マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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米谷町白山比咩神社の宵宮祭

2017年05月31日 02時19分48秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
旧五ケ谷村の一つに米谷町がある。

明治22年に成立した五ケ谷村は先に挙げた先に挙げた米谷町の他、中畑町、興隆寺町、高樋町、虚空蔵町、菩提山町、北椿尾町、南椿尾町の8町からなる。

現町名の奈良市編入は昭和30年の戦後間もないころ。

平成6年7月、五ケ谷村史編集委員会が発刊した『五ケ谷村史』がある。

その村史を初めて拝見したのは平成26年1月26日である。

その日の取材地は北椿尾町。

大寒のころに北椿尾稲荷講の講中が山の獣に食べ物を施行する寒施行行事を取材していた。

講中のお一人は大久保垣内に住んでいるⅠさん。

お礼に立ち寄ったお家に村史があると見せてくださった。

その村史はしばらく借りてスキャンコピーしておいた。

旧五ケ谷村のそれぞれの地区ごとで行われている伝統行事を詳細に調査され纏めた記事が載っている。

執筆者は奈良市教育委員会の岩坂七雄氏だけに内容は詳しい。

秋祭りは各大字のトウヤ制度や神饌、座、千本搗きを中心にした報告がある。

中でも年中行事の詳細が書かれている大字は古文書などの紹介もある高樋町と米谷町である。

年中行事の一覧表も参考になる。

また、菩提山町民家の薬師寺花会式の花造りや北椿尾の六斎念仏、米谷町などかつてあった雨乞い行事の太鼓踊り、北椿尾の御陰萬覚帳・米谷町のおかげ踊歌詞章、弘仁寺十三参りのレンゾ、中畑町の勧請縄掛けなども大いに参照できる村史である。

その村史の調査・編纂に関わった人が今年度に村神主として斎主されている九老のNさんであった。

初めてお会いしたのは麦初穂の日。

行事は終わっていたが当月村神主手伝いの佐多人(助侈人とも)のNさんとともにマツリの件を聞かせてもらっていた。

佐多人(さたにん)は毎月に交替する当番の二人。

神社行事に供え物の準備や搬出入、給仕などをお世話する役目をもつ。

米谷町に鎮座する白山比咩神社を訪ねた日は平成27年の10月10日だった。

斎主を務める神職の新谷宮司に聞いて訪れたが、宵宮祭の最中であったことから挨拶は出来ずじまいだった。

だが、先に自宅へ戻られるO婦人に宵宮祭のマメドーヤなどを教えてもらっていた。

宵宮行事のお渡りが出発する場がある。

米谷町精米所利用もある米谷町協同出荷場(郷倉)の2階にある公民館である。

宵宮祭のお渡りは午後4時であるが、午前中にその公民館に立ち寄った。

1階に数人の方がおられた。

挨拶をすれば大唐屋家の方だった。

宵宮祭に明日のお渡りを務めるのは大唐屋家の孫男児。

跡取りである長男児はトウニンゴ(唐人子若しくは唐人御とも)を務める。

小唐屋の人とともに先頭を行くそうだ。

村史によれば、昭和初期までの唐屋務めは15歳以上。

村神主より各戸の長男が生まれた順に大唐屋・小唐屋を言い渡したとある。

現在は3月1日の祈年祭の際に行われるフリアゲ(振り上げ)によって大唐屋(年長)・小唐屋(若年)の二人を選んでいるそうだ。

唐屋を務めるのは村で生まれ育った人たちであるが、養子の場合はイリクを認められた人である。

9月7日は唐指し(とうさし)の名がある唐屋受け(とうやうけ)。

十一人衆、3人の氏子総代、トウニンゴ(唐人子若しくは唐人御とも)、トウニンゴヒカエ(控え)が神社に参拝される。

両唐屋は10月1日に龍田川に出かけて精進潔斎する龍田垢離(たつたこうり)をする。

昔は斑鳩の龍田川に出かけて潔斎をしていたが、現在は地区の上流にある不動山の清流に、である。

その川で水垢離をされたようだ。

旧五ケ谷村の米谷、北椿尾、高樋のトウニンンゴは菩提山川に出かけて潔斎に水垢離をしていた。

高樋では川の小石を拾って帰ることになっている。

そう書いていたのが『五ケ谷村史』である。

代理でも構わないが予め村神主に伝えて承諾を得ておくらしい。

10月4日はマツリの一週間前。

長老の十一人衆、氏子総代、佐多人(助侈人とも)らの呼び遣いがある。

そのような話しをしてくれた場にこの日に作ったと思われるマツリの道具がある。

伐採した青竹中央に白い布を巻いている。

厚みがあることから肩当てであろう。

両端に裾をカマで伐ったと思われる新穀がある。

稔りの穂がある稲を収穫して氏神さんに奉納するこの名は何であるか、とお聞きしたがわからないようだ。

県内事例の多くにあるこの形。

収穫した稲穂を担ぐことからイネカツギとかイネニナイの呼び名が見られる。

村史にお渡りの行列順が書いてあった。

先頭は村神主、次が御幣持ちの大唐屋。

次に続く小唐屋、前年村神主が担うイネイ(ニ)ナイ(稲担い)、十一人衆、氏子総代。お渡り道中の途中に「トウニン トウニン ワハハイ(ワーイ)」と叫びながら行くとあった。

