マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

野依を経て栗野のコイノボリ

2018年05月30日 08時48分24秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
この日の目的地は吉野町の小名(こな)である。

何年か前に、小名に卯ツキヨウカのテントバナがあったと聞いたことがある。

話してくれたのはHさん。

ただ、Hさんが話してくれた実情は、当地で聞取りをした平成25年。

話してくれた村の人が云ったのは、数年前のこと。

たったの1軒がしていたというテントバナであった。

そのことを存じている人が見つかれば、と思って出かけた。

道中に立ち寄った宇陀市大宇陀の野依。

そうだ、この日は花まつり甘茶かけがあった、と急に思い出しての立ち寄りである。

この年も対応していた両頭家。

小頭家のN夫妻に黙々と今年も清掃されていた大頭家のNさん。

実は、と云い出した今年の灌仏会。

花まつりに甘茶かけをしていたが、今年が最後になったという。

なんという奇遇であるが、写真を撮る気持ちも起らずお参りをさせてもらった。

Nさんお話しによれば、前のお釈迦さんが行方不明になったその年の一時だけの対応である。

急遽、紙製のお釈迦さんを作って、参拝者を迎えたこともあったそうだ。

その翌年に作ってもらったお釈迦さん。

もう15年前のことであるが、お釈迦さんがお釈迦さんのお蔵入りになるのはとても残念に思う。

場を離れるのも辛いが、これが見納めの野依の花まつり。

この日は参拝者も皆無状態。

これもまた残念なことである。

昨年のお礼を伝えて車を走らせる伊勢本街道こと国道370号線。

気持ちの良い風が流れていた。

その風に泳いでいるのはコイノボリ。

思わず車を停めて田植え前の荒起こしをしている耕運機の姿も入れて撮っていた。

振り返ってみたお家に数人が集まっていた。

何事かお話しの最中だったが、気になっている栗野の垢離取り行事についてご存じであれば教えてもらおうと思っての声かけである。

タバコ自動販売機設置家婦人曰く、垢離取りのことは知っているが、行ったことがないという。

残念ながらのことであるが、婦人の出里がなんと野依であった。

住んでいたころの野依である。

村を流れる宇陀川にある小石があった。

その小石を33個。

白山神社前に運んでいた垢離取りを思い出された。

(H29. 5. 8 EOS40D撮影)
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本郷・椿寿荘の本郷池内に飼うヤギ

2018年04月17日 07時11分07秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
椿寿荘の朝食を済ませてひと段落。



落ち着きのある朝にゆとりを感じる。

これほどゆったりできた時間、私にとってはご馳走の寛ぎタイム。

部屋でのんびりさせてもらってチェックアウト。

大宇陀本郷の空気がとても澄んでいる。

ここは高台。



まだ若い枝垂れ桜が植栽されている場に鳥居がある。

その後も愉しませてくれたのが、椿寿荘の本郷池内に飼っていたヤギである。



ヤギは白黒の2頭。



白色のヤギは角が生えている。



金網から見つめていたら寄ってきた。

その場は餌場。

細かく砕いた野菜が餌。



黙々と食べていた2頭のヤギ。

孫でもおれば喜ぶのであろうが、我が家の息子たちはまだ独身である。

ちなみに帰り際になってもう2頭のヤギがやってきた。

どうやら、それぞれの種類ごとのペアレントだった。

(H29. 4.28 SB932SH撮影)
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20年ぶりに宿泊する宇陀本郷の椿寿荘

2018年04月16日 09時05分56秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
過去4回ぐらいは泊まったことがある宇陀市大宇陀の本郷にある椿寿荘。

