マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

高樋町・E家の先祖さん迎え

2018年10月12日 09時10分09秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
夕方になる前に着いておきたい地域がある。

旧五ケ谷村もしていると教えてもらったオショウライサン迎えである。

そのことを話してくださったのは奈良市興隆寺町に住むIさんだった。

藁の松明を門口に立てて火を点ける。

そして、家にある小鉦を打ちながら先祖さんを迎える。

夕刻と云っても時間幅は広い。

鉦の音色が聞こえてくれば間違いなくされている。

待っておれば巡り合うかも、と思ってバス停近くで待機していたが、気持ちが少しずつ萎えてきた。

確定的にされているお家がどこであるのか、それがわからずに待っていたら気が重たくなるのは当然であろう。

エンジンを始動して場を離れた。

下った旧五ケ谷村の旧道沿いにある高樋町の民家はどうなんだろうか、と思って神社下の駐車場に停めた。

ここでも鉦の音を待っていたが、あてのない状況待ちに時間ばかりが過ぎていく。

ここもまた待ちきれずに諦めて場を離れた。

駐車場から十数メートル。

開放していた車の窓。

鉦の音があればわかるようにしていた。

急な坂道を下っていった十数メートル。

車窓の向こうに人だかりが見えた。

その姿は、まさに先祖さんを迎えている状況である。

車は道端に緊急停車。

大急ぎで駆け付ける迎えの場。

ご家族に急なお願いをして撮らせてもらう。

息子さんと思われる人は燃やした藁火から線香に移していた。

その横では孫の女児が小鉦を撞木(しゅもく)で打っていた。

線香に火を移し終えたら、自宅に戻る。

先祖さんを迎えた線香の火が消えないようにそろりそろりと歩く。

さらに、お願いする当家の在り方取材も受けてくださった。

取材主旨を伝えて上がらせてもらう。

慌てていたからストロボは持ち合わせていない。

部屋中はやや暗い。息子さんは仏壇にあるローソクに火を移した。

小鉦はいつのまにか消えていた。

どうやら屋内に入る手前、玄関口までだったようだ。

先祖さんを迎えた線香は線香立てに。



手を合わせて拝んでいた。

仏壇のお供えはお盆のハクセンコウ。

一つは蓮を象った形である。

御供下に広げた大きな葉っぱは蓮の葉。

その周りにいっぱい並べている何かがある。

撮影時は気がつかなかったが、帰宅してから画像を拡大してみればヘタのある青柿だった。

長めの細い節のある植物は何だろうか。

それぞれが2本繋がりの形。

今まで見たことのない青物である。

輪切りした若干数の茄子もある。

短く切ったアサガラは2本ずつ。

先祖さんが食べるアサガラの箸とともに、小さ目の蓮に盛っていた。

奥さんに話しによればかつては蓮の葉でなく、カボチャの葉を使用していたそうだ。

今は、スーパーで売っている蓮を買ってきて供えているという。

奥さんは陽のあたる廊下に移動した。



そこにあったのは大きな深鉢に盛った御供さん。

これは「ガキ(餓鬼)」さんのお供えだという。

仏壇と同じように花を立てて御供を盛る。

大きな蓮は皿代わり。

ヘタのある青柿にササゲ豆。

仏壇にあった節目のある植物は二股形のササゲ豆であった。

輪切りのキュウリも盛っていた御供に青りんごも。

ちなみに青柿はミズガキと呼ぶそうだ。

いずれも家で栽培している植物である。

七ツの穴を開けた輪切りの茄子は線香立て。

こうする方が安全性を保てるという。

線香を立てたらローソクにも火を点ける。

そして、ガキサンにお茶を入れた一杯を添える。



初盆(にいぼん或いははつぼん)の家では廊下に「アラタナ(新棚)」を建てる。

丸い形のアラタナに四角く杉の木の葉を被せるのが高樋町の習わし。

その習わし話しに教えてくださった生駒の習俗も。

生駒のどの地域か存じないが、ある村落ではアラタナを祭る家に村の人たちが参りにくるという。

その参拝の在り方に水に浸けた葉っぱで清めるという。

参拝者は身体を清めてから屋内にあがるのがしきたりである。

ちなみに水に葉を浸けて供養するのは一般的に水供養という作法である。

先祖さんをお迎えする時間帯は午後5時半ころ。

送りの15日は午後6時。

