マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

三吉専光寺地蔵盆の立山祭

2011年09月30日 07時33分03秒 | 広陵町へ
江戸時代に流行った疫病。

その身代わりとして人形を立てた説、或いは中世に「見立山武士」と呼ばれた土豪細井戸氏が元禄年間に名残を惜しんで武者人形を立てたとか。

諸説がある広陵町三吉(みつよし)の立山祭は8月の地蔵盆の主役になる。

奈良県内でこのような人形などで造り山(立山)を立てるのは、橿原市八木町の愛宕祭、御所市東名柄の天神祭りが知られている。

造り山はかつて県内で広くあったとされる。

40数年前の大和郡山市横田町では納屋5軒ほどを開放して、青年団がムギワラで人形を作ってその年の世相を表現していた。

それより以前には天理市櫟本の和爾下神社の祇園祭でもあったそうだ。

商工会や青年団が造っていたという立山は鳥居から西へ続く街道筋で見せていたそうだ。

山添村の箕輪(みのわ)でも山ツクリがあった。

仏教行事のあとに会食。

酔いも手伝った頃に素人即興劇や寸劇などの俄か芸能が高まり、それが発展して山ツクリがされたそうだ。

人形は顔、手、腕、足、などは菊人形のように。

土や石膏で固めた身体に色を塗ったり化粧を施したが衣装は本物を持ち寄って飾ったようだ。

照明もガス灯からネオンサインの電飾、ゼンマイ式で動く人形までもと変化した。

それは戦時中に途絶えて昭和22年に復活したが再び途絶えた。

平成3年に学習の一環として掘り起こされたがまたもや消滅してしまった。



そのようなこともなく広陵町三吉では現在も続けられてきた立山祭は「大垣内の立山祭」として平成8年に町文化財に指定されており、専光寺と呼ばれている地蔵堂を中心に地区全域に亘って地蔵盆のお祭りがされている。

造りものの立山は公民館、新築や婚礼のあった家が会場となる。

提供するお家にとっては目出度いお披露目の場であり、各家の家紋が入った幕が掲げられている。

その会場は毎年入れ替るし、立山人形も替る。



制作にあたっているのは平成22年に結成された保存会の人たち。

以前は青年団が工夫を凝らして作っていた。

話題性をとりあげ、その年に有名になった出来事や人物をおもしろおかしく表現する。



この年は広陵町のシンボルでもあるかぐや姫、NHK大河ドラマの“お江”、隣町の橿原市新口で名高い梅川忠兵衛の“冥途の飛脚”に、全世界にテレビ放映された英国ロイヤルウエディングに全線開通した九州新幹線までも披露された。



特に興味を惹かれたのは“雨乞い太郎”だった。

奈良県内では雨乞いをしてきた地域事例が数多くある。

今ではその姿を見ることができないが、江戸時代の雨乞い絵馬が残されているところがある。

その当時の様相を表す川西町糸井神社の太鼓踊り(有形文化財)、高取町小島神社の雨乞いなもで踊りや飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社の雨乞いまでも。

伝承によれば耳成山口神社(火振り坂)の雨乞い願満絵馬があったそうだ。

絵馬ではないが春日大社には雨乞い奉納した万燈籠もある。

それらは現代に繋ぐ貴重な有形の記録でもある。

雨乞いには祈願、満願などで踊れる行事が県内で見られる。

それは定例的な年中行事ではなく、雨は降らず旱が続き、田畑がはいてこのままじゃ農作が大打撃を受けるというときに太鼓などを叩いて踊られるもので何十年に一度のときだった。

