マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

福住の民俗画帳展示会in天理市福住公民館

2017年07月17日 09時11分40秒 | 民俗を観る
テレビのニュースが伝えていた天理市福住の民俗を描いた画帳展示会。

公開の場は天理市福住公民館だ。

福住の住民たちと思われる人たちでいっぱいになった公民館。

映像で解説していたのは天理大学の大学院生だ。

展示された画帳を前に語っていた。

テレビに映し出された「テントバナ」に腰を抜かすほど驚いた。

福住にかつてあったとされる民俗の一コマが絵に描かれていた。

赤い色の花を十字に縛った竹竿を立てていた。

それを見上げる二人の子どもがいる。

しかも、だ。

その竿には竹で編んだと思われる籠をぶら下げていた。

画のタイトルは「おつきよか」。

旧暦四月八日とある。

まぎれもない「おつきようか」の在り方が絵に描かれていた。

閲覧者に話していた大学院生。

「これはお月さんに向けて供えていた」というのだ。

そんなことはあり得ない。

直に拝見して苦言を申したいと思った。

テレビでは「テントバナ」という表現を一言もしていなかった。

何かがどこかで誤ったのであろうか。

民俗を専攻している大学院生はテレビのなかでさらに説明していた。

同じような仕組みを発見したテーブルに広げた宮中画帳をもって大学生に説明していた。

姿、形が同じであることを説明していた。

それは有りだと思うが、民俗を記録している私は気になって仕方がない。

誤った認識で誤ったことを見聞きしてしまうのがコワイ。

テレビニュースはこの画帳は大学院生が発見したことによるものだと伝えていた。

画帳は100枚以上もある。

今回、展示された画帳はその一部であるが、公民館展示は37枚。

描いた人は故永井清重さん。

明治38年生まれの永井さんは平成11年に亡くなられた。

生前のいつごろに描かれたのか。

その点については言及されていないが、絵そのものにコメントがある。

絵の内容はとても貴重である。

しかも、コメント記事によって、より真実性が伺える状況描写。

テレビニュースに映し出された男性がいる。

何年か前から存じ上げるOさんだ。

レポーターがマイクを向ける質問に答えていたが、名前はなかった。

久しぶりにお会いしたい。

それもあって公民館を訪れた。

Oさんと初めてお会いしたのは天理市長滝町だった。

平成22年2月5日に行われた正月ドーヤ。

長滝の九頭神社と地蔵寺で行われる正月行事である。

朝早くから詰めておられたOさんは福住の住民。

話しを伺えば「御膳」と呼ばれる9月行事をしている上入田の人だった。

平成19年、平成21年の9月15日に取材した「御膳」の行事をしている地域である。

その行事を知ったのは奈良新聞の小さな記事であった。

その様相を見て、たまらなく行きたくなった。

それが実現したのが平成19年だった。

その記事を書いたのは新聞記者であるが、情報を提供したのはOさんだった。

地域の行事を広く伝えたい。

そう思って新聞社に取材を願ったのである。

その記事を見た私は取材した。

その様相はたまたま知り合った旧都祁村の藺生から繋がる。

当時、総代だった男性の奥さんは出里が小倉。

同じようなことをしていると聞いて急行した。

両件とも撮らせてもらった野菜造りの御膳の様は著書の『奈良大和路の年中行事』の頁を飾ってくれた。

繋がりは次々に発展することになったのである。

こうした経緯があって出会ったOさんは平成25年に訪れた大和神社のちゃんちゃん祭りの際にもお会いした。

テレビニュースが伝える「福住地区を中心とした人々の生活や行事の記録」をテーマに展示された画帳のことをよく知っているのでは、と思って出かけた。

天理市山間にある公民館は2カ所。

一つは山田町にある山田公民館。

もう一つが福住町にある南田公民館と福住公民館である。

立地は前々から存じている福住公民館である。

向かい側に枝垂れ桜や十夜会双盤念仏を取材した西念寺がある地区である。

染田でフイゴ祭の取材を終えて時間があれば行ってみようと思っていた。

難なく着いた福住公民館にあった立て看板に「福住公民館まつり第三十回記念 永井清繁さん絵画展」とある。

展示協力に帝塚山大学。

サブタイトルは「福住地区を中心とした人々の生活や行事の記録」とある。

公開期間は三日後の13日まで。

なんとか間に合った。

氷室神社で今尚行われている神幸祭の行列は昔懐かしい状態を描いていた。

雨の日のお渡りになった平成17年の10月15日に撮らせていただいたその在り方とはまったく違っていた。

昔のお渡りとは風情もそうだが登場される人たちにこんな姿もあったことを知るのである。

赤いタスキを額に巻いて顎にぐるり。

首もとで締めて垂らす。

それは同じである。

烏帽子を被る素襖姿の色柄が異なる。

何人いるのか絵画ではわからないがすべてが紺色だった。

私が取材した年は紺もあれば濃紺に茶色もある。楽人が着る衣装の色柄も異なる。

楽太鼓を担ぐ人足は白衣。

これはどこでも同じだと思う。

先頭を行く人はサカキ持ちの神職。

これも同じである。

甲冑武者、巫女さん、旗持ち、天狗、獅子舞、神輿も同じ。

取材したときは花籠があったが、絵画にはなかった。

今回の展示はすべてではないと聞いている。

もしかとすれば蔵に埋もれているかもしれない。

絵画で一番のお気に入りは帽子を被ってサーベルをもつ駐在さんの姿だ。

大正時代になるのか明治時代か、わからないが警官の姿は映画でしか見ることのなかった姿である。

その後続についていた和装の男性。

羽織袴に帽子を被っている。

帽子は山高帽のように思える。

それを拝見して思い出したのが旧都祁村白石・国津神社のお渡りに登場する男性たちだ。

平成18年の11月3日に行われた「ふる祭り」の姿である。

男性たちは宮座衆。

上の六人衆と控えの六人衆が揃った十二人衆である。

太鼓を打って先頭を行く。

後続に御供のスコ飾りを担ぐ十二人衆すべてが羽織袴に山高帽を被っていた。

今でもその姿で行列をしている十二人衆の姿に驚いたものだ。

県内事例でいえば白石だけにあると思っていた山高帽姿が福住にもあったことを知る貴重な絵画は驚愕の事実であった。

氷室神社行事の驚きはもう一枚ある。

「七月一日 氷室神社献氷の祭 塔の森霊廟へ(氷)豆に寒粉をまぶしたと初瓜を供へに参りる」とキャプションが書いてあった。

そのキャプション横にある所作は笹の葉を薪の火で沸かした湯釜に浸けている神職の姿である。

その所作を「煮湯の抜」とあるが、いわゆる「御湯」の作法である。

私が拝見した範囲内の献氷祭に御湯行事はない。

あるのは拝殿の神楽舞と午前中に参拝される塔の森参りである。

寒粉は「かんのこ」。

いわゆる餅つきに欠かせないとり粉である。

氷室神社の祭り関係は別室展示。

大多数はロビーホールでの展示だった。

ロビー中央の壁に展示していた絵画は農耕の在り方。

冬田起こしに高く振りぬいたクワで田を打つ。

隣には女性が藁束をおしぎりで切っていた。

わらまきにクマデやすずきも書いてある。

次の一枚は春田耕。

「耕」に「おこし」のふりがなをふっていた姿は牛耕姿。

隣にある情景は「げんげぼおこし」。

「げんげぼ」とは何ぞえ、である。

それは「れんげ畑」だと話してくれたのは山添村春日住民のUさん。

同じ時間帯に拝見していたUさんも私と同じようにテレビで放映されていたニュースに飛びついたそうだ。

Uさんが云うには「げんげ」は「れんげ」。

そう訛ったということだ。

では「ぼ」とは何ぞぇ、である。

「ぼ」は田んぼと同じことである。

田んぼの「田」ではなく「げんげ」の田んぼだから、「げんげ」に「ぼ」を付けたということだ。

なるほどと感心する。

ひと通り見られたUさんが云った。

これらの絵画はUさんらが管理している山添村三カ谷にある民俗資料館で展示できないものか、ということだ。

複写でも構わないから、是非とも展示したいと話していたが、著作権問題をクリアする必要がある。

これらの絵画を展示するきっかけになった展示協力している天理大学の許可もいるだろう。

ましてや絵画の著作権は継承した家族にある。

複写であってもそのことは重要なことである。

話は展示に戻そう。

次の農耕絵画は田植に代かき。

何故だかわからないが、人が浚えの代掻き棒を引っ張って代掻きをしている姿だ。

私の記憶、或は残された農耕写真では牛が引っ張る代掻き棒で掻いていた映像である。

次は田の草取りに田の虫送り。

草取り姿の農夫は蓑を背中に。

奥さんと思われるもう一人の女性は蓑ではなく田ゴザである。

草取り機械の除草機は今でもときおり目にする形である。

それよりも気になったのは太鼓打ちに火を点けた藁束を持つ人たちである。

福住地区に田の虫送りがあったと思われる絵画に、えっ、である。

Uさんが云った。

福住ではなく山田の虫送りでしょ、である。

看板にあった福住地区を中心とした云々である。

かつて山田は福住村内であった。

明治22年4月、町村制の施行によって長滝村・山田村を合併してできあがった福住村である。

それ以前の福住村は明治8年に中定村・浄土村・別所村・下入田村・上入田村・南田村・井ノ市村・小野味村が合併したことによる。

数十分後にお会いしたOさんは絵画に描かれた田の虫送りは「山田」であると云った。

次の絵画は収穫である。

稲刈りを終えた稲を「はさ」に架けている情景である。

道具のキャプションに「はさ竹」とか「はさの足」がある。

足は木材で竿は竹である。

今も昔も変わらぬハサカケの材である。

次は稲こき。

足で漕いで回転する稲こき機械もあれば、女性が稲こきをしている「千歯ごき」もある。

稲こきが終わって収穫作業も一段落。

冬場であろうと思われる「夜なべ」の情景も描かれている。

俵、さんばいこ、さんた(一般的はサンダワラ)を土間で編んでいる女性たちの姿である。

土間から上がった座敷に座っている男の子は本を広げて学習中だ。

電気もなくランプの光の下で作業をしている。

一連の農耕の情景が蘇ってくるシーンにこれもまた感動する。

次は冠婚葬祭関係である。

一枚は嫁入りしているときの在り方である。

仲人さんとともに嫁入り先の家にあがるときの作法をあらわしている足洗いである。

もちろん、足洗いをするのは仲人ではなくお嫁さんだ。

すぐ横には弓張提灯を持つ世話人や嫁入り道具を納めた柳行李を担ぐ荷持も並ぶ。

柳行李なんてものは今では見ることのない運ぶ道具。

現状では死語になっているかも知れない。

最近になっても嫁入りに足洗いをしていたと話していたのは大和郡山市の櫟枝町の住民である。

婦人が体験した記憶にある嫁入り。

実家が用意した青竹を割る。

それからタライに足を入れて洗う。

白無垢姿でした嫁入り作法をしてから家にあがる。

そんな話を思い出す絵画の様相である。

後に知ったのは、話してくださった櫟枝町の高齢の婦人はかーさんが行っている太極拳の仲間だった。

村の行事の当家祭がある。

その当家の在地を案内してくださったのが高齢婦人。

どこかでご縁が繋がっている事例の一つになった。

次の絵は屋内で行われている結婚式の在り方である。

その次が「二日帰り」。

振り仮名に「にさんがへり」と書いてカッコ書きに里帰りの但し書きがある。

赤ちゃんを背中でおんぶした「おいね」が見送る風景に「ほっかい」に包んだ荷物を担げる男性とともに帰郷する。

いつの時代になるのかわからない衣装。

電車の駅はどこであろうか。

ここは山間部。

バスに乗って実家に戻っていったのか、地元住民の生活体験をお聞きしたい。

その次は赤ちゃんの誕生。

土間に置いたタライの産湯。

産婆さんが赤ちゃんを取り上げているようだ。

竃に火をくべているから沸かしたてのお湯。

その横にクワも抱えた男性が扉を開けて出ようとしている。

木の樽に竹籠を担ぐ男性のキャプションは「えな埋め」である。

「えな」を充てる漢字は「胞衣」。

いわゆる胎盤である。

次は満一歳の誕生祝い。

キャプションに「あずき餅ときなこ餅を背負わせて希望の道具を取らせる」とある。

あずき餅ときなこ餅は直に背負うことはできない。

風呂敷に包んでいる絵が描かれている。

満一歳の子供に背負わせたら重たい。

いつだったか思い出せないが、福住町出身の若い女性が生まれ育った里では満一歳の初誕生の祝いに一升餅を包んだ箕を背たろわせて前に置いた数々の文具を選ばせていると話していた。

その情景はまさに展示された絵画とまったく同じだ。

平成21年の12月のメモにそう書いていたから勤務していた市民交流館時代に来館されていた利用者だったと思う。

生まれたら是非取材させてくださいとお願いしたが叶わなかったが、他所で拝見させてもらった。

取材したのは平成23年の3月27日

場所は奈良市丹生町のF家の初誕生で叶えてもらったことが忘れられない。

さて、福住の初誕生絵である。

満一歳の子供は母親に抱かれるような姿に風呂敷に包んだ一升餅(と思われるが)を首に巻き付けて背負っている。

座った場に箕がある。

その前にある道具はカマ、トンカチ、そろばん、手帳、ハサミ、鉛筆になぜか煙管がある。

傍らにおいてあるコジュウタには大きな餡子やキナコでくるんだおはぎがある。

小さ目に作った餡子(餅かも)もある。

その隣では竃に火をくべてこしきで蒸している。

臼を挽く男性の向こう側にあるのは大きな白餅。

から臼で搗くモチ搗きを描いている。

次の絵は正月の屠蘇祝い。

竃に立てた荒神さんに三段重ねの鏡餅がある。

いろりを囲んだ一家の正月に「いただき」を描いていた。

土間には若水を汲んだ木桶もある。

お重に盛ったお節料理もあるが雑煮が見当たらない。

次の絵は塔まいりに七橋まいり、盆の沸まつりの三つ。

塔まいりは墓石が並ぶ墓地へ参る情景。

「実家の菩提処の墓へまいる 八月上旬」とある。

桜井市山間部の数か所で聞き取りした塔参りと同じような参り方だと思った。

今年の8月7日に萱森下垣内の在り方を取材した。

萱森ではそれを「ラントバさんの塔参り」と呼んでいた。

7日は各地に塔参りがある。

奈良市の旧都祁村になる小倉町は墓掃除をして参る下向の塔参りと呼んでいた。

桜井市倉橋も7日。

カザリバカとも呼ぶ無骨埋葬のカラバカ参りをラントバサンと呼んでいたことを思い出す。

天理市苣原は6日であるが、石塔婆墓に参る塔参り。

また、8日事例に旧都祁村の藺生も塔参りと呼んでいた。

調べてみればもっと多くの地域で今も参っているのだろう。

8月14日宵の七橋まいりが気にかかる。

橋に名前が書いてあった。

「深江・・」の文字があることから深江橋。

場所はどこだかわからない。

七つの橋の一つなのかどうかわからないが線香に火を灯す浴衣姿の女児がいる。

14日に線香を・・ということは先祖さんの迎えに違いない。

昭和59年に発刊された『田原本町の年中行事』に大字笠形の風習に「8月14日、七橋詣りといって、火のついた線香をもって村の7カ所の石橋に行き、2本ずつ立てて、お茶を注いで廻る」とあった。

