マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

檪原のオハキツキ・御供搗きにイワイコミ

2019年02月28日 09時50分18秒 | 平群町へ
平群町櫟原の氏子圏は向浦(むかいうら)、下庄(しもんじょ)、上垣内、中垣内、美之谷(みのたに)、椿木(つばき)の6垣内。

氏子家67戸のすべてを巡って荒神祓いをされた宮司、禰宜は本当屋家で締める。

一旦は生駒山口神社へ引き上げて再び来られる本当屋のお家。

敬用人にマジリコと呼ばれる当屋中全員が集まって御供搗きを終えたころもう一度再訪される。

本当屋家に積んであったコジュウタは13枚。

古くは昭和32年の吉日。

大数を示す枚数は昭和35年の元旦に新調したコウジブタ(※コジュウタとも)である。

コウジブタを充てる漢字は麹蓋

造り酒屋には麹を寝かせて作る麹つくりに欠かせない道具。

餅屋は搗きたての餅を入れる。

酒造り、餅屋どころか一般家庭にも普及しているコウジブタ。

餅のとり粉を底にばらけて搗きたての餅がくっつかないようにする。

ずいぶん前のことだが、我が家にも何枚かのコウジブタがあったことをふと思いだした。

一斗2升にもなる大量な餅を搗いては、コウジブタに収める。

餅搗きの道具は杵に石臼。

セイロの蒸し器も塀内。

注連縄を張った御供搗きの場に準備した。

一臼目の糯米が蒸しあがった。



立ち昇る湯気ができたと云っているようだ。



餅搗きをする当屋中は本当屋、敬用人が櫟原川で禊ぎをして清めた小石を1個ずつズボンのポケットに忍ばせる。

穢れのない清めの身になって餅を搗く

餅は神さんに供えるものもあれば、餅搗きを終えた当屋中がよばれるアンコロモチもある。

ちなみに餅取りをする量に対して餅米の配分も計算に入れておかねばならない。

今回の糯米は一斗2升。

餅取りの内訳は鏡餅、丸モチ、コモチ、フトコロモチ、アンコロモチなどなど。

分量を決めて研いだ糯米を蒸す。

セイロ用の蒸し布巾は綿のさらし布



網目が粗いのは蒸しあがりにかかる時間を短縮する。

蒸し揚がったら石臼で御供搗き。

先にすべき作業は杵で潰してこねこね。

体重をかけてこねる際は腰に力をこめて。



きちんと潰したらぺったん、ぺったん。

振り下ろす杵の力を借りて餅を搗く。

ぬるま湯に手を浸けた合いの手。

搗くと同時に手を出して餅を反す。

反す際に掴んだ餅を中心に寄せるように。

一気に反す合いの手はさっと除ける。

そのときに杵が・・。

慣れた腰つきの杵遣い。

呼吸を合わせてぺったん、ぺったん。

搗き具合を見計らって搗いた餅をひっくり反す。

裏がえしたところでぺったん、ぺったん。

搗きあがった餅は用意しておいたコウジブタに落として屋内に。

搗いた餅は熱い。

火傷しそうなくらいに熱っちっち。

急いで餅切り機械に投入する。

ハンドル廻して適度なところで刃を下げて餅切り。

コモチの重さは425g。

そうしないとコモチの量がはけない。

多くはならないように計算していた本当屋。

425gずつになるように刃を下げる。



一方、搗き始めに搗いた鏡餅はもっと大きい。

特大の鏡餅に1/4程度の大きさの鏡餅も本当屋が計算された量で作っていく。

その数、本社に供える鏡餅は四つ。

小社に供えるやや大きめの丸餅は22個だった。

搗き手は体力が要る餅搗き。



何人かが交替して搗いていた。

肝心な分の餅を搗き終えたら当屋中が口にするアンコロモチ。



そらぁ、こんなけ餅が伸びるくらいだから美味いぞと笑顔が毀れる。

アンコロモチの餡は市販の餡。

そのままの状態で搗きたての餅に塗してみたが上手くできない。



不揃いになるくらいに難義もしたが、味は抜群に美味かったようだ。

一方、できあがった餅のうち還幸祭の際に本社に供えるフトコロモチは正方形の板で挟んで調える。

一枚の板に4個×4個の16個を並べる。

1個の大きさはコモチでもない。

もっと小さい餅。



指で摘まんだ千切り餅である。

それを正方形の一枚板に並べて、もう一枚で蓋をする。

2枚重ねても薄いものである。



半紙で包んで麻緒で括る。

これをもう一枚作る本当屋の懐に忍ばせるフトコロモチ。

本当屋家で過ごした神さんが生駒山口神社へお戻りになられる際に、その名の通り懐に入れて参拝する。

持ち帰ったフトコロモチはお腹痛が治るというご利益があると伝わる。

一方、敬用人もフトコロモチを忍ばせるが数は本当屋より4っつ少ない12個。

これも同じように板で挟んで半紙包み。

麻緒で括ったフトコロモチは敬用人も2枚。

こうして明日の還幸祭に供える御供搗きを終えた。

次に調えるのは男神さんと女神さんが遷られる御幣の心棒。

御幣作りである。



反物一枚の晒布で幣に巻き付ける。

上部の60cm~70cmを空けて麻緒で括る。

巻き終わったところで挟みで切断して調整する。

宮司と禰宜は作ったキリヌサを均等に分けて半紙にのせる。

それに洗米と塩を落として半紙を捻る。

崩れないように包みこんで、口の部分を麻緒で括る。

これは明日の還幸祭のとき、本殿に御幣を納めるときに破って撒くそうだ。

床の間に調えた男神さん(左)と女神さん(右)が遷られる依り代の御幣を立てる。

両脇に提灯も立ててお供えをする。

お供えも並べる床の間にコモクサ(菰草)で編んだ御座(ござ)を敷き詰めている。

御供をのせるイタゼンは5枚。

中央にお神酒、洗米、塩。盛ったカマス、牛蒡、高野豆腐、人参、林檎も供える。



ローロクに火を灯して始めるイワイコミの神事。

はじめに宮司は手水に清める。

そして本当屋は屋内外すべての灯りを消した。

これより始まる見てはならない神遷しの神事だけに場から離れる。

音をたてずにそろりと屋外に出た。

耳を澄ませて、庭に設えたオハキの榊から御幣に遷る「イワイコミ」と呼ばれる神事に立ち会わせてもらったが、息を殺して音も立てずに、である。

暗闇の中、一本の榊に宿っていた男神さん、女神さんは、それぞれの御幣に宿られる。

神遷しの神事を終えて一息つく。神職も揃ってアンツケモチをよばれた。

遷し神事の間、床の間のある部屋の扉は開放したのだろうか。

手を合わせてお礼を伝える。

この日も本当屋のご厚意で慰労の場を設けられた。

ありがたくも私にも声をかけていただいたが、ここは遠慮、と伝えたが、食事の用意をしているという。

お気持ちはいただいたが、家の事情もあって場を離れようとすれば・・・。

ありがたくもいただいたご馳走は自宅で会食。



逆にお世話になった本当屋のTご夫妻に、この場を借りて御礼申し上げます。

(H29.10.12 EOS40D撮影)
(H29.10.12 SB932SH撮影)
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檪原のオハキツキ・荒神祓い

