マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

北郡山店ほっともっとののり弁当

2013年01月31日 06時52分27秒 | あれこれテイクアウト
平日なら270円で販売されているほっともっとののり弁当。

平日昼割りのサービスだ。

それを失念して祭日の日に注文したのり弁当は320円。

50円も違いがある。

蓋を開ければ大盛りのように見えたのり弁当。

大きな白身魚のフライとチクワの天ぷらで海苔の姿がまったく見えない。

端っこにはキンピラゴボウと漬物を添えている。

買ってから1時間も経過していた。



わずかに残った温もりで香りがプーンと鼻につく。

心地よい香りにお腹が鳴る。

とにもかくもキンピラゴボウと漬物でがっつく。

甘目の味がしたキンピラゴボウ。

もう少し辛目があってもいいのでは思った漬物。

ほど良い味加減にしているのだろう二つの添えもの。

ご飯を食べれば中から昆布も出てきた。

おかか昆布というらしいのだがおかかが舌に乗らない。

量が少ないのであろう。

フライと天ぷらをどけたら海苔が一面に敷いていある。

味はないがフライソースが醤油味。

それが馴染んだご飯は美味しい。

白身魚のフライはどこでも同じように思える味。

チクワは割合堅め。

できたてほやほやに食べたらそうでもないのだろう。

270円なら満足するのり弁当である。

ほっかほか亭、オリジン、ほっともっとののり弁当を食べ比べた結果どうだ。

1番にあげたくなるのはほっかほか亭。

なんと云ってもこれが一番美味しい。

なにが決め手かと云えば花カツオである。

次に染み込んだ出汁だ。

海苔の量は圧倒的に多かったほっともっとは2番手。

3番目にオリジンとしたが・・・。

(H24.11.23 SB932SH撮影)

下笠間のイノコのクルミモチ

2013年01月30日 06時52分09秒 | 大和の郷土料理
前夜に2時間もかけて作ったイノコのクルミモチ。

アオマメをすり潰して作る。

昔は石臼に少しずつ入れて挽いていた。

力が要るマメ挽きは高齢者にとっては困難。

いつしかミキサーで挽くようにしたという下笠間のI婦人。

一升八合もの大量のアオマメ挽きはミキサーであってもそれぐらいの時間がかかる。

多く入れ過ぎるとミキサーが動かない。

少量であればマメが弾けて挽くことができないから適量にする。

何度も何度も挽くから2時間もかかったという。

アオマメのクルミで包むのは搗きたてのモチ。

2升5合も搗いたという。

それほどの量を作ったのは親戚や知人らに送るため。

毎年こうしているという。

下笠間では翌日の23日に九頭神社でイノコの籠りが行われる新穀感謝祭を終えてから集まる氏子たちはパック詰め料理をいただいて過ごす籠りの日。

ご飯は家から持ち寄る人も多いようだ。

神社のイノコの祭礼ではクルミモチは登場しない。

この年に収穫された豊作の米に感謝する祭祀なのである。

新嘗祭と一般的に呼ばれている祭祀は県内各地で営まれるが、室生、東吉野辺りではイノコと呼ぶ地域が少なくない。

イノコの日には新穀で搗いたモチがつきもの。

それにアオマメを潰したクルミを塗す。

砂糖を振り掛けて食べる家のご馳走である。

亥の日にはイノコのクルミモチを食べるということだ。

東北地方ではずんだもちと呼ばれる同じような形式のモチがある。

仙台地域では有名なブランドモチ。

一度は食べてみたいと申し出た家人。

ネットで注文した。

届いたずんだもちを食べたが下笠間のクルミモチとは大きな違いがあった。

潰したのはアオマメと思うのだが舌触りがまったく異なる。

ザラザラしている餡だった。

一口食べてこれは違うと云ったのは私。

同じ感触をもった家人。

イノコのクルミモチをもっぺん食べたいと常々伝えていたかーさん。

望みを叶えてあげたくて下笠間の婦人に頼んでいたクルミモチはナンテンの葉を添えてパックに詰めていた。

お支払いはと云っても受け取ってくれないご婦人。

行事の撮影でもお世話になっている方は「お金で買うてもらうもんではない」と仰ったクルミモチをお皿に盛ってくれた。



砂糖をぶっかけて食べた。

これが美味いんだなぁ。

持ち帰ったクルミモチは蓋を開けるなり口に放り込むかーさんも美味しいと唸る。

(H24.11.22 EOS40D撮影)

