マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

アピタ大和郡山店の七夕短冊の願いごと

2018年07月31日 10時09分00秒 | 民俗あれこれ(売り場の民俗歳時記編)
7月2日に立ち寄った大手スーパーオークワ系のプライスカット店。

店舗は地元馴染みの奈良県の大和小泉店。

売り場は魚介類。

明石蛸ではなく海外産の蛸は蒸し蛸。

普段でも売っている蛸であるが、そこにあったPOP表示は「半夏生(はんげしょう)」にどうぞ、というわけだ。

生まれ育った大阪市内に住んでいたころから夏にはお馴染みの蛸。

我が家ではキュウリ揉みの蛸酢だった。

ワカメを入れる蛸酢は今でも食べているが、半夏生を意識したことは特にない。

ここまで読まれた方はタイトルと違うやないかと云われそうだが、それはシリーズに入る糸口。

撮らせてもらった写真は地元大手スーパーのアピタ大和郡山店の入口にあった七夕の笹飾り。

そこにあったテーブルに短冊が置いてある。

来店客が目につくような場所に設置してあるものだから、次々と願いごとを書いている。

書き終わったら笹に括り付ける。

圧倒的に多いのは子どもさんがおられる家族連れ。

稀にお母さん一人で書いておられる場合もある。

実はこの日は2度目の七夕目撃。

午前中に見たスーパーは田原本町にあるスーパーセンターオークワ。

そこも七夕の短冊願いを書く場所があった。

幼稚園や保育園では前日くらいにすると思うが・・。

つい最近、FBカバーに夏越しの水無月餅をアップしたが、これもまた和菓子屋さんで売っている季節商品。

昨年は箸中の和菓子屋さんで売っていた季節商品の土用餅にどさくさ餅も買って食べたことがある。

歳時記の一つにある食べもの民俗がある。

昨今は年末に売る注連縄もあればお盆のお供えもある。

店屋売り場に見る日本の民俗歳時記は間口が広がっているような気がしてならない。

目についたときには記録して撮っておきたい店屋の売り場の民俗はいっぱいありそうだが、洋もののクリスマスやハロウインは取り上げない。

日常的に売られているものも除く。

一年では終わりそうにないスーパーなど店屋さんにある民俗文化の歳時記を見つめていきたい・・・不定期シリーズの始まり・・・。

(H29. 6.25 SB932SH撮影)