少しでも遅くまで家に居てもらいた送りの時間帯である。

話しをしてくれたのは旦那さんのEさん。

なんと氏神さんの行事に何度も世話になったMさんだった。

急な取材にお礼を述べて屋外に出たその向こうに、今まさに火を点けて燃やした藁火から線香に移していた二人がおられた。



こちらの二人にも急なお願いをして撮らせてもらった。

男性は昭和8年生まれのMさんは旧五ケ谷元自治連合会長。

その姿、矍鑠(かくしゃく)とされているMさんは娘さんと思われる女性とともに先祖さんを迎えていた。

当家もまた同じように小鉦を打っていたようだ。

E家もそうだが、家を出た辻で先祖さんを迎えていた。

線香は先祖さんなので家に連れていくが、燃やした藁火は火が消えたのを確認してから、捨てるというMさん。

先祖迎えの日は朝早ようにお寺さんが参ってくれたと話していた。



2軒の先祖迎えを取材して再び立ち寄った興隆寺町。

高台の方から鉦を打つ音が聞こえてきた。どこでされているのか、場だけでも知りたいと思って急な坂道を昇ったら見つかったが、遠慮して村を離れた。

高樋町では午後5時半ころ。

興隆寺町は6時ころにされていることがわかった。

当地へ来るまでに帯解街道にも先祖迎え。

山町の先祖迎えは線香を手にした婦人が東から西に向かって歩いていた。

そのときの時間帯は午後5時15分。

地域によって、或いは個々のお家の考えで時間はさまざまのようだ。

高樋町から帰路に選んだ集落道は天理市中之庄町。

鉦の音でも聞こえてきたら、と思って走らせたら通り過ぎた。

そのままずっと下れば森本町になる。

時間帯は午後6時半になっていた。

そこで遭遇した2人の老婦人。

車を停めて話しを聞けば、手にしている線香。

もう一つはホームレスと云ったのが印象的だったこれらの様相も記録と思って付記しておく。

(H29. 8.13 EOS40D撮影)
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米谷町・白山比咩神社の農休みの麦初穂

2018年08月15日 09時21分19秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
農家であれば収穫した玄米を。

農家でなければ店屋で購入するなどで入手した精米を神社に奉納する。



その量はいずれであっても米1升。

重箱に詰めた御供は風呂敷に包んだまま氏神さんに供える。



拝殿に置いて供える神社は奈良市米谷町・白山比咩神社。



どのお家も柄のある風呂敷に包んで供えていた。



供えた御供は拝殿で詰め替え作業をする月当番のサタニン(助侈人)に手渡す。

その数多く拝殿廊下にずらりと並ぶ時間帯は、参拝者が増えるいっときである。



サタニン(助侈人)は供えた順に並んでいる風呂敷一つを取り上げて敷布を紐解く。



蓋を開けた重箱にお米がびっしり。

いっぱいに盛った御供は米袋に詰め替える。



唐臼した玄米であっても、精米であっても米の品種はそれぞれ。

さまざまな味わいが混ざり合う。

空いた重箱は布で拭って綺麗にする。

その重箱に二つの餅を入れる。

一つは和菓子屋さんに注文して作ってもらったセキハン(※糯米で作った赤飯)。

セキハンは箸で摘まんで適量に盛る。

もう一つは形を調えているキナコモチである。



かつて二毛作時代だったころは麦初穂であった。

奉納の御供下げ代わりにお返しする茶碗一杯の餅米赤飯とコムギモチであった。

麦で作ったコムギモチは、田植えを終えた時季的にいっても“サナブリモチ“である。

麦作をしなくなった現在はコムギモチ(サナブリモチ)でなく、その代わりのキナコモチである。

平成6年に発刊された『五ケ谷村史』に、7月1日は農休みの麦初穂とある。

12月1日は米初穂の新嘗祭とある。

初穂は一年に二度。

二毛作であったことがよくわかる資料データである。

農休みの麦初穂はこう書いてあった。

「麦の初穂を供えて収穫を感謝する。宮司が参詣し、十一人衆、氏子総代、町役員、上ノ坊住職が参加する。この日はソラ豆のコフキと胡瓜の薄切りを肴に飲食した。また、小麦粉を潰してキナコをつけたコムギモチを作り、お参りの人に配った。ミヤモリ(※村神主)は赤飯を作り、各家に分けた。この日に供えられた麦は、カンヌシ(※村神主)の収入となっていた」とある。