当時は県の老人保養センターだった。

たしか75歳以上は2割引だったような気がするが・・。

家族揃って泊まったこともあるし、弟家族とかおば家族とも連れだって行ったことがある。

ゆったり寛げる施設はお気に入りだった。

なぜにこの施設を知ったのか覚えてないが、ロビーに一冊の小冊子があったことを覚えている。

その小冊子は全国にある漏示保養センターを紹介した本。

月ごとに棒グラフがあった。

その棒グラフは施設ごとの頁すべてにあった。

棒グラフは12カ月。

グラフの値は利用者数。

つまり、何時の季節が多いか、少ないか一目でわかるグラフだった。

この小冊子は素晴らしいですねとフロントに伝えたら余分にあるから差し上げますと云われてくれた。

それからというものは旅の便利帳になった。

おふくろを連れて旅に出る。

四国も行ったことがある。

なんせ、行き先に応じた施設がその小冊子に載っていた。

予約の電話を入れては旅に出る。

75歳以上の特典もあるが、全般的に公共宿泊施設とかわりない。

どちらかといえば他施設よりも安かったような記憶がある。

それ以上によかったのは料理が旨いことである。

とにかく美味しい料理に特別料理を頼むこともあった。

ここ椿寿荘では鯛のアラ煮を頼んだことがある。

甥っ子はその味を今でも覚えている。

こんなに美味しいのは、ここ以上どこにもない。

おふくろも美味しいと云っていた。

特に強調したいのは老人に優しい料理である。

どれをとっても固くなく、柔らかいのである。

口当たりも良いし味も良いから全部をたいらげる。

しかも椿寿荘は温泉がある。

芯まで温もった身体は火照るが冷めにくい。

よく泊まったのは冬場だ。

外は寒いのに部屋中は熱いほどだった。

年月は覚えてないが予約した日が大雪になったことがある。

我が家を出ようにも道路は20cmも積もっていてタイヤが滑る。

下りはなんとかいけても登りは到底無理な大雪だった。

とてもじゃないが車を出すことはできない。

仕方がないから椿寿荘に電話をした。

大宇陀も相当な大雪だったが、近鉄榛原駅まで迎えに車をだしますから、どうぞ、ということだ。

というわけでその日の足はバスと電車。

乗り継いで到着した榛原駅。

中型の送迎車が来ていた。

当然ながらのチェーン走行。

ガチャガチャ音を立てて走る。

ガチャガチャは音だけでなく身体も微々の上下振動。

本郷池にある椿寿荘は凍り付く急坂。

難なく車が登っていった。

そんな思いであるが椿寿荘は実に20年ぶり。

外観はまったく変わっていない。

左にある温泉浴場もそのまんまだ。

玄関まで迎えてくれる職員さん。

県の職員ではなくNPO団体の職員さんだ。

県が外部団体に経営を団体に委嘱して継承された椿寿荘は「かぎろひの里 椿寿荘」として生まれ変わったが、建物など施設は昔のまんま。

20年以上も前はなかったエレベーターがある。

これが設備された前から利用していた。

高齢者にとっても便利な昇降機。

あるのとないのとえらい違いだったとこを覚えている。

椿寿荘宇陀寮は県営施設として昭和46年に開設された。

今から46年も前のことである。

それが寝耳に水のように突然に発表された施設の廃止である。

老朽化を理由に平成21年3月に廃止するという情報である。

そのことを知った団体はNPO法人「宇陀街づくり研究会」である。

県は土地を除く施設の無償譲渡公募をした。

4団体が応募。

公募審査委員会は地域の活性化を高めると判断されて「宇陀街づくり研究会」に決まった。

その件については新聞報道で知っていた。

同年の平成21年4月より同団体で運営されるという記事を読んでとても悦ばしいことだと思っていた。

予約した時間に着いておふくろとかーさんを降ろす。

私は大宇陀に用事がある。

大宇陀も拝原もお世話になっている取材先がいっぱいある。

お礼に出かけたい箇所は2カ所。

1件は大宇陀万六で製造販売されている和菓子屋さん。

“志を乃屋”・野口昇栄堂である。

1月21日に取材した万六のカンセンギョ(寒施行)写真をさしあげようとしたが定休日だった。

仕方ない。

会いたい人はもう1件ある。

榛原笠間でほうれん草栽培をしているご主人だ。

たぶんに作業場におられるだろうと思って訪れたらまさに出荷作業中。

年から年中、栽培、供給しているほうれん草栽培はいつも忙しい。

3月5日に行われた榛原笠間桜実神社の祈年祭の御田植祭の写真である。

ご主人が写っている数枚をさしあげたかった。

おられてほっとする。

立ち寄ったのは供えた杉の実の模擬苗をいつ立てるのか、である。

今年は冷え込んだ。

電話もしたが、冷え込みが長引いて遅霜がずっと続いている。

なんとかハウスに育苗した箱を置いた。

2回目は3日後になるようだと云われた。

できるなら29日にお願いできないかと申し出たらそうするという。

ありがたいお声に飛びついた。

そんなことがあって戻ってきた椿寿荘。

二人の女性は只今温泉中。

戻ってくるまで待つことにする。

その間にしておきたい作業がある。

WI-FIのセッテイングである。

利用できると知って持参したパソコンとタブレット端末の無線接続のセッテイングである。

WI-FIはFreeWI-FI。

接続メニューから選んでクリックすればすぐさま繋がった。

これだけでネット環境が整った。

ありがたい施設である。

早速、インターネットを立ち上げて連絡しておきたい処にメールを送る。

ところがいくら待っても終わらない。

何かが邪魔をしているようだ。

同じ事象は有馬でも発生した。

セキュリテイの関係でメール受信は可としても送信は抑えているようだ。

セットアップや送信などで手こずって焦り。

温泉から出てきた二人とバトンタッチして湯舟に浸かる。

疲れもぶっとぶぐらいの心地いい温泉の湯。

それもただ一人。

戻ってきた二人も貸し切り状態だったという。

たしか何組かの客人がいたはずだが・・・。

予定よりも20分遅れで始まった大宴会ではなく我が家の3人だけが占領する宴会場はテーブルに椅子だ。

昔の大宴会場は畳座敷だった。

カラオケ設備などを設置している舞台は変わっていないが、敷きもんを敷いた会場とはなんとなく違和感がある。

ここでかつて歌っていたカラオケ三昧の独り舞台。

ついでに乗ったかーさんも歌っていた。

子どもたちはカラオケに飽きたどころか、何曲もガンガン歌っていた私に、もぅ煩いと云って耳を塞いでいたことを思い出す。

思い出は尽きない。

ようやく席に着いて会席をよばれる。

始めに頼んだビールで乾杯。

税抜き価格の500円の瓶ビールは500mlの中瓶。

風呂上がりのビールに癒される。

おっとその前に注がれたグラスがある。

それは食前酒の梅酒。

ウメッシュと云って一杯。

これが美味いんだな。

おふくろも酒を飲まないかーさんも美味しいと云ってぐぐっと飲んでいた。



さて、会食のなかから最初に口にしたのは胡麻豆腐。

癖のない味に惹かれて小刻みの四口でいただく。

上品な味が美味いのである。

先付けは三品。

イカ細切りは梅和え。

真ん中はまるで見た目がオレンジ。

薄い玉子焼き巻いて切ったらでてきた感のものは海老味だった。

巻貝は何だろう。

タニシじゃないことはたしかだが・・・。

思い出したバイ貝。

でもなんとなく違うような。

ツブ貝という場合もあるが・・・。

お造りは三種盛り。

マグロにどでかいボタンエビに皮つきイサキ。

夏のもんやけど早々と水揚げされたのかな。

翌日の帰りがけにフロントで聞いた板前さん。

