マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

榛原萩原小鹿野・中組東の旧暦閏年の庚申トアゲ

2018年08月16日 09時37分09秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
服忌の場合であれば、上の組は参ることはできないが、コデキ(子出来)の場合は参加できるという中組東の庚申講の寄り合いである。

前日の7月1日は隣組になる中組講中の営みを拝見していた宇陀市榛原萩原小鹿野。

三つの組があるが、5~6軒の組だった上の組は現在2軒。

営みをできる状況ではないから停止している。

この日に行われるのは中組東。

昭和59年12月9日に建立した庚申さんの祠もずいぶんと朽ちてきたことから、2週間前に一部を修繕された。

昭和59年当時は7軒もあった中組東の講中。



一軒、一軒と脱会されて今では3軒になったという。

花立もゴクダイも葉付きの杉材で作る庚申塔婆もしていたが、現状を継いでいくには困難になった。

若い人たちが気負うことなく次世代に継げるよう、大改革をされた講中。

旧暦閏年の庚申さんの都度、毎回作り替えていた祭具を恒久化すれば次世代が継ぎやすくなると判断されて、花立もゴクダイも作らない。

これからは作らなくてもいいような形の塔婆にしようということになった。



願文は美しい書体で、はじめに五文字の梵字。

中組と同じの「キャ カ ラ バァ」。

続いて「奉造立 庚申供養五穀豊穣講中安全祈願」だ。

この庚申供養塔は前回の平成26年10月に新調したという。

庚申祠が建つ場は今では高台のようになったが、かつてはそうではなかった。

東京オリンピックがあった昭和39年。

土を掘って取り除いて道を拡げた。

それからアスファルト舗装にした。

祠がある場はもっと広かったから大勢の講中が並んでも十分な広さだった。

今では狭いから体制を崩したら落ちそうにもなる場で拝礼をする。



儀式は般若心経を唱えるわけでもなく、2礼2拍手1礼でもなく、手をポンポンと合わすだけ。

「心の中では心経を唱えているような感じで拝ませてもらっています」、という、実にその通りの作法であった。

かつては三つの組とも同じ日に営んでいた旧暦閏年の庚申講。

3カ所を巡って、お下がり御供目当ての子どもが大勢やってきたのであげていたが、今は面影すらない。



ずいぶんと寂しくなったと云いつつこの場で直会。

しばらくの歓談後は、近場の料理屋に出かけて会食をすると云って足早に去っていった。

この日にふと話してくださったTさんの奥さん。

昭和18年生まれの婦人が云うには、最近になって知人から教わったまじないをしていたという。

そのまじないはならまち界隈のS家や山添村のS家と同じように摘んだ紫陽花の花をトイレに吊るしたと・・。

吊るす日は「6」のつく日でもない。

しかも逆さでもない。

教えを聞いたのはどうやら断片的のようだが、来年は拝見したいと申し出たら、拒まれるようでもなかったことを付記しておく。

(H29. 7. 2 EOS40D撮影)
コメント

榛原萩原小鹿野・中組の庚申月の営み

2018年08月13日 09時37分45秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
外の庚申さんに参る在り方は旧暦の閏年に行われる。