それだけに拝見することは甚だ難しい。

数年間も時が経っていれば踊りも忘れてしまう。

村落にとって踊りを継承していくことは、計り知れない努力がいるのである。

南無天と書かれるなもで踊り。

南無は念仏。雨が降ってくれと天に通じるよう祈る踊りだ。

県無形民俗文化財に指定されている太鼓踊りに吉野町国栖の太鼓踊り、下市町丹生の太古(鼓)踊り、奈良市大柳生の太鼓踊りがある。

指定はされていないものでは奈良市都祁吐山の太鼓踊り、川上村東川の古典太鼓踊り、奈良市月ヶ瀬石打の太鼓踊り、宇陀市室生区大野のいさめ踊りが知られている。

また、雨乞いの踊りには復元された大和神社の紅しで踊り(願満成就)、同じく安堵町飽波神社のなもで踊り(願満成就)がある。

奈良市中山町の龍王神社ではかつて龍王さんのナムデ踊があった。

王寺町明神山頂の雨乞いなむで踊り、平群町平等寺春日神社のなもで踊り、奈良市池田町の勇み踊、雨乞い太鼓踊りもそうだがそれらは随分前に途絶えた。

室生向渕では雨乞いで登った山(堀越神社)がある。

40年ほど前、松明を手にした人たちは山頂まで登って淵の周りを巡ったそうだ。

囃し言葉は覚えていないというからなかったかもしれない。

少し暗かったというから陽が落ちた直後であろう。

いずれにしても龍神信仰があったと思われる向渕だ。

室生下笠間では「あめたんもれ」と囃して山に登ったと長老が話していた。

御杖村村史によれば神末では雨が降らなければ雨乞いのダケノボリをしていた。

三畝山の山の口にある滝壺に木を切って放り込み流れたら雨が降る伝承がある。

般若心経を唱えてタイマツに火を点けて帰ったようだ。

桃股ではアナノオサンと呼ばれる岩穴に参ったようだ。

ここでもタイマツに火を点けて帰った。

菅野ではダケサンだった。

曽爾村史によればここでも雨乞いがあったようだ。

葛では始めにお寺や庚申さんに願を掛けて般若心経を唱えた。

それでも降らないときはダケノボリ(ヤマノボリ)をした。

オダケサンとも呼ばれている鎧岳峯だ。

さらに室生の龍穴神社に参ったそうだ。

ダケノボリは大字ごとで一番高い山に登った。

それは「ヒアゲ」とも呼んでいた。

塩井ではタイマツを作って古光山に登る。

頂上には「アメノミヤハン」の祠がある。

そこで般若心経を唱える。

タイマツに火を点け、太鼓を叩いて「アメタモレ タモレ タモレ フネノミズガカワイタゾ」を唱えながら下っていった。

途中にある不動の滝の滝壺にタイマツを投げ入れた。

山粕では穴野山だった。

そこには穴野神社があった。

掛では八辻峠、長野は屏風岩、今井は甲岳の奥にある歳城峯。

太良路は亀山。

伊賀見は甲岩とあり岳山信仰と雨乞いが結びついている。

葛城の二上山もそうであった。

干ばつのときの雨乞いには「嶽の権現さん」とも呼ばれていた二上山に登った。

提灯と幟を持って雨を貰いに登った。

「岳の権現さんは幟がお好き。幟もってこい雨ふらす」と盆踊り唄で歌われたとある。

それは昭和20年代まで行われていたそうだ。

さて、地蔵盆の立山祭で描き出された雨乞いといえば「雨乞い太郎さん」である。



かつて「雨ください 太郎さん 池の水もカンカラカン (囃子 アメクダサイタロウサン) 稲田の田んぼが焼けた (囃子 アメクダサイタロウサン) スイカもマッカもみな焼けた」という台詞で雨乞いの唄を歌って祈願していた。

地蔵堂にあった木彫りの仏像こと「太郎さん」をヒデリのときに持ち出して、今は真美が丘になった田んぼに担ぎ出した。

そして宮さんの向こうのセンガリ(千刈)池に放り込んで(はめて)浸け、ドボンと沈めた。



「稲穂は立つが、実らないときや。それがヒデリ。」だと78歳のY氏は話す。

その頃の雨乞い様相を伝える手作り人形たち。

65歳のY氏ほか保存会の人たちが昨年の10月から作りだしたという精巧なものだ。

先頭を歩くのが羽織姿の長老。

両脇には火を付けたタイマツと提灯持ちが見られる。

木を組んで布団を乗せた台を担ぐ男たち。

昭和35年代のことだという。

その上に置かれた木の仏像が判るだろうか。

その原形は専光寺と呼ばれている地蔵堂に納められている。



この夜に展示された「雨乞い太郎さん」は町内の図書館で再展示されたあとは焼却するという。

人形で再現したとはいえ、珍しい行事だけにとても残念だと思った。

(H23. 8.24 EOS40D撮影)
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馬司町北の地蔵尊の地蔵盆

