マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

曽爾・ひさしぶりの屏風岩桜

2018年04月15日 10時00分07秒 | 曽爾村へ
大阪・住之江の住居を出発したおふくろ。

大阪市営交通バスや地下鉄を乗り継いて天王寺駅に。

そこから乗り換えたJR大和路線。

迎えた駅はJR大和小泉駅。

このときは達者な足で歩いていた。

途中にあるうどん屋に立ち寄ってお昼でもと思っていたが、泊まり付きの前日にやってきた。

おふくろの誕生日は4月27日。

この日が91歳の誕生日。

それを祝って遠出する目的地は宇陀市大宇陀本郷にある椿寿荘。

温泉に入ってゆったり寛ぐには最適な宿泊地である。

目指すはその方向であるが、チェックインまでまだまだの余裕時間がある。

足を伸ばして先ほど立ち寄った宇陀市室生の弁財天

石楠花はまだだたし、花のある地まで登れなかったから断念。

それじゃぁ、と思いきり。

向かった先は弁財天の地よりさらに東へ、東へと走る。

今の時季ならヤマザクラが咲いているだろうと思って目的地を曽爾村の屏風岩公苑に向かって車を走らせる。

公苑はかつて何度も出かけた地。

平成19年の4月26日は桜よりも野鳥狙い。

オオアカゲラが営巣していると教わってやってきたこともある。

その前の平成18年4月15日はライトアップに映るヤマザクラに堪能していたときもある。

最近といっても7年前になる平成22年の4月21日も出かけたことがある屏風岩公苑。

ほんまにご無沙汰していた屏風岩公苑に咲くヤマザクラをおふくろに見せてあげたいと思ってやってきた。

公苑近くに地区の人たちが拡張してくれた駐車場がある。

若干の坂道はあるが、短距離なのでなんとか行けるだろうと思ってそこにしたが、実は道に迷った。

屏風岩公苑はこちらと案内する表示板に沿って車を走らせたら、これまで見たことのないような景観に着いた。

駐車場は綺麗に整備されているし、段丘もない。

しかも最近になって建てられたと思えるトイレもある。

ただ、この駐車場から公苑に行くには、勾配のキツイ坂道を登らなければならない。

桜を見てきた観光客が山から下りてくる。

まさにそう思った坂道は見上げたら・・おふくろには無理。

新規に造成されたものの利用できない駐車場を離れて、これまで何度も利用している駐車場に。

着いた時間帯は午後3時になっていた。

時季的にはどうなだろうか。

満開を迎える直前なのか、それとも過ぎし日々なのか。



おふくろの足でもなんとか丘を越えることができたその場の屏風岩に感動する。

夕陽が当たればもっと良いだろうと、思うが、方角が読めない。



私もそうだが、もっと元気なころの身体だったら、向こうの峰を歩いてみたい。

屏風岩の尾根を歩いてきた人の感想は、素晴らしい、の一言だった。

やや雲のある晴の日。



カメラマンは多くない。

ずいぶんと立派な写真機で撮っている高齢者。

婦人とともにここへ来たそうだ。

写真機は古式。

かなりの年代物になるらしい。

もう一人も高齢者だが、もう少し若そうだった。

その人は超望遠のカメラレンズをお持ち。

写真機はデジタル一眼。

風景写真を主に撮っているという。

コンパクトデジカメ機で撮っているご婦人方もいる。

まばらな時間帯の鑑賞に寛ぐ。



屏風岩が見ている反対側の山々。

向こうの山も同じような標高であろう。



また、方角を替えてみれば、重厚に重なる山並みが見える。

若葉が新緑に色替わりするころも見たくなる景観に心が洗われる。

そして振り返って見る屏風岩。

真っ白に染まるヤマザクラもあれば、葉桜になってしまったヤマザクラもある。



よく見れば岩の隙間にピンク色の点々が見える。

ヤマツツジがへばりつく岩肌。

荒々しい岩肌がなぜか優しく見えるのであった。



もちろん公苑内にはいくつかのモチツツジがある。



背景に屏風岩を入れて何枚かを撮っていた。

(H29. 4.27 EOS40D撮影)
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旧暦閏年に揚げる小長尾の庚申塔婆

2018年03月22日 09時23分06秒 | 曽爾村へ
昼過ぎまで曽爾村の小長尾に滞在していた。

昼前から始まった春の行事取材である。

帰路に就こうとして山から下ってきた。

その一角に石仏があった。

横には木の棒を立てていた。

これはと思って車を停めてみる。

石仏は青面金剛童子像。

肉彫りは深く、風化はそれほどでもない六臂の姿。

法輪、錫杖ははっきりと認識できる石仏である。

右横にある棒はたぶんに旧暦閏年に行われて奉られた庚申塔婆である。

長年に亘って埋もれていた塔婆に願文があるかもしれないと思って、手で祓って土を取り除く。



半面返してみれば文字が見つかった。

「阿沙婆寶家内安全南無青面金剛童子依願満□ 平成二十八年閏六月 庚申□□□五穀豊穣建之本旧 六月七日事 当屋□□□□ □□□□ □□□□ □□□□ □□□□ □□□□」とある。

六人の名の中の一人は昨年の8月に取材したセンゲンサンの件を教えてくださった長老である。

本日の春の行事には来ていなかったが、元気で暮らしているとこの日に聞いた。

(H29. 4.16 EOS40D撮影)
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小長尾のタワミネさんの岳のぼり