仕入れは奈良県中央卸売市場だと知ってなるほど、である。



椀物はかぶら蒸しの一品。

たぶん真薯(しんじょ)であろう。

中から溢れる美味しさが口の中に広がる。

上品な一品が嬉しい。

一口で食べるよりもちょびちょびいただきたい真薯は中から細かく刻んだ海老の味がする。

おふくろもかーさんもそう云ったから海老真薯であろう。

細く切った青物も甘いタレで美味しくいただく。



海老真薯を焼いたサワラで包みあげ。

旨み味噌と絡み合う和食の一品に舌が唸る。

細かいタケノコも旨み味噌和え。

この旨み味噌は何でできているのだろうか。

木の葉で和えた味噌のような感じもするのだが、アクもなくくどくもないので美味い。

上等の一品は板前さんの腕。

それが味わえる椿寿荘。

20年前の料理はまったく覚えてないが、おふくろがとにかく柔らこうて美味しいと連発していた。

おばと一緒に来ていた姪っ子が特別に注文した鯛の煮つけ。

先にも書いたが、これはたまんない味やと喜んでいたことを思い出した。

天ぷらの野菜はなんだ。

野菜というよりも春の恵みの山野草のように思えた。

私はこれを見るなりウドの葉っぱだと云ったが、かーさんはあれやという。

あれやというのは葉っぱの先がトゲトゲのある葉。

でもそれでは葉の真下にある茎が太目のタラの芽。

ウドであればそんなに太くない。

色合いもケバケバしいタラの芽よりもあっさり淡白な色のウド。

そう判断したが・・・。

仲居さんの答えはウドであった。

天ぷらはカボチャもあるがもう一つはなんだろう。

思い出せない。



形でわかるのは海老天。

そりゃだれでもわかる。

口にいれて歯で噛んだらプリップリの海老。

むちゃ美味すぎる。

茶塩をちょうちょいとつけていただく。

頭も尻尾も美味しいエビ天が2匹。

おふくろは3匹もあったよというが証拠は消えていた。



そろそろ煮えてきた地鶏のすき焼き。

甘くて美味しい千切り野菜は何と尋ねるおふくろ。

仲居さんの答えはタマネギ。



旨みのあるタマネギに細切りのゴンボに絡んだすき焼きは美味い。

添え物の生卵につけていただいたが、堅くない。

地鶏は堅いと思い込み。

とても柔らかいのであるが、皮辺りはシコシコ。

だし汁と合いまった噛み応えのある地鶏に大満足する。

茶碗蒸しにギンナンがある。



思い出せないが他にもいろんなものが入っていた茶碗蒸しは上品な味だ。

ホッキ貝寄せのサラダは辛子酢味噌が利いていてとても美味しい。

我が家でもときおり買ってくるプチプチがある。

この食感がたまらなく好き。

味付けしたナガイモも美味しい。

飲んだビールは3本。

中瓶だから1500ml。

我が家で飲む量は500mlの発泡酒が1本。

そのあとはカルピスソーダで割った酎ハイだ。

これを2杯。

ほぼ同じような量である。

そろそろお腹が満腹以上の張りがでてきたのはそのせいかもしれない。



デザートは三人とも味わったことのないもの。

舌触りはなんとなくザラっとしている。

甘くて美味しいデザートには違わないのだが。

・・・。

それにしても和食に洋風のデザート。

椿寿荘の板前さんって凄いと思った。

どこでもそうだが最後に配膳されるのはご飯と汁椀。



あつあつふっくらご飯にそっと振りかけた煮ジャコ。

良い香りに食欲は増すが、胃袋は満腹状態でうわべだけいただいてジ・エンド。

ワカメの汁椀で〆させてもらった。

翌朝は快晴。

真っ青な空に椿寿荘裏に咲く桜が映える。

黄色の花はヤマブキ。

目の覚めるような景観に見惚れて、前夜の余韻を楽しむ朝食をいただく。

メインは鮭の塩焼き。

煮キャラブキを添えている。

他にはキンピラゴボウにコーヤ、シイタケなどの煮しめ。

温泉玉子に冷奴豆腐。

汁椀は焼き揚げ。

香ばしくて美味しかった。

(H29. 4.27 SB932SH撮影)
(H29. 4.28 SB932SH撮影)
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野依・稲苗に出る露の謎解き

2018年03月28日 09時22分11秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
荒起こしをした田んぼにJAで買った苗箱を並べたのは3日前である。

状態をみて毎日の水やりをしていた。

気温が上がれば幌を捲って風を通す。

温度調節は小まめにする。

そう話してくれた宇陀市大宇陀野依在住の田主の奥さんは被せていた白い幌を捲って育っている苗の状態を見せてくれた。

苗を見るとなにやらキラキラ光るものがある。



その数はとても多い。

水玉のように見えるが、水玉ではない。

苗が汗をかいたようにも見えるが、汗でもない葉先の丸い水玉はどうやら滴のようで、夜露のようにも思えた。

時間帯は午後の6時半。

昼間の気温がどんどん下がって肌寒くなる夕刻時間は脱いでいた上着をもう一度着る始末。

その気温差の関係でそうなったのか、それともこの時間だけでなくもっと前から幌内部で露状態になっていたのか。そ

うであれば、昼間の気温が高い時も内部で発生していたのか、疑問がふつふつと湧き上がる。

自然に生えている草の夜露とか朝露に濡れる体験をしたこともあるし、拝見したこともある。

夜露といえば小林明さんが歌う「窓は夜露にぬれてー♪都すでに遠のく・・」のフレーズ。

それは歌詞にもなるし、季語にある「白露」や「甘露」もあるが苗代の幌内の発生条件は何であろうか。

露が発生する基本的な原理は、冷えたものが接した空気の温度が露点以下に下がって空気中に存在する水蒸気が水滴に変化して物体の表面についたもの。

木の葉の表面に発生する場合もあればギザギザ葉の突出先端部につく場合もある。

稲苗は草の葉と同じ。

草原の葉っぱもそうだ。

草葉そのもの自身が水分を排出している場合もあるらしい。

ただ、私のクエッションは苗代である。

拝見したここの苗代は荒田にそのまま据えた苗箱である。

一般的には水苗代。

つまり苗床があって、その部分までヒタヒタに水を張って育てる方法である。

水苗代であれば気温の急激な変化があったとしても空気中の水蒸気は集めることはないだろうと思っていた。

その謎は数日後に訪れた和歌山県在住の写真家Kさんが伝えてくれたメールにあった。

住まいは田園地。

毎年に稲作もしている写真家である。

尤も作業のほとんどは旦那さんになるそうだが・・・。

Kさんが云うには苗代の苗に水滴がついてこともあったという。

その綺麗な水滴は自然の産物。

思わずカメラに収めたそうだ。

Kさんの話しによれば、苗代の場は水田ではなく土の田んぼである。

野依と同じように苗はJAから購入する。

育苗された苗を購入して荒田に苗箱を並べて、幌を被せる。

まったく同じ方法である。

Kさんが云うには水苗代では水滴が発生しない。

発生するのは荒田の場の苗代田である。

地表にそのまま置いた苗の場合に発生するという。

つまりは水田と地表の温度差。

水田の場合はどちらかといえば冷たい。

土であれば温かい。

その温度差でなるかならんか、であった。

(H29. 4.16 EOS40D撮影)
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野依・M家の荒起こし田苗床の水口マツリ

2018年03月27日 09時34分25秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
写真家Kさんに見てもらいたい場はどこにあるのだろうか。

