マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

11回目のテーマは大和の講

2013年03月31日 09時07分48秒 | しゃしん(カメラのキタムラ展示編)
11回も続くとは思っていなかったカメラのキタムラ奈良南店(奈良市杏町153番地)の写真展。

いつもながら展示するテーマに悩まされる。

前年からは正月の1カ月間になった。

正月に願う年初めの行事は前年のテーマ。

今回はあまり知られていない大和の講を選んだ。

大和にはさまざまな講中が存在する。

講名を挙げるだけでも相当な数になる。

すべての講中の営みを掲げるほどの展示スペースはない。

8点に絞って展示したのは1.大和郡山市伊豆七条町の尼講の朔日参り、2.山添村勝原の子供の涅槃、3.山添村遅瀬中南寺の観音講、4.奈良市大野町の十九夜講和讃、5.宇陀市室生下笠間の伊勢講、6.大和郡山市井戸野町の金丸講の回り講、7.桜井市芹井乾垣内の旧暦閏年の庚申トアゲ、8.山添村岩屋の十二社権現講の籠りである。
(平成25年2月2日展示終了)

(H25. 1. 4 SB932SH撮影)

天ぷら食堂ゑびすやの天ぷら定食は平日500円

2013年03月30日 09時02分20秒 | 食事が主な周辺をお散歩
アツアツほかほかできたての天ぷらはとても美味しい。

それも目当てだがこの日に訪れたのはサービスで置かれている天かすが狙い。

2カ月前にも訪れた大江町のお店は天ぷら食堂ゑびすや

平日の昼食どきは大勢のお客さんが食べていた。

親子連れ、三世代親子、会社員などなどと思われる食事の人たち。

平日サービス定食を食べているのは私ぐらいだけであろう。

6品の揚げたて天ぷらはかわりない。

この日はお店自慢の一品もある。

この日はユズ大根にキムチを寄せた。

これが美味いんだ。

キムチはスーパーで売っているような代物に見えるが我が家の舌にぞっこん味。

買って持ち帰りしたい一品である。

帰り際に声を掛けていただいた袋入りの天かす。

数量は限定ですかと尋ねてみれば「いくらでも」と返ってきた。

前回は一袋だった。

それを持ち帰って家で食べた。

数日間で消えた。

美味いのである。

すぐになくなってしまうと家人が云っていたので三袋にしたら「多すぎる」と返された。

(H25. 1. 4 SB932SH撮影)

福貴畑杵築神社の行事

2013年03月29日 09時45分07秒 | 平群町へ
1月7日は福貴畑(ふきはた)の座の行事。

座小屋で営む座中の正月の座のようだ。

8日はカンジョカケが行われる。

杵築神社の座小屋で勧請縄作り。

かつては伊勢音頭を唄いながら縄を結っていたそうだ。

縄ができあがれば神社から南東のカンジョ場に縄を掛ける。

そこへ行くまでの道中では太鼓を打ってホラ貝を吹き鳴らしていたというSさん。

神社には幕はあるもののどなたも居なかった。

集落を抜けて歩いていたときのことだ。

住まいから出てこられた男性にすがるように声を掛けた。

その答えがそれであった。

神社の行事に秋の祭りがある。

座中の籠りだそうだ。

座中の営みは年に2回。

そのひとつが7日であるようだ。

神社営みを司る宮守(総代)さんを紹介したいと案内してくださったが、あいにくの不在。

平群町福貴畑ではかつて雨乞いがあった。

それを示す神社の史料。

わざわざ家の中から探し出してくださった。

その史料に載っている巫女さんの姿はまぎれもない三郷の巫女さんだ。

ジョウサン池と呼ばれる地に龍王神社がある。

そこで行われる祭祀は湯立ての神事。

雨乞いの場は今ではしなくなったが慈雨を想定する湯立て神事がある。

後日に宮総代から聞いた行事に観音堂で行われる観音祭がある。

西荘にあった薬師院の別院だったとされる観音堂で唱和されるご詠歌のことだ。

一般的には観音講の婦人たちが唱える西国三十三番のご詠歌であるが福貴畑では御湯を勤める龍田の巫女さんがご詠歌を唱えるというのだ。

珍しい形式であるが全曲は唱えない。

一番から10番辺りまでだそうだ。

福貴畑ではなにかにつけてモチを搗いていた。

子供ができたらモチを搗く。

男は「大」の文字で女の子なら「小」の文字を書く。

モチは親戚中に配ったそうだ。

4月3日は神武さんのレンゾがあった。

福貴畑には数組の伊勢講があった。

3年に一度はお伊勢さんに参拝していた。

講中は組ごとに寄りあっていた。

当番の家では手料理を作って接待していたという。



なお、神社案内にあった一観音六地蔵石仏は永禄十一年(1568)の作だそうだ。

珍しい形式である。

(H25. 1. 4 SB932SH撮影)

