マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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月瀬・火伏に感謝する願かけ・茶願すましの一万度

2018年09月28日 10時21分41秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
奈良市月ケ瀬の月瀬に一万度と呼ばれる行事があると記していた『月ヶ瀬村史』。

平成2年11月、月ヶ瀬村史編集室によって纏められ、村が発刊した。

一万度行事を伝える記事はこう書いていた。

「月瀬では、昔二度にわたる製茶場に火災があった。それ以後、茶加工期間中の火難退散の願をたて、茶が終わるころの、八月五日に満願の行事として行われる。神社の境内にサカキを2本立て、その間に注連縄を張り、長さ20cmの竹切子を1万本も用意し、これを参詣人が各人、注連縄の周りを回りながら、タライ(盥)の中に“ケリケリー ワァーイ”といって投げ込む。行事が終わると籠りが行われる」と書いてあった。

村史によれば、旧月ヶ瀬村にもう一カ所。

月瀬の隣村になる桃香野にも一万度行事がある。

現在は5月5日の弁天一万度(※弁天さんの神徳を讃えて、子供も特別に参拝する村行事)だけになったが、かつては6月24日の植付一万度(※植付けの終わりを神前に報告し、豊作を祈願する)と8月24日の盆の一万度(※村中安全・五穀豊穣を祈願する)もしていたとある。

桃香野の一万度は、参詣人一人一人が椿の枝を手にして、手水に浸けて清めた葉を、拝殿に居るオトナ(老名)に渡す。

何枚も何枚も手渡した椿の葉のなかから良品の葉を選び出す。

その椿の葉は一万枚の葉から選ばれた最良の葉。

これを氏神さんに捧げる作法である。

その数は一万という数量であるが、形態が異なる。

桃香野では椿の葉であるが、月瀬では竹を割って作った切子である。

村史に書いてあった“ケリケリー ワァーイ”と囃しながら、その切子をタライ(盥)に投げ入れる。

今でもそうしていると聞いたのは、一週間前の8月1日だった。

下見に立ち寄ったその日にお会いした高齢の女性と男性である。

かつてはオトナ(老名)と若いもんが投げ合っていたが、今では若いもんが来やんようになったので、一万度はオトナだけでしていると話していた。

オトナ(老名)は十二人衆。

月瀬に鎮座する大神(おおが)神社の年中行事を務める座中であるが、宮さんの座に上れるのは十人衆までという。

つまり、長老の一老から順に下った十老までが宮座衆であり、十一老、十二老は見習いにあたる。

注連縄の周りを廻って括った藁を紐解いて竹を盥めがけて投げつける。

会所(かつては参籠所)に待ち構えるオトナ投げた竹の掃き掃除。

休憩を挟んだ2回戦の最後は、筵まで投げ込むという荒っぽい一万度の作法である。

2回戦は先の願掛けが1回戦。

休憩後は願すましの2回戦である。

午前中は竹切子作り。

昼に一旦は家に戻ったオトナたちは浴衣姿で再び集まる。

暑い盛りの午後1時半のころ。

早めに来たオトナはエアコンがある会所で汗をぬぐっていた。

おもむろに立ち上がった一人のオトナ。

会所に据えた太鼓を打つ。



午後2時に打つ一万度の呼び出し太鼓である。

紅白の布があるバチで太鼓の縁を打つ。



カッ、カッの音合わせに、力いっぱい振り翳してドーン、ドーン、ドーン・・・ドン、ドン、ドン、ド、ド、ド・・・。リズミカルな早打ち音が心地いい。

これを何度か繰り返していたらオトナが集まってきた。



会所の縁に座って一同が揃うのを待っていた。

動き出したのは午後2時20分ころ。

縛りのない集合時間だったのか知らないが、各自は午前中に作った竹切子を手にする。

そしてオトナの三人は会所側に就く。

二人は箒をもつ。

もう一人は呼び出し太鼓を打っていたオトナ。

中央に木製の大きなタライ(盥)を置いた。

カッ、カッ、ドーン、ドーン、ドーン・・・ドン、ドン、ドン・・ド、ド、ド・・・を繰り返す一万度始めの音が村中に響いていることだろう。



一人がよっしゃぁーと声をかけて始まった。



竹切子の束を手にしたオトナは一列。

時計回りに注連縄を一周する。



その際、である。



会所に居る三人、ではなくタライ(盥)に向けて竹を放り投げる。

みなは「いやー」とか、「うぉーい」、「そりゃー」とか、「ほぉーい」などを叫びながら竹を放り投げる。

投げては会所の縁においてある竹切子の束を掴んで注連縄を廻る。



投げられた竹はタライ(盥)中に入るものもあるが、大半はその外に、である。

それを一生懸命に箒で掃いて集める。



なんとも可笑しな所作であるが、村史に書いてあった「ケリケリー ワァーイ」でもない。

「いゃー」、「よぉー」、「うぉー」など混ざった掛け声が境内に広がる。



投げるときのオトナの顔。

みんな笑って放り投げている。

一万度はまるで子ども時代に戻ったかのように愉しんでいる。



向こう側に見える建物は新築工事中の社務所。

内部に炊事場もトイレも設備される。

外観はほぼできあがった社務所は伊勢式の建物だと話していた。

投げ入れ役のオトナは7人。

一周する度に投げ入れる。

掃除するもんにとっては忙しい。

掃いても、掃いても投げ入れるから掃除が追っつかない。

投げ入れるときである。

掃除をしていた三人は投げ入れる度に、床をドンと足で蹴っていた。

一万度作法に対して脅しているような作法である。



10分くらいを延々とし続ける一万度。

今では会所になったが、かつては奥に囲炉裏設備のある参籠所だった。

筵を敷いていたそうだ。

外には30~40人もの村人が切子を投げていた。

子供も多かった時代はとても賑やかにしていた。

タライ(盥)にめがけて投げるわけでもなく、オトナに向けてだったそうだ。



10分ほどの休憩を経て2回戦に突入した。

これより始まるのは願すましの一万度である。



作法は1回戦と同様に竹切子を手にして注連縄を廻る。

一周して戻ってきたら会所に据えたタライ(盥)にめがけて投げ込むのだが、拝見していると、どうやら会所の床一面にばらまいているように見える。



「ほぉーい」とか「うぉーい」とか囃して投げる村人役を務めるオトナたち。

投げられる度に床に広がる竹切子。



箒で掃いても、掃いてもばらまかれる。

そのときだ。

突然のごとく反撃が始まった。

ばらまかれた竹切子を手で掻き集めたら、と思えば、それを持って逆にばらまく。

まさに反撃である。

大人げないといえば、大人げないように見えるがこれもまた作法のうちに入るが、映像はとらえ難い。

投げ込もうとする村人は会所にいるオトナが体制を整えて待っている。

お互いの睨み合い。村人が投げた瞬間に、両手で抱えたオトナは切子を村人めがけて投げ返す。

童心に帰ったオトナたち。

子供じみた作法が可笑しくて、ついシャッター押しを忘れてしまう。

笑顔に笑いが絶えない一万度の作法は実にユニークだ。

ただ、よく見ていると投げ返す村人は決まっている。

オトナは年長順に一老から十老。

一万度をしている村人役のオトナは長老たち。

一人だけが小使いさんだった。

投げ返すのもオトナ。

年少のオトナが年長のオトナに投げ返せないから、座中でない小使いさんに反撃せざるを得ないのだった。

そのうち同年代と思われるオトナにも投げ返していたようだが・・。

先にも述べたが、昔は若い村人が投げ役。

子どもたちも投げ役だったから、投げ返していたのでは、と思った。

一万度をしているオトナも、見ている私も笑いぱっなし。

同時に撮っていた動画を見返しているときもつい微笑んでしまう作法である。

勝ち負けは・・・。

そんなことはお構いなく、会所から境内に向けて飛んできた大きな物体。

なんと、筵そのものを投げつけた。

戦いの様相は激しさを増して竹切子から敷いていた筵に転じた。

村人役のオトナ。

投げつけられた筵を畳みかけた。



その瞬間に会所に向けて投げ返した。

投げやすいように折りたたんでいたのだ。

返された会所側のオトナはまたもや投げつける。



拾った村人役はまたもや投げ返す。

竹切子は飛ぶわ、筵も飛ぶわ、で大にぎわい。

いつのまにか2枚の筵が飛んでいた。

いつまでこの作法を続けるのだろうか、と思ったころに片づけ始めた。

垢離をしていた竹切子すべてを作法したと判断して一万度を終えた。

竹切子の束は100本。

それを100束で垢離をするから100掛ける100の一万度という。

一老の母親が生前のころはその本数でしていたそうだ。

時代は徐々に少子高齢化に移った。

正味、そこまで(一万本)しなくともという意見が出て切子の本数を減らした。

本数は少なくなったが、「一万度」という。

つまりは現実の本数でなく、それほど多いということだと話される。

筵は仕舞って、散らばった切子は回収する。

一万度の垢離をした切子は家の守り神にする。

1軒あたり2本の切子を配るという。

月瀬は40戸の集落。

80本の切子は、どこでもいいから供えるもの。

一老のNさんは、昔ながらの形のオクドサン(竃)に供えるという。

黒塗りの竃は長年使ってきた年代物。

機会があれば拝見したいと申し出たのはいうまでもない。

切子は家の守り神であるが、小正月のとんどで燃やすそうだ。

さて、注連縄である。

サカキ、竹の棒を外した注連縄はどうするのか。

会所の端に立てていた長さ4mほどの旧い竹に、である。

それには旧い注連縄を括っている。



旧い注連縄を外して、本日、一万度垢離をした注連縄に入れ替える。

旧い竹は使い廻しをしているようだが、綺麗な状態だ。

長い2本の竹に括った注連縄は会所と境内の境目のところに立てて張る。



立てた注連縄の向こうは神さんがいる神社。

境内の境界地は注連縄を張ることによって結界とする。

ただ、立てるときは、村に不幸ごとがあった場合である。

不幸ごとがなければ立てることはない。

つまりは村に不幸ごとがあるという印し。

穢れのある喪主さんが誤って潜らないように張るという。

こうした作業を終えてオトナたちは会所でよばれる直会に移った。

(H29. 8. 6 EOS40D撮影)
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月瀬・一万度祭具の切子作り