2019年02月19日 11時17分51秒 | 平群町へ
お家にあがって炊事場を祓ってくださる。

平群町檪原集落の戸数は88戸。

うち、氏子は66戸。

その全戸を巡って荒神祓いをする生駒山口神社の宮司。

朝から巡ってきた宮司はようやく本当屋が住まいする美之谷垣内にたどり着く。

午後の時間帯は何時になるのか。

この日の夜は本当屋家で御供搗きがある。

それまでに済ませたいどころか、本当屋家のお祓いである。

予想する到着時間を見越して美之谷垣内にやってきた。

この日の取材は“奈良の文化遺産を活かした総合地域活性化事業実行委員会”撮影班撮影班の一員ではなく単独行である。

本当屋、撮影班へは予め了解をとった上での単独取材であるが、撮影班に迷惑のかからないようにたち振る舞う。

本当屋に到着する前にお願いした一軒の集落民家。

農家を営むN家。

作業小屋には仕掛り中の農作物がある。



採りたてのアゼマメの選別中だった。

宮司が来られるまでは作業に集中していたが、手を止めてお祓いをしてもらう。

かつての炊事の場にかまど(竃)がある。



ネームプレートを見れば「特許 三和かまど」の標記があった昔懐かしい年代物の竃である。

薪を詰め込んでいる竃は今でも現役のように見えるが・・。

桜井市小夫の秀円寺の土間にあった構造と同じように思える2連式。

秀円寺の竃のネームプレートは「断熱材パーライト特製新案特許三和かまど」だった。

N家の竃は「特許 三和かまど」だけの標記であるが、正確にいえば秀円寺のプレートにある「断熱材パーライト特製新案特許」である。

小夫の秀円寺取材記事で書いたように、断熱材パーライト特製新案特許については昭和10年に新案特許を取得した三和かまどは田原商店製。

田原商店から特許を継承した大分県大分市にある「三和かまど宮崎商会」が受け継いで製造・販売している。

ちなみにN家の竃の焚口に「新案特許」の文字がある。

あるブログに載っていた焚口の鉄蓋は円形。

文字は「金森式焚口」だと書いていた。

時期によっては様々な形態があったのだろう。

さて、N家の荒神祓いは炊事場。

火を扱うコンロである。

かつては竃であったが、現在はガスコンロ。

平成25年11月17日に取材した明日香村越も、ここ櫟原と同様に集落全戸を巡る宮司は火防祓いをしていた。

三宝荒神さんを祭る神棚に向かってお祓い。

次に火を使う場も祓う。

お祓いを済ませた我が家を見てくださいと伝えられてあがったお家のコンロは現代的なIHヒーターであったのが記憶に残る明日香村越だった。



櫟原も同じように火を使う場を祓ってから神棚も祓ってくださった宮司。



授かった新しい「生駒山口神社 家内安全 守護」の護符は神棚に添えた。



宮司を見送られたご夫婦。

我が家にはこんな瓦があるのですと見せてくださった。



瓦は古物でなく新品のような状態である。

その瓦に「東大寺大仏殿」の文字がある。

これはレプリカでなく、試しに作られたもの。

と、いうか巧くできなかった産物だという。

ガラクタではない瓦を関係者から記念にと、もらい受けた除外の瓦は玄関上がり口を居場所に決めたそうだ。

東大寺の瓦も気になるが、先を急ぎたい本当屋家。

なんとか間にあったので、幕越しにオハキの神事を眺める。



オハキを祓ってくださる神官は禰宜さん。

宮司の弟さんである。

直立不動の立ち姿は本当屋のTさん。



祓いを受けた次は宮司による祝詞奏上である。

次に本当屋は小石3個を手水のバケツに入れて一人拝礼をしていた。

神事を終えてから本当屋家の三宝荒神さんを祭る神棚を拝見させていただく。



先ほどのN家と同様に授かった護符は神棚に納めて祭っていた。

竃の神さん、防火の神さんとされる櫟原の荒神祓いは1年に2回行われる。

宵宮の二日前にあたる御供搗きのこの日と12月28日である。

(H29.10.12 EOS40D撮影)
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檪原のオハキツキ・神幸祭

2019年01月19日 10時10分16秒 | 平群町へ
オハキを設えた本当屋たちが向かう先は平群町の檪原に鎮座する生駒山口神社。

神社下を流れる川は檪原川。

神前橋すぐ傍にある御幣岩下辺りの流れに本当屋と敬用人(けいようにん)は祭りの前に身を清める禊ぎの垢離取り(※檪原ではこうりとりと称している)をしていたそうだ。

檪原は平群町の北域にあたる地。

西の山は生駒山系の一山をなす鳴川山がある。

鳴川山から流れる川が鳴川川。

檪原付近に下った川の名は檪原川になる。

檪原の戸数は88戸。うち、氏子は60数戸になる。

氏子圏は向浦(むかいうら)、下庄(しもんじょ)、上垣内、中垣内、美之谷(みのたに)、椿木(つばき)の6垣内。各垣内から選ばれた8人の氏子総代(※向浦に美之谷は2人ずつ、他垣内は1人)が神社の管理、運営を担っている。



平成3年4月、㈱桜楓社より発刊された『生駒谷の祭りと伝承―古典と民俗学厳書― 第二章生駒山口神社の大祭―祭祀の構造と意義―』によれば、滝の宮と称されていた生駒山口神社である。

祭神は2柱。男神の素盞嗚命に、姫宮の櫛稲田姫命を祀るとある。



中央に位置する本殿が2柱を祀るが、江戸期には「牛頭天王社」とも称していたとある。

本殿右に「大神社」と表示した社殿がある。

2基の灯籠に「牛頭天王 天明四年辰(1784)十二月」の刻印があるから牛頭天王社に違いない。

生駒山口神社の年中行事、特に大祭を務める当屋の組織は「座」とも呼ばれ、毎年を輪番で交替する。

当屋の呼称は「座」構成員、全員に対する呼称である。

「座」は当屋の中から1名の本当屋と補佐役を務める1名の敬用人(けいようにん)を選出する。

また、2名以外の当屋たちはマジリコと称して、主に本当屋の手伝いを担う。

現在の「座」は氏子全体を、垣内を拠り所に5組に分け、14~15人程度を一組として構成。

廻りの当番は30年に一度になるそうだ。

「座」の組織の在り方は平成元年に大きく変えた。それまでの「座」は、二座で各10名の構成であった。

二座それぞれに本当屋と敬用人を選んだ。

二座だから、本当屋と敬用人とも2名。

合計で4名となる。

2名の本当屋は区分するために年長者を兄当屋、年少の者を弟当屋と区分していた。

また、本当屋家の身内や親類に不幸があった場合は「ヒが悪い」と云って、務めを翌年に延ばし、敬用人が本当屋の務めを代行するとしている。

なお、不幸ごとが敬用人であった場合は、「座」の話し合いによって代行を決める慣例がある。

ただ、この在り方は昭和42年に一座、10名の体制に縮小、改組されている。

ただ、一年間の忌みを申し合わせで、これもまた変革されて、一親等の場合の忌明けは百カ日、二親等で四十九日、三親等の他、親族関係の場合は特に設けないことにしたそうだ。

本当屋と敬用人が正式に決まる日は3月28日(※現在は28日に近い日曜日)に行われる「当屋渡し」である。

かつては籤を引いて本当屋を決めていたが、現在は年齢順である。



朝8時、幕を張った本当屋家に参集する「座」の人たち。

15人の“当屋“座中たちは、それぞれが風呂敷に包んだ重箱をもってきた。



お重の中に一升米を詰めている。

これより出かける生駒山口神社・社務所に掲げているご神号「天照皇大神」横の内宮(うちみや)に供える参米(さんまい)である。

座敷に参集された“当屋“の人たちに挨拶をされる本当屋。

「今日はお渡り、よろしくお願いします」と挨拶をされて、本日の神幸祭(しんこうさい)における連絡事項を伝えられる。



「これより生駒山口神社に向かいますが、お渡りの前にしておく作業があります。神社拝殿や社務所に幕を張ります。シデを付けた榊を本社殿や鳥居などに括り付けます。鳥居文様の高張提灯や板膳11枚中5枚、お神酒などを運んで所定の位置に・・」。