矢部・杵都岐神社のさなぶり

2018年07月30日 09時40分36秒 | 田原本町へ
この日はずっと雨だった。

雨の日のさなぶり行事が行われる田原本町矢部の杵都岐神社。

実は12年ぶりの再訪問である。

平成17年は6月26日の日曜日だった。

村の各戸の田植えが終わるころを見計らってさなぶり行事の日程を決める。

前年の平成28年は当初予想よりも早く終わったこともあって第3週目の日曜日。

6月19日に実施された。

そのことを知ったのは一週間後の6月26日

6月の最終日曜日と判断して出かけたが終わっていた。

今年こそはと思って前週の18日に訪れて前自治会長のFさんに確認していたから間違いない。

そういう経緯があって拝見する杵都岐(きづき)神社のさなぶり。

なにが見たいかといえば、苗さんの御供である。

苗さんは一把の苗。

田植えを終えて残りの一把を神さんに供えて、村の田植えが無事にすべてを終えましたと伝えるさなぶり行事である。

伝えるのは祝詞を奏上する神官である。

矢部に出仕する神官は多神社の神職である多宮司であるが、昨今は息子さんの禰宜と数多くある当該地域を振り分けて出仕されている。

その数は兼社。

26社にもなるから手分けせざるを得ないということである。

神事が行われる時間よりずいぶん早めに到着して新任交替された自治会長らにご挨拶をしておきたい。

そう思って早めに着いた杵都岐神社に存じている男性がおられた。

雨天にかかる雨に濡れながらも、予め準備をしていた神饌御供。

すべてではなくある程度の御供を並べていた。男性は矢部のの行事取材でお世話になったNさんだった。

ハツホ講のハツホ参りは平成28年の7月7日

その日の夕刻は祇園祭の燈明灯し

ヨミヤ参りは平成28年10月17日

和服姿の奥さんとともに参拝された。

Nさんと初めてお会いしたのは先に挙げたさなぶり行事を終えた一週間後

残念な日であったが、その日に目にしたカンピョウ干しに話しを伺ったNさんである。

それから1カ月後も拝見したN家のカンピョウ干し撮りの際に他家のカンピョウ干しも教えてもらった。

それから1年後にお会いしたさなぶりの日は新任の自治会長になっていた。

矢部の自治会役員は抽選で決まった5人。

杵都岐神社の年中行事を支える地域の役員さんの任期は2年である。

今年は雨が少なくて水不足に陥っていた。

池の水を足してもらってなんとかしたが、苗が育つかどうか心配していた日々であるが、この日は前夜から大雨状態。

今も降っているのが珍しいくらいだと云いながら並べていた。

一旦は、家に引き上げて再び神社にやってきたNさん。

今度は神饌に捧げる生鯛を持って来られた。

先に供えていると猫が食べてしまうから、神事が始まる直前ぐらいにと思って持って来た。

カボチャ、ダイコン、ニンジン、ホウレンソウ、ナスビにトウモロコシ野菜にコーヤドーフに板カマボコ。

スルメ、昆布にシイタケ。

リンゴ、バナナの果物など。

お神酒横に大きな鏡餅を盛った。

さなぶりに相応しい一把の苗さん。



ピンと育った稲苗の葉が美しい。

そのころに到着した多神社の神職。



鯛は神職の到着をもって供える。

矢部は神職が来られるのを確認してから村全戸に伝えるマイク放送をする。



その合図を聞いた村の人たちがぞろぞろとやって来た。



傘を要するこの日の参拝に、祝儀を役員さんに手渡して拝殿前に立つ。

幣で祓ってくださる祓い清め。



これをシャンコと呼んでいたのはNさんだった。

シャンコの祓いは順番待ち。

行列にはならなかったが、途切れることはない。



拝殿前、少し距離をとって順を待つ。

お一人参拝もあるが、家族単位の参拝も。

祓いを受けた人たちは右へ廻って木戸から入って、本殿向かい正面に立って参拝する。



祓いを受けてから氏神さんに頭を下げる。

矢部のいつもの参拝の仕方である。

待っている人たちも合わせて撮っていた際に声をかけられる。

平成29年2月3日のトシコシ行事の際に撮らせてもらったW婦人である。

先週に立ち寄った際に撮らせてもらった写真を前自治会長にお願いしていた。

お手数をかけますが、写っている人たちにどうぞ、と伝えていた。

その写真が手元に届いたというお礼である。

真っ暗な状況で撮っていただけにお顔ははっきりと認識していなかったが、撮られた方が覚えておられた。

ありがたくも嬉しいお声であった。



それはともかくお祓いをしてもらった参拝者は自治会役員からハクセンコウを受けとる。

この日の祭礼に多神社の神職がもってこられたハクセンコウである。

12年前にも見た同じ光景である。



夏祭りや秋の祭りは参拝者でいっぱいになるが、さなぶり行事の参拝者は農業を営む農家さんである。

この日は雨が降っているので少ないだろうと想定していたが、村全戸が90戸のうち1/3になる31人も参拝された。

もう来ないだろうと、参拝者が途切れたころを見計らって神事が行われる。



今度は役員の皆さん方のための祓えの儀である。

祝詞を奏上されて玉串奉奠。



そうしている間にも参拝者がやってくる。

時間ともなれば多神社の神職も腰をあげなければならない。

次に向かう兼務社のさぶらき行事の時間帯は午後5時。



出仕する兼務社すべてに苗さんを供えているという。

それぞれの神社にはそれぞれの神社役員がおられる。

矢部もそうだが、任期をもって交替する。

役員の引継ぎが上手くできずに継承できなくなればさぶらき行事は御供なしになる。

そういうことにならないように、苗代は必ず準備していただきたいと常々話しているというが、現状は24大字のうち、20大字が苗さんを供えているらしい。

また、神職や自治会役員が伺える範囲によれば、このような矢部の村さなぶり行事はあるとして、ここら付近は各家がする家さなぶりはたぶんになかっただろうという。

確かにここら辺りでは苗代田の水口まつりはまったく見られない。

そのことについては多神社神職も驚くべく現状であった。

(H29. 6.25 EOS40D撮影)