イネニナイを置いてある所に2本の葉付きのトウノイモ(唐ノ芋)があった。

これもまた氏神さんへのお供えであろう。

その場には根洗いしたたくさんのゴボウがある。

また、トウノイモに軸のズイキも大量にある。

これらは翌日のマツリに料理されるもの。

収穫したトウノイモはカシライモ(頭芋)と呼んでいた。

それらはニンジンやダイコンとともに煮る。

イモダイコンと呼ばれる料理は2階の公民館で行われる接待招きに来られる宮座十一人衆がよばれる。

接待料理の内容は多いらしい。

大唐屋の親戚も来てもらって料理を作ると話していた。

マツリの日の料理は小唐屋が担うが、宵宮祭は大唐屋。

この日は大量のエダマメを調達・調理される。

氏神さんにも供えるエダマメがあることからマメドウヤの呼び名がある。

それに対してマツリはイモドウヤの名がある。

こうした話を聞いて午後4時から行われる宵宮祭に到着する。

お渡りまでは公民館で宮座を招待した接待料理をいただいていたそうだ。

焼き物は焼鯛。料理は寿司盛り合わせにサトイモ、ダイコン味付け煮込み、サバのキズシ、タコス。

突き出しにブリの照り焼きに野菜類等の三品。

汁椀は豆腐にチクワ若しくはカマボコである。

この場で搗いた粳米四升の鏡餅に手祝餅があるが、拝見はしていない。

到着した時間は午後4時過ぎ。

お渡りはすでに始まっていたが、「トウニン トウニン ワハハイ」の唱和は聞こえない。

発声はしていないように思えた。

この「トウニン トウニン ワハハイ」の唱和をする県内事例はままある。

私が取材した範囲内の行事であるが、18事例もある。

地域によってはやや詞章が異なるところもあるが、まだまだ知られていない地域もあるように思えてならない。

村神主は立烏帽子被りの狩衣姿。

両唐屋は舟形侍烏帽子を被り黒色の素襖を身に纏う。

大御幣を持つのは大唐屋であるが、事情によってトウニンゴ(唐人子)代わりの親が持つ。

宮座十一人衆も烏帽子を被るが服装はそれぞれの和装姿である。

下駄を履く人もあれば雪駄草履の人も・・。

うちお一人がイネニナイ(稲担い)である。

かつては十一人衆を接待していた大唐屋家から出発していたが、現在は公民館から出発する。

そこからは下り道。



道路いっぱいに広がって渡っていた。

その形態は参道に入っても崩さずに渡っていた。



到着すると同時に神社に参拝する。

そのころには予め出仕されていた丹生町在住の新谷宮司と出会う。

祭り始めに一枚の祈年写真を撮って本社殿、拝殿に上がる。

宮司、両唐屋は社殿前。

十一人衆は拝殿の左で右は3人の氏子総代と自治会長役員が就く。

米谷町の戸数は47戸。

後続についていた村の人たちもやってきて参拝する。

本社殿に向かって拝礼。



そして右奥のチンジサンと呼ばれている鎮守社に遥拝所も参拝する。

その間に神饌を供える村神主は忙しく動き回る。

神事は宮司一拝より始まって修祓。



社殿前に並んだ村人に祓いをする。

幼児にとっては感心のないことである。



大唐屋の大御幣は社殿に立てかける。

担いできたイネニナイや3本の葉付きトウノイモも奉納していた社殿前に座る宮司。



祝詞を奏上される。



拝殿中央におられるのは和装大島に袴姿の責任氏子総代。

神事の進行役を務める。

先に玉串を奉奠する宮司。

続いて両唐屋も奉奠される。

その際には十一人衆は頭を下げる。

右にちらりと見えるモノがある。

両唐屋と村神主が座る位置であるが隠れて見えない。

続いての玉串奉奠は氏子代表の村役である。



神事の進行を見守る婦人たちは参籠所でもある直会殿前に座って拝観していた。

直会殿には大量のエダマメが置いてある。

テーブルいっぱいに広げたエダマメは収穫時期を考慮して2カ所で栽培した。



場所も違うし時期も異なるから二種類の味わいがあったようだ。

そのエダマメを食べ始めるのは拝殿におられた十一人衆である。

佐多人は酒の給仕をする。



酒の肴のエダマメを喰う。

これを一献と呼ぶ。

酒はお神酒。

神さんの前で神さんとともに食するのである。

氏子たちは一献が始まる前に直会殿に座っていた。

十一人衆の一献が終われば氏子たちも一献。

給仕の佐多人が「一献 いきまーす」の声が聞こえたら直会殿に居る佐多人が給仕をする。



そして肴のエダマメを食べる。

村人一人、一人に酒を注ぎ回っていく佐多人。

注いでもらってエダマメを食べる。

人数が多いから酒の廻りも時間がかかる。

そのうち「ニ献 いきまーす」の声が聞こえる。



そうすれば佐多人が動いて酒を注ぎ回る。

これを7回も繰り返す呼びつけ七献の酒杯エダマメ喰い。

社殿側も給仕が忙しく七献する。

神主、唐屋、十一人衆の廻りで白いカワラケに酒を注ぐ佐多人は休む間もなく動き回る重要な役割を担う。



午後7時過ぎの3献目のころ、宮司は次の斎主に就く村へ急がねばならない。

頭を下げて先に退席された宮司は「また、山の方へも来てください」と伝えてくれた。

山の方とは山添村の何カ所かである。

何カ所かで行事取材をさせてもらっている。

5時20分は五献。

「五献 いきまーす」の声が聞こえたら「ハーイ」の返事で返す。

それから5分後の25分は六献。

「オーイ」と声があがる。

30分は七献。

「へーい」と応えた。

その間はずっと座していた両唐屋と村神主。

まるで神の遣いのように思えた。

これでやっと終わった米谷町の宵宮祭。

『五ケ谷村史』に、終わりは十一人衆が「「トウニン トウニン ワハハイ」を叫んで終えると書いてあったが、私の耳には届かなかったようだ。



こうして解散した時間帯は午後5時半。



村の人たちは残ったエダマメを手にして帰路につくが、十一人衆は拝殿で歓談していた。



まだまだ飲み足らないように思えた宵宮祭に提灯を掲げる家もある。

(H28.10. 8 EOS40D撮影)