2018年09月24日 09時24分51秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
奈良市月ヶ瀬の行事を調べていた。

立ち寄った日は一週間前の8月1日。

京都府笠置町切山の土用垢離取材の折に時間調整をしてやってきた月ケ瀬である。

嵩は隣村。

行事日程の掲示はなかったが、月瀬にあった。

月瀬の年中行事は十二人衆が務めている。

毎月の朔日は月次祭がある。

8月の行事は多い。

6日が一万度で、28日は午前に風の祈祷があり、午後が稲荷会式である。

風の祈祷行事を拝見したのは5年前の平成24年8月28日だった。

神事を終えてから直会がある。

稲荷会式も終えてから祈祷された札を村の各所に立てる。

その年は神事ならびに札立ての在り方を撮らせてもらった。

さて、その8月にもう一つの行事がある。

掲示されていた行事名は一万度である。

一万度といえば、隣村の桃香野にもあるが、時季は異なる。

桃香野の一万度はお百度参りのような形式だったが、月瀬の一万度はどのような形式でされているのか。

月瀬の一万度の時間帯は午前と午後にあるが、午前は掲示によれば準備作業のようだ。

準備は何を準備されるのか。

敢えて時間帯を掲示しているのは十二人衆のためのものなのだろうか。

とにかく、当日に来なくてはと思って帰ろうとしたときである。

下からセニアカーに乗ってやってくる婦人がいた。

もしかとすればご存じではと思って声をかけたらオトナの人たちが作業をするという。

私は畑に行くけど、どうぞ見に来てくださいと云われた。

興味がわく一万度を想像してみたときである。

下から歩いてこられた男性に尋ねた。

なんでも長さは15cm程度の竹串。

これを2万本も作るというのだから、その数量に驚きだ。

百本くらいに束ねた竹をもった人たちが注連縄周りを廻る。

その際である。

昔から使っている木製のタライに竹を投げ込むという。

初めて聞く作法にこれまた驚き。

しかも、である。

かつては「オトナと若いもんが投げ合っていたが、若いのが来やんようになったのでオトナだけで一万度をしている」という。

そう話してくれたのはオトナの最長老である一老のNさんだった。

昭和3年生まれのNさんは宮守でもある。

オトナは十二人衆。

月瀬に鎮座する大神(おおが)神社の年中行事を務める座中であるが、宮さんの座に上れるのは十人衆までという。

つまり、長老の一老から順に下った十老までが宮座衆であり、十一老、十二老は見習いにあたるのであろう。

一万度に注連縄周りを廻って竹を投げ込むのは2回ある。

大量の竹を投げ込むから、休憩を挟んだ2回戦になるという。

その2回戦の最後に筵まで投げ込むというから荒っぽい一万度の作法である。

6日の取材は是非ともとお願いしたら、待っていると云ってくれた。

ありがたいことである。

午前8時に集まったオトナ(老名)たちは早速作業を始めていた。

境内の一角、「月瀬村生活改善センター」の看板を掲げる会所のすぐ傍にブルーシートを広げていた。

これより2万本の竹切子を作る作業場である。

切り屑が散らばらないようにシートの内側で作業をする。

かつて一万度は8月5日であったが、現在は近い日曜日に移している。

今年は日曜日の前日の5日に自治会役員たちが青竹を伐りとった。

オトナは長老。

力仕事は自治会の若い人たちの担当。

共同作業で行う一万度は自治会行事であるという。

伐採した真竹を境内に運ぶ。



切子にする竹割りはノコギリやナタであるが、15cm程度の長さに切断する電動鋸もある。

これらを用意するのは月当番の“小使い”と呼ばれる二人組がするようだが・・・。

2万本もの竹切子を作る作業は午前中いっぱいかかる。



2万本の内訳がある。

月瀬の一万度は火伏に祈願する願掛けに起こらなかったことに感謝する願すましである。

昔のことである。

製茶場が火事になったことがある。

火事は恐ろしい。

製茶業で暮らす月瀬にとっては製茶場が焼けてはもともこうもない。

火事はいつ起こったのか聞いていないが、それが月瀬の一万度の始まりのようだ。



まずは育てる茶が豊作になるよう願う願掛けに1万本。

願掛けが稔って願満となれば茶願すましをする。

そのときも1万本。

合わせて2万本の竹切子を作って一万度の願掛け、願すましをする。

この日は区長も応援に駆け付けた。

真竹を電動鋸で輪切りする。

切断するのは節目と節目の間の綺麗な竹。

ぽろっと落ちた輪切りの竹をオトナの席に運ぶ。



受け取るオトナは木材を台にしたところに竹を立ててナタで割っていく。

竹片の幅は精密なものでなくざっくりと割る。

手に馴染むくらいの幅にナタで割る。

ブルーシート内にそれぞれが座って作業をする。

ナタを竹の上部に充てながら手でぽんと台に向けて打ちつけたらパカっと割れる。

そうせずにナタで一打ち、見事、真っ二つにする長老もいる。



断面をみればわかるようにおよそ正方形である。

一握り分の竹切子を藁で束ねる。

ざっと数えてみれば20数本。

だいたいであるが21本から24本くらいのようだ。



切子になった竹を集めているのは小使いさん。

十人がそれぞれ切子を作っていくから、作業はとめどなくある。

節目のない竹を割るのは一老以下の十老まで。

その下に就く十一老、十二老は節目があっても構わないという。

要は高齢の人は割りやすい節目のない竹を。

若い衆は力が余っているから節目があっても構わない。

つまりは長老に優しい心配りである。

今ではそうしているが、昔は節目のある竹を長老に渡したらえらく怒らはったと笑って話してくれる。



オトナ入りしてから、長年に亘ってずっと竹を割ってきた一老のNさんは昭和3年生まれ。

御年、90歳であるが、今年も竹を割っていた。

作業をする席順は年齢順。

つまりは上座に一老、二老・・・下座に十一老、十二老である。

およそ120束もの数を揃えた。

一束が21本から24本。

120束であれば最大2880本。



8時から始めて9時半までの期間にそれだけの量を作った。

願すましもあるから2倍も作ると聞いていたが、願掛けに投げた切子は回収して2回目の願すましに再利用するらしい。

今年はこれぐらいの量で終えて午後に行われる一万度の斎場を調える。

作業場に敷いていたブルーシートを片づける。

溜まった竹屑はシートを持ち上げて綺麗にする。

予め結っていた注連縄は両端に2本の竹に括る。

それを伸ばして幣を取り付ける。

窓を開放していた会所の中央辺りに据えて固定する。



境内側の竹にサカキを立てる。

もう一方の会所側の竹にもサカキを立てる。

幣をきちんと整えてできあがり。

これより休憩に移る。

長さを確保した注連縄は一旦外して除けておくが、中心部は動かさない。



休憩のおやつは冷やしたスイカ。

半折りしたブルーシートに座り込んで慰労のスイカをほうばっていた。

(H29. 8. 6 EOS40D撮影)
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桃香野八幡神社の祈年祭

2017年12月23日 09時55分56秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
平成2年11月に旧月ヶ瀬村が発刊した『月ヶ瀬村史』がある。

調査、編集は月ヶ瀬村史編集室。

年中行事の一つに「祈年祭」のことを短文で紹介していた。

「その年の穀物が豊作であるようにと祈願する。2月下旬に各大字の神社で行われるが、この日、厄除けの牛王さん(60cmほどの長さのハゼの木や、松の枝に護符をつけたもの)を各戸に配る。この牛王宝印はモミをまくときに、苗代の水戸口へ立てて苗の育成を祈る」とあった。