このお勤めを「庚申トアゲ」と呼ぶのであるが、定例は2カ月に一度の営み。

60日サイクルの庚申の日がお勤めの日であるが、小鹿野の中組は年に3回の営み。

奈良県内に数多くある庚申講であるが、高齢化などで負担が大きくなり、60日サイクルを崩す地域は多く、初庚申、或いは終い庚申だけにしたという地域もある。

そう、小鹿野も同じように、近年は年一度のお勤めに移っていたのであった。

旧暦閏年の庚申トアゲ参拝を済ませた講中はヤド家に場を移す。

ヤド家には年代不詳の庚申図を床の間に掲げていた。

その下に並べた御供にやや大きめの豆腐一丁がある。

味付けをしていない冷ややっこを皿に盛って供える。

もう一品はお頭付きの魚。

この日は丸太一本の鯖一尾だった。



口開けしたお神酒も供えて、ローソクに火を灯す。

神事同様に2拝、2拍手、1拝してから会食に移る。



儀式が終われば座敷で直会を始める。

講中が云うには、かつてはカシワ肉とタイコイモを炊いた煮しめとか、カシワ肉のすき焼きを食べていたそうだ。

他に生タコの刺身もあったという。

小鹿野の大西垣内に伊勢講があった。

天照皇太宮の掛図は二人立の像が描いてあったそうだ。

また、お日待っつぁんもあった。

9月1日は集会所兼の地蔵寺すぐ傍にある弁財天社の行事。

デアイの名がある集落の道造りをした後に行われる行事はツイタチ座。

呼び出し合図の太鼓を打って参集。

長老が導師を務める数珠繰りがしているらしい。

その前に行われるのが風籠り。

ほぼ8月末の日曜にしているという行事もまた心経を唱える。

また、11月には十夜がある。

赤飯を供えて、宇陀市榛原萩原・融通念仏宗派宗祐寺の住職が法会をされる間に行なう数珠繰りもあるという。

(H29. 7. 1 EOS40D撮影)
コメント

榛原萩原小鹿野・中組の旧暦閏年の庚申トアゲ

2018年08月12日 09時08分21秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
宇陀市榛原萩原の小鹿野に庚申講があると知ったのは平成28年の10月28日だった。

民俗探訪に訪れた宇陀市菟田野の平井。

帰路に立ち寄ったのが、小鹿野であった。

その際、目にした庚申堂。

旧暦閏年に行われる庚申行事に奉ったと想定される塔婆があった。

花立ての残欠もあるから行事をしているのだろう。

話しを聞いてみたくなった区長家はすぐ近くだったが、不在だった。

区長にお会いできたのは、翌年の平成29年4月14日

凡その行事感触を伝えてくださる。

度々に小鹿野へ向かうことが難しいので区長の電話番号を教えてもらっていた。

6月末までに、村で行事日程を決めると区長が話していた。

そろそろ決まっているころであろうと思って電話を架けたのが6月28日。

そのときの話しでは、7月1日が実施日になると云っていた。

午後になってからになるが、ある家に講中が集まって、花立やゴクダイを作るという。

祭りの道具が出来あがった午後3時ころには庚申さんに参って三巻の般若心経を唱える。

小鹿野に庚申講は3組あるが、1組は講中が2軒になったので中断した。

もう1組は講中の都合を考えて翌日の2日にする。

花立もせず参るだけになったという。

その組の講中が3軒になったから大幅に簡略化した、と電話で伝えてくれた。

そうした経緯があってたどり着いた行事の日である。

中組の講中は4軒。

所有する軸箱の箱面に「明治八亥年 小鹿野 ・・・」の墨書に5人の名があったからかつては5軒であった。

小鹿野にある3組の庚申講は上組、中組に東の組もある。

上組の庚申さんは山ノ神と呼ばれている庚申石。

かつては5、6軒の講中で営んでいたが、現在は2軒。

今年は人数が少なくなったので中断したそうだ。

東の組は6軒で営んでいたが、ここも同じように軒数は減って3軒でしているという。



紹介されたヤド家のM家の床の間に庚申さんの掛図を掲げていた。

見た目でも古さを感じる掛図。

裏面なども拝見したが、寄進年号を示すものがないが、装飾素晴らしく立派な掛図に感動を覚える。

黒光りの風合いをもつ掛図箱も拝見する。



黒一色の表面に文字は見つからない。

開けた蓋裏もないが、底面になにかしかの文字がある。

「の」の文字に判読不能文字と「上」は何を伝えているのだろうか。

専門家の判定がほしいところであるが、ひっくり返した箱の底面に連名があった。

判読できた文字は右から「明治八年(1875)乙亥」、「小鹿野村」、「□本時□」、「西向元□」、「堂本時□」、「大西□□」、「□□□」、中、村」とあるから、当時は5軒の講中であった。