2011年09月29日 06時40分29秒 | 大和郡山市へ
突然の雨にも負けずに設営して参拝者を待ちうける馬司町の長老たち。

杵築神社の十人衆だ。

同町には北と南に地蔵尊がある。

7月は南の地蔵さんの地蔵盆があった。

翌月の8月は北の地蔵尊で地蔵盆がされる。

以前は両地蔵盆とも8月に行われていたと話す長老たち。

雨天の際には傘を立ててお参りに来る人たちを待っているのだがここを通る車が余りにも多い。

南の方にある道路は信号が長い。

それを避ける運転手は抜け道にしている。

1分間に何台が通るのだろうか。

参拝者は車に当たらないように気をつけなければならない。

北の地蔵は水路の上に据えられている。

かつてはここではなかったそうだ。

「2歳のときに奉納された絵馬が飾られていたな」と回想される長老。

それは祠の改修の際に処分されて消えた。



東西に抜ける道は車の往来激しい。

スピードは低速もされずに走り抜けていく。

特に朝夕がそうだ。

そんな光景になってしまったのは昭和工業団地ができてから激変したのではないだろうか。

この日ばかりは通行禁止にしたいと口々に長老たちは話した。

(H23. 8.24 EOS40D撮影)
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額田部南板屋ケ瀬地蔵盆

2011年09月28日 06時45分24秒 | 大和郡山市へ
石仏地蔵尊の土台に「板屋瀬利 荒廃世過 人面棟地 佛像凌地 今澧樢境 新安索○ 永住三寶 確乎不桅 享保○○和妙寺・・・」の刻印が施されている大和郡山市額田部南の板屋ケ瀬地蔵さん。

かつて大和川の堤防の竹やぶにあった。

それは川から流れ着いたという。

その辺りは川に杭があって南に楠があった低い橋だった。

それは車が往来する板屋ケ瀬橋。

面影はみられないが紅橋とも呼ばれている。

子供のときにはその辺りに割り石が敷き詰められていた。

畳一畳ぐらいで流されないように柵で囲っていた。

そこは鮒が集まってくる絶好の魚場。

5、6個あって採っていたと話すKさん。

小泉の殿さんこと七本槍で名高い片桐さんの弟がこしらえた船着き場だったようだ。

地区24軒で守っている板屋ケ瀬地蔵さんは地区西にあったが今は板東公民館横。

建物の中に納められている。

毎月23日は月当番の人が地蔵さんに御膳を供えて花を飾っている。

地蔵盆は7月と8月の23日だったが、世話するのがたいへんやからと一昨年から8月だけにされた。



この日の夕方、建物の鍵を開けてアズキ入りの洗い米とシイタケ、トマト、キュウリ、ナシ、コーヤドーフなどの生御膳を供えた。

ローソクを灯して導師はその前に座って始められたお念仏は般若心経。

狭いお堂には入られないからその周りで手を合わせる地区の人たち。

静かに念仏が唱えられた。

板屋ケ瀬の石仏地蔵はいつしか額安寺に納められた。

それが享保七年(1722)に元にあった板屋に安置されたという。

以前はお堂に納めていた板書には「奉再建額安寺板屋瀬地蔵堂宇・・・云々 慶応四年(1868)五月上棟 ・・・・・・」と書かれている。

ここは額安寺の領地内であったそうだ。

(H23. 8.23 EOS40D撮影)
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三輪高宮地蔵盆の御供配り