一毛作となった現代は麦を栽培することはない。その代わりに麦からお米に替えた。

収穫した新米を供えるのは新嘗祭。

平成28年12月1日に取材した。

新嘗祭に御供した新米は年中行事を務める村神主に感謝、そしてお礼を込めて捧げられる。

これを神主落ちというようだ。

麦初穂も同じように御供は村神主が受け取る仕組みになっている。

その代わりに氏子にお礼のお返しに配られるのがセキハンとキナコモチである。

昔は村神主家で村の戸数分を作っていたが、たいそうになったことから和菓子屋さんに頼むようになった。

作りの手段は替わったが、お礼の気持ちはかわりない。

麦秋の時季に供える米谷町の麦初穂に栗の木がある。

置いてあった場は鈴緒のある拝み所。

村神主が山に出かけて伐ってきた栗の木である。

麦の収穫を終えたら稲作に移る。

かつてはそうしていた。

刈り取った田んぼは稲作。

育苗した苗は田植え。

その植え初めに栗の木を立てる地域がある。

天理市福住より東になる山間地。

天理市山田町の下山田や中山田に数々あった植え初めに栗の木があった。

田植えをする一角に立てて豊作を願う習俗である。

山添村の切幡や大塩にもあるし、桜井市の小夫嵩方でもみられる習俗である。

欲しい人は持ち帰ってもらって良しとしている米谷町の栗の木である。



この日に置いていた葉付き栗の木。

拝殿に置いたのは村神主のTさん。

持ち帰ってもらうのに7本揃えた。

置くには置いたが、何をするのかは知らない、と云った。

「こんなんはゲンのもの。畑には何もせーへん(※立てることはない)が、神棚にまつるぐらいなもの。子どものころの昔は、家でコムギモチを作って食べていた」と話してくれたのは一老のKさん。

ご高齢の婦人は、「うちは神棚にまつっていた。お爺さんがおったころは、田植えのときに挿してはった」と話してくれた。

生前のお爺さんがしていた植え初めの儀式である。

具体的にどうだったのか、覚えていないというが、おそらく私が想定する麦刈りを終えた直後に水張りをした田植え。

その植え初めの行為に栗の木を立てていたと想定する。



膳に出す料理に漬けもんにした胡瓜があった。

熱くなった身体を冷やすのに食べる胡瓜の漬物である。

農家の営みは神社行事のなかで見られるが、麦栽培をしなくなった今は見ることはない。

初穂は「米」になったが、今もこうして伝統を続けているとNさんが話してくれたが、村史に書いてあったコフキのソラマメ御供は見られなかった。

ちなみに、「麦秋」とは、麦穂が稔って収穫期を迎えた初夏の時季をいう。

(H29. 7. 1 EOS40D撮影)
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米谷町・ノヤスミのタケノコ飯

2018年05月25日 09時35分26秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
奈良市米谷町に鎮座する白山比咩神社。

