マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

箸中・中垣内の転がし地蔵石仏

2018年08月31日 09時25分44秒 | 桜井市へ
桜井市箸中の垣内は3垣内。

下垣内に中垣内、車谷垣内の3垣内であるが、さらに分割された垣内分けもある。

特に、中垣内は南垣内、川垣内、上垣内の分かれ垣内もあるから実にややこしい。

前年に訪れた際に知り得た中垣内のコンピラサンの夏祭りがある。

行事日はその日であろうと判断して再訪したが、垣内の人は来そうにもないような雰囲気だった。

待ち続けて1時間。

軽トラでやってきた男性に聞けば、盛大な行事ではなく、提灯を吊るす、笹を立てて花を飾る。

前日はすぐ近くの慶雲寺住職が法要される。

参列者は4年に一度の廻りの中垣内当番組の数軒だけだという。

86歳になるその男性が云うにはコンピラサンから歩いてすぐ。

川向うの集落内に地蔵さんがある。

コモリと呼ぶマツリをしていると話していた。

その地蔵さんを「転がし地蔵さん」と呼んでいる。

話しから想定するに分離できる丸い石仏のようである。

土台から降ろした場で石仏を転がしていたからそう呼ぶようになったのかわからないが、コモリの場にゴザを敷いて自前の弁当を食べていたという。

話しの展開から思うに、随分と昔の様相にように思えたが、転がし地蔵さんに興味をもった。

8月24日にしていると男性が話していたので出かけてみたが、誰一人現われなかった。

近くに住んでいる男性を訪ねたら、「そうだっか、おかしいなぁ。」と返答する。

しばらくしたら奥さんが畑から戻って来られた。

同様に今日と聞いていた地蔵さんのマツリは・・。

「7月やったと思う」だ。

映像は7月16日に撮ったもの。

枯れる寸前のお花が残っていることから、少なくとも信仰する人がおられるということだ。

(H29. 7.16 EOS40D撮影)
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日清のぶっこみ飯カップヌードル味

2018年08月30日 09時20分09秒 | あれこれインスタント
さて、本日の昼食はどうするか、である。

頭の中に描いていた昼食はラ・ムー桜井店の格安弁当である。

税抜き価格が187円。

お目当ての冷たいうどんに握り寿司を盛った弁当も187円。

お買い得を狙っていたが売っていなかった。

なければ他の商品には目がいかない。

丼類もあるのだが、この日はすでに満腹状態。

最近はお腹が張っているのか、すきっ腹を感じたことがない。

食べる量は少しずつ減らしているが、状態は健康体だったころには戻ることもない。

お腹が空いていないから、商品棚には手がいかない。

で、あれば、我が家の買い置きのヒルメシ。

熱中症になってしまったかのように思えた身体はとにかく冷やす。

涼しい家の風にあたって体調を整えるには1時間もかかってしまった。

さてさて選んだ商品は清のぶっこみ飯カップヌードル味。

無理にでもぶっこむか、という感じで選んだ。



沸騰した湯を入れて5分間待つ。

スプーンでとろとろかき混ぜる。

何度も何度もかき混ぜていけば動きができなくなるくらい固くなる。

そうしたらできあがり。



カップにスプーンを突っ込んで飯をよそう。

よそっては口に入れる。

出来上がりは熱々。

熱くてふーふしないと食べられない。

猫舌は特に気をつけたい。

一口目の印象は旨くない。

二口目の印象は何の味?。

三口目はカップヌードル味っていうけど、どこが、である。

敢えて云うなら焼きめしのデキ損ない。

結局は何のあじなのか、さっぱりわからないままに食べ終えた90g。

私にとっては量も多かった。

(H29. 7.16 SB932SH撮影)
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まほろばキッチンにラ・ムー桜井店