2011年09月27日 06時42分33秒 | 桜井市へ
この日の午前中に地蔵盆を終えた三輪高宮。

観音講の婦人たちが三巻の般若心経、そして西国三十三番のご詠歌を唱えられた。

それは毎月17日の営みとおなじであるが地蔵盆のときには延命地蔵の前に座って般若心経を三巻唱えていたそうだ。

その後はひっそりとしている時間帯だが、5人の自治会役員は忙しい。

その日の夕刻までに地蔵盆で供えられた御供を村人に配らなければならないのだ。

かつては60軒もあったが徐々に減りだし今は50軒余り。

梵鐘の音が聞こえてくれば会所にやってくる。

それまでの時間までの準備といえば御供を1軒ずつ袋に入れておくことだ。

お菓子など御供はさまざま手際よく分けて袋詰めしていく。

会所に納められた本尊十一面観音立像や延命地蔵に供えられたナシ、ミカン、ピーマン、サツマイモなどの果物、野菜の生御膳は分配を手伝った人たちにお礼として配られる。

かつては地蔵さんに願掛けのお参りを個々にされお供えをしていた。

拝むと病気が治ったとか風邪をひかなくなったとかで御利益があったが、お供えは年々派手になってきたことから自治会で運営することにしたと区長は話す。

そして案内していた時刻になれば吊った梵鐘を打ち鳴らす。



カーン、カーーンと高い音で鳴る青銅製の梵鐘は「和州式上郡高宮村観音堂什物 寛政七年八月吉日」の刻印がある。

寛政七年といえば西暦1796年。

およそ200年以上も前の寺の什物であった。

大切な梵鐘は盗られないように鎖を取り付けている。

その音色は三輪駅の方まで聞こえる。

昭和18年のころ、高宮から見下ろせば藁屋根ばかりだったという。

参道は松並木。

鉄道を跨ぐ太鼓橋もその参道の一部で三輪の大神神社に参る人が多かったと区長は語る。

その付近に住むYさんは東映映画の撮影隊がその松並木で映画を撮っていたことを覚えていた。

当時の様相の面影はまったくみられないが梵鐘の音が聞こえてきたからYさんもお下がりをもらいに来た。

一人、一人と増えて行列ができて名前を告げ貰って帰る。



来られなかった家へは役員が持っていかれる。

こうして地蔵盆の行事を終えると再び梵鐘が鳴らされた。

(H23. 8.23 EOS40D撮影)
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中ノ川町観音寺風の祈祷

2011年09月26日 06時42分35秒 | 奈良市(東部)へ
お盆を過ぎるころには各地で風の祈祷と呼ばれる行事が行われている。

その多くは神社でみられる行事であるが奈良市中ノ川町では仏の行事。

氏神さんである三社神社下の建物の社務所内は旧観音寺。

そこに集まってきた村人たち。

中ノ川町は市内から佐保川の上流に位置する東山中に入る辺り。

急坂を走って4kmほどにある山間農村の佇まいは全戸で30軒ほど。

村の男性たちは座敷に座る。

同寺の本尊は十一面観音。

話によれば50年ほど前に以前あった仏像と入れ替わったらしい。

座敷には真新しい太鼓が据えられた。

トーヤは端に座って数取りの道具を横に置く。

木の札が一枚、二枚・・・。千遍や万遍、一万遍などの文字がある。

導師が座るのは鈴の玉が付けられた数珠を広げられた輪の中だ。

導師を勤めるのは長老だと決められている。

そして始まったお念仏。

最初に懺悔文が詠みあげられる。

それから繰りだす百万遍数珠繰り。

一周する度にトーヤは数取りの木片を移動する。

一回回れば一万遍だという。

それが10回なれば位がひとつ上がった木片を置く。

それで十万遍。

それを繰り返すこと50回。

これで五十万遍も数珠繰りをしたということになる。

鈴はその間、シャンシャンと耳に入らないような小さな音がする。

鈴が手前にくればそれをひるがえすようにクルリと回して頭上に翳す。

一般的には頭を下げるのだがここではそうされているのだが、数珠を繰り出すスピードは早い。

鉦が打たれる速度に合わせて数珠を繰る。

太鼓はその鉦音とともにバチで打つ。

その際には声を揃えて「ナンマイダーブツ、ナンマイダーブツ」と念仏を唱える。

ひと息入れて後半の数珠繰りも50回繰り返す。

最初の50回はゆっくりと後半は早めに数珠を繰った百万遍数珠繰りはこうして終えた。

村を風雨から守る願いの風の祈祷は約30分。

ありがたい数珠で背なかにあてる。

身体堅固の作法である。



打った鉦には「西村和泉守作」の刻印がみられるが年代記はない。

撞木(しゅもく)の形がユニークだ。

一般的にはT字型であるのだがここではL字型。

コメツツジの木で作ったのだろうという。

太鼓は新しいがそれを据えていた台が古いものであった。

文化十○年の文字が底に書いてあった。

200年前のものには違いないが側面には「歩兵三十八連隊第○中隊○戦砲兵・・・・」が。

反対側には「奥城正道伏見三十八連隊・・・云々」とある。

時代が異なる墨書が残されている太鼓台。

京都伏見(藤森神社)にあった連隊は大正14年に奈良高畑町(奈良教育大内)へ移ったとされる記録から推定するに当時所属されていた人がこの台に記したのではないだろうか。