2018年03月21日 09時11分45秒 | 曽爾村へ
昔は山仕事に忙しかった。

この日に集まると聞いていた場所はどこにあるのだろう。

曽爾村の大字小長尾(こながお)にやってきたもののすっかり記憶が薄れてしまって目的地に着かない。

前回に訪れたのはいつだったろうか。

翻ってみれば9年も前だった。

平成20年の4月20日は第三日曜日。

この日に集まった人は150人にも膨れ上がっていた。

場所は多輪峯(たわみね)の森。

この日より2週間前の7日は村の春祭り行事の集まりがあった。

川原、西出下、西出上、東出下、東出中、東出上の6木場(こば)組頭に村総代らが集まって多輪峯さんに参って神事をしていた。

神事に多輪峯講も参列する神社は多輪峯神社である。

うって変わったこの日は村人が春の季節を山に登って愉しむタワミネさんの岳のぼりである。

集まる会場は小長尾の人たちが憩いの場として利用できるよう開拓した地。

平成10年~12年にかけて県東部農林振興事務所林業振興課が整備した「多輪峰の森」の東側になるテレビ中継所の辺りに桜を植樹した場である。

会場は炎天下の広場。

今年の寒気は3月末まで居座った。

翌月の4月は温くなった日も何日かあったが、雨続きの日や曇天も。

すっきりしない日に4月に入っても金剛山に雪が積もったと伝えるニュースも届く。

室生や都祁辺りも雪が舞ったとFBの知人たちも報告していた。

昼間は20度前後にも上昇するが、朝の冷え込みが厳しい。

4月1日から連続6日間も一桁台の気温。

2日、3日はマイナスに近く気温は2度にもなったことがある。

気温が上昇した8日。

そのまま行くか、と思いきや、10日からは連続3日間も冬に逆戻り。

13日の朝は気温が4度。

何時まで経っても朝霜に悩まされる農家の人たち。

こういう年は何年かに一度のタイミングでやってくる。

そのような年は桜も含めて花の咲き具合がとても遅い。

地域によっては一週間どころか十日間の遅れもある。

9年前に訪れたときはほぼ満開だったが、この日に咲く桜の木は僅か。



かろうじて1本の桜の木の枝にへばりつくように咲いていたのが愛おしい。

岳のぼりに来る人たちは村の人たちだけでなく、この近くにある「クラインガルテン」の人たちもやってくる。

「クラインガルテン」は平成15年春に開園した滞在型市民農園は人気の場。

数年間の短期間しか利用できない入れ替わり制。

抽選で当たった人たちが町からやってきて農園作りに勤しんでいる。

その人たちは町の人。

広場からすぐ近くに鎮座する多輪峰神社に参ることはない。

参るのは39戸の小長尾住民。

かつては別の地にあったが、昭和9年に災難があったからここへ遷座した。

多輪峰講が信奉する神社。

山仕事をしている人たちが7日に参っていた。

山の仕事に山の安全を祈っていた。

7日は全国どこへ行っても山の神の祭りをしている。

7日は農休みというか、山の仕事を休む日であるという人たち。

かつて雪が降った年もあった。

多輪峰神社の前で相撲をとったこともある。

それは子どもころだと話す75歳の高齢者。

この下に土俵があったという。

その日は曽爾の力士がやってきた。

その時代にあった太い幹の山桜。

推奨された杉生産が盛んになって伐採した。

そのような古木はたくさんあった50年前のころであれば昭和40年代。

経済的にも価値のあった杉生産が盛んで潤った時代だったと回顧される。

4月7日は寒いから昼食と切り離して日曜日に移したのが、この日の岳のぼり。

「クラインガルテン」の人たちも参加できる地域のコミュニケーションの日に切り換えた。



神社に登る道に木で作った鳥居がある。

その前に立てた奉納幟は昭和9年4月7日に多輪峰講が寄進したもの。

10人の講中は夜にヤドとなる家に集まって般若心経を七巻申すお勤めをしていた。

今年は3人になったという講の集まりは総参りの会式である。

農繁期前の慰労はかつて4月3日の神武さんもあったという。

木で作った神社参りの階段を登る。



家族連れで参る人たちと遭遇する。

旦那さんは顔見知り。

お願いして家族で参る姿を撮らせてもらう。

多輪峰神社は小社。



榊を立ててイロバナも添えていた。

社に立てかけた竹に幣を挟んでいる。

これは4月7日の村の春祭り参った際に立てたもの。



次から次へと階段を登ってくる村の人がいる。

娘さんとともに手を合わす人もおれば、総代時代にずいぶんとお世話になったOさんも参拝される。



この日の岳のぼりに供えていたのは、前日にトーヤが作った「オゴク」。



充てる漢字は御御供であろう。

「オゴク」は粳米に糯米を挽いた米粉で作る。

その割合は作るトーヤ家によって異なっていたそうだ。

かつてはめいめいの家で作っていたが、今は村行事になったこともあって、材料の米粉は村費用で購入する。

買った米粉は湯で煮えさせて茹でる。

それを蒸す。

玄米餅も米粉にして混ぜたという人もいる。

できたオゴクは顎にへばりつくほどの柔らかさがある。

冷ましておいたら固くなる。

それを細く伸ばして包丁で切る。

切る時間帯は夜になる。

今年もまた、その年のトーヤ6組で作ったそうだ。

6組ということは木場(コバ)単位に選ばれた人たちであろう。

かつてゴクツキ(御供搗き)をしていたときの様相を話される。

お酒も入って「オゴク」を作る日は賑やかだった。

飲む量も増えて勢いが増す。

オーコで担いで運んでいた「オゴク」。

フゴに盛った「オゴク」を運ぶ。

その場に酔うた人がおった。

その人はフゴの中に入ってしもうた。

「おかあなれょー」とか言ったらしいが、聞き取ったメモが読み取り不能で誤っている可能性はあるが、記載することにした。

後々に考えてみれば「おかあなれょー」は「おっかねぇなー」のように思えた。

供えた「オゴク」の食べ方である。

一般的な食べ方は、ぜんざいに入れるか、焼いて砂糖醤油につけて食べるか、になるそうだ。

略式参拝されたら花見の会場に移動する。

すぐ近くにある広場が会場である。



前回もそうだったが、ここは鹿の生息地。

広場を見下ろす位置にあがれば、数日前に落とした鹿の糞が見つかる。

ブルーシートを広げたところに座る家族。

ざっと数えたら80人ほどにもなった。

半分のシートに空きがある。

前回に訪問した平成20年の4月20日の様相はほぼ満席だった。

びっしり埋まっていたが、今年は半数。