佐紀町亀畑佐紀神社二条町座中の宵宮祭

2017年05月30日 09時16分55秒 | 奈良市へ
バランの葉にシトギを載せて供える行事がある奈良市佐紀町の亀畑佐紀神社。

氏子たちは鎮座地の佐紀町ではなく二条町になる。

シトギを供える年中行事は一年に3回。

十月の宵宮に翌日のマツリや11月に行われる新嘗祭である。

供えたシトギを御供下げして座小屋でよばれる。

氏子座中はそのシトギをヒトギと呼んでいる。

県内事例においては数少ないシトギを供えると知った写真家Kさんに是非見ていただきたく誘っていた。

年中行事を務める年番当役のトーヤは3軒。

二条町は30戸であることから6~7年に一度の廻りのトーヤ勤めになる。

座小屋に掛けた幕は昭和拾年一月に新調されたもの。

白抜き染めの紋は下がり藤。

春日大社と同じような形式をもつ紋であるが、一昨年の平成27年11月23日に行われていた新嘗祭のときに聞いていた幕の新調。

この日の宵宮祭に初張りをすることから3人のトーヤが参集してお祓いをしてもらっていた。

そのつもりで朝にお祓いをしてもらっていたが、今夜の天候は危ぶまれる予報。

折角新調したのに汚れては申しわけないとやむなく復活出番。

それこそ最後のお役目に幕を張った。

その旧幕に「式内佐紀神社 氏子婦人一同」の白抜き文字がある。



寄進者は氏子のご婦人方だった。

氏子一同とか座中、或は大人衆などのようにたいがいは男性であるが、当地では婦人方。

あまり見ることのない、珍しい寄進者である。

亀畑佐紀神社行事のお供えを調えるのは神職である。

材などはトーヤが準備しておく。

それらの御供は座小屋で調整する。

高坏に載せた神饌のなかにシトギがある。



バランの葉の上に乗せて供えるシトギはお店で購入した上新粉をトーヤが加工したもの。

ボールに入れた上新粉に沸かしたお湯を注ぐ。

温度はお風呂と同じぐらい。

かき混ぜた上新粉は手でこねる。

耳たぶ程度の柔らかさになれば小判型に調えてバランに乗せる。

長老たちが話したかつての作り方は「家で米を挽いて粉にする。水に浸して塗りの椀に盛って供える」である。



秋のマツリは宵宮、本祭の両日に亘って拝殿前に屋根付き提灯立てを設える。

屋根付き提灯立てを倒れないように土中に埋め込んだ支柱で支える。

固定するのはボルト・ナットではなく木片である。

ホゾ穴に木片を通して固定する。

四つの提灯を吊るす枠は紐を操作して上下に稼動できる仕組みだ。

神職に祓ってもらったトーヤの御幣と神酒口をそこに揚げる。

そのために一旦は紐を降ろして下げる。

梯子を遣えばいいものだと思ったが当地ではこうした作業で調えていた。

神酒口もそうするのかと思えば違った。

神酒口を載せる台がある。



背を伸ばせばそこに届く範囲内。

いとも簡単に載せていく。



丁度、調えたころに参られる人もいる。

正装のスーツ姿の氏子たち。

座入りした男性は拝殿に上がることができるが、トーヤ家の婦人であっても拝殿下で見守る。

いつもそうされている。

かつては一老と呼ぶ長老を筆頭に、二老、三老・・・八老までの八人衆と下に六人衆からなる宮座があった。

座小屋に一枚の記念写真がある。

「昭和13年4月神社八人衆連名祈念」とあるから80年余り前の様相を示す記録写真である。

当時は、一老が村神主を勤めていたと話していたことも判る写真である。

神事は修祓、献饌、祝詞奏上、長老の玉串奉奠などである。

始めに神職が幣をもって移動した。



座小屋の裏にある祓戸社に参って修祓をされる。

その場は清めの塩を撒いていた。

神聖な場であるが、氏子たちはその場に並ばない。

戻ってきて社殿前の境内に集まっていた氏子に修祓。



神々しくも祓えの幣に光があたる場であった。

次が献饌。

座小屋に納めていた神饌を手渡しで本殿に移していく。



シトギの杯もこうして渡される。



祝詞奏上、長老の玉串奉奠に撤饌などを見守る婦人たちは座小屋の扉辺りに並んで見ていた。



亀畑佐紀神社の神事はこれで終わりではない。

一同は揃って場を移すのである。



神饌ものを抱える氏子たちの先頭を行くのは神職。

向かう先は階段を下りた鳥居の真ん前。



弁財天社に於いても神事が行われる。

神饌を献じて祝詞奏上、玉串奉奠。

そして、神社に戻るかと思えば、そうではなく。

北に数百メートルを歩く。



隊列を組むことなく歩く。

その場は森の中。

内部に佇む場に社殿がある。

その社殿は「ゴマンドウ」。

充てる漢字は護摩堂である。

平成14年9月28日に屋形を新築した護摩堂は「二条の宮さん」とも呼ばれている。

境内にある石碑は永禄十一年(1568)の建之。

前期超昇寺(後期は廃佐紀幼稚園南側)の遺構の護摩堂であるが、社殿造りで建てられた。



この場に於いても神饌を供えて神事を行う。

こうした一連の参拝を済ませて直会の座小屋に場を移す。

場を調えるまでの間である。

拝殿に置いてあったお供え物に目がいった。

相当古いと思える年代物の桶にいっぱいのリンゴがある。

桶には蓋もないし、年代を示す文字も見当たらないが、黒光りから想定するに相当な年代物だと推定する。



担ぐようなこともなかった桶に盛っている真っ赤なリンゴである。

重さがあったことからなのか聞いていないが、先に本殿に供えていたのである。

シトギなどの神饌ものは手渡しの献饌、撤饌であったが、このリンゴは扱いが違った。

現在はリンゴであるが、かつては柿であったと云う。

その時代は二老のKさんの親父さんのころにあったという。

マツリが終われば1軒に2個ずつ配るリンゴは座受けのリンゴ。

昔は男の数だけ貰っていたという。

男の子ができたときは「子酒料(こしゅりょう)」を納める。

納めることで座受けされる。

神事を終えた氏子たちは昭和41年10月12日に竣工した座小屋にあがる。

座は西の座、東の座に分かれて座る。

初めに年番の人が折敷を席に置く。

お神酒は上座の神職、次に東の座の長老、西の座の長老の年齢順についた氏子一人ずつにお神酒を注ぐ。



乾杯をすることなく、注がれた順にお神酒を飲み干す。

まずは一献ということである。

熱燗の二献、ヒトギ(シトギ)喰い、お重詰めの酒の肴などの作法もあるが、次の取材に間に合わせなくてはならない。



申しわけないが、この時点で失礼させてもらった。

(H28.10. 8 EOS40D撮影)

中畑のハザカケに出合う

2017年05月29日 10時28分05秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
午前中はマツリ取材願いで旧五ケ谷村の米谷(まいたに)に来ていた。

白山比咩神社に参進、参拝されるトウヤ(唐屋)のマツリを拝見したく訪れていた。

郷倉の名がある公民館にマツリ道具があった。

その場におられた唐屋家族に話を伺い許可をいただいていた。

マツリは午後になるが、それより早く行事をされる地区がある。

幾たびか取材させてもらっている奈良市佐紀町に鎮座する亀畑佐紀神社の行事である。

そこは午後の一番。

それまでの時間はどうするか。

10月のやや半ばに移りつつある時期は稲刈りを済ませて地域も多い。

多い中にここだと思って行先を決めた。

米谷の隣村の奈良市中畑町である。

中畑はこれまで神縫縄掛けやトンド焼き毘沙門会式の籠りの行事を取材したことがある。

中でもお世話になったのは水口マツリしていた二人の婦人である。

初めて取材した神縫縄掛けのときもトンド焼きの時もなにかと話してくれたⅠさんが居る。

もしかとして畑にでているかもしれないと思ってハンドルを切った。

中畑は傾斜地。

見下ろせば段々畑が美しい。



その向こうに架かる橋は名阪国道。

左カーブを曲がり切った所に五ケ谷ICがある。

そこより下れば興隆寺町から高樋町に抜ける。

登れば米谷町からここ中畑町に着く。



旧五ケ谷村の現在は奈良市精華地区に属している。

大字は先に挙げた中畑町、米谷町、興隆寺町、高樋町の他、北部の虚空蔵町、菩提山町、北椿尾町、南椿尾町からなる八カ大字村の成立は明治22年。

現町名の奈良市に編入、属したのは昭和30年になる。

稲刈りを終えたものは一本竿のハザカケにかけて干していた。



付近の稲田はもう少し期間がいるようだ。

上から見下ろす景観も素敵だが、見上げる場も良い。

上から或は下から撮るハザカケは家の真ん前に干している処もある。



稔った稲穂が垂れるラインは曲線を描く。

風景を専門に撮る人はここに彼岸花があれば尚良いというだろう。



私が撮る被写体は民俗がテーマ。

農家の方々が精魂込めて栽培している状況を伝えたい。

生業は営み。

営みに人がいると思って探してみるが見つからない。

この日は第二土曜日。

奈良県内では第二日曜が最も多いマツリがある日。

稔りの豊作物を氏神さんに供える秋のマツリだ。

ここ旧五ケ谷村においても中畑をはじめとして興隆寺、高樋、米谷にマツリがある。

各村を受け持つ神職は小刻みに駆け巡る。

どことも収穫を喜び合う日で賑わう。

そんなことを思いながら細く曲がりくねった村の急坂道を車で走る。

稔りの田園が美しい中畑。

右も左も収穫の歓びが目に映るようだ。



大きくなった柿の木にも稔りがつく。



色づき始めた柿もあれば赤身を増した柿もあるが、これらはたぶんに渋柿。

その付近にもハザカケがあった。

ひと通り拝見して道を下る。

そこにおられた親子。

ほっかむりをしていた婦人はすぐにわかった。

もんぺ姿が愛おしい婦人は嫁入りの際に持参した云十年も前の絣のもんぺも見せてくれたⅠさん。

息子さんとともに稲刈りをされていた。



昨日に刈った稲は家近くのハザに架けていたという。

そのハザ場は水口マツリをしていた場のすぐ傍の田んぼだ。

今日は朝から残っている稲田の刈りいれ。



強い風に煽られて稲田は倒れた。

倒れた稲は田んぼで水浸し。

起こさずそのままにしていたら根が出てきた。

根の成長は早く、水分がある処であればモヤシのような根が生える。



豆ならモヤシになるが、稲の実から生えてきた根はどうしようもない。

そこに置いてあるから見てみなと云われてシャッターを押す。

たしかに根が生えているし、春の苗のようにぐんぐん伸びている。

どうにもならんから一服していたという。

そんな話をしてくれるⅠさんに気になっていたサシサバはどうかと尋ねてみれば、もうしやんようになったと返された。

ところで中畑町にもマツリがある。

中畑町の氏神さんは春日神社。

明日の土曜日の夕刻はヨイミヤ。

昼は御幣切りで夕刻に八人衆が公民館でヨバレの会食。

翌日の日曜日がマツリになる。



かつては太鼓御輿が出ていたが、今では・・・ずいぶんと寂しくなったという。

(H28.10. 8 EOS40D撮影)

榛原笠間桜実神社のツイタチ座

2017年05月28日 09時50分55秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
宇陀市榛原の笠間に鎮座する桜実神社を初めて訪れたのは平成18年の3月16日、17日だった。