着いた時間帯は午後6時直前。

焦る気持ちに田んぼを探すが見つからない。

ここは宇陀市大宇陀の野依。

先月の3月15日に行われた仏母寺の数珠繰り涅槃会行事の際に教えてもらったM家の田んぼである。

涅槃会に数珠繰り法要、ゴクマキを済ませた村人は正月初めに祈祷されたごーさん札を持ち帰る。

すべての人たちでなくごく数人の農家さんである。

そのお札は苗代に立てる。

数年前までは白山神社下にある苗代田にあったが、今はない。

顔見知りの元総代にお願いすれば紹介してくださったが、顔合わせはできていないMさんである。

だいたいの場所を聞いていたので付近を探してみる。

陽も暮れてしまった午後6時10分。

白い幌を被せた苗代田がようやく見つかったが、そこは水苗代田でなく荒田であった。

丁度そのころに畑から戻ってきた婦人に声をかけたら、元総代が紹介してくれたお家であった。

想像していた水苗代でなかったから、見つけにくかったのかもしれない。



「苗の育ち具合を見てね」と云われて幌を捲る。

その瞬間に水滴が玉のようについたJA購入の苗。

大安の日にしたかったが販売時期があわず、4月13日の先勝の日に立てたそうだ。

M家は日にち固定ではなく先勝か大安の良い日に畑地に苗箱並べて、割ったススダケに挟んでお札を立てる。

霜が降りなくなる時期になれば幌を外す、ということだ。

霜にあたれば黒くなる。

霜がはっせいする時間帯は朝日が昇る前。

ジャガイモの芽に水をあげると霜にならんように、早よ起きてしているねんという。

かつてはモミマキしたときに立てた。

お米がたくさんできるように願って立てた。



それが終わればドンド焼きをしていたそうだ。

モミガラを焼いて油紙を引いた。

そうすれば芽が出やすいようになると話す。

一枚が百円もするJAの苗。

家で苗床、苗代をするなら安く済むのだが、50枚程度なので発注している。

これが100枚から150枚もなるようであれば、考えどころ。

穴の開いていないシートを敷いて購入した苗箱を並べる。

幌を被せてからはじっと我慢。

霜はもう降りてこないのか、確実的になってから幌を開ける。

井出から上流は電動ポンプで掻い出す田んぼ用の水。

風雨、天候によって雨量は変化する。

一定量にならない天水田(てんすいだ)だけに頼ることなく、水がある水路にパイプを引いて電動の揚水ポンプの力を借りて水を揚げるということだ。

苗の成長具合よって水やりをするが、水やりはたいへんやから揚水に頼る。

そういうことだろうか。

5月の末までは水やりをしているという婦人の話しである。

立ち話をしている間にあっという間の夕闇。

ちょっと待ってね、と云われて急ぎ足で動き回る奥さん。

家の奥にも、畑のあそこにも動き回っては運んでくれる自家栽培の野菜類。



キャベツ、レタスに、キクナ、カラシナ、葉バナ、ほうれん草、三つ葉、ブロッコリー。



しかもコゴミまで摘んでくださった。

一挙に、しかも大量にこんだけもいただいた新鮮な生野菜はありがたく頂戴して帰ることにした。

(H29. 4.16 EOS40D撮影)
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野依・仏母寺の数珠繰り涅槃会

2018年02月02日 09時14分53秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
宇陀市大宇陀野の大字野依。

この月の村行事は仏母寺で行われる数珠繰り涅槃会である。

6年前の平成23年3月15日に訪れたときに拝見した「アワメシ」の在り方に感動したものだ。

涅槃会に数珠繰りをされたのだが、その際に掲げられる掛図が御釈迦さん入滅を表現した涅槃図である。

祭壇に盛っていたのは、飯に挿して立てていた一膳の箸である。

葬送の儀礼にそうしている地域も少なくはない葬送の儀礼にそうしている地域も少なくはない。

私の故郷である大阪の南河内郡河南町にもあったことを覚えている。

同じ形式を「マクラメシ」と呼んでいたのは桜井市瀧倉。

拝見した行事は「鬼の葬式」の名で呼ぶ村行事だった。

平成21年3月3日限り
の行事だったように記憶する。

箸を立てた「マクラメシ」を膳盛る。

その膳には「死花(しか)」と呼ぶ大根に挿した幣もあった。

数珠繰りはかわらずされていると思ってはいるが、果たして「アワメシ」は。

また、涅槃会に念仏を唱える数珠繰りを終えて大量に撒かれる涅槃の団子撒きも気になっていた。

翌年の平成24の3月14日に訪れた涅槃の団子搗き。

できあがった丁度に寄せてもらったことがある。

野依の年中行事は大幅に改正されると聞いている。

手間のかかる部分は極力省いていこうということだ。

もしかとすれば涅槃会に撒かれる団子も消えるかもしれない。

最後になるのであれば、記念の記録と思って訪れた。



先に拝見したのは床の間に飾った涅槃の掛図。

その隣には三つの木樽に盛り込んだ涅槃の団子。

びっしり埋まっている。

いつもの年と同じように前日の14日に搗いた団子はまん丸い。

平成23年に拝見したときの団子の量は木樽が十もあった。

作業の手間、時間を少しでも負担減として3割に減らした涅槃の団子であるが、実は違っていた。

燭台も調えた場には気になっていた「アワメシ」もあった。

この年も同じように一膳の箸を立てていた。

「アワメシ」は蒸した米で作った粟飯。

黄色い粟粒が見えるだろうか。

涅槃さんの御供は例年が一緒ともいえないようだ。

この年はニンジンにシイタケだった。



お供えは観音さんを安置した仏母寺だけでなく氏神さんを祀る白山神社の他、本社殿下の愛宕社、弁天社や庚申堂などにも供える。



野依に庚申講もあるが、そういえばヤドの家で庚申さんの掛図を掲げて講中が集まる営みは話しに聞いていたが、この庚申石仏にはどのような形式で営みをされているのだろうか。

