もあるが、もう一カ所ある。

宮総代渡り衆を迎える場は「堂」。

窓のない開放感ある長屋建ての建物である「堂」内部で披露される。

奈良市大柳生も田楽がある。

昨年に県の無形民俗文化財に指定されたが、被る「ハナガイ」が乱れている。

奈良市阪原にも田楽がある。

昭和54年、大和の文化披露に寄せてもらうようになった山添村を基点に、関連する所作を、地域特有の類事例として紹介される。

★上深川の題目立のヨロコビの唄を謡い始めた鹿谷氏。

詞章、謡いに囃子詞は、いつもふっと口ずさむ。

頭の中にいつも仕舞ってしるわけでなく、公開講座でも度々口にされる。

その度にすごい人だな、と思うのだ。

曽爾村に獅子舞がある。

肩の上に乗って所作をする特徴的な接ぎ獅子がある。

大和の祭りは道化の面を被る。

元々は能面を塗りたくって使っていた。

獅子舞も一つの万歳があった。

活芸があった。

オッペケペー節が万歳の中にあった。

皿回しのない曲芸もあった。

おかげ踊りは、連綿とずっと続けてきたのは、菅生だけだと思う。

オドリコミは七つの講があった。

それぞれの講中のヤド家でヨバレたお酒を飲み歩いて、4軒、5軒目でノックアウトダウンしたこともあった。

踊りを踊ると・・褒め言葉がある。

お返しに出しづくし、花づくしを織り交ぜて褒め返しをした。

★北野の伊勢講に入れ物の箱があった。

そのお箱は天正二年(1574)の銘記があった。

古金春流春楽社の記録など、絵馬もある。

菅生の「じんやく踊り」の写真が、平成5年に山添村が発刊した『やまぞえ双書1 年中行事』に残された。

大正8年が最後であった踊りは写真と本になって残ったのである。

★桐山の十九夜講は女性だけが集まる講。

松尾のオボケ。

麻糸作りの緒は誕生と葬送にも登場する。

芸能も生活も、どのようにして残すのか。

十津川村で撮った写真がある。

日除けの葉っぱは背中に付けていたのを目撃した。

葉っぱを付けていた婦人の姿を撮っていた。

今では見ることのない、山村暮らしの姿が写真に残った。

スクリーンに映し出された姿見て、これとまったく同様と思える行事がある。

奈良市小山戸町・山口神社で行われる「おせんどう」を思い起こす。

また、伏拝の福蔵寺の本尊は子安地蔵尊。

庭に十九夜さんの石仏が三体もある。

広瀬にコンピラ祭りがあったことなど、多彩な祭りと民俗の講話はこうして終えた。

その後は、山添村観光協会局長と風景写真家のYさんともども山添村観光協会でお茶会。

すっかり寛がせてもらった。

(H29. 2.18 SB932SH撮影)
コメント

丹生町の十六夜山荘

2017年12月24日 09時32分44秒 | 奈良市(東部)へ
平成27年9月、奈良市丹生町にお住まいのFさんから封書が届いた。

消印日付けは9月9日。

五節句のひとつである重陽の節句の日でもある。

封書に「十六夜山荘(いざよいさんそう)はお住まいと同じ番地だ。

封書に同封していた通知文に、県芸術祭参加イベントに2企画の催しをしているとあった。

しかもだ。

恒例になった十六夜山荘の観月会・お茶会もしていると書いてあった。

結びに「奈良の隠れ里 丹生の秋を満喫していただければ・・」とあった。

十六夜山荘は農家民宿。

平成27年の2月に農家民宿の許可を取得した。

四季を通じた農業体験、これまで続けてこられたお茶事に、日本の伝統文化を伝える宿としてお待ちしておりますとある。

婦人と初めてお会いしたのはずいぶん前のことになる。

平成22年の7月7日。

奇しくも五節句のひとつである七夕の日だった。

その日に取材した丹生町の行事は「三日地蔵」の風習。

F家でしばらく滞在していたお地蔵さんは隣家に運ばれる。

孫を連れた娘さんが送る情景を撮らせていただいたことがある。

ご縁をいただいたF家が話してくれた正月の膳もありがたく取材を受けてくださった平成23年の1月1日の正月。

元日の朝、家族揃って元日の朝を迎えて正月の膳をする様子を撮らせてもらった。

F家のイタダキの膳はミカヅキサンにツキノモチ、ホシノモチがあった。