ひょんなことの出会いがあって御田植祭の在り方がわかってきた。

再訪したのはそれから9年後の平成27年6月14日

その翌年の平成28年3月19日も訪れて行事情報などを教えてもらった。

御田植祭は前週に終わっていたが10月1日の座や第三週目の土曜、日曜にヨイミヤ、マツリがあることを教えてもらった。

座とはどういう行事なのであろうか。

一般的に「座」と言えば宮座の寄り合いで座会食をともに喰する行事である。

お聞きした話によれば宮座の集まりでもなさそうだったが、東・中・西垣内、それぞれの垣内から代表を選出するトーヤ決めコヨリクジがあると聞いていた。

昭和四年調の『大和国神宮神社宮座調査資料』によれば、榛原の笠間には三つの宮座があったようだ。

江戸時代は少人数の座であったが、明治初年に全戸対象とする村座に転換されて3組になったと書かれていたのは東・中・西垣内の三垣内に違いない。

そう判断してやってきた榛原笠間。

何人かの人たちが忙しく動き回っていた。

取材の主旨を伝えて氏子総代長・宮総代のKさんを紹介してもらった。

笠間桜実神社は春日神社。

古いお宮さんと聞いている。

平安神宮の蔵書の中に桜実神社のことが書かれており由緒ある神社と話される。

ここ笠間でできる米は美味しい。

笠間に隣村の安田は朝倉村。

柳本藩の所領だったという。

東大寺、興福寺、談山神社に収穫した米を寄進していた。

そういう記録もあるらしい。

40年前は屋根の葺き替え。

檜皮から銅板に葺き替えたのは23年前の事業だそうだ。

その後の平成25年10月にゾーク(造営事業)をされて本殿、二社末社殿は美しくなった。

朱塗りの社殿は鮮やか。

これも撮っておいて欲しいと云われてシャッターを押す社殿は欅材で土台は栗の木を用いたそうだ。

榛原笠間は平成元年度から7年度にかけて発掘された古墳がある。

埋葬施設は削平されてはいるものの、周辺から出土した大量の翡翠の勾玉。

数えてみれば25個にもなったという昭和7年生まれの氏子総代長。

画文帯神獣鏡の破片も出土したという古墳は澤ノ坊2号墳。

盗掘があったが周辺で見つかったという。

ちなみに詳しい調査報告書は発掘にあたった橿考研が平成3年に刊行した『宇陀を掘る』に纏めているそうだ。

笠間は東・中・西垣内の三垣内からなる。

それぞれの垣内に「オスヤ」と呼んでいる分霊を祀っている。

「オスヤ」は屋根がある家型ヤカタ。

「オスヤ」を祀る家がトーヤ家。

その家に子供も寄ってきて、トーヤ祝いの伊勢音頭を唄っていた。

「ゆうとり」と呼ぶのは湯取り。

それがなんだかはわからない。

さまざまな笠間の在り方を教えてくださるが、話しは突然に飛んでいくので纏まらない。

マツリにヨミヤがある。

ナワカケやオンダもある桜実神社の年中行事であるが、10年ほど前から毎年の日程が替わるようにしたということはこの日も同じの日曜日。

本来はこの日の行事は10月1日。

一日であるからツイタチ座である。

ツイタチ座を充てる漢字はたぶんに朔日座であろう。

ちなみに御田祭に奉られる杉の実の模擬苗は2束。

4月初旬のころにその模擬苗とともに花を立て、アラレを供えてミナクチマツリをしていた。

昔はどこの家でもしていたが、今はごく数軒になるそうだ。

さて、ツイタチ座の神事であるが、神職は登場しない。

氏子たちだけで斎行される。

この日の目的は三垣内それぞれのトーヤを決めることである。



垣内単位で準備されたコヨリ籤がある。

これらは三方に載せて神社拝殿下の階段に置かれる。



横にお神酒を供える。

仕切りの氏子総代長が前に進み出て一同は揃って拝礼する。



神さんに供えたコヨリ籤であるということであることから引いた籤は神意がくだったということになる。

ちなみにこの日に参集する村の人は3人の氏子総代に笠間を八つの組みに分けた8人総代が行事を進行する。

この日の参拝者は多いという。

神意がくだったコヨリ籤に当たりの印がある。

当たるか当たらないか・・・。

既に籤に当たってトーヤを務めた人はコヨリを引かない。

まだ当たってない人が引くのである。

そういうことでいずれは当たるのである。



供えた三方を抱える氏子総代長。

それぞれの垣内の氏子総代が該当する垣内の束を手にする。



それに群がるように集まってきた氏子たちが籤を引く。

特に引く順番は決まっていない。

先であろうが、後であろうが当たる人が選んだ籤に当たりの印がある。

印は「当」の一文字。



それを引いた人がトーヤになる。

万が一のことであるが、当たりの籤を引いたトーヤに不幸ごとなどが発生すれば替わりの人が務めなければならない。

それを決めるのは「ヒカエ」の籤である。

「ヒカエ」はトーヤの控えである。

当確したトーヤにヒカエは名前を氏子総代長に告げて決定される。

こうしてマツリのトーヤが決まれば道路向かい側の小学校跡地に建つ公民館で直会となる。



指名された自治会長が乾杯の音頭をとって始まった。

(H28.10. 2 EOS40D撮影)

室津・当屋の注連縄立て

2017年05月27日 09時07分16秒 | 山添村へ
平成18年のマツリトウヤを務めたU婦人に教えてもらって県道から下る里道。

神社の右手辺りの石垣がある家だと聞いていたが、道を間違ったらしく行先がわからなくなった。

畑仕事に一服されていた村の人に聞いてUターン。

ようやく着いた今年の当屋家。

門屋に笹竹を立てて注連縄を張っていた男性は斎主を務めている宮司のOさんだ。

山添村などの地域で行われている神事ごとに出仕される宮司さん。

取材に際する度にお世話になっている宮司さんだ。

今年は当屋家に当たることになったが兼社になる各地域の祭主もしなければならない。

村の神事ごともあるからそれも外すことはできない。

そういう状況を考えて、息子さんに室津の当屋を務めてもらうことにされた。

O宮司と初めてお会いしたのは平成18年12月23日だった。

当年のマツリトウヤを務めたU家やD総代長に撮らせてもらった写真をさしあげようと思って来た日だった。

その日は室津戸隠神社の申祭りだった。

時間帯の都合がつかずに他所へ向かうのであるが、そのときにO宮司が声をかけてくださった。

未完成な部分があるのだが、と云って示されたのは『東山村神社調書(大正4年調写し)』である。

宮司を務めることになったことを機会にかつての調書をわかりやすく現代表記に読み下してデータ化したと云っていた。

書の文字見やすい、わかりやすいワープロ文字。

神社の配置までも整えて、見やすく、使いやすく紐綴じされていた。

許しを得てその場でデジタル写しをさせてもらった。

神社調書は室津の戸隠神社だけでなく近隣村の松尾の遠瀛(おおつ)神社、的野の八幡神社、峯寺の六所神社、桐山の戸隠神社、北野の天神社に今では奈良市に行政区割りされた別所の金毘羅神社や水間の八幡神社もある。

神社の変遷もあるが特に興味深かったのは祭礼行事の詳細である。

130頁からなる室津宮司のOさんがデータ化した『東山村神社調書(大正4年調写し)』の史料価値は後年において相当数活用させていただいた。

その件については当ブログの「奈良県の民俗芸能―奈良県民俗芸能緊急調査報告書―発刊」の項で若干触れさせてもらった。

この報告書文中に、O宮司名が数多く登場する。

翻刻に4カ所もその名はあるが、文中も多く8カ所。

それほど価値があるO宮司翻刻の『東山村神社調書(大正4年調写し)』。

あの日からさらに整備をしたという。

O宮司とはお会いする度にこの「写し」を役立たせてもらっていると伝えていた。

実はこの日の午前中に室津の戸隠神社に出かけて参っていたそうだ。

本日は仮当屋が参拝する日。

氏子総代(オトナ)がその年にあたる仮当屋と楽人の渡り衆を集めて月次祭に参拝する。

そこで正式に当屋が決定したことを氏子に報告する目出度い日であった。

縁とはこういう重なりがあって繋がっていくのだと思った。

報告を終えた当屋は自宅に戻って当屋家を示す注連縄を門屋に立てる。

丁度のそのときに伺ったのであった。

ところで気になっていたのは戸隠神社の境内に張っていた注連縄である。

期日はバラバラであるが、その注連縄はいつもあるように思えて仕方がなかった。

神社の鳥居から拝殿辺りに張られている一本の注連縄である。

通年、そうしている注連縄は薬音寺(真言宗)との関係性を示す結界の意味があると教えてくださった。

かつては神社下に勧請綱があったようだという。

史料も残っていないが小字に「カンジョ」がある。

その名からしておそらく「カンジョバ」。

充てる漢字が勧請ノ場であるから間違いないと話される。

(H28.10. 1 EOS40D撮影)