この日は宮座の四大行事の一つである「タケノコ飯」行事。

四大行事は2月の「田楽飯」、5月から6月にかけての「タケノコ飯」、10月の「マツタケメシ」、12月の「くるみ餅」がある。

宮座十一人衆が季節の節目に旬のものをよばれる座行事は村神主が接待する行事。



参拝前に献饌しておく御供。

洗い米に小豆を包んだ御供にパンも供えている。

それ以外の御供に季節ものの野菜もあるし、サイラ(サンマ)の開きなどなど。



座中、一人、一人がめいめいの参拝。

いつもと同じように参拝する姿に、これもまたいつもと同じようにシャッターを押す。

手水で清めて本社拝殿より正面に向かって拝礼する。

次はチンジさん(鎮守社)と呼んでいる山王神社にその横に建つ遥拝所の参拝。

大正六年四月三日に建之された神武天皇の遥拝所にも参られる。

月例であっても村行事であってもかわらない参拝の在り方である。

参拝を済ませた座中は参籠所に籠る。



所の炊事場のテーブルいっぱい並べた料理皿がある。

一つは筍の木の葉和え。

木の芽を添えている料理である。

二つ目は筍と蕗の煮物。

三つ目に菊菜とほうれん草のおひたし。

四つ目の料理が金時豆の甘煮。

香の物もある料理は村神主家が心を込めて作った手造り調理でもてなす座の料理である。



参列者全員が揃ったところで供えていたお神酒を下げる村神主。

それが座の始まり。



早速、動いた二人のサタニン(佐多人・助侈人とも)が給仕する。

席についた座中にお神酒注ぎ。



席にあるパック詰め料理に加えて、手造りの筍料理や香の物も運ぶ。

これらの皿盛りは一人前が一皿でなく、数人に対しての一皿になる。



お神酒や膳が揃ったところで一同は乾杯。

一口、二口よばれてからのしばらく。

冷酒のお神酒から熱燗になった。



それからのサタニンといえば、とにかく忙しく動き回る。

お酒の注ぎの声がかかれば、熱燗の酒を席に運ぶ。

いつ、お声がかかるかもしれない。

突然のお声に反応して直ちに温めていた熱燗をお銚子に注いで座中のお席を巡る。

座が始まってから1時間半ほど。

汁椀を座卓に配られるよう、お声がかかる。



時間を見計らって吸い物汁を温めていた。

熱いすまし汁をお椀に注ぐ。

汁椀はハマグリのすまし汁。

注がれたとたんに海の香りがする汁椀である。

すまし汁をいただいている間はお声もかからない。



その間に動き回っていたサタニンさんもよばれに移って食を摂る。

2月に行われた「田楽飯」の座行事も早かったという。

あるときは昼寝をしていたこともあって、遅くなることもある。

座行事が終わった時間帯がこれまで一番遅くなったのは午後5時。

やっと解放されたと思いだす人もいる。

この日の行事に「昔の行事は小豆粥をよばれてから終わりだった」という人も。

時代、時代の変革に行事食はこれからも変容していくこともあるだろう。

(H29. 5. 7 EOS40D撮影)
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中畑町の水口まつりの様相

2018年05月07日 08時44分49秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
高樋町から山間地に向かって車を走らせる。

西名阪国道に架かる橋脚下を潜って、さらにもっと上の地になる奈良市の中畑町へ。

今年も変わらず、毎年同じ場の苗代田に松苗があった。

中畑町の鎮守社も高樋町と同じの春日神社である。

松苗を奉る行事は1月2日に行われる新年祭である。

版木で刷ったごーさん札をウルシ棒に挟む。

さらには松苗もある。

それを苗代に立てる時期はだいたいが4月10日前後の日曜である。

早いお家は4月の第一日曜日にしている。

1カ月も経てば田植えが始まる季節になる。



水を張っている田んぼも多くある。

この場に来るまでに道ですれ違った男性がいる。

軽トラに乗って下っていった。

水張りしていた田んぼの向こうの向こう側に建つ家がそうであるが、そこに数人が立っていた。

見送っていたのはたぶんに母親のIさん。

車を走らせて近寄ったらそうだった。



なんでもこの日は来客友人待ち。

揃ってBBQをしてもてなすと話していた。

その友人たちは道に迷ったと電話があった。

それで下っていった息子さんだった。

(H29. 5. 3 EOS40D撮影)
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高樋町の苗代イロバナ

2018年05月06日 09時17分16秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
天理市の和爾町から東になる旧五ケ谷村を行く。

里の地にある高樋町は奈良市が行政区。

数か所の苗代田に水口まつりをしている。

うち一カ所は集落をバックに撮っておきたい景観である。

白い幌があるから苗代田はすぐに見つかる。

車路からぐっと廻って下りてみる。

そこにはイロバナがあったが、松苗は見られない。

昨年に訪れたときも同じ場所。

そこには松苗があったが、今年はない。



高樋町の神社は春日神社。

3月1日の春祭りに松苗を奉っているはずだが・・。

(H29. 5. 3 EOS40D撮影)
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旧五ケ谷米谷の水口まつり

2018年04月28日 14時10分07秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
榛原山辺三のコイノボリを拝見した帰り道に旧五ケ谷米谷を選ぶ。