でっかいカシライモの雑煮もご厚意によばれることになった。

その年の3月27日は孫さんの1歳の誕生日祝い。

滅多に拝見することのない初誕生の習俗までも取材させてもらった。

なにかと世話になったF家。

当時はいつもにこやかな旦那さんがおられた。

旦那さんは蜂捕り名人。

この日は保存していた蜂の料理までいただくことになった。

平成24年は丹生神社の宵宮行事にも訪れていた。

参拝に来られていた娘さん家族にお会いした。

ご両親は家で孫の面倒をみてもらっていると話していた。

元気で孫さんと遊んでいる姿が目に浮かんだが、立ち寄ることはなかった。

それから月日が経った。

風のたよりに旦那さんが亡くなった知らせが届いた。

なんということだ。

「十六夜山荘」の案内状が届いたのは、平成27年9月10日。

携帯電話に架けてみたが、不在で留守電になった。

その夜である。

Fさんが架けた電話が私の携帯電話にかかった。

あれから旦那は亡くすし、家族状況も大きな変化があった。

負けてられない、と一念発起したのが「十六夜山荘」の設立だった。

ご近所に食事ができる処ができた。

心地いいお宿は自宅を若干の改造をして立ち上げた。

お気に入りの自宅は特徴ある田の字型の座敷

早く来てもらって写真を撮ってね、と云われるが・・。

食事処に御宿。

二人のオーナーが協力し合って丹生町の発展寄与、また、大和茶の応援に立ち上がった、Fさん。

ガンバッている声に発奮したいが、そのころの私は、心臓手術で退院したばかり。

当分は経過措置の治療、リハビリの身。

身体あってのこともあり、お互いボチボチやねと言葉を交わしていた。

この日の午前中は月ヶ瀬桃香野八幡神社の祈年祭を取材していた。

ここからさほど遠くない地に丹生町がある。

いい機会に立ち寄って元気になった姿をみせたい。

それもあるが、十六夜山荘を知りたくて表敬訪問した。

不在である可能性もあるが、とにかく出かけてみる。

確かにあった「十六夜山荘」の立て看板。

門屋にある呼び鈴を押した。

在室していたFさんとお会いするのは、実に6年ぶり。

料理に使う陶器を整理している最中にお邪魔して、盛況ぶりを聞かせていただく。



今年の2月15日で3年目を迎えた十六夜山荘。

口コミで固定客も増えた。

リピーター利用者も多く、しかも外国の方々が来られるようになった、という。

ヨーロッパや台湾にマレーシアなどの国々の人たちもあれば、奈良市内に住まれるある若夫婦の人たちからは、私たちの故郷になってください、といわれるまでに愛されるようになったそうだ。

来客は大人だけでなく、奈良市小学校の在校生徒が利用する農家民宿体験もある。

町住まいの子どもたちにとっては、貴重な体験にたいへん喜んでもらっている、と話しながらもお茶で接待してくださった。



えーことずくめの盛況ぶりにエールを贈られたのは私の方だった。

明日か明後日ぐらいになれば、廻り地蔵が十六夜山荘にやってくる。

だいたいが、1年に2度は廻ってくるというお地蔵さん。

あれから7年。

大きく育った孫の女の子は中学生。

娘の代わりに地蔵さんを背負えるぐらいに成長した、と目を細めていた。

(H29. 2.17 SB932SH撮影)
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桃香野八幡神社の祈年祭

2017年12月23日 09時55分56秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
平成2年11月に旧月ヶ瀬村が発刊した『月ヶ瀬村史』がある。

調査、編集は月ヶ瀬村史編集室。

年中行事の一つに「祈年祭」のことを短文で紹介していた。

「その年の穀物が豊作であるようにと祈願する。2月下旬に各大字の神社で行われるが、この日、厄除けの牛王さん(60cmほどの長さのハゼの木や、松の枝に護符をつけたもの)を各戸に配る。この牛王宝印はモミをまくときに、苗代の水戸口へ立てて苗の育成を祈る」とあった。