正月座のアオマメ

2013年01月29日 08時47分17秒 | 大和郡山市へ
正月元旦の朝に参拝する椎木町の宮座中。

東の杵築神社の正月行事である正月の座である。

座の膳は三種盛りの肴。

タネオクリ(種送り)されたアオマメを育ててきた受け当屋のM家。

植えた種豆が育って収穫した。

一粒、一粒を選別して奇麗なアオマメを選び出した。

正月の膳にするアオマメ四合。

それを四升のモチゴメと一緒に焚く。

アオマメは擦らずにそのままの形で入れると話す婦人。

嫁入りしてきて以来の4度目の当屋である。

3回はおじいさんが担った当家。

亡くなられたあとはご主人が担った当家。

今年の氏神祭で当屋受けをされたから5回目になるという。

当屋の回りは今回で14年目。

座中はおよそ30軒。

アニ当屋とオトウト当屋の2軒であたるからそれぐらいの回りになるという。

祭りで一番たいそうなのは正月の座だという。

育てたアオマメを枯れないように気を配ってきた。

奇麗なアオマメを選ぶのだが黒いものもある。

それは除外する。

何日もかけて選別したという選りすぐりのアオマメは次の当屋に継がれる。

それがタネオクリ。

代々継いできたタネは大切な正月膳の材料となるのである。

当屋の仕事はとても気を使う。

アオマメを入れて焚くのは大晦日。

夜は8時から始めるらしい。

焚いたアオマメ入りモチゴメはオニギリにする。

それを翌朝の正月の座に出すのだ。

5時には神社へ参って座の準備をする。

オニギリもそうだが座中が寒くならないようにと暖も調える。

膳は三種でゴボウと黒豆も料理する。

神さんの神饌としても供える。

味加減も難しく、神経を使う座は年中行事のなかでも一番だという正月行事はアニ当屋とオトウト当屋が勤めるそうだ。

ちなみに除外したアオマメはお店でキナコにするという。

地域が発刊した『椎木の歴史と民俗』によればアオマメのオニギリは蒸したキヨノメシだったようだ。

(H24.11.21 SB932SH撮影)

トライアルのにぎり寿司

2013年01月28日 07時47分19秒 | あれこれテイクアウト
最近はしょっちゅう買出しに出かける宝来のトライアルスーパー

なぜかトイザラスと云ってしまうのはかーさんだ。

昼前に出かけたときはついつい買ってしまう。

トライアルのにぎり寿司。

この日は奮発して3種類も買ってしまった。

一つはサーモンのあぶりにぎり寿司。

5個入って298円。

息子の好のみを尊重した。

もう一つは298円の生タコにぎり寿司。

これはかーさんの意思を尊重する。

三つ目がやりいか姿にぎり寿司。

これは私向きである。

やりいかだけは280円。

特価でしょうか。

どれもこれも美味しいが山葵は入っていない。

小さな子供が食べるということで考慮しているのだろう。

100円均一のくるくる寿司よりも断然美味いにぎり寿司。

ちょっとだけ高めだけど我が家の食卓を満足させてくれる。

(H24.11.20 SB932SH撮影)

躓いてキャノンスピードライト540EZ

2013年01月27日 07時47分05秒 | しゃしん
矢田民俗研究会で矢田を探索していたときのことだ。

土手からぴょいと飛び降りた。

そこは地面と思っていたが溝。

いわゆる側溝である。

草むらに隠れていて存在を認知していなかった。

村人なら誰でも知っていると云うが・・・。

左足がズボっと入った。

カメラを持っていたので壊れたらあかんと思っていても体制を崩した。

地面に叩きつけられる手足は何もない。

怪我はまったくないがストロボ本体が飛んでいった。

線は外れていないが元には戻らない。

修理するには1万円以上もかかるキャノンスピードライト430EX2は平成22年2月9日に17000円で購入した仕事道具。

カメラのキタムラの新古品だった。

以前からフイルムカメラ側のスピードライトを買いたかった。

広角大光量のストロボが欲しかった。

店に行くたびに狙っていた中古品。

思いきることもできなかったが、この日の決断は速攻。

これに決めたと買ったスピードライトの540EZは1980円。



デジタルは使用できない。

支払いは溜まっていたカメラのキタムラポイントカードだ。

ポイントカードはこういうときに使っているのである。

(H24.11.18 SB932SH撮影)