たぶんにそれと同じようなことをしていたのであろう。

三つめの絵は佛まつり。

8月13日より15日までのことを説明したキャプションがある。

「新しく亡くなった佛は家の軒に新だなを作り 位はいを祭り岐阜提灯をとぼして(灯して)詠歌をとなへる」とある。

屋内で伏せ鉦を打ってご詠歌を唱える。

カドの庭には二本の松明を燃やしている。

廊下か縁側か、それともカド庭なのか位置がわからないが、新仏を祭るタナがある。

それは結構な高さがある。

架けている梯子も長いのが特徴のようだ。

次の絵は旧暦四月八日のおつきよか。



この絵をテレビが紹介していたのである。

茅葺民家のカド庭に立てた竹竿。

てっぺんに結わえた花は十字。

十字といっても下部には花がない。

色柄から云えばツツジであろう。

その十字すぐ下にあるのか竹の籠。

やや大きい丸籠のように見えるからやや大型のシングリであるかも。

この籠は一目で何の謂れがあるのかわかる。

ここに三本足のカエルが入っていたら・・・招福。

或いは金持ちになるとか。

いわば吉兆の印しは福を迎える使者として信ぜられた。

また、十津川村の伝承に「サンボンガエル(三本蛙)」がある。

二俣のトリカゲ(トカゲ)、サンゾクガエル(三本足の蛙)とを肺病で寝ている人の枕元に置いて、さらに、頭が二つある蛇に十五節あるヤマドリの尾羽を輪に曲げて病人を見ると病気の黴菌が見えたという寺垣内の中本家の伝承である。

ありえない四種の動物を並べて、福を招き入れるという民間信仰であろう。

竹竿はもう一本立てている。

それは十字の花ではなく一の字に括ったツツジ。

これは始めて見る様相の2本立てである。

事例的にもあり得ない在り方にクエッションマークが頭に浮かんだ。

その絵にキャプションがある。

「各家の前へつつじの花を 竹はゆわえて月にそなへる」とある。

これが問題なのである。

描かれたご主人はオツキヨウカのことをたぶんに存じていないと思われるのだ。

行事の名はなんとも思わずにそのまま聞けば「お月・・」である。

つまり、お月さんが昇る天に向かって竹竿を立てていたとの思い込み、である。

福住では「おつきよか」であるが、本来は「おつきようか」。

「おつき」は旧暦の四月。

陰暦で云えば「卯月」の4月である。

つまり「うづき」が訛って「うつき」。

さらに訛って「おつき」になったと推定している民俗風習の一つにあるのだ。

絵画に「旧暦四月八日のおつきよか」とある。

ツツジの花が咲く季節は新暦の5月。

そういうことである。テレビで伝えていたご婦人も「お月さん」と話していたが、大間違いである。

解説していた学生さんもこの風習をご存じではなかった。

慌てて福住公民館にやってきたのは、この絵を拝見して確信を得たかったのである。

ちなみにオツキヨカに供えた花は屋根に揚げたら家出した者が帰ってくるという言い伝えがある。

そのことを話してくれたのはOさんだ。

画集ではオツキヨカの呼び名であるが、Oさんはウヅキヨウカ(卯月八日)と呼んでいた。

かつてO家でも、ウヅキヨウカをしていた。

ツツジにウツギの花だった。

籠にカエルが入っていたら、えーことがあると伝わっていた。

田んぼに居るタニシを見つけては納めていたシングリの籠というから、画集にあるような大きな籠ではなかったようだ。

以前、「サンボンガエル(三本蛙)」のことや「オツキヨウカ」の名称についてブログにアップしたことがある。

よければ参照していただきたい。

この絵には茅葺建ての西念寺がある。

今もなお茅葺の西念寺に参る三人のおばあさん。

キャプションに伝法講とあるから融通念仏宗派。

そう、西念寺は融通念仏宗派である。

十夜会に施餓鬼、除夜の日に鉦講が双盤鉦を打って鉦念仏をしている。

お寺では屋根に花を飾り付けた花御堂におられるお釈迦さんに甘茶をかけて誕生を称える姿がある。

今でもしているのか・・と思った次第である。

次の絵は芋明月と栗明月(※いずれも名月の誤記)だ。

芋明月のキャプションは「九月十五日(旧八月明月(※名月の誤記)の晩) かやの穂と萩の花を里芋の子芋を供へる」とある。

かやは花がさいていることから一般的に呼ばれているカヤススキであろう。

左側に描いている栗明月のキャプションは「十月十三日(旧九月明月(名月の誤記)の晩 栗の実と枝豆を供へる)とある。

両方とも今でもされている民家があるのだろうか。

芋名月の在り方は県内平坦部も含めて数か所で調査してきた。

調査事例に大和郡山市の2例がある。

隣近所であるが、様相は若干異なる。

山間部の生駒市の高山平群町では月見どろぼうと称する風習もある。

平群町では中断しているが、今年は十津川村で行われている滝川で芋名月を調査したが、栗名月はなかなか見当たらない。

農村稲作の在り方もあれば茶業も描いていた。

摘娘(つみこ)が刈り取るお茶の葉。

煙が流れている茶小屋まである。

次は茶揉作業。

ふんどし姿の男性が茶を揉んでいる。

作業場にある台は「ほいろし」に「ほいち」。

蒸すのであろうと思われる「上たく」に茶つぼも描いている。

次の絵は茶蒸し。

むし娘(むしこ)がストーブのような処で蒸している。一方の絵は「青たおし」。

煙突がある手回し機械は「高林式粗揉機」のプレート文字まである。

その下には火をくべる割り木もあれば、さまし籠もある。

割り木を伐採する作業もある次の絵。

タイトルは山仕事だ。

「薪積」、「一きし」、「薪」、「なた」、「枝ゆい」、「割木わり」、「割よき」、「ごもくかき」、「ごもくかご」の文字でよくわかる。

次の絵は「山行」だ。

雑木をナタで伐っているのは女性である。

山の道具は「山鋸」、「根切よき」。「やかん飯」でご飯を炊いていた。

次の絵は薪・賣り。カッコ書きで天理市櫟本町馬出とある。

そこまで売りに行くには運ぶ馬がいる。

キャプションに馬で炭賣りと書いてある。

一方、薪賣りは人手の大八車。

坂を下る様子が描かれている。

割り木賣りはオーコで担ぐ女性だ。

道具は「かちんぼ」と呼ぶのだろうか。

故永井清重氏が生まれたのは明治38年。

いつから絵画を描くようになったのかはわからないが晩年まで。

平成11年に亡くなられるまで描き続けていたようだ。

生きてきた時代ごとの服装もまた民俗である。

明治末期より大正時代までの男女の正装も描いていた。

男性は山高帽を被った羽二重黒染五ツ紋。

女性は着物姿の丸髷。

浜縮緬裾模様に倫子丸帯だ。

男性の持ち物は懐中時計。

女性は婦人ものの巾着である。

他にも青年、女学生、主婦、とんびを着た村長さん、まんと姿の(旧制)中学生、夏の(農)作業衣、かんかん帽を被った浴衣がけ男性、婦人ジョーセット着物。

冬姿の五人五様。

一人の男性はネルのひっかむり姿に甚平にがんじき靴。

女性はぢくつ。

厚司は和傘に洋靴を履く。

もう一人の女性は頭巾を被って肩掛けに下駄ばき。

男の子の着物に「井の」の文字と思われる紋様がある木綿服だ。

公民館館長や福住いにしえ会のOさんの話しによれば永井家は呉服屋さん。

衣服に関心があるからこれほど多数の着衣を描いたのであろう、という。

行事や風習に農業、林業などの営みを描かれた絵画はとにかく感動するばかりである。

民俗を表現した絵画は実に貴重である。

今では見られないものばかりでわくわくしながら拝見させてもらった。

私は取材等で記録した写真で民俗情景を残している。

写真ではなく聞きとらせて人たちの記憶は私のブログ等で文字表現させてもらった。

記憶も記録。

忘れてしまえば失効し、いつしか消えてしまう。

その人の記憶を文字化によって記録してきたが限界がある。

かつてさまざまな地域で記憶を文字化した史料が残されている。

それと同じ類のことをさせてもらっている。

その記憶が絵画映像として残された。

たいへん貴重な史料である。

お許しをいただけるならお願いしたいと思って作者の遺産を継承された家族に了解を求めて門を潜った。

著作権も継承されている家人に、類事例の一つにブログとか書物に紹介させていただきたいと申し出た。

この日に拝見したすべてではないが、何かの折に参考、参照公開させていただきたいと申し出たら了承してくださった。

紹介する場合はその都度に連絡は・・と云えば、そこまでは要しないと云われたが、公開時に「出典 故永井清重製作画帳より」を記載することにした。

(H28.11.11 EOS40D撮影)
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奈良町正月行事の春日講企画展示in奈良市教育委員会史料保存館

2016年09月16日 10時57分40秒 | 民俗を観る
FBで氷室神社の大宮守人宮司が紹介していた京終の春日講(別称に充てる漢字が親日講;しんいちこう)のトウヤ祭(当屋祭)。

春日講中は9軒ほどのようだ。

春日講は春日曼荼羅や鹿曼荼羅、春日赤童子像などの掛軸を掲げて春日信仰する講中である。

江戸時代、奈良町界隈には、すべてではないが町ごとに春日講があったようだ。

やがて近年になって解散した講中もあり、ご本尊の掛軸や古文書などを奈良国立博物館、奈良市教育委員会史料保存館に寄託、大切に保管・保存されている。

京終の春日講を始めて知ったのは随分前のことだ。

平成20年1月21日に取材された奈良女子大准教授の武藤先生がとらえた映像を拝見させてもらった。

その映像にはトウヤ(当屋)家の床の間に掲げた鹿曼荼羅図もあれば、傍にはヤカタも置いてあった。

その場は杉の葉で覆った竹の垣を設えていた。

しかも、だ。

それは下にもあれば上にもある珍しい形態に感動したものだ。

なんとなく奈良市大柳生の廻り明神の頭屋家で拝見した垣とよく似ていたが、大柳生は床の間の上だけだった。

昨年の平成27年10月5日に訪れた奈良市北京終町の京終天神社。

花切祭に奉納された梅の枝花を本殿に奉ってあると大宮守人宮司がFBで紹介していた。

一度は拝見しておこうと思って立ち寄ったのだ。

花切祭を務めたのは当座(当家座)であるが、たまたま神社に来られた男性の話題提供から知るに、京終の春日講(しんにちこう)の講中は、同神社周辺に住む人らのようだった。

もしかとすれば、であるが、何人かは春日講の籍もあれば当座(当家座)でもある可能性が高いと思われた。

聞き取りはしたかったが、仮停車した車のことが気がかりでやむなく断念したことを覚えている。

大宮守人宮司がFBで紹介していた史料に「史料保存館」の名があった。

館の所在地はならまち界隈の脇戸町にある。

南に少し歩けば鳴川町。

サンハライ念仏踊りでお世話になった徳融寺がある筋道にある。

実は史料保存館の館長は存じている方だ。

なにかと気にかけてもらって私が調査している民俗に関する史料を提供してくださる。

展示に関するお話しが聴けたらと思って施設を探して歩いた。

扉は自動扉。

手で触れたら開く。

一歩、足を踏み込んだら受付があった。

お声をかけて入館料はおいくらですか、と尋ねたら無料の返答。

そうだったのだ。

かくかくしかじかで企画展の展示物を拝見したいとお願いしたら、学芸員が下りて来られた。

まさかと思った館長さんは写真家のご主人ともよく存じているKさんだった。

企画展示物は壁に掲げた春日曼荼羅や鹿曼荼羅などであるが、いずれも撮影された複製もの。

本物は寄託された奈良国立博物館にある。

展示コーナーに置かれた列品は古文書。

ガラス越しに拝見する。

K館長は今回の企画展に際して京終の春日講行事を取材していたという。

企画展に春日講を推薦したのは市教育委員会の岩坂七雄さん。

民俗や行事ごとなどに詳しい。

京終の春日講はトウヤ(当屋)の家に講中が集まって垣を作る。

曼荼羅図を掲げて作った垣を設える。

トウヤ祭は氷室神社の大宮守人宮司によるお祓いがある。

それが終われば膳を囲んでしばらくは直会の場。

そして、春日の若宮さんまで出かけてお参りをする。

それから春日大社の神楽殿に行く。

春日大社の巫女さんが舞う神楽を京終の春日講が奉納するのである。

この様子は同行取材していた写真家Kさんからも後日に聞いた。

トウヤ(当屋)の家で上・下の垣作りをして床の間に設営する。

神饌を供えて宮司がお祓いをする。

ささやかに直会を済ませてお参りに出る。

参り始めは鹿煎餅を差し出して鹿に食べてもらう。

神さんの遣いということのようだ。

次は参道。

両脇に並ぶたくさんの灯籠がある。

そのなかに京終が寄進した灯籠がある。

そこを参拝したら春日若宮社へ参る。

次に春日大社へ向かう。

ここでは神楽殿にて春日巫女による神楽奉納する。

参拝を終えたら直会。

場は老舗料亭の菊水楼のようだ。

直会以外の一部始終をとらえたKさんが云うには御供の祭り方に違和感をもったらしい。

この年は垣の内部に御供があったというのだ。

一方、史料保存館が作成した資料写真では御供は垣の外側にある。

奈良女子大准教授の武藤先生がとらえた平成20年1月21日の映像では御供は垣の内部にある。

もしかとすれば資料保存のときに撮った写真は体裁を考慮して垣の前に並べたのかもしれない。

現在もなお営みをされている春日講は京終以外に2地域がある。

一つは奈良市東城戸会所で行われる東城戸の春日講である。

大国主命神社を併設する会所床の間に奈良国立博物館に寄託されている春日宮曼荼羅の掛軸を掲げてお参り。

そして氏神さんの御霊神社に参る。

要件は別だったと思うが、ネットで若干ふれていたブログで拝見した。

それはいつしかどこにあったのか判らなくなった。

再び、東城戸の春日講を知ったのは平成25年3月17日のことだ。

奈良市今市に私は居た。

その日にされると知った今市のコネンブツだ。

場所が判らず、池周りを歩いていた。

ある家の前で二人の老婦人が居られた。

場所を探していたチバミ墓地を尋ねれば、今からそこへ行くという。

もう一人の婦人はその家の知人。

たまたま出合ったその人とも伝統的な行事を調査していると話せば、その婦人が云った。

婦人の住まいは今市ではなく、奈良市東城戸だった。

今でも会所に寄り合って春日講を営んでいるというのだ。

お伺いは可能かどうか聞いて見たら、是非と云われた。

S婦人が住まいするのは会所付近の辻の家らしい。

探してみたいが、未だ訪問できずにいる。

現に今でも春日講の行事をしているのは奈良市東九条町の春日元講だ。

東九条町字宮ノ森に鎮座する八幡神社がある。

前年の平成27年10月21日22日に訪れたことがある。

数年前より斎行されている作宮司を訪ねてでかけたことがある神社だ。

東九条町の八幡神社は、かつて辰市村に鎮座。

奈良県庁文書の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によれば八幡神社に宮座があると書かれていた。