祈年祭(としごいのまつり)であれば神社行事である。

その神社行事に寺院行事のオコナイに用いられる牛王宝印の護符や、ハゼの木があると書いてある。

かつては寺院と神社で行われていた神仏習合のオコナイ行事が月ケ瀬村にあったということである。

現在はどのような形式でされているのか、一度は調べてみたい月ヶ瀬村の行事調査である。

気になっていたのは大字桃香野である。

平成28年の5月5日に行われた枡型弁天一万度祭行事の際に見たハゼノキ(ハゼウルシ)に挟んだ神符である。

牛王宝印であれば寺院名が記されて、「宝印」の文字があるはずだが、「八幡大神守護」であった。

しかも、寺院であれば朱印の牛王宝印であるが、これもまた神社の「八幡神社之印」角印である。

ハゼノキ(ハゼウルシ)に挟んでいることからかつては寺院行事であったが、寺院は廃れ、やがて神社で継ぐことになったと想定できる祭具である。

この日に話してくれた長老は、この神符を「ごーさん」と呼んでいただけに間違いないと確信していた。

ただ、神社社務所に掲示している年中行事のうち、現在は数行事をしなくなった行事もあると聞いている。

日程も代わっているとも思われるので、氏子のEさんに日時を確認してもらってから出かけた。

神社社務所掲示写真は平成28年5月5日に訪れたときに撮っておいたものだ。



着いた時間帯は午後12時半。

数人の人たちは雨のかからない参籠所の回廊で作業をはじめていた。



雨天決行の祈年祭に奉られる「ナガイキ」作りに“ウマ”は必要な道具である。

正月に伐っておいた竹がある。

伐りたてであれば青竹であるが、2カ月半も経過すれば青みが抜けた風合いがあるややく枯れかけたような竹になる。

その竹を平たく割って作ったヘラ状の板棒。



それが皮剥ぎの削り道具である。

長い棒のような木材は一般的にはハゼウルシの名で呼ばれるハゼノキ。

長さは5m以上もありそうな長い木。

作業していた人も長老の老名(オトナ)の人たちもその木を「ナガイキ」と呼んでいた。

幹部分の径は6cmぐらいの「ナガイキ」はその名の通りの長い木である。

「ナガイキ」に漢字を充てたら「長生き」。

長老らオトナ(老名)が「長生きしてね」という願いを込めた「ナガイキ」であると話していた。



ハゼノキの木の皮を竹で剥ぐのはトーヤさんに手伝いさん。

力の要る作業は若衆である。

経験者は、こうして削るのだと若衆に教えていくのだが、ずっと続けておれば疲労困憊。

腕に疲労が溜まる。

腰に力も要るからたいへんな作業に5、6人が交替しならが進めていた。

皮剥ぎ作業が終われば、次は神符を挟む部分にナタを入れる。



ストンと切り落とした面にナタの刃を当てて木槌代わりの切断した短いハゼノキで叩く。

まずは水平に一本。

上手く切り込みをしないと斜めになって折れてしまうから、慎重さが求められるのであろう。

ナタの当て具合も年季が要る。

使い慣れたナタの歯の裏側を叩く力も要る。

ある程度の長さに伐り込んだら、もう一カ所。

水平切り込みに対して直角に当てる。



その切り込みはT字型。

数々ある県内事例のオコナイに作られるごー杖と同じ切り込みである。

稀に三方に広げる三角形の切り込み口も見られるが、このT字型が基本形と考えられる。

ナタを強く叩く度にパキパキと音が弾ける。



折れやしないかと、ついつい心配してしまう。

写真でもわかるようにある程度の切り込みができたら、ナタに切り替えたヘラ状の竹を挟んでいる。

ここまでくればほぼ完成である。

竹の楔はそのままにして、用意しておいた神符の「八幡大神守護」を挟む。



これもまたよく見ていただきたい。

むやみに挟むのではなく、挟み方に決まりがある。

長老らが「ごーさん」と呼んでいた神符はまず半分折り。

綺麗に折るのではなく、丸めるような感じのまま切り目に沿って入れていく。

丸めた部分はT字型の「-」の部分。

神符が重なった部分は「|」にそっと挿入する。

楔があるから空間は広いから入れやすい。

こうして挟んだ「ごーさん」は外れることはない。

「-」と「|」できっちり挟まれたから滑って落ちることはない。



ごーさん挟みを済ませたできたての「ナガイキ」はトーヤさんとオトナ(老名)が運ぶ。

如何に長いかよくわかるであろう。

京都銀行のテレビコマーシャルではないが、とにかく、ながーーーい、木である。



二人がかりで担いだ「ナガイキ」は神社拝殿から納める。

一方、短めのハゼノキ(ハゼウルシ)もある。

到着したときにはすでに作業を終えて、参籠所のテーブルの上に置いていた。

長さ40cmぐらいの皮付きハゼノキである。

版木で刷っていた神符を挟んでいた。

挟む箇所だけは皮を剥いでいる。

本数は20数本もある。

これもまた、「ごーさん」であるが、これは長老のオトナ(老名)が作る。



作り終えてストーブを囲んでいた。

この日は雨の日。

屋外は冷たい雨が降っていたから外に出ることはなかっただろう。

「ナガイキ」を納めたらようやく始まる祈年祭。



拝殿前で手水をする斎主を務める尾山の岡本和生宮司と3人の村神主は先に登って「ナガイキ」をセッテイングする。

なんせ、ながーーーい木であるだけに拝殿に横たえることもできないし、縦位置にするのも難しい。



しかも、「ナガイキ」は幹部分を本社殿側に半回転して納めなければならない。

本社殿を外側から拝見すればなんとか納まったが、突き抜けているようだ。



オトナ(老名)たちが作ったハゼノキ挟みのごーさんも本社殿に奉る。



祈年祭の祭具が揃ったところで、普段着に簡略羽織姿のオトナ(老名)たちが参進する。



この日は雨天のため、雨に当たらないように、仕方なく社務所前を参進する。

神饌は一段高い場に供えている。

神さんに尤も近い位置になるのだろう。

神事始まりの合図に太鼓を打った。

修祓は村神主が務める。



祓の儀、宮司一拝、開扉、献饌を済ませてから一同が唱える大祓詞。

ここ月ケ瀬の各大字ではみな同じように大祓詞を唱えているようだ。



そして、一段高い斎場に座られた宮司が奏上する祝詞。

玉串奉奠、撤饌、閉扉、宮司一拝で終えた。

神事が終われば奉った「ナガイキ」もハゼノキ挟みのごーさんも下げる。



ハゼノキ挟みのごーさんは平成28年の5月5日に拝見した社務所の年中行事板書の下に置いた。



村で営む農家さんがたくさんあった時代は100本も作っていたハゼノキ挟みのごーさん。

いつしか徐々に減少した農家さんの戸数。

今では田んぼを作っているお家は2、3人しかいないという。

かつては苗代に立てていたごーさんも今では畑に挿す。

八朔に祭っているという村神主もおれば、玄関に挿すという人もいる。

そのようなことであるが、今年も20数本を作った。

社務所の外に置いていけば必要な人がもらいにくるということだ。

一方の「ナガイキ」である。

これは特別なもの。

この「ナガイキ」は昔からオトナ(老名)の長老がもらうことになっている。

前述したように、村の長老であるオトナ(老名)の長生きを願うとともに魔除けの意味もある「ナガイキ」である。

長生き祈祷した「ナガイキ」を家に持ち帰ってもらうのは、最年長のオトナの一老さんの息子さん。



拝殿から受け渡される「ナガイキ」を受け取った息子さんは肩に担げて運んだ。



これまでの「ナガイキ」は5本も6本もあって、それを持ち帰っていた。

これらは二老や三老に譲っていたが、今は一老だけの1本になった。

この「ナガイキ」は門屋或いは玄関に掲げておけば、屋根を遙かに越してしまうだろう。

息子さんに聞いた話によれば、お家の長い縁側の桁に祭っておくそうだ。

なるほどと思った次第である。

息子さんがこうして持ち帰って運ぶのもしきたりになるらしい桃香野の祈年祭は神社行事であるが、かつては神宮寺と思われる真言宗御室派の善法寺が関係するオコナイ行事であった可能性も捨てきれない。

これまで、数々の県内事例を拝見してきたが、これほど長―――い木(ごーさん)に驚くばかり。

桃香野のごーさんは他地域には見られない特徴があった。



そして直会。

いつものように湯とうで注ぐお神酒をいただいて乾杯する。



お酒の肴は昆布に豆である。

(H28. 5. 5 EOS40D撮影)
(H29. 2.17 EOS40D撮影)
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月ヶ瀬嵩八柱神社秋の大祭

2017年06月24日 08時52分55秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
平成2年11月に月ヶ瀬村(現奈良市月ヶ瀬)が発刊した『月ヶ瀬村史』がある。

村史によれば嵩の八柱神社の例祭は10月27日(平成11年から第三日曜)だった。

「例祭の当屋は家並み順。かつては子どもが当屋であって大まつり、小まつりの名称で呼ばれていた。大きい子どものうちから一人。小さい子どものうちからも一人。座衆、非衆の区別があった・・・。秋茄子が一番のご馳走というほど質素な料理。村中の人たちが寄ってきて、野菜のご馳走を食べて謡いをする。その場でお箱渡しが行われる。昔は宵宮の晩に当屋の家に集まってカシの木で作った千本杵と木臼で餅を搗いた。当屋の家では寿司や刺身、松茸などのご馳走を作り村各戸に配った。謡いの式には三角に切った焼豆腐とコンニャク、ジャコがある。昭和十二年、戦争の影響で招待者は遠慮、節約体制となり、以降は寂しくなった」と書いてあった。