そんなことを思い出して僅かに朱の色が残る庚申さんに手を合わす。



忙しく動き回って供えていた大頭と小頭もひといきついてから始まった涅槃会。

これまで私が拝見したときの導師は先生だった。

仏母寺行事の観音講の寄り合いのときもそうだったし灌仏会も・・・。

この年は入れ替わりがあったのか存知しないが若手になったようだ。



ローソクに火を点けて、涅槃さんに手を合わせる。

そうして始まった般若心経は三巻。

それと同時に繰り出す数珠繰りに般若心経が流れる速度とともに・・。



調子は割合早めである。

心経を唱えるだけでは、と思ったのか、隣に婦人が横についておりんを打つ。

長い数珠を繰るのはもう一組ある。

お部屋を半分ずつ分けて2組目は心経を唱えている間に入れ替わる。

入れ替えるのは数珠であって場は替わらない。

座敷手前に座っていた人たちはどちらかといえば女性に子どもたちだ。



にこやかな表情で数珠を繰る姿に萌えてシャッターを押す。

三巻の心経を終えたら数珠繰りも終える。

〆にいただく涅槃の御釈迦さんに供えた「アワメシ」。

お椀ごともった小頭の奥さんが少しずつ箸で摘まんだ「アワメシ」は、手を広げた村人にさしあげる。



いわゆる御供下げであるが、箸は「アワメシ」に立てていたもののようだ。

手で受けていただく供物の「アワメシ」はありがたく頂戴する。

その形式は県内各地の何カ所かで見られるテゴク(手御供)の形である。

数珠などを片づけてこれより始まるゴクマキ。

涅槃の御釈迦さんに供えた涅槃の団子を撒く。

室内両側の障子扉を開けたところに位置した御供撒きの人。

マツリに着用する法被に着替えて座敷に座っている村の人たちに向けて撒く。

両手に盛った団子はまん丸い。

転げそうになって手から毀れそうにもなる。

そこんとこは上手く纏めて放り投げる。

天井まで届くことのないように配慮しながら撒いていく。



座敷にころころ転がる団子を拾いまくる。

ころころ転がせるように撒く優しい人もいる。

右や左から、果ては後ろからも転げてくる団子を捕まえるのに這いつくばる人もいる。

団子争奪戦にカメラの視線はあっちこっちに振り回される。

ふと、気がついた。

団子撒きをする人それぞれに木樽がある。

数えてみれば六つもあった。

涅槃さんに供えるのは少なくして残りは廊下に置いていたようだった。

それはともかく、実に愉しい団子撒き。

大人も子供もはしゃぎまわる。

これでもかと思うほど撒いた団子。



まだまだ木樽子どもたちにはもっと優しく差し出す袋の中に入れてあげる。

こうして涅槃会を終えたらごーさん札を貰って帰る。

特に必要な人は農家さん。

苗代に立てるごーさん札は苗がすくすく育つように豊穣を願う。



このごーさん札は、大晦日の夜中から社務所に籠った大頭、小頭が版木で刷ったものだ。

刷る時間帯は元日の朝だときいているごーさん札の正式名称は「降三世」のお札だと以前に聞いたことがある。

元日に刷ったお札は、3月1日の祈年祭に奉られて祈祷される。

そして、この日の涅槃会で授与される。

何人かの人が授与された「降三世」のお札はいつ苗代に立てているのか。

受け取った人がいうには特に決まりはないそうだ。

例年は4月10日ころにするから、そのころになれば前もって電話をすると云ってくれたTさんにすがるしかないのだが・・・果たして

(H29. 3.15 EOS40D撮影)
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野依・川東庚申講の所有物

2018年01月11日 09時28分36秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
野依の上巳の節句を取材していた折に小頭が話してくれた野依の庚申講がある。

川西には庚申講はないが、川東にあるという。

川東は今も続く庚申講である。

積立は少額であるが、年に6回の集金。

積もりに積もった金額に、年に一度の寄り合いに飲み会を開くそうだ。

その寄り合いに庚申さんの掛軸を掲げていると話す。

廻りの当番に小頭があたっているので家にあるという。

ありがたいことにその掛軸を拝見させていただくことになった。

掛軸は当然であるが巻物である。

軸箱から取り出して床の間に掲げてくださった。



お軸の姿は背中を丸めた鬼の頭に足をかけている強面の庚申さん。

40年ほど前に表装仕直されていることもあって年代を示すものはなかったが、相当古い様相のお軸である。



お軸の年代はわからなかったが、講中に伝わる古い『庚申之縁起』書がある。

古文書は虫食いもある年代物。



裏打ちに「維持 元文四年(1739)未六月七日 東谷爲之」。

裏書に「池上村 七助」と書いてあった。

小頭が云うには、池上村は宇陀市榛原にある大字池上。

野依より東へ1km少し行ったところの地区。

目と鼻の先にある地区だけに縁者であったかもしれない。

今から280年前に墨書された縁起書の文字は鮮明に判読できる。

代々の講中が継いできた川東講中が所有する『庚申之縁起』に感動する。

もう一つある古文書は講の帳簿のようであるが、僅かに残っていた断片的文書。

安政三年辰(1856)二月十日に記した講中は8人だった。



もう一枚は安永五年(1776)十一月十日。

7人の講中名があった。

たった2枚の文書であるが、これも講中の歴史を刻んできた大切な史料である。



昭和31年、46年、53年の支払い済丸印〆を押印していた預金通帳に代表の他6人をあることから、現代までずっと続く7軒で営んできたのだった。

(H29. 3. 3 EOS40D撮影)
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伐採される前の記録に野依白山神社の大木杉を撮る

2018年01月10日 09時15分11秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
大宇陀道の駅から北に数km。