左座・右座からなる十二人衆。

年長の者より一﨟(ろう)、二﨟と呼んでいたとある。

座であれば、春日元講も兼ねているかもしれない。

K館長の話しによれば東九条町の春日講は三つあるらしいが、講元までたどり着けずに取材は断念したそうだ。

史料保存館の資料によれば東九条町の春日元講が所有する天正六年(1578)作・春日鹿曼荼羅は奈良国立博物館に預かってもらい大切に保管しているという。

が、である。

講中11軒の営みの日だけは戻してもらって拝んでいるそうだ。

一日限りの礼拝に貴重な鹿曼荼羅に手を合わせるらしい。

館長が云うには、ならまち界隈以外にも県内各地に春日講があるらしいが、担当することもなく調査もされていないようだ。

遠く離れた大和高田市や広陵町にもあったともいう春日講の分布は広い。

私は奈良県内で行われている数々の伝統行事を取材している。

取材対象ではなかった春日講のことをときおり耳にすることが増えていた。

一つは奈良市法蓮町の法蓮会所で行われる。

4月半ばの講中が集まりやすい日を選んで営まれる。

会所の床の間に春日曼荼羅を掲げて講中はタケノコ料理をよばれる。

昭和40年代までは4組もあった春日講は1組に合体して行事をしている。

春日祭は柳生から石田武士宮司に来てもらって神事をしていると法蓮町の人たちが話していた。

ちなみに法蓮町の春日講は平成24年12月現在で68軒(以前は77軒)。

東脇地区、東西の南脇地区、西地区の4講中が5月ころに集まるとか・・・。

二つ目に奈良市佐紀中町に鎮座する釣殿神社の年中行事に新日講の名がある行事がある。

新日講(しんにちこう)は春日講(しゅんにちこう)が訛ったよう行事名だ。

新日講の講中は上・下の六人衆および引退者である。

2月11日に行われる場は神社でなく料理屋である。

掛軸の有無は聞いていないし、料理屋での会食が中心になる取材は講中に迷惑になるであろうと判断して断念した。

三つめに春日神社が鎮座する川西町上吐田がある。

年中行事を執行しているのは宮座の春日講の宮十人衆と五人衆だ。

2月15日に地区で行われる大とんども担っているが、ならまち界隈に見られるような春日講ではないようだ。

四つ目は同じく宮座の春日講に斑鳩町北庄がある。

鎮座する春日神社の年中行事を務めるのは元宮座十人衆

春日講とも呼んでいる座であるが、ここもまたならまち界隈に見られるような春日講ではない。

五つ目は天理市和爾町北垣内の和爾坐赤坂比古神社のオンダ行事をされていた座中・大老の話しだ。

詳しくは聞いていないが、2月21日辺りの土曜か日曜日に親日講があると話していた。

これもまた春日講(しゅんにちこう)が訛った親日講(しんにちこう)の呼び名である。

六つ目は珠光忌で名高い奈良市菖蒲池町にある称名寺だ。

平成24年5月15日に訪れたときのことだ。



本堂東側に建つ地蔵堂に目がいった。

鰐口を鳴らす垂らした鉦の緒の布に「北市春日講」の文字が書いてあった。

地蔵堂は北市の地蔵尊だった。

真新しいお花を立てていたから今でも北市の人たちが参っているのだろう。

称名寺にはかつて鎮守社の春日社があったようだ。

その証しかどうか判らないが、春日曼荼羅(鹿曼荼羅)が同寺に収められている。

なお、『奈良町コミュニテイ』資料によれば、行事の詳細は判らないが、北市町に北市戎神社が鎮座し、春日講日待ちがあると書かれてあった。

称名寺に建つ地蔵尊との関連性があるのかも知れない。

館長は春日講についてさまざまなことを教えてくださる。

史料保存会に寄託された元興寺町旧蔵の明治三年から記載された『爆竹之日記』の裏表紙に春日講の世話役となる年預(ねんよ)の名前があるそうだ。

史料によれば江戸時代の春日講は新年初参会を皮切りに、新しく町入りする人を在住民に紹介する。

子供の誕生、結婚、代替わり、還暦などの緒祝儀を披露することまでしていた。

春日講の営みだけでなく町の自治や町内運営の集金・費用入用の会計までこなす。

任期は何年か判らないが、今では考えられないくらいの大役である。

企画展には春日大社の参道に建つ灯籠まで紹介していた。

実物は参道に出かけて探さなければならないが、写真で紹介していた。

一つは万治二年(1659)に寄進、東九条村春日社講中が奉納した灯籠だ。

もう一つは元和三年(1617)に寄進、京終町春日講中各々が奉納した灯籠である。

参道に建之された灯籠にはこの二基の他、奈良町界隈の各町や大坂、江戸の名もあるらしい。

同館資料の『井上町 町中年代記の世界―町記録にみる信仰―』によれば、井上町の春日講が寄進した灯籠は三基もあるそうだ。

『町中年代記』は延宝二年(1678)より<※ 享保十五年(1730)~宝暦六年(1756)まで欠損>現代まで年寄(ねんよ)と呼ばれる代々の年役が連綿と書き記してきた貴重な史料である。

前述した元興寺町の年預(ねんよ)でも紹介した大役。

井上町の年寄(ねんよ)も同じように、「十分一銀」と呼ぶ新たに家を買って町入りをする際に町へ納めた祝儀や代替わりの「面替り」、元服披露の「刀酒」、婚姻祝儀の「水酒」・「よめ入り」、誕生子披露祝儀の「子酒」、還暦祝儀の「官途」などに記載は興味深い。

最も古いのは寛文四年(1664)。

この灯籠は享保十一年(1726)に再興されたとあり、「御師(おんし)櫟本庄左衛門~燈明料1年分新銀二両宛渡した」とあるそうだ。

一年分の燈明料は春日大社に預けたことは判るが、どなたが灯籠に火を灯していたのか、火点けは毎日だったのか・・・。

寄進した灯籠はもう二基ある。

一つは正徳五年(1716)に寄進された灯籠には24名の講中名が刻まれているそうだ。

二つ目に宝暦十四年(1764)三月に寄進した灯籠である。

『井上町 町中年代記の世界―町記録にみる信仰―』に「春日太々神楽(だいだいかぐら)の奉納」が書かれている。

この件についても館長が解説してくださった。

奈良町界隈の町では町ごとの春日講の他に奈良町全体で組まれた大規模な組織体となる春日社神楽講があった。

内侍原町の医師である瀧野梅雲が願主となって同町が講元として安永六年(1777)に始めたそうだ。

春日大社の神前に奉納する神楽は神楽、太神楽(だいかぐら)、太々神楽(だいだいかぐら)の三つだ。

梅本組は太々神楽を奉納していたようだ。

奉納日は決まった日で6月16日。

当番町は毎年交替して務めた。

神楽奉納の後は鳥居横の車舎で直会を催していた。

当番町の役目は奈良町中から大和郡山方面まで出かけて寄進を集めることから始まって、社家の富田家と拝殿五郎左衛門に神楽料を納める。

一方、当番町では祭場を設ける。

臨時というか一時的な鳥居を建てて飾り付けをする。

14日から16日に掲げる提灯を隣町にお願いもする。

文政元年(1818)の記録によれば、祭場周りに柴(しば)で玉垣を巡らし、参拝者に楽しんでもらうため、3ケ所に立山人形を、さらには作りもの<※橿原市八木の愛宕まつりに立てる御供と同じように感じる>を5ケ所に揃えた。

たぶんに手作りと思われる当番町内が製作した立山人形の前には立花を飾って華やかさを演出した。

平成28年1月29日から2月2日までの短期間に平城京跡で行われた奈良県主催冬季誘客イベントの大立山まつりが開催された。

集客は5万人にもなったと県庁発表をニュースが伝えていた。

大立山まつりのメインイベントは造り物の四天王の人形像。

まるで青森ねぷたのような仕組みであったようだ。

製作費は税の2億円。

その造り物をとらえるカメラマンも多かったようだ。

県初の大イベントは厄祓いが主旨とかをどなたかが云ったというようだが真相は判らない。

ところがだ、会場の一角、といっても会場門外の片隅にあった本物の「立山」があった。

広陵町三吉・大垣内が製作した立山が展示していたそうだ。

それを紹介していたのは名高いカメラマンの今駒清則氏だった。

三つの展示は今回の大イベントに合わせて作ったそうだ。

三つの内訳は「天平の貴族」、「あまのいわと」に広陵町らしい町の伝説を表現した「かぐやひめ」だった。

大立山まつりは江戸時代から続く地域の伝統行事を足蹴りするように展示をしつつ、メインの四天王の人形像が映える会場作りをした。

「立山」の主旨も意味合いもまったく違うことが江戸時代にあったのに、である。

立山を今尚継承してきた地域は御所市東名柄、広陵町三吉、橿原市八木町、の3ケ所である。

田原本町以外はニュースなどで取り上げられることもある。

私は未だ拝見していないが、津島神社の氏子の話しによれば、その昔に「立山」と呼ばれる世相をおもしろおかしく表現した人形の造りものがあった。

本町、材木町、市町などの町内ごとに立山の世話人が、空き家を利用して子どもらと一緒に作って飾っていた。

今でもしている可能性があると思っていたが・・・どうやら平成20年ころに途絶えたようなことをネットで公開している記事を拝見して愕然としたことがある。

かつて立山があった地域に住んでいた人たちの聞き取り調査である程度が判ってきた。

仕事柄、送迎している患者さんたちの声によれば、大和郡山市の横田町、天理市の櫟本町・南六条町・二階堂などである。

櫟本町では氏神の和爾下神社の祇園祭のときだ。

川沿いに並んだ店の数か所に立てた。

南六条町では鎮守社の杵築神社の秋のマツリだ。

二階堂は街道筋の民家の広い場に設えていた。

横田町では横田町に鎮座する治道の和爾下神社前の電器屋や南の辻など5か所に立てていた。

いずれも80歳以上の老婦人が子供のころを思いだされた記憶にある。

横田町の村人たちが記憶する様相はよく判る。

祇園さんの祭りとも称さる夏祭りだ。

青年団があった50年以上も前、村の辻々に提灯を掲げて立山を行っていたという。

5軒ほどの納屋を開放して、ムギワラで人形を作り飾ってその年の世相を表現した。

舞台を組んで芝居もしていた。

それを見に行くのが楽しみだったと子どものころの様相を懐かしそうに話されたことを思いだす手作りの立山はだいたいが夏祭りだったようである。

立山は盆地平坦だけでなく山間地にもあった。

『やまぞえ双書』によれば大字箕輪にあったと伝わる。

9月12日に行われていた村行事の毘沙門会式に若衆(若中)が工夫を凝らして作った立山を披露していたようだ。

同村には女子部があり、箕輪組、八丁組、堂前組のそれぞれが競い合っていた。

戦時中に途絶えた立山(山づくり)は昭和22年に一時的に復活。

再び長らく途絶えて平成3年に復活するも続かずにこの年を最後に途絶えた。

なお、吉野町にも立山がありそうだ。

実見はしていないので何とも言えないが、日程は7月末の土曜日、吉野町上市の花火大会の日である。

平成26年に行われた資料がインターネットにあった。

後日に消えてしまった興味ある情報だった。

場所は上市の六軒町の金川工業所辺りになるようだ。

その場であるのかどうか判らないが、その日は祭文踊りもあるようやに、書いていた。

この件については実態調査をする考えにある。

あれば県内事例に数えられる貴重な立山行事である。

平成28年7月末の土曜日

探した六軒町の立山は実際にされていたのである。

ここでは詳しく触れまいが、たしかにあったことを先に書いておく。

『井上町 町中年代記の世界』の編集後記に「年代記を書き継いだ人々」と題して次のことがかかれている。

「宝暦七年(1757)、町役になった美濃屋喜右衛門は年代記の引継ぎに、一、年代記にいたみのあるところを修理して箱を新調、二、年代記、券文借家請状などは箱に納めて年役に廻す、三、珍しい出来事は何によらず年代記に記録、四、火事のときは第一に年代記に気を配る、五、年代記の書き込みが延引したり、年号や日付が前後する場合であっても、また聞き伝えなども含めて記録、以上のことを踏まえて書きおくことは後のために役立つときもあるだろう、と書き残している」の記述があった。

まことに示唆される未来に亘って永く続けて書かれていくことを願った文だ。

私の民俗探訪記は村人の代理人の立場になって、後世に伝え、役立てられるものを、と思って取材・執筆してきた。文だけではなく、写真も、である。

写真も後世に伝えたい記録である。

還暦を迎えて5年。

身体的、年齢的にも動ける範囲は限られるようになったが、今後も一歩、一歩、取材地へ足を運びたいと思っている。

(H28. 2. 4 SB932SH撮影)
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水木十五堂授賞式記念講演

2016年09月09日 08時37分29秒 | 民俗を観る
翌日の1月31日は「やまと郡山城ホール<奈良県大和郡山市北郡山町211-3>」の大ホールで「第4回水木十五堂賞授賞式」がある。

とはいっても申しわけないが、授賞式典には興味がない。

あるのは記念講演に是非とも見たい四国阿波(あわ)の木偶(でく)の実演である。

なかなか見ることのない貴重な民俗。

申し込んだら参加券<528番>が届いたので出かけた。



四国阿波の木偶を始めて知ったのはテレビ番組だった。

番組は四十年以上に亘って放映されている「遠くへ行きたい」だ。

朝、7時。起きたて、目覚めたての目をこすりながら新聞を読んでいた。

飛び込んできた映像は傀儡だ。

二人の女性が風呂敷包を背負って旅をしているように思えた。

この日の放送は俳優の近藤正臣さんが紹介していた。

近藤さんが云うには「是非とも拝見したい」、である。

平成26年9月14日放映の第2222回放送になったこの日のタイトルは「人形遣いに誘われて」だ。

取材地は香川県に徳島県。

近藤さんは京都に育った関係から、伝統工芸や芸能における職人話しに目がないようだ。

いつ、どこで目撃されてか放送されていないので判らないが、みたことがある「木偶人形」の遣い手の現場に立ち会ってみたいという願いで収録されたようだ。

若い担当ディレクターの日記によれば「えびす様が踊りだして、頭をなでなでしてくれるんだ」と一言から始まったそうだ。

「四国・阿波に“阿波のでこまわしと云う人形を操る伝統芸能があるらしい。人形自体が神様。豊作や豊漁、家内安全、無病息災を願い祈る。今ではほとんど見ることがで、できなくなってしまった”でこまわし“を引き継いでいる人が居る」と、熟練先輩のディレクターからも聞いて取材旅が始まったと記す。