時代は明治とわかって、実は小鹿野の前身は玉小西(たまこしに)と呼ぶ地域であった。

明治初めの時代であるが、今でも字地に(元)玉小西があるようだ。

その箱とは別保管している封筒がある。

中に納めているのは便せん。

平成16年4月、18年7月、21年7月、26年10月、29年7月にそれぞれ担ったヤド家の名前。

こうして書いておかんと忘れてしまうので記録したそうだ。

その書面に書いてあったのが行事名。

「とあげ庚申」と記されていた。

これまで村々でされている数々の旧暦閏年の庚申行事を記録してきた。

ここ小鹿野も同じく「とあげ庚申」。

「とあげ」とは、庚申さんに願文を書いた塔婆を揚げ、念仏を申す「塔婆揚げ」である。

ある地域では「とあげ」とあったが、別の地域では「とうあげ」だった。

それがあったからわかった「塔揚げ」。

願文を書いた塔婆を揚げることから塔婆揚げであるが、「とうあげ」が短く訛って「とあげ」になったことは・・」ということである。



その願文は、これまでずっと同じ。

見本通りに願文を葉付きの杉の木に書いてきたという。

そのような話しをし終わって、取り掛かった庚申さんに奉る祭具の調製である。



屋外である調整作業は二つある。

一つは真竹で作るゴクダイ(御供台)である。

もう一つは杉の木で作る塔婆である。

予め伐採していた真竹はとても長い。

それを切る長さは庚申堂に遺していた前回に立てたゴクダイが見本。

見本に合わせて伐っていく。

丸太素材の状態で作るゴクダイに載せる棚作りもある。

真竹を割って細い竹を何本か作る。



これもまた前回の棚を見本に長さを合わす。

枚数も同じ枚数にする。

あとからわかったが本数は15本だった。

そのままの状態では棚にならない。

両端を編んでいくように紐を通していく。



編み方も全開を見本につくるヤド家のご主人。

できあがった棚は御簾(みす)のような簾型である。

一方、ゴクダイの土台になる支柱部分も作り始める。

支柱は棚を載せる形に調整する。

ヤド主がゴクダイの棚作りをしている最中、みなは協力しあって棚を載せる支柱を作る。



これもまた、前回に祭った見本を元に作っていく。

真ん中より若干下に節目があるように竹を切る。

その節目までを四つに割く。



勢いをつけ過ぎたら節目まで割ってしまう。

それを越さない程度に割るのが難しい。



しかも、である。

割いた4辺に曲げを入れる。

これもまた力を入れ過ぎてしまえばパリパリと音を立てて先まで割かれてバラバラになるからその加減が難しい。

そういうわけで工夫するのが曲げである。

節目より少し上にバーナーの火の力を借りて優しく曲げる。

予め作っておいた2本の竹片を割いたところにかます。

よく見れば内側に節目がある。

その端の見えない部分に竹片を噛ませば出来上がりだ。

竹片は支柱の反りで外れないように抑えられている。

それも確かめて出来上がったゴクダイである。

次の製作物は真竹で作る花立と杉の木で成形する塔婆作りである。

塔婆の木肌成形を撮っている際に行われていた花立作りの工程である。