西名阪国道の下り道。

五ケ谷ICを出て村へ一旦は上がる。

そう思っていたが、五ケ谷ICを見逃してしまい、天理東ICまで行ってしまった。

信号があるところは天理市の岩屋町。

その集落もときおり訪れる地。

そこから谷沿いに里道を上っていく。

狭い里道に抜け道カーブ道を選んで上がる。

集落から離れたら、そこは畑地。

谷あいに拡がる田園地はいつしか奈良市の米谷町に繋がっていた。

里道は農道でもある。

あそこに確かあったはずだと思って車を停めた。

目を細めたら白いものが見える。

それは2枚のお札。

広げるわけにはいかないが、お札の文字はわかる。



右に「牛王」。

左が「寶」に「印」であろう。

そして中央に「米谷宮」を配したごーさん札である。

お札はもう一枚ある。

ここでは割愛するが、中央の「米谷宮」に代わって「寿福寺」である。

「米谷宮」は米谷の氏神社である白山比咩神社のことである。

神仏混合の行事にごーさん札は2枚である。

そのお札をたばって苗代田に立てる。

立てるには道具が要る。

この田主はススンボ竹に挟んでいるが、本来は、先を三ツ割にしたウルシ棒に挟む。

洋もののイロバナを添えて立てたお札は豊作の願い。

その様相を撮っていたら、軽トラに乗った代表総代のOさんと出会った。

助手席には息子さんもおられた。

田の仕事帰りのようだった。

後に合ったOさん曰く、ナンバープレートを見て驚いたと話してくれた。

その直後に出会ったTさんは座の十老。

この春より白山比咩神社の村神主を勤めている。

畑地におれば、なにかと出会うこともある。

(H29. 4.29 EOS40D撮影)
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米谷町・快晴の水口まつり

2018年04月08日 09時05分34秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
天理福住の取材はお昼をとっくに過ぎるまで滞在した。

花まつりのメインイベントが始まるのは午後2時。

朝の9時過ぎから来ていたのでお腹はぺっこぺこ状態だ。

それでも福住の井之市在住のキノコ生産者のOさんが云っていた氷室神社で行われた御田植祭の杉苗は立てているという声に釣られて苗代があるハウスに出かけたが、結局は見つからず。

JAから購入した苗はすくすく育っているものの、杉苗を立てたというそのハウスの外と云っていたが、外も内部もない。

見落としたのか、それとも・・・。

諦めて西名阪国道の五ケ谷ICを出て米谷の苗代に向かう。

二日前の21日に遡る。

21日に苗代作りをされた村神主のTさん。

どのような具合に苗代の水口まつりをされたのか、その日に宮総代のOさんが立てたところから、それほど遠くない苗代場に向かった。

そこは西名阪国道を跨る「八丁坂跨線橋」のすぐ傍にある。

探してみたがお札がない。

イロバナもない。

田主の村神主にそのことを伝えたら「忘れていた」だった。

それから二日経った23日であれば、たぶんにあるだろうと思って立ち寄った「八丁坂跨線橋」のすぐ傍。

車から降りて下にある白い幌を見る。

あるにはあったが幌の向こう側であった。

苗代田は鹿垣で防御している。

鍵を開ける了解をとっていないので遠目から撮る。

なんとか見えたウルシ棒に挟んだお札とチンチロ付きの松苗である。

お札は2月1日に行われた小正月と2月4日の薬師さんのオコナイのお札であるが、いずれか一枚を苗代に立てる。

もう一枚は田植えのときに立てると田主の村神主が言っていたけど・・・画像では検証できない。

(H29. 4.23 EOS40D撮影)
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米谷町・苗代の水口まつりpart2

2018年04月05日 09時02分08秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
O家の苗代作り、そして水口まつりを拝見して付近にある水田を探ってみる。