続いて、本日の役割決めも発表される。

先頭を行く鍬持ちにお神酒、一対の長提灯、高張提灯、旗、幟旗持ちや交通整理をする人も。

「祝詞奏上を終えたら、直ちに神遷しをされた榊を受け取ります。それと同時に供えたお神酒、板膳を下げて、行列を組みます。宮司は見送りに立たれるので、行列よりも先に階段を下りて鳥居横に就きます。また、本日は一連の檪原のオハキツキを記録する“奈良の文化遺産を活かした総合地域活性化事業実行委員会”撮影班に配慮した動きをお願いしたい。また、地域ボランテイアガイドの人たちが神事の妨げをしないよう、また行列の先に行かないよう、後列の人は注意をかけて・・・」と、伝える本当屋のTさん。

私ども撮影隊にも気配りされるお言葉がありがたい。

続けて「神事の際の拝礼も息を合わせて、みなは揃って・・。また、行事の見学ならびに参拝される地域ボランテイアガイドや参加者の歴史ウオークの人たちにも、この行事について私自身が説明し、それから参拝してもらいます」と、本日の進行について細かく気配りされる本当屋である。

生駒山口神社に参拝されて姫君を本当屋がもつ榊に遷す神事は午前10時より始まる。

それまで調えておく作業があるから、集まった本当屋家を出るのはもっと前。

ひと通りの説明を終えた座中の“当屋”一同はネクタイを締めた正装姿。



風呂敷に包んだ参米(さんまい)を手にして集落を下っていった。

鳥居前に着いた座中は一人一人が拝礼。

そして階段を登っていった。

まずは社務所へ参って持参した参米を宮司に渡す。

神社を訪れる座中は行事の都度、参米を持ち寄るのが習わし、だという。



風呂敷ごと預かった宮司は、折敷に移した参米を社務所内に祀る内宮(うちみや)に供える。

上着を脱いで作業をする。

座中は分担して、御幣を付けた榊を本社殿の両柱や鳥居にも括り付けて固定する。



本当屋は東側の位置にある朱塗りの鳥居に榊を立てていた。

本社殿に幕を張ってからは綺麗に掃除をするなど準備を調える。

あらかた準備が調えば本当屋と敬用人は狩衣装束に着替える。

烏帽子を被って足袋を履く。



足元は新しく編んだ草鞋を揃えてしばらく歓談する。

時間ともなれば神幸祭の神事に移る。



社務所前に並んだ座中一行。

宮司に頭を下げた本当屋と敬用人はこれより参進する。



手水鉢で清めて本社殿に向かう3人。

歴史ウオークの人たちは参進に頭を下げて迎える。

境内はざわめきもなく野鳥が囀る音色だけが聞こえてくる。



本当屋と敬用人は本社殿前の拝殿にあがるが、マジリコと呼ばれる当屋中はその下に列を作って並ぶ。

中央は参道。

神さんが通る石畳の参道をあけて並んだ。

修祓に祓詞、献饌、宮司拝礼、祝詞奏上を経て神遷し

姫君こと櫛稲田姫命を本当屋がもつ榊に遷される。



神妙な面持ちで本社殿より出てこられた本当屋に続いて杓を持つ敬用人。

そして宮司、神饌のお神酒抱え、一対の長提灯持ちが階段を下りて来た。



階段下に着くなり、鳥居横に直立した宮司は深く頭を下げて神さんを受け取った本当屋をこの場から見送る。

先頭は本当屋でなく新しく作った鍬である。



先頭をきって道を祓い清める所作をするマジリコは道作り。

シャリシャリと音を立てて、鍬で掃き清める道作りは神さんの通る道を先に祓っていく。



里に聞こえるのはこのシャリシャリ音だけ。

厳かさが伝わる音である。



提灯、提灯、赤の鳥居印がある高張提灯、お供えを載せる板膳、幟旗が続く。

道行きの間は口を開くことさえ許されない神幸祭のお渡りである。



この年は地域ボランテイアガイドが率いる歴史ウオークに参加する一般の人たちがお渡りの行列にぴたりとくっついていた。

行事の見学に、本当屋家に着いてからの一般参賀であるが、神さんが遷される、オハキの神事までは・・・と制止された。



およそ30分もかけてお渡り一行が本当屋家に着いた。

この日の檪原の朝の最低気温は17.2度。

午前10時ころより一挙に上昇した気温は28.4度にも。

お渡りの最中が最も暑かったと思われる暑い日。

撮影班は撮影のポジション確保の都度、立ち止ったとたんに汗が流れ落ちる。

拭う間もなく急な坂道を登ってお渡りに備える。

二日前の6日の最低気温は18.3度だった。

気温はまったく上昇もせずに最高気温は19.4度であった。



室内も室外も寒かった。

身体はそれに慣れていたものだから、強烈に感じる夏日であった。



姫神さんを遷された榊を手にした本当屋は直立姿勢。

オハキの正面にしばらく立って動き出す。

移動する場はオハキの裏側。



大切にもっていたサカキをオハキに立つ鳥居の向こう側に立てる。

オハキを作る際に仕立てた筒にすっと下ろして安置された。



神酒口を開けたお神酒を供える。

次に海、山、里の幸を盛った膳も供える。

その膳には垢離取りのときに清めた小石に漆材を削った箸を添える。

これらの作法に必ずといっていいほど敬用人がついて補助していた。



そして、小石を三つ、手水鉢に沈めて清める。

本当屋は、この日から毎日のオハキにお参りする際に、必ずこの小石で手水を清める作法をする。



姫神さんが遷られたオハキが調ったところで、一同揃って正面に向き、2礼杯、2拍手、1礼。

無事に姫神さんがオハキにお越しいただいた神幸祭はこうして終えた。

緊張感はほぐれることのない神さんが座います社である。

本当屋の許可を得た地域ボランテイアガイドならびに歴史ウオークに参加する一般の人たちが参拝される。



本来的には地区集落の人たちの参拝であるが、地区外の一般の人が参拝できることはたいへんありがたいことである。

参拝する前に本当屋自らがオハキツキの在り方について解説をされることもおそらく初めてではないだろうか。

しかも、禊ぎの垢離取りに清めた歯固め小石も配られて一人一人が手を合わせて拝礼していた。

これまで奈良県内各地で行われている多くの神遷し神事を拝見してきたが、本当屋のこうした心遣いをされるのは私自身が初めてである。

ありがたい配慮に身も引き締まる次第である。

特別に配慮された一般参賀はすべての人が参り終えてから、地区の人たちが参拝である。

座中の“当屋”の人たちも一人一人が神さんに向かって参拝していた。



そのあとに続いても参拝される人たちは本当屋のご親族である。



参拝の順は特に決まっていないが、遠方から駆けつけてくれた本当屋の姉さんや奥さんもきっちり手水をされて参拝されていた。



尤も本当屋のご家族はこれより毎日が参拝である。

姫宮を迎えた毎日は朝7時になれば宮司が参られる。

そのときに参拝されるご家族。

今年は14日に行われる還幸祭・後夜(ごや)送りまでの期間は、家族以外の人たちも参られる。



地区の人たちは、通勤、通学前にお参りをされる。

宮司も毎朝訪れて祝詞を奏上されると伺っている。

神迎えの神事を終えた座中は本当屋家が接待する慰労の場に招かれる。



「みなさんありがとうございました。本日は、ご苦労さまでした。これからの一週間。神さまのおもてなしをさせていただきます」とお礼を述べられて乾杯した。

撮影班の皆さんも慰労の場に着いてください、とありがたくも上らせてもらった。



この日の記録は上手く撮れたかどうか、そのことばかりが気になる記録班。

ノンアルコールのお酒にも酔えず、ひとときの宴も記録していた。

宴もたけなわ。



手拍子で歌う本当屋の江州音頭に聞き惚れる。

手拍子、手拍子に場が盛り上がってお姉さんも歌いだしたのが印象的に残る。

こうして記録したビデオ動画もスチル映像も一連の年中行事を終えてから編集される。

動画もスチル映像のすべてが、檪原および本当屋に記録として報告、伝承される。

(H29.10. 8 EOS40D撮影)
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檪原のオハキツキ・本当屋に教えを乞う