香川県・観音寺市名所の「寛永通宝」を皮切りに、同市室本地区の甘酒・麹作り。

そして、本題の、阿波徳島からやってくる木偶人形遣い、である。

場所は同市の伊吹島だ。

「門付け(かどづけ)」と呼ばれる玄関先で木偶人形遣いが芸能を披露される。

「門付け」は各家を巡るたびに行われる。

披露される主人公は女性。

中内正子さんと南公代さんの二人だ。

一旦は廃れかけた阿波の木偶廻しを師匠から引き継ぐ恰好で後世に伝えようと立ち上がったやに紹介される。

伝統を継承しようとする人形遣いもおれば、木偶人形などを作る、保存、研究する男性もいる。

その男性がいる阿波の徳島県に場が移った。

男性は辻本一英さん。

木偶人形遣いの二人とともにふるさとの文化を受け継ぎ、守り続けてきた三人だ。

番組はさらに、遣っている木偶人形を仕立てる木偶細工師が住まいする場に動いた。

そこで展開される奥深いカラクリ人形の仕組みを学ぶ。

大和の「民俗」を取材している私にとっては、とても衝撃的。

同行取材をしてみたいと思ったぐらいに興味をもった番組であった。

たまたま収録していたビデオ映像を振り返る。

肩から風呂敷で包んだ箱を背負った格好。

まるで行商のような姿である。

俳優の近藤正臣さんが後ろから付いていく伊吹島の訪問先。

「おめでとうございます」の声をかけて「三番叟がきました」と家人に伝える木偶まわしの二人行は玄関土間でお祓いをする。

映像にはなかったが、その場で幣を作っていたのだろう。

4体の木偶人形を箱から取り出す。

始めに白い装束姿の木偶人形が登場する。

まずは、露払い役の千歳(せんざい)木偶人形だ。

次に登場したのは天下泰平を祈る翁の木偶人形。

締め鼓をバチで打ちながら詞章を唄う。

この時期はイリコ漁で賑わう伊吹島。

厄払いに大量祈願をする。

三番目に登場するのが五穀豊穣を祈る三番叟だ。

江戸時代から連綿と継承されてきた木偶まわし。

旧正月やコトハジメなど節目、節目にやってきて、馴染みの家々を伺い門口(かどぐち)で祝言を述べたり、芸を行うことで心づけをもらって収入を得ていた阿波の木偶まわし。

門付け(かどづけ)の最後に登場するのが商売繁盛や豊漁を祈るえびす様だ。

「福が満々この家の内へ 治まる御代(みよ)ぞおえべっさんへ めでたいよー」の詞章で締めて「本日はおめでとうございます」と頭を下げた家人に向かってえびすさんの手が撫でる。

無病息災を祈って福を授ける。

「大漁がお手てにきますように」と両手を広げた当主に商売繁盛を授ける。

「どうぞ元気に 仕事ができますように」と当主の手足・関節なども撫で撫でする。

収録した時期は伊吹島に鎮座する蛭子神社の夏祭り。

ここでは港まつりの呼び名がある夏祭りは、暑い盛り。カンカン照りの島を巡って福を授ける。

「一年にいっぺんのつきあいです」と話す二人の木偶まわしの言葉だ。

次のシーンは今回受賞された阿波木偶箱廻し保存会顧問の辻本一英氏が住まいする家だった。

「おばあさんがこの地最後の木偶まわしだった」と伝える。

「ばあさんは一人で木偶人形をもって、「お家の繁盛祝いましょう」と云って縁起物のおえべっさんや大黒さんを運ぶ村だったと話していた。

テレビで拝見した阿波の木偶が大和郡山市にやってくる。

見逃すわけにはいかない水木十五堂授賞式典。

授賞式よりも記念講演に生で行われる実演を拝見したく申し込んだのであった。

実演があるのであれば、木偶関係の用具や史料も拝見できるかも知れない。

出版物があれば、是非とも手に入れたい。

そう思って出かけた。

身体は未だ脈拍が40拍前後。

最近は足の浮腫みにきついうっ血症状で悩ませる毎日だ。

当然ながら車の運転は止められているので、奈良交通バスに乗って出かける。

最寄りの停留所は乗り降りどちらも数十メートル。

これもまた助かる距離である。

バス時間の関係もあって開場時間前の40分前に着いた。

早くに着いても受付はない。

尤も私は参加券があるが、当日申し込みする方もいる。

十日前も城ホールにいた。

このときはかーさんの知り合いの男性が加入している第8回健やか写真クラブの作品展だった。

展示会場は城ホールの展示室。

作品を拝見していたときに気がついた。

作品群を見ていた男性の顔。

写真家の澤しゅう三さんだった。

FBではやりとりがあるものの、お顔を合すのは久しぶりだ。

お互いの健康を願って別れた。

それはともかくこの日のイベントは何が、と思って歩きかけたら存知している男性に出合った。

数年ぶりにお会いした大和郡山市立図書館館長のNさんだった。

何年か前は頼まれて県立民俗博物館でも展示した大和郡山市内で行われている伝統行事を紹介する展示会に協力したことがある。

館長はそのことを覚えておられた。

あれからも市内の行事取材は続けている。

ブログでも公開している伝統行事を紹介する機会があれば、お願いしたいと伝えられた。

ホールをぐるっと廻って状況を再確認する。

そこには元藩医家のKさんがおられた。

今回の授賞式に参加券を得たという。

そうこうしているうちに開演が始まった。

受付で528番の参加券を提示して資料や大福帳を模したメモ帳などの手土産をもらって入場する。

そこには思った通りの紹介記事/写真パネルに木偶人形や幣串などなど。

撮って良いのやら、気になって主催者の市役所職員に尋ねた。

会場には市民交流館時代にお世話になった大勢の職員がいる。

半分ぐらいが馴染みの人たちだ。

たっての願いを叶えてくれるかどうか、今回の主役の「阿波木偶箱まわし保存会(顧問辻本一英・平成7年立上)」に伺った結果は了解である。

手持ちの映像記録機器はガラケーのケータイ電話しかない。

申しわけないが、鮮明度は落ちる映像ではあるがメモ記録として撮らせてもらった。

前年の平成27年12月3日に受賞が決まった産経新聞に掲載された写真とほぼ同様のほんまもんの木偶人形が展示されていた。



木偶櫃(箱)から飛び出すように千歳、翁、三番叟(さんばそう)、えびすさんの4体の顔がある。

煌びやかな衣装を着た木偶人形だ。

見えにくいが右横の箱には二つの古い面がある。

白色尉面(はくしきじょうめん)と黒色尉面(こくしきじょうめん)である。

櫃には締め鼓もあるし、前に立てた大正期と思われる当時の様相を現す絵もある。

その前に並べているのは小幣だ。

おそらく祈祷ごとの所作があるのだろ。

そう思ったが、じっくり拝見している時間はない。

他の展示品も拝見する。

これは顔だけの三番叟木偶。



首棒に紐が付いている。

カラクリ操作をする紐であろう。

その横にある展示品はえびす木偶。

徳島の祝福芸は多様で、木偶を操る門付(かどづけ)芸の中ではえびすまわしと大黒まわしが代表格。

昭和30年代まで遣われていた大正期時代の天狗弁作の人形もある。

その右横にあるのはもっと古い時代の作であろう、「福まわし」に遣われた「おふく」である。

参加券の番号は528番。

あとで聞いた話しによれば満席の600人が集まったそうだ。

大勢来られたなかに知り合いの人たちも多い。

大和郡山ボランテイアガイドクラブだけでも十人余り。

大和郡山市文化財審議官の長田光男先生もいるし、源九郎稲荷神社代表のNさん夫妻も、だ。

会場に行事取材で世話になった池之内町住民のAさんもおられる。

なんでも数年前に城ホールサポーターになられたそうで、この日は入場者の案内をされていた。

遭遇する人たちとゆっくり話しをしている余裕はない。

この日の展示はこの日限り。

見逃せば二度と味わえない貴重な民俗史料でもある。

昭和30年1月、津田幸好氏が撮影された徳島市内を門付けする女性の「えびすまわし」を拝見する。

姉さん被りをした二人の女性がえびす木偶を抱いてリヤカーを引く映像だ。



よくよく見ればリヤカーは引いてないようだ。

門付けに三番叟まわしの箱を担ぐ道行きの映像は1960年代(昭和35年~)に吉成正一氏が撮られた作品。



単車などを停めている民家などをとらえた当時の民俗映像に感動する。

また、カーブミラーに写りこんだ山行きの様相もとらえた映像に心惹かれる。



その写真にガラケーをもって写す私の姿も写りこみ。

貴重な民俗写真に申しわけないことをしてしまった。

説明文によれば「えびすまわしは三番叟まわしと同様に、四国の広い地域で正月の門付けとして定着したことがわかっている。木偶まわしは四国だけでなく富山県や大阪府、九州の宮崎県でも見られた」と報告がある。

興味深いのは奈良県十津川の事例である。

ネットの『十津川探検~風俗図絵~(林宏十津川郷民俗探訪録民俗4をもとに再編集)』によれば、「ゑびす様廻し」と書いてかっこ書きに「でこまわし」のルビがふってあった。

「ゑびす様より廻す人の動作がおかしくて、笑ふ門に福が早速来さうに思った。一、ゑびす三郎左エ門どのは ことし初めて御江戸へ下り とりさしょ習うた テンツル カンツル 二、これじゃ食へない魚釣りョ習お 魚釣るなら目出鯛釣ってお家繁盛ョと テンツル カンツル 三、飛び込み はね込む 家の内 そこでお内は宝の山で 宝積んだよ テンツル カンツル」を唄いながらえびすさんの木偶人形を操る姿も紹介している貴重な史料である。