寒さ続きだったことも一因のようだが、この日は青空が広がり、心も晴れる快晴日。

実は、ここ5年間は雨天の関係で公民館に場を移して催していたそうだ。

こんな快晴になったら、実に気持ちが良い。

久しぶりに満喫する村の春祭り。

植樹した桜の花が満開だったらもっと良いのだが、快晴になっただけでも嬉しい憩いの場に会話が盛り上がる。



家族ごとに食べる手造り料理が美味しく見える。

会場に寛ぐ村の人たちと同じように花見の昼食をいただこうと思って、当地に来る際に立ち寄ったラ・ムー桜井店で売っていたおにぎりを買ってもってきた。

そうしたら、現総代のKさんが村の臨時販売店で売っていた手造りコンニャクをサービスしてくれた。

これがとても美味いのである。



美味い味噌は手造り味噌にある。

そのコンニャクを肴にスーパーラ・ムー桜井店で買ってきたおにぎりをいただく。



一つは丸い形の味飯煮玉子マヨ。

ネーミング通りの味付けご飯に煮玉子を正面に埋め込んでいる。

細めに切った海苔を巻いたおにぎりはマヨネーズも混ぜている。

一口、ほうばる。

おっ、これは美味いやんか、である。

意外性があったのか、とても驚きの旨み味。

郷土料理のイロゴハンまではいかないが、マヨネーズの味が効いて美味いのである。

もう一つは有明産海苔で包んだ味付牛肉おにぎり。

これ1個でナトリウムが394mg。

味飯煮玉子マヨの成分は控えなかったのでわからないが、味付牛肉の塩分含油量はおよそ1g。

三つ食べたら3g。

それがぎりぎりの線であるが、この日はコンニャクもあったので満腹状態。

翌朝の食事に食べたが、まったく美味くない。

一日経ったら賞味期限が切れたかのように思えた味であった。

会場で売っていた自家製味噌は「たわわ」の会こと、小長尾ゆず生産組合の人たちが作ったもの。

曽爾村産の自家製ゆずの皮を粉末状態に製品化したゆずパウダーを使用して作った手造り味噌。

これもまた製品化。



パック詰めして販売する「ゆず麹味噌」である。

他にも「ゆず胡椒入り味噌」もある。

いずれも串をさして作った田楽コンニャクの形で臨時販売していた。



一口食べて、これは美味い。

コンニャクの味も美味しいがそれ以上にコクを感じるゆず味噌。

香りが口いっぱいに広がった。

ちなみに「たわわ」の会の「たわわ」は柚子の実が、たわわに稔り、多くの人の輪を繋げ、みんなの笑顔を広げる・・ということのようだ。

この日の製品は未だ販売されていない。

いわば試験的製品を会場のみなさんに、先に味わっていただこうということのようだ。

来春、つまりは平成30年の春には販売されると思うので、是非、お試しくだされ。

岳のぼりの愉しみはもう一つある。

村の費用で賄う大抽選会である。

抽選会は食事を終えてゆっくり寛いだ時間帯に行われる。

空くじなしの大抽選会は予め番号札を入れた箱から取り出すことによって始まる。

外れクジの商品はテイッシュボックス。

我が家にとってはありがたい日用品である。

特等の商品は1本。

ティフアールハッピーセットを目指して発表されるクジ番号に耳を澄ませる。



1等は、トイレットペーパーが1ケースもある
2等が、調味料セットか、バスマットか。
3等は、カビキラー電動スプレーセットか、コロコロか。
4等は、キッチンペーパーか、トイレットペーパーか。それともバケツか、ファブリーズセットにするのか。
5等は、クイックルハンディか、食器洗剤か。それとも韓国のりか、お菓子セットか。
6等は、サランラップか、キッチンハイターか。それともフリーザー袋か、軍手か。

お楽しみ抽選会は、番号を告げられるたびにあちらこちらに歓声が上がる。



賞品貰いは小さな子どもたちから大人まで。

家族ほぼ全員が当選したという組もある。

喜んで駆け付ける賞品は2等のようだ。



拍手で迎える村の人たちにゲットしたぜ、と雄叫びも。

和気あいあいの大抽選会は長丁場。

50分もかかった抽選会に投入された籤すべてを開封された。

大きな賞品を担いで先に帰る家族連れもあるが、この後に続くイベントはゴクマキ(御供撒き)。



大量に搗いた「オゴク」もお菓子も四方から撒かれる。

どの位置につくのか選り好みしようが、背中から飛んでくるものも。



転げた「オゴク」を追いかける一幕もある。



こうしてひと時の農休みを終えた明日からは日常に戻っていった。

(H29. 4.16 SB932SH撮影)
(H29. 4.16 EOS40D撮影)
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小長尾のセンゲンサン

2017年03月01日 08時13分40秒 | 曽爾村へ
念願だった曽爾村小長尾のセンゲンサンをようやく拝見できる。

センゲンサンをしていると初めて知ったのは平成21年の11月23日だった。

その日の行事は例祭収穫祭

毎月供える場は10カ所。



そのひとつにセンゲンサンがあった。

場所を詳しく聞かなかったが、かつてあった村の浅間講が参っていた浅間神社が鎮座するところに供えると長老が話していた。

浅間神社は山の上。

険しいというか、急勾配の道なき道を登っていけば着くと話していた。

毎月の25日に供える御膳を持って登る。

ひょいひょいと登っていけばたかだか15分ほどだと軽く云われるが・・・。

場所もわからないから一人で登るには不安が付きまとう。

そういうことで一人では下見はできない山の上の神社である。

そのような話しを聞いてから5年後の平成26年7月29日

長老のYさんが住まいする家を探して訪れた。

反復するがここでも書いておく。

「40年も前の小長尾の浅間講は土用入り後の丑の日から一週間、長蓮寺に籠もっておしょうじ(精進)会式をしていた。魚や肉は一切口にしない精進である。曽爾川とも呼ぶ青連寺川に行って水垢離の行をしていた。現在は日を決めて村役員が向かいの山に登って般若心経を唱えている。センゲンサンは大日如来を祀るから心経を唱える」と、話してくれた。

一方、この日に出会ったもう一人の長老は「センゲンサンに参っている日は24日。汗をかきながら登った。センゲンサンの正式名称は浅間講。かつては長蓮寺で籠りをしていた。白装束に着替えて青連寺川(小長尾では曽爾川)で水垢離をしていた。それから浅間神社を目指して山を登る。時間にしてみればおよそ15分だが、急勾配の山道は腰痛の身に堪える。浅間神社には桜の木がある。大日如来も祀る山の頂きだ。そこで般若心経を唱えていた」と、Ⅰさんは云った。