我が家の紫陽花も咲く季節

2018年07月29日 10時17分04秒 | 我が家の花
我が家を建築してから38年目。

南側の庭は私がデザインしてレンガ等で敷設した。

レンガを敷く処は埋まらないようにジャリ石を敷き詰めた。

そのおかげもあってか何十年経っても沈まない。

一部は畑もしていた。

猫の額ならぬ鼠の額ほどの場所を深く耕した。

深い処は粘土土。

ここは竹林だったところの造成地。

粘土土であれば山崩れも陥没もない。

そう判断して当地に新築した。

そういうわけで庭の土を掘り返せば粘土が出土する。

粘土は耕作畑地に相応しくない。

あらかた全部を排土して畑地を造る。

野菜の土に砂を混ぜで盛り上げる。

畝も作ってナスビ、トマト、キュウリにダイコンも植えた。

調子こいてスイカも作った。

これがとても美味かった。

またまた調子こいて富雄川西にある市民園まで借りるようになった。

当時は三交代勤務。

僅かな時間を利用して畑作をしていた。

年齢もある程度になれば仕事も忙しくなる。

三交代勤務も外れて営業もしたことがある。

そうなれば家に居る時間は土曜か日曜の数時間。

朝の出勤は夜明けとともに家を出る。

帰宅する時間はたいがいが午後11時前後。

畑なんてできようがない。

いつしか、その庭は紫陽花を植えることになった。

それから毎年はぐんぐん育っていく。

梅雨どきともなれば赤い色の紫陽花で庭を飾ってくれる。

玄関横にも植えた紫陽花は青色花だったが、何年か前に枯れかけ。

根こそぎ抜いた。

残っているのは赤花系。

尤も赤花といえども実際はピンク色であるが・・。

咲き始める時期はだいたいが6月初め。



空梅雨の空に映える場合もあるが、やはり紫陽花は雨が似合う。

この年は魔除けの紫陽花を祭る民家の習俗を撮らせてもらった。

我が家ではそのような風習は伝わっていないから、伐り花にして我が家の廊下や玄関口に花を飾る。

この日は雨。降り注ぐ雨に色も濃くなる紫陽花。

葉っぱに溜まった滴もいれて撮っていた。

蕾状態の紫陽花もあるから、7月に入っても楽しませてくれるだろう。

(H29. 6.25 EOS40D撮影)

我が家のサフランモドキ

2018年07月28日 09時20分43秒 | 我が家の花
今年は6月25日に咲いてくれた我が家のサフランモドキ。

以前に咲いた時期は5月5月21日

平成27年はそうだった。

その年は8月29日にも咲いた。

同じ場所に、である。

調べてみればサフランモドキは二度咲きする場合もあるらしい。

今年は、そのどちらでもなく6月に咲いた。

さて、次の展開はあるのか、ないのか。

(H29. 6.25 EOS40D撮影)