塔婆に目線がいってしまったものだから花立は出来あがり状態を見ていただきたい。

ただ、製作工程はとても難しく、切込みの大きさに外れないようにした鉄線巻きなど、昔はしていなかった工程がある。

できるだけ簡単にできるようにと工夫されたのは前回の平成26年10月7日からだという。



これまで実施した日とヤド家がどの家であったのか、メモを残すようにしたのは平成16年の4月4日からだった。

次は平成18年7月29日。

その次は平成21年7月11日、その次は平成24年7月1日。

このように履歴をみていけばわかるように榛原萩原・小鹿野の旧暦閏年のトアゲは「大」の月にされてきたことがわかる。

私がこれまでに取材してきた地域では「大」の月を意識するが、どの地域も間違いなく3月から5月辺りに行っている。

つまりは豊作を願って春の季節にしているのだ。

ところが小鹿野は、多少日程は前後するものの、頑固にも旧暦の「大」の月に合わせて実行していることがわかった。



葉付きの杉材で作る庚申塔婆である。

カマで皮を剥いで、願文を書けるように、また、白い部分がわかるように削る。



願文書きもまた前回の見本を元に太文字サインペンで書いていく。

願文は初めに「空 風 火 水 地」の「キャ カ ラ バァ」。



続いて「奉造立 庚申供養五穀成就講中安全祈願 平成二十九年七月一日」と書いた。



ゴクダイ、花立、塔婆の三つが揃ったら地蔵寺(兼集会所内)の建つ地にある庚申堂に向かう。

急な坂道を登ってきた講中たち。

その道は人の歩ける範囲の里道である。

だが、集落を訪れるには、車利用でないとしんどい急坂ばかりの里道。

普通自動車では難義しそうな狭くて急な坂道。

4WD型軽自動車でないと、実に走行が難しい狭い道。

急坂の地形に、坂道の途中で一旦停まったら、発進は実に難しい地域だと思った。

急な坂道を行き来するにはとてもしんどい。

心臓に病をもつ私にとっては負担度が最高潮に達する坂道を講中は難なく歩いている。

ヤド家はご主人の代わりに奥さんが参られる。

実は作業中もずっと座ったままであったご主人は事故で脊椎を壊された。

歩くのもままならない身体でなんとか製作した庚申講の祭具。

「座ってする作業はもう慣れています」と云っていたのが印象的だった。



運んできた花立は庚申堂の右側に立てる。

花立ては2本それぞれにお花を活けて飾る。

左側にはゴクダイ。

そして庚申塔婆である。



ゴクダイの棚にそっと載せたのは器に盛った御供。

オカキやお菓子なんどの軽い御供だった。



ローソクに火を灯して始めたお念仏は般若心経。



このときの導師は区長さん。

小鹿野の年中行事のお勤めは般若心経を十巻、或いは三巻が多い。



この日の庚申講行事は一巻で終えた。

(H29. 7. 1 EOS40D撮影)
コメント

再訪、榛原山辺三のコイノボリ

2018年04月27日 09時08分58秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
前日に訪れた宇陀市榛原山辺三。

