マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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小夫・井戸の神さん

2018年09月29日 09時37分29秒 | 民俗あれこれ
塔参りの日も井戸の神さんを祭ってお供えをした。

正月迎えの注連縄もしている。

大工さんに頼んで井戸に蓋をしてもらったらあまりにも精巧すぎて水が溜まる。

現役に見えそうな釣瓶は今では使っていない。

そう、話してくれた当主はスモモの収穫作業に汗だくになっていた。

(H29. 8. 6 EOS40D撮影)
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天井に「空」

2018年08月03日 09時09分18秒 | 民俗あれこれ
魔除けの紫陽花習俗取材に寄せてもらっていたS家である。

ふと見上げたお部屋の天井である。

仏壇を納めているその一角の天井に「空」の墨書を貼っていた。

初めて見る、これは・・。

新築した際に仏壇の位置を替えた。

神さんは天に戻るとかいうが、仏さんもそういう観念があるが、これは何だろう。

「空」の書はご主人が書いていたという。

ご祈祷してもらった「空」の書。

ネット等で調べてみれば、「天上符」のようだ。

「天」の書は「天上符」。

「雲」の文字なら「雲上符」。

仏壇屋さんが詳しいようだが・・・。

要は、仏壇や神棚があるお部屋の真上に2階の部屋がある場合である。

2階に居るときに、1階に仏壇があることを忘れて、踏んでしまうことになる。

そのような場合に貼る天井の護符が「天上符」、「雲上符」。

その上(2階)には何もない天や雲であると知らせる書。

仏壇の上は清浄で何もないという一種まじないのようなものである。

仏壇屋さんに売っているらしく、裏面シールを剥がして貼るタイプもあるようだ。

(H29. 6.26 EOS40D撮影)
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不思議な石積

2017年05月11日 07時44分14秒 | 民俗あれこれ
何十年も前からこの場を通り過ぎる。

その度に不思議な景観の正体が気になっていた。

気にはなっていても連れたちに申しわけないと思って走り過ぎていく。

この日は単独行動の民俗取材。

こういう機会に一度は尋ねてみたい不思議な石積の正体。

車を停めてその民家におられた男性に聞いた。

その結果は・・・。

「石」の民俗に挙げたかった情景は・・・・・「石」好きご主人の趣味であった。

お話してくださったのは当主の息子さん。

自宅の畑で作業をしていた。もうすぐ父親が戻ってくるから直接聞いてほしいとおっしゃる。

家屋周りにもたくさんの「石」が置いてある。

それらはいろんなところで購入した石。

置物になりそうなものもいっぱい並べて散財したとか・・・。

さて、正体を知りたかったのは門口に積んだ石である。

当主が云うには「面白いから積んでいますんや」だった。

この場は日本の滝百選の一つに挙げられる笹の滝に向かう大通り。

こうしておけば誰かが気にかけてくれるだろうと積んでいたご主人のお遊びであった。

まんまと引っかかってしまったわけである。

(H28. 9.15 EOS40D撮影)
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庵治の貝ボタン抜き取り跡