「書かれた人物の名は記憶にないが住んでいたのでは」と話す。

(H23. 8.21 EOS40D撮影)
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平成23年度大淀町伝統文化シンポジウム「大淀町の民俗 ~継承と活性化~」

2011年09月25日 16時13分37秒 | 民俗を聴く
平成23年度大淀町伝統文化シンポジウム
「大淀町の民俗 ~継承と活性化~」

日時  平成23年9月25日(日) 13時開演  <入場無料>
     13時10分  基調講演「吉野山に沿う農村と山村の交差する民俗」
     14時20分  スライド解説「大淀町の民俗調査2010~2011」
     15時00分  パネルデイスカッション「大淀町の民俗~継承と活性化~」
場所  大淀町文化会館あらかしホール 大淀町桧垣内2090
主催  大淀町文化会館・大淀町教育委員会
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長谷日吉神社風の祈祷

2011年09月24日 08時06分35秒 | 奈良市(東部)へ
その日は朝から雨が降っていた。

雨天の場合は屋外で行事を行うが難しいと、村人たちは決断に悩まされる。

この日は風の祈祷。

二百十日がくる前に行われる行事だが村人がその日に集まることができる日で毎年替る。

急坂を登りつめた地に鎮座する奈良市長谷町の日吉神社。

揃ったころはどしゃぶりの雨が降り続く。

もうすぐ止むだろうと雲の行方をみる。

青空はでてこなかったが小雨になったから始めようと決断された風の祈祷。

村人たちが持ち寄った笹竹を手にして境内を埋める。

それには神垂れが付けられている。

神主のお祓いを済ませると本殿下の境内でぐるりと輪になった。

おもむろに歩きだした。

時計回りにぐるぐる回る。

それは3周された。

行列というのか、笹竹を掲げる村人たちはそのまま本殿境内へ上がっていった。

狭い境内を囲むようにしてそこでも同じように時計回りでぐるぐる歩く。

ときには前の人に向けて笹竹を振る。

叩きあいをしているのだという。



この行為は「一万度」だと言って立春から数えて二百十日、発生する大風(台風)がやってこないようにと祈る作法。

それは悪霊祓いでもあるという。

オー、オーと掛け声をかけるが作法だという。

笹竹をゆすっていく作法はまるで風を起こしているようにみえる。

3周とは決まっていないが「一万度」と呼ぶように数多く回るのが儀式だそうで、二百十日の前祈祷の行事だと仰った。

(H23. 8.21 EOS40D撮影)
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桐山和田観音寺八月観音講