その前に挨拶しておきたい。

O家の苗代田よりすぐ近くに家がある村神主のTさんである。

立ち寄ってご挨拶をしたら、突然に思い出された。

O家の水口まつりをしていたところを撮らせてもらっていた、と伝えたときである。

それを聞いたTさんは、「ありゃ、お札を立てるのを忘れてたわ・・」であった。

どうやら同じ時間帯に苗代作りをしていたようだが、護符を忘れていたというのだ。

お札は2枚ある。

どちらかわからないが、苗代作りに1枚。

もう1枚は田植えのときだったという。

チンチロ付きの松苗も2本ある。

苗代、田植えのそれぞれに立てる松苗だという。

そうか、そうだったのか。

寿福寺名のごーさん札か、米谷宮名のごーさん札のどちらかだったか覚えてないが、苗代と田植えのそれぞれに護符を立てて豊作を願っていたのだった。

あらためてT家の苗代田を拝見してみる。

そういえば苗代を済ませたそこは白い幌も被せていたが、お札はなかったのである。

Tさんが失念していたごーさん札は後日にするというから、他にもあるのではと判断して近くを歩いてみる。

そこで出会った氏子は十一老になるUさんである。

軽トラに乗って自宅に戻る途中に出会ったUさんの主な仕事は職業庭師である。

これまで豪邸などさまざまな顧客の要望に見合った“庭”園を造っていた。

顧客の庭で仕事ぶりを撮ってもらった写真があるからみてくれるか、と云われて拝見した現場は、豪邸だった。

建屋もそうだが、木材需要は減少の道を辿っている現代。

昔と比較すれば明らかに注文量は減っているという。

日本文化は木造建築。

建物に見合った造園をする仕事師が庭師である。

高齢には見えないくらいのお身体。

動きの軽いUさんは、次の村神主の任に就く予定がある。

一年後には村神主。

そういえば3月1日の新年祭は村神主の動きをずっと観察されていた。

それはともかくUさんも稲作をしているかと思いきや、それはせずに畑仕事の帰りだったという。

下りの道沿いに車を走らせる。

走る速度はノロノロ。

苗代の幌があれば周囲を見渡す。

遠目であったが、何やら白いモノが見える。



車を停めて近くに寄ってみたら、枯れ竹に挟んだお札であった。

これまで見たことのないごーさん札の挟み方。

しかも枯れたススンボ竹に挟んで立てていた本数は2本。

水口でもなく白い幌の両端であった。

辺りをぐるりと見渡せば、イロバナがあった。



ちょこんと置いたような姿のイロバナである。

これって何となく“孤独なイロバナ”って呼んでみたくなった。

待っていても田主の姿は現れないから引き上げた。

(H29. 4.21 EOS40D撮影)
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米谷町・O家の水口まつり

2018年04月04日 12時48分18秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
2年前に聞いていた旧五ケ谷村・米谷の水口まつり。