服用は併用したくない

2018年07月27日 09時26分23秒 | むびょうそくさい
前夜のことだ。

眠りにつくときはなんともなかった。

その後もなんともない。

ふと、目を覚ました。

喉の奥がカラカラに乾いて咳き込む。

喉に違和感がある。

いや、違和感どころではなく、喉も痛くなってきた。

痛くはなるが眠たい。

ふぅっと眠る。

またもや眠りから覚める。

就寝中であっても唾液は飲みこむ。

それがとても痛いのである。

傷みは烈風のように感じる。

カラカラ喉が潤いを求めている。

冷蔵庫にあるカルピスソーダを飲む。

イ、タ、タ、タ、タ・・・。

たまらない痛さである。

これはおかしい。

喉が痛くなるのは幼少のころから。

持病とでもいいたいぐらいの扁桃腺肥大症もち。

たぶん間違いなく喉の奥が腫れているのだろう。

なんとかその晩は眠りについた。

ときおり目が覚めれば汗ぐっしょり。

パジャマに浸み込みそうな濡れ具合。

扁桃腺の炎症の微熱であろう。

朝、いつも通りの時間帯に起きた。

傷みは治まるどころか唾液は飲みこめる状態でない。

いつも通りに計測する体重は69.0kg。

何か月も前から多少の前後はあるが、68kg~69kg台をキープしている。

血圧は150-71。

心拍数は43拍。

ほぼいつも通りだが違うのは喉の痛み。

朝ごはんを食べていても気になるが、焼けるという感覚はなくなってきた。

唾液も飲みこめる。

微熱はあるようだと思って計測してみるが結果は35.8度。

現状ではたいしたことはない。

これなら大丈夫、と思うが、今日も、明日も明後日も出かける用事がある。

特に重要なのは26日のまじない紫陽花の取材。

お約束をしている取材先にご迷惑をかけてはなるまい。

本日は土曜日。

午前中なら最寄りの診療所は診察日。

遅くなっては後々に響くと思って38年間もお世話になっている上田診療所に向かう。

症状を訴えて体温を測ったら36.5度。

起床時より、やや上がりぎみ。

測ってまもなく診察室に。

いつもと同じように穏やかな口調で問診される先生。

喉の具合を診てもらった結果は、一種、インフルエンザ等の風邪菌が影響する咽頭炎であった。

服用する薬は三日間分であるが、心臓病に毎日服用している薬に身体的影響があるのか、ないのか。

心臓病の主な薬はワーフアリン、利尿剤に胃薬、軟便錠。

たいした薬ではないが、私の症状にとっては大切な薬。

特に利尿剤の効果は大きく、これがなければとんでもないことになってしまう。

今年の正月三日間は服用を失念した結果は・・・。

思い出したくもないくらいのしんどさ、である。

で、今回の咽頭炎処方箋は細菌感染を治療するグレースピット錠に痛みや炎症を抑えたり熱を下げるロキソプロフェンナトリウム錠に胃薬のレバミピド錠。

グレースピット錠は朝、晩の服用。

ロキソプロフェンナトリウム錠、レバミピド錠は朝、昼、晩の服用。

重なっても特に問題なしということで、処方された。傷みもやや収まりつつあるが、帰宅早々に服用したグレースピット錠・ロキソプロフェンナトリウム錠・レバミピド錠。

効果は夕方に現われたが、これや、という自覚症状はない。

他にもSPトローチやうがい薬のポビドンヨードガーグル液もあるから、適度にということだ。

その日の夕刻は山城町鹿背山の虫送りを計画していたが断念した。

それからは一日、三回の処方箋の服用。

喉の痛みは和らいで翌日午後には収まった。

その日ぐらいからなんとなく変調を感じる。

喉ではなく尿である。

利尿剤を飲んでいるのにもよおさないのである。

もよおしたとしても排尿が少ない。

ちょびちょび排尿。

水道蛇口の栓が緩んでいるかのようなちょびちょび。

これがその日も次の日も・・。

お腹が張るし、食欲も落ちてきた。

そう、私の心臓は回転数が低い。

低いから利尿剤に頼らないと生きていけない身体である。

自宅におれば気がつかないが、オモテに出て歩けばすぐにわかる。

身体が重たいのである。

尿が排出されない場合はとてもしんどい。

そのうち体重に変化も。

28日、29日の朝は70kg台に上昇した。

一般の人からみれば1kg増えたぐらいならたいしたことありゃせんがなと云われそうだが、私にとってはしんどい状況。

毎日のリハビリ歩行の足取りも重さを感じる。

おふくろもロキソニンのお世話になったことがある。

団地下にあるごみ置き場でこけた。

そのときの診療に処方された薬がロキソニン。

飲んでからは毎日の食欲がなくなったと云っていた。

そう、同じような状況に陥ったのである。

尤も私の場合は利尿剤との関係もあるが・・食欲不振は同じだ。

痛みを抑えるロキソニンは食欲をなくす。

私の場合は利尿剤の効能まで抑制する。

28日まで服用した咽頭炎処方箋は残留効果があるだろうに。

一日程度と思っていたら、やはり、である。

30日になって体重は69.0kg。

排尿もちょびちょびから元の状態に戻りつつある。

前日辺りからは排便も戻ってきたが、咳は残る。

菌はまだ体内に居るのかな。

(H29. 6.24-30 記)

第12回ふるさと大岩の歴史を語る会

2018年07月26日 09時11分51秒 | 民俗を観る
何回も続けてこられた「ふるさと大岩の歴史を語る会」。

次の開催日は6月21日。

当日のテーマは各家が持ち寄る神農図である。

前月の5月31日に大日さんの雨乞い井戸の場を引導してくださった昭和18年生まれのMさんも所有する神農さんの掛図を持ち込むという。

また、さまざまな版木もあるらしく、各家が持ち寄る現物の品々。

もしよろしければと、区長のお誘いに甘えさせてもらう。

今回で12回目の開催になる「ふるさと大岩の歴史を語る会」。

前回の11回目は4月19日に行われたらしくそのときのテーマであった幕末の薬業『奈良県薬業史』の一部纏めに大字大岩に遺されていた明治初年の売薬業古文書などの配布資料をいただく。