オトナ(老名)は四人。

長老は神主と呼ばれ祭事を務めた。

前日の宵宮で話してくださった嵩の行事。

本日の八柱神社の大祭に生きた鯉を供えていた。

生きているから暴れる場合もある。

それを防ぐには鯉の目に蓋をする。

蓋といっても紙片である。

神事が終われば近くにあるため池に放して放生会をした。

今年からは鯛になったが、放生の鯉は酸素を詰めた袋に入れて斎主がもらって帰る。

隣村の月瀬では一老がもらって帰ったというから、かつての嵩もそうであった可能性が高い。

ただ、年代は不明だが『祭り帳』に「はつの魚」の記載もある。

マグロを「はつ」と呼んでいたのは山添村の大字春日。

マツリに登場するでっかいマグロは刺身用。

嵩でも同じようにマグロの刺身を出す時代もあったようだ。

昔の御供はもうひとつの特徴があった。

それは山に生息してキジである。

捕ってきたキジを供えて持ち帰るのも斎主。

いつしかキジでなく山鳥代わりの生玉子である。



昭和3年の初期のころの『祭り帳』に記載されていた山ノ鳥や川魚のことである。

宮総代らがいうには昭和44年から49年までは生玉子。

50年からは玉子5個に定まった。

また、大祭に三角に切ったコンニャクに同じく三角に切った柔らかい豆腐を挟む料理がある。

『祭り帳』によればその料理を「サンド」と書いてあった。

つまりはパンのように挟むことからサンドイッチ。



さらには「三角三度」に移っていた。

『祭り帳』に書かれていた当時の記帳内容を把握しながらの取材である。



本当家と相当家の2軒の家族が調理する座の料理。

奇麗に皮を剥いた茄子が山盛り。



その向こうには三角に整えた味付けコンニャクがある。

茄子は蒸し器で蒸す。

やや小さくなった蒸し茄子は大皿に盛る。



盛り方は放射状に広げるような感じだ。

柔らかくなった蒸し茄子は手を添えながら並べる。



ほうれん草は大鍋で茹でた。

これはクルミイモである。



クルミは青豆をすり潰したもの。

どろどろになったクルミはとろとろに茹でた里芋に覆うようにかける。

クルミの潰し方は若干の粒状を残す。

こうしておけば歯触りが良い。

かつて数か所のよばれたことのあるイノコのクルミモチもそうだった。

あのときの食感は忘れられない魅力がある。

三角サンドの呼び名がある三角切のコンニャクと豆腐。

厚めの豆腐を横スライスに切って三角切り。

手に乗せて切るのが難しそうだった。

挟んだこの形を拝見して思い出したのが山添村の大字春日のオトナ祭り(若宮祭)の座に出てくる料理である。

豆腐の焼きがあるか、ないかの違いはあるが、形状はまったく同じである。

三角切りの豆腐・蒟蒻の名前を漁ってみたが、大字春日の資料には固有名詞の記載がなかった。

どちらが先にあったのかわからないが、何らかの関係性があったことに違いない。

大祭神事が始まる時間帯は午後2時。

神前に数々の神饌御供を先に並べた。



お重に詰めた青豆はハジキ豆。

もう一つのお重はクルミイモ。

お櫃の御飯はキヨ(『祭り帳』に“きよう”とある)の白蒸し飯。

生玉子五つは両当家の奉った御幣の陰に隠れた。

他に鏡餅や鯉から替わった鯛や鯖に開きの魚のサイラ干し、祝い昆布、寿司海苔。葉付きの大根、蕪、人参もある。

宵宮同様に拝殿に登るのは神職に4人のオトナ(老名)と3人の宮総代である。



参集された氏子たちは見守るかのように外で参列する。

大祓詞の唱和。

そして、祝詞奏上。

厳かに行われる神事に聞こえる祝詞。

野鳥が囀る声が境内に広がる荘厳な場に佇んでいると異空間に入り込んだかのような錯覚を覚える。

次に始まるのは両当家が奉げた御幣を受ける奉鎮祭。

まずは本社殿に向かって正座する。



頭を下げて2礼、2拍手、1礼。

本当家、相当家とも同じ作法をして拝殿に戻る。



そこで受け取る当家の御幣。

儀式を終えて場を移動する。

そういえば先に拝見していた『祭り帳』に記載していた春日神社や薬師寺などの御供はどこにあったのであろうか。

嵩の神饌御供は先に調えて供えている。

ここにあると聞いて下げる前に撮らせてもらった薬師寺の神饌御供。



本社殿の御供と同じようにお重に詰めたハジキ豆にクルミイモ。

本社殿の鏡餅は五合であったが薬師寺は二合の重ね餅。

その前にある小皿盛りがキヨの飯。

一合升で詰めた作ったキヨの飯は四角い形であった。

本尊は格子扉の奥に安置されている。

落ち着いて拝見する間もなかったが、掲げてあった絵馬に目が留まる。

文政十一年(1828)七月吉日に寄進奉納された絵馬がある。



退治した赤鬼、青鬼に向かって諭しているかのように見える武者の絵馬。

お伴の者を描いていないから桃太郎ではないだろう。

で、あれば大江山の鬼退治した渡邊綱なのか。

大江山を描いた絵馬は群衆絵が主。

このような優しく鬼を諭す絵馬はあまりない、と思うのだ。

いずれであっても、絵馬に願主尾山とあるから大字尾山の人が寄進したことには違いない。

ちなみに春日神社は本社右横にあるヤカタであった。



これより始まるのは「座」である。

上座に座るのは神職と一老に区長である。

両脇の席についたのはオトナ(老名)、宮総代、氏子である。

下座につくのが本当家、相当家。

そういった席の前に並べた嵩のごっつぉはお櫃に盛ったキヨ(『祭り帳』に“きよう”とある)の白蒸し飯。

お重詰めのハジキ豆。



同じくお重詰めのクルミイモ。

里芋、大根、人参、竹輪、椎茸を煮込んだ煮しめ料理。

酢ゴボウ。

輪切りイカのたいたん。



三角切りの味付けコンニャク。

胡麻を振りかけた茹でほうれん草は醤油の味付け。



ダイビキの名がある辛子漬けの蒸し茄子にコンニャクと豆腐を挟んだ三角サンドである。

座始まりの指示は斎主の大字尾山の岡本和生宮司が行う。



まずは下座についた両当家が座の始まりの挨拶をする。

そして、下げたお神酒を座中に注いで酒を飲む。



注ぎ回った両当家も酒をついでもらって一同揃って一杯をいただく。



すぐさま動いた両当家は上座から酒を注ぎまわる。

酒を待てない氏子たちは交互に酒を注ぎ合う。

ひと通り酒を注ぎ終えたら今度はお櫃をもって上座に向かう。



小皿に盛ってまわるキヨの飯である。

次に配るのはお重詰めのクルミイモ。



席に回されたクルミイモはそれぞれが一つずつ箸で摘まんで手元の小皿に乗せる。

イモはそれぞれが廻していくが最終的には下座の両当家席の前において留め置き。

次に廻すのは煮しめ料理。

その次は輪切りイカ。

そして、酢ゴボウ、三角切りのコンニャク。

茹でほうれん草も順番に廻す。



廻す都度に中央に置いたご馳走料理を移動する。

一つ、一つの盛りを順次繰り上げるように移動するのである。

ただし、である。



大皿盛りの辛子漬けの蒸し茄子とコンニャクと豆腐を挟んだ三角サンドのお重は廻さない。

後ほど行われる謡いを終えてからである。

そのときに登場する“膳”は松葉と白い菊の花を立てた2/3切り大根である。



大根はやや長目のようだ。

その膳には高く盛ったジャコに盃がある。