2019年01月05日 09時51分07秒 | 平群町へ
先月の9月25日である。知人の写真家Kさんから電話があった。

電話の内容は10月8日に行われる檪原(いちはら)のオハキ撮影である。

Kさんの都合がつかず、代わりに撮影協力をしていただけないか、というお願い電話だった。

行事のある日は特に決まったスケジュールは入っていない。

行事撮影地はよく存じている平群町檪原。

行事は、毎年の秋に行われる檪原のオハキである。

かつて撮影したことのある檪原のオハキ。

生駒山口神社から祭神をお家に迎える本当屋家を中止に据えて神社行事の一連を記録する撮影であるが、Kさんの代わりに撮影をするのは、神迎えの日である。

神遷しされた榊をもつ本当屋を先頭にお渡りをされる。

これを「オタビ」とも呼ぶ。

迎えた本当屋家は翌日の夜にもう1柱の神さんを迎える。

昼間に迎えた祭神は男神。

夜は女神を迎える。

オタビの日のすべてをスチル写真で撮っていただきたいという依頼である。

撮影は全行程を記録するビデオ収録がメインである。

映像は記録を経て編集される。

記録されたビデオ映像はDVD化される。

それを納めるパッケージにスチル映像が要るというわけだ。

つまりはメインのビデオ収録に補助する形で静止画も遺そうということである。

お役は代役といっても写真家Kさんのクオリテイと同等でなければならない。

平成17年9月25日に撮影したことのあるオハキツキと同年の10月2日に撮ったオタビ撮影はまだ自信はあるが、不安は拭えない。

当時、撮影させていただいた本当屋家の造りは異なる。

オタビの行程ももちろん違う。

居住地が違えば、本当屋家に向かう行程の景観も変わる。

行き当たりばったりで臨むわけにはいかない。

Kさんの依頼に断る理由はないが、当時と違って年齢を重ね、しかも心不全の身だけに体力がもつかどうか懸念する。

なお、オハキとオタビのスチル写真平成17年に撮らせてもらって、著書の『奈良大和路の年中行事』に掲載している。

翌日の9月26日に元請けのビデオ撮影隊の代表から電話をもらった。

記録する民俗行事は奈良県指定無形民俗文化財の「櫟原のオハキツキ」である。

文化庁・文化遺産総合活用推進事業/奈良県教育委員会事務局文化財保存課がプロデユースするビデオ撮りの映像記録に、広報媒体に必要なスチル映像も要ることから、付随撮影にカメラマンも同行するということである。

記録製作事業の正式名称は「奈良の文化遺産を活かした総合地域活性化事業実行委員会」である。

村垣内6組を5組に分けた廻りにあたる今年の本当屋家は美之谷垣内(みのたにかいと)。

神社からのお渡りは坂道を登りきった最奥になるというから、お渡り一行をとらえるには、急ぎ足で駆け登って先に到着しなければならない。

坂道の勾配もあるから相当きつい行程になりそうだ。

この年のオハキツキは10月1日である。

その後の7日の早朝に行われる垢離取りがある。

その撮影が終わってからなら貴方を紹介しましょうと、いうことになった。

私にとっては下見の日でもある。

本当屋家のご挨拶も兼ねて伺った。

この日の早朝に禊ぎのお垢離取りを記録していた代表のMさんと写真家Kさんと落ち合う。

禊ぎの場は大きな御幣を線刻している御幣岩。



大岩の前を流れる檪原川に浸かって垢離取り(※こうりとり)と呼ばれる禊ぎの水行をされる。

禊ぎをするのは本当屋に補佐する敬用人(けいようにん)の二人。

かつては本当屋を兄当屋、敬用人は弟当屋と呼んでいた。

早朝といってもまだ暗がりの時間帯。

人目に触れることなく、密かに行われる禊ぎ姿にカメラを向けるのは憚れるが、記録班はその作法がオハキツキ(御はき築き)と呼ばれる一連の行事であるからには収録はやむを得ない。