纏め並びに古文書の解説は本日の講師を務める大淀町教育委員会・主任技師の松田度さん。

大淀町のみならず幅広く活動をされている専門家である。

詳しいことはここでは省くが大字大岩は昔も今も売薬業を営む社業が存在する。

その人たちがこの日に持ち寄った神農図は3幅。



松田さんや区長らとともに床の間に置いて見比べてみた。

三者三様というか、同じものは一枚もない。

これまで私が拝見してきた神農図ともまた違う。

絵師が違えば図柄も異なるということだろうが、いずれであっても共通するのは神農さんが葉っぱを銜えて噛んでいる姿である。

姿は同じであるが、噛んでいる葉っぱの様相に若干の違いがある。

二幅の掛図は細い葉であるが、笹の葉のような幅が広い葉もある。

品種の違いであろうか。

葉っぱを持つ手は左手、或いは右手。

これもまた絵師の絵心でまったく違う。

また、神農さんに角があることは知られているが、これもまた異なる。

角は二本もあれば一本姿も、ある。

空いた片手にもつ道具も違う。

一つは鍬のような道具。

もう一つは錆びた鎌にように見える道具である。

細かいことを云えばまだまだ有りそうだが、ここらで止めておく。

三幅それぞれの神農図は村に住まいする3人が持ってこられた。

一枚(左)は中上天心堂薬房主人が持参された一幅。

ご主人の話しによれば年中において飾っているそうだ。

子供のときから床の間に飾っていたという神農図である。

正月と思われる日に火を灯した蝋燭を立てていた。

ただ、ユニークなのはその蝋燭の燭台がなんと、輪切りした大根であった。

お酒に塩を供えていたというから、特別な日に供えるお神酒であったろう。

もう一枚(中央)は美吉野製薬家の一幅。

製作舎と思われる掛図に折り込んだ札がある。



ひょうたん印しに印判文字が「柗浦柗野堂謹製(※柗は松の異体字)」とある。

手がかりはそれだけ。

掛図の裏面、或いは納めている図箱など、どこにも年代を示す表記がない。

昔はお餅を供えて飾っていた。

神農図を掲げた前で飲酒の会を設けていたと話す。

現在は11月22日。

掲げた床の間に生の鯛を供えて蝋燭に火を灯すという。

もう一枚は売薬家のMさんがお持ちの一幅。

年末年始、正月は床の間に飾って鏡餅を供えているという。

その期間は12月31日の大晦日から小正月前日の1月14日まで。

正月迎えと同じようにされているようだ。

興味深いのは11月22日の祭り日である。

これまで私が調査した範囲であるが、数例を揚げる神農図を掲げて祭る神社行事がある。

奈良県では高取町・下土佐神農社で行われる神農祭は11月22日。

都合で多少前後しているが、本来は22日である。

御所市・神農社の薬祖神祭はかつて冬至の12月22日にしていた。

大阪・道修町の少彦名神社の神農祭は11月22日、23日。

また、神社でなく薬業に関係する医師の家もしていることがわかった。

一つは大和郡山市額田部町に住む元往診医師家は11月22日を中心にほぼ1カ月間も掲げていた。

ひと月遅れの12月22日に神農図を掲げていたのは大和郡山市の城下町。

雑穀町に住む元藩医家はその日に掲げてお供えをしていた。

22日というのはどういう意味があるのかわかっていないが、神農図を掲げて祭りをしているということである。

また、本日に聞かせてもらった人たちは22日以外の正月飾りに準じていた。

高取町・丹生谷に住む知人は、正月とお盆にであった。

本日の会場である公民館に運ばれた数々の品物。



いずれも薬業に関係するモノモノばかり。



神農図の他、ずらり並べた道具類を広げた。

その道具類は版木に携行用簡易天秤、薬箱、薬製造道具(薬研)、看板、台帳文書、売薬を詰めて販売していた柳行李である。

版木は9種類もある。

一枚、一枚を判読している時間はない。



自宅に戻ってから撮った版木を反転画像に置き換えて判読してみた。

左右反転、上下反転の版木の入り混じりだったから、反転したものの更なる手間のかかること。

ある程度までわかればいいと思って一部をピックアップしてみた。

「腹痛 下痢の薬 赤玉一神丸」に「大人小児四季風薬 解熱散」。

架線で走る1両編成のチンチン電車をデザインした登録商標の「四季感冒諸熱醒 熱病 ヘブリン丸」に上部に同じく登録商標のチンチン電車を配置した「正セメン圓」もある。

次も4枚の版木を拝見する。



利用の仕方がわからないが、薬の袋を模したようにも見えるそれに「生活効能 感冒 流行皮膚 頭痛・・諸々効アリ」。

裏面と思われるそこに「用法用量 大人ハ一日一包 拾五歳以下・・・白湯又ハ■水ニテ用ユ」とある。

「大人小児 はらのいたみ 下り・・良剤 健胃整腸丸」とか、ひと目でわかる大きな文字で彫った「大人小児四季風薬 保証 解熱散」がある。

もう一枚は「大人小児蛔虫下し 正セメン圓」だった。

登録商標は天狗自動車に乗ってハンドル操作をする姿の赤顔の天狗。

装束はどことなく修験道の行者さんのように見える。



「健心丸」は四季風薬のトンプクが額に収めて大切に保管。

その横に置いた版木に「四季風薬 健心丸」とあったからセットもんであろう。



おもむろに蓋を開けて道具を取り出したMさん。



この道具で薬の目方を量っていたという。



同じ道具は中上天心堂家にもある。