Yさんが話したことはもう一つある。

「ネンギョ(年行)と呼ばれる年番さんとともに出かけた。宮さん関係者の10人が登る一時間前。先に出かけて神社周りを清掃していた。ヤカタがある石碑にお神酒や御膳を供えて祭典をしていた。般若心経は七巻。導師として唱える。かつてのセンゲンサンは長蓮寺に籠って「行」をしていた。昼ごろになれば白い着物に着替えて川に向かって歩いた。川に下りて流れる川に浸かって般若心経を唱えていた。今では無住寺の長蓮寺は江戸時代後期の創建で融通念仏宗派だ」。

Yさんはそう話していた。

日にちが揺らいでいるのか。

どうも不安になって予め電話をした。

架けた人はかつて総代を務めていたOさんだ。

引き継いだ次の総代に確認をとってもらってわかったセンゲンサンの日程は7月24日。

本来は土用入り後の丑の日であるが、小長尾ではどうやら24日に固定しているようだ。

センゲンサンに参る人たちは総代を筆頭に氏子総代や評議員である。

集合時間の10分前。

どなたも現れない。

不安を感じて退任された前総代に連絡した。

その最中に何人かがやってきた。

そのうちのお一人がK総代だった。

お供えなどはザックに入れてもってあがるという。

そういえば総代ら何人かはお顔を覚えている。

平成26年11月23日に行われた天神社の造営祭典の際に何人かは造営委員を務めていた。

そのときに顔見知りになった人たちだった。

撮らせてもらった祭典の写真は村に提供した。

20年に一度の大事業における記念の写真にお礼をいただく。

さて、この日はセンゲンサンである。

集まった村の役員さんが口々に教えてくださる。

これから登る山のてっぺん辺りにあるのは浅間神社。

大日如来を祀る。

かつては浅間講が川に入水して水垢離をしていた。

長蓮寺に泊まり込んでいたという時代は子どもの頃。

昭和6年生まれの85歳の男性がそういうのだから時代はぐっと下がるだろう。

子どもというから、仮に小学生であった時代とすれば10歳としようか。

そうであれば昭和16年。

戦前のことのようである。

父親とともに登った。

その地に登って遥拝していた。

モリ木に遥拝所がある。

そこで大日さんを拝んでいた。

その地は前述した毎月の25日に供える御膳の場。

それがせんげんさん(浅間)である。

大日さんをはじめとして山の神さん、神武さんなどを崇めているというというのは小長尾の信仰であろう。

御膳を供える場は御供箱の蓋裏に貼っていた。

それを拝見したのは平成22年1月23日。

たしか、前総代のO家を訪れたときだ。

供え先は庚申さん、大日さん・浅間さん、みろくさん、山の神さん、多輪峰さん・秋葉さん・神武さん・皇大神宮さん、辻神さん、天神さん。供え物は13カ所であるが、場は7カ所になる。

それらは広範囲に亘る地。

月当番の人について車を走らせないと置いてきぼりになるだろう。

そんなことを話してもらって先導が行く。

ここを登っていくという場は草ぼうぼう。

一歩目から道がわからない。

とにかくついていくしかない道なき道。



登り始めてすぐに杉林。

樹林を縫うように登っていく。

村の人のなかには杖をついて登る人もいる。

やがて急こう配。

斜めに立てば、さてここの角度は・・。

雨が降れば小川となって流れていくようなところも登っていく。



登り始めて8分後。

ちょっとは休憩と云って一休み。

1分も休憩しただろうか。

先はまだまだに再び登り始める。

ここら辺りからの勾配はさらにキツい状態。



息もきれると云ってまたもや休憩する。

あと少しと云われて背中を押されて3分後。

ようやくセンゲンサンの地についた。

長老が話していた社は見られない。

あったとすればずっと昔のようだと思う。

それを示すのが木製の鳥居である。

やや朽ちかけた鳥居に年代を感じる。

センゲンサンは石造り。

南無浅間大菩薩とある。

刻印を調べてみれば正徳五年(1725)。

今より300年も前に建てたようだが、そのころの記録は一切がない。

到着すればお供えをする。

ザックに収納していたお神酒、小豆洗米にニンジン、ナスビ、キャベツ、ハクサイ、トウモロコシ、トマト、スルメにお菓子などをお盆に盛って供える。

それと同時に石造りの南無浅間大菩薩に奉書を奉納する。

それは巻物の般若心経だ。

両端の花立に花を飾る。

小さな箱は賽銭箱。

お参りに欠かせない賽銭を納めて立てたローソクに火を灯す。



導師は前に進み出て腰を屈めて手を合わせる。

一同が並んで唱える般若心経は7巻。

風の音しか聞こえてこない山のなか。

心経の声だけが辺りに広がっていく。

お参りを済ませば下山だ。

立ち去って下っていく速度は当然ながら登りよりも早い。

山の仕事に慣れている人たちは足が速い。

とてもじゃないがついていけない。



辺りを見渡せば誰もいない。

飾ったお花と石造りの南無浅間大菩薩に奉納した巻物の般若心経があるだけだ。

ざわざわと風の音が聞こえる。

何かの気配を感じながらもそろりそろりと下りていく。



途中にあった獣の痕跡。

たぶんに鹿であろう。

登りは休憩もあったが下りは不要。

所要時間は登りが18分で下りは16分だった。

村の人たちはそれよりももっと早かったのはいうまでもない。



お参りを済ませた村人は稲穂に囲まれた場で直会。

暗くなってもその場の語らいは続いていた。

(H22. 1.23 SB912SH撮影) <※ 御供箱の蓋裏 >
(H28. 7.24 EOS40D撮影)
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小長尾天神社造営祭典