室津のハザカケ

2017年05月26日 11時03分22秒 | 民俗あれこれ(干す編)
この日は朝から写真展の設営だった。

初めてのことだけに思ったよりも時間がかかった。

ある程度どころか設計図まで作って決まりの場所に直線を描く。

その線は単なる紐である。

それに家庭用品のスプーンを重し代わりに括って垂らす。

これで垂直がわかる。

水平は天井部分にあたる処に印。

そこから定量のメモリをとって印をする。

赤い印は8枚組を水平に保つためにほぼ正確な位置に印をする。

両側と中央部にも垂らした紐がある。

それぞれが定量。

それに沿って水平に張った紐に合わせて貼付け固定材を壁打ち。

写真額の裏面にも材を貼る。

両者をくっつけるのは両面テープ。

底部にあたる部分を虫ピンで止める。

ただそれだけなのだが時間がかかった。

設計図はそれでよかったのだが、計算通りにならないが世の常。

一人でできると思っていたが無理がある。

そう汲み取っていた写真家Kさんが助け舟。

パネル作りから随分と協力してくださった。

午後はKさんの希望を叶えたく東山中に繰り出した。

行先は山添村の室津。

田楽系の神事芸能を撮らせていただいたトウヤ家を目指す。

室津の神事芸能を取材したのは平成18年10月15日。

詳しいことも知らずに当時お世話になっていた奈良女子大学の武藤康弘(現在は教授)とともに行動していた。

氏神さんへのウタヨミ奉納を終えた渡り衆はトウヤ家に戻っていく。

講師に言われるままについていった。

渡り衆はトウヤ家に着くなり座敷でオドリコミの作法をしていた。

予測をしていないから何が始まったのか、わからないうちに作法は終わった。

その一瞬はなんとか撮れた。

それもフイルムである。

当時の撮影はフイルム機だった。

屋内であったが絶えず動き回る作法が撮れた。

感謝の気持ちもあって、平成21年9月28日に発刊した初著書の『奈良大和路の年中行事』に掲載させていただいた。

発刊されて間もないころにお礼に著書を献本した。

トウヤを務めたUが喜んでくれはった。

それから丸7年も経ったU家を訪れる。

屋内から出てこられた奥さん。

その節はありがとうございましたと今でも覚えてくださっていた。

ありがたいことである。

今年のトウヤを務めるのはなんと、なんとの室津の宮司さんだった。

それなら話は早いと思って里道を下る。

そこは始めて通る道。

下っていく途中に目にした構造物。

これはなんであろうか、である。

構造物といってもクリの木のような樹木に竹竿を水平に架けているだけである。

樹木は2本。

その右側には二本の木材で足を組んでいた。

そこに当てて右手の樹木に黒いアンテナ線のようなもので括っていた。

それで固定している構造物はなんとなく何かを干す道具であるように思った。

付近を歩いて探してみた。それより少し上にあった竿に稲架け。

この場は4本の樹木が並んでいた。



そこにそれぞれPP紐のようなもので縛って固定していた。

竿を架けるには丁度いい樹木であるが、このような在り方を見たのは始めてだ。

後日に聞いた室津のハザカケ。

風景写真家のYさんがいうにはここ室津の特徴であるらいい。

(H28.10. 1 EOS40D撮影)
(H28.10.15 EOS40D撮影)

海知町・西の庚申講

2017年05月25日 08時41分28秒 | 天理市へ
7月10日、倭恩智神社で行われていた祇園祭の中日の際にお願いしていた天理市海知町の庚申さんの行事。

3軒の営みをようやく拝見することになった。

2年前に聞いていた実施月は9月だった。

元来の庚申さん行事は60日おきに出現する「庚申」の日に行われる。

つまりは2カ月単位で巡ってくる「庚申」日であるが、徐々にズレが生じていく。

今年というか、ここ何年かは初庚申の日が2月になっていた。

1月に初庚申であれば、それから2カ月後は3月。

次は5月、次は7月。

その次が9月である。

しばらくはずっと9月であったが、初庚申が2月になるようになって10年余りの今は10月である。

そういうことで元来の今年は10月5日であるが、海知町の庚申講の人たちはだいたいが9月にしていると話していた。

平成26年の実施日は9月27日の土曜日。

3人が揃う日がそれでいいと決められた行事の日。

今年もそうであるのかと尋ねてみればまだ決まっていないと云う。

10月に食い込む可能性もあると思っていたが電話で伝えられた行事日は今夜。

ヤドになる家が2軒の講中らと相談して決める。

予め何日も前からは決めない。

微妙な言い方であるが、決まる直前になって決める。

特に百姓もんを栽培しているから出荷作業がある。

その関係もあって出荷の休みの日になる土曜日が多い。

必然的にそうなるようだ。

取材をお願いしていた電話がそういうことで27日に鳴った。

日程が決まれば廻りをするヤドが預かっている庚申さんの掛軸をもらいに行く。

そういう具合にしているそうだ。

元来の「庚申」の日にできない場合は宵を避ける。

宵とは前日の夜。

その日を避けるには3日以前となる。

宵の日にしてはならないと云っているのは今夜のヤドになるNさんの94歳の母親だった。

今夜の行事は西の庚申講であるが、海知町にはもう一つの庚申講がある。

東の講は4軒。

西の講はかつて7軒だったが、ここ4、5年の間に講を抜ける家があり、現在は3軒になったそうだ。

庚申さんは百姓の神さんと云って掛図を掲げて崇める。

何年か一度の旧暦閏年にあたる年はトアゲ(塔上)をしている。

トアゲのときにはお寺に植えているカシの木を伐りとって準備する。

木肌を斜めに削って墨書する。

願文は「奉 為金剛童子 家内安全 身体堅固 ・・・」。

もう一本は「奉 青面金剛童子 五穀成就 ・・・」である。

これまでヤドを務めたときに授かったカシの木の塔婆を玄関際に置いて残している。

ずっと旧暦閏年の営みであったが、近年になって新暦に移した。

新暦の閏といえばオリピックが開催される年。

それであれば忘れずに済む。

旧暦であれば2年、或は3年後にやってくる。

定期的でないからつい忘れてしまう。

そういうことにならないように新暦に移した。

海知町の閏年の庚申トアゲはだいたいが2月に行っている。

場は海知町に建つ長谷寺(ちょうこくじ)境内の庚申石である。

現在は西と東の2組が揃ってそれぞれの塔婆を立てる。

塔婆の願文は長谷寺(ちょうこくじ)住職に書いてもらう。

現在の長谷寺は融通念仏宗派だが、かつては真言宗だったように思える。

その証に寺に安置されている十一面観音菩薩立像は桜井市初瀬・真言宗豊山派総本山の長谷寺の十一面観音菩薩立像の余木を以って造仏したと伝わる。

改訂『大和高田市史』に大和高田市の民話・伝説が載っているそうだ。

そこに「楠の霊木」が伝わる。

本文に「むかし、江州(滋賀県)に大きな楠があった。光をはなってよい香りをしていたが、大雷雨にあって大津の里へ流された。それが流れ流れて大和の新庄まで廻転移動してきた。聖武天皇の御夢に、この木のことがあらわたので、道慈という僧に命じて、霊木を加持させ、仏土稽文会主勲(ぶつどけいぶんかいしゅくん)という仏師に十一面観音の聖容を彫刻させられた。そしてその末木で作ったのを初瀬の長谷寺へ、本木で作ったのを長谷本寺(大和高田市南本町)に納め、中木で作ったのを北花内新庄町の観音寺へ、残り木は大和海知の長谷寺、鎌倉の長谷寺へ観世音菩薩として安置されたという」が記載されている。