鳴川のカンジョウナワ

2013年03月28日 06時54分50秒 | 平群町へ
磨崖石仏がある平群町鳴川の地。

村人の姿は見られない。

その場にあると大和郡山市矢田町在住のⅠさんに聞いてやってきた。

川に掛けてあると話していたが渓谷に添って道を歩くが見当たらない。

ふと上空を見上げてみればそこにあったカンジョウナワ。

両脇の高い崖から掛けていたのである。

中央には椣原の房を彷彿させるぐらいの太い房。

マラではないだろうかと思っても付近を歩くのはハイカーたち。

知る由もないだろう。

房辺りから垂らした長い綱。

相当な長さである。

それには三つの垂れ。

挿してある樹木は遠目では断定できない。

鳴川が出里のⅠさんの話では大晦日に掛けていると話していた。

(H25. 1. 4 EOS40D撮影)

信貴畑の勧請縄掛け

2013年03月27日 06時55分16秒 | 平群町へ
正月三が日を過ごした村の人たち。

この日は朝早く集まって勧請縄を結う。

かつては1月5日に勧請掛けを行っていたが、集まりやすい4日にすることが多くなったという。

この日を決定するのは信貴畑の評議員。

2時間ほどかけて勧請縄を結っていく。

正月初めの挨拶は「おめでとうございます」からだ。

まずはお神酒を飲んでからだと景気をつける。

持参した縄結い用の藁はモチワラ。

百姓を生業とされている2軒に頼んで分けてもらった。

ワラのシビを取って奇麗にする。

槌で叩いて柔らかくする。

2束の藁を先に捩って間に突っ込む。

重ねるようにして左捩じりに右巻き。

藁束を足たして結っていく。

昔は3人が立って身体ごと捩って結っていた。

10年前に役員を勤めたNさんはそう話す。

太さはこの年よりももっと太かったと云う作業は水平にすれば捩る手の力が決め手。

数人がかりで作っていく。

縄作りは村の役員。

任期は2年だそうだ。

総替えではなく数人が継続する。

そうでなければ縄の作り方が継承できないという。

勧請縄の長さはおよそ6m。

いくらかの間隔をあけて藁の房を取り付ける。

一方、勧請縄にはサカキの房も取り付ける。



サカキは3段或いは5段にして外れないように綱で括る。

特に決まりはないが4段は避けると話すMさん。

タレ(垂れ)とも云うようだがサカキの房は二つ。

勧請縄も2本結った。

サカキの房や縄に紙垂れも取り付ける。

これをアシだと呼ぶ信貴畑の人たち。

勧請縄が出来あがればカンジョ場に出かける。

最初に出向いたのは作業の場からすぐ近くの「勧請の地」。

天文二十一年(1552)作の舟形の十三仏の石板彫りと室町時代前半の作とされる舟形光背の如来座像石仏が安置されている地である。

勧請の地を囲むように樹木が立つ。



その中の2本に渡して掛けた勧請縄。

お神酒などお供えをして手を合わせる。



供えた洗い米と塩を付近に撒いてカンジョ場を祓い清めた。

勧請縄掛けはもう1カ所ある。

作業場から北の方にあるカンジョの場はドンダニ。

漢字で充てれば堂谷と呼ぶ村外れ。

車で向うには周回して丸尾垣内辺りから迂回しなければならない廻り道。

歩いたほうが早いと話す。

辿りついたドンダニは急峻な深い谷。

かつては丸尾垣内へ抜ける里道(りどう)だったそうだ。



30年前まではドンダニに跨げて掛ける道切りだった。

掛ける樹木がなくなり崖面にしているという勧請縄掛けを済まして手を合わせる。



これで総代の役目も終わったとほっとされたMさん。

信貴畑には森、辻、芝、山角(やまかど)など各垣内に地蔵さんがあるという。

村を守っている地蔵さんのマツリは10月18日、20日、23日のそれぞれの垣内の日程だそうだ。

勧請の地の勧請縄もおそらく道切りであったろう。

下から風とともに村に災いが上がってこないように願う平群町信貴畑の勧請縄の道切りは地蔵さんとともに村を守る行事であった。

(H25. 1. 4 EOS40D撮影)