この“膳”は2杯ある。

座が始まってから1時間経ってのころだ。

この“膳”を上座の斎主と一老席の前に置く。

謡いの歌詞を見てどの曲を先に謡うのか。

オトナとも相談して決めた初めの曲は四海波。

そして始まる謡いの儀式である。



まずは塗りの盃に酒を注ぐ。

盃は“膳”にある塗り盃である。

酒は熱燗のようだ。

酒を注いだ塗り盃を手前に差し出すような位置で止める。



それから謡う四海波。

「四海波 静かにて・・」の節を謡う斎主。

それに合わせて次の節の「國も収まる時つ風・・・」からは一同も揃って朗々と謡う。



最後の節の「・・君の恵みはありがたや」を謡い終わって盃の酒を一気に飲み干す。

飲んだ盃を“膳”に戻してジャコを摘まむ。

摘まんだジャコをいただく間に次の盃は右手の次の席者に。

左手も次の席者に“膳”を移動する。

盃を手にして酒を注いでもらう。

次の歌い手は下座に座った若い人。

謡う曲は高砂だ。

「ところは高砂の・・・」と謡えば、一同が揃って「尾の上の松も・・・」と謡う。

だいたいが1曲2分間の儀式は上座から数えて何人かが酒をいただいた。

廻し飲みの酒に膳が運ばれるが、なんとなく山添村の大字春日のオトナ祭り(若宮祭)の座に出てくる、

いわゆる“見せ膳”によく似ているように思えるが、どうも違う。

祝いの膳、それとも“謡い膳”と呼ぶのが相応しいのかもしれない。

そう判断してこれ以降の文は“謡い膳”とさせていただく。



一区切りがついたのか、先ほど謡いをしていた二人の若い人が上座に動いた。

持ったのはコンニャクと豆腐を挟んだ三角サンドのお重だ。

当家でもない若い人は手伝いのドウゲ(堂下)のように思えたが聞きそびれた。

順番に三角サンドを配った二人は下座に戻る。

そうすると両当家が“謡い膳”を二人の前に差し出す。

これまでと同じように注いでもらった盃の酒をいただいてジャコを食べる。

ジャコは廻し飲みに食べる肴である。

席についた両当家がようやく口にする煮しめ料理。

三角サンドも食べるが、座の接待に廻らなければならない。

ゆっくり落ち着いて食べる間もなく席を離れて上座に向かう両当家。

上座の席に運ぶのは大皿に盛った辛子漬けの蒸し茄子である。



大皿の中央にあるのは辛子醤油漬け。

箸で摘まんだ茄子を椀の辛子に漬けて小皿に移す。

一人、一本の蒸し茄子はナスビそのものの味だが、辛子醤油をふんだんに漬けることによって乙な味に変貌する。

『祭り帳』に記しているのは材料だけであって、味付けというか今で云う作り方レシピは書かれることがない。

村行事において味覚も受け継いでくるのは難しいことだと思うのである。

座中のとり計らいで座料理を味わう特別な料理の美味しさが口中に広がった。

三角サンドには味付けはない。

コンニャクは蒟蒻の味であるし、豆腐は豆腐味。

どちらかといえば豆腐そのものの味がする。



なお、この辛子茄子のことを「ダイビキ」と呼んでいたのが気にかかる。

これまで取材した地域。

山添村の松尾のトウヤ(当家)家が渡り衆をもてなす接待宴があった。

その在り方に「大魚の鯛を大皿に盛った器を掲げて宴の真ん中を歩く親戚筋。皿を持って左右にゆらりゆらりと振るように前に出る。要人たちは手を叩いて謡いをする」と書いた。

もしかとすれば、であるが、嵩のもてなし料理の辛子茄子は大皿盛り。

それを縁者が頭辺りにもって宴座で披露していたのかもしれない。

そう思ったのであるが・・・。

かつては大皿に盛った松茸もあったそうだ。

「松茸は上等の味やった。旨いもんは美味い。美味い松茸やけど、辛子醤油もサイコーやっ」とほうばって食べていた宴に謡いは続く。

一方、「料理だけじゃなく、ちょっと違うものももってきてくれんか」という声も出る。

お酒も随分飲んで酔いも謡いに発揮さるように聞こえる。

「これ、もう、謡いに廻してくれ」と云って指図したのが辛子醤油漬けの蒸し茄子であった。

そのときに発せられた言葉が「ダイビキ」を廻してくれであった。

実はと云ったのが辛子醤油漬けの蒸し茄子の味付け。

昔はどうやら素の味の蒸し茄子だったようだ。

宴もたけなわの時間帯に両当家が動き出した。

かつては当家家がもてなしの接待場。

現在は八柱神社下にある嵩のセンターに場を移した。

センターは会所でもあるが、玄関には提灯を吊るしていた。



その提灯を降ろして屋内に運ぶ。

提灯だけでなく「嵩八柱神社 祭用道具当家」の表示がある箱がある。

それらは次の当家に引き継がれる。

これより始まる当家渡しの儀式で受け継がれる道具は献立文書の『祭り帳』や提灯である。

道具は受け渡しする儀式そのものに作法もなく座敷に置いたままである。

作法は次の両当家と向かい合う下座で行われる。



下座の内側に座ったのが受け継ぐ両当家。

盃を手にして渡す当家が注ぐ。

盃は“謡い膳”にある塗りの盃である。

実はこの盃は武蔵野盃。

本来は大中小の五枚盃。

一番上にあった一番小さい盃であるが、かつては大盃で飲んでいた。

ところが、のん兵衛は少なくなり、やがて小盃になったという。



なみなみと盃に注いだ酒は口を三度つけて飲み干す。

そして、ジャコを摘まんで食べる。

そうして始まった謡いの曲は竹生島。

「緑樹かげしんで・・・」と謡えば一同揃って「魚木にのぼるけしきあり・・・」を謡う。

謡い終えるまでの受け当家は盃をもったままに静止する。

謡いが終われば盃の酒を一気に飲み干した。

ジャコを食べたら今度は継ぐ当家に移る。



盃を手にしたら受け当家が酒を注いで、口を三度つけて飲み干す。

ジャコも同じようにいただく。

そして、謡いが始まった。

竹生島の二番を続けて謡う。



「名所多き数々に・・」に続いて一同が謡う「浦山かけてながむれば・・・」である。

それもまた一曲終わって酒を飲む。

これを「ナガレ(お流れ)」と云って当家渡しは三献の儀で〆た。

こうした一連の儀式が終われば受け当家は再び“謡い膳”を抱えて上座に運んで順番に酒を注ぎ回る。

このときの盃も朱塗りの盃。

一同はこうして酒を飲み交わし、“契り”を交わした座を終えた。



数曲の謡いをしていたオトナ(老名)の一人は「ザザンダ(ザ)ー」と、云った。相当家を務めたⅠさんも、そういえば昔は・・・という。

総代の話しによればかつては〆のナガレに謡うのは「浜松の音はざざんざの高砂のキリ」だったそうだ。

嵩での詞章はわからないが、山添村春日で謡う高砂のキリの謡いに「千秋楽は民をなで 万才楽には命をのぶ 相生のまつ風さつさつの声ぞたの しむささつさつの声ぞ楽しむ 祭典お開き・・・謡  ざざんざ 浜松の音はざざんざ」であったことを付記しておく。

(H28.10.23 EOS40D撮影)
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桃香野八幡神社の御供

2017年06月22日 09時07分27秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
この日の取材メインは奈良市月ヶ瀬の嵩の行事である。