2015年08月24日 09時34分29秒 | 曽爾村へ
12月29日、配られた新聞チラシのなかにあった春日大社の「春日通信20号」。

20年ごとに行われる式年造替(しきねんぞうたい)のスケジュールも載っていた。

平成27年は仮殿遷座関係儀式、平成28年は本殿遷座関係儀式だ。

同じように20年ごとに行われる曽爾村小長尾の天神社。

寛文四年(1664)の創建と伝えられている。

内・外氏子たちの寄附を募って本社・小宮・鳥居などを新しくされた。

造営祭典に子供が槌を打つ儀式があると知らされて出かけた。

その件を聞いたのは同年の7月29日。

小長尾で行われている「センゲンサン」行事の聞き取りの際に教えてくださった。

造営祭典には槌打ちの儀式がある。

槌を打つのは法被姿の村の子供たち。

センゲンサンに導師を務めるYさんの孫たちも槌を打つと話していた。



槌打ちは男の子だけでなく女の子も参加する。

0歳児は親が抱っこして参加する。

上は15歳までと決まっている子供が槌を打つ造営祭典は、これまで取材した地域に見られない在り方。

是非とも拝見したく訪れた。

伊勢本街道を走る。

曽爾村に着いたときの道路情報が知らせる朝の気温は3度。

さすがに寒い。

Yさんに教えてもらっていても村役を存じているのは元区長のOさんだけだ。

同氏からは是非ともと云われていた。

神社は造営実行委員の方々が準備作業に忙しく駆け回っていた。

委員長でもある総代を紹介してもらって取材に入る。

委員の一人は曽爾村少年自然の家で仕事に就いているOさん。

自然観察会で長年お世話になっている山ちゃん先生の教え子だった。

奇遇な出会いである。

祭典舞台櫓には扇3枚に五色の垂れがある大幣が1本、小幣が17本あった。

奥には弓やさすまた(刺股)もある。

造営委員会を立ち上げたのは平成25年。

この年の造営祭典は例祭の新穀感謝祭も兼ねている。

子供たちが集まっている場は村の集会所。



法被を着た大勢の子供たちが親とともに来ていた。

法被姿で集まった子供たちは内氏子に外氏子の45人。

生まれたての子供から年長は小学生。

かつては内孫の男児だけであったが、少子化の影響を受けて男児は少ない。

女児も含めて外孫までもということにしたそうだ。

20年前の造営祭典と同様に黄色い襷に豆絞りの鉢巻をした子供たち。

裃姿になった造営棟梁が説明する槌打ち作法に耳を傾ける。

こういう機会は滅多にないと元区長から記念の集合写真を依頼されて撮影に応じる。



失敗は許されるものでなく責任は重いがなんとか撮れてほっとする。

集会所を出発した子供たちは日の丸扇を翳した造営委員についていく。



一種のお渡りであるが、造営棟梁らは先にでかけてしまった。

「本来なら先頭は造営棟梁なんだが」と委員は云ったが時すでに遅しであった。

神社で子供たちを待っていた内氏子に外氏子。

この日はめでたい20年に一度の造営祭典。

「造営」と書いて「ゾーク」と云う。

奈良県東部の東山中では一般的にそう呼んでいる本殿の建て替えであるが、西の葛城地方では「ゾーク」の祭典もなく一部修理で継いでいるようだ。



続々と参拝する内・外氏子たち。

槌を手にした子供とともに参拝する。

祭典の場は紅白の幕を張った舞台櫓だ。



時間ともなれば造営祭典関係者一同は参集する。

委員たちはその下の境内に整列した。

大御幣・弓矢などを立てた舞台櫓に上がるのは総代、棟梁、長老だ。

境内に立っているのは造営委員たち。

氏子らは道沿いに集まって祭典に望む。

小長尾の造営祭典の式典は開式、修跋、降神、献饌、祝詞奏上、造営棟梁による四方祓、棟梁祝詞(よごと)、玉岸奉奠、子供たちの上棟槌打ち、式辞、挨拶、本殿報告祭、例祭、鏡開き、乾杯、ゴクマキ、閉式である。