かつて禊ぎをしていた場は、檪原川の御幣岩でなく、斑鳩町神南(じんなん)・三室山麓を流れる禊ぎの竜田川にある御幣岩だった。

裸体になって禊ぎをしていた竜田川。

参っていた村の人の話しがそうであった時代は戦前までの在り方のようである。

竜田川の汚れから禊ぎの場を檪原川に移したという。



その際に檪原川の大岩に御幣を線刻したのか、それとも以前から刻まれてあったのか、記録は見当たらないようだ。

裸体の禊ぎはいつしか下着パンツに、3年前からは浄衣の白衣を着るようにした。

かつては本当屋、敬用人だけが禊ぎをしていたが、現在は宮司のお祓いもする形式にしたそうだ。

禊ぎの記録を済ませた記録班とお会いして、これからの段取りを確かめる。

まずは、明日に行われるお渡り行程の確認である。

ビデオカメラはどこで構えてどうとらえるか。

まずは出発地の生駒山口神社である。



生駒山口神社の祭神は2柱。

男神の素盞嗚命に、姫宮の櫛稲田姫命。



遷しましをされた神さんの依り代にある榊を手にする本当屋たち一行を宮司さんが見送る場は落とせない。

鳥居前、檪原川に架かる神前橋を渡って坂道を登っていく。



標高差のある檪原では、この季節も美しく咲く彼岸花の色合いも見逃せないが、一行の姿が映えるちょっとしたタイミングが狙いであるが、その点、ビデオ撮りでは流す撮り方。

とらえ方はまったく違うだろうな。

さらに登っていく村の里道。

車であってもわかる急勾配にカーブ。

一行の姿をとらえる位置はここも狙い。



天候良ければ光る稲穂が美しく浮かぶだろう。

お渡りを想定してシャッターを押す場を決めておく。

下見に稲穂ばかりが目に入っていたが、帰宅してから画像を見たら郵便ポストがあった。

収集する郵便局員さんの姿が頭に浮かぶ。“移動”をテーマに撮っておきたい撮影地でもある。



その地にあった路傍の地蔵石仏は笠石をのせていた。

長年の風雪から耐えてきたものの彫りは薄くなったが、石仏の様相がよくわかる。

そこからも坂道はまだまだ続く。

一行をとらえてシャッターを押す

撮ったばかりの画像を見る間もなく先を急ぐ。

急勾配に心臓が爆発しそうな具合だ。

これ以上、無理はできないと思った所にやや平たんな道にでればほっとする。

足を停止させて、わが身の心拍数を感じ取る。

ぎりぎりいっぱいだった心拍数が落ち着く間もなく道を急ぐ。

とにかく一行の前に立つ。

ゆっくりと登ってこられたらありがたいが、明日のお渡り速度によっては途中で断念することも考えられる。

だが、請け負った以上はやり遂げないと・・わが身の心臓に祈りを込めて、明日はがんばれよと声をかけた。

三叉路からなおも登っていく急な坂道。

その辻に立てた生駒山口神社大祭の幟。



抜きの白字で文字を浮かばせる赤地の幟は沿道の旗印し。

ここもまた、檪原のマツリに相応しいから撮っておきたい場であるが、前に何を置くか、である。

狙うポジションはいずれもビデオ班と一致したのが嬉しい。

明日もまた撮影の呼吸が一致することだろう。

坂道を登りきった地が美之谷(みのたに)垣内。



近くに農小屋があった。

小屋の壁に掛けている農具に小屋内に収めている一輪車やトラクターもあるから、人の姿がなくとも農の営みに説明がつく。

平成17年に取材したことはあるが、今回の本当屋家とは垣内が異なるから情景も違ってくる。

ある程度の情景が頭の中に入ったし、撮り方もまた違ってくるだろう。



だいたいの撮影ポジションがほぼ決まったところで本当屋家に着いた。

ご挨拶をさせていただいて明日からの行事について教えを乞う。

昭和18年生まれのTさんの務める本当屋。

本当屋を補佐し、ミナライを務める敬用人(けいようにん)に、マジリコと呼ばれる手伝い支援を受けて年中行事を務める。

この年の本当屋は美之谷垣内を中心として隣垣内の中垣内の数軒を加えた「座」で営まれる。

本当屋家の中庭に巨大なオハキを建てている。



この年のオハキは、マジリコたちとともに先週、日曜日の10月1日に設えたそうだ。

夏の暑い盛り、である。

祭事のときに使用する御座(ござ)を編むための素材であるコモクサ(菰草)刈りをする。

大量に採取したコモクサは天日に干して乾燥して保管しておいた。

御座(ござ)は宮司が座る一枚の他2枚に仕立てるそうだ。

オハキを作る一週間前はオハキの骨組みにする木材の伐り出しもしていた。

材の種類は、特に決まりはないが、この年は樫、百日紅、桜、椚、椿、漆、楢の7種類を集材したという。

その日は砂揚げ作業もあった。

砂はオハキの内部に詰める川砂である。

土嚢袋に詰めて作業をしやすくする。

川砂だけでなく、重しに手で抱えるほどの大きな石も調整する。

また、オハキ作りの日に到達する大量の竹もあった。

建てたオハキの上に漆で作った鳥居や榊を立てる竹筒もある。

オハキ全体を覆うようにした材は杉の葉。

一本、一本の杉の葉を編んだ竹に差し込んでいる。

杉の葉が緑色の間は神さんが宿っていると話してくれたのは本当屋のTさんだ。

そして、オハキを囲むように四方に注連縄を張る。

四隅に立てた忌み竹に注連縄張り。

オハキに結界を設ける。

注連縄の材はモチワラ。

お祝いに七・五・三のヒゲを端に付けた注連縄である。

結界内に砂利石を敷き詰めて参道を調え、周囲に砂を敷く。

最後にシデを注連縄に挟んで完成したところで宮司による地鎮祭が行われる。

そのときに祓った榊もある。

氏神さんの依り代となるオハキはその形、巨大さから奈良県の無形文化財に指定されている。

オハキの向こうにある植栽は桃色の花を咲かせた百日紅。

大きな樹は真っ赤な実を付けた柘榴である。



縁側下に干してあった草鞋は2足。

本当屋と敬用人が履く草鞋はオハキ作りの日に編んだ。

藁髭は綺麗さっぱり刈り込んで肌がチクチクしないように手入れをしている。

たぶんに束子などで擦っていたのだと思うくらいに綺麗にした草鞋に心遣いがわかる。



もう一つ干していた道具は祝いの年月を記入した手桶。

何に使うのだろうか。

後日にわかった手桶の役目。

本日、暁の時間帯に執り行われた禊ぎの垢離取りに使われた。

禊ぎの水を手桶に汲んでは身にかけて流す。

手水作法を繰り返す手桶であった。

禊ぎの水は身体に浴びるだけでなく、頭から被ることもあるようだ。



網籠に入れた小石は、これから七日間に用いる清めの石。

七日間のオハキ膳に供える石は7個。

清めの水バケツも七日間であるが、一日3個になるから21個。

12日の餅搗きにも石が登場する。

ズボンのポケットに1個の石を入れて餅を搗く。

餅搗きを終えるまでポケットに入れておく。

また、ハガタメ(歯固め)の石としても使う。

人生初のお食い初めのときに、である。

生まれて百日目に宮司に祓っていただくお食い初めに添えるハガタメの石もあれば、産前、産後の女性もハガタメ石。

たくさん要るからとこの年は70数個も寄せたそうだ。

ちなみに70数個のバラス石は垢離取りの際に檪原川に浸けておくそうだ。

と、いうのも檪原川は渓流であるが、小石は見当たらない。

禊ぎ、清めに用いる小石は予め準備しておくのだ。

なお、オハキツキ・神幸祭(しんこうさい)の日からの七日間。

祭神の姫宮を迎えてからの毎日は朝7時になれば宮司が参ってくれるという。

一週間後の還幸祭までの期間は、村の人や一般の人も参ることができる。

オハキツキに纏わる様々なことを教えてくださる本当屋。

行事の記録に大切な必要事項だから、と云って話してくださる。



お渡りに用いられる軸木の御幣は2本。

写真ではわかりにくいが、床の間に安置している御幣は、長い方が素盞嗚命で、短い方が姫宮の櫛稲田姫命であるという。

その御幣は晒し布を巻いておく。

同じく床の間に置いた木桶は一対。

ゴクモチ(御供餅)などを収めて運ぶ御供箱である。

晒し一反の袋に詰めるのはフクロモチ。

一反布を縫い合わせて作ったフクロモチ入れの晒しを広げて、その大きさを見せてくださる。

その横に並べてくれた正方形の板にフトコロモチを並べる。

一枚の板に4個×4個の16個を並べた板は本当屋に。

3個×4個の12個のフトコロモチは敬用人に。

神幸祭の際に本殿に供えるフトコロモチは、すぐに持ち帰って神棚に供える。

腹痛を起こしたときにフトコロモチを食べると治るという。

数十本も積んでいる白木の棒は漆材の皮を剥いで作った箸。

神さんに供える膳に添える箸である。

輪っかに編んだ縄は栗の実を盛る膳。

45組も作るようだ。



本年の3月に行われた「当屋渡し」をもって本当屋家に継がれた道具箱がある。

本当屋と敬用人が着用する衣装や烏帽子に『生駒山口神社御氏神当座規程』と『生駒山口神社当屋名簿』の持ち回り文書である。

(H29.10. 7 EOS40D撮影)
(H29.10. 8 SB932SH撮影)
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福貴畑・S家の先祖さん送り