今ではどこもしてないはずや、と氏子たちは口々にそう云っていた。

苗代田を作る家もあるが、お札を立てるような家は見ない。

昨今は苗をJAで買うようになったから苗代をすることもなくなった。

そう話していたが3月1日に取材した新年祭(米谷では二ノツイタチの新年祭と呼んでいる)に参拝していた宮総代のOさんは「うちは今でも苗代をしている」という。

「明日するから来られますか・・」の声にありがたく出かける。



モミオトシをしたのは4日前の17日。

64枚の苗箱に落とした籾種の品種はヒノヒカリとキヌヒカリ。

ヒノヒカリは粳米でキヌヒカリが餅米。



いずれもJAから購入した籾は早くも芽出し初め。

急激に気温が上昇したのか、驚いた籾がせっつかれるように動き出した。

軽トラの荷台に載せて下る村の道。

ずっと下れば名阪国道が見えてくる。

道路に跨る橋を越えてさらに下ったところが稲作地。

旧五ケ谷の谷間に綺麗な谷水が流れる地で作るお米は美味いという。

そういう話しは多くの地域で語られる。

水口まつりに忘れてはならない祭具がある。

一つは2月4日、寿福寺上ノ坊で行われたオコナイ行事にたばったごーさん札。

もう一枚が2月11日ころに行われる初集会後に持ち替えるごーさん札である。

このごーさん札は右に「牛王」。



左が「寶」に「印」であろう。

そして中央に「米谷宮」を配したごーさん札である。

お札はもう一枚ある。

ここでは割愛するが、中央の「米谷宮」に代わって「寿福寺」である。

「米谷宮」は米谷の氏神社である白山比咩神社のことである。

神仏混合の行事にごーさん札は2枚である。



それと、もう一つの祭具は、新年祭にたばった大きなチンチロ付きの松苗である。

これらも忘れずに軽トラに載せて下った場がO家の苗代田である。

運んできた苗箱よりも先にしておくごーさん札挟み。

山で伐ってきたウルシ棒がある。



その先を割にはナタがいるが、太めのカッターナイフでも充分に切れる。

まずは半分に割る。

二つになった片方に切れ目を入れる。

割り面を正面から見れば「T」字型。

こうして割った箇所に2枚のごーさん札を挟みこむ。

後でわかったことだが、ウルシ棒は神社に置いてあった。

2月1日に行われる小正月行事に神社に供えるウルシ木は長さがある。

3mぐらいもあるウルシ木は村神主が準備する。

行事が終わったらウルシ木は社務所建物辺りか、近くの所に立てかけておく。

村の人がいつでももらっていけるようにそうされている。

ついついそういうことを失念してわざわざ山に出かけて伐ってきたという。

水口まつりの準備が調ったところで苗代作業が始まった。

先ずは、穴あきシートを苗床に敷いてモミオトシをした苗箱を並べる作業だ。

苗箱の並びを整列させたいから農道具(田植え縄のチョナワ若しくはミズナワ)を使う。

いわゆる田植え綱をピンと張って一直線。

その綱に合わせて苗箱を置く。



軽トラに積んで運んできた苗箱を下ろす。

抱えた苗箱を苗代田にいるご主人に渡す。

均等に測った苗床の位置に置いていく。

多少の歪みはあるようだが、俯瞰してみれば一直線である。



一列すべてにいきわたったら、半分は苗床越しに手渡して受け取る。

距離があるからどうしても前かがみになる。

この行為が腰に負担をかける作業なのだ。

2列の苗箱が置けたら、空間を設けてもう一列。



さきほどと同じように田植え縄のチョナワを使って一本の筋を設けて穴あきシートを張る。

その間に祭具の微調整。



ウルシ棒に挟んだごーさん札が落ちないように紐で締め付ける。

一方の松苗には大きなチンチロ松もあるが、白いものもある。

これは2月22日辺りに行われる座の四大行事の一つである田楽飯のときに作られる籾種括りである。

籾種は前年のマツリに出仕されるイネカツギが担いできた新穀である。

そのときは根付きの稲穂。

マツリを終えてから籾種にして竹の「ゴンゴ」に詰めていたもの。

田楽飯行事の幕締め近くになれば十人衆が作業をする。



その籾種を半紙に包んでオヒネリの形にして松苗に括り付ける。

それが白いもの。

今年もまた豊作になりますように、という願いである。

二つの祭具が調ったら水口辺りに立てる。



立ててからも苗箱並べの作業は続く。

苗箱すべてを並べたらポール立て。



苗を保護する幌被せに用いるポールを泥田に差し込んで、ぐにゃりと曲げる。

そして反対側も泥田に差し込んで固定する。

この写真ではわかり難いが、向こう側に水口がある。

谷から流れる水を泥で作った受水道がくにゃくにゃしていた。

何故にそのような形態にされるのか、尋ねた結果である。

冷たい谷の水は冷たいから、直接受水する水温は低い。

少しでも日に当てて温めるためにくにゃくにゃと伸ばしたという。

なるほどである。

完成の一歩前。

後は白い幌を被せるだけだ。

長さのある幌は意外と重たい。



これもまた二人作業。

ここ数年前から応援してくださる人が居るからできるという。

突然というか、おもむろに普通トラックに乗ってどこかへ行かれたご主人。

姿を追いかけたら向こうにいる。



そこで何をしているかといえば、お花摘みである。

水口まつりに欠かせないイロバナは植樹していたハナズオウである。



松苗やごーさん札を立てたところにハナズオウの枝を挿す。

今年の気温はとても低い。

いつもならツツジを挿すのだが、これもいいね、と云ってわざわざ採ってきたと、いう。

こうしてすべての作業を終えた水口まつりであるが、拝むこともなく最後に白い幌を調えて終わったが、作業はまだある。



薬剤を撒いておくことだ。

せっかく育った苗が枯れてしまわないように薬剤の「タチガレン」を撒いて自宅に戻られた。

(H29. 4.21 EOS40D撮影)
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米谷町稲荷講の厄祝い初午

2018年01月18日 09時21分50秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
奈良市米谷町に稲荷講があると知ったのはチンジサン行事の座の場であった。