この文にあるように、霊木の末木は初瀬の長谷寺。

本木は大和高田市南本町の長谷本寺。

中木は葛城市旧新庄村北花内の観音寺。

残り木が天理市海知町の長谷寺(ちょうこくじ)と関東鎌倉の長谷寺に行き渡ったと伝えていた。

境内の庚申石に餅を供えて般若心経を唱える。

昔は子供がようけ(大勢)おって餅を貰いにやってきた。

だいたいが中学生までの子どもたちだ。

少子化の現在は子どもがおられる家に持っていってあげているという。

それはともかく県内で行われている庚申講は数多い。

海知町と同じように新暦に移した地域はままある。

Nさんの話しによれば天理市の檜垣町もそうであるようだ。

他にも武蔵町や遠田町にも講中がある。

遠田町は2組。海知町も4組あったが、14、15年前に2組が解散した。

東の講中は2組の14、15軒だった。

脱会されるなど徐々に減った講中は1組に。

やがてさらに減少して現在は4軒の講中になった。

お話を伺っておれば講中が一人、また一人とヤド家に集まってきた。

ヤドの床の間に掲げていた庚申さんの掛図の裏面にもしかと思って講中が来られる前に拝見していた。



貼ってあった書は2枚。

一枚は昭和二十七年三月の塔上(とあげ)。

庚申講の名は7人。

うち一人は今夜のヤド家のN家。

現当主が生まれた6年後の期日であったから当主のお爺さん。

今夜に集まった昭和10年生まれのMさんのお爺さん。

もう一人の76歳のOさんのお爺さんだった。

その書には「塔上箱桝貳杯 酒壱桝盛物 右之通り決定」とあった。

もう一枚の書には「庚申講塔上 米 箱桝貳杯集メ其御飯トス 酒 壱汁 折詰 八百円 茶菓子 二百円各人袋入 右ノ通り決定ス 昭和四十六年一月」であった。

その庚申掛図下に御膳(おぜんと呼ぶ)を供える。

庚申さんに食べてもらうように箸を置いた膳だ。



左手前の椀はセキハン。

忙しいときはイロゴハンにしますというのはヤド家の奥さんだ。

右下はアゲ、シイタケ、ゼンマイの煮た精進料理。

半切りのニヌキ玉子を添えている。

中央の椀はお水ではなくお酒である。

右向こうは黒豆のたいたん。

左向こうはカニカマボコとキュウリの酢の物。

豆腐の白和えも供えて今夜はほぼ同じような5品の料理で酒を飲む。

そう話していた。



以前はこうした料理を寄ってきた講中とともに会食をしていた。

茶碗に椀、箸も載せた家のお盆を風呂敷に包んで寄っていた。

持参した椀に料理をよそってもらう。

季節に応じてアブラゲやシイタケはタケノコとかゼンマイになる。

また、ズイキやドロイモのたいたんもあった。

今ではそうすることもなくローソクを灯した座敷でお茶と茶菓子で時を過ごす。

時間経過に沿ってコーヒーも。

つつましい今夜のお勤めに話題はさまざまである。



子どものころは自転車に乗って駆けまわっていた。

そのときの服装は着物。

足は靴でもなく草鞋だったというから随分前の体験談に氏神さんの倭恩智神社行事のことも。

かつて神社は村の北方にあった。

宮さんは日裏にあった。

青年団は寒の入りからハダカ祭りをしていた。

ホッショイ、ホッッショイと掛け声をかけて、3人ずつの組になって走っていた。

その姿はふんどし一つ。

風呂に入ってふんどしを締めた。

宮さんに参って一目散に帰った。

帰って家に着くなり湯船に浸かっていた。

寒のハダカ祭りは一週間の毎日。

その毎日が違う家の風呂に浸かって身体を温めていた。

寒の禊ぎは井戸水。

桶に汲んだ水は「だー」と大声をかけながら被った。

そういう記憶譚を話すのは昭和10年生まれのMさん。

寒の入りから大寒までの期間の毎日である。

そのころしていた年代は13歳からの中学生までの男の子。

旧制中学ではなく新制中学の時代。

戦後の時代の青年団である。

日裏にあった宮さんは戦争によって移転せざるを得なかった。

宮さんの跡地は「みやあと」。

略して「みやと」で呼んでいる。

そこに「シンカン」の宮田があったそうだ。

「シンカン」とは9月初めの3日間に亘っておこなれている「シンカン祭り」のことであるが、「昔は子どもの相撲もあった」というのはハダカ祭りだったのか、それともシンカン祭りであったのか聞きそびれた。

なお、前述した寒中の水垢離は昭和14年10月15日に発刊された雑誌『磯城』の第2巻・第5號の「創刊一周年記念號」に詳しい。

「海知の垢離とり行事」に書いてあった記述を要約する。

毎年、大寒の入りから一週間。

村内の安全祈願のために“垢離とり”の荒行をしていた。

これを行っていたのは大字の妻帯者を除いた15歳から25歳までの青年。

行事の期間中は精進潔斎して、肴、肉類など生臭いものは一切を食べない。

この行事には風呂焚きだしとも呼ばれる風呂當家があり、内風呂を有する家は輪番で青年たちのヤド(宿)を務めたが、忌中の家は除かれた。

門口に御神燈を灯して風呂を沸かして青年たちを待つ。

二人ずつ浸かって身体を温めてから、井戸水を幾杯となく浴びて垢離とりをする。

それから六尺の褌を締めて角結びの草履を履く二人。

二人一組で當家を飛び出し大字集落を3周する。

そのときに発する台詞がある。

前を駆ける青年が「ホイ」と言えば、後者は「ショ」で応じる。

二人合わせて「ホイ ショ ホイ ショ ・・・」である。

先に講中が話していた通りの掛け声であった。

3周してヤド家に戻って湯に浸かる。

次々と二人一組になって垢離とりをするのだが、3周する前にしなければならないのは氏神参りだ。

柏手を打って村内の安全を祈る。

さらには宗派の長谷寺(ちょうこくじ)および集落中央の辻にある太神宮の石塔にも参拝していた時間帯は夜である。

昭和14年にその様相を拝見していた「海知の垢離とり行事」著者の辻本好孝氏は、寒風に向かって駆け回る裸褌姿の若者の姿に深く胸を打たれたと書いてあった。

(H28. 9.29 EOS40D撮影)

奇遇に繋がる妙な縁

2017年05月24日 09時03分28秒 | メモしとこっ!
それぞれがそれぞれに奇遇な出会い。

関係者は仮にAさん、Bさん、Cさんとしよう。

AさんとBさんは同郷であるが年齢は離れていた。

Aさんは生まれ育ちも、今も高取町住まい。

Bさんの現在のお住まいは東京・川崎市であるが、故郷は同町で生まれて育った。

年の差は云十歳。

年齢的に離れている関係で遊ぶこともなかったし、つきあいもなかった。

Bさんの故郷は高取町。

生まれ育った地域の歴史文化を知り、記録したいと考えて訪れた。

特に意識されていたのは「大和の清九郎」である。

清九郎が生まれたのは矢田(谷田)。

その後に移り住んだのが故郷の丹生谷であった。

その直前の3年間は鉾立住まいだった。

それを以って文政元年に僧・仰誓(ごうせい)が書き記した著『妙好人傳』に「大和國吉野郡鉾立村に清九郎と云ふ人あり云々・・・」とあることから、後年もなお、清九郎と云えば“鉾立”が成立したようだ。