戒場の行事

2013年03月26日 08時41分37秒 | 楽しみにしておこうっと
戒長寺の鎮守社とされる神社は十五社神社。

戒場神社とも呼ばれるが十五社大明神を祀ることから十五社神社と呼ぶのが正しいと云われる。

神社社務所内で拝見した木札に御渡装束・鎧兜太鼓の新調を示す板がある。

昭和六拾年拾月吉日に寄進した日付け。

秋の祭りにお渡りをする際に身につける装束の寄進の札である。

戒場の集落は14軒。

お渡りがあるという。

3人の氏子が並ぶ。

トーヤに前トーヤとウシロトーヤ。

鎧兜はウシロトーヤが着衣する。

3人の装束はおそらく素襖であろう。

トーヤは頭家の字を充てる。

10月16日はヨミヤ。

今ではその日に近い日曜日というから第二日曜日。

その日は祭りの準備でお渡りは翌日の17日に近い日。

たぶん体育の日であろうか。

午前10時に頭家に集まって数時間後に出発する。

2月24日は祈年祭

朝は9時半だが勤める宮司は山辺三も行かなければならない。

祭りの時間帯は小刻みになっているようだ。

そのような話をしてくれた戒場。

元々はカヤバ(茅場)或いはカリバ(狩場)と呼ばれていたであろうと氏子の一人が話す。

(H25. 1. 3 EOS40D撮影)

戒場戒長寺の難除

2013年03月25日 07時47分56秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
榛原の戒場(かいば)は額井岳の東側の戒場山中腹の山麓。