それが始まるまでの時間帯に訪れた地域は嵩よりすぐ近くの桃香野である。

桃香野の八幡神社の祭礼は平成15年の11月23日に取材したことがある。

かれこれ14年前のことである。

下見もせずに訪れた地の状況もわからず、お渡りに出発される当家の場を求めて歩いていた。

急な坂道にこれから当家の家に集まろうとしていた紺色素襖着用烏帽子衆に遭遇したことを覚えている。

お家はあそこだと云われて急行した。

しばらくすればお渡りが始まった。

行列の中でひと際目立った御供担ぎ。

先頭は紅葉を差したイモガシラ(芋頭)。

その次は白餅を差して放射状に仕立てたハナモチ。

その次は餅ではなく平たく切ったイモガシラ(芋頭)だった。

お稚児さんに出会った烏帽子衆に神輿がついていく。

撮った写真の映像は今でも鮮明に覚えているが渡り並びに祭礼の行程はあやふやだ。

2年前のことだ。

撮った風景写真をFBで紹介している写真家がとらえた茶摘み景観を拝見していた。

その画像に映っている男性のお顔ははっきりと覚えている。

FBをされていると知って当時の祭礼写真を送らせてもらったら喜んでいただいた。

男性はそのときの祭礼当家だったことをあらためて知ったのである。

男性はまた、氏神祭礼に奉納する芸能能狂言保存会の一員でもあった。

また、桃香野には写真家のKさんもおられる。

例祭前日は当家御供の調製や能狂言舞台の設営作業もある。

例祭渡御は午前11時半ころ。

それまでの時間帯であれば調整された御供を拝見できると思って出かけた。

平成15年の氏神祭礼は11月23日だった。

平成2年11月に月ヶ瀬村(現奈良市月ヶ瀬)が発刊した『月ヶ瀬村史』に記載されている祭りの日は10月20日である。

それが11月に移った。

取材日以降の数年後に10月になったと聞いている。

いつしか10月半ばに移った。

移ってからは固定日でもなくなった変則日。

その後は10月20日に近い日曜日に移ったことは風の便りに聞いていたが、もしかとすれば前週であるかもと思って出かけたが、やはりであった。

掲示してあったポスターにタイムスケジュールが書いてあった。

前日は午後3時から子供餅つき。

本日は朝10時半から出発する子供神輿の巡行。

神事が行われる直前、お渡り衆に続いてやってくる。

午後0時半からはバザーである。

バザーに無料のおでん振る舞いもあればフランクフルト、駄菓子、ビールなどの販売もある。

神事を終えた午後2時半から桃香野自治会が主宰する奉納能楽もある。

早めに着いてできる限りご挨拶と思ってやってきた。

時間帯は午前9時半。

神事の準備に忙しく動き回る村神主代表のUさんにお礼だ。

バザーの振る舞いおでんはもう出来上がっているから食べていってやと云われるご相伴に預かる。

大釜で煮込んだおでんの香りが境内まで漂っている。

桃香野の若い女性たちが心を込めて作ったおでんはたっぷり盛ってくれた。



朝ご飯は家で食べてきたのにお腹が欲しがる旨そうなおでん。

カラシも付けてもらって口にほうばる。

出汁が浸みこんだおでんはとにくかく美味しい。

そのことを伝えたら満足げな笑顔で返してくれた。

早い時間帯に訪れたのは渡りの人たちが抱える当家御供を見るためだ。

前日に調整し終わった当家御供は地区の集落センター(自治会館)の和室に保管している。

村神主や集落センターにおられた人たちの了解を得て御供を拝見する。

屋内の座敷に整然と置いているわけでないのでありのままの状態で撮らせていただく。



一つは緑色の紅葉を添えた芯芽がにょきっと突き出したオカシラと呼ぶカシライモ(頭芋)である。

二つ目は長めの竹串に白餅を挿したハナモチ(花餅)。



上から見ればぱっと花びらが開いたように見えるからハナモチの名がついたのだろう。

そのハナモチは太い藁棒に刺してある。



倒れないようにしているのか、それとも担ぎやすいようにしているのかわからないが、竹で編んだ籠に納めている。

三つ目は平たく切ったカシライモ。



これもハナモチと同じように花が咲き誇ったような形であることからハナイモ(花芋)の名がある。

室内に置かれた御供はそれだけであるが、他にも数々の品物がある。

それらは渡りの人たちがそれぞれの御供を担いで渡るのである。

順番が決まっている役とともに列挙しておく。

お渡りの先頭は当家身内の兄息子が抱えるオカシラ。

皿に盛ったオカシラである。

2番手は一升五合の青豆大豆を盛った籠を担ぐ中息子。

3番手は弟息子が担ぐハナモチ。

4番手は中与力が担ぐハナイモ。

5番手は弟与力が担ぐハナモチ。

それぞれのハナモチ、ハナイモの竹串は122本ずつ。

三つ合わせて360本の御供は一年間を表しているという。

大量の本数を準備しなくてはならない作業の中で一番に挙げたい手間のかかる道具作りである。

ここまでの登場人物の衣装は紋付き着物に袴。

足は白足袋で下駄を履く。

6番手は濃紺色の素襖を着て烏帽子を被る「烏帽子」。

「ヨボサ」の別名がある烏帽子は12人。



この日に参集された烏帽子役がそう云っていた。

ラストの7番手は締め手の一升酒樽を抱える兄与力。

烏帽子を役目する人たちが定刻の集合時間に衣装を身に纏ってやってきた。

これより始まるのが御札渡しと呼ぶ儀式であるが、隣村の嵩の調理具合を取材するために一旦は桃香野を離れる。

戻ってきた時間帯は午前12時20分ころ。

お渡りの一行はすでに出発していた。



その様子を道中で拝見したのか、村の人たちは祭りの場にやってくる。

その時間帯ともなれば大勢のカメラマンが集まっていた。

その中には知人のカメラマンが5人も。

うち一人は村のカメラマン。

行事の進行役を務めるそうで裃姿になっていた

そろそろお渡りの一行が神社に戻ってくる。

お渡り行列はまだ着いていなかったが、神事が始まろうとしていた。



嵩の行事が始まる時間帯に最も近づいたころを見計らって桃香野を離れたから祭りの一部始終は翌年廻しにするが、平成2年11月に月ヶ瀬村(現奈良市月ヶ瀬)が発刊した『月ヶ瀬村史』に大字桃香野の宮役のことが詳しく書かれているので参考にされたい。

なお、お渡りは雨天であっても決行する。

その場合は番傘をさしてのお渡りになるようだ。

(H28.10.16 SB932SH撮影)
(H28.10.23 EOS40D撮影)
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月ヶ瀬嵩八柱神社の宵宮

2017年06月19日 08時57分48秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
平成2年11月に月ヶ瀬村(現奈良市月ヶ瀬)が発刊した『月ヶ瀬村史』がある。

村史によれば大字の嵩(だけ)の八柱神社の例祭は10月27日だった。

「例祭の当屋は家並み順。かつては子どもが当屋であって大まつり、小まつりの名称で呼ばれていた。大きい子どものうちから一人。小さい子どものうちからも一人。座衆、非衆の区別があった・・・。秋茄子が一番のご馳走というほど質素な料理。村中の人たちが寄ってきて、野菜のご馳走を食べて謡いをする。その場でお箱渡しが行われる。昔は宵宮(大正3年、4年は夜宮表記)の晩に当屋の家に集まってカシの木で作った千本杵と木臼で餅を搗いた。当屋の家では寿司や刺身、松茸などのご馳走を作り村各戸に配った。謡いの式には三角に切った焼豆腐とコンニャク、ジャコがある。昭和十二年、戦争の影響で招待者は遠慮、節約体制となり、以降は寂しくなった」と書いてあった。

奈良市月ヶ瀬嵩(だけ)の八柱神社で夜宮やマツリがあると知ったのは2カ月前。

8月27日に行われた風の祈祷の日である。

その日の取材のときに宮総代が話してくれた嵩のマツリ。

「直会に謡いがある。武蔵野の名がある大きな酒盃で酒を飲む。謡いは朗々と謡う四海波。座でよばれる酒の肴はナスビの田楽にトーフ、コンニャクに煮しめ。青豆のクルミはサトイモに塗して食べる」と話していた。

座の料理はどのようにして作られるのか。

興味は謡いの盃もある。

取材したいと申し出てこの日も訪れた。

村史では当屋表記であったが、現在は当家の漢字を充てている。

当家は2軒。

本当家(ホントーヤ)と相当家(アイトーヤ)の2軒がマツリによばれる料理を作り、座の接待をする役に就く。

かつては4人の男の年齢順で務める当家であったが、現在は家の廻りになった。

4人ということは村史にある座衆、非衆のそれぞれから2人ずつの当家であったろう。

昔の嵩の戸数は30戸。

今では16戸になったが、昭和25年当時は子どもが50人も居たというから団塊世代の子どもたちで溢れていたようだ。

当時の当家は子どもが任に就いたのも理解できるが、現在は2軒の大人が務めている。

戸数が16戸であるから6年に一度の廻りである。

この日の出仕もあるが、明日の祭りは「奉鎮祭」の名がある御幣を捧ぐ神事がある。

与力制度がある嵩の村組織。

明治29年までは旧波多野村に属していた嵩。

旧波多野村は現在の山添村の春日、大西、菅生、西波多(上津・下津)、遅瀬、中峯山、広代、中之庄、吉田、鵜山、片平、葛尾、広瀬に現奈良市の嵩である。

旧波多野村のすべてではないがほとんどの村が、村の運営に関わっている与力制度で組織化している。

制度を詳しく述べる文字数を持ち合わせていないからここでは省かせていただく。

この日の行事にも参列されるオトナ(村史では老名とあるが、現在は翁戸那の漢字を充てる)は四人。

長老は神主と呼ばれ祭事を務めたと村史に書いてあったが、現在の斎主は大字尾山の岡本和生宮司である。



神事は風の祈祷のときも同じように4人のオトナと3人の宮総代が参列する。

まずは大祓詞の唱和。

そして、祝詞奏上に玉串奉奠である。

大祭の宵宮に直会膳がある。

この日の午前中から作っていた膳の料理。

神職をはじめとしてオトナや宮総代が酒を飲み干す直会膳に差し出される料理は三品。



一品に正月の味と同じにした酢牛蒡。



二品にオタフクマメの甘煮。



三品がサトイモやニンジン、コンニャク、ダイコン、シイタケに竹輪を炊いた煮しめである。

この三品を肴にお神酒をよばれる。

座が終わってからよばれた三品のお味。

薄味であるがとても美味しい。

サトイモはとろとろで私の口によく合う家庭の味だった。



まずは二人の当家が並んで下座に正座。

挨拶、口上を述べて直会が始まる。

「本日はありがとうございます。例年通りの料理でございますが、時間許す限り、どうぞごゆっくりいただきますようよろしくお願いします」と述べてから席を立って給仕の酒注ぎ。

一旦は下がって座中は乾杯して料理を肴に酒を飲む。



空になる前に席を廻って酒を注ぎまわるのは二人の当家だ。

明日の大祭には辛子醤油漬けの蒸し茄子田楽とか青豆クルミイモ・マメ・三角切りの豆腐・コンニャクなどを配膳する。

実は直会の時間中も奥の調理場では料理の下ごしらえの真っ最中だった。



宵宮の神事には誰一人の参拝は見られなかったが、直会中には黙々と手を合わせる村人がいた。

宵宮の座は一時間ばかり。



座中は解散されて戻っていかれたが両当家の家族は居残って下ごしらえの続きである。



枝豆は茎から外して大釜で茹でる。

茹でた枝豆は莢から出して豆だけにする。



明日は朝から豆を潰してクルミにする。

クルミはクルミという実ではない。

当村では青豆を潰してイモにのせる。

のせるというよりもイモを包み込むことから「包む」である。

「包む」は「包み」。

こうしてクルミのイモ料理にするが、東山間では亥の日に食べるクルミモチがある。

字のごとく青豆を潰して包むのは餅である。

潰したクルミに砂糖を塗して餅を包む。

味は砂糖があるから甘いが、青豆の香りがとても美味しい郷土料理。

嵩では亥の日にクルミモチは登場しない。

村史によれば、嵩の亥の日は鬼子母神を祭る日。

赤飯のおにぎりをたくさん作って重箱に盛る。

弾けたザクロとともに部屋内の暗い処に祭る。

縁結びの神さんとされる鬼子母神が恥ずかしがるからそうしているとあった。

おとなしくしなければ嫁のもらい手がなくなると信じられ、子供が泣いたり、或は喋らないように注意したそうだ。

月ヶ瀬各大字であった亥の日の習俗の今は月瀬だけがしていると書いてあった。



三角切りコンニャクは明日に最終調理。

もっともこのコンニャクは別料理の味付け煮込みの方であるが・・

豆腐も同じ大きさ形の三角に切って挟む。

ちなみに宮総代やオトナが云うには大祭のお供えに山ノ鳥とか川魚があったそうだ。

昭和3年の初期のころの『祭り帳』にその記載があった。

(H28.10.22 EOS40D撮影)
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月ヶ瀬嵩の風の祈祷