2018年08月29日 09時36分08秒 | あれこれテイクアウト
頭から汗が流れだした。

外気温は何度であろうか。

うっかりして手ぬぐいを忘れていたことに気がついても、もう遅い。

身体中からも汗が噴き出す。

最高気温は33.6度だったと報じていた。

この日の取材は午前中に桜井市箸中の行事

午後も同じく箸中の行事がある。

その間の時間はあまりにも長い空白の時間帯。

朝の取材にたっぷりの汗を流した。

木陰でないと危険とも思えるピーカン天気。

気温は36度に達しているのでは、と思うぐらいの暑さ。

熱中症にはなりたくないが、家の用事も済ませなくてはならない。

野菜は近くの橿原市常磐町にある「まほろばキッチン」。

地産地消の生産者がこれでもかというぐらいに新鮮な野菜を棚に並べてくれる。

どれもこれもとにかく安い。

それを知って桃太郎トマトを買いに来た。

トマトだけでなくナスビもキュウリもメークイン、土しょうが、甘長トウガラシにナメコまで。

そうそう忘れてならないのはほうれん草。

この時期はぐっと上昇中価格。

他店舗の値札を見て諦めていたところ生産者がいままさに持ちこんでいた。

これは「買い」である。

9点買ってたったの税込1097円。

しかも助かるのがクレジットカードで支払いができるということだ。

入店する店舗はもう一つある。

昨夜に切れたチューブ入りわさび。

買い置きなく今夜はどうするか、であったが、ラ・ムー桜井店がある。

おろし生わさび一個を買って支払う金額は税込78円。

ここは現金支払い。

毎度のことは小銭で支払う。

こうした用事を済ませて自宅に戻った時間帯は午後11時半。

意外と遠いのだ。

(H29. 7.16 SB932SH撮影)
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箸中のノグチ

2018年08月28日 09時44分34秒 | 桜井市へ
平成19年以来、久しぶりに拝見する桜井市箸中のノグチ(野口)行事である。

三輪山麓北西部の桜井市箸中で毎年の夏に行われるノグチ(野口)であるが、対象年齢に達した男子がなければ行われない。

対象年齢は数えの17歳。

今では満年齢で数える16歳の高校1年生が対象になる。

平成6年は6人もいたが、年々が少子化。

その後の年は3人。

平成19年に取材したときも3人。

以降、対象者なしの年(平成21年、22年、23年、24年、25年、28年)もときどきあったものだが、2人のときもある。

箸中に誕生する子どもの人数は常に一定でない。

現状、このまま誕生しない年が続くようにでもなれば、と危惧した村は、対象の子どもがいなくとも、延々と継承してきたノグチ(野口)の民俗文化を潰えることなく、後世に伝えるべく自治会役員が継承していくことにしたという。

この日は朝一番の作業に神社前の竹林から青竹を伐り出していた。

子どもがたくさんいた時代は、子どもたちの手によってジャやツノメシを作って、「ノグチ(野口)」の神前に供えていた。

徐々に少子化に移ったころは、作り手の子どもも減少するなどで、親御さんが手伝うようになった。



平成17年に拝見したときは3人。

うち年長の子どもがいる家がヤド(当家)を務めていた。

ノグチ(野口)を行う日は暑い盛りの土用の丑の日であったが、近年は学校が休みの日になる日曜日若しくは土曜日。

場合によっては関係者の都合状況によって予定した日を替えることもある。

平成27年は対象の男子が2人もいると教えてくださった雑賀耕三郎さん。

熱いガイドをするカリスマ的存在の奈良まほろばソムリエの会の理事である。

箸中のS区長と交流がある関係で対象の男子がいるとわかってFBに伝えていた。

ありがたい情報に「7月26日日曜朝9時ころ、8年ぶりに出かけてみようと思います」と連絡したが、叶わぬ夢で終わった。

その年の7月10日に突如の如く発病した僧帽弁逸脱による弁膜異常によって入院、手術

退院したのは8月15日だった。

それから2年後の平成29年。

前年の平成28年の対象者はなかったが、今年は1人で実施されると再び教えてもらって訪れた桜井市の大字箸中である。

平成17年当時の取材である。そのときにお世話になった前区長のMさんが、箸中の昔を村の人が記録した史料があると見せてくださった。

箸中の氏神さんを祀る国津神社。

神社の年中行事(元旦の拝賀式・祈年祭・風鎮祭・秋祭り・新嘗祭・桧原祭)、講の行事(二日正言講、正言講、初午祭、九日講、祭當夜、)に続いて書かれていたのが、村で一体となって行われる行事の「野口の儀式」であった。

他にも亥の子、昔の風日待、十四日の大とんど、十五日朝の小豆粥、灌漑用貯池の箸中大池の魚の取勝ち(四ツ手網・たま・投網・うぐひ・ごっかり・さで)、溜池(※井寺池)の築造、百度石及び百燈明、昔の雨乞い祈願、箸中区の風水害、その他大地震災害、娯楽行事、神籠り、階差、変わった行事、箸中の偉人である杉本徳蔵、的場兵吉(小字宮ノ前)に大正時代のいろは歌留多まで書いてあった。

縦書き便せんにびっしり文字を埋めた史料はおよそ100頁にもなる。

当時の箸中の文化・歴史を記した史料は重要な文献。

現在は見ることのない、麦集めなど当時の様相がありありと浮かぶ事例は、後世に伝えたく抜粋した「野口の儀式」を下記に一部補足した上で書き写して遺しておく。

「我が箸中村には昔より野口の儀式があり、何故この様な、仕来りが出来たか分からない。恐らく、五穀豊作、害蟲の被害が無き様に、亦、一方では十七才となり、一人前の大人になる元服式であろうと思ふ。明治、大正、昭和の初期に行われた野口祭を述べて見よう」と、前書きである。