急坂を登っていけば戒長寺がある。

真言宗御室(おむろ)派の寺院である。

創建年代は明らかでないが所蔵する仏像などから平安時代後期であったと推定されている。

薬師如来の眷属とする十二神将像を鑄出した鐘楼門の銅鐘は珍しく、正応四年(1291)に寄進されたようだ。

この日に訪れたのは正月初めに祈祷される難除を拝見することにある。

かつては尼僧がおられたという戒長寺。

亡くなられたことによって数年前に新任についた住職に取材のお願いをすれば「村の行事であるから自治会長の承諾を許可が要る」と云う。

しばらくすればやってきた村の人たち。

急なお願いであるが快く了承してくださった。

なにゆえに戒場に来たのか村の人から声があがって十五社神社社務所内において自己紹介並びに取材目的を伝えてご了承を得た。



古くから伝わる版木でお札を刷っていくのは住職。

墨汁を浸けて半紙に刷る。

朱印はないが刷った版木から戒長寺の文字や梵字が見られる。

社務所で「シカ」と呼ぶ紙垂れを作る自治会長と長老。

幣と思われる竹串に紙片を丸めながら交互に貼り付けていく。

「シカ」はおそらく「四花」ではないだろうかと話す長老のSさん。

「シカ」は12本作る。

毎年作る「シカ」は12本。

十二支であるかもしれないと話す。

梵鐘にあった十二神将像の数とも一致するころからそれかも知れないと云う。



一方、社務所の外ではカンジョウナワ作り。

持ってきた稲藁は数多い。

1軒について3束を持ってくるそうだ。

縄結いは時間がかかる。

一人は心棒にあたる部分を引っぱって3人が藁束を手渡す。

受け取った3人が右巻きにして拠っていく。

力が要る作業を続けて縄を長くする。

カンジョウナワは長さが10m、8m、7mの長さの3種類。

7人がかりで結っていく。

お札は牛玉宝印の書。

ごーさんの名で呼ぶところが多い。



そのお札は四つ折りにしてススンボの竹に挿し込む。

出来あがったカンジョウナワはぐるぐる巻いてトグロのようにする。

そこに挿すのが「シカ」である。

その間に挿しこんだのは12本のモミジの小枝。

同じ本数である。



大事そうに抱えて戒長寺に運ぶ。

ごーさんも運んでお堂内に納める。



こうして準備が整ってのご祈祷。

堂下にはフジツルの木を持った村人が立ち並ぶ。

住職が唱える初祈祷のお念仏が聞こえてくる。

今か今かと待ちかまえる村人たち。



住職がランジョー(乱声)と発すればフジツルの木を堂の階段に置いた板を叩きつける。

村から悪霊を追い出すランジョーの作法は間をおいて3回も繰り返す。

叩く人たちは「ナンジョー」と囃して叩く。

一般的に呼ばれている乱声であるが戒場では「難除」の字を充てる。

村の難を除くという意味であろう。

フジの木を使うのは「不治の病」にならないようにという願い。

フジの木を割れるぐらいに叩く。

高野山で修業された住職が云うにはフジではなくハゼの木。

高野山真言宗ではそうであると話す。



五穀豊穣、村内安全を祈願した初祈祷は年の初めの村行事であるが、オコナイはまだある。

軽トラに乗せたカンジョウナワはダイモンの地に持っていく。

竹藪に覆われた旧道をほんの少し下る。

まるで谷筋を行くような旧道。



両端にそれぞれ括るカンジョウナワ。

「シカ」の幣とモミジの枝木が揃えばいいが捩ったナワに流れがあって揃わない。



そうしたことはお構いなく掛けたカンジョウナワ。

今年一年が無事に過ごせるように村に入ってこさせないカンジョウナワを掛けた。

かつて礎石が発掘されたと云うダイモンの地に掛けた。

ダイモンの地は大門(だいもん)があった処である。

2種の樹木に掛けたのをゴヘイと呼んでいる。

カンジョウナワは村に悪霊が入ってこないようにとこの地に掛けた。

戒場の村は上に11軒で、下が3軒の14軒の集落である。

ダイモンの地は上と下を繋ぐ旧道であった。

戒長寺の門であったとされる大門跡が小字の名に残されたのであろう。

ダイモンはかつての参道。

ここを潜って寺に入っていた。

平成4年に榛原町教育委員会が発掘調査された資料によれば戒場遺跡から12世紀代の建築遺構が発掘されたとある。

ダイモン以外にカネノカイト、ゴマヤマ、ドウバタ、ドウザカなどの小字が伝わる戒長寺南側にある集落内。

カネノカイトは梵鐘があったとされる垣内であろう。

ゴマヤマは護摩の山。

ドウバタは寺院お堂の側。

ドウザカは寺に向かう坂であったと思える小字名であることから現在の集落全体が戒長寺寺院内であったと想定できよう。

僧坊跡と思われる掘立柱建物遺構や出土した須恵器、瓦器、土師器、青磁から12世紀代の平安時代の寺院跡と推定されたようだ。



ホウノキ(朴の木)に掲げたゴヘイ。



お葉つきイチョウにも取り付けるゴヘイの縄。

こうして終えた難除の儀式。

社務所に戻ってひとときの直会を過ごす。

8m、7mの縄は境内のご神木とされるお葉きつきイチョウとホウノキに括りつけて終えた。

(H25. 1. 3 EOS40D撮影)