2017年04月21日 08時14分18秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
月ヶ瀬の嵩(だけ)で風の祈祷行事をしていると知ったのは平成24年8月28日に訪れた近隣大字の月瀬である。

その日は月瀬の八柱神社でも風の祈祷行事をしていた。

大祓詞を唱えて祈祷したお札を村境の4カ所に立てた。

においても同じような形式で行っていると話していた。

それから4年も経った。

行事がある日は8月27日。

月瀬よりも一日早い。

その日に伺えば関係者がおられるだろうと思って訪れた。

着いた時間は行事が始まる少し前の時間帯。

八柱神社の拝殿にお供えを揃えている宮総代にお声をかけた。

その場で本日の行事を取材のお願いを申し出た。

月瀬の十人衆や大字尾山の岡本和生宮司から聞いていた風の祈祷との違いなどを取材したいとお願いしたら承諾された。

ありがたいことである。

嵩では3人の宮総代がおられる。

宮総代は神社行事のお手伝い。

お供えの調達や調整ごともあるし行事の進行やオトナの接待もある。

なにかと忙しく駆け回っているようだ。

宮総代のうち代表を務めるⅠさんは社務所、参籠の座の場でもある嵩総合センターにオトナの人たちがおられるからと云われて挨拶をさせていただく。

オトナを充てる漢字は「翁戸那」。

宮オトナとも呼ぶ長老四人衆である。

オトナは亡くなるまで嵩の年中行事を支える長老衆。

最近は自らの意思をもって引退する場合もあるらしい。

嵩のマツリは10月26日がヨミヤで27日が大祭だった。

今では月末の土曜日、日曜日に移した。

大名が支配していた嵩のかつての時代は藤堂藩。

他の大字は郡山藩だったという。

当時、殿さんのために新しい道を造った。

大祭以外に本日の風の祈祷、祈年祭、新穀感謝祭などの中祭もあるが、毎月初めの一日は小祭の一日座(朔座)がある。

また、八柱神社傍に建つ薬師寺の行事もある。

寺行事は薬師講に大般若、薬師会式などがある。

嵩の薬師寺は長谷寺真言宗派。

京都の南山城村の田山も出仕されている住職が来られるそうだ。

また、旧波多野村に属している月ヶ瀬嵩が参列される山添村中峯山(ちゅうむざん)神波多(かんはた)神社の秋季例祭行事がある。

旧波多野村は春日村、大西村、菅生村、西波多村(上津・下津)、遅瀬村、中峯山村、広代村、中之庄村、吉田村、鵜山村、片平村、葛尾村、広瀬村に嵩村である。

明治22年に町村合併、その後の明治30年に嵩村を編入されて波多野村になった。

その関係をもって今では奈良市に編入された月ヶ瀬嵩は、現在の山添村の各大字とともに一同が揃うお渡りに一番役を務めている月ヶ瀬嵩が中心的役割を担っているという。

そうした月ヶ瀬嵩に関わる件を話してくださったオトナも宮総代も拝殿に登って神事が行われる。

祓の詞、祓えの儀に一同揃って唱える大祓詞。

尾山の宮司が斎主されるここら辺りの地域はどこも同じように大祓詞を唱和する。

そして始まる祝詞奏上に玉串奉奠である。



神饌は洗米や塩、お酒もあるが、この日のための「奉祈祷悪風雨除大麻」の版で刷った祈祷札もある。

神饌棚にはサバ缶詰やジャコの盛りにセキハンもある。

二百十日の大風に祈祷札は3枚。

昔の道にあたる村境の3カ所の入口に立てる。

昔は悪病除けに風雨順調を願ったようだ。

嵩総合センターに戻ったオトナは早速作業に移る。



伐りとってきためろう竹と乾かして作っておいた昨年もんの竹の皮が要る。

めろう竹はススンボの竹ではなく竹箕の原材料になる竹である。

フジの木で叩いて柔らかくしためろう竹を編んで箕にするという。

祈祷札は二つ折りにした竹の皮の内側に納める。

何故にそうするのか。

祈祷札は先を三つに割いためろう竹に直に挟む状態であれば風雨に晒されて破損してしまう。

祈祷札は何時までも保ってもらいたいから竹の皮で包む。

隣村の月瀬も同じ形態だった。

まるで逆三角形になった竹の皮は外れないように上部は白い紐のようなもので縛っておく。

3本とも調整できれば直会に移る。



注文したオードブルもあるが神饌を下げたジャコ、昆布、海苔とセキハンを肴にお神酒をよばれる。



およそ1時間の直会を済ませたオトナや宮総代は手分けして村境にでかける。

村境といってもすぐ近くだ。



一本は八柱神社や薬師寺を下りた山添村遅瀬に繋がる道傍である。

もう一本はそこよりさらに下った山添村大塩へ行く道傍だ。

もう一本は西の村入口。

月瀬寄りの処になるが、場所は特定できなかった。

ちなみに嵩には明治時代なのか、それとも云十年前なのかわからないが、何代か前の爺さん時代に能面があったそうだ。



その能面は見ることはできないが10月に行われるマツリについて話される宮総代も一カ所に立てた。

マツリの直会に謡いがある。

武蔵野の名がある大きな酒盃で酒を飲む。

謡いは四海波。

朗々と謡うそうだ。

座でよばれる酒の肴はナスビの田楽にトーフ、コンニャクに煮しめ、青豆のクルミがある。

クルミはサトイモに塗して食べる料理である。

この内容を聞いて是非とも今年に取材したいと願ったのは言うまでもない。

ところで嵩にもトンド行事がある。

各戸の注連縄を子供が集めて縄にする。

それをどうするかは聞いていないが、たぶんにトンド組みに使う括りであろう。

朝6時に点火するという。

(H28. 8.27 EOS40D撮影)
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桃香野の豊作願いの神符

2016年11月16日 19時02分10秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
枡型・弁天の言い伝えを座の場で紹介されたオトナ衆の長老は昭和4年生まれの87歳。

元気で達者な声。

この日に参列していた子どもたちにもわかるように解説される。

参拝者名簿の横に置いてあったお札を木の棒は見覚えがあっても当地ではなく他所である。

木の棒はウルシのように思えたがそうではなかった。

オトナ衆がいうにはハゼノキ。

つまりはハゼウルシの木である。

ウルシほどかぶれることはないが、弱い人はこの木でもかぶれるそうだ。

お札は八幡大明神と書いてあることから神符であるが、あきらかにオコナイのごーさん札だと思った。

そのことを口にするまでもなく、長老らはこれを「ごーさん」と呼んでいた。

ごーさんが登場するのは八幡神社の年中行事にある祈年祭

ここでは2月17日に行っているという。

かつては100本も準備したが、今では20本から30本にした。

村の戸数は105軒。

その戸数分を作っていたが、農の営みをする家が減ったのであろう。

長老が云うにはこれは苗代作りをしたときに水口に立てる祈祷札。

稲苗がすくすく育つように豊作を願うモノである。

ごーさん札を立てた場には洗い米をパラパラと落としていたらしい。

ちなみに田植えの際にはフキの葉とカヤの茎葉が登場する。

苗取りをする田植え始めの場に12枚のフキの葉を並べる。

その場はその年に始めて田植え作業をする処である。

風に飛ばされないように12本のカヤの茎葉を挿す。

軸は硬いからフキの葉を突き通して田んぼに突き刺さる。

フキの葉に洗い米とコガシの豆を落とす。

コガシの豆はキナコのことだ。

この在り方は、一般的に植え初めと呼ばれる農家の暮らし方。

長老は「植え初め」ということなく「サブラケ」と呼んでいたが、現状ではそういう行為をする家はまずないだろうと云う。

(H28. 5. 5 EOS40D撮影)
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桃香野の枡型弁天一万度祭

2016年11月16日 07時49分09秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
実に11年ぶり(平成17年)に訪れる奈良市月ヶ瀬桃香野の枡型弁天一万度祭行事。