矢田村の民俗を巡る

2013年01月26日 06時51分22秒 | 民俗を観る
この年の3月にも巡った矢田の地。

住民の案内で矢田の民俗を探訪する。

東村に通じる里道は大和民俗公園内。

ここがそうだと村に住む人でなければ判らない道を行く。



そこにあった穴が開いた石造物。

カラウスの石だそうだが、なぜにそこにある。

そこからほど遠くない地に墓地がある。

東村のサンマイ墓である。



「免許埋葬墓地」は生駒郡矢田村大字矢田小字大谷とある。

「三界萬霊六親法界」を記した石柱は天明八年(1788)八月日の刻印がある。

寄進したのは「禅門講中」である。

傍に並んでいるのは六地蔵。



右から3番目の地蔵石仏には「正徳元年(1711)拾月十八日」の刻印がある。

左から2番目は「正徳三年(1713)」の記銘年がある。

他の地蔵石仏には年代等を示すものはなかった。

年末やお盆の前には清掃する村の墓地。

そこには棺桶を乗せる棺台がある。

文様から思考すれば蓮華台である。

大正拾年に寄付された棺台には「奉供養 西国三十三ケ処」とあることから巡礼結願のおりに寄進されたのであろう。

昔はドマンジュウ(土饅頭)。

棺桶を埋める際には竹組みを縄でスダレのように編んだものを棺桶の上に乗せる。

土を掛ければ見えなくなる。

獣が墓を掘り起して食べないようにしたこの竹組みをケモノヨケという。

墓を掘るのは「アナホリ」と呼ぶ。

一升びんの酒を持ってきたそうだ。

酒を飲まずにおられなかったアナホリ。

当時は座棺。

頭は三角巾に白装束姿で掘っていたと話す。



墓地の北側が農業用水の池である大谷池。

水底には地蔵さんがあるという。

子どものときには池で泳いでいたそうだ。

東に向かえば城村の西城(にしんじょ)に辿りつくが今は行くことができない薮地。

池の北側も道はあったが歩くことは困難である。

江戸時代中期に造られた人造池はそれまで集落もあったと伝わる。

その西城地区は狩山村(かりやまむら)と呼ばれていたそうだ。



のどかな景観を保つ大谷池周辺には多くの野鳥がやってくる。

枝に留まった鳥はカワラヒラであろうか。



近くまで寄っているがすべての鳥が身動きしない。

じっと佇んでいる。



傍らには綿花が咲いていた。

咲いていたという表現はおかしいがそう見えるのである。

この場でアクシデントが発生した。

難なく飛び降りることができると思って土手から跳んだ。

ズコっ。

溝に足がぼこっとはいってしまって前のめり。

身体はなんともないが撮影していたカメラのストロボがぶっ飛んだ。

草むらに隠れていた溝にはまったのである。



それはともかく林のなかにあったミツバチの巣箱。

ずらりと並べられている。

平成12年ころまであったとされる水車小屋の南側は段々畑の平らな面。

屋敷跡だという話しに納得がいく。

そこから向った先はコグリと呼ぶ地。

大阪からの敵がやってくるのを見張っていた高台である。

北村のアリバカの六地蔵はいろんな処から寄せられた石仏がある。

背光型の五輪塔だそうだ。



そこからは村人しか知らない山間の里道を抜けて美しい紅葉がある東明寺へ辿りつく。

近道だというが結構な高低差である。

東明寺の古い旧墓地には人知れずの区域がある。

案内されたN家の墓石もここにあったという。

事情があってアリバカ墓に移した。



それはともかくここには大きな碑文石やとてつもない巨大な五輪塔(宝印塔)がある。

碑文石には年代記があった。

延宝四年(1676)五月十日だ。

中央上段に「嗚呼本源日(自?)性居士之墓」とある。

碑文石と五輪塔の間にはさまざまな形の五輪塔が6体。

中央の3体はチンマキの墓と呼んでいるそうだ。

その形は寸胴型の五輪塔。

珍しい形と思われる。

右から元禄二年(1689)正月一日の「圓光院即心空如大師」。

その左は貞享三年(1686)の「覚眞成性居士」だ。

どうやら夫妻であるようだ。

左端は天和三年(1683)四月二十五日の「源法林・・・」である。

6年間中における五輪塔が3体も並んでいるのだ。

ちなみに巨大な五輪塔は「空、風、火、水、地」の文字がある。

慶安三年(1650)に奉られたようだ。

中央にある特殊な形の五輪塔よりも若干古い年代だ。

その左横にある石板には「為成實子 六代俗名 都筑総(惣)左衛門宣成」とある。

都筑総(惣)左衛門は郡山藩家老。

右の五輪塔とはどのような関係にあるのだろうか。

側面を見れば元禄六年(1693)・・・の文字がある。