2018年10月17日 09時15分38秒 | 平群町へ
ツクツクボーシの鳴く声が広がる平群町。

雨は小雨になっているものの、降ったりやんだりのお盆の15日。

シトシト状態になっていた夕方の福貴畑に伺う家は親子3人が住まいするS家である。

初めてお家に伺った日は平成26年の1月7日だった。

氏神さんを祭る杵築神社の座小屋で営まれた正月座取材を終えてからだった。

正月座のしきたり、作法は厳格である。

3個のサトイモに△□の形に形成する蒸しご飯御供もあるが、特筆すべき点は座の料理にある。

砂糖を1kgも入れて作った味噌仕立ての豆腐汁を献する。

お神酒を冷燗、熱燗も献をする三献の儀を拝見してから立ち寄ったS家。

突然の訪問に応対してくださったのはグラフィックデザイナー・イラストレーターを職業とする娘さんだ。

正月座より1年前の平成25年1月8日に行われた勧請縄かけに当家を務めたご両親も再開したこの日。

お茶などをしてくれたが、応対のほとんどを娘さんがしてくれたお礼にご両親をとらえた数枚の写真をさしあげた。

Sさんは、当時「とにかく生きててよかったよ」のタイトルで日々の暮らしを取り上げてブログで公開されていた。

この日の突然の訪問をサブタイトル「タイミング」でアップされた。

描いたイラストはほのぼのほんわか。

温かみ、味わいのあるキャラクターデザインが気にいったと伝えていた。

そのような流れがあったS家との出会い。

尤も福貴畑の村行事は、正月座、勧請縄かけの他にジョウサン池で行われる龍神祭や観音堂で行われる観音祭も取材したことがある。

数年前から藍染めもする彼女は芸術祭「はならぁと」に作品を出展する芸術家でもあるSさんが伝えるブログに「とにかく生きててよかったよ WP版」がある。

そのブログにお盆の送りの記事をアップされた。

これは、と思って、2016はならぁとサテライトぷらす今井町の展示会場に寄せてもらったときに取材をお願いしたのである。

ご両親の了解もとってくださったSさん。

お家を訪れたのは15日の夕刻。

これより先祖さん送りを始められる。



仏壇の前に設えた机に広げる数々の供え物。

椀、皿一つずつに箸を添えている。

アサガラの箸もあるが、一般的な割り箸もある。

どうやら飯とおかずに分けているように思った。

昔はこれよりもっとたくさんのお供えをしていたという。

ざっと拝見して白ご飯に梅干し入りオカイサン、オカラ和え、サツマイモやカボチャの煮もの、シメジに葉物の煮込みに和菓子。

本来は小豆粥にするそうだが、本日は梅干し入りオカイサンにしたそうだ。

ビール、コーヒーの水ものもある。

数は特に決まりもないお供えに、ダンゴ盛りがある。



中央をぺこんと押した凹ましたダンゴは、この日の晩に先祖さんを送るためのダンゴ。

先祖さんに持って帰ってもらうよう沢山作ったえくぼのような形のオクリダンゴ(送り団子)である。

先祖さんを迎える日はムカエダンゴ(迎え団子)を供えるという。

本来は小豆粥らしいが・・。

左側にある三界万霊の礼はお寺さんが水供養をされたものだろう。

お茶は1時間おきに、新しいお茶に入れ替える。



古いお茶は縁側外の軒下に捨てる。

ガキサン(餓鬼)に飲んでもらうための施しである。

ちなみにS家の仏壇内部に掲げた3幅の掛図である。

本尊は中央に配した十一尊仏阿弥陀如来来迎図であろう。

そろそろ送らせてもらいますと伝えられて始まった先祖送り。



まずは燭台の火から線香に移す。

数本の束にして火を移す。

燃える火を手で煽いで消す。

線香は白い煙になった。

母親はその間に三界万霊の礼を取り出して数本のアサガラとともに紙包み。

それを父親に手渡した。

行きますょの合図に3人は揃って家を出る。



父親とともに家を出るSさん。

煙る線香を消さないように持って道路向こうの草木地にでる。

後方についた母親は小型のおりんとおりん棒を抱えて家を出る。

やや早足であれば線香は風を受けて燃え上がる。

その度に手で煽いで消す。

そのようなことをしながら目的地に向かう。

距離はそれほどでもない迎えも同じ場所でしていた神聖な地。

小川が流れる。

その小川は龍神祭をしていたジョウサン池が上流になる。

家々によって迎え、送りの地はそれぞれだ。

迎えるまでに草刈りを澄ませていたという、送りの地に着いたら、まずはアサガラに火を点ける。

ヒグラシが鳴くカナカナカナカナが辺りに流れる夕どき。

降っていた雨も止んだから助かる。

後ろからついてきた母親はおりんを打ち鳴らしていた。

カナカナカナカナに混ざってオリンの音色もこの地に響く。

さっそく始める火点け。

奉書、アサガラを包んでいた紙に火を点ける。



点け道具はマッチだ。草むらは雨に濡れて湿っているから、なかなか火がつかない。

何本か束ねたマッチをこすって火を点けたら燃えだした。

その傍に仏壇の燭台から火を移した線香を立てる。



水供養をした三界万霊の礼にも火を点けて燃やす。

線香の煙にのった先祖さんは空に向かって昇っていった。

こうして先祖さんを送った親子。



母親は、その間ずっとおりんを打ち続けていたのが印象的だった。

先祖さんを送ったあともカナカナカナカナ・・・・の音色が聞こえてくる。

(H29. 8.15 EOS40D撮影)
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久安寺薬師さんのオコナイ

2014年06月15日 08時30分38秒 | 平群町へ
平群町の久安寺は素盞嗚神社の行事を取材したことがあるが、薬師堂で行われるオコナイは始めてだった。

会所で版木刷り作業をされるのは11人のオヤとコ。

オヤは久安寺にある北、久保、南の3垣内それぞれの代表者。

任期は3年間だそうだ。

コも同じく各垣内から選ばれた人たちで2年任期。

ミナライに籠り役と云うイノコリも勤める。

この日は朝から雨が降り続ける日だった。

朝から薬師堂を清掃されて奇麗にしていたと云う。

昔から使っていると云う版木は二枚ある。



一つは「御祈祷寶簡」の文字で、もう一枚は梵字がたくさんあるが、判読不能だ。

その梵字下にあった文字は「火災消除守護」だった。

それぞれ5枚ずつ墨汁を刷毛で塗って半紙に刷っていく。

昔は牛の姿の絵の版木もあったようだと話す。

その版木は20年ほど前に盗難にあった。

村行事に移ったときにはまだあったと云う。

「御祈祷札」は先を割った竹に挟んで苗代に、「火災消除守護札」は三宝さん或いは愛宕さんなど家の火遣いの場に祭ると云う。

平群町は小菊の一大産地。

稲作農家もなく、苗代をしている家はまず無いだろうと話す。

牛の絵札はどこに貼っていたのか、尋ねた結果は牛小屋である。

絵札は小屋の入口の柱に貼っていたと話す。

絵札話しの内容から、昨年9月に聞いた大淀町馬佐の牛滝まつりのかつての様相と同じだと思った。

二枚のお札を薬師堂で祈祷されるのは久安寺の専念寺住職。

融通念仏宗派のお寺である。

薬師堂が建っている場はかつての長生院。



お堂には宝暦四年(1754)に長生院を再建されたと記す棟札が残されていた。

「宝暦甲戌年 和州平群郡久安寺邨 長生院住持□□本住  奉再建房舎一宇天下泰平國家豊樂院内安穏人法紹隆 大工同國同郡法隆寺村辰巳三郎兵衛某」とある。

裏面は「去寶暦三癸酉歳六月三日大雨山崩房舎大破壊□ 今年粗得邨民竹木之助再建之者也 本住記」とある。

棟札が記す宝暦三年の山崩れによって大破した長生院は翌年の四年に法隆寺村に住む大工が建てたとあるのだ。

素盞嗚神社で行われた御湯の湯釜には「牛頭天王宮元文三戌年(1738)八月吉日 和州平群久安寺邑長生院住持本住比丘氏子中」の刻印があった。

湯釜を寄進された十数年後に山崩れに見舞われたということだ。

しかもだ。



薬師堂に残されていたかつての大型鰐口にあった刻印は慶長七年(1602)である。

400年前にはすでに長生院が存在していたのである。



村の歴史は遺物にあった年号で判明した貴重な什物である。

かつては真言宗であった長生院。

専念寺住職が話すに、「真言宗である信貴山朝護孫子寺の僧侶がオコナイをしていたのであろう」と云う。

この日は薬師さんのオコナイ。

雨が降るなかのお勤めになった。

薬師さんの仏画掛軸三幅掲げて御供を供える。

仏画はいずれも同じようである。

版木で刷ったお札はそれぞれ50枚ずつ。

祭壇に奉って祈祷する。



お念仏は融通念仏勤行。

般若心経、菩提回向、三界万霊などを唱えて終えた。

ときおり磬を打つ音も聞こえてくる。

その磬は貞享四年(1687)の作であるらしい。

雨が降るなかのオコナイは堂内に住職がお一人。



村人が座る位置もなく、境内で傘をささざるを得ない。

祈祷された御祈祷寶簡札を苗代に立てる際にはウルシの木に挟んでいたという長老の話しから伺える薬師さんのお勤めはオコナイに違わない。

この日にカンジョウナワを編んで掛けていたのは昔のこと。

今では年末に「やいのやいの」と云いながら五人がしていたそうだ。

この年のカンジョウナワは前年の12月14日だった。

昔からここであったというナワカケの場は素盞嗚神社の鳥居前。

樹木に掛けて伸ばしている。



かつては集落下を流れる川に掛けていたと思われるカンジョウナワには大きい房が三つある。

カンジョウナワを注連縄だと云う人もおられた。

(H26. 1. 8 EOS40D撮影)
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平群町信貴畑の勧請の地