民俗写真家のKさんご希望の行事である。

平成21年、京都淡交社より発刊した著書の『奈良大和路の年中行事』にも紹介している行事である。

ちなみに月ヶ瀬の行事は7月1日に行われる「龍王祭」も紹介している。

Kさんは両行事とも行ってみたいと話していた。

桃香野の行事は両行事の他に、平成15年10月に行われた八幡神社・秋の例祭や平成17年1月の八幡神社・的打ち、平成21年9月の八幡神社・風の祈祷、平成22年3月の善法寺・彼岸座、同年5月の善法寺・仏生会もある。

神社行事は三人の村神主にオトナ衆(充てる漢字は老名)が。

寺行事は檀家たちによって行われているが、何年も離れているうちにすっかり顔ぶれが替わっていた。

境内にどこかで見たような男性がいた。

知人のFBでたびたび見かける男性は写真関係に携わる人。

何故にここにおられるのか話しを聞いて納得した。

これを機会にFB申請させていただいた。

男性が紹介する若い男性。

月ヶ瀬に入り込んだ地域協力隊の一人。

月ヶ瀬の行事を取材して地域誌に載せるという。

行事を誌面で紹介する写真はこう撮ればいいのでは・・とアドバイスしたが・・・。

それはともかく拝殿前にあった階段に目が行く。

階段の側面に刻印があった。

右側は「第五十六回 正遷宮」。

左は「造営 平成十一年十一月吉日」とある。

今より17年前に斎行された証しである。

オナト衆が云うには八幡神社のゾーク(造営事業)は20年単位でなく。

7年周期。

3度の7年目に当たる年が大遷宮(だいせんぐう)と呼び、造営祭典が行われる21年ごとのゾーク事業(造営事業)である。

次のゾークは平成32年。

社務所を建て直すらしい。

昭和32年にゾークが行われたときの写真を掲示している参籠所をじっくり拝見している時間はない。

時間ともなれば行事は進行する。

社務所の回廊に座っているのは長老のオトナ衆や婦人たち。

鳥居より後方にいるのは子供会の子たち。

数年の間に子供が増えたようだ。

手水で清めた3人の村神主が拝殿に向けて参進する。

威風堂々した村神主の姿に思わずシャッターを押す。

神主やオトナ衆や婦人たちは拝殿の出入り口から入室するが、子供たちは拝殿の扉を開けて上がる。

綺麗に揃えた靴で育ちの良さがわかるが、上がるのは上級生。



まだ若い子供は拝殿前で待つ。

3人の村神主のうち一人が斎主を務める。

祓え戸社に向かって祓え詞を奏上する。

幣で祓って献饌。そして祝詞奏上ではなく参拝者とともに大祓詞を奏上する。

神饌を下げて参籠所に移る。

直会の場に子どもたちも並んでいた。

お酒を注ぐのは当番の大人。

神主やオトナ衆や婦人たちに子供会の親までも注いで廻る。

お神酒の肴は御供下げの煮豆と小片のコンブ。

箸やスプーンでよそって半紙に移す。

半紙はいわゆるお皿。

昔からこうしている。

お神酒を継いだ塗り椀をもって乾杯。

ぐぐっと飲む。

肴は他にもジャコがある。

県内事例で最も多く見られると思っているジャコ喰いもある直会はおよそ20分間。

「さあ、やろか」の一声がかかって始まった。



棚に採取していた何枚かの葉があるツバキの枝を持つオトナ衆。



参拝に来た長老、婦人らに子供会の子どもたちも選んだツバキの木をもって鳥居横にある手水鉢に葉ごと浸ける。

オトナ衆を先頭に石参道を歩いて本殿へ向かう。



拝殿に3人の村神主が待っている。



一人は拝殿、二人は賽銭箱の左右に分かれて座った。

二人の前には厚めの折敷を置いている。

そこに差し出す一枚のツバキ葉。



参拝の人が手にした枝の中でも最良と判断して選んだ葉である。

参拝者の一人、一人が差し出す葉の形状や破損、汚れなどを検証する二人は目がきょろきょろする。

参道はまるで行列のように次から次へと参進する。

その間に聞こえてきた楽曲はお伊勢参り。

「あれはいせ これはいせ いんとせー」など聞き覚えのある楽曲はかつて収録された長老たちが唄うお伊勢参りだった。

当時はカセットテープで収録。

その音源からCD化されたものだけにノイズとともに境内に響き渡る。

村人たちの行為によって最良の一枚が選ばれた。



その一枚を献上して神事を終えた。

その一枚は直会の場でお披露目される。

みなで選んだ一枚がここにある。



自然と笑顔がこぼれた。

今回拝見したのは若干の変化が認められたので、敢えてではあるが、著書『奈良大和路の年中行事』に執筆した「桃香野の枡型弁天一万度祭」を紹介した一文は言い回しなど加筆修正した上で再掲載することにした。

「奈良市に統合された旧月ヶ瀬村。桃香野の八幡神社では椿の葉を1万枚数えて神さんに奉納し、五穀豊穣を願う珍しい神事の弁天一万度祭が行なわれる。いつ始まったのか、なぜ一万枚なのか古老たちも知らないといい現在も続けられている。昼過ぎに神社に集まった大人衆、奈良の万成と言われる梅寿会、いわゆる老人会と子ども会。一万度祭はオトナ衆(老名)たちがとり仕切って行われる行事である。役員すべては拝殿に登って大祓詞を唱和する。そのあと、場を替えて神楽殿で直会が行なわれる。皿に見立てた半紙に豆、昆布、雑魚、カマボコ、テンプラを配膳。当番の人はお神酒を注ぎまわる。箸を使わずに口に添えていただく。やがて参加者たちは用意された椿の枝を一本ずつ手に持ってお伊勢参りの囃子が響くなか、鳥居と本殿間をお百度参りのようにぐるぐるまわる。手水鉢の水で清めた綺麗な葉を一枚ずつ枝からむしり取っては本殿前に置かれた箱に入れる。置かれた葉はその中からさらに綺麗なものを宮守が選ぶ。選んでは本殿に置く一の位、十の位、百の位、千の位を示す箱へ順に送っていく。これを繰り返し最奥の葉が十枚集まると一万枚が数えられたことになる。その中から選ばれた葉が最も美しい葉。そのあとの奉告祭で神さんに献上される。お年寄りと子どもたちが選んだ一万度の行事は、微笑ましくも楽しさが伝わってくる。」

(H28. 5. 5 EOS40D撮影)
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月瀬大神神社風の祈祷

2012年11月06日 08時35分14秒 | 奈良市(旧月ヶ瀬村)へ
8月から9月にかけて行われている風の祈祷行事は県内各地で見られる。

この日に訪れたのは奈良市月ヶ瀬月瀬に鎮座する大神(おおが)神社。

一年間に亘る神社祭祀を勤める長老十人衆も健在だが、数年間の間には欠員も生じた。

そういうことになれば次の年長者が新たに加わって十人の大人衆組織を維持してきた。

十人衆は黒紋付の和装姿。

夏の季節は涼しさを感じる白和装の身姿になる人もいる。

尾山の宮司が到着すれば始まる風の祈祷。

拝殿に登って本殿石棺型の神前に御供を供える。

先に石棺祠の御簾を上げていた本殿だ。

三方に置いたお札は「奉祈祷悪風雨除大麻」の祈祷札。

宮司の話によれば「大麻」の文字は「お札」の意味であるという。

始めに当番の施主(一年神主)が祓戸社で祝詞を奏上する。

当番の施主(一年神主)は欠員が生じた2週間後に加わったそうだ。

年功序列の決まりで平成23年の9月に「まわり講」の入講儀式を経て就いたという。

祓えの神事を終えれば尾山の宮司に替る。

神前に神饌やお札を供えての神事は一同が揃って唱える大祓詞。



神事を終えれば参籠所に場を移して祈祷したお札を青竹に挿す。

祈祷札は風雨に曝されても崩れないように竹の皮に包んでおく。



そのお札は4本。

月瀬の周囲の4か所に挿しておく。

その作業は直会が終わってからだ。

この日は稲荷会式も行われる。

それからになるというから数時間後である。

風の祈祷の直会はめいめいが持参した缶詰を肴に酒杯する。

サバ缶、焼き鳥缶などさまざまだ。

昔からこうしているという。

「昭和の初めころやったら最高のごちそうやった」と口々に云う。

風の祈祷は二百十日、二百二十日の大風に合わないようにと祈る行事。

祈祷の札は集落四隅にそれぞれに挿す。

神事や直会を終えた4時間後。

施主(一年神主)はそれぞれの場に足を運んで札を挿す。

そこには前年に挿した札がある。

一年間も村を守ってきたお札だ。



交換して新しいお札を挿して次の場に向かっていった。

お札は集落の北、南、東、西の4か所。

疫病や大風が村に入ってこないようにと願いを込めて集落の外に向けて挿した。

尾山の宮司や十人衆の話によれば、月ヶ瀬辺りの神社ではそれぞれが風の祈祷を行っているという。

前日の27日には嵩の八柱神社で、29日には尾山の八王神社で行われるそうだ。

嵩は3か所にお札を挿す。

尾山では風雨除けをせずにお札を竹に挿すだけだという。

このように風の祈祷札を挿す地域は近隣の山添村の大塩春日地区でも行われている。

(H24. 8.28 EOS40D撮影)
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