米谷町の行事取材をするようになった経緯を座中に説明することになったことによる。

旧五ケ谷村の取材初めは北椿尾町・稲荷講によって行われている寒施行だった。

寒施行は米谷町では見られないが、講中が祭っている小女郎と呼ばれる稲荷社に集まって3月に初午行事をしていると話してくれた。

座の場には2人の講中がおられたこともあって祭事の場所などを教えてもらった。

初午は2月にある「午」の日であるが、地域によっては3月の「午」に初午行事を行っているケースも多い。

奈良市米谷町の初午は三月初午。

この年は3月8日が「午」の日になるのだが、米谷町は集まりやすい日曜日にしている。

10年前までは学校が終わるころの時間にしていたが、子どもたちが揃いやすい日曜日に移したという。

米谷町は46戸の集落。

うち13軒が稲荷講である。

かつては15軒の稲荷講であったが、事情もあって抜けられた家もあったことから現在は13軒の営みになった。

さて、小女郎稲荷社はどこに鎮座しているのだろうか。

「あちらの方角のそこを右に下る道があるから・・」と云われてだいたいの場所は掴んでいたつもりだった。

その辺りを探してみても見つからない。

数人の話し声が聞こえてきた方角に向かって歩く。

そこは村の墓地だった。彼岸にはまだ遠いが家族連れが墓地から歩いてこられたから小女郎の地を聞く。

なんと、ぐるりと廻ったところのすぐ近く。

法要を済ませた上ノ坊寿福寺住職もそう伝えてくれた地に向かう。

平成29年3月吉日の墨書がある朱塗りの鳥居は2本。

つい先日に建てたという鳥居が美しい。

山へ上がっていきそうな参道に立てた「奉納 正一位小女郎大神」の幟旗が5本。

幟旗の示す道を登っていけば、そこが鎮座地であった。

平成8年3月吉日に立てた小女郎稲荷講中の名がある。

講中は13人。宮座十一人衆の名もあれば宮総代さんらの名もある。

講中が供える御供棚を調えていた。

落ち葉もゴミも何一つ落ちていない参道を登っていく講中。

風呂敷包に包んで持ってきた御供を並べる。



時間ともなれば多くの講中がやってきて御供棚はあふれるくらいにいっぱいになった。

包装紙に包んだ大きな箱は村の厄男並びに厄女が祝いに供える菓子御供である。

廻り当番の人は神饌御供を社殿下の祭壇に並べる。

社殿は二社ある。

右に建つ社殿は稲荷大神。

左側が小女郎社である。

御神酒に塩、洗い米。

板昆布にお稲荷さんが大好物とされる大きなアブラアゲ。

サツマイモ、ニンジン、ミカン、パンを盛った上に置いた紅白餅も供えた。

ローソクに火を灯して導師は前に。

そうして始まった講中全員が揃って唱える般若心経は三巻。



村の厄男、厄女の健康を願って唱える。

この年に集まった講中、参拝者は境内いっぱいに広がった。

例年よりも倍の人数になったのは初めてだと云っていた。

「厄の人も多いし、外孫も大勢来てくれたからや」と話していた。

心経が終われば廻り当番の人が下げた神饌御供を参拝者に食べてもらう。



お盆に乗せた御供は子どもも食べられるものがある。

口に一つを食べながらもう一本と手が伸びる。

米谷町の稲荷講の厄祝い初午行事は参拝だけで終わるわけではない。

これより始まるのは子どもたちが楽しみにしていた御供配り。

厄祓いに供えたお菓子などは境内下に場を移して配られる。

講中もこれが楽しみだという御供配り。



大きな箱を抱えて旧道に下りる。

新調した鳥居に跳びあがって背が伸びたことを自慢した。



それだけ跳べるようになったのも成長の証しであろう。

次から次へと御供箱を抱えて下りてきた講中。

設営する場所は道路そのもの。



その向こうは優良な農耕地造成を兼ねた土地改良事業の一環でもある奈良市環境部環境事業室土地改良清美事務所が計画・管理する一般廃棄物最終処分場整理事業の建設工事である。

それはともかくたいがいのところでのゴクマキ(御供撒き)は高所から餅やお菓子などを放り投げてするものだが、稲荷講の在り方はまったく異なる優しい配り方だ。

講中はぐるりを囲むように位置決め。

開封した御供箱を拡げてお菓子を取り出す。



順番は端から端へと繋ぐ御供貰いの行列待ち。

一番手前に並んだ子供たちは講中が入れやすいように袋口を拡げて順番待ち。

1個ずつ入れてもらって次の御供へ。

そこでも袋口を拡げて1個。



13人の講中に入れてもらうお菓子で徐々に袋は重たくなる。

〆に入れたもらったときには袋から毀れそうになっていた。



喜んでもらって帰る子どもたち。

心はスキップしているようだった。

(H29. 3. 5 EOS40D撮影)
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