Bさんが先代から聞いていたのは丹生谷。

そうであるならば一村を尊重するのではなく大きくとらえて“大和”の清九郎とされたのは先々代の喜多村得身氏。

地元から輩出された偉人・清九郎を誇りに郷土史として清九郎の事跡を纏められた。

清九郎に関係する道具などは寄進されて保存されている。

清九郎のことを調べるとともに丹生谷の史跡、歴史、文化など故郷を知る案内人がAさんだった。

CさんがAさんと出会ったのは大和郡山市の施設であった。

そのときの出会いはブログにしたためた。

その記事にも書いたが、AさんがBさんの関係をCさんに伝えたのは年賀状である。

3人のそれぞれの関係が輪になって繋がったのである。

その後はFBやメール等で情報交換していた。

Bさんが奈良に訪れる。

Cさんにその件を伝えたのはAさん。

日にちは限定されたこの日である。

3人揃って会えることになった。

わざわざ足を運んでくれた近鉄郡山駅に大集合。

二人は電車でやってきた。

駅舎内を渡る踏切がある。

走り去った急行は西大寺に向かった。

通過すれば遮断機があがる。

そこに立っていた二人の顔が見える。

Aさんとは平成27年5月以来。

その後は電話等で情報連携していた。

Bさんとは・・・実に30云年ぶり。

ビジネスマン時代の会社の東京支店長だったころにお会いしている。

それ以来だけに私の現状顔は認知されていない。

FBに貼ってあったプロフィール写真では判らないと云っていたBさんのために公開した写真は30歳代のビジネスマン姿。

これなら判ると伝えていた。

奇遇な出会いを経た3人が初めて揃う場は近鉄郡山駅からJR郡山駅まで続く商店街の一角。

かーさんが推奨した喫茶店はaran cafe(アランカフェ)。



かつては画廊だった。

喫茶店であっても入ることはない。

入店して時間を過ごすのがもったいないのである。

もったいないのは金額ではなく時間である。

たとえ1分でも5分間であってももったいない。

その時間は有効に使いたい。

金にならない今の仕事は先を急ぐ。

取材したものは写真だけでなく文章起こしがある。

これに時間を割きたい。

自宅でどっぷりつかって執筆したい。

そう、思うからなおさら時間が欲しいのである。

二人が寛いでいただける喫茶店はどこにするか。

Bさんは午後6時までに奈良市内に向かわねばならない。

近鉄郡山駅で迎えてウロウロするわけにはいかない。

観光案内する時間もない。

そう、考えて駅に最も近い喫茶店がaran caféである。

積もる話しもあるが、第一に聞きたい病後の状況。

それぞれがそれぞれに具合は良くなかった。

今では元気になったが、病は年相応にやってくる。

生前にやるべきことはそれぞれある。

話題が尽きない短時間の出合いに感謝して二人を見送った。

お土産に持ってきてくださっていた川崎大師名物の堂本製菓㈱の大師巻

かーさんは一口を食べるなり、美味しいを連発する。

すぐさま私もよばれていたが、ほんまに美味しい煎餅に感動する。

そのありがたいお土産を持ってきてくださったBさんと関係があったのがかーさんと呼んでいる家内である。

親会社に勤めていた二人は同じ職場だった。

かーさんが持っている写真に若かりし頃のBさんが写っている。

もちろんであるが、かーさんも若い。

その話しもしたかったが、会社時代のことはAさんと関係がない。

いつか再びお会いしたときには昔の会社員時代の話しもしてみようか。

(H28. 9.27 SB932SH撮影)