車を走らせていたら否が応でも気がつく宇陀市大宇陀・野依の大杉。

樹齢は何年になるのか相当な古木。

見かけはまったく気がつかないが、樹木幹が空洞になっているという。

この年、雷に打たれた大杉の枝がぶっ飛んだ。

その一部は境内下にある民家の屋根を破壊した。

損壊状態の屋根は神社費用で賄って修復したものの、危険性があると決断されて伐採することになった。

そのことを聞いたのはこの日。

上巳の節句のヒシモチ御供に来られる大頭、小頭を待っていたときだ。

地区に住む男性は私に声をかけた。

男性は4年前に大頭を勤めた人だ。

もっと前の平成16年の5月5日の節句オンダのときは女装姿のショトメを勤めた男性の表情が実に可愛かったことを思い出す。

村の会合で伐採することが決まったので、記録に撮っておいてほしいと願われた。

ご希望にそえるような写真はどのように撮ったらよいのか。

ヒシモチ御供をされる合間に何枚かを撮っていた。

走る道路から見れば、若干位置は違うが、真正面から一枚。

威容を誇る大杉の姿を残す。

男性に願われた急な頼み事。



いつ倒れるやもしれない大杉周りには村人が近寄らないように緊急措置的な柵をしていた。

赤いポールを立てて危険を知らせている状況も記録する。

その柵内に動物の死骸横たわっていた。

白猫の亡骸である。

何時、亡くなったのか、どうして亡くなったのか、さっぱりわからないが、亡骸は成仏させてあげようと大頭、小頭が動き出した。

丁重に運んだ亡骸は西の山中に穴を掘って埋めた。

西の方角に埋めるのは、西方浄土の意味がある。

朝日の昇りは東。その東に埋めることはならんと教わっていたからそうしたという。合掌。

その日から20日後の3月23日。

川上村からの帰り道に選んだ吉野町。

所用を済ませて大宇陀へ。

桃の節句に涅槃会が終わってから伐採すると聞いていた。

大きなクレーン車で吊り上げる大杉。

そのクレーン車が通る道は崩れないように養生すると話していた。

すっかり消えてなくなった大杉は太い幹部分を根ごと残すのみ。



大杉の伐採痕をよく見れば、内部は大きな空洞になっていた。

(H29. 3. 3 EOS40D撮影)
(H29. 3.23 EOS40D撮影)
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野依白山神社の上巳の節句のヒシモチ御供

2018年01月09日 10時39分08秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
上巳の節句の3月3日はヒシモチ御供をしていると聞いたのは昨年の平成28年11月14日