祈年祭(としごいのまつり)であれば神社行事である。

その神社行事に寺院行事のオコナイに用いられる牛王宝印の護符や、ハゼの木があると書いてある。

かつては寺院と神社で行われていた神仏習合のオコナイ行事が月ケ瀬村にあったということである。

現在はどのような形式でされているのか、一度は調べてみたい月ヶ瀬村の行事調査である。

気になっていたのは大字桃香野である。

平成28年の5月5日に行われた枡型弁天一万度祭行事の際に見たハゼノキ(ハゼウルシ)に挟んだ神符である。

牛王宝印であれば寺院名が記されて、「宝印」の文字があるはずだが、「八幡大神守護」であった。

しかも、寺院であれば朱印の牛王宝印であるが、これもまた神社の「八幡神社之印」角印である。

ハゼノキ(ハゼウルシ)に挟んでいることからかつては寺院行事であったが、寺院は廃れ、やがて神社で継ぐことになったと想定できる祭具である。

この日に話してくれた長老は、この神符を「ごーさん」と呼んでいただけに間違いないと確信していた。

ただ、神社社務所に掲示している年中行事のうち、現在は数行事をしなくなった行事もあると聞いている。

日程も代わっているとも思われるので、氏子のEさんに日時を確認してもらってから出かけた。

神社社務所掲示写真は平成28年5月5日に訪れたときに撮っておいたものだ。



着いた時間帯は午後12時半。

数人の人たちは雨のかからない参籠所の回廊で作業をはじめていた。



雨天決行の祈年祭に奉られる「ナガイキ」作りに“ウマ”は必要な道具である。

正月に伐っておいた竹がある。

伐りたてであれば青竹であるが、2カ月半も経過すれば青みが抜けた風合いがあるややく枯れかけたような竹になる。

その竹を平たく割って作ったヘラ状の板棒。



それが皮剥ぎの削り道具である。

長い棒のような木材は一般的にはハゼウルシの名で呼ばれるハゼノキ。

長さは5m以上もありそうな長い木。

作業していた人も長老の老名(オトナ)の人たちもその木を「ナガイキ」と呼んでいた。

幹部分の径は6cmぐらいの「ナガイキ」はその名の通りの長い木である。

「ナガイキ」に漢字を充てたら「長生き」。

長老らオトナ(老名)が「長生きしてね」という願いを込めた「ナガイキ」であると話していた。



ハゼノキの木の皮を竹で剥ぐのはトーヤさんに手伝いさん。

力の要る作業は若衆である。

経験者は、こうして削るのだと若衆に教えていくのだが、ずっと続けておれば疲労困憊。

腕に疲労が溜まる。

腰に力も要るからたいへんな作業に5、6人が交替しならが進めていた。

皮剥ぎ作業が終われば、次は神符を挟む部分にナタを入れる。



ストンと切り落とした面にナタの刃を当てて木槌代わりの切断した短いハゼノキで叩く。

まずは水平に一本。

上手く切り込みをしないと斜めになって折れてしまうから、慎重さが求められるのであろう。

ナタの当て具合も年季が要る。

使い慣れたナタの歯の裏側を叩く力も要る。

ある程度の長さに伐り込んだら、もう一カ所。

水平切り込みに対して直角に当てる。



その切り込みはT字型。

数々ある県内事例のオコナイに作られるごー杖と同じ切り込みである。

稀に三方に広げる三角形の切り込み口も見られるが、このT字型が基本形と考えられる。

ナタを強く叩く度にパキパキと音が弾ける。



折れやしないかと、ついつい心配してしまう。

写真でもわかるようにある程度の切り込みができたら、ナタに切り替えたヘラ状の竹を挟んでいる。

ここまでくればほぼ完成である。

竹の楔はそのままにして、用意しておいた神符の「八幡大神守護」を挟む。



これもまたよく見ていただきたい。

むやみに挟むのではなく、挟み方に決まりがある。

長老らが「ごーさん」と呼んでいた神符はまず半分折り。

綺麗に折るのではなく、丸めるような感じのまま切り目に沿って入れていく。

丸めた部分はT字型の「-」の部分。

神符が重なった部分は「|」にそっと挿入する。

楔があるから空間は広いから入れやすい。

こうして挟んだ「ごーさん」は外れることはない。

「-」と「|」できっちり挟まれたから滑って落ちることはない。



ごーさん挟みを済ませたできたての「ナガイキ」はトーヤさんとオトナ(老名)が運ぶ。

如何に長いかよくわかるであろう。

京都銀行のテレビコマーシャルではないが、とにかく、ながーーーい、木である。



二人がかりで担いだ「ナガイキ」は神社拝殿から納める。

一方、短めのハゼノキ(ハゼウルシ)もある。

到着したときにはすでに作業を終えて、参籠所のテーブルの上に置いていた。

長さ40cmぐらいの皮付きハゼノキである。

版木で刷っていた神符を挟んでいた。

挟む箇所だけは皮を剥いでいる。

本数は20数本もある。

これもまた、「ごーさん」であるが、これは長老のオトナ(老名)が作る。



作り終えてストーブを囲んでいた。

この日は雨の日。

屋外は冷たい雨が降っていたから外に出ることはなかっただろう。

「ナガイキ」を納めたらようやく始まる祈年祭。



拝殿前で手水をする斎主を務める尾山の岡本和生宮司と3人の村神主は先に登って「ナガイキ」をセッテイングする。

なんせ、ながーーーい木であるだけに拝殿に横たえることもできないし、縦位置にするのも難しい。