2017年02月03日 09時21分00秒 | 民俗あれこれ
さて、これはなんである、だ。

天理市の庵治町を南北に通る街道を歩いていた。

道は当然ながらの舗装道路。

車の往来はそこそこある街道であるが、かつては古代の官道の大道。

下ツ道である。

そんな面影はまったく見られないが、ふと路肩を外れた処にキラキラ光るものがあった。

地面に埋もれているキラキラ感は何であるか、である。

破壊されたモノには違いないが・・・僅かに人工的に開けたと思われる丸い抜きがある。

その形状を見て思い出したのが貝ボタンである。

ここではないが、貝ボタンが民家近くにたくさんあったことを覚えている。

同じように地面に埋もれている形だった。

付近に住む人に聞いてみた結果は貝ボタンの欠片である。

商品価値にもならない欠品は地面に捨てる。

そう、お話していたように思える。

海のない奈良県に落ちていた貝は加工品。

天理市の隣町の川西町は代表的地場産業に貝ボタン製造がある。

川西町は全国トップシェアを誇る貝ボタンの町。

明治39年、2軒の製造業者が始めた貝ボタンン作り。

大正初期の時代より大きく成長したそうだ。

家内工業的発展を遂げた貝ボタン産業は手広くなり周辺市町村にも・・。

私が平成17年5月5日に出合った貝ボタンの破片が落ちていたのは田原本町の矢部だ。

ここも川西町に近い。

捨て場だと想定される地面に埋もれていた貝をどことなく見ていた。

破片の一部に三角型がある。

たぶんに巻貝。

種類は何だろうか。

貝ボタンの素材はいろいろあるが巻貝系は高瀬貝や広瀬貝にグリーンシェルがあるそうだ。

短文に編集しなおしたこの記事をFBに掲載したら、知人のSさんが書かれた誌面を伝えてくださった。

併せて彼女が担当した記事は「さんち~工芸と探訪~」シリーズの「海のない奈良でつくる、日本一の貝ボタン」だった。

取材先の会社は川西町唐院の株式会社トモイである。

Sさんの素敵な文章に添えた写真も素敵だ。

文章もそうだが、真似したくなるとらえた方に撮り方も学ぶ点が多々ある。

(H28. 7.16 SB932SH撮影)
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初成り御供のモロッコインゲン

2017年01月24日 09時26分04秒 | 民俗あれこれ
廃屋になっていた農小屋を撮っていたときのことだ。

下から軽トラが登ってきた。

地蔵堂下の三叉路でUターンを仕掛けたドライバーさんはほっかむりをしていた老婦人。

切り返す度に「危ない」と思わず声が出てしまう。

バック運転が心もとない。

困っている人をそのままにしてけば崖下に落ちる可能性があると思って誘導する。

ハンドルきってアクセル。

バックもこうしてハンドルきりをすると伝える。

何度も、何度も前進、後進切り返し。

なんとか切り抜けた軽トラに積んでいたインゲンマメが気になった。

停車した処はご婦人が住まいする家。

若いもんと同居生活をしているそうだ。

昭和11年生まれのN婦人はいつも畑にでるようだ。

気になったのは収穫されたインゲンマメである。

先ほど拝見した地蔵堂境内に建つ庚申さんにお供えがあった。

それがインゲンマメだったのだ。

もしかとして、と思って声をかけたらNさんが供えたものだった。

インゲンマメはモロッコインゲン。

最近は市場によくでるようになっているらしい。

フライパンで炒めて玉子とじしたらとても美味しいという。

どっさりあるから持って帰りと云われて袋詰めしてくれた。



さらに伺った庚申さんにお供え。

前月の6月12日に訪れたときにもお供えがあった。

それは万願寺トウガラシだった。

お聞きした結果は、それもNさんが供えたもの。

栽培した野菜の初成りにはいつもこうして庚申さんに備えているという。

初穂で稔りの稲穂になるが、婦人が供える野菜の初成りも初穂の在り方。

収穫に感謝して農の神さんに初穂をするということだ。

できれば初穂の姿を撮りたいがいつになるやらわからない豊作を願う在り方に感動した日であった。

(H28. 7.10 EOS40D撮影)
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稲渕の水口にイロバナなく、路傍の石仏に在り

2016年11月06日 07時54分39秒 | 民俗あれこれ
この日に苗代を作ってイロバナを立てると聞いていた。

が、である。

急遽、仕事場にでかけることになった息子さん。

中途半端になった作業は中断し、翌日3日に順延したというUさん。

イロバナ見るならOさんの苗代にあるはずだと指をさす。

そこ下った処にあった苗代田。

あればすぐにでも見つかるイロバナ。

周り全体から隅々まで念入りに探してみるが見つからない。

立ててあれば、水口辺り。

忘れているのかもしれない。

下って飛鳥川を跨ぎる橋を越えた段丘にも苗代田がある。

こちらは白い幌を被せていた。

念のためと思って周囲を探してみるが見当たらない。

Uさんが云うにはかつて「ナエマツ」も立てていたという。

15日から始まるオーナー制度の指導者も知らない。

知らないから始まって以来ずっとオーナー制度に登録、作業をしている人たちも知らないイロバナ立て。

それすら知らないから、もちろんのことナエマツも存じていない。

60代ぐらいの指導者はそういう経験がないから知らないのだと言い切る。

仕方なく振り返った段丘。



すぐそばにイロバナがあった。

それは苗代ではなく路傍の石仏に、である。

信仰はここにあったが、豊作を願う苗代にはなかった。

(H28. 5. 2 EOS40D撮影)
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福住別所下之坊の庫裏解体作業