えびすまわしの芸人は徳島県内では吉野川中下流域の市町村に多く住んでいた。

香川県や愛媛県、高知県でもえびすまわし芸人がいたことが報告されている。

えびすまわしや大黒まわしは、三番叟まわしに比べて簡素な門付けであったたけか、軽視される傾向にあった。

そういうことからえびすまわしや大黒まわしの芸人は早い時期に姿を消したそうだ。

展示品に護符がある。



旧三好町に居られた芸人さんが門付け先(決まった旦那場)の求めに応じて配布した神札である。

芸人は四国の剣山や高越神社の大先達であった。

千手観音、弘法大師、成田山、馬頭観音まであるが、神社や寺の名はない。

講演の際に辻本一英氏が話した護符がある。

師匠と呼ばれる芸人さんが印刷所に発注して印刷したものらしい。

式典は上田清大和郡山市市長の挨拶から始まった。

壇上には水木十五堂賞選考委員会のみなさま方がおられる。

委員長は奈良図書情報館館長の千田稔氏、副委員長に旅の文化研究所長の神崎宣武氏。

壇上の席には奈良県立大学客員教授の岡本彰夫さんがおられた。

春日大社の権宮司時代になにかとお世話になった岡本さんはそれ以外にもときおりお会いすることがあった。

式典の小休止の合間に声をかけさせてもらった。

最近はFBでも繋がりがある岡本さん。

私が村々を巡って調査取材した内容は本の形にして発刊したら良いと云われたが・・。

膨大な情報は調査・取材の積み重ね。

単なる写真家ではない表現力があるから「大和名所図会」に匹敵できるような現代の図会を出版して欲しいと私に願われる。

春日大社は今年が第60回目を迎えた式年造替(しきねんぞうたい)。

20年に一度の大事業は繰り返し、繰り返し始めて1200年目になる。

神さまは前年に一時的に遷座された。

仮殿遷座祭を終えて本殿などの修復が終われば還られる。

本殿遷座祭は本年11月6日に斎行される。

式年造替は春日大社だけでなく村々の鎮守の神さんも同じだ。

春日大社の大事業は報道などで大々的に取り上げられる。

ところが村々ではまったくといっていいほど取り上げられることもない。

村々の造替事業は「ゾーク」と呼ぶ地域が多い。

大和奈良特有の言い方で充てる漢字は「造営」だ。

斎行される地域は奈良の東山間が圧倒的に多く、西に位置する地域ではそのような考え方がない。

20年に一度という地域は多いが、稀に18年、17年、或は10年おきにしている地域もある。

「ゾーク」も春日大社同様に仮殿遷し、本殿還りは同じであるが、規模、方法など実に多彩である。

何十年に一度の事業は年齢的に次を待っているわけにはいかない。

実施されることをしれば、真っ先に取材することにしている。

こういった村々の事業は脚光を浴びることはないが、着目して取材していることを岡本さんは存じている。

それも本にしたらどうかと云われる。

ありがたいお言葉であるが、自費出版はしない。

その余裕もない。

オファーがあれば、別だが・・と応えて席を離れる。

選考委員の紹介の次は委員長の選考理由だ。

戦後、消滅しかけていた徳島県の木偶人形。

祝福芸能に用いる用具は900点も蒐集され、伝統芸能の復興・継承に大きく関わったと話される。

華やかで、なんとなく楽しみが見て取れて、熱意を感じる。

正月の各位家を廻って一年間の祝福を念じる門付け(かどづけ)。

神々のメッセージを各家に届ける。

デクノボウは単なる木で造った人形。

魂を吹き込んで神々となった木偶人形を操るがごとく祝福を演じる・・などを話される。

表彰、受賞者謝辞、禮遺品挨拶を経て受賞者辻本一英氏の講演が始まった。

地道な取り組み活動をしてきた木偶人形蒐集・保存・継承に光を当ててくれて感動していると話す。

氏は愛媛県伊予市の生まれ。

かつては当地においても木偶まわしをしていた。

大道芸のように大道で演じた木偶人形箱まわし。

最近はヨーロッパ公演など世界に発信している。

「福を運んだ木偶まわし」は、年神さんを各家に運ぶ習俗でもある。

大道や門付けで行われた三番叟まわしは、阿波の人形浄瑠璃の源流。

大道芸へと繋がる一人で木偶人形を操る語り物。

沖縄の三線も合わさって判りやすく表現する。

木偶細工師の町がある。

およそ百年前に造られた人形の頭を修繕しながら木偶を遣っていた。

一旦外して接着する剤は熱をかけたニカワだ。

一番良いバネはクジラの髭。

縦糸、横糸のヒキセンに用いる。

クジラの髭は生き物。

虫食いもある。

それも修繕対応になる。

髪の毛は純毛らしい。

12月31日、紅白歌合戦が終わる前の時間帯。

氏神さんに奉納した一行は、4体を納めた箱を背負ってJR阿波池田駅に行く。

ピピッピのピと同時に彼女たち二人は「おめでとうございます」と門を開ける。

訪れる軒数は千軒。

今年はすでに六百軒も廻っている。

門付けは四国各地に出向いて五市四町を巡る。



かつては正月から旧正月までに九百軒も廻っていたようだ。

スライド画像で紹介しる家は木偶人形遣いが泊まる家。

いわゆる民家宿泊。

顧問はこれを「民泊」と呼んでいた。

訪れる地区には「民泊」があり、そこで泊まって次の家に向かったようだ。

昭和30年代半ば、再現された写真を掲載したのは当時の徳島新聞。

大道で披露した木偶人形箱まわしに現地のおばあちゃんが孫に着せた着物姿。

同世代の子供でも木偶人形を知らない祖母の下に生まれた子供は着飾っていなかったと解説される。

木偶人形の調査期間は20年。

今尚続いているが、徳島県をはじめとして全国を調査する。



海沿いの地域で祭られるえべっさんではあるが、高知県は少ない。

神さんとなった三番叟まわし。

余った人形が祀られることもあるらしい。

人形遣いの二人の師匠は写真を撮らせることはなかった。

後ろ姿ならと許可をもらった辻本さんがとらえた村々を巡る情景は今では貴重な写真だ。

池田駅から始まった正月。

一晩ずっと訪問先を巡って朝7時。

ようやく食事を摂ることができる。

福を頂戴する家は正月二日が決まりという家もある。

基本的には訪れる日は各家によって決まっているようだ。

決まっているから待ち遠しい一年間なのであろう。

玄関入った土間で祈りを捧げる。

その場を辻本氏は「ニワ」で演じると話していた。

場合によっては三宝荒神さん、竃、炊事場を拝んで三番叟まわしをして五穀豊穣を祈る。

辻本氏が「ニワ」と呼ぶ場で門付けをする。



「門」は「モン」ではなく「カド」である。

農家屋敷の玄関土間。

これを一般的に「ニワ」と呼ぶ。

辻本氏が云われる通りだ。

「ニワ」はまたの呼び名に「ウチニワ(内庭)」がある。

内庭に対するのが「ソトニワ」だ。

「ソトニワ」を充てる漢字は外庭である。

内庭は屋内。

それに対して屋外の広い地を「ソトニワ」と呼ぶ。

地域によっては「ツボニワ(坪庭)」とか「カドニワ(門庭)」で呼ばれる「ソトニワ」だ。

「ツボニワ」は屋外であるが、屋敷内の内側にある個別の小さな庭、つまり坪のような中庭を「ツボニワ」と呼んでいる。

我が家もそれがある。

ニワはもう一つの「カドニワ(門庭)」のことである。

木偶まわしが披露をするのは映像で見る限り「ニワ」である。

場所は「ニワ」であっても「カドヅケ」と呼ぶ「カド(門)」の呼称があるのだろうか。

奈良県内の旧家を訪れることが度々ある。

昔は農家で稲作をしていた。

刈りいれた稲は籾にする。

今では機械化されているが、かつては屋敷のなかの「カド」に筵を敷いてはたいていた。

筵ごと天日に干した。

それを「カドボシ」と呼んでいた。

「カド」の場は前述した「カドニワ(門庭)」である。

つまり玄関土間ではなく、あくまで屋外の「カド」なのだ。

「門付け」の場はどこだったのか。

自ずと然り、呼び名のごとく「カド」しか考えられない。

いつごろに「カド」から玄関土間に移ったのか、判断できる史料はないが、興味深い村行事に大阪府豊能郡の能勢町で見られる亥の子である。

地区の子供たちが装った獅子舞は藁棒のツチを手にした子供たちを従えて地区の集落全戸を巡って亥の日の豊作を祝う。

獅子舞が披露する場は玄関土間の「ニワ」だ。

ツチを持って地面を叩く子供たちは「カド」だ。

訪れた家では家人が「ニワ」近くに寄る。

獅子舞は家人に向かって祝福の獅子を舞う。

終われば祝儀を貰って次の家に廻る。

大道芸の門付けとよく似ていると思うのであるが、祝いをする子供も訪れる家も住まいを同じくする地区である。

そこが大道芸と大きな違いである。

正月を迎えてころにやってくる大道芸と云えば大神楽だ。

私が生まれ住んだ故郷は大阪市内の住之江。

獅子舞をする数人がやってきたことはおぼろげながら記憶にある。

奈良県内でも多く見られた太神楽は新年を迎えた正月祝福芸だ。

私が聞きとった地域住民の話しから何組かの大神楽があったようだ。

それは4人組もあれば2人組もある。

各戸を廻って獅子を舞うことで祝福する。

家人は祝儀を手渡す。

そうすればお札をくれる。

玄関口に貼る家もあれば、神棚にも・・である。

能勢の亥の子は地元民。

大神楽はプロ集団。

稼ぎである。

その点でいえば木偶まわしと同じである。

これまで取材したさまざまな記憶がよみがえる。

さて、木偶まわしに話しを戻そう。

正月二日は恵方に向かって拝む。

田んぼではない場にクワとカマを置いてクワゾメ(鍬初め)をする。

竃に奉った古い御幣も調査対象にしている。

藍染に必要なスクモにも吉祥する。

スクモの状態で藍染が決まる。

染めのでき次第を左右するスクモも五穀豊穣を祈るのだ。

三番叟、えべっさんは牛小屋にも拝む。

藁束を田んぼに立てる。

ノバセワラと呼ばれる藁を踏んでもらう。

そういう行為によって稲作に影響を与える虫除けする。

庚申堂を建てるとき、道祖神、地鎮祭も対象に木偶人形を操って拝む。

ありとあらゆる場所に神さんの拝みをしてもらうわけだ。

木偶人形には決まった柄がある。

さまざまな話しをしてくださる辻本氏。

公演舞台に藁束を立てた。

場は稲苗を置いた水田を想定している。

注連縄を張り飾って祓い清める。

煩わしい病をご破算して祓い清める。

露払い役の千歳(せんざい)、天下泰平を祈る翁。白色尉面(はくしきじょうめん)と黒色尉面(こくしきじょうめん)に入れ替わる。

五穀豊穣を祈る三番叟も続いて実演する。

三番叟の人形がぱっと目を開いて新しい年を迎える。

そしてえびすさんと大黒さんだ。

言祝い(ことほい)に訪れる各家へ福を捧げる。

家を巡って祝儀を貰って稼いでいた木偶遣い。

いつしか市座を組んで興行するようになった。

その後は兄弟、姉妹、家族で地方に出向いた。

木偶人形は左手の指で操作して顔を動かす。

人形に表情を与えて、まるで生きているかのように表現する。

人形遣いは木偶まわしを終えて壇上から客席に下りた。

人形が客席の人の頭から撫で撫で。

福分けは各家でされていることと同じように作法された。

道行きは三つの演目を纏めて行うメドレー方式。

後方に3演目、4体の人形を箱から取り出して竹の竿に挿して立てる



メドレーの1番は阿波の浄瑠璃。

西国を旅する有名な場面の「傾城阿波鳴門」。

2番は明智光秀が登場する「絵本太功記」の尼ケ崎の段。



3番はおどろおどろしい蛇になった安珍清姫物語の「日高川入相花王」だ。

メドレーは2分半で演じると云われていたが、実際は10分以上もあった。



「オオシバーイ オオシバーイ オオシマイ」で幕を締められた。

座談会は上田清市長に郡山城史跡・柳沢文庫保存会研究員の吉田栄次郎氏に辻本氏。

コーディネーターは旅の文化研究所長の神崎宣武氏だ。

始めて演目を拝見した二人の印象は感激、感動の言葉から始まる。

生演技を繰り広げられた実演。

これまで直接見たことがない演技に感動したようだ。

吉田氏は10年前にも見たことがあるという。

祝福芸能は全国津々浦々にあった。

明治維新の近代化に伴って消えたが、一部ではかすかに生き残った。

東京オリンピックや新幹線から始まった高度成長期にほとんどの処で姿が消えたという。

奈良では昭和10年代まで「万歳」があった。

戦後途絶えて今に至る。

復活するには相当なエネルギーや継承する技術を要すると話す。

門付けの歴史の概略を整理してみようと話し始めた神崎氏。

門付けはやがて小屋を作って興行するようになった。

四国に農村舞台がある。

大阪に芝居小屋で興行する仕組みができあがった文化二年(1805)、大阪文楽亭の芝居小屋は常設であった。

江戸期の竹本座、豊竹座によって人形浄瑠璃の形式を調えてプロ化した。

人形浄瑠璃はユネスコ・人類の無形文化遺産の代表的な一覧表に掲載されたが、文献によれば傀儡師のことが書いてあるように漂泊の芸人が旅をしていたのが始まりだとか・・。

「でこまわし」」の「でこ」は人形のこと。

西日本の言い回し。

ところで「まわし」とは何であるかだ。

「廻し」は市中を廻す、歩く、得意先を廻るということだ。

廻船はその名の通り各地域の港を廻る。

神崎氏は続けていう。

もう一つの考えに「舞」がある。

木偶人形に舞いをさせるという人もいる。

人形は舞うことで表情に結びつく。

また、三番叟の実演のなかで「みかぐら」の詞章があった。

みかぐらは「御神楽」。

まさにご多幸を祈って神楽を舞うということである。

このような二つの解釈があるということだけは理解しておいてくださいと云う。

「箱まわし」「木偶(でこ)」を入れた「箱」。

三番叟も「箱まわし」と呼んでいるが、「箱」は「櫃(ひつ)」の表現もある。

「櫃」は物を入れているだけの道具。

「櫃」には神の概念がない。

ゆえに総合的判断をして「櫃」ではなく、先代師匠の考えもあって「箱」にした。

門付けはお札を配っていた。

剣山で修業した師匠は先達であった。

各家から求められた神はお札。

つまり幣串を作り給えて配られたが、発行所がないお札である。

師匠が印刷業者に発注した印刷物のお札には神社名は見られないが、蒐集されたお札の中には神社名が記載されたものもあるらしい。

どうやら各家の求めに応じて配布していたようだ。

奈良県内では伊勢の太神楽が正月に各家を廻っていた時代があった。

選考委員の岡本彰夫さんの話しによれば天理に住んでいた人のようである。

1960年代(昭和35年~)に感心が薄れ、なくなりつつあるようだ。

さて、市長が関心をもたれた謝礼金である。

師匠が残された昭和42からの資料(祝儀帳)によれば、平成14年3月から4月にかけての木偶まわし祝儀額、その期間に廻った出先はおよそ300軒だった。

稼いだ祝儀(奉仕料)は当時の国家公務員の初任給(年俸)とほぼ同額だったようだ。

泊まりの「民泊」では家に祀る神々をお祓いしていることもあるが、高額だった。

だいたいの家が千円。

多い家では5万円にもなった。

平均すれば3千円から4千円辺り。

手を合す信仰深い家は相対的に高額になるようだ。

東日本では年神さんはほとんど判らない。

西日本特有の神さんになるようだと話す神崎氏。

昔のお年玉はお年賀に行ったときに貰ってくるモチであった。

徳島県では祝儀に添えて丸モチを手渡す風習があったお年玉。

その年の年始に御霊(みたま)を分けてもらうことがお年玉であったと云う。

辻本氏が続けて話す木偶まわしの聞き取り調査。

暮らしの文化に着目するも、うっかりすればそれだけの聞き取りで終わってしまう。

鵜の身と判れば、その聞き取りは外すようにしていたという。

残された木偶まわしの道具がある。

納屋同然の処などに保管していた。

高齢者にとっては不要な道具。

価値観もなく、タダ同然の額で古美術商は買い付けた。

貴重な道具はこうして散在した。

木偶人形の箱まわしは雨乞いにも利用されたことがあるそうだ。

様々な事柄を持ちだされた座談会は主催者の指示もあって午後4時40分に締められた。

長丁場の講演に公演に会場を立ち去る観客にも扉辺りで待って福分けをされた。

「負の遺産と思われた芸能が、再評価されて負の遺産と思われなくなった」と辻本一英さんが話す言葉に重みを感じた授賞式だった。

(H28. 1.30 SB932SH撮影)
(H28. 1.31 SB932SH撮影)
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月ヶ瀬と都祁を巡る奈良を観るin奈良市美術館

2016年07月31日 08時49分09秒 | 民俗を観る
社友人がFBで紹介していた「月ヶ瀬と都祁を巡る奈良を観る」。

この日は大宇陀、下市、旧西吉野村、五條、御所を巡ってきた。

距離はおよそ160kmの道のり。

停まっては調査してきた山の神行事の聞取りである。

成果は乏しいが実感を得たことが大きい。

帰路では燻炭焼きも拝見できた。

快調に走ってきた車は自宅を通り越して奈良市に入る。

場所はイトーヨーカドー5階にある奈良市美術館だ。

ここへは写真クラブなどが披露する写真展で幾度か訪れる。

写真展はいつも無料。

そう思っていたら「月ヶ瀬と都祁を巡る奈良を観る」は有料だった。

今更戻るわけにもいかず百聞は一見の価値あり、ということで、惜しむことなく100円の入館料を支払って拝見する館内展示。

月ヶ瀬は高山ダムこと月ヶ瀬湖畔を紹介する観光紹介本に拓本だ。

高山ダムが完成する前の時代の梅林を紹介する本もあった。

月ヶ瀬周囲や湖畔をとらえたモノクロ写真もある。

当時の生活文化を知る貴重な写真である。

会場中央には氷豆腐の生産や京終まで運ぶ索道を地図で立体的に紹介する。

製作したのは「大和高原文化の会」の人たちだ。

作者名に何人かの知り合いがいる。

同会が所有する写真など諸々も展示していた。

天然凍豆腐感謝状が展示してあった。

凍り豆腐組合が発行した感謝状の宛先は、昭和32年、山添村が発足するまでの村名だった豊原村・大字切幡の川畑貞雄氏の名である。

切幡で行われている行事を取材したなかに川畑氏がおられた。

おそらく先々代か先代の名であろう。

索道で凍豆腐を運んでいた札も展示していた。

いわゆる荷札である。

所有者は奈良市茗荷町住民のOさん。

古いものはなんでも所有していると、私はそう思っている男性だ。

Oさんは写真も出展提供している。

「奈良安全索道」の八反田駅を撮った3枚の写真だ。

2枚は昭和4年で1枚は昭和17年だ。

そのころはほぼ衰退時期にきていた。

都祁村の農村情景を描いたスケッチ図が何枚もあった。

図柄に描かれた男女の顔。

戦後の顔のように思えるが、野良着などの衣装は戦前、もっと前を表現している。

いつごろ描かれたのか、何も書かれていない。

参考にした原画を拝見したいものだ。

ラストの写真数枚を展示しているのは桑原英文さんがとらえた月ヶ瀬・都祁の情景写真。

月ヶ瀬梅林、都祁の桜、吐山・下部神社の大銀杏、三陸墓、題目立で〆る。

一応は満足した展示に図録はない。

展示資料の一覧表もない。

美術館が提供する有料拝観展示にこれはないだろう、である。

しかもだ。柱に展示していた2枚の写真のキャプション。

平成26年(2013)とある。

なんとなくおかしいと思って会場展示作品を観ていた。

その写真に平成26年撮影とある。

26年はどない考えても、西暦でいえば2014年。

会場受付していた男性に問うた。

今年は平成27年。

西暦では2015年。

間違いないですねと念押しした。

そうですと答える受付者。

であるなら、平成26年は西暦何年ですか、と尋ねた。

結果は2014年。

展示キャプションがおかしいのである。

受付者が云った。

前日だと思うが、撮影した作者はなにも云わなかったという。

だいたいが、撮った写真は気にするカメラマンだが、撮影者はキャプションまでは気が回らなかったのであろう。

早急に確認されて訂正されたし、と伝えて退出した。

(H27.11. 7 SB932SH撮影)
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奈良県立民俗博物館昔の暮らし関連展―洗う―