ふれあい広場に10基ほどのコイノボリを揚げている。

村の人たちが4月10日ころに立てたといわれる色とりどりのコイノボリは無用になった幟を寄進してもらったもの。

風が吹いていたら、絶好の写真を撮れる。

そう思って帰路に選んだ絶景地。

写真家Kさんならではの写真を撮ってほしいと思って案内する。

近年は、いろんなところで見られる寄進されたコイノボリ揚げ。

景勝地にぴったし合う色合い。



コイノボリの一番先頭は吹き流しの幟である。

稀に揚げたお家の家紋を見ることがある。

また、初孫の名前を書いて揚げている事例も少なくない。

山辺三のコイノボリにはその事例は見られないから、旧家が寄進したものではないように思える。

私が山辺三のコイノボリに惚れたのは、幟を立てやすいように広場に幟立ての穴を作ったことだ。

穴はもちろん手作業で掘るが、崩れないように塩ビ管パイプを埋め込んでいる。

水捌け良い広場の土であれば水を溜めることはないだろう。

尤も、気に入っているのはそれだけではなく、他所のコイノボリはロープを張って、そこに並べるようにコイノボリを据える。

長けりゃ長いほど景観的にもよろしいが、写真にするのは難しい。

張った地形によっては、背景の効果でいい感じになるが、ポイントを定めにくい。



コイノボリが群がるように、そして青空を泳ぐような姿をとらえてあげたい。

その願いを叶えてくれるのが、山辺三の在り方。

同じような方法で揚げていたのは五條市の吉野川河川敷のコイノボリ

川に沿って縦一列だったので、これもまたとらえるのに難儀した。



パイプ穴に立てたコイノボリの支柱は青竹。

風の吹き具合によってしなりができる。

その状態によってコイノボリの泳ぎ方が格好良く映える。

支柱穴の間隔。

また、散り方によってコイノボリに遠近感が生まれ、拡がり、奥行きのある映像になったと自負するが、出来栄えは別物だ。

この地は近鉄電車が通り抜ける。



葉桜になった八重桜の向こうを走る特急列車は2階建てビスターカー。

昭和53年に初代が走って、今や3代目。

走る姿は一層スマートになった。

コイノボリ撮影を愉しんだらベンチに座ってお昼ご飯。



たったの100円で売っていたパック売りのイロゴハンは高齢者婦人たちの手造り。

お味もよろしいイロゴハンは旧都祁村の下荻にある大野橋直売所末広屋で買ったもの。

花見ならぬコイノボリを見てよばれていた。

(H29. 4.29 EOS40D撮影)
(H29. 4.29 SB932SH撮影)
コメント

ミツバチ誘うミスマヘッド

2018年04月26日 09時54分01秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
宇陀市大宇陀平尾の水分神社の社殿に巣を作っていたミツバチ退治の作業をしていた男性と出会ったのは平成27年6月14日だった。

平尾氏子の頼みの作業であったが、その在り方を詳しく聞かなかった。

専門家に違いないが、専業ではない。

いつから嵌ったのかは知らないが、知人に教えてもらったミツバチのこと。

面白いと思ったからのめり込んだが、あくまで趣味の世界のようだ。

この日にお願いした件は、男性が毎年の春にしている豊作願いの在り方を拝見させていただくことである。

軽トラを運転してやってきた男性。

運転席に置いてあった植物を見せてくださる。

それは西洋の蘭植物。

愛蘭家であれば、誰しも存じているシンピジウムであるが、初めて見る品種。

男性がいうには、この品種はミスマヘッド。

蘭系植物のすべてではないが、芳香をもつものもある。

男性が持ってきたミスマヘッドはニホンミツバチが分蜂する際におびき寄せる誘蜂植物。

鉢寄せ蘭ともいわれるミスマヘッドは「金陵辺」と呼ばれる東洋ランの一種だそうで、女王ミツバチのフェロモンと同じ匂いを出すそうだ。

その誘蜂範囲はなんと15kmにもおよぶというのだから、すごいもんだ。

風のない午前10時ころから12時ころ。



ニホンミツバチの蜜をバーナーで温めて蜜を巣箱台に流しておけばぞろぞろやってくるらしいが、物事は順番がある。

仕掛けをしていきなりではない。

2、3日も経てば偵察するニホンミツバチがやってくる。

偵察隊は女王ミツバチが居ると勘違いして、ミスマヘッドに群がる。

そのうちに落ち着いたミツバチは巣箱に入っていく。

そして分蜂が始まるそうだが・・・、本日はここまで、とする。

(H29. 4.29 EOS40D撮影)
コメント

榛原笠間・S家のハウス苗代の水口マツリ

2018年04月25日 09時54分27秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
例年なら4月10日ころにモミオトシを済ませて育苗器で数日間育てる。