その夜は氏神さんの白山神社にお参りする亥の子行事だった。

そのときに勤められた小頭のN夫妻が云うには、3月3日に家で作ったヒシモチを供えるということだった。

男の節句は5月5日。

野依の男の節句は「野依のオンダ」として、平成8年に県の無形民俗文化財に指定されている。

その日に供えるのはチマキ。

それに対して3月3日は女の節句は「ヒシモチ」を供える。

3月3日は、特に重要視されるわけでもない。

男の節句の「野依のオンダ」は奉納所作が見られるが、女の節句には一切の所作はない。

私が気にかけているのは「ヒシモチ」である。

形、大きさ、色ぐあいもあるが、県内事例にヒシモチを供えている地域はごく僅か。

以前はヒシモチもあったが、シロモチに替えたという地域もある。

昨今は、希少になってきた節句のお供え。

将来はどうなっていくのだろうと危惧する。

現状を記録するのも重要な事項だと思っている。

というのも、野依は今年度の年中行事を終えたら大改正される予定があると聞いているからだ。

お供えや膳など手間のかかる部分は大幅に改正されるかもしれないということだった。

万が一を想定するのも辛いが、もしも消えてしまうのなら、今年が最後になることも考えられる。

そういうことで記録を目的に拝見することにした宇陀市大宇陀・野依の「上巳の節句のヒシモチ御供」である。

野依の年中行事を勤める頭家は2人。

「野依のオンダ」に登場して所作をするオジイの名がある田主役の大頭とオバアの小頭のお二人だ。

この日は桃の節句とも呼ぶ野依の上巳の節句。

この日にしなければならない両頭屋の役目は朝から境内を清掃して綺麗にすることと白山神社境内各社に小頭家が作ったヒシモチを供える。

ただ、それだけである。

二人は時間を合わせて神社にやってきた。

朝8時に集まると聞いていたが、所用があった関係で1時間遅らせてやってきた。

まずは氏神さんに手を合わせる。

それから分担する作業。

この年の5月5日にオジイ役を務める大頭は早速の清掃。



神社に上り下りする石段や広い境内を綺麗に掃除していく。

一方のオバア役を務める小頭家は夫婦連れ。

家で作ったヒシモチを折敷に盛っている。

大きな緑色のヒシモチはヨモギを混ぜて搗いた餅。

そのヒシモチの上にのせたのは搗いたまん丸い白餅。

いずれも小頭家が作って本殿、各社に供える。

それが小頭の仕事であると話していた。

ヨモギは蓬であるが、自生している葉を採取したわけではなく、市販品の蓬葉。

それも前年に採取したものを乾燥、粉にしたものである。

近くで買ったという乾燥蓬は行事取材を終えてどの売り場にあるのか探した。

売り場は大宇陀の道の駅。



ご夫婦は、蓬の産地は吉野産と云っていたが、地元の宇陀産だった。

必要な分量の乾燥蓬を袋から取り出して湯とおし。

そうすれば茶色になるようだ。

収穫した蓬葉の場合は、ゴミなどを取り除き、葉っぱを刻んで保存しておく。

そして、湯で練ってから、蒸したもち米に混ぜて餅搗き器械で搗いて作ったという。

供えるヒシモチに白餅はラップ包み。



供えた後ろから鳥獣がもらっていくからラッピング。

それでは色合いがわかり難いからと、一部のお供えはラップを外してくださった。

供える分のすべては折敷に調える。



それを一つずつ運んで供える。

まずは神社社務所である。

炊事場にある水屋上の神棚。



お伊勢さんを祭っているヤカタの前に供える。

次は社務所内にある観音菩薩立像を安置する旧仏母寺(ぶつもじ)に供えてローソクに火を灯す。



仏母寺は廃仏毀釈の時代に廃寺となったようで、お厨子ともども残された観音立像に手を合わせた。



画面ではわかり難いが、お厨子の内扉に描かれた来迎図がとても美しい。

社務所から離れた次は本社殿下の左側に建つ愛宕社に供える。

次は本社殿。



大頭が綺麗にしてくださった階段を登ってヒシモチ御供を供える。

それぞれ吹く風で消えてしまうからローソクは立てずにヒシモチ御供だけにされた。

本社殿より下った次は右側に建つ弁天社。



火袋がある燈籠にローソクを立てて火を灯した。

小頭が参った本社殿と末社に架ける注連縄の向きが違うことを教えてくださる。

理由は分からないが、本社殿の注連縄は左側が頭で、右に尻尾となる。

末社は逆に右側が頭で左に尻尾であった。



次は一段低い位置にある庚申堂にも火袋に立てたローソクに火を灯してヒシモチを供えた。

供える各社はもう1カ所。



戦没者慰霊碑である。



こうして各社すべてにお供えをしたら一段落つく。

その間もずっと境内の清掃にあたっていた大頭であった。

搗きたてヒシモチはトリコを塗してコウジブタに伸ばして広げる。

しばらくすればやや硬くなる。

そのころが丁度いいころのヒシモチ切り。

包丁で切るのだが、大きさはそれぞれ3種類であった。

かつては三段重ねのヒシモチであったが、今は蓬のヒシモチは一段。

二段は白餅に替えたということだ。

当時も今も使っていたヒシモチの切り込み型紙を拝見した。



縦は13cmの一番大きい型紙の幅は25.5cm。

2番目は10cmの幅が19cm。

3番目の一番小さい型紙は7cmの幅が14cm。

前日の2日にこの型紙をあてて縁取り。

その線に沿ってヒシモチを切る。

かつて家で作っていたヒシモチの型紙である。

多めに作ったヒシモチは実弟や娘、そして親戚などに配ったそうだ。

小頭は今年で80歳。

6月5日の節句に粽も作って配っていたが、体力の要る作業は昨年が最後だったという。

この年の10月をもって、村は年中行事の見直し。

大幅な改正にこうしたお供え類は一切しなくなるだろうと話していた。

そのことを聞いて、1月行事のお供えは今年限り。

拝見はできなかったが、7日の朝は七草粥供え。

夕刻には御供下げする七草行事。

15日の小正月は朝に小豆粥を供えて、夕刻に御供下げをする。

これも消えてしまっただろう。



この写真は今年の2月3日に行われた節分の豆焼き占いの結果である。

行事は継続されるが、改正されるのはお供えや膳、或いは料理関係になるそうだ。

この写真は前夜の大晦日から社務所に籠って泊まりの正月迎え。

翌朝の元旦は朝5時より始める苗代に立てるごーさんの版刷り。



大頭、小頭が籠った社務所で作るごーさん札である。

本社殿境内にいっぱい敷き詰めた小石がある。

これは8月31日の夜の行事である八朔籠りの際に蒔いた小石。

その日、神社前にある川で小石を拾う。

一人ずつ川に入って33個の小石を拾っては神社に参る。

その行為は八朔の直会を終えてからしていた。

今では川の小石を拾うことはなくなったが、これをオコリトリと称していた。

充てる漢字は御垢離取り。

潔斎のありかたであるが、県内事例ではほとんどしなくなって神社に小石が残るだけになった地域は多い。

ただ、どこの地域でも垢離取りの小石拾いは33個。

たまにもっと少ない地域もあるが、それらはお百度参りのように33回も川、神社を繰り返すにはたいへんやということでごく数個にしたという地域である。

野依は川の小石拾いはなくなったが、近くにできたDIYのお店で購入しているようだ。

八朔籠りの日はシメ縄作りもしていた。

夜に般若心経を五巻唱えて、煮しめ料理をよばれる直会もあった。

籠りは現在中断しているが、改正となればシメ縄作りもしなくなるだろうと話していた。

すべてのお供えを終えた20分後である。



小頭はおもむろに動き出した。



一つ、一つ下ろす御供下げの行為がはじまった。



本社殿をはじめとして愛宕さん、弁天さんなど各社に供えたヒシモチ御供を下げてこの日の行事を終えた。

(H29. 3. 3 EOS40D撮影)
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大宇陀・万六のカンセンギョ

2017年11月13日 09時37分12秒 | 宇陀市(旧大宇陀町)へ
行事取材の了解を得ても、生憎、緊急的な仕事が入ってしまった写真家Kさんには申しわけないが、私一人の取材にこぼれの無いようにガンバルしかない。