2016年05月30日 08時52分03秒 | 民俗を観る
昔の暮らし関連展―洗う―は春の企画展の続きでもある。

春のテーマは移動―ヒト・モノ・カミ―だった。

食後は解散するつもりだった。

何気に話した近況はなにも病いだけでなく民俗もある。

午前中に拝観した京都府立山城郷土資料館企画展は伝統行事

伝統行事には家の風習ごともあれば生活感がある暮らしも含まれる。

その暮らしの写真もときおり撮らせてもらうことがある。

それを発表する機会があった。

奈良県立民俗博物館の学芸員からのお願いだ。

平成27年度の企画展に「昔の暮らし関連展」がある。

5月初めから6月末ころまでの春のテーマは「移動」。

サブタイトルは「ヒト・モノ・カミ」だった。

これに関する写真を提供してほしいという願いに応えて60数枚を選択した。

学芸員は企画展示の列品より写真を選ぶ。

展示した写真は31枚。

ほとんどが行事や風習であるが、なかには彼岸花が咲く田園を行く農車や十津川村などで見られる野猿もある。

また苗代作りに苗箱を運ぶ作業や年賀状を配達する郵便屋さんもある。

暮らしのなかで「移動」を表現した写真である。

2回目の「昔の暮らし関連展」は7月末ころから9月初旬まで。

夏のテーマは「洗う」だ。

これもまた展示協力の依頼があって20枚ほど提供した。

実際に選ばれたのは9枚。

入院前する9日前。

それらの写真をセレクションする打合せをしていた。

私が撮った写真の収蔵庫を探してみれば「洗う」テーマ写真もけっこう出てくる。

意外なものもあって担当する学芸員は展示方法を替えていかなければ・・と云った。

祭りや伝統行事撮影の隙間に暮らしぶりを聞くこともある。

そんな状況も民俗。

特に昨年の夏辺りからは暮らしのなかの民俗、或は風景・景観のなかに見られる生活感あふれる民俗を撮り続けてきた。

発端は「干す」からだ。

そんな話しをしていた昼飯。

午後はどうするか、声をかけあえばそれにしようということになりにけり。

木津川市から直行する大和郡山市矢田町。

目指すは奈良県立民俗博物館だ。

写友人は今年4月から任に就いた学芸員と会いたがっていたが、生憎の休日日。

それは残念だがとりあえず企画展を拝見する。

入院・手術の件は学芸課員に知らせていた。

心配そうな顔でやってくる。

なによりも細くなった身体に顔。

完全復帰はほど遠い。

リハビリ状況を伝えて安心した課員は企画展の列品を解説してくださる。

洗い張りが懐かしい。

竹製の「シンシバリ」は子供のころを思い出す。

祖母は大阪市内中央の生まれ。

呉服屋さんの娘で育った。

戦時下に受けた大阪大空襲。

家屋は落とされた焼夷弾ですべてが焼け落ちた。

祖母の息子は親父。

田舎暮らしのおふくろと結婚した。

焼け出された住民の戦後。

バラック小屋とも云われた市営住宅が住まい。

私は昭和26年の生まれ。

そこで育った。

祖母は普段から着物姿だった。

洗い張りをして家の北側で干していた。

ぶーらぶら揺れる洗いものは「シンシバリ」を挿して引っ張っていた。

「シンシバリ」は下で弓のようになっていた。

張るのは祖母、おふくろだったと思う。

「シンシバリ」を一本、一本外すのが面白かった。

子供ができる作業はそれぐらいだ。

洗いの歴史・文化を知る列品は禊、施浴、入浴に洗濯が主だった。

桶や風呂もある。

シルエットクイズにも出題されているものがある。

それは木製。

というよりも枝を何本かある木の棒だ。

一方は5本の枝があるが、反対側は3本だ。

これは何に使うのか。

また、木の材はなんだろうか。

その正体はドロイモ洗いの道具。

地域によっては「イモコジ(棒)」の呼び名がある。

3本の方を手にもってイモを入れた水貯め桶に5本枝を突っ込む。

手で左右に櫓を漕ぐようにえっちらおっちら・・と云ったかどうか疑わしいが、何度もするうちにドロイモの皮が剥がれる。

イモとイモがぶつかりあって、大部分の皮が剥がれて綺麗になる。

そういう道具だが、様式はもう一つある。

ほぼ平らな角材を2枚合わせて中心部を留める。

留めるといっても十字にして手で広げたり閉じたり、回したりする。

桶に入れたドロイモはこうして皮が剥がれる。

道具を見るのは初めてだ。

体験もなかったので、これは良い勉強になった。

ところで展示協力した写真だ。

一つの群団は禊。

茅の輪括りに人形祓、茅の輪川流しもあれば足を洗う精進潔斎もある。

地蔵信仰にご利益の眼洗いもある。

他に子洗い地蔵もあったが展示スペースの関係でボツになった。

神社境内の石洗いは信仰というよりも神さんに奉仕する作業奉公だ。

特にお気に入りは農家の作業。

一つは苗さんの根洗い。

もう一枚は田植えを終えた苗箱洗い。

田植えや稲刈り作業を撮る人は大勢おられるが、こういう何気ない農作業を撮る人は少ない。

野菜のミズナを田の水路で洗う人の写真もあったがこれもまたスペースの関係でボツになったが、動きが判る写真を見る人が多かったという。

どうやらお役に立てたようだ。

(H27. 8.29 SB932SH撮影)
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京都府立山城郷土資料館企画展の踊る!南山城-おかげ踊り・花踊り・精霊踊り-

2016年05月28日 08時50分30秒 | 民俗を観る
入院中、封書が自宅に届いた。

京都府立山城郷土資料館のA学芸員からの送りもの。

彼が担当する企画展示のタイトルは「躍る!南山城-おかげ踊り・花踊り・精霊踊り-」だ。

ほとんどが戦前に中断されて以来、途絶えた地域の行事もあれば、復活した行事もある。

その展示に加茂町岩船におかげ踊りがあると写友人のKさんより聞いていた。

何年か前にA学芸員が調査をして映像を記録していたと話していた。

学芸員の講演が8月1日と記されていたが手術の翌日。

とてもじゃないが聴講できない。

企画展は8月30日まで。

おそらくは退院していることだろうと思って案内状を保管していた。

案の定というか無事に退院もできてやや遠出も可能となった。

企画展は南山城地区。

奈良市を越えればそこが山城になる。

木津川市内の山城町・加茂町・上狛に和束町、笠置町、城陽市寺田、井手町、南山城村など広範囲に亘る。

だいたいの位置関係は車を走らせたこともありある程度は認知している。

展示物を通して現在の行事を知る。

見てから現地を訪れる。

それもありだと思って退院2週間後のこの日を選んだ。

午前中いっぱい拝観して午後には帰宅する予定で車を走らせる。

何度も来ている京都府立山城郷土資料館。

国道から入口を登って行こうとしたら右側になにやら看板があった。

ぱっと見いだったが、目に入ったのは入館無料の文字看板だ。

この日が該当するのか、入館の際に確かめてみたい。

車を走らせて資料館の駐車場に着く。

さくら祭りがある。そこで躍っている映像。見る限りではあるが、どことなくイベント的に行われたように思えた

いつもなら数台が停まっているだけなのにこの日は満車。

こんなことは始めてだ。

病み上がりの身、階段をのそりのそり登って駐車場を見ていた。

そのときだ。どこか見覚えのあるパジェロが登ってきた。

ナンバープレートは存じている写友人の愛車だ。

階段で待つことにした。

手を振って合図すれば驚いていた。

特に申し合わせたわけでもないのに二人は合流したのだ。

企画展資料を受け取って入館料を支払おうとすれば本日無料。

京都府の主な施設は節電キャンペーン。

7月8日から9月30日まではクールスポット期間中につき入館料不要の無料開放を実施していた。

節電施設は無料もあれば割引設定もある。

サービス品もある。

施設独自の対応である。

資料館は無料であるが、企画展室などは冷房もあるし電灯も点いている。

まさにクールスポットである。

明日までは夏休み期間中。

大勢の子供たちが入館されて宿題の課題解決にあたっているそうだ。

この日のA学芸員は仕事休み。

ところがだ、同館にはボランティアガイドによる無料解説もある。

展示物を見る、読むだけよりも解説を聞くほうが学習できてずっといい。

お願いしたのは言うまでもない。

案内人のガイドさんが順を追った展示物に沿って話される。

企画展のサブタイトルはおかげ踊り・花踊り・精霊踊り。

冒頭に「踊り」と「舞」は違う。

「踊りは足を揚げる」が「舞」にはそれがないすり足。

それが違いだという。

簡単にいえば、要するに「踊り」は跳躍運動であるが、「舞」は旋回運動なのだが、動きだけでは違いは語れない。

場、旋律、振りなどにも大きな違いがある。

今回の展示は「踊り」。

どちらかといえば神振り踊りである。

冒頭にも書いたがほとんどが中断され、僅かな地区で復活伝承されてきた。

その様相を展示しているが、主だったものはかつての様相をあらわす絵馬だった。

奈良県内においてもおかげ踊りなどの踊りの様相を表現した絵馬がたくさんある。

その踊り絵を拝見して違いを知るのも学習だ。

最初に拝見したのは笠置町の切山(きりやま)。

明治5年の花踊り図絵馬がある。

切山では雨乞いの願掛けに氏神さんの八幡宮へ「ヒヤケ踊り」を奉納していた。

願いが叶って雨が降る。

満願の願解きに躍った「花踊り」を奉納した。

大太鼓、紙垂振り、団扇、背中に飾ったシナイなどなど多数の男性が躍る姿は帽子を被った武将らしき人もおれば裃姿や奴のような人も。

明治5年は江戸時代最後の慶應を終えて5年後。

まだまだ江戸時代文化の様相が残っているのだろうか。

ちなみに切山は木材を伐りだしていた地域。

山を伐るのは木を伐るということだ。

同じ漢字を充てていた奈良県内の地名に山添村桐山がある。

今では桐山の漢字を充てているが、かつては笠置町の切山と同じ切山だった。

その証拠は永正十一年造りの湯釜に「切山」の刻印文字で確認できる。

山添の切山は石切場があったことから「切山」だった。

参考までに付記しておく。

中央に配置した場には白むく姿に躍る再現人形がある。

お盆のときに行われる精霊(しょうらい)踊りは山城町の上狛(かみこま)だ。

地区の自治会ごとに集まる集団は揃って新盆の家の庭(たぶんにカド)で躍るという。

一部の地域では唱えていた念仏をオープンリールのテープに収録されていた。

そのことを伝える昭和56年1月17日付けの新聞記事も展示していた。

34年前の新聞記事も大切な記録だ。

懐かしいオープンリールテープ、私も3~40年前のものがある。

テープデッキは壊れて回転することがなくなったオープンリールテープ。

たとえ機械があったとしてもテープ自身がくっついて読み取ることはできないだろう。

当時、苦心して記録された音声は物理的なテープだけが残った。

今回の展示には個人所有物も展示されている。

展示物のなかには太鼓踊唄写本などがある。

ところが原本が見つからない。

写本は原本より転記されたもの。

原本はどこへ行ったのか。

個人所有物は代替わりで消滅することが多々ある。

私が調査した範囲内の聞取りで判ったことは家屋の建て替えだ。

旧家には保存していた蔵もあった。

建替えによって新しくなった家屋に相応しくない残されていた過去の物品は、重要性は関係なく不要と判断されて消滅するのである。

解説される展示物を食い入るように拝見する。

明治六年の湧出宮の居籠祭(いごもりまつり)。

加茂大野のかっこ踊りも興味深い。

お茶栽培で名高い和束におかげ踊りがある。

昭和大典に躍ったあとの記念写真。

昭和3年の旧白栖村のおかげ踊りだ。

旧白栖村は皇室領。

藩領どころではない鼻高々の皇室領だという。

大典記念に撮られた集合写真は旧白栖村の他、精華町東畑・北稲八間もある。

加茂町の高田にはおかげ踊りの絵馬がある。

加茂町高田は大正五年。

昭和3年の大典3枚ある。

天皇大典はどこの村とも記念事業が行われたようやに聞く。

私が聞いたのは奈良県大和郡山市額田部町だ。

当時の写真を見せてもらったことがある。

城陽市寺田の水度神社。

文政十三年(1830)に奉納されたおかげ踊り絵馬がある。

同町の中での天満神社にも奉納されたおかげ踊り絵馬があるが、これは江戸末期の慶応三年(1867)だ。

写友人が教えてくださっていた加茂町岩船のおかげ踊りがある。

岩船は当尾(とうの)の里。

随分昔に自転車で来たことがある。

奈良市内を抜けてからは登りばかりの道。

途中で何度も休憩したことがある。

巡拝できる石仏がある。

ここへくれば訪れたい浄瑠璃寺や岩船寺がる。

いずれも訪れたが境内社は存じていなかった。

岩船寺に鎮座する境内社は白山神社。

ここで10月のマツリにおかげ踊りを奉納される。

最近の記録写真で動画もある。

再興された踊りはシデや幣を振る姿もある。

記録日は平成24年10月16日の火曜日。

平日なので固定日であるかも知れない。

復活現存しているおかげ踊りは岩船以外に、神社舞殿周囲を囲むように躍る城陽市富野荒見田・荒見神社や桜が咲く井出町のさくら祭りがある。

そこで躍っている映像。

見る限りではあるが、どことなくイベント的に行われたように思えた。

井出町多賀のおかげ踊り絵図はユニークな巻物様式。

稀にこういう様式を拝見することがある。

伊勢のおかげ参りに「ええじゃないか」がある。

日本全国爆発的に発生した「ええじゃないか」。

京都市の「中」には当時躍られた「豊年踊り」がある。

化粧をして乱舞する姿を描いた豊年踊りに躍動感を見た宇治田原町内の民家で発見されたそうだ。

城陽市歴史民俗資料館寄託の文政十二年・十三年に奉納された豊年踊りもある。

なかには文字を書いた日記がある。

日記といえども躍る姿を彩色豊かに表現したものある。

線画で描いた踊り図もある。

じっくり見ればでかい顔の人がいた。

キツネ面を被る人もいる。

もしかとすればだが、でかい顔の人はでかい顔の面だったかも知れない。

田山の花踊りは聞いたことがある。

たしか奈良市の月ヶ瀬からすぐ近くだと聞いていたが未だ現地入りはしていない。

田山は南山城村。

月ヶ瀬人口湖の東部山間になる。

11月3日に行われる花踊りは諏訪神社に奉納される。

集合・出発地は旧田山小学校グラウンド。

そこから神社に向けて行列行進するそうだ。

花踊りは記録した動画もあった。

踊りや衣装・シナイ飾りを見ていてなんとなく奈良市大柳生や月ヶ瀬石打の太鼓踊りを思い出す。

石打は大正13年に途絶えたが、昭和63に復活。

同じように田山の花踊りも大正13年の奉納を最後に途絶え昭和38年に復興、保存会を立ち上げた。

太鼓に乗った子供が雨乞い願掛けを口上するのも石打と同じ。

行列に棒(ハライ棒)のようなものを持つのも同じ。

天狗・ひょっとこも。

復活した石打の太鼓踊りは大柳生から習ったようやに聞くが、様式を見る限り田山を見習ったと思われるのだ。

田山にしか見れらない特徴的なものといえば、顔を金箔の笠で覆った黒い紋付衣装を着る「唄付け」だ。

踊り子の傍について貝吹きをする修験の人たち(神夫知か)。

案内ガイドの話しによれば踊り子の指導者であるようだ。

展示会場をぐるりと回って上狛の精霊踊りに辿り着く。

ひときわ目立つ白装束も展示してある。

大きな太鼓もあるし打ち鉦もある。

躍る姿を表現したイラストがある。

イラストの主はよろずでざいんの中川未子さん。

どこかでお会いしたような名前が気にかかる。

しばらくして思いだした。

この年の3月31日、4月1日の両日。

天理市のちゃんちゃん祭りだ。

大字成願寺の北垣内で調査されていたイラストレータだった。

特徴ある描き方で思いだした。

精霊踊りはナモデ踊り、ジンヤク踊りがあるようだ。

上狛は環濠集落。

8月14日、新盆のタナマツリは地区の人たちが新盆の家を訪問して供養の踊りを披露する精霊踊りをする。

家中に入ることなくカドで躍るように思えた。

振りは小さいが、次の新盆家に向かう道中でも躍っている映像があった。

上狛は泉、野日代(のびだい)、小仲小路(こなしょうじ)、五つ郷(角・城・御堂・磯・殿前垣内?か)、林からなる。

かつては隣村椿井の椿井南、椿井北、神童子(じんどうじ)、北河原や平尾の北平尾、東平尾、大平尾および鹿背山にもあった精霊踊り。

神童子、椿井は大正期、上狛は昭和21年、平尾は昭和28年に発生した南山城水害を最後に途絶えた。

ただ五つ郷だけは踊りを復活されて現在に至っている。

当時の精霊踊りは踊り子のカンコ打ち、シンボウ打ち、音頭取り、太鼓打ち、鉦叩き、シカ持ち、ガワなどで構成されていたが、奈良県内でみられる念仏は踊りでもなく六斎鉦を打ちならし念仏を唱える様式だ。