2011年09月23日 08時47分56秒 | 山添村へ
山添村桐山・和田の観音寺で毎月18日にお勤めをしている桐山の観音講。

6人の婦人たちに男性が一人。

講中の世話人をしているという。

毎月のお勤めだが5月は休む。

「5月だけはお茶の収穫で一番忙しい時期だけに拝んでられへんのや、9月は宮さんのコモリもあるし、彼岸の念仏も。なにかと忙しいからその月も休んでいる」と話す。

お勤めをする前にはいつもの通り寺回りを奇麗に清掃される。

雑草がすぐに生えてくるから何度やっても疲れると汗をぬぐう。

先月には草を刈りこんだ。

白い花を咲かせたテッポウユリだけはそのままにしていたから美しく咲いている。

「ササユリやったら香りがあるけど、テッポユリは香らん。コスモスもあったんやけどなあ・・・」と話す境内にはバナナの木のような植物がある。

青い実の房がたわわに実っているその植物は大木のように広がっている。

「房はできてるけど、食べられる実にならんのや・・・」。

どうやら冬には枯れてしまうらしい。



そのような話からこれはバナナに似ているバショウ(芭蕉)であろう。

奇麗になったところでひと休み。

タオルで汗を拭って、飲み物で喉を潤す。

吹き抜ける風がほてった身体を冷ましてくれる。

こうして清掃を終えた講中はお堂に登ってお勤めを始めた。



導師は男性。

本尊に向かってお参りをする。

回りを囲む婦人たち。

バチで叩いてキンをお念仏。

「三信条」、「仏前勤行次第」、「般若心経」、「十三仏真言」、「光明真言」から「回向」で終えた。

毎月のお勤めで「参らへんかったら気持ち悪い。

観音さんのおかげでありがたい」と話す。



婦人たちが話すには桐山にはサシサバの風習があるという。

それは両親が揃っている家の風習で、吉野膳に載せたサシサバをおがみ膳をするという。

その年の歳徳神(さいとくしん)、つまりアキの方向に向かって膳を頭の上にあげていただく格好をする。

親から「いただけ」というて、教えられた通りにそれをしていた。

「親がいない家はいただけへんが正月にはモチやミカンなどの正月膳も同じようにする家もある」という。

婦人たちの話によれば「嫁入りしたときにはそれをしなくなっていた」という人もいるが、サケやトビウオであった人もいる。

トビウオは実家に送った。

正月はブリで中元や歳暮にも持っていったトビウオは半分をさばいて持って帰った。

それを「オタメ」と呼んでいた。

それは祝いのお返しだと話す婦人たち。

若いときにはタマネギやジャガイモを入れたリュックを担いで笠置まで歩いたそうだ。

朝の3時に出発するから手には提灯。

春日山へも行ったと回想される。

それは今でいうハイキングだったのだろう。

その頃の修学旅行は煙が車内に入り込む汽車だったそうだ。

行先は東京、「私のときはそれがなくて海洋訓練やった。尋常小学高等科時代だった。」と60年以上も経ったころの話題が広がっていく。

また、盆のときに聞いた桐山のK氏の話によれば盆にはアラジョオライ(新精霊)を祭るらしい。

らしいというのはそれを供えているのは婦人。

今年は入院しているし嫁はどうするか判らんというがドロイモとカキの葉は準備されていた8月13日。

トーシに載せたカキの葉の上にはソーメンを三本。

そこにボタモチを供える。

ミソハギの花も添える。

それは五つで門を入った石の上に供えるそうだ。

花は他にもあって根が長いヒユ。

それはホウレンソウに似た青物だという。

どうやらヒユは野の草。

根はホウレンソウに近い。

青物の葉っぱはおひたしや和えものにして料理される。

炒め物にもあうが苦味がない春のころが美味いらしい。

また黄色い花をつけるカルカもあるという。

カルカとは聞きなれない花の名だ。

どんな花なのだろうか。

それはともかく、おなごし(女性)がそれを用意している間は墓へ向かうおとごし(男性)。

奇麗には墓を掃除していた。

先祖さんは家に戻っているので墓はもぬけの殻。

石塔に登っても構わんし、そこで酒を飲んでいたと話す。

夕方には門先でワラ火を燃やして先祖を迎えたという。

しかも、サシサバの儀式もあったようだ。

昔はトビウオのときもあった。

干もののサバは開きで2枚。

それを重ね合わせるように頭を挿しこむ。

「いただいとけよー」というて、頭の上にサシサバをあげた。

食べるのはその日でなかったようだ。

(H23. 8.18 EOS40D撮影)
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南田原町ボザイノサケ