この石版は元々あった石を割って新たに作ったのではと思われる転用石ではないだろうか。

それとも本多家の跡目を巡る争いであった九・六騒動・・・。



帰り道に発見した竹ヤリ。

ではなくてカキの実を採る道具の「ハサンボリ」。

テープを巻いて割れないようにしている。

これを十津川村では「ハサンバリ」と呼んでいるそうだ。

探訪時間も時が過ぎて夕暮れ。



田んぼの枯れ葉が美しく文様を描いている。

いつもの自然観察会でも通る畑の道。

畦から撮らせていただいた。



道路の傍らにある石造物。

これも観察会とときには見てはいても通り過ぎてしまう造物である。

気にはなっていたが何なのか判らなかった。

案内人が云うには村を流れる川を跨ぐ石橋だった。

車の通行の妨げになるからでしょうか、土手側にずらしている。

かつての石橋は三の矢塚近くにもある。



それぞれが直角になっている車道。

そこに石橋が架かっていたのである。

そうこうしているうちに権現さんに着いた。

東村の権現堂だ。

この年の7月24日に行事を取材させていただいた。

キョウモンザカと呼ばれている地にある。

「談山権現」の文字があると思われていた燈籠は愛宕山であった。

東□(□は北と推定)村とあった薄らとした刻印。

4年前まであった愛宕講の存在が燈籠にある。

愛宕さんへ参ってお札を貰ってくる。

愛宕講の代参だ。

シキビを買って奉ったようだ。

そのシキビを味噌樽に載せれば美味くなると云われた味噌作りをしていたようだ。

この日に歩いた歩数は7000歩。

距離的にはそれほどもないように思えた。

(H24.11.18 EOS40D撮影)

天ぷら食堂ゑびすや昼定食

2013年01月25日 06時49分45秒 | 食事が主な周辺をお散歩
発志院町の国道24号線沿いにある「天ぷら食堂ゑびすや」。

何年か前に食べに入ったことがあるお店だ。

店内で揚げたての天ぷらがいただける。

サクサク感がある天ぷらは美味しかった。

その機会がまったくなく数年も経っていた。

国道を走るたびにお店の看板を眺めては通り抜けるだけ。

久しぶりに訪れた「ゑびすや」。

車が何台も駐車場に留まっている。

以前に来たときは1台だけだった。

こんな処に食べに来る客はおるんかいなと思っていたが、そうではなかった。

同店の看板に釣られて入ったお店には自動販売機。

お目当ての昼定食のボタンを押す。

もちろんお金を入れてからだ。

昼定食の食券を渡してカウンターでしばらく待つ。

ジュワジュワと揚げる音が聞こえる。

店員さんが揚げている音にお腹がグーグゥ鳴る。

この日の昼時間は14、5人。

家族連れや仕事姿の人も居る。

お膳に載せたご飯とみそ汁。

天ぷらツユもある。

頼んでから4分後にやってきた3品の天ぷら。

ソーセージ、鶏のササミにチーズ入りのチクワだ。

次の3品はその後に出てくる。

時間差攻撃の揚げ膳が来る前は無料でトッピングできる自家製の香物もある。

目の前にあったのは千切り沢庵。

ご飯に載せて先に食べた。

これが美味しい。

炊き立てご飯はヒノヒカリ。

ほくほく温かいご飯は沢庵だけでも美味しくいただける。

ご飯の味がこれほど美味しいとは思っても見なかったヒノヒカリ。



しばらくすれば3品の天ぷらが揚がった。

カボチャ、ナスにピーマンの野菜天ぷら。

目の前で載せてくれた天ぷらの香りにワクワクする。

天ツユに浸けて食べた。

塩やカレー塩もあるそうだがこれが一番。

アツアツのホクホクにサクサク感がたまらない。

汁椀はトーフとワカメの味噌汁だ。

あっさり系で私の口に合う。

これで500円の昼定食。

なんとワンコインである。

平日だけのサービスに大満足する「ゑびすや」。

出てきた天ぷらが小さいと云う人もいるらしいが、美味しいご飯が大盛りの昼定食はお気軽、手ごろで丁度いい。

テーブルが離れていたので食べられなかったキムチ、ユズ大根などの香物は次の楽しみにしておこう。

店内には袋入りの天カスが置いてあった。

どうそご自由にということなのでいただいて帰った。



数日後の我が家の昼食は釜あげうどん。

出汁に貰った天カスを入れてみた。

これがたまらないぐらいに美味しい。

アツアツの天ぷらを思い出すぐらいに香ばしい。

大満足の天カスは翌月にはすっからかん。

それほど我が家の食卓を味わい深い香りにしてくれたゑびすやの天カス。

かーさんが「もうてきて」と頼むが・・・。

※ ゑびすやは閉店、令和元年現在は跡地にいきなりステーキ大和郡山店になっています

(H24.11.14 SB932SH撮影)