2014年06月13日 07時21分26秒 | 平群町へ
福貴畑に立ち寄る際に通る街道。

昨年の1月4日に取材した平群町信貴畑の勧請縄を拝見した。

正月初めに行われる信貴畑の勧請縄は2カ所ある。

そのうちの一つが勧請の地に掛けた勧請縄である。

今年も4日にされたようだと福貴畑の総代が話していた。

(H26. 1. 7 EOS40D撮影)
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福貴畑の正月座

2014年06月12日 10時06分55秒 | 平群町へ
度々行事取材に訪問してきた平群町の福貴畑。

正月初めに行われると聞いていた正月ノ座がある。

かつて特定家で行われていた(宮)座があった福貴畑。

「膳」の名で呼ばれていた座中家で作った料理を持ってきていた。

昭和の何時か判らない、随分と前のことだと云う。

80戸の集落全員が福貴畑氏子であることから、戦前に解散した「講」家の行事を村行事として継承してきた福貴畑の座行事である。

正月ノ座と秋のマツリの座の二座行事が継承されている。

「座」の営みは、「膳」の在り方が料理屋の仕出しに移ったぐらいでほとんど変わりなく行われている。

この杵築神社の本殿に供えたのは□型に△型を二段に盛ったムシゴハンである。

高杯に載せたムシゴハンの周りにはサトイモ数個を載せた小皿も見られる。

お神酒も供えたのは正月ノ座を摂待する5軒当家だ。

観音堂の神さんや仏さんにも供えた御供の形が気にかかる。



昼ごろに参集された村氏子は白い幕を張った座小屋に上がった。

一人、一人の座には「オデン」と呼ばれる御膳が置かれた。

「オデン」は「ゴゼン」。

充てる漢字が「御膳」。

「御膳」が訛って「オデン」と呼ぶ。

そう呼ぶ地域は当地だけでなく県内事例に多く見られる呼び名である。

「講」家でされていたときはそれぞれの家が作っていた膳であったが、今ではパック詰め料理の「オデン」。

多くの地域でそうしている仕出し料理のパック膳である。

5軒当家のうち3人は下座に座って代表が口上述べる。

「オツユがとおりましたのでいただいてください」で始まった正月ノ座。



摂待役の二人が上座に座る総代や区長に。

椀に注ぐのは豆腐汁。

銅製の湯とうに入っているのが豆腐汁である。



味噌仕立ての豆腐汁は砂糖を1kgも入れたと云う摂待役を勤める当家の婦人たち。

豆腐汁を椀に注ぐのは上座から年齢順に座った順である。

「あんたも食べてみ」と云われてよばれた豆腐汁の味は甘酒のようなあまーい味噌汁である。

初めて体験する食感であるが、驚くほどの美味さであった。

座中は何杯もおかわりもされるので、接待役はあっちこっちへ忙しく注ぎ回る。

タカの爪も配られてしばらくした時間。

2回目の口上が始まった。

「お神酒を飲んでください」と口上を述べて、神さんに供えた冷酒を注ぐ。

乾杯などの儀式は見られなかった正月ノ座である。



お神酒や豆腐汁、オデン料理をいただくこの日は穏やかな気候で暖房機も要らないくらいの座小屋の営み。

談笑される座の3回目の口上は「ゴシュをいただいてください」だ。

「ゴシュ」を充てる漢字はおそらく「御酒」であろう。

ゴシュの酒は熱燗。

これもまた、座中に酒を注ぎ回る。

お神酒の場合は白いお銚子であったが、燗の酒は茶瓶である。

豆腐汁といえば美味しいものだけに、いずれの酒杯に於いても声がかかるおかわりが忙しい。

福貴畑の正月座はこうしてみれば三献の儀であることがわかるだろう。

台詞に若干の違いが見られるが、「ゴシュ」の名もある川西町吐田の北吐田の「荘厳」も三献の儀。

古式ゆかしい儀式を拝見できて感謝申す揚げる次第だ。

時間を見計らった総代が秋の座を営むマツリの5軒当家を伝えた。

正月ノ座とマツリ(かつて村相撲があった)の座を営む5軒当家は別で、平成10年以来にようやく村をひと回りしたそうだ。

こうして1時間ほどの座を終えた人たちは座小屋を降りた。



それから供えた神さんや仏さんの御供を下げる。

四角い高杯に載せた白いご飯。

□型、△型に盛った2段型のムシゴハンである。



□型のムシゴハンは枡型の木枠に詰め込んで作った。

△型は円錐型である。

ブリキ製の枠に詰め込んで作ったが御供に名は無いと云う。

香芝市下田の鹿島神社で行われる結鎮祭礼も二段のカクメシ。

天理市新泉町の素盞嗚神社で行われる野神祭りも二段のオシゴハン。

但し、上部も四角だ。

山添村北野の津越にある薬師堂で行われる八幡さんの京の飯は丸と四角の二段のメシ盛りだ。

形は若干違うものの同じような「キョウノメシ」によく似ている。

一方、一段だけの盛りもある。

スシメシと呼ぶのは川西町下永のキヨウ行事

桜井市の箸中で行われるノグチサン行事も同じで、それをツノメシと呼んでいた。

それはともかく、福貴畑の正月に供えられた二段のムシゴハンの周りに置いた小皿には茹でたサトイモが三つある。

それぞれの高杯に5皿ずつだ。

かつては石臼でアオマメをすり潰したクルミを載せていたと云う。

「それほどキョウノメシを撮っていただいたなら、あんたにもあげよう」と貰って帰ったムシゴハン。

総代が話すには、いろいろ試してみたが、オカイサンが一番美味しかったという。

こんなお土産を貰ったんだと云ってかーさんに見せたキョウノメシ。

しばらくは台処に置いてあった。

それから数日後の12日の晩。

夜食も終わっていた。

「あんたが貰ってきたんだから食べてや」という。

それは翌日の朝食。

千枚漬けをおかずに食べたオカイサンは美味しいのである。

カラカラに乾いていたムシゴハンは丁度よく柔らかい。

ほうじ茶で炊いたオカイサンはもう一杯と思うのであるがよそってもらった椀がでかい。

今度食べるときには野沢菜の漬物が欲しくなった。

(H26. 1. 7 EOS40D撮影)
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久安寺素盞嗚神社のマツリ