2016年08月12日 08時30分41秒 | 民俗あれこれ
わたしから電話をしたのか、それとも架かってきたのか思いだせないが、急遽出かけることになった行先は天理市の山間部。

これまで取材した民俗行事に「御誓(ごせ)」という呼び名のオコナイ行事や新しく建築された地蔵堂の落慶法要に市指定無形文化財の「さる祭り」がある福住町別所の永照寺下之坊だ。

別所では住民が正月初めに行うイタダキの膳とかカンマツリも取材させてもらったことがある。

下之坊は真言宗豊山派の古刹。

推定800年とされるバラモン大杉を求める旅人が来訪する坊でもあるが、普段は扉も開いていない。

かつては上之坊、中之坊に現存する下之坊など六坊があった長谷寺末寺。

延享元年(1744)の大火災によって消失。

翌年に下之坊が唯一再建され、

本堂の修復に庫裏を建てた。

本堂はやがて文化五年(1808)および明治22年ころに修理された。

庫裏の解体作業が行われている場は通行止め。

下之坊の看板が立つ地より迂回する里道を歩く。

坂道であるが急坂でもない。

ところが、この頃の私の身体では急ぐこともできない。

足があがらず一歩、一歩を踏みしめるように登っていく。



小雨に濡れた美しいサザンカの花が目に入った。

人家があるわけでもない処に一般的なサザンカが植わっていた。



ここは最近になって整備された墓石が建つ。

雨に打たれて散り落ちた花が愛おしい。

小雨であるが、雨は止まない。



登ってきた道は円を描く。

稲田も合わせて円を描く。

刈り取った田に伐採した竹。

何に使うのだろうか。

そんなことを思いながら坂を登ってきた。

緩やかな坂のように見えるが、私にとっては堪える坂だった。



濡れた樹木に侘びを感じる。

ツタが絡まった桜の木でもなさそうな樹木の老齢に何を物語るのか・・。

業者の手によって解体作業される庫裏の姿に思いをだぶらせる。

解体作業の邪魔にならないように一歩、二歩下がって佇んでいた電話の主。

カメラを肩から下げたままだった。

この場で大きな声をあげては作業する人たちに迷惑をかける。

作業をそっと見守るように立ち尽くす。

しばらくすれば、休憩ではないが、やや小休止。



その間を見計らって下之坊前の境内に移動する。

翌月の12月23日は別所のさる祭り

村の人たちはこの場の境内で綱を結う。

架かってきた電話の主のお誘いに急行した理由がある。

キリンちゃん重機で屋根を解体する。

解体が済めば、その作業は二度と見ることがない。

少しでもカメラに収めて記録しておきたい。

そう思って急行する。

作業は午後3時半になっても終わっていなかった。

着いたときは、終わりかけの屋根の解体作業中。

なんとか間に合った。



油圧式ショベルカーのキリンちゃん重機の先は首振り。

解体した部位を首振り爪(グラップル)で掴んで下ろす。



廃材は木材、金属などに分別して大型ダンプトラックに積み込んでいた。

庫裏の解体と聞いて確かめたかった屋根の部材がある。

茅葺であればススダケがあるはずだ。



下之坊の庫裏の内部は若干であるが、拝見したことがある。

御誓(ごせ)」という呼び名のオコナイ行事を取材したおりに拝見した扉の向こう側。

庫裏座敷に住職を迎えた村の人たちがおられた。

土間だったことは覚えている。

竃はなかったように思える。

座敷は上がっていないから囲炉裏があったかどうか判らない。

大屋根の解体に金属物があった。

たぶんにトタン板であろう。

むき出しになった屋根の支柱に古いものもあれば新しい材のように見えるものもある。

藁綱で編んだ割り竹もあるが、ススダケは見当たらない。



延享元年(1744)の大火災によって消失した翌年に下之坊本堂の修復の際に庫裏を建てた記録があるようだ。

本堂は文化五年(1808)および明治22年ころに修理されたという記録もあるが、庫裏については判らない。

材の様相から延享二年(1745)築と思われる庫裏は、その後のいつか判らないが、何度か修理されたようようだ。