福住町西念寺十夜会法要の鉦講

2013年01月24日 06時49分15秒 | 天理市へ
かつては10日間。

10日間に毎夜の10夜に勤めていた十夜の法会。

天理市福住町の鉦講は8人であったが現在は5人で勤めている。

春、秋の彼岸も勤めていた鉦講も、5人であるゆえ年中行事のその都度のお勤めは難しい年齢になっていると話す。

現在はこの日の十夜を含めて正月を迎える大晦日の除夜の鐘、お盆の施餓鬼の3回を勤めている。

法会の場は西念寺。

そこには2枚の双盤鉦が置かれている。

鉦内側に「京室町住 出羽宗味 誠定作」と墨書されている。

2枚とも同じ記銘である。

その名はおそらく出羽大掾宗味であろう。

誠定は藤原誠定ではないだろうか。

奈良の双盤鉦は福住町以外に他所でも拝見したことがある。

鉦講は昔にあったが今は本堂に置いているだけだと話す各村。

一つは宇陀市室生の下笠間。

春覚寺の庫裏に納められていた双盤鉦には「寶永元甲申年(1704)七月五日 和州下笠間村春覚寺什物光空代 室町住出羽大掾宗味作」の記銘があった。

盆地部では大和郡山市井戸野の常福寺にあった双盤鉦に「常福寺念仏講 元文二年」(1737)の刻印が見られたが作者名は記されていない。

お寺の法会では使うことはないが葬儀のときには叩くという。

葬儀委員長が指名した鉦搗きが連打して一番鉦。

日の出のころに叩く呼び出し一番鉦である。

二番鉦は導師が入堂の際に叩く。

三番鉦は出棺のときだと話していた。

記銘はまったくなかった双盤鉦を所有しているのは天理市苣原大念寺の双盤鉦である。

当地においても鉦講が存在していたが何十年も前に解散したようだ。

宮本の長老たちは今でも鉦を叩いて念仏を唱えていた記憶があると云う。

苣原には昭和11年8月に書き記された『鉦打手習帳』が残されている。

当時はこの本をみて鉦を打っていた。

始めに大小の鉦の音を10回打つ。

「なあっぱいだ はい なあっぱいだ はい なあむまいだ はい なあっぱいだ はい なあむまいだ はい・・」の「地念佛」。

親鉦を先に一人2回ずつ打つ。

「流し」は「なあはいも はい だあはいほ はい」とくる。その後も「おだおけ」、「流し」、「大どそり」、「中どそり」、「小どそり」とある。

当時の鉦講は8人だった。

福住の鉦講は戦前に途絶えていたが都祁白石の興善寺で教わった昭和34年。

白石の双盤念仏を耳で聞き取って覚えたという。



当時に纏められた『鉦打手習帳』を双盤鉦の書見台に乗せて鉦を打つ。

本堂の奥片隅に居られる人たちは伝法講と檀家総代である。



始めの双盤鉦が打たれる。

「はぁー なんまいだー あーぁっいだー あぁはぁ はぁなあまんあぁいぃだぁあぁ なあっぱいだあぁ うぅあぃ うあぁいぃ なあまい なむぅあいだぃだあぁぁ」に続く「なあぁっぱんまいだぁ」は速くなる。