それから良い日に苗箱を積んでハウスに運ぶ。

一枚、一枚を並べる。

ところが今年は3月末から4月初めは冷え込み厳しい日が続いた。

宇陀市榛原の笠間はその影響も大きくモミオトシ時期を遅らせた。

さらに長引く遅霜にも悩まされた。

予定がまったく狂ってしまったとぼやいても始まらない。

遅くなっても苗を植えなきゃならない。



ようやく第二弾の苗ができた。

ハウスに運ぶ直前は稲の穂先に露がついた。

温かい育苗器から移して軽トラに乗せた。



運んでくる間に露は蒸発していく。

田主は少しばかり、まだあるはずやと云われてレンズで覗くが・・・。



確かにあったが、時間が経ったものだから、僅か2粒の滴。

画像を縮小したら見えなくなるだろうな。

これまで何度かに分けて育苗した苗箱を運んでいた。

育っていくにつれ根も力強くなる。

もっと根を強くするにはこういう具合に踏むと云って実演してくださる。

あっと、思ったが、足で踏んでいた。



この通り、すぐに戻ってくるからと云って、手で抑えてくれる。

農業体験のない私にとっては育った稲を踏むなんてことは信じられない。

だが、このように意外と強いということを教えてくださって見方を変えないといけないと思った。

ただ、Sさんが云うには、実際は足で踏むわけではなく、コンパネ板の上を踏んでいるらしい。

ところで、育苗するこのハウスの構造が気になった。

私の概念ではハウスに太い木材があることは初めて知る。

一般的にはない構造だと思って尋ねてみた。

一年中、ほうれん草栽培をしているSさんが云うには、それは突っ張り棒だという。

寒い時季、雹や霰が降ったときである。

勢いが強い場合には倒れてしまうのがハウスの難点。

パイプで組み立てたハウスは弱いということだ。

それを防ぐには突っ張り棒が要る。

S家の山から伐り出したヒノキ材。

皮を剥いたヒノキを天井に何本かを斜交いにして括り付ける。

左右それぞれ交互に突っ張り棒をすることによってハウスは倒れ難くなる。

この構造は先代の教え。

今でもこうしてハウスを支えている。

この突っ張り棒はいつでも簡単に外すことができる。

ハウス壁側をよくみていただきたい。

支えている部分はハウスに括っているアンテナロープ。

輪っかにしているだけので、簡単に外れる。

元の位置に戻す場合は、その輪っかに通す。

つまり移動・着脱方式なのであった。

田主のSさんと知り合ったのは2年前。

場所は隣村の大宇陀の平尾。

平成27年6月24日に行われた平尾の田植え休みの植付け奉告祭の日だった。

早めに着いた平尾の水分神社。

行事の数時間前のことである。

境内におられた男性は宇陀市榛原の笠間の住民。

水分神社の社殿に巣を作っていたミツバチ退治の作業をし終えたときだった。

平尾氏子依頼の作業をしていた男性とよもやま話をしていた。

笠間の神社行事に御田植祭がある。

その行事に杉の実を束ねて奉ると話してくれた。

その奉り方を拝見したのは平成29年の3月5日

それこそほぼ2カ月前に遡る。

その行事に宮総代のKさんも同じく奉っていた。

二人とも同じ垣内の東垣内。

ともに御田植祭に奉った杉の実苗を持ち帰り、ハウス栽培の場に豊作を願って水苗代に立てる。

Kさんの水苗代の祭り方は数週間前の4月14日にされた。

Sさんはさらに日を伸ばしてこの日に立てると伝えてくれた。

着いた時間はお昼前。

水口まつりの在り方をお聞きして、ようやく拝見する稲苗に見立てた模擬苗の杉の実立てである。

さて、肝心かなめの模擬苗の杉の実立てである。

既に立ててあった傍に寄ってくれた。



今朝早く、こうして立てていた、と再現してくれる形。

ありがたく撮らせてもらう。

神社の行事に奉ったときの姿は逆立ち姿の自生垂れ。

水苗代に立てる場合はこれを逆さにする。



大きな実が見えるだろうか。

その実をポンポンすれば埃のようなものが飛び散る。

御田植祭のときにポンポンされたら、のけ反ったくらいの飛散量だったことを思い出す。

実というのは雄花である。

長く垂れさがる雄花を求めて探し回るが、高いところにしか生えていない。

もっと手が届くところといって探して来た、杉の雄花ばかり。

くるりと逆さにして束にしたらまん丸くなる。

豊作の印しはこうでなくてはといって、それを苗代に立てる。