宇陀市大宇陀の万六(まんろく)のカンセンギョ(寒施行)の行程は予め聞いてはいるものの、実際はどうなのであろうか。

平成24年1月22日に取材した上新(かみしん)との違いも知りたくて訪れた大宇陀万六は旧松山街道の南の端。

先週に突然伺わせてもらった“志を乃屋”野口昇栄堂のご主人も巡拝されると聞いていたが、町の人らはその件を知っているのだろうか。

先を急いだのは、町内の婦人たちがデアイ(寄り合っての意)に寄り合って山の獣に施す御供作りをしていると云われる万六の自治会館。

そろそろ出発するというから大慌てである。

突然の如く、自治会館から飛び出した男性。

手には金色の鐘。

手でもって振れば鳴るベルのような形の鐘の音はチリン、チリン。

昔懐かしい豆腐屋さんが自転車に乗ってやってきたときの合図である。

大阪市内の住之江で見ていた子どものころの情景は大和川の堤防で売っていたアイスキャンデー売りであったようにも思える。

チリン、チリンと音を鳴らして町内を一往復する。

町内を廻って音を鳴らすことによって、カンセンギョ(寒施行)の始まりを知らせる。

出発地は町内の会所。

山の獣に施行するアズキゴハンを作っていた会所から出発する。

巡拝に向かった人たちは8人。

うち一人はお爺さんとともに参加した孫さん。

全員そろって長靴を履いて、と思っていたが、そうでもなかった。

この日までに雨でも降っておれば山の道はじゅくじゅく。

晴れ間が続いていたから乾きもあるだろうということであったが・・。



まずは、万六自治会が管理している佐多神社に向かう。

地域住民が参拝される神社はすごく綺麗なのは美化清掃のおかげ。

ゴミの置き去りやタバコのポイ捨ては厳に慎み美化協力を願う札で注意勧告している。

佐多神社の二の鳥居に朝日大神の文字を入れた扁額がある。

併設する境内社の稲荷社のことをいうのであろうか。

本社殿に半紙を拡げる。



そこにもってきたアズキゴハンで作ったオニギリを数個のせる。

包丁を入れた厚揚げにお頭付きのメザシも盛る。



その次は境内に建つ地車大明神にも供える。



後続についていたご婦人は本社殿に手をあわしていたが、巡拝の一行は先を急ぐ。



本社殿、地車大明神がある境内は南側に広い。

まるでゲートボールでもしそうな広場である。

その奥に向かう一行の前に現われた社がある。

以前からこの地にあったのか・・。

平成24年に取材したときの時間帯は真っ暗だった。

距離感がなかったところにあったと思う稲荷社である。

この社が朝日大神であろうか。



先ほどと同じようにアズキゴハンのオニギリに厚揚げ、ジャコと呼ぶメザシを供えて先に向かう。



孫さんは先に行ってしまったが、昭和13年生まれ、79歳のⅠさんは手を合わせて拝んでいた。

アズキゴハンは、別に小豆を分けて炊いたその汁を入れて炊くことによって色が濃くなるそうだ。

一升三合三尺のお米で炊いたアズキゴハンは三角に握って作った。

さて、その先の・・といえば、藪の中である。



ここに供えておいたよ、と云われて撮っておく。



その場から佐多神社に戻ってきた。

行列でもない戻りの一行に先ほど参拝されたご婦人がいる。



右手には金物製のきゅうすヤカンをもっている。

これまで気がつかなかった婦人の行動。

実はカンセンギョ(稲荷寒施行)の巡拝についているのではなく、1日、15日のサカキ替えに毎日交替するお水を神さんにあげる当番の人だった。

当番は家並み順。かつては20数軒で当番していたが、今は15軒の廻り。

こうして水やりを済ませたら、次の家にヤカンをもっていって渡して交替しているという。

2番目の巡拝地は県道370号を渡った高台にある大願寺裏の稲荷社である。



お供えして参拝に手を合わせた次はさらに高台。



延宝二年(1674)、宇陀松山藩主である織田長頼が加賀の国(石川県)より勧請し、織田家歴代の氏神として祀った白山権現社にもお供えをして参拝する。

平成24年に巡拝していた上新の人たちは、たしか白山権現社には行かなかったような気がする。

その逆に大願寺本堂の階段に供えていた。

末廣大明神を祀る稲荷社には両地区とも供えていたが、僅かな違いがここにあった。

ちなみに大願寺は真言宗御室派。

聖徳太子が蘇我馬子に命じて建立したと伝えられている。

3番目、次に向かう先は600mほど北にあるならやま(奈良山かそれともナガヤマ“長山”)である。

民家横にある道なき道を登っていく。

途中で右折れ道を選ぶ。

そこにふっと現れた祠造りのような社がある。



そこにお供えをする。

上新では供えることはなかった社であるように記憶するが・・。

この場より裏側にも廻ってお供えをする。



武家屋敷跡に建つ朱塗りの鳥居に正一位稲荷大明神の扁額がある稲荷社である。

万六も上新も供える稲荷大明神である。

お供えを終えたら山道を下る。



その下り道は急勾配。

積もりに積もった落ち葉が濡れておれば、つるっと滑ってしまうから慎重に足を下ろす。

無事に下りて着いた目の前にある橋の名前は御殿橋。



武家屋敷は御殿様式であった面影を残す橋の名である。

次は宇田川に架かる橋を渡って町内に入る。

そこは大木の北、南になる。

橋は御殿橋の他に大橋の黒門橋、拾生(ひろう)土橋があるそうだ。

かつてはそれぞれの地区でしていたカンセンギョ(寒施行)。

だいたいが日曜にしていたと話すⅠさん。

行事を辞めたらなんかが起こる。

そう信じてきたが、高齢化。

なんかがあっても取り返しのないと云われるが・・・。



4番目、そんな話を聞きながら町内の筋道を出た本街道は拾生(ひろう)の瓦町。

すぐ近くの高台に建つ日蓮宗長龍寺(ちょうりゅうじ若しくはちょうろうじ)に階段を登る。



お供えするのはお寺ではなく境内社の稲荷社である。



この場は上新でもされたが、上新は稲荷社以外に本堂裏の何も存在を示さない場所にも供えていたことを思い出す。

お供えを終えたら再び松山街道に出てくる。



ここからは戻り道。

400m先の信号の手前の千軒舎辺りの角を折れて山に向かう。

向かう山といえば史跡旧宇陀松山城跡(秋山城)がある標高471mの城山(しろやま)である。

城山に向かう本来の道は山行きと同じだ。



近年、この城山に車で登れる道路を整備しかけている。

その工事はまだまだ。



一部分までは整備されたコンクリート舗装路。



整備されていない地は重機が入って道造りの状態。

先にしなければならないのは樹木の伐採である。

これを運ぶトラック道は雨でというか、谷川の水も流れてドロドロ状態。

右側の本道を行っておればよかったのだが、左側から右に渡りきるには困難。

そこらに落ちていた木材をドロドロ川に架けてひょいひょい。



孫さんは大人が手を取って支援する。

こういう場合に役立つのが長靴である。

宇陀松山周辺地区まちづくり基本構想がある。

平成19年度から策定された史跡旧宇陀松山城跡保存管理計画によれば、現在はアクセス道路の整備実施中とある。

史跡広域ゾーニング図を参照すれば、難儀してドロドロ川を渡った箇所は「G2」付近の見学道のようである。



ドロドロ川からは山行き道。

案内されていなければとてもじゃないが彷徨ってしまう山道。

ずいぶんと登った地に供えるアズキゴハンのオニギリ。



山麓辻の藪下に半紙を敷いて供えた。

そこからはさらに登っていく。



着いたところに建っていた頂上付近に建つ稲荷社。

地元で活躍している裏さんによればそこは長山(ながやま)頂上らしいが・・・。



なぜかここではミカンもあった。

一行が添えているわけではなく、山行き若しくはハイカーが参拝していたのかもしれない。

ところで稲荷社殿に納めている棟札がある。



いつ建之されたのか年号は見えないが月日は四月拾六日のようだ。

「□□神社上棟正遷宮式挙行」とある棟札に発起人に森井伊吉、信田國松、迫間亀吉、本郷鶴松、向井松蔵、中窪鶴蔵、森本辰一郎。

連名7人の発起人である。

筆頭の大工棟梁は向井松蔵。

木挽に吉岡豊三郎、石工が小松原文治郎の名も墨書されていた。

お名前の感じから大正年間、或いは明治時代に建之されたと推定する。

終わって万六の自治会館に戻った時間は午後3時半。

出発した時間が午後2時だから行程時間は1時間半。

万歩計が表示する歩数は6100歩。

距離数にしてみれば4.9kmであった。



戻ってきて自治会館に着く手前の民家に金物製のきゅうすヤカンを持つ婦人がいた。

そう、巡拝のときに拝見したヤカンは次の当番家に持っていって引き継いでいたのだ。

(H29. 1.28 EOS40D撮影)
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