永谷のハデ架け

2017年05月23日 09時01分05秒 | 民俗あれこれ(干す編)
旧西吉野村の永谷(えいたに)にハデ架けをしていると聞いたのは数週間前。

十津川村の内原滝川、風屋、谷瀬など各地のハデ架けを取材して帰路途中に立ち寄った旧大塔村の阪本住民からである。

在地の阪本にもあったと云っていた。

Iさんが教えてくださった永谷のハデ架けの存在を確かめたく、この月の15日に取材した。

想像していた情景ではないが時間もなかったことから中途半端になった。

吉野町の香束で一本竿のハザカケ景観を撮っていた時間帯は午後3時

日暮れる時間も早くなっている。

先を急がねばならないと走ってきた。

それから1時間半後。

着いた時間は午後4時15分だった。

着いて勢い集落を巡る。

十日も経てば稲刈りも終えてハデ架けをしているだろう。

街道に沿って峠まで行く。

その手前にもあったが下りながら撮らせてもらおうと思って奥に向かう。

峠を越えてさらに進めば和歌山県の西富貴に出る。

そこから山を下っていく道は旧大塔村阪本と結ぶ一般県道の732号線。

北上すれば五條市の大津町を経て犬飼町に着く。

西に少し走れば和歌山県の橋本市になる。

和歌山県と奈良県の境目にある県道だそうだが、私は走ったことがない。

話はUターンして永谷のハデ架けに戻そう。

例年であれば稲刈りはとっくに終えて、今の時期なら稲架けから干した稲を降ろして脱穀しているぐらい。

今年は珍しく秋雨前線や台風の影響で長雨が続いた。

天日干ししたお米はとても甘い。

ふっくら炊いたご飯はおかずがなくとも美味しい。

おかわりしたくなるご飯の味を忘れたくないと云ってわざわざ大阪から我が家までお米を買いに来る人がいると電話口で語ってくれたYさん。

四日前の21日だった。

それからも連続する晴天は見込めない日々。

天日干しの稲架けを下ろすのは天候次第。

晴れ間が数日続く日を選んで息子に来てもらうと話していた五條市・旧西吉野村の永谷を再び訪れた。



奥にあるお家は不在だった。

十日前に来たときはまだ稲刈りもしていなかった。

着いたこの日はすでに干してあった。

色合いからみれば日にちはずいぶんと経過している。

刈り取った間なしであれば稲の色がある。

青色が消えている状況からみれば一週間ぐらいかもしれない。

多段型の竿は何本あるのだろうか。

数えてみれば10本、いや1本の場もある。

下から4段目ぐらいまでは手が届く。

そこまでなら一人作業で済むが、それ以上の高さはそういうわけにはいかない。



ここのハデ場に梯子がある。

右端は数段までの高さ。

左側の梯子はもっとある。

てっぺん部分に上がることは可能だが、すぐ傍にある鉄製の台はなんだろう。

下部に車輪があるから左右に移動できる台である。

位置を固定しているのは角材。

そこへ揚げるにジャッキは要らないのだろうか。

いずれにしても梯子に乗ってその台に上がる。

安定している台も下でするのと同じように一人作業で済ませることができる。

上手いこと考えたものだと感心する。

さらに近寄ってみれば二股木の棒があった。

長さ違いの2本立ては刈った稲を多段型ハデ場に登った人に渡す道具。

若い人であれば地上から高い所に登った人には放り投げて届ける。

投げるには肩の力どころか体力が要る。

若い人にはできても高齢者では無理がある。

そこで役に立つのが二股木の登場である。

二股部分に稲束を架けて竿のように突き上げる。

それで届ける道具であるが、渡す距離によって使い分けているのだろう。

その場を下っていくときに目に入った二人。

お声をかけている時間がないから失礼したが思った通りの高齢者だった。

聞き取りをしたかったが、時間がない。

申しわけなく、頭を下げて次の場に向かう。

それほど遠くない場に多段型のハゼがある。

竿は10段である。

十日前に来たときは稲刈り真っ最中だったY夫妻。

そのときに撮らせてもらった写真を渡す。

今年の長雨に天候不順。

泥田の田んぼでも稲刈りをせざるを得ない状況に奥さんが天を見上げて高笑いしていたことを思い出す。

その表情をとらえた写真を渡したら、また笑ってくれた。

ちなみにご夫妻が住む家の前を通る道は西熊野街道と呼ぶ。



3年前の豪雨で谷から流れる水が溢れて前庭が水浸しになった。

牛小屋や厩にトイレもあった処が流されたと話す。

旅人が往来する“くもすきの山”に宿場があったと云われたが、“くもすき”って何だ?。

まさか“くもすけ”のことでは、と思ったがツッコミは入れなかった。

「ハゼ」、或は「ハデ」と呼んでいる多段型の稲架け。

11月の始めのころまでこうして干している。

干した稲は稲架けから降ろして籾をする。

それを「モミスリ」という。

「モミスリ」は動力電気でしている。

「モミスリ」したお米が美味しいと云って20年ほど前から毎年のように来て買ってくれる人が要る。

息子さんが広陵町に住んでいるらしく、今年も来るのだろう。

そんなに美味しいY夫妻が作付する品種はコシヒカリ。

タンカンコシもあるコシヒカリは風に強い。

5月20日頃に田植えをして育てたコシヒカリは天日干しで美味くなるという。

以前、何カ所かで貰った天日干しのお米をよばれたことがある。

ところが、私の舌では味に違いがわからない。

甘くて美味しいという永谷の米も試してみたいと思った。

ところで前庭に干し物があった。



今年になって初めて作ったゴーヤ。

知り合いから干したら美味しくなると云われて干している。

実成が悪くて、採りごろやと思っていたら赤い実になったゴーヤもあったそうだから天候不順が影響したのだろうか。

山で採れるゼンマイの収穫時期は5月初め。

これも干して保存食にしているという。

ここ永谷ではコウヤマキを栽培している。

15年ほど前から和歌山の新宮からわざわざ来られて買ってくれる人がいる。

さまざまなことを話してくれる永谷に年中行事がある。

3月の初午は川向こうの稲荷さん。

11月7日は山の神さん。

8月16日は地蔵寺で施餓鬼。

村の人たちが集まってくるようだ。

永谷の西熊野街道をさらに下った地に多段型のハデがある。

竿は10段である。

西熊野街道の端際に建てたハデは十日前に稲刈りを始めたY家が所有者。

入村した際に走っていた道路から見えた稲刈り親子がY家だった。

時間帯は午後5時15分。

滞在してから1時間も経過する。

西の方角をみれば黒い雲が被ってきた。

すぐにでも雨が降りそうな気配である。



高台から周りの景観を見る。

街道にはみ出すことのないように建てた構造物にある実成の稲の色は二色。

枯れた色は十日前の9月15日に刈って干したもの。

青々とした色は訪れたこの日に刈りとったもの。

遠景で拝見してもそれがよくわかるハゼの景観である。

ハデ向こう側の街道から架けていた息子さんの姿は見えない。

手の届く範囲内であるからなお見えない。

それ以上の高さに掛ける場合は梯子を架けて登らなければならない。

息子さんは登って竿を跨る。

跨るだけでは足を掛ける際に体制を崩すおそれがある。

そうならないように膝と足の部分を竿に絡ませる。



2カ所を固定することによって体制を保ちながら作業をする。

天候不順の毎日に待ってられないと判断されて、姉妹二人とともにこの日にやってきたという。

高い位置に跨っておれば降りることはない。

相方のお姉さんが下から稲束を放り投げてくれる。



受け取る弟は右手で竿を掴んで左手で飛んでくる稲束をがっちり。

絶妙なコントロールもあるが、呼吸合わせが大事だ。

作業を拝見していると左右とも同じ量の束ではないように見えた。

手渡してもらった稲束をくるりと返す。

その際に分量の多い方をくるりと180度も反転させるように竿の向こう側に。

こちら側は少ない。

次に受け取った稲束はカエシをつけずにそのままの状態で分量を分ける。

このときの向こう側にするのは少ない方。

およそ1/4と3/4ぐらいの量を交互に束分けて竿に架ける。

つまり、交互に量を分けて竿架けしていることがわかった。

何故にそうするのか。

簡単なことである。竿に架けた稲はぐっと押し込むようにして詰める。

そうすることで偏らずに左右のバランスもとれ、数多くの稲束を架けることができるのである。

単に写真を撮っているだけではそういう工夫に気がつかない。

民俗は作業の在り方も観察することも大事なのである。

この動作を何度も繰り返すうちに雨が降ってきた。

急がねばならない・・・。

母親を手伝う弟と二人の姉。

その作業をずっと見ていたら日が暮れる。

奥にあることがわかっている永谷のハゼ場。

少しずつであるが十日前に訪れたお家もハゼに架けていた。

色は枯れているからこの日ではない。

これより十日前も夕方近くまで作業をしていたようだ。

立ててあった二股の木。



長さが若干異なる木は何。

当家のご夫妻もまた年老いた二人。

お話は伺えなかったが、高齢ともなれば稲束は投げることもできない。

その作業を補助するのが二股の木である。

たぶんにご主人は高い竿に登る。

下におられる婦人が二股の木に稲束を架けて上に揚げる。

ご主人がおられる高さに木の棒を持ち上げる。

手の届くところ持ち上げるまで。

それで稲束を掴む。

これの繰り返し。

これもまたたいへんな作業である。

下から刈り取った稲を運んできたのは妹さん。

キャタピラ駆動の小型動力運搬車でガタゴトガタゴトの音をたてながら運んできた。



運搬車のエンジン部はクボタ社製SUPEROHV。

メーカーは違うかもしれないが、十五日ほど前に取材した十津川村の谷瀬のOさんも同じような運搬車に積んで運んでいた。
 
雨は小雨。

9月半ばであっても暮れる時間は早い。

急がねばならないハゼ架け作業。

弟さんはこの日しか仕事を休めなかった。



持越しはできないから照明器を持ち出した。

投げる方も受け取る方も難しい作業を難なくこなしていた。



永谷には国道沿いにも一カ所あるが、天気次第で伸び伸びのような雰囲気のようだ。

たいへんな労力をかけて干す作業を撮らせてもらった永谷。

翌年の平成29年3月12日に訪れた大淀町大岩に住むKさんは国道を通る度に構造物が気になっていたと云った。

とても大きく長い木製の構造物はダイコン干しでもなく柿を干すわけでもない。

私がとらえた写真展「ハデの景観に」を見られて納得したと云っていたことを付記しておく。

なお、永谷には宿泊できる温泉施設がある。

平成27年4月に創業した「西吉野桜温泉」である。

手軽にいただける一品料理もあるし、最近になっては始まったジビエのシカやシシ肉料理もある桜温泉は日帰り入浴も魅力的。

季節問わず、訪れてみたいと思うが・・・。

(H28. 9.25 EOS40D撮影)

吉野町香束のハザカケ

2017年05月22日 07時15分00秒 | 民俗あれこれ(干す編)
宇陀市榛原の篠楽(ささがく)の取材を終えて進路を旧西吉野村に向けてハンドルを切る。

旧西吉野村に向かうには榛原からは一挙に南下する。

吉野町の三茶屋(みつぢやや)から右折れして吉野川の畔にでる。

そこからは東に東へとひたすら走って五條市の本陣信号を左折。

吉野川に架かる大川橋を渡る。

そこからはずっと南下。

山に入っていく。

そういうコースを選んで車を走らせる。

三茶屋の信号を右折れ。

そこから道なりに走る。

柳を抜けてしばらく走れば左手に一本竿を架けたハザカケが目に入った。

時間帯は午後3時。

じっくり眺めている余裕はないが車を降りてしばしハザカケ景観を撮っていた。

この地は吉野町香束(こうそく)。

前月の8月24日も訪れた地である。

その日は夜間。

地蔵盆の提灯の灯りに釣られて車から降りた。

そのときも先を急がねばならないから短時間の撮影だった。

(H28. 9.25 EOS40D撮影)