2011年09月22日 06時45分05秒 | 奈良市(東部)へ
「その昔のことだ」と前置きされて話された南田原町のお寺。

南福寺と呼ばれているお寺は、それは広い堂宇であったそうだ。

「宝永元年(1704)7月17日」の棟札が残されている南福寺。

鰐口も古く延宝六年(1678)のものだという。

明治時代まではその南福寺に住職が居た。

その住職の命日にあたる8月18日には「ボザイノサケ」の行事が行われる。

「ボザイノサケ」を充てる漢字は「菩提の酒」であろうというからに、菩提が訛って「ボザイ」になったのであろう。

行事が行われるのはお寺ではなく公民館だ。

南田原は30軒余り。

その中から「にんにょ(年用)」と呼ばれる年当番の人がせわしく動く。

世話人は3軒。

10年に一度は家回りであたる村行事の当番だ。

9月のイセキは大勢が来られるので準備がたいへんだがこの日は平日とあって集まる人も多くない。

公民館の座敷にテーブルを並べて座布団が敷かれた。

用意しておくものと言えばローソクに線香。

それに平鉦とT字型の撞木(しゅもく)だけだ。

鉦には「室町住出羽大掾宗味作」の刻印があるが年代記銘は見られない。

どこかで見たような刻印名と思って思い出してみれば大和郡山市白土町の子供のチャチャンコで叩かれていた鉦と同じものだった。

それはともかく自治会長の挨拶で始まった菩提命日の供養はその場で選ばれた導師が祭壇前に座って鉦を叩いた。

にわか導師は十三仏のお念仏を唱えていく。

「南無大聖不動明王、釈迦牟尼仏、文殊大菩薩、普賢大菩薩、地蔵大菩薩、弥勒大菩薩、薬師瑠璃光如来、観世音菩薩、勢至大菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚蔵大菩薩・・・南無阿弥陀仏」のお念仏は繰り返すこと3回。

およそ3分間で弔いの念仏を終えた。

(H23. 8.18 EOS40D撮影)
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豆仙坊

2011年09月21日 06時41分11秒 | 食事が主な周辺をお散歩
東京から帰省した長男。母親は大阪から来た。

次男は海外で仕事をしているのでいないが家族が揃った。

いつもなら居酒屋の「わらじや」に行くのだがたまには違う味も食べてみたいと探したのが「な・ら・らの豆仙坊」。

その屋号のとおり手作り豆腐料理がメインである。

そこは繁華街の小西町。数々ののレストランが並んでいる。

灯り燈籠が飲み屋の街を優雅に照らしてくれる。

畳座敷のお店の雰囲気がなんともいい。



足を伸ばせるテーブルを照らすライトに傘が仕込んである。

和風情緒が美しく彩る。

頼んだ料理は1800円の季節限定御膳。



豆乳コーンスープ、季節の小鉢、揚げだし豆腐、生タコの造り、もろこし豆腐、夏マッタケの土瓶蒸し、焼きナス、合鴨つみれ鍋、ハモのシソ揚げ、生姜ご飯、汁物、香の物にデザートとコーヒーまでも。これだけ揃ってこのお値段。

リーズナブルなお値段である。

さてさてお味はどうかな・・・。

タコの造りが美味しかったのでおまかせ造り2480円も頼んだ。

五種盛りだったがタコ造りには程遠い。



それは全般的に水っぽいのだ。

特に貝柱がまずいほどにまずい。

会席にでたタコはどこへ行ったものやら首を傾げたくなる。

それはともかく全般的にそれぞれが手の込んだ料理は美味かった。

豆乳コーンスープはコーンが豆乳とこれほど合うとは思いもせんかった。

季節の小鉢の中身はなんだろう。

ナスの味噌味仕立てがそれなのか。

酢の物も口にあう。

母親も喜ぶ味だ。

マツタケの香りも味もないが土瓶蒸しで味わうか。



もろこし豆腐は桶で出てきた。

それをラーメンスプーンで掬って手前の皿に入れる。

ちょおぉっと合わんスプーンだけど手作り豆腐は味わえる。

こりゃ美味いんでもうひと桶頼んだ。



が、それはザラザラだった。

一番搾りの豆腐は美味いが二番搾りはあまりにも食感が違う。

一番と二番が違うことを認識してほしいと店の人に言われたがあれは何やったんかいなちゅうことになる。

鍋は合鴨のつみれ。



豆乳味の鍋なんだろうか。

美味いことは美味いが合鴨の味がしないのはどういうこと・・・。

鴨にコクがないということかなぁ。

天ぷらがでてきた。

野菜は大きめでハモは小さめ。

天ぷらの味はするけどハモが判らない。

シソの味はするけど・・・揚げる温度はどうだったんだろうか。

なんて小さな疑問は多少あったが追加料理をしなければ価格に相応しい御膳で一応満足したのであった。

長男はシャンデイーガフ480円を頼んだ。

ノンアルコールらしい。

母親と私は生ビール中480円。三杯も飲んでしまった。

(H23. 8.17 SB932SH撮影)
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