我が家にもあった配置薬の薬箱である。

取引先が違えば薬箱も違う。

記憶に残る我が家の薬箱の色は赤色だった。



会場に持ち込まれた薬箱は青色。

医薬品配置販売業・県営業許可番号を得て販売していたMさんの名前がある薬箱。

上面に登録商標の赤塗りチンチン電車がある。

パンタグラフ式電車はどことなく京都市街地を走っていたような雰囲気をもっている。



他にもいろいろあるが、本日の大岩の歴史を語る会の本題は前回に続く明治時代後期から大正時代の売薬の隆盛と大淀町の製薬会社。

『奈良県薬業史』ならびに『大淀町史』から「おおよどの偉人たち」を探る「おおよど100年史」の中の売薬業である。

ここでは誌面の都合で詳細を省いて、語りが終わってからも続いて大岩の薬業文化の道具を拝見する。

なかでも興味深く拝見させてもらったのが配置薬の行商道具である柳行李。



平成28年の11月16日に拝見した高取町丹生谷に住むN家の柳行李である。

N家もまた配置薬行商をしていたが、現在は廃業。

行李内部には何もなかった。

ここ大岩の会場で拝見した柳行李は配置薬がリアルに残っていた。

詰め方が参考になるが、じっくり拝見する時間がない。



そのままの状態で撮らしてもらっていたら所有者のMさんが担ぎ方の実演をしてくださった。

こういう具合に大きな行李を下に順に積んでいく行李。

皮製の柳行李を蓋してベルトで止める。



それを肩に、こうかけて歩いていたと見せてくれた。

こうして拝見させてもらった大岩の薬業関係所有物は、2017年度のおおよど遺産(大淀町選定地域遺産)に指定された。

(H29. 6.21 EOS40D撮影)

唐古・愛犬弔う堤防の花立て

2018年07月25日 09時15分08秒 | 民俗あれこれ(葬送編)
取材させていただいた各地域のお礼に撮らせてもらった写真を渡すべくあちらこちらを廻っていた。

田原本町の矢部で2件の行事。

天理市の庵治町も2件。

その一つに庵治町旧木之本のゴウシンサンがあった。

主催者の一人であるKさんから、初物の自家栽培フルーツホオズキをいただいたことは今でも記憶に新しい。

初物のフルーツホオズキの美味しさはこの上ない美味しさだった。

味わってからは、道の駅で売っているのをよく見かけるようになった。

そのお礼もあって再会したKさんが云ったこと。

えっ、である。なんと、平成28年に取材したゴウシンサンが最後になったという。

その年は南にある地蔵さんの行事も最後になったという。

そんなことになったけど、個人としては申しわけないと思ってKさんは御供をしたいと話していた。

Kさんならたぶんに存じているかも、と思って、この筋の南に行ったところ、地蔵さんの向こう側にある墓地向かいの水路の堤防で見た花立てについて聞いてみた。

場所が場所だけに不思議な景観を醸し出していた花立てである。

それをはじめて見たのは平成28年の7月16日

取材した旧木之本のゴウシンサンの帰り道にあった花立てである。

本日に拝見した花立てにあった花は昨年とは違う。

造花でなく生花であったが、これは一体何・・と聞けば弔いだという。

実はあそこに花を立てているのは愛犬が亡くなった弔いの生花だという。

生き生きとしている花はいつ立てたのかわからないが、夏を彩るユリの花にシキビのようだ。



その地は田原本町の唐古。

ほぼ庵治町との境界地になる。

たぶんに愛犬の命日に毎月の弔い花を立てていると思う。

昨年に拝見したときは亡くなったのは“人”と思っていたが、当たらずと雖(いえど)も遠からず、であった。

堤防にあった花は弔意の命日花。

我が家でもそうしているというKさん。

何年か前に亡くなった愛犬は自宅庭に穴を掘って埋めているという。

K家の愛犬は18歳で亡くなった。

庭に植生する柿の木の下にうずん(※埋めて)で弔っているという。

(H29. 6.18 EOS40D撮影)

久米寺・あじさい祈願の日

2018年07月24日 09時06分59秒 | 民俗あれこれ
6月14日の奈良テレビ放送。

夕方情報番組の「ゆうドキッ!」が伝えていた情報に、えっである。

橿原市にある久米寺で6月第三日曜日に行われる「あじさい祈願」に祈祷された紙で紫陽花を包んで逆さに吊るす場所はどこでしょうか、というクイズであった。

健康を願うそれはどこに吊るすんでしょうか、というクイズである。

答えは、1.台所、2.玄関、3.トイレ から選んでくださいという問題である。

答えはヒントがなくともすぐにわかった「あじさい祈願」の在り方である。

出題者の脇にいた女性タレントは、これわかりますって云っていた。

そのタレントさんは、たまたま訪れた友人女性の家にそれがあったんです、と云うのだ。

テレビが伝える情報に、取材をしたくなった久米寺には公式HPが見当たらないが、「あじさい祈願」を紹介しているサイトがあった。

橿原市観光協会サイトの「さらら」の情報である。

紹介文に「約40種、約3500株の花が咲き、6月の第3日曜日には毎年“あじさい祈願”が行われます。あじさいは、トイレに1輪を逆さにぶら下げると、1年間も病気を妨げるといわれています。あじさい祈願では、その1年間ぶら下げた紫陽花を護摩で焚き、そして新たに祈願したあじさいをもらう行事です(※一部補正した)」とある。