祝詞奏上の次は造営棟梁による儀式。

舞台櫓のそれぞれの角に移動する。



そこでまき散らすキリヌサは四方祓である。

引き続いて造営棟梁が祝詞を奏上する。

これは目出度い詞で詠みあげる「よごと」と呼ぶ祝詞である。



メインイベントは子供が作法する槌打ちの儀式だ。

舞台櫓袖に立った棟梁が「まんざい トー」と声を挙げて大御幣を「トン」と床を打つ。

それに合せて子供たちが横にした棟木を「トン トン」と打つ。

次は「せんざい とー」だ、同じように槌を打つ。

次は「えいえい トー」で終える槌打ちの儀式である。

「まんざい」、「せんざい」、「えいえい」を充てる漢字は「万歳」、「千歳」、「永々」。

村が永遠に栄えるよう、益々の繁栄を願った目出度い詞の槌打ちは上棟の儀式である。

鶴と亀の文様に「祝 上棟天神社」とある。

記念撮影に一度は立った子供は座って槌を打つ。



背が低い子供たちは太い棟木で被ってしまい顔が見えなくなった。

子供たちが打った太くて長い棟木は水平に置いていた。

それには本社の屋根まで繋げていた紅白の曳綱があるが、曳綱の儀式は見られない。

これまで奈良市誓多林・長谷・都祁南之庄・上深川で拝見した槌打ちは長老の役目。

子供が槌打つ小長尾の在り方は極めて珍しく貴重な存在だ。

話しによれば隣村の門僕神社でも子供が槌打ちをしているらしい。

この地方特有の在り方だろうか。



一生に一度しか味わえない槌打ちをした子供たちを記念に撮っておきたい親たちの気持ちはよく判る。

祭典は造営委員長の式辞、長老の祝辞挨拶に続いて本殿で報告祭が行われる。

神職を先頭に造営委員長。



続いて棟木を恭しくもつ大工棟梁の順に参進される。

この日は例祭の新穀感謝祭も兼ねている村の祭典。



神饌を献上し棟木を新しくなった本殿に納める。



祝詞奏上、玉串奉奠などの例祭を終えれば再び村の祝典に移る。

これより始まるのは氏子総代らの鏡開き。



菰酒樽を祝いの紅白小槌で蓋を打つ。

ぱっと割れた瞬間にお酒の香りが飛び出した。

樽酒を柄杓で汲んで四角い枡に注ぐ。

何杯も何杯も汲んでは氏子に配る。

大勢であるだけに子供を除く全員に回るには時間を要する。



酒枡が揃ったところで乾杯。

子供たちは横目で様子を見ていた。

それからしばらくは村人らの歓談の場。

ひしめき合いながらも久しく顔を合わせて喜びを分かち合う。

酒の肴は村の接待料理。

手作り料理が配られる。



胡麻を振ったスゴボウ、ニンジン・コンニャクに煮しめ、鶏のカラアゲ、たまご焼き、ハム、ソーセージ、キュウリ・チーズ詰めチクワにカマボコなどなど。

箸でつまんで移した紙皿でいただく。



お酒にビールに目出度い料理が飛ぶように売れていく。

大勢の村人が楽しむ直会にごちそうをよばれる。

居合わせた一人の男性と話し込んだ。

橿原市在住の娘婿は元神職。

石上神宮や龍田大社、小泉神社などで奉仕したが退職したという。

それぞれの神社行事でお世話になっただけに話が盛り上がる。

直会の時間は1時間余り。

神さんに供えた御供餅を下げる。

御供餅はお重に盛っていた。

前日の朝から作業場でダンゴモチを搗いていた。

モチは棒状にして伸ばす。

それを一つずつ包丁で輪切りした。

夕方までかかると話していたのは元区長の奥さんだ。

この年はネンギョ(年行)にあたる同家。

ゴクツキは杵でなく機械で搗く。

コメコとモチコは半々の分量で御供を搗く。

それをネコモチのような棒モチにこねて伸ばす。



少し堅くなったところでモチを輪切りにする。

モチコにコメコを混ぜているからダンゴである。

ちなみに隣村の長野はダンゴでなく、カサモチや十円玉を入れたモチを撒くそうだ。

舞台櫓や拝殿から放り投げるゴクマキ。

御供を撒くから「ゴクマキ」である。



祭典を飾るゴクマキは熱気で溢れた。

解散されて私も役終い。

帰路にも見た道路情報の気温は13度だった。

晴れ間になって穏やかな日であったが、それほど上昇していない。

(H26.11.23 EOS40D撮影)
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小長尾のセンゲンサンを訪ねて