「えぇなっぱいだぁぶつ なあまいだ」で入堂した僧侶たち。

前後に鉦を連打すれば納骨法要をされる参拝者たちが入場する。



双盤鉦を打つのは僧侶の入堂、納骨法要の始まり、納骨法要を終えたときの3回である。

一年に一度の納骨法要は先代の住職が始められたという。

お骨を納める家族は廊下で受け付けを済ます。

その受け付けをするのも鉦講の役目。

受け取ったお骨を本堂に並べる。

満席になった本堂。

先祖代々の塔婆回向、追善菩提、仏しょう献上者の名を詠みあげる。

阿弥陀さんに御徳奉上に南無阿弥陀仏。

再び双盤鉦台に登った鉦講。

鉦打ちの人が交替した。

カーンと鳴る双盤鉦。

「なぁあぁまいぃだあぁ」。カーン。

「なあぁまあ あ あ あぁいだぁ あ あぁ ぁ いあだ なあまんまぁあぁあぁあぁいだぁ あ あ いだぁ なぁんまぁ あ あいだぁ」。カーン。

撞木を上方にあげて横から打つ。

ときおり後方へも返しながら打つ。

そうして法要は説教導師の語りに移る「へぇぇなっぱいだあ へぇなっぱいだあ」で鉦を連打する。

およそ1時間で説教を終えた。

不断に手を合わせて念ずる十夜の法会。

「この世界において善を処する十日十夜なれば、昼夜のことなく念仏は善とする。仏さんのおられる極楽の世界。何千年よりも貴い功徳。10日間の願を掛けた結願の日」であると説く住職の話し。

ガーン、ガーンの双盤鉦の音色とともに下堂する。

「なぁんまぁ あぁ あぁあい いぃだぁああぁ あぁあぁあぁ なあぁんま ままあぁいだぁ あぁあぁ えぇ えっなっぱいだぁ えぇえっ なっぱいだぁ」の間に納骨永代回向料納めの札を貼る鉦講。

そうして十夜の法会は納骨会式に移った。

本尊前に置かれたお骨に手を合わせて焼香する参拝者。



すべてを終えたと思った法会は伝法講と鉦講が残って大玉の数珠繰りをする。

本堂いっぱいに広がった講中の手には数珠がある。

右へ右へと繰り出す数珠繰り。

数取りがいくつであったが判らない。



重さがいくらになるのであろうか束ねた数珠をもつ鉦講。

背中をなでるように一人ずつ数珠をあてる。

身体堅固のありがたい数珠である。

(H24.11.13 EOS40D撮影)

トライアルの玉子太巻

2013年01月23日 06時48分52秒 | あれこれテイクアウト
それなりに美味しいトライアルスーパーのお寿司。

ときおり購入している。

この日の特価にあったのが巻き寿司ならぬ玉子巻き。

太いから太巻きだ。

玉子には味付けはしていない。

シイタケも入っているようだがカニカマボコ・・・。

取材直前によばれたがパンチがない巻き寿司に食欲は進まない。

子供さん向けなのであろうか。

(H24.11.13 SB932SH撮影)

北白木女座のお渡り

2013年01月22日 09時50分44秒 | 桜井市へ
女座の宴はかれこれ2時間。

心地よい宴を過ごした時間の外は真っ暗。

拝殿には灯りが灯され幕も張られていた。

「ながい間、ごっつあんでした」と太夫が一言挨拶をされて座は仕舞われた。

立ち上がった婦人たちは神社に持ち込んだ高張提灯を手にする。

提灯持ちには男性数人が混じっているが大勢は婦人たち。

目指す家は神さんを一年間祀っていた旧当屋。

ここでおかしいことに気がつく。

新しく神さんを迎えたのは受け当屋。

それがなされたのは10日のオトサシである。

北白木の神さんは男の神さんと女の神さんがいるという。

受け当屋には神さんが遷されたが、以前として旧当屋家には神さんが坐していたのだ。

どちらが男の神さんであるのか判らないという村人。

実にややこしい。

暗闇の道は足元が見えない。

懐中電灯を照らして旧当屋家に向かって歩くこと5分ほど。

それほど遠くはないが時間がかかる行程である。

玄関先に竹を立てて注連縄を張っていた旧当屋に着いた。



屋内で祀っていた御幣を取り出す代理の太夫。



神棚に向かって一礼を済ませて数々のオシメイリされた注連縄を取り外す。

玄関に奉られた注連縄も同じく外す。



同時並行してローソクの火を燈された高張提灯。



揃って出発した提灯行列。

先頭は御幣を持つ太夫と注連縄などを抱える長老。

再び暗闇に包まれた道を戻っていく。

一年間も神さんを祀っていた旧当屋家から神さんを迎える行列である。

戻りの夜のお渡りは提灯の明かりが夜道を照らす。



「ちょーさじゃ ちょーさじゃ」と掛け声を囃しながらお渡りをする。

毎日を塩、米、お酒を供えて神さんを祀っていた旧当屋がほっと肩の荷を下ろした夜である。



階段を登ってあがれば直ちに御幣と注連縄を本殿に納める。



その作法を見守る高張提灯を持つ婦人たち。

座といい、提灯持ちといい女座の夜はこうして幕を閉じた。

(H24.11.12 EOS40D撮影)