違いがあることが判った上狛の精霊踊り。

できる限り拝見したいものだ。

ガイドが最後に案内した場。

昭和初期から30年代にかけて製造された製茶機械が保存されている。

製茶製造に活躍した機械を通じて製法が理解できる仕組みだ。

これもまたガイトがなければただたんに見て回るだけ。

熱心に解説してくださりこの場を借りて御礼申し上げる。

なお、この日の満杯駐車場の理由は古文書手習い教室の参加者だった。

毎回、参加人数が多くなっているそうで、レベルが高い人もおれば初心者も。

そのようなことで、レベルを分けた二グループに分けたそうだ。

(H27. 8.29 SB932SH撮影)
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移動-ヒト・モノ・カミ-企画展に写真協力

2016年04月02日 08時57分26秒 | 民俗を観る
奈良県立民俗博物館で行われた国際博物館記念日講演会を聴講した。

お題は「福神と招福」だった。

終わってから取材に来ていた毎日新聞奈良支局の記者から突然のインタビュー。

『あなたにとって福は「財」ですか、それとも「健康」でしょうか』であった。

この日に訪れた目的はもう一つある。

5月2日から始まった春の企画展の「昔のくらしの関連展<移動>-ヒト・モノ・カミ-」に展示されている写真である。

展示フロアー正面にあった一枚の古い写真。

人物バックにある建物で判った地はどう見ても室生染田だと思う。

右に春日神社の鳥居。

左にお堂がある。

それは連歌堂であろう。



オーコで竹籠を担いでいる立ち姿の婦人である。

もしかとしたら・・F婦人の若かりしころの姿ではないだろうか。

「シンドカゴ」と呼ばれる大きな竹籠は何を運んでいたのだろうか。

もしかとすればカイコさんが食用する桑の葉では・・と思った。

FBに写真を紹介したらFB友人のMさんは蚕さんが食べる桑葉運びの籠に間違いないと伝えてくれた。

24日、民博に立ち寄ってこの籠をオーコで担ぐ体験をした。

空っぽであるのになかなか難しいものだと感じた。

蚕さんで思い出したのは橿原市の五条野だ。

トヤさんが戦前に家で飼育していた蚕さんが桑の葉を食べる音で寝られなかったと話していたこと思い出した。

紡蚕も奈良のどこかで聞いたことがあるような・・思い出せない。

経営の三要素は「ヒト・モノ・カネ」。

奈良県立民俗博物館・企画展は「昔のくらしの関連展<移動>-ヒト・モノ・カミ-」。

動く「ヒト・モノ・カミ」を展示するにあたって写真提供を求められ60数枚の写真を提供した。

展示されたのは35枚。



「カミ」さんは神社。

そこから動くことも知らずにいる人もいる。

春日若宮おん祭では年に一度、御旅所に動かれる。

「カミ」さんだけでなく「地蔵」さんも動く。

何体も祭る「地蔵」さんは一か所に集められた。

これもまた「移す」である。

年に一度だけ場を替えて移る地蔵さんもあれば「廻り地蔵」のように各家を移動する場合もある。

「ホトケ」さんも動く。

各村融通念仏宗派に出向くご回在もある。



祭り道具などの「モノ」を運ぶ手段もある。

お渡りに付属する運びだ。

モッコで運ぶものもあれば、今では見ることもない大八車(目撃された方は情報を)もあれば廻り当番の灯明箱も・・・。

「ヒト」も当然ながら動く。

ハイハイ・ヨチヨチする幼児は成長して乳母車・三輪車・自転車へと動く手段を利用する。

歳がいけば老人用押し車もある。

「ヒト」が動く手段もあれば配達する「書簡」もある。

多様な在り方を館収蔵民具で紹介しているが、これらを補完するために民俗写真で展示協力した。



6月28日まで開催されているのでお越しいただければ幸いだ。

なお、5月24日、6月28日には学芸員による解説もあったことを付記しておく。

(H27. 5.17 SB932SH撮影)
 
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県立民俗博物館「鬼の文化・山の神まつり」上映会

2015年11月02日 07時30分18秒 | 民俗を観る
年に一度は季節に応じた民俗映画の上映会が開催される奈良県立民俗博物館。

今回は「冬の暮らしとまつり」をテーマに奈良県教育委員会が製作した教育番組『大和路の文化財』シリーズより選んだ「鬼の文化」・「山の神まつり」を上映される。

昨年末からコーナー展示されている「山の神への供え物」と合せて視聴すれば理解が深まる。

上映が始まる直前に拝見したコーナー展示に学芸員より写真協力の要請を受けて提供した山の神の写真がある。



一つは山添村春日の「カギヒキ」。

二枚目は山添村菅生峯出の「勧請縄の男木・女木」。

三枚目は奈良市柳生町山脇の「山の口講の山の神参り」。

四枚目は東吉野村木津川下出の「山の神御供」だ。

壁にもあるし床にもあるさまざまな供え物は現物寄贈された品々。

今では中断されて見ることもできなくなった貴重な品もある。

気になっていたのは山添村菅生の「農林業模擬道具」と「名刀模擬用具」だ。

この年の1月7日に訪れた山添村菅生の大垣内。

時間帯は遅かったが一人の男性が山の神参りをされたのだ。

男性は度々の行事取材でお世話になったUさん。

山の神の場で話して下さった山や農のミニチュアや刀のことである。

今では供えることはなかったが、県立民俗博物館の依頼でそれらの道具を作ったそうだ。

作ったのは男性の父親。

供えることもなく博物館に寄贈したと話していた。

それが今回日の目を見ることになった。

学芸員より連絡があって展示したいという申し出だ。

ミニチュア道具は隣垣内の後出や峯出垣内で拝見したことがある。

今年もそうしていたと聞いている。

大垣内の道具はどのような形であったのか確かめたかったのだ。



スキ・クワやヨキ・カマ・ツチなどがある。

刀には「山神様 御祝儀」の墨書があった。

本来、供えられた刀には金額が書いてある。

大垣内にはそれがない。

ということは供えたものでなく作って寄贈されたものだと思ったがそうではなかった。

後日、学芸員に問い合わせた結果、裏に金額が書いてあるそうだ。

寄贈されたのは大垣内のU家。

1978年と書いてあることから、昭和53年。

今から37年前に作られ供えられた道具であったのだ。



隣には収集地山添村とあるクラタテ。

中央の柑はコウジミカンであろう。

四方に幣を括りつけているクラタテ。

山添の各大字ではあまり差異のない造りである。



さらに珍しいものがあった。

菅生で木場と呼ばれる地域を区分けしたなかの大垣内や峯出に見られる和合の印だ。

これらはたまたまご一緒した元大和郡山観光ボランティアガイドクラブの男性と手品をされる登録ボランティアの女性とともに拝見した。

短い時間だったが上映される前に山の神について解説させていただいた。

2階に上がって上映会に臨む。

臨むといってもこの日は一般の視聴覚者。

休憩を挟んで二本立て映像を見る。

1本は平成8年に制作された「鬼の文化」。

鬼の信仰や歴史文化を知る短編映画だ。

鬼が現れる行事がある。

節分行事に登場する鬼や五條市大津町の念仏寺陀々堂で行われる「鬼走り」行事などが映し出される。

つい最近もニュースで取りあげられた天理市藤井町で行われた「鬼打ち」行事もある1月・2月に相応しい映像を見る。

古くから鬼への恐れがあった。

鬼は魔除けにもなった。

護符にも登場する鬼。

曼荼羅図にもある鬼は身近なところにも現れる。

屋根で睨みを利かせる鬼瓦だ。

鬼は隠れている場合もある。

鬼の文字が初めて登場するのは古事記。

万葉集にも出てくるそうだ。

斉明天皇が崩御されたときには鬼が現れたという記述があると画面が伝える。

鬼はウシトラ(艮)の方角にいる。

丑と寅の姿が日本の鬼。

鬼瓦は鬼神。

出土した木簡に鬼の呪符がある。

閻魔十王図や地獄絵図にも登場する。

役行者像には前鬼・後鬼がいる。

鬼子母神もある。

いろんな場面に登場する鬼ではあるが場面は移って「鬼走り」行事。

入堂する場面に飾られた鬼面の映像だ。

応仁の乱が鎮まった十年後の文明十八年(1485)の銘がある鬼面。

530年前の室町時代の安定期に制作された。

須弥壇の壁を棒で打つシーン。

阿弥陀さんの肩叩きと云われる所作である。

ホラ貝の音が鳴りわたるなか、カツテ役が所作をする松明。

「水」の文字を書くように松明をふり廻す。

火伏せの行法である。

父鬼、母鬼、子鬼が次々と登場しては松明を抱えて堂を巡る。

20年前に収録された映像。

今でもかわらないほどの大勢の観客がお堂の前に立っていた。

カメラマンの数は今より少ないが、かぶりつきの様相はかわらない。

大きな変化は最近流行りのスマホなどで撮る人たちはまったく見られないことだ。

場面はかわって節分行事。

興福寺で行われる追儺会。

ホラ貝が吹かれ、ジャンジャンと打つ半鐘の音。

かつては大晦日に行われていた宮中行事だったが、室町時代に民衆化されて寺の節分行事になった。

豆打ちも同じ室町時代に始まったと伝える。

ヒイラギイワシの風習もこのころの時代のようで、民衆化されて全国各地に広がった。

長谷寺の「だだ押し」も追儺会であるが、ここでは修二会の結願として行われている。

大和郡山市矢田寺の練り供養も紹介される。

4月24日に行われていた図絵や写真で映し出された。

今では見ることのない貴重な映像だ。

映像は明日香村の鬼の俎板や雪隠も登場する。

最後は「鬼ごっこ」遊び。

宮廷行事には鬼乞いもあったそうだが・・・。

休憩を挟んで再び上映会。

今度は平成3年に制作された「山の神まつり」だ。

晩秋から1月にかけて行われる山の神行事。

山の信仰に基づいて山の仕事の安全を祈る山の神まつり。

コーナー展には供えられた道具を展示しているがモノを云わない展示物。

映像を見ることによって理解に役立ててもらうのであるが、残念ながら今では見られない映像もあると前置きされる。

まつりの在り方や形が変化した行事もあるが、貴重な映像を見られて、「山」をどう考えるか、である。

「山」はどこにあるのか。

地域性もみられる山の神まつり。

「田」から「山」をどう見たのか。

山仕事に携わる生業の場。

農耕にとって水源地になる大切な「山」。

先祖さんは普段はどこにいたと考えていたのか。

先祖さんがあるときには「山」から下りてきて「田」に豊饒をもたらすと考えられていたと前置き解説された。

トップ映像は東吉野村の山の神。

山に祀った祠が山の神だとアップする。

地域によっては「山ノ神」を彫った石が山の神だった。

山仕事に向かうオダさんを映し出す。

山行き道具を背負って出かける姿。

参るときに家の山の神に柏手を打って手を合わせる。

山の仕事は厳しく危険も多い。

ひとつ間違えば命を失うかも知れない。

安全に仕事ができるように願って手を合わせる。

仕事が終われば無事に終えたと山の神に感謝する。

民間信仰として多くの地域でそうしてきた。

場面はかわって十津川村の小坪瀬。

山の神に参るのは11月7日。

前日にケズリバナ(ケスリカケとも)を作るタナカさんが映像に登場する。

これが何を意味しているのか判らない。



県内各地でよく見かけるとアナウンスしているが、ケズリバナ(地区によってはカンザシ)は十津川村や上北山村・下北山村などの奥深い地方に限る。



展示列品を拝見して多様な作りであることが判った。



2本のケズリバナは山の神参りをする朝に出かける。

アズキダンゴは7個作って供える。

山の神には7人の子供がいると伝える。

お供えは魚などもあった。

山の神は家ごとにある山の守り神。

暮らしの一部として代々継いできた。

家の裏山に登って菊の花を飾った「山之神」に手を合わせる。

東吉野村のある大字の映像が映し出される。

なんとなく木津川のように思えた映像は初山の山の神。

午前中に魚の模型を作る。

大字ごとにそれぞれの山の神がある。

山仕事道具の模型なども青なえていた。

場面は転じて山添村の菅生。

5カ所に山の神がある。

ウシロデ地区と伝えていたことからおそらく後出であろう。

そこには山の神の石がある。

早朝に個人、個人が自由に始める「クラタテ」。

半紙を広げた四方に竹を挿す。

中央の竹にはミカンを挿す。

当番の人はミニチュア模型のスキやクワを供える。

五穀豊穣を意味する道具だ。

「クラタテ」を建てた次は藁で作る「ホウデン」。

中には小さな石を詰めて木にぶら下げる。

「ホウデン」の数は数本ある。

その木は「カギ」と呼ぶ。

「カギ」は大樹に引っかけて引っぱる仕草をする。

いわゆる「カギヒキ」の作法である。

盆地部でも行われているところが多いと紹介されたが、あり得ない。

それからトンドでモチを焼く。

新年を迎える親睦会でもあるモチ焼きには焼いたモチにクシガキを挟みこんで食べる。

菅生の山の神は峠とか村の出入り口にある。

村に悪いもんが入ってこんようにしていると話す男性。

いまから24年前の映像は若かりし頃の姿を映し出す。

当時60歳だった人は84歳。

今でも元気かどうかは存知しない。

今の顔と映像の顔と一致しないのだ。

モチ焼きを終えたら太い縄を結う。

それは「龍」に準えたものだと伝える。

太い縄には太い房(ホウデン)も作って取り付ける。

それにも石を内部に納める。

5、6メートルにもなった縄は山の神に生える樹木に掛ける。

ご神木だと伝える。

一年前に供えた刀と新しく作った刀を縄中央辺りで串刺しする。

一年前の刀は上から、新しい刀は下からだ。

上下逆に挿して出来あがった縄はカンジョウナワと呼ぶ。

山の神さんは女の神さん。

女性は立ち入ることのできない場。

女の神さんが喜ぶモノを供える。

山添村の事例では「ホウデン」がそうだ。

自然崇拝の原型ともされる山の神は日本古来の在り方であろうと締めくくられた。

(H27. 1.25 SB932SH撮影)
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畑屋の文化財in大淀町文化会館