2015年02月20日 07時20分01秒 | 曽爾村へ
奈良県内における富士講および浅間講を調査している。

これまで奈良市柳生町柳生下町および奈良市都祁上深川に水行、或いは水垢離と呼ぶ作法を拝見してきた。

つい最近は、奈良市阪原の富士講の作法を調査してきたばかりだ。

柳生は富士講と呼ばずに、あくまで十二人衆が行う土用垢離と呼んでいるが、上深川は富士講が行う富士垢離である。

かつては奈良市都祁小倉町にも富士垢離があったようだと聞くが、いつのころか講は廃れて、八柱神社の石段の下に浅間さんの石碑が残っているだけになった。

富士講或いは浅間講の石碑は山添村広瀬・吉田・勝原や天理市長柄など県内各地にその存在を現認してきた。

この年の7月8日に取材した古市町の仙軒講も講のひとつとしてあげられるが、水行は行われていない。富士講碑でなく、浅間神社を奉る地域もある。

末社に浅間神社がある在所は奈良市鹿野園町・八阪神社、三郷町薬隆寺・八幡神社などが知られる。

ひとつ気になっていた地域がある。曽爾村の小長尾である。

平成21年11月に天神社で行われた例祭収穫祭を取材したときである。

小長尾では毎月の25日に月参り御膳を供えられる。

弥勒さん、山の神、辻の神さん、せんげんさんに秋葉さんなど10カ所に月当番組が供えるのだ。

その一つであるセンゲンサンこと浅間神社は青連寺川を渡った対岸の山の頂上に鎮座すると氏子長老のYさんが話していた。

小長尾にはかつて浅間講があった。

40年も前のことだ。

土用の一週間、長蓮寺に籠もっておしょうじ(精進)会式をしていた。

魚や肉は一切口にしない精進である。

曽爾川とも呼ぶ青連寺川に行って水垢離の行をしていた。

現在は日を決めて村役員が向かいの山に登って般若心経を唱えている。

せんげんさんは大日如来を祀るから心経を唱えるのだというYさんは、先代の親父さんから神主役を引き継いで20年間勤める村神主。当時は84歳だった。

今でも元気に山へ登ってセンゲンサンをされているのかどうか気になりだした。

そう思って、4年ぶりに訪れた小長尾である。

この日は土用入り後の丑の日。

鰻喰いたしの買い物客で鮮魚売り場はごった返す。

もしかとすればこの日であろうと思って出かけたのである。

Yさんの家を探してみるが久しぶりの小長尾は思い出せない。

寛文四年(1664)に勧請した棟札が残される天神社すら場所が判らなくなっていた。

坂道を降りたり上ったり彷徨う道すがら人影が目に入ったので訪ねてみたⅠ家にセンゲンサンの件でやってきたことを伝えた。

それなら数日前の24日に行ったと云う。

夕方近い時間帯に宮さん関係者が参ったそうで、Ⅰさんも宮総代の一人だった。

センゲンサンに参った地はここより丁度南側にある山の頂上。



曽爾トンネルが貫通している山の頂だ。

手前にある山で三角のようになっている山だと云う。

ここら辺りの標高は460m。

奈良盆地平坦の気温は32.6度にも達していたが、小長尾は涼しい風が通り抜ける。

汗もかかない小長尾でも数日前は暑かったと云う。

その日は25、26日。

平坦での気温は37度近くにもなっていた。

センゲンサンに参った日は24日。

平坦では34度だった。

Ⅰさんは腰痛だったが、汗をかきながら登ったと云う。

センゲンサンの正式名称は浅間講。

かつては長蓮寺で籠りをしていた。

白装束に着替えて青連寺川(小長尾では曽爾川)で水垢離をしていたそうだ。

それから浅間神社を目指して山を登る。

時間にしてみればおよそ15分だが、急坂道。腰痛の身では堪えたと云う。

浅間神社には桜の木があるそうだ。

大日如来も祀る山の頂き。

そこで般若心経を唱えていたと云う。

今年も4年前に話してくださったYさんが登ったと云う。

90歳になったYさんはいたって元気でほいほいと登ったらしい。

住まいはと聞けば長蓮寺下の家だと云う。

訪ねた家にYさんがおられた。

4年前に拝見したときと同じの黒光りのお顔。

元気な姿をみせてくれる。

今年はネンギョ(年行)と呼ばれる年番さんとともに出かけた。

宮さん関係者の10人が登る一時間前に到着して神社周りを清掃していたそうだ。

ヤカタがある石碑にお神酒や御膳を供えて祭典をしていた。

般若心経は七巻。

いつもYさんが導師となって唱える。

Yさんも話したかつてのセンゲンサン。

長蓮寺に籠って「行」をしていた。

昼ごろになれば白い着物に着替えて川に向かって歩いた。

川に浸かって般若心経を唱えていた。

今では無住寺となった長蓮寺は江戸時代後期の創建で融通念仏宗派。

Yさんの時代だったそうだ。

小長尾には氏神さんを祀る天神社がある。

今年は造営の年になる。

本殿は大工棟梁の作業場に移して宮造りをしているそうだ。

造営には槌打ちの儀式がある。

槌を打つのは法被姿の村の子供たち。

Yさんの孫たちも儀式に出仕され槌を打つという。

9人も孫が参加するというから外孫も入っているのだろう。

槌打ちは男の子だけでなく女の子も参加する。

0歳児は親が抱っこして参加する。

上は15歳までと決まっている子供が槌を打つ造営はこれまで取材した地域には見られない様相である。

スケジュールオンしたのは云うまでもない。

ここら辺りの景観はとても美しい。



ここでも咲いていた黄色い花のルドベキア。

今年は行き先々で拝見する。

向こう側に見えるのが長蓮寺だ。

シカ除けのネットを張っている稲田。

稲穂が膨れるにはもう少しの期間が要るであろう。

手前に咲いていた紫の花。

細い葉だけに軸一本で立っているように見える花の名は知らない。

ノコンギク、いや違う。

カノコソウに似ているが葉付きがまったく違う・・・ヒヨドリソウ・・・それも違う。

背丈からマツムシソウと思ったか花付きが違う。

花図鑑を坊主めくりしても見つからない夏の花。

田んぼ傍にあったので園芸種なのか。



後日に判ったヤナギハナガサ。

盆の時期によく見かける花である。

四角い茎はザラザラ、細葉はギザギザの対性で判るそうだ。



辺りを見渡せばヤマユリが盛んに花を広げていた。

自然に生えていると思われるヤマユリは、大神宮の石塔場にも咲いていた。

「手入れはしてないのに勝手に広がっているんや」と云うヤマユリは花の大きさが日本最大級。



ササユリには見られない点々とした赤い斑点が特徴。

カサブランカは1970年代に日本原産のヤマユリ・カノコユリ・ササユリを原種にオランダで交配・作出されたそうだ。

そこへ軽トラでやってきた住民は83歳のⅠさん。

先祖さんは漢方医で、村の役員を勤めたこともある。

ご主人は乗ってきた軽トラを走らせて南紀まで出かけることもあると云う。

乗り慣れている軽トラであれば腰に負担もかけないと云って、つい先日も遠出をしたそうだ。

Ⅰさんの話によれば8月半ばは長蓮寺で施餓鬼が行われると云う。

同村の塩井の住職が法要されると云う。

長蓮寺は融通念仏宗派。

かつては11月ころに大阪平野大念仏が来村される大和ご回在があった。

今ではそういう行事もなくなったが、弾けるザクロの実が懐かしいと話していた。

長話に盛りあがる小長尾。

訪ねる家は元区長家のOさん。ぐるりと廻って家に辿りついた。

やっとのこさ思い出したのである。

訪ねてみれば作業場で奥さん、息子さんとともに野菜の袋詰めをされていた。

今年の11月23日は20年に一度の造営事業を行う。

この年はネンギョ(年行)にあたる同家。

前日の22日は朝から集落下の作業場でゴクツキをする。

ゴクツキと云っても器械で搗く。

半々の分量にしたコメコにモチコでゴクを搗く。

それをネコモチのような棒モチにこねて伸ばす。

少し堅くなったところでモチを輪切りにする。

モチと云ってもコメコ、モチコであるから、いわゆるダンゴである。

ちなみに隣村の長野はダンゴでなく、カサモチや十円玉を入れたモチを撒くそうだ。

(H26. 7.29 EOS40D撮影)
(H26. 7.29 SB932SH撮影)
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曽爾の桜景

2010年06月03日 07時30分25秒 | 曽爾村へ
雨の日の翌日はガスがかかる。

朝10時、サンビレッジ曽爾から曽爾高原を眺める。

そして、今井の行事を終えた。

帰宅するには時間はまだ早い。

せっかくだからと曽爾村の桜景観の状況を見て回った。

村長私邸のヤマザクラは満開だ。



朝の靄のときに撮っておけばよかったと思うがもう遅い。

曽爾の代表的な景観といえば屏風岩。

足を伸ばしてというよりも帰り道に寄ってみた。

もちろん500円の駐車料金を支払ってだ。

広くなったので停めやすい。

大字の管理人に挨拶して色彩豊かなヤマザクラを拝見。

ヤマツツジの花びらにちょうど陽が差し込んだ。



逆光に美しく映える。

今日はどこを捉えてみるか。



短時間の撮影を終えて帰ろうとしたら今井のご婦人方と出会った。

三多気も行ったし、御杖の丸山公園も行ったけど、近くにおりながらなかなかこっちへは来ないんですという。

そういえばここにおでん売りがあったよねの言葉に相づちをうつ。

たしかにここにあった。

だいぶと前のことだ。

そんなことを管理人と話していたら売れ残ることが多いのでやめたという。

余ったおでんは家の食事になったが毎日は困るんでやめたそうだ。

ご婦人は余ったからと行きしなに買ったときよりも帰りはごっそりもらって帰ったと思い出された。

(H22. 4.21 EOS40D撮影)
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曽爾今井の花見の宴