大織冠の正月参り

2013年03月24日 07時33分57秒 | 大和郡山市へ
大織冠に鎮座する鎌足神社。

燈籠には鎌足公社と刻まれている。

鳥居と拝殿前に掲げた提灯がある。

正月を迎える提灯であったろう。

本殿には鏡餅を供えてあった。

孫さんとともにやってきたT氏は熊本県が出身地。

神社に参るときには和服姿で参拝していた。

その姿は居住地を城の台に移してからも続けているという。

お参りの際には無言。

人と出合っても語らない。

熊本県での神社参りは男の人だけがそうする。

女性は参ることが許されなかったそうで今でも続けている。

大晦日のときだ。

連れていくのは息子だけだったというが、孫の女の子ができてからはそうでなくなった。

この日も神社のお参り。

手を添えてやってきた。



神社のお参りを済ませば鎮座地にある仲仙寺の地蔵堂にも参る。

普段は扉が閉まっているが正月三が日は開放されているようだ。

安置されている本尊の石造地蔵菩薩立像を拝見させていただいた。

寛文年間(1661~1679)に郡山城主の本多政勝が生駒の蓮台寺であった本尊を移したと伝わる。

仲仙寺には享保十九年(1734)に寄進された梵鐘がある。

大晦日から年明けに打つ除夜の鐘。

かつては境内にある小石を108個拾ってバケツに入れた。

それが鐘を打つ数。

今ではしなくなったが行列ができる除夜の鐘。



この日も一つ打ったT氏。

とても心地よい鐘の音に心が和む。

大織冠の地は地蔵山と呼ばれている小高い丘。

大和郡山市内の城下町に柳町がある。

商店街がある処だがこの地も柳町。

城下町からは遠く離れている。

文禄検地帳に記された新開地であった地蔵山は柳町の枝村であった。

行政地は現在も尚の柳町となる。

この地の南東側は城下町の外堀。

面影が僅かに残る。

無言で元日参りをする地域は熊本県だけでなく奈良県内にもあったようだ。

天理市の萱生や桜井市の穴師では参拝途中で人に出合っても無言で行きすぎる風習があった。

萱生に残る言い伝えによれば「昔、不作の年があった。村を代表した庄屋が、年貢の滅免方を領主に訴願したが、怒りにふれて投獄されたまま新年を迎えた。村人たちは松飾りや年賀も取り止めた。それが村の風習となって継承された」とある。

穴師では「昔は元旦の未明に小松明を持って氏神へ参拝したが、道中で人と出合って口を交わすと福の神が口から飛んで出る。だから行き交う人に出合っても口をきかない。たとえ親子でも棟を別にしていれば口をきかなかった」という伝説だ。


(H25. 1. 2 EOS40D撮影)

外川町八幡神社の砂の道

2013年03月23日 07時30分02秒 | 大和郡山市へ
東村のツナウチを終えて立ち寄った外川町。

数年前に池之内の植島宮司から聞いていた砂の道。

八幡神社には大晦日に砂の道を敷いていたと話していた。

それはどのような状態であるのか現認する必要があると思えて訪れた昨年は見られなかった。

しかしその日は30日。

まだ早かったのである。



砂の道は鳥居から参道の階段中央を描く一本の道。

砂の道は本殿まで続いている。



拝殿前からは小宮と思われる大鷦鷯(おおさざき)社へ繋いだ砂の道もある。

機会があれば尋ねてみたい外川の砂の道である。

外川の地を含めて大和郡山市内では5か所も現存していることが判明した。

一つは二日前の大晦日に拝見した新庄町の出屋敷にあたる鉾立の鉾立神社だ。

その他に観音寺町の八幡宮野垣内町の若宮社白土町の白坂神社である。

郡山ではかつて砂の道を敷いていた地域が多数あった。

高田町、天井町、伊豆七条町、横田町、番条町、井戸野町、新庄町本村、発志院町、小南町、池之内町、椎木町、額田部町、馬司町、長安寺町、八条町である。

広い範囲で行われていた砂の道は神さんが通る道。

郡山以外の市町村の川西町北吐田、田原本町西代の八阪神社、田原本町唐古の神明社、田原本町宮古、天理市備前の天皇神社、天理市南六条の杵築神社、奈良市の旧辰市、橿原市の葛本であったと聞き及ぶ。

これらのすべてが盆地部。

山間では砂の道の話題を聞くことがない。

(H25. 1. 2 EOS40D撮影)

東村のツナウチ

2013年03月22日 06時50分41秒 | 大和郡山市へ
結った綱は海老の形にする東村のツナウチ。

1月8日には矢田坐久志玉比古神社の鳥居や主人神社に大綱を掛ける。

その大綱作りをするのは正月の二日と決まっている。

大綱を作るのは宮座組織の北座の東村、中村、横山地区の人たちである。

拝殿で大綱を作るのは横山と中村であるが、東村は当番の前庭で作る。

毎年交替する当番の家に集まってきた5人が大綱を結う。

出来上がった綱を折りたたんで二重にぐるぐる巻く。

適度な長さに折り返す綱は4本。

それが心棒になる。

両端を細藁で縛って固定する。

心棒の綱をくるりと浮かしながら巻いていく。

最後まで巻いたら両端を微調整して綱を仕立てる。



こうして完成した大綱は形を整えて当番の家の玄関口に納めた。

8日の朝まで奉っておく大綱はまさに海老の形である。

(H25. 1. 2 EOS40D撮影)