近畿日本鉄道の「観光・おでかけ」ネットに同文が掲示されている。

また、かしはら探訪ナビというネットも第三日曜と開示していた。

さらに、奈良観光.jpにも載っている。

その他にも多数のネットで開催日を紹介している久米寺のあじさい祈願。

あじさい祈願は久米寺の年中行事になっているように思えるのだが、祈願の申し込み方法はどこにも書かれていない。

直接、久米寺に伺ってお願いするのであろうか。

祈願の日はどのようにされているのか、見聞を兼ねて伺った。

到着した時間帯は午後3時過ぎ。

受付におられた婦人に聞けば午後1時からあじさい祈願の供養法要をしていたそうだ。

本堂内で祈願する法会は見ることもできないと云う。

色とりどりに咲く紫陽花回遊園内で入って見るには入園料が要る。



同寺は入山料をとられていないから、境内見学は無料であるが、本堂拝観は有料である。

私が久米寺に来た目的はあじさい祈願の在り方を拝見することである。

あじさい祈願を知ったのは、ご縁があった山添村に住むご家族である。

行事取材に訪れた民家のトイレにあった逆さ吊りの紫陽花である。

尤も、それより以前に知っていたあじさい祈願は個々のお家でされている習俗行事であった。

お寺さんでされている行事にどのような違いがあるのか。

それを知りたくてやってきた久米寺である。

しばらくは境内を散策していた。

本堂の反対側に庫裏がある。

紫陽花園に咲いていた紫陽花を採って来て、それを祈祷されたお札で包んでいた。

祈祷札、一枚ごとに紫陽花を包む。

包んだ紫陽花は逆さにして庫裏廊下の桟に吊っていた6人の僧侶にお声をかけさせてもらった。

同寺に来て取材を申し出るが、吊っているあじさい祈願の在り方も含めて一切の撮影は不可であった。

祈願した人の名前が書かれているのでご遠慮いただきたいということである。

あじさい祈願について伺った僧侶の話しによれば、吉野町とかの奥吉野の下北山村では、シモの世話にならないよう、或いは中風封じの願掛けに摘んだ紫陽花をトイレに吊るしてきたという。

昔からしていたという風習は村の個々のお家でされてきた。

お家でそうされているなら、本寺でご祈祷させていただければ、ということで始まった。

つまり、個々の家でしていた民間信仰を取り入れて、お寺さんがご祈祷してくださるという行事は、今から10年前に始めたそうだ。

毎年の6月第三日曜日の午後1時。

ご祈祷を受けたい祈願者(※主に檀家)は祈祷料を払って申し込んでいただく。

本堂内でご祈祷される僧侶。

その祈祷されたお札を受ける。

寺に咲いている紫陽花を摘んで、茎にあたる部分にお札を巻き付けて括る。

アジサイの花を広げた状態で、つまり花束のような包む形にする。

できあがったお札で包んだ紫陽花は庫裏廊下の桟に吊るす。

申し込んでいたが、本日のあじさい祈願に参列できなかった人のために作っている。

後日に来られた祈願者はこれを持ち帰って、ご自宅のトイレに吊るす。

それから1年後。一年間をトイレに吊るしていた古いあじさい祈願のお札は久米寺にお返しされる。

女性だけの特有の病いに限らず、男女共、シモの世話にならないようにということだと説明してくださった。

この日の行事は終わっていたが、来年はどうぞお越しくださいと伝えられて寺を離れたが・・・。

あじさい祈願の在り方がほぼわかってきた。

帰宅してから「あじさい祈願」をキーワードにネットを検索してみれば、多くの人たちが事例を紹介していた。

紫陽花を吊るす日は6月中の「6」のつく日にすると書いていたブログがある。

魔除けのあじさい祈願の具体的な方法を伝える“魔除け天神“の若狭野天満神社や神社関係者と思われるブログもある。

「万葉ものがたり」というネットに書いてあったあじさい供養がある。

ラジオ大阪の番組で「木村三恵の万葉ものがたり」を取材していた番組アルバムであった。

番組に出演する人が副住職に伺っていた日は平成15年6月14日。

あじさい供養の祈祷料は3000円と書いてあった。

番組出演者のインタビューに答える副住職が話すあじさい供養は「血圧の関係によってトイレで倒れるとか、また、婦人病で、トイレに支障がある場合が多い。昔から紫陽花をトイレに吊すと、それが防げるということでされております。紫陽花の花は一輪。一枝を逆さにぶら下げることで、1年間、病気が防げる。それも、6のつく日にされたら御利益があるということで、それをあじさい供養の日にさせていただくわけでございます。あじさい供養のときに、1年間ぶらさげた紫陽花をもって来ていただいて、護摩でたいて、また新たに祈願をさせていただいて、お札をまいて、また6のつく日にぶら下げていただくという形で、お寺で1人ずつご祈願をさせていただくわけです」とあった。

また、ある人は玄関に吊るしておくと金が入るというが・・。

(H29. 6.18 EOS40D撮影)