しかも、「ナガイキ」は幹部分を本社殿側に半回転して納めなければならない。

本社殿を外側から拝見すればなんとか納まったが、突き抜けているようだ。



オトナ(老名)たちが作ったハゼノキ挟みのごーさんも本社殿に奉る。



祈年祭の祭具が揃ったところで、普段着に簡略羽織姿のオトナ(老名)たちが参進する。



この日は雨天のため、雨に当たらないように、仕方なく社務所前を参進する。

神饌は一段高い場に供えている。

神さんに尤も近い位置になるのだろう。

神事始まりの合図に太鼓を打った。

修祓は村神主が務める。



祓の儀、宮司一拝、開扉、献饌を済ませてから一同が唱える大祓詞。

ここ月ケ瀬の各大字ではみな同じように大祓詞を唱えているようだ。



そして、一段高い斎場に座られた宮司が奏上する祝詞。

玉串奉奠、撤饌、閉扉、宮司一拝で終えた。

神事が終われば奉った「ナガイキ」もハゼノキ挟みのごーさんも下げる。



ハゼノキ挟みのごーさんは平成28年の5月5日に拝見した社務所の年中行事板書の下に置いた。



村で営む農家さんがたくさんあった時代は100本も作っていたハゼノキ挟みのごーさん。

いつしか徐々に減少した農家さんの戸数。

今では田んぼを作っているお家は2、3人しかいないという。

かつては苗代に立てていたごーさんも今では畑に挿す。

八朔に祭っているという村神主もおれば、玄関に挿すという人もいる。

そのようなことであるが、今年も20数本を作った。

社務所の外に置いていけば必要な人がもらいにくるということだ。

一方の「ナガイキ」である。

これは特別なもの。

この「ナガイキ」は昔からオトナ(老名)の長老がもらうことになっている。

前述したように、村の長老であるオトナ(老名)の長生きを願うとともに魔除けの意味もある「ナガイキ」である。

長生き祈祷した「ナガイキ」を家に持ち帰ってもらうのは、最年長のオトナの一老さんの息子さん。



拝殿から受け渡される「ナガイキ」を受け取った息子さんは肩に担げて運んだ。



これまでの「ナガイキ」は5本も6本もあって、それを持ち帰っていた。

これらは二老や三老に譲っていたが、今は一老だけの1本になった。

この「ナガイキ」は門屋或いは玄関に掲げておけば、屋根を遙かに越してしまうだろう。

息子さんに聞いた話によれば、お家の長い縁側の桁に祭っておくそうだ。

なるほどと思った次第である。

息子さんがこうして持ち帰って運ぶのもしきたりになるらしい桃香野の祈年祭は神社行事であるが、かつては神宮寺と思われる真言宗御室派の善法寺が関係するオコナイ行事であった可能性も捨てきれない。

これまで、数々の県内事例を拝見してきたが、これほど長―――い木(ごーさん)に驚くばかり。

桃香野のごーさんは他地域には見られない特徴があった。



そして直会。

いつものように湯とうで注ぐお神酒をいただいて乾杯する。



お酒の肴は昆布に豆である。

(H28. 5. 5 EOS40D撮影)
(H29. 2.17 EOS40D撮影)
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ラ・ムー京終店の助六寿司

2017年12月22日 09時45分47秒 | あれこれテイクアウト
この日は午後1時から始まる年中行事の取材

おそらく1時間前にはゴーサン札を造るかもしれないと思って出かけた。

そうであれば昼食はどうするか、である。

通り道にあるスーパーはラ・ムー京終店。

カツサンドイッチで軽く済ませておきたいと思って入店する。

サンドイッチは第二希望。

第一希望は学生を応援すると銘打った挟みサンドパンだった。

これらが並んでいる商品棚。

サンドイッチもサンドパンも184円の税抜き価格。

安くて手軽に食べられる。

それにしようと思っていたが、やめた。

急展開な決断に選んだ商品は助六寿司盛り。

巻き寿司が四つにいなり寿司が三つ。

これも手ごろであるが、決め手は価格。

なんと、価格は税抜きの175円。

現地に着いたら直ちに食事。

現場はオトナや手伝いさんに村神主もおられる。

想定していた通りに午後0時前に集まって作業をしていたそうだ。

そんな状況ではあるが腹ごしらえが先決課題。

黒ゴマ入り寿司飯をアブラゲで包んだいなり寿司をがっつく。

アブラゲはジューシー。

ジュワ、ジュワの味付けがたまらない。

一方の巻き寿司も美味しい。

カンピョウにキュウリ、玉子焼きを巻いた巻き寿司をほうばる。

桃色は何のデンブかしらないが、他の具材にしとっとした寿司飯が口に合う。

とにかく美味いからぱぱっといただく。

口は早いが味わって食べた助六寿司。

どこかのスーパーではいなり寿司が四つになっているが、250円前後。

寿司飯はがっちり詰めて巻いているから上手くない。

程よい隙間があるから巻き寿司が美味いのである。

無理にしているかどうか知らないが、隙間のない巻き寿司は不味い。

その点、価格も安いラ・ムーの助六は何度でも食べたくなる。

(H29. 2.17 SB932SH撮影)
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