苗代の場はほうれん草栽培もしているハウス内だ。

この時期だけは稲苗の箱ばかりにする1棟。

その一角に供えた豊作願いの形。

下に藁束を二つ。

倒れないように細竹を立てて支える。

家に咲いていたイロバナも添えた。



2本の細竹が見えるだろう。

杉の実はそのままでは立てることはできない。

細竹に束ごと括りつけて、その青竹を土に差し込んで固定するのである。

立てる土台は藁束。

昨年の収穫稲の藁を残しておいて土台にする。

前述した宮総代のK家も同じようにしていた。

Sさんの作付けはヒトメボレ。

すべての苗箱が揃ったら325枚にもなるそうだ。

そのヒトメボレの苗土は石川県産の土。

試しに購入したという。

以前はコシヒカリも作付けしていたが、倒れやすい品種なのでやめたそうだ。

Sさんは、そのコシヒカリを「コケヒカリ」と呼んでいたのに笑わせてくれた。

稲作もしているが、本業はほうれん草栽培。

以前も聞いたことがある販売先。

大手スーパーのイオングループが買い付け人だと話していたことを思い出す。

そのほうれん草を持って帰ってやと云われて、他のハウスに移動する。

一面に育ったホウレンソウ畑である。



前述したようにほうれん草ハウスも同じように木材で補強している。

畑に中に入って選別するほうれん草。



両手で抱えるくらいの量をくださった。

この日もいただいたほうれん草が瑞々しい。

癖のないほうれん草は甘くて美味しい。

過去にももらったことがあるからとても嬉しい大量のほうれん草にいつも感謝している。

ちなみにほうれん草の肥料は牛の糞だそうだ。

ハウス全体で3反の作付面積。

9棟のハウスを順に廻して、種蒔から収穫まで40カ月間のローテーションする。

また、米の作付面積は1町8反。

圧倒的に広さが違うが、逆に収穫比率からみた面積は非効率のような気がする。

(H29. 4.29 EOS40D撮影)
コメント

旅の途中に出会う榛原山辺三のコイノボリ

2018年04月19日 09時00分26秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
宇陀市榛原の中心街から街道を行く。

右手は近鉄電車が走る国道165号線。

線路に沿った街道ではなく、元々は街道があった道に沿って電車道が敷設された。

目的地は西名阪国道であるが、迂回してこの道を選んだ。

緩やかなカーブを曲がる。

ふと右手にカラフルなものが目に入った。

近づけばわかった。

そいつぁコイノボリだった。



室生ダム湖の公苑内にあったコイノボリが群れで泳ぐ。

この日の風は気持ちがいい。



爽やかな風が頬を撫でる。

竿は真竹。

吹く風の強弱によってしなり具合に変化があって楽しい。



時間を忘れてしまうほど飽きない榛原山辺三ふれあい広場の初夏の景観。

この場でお昼の弁当を食べていた家族連れがいた。

私どもは弁当持ちではない。

残念ながら先を行かなければならないが、この景観にずっと浸っていたい。

おふくろはその地に生えていた小さな花を摘んでいた。

かーさんは携帯電話を取り出して撮影を始めた。

こうすればいい角度になるからコイノボリの姿が映えるとそっと伝える。

風の吹き具合によってはコイノボリの尻尾が垂れたりする。

ピンと尾を伸ばすコイノボリにしてあげたい。

風はふとやんでしまうこともある。

風待ちに時間は刻々と過ぎていく。

そのころともなれば近鉄電車が通り抜ける。



鮮麗な姿のアーバンライナープラスは難波行き。



オレンジカラーの旧特急電車は鳥羽行き。



背景の山は榛原山辺三に佇む額井岳。

その流麗な姿から大和富士の名がある。

青空もコイノボリも美味しくて・・・また来たくなる景勝地。

もう少し早ければ枝垂れ桜も拝見できるようだ。



ちなみに公開した写真の中で唯一一枚がガラケー携帯電話で撮ったコイノボリがある。

一眼レフカメラで撮った映像とどれほどの差異があるのか、わかるだろうか。

(H29. 4.28 EOS40D撮影)
(H29. 4.28 SB932SH撮影)
コメント

再訪、榛原笠間K家のハウス苗代の水口マツリ

2018年03月26日 12時25分47秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
二日前にも訪れた宇陀市榛原の笠間地区。