2010年06月01日 08時52分58秒 | 曽爾村へ
法要を終えると花見の宴。

役員の輪、当屋の組の輪の真ん中にオードブル料理や手作り煮染めのお重が並べられた。

煮染めはタケノコ、シイタケ、ニンジン、ゴボウ、コーヤドーフに卵焼きなどなど。



濃いめのお味が染みこんだ煮染め料理は故郷の味。

ビールの肴に最適だといながら、お下がりのお神酒でいただく。

天候も良くなってポカポカ陽気。

古樹のヤマザクラが青空に美しく映える。



岳さんはマツタケ山だけど急な斜面に生えているそうだ。

特別な職業師でないと危険な場所。

裏から行ってトメヤマへ。

売れんようなちっちゃなマツタケをくれるのだと笑う。

岳さんは兜岳。

正面から見れば兜の姿に見える。

その横は鎧岳。

曽爾の山々は荘厳な姿を見せてくれる。

宴は小学校が終わるころまで開いている。

まだまだ村人は来ない。

せっかくだからと緑の寄金で整備した公園でワラビ採り。



斜面の向こうは日当たりが良過ぎているのかひとつも見つからない。

半日陰になる場所に群生している。

手にはワラビの束が太くなってきた。

そのころにやってきた。



お地蔵さんに手を合わせて参拝する。

残りものやけどと煮染めをいただいて御供さんのモチ撒きに転じた。

宴会同様に桜の下で繰り広げられるモチの争奪戦。

小さ目のモチは棒モチ。

それを適度な大きさに切ったモチ。

搗いてからさまして固くなってから切る。

これをネコにするという。

大きなモチはカケモチ。

中には50円や100円が入っているので熱中する。



子どもに戻った気持ちになるわと村の春の宴は幕を閉じた。

(H22. 4.21 EOS40D撮影)
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曽爾今井の延命地蔵会式

2010年05月31日 09時34分56秒 | 曽爾村へ
毎年4月21日に会式が営まれている曽爾村今井の延命地蔵尊。

平成22年には横輪の中の組の幟が立てられた。

当屋の組は毎年変わる。横輪からは上、中、下、新(あたらし)の4組。

今井は上、中、下、宮の4組の小字(こあざ)。

8年にいっぺんは回ってくる年番の当屋の組だ。

あたごさんの当屋は組で決められる。

正月にする組もあるが、行われる時期はまちまちの汁椀のフリアゲで決まるそうだ。

午前中には昨年の幟を降ろして境内を清掃した葉っぱなどと一緒に燃やされる。

お地蔵さんには花束を添えている。

再び集まるのは正午。

塩井の明安寺の住職を迎えて会式の法要が始まった。



境内にシートを広げる。

地面の温度は低いのでさらに布団敷きを敷いた上に参列者が座る。

地蔵尊の前には黒塗り器の「ホッカイ」や藁製の「フゴ」に入れられた色とりどりの御供モチが置かれた。



赤、緑、黄色などは色粉で色つけ。

色粉を入れる小字や熱湯で溶かした色粉をモチ搗きのときに入れる小字など作り方は様々だそうだ。

色粉は自然な色合いで特に味はないという。

だからどれをとってもモチはモチに違いないと話される。

ホッカイは目出度いときに赤飯を入れていた器。

その名を思い出してくれたのはおばあさんだった。

昔は嫁入りのときに持ってきたのよと話される。

山間の空間に読経が静かに流れる。

すくっと立ち上がった住職。



右手に持った華を撒いた。

いわゆる散華だ。

ひらひらと舞い落ちた散華を拾って村人に配られた。

そのあとは一人ずつ焼香される。

地蔵尊の右手を流れる沢。

迂回道の道路ができるまではその沢道を登って赤目まで行ったそうだ。

現在は立派な村の道。

崖崩れなどで国道81号線が塞がったら三重県に行くにはこの県道を通っていくしかない。

昨年もそうだったと話す。

かっての地蔵尊はその迂回路傍の平坦地にあった。

唐招寺(唐招大寺の分院だったが廃寺)に頼まれて移設した。

「目の神さんとして親しまれてきた延命地蔵さんに参らなんと選挙も当選せーへん」という。

実際にそうなった人もおったという。

移設後、目が悪くなったり、死人が出たりしたんで元の位置に戻したという延命地蔵は通称「めなし地蔵」とも呼ばれている。

(H22. 4.21 EOS40D撮影)
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タワミネサンのゴク作り

2010年04月12日 07時09分26秒 | 曽爾村へ
タワミネサンの岳のぼりがある曽爾村の小長尾。

春の農休み(め)にあたる岳のぼり

農作業にとりかかる前に先に休んでおく農休めである。

六つのコバ(木場)から選ばれる当屋が岳のぼりに撒かれるモチを作る役目にあたる。

当屋はとーやと呼ぶ。

昔はふりだしと呼ばれる作法で当屋籤を引いた。

椀のなかに籤を入れて穴の開いた半紙を被せる。

それをふっと上に振る。

すると当たりの籤が飛び出す。

それが当屋さんだ。

いわゆる神籤であるのだが何故か何回も当たってしまうという元区長。

私が嫁にきてから3回も当たったんよと奥さんは話す。

不公平のないようにといつしか籤は家の順の廻り当番制になった。

天神社の当屋もそうなった。

かつては引き渡しもたいそうだった。

奉られた御幣を持って次の当屋の家に行く。

そこでごちそうを食べ、酒を飲み交わしていた。

長時間の引き渡しの場だった。

それがお茶を飲み交わすだけになった。

御幣を引き渡すのは変わっていないがすごく短時間になったという。

御幣は当屋の家で一年間奉る。

下のコバは5軒。

タワミネサンの当屋廻りは早い。

高齢化甚だしく、ゴク作りがたいへんだという。

ゴクは米粉(こめこ)が主体になる。

大字43軒は一升分ずつの白米を寄進する。

集まったら三斗にもなる。

単位は三斗だが、これをサンドと訛って呼ぶ。

米粉は挽いていた。

相当な量なので長時間どころかたいへんな重労働だった。

今年のタワミネサンから大きな転換が図られた。

米粉は米屋さんで挽く。

それなら最初から挽いてもらったほうがえーやろということで米屋から買うことにされた。

米粉は熱い湯を少しずつ注いで練る。

米粉だけではバラバラになる。

繋ぎに餅米を使う。

それと一緒に練るのだが、熱湯や配分加減は感覚でしているという。

湯は熱湯でないと口内でへばりつくそうだ。

コバごとに作るので食べたときにどこのコバが作ったんじゃと叱咤されるらしいのでゴク作りはたいへん重要なのだと話す。

ゴクは漢字で書けば御供。

練った米粉を棒状に伸ばして蒸す。

これをゆっくり冷ましてから切る。

タワミネサンの岳のぼりの前夜はこうして作業を終える。

村の大切な行事、米粉は買うようになったがゴク作りだけはこれから続けていきたいと仰る。

ちなみに大きく平べったいモチは「カサモチ」と呼んでいる。

(H22. 3.16 聞き取り)
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