むき出しになった真新しい材が見える。

その状態から推定するに昭和の時代のように思えた。

(H27.11.25 EOS40D撮影)
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優しい光の里風景

2016年07月06日 09時33分55秒 | 民俗あれこれ
造営祭典を終えた小山戸の造営委員や神職、棟梁たちは参籠所で直会をしていた。

無事に終えて一息ついた村人の姿を見ながら帰路につく。

そのころの時間帯は午後4時。

日が暮れる手前の時間帯だった。

落ちていく夕陽が輝く手前だ。

斜光は田園を染めつつあった。

割った槇を積んでいる農小屋が赤くなってきた。

そこにあった実成りの柿とともに染まっていく。

稲刈りをして立てた藁束もある。

なんとも言えない優しい景観に佇んでいたい。

そう思っていたが、ここは駐車できるスペースが見当たらない。

ちょいちょいと撮らせてもらって再出発した。

(H27.10.18 EOS40D撮影)
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嫁入り持参のモンペとヒッパリ

2016年05月02日 09時05分12秒 | 民俗あれこれ
82歳のおばあさんが着ていた野良着が気になってお家を訪問する。

昭和37年、奈良市中畑のI家に嫁入りに持参したときのモンペは今でも残しているという。

上着のヒッパリもあると云って長持から引っ張り出してくれた。

かつては土間。改築する際に高床にされた処に広げてくれた。

左は山城絣で織られたというヒッパリ。

下の方に広がりがある。

右は久留米絣のモンペ。

腰ひもは長い方が前で短い方は後側。

「脱ぐとき、着るときはいちいち結ばなあかん。手間やからゴム製のモンペのほうがラクやと云って履くこともない」というモンペは嫁入りのときに姉ちゃんか母親が裁縫してくれたと話す。

54年前のモンペ・ヒッパリは木綿。

虫は喰っていないが、足首を締めるゴムは経年劣化していたので広げることはできない。

今ではナイロン製のモンペを履いている82歳のおばあさん。



同じくナイロン製のサッカープリントのブラウスも撮って構わんよと云われて撮らせてもらった。

嫁入り持参のモンペとヒッパリは自家裁縫。

ナイロン製のモンペやブラウスはお店で売っている。

奈良市の餅飯殿にある「つぼや」とか天理駅前の本通り商店街で買うそうだ。

そういえば大宇陀在住の72歳の婦人もそこで買っていると話していた。

探してみればモンペも売っている「なかにし洋品店」のようだ。

(H27. 6.20 EOS40D撮影)
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下笠間米寿祝いのテハン

2015年11月21日 09時13分48秒 | 民俗あれこれ
室生在住の知りあいの家を訪ねた。

入った玄関扉上に数枚の「手形」が貼ってあった。

80うん歳の奥さんがいうには米寿祝いの「テハン(手版)」。

女性は右手で男性は左手の手形を押す。

かつては数え年88歳にしていたが、意見が出て満年齢になった。

1月20日は村の初常会。

そのときに配られる祝いの印し。

100歳の百寿には朱塗りの「テハン」になるという。

米寿祝いにオボン(盆)、チョウシ(銚子)、メシジャクシ(飯杓子)<一般的にはシャモジ(杓文字)>などが配られた。

村の各戸や親戚中に配っていたが、廃止したと云う。

祝いの品は違うが大和郡山市・長安寺町や田原本町・八田では砂糖を二袋ずつ村各戸に配るという風習がある。

今ではしていないが桜井市の小夫嵩方では箸だったと聞く。

米寿の祝いの品も調査しなければ・・・と思った。

(H27. 2.15 EOS40D撮影)
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