ハウスにおました水口マツリを案内してくださった。

その様相を同行している写真家Kさんに見ていただこうと思って、今度は私が案内する。

尤も勝手にハウス内に入ることはできないので、携帯電話を架けて承諾を得る。

時間帯は午後5時50分。

二日前となんら変わらないかつての水苗代を思い起こす在り方である。



先日話してくれたかつての在り方はキリコを供えていたということであった。

今ではキリコ転じた袋入りのアラレである。

(H29. 4.16 EOS40D撮影)
コメント

榛原笠間のつくしの山

2018年03月25日 09時25分34秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
時間帯は午後5時45分。

ハウスのすぐ横にあるちょっとした小山である。

そこの光景に夢中になっていた。

キノコの山を食べたことはあるが、つくしの山は見たことない。

それもすぐに登れる低山にひしめくように林立していた。

どこにピント合わしたらえーねんと思うほどに多いつくしの山

どれもこれもピントを合わせたいが、そういうわけにはいかない。

射し込む光を待っていてもこの地では山影の向こう。



斜光は望めないと決断して適当に選択したつくしに合わせてシャッターを押す。

1ポイント、2ポイント、方向を定めて数枚を撮った。

(H29. 4.16 EOS40D撮影)
コメント

榛原萩原・小鹿野の水口マツリ

2018年03月24日 09時33分28秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
二日前の14日にも訪れた玉立(とうだち)地区は宇陀市の榛原萩原にある。

その玉立の南側になる地区が小鹿野(おがの)である。

玉立にあるなら小鹿野も水口まつりをしている可能性があると思って14日の夕刻に訪れた。

未だであったが、2年前に拝見した場はすでに苗床まで整地していた。

そういう状態であれば間に合うかもしれない。

苗床はできたとしても苗箱を運ぶには人足がいる。

家族の手伝いがあってこそ捗る作業。

そうであれば土曜か日曜になるであろうと判断して立ち寄った。

着いた時間帯は午後5時過ぎ。



そこにあったお札は2枚。

お札の文字は別の場であるが、昨年に拝見させてもらった。

一枚は「牛王 不動明王 宝印」。

もう一枚は「牛王 地蔵菩薩 宝印」。

版木摺りではなく自筆の札。

正月初めに地蔵堂で行われる初祈祷の際に墨書すると聞いている。

この日に苗代作りを終えて立てたお札はイロバナも添えていた。



向こう側に見える祠は庚申堂。

旧暦閏年の庚申行事をしているとわかって訪れたのは、この年の7月2日だった。

小鹿野地区では数か所に亘って水口まつりをしている。

区長の話しによれば小鹿野地区は28戸。

すべての家にごーさん札が行き渡るように戸数分の枚数を作るが、農家でない家もある。

また、農家であっても苗代を作ることもない。

苗代をしなければ水口まつりをすることもない。

夕刻が迫ってくる時間帯。

次の取材地を訪ねたくこの場を離れようとしたら人影が動いた。

手には花の色が見えたから、今から始めようとする水口まつりを追っかける。



走ってなんとか間に合った婦人に声をかけて撮らせてもらう。

場所は水口ではないが、二つに折った藁束を苗代田に置く。



枯れた竹に挿したお札を立ててイロバナも・・。

その後も何がしかの動きがあるが、遠目ではわかり難い。

近づかせてもらって教えてくれたそれは洗米。



小さく刻んだオモチとともにお皿代わりの表面の椿の葉にのせて供えていた。

お顔をみれば思い出した。

2年前に訪れた
ときに水口まつりのことを教えてくださったOさんだった。

先を割った竹は古い竹。

新しい竹に挿すのではなく古いものを使うのが決まりのようだ。

(H29. 4.16 EOS40D撮影)
コメント