2014年03月07日 08時26分57秒 | 平群町へ
前夜に降り出した雨はやまない。

雨水がかかってはせっかくの提灯は傷んでしまうと判断されて仕舞われた。

提灯を立てた杭だけが残された。

本来なら4基の村の提灯が並ぶのだが、雨にあたれば修繕する費用がかかる。

マツリに相応しい提灯掲げは止むを得ない処置だと平群町久安寺の総代が話す。

久安寺に鎮座する素盞嗚神社は信貴フラワーロードを少し西に下った集落の南側にある。

久安寺集落は起伏に富んだ3垣内(北、久保、南)。

それぞれの垣内から選ばれた年当番の人たちがマツリを勤める。

本殿の祭神は素盞嗚命。江戸時代までは牛頭天王社と呼ばれていた。

境内社左は春日神社で、右が八王子社である。

神社に上がる石段を登れば石の鳥居がある。

その傍にある石燈籠には天保六年(1835)の記銘がある。

かつては宮座の行事であったが、現在は村行事となった秋のマツリ。

6月に行われたケツケの植付け休みと同じように御湯が行われる。

前庭に設えた斎場はケツケと同様に四方の忌竹で囲われている。

御湯の前に神事が行われる。

本殿前で龍田大社の神官が祝詞を奏上されて三郷町在住の巫女さんが神楽舞を舞う。

始めに鈴の舞で左手に扇を持つ。

次が剣の舞だ。

拝殿には集まった村人で埋まっている。

入りきらずにいた婦人たちは拝殿下に並ぶ。

遠慮して撮らせていただいた神楽舞やお祓いの鈴。



ケツケ同様に参拝する村人たちに鈴でお祓いをされる。



階段下で列を作っていた婦人たちや子どもらにも「祓いたまえー 清めたまえー」とお祓いをされる。

そうこうして玉串奉奠。数多くの氏子たちが奉げる。



マツリのご馳走は当番の人が作った枝付きのエダマメだ。

籠いっぱいに盛られたエダマメは大量である。

三社に供える神饌は献饌もせずに予め置かれていた。



神事を終えて撮らせてもらった御供は稲穂、鯛、牛蒡、大根、椎茸、枝豆、柿、林檎、蜜柑などである。

氏子のU氏の話しによれば、かつて宮座行事であったときには手で一つ一つ手渡す献饌であったと云う。

秋のマツリのメインも巫女さんが作法をする御湯。

雨が降っている日であっても「御湯の作法をする時間帯はいつも雨が降らないんです」と巫女さんが云っていた通りに止んだ。



斎場を遠巻きにして見守る村人たちの視線を感じながらの作法である。

薪のシバで釜湯を煮立てて、笹で掻き混ぜればもうもうと立ちあがる湯気。



湯気が久安寺の里に降りる神さんなのである。

聞くところによればある村では、火を起こさず魔法瓶の湯を注いでいたらしい。

それでは「村に神さんが降りることはない」と苦言を申されたというやに聞いた風の便り。

柏手を打って、かしこみ申すと神さんに告げる。

最初にキリヌサを撒く。

お神酒を投入して御幣でゆっくりとかき回す。

御幣と鈴を手にして右や左に舞う。

2本の笹を両手にもって湯に浸ける。

もうもうと立ちあがる湯気。



大きな動作でシャバシャバすれば立ちあがる。

東の伊勢神宮の天照皇大明神、南の談山神社の多武峰大権現、西の住吉大社の住吉大明神、北は春日若宮大明神の四柱の神々の名を告げて呼び起こす。

再び笹を湯釜に浸けてシャバシャバする御湯の作法は実にダイナミックである。



何度か行って、東、南、西、北の四方に向かって「この屋敷に送りそうろう 治めそうろう 御なおれ」と告げられた。

御湯に浸けた笹と幣、鈴を持って再び神楽の舞いをする場は本社、末社の二社である。

シャン、シャンと鈴の音がする。

履物を履いて並んでいた村人の前にゆく。

「交通安全、家内安全、水難盗難、身体健勝、祓いたまえ、清めたまえ」。

村人一人ずつ湯笹で祓った。



設えたテント向こうでこの日の支度をしていた婦人たちにもきちっと祓われる。

こういう丁寧なたち振る舞いにいつも感動する。

かつて、巫女さんは村の女性であったとU氏が話す。

女性は三輪で習った作法を久安寺で所作していたと云う。

戦時中のことだと話すUさんは80歳。

隣村の信貴畑も含めた地域の神社の朔日(ついたち)参りにも出仕していた。

参りに行くのは地区小学生の子供たちだった。

そういう地域の参り方の様相は過去のこと。

今では見られなくなったと云う。



御湯が終わって当番の人が作った枝付きのエダマメでお神酒をいただく。

塩をいっぱい振りかけたエダマメの美味しいこと。



テント下では男性たちが、社務所内には子どもたちや婦人たちでぎっしり。

村人といえども有料で販売されるおでん、きつねうどん、ぜんざい、おにぎりにビールで賑わった。



久安寺の村のマツリでいただくほのぼした風情。

よばれたきつねうどんもまた食べたくなったと思った。

(H25.10.19 EOS40D撮影)
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福貴畑の観音祭

2013年12月17日 09時16分05秒 | 平群町へ
杵築神社拝殿横に佇む平群町福貴畑の観音堂。

史料によれば、かつて西庄にあった薬師院の別院であったそうだ。

安置する本尊は平群町の文化財に指定されている聖観音座像。

檜の寄木造で高さは87cmにもなる。

像内部にあった墨書銘は「天文十七年(1548)八月十八日 空阿 宿院仏師源次」であったそうだ。

8月17日は福貴畑の観音さんの日。

観音堂内で行われる観音祭には神社役員に三郷町の巫女さんが参列される。

祭りをされる最中に聞こえてきたセミの声はツクツクボウシ。

大凡、お盆のころに聞こえてくるようだ。

一般的に行われる観音さんの日の営みは、在村の婦人らが勤める西国三十三番のご詠歌であるが、福貴畑では珍しく、巫女さんが導師を勤められる。

狭い堂内には8人も入れば満席になる。

始めに堂内で焚きあげる護摩焚き。

護摩木に火を点けて燃え上がる。

その場で立ちあがって神楽を舞う巫女さん。

県内各地の行事取材でたいへんお世話になっている巫女さんである。

鈴をシャンシャンと鳴らして舞う神楽の次は剣の舞いである。

二つの剣を持って交差するような独特の作法で舞う。

神楽舞を終えれば、鈴と剣を手にして役員たちをお祓いする身体堅固である。

文様などが気になっていた巫女さんの装束。

県内各地に出仕されている巫女さんの装束はそれぞれであることに気がついたからである。

ありがたく、ご享受してくださった白い上着の文様。

「舞衣(呼称はまいぎ若しくはまいぎぬ)」と呼ばれ、赤と緑の文様が特徴である。

舞衣の前に長く垂らした赤と緑を前胸あたりに結んで締めている。

赤と緑の文様は両肘・方袖や背中にもある。

それを「五紋」と呼んでいる。

「赤と緑の色は五色の垂れをつけた鈴から派生したのでは」と、巫女さんが話す。

ちなみに下着は前襦袢で、その上から白衣を身につける。

下半身に着用する袴は緋袴(ひばかま)で、白足袋を履く。

参考であるが、若槻の巫女さんの上着は「若松鶴柄」であるが、小泉の巫女さんの上着は「鶴」が舞う姿を描いた「千早(ちはや)」の舞衣である。

また、法貴寺の女児巫女が着用していたのは「菊柄」であった。

三郷町の巫女さんの舞衣は、独特の文様であったことにあらためて認識させていただいた。

この場を借りて感謝申し上げる次第である。

さて、観音祭の主となる営みは西国三十三番のご詠歌である。

五紋の上着を脱いで着座する巫女さん。

本尊前に立てたローソクに火を灯す。

席に座って本尊に向かいご詠歌を謡う。

巫女さんが鉦を打って、導師を勤められる。



福貴畑のご詠歌は三十三番までではなく、一番から十番で、一挙に短縮されて三十三番で終える。

かつては福貴畑に住む祖父の妹さんが巫女さんを勤めていた。

引退されたことで、先代から引き継いだご詠歌だと話す。

福貴畑の巫女家は途絶えたが、勧請縄掛けの際にお世話になったSさんが云うには300年間も継承していた巫女家系で、年に30回も龍田大社の巫女神楽に出仕していたそうだ。

生前、身につけていた装束は今でも大切に保管していると話すSさん。

母親が勤めていた福貴畑の観音祭は西国ご詠歌ではなく、神楽舞だけであったようだ。

「それでは寂しいからとご詠歌を始めるようになった」と話していたことを思い出す。

(H25. 8.17 EOS40D撮影)
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