地黄町野神神社・野神祭りの痕跡

2018年07月23日 08時31分13秒 | 橿原市へ
来月の7月21日に講演するストーリーを練っていた。

主宰の奈良民俗文化研究所代表からお願いされて決めた講演テーマは「橿原(市)の年中行事」。

伝承されてきた民俗行事を紹介するストーリーにどうしても現状を見ておかねばならない場がある。

場所は橿原市地黄町である。

行事は大和における野神祭り行事の一つである地黄町のススツケ祭であるが、平成22年を最後に中断したまま現在に至る。

中断したワケは旧村の子供が激滅したことによって、中断せざるを得ない状況にあった。

新参の子どもを入れることも考えられたかどうか存知しないが、保存会会長の決断で中止を決められた。

ただ、中止をしたのは人磨神社境内でしていた煤(現行は墨汁だった)ツケの行為だけである。



映像は平成21年5月4日に撮ったもの。

この年が最後になったときの行事スケジュールである。

これもまた貴重な記録になってしまった。

本来の野神祭りは地黄町集落外にある野神神社に参ることである。

そのお参りは明け方前の午前3時半ころと聞いている。

旧村の子どもが牛耕している農耕の様相を絵馬に描いて神社に奉納する。

その際持ち込むのが藁で作った蛇であり、魚の鰤である。

鰤は丸太の一本ではなく、頭と尾だけを奉る。

蛇は御幣を挿した形状で野神神社に供える。

ススツケ行事は中断したが、野神行事は継続しているのかどうかは奉納された痕跡の有無でわかる。

有れば継続しているし、なければこれもまた中断である。

シナリオストーリーを執筆していてどうしても確かめたくて立ち寄った。

野神神社の前は東西に繋ぐコンクリート道。

散歩する人や自転車で闊歩する人も多いが、神社の様相を拝見することもないだろう。

何故なら神社は旧村にとっては大切な神社であるが、近年は地黄町旧村集落を囲むように新築移転者が圧倒的に増えている。

居住地の建物を見ればすぐにわかる民家の様相である。

旧村の人であれば野神神社に参る。

新規に移転した人たちには関係のない場。

参ることはない。

神社前に車を停めて鬱蒼とした神社地に入る。

辺りはやや暗いが、なにやら形的なものが見える。



野神祭りをしていた痕跡があった。

行事日は5月4日。



1カ月以上も経過していたが、崩れもせず綺麗な形で遺っていた。

思わず手を合わせた野神さんである。

大蛇を彷彿させようと思える藁はとぐろを巻いている。

青竹に取り付けた御幣もある。

何枚も重ねた御幣は紅白の水引で括っていた。

青竹の御幣は2本だ。

その前に青竹のオーコがある。



両端にあるのが板書に描いた農耕絵馬であるであるが、気にかかるのは牛耕姿の描写である。

平成16年の5月5日。

つまり奉納したその日である。

13年前に奉納した描写とまったく同じであった。

(H21. 5. 4 SB912SH撮影)
(H29. 6.18 EOS40D撮影)

フルLL再プリント

2018年07月22日 08時14分19秒 | しゃしん
依頼していたプリントができたと電話が鳴る。

プリントは天理市勾田町で撮らせてもらった水口祭の情景である。

デジタル写真機で撮ったものではなく、フィルムカメラのキャノンEOS-3で撮ったもの。

フィルムはコダックのE100エクタムローム。

冷蔵庫で保存していたフィルムであるが、発色劣化も見られないので使用している。

プリントの大きさはいつも指定する通りのF-LL。

できあがりはいつも余黒であがってくる。

ところがこの日のあがりは余黒でないし、余白でもない全面プリントで返ってきた。

これって色も思った通りじゃないよ、と店員さんに告げる。

できあがりはどちらかといえばデジタル写真機で撮った仕上がり。

薄っぺらい仕上がりにどうなってんの。

私はいつも特記事項を書き添える。

「原版に忠実にプリントしてください」と但し書きを入れる。

これを毎回書き込むようになったのはプリント仕様がデジタルになってからだ。

フィルム原版通りに仕上がらないから何度も何度もやり直しを再指示した。

何回も再依頼した結果である。

当時おられた副店長と相談した結果は依頼時に「原版に忠実にプリントしてください」を書き添えることで同意した。

それからというもの、毎回においてずっと書き込むようにしていたが、すべてが余黒。

フイルムプリントはすべてが余黒。

いちいち「余黒」を書かなくとも余黒で仕上がってくる。

店員のKさんはすぐさま動いてプリントした会社に電話とFAXを入れた。

その結果、プリント会社のミスを判明した。

デジタル時代に染まってしまったプリント技術者のミスは、戦争を知らない子供たち、ではないが、「フィルム時代を知らない技術者」と云いたくもなる。



再プリントされてできあがった写真の具合を一目瞭然。

発色は綺麗な仕上がりにほっとする。

(H29. 6.14 SB932SH撮影)
(H29. 6.16 SB932SH撮影)