2015年06月26日 07時30分51秒 | 民俗を観る
大淀町畑屋の文化財を展示すると知って出かけた。

展示会場は大淀町文化会館。

知らせてくれたのは学芸員の松田度さんだ。

これまで何度かの講演会などに出かけた大淀町文化会館。

平成23年9月の「大淀町の民俗-継承と活性化」もあれば平成26年6月の「三つの野」もあった。

それぞれ講演者によって視点が変わる。

視点が異なるから勉強になる。

そう思ってできる限り民俗に関する講義を聴講したいと思っている。

この日に訪れた時間帯は翌日の展示に際する設営である。



ガラスケースに収めた古い湯釜や伏せ鉦があった。

これらを応対・解説してくださったのは大字持尾の区長さんだ。

湯釜には刻印銘があった。

「畑屋 九頭神之宮 御湯釜 文明十一年(1479)己亥九月十八日」である。

県内事例に古い湯釜がある。

山添村の有形文化財に指定されている大字桐山の湯釜の銘は「切山庄九頭大明神御宮小谷弥七願勧進弥 永正十一年(1514)甲戌六月吉日七月」である。

畑屋の湯釜はそれより古い36年前のものであるが現在は使われていない。

一方、桐山の湯釜は今尚マツリの際に一老が作法される御湯祓いに使われている。

奈良県内で一番古いとされているのは吉野山勝手神社に保管されている湯釜である。

銘は「金峯山下御前湯釜也 康暦元年(1379)後卯月勧進」だ。

これもまた古い湯釜であるが現在は使用されていない。

とはいうものの畑屋の湯釜は文明十一年製。

今から540年前の湯釜は大淀町の文化財に指定してもいいのでは、と思った。

なんでも探偵団ではないが、大切にしてください、である。

展示される畑屋の文化財は湯釜以外に二つある。

いずれも伏せ鉦である。



一つは直径18cmの鉦で「天下一出羽大掾宗味作」とある。

古文書によれば享保時代(1716~)と伝わるそうだ。

もう一つの伏せ鉦は直径13cm。やや小型である。

これもまた「天下一出羽大掾宗味作」の記銘刻印が見られる。

持尾が所有する双盤鉦があるが、今回は写真での展示だ。

松田さんが苦心して何枚かに分けて撮られた双盤鉦は貼りあわせて一枚にされた。



記銘刻印は「奉寄附願主惣且邦衆元禄十二年(1699) 和州吉野郡持尾村金蓮寺 出羽大掾宗味作」だ。

展示物品にワニ口もあった。

記銘刻印は「和州吉野郡畑屋村鎮守 施主 中尾徳左エ門 南無八大龍王 嘉永四辛亥年(1851)四月吉日」である。

伏せ鉦や双盤鉦よりも比較的新しいワニ口である。

他にも文政拾弐年(1829)丑七月十日付けの古文書が展示されていた。

解説によれば実印を押印している「連判銀借用證文之事」だ。

大字持尾村、矢走村、畑屋村、芦原村4カ村の連判状は継ぎ目に捨て印もあれば割り印も見られる証文である。

現在でいう契約書と同じ形式で綴じていた。

借用主は持尾庄屋茂助である。

会場設営は忙しく準備に大わらわであったが、応対してくださった大字持尾区長が話すマツリに興味をもった。

「座講(ざあこう)」と呼ばれる宮座があるという。

祭事の場は天髪(てんぱつ)神社。かつては10月6日、7日にヨミヤと「座」があった。

いつしか一日に纏められて「マツリ」になった。

今では10月第二週の日曜日。

朝から餅搗きをする。

昼にヨバレがあって夜は19時に神主による神事が行われるそうだ。

村の文化財を展示されるなかで応対してくださったことに感謝する。

「息切れしない地域文化はこれからも持続していきたい」と松田さんはいう。

いい言葉に感服する。

伝統というのもそういうものだと思って帰路についた。

(H26.11. 1 EOS40D撮影)

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弥生時代の墓―死者の世界―in橿原考古学研究所附属博物館

2014年12月10日 07時19分27秒 | 民俗を観る
橿原考古学研究所附属博物館で春季特別展「弥生時代の墓―死者の世界」が始まっている。

期間は平成26年4月19日~6月22日までだ。

4月29日に北井利幸氏が展示内容を解説されるのであったが、仕事を終えてすっかり失念していた。

興味があった今回の展示はいつかは出かけてみたいと思っていた。

期間はまだまだあると思っていたがずるずると経過する。

この日は煩わしい作業を終えて思い切った。

研究所を訪ねたが、出はらっているという。

仕方なく入館料を払って拝観してみようと思って受付に出向いた。

奥から登場した北井さん。会場で解説をしていたようだ。

「弥生時代の墓―死者の世界―」は古来の現実であるが、葬送の儀礼は現代に通じる何かが判るかも知れない。

意識していたのは魏志倭人伝に記された倭国の大乱の痕跡があるのか、ないのかである。

倭人伝ではそうとうな大乱であったように思えるのだが、戦いで死を迎えた痕跡は九州や山口県で発掘された状況では数多くあると認知している。

ところが奈良県内ではそのような様子もないぐらいに発掘数が少ない。

展示される死者の状況を知ることによって、それを確かめたかったのだ。

北井さんは手にしていた図録をくださった。

写真を撮ることは禁じられている館内。

案内にメモをとることも失念していた。

いただいた図録を見て、思い出しながら下記に残しておこう。

今回の展示を担当された北井さんの案内で館内を巡る。

展示物は近畿地方で発掘された21遺跡。

弥生時代前期(約2000年前)~中期(2300年前)の期間だ。

大きな木棺がある。

大阪府四条畷市の雁屋遺跡から出土した木棺は長さが約2m、幅65cm、高さ40cmで材はコウヤマキの板だ。

長方形四枚を組み合わせた木棺には横から嵌めた小口板で封じ、崩れないようにしている。

保存状態がいい木棺に圧倒される。

木棺は蓋板、側板、小口板、底板から構成される。

構造は組み板によって3分類されるそうだ。

葬られた棺は木棺の他に甕棺もあれば、棺でなく直接穴を掘った場に埋葬している場合もある。

いわゆる土壙墓(どこうぼ)である。

今のところ、奈良県内の人骨埋葬発掘事例は縄文時代晩期が最も古いそうだ。

展示されてあった橿原市観音寺の本馬遺跡では16基の土壙墓と19基の土器棺墓だった。

推定身長165cmの男性の他、4歳前後の幼児骨も出土した。

土壙墓周辺に生活域を示す住居跡もあることから墓域と密着していたようだ。

弥生時代ともなれば方形周溝墓、円形周溝墓、台状墓が作られ、組合せ式木棺が採用される。

兵庫県尼崎市の田能遺跡で発掘された土器棺墓は日常的に用いる土器を棺として利用していた転用墓。

主に新生児や幼児の埋葬である。甕棺と土器棺墓は専用の棺とするか、日常土器であるかの違いである。

興味深い出土に兵庫県尼崎市の東武庫遺跡から発掘された堅櫛の破片がある。

表面に赤漆が塗られた破片から復元図が描かれていた。

人体のどの個所にどういう具合に付けていたのであろうか。

儀礼で見に付けていたのか想像する。

木棺が初めて発見されたのは兵庫県尼崎市の田能遺跡。

その後、大阪府豊中市の勝部遺跡、大阪府東大阪市の巨摩遺跡、大阪府四条畷市の雁屋遺跡、兵庫県神戸市の玉津田中遺跡によって全体像がみえてきたそうだ。

長い年月に亘って土中に埋もれていた木棺の多くは腐食して、遺存することは稀である。

木棺の材はヒノキもあるが、多くはコウヤマキ製だ。

植生は集落付近にあったのか、それとも山から伐りとって運んだのか・・・。

豊中市の勝部遺跡の木棺人骨から背に刺さった石槍や数本打ち込まれた石鏃が発見されている。

深く刺さっていないように見える一事例であるが、出土は4体。腰骨・肋骨・頭骨など喰い込んだ状態であった。

もしかとすれば戦いで亡くなったと想定されようが、弥生時代の争乱を物語ることはできない。

神戸市の玉津田中遺跡から1m弱の木棺が出土した。

その長さから小児用であったことが判る。

下層からは女性人骨を埋葬した長さ167cmの木棺も出土した。

そこには性別不明の人骨があった。

棺内からはウリ科植物の種子とともに石鏃もあった。

玉津田中遺跡の木棺内から出土した鋒(きっさき)がある。

青銅製の武器である鋒から人間の皮下脂肪が検出されたそうだ。

被葬者は剣か矛で腹部を突き刺され、折れた鋒が体内に残存したまま埋葬されたと考えられる。

橿原市の四分遺跡で出土した木蓋土壙墓からも石鏃が発見されている。

一つの墓壙に2体の人骨である。ご互いが頭を逆方向に向けている男女の埋葬事例は特殊だ。

追葬ではなく同時に埋葬された人骨に石鏃があった。

女性は2カ所で、男性は4カ所にあった。打ちこまれていた傷痕部位は、女性が左大腿骨・中位胸椎の2カ所。男性は前頭骨・左肩甲骨・左右の寛骨・腰椎の6カ所である。

年齢推定は女性が18~25歳で、男性は25~30歳の若き男女。

武器は石鏃だけでなく、重量のある武器で生命を断たれた。

これは争いでなく、何らかの事情で葬られたと考える。

かけおち、それとも兄妹、或いは近親婚の根絶・みせしめではないだろうか。

兵庫県神戸市の新方遺跡の出土に3体の弥生時代初期人骨がある。

1体は17本も刺さったサヌカイト製石鏃が発見されている。

これほど多くの石鏃は上半身に集中しているというから、矢の先端に括りつけて何人もの人が矢で射った。

何らかの事件によってみせしめに打ったのではないだろうか。

ただ、そうであれば集落の墓に埋葬することは考えにくい。

集落を守るために悪病祓いの人身御供ではないだろうか。

大阪府八尾市新家町の山賀遺跡や東大阪市の巨摩遺跡においても僅かであるが、石鏃が発見されている。

近畿地方の出土例はそれほど多くなく、争乱は集落ごとの小規模であったようだと語る北井さん。

田原本町の羽子田遺跡からは2点の石鏃と1点の石剣が出土したが、武器ではなく、近年の研究によって装着していた可能性が高くなった。

四条畷市の雁屋遺跡で出土した木棺の経緯が面白い。

木棺の側板一枚が近くの民家で濡れ縁としておよそ35年間使用されていたというのだ。

年輪年代法によって測定された結果は弥生時代中期の木材だった。

民家で長期間使用されているにも拘わらず美しいのである。

奈良県内で発掘された弥生時代の墓は広範囲に亘る。

盆地部では、奈良市の柏木遺跡、大和郡山市の八条・八条北遺跡、田原本町の唐古・鍵遺跡、田原本町の十六面・薬王寺・阪手東・矢部南・羽子田(石鏃2点・石剣1点)遺跡、三宅町の伴堂東・三河遺跡、桜井市の芝・大福遺跡、橿原市の坪井・四分・土橋・西曽我・曲川・観音寺本馬遺跡、御所市の鴨都波遺跡、葛城市の小林遺跡がある。

東部山間では、奈良市のゼニヤクボ遺跡がある。

吉野川流域では、五條市の原・中遺跡、吉野町の宮滝遺跡などだ。大古の奈良盆地は里山までを境界とする湖であったことは知られている。

山麓にクリの木が植えられ集落人の食糧にしていた。

いつしか湖は徐々に水面が干上って川を形成した。

流れは盆地を抜けて大阪湾に繋がる大和川となる。

干上った土地に移っていった時代は判らないが小規模な集落が形成されていった。

私がもっていた縄文人が住まいする土地は高地性集落。

弥生人は盆地部にいなかったと思っていた。

北井さんにそのことを問えば、そうでもなく盆地部においても縄文時代の遺跡が多くあるという。

神戸市の玉津田中遺跡からは水田跡も見つかっており、そこからは木製の鋤・鍬・堅臼も出土したそうだ。

玉津田中遺跡竹添地区の方形周溝墓最下層から周溝を掘削した際に使われたと思われる着柄鋤が出土した。

東大阪市の巨摩遺跡の方形周溝墓からも供献土器とともに鋤の柄が出土している。

墓の穴を掘った鋤は死者とともに埋葬されたのである。

これは現代でも通じる民俗の在り方。

土葬の際に墓穴掘りを大和郡山市の矢田町住民は「アナホリ」と呼んでいたが、穴掘り道具の話題はでなかった。

四条畷市の雁屋遺跡で出土した四本脚付きの木製容器がある。

材はヤマグワである。

木を刳り抜いて作った容器は何の道具であったのだろうか。

鉄製道具がまだない時代ではサヌカイト石器が考えられるにしても、手間がかかる細かい作業。

時間はそうとうなものであったろう。上部の口縁部には蓋がずれないような小細工も施されている。

同遺跡ではモミ材を浅くU字形に加工した2点の木製品が出土した。

それは人体を運ぶ担架であったと推定される。その担架の下から出土したのは頭を西北方向に向けたノグリミ製の鳥形木製品も出土した。

口の部分に切り込みがあり、腹部の下には棒を挿し込んだと推定される穴が開けられていた。

死者を担架に乗せて、鳥形木製品とともに方形周溝墓に葬ったと思われる立体感がある出土品だ。

それにしても翼を閉じた鳥形木製品の「鳥」はいったい何の種類を模したのであろうか。

形からすればカモでもない。

シギやサギのようにも見えない。

タカ、カラス、ハト、ニワトリでもない。

稲作技術の伝幡によって農耕儀礼に使われたという説があるが、出土したのは墓であるだけに葬送儀礼であることに間違いないと思う。

埋葬した被葬者には身につけていたさまざまな装飾品が認められる。

それらによって性別・役割・性格など、生前の姿を考える助けになる。尼崎市の田能遺跡から出土した碧玉製管玉は通していた紐が溶けてバラバラになっていた。

一つ一つの長さは一定でない。

復元された菅玉は実に美しい。もう一つは左椀に嵌めた白銅製釧(くしろ)で、形態はゴホウラを縦切りにした貝輪を模している。内部が空洞で小さな玉のようなものがある。

神戸市の新方遺跡から出土した鹿角製の指輪だ。

これもまた細かい手作業で細工されたのであろう。

根気がいる仕事だったに違いないが、右手指に5点を装着していたのは男性だ。

この他にも多数の装身具があるが、詳しくは図録を参照されたい。

こうして特別に案内してくださった館内の展示はすべてがレプリカでなく本物だという。

館外に出てから手を合わして帰路についた。

(H26. 5.20 SB932SH撮影)
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