「野口祭は、半夏生、十日目の休みから始まる。休とは稲苗植付後、荒櫂(※あらくじとルビを振っていたが、あらがいであろう)、二度櫂も終って次にならし(※均し)にかかる。中間の時期の時に休みと休みの仕直しと二日間、農家は仕事を休む。この日に當年十七才になった男子の持つ親が一堂に集り、當家を規める。或る可くならば中垣内の長男で広い家屋を定める」。

「この日當年十七才になった男子達は法螺貝を吹き鳴らしながら、小麦一升宛、村内各戸より集める。この小麦を四斗俵に詰めて、この俵謄(※担)ぎの力だめしをする。そうしてこの小麦を製粉業者に賣り、其の代金を以って白米に買替する。」

「そして土用の丑の日に村人一軒より角(ツノ)の飯と飛魚一匹を供えた。當家の家へもらひに来る。この角の飯を食せば、夏の疫病にかからないと申傳えて居る」。

「土用丑の日、朝から十七才の男子は村から集めた小麦藁にて、ジャジャ馬の様なもの(これは害虫にしつらへたもの)を造る。そして半紙に牛や唐鋤の絵を書き、これも持参す」。

「先登(※先頭)に法螺貝を吹鳴し、角の飯、御酒、塩、洗米等続いて、害虫に。しつら(※え)た小麦藁のジャジャ馬を葉付の青竹に通して、牛や唐鋤の絵も共に、一行は神域山の麓にある野口の神様の神前に御供へをして、大人の仲間入りと、村内の五穀豊穣、息災円満を祈禱する。其の後、青竹だけ持って一丁余り上方の井寺池へ水浴に行き、そして池底の深き所に大岩ありて、一同は水中深くもぐり、この岩に持って来た。青竹を突き立る。これは何の意味をするか分からない。(古人に聞く、これは水の神様に祈願・・)。私の判断では、立派に成長した身体。そうして水中深くもぐる忍耐を示した行事と思ふ。これで野口祭の行事は終る」。

「太平洋戦争が始められて、村内より小麦を集めることや角の飯の強御飯(※こわごはん)の配布は休止となったが、だが、其の外の行事は毎年毎年昔通りに取り行わて居る」と文を締めていた。

この日の行事を紹介してくださった雑賀さんに頭を下げるとともにS区長も挨拶する。

S区長とは平成26年2月4日に取材した二月初午祭以来のご無沙汰である。

取材した後に初午に揚げる幟のすべてを新規に入れ替えたという。

話しを切りだしたのは御供のハタアメである。

例年、近くの饅頭屋に頼んでいたが、今年は入手できなかった。

ちなみにここ箸中は大神神社に関係する。

箸中も隣村の芝も檜原神社の氏子。

8月28日に行われる檜原祭に出仕される神職は大神神社の禰宜さん。

また、大神神社の崇敬会でもあることから成願稲荷神社で行われる初午祭のハタアメのことも存じておられた。

箸中は二月の初午。

三輪は三月の初午。

二月の初午にハタアメが手に入らなかったので、大神神社に出向いて見せてもらったハタアメの形に愕然としたそうだ。

長年に亘って箸中で見てきたハタアメと形が違う。

大きな違いは竹の太さである。

その太さを見て不細工だと思ったそうだ。

確かに私もそう思う太さ。

それは長年に亘って製造供給してきた事業者が撤退したことによる。

なんとか三輪の初午にハタアメをと、特別に大神神社の依頼で製造した事業者の手によるものであった。

元々のハタアメそのものを見ていないからそっくり同じものはできるはずがない。

その件についてはブログに書き遺したので興味のある方は、是非・・。

本日の話題であるノグチに戻ろう。

ノグチの行事名称である。

平成21年3月に奈良県教育委員会が発刊した『奈良県の祭り・行事』での記載名称は箸中の「ノグチサン」である。

同じく奈良県教育委員会が昭和61年に発刊した『奈良県文化財調査報告書第49集 大和の野神行事(下)』も箸中の「ノグチサン」である。

箸中の「野口ったん」と記載していたのは著者の栢木喜一氏が平成8年に桜井市が発刊した『桜井風土記』である。

辻本好孝氏が昭和19年に発刊した『和州祭禮記』もまた箸中の「野口たん」である。

前述した箸中の住民が記した史料では「野口」の儀式である。

箸中の「野口たん」は「野口」をさん付けしたものである。

粥を「おかい(粥)さん」と呼ぶのも、いなり寿司を「おいなりさん」と呼ぶのも、芋を「おいもさん」と呼ぶのも、普段食べているものに親しみを込めているからだ。

ではなぜに「野口たん」なのか。

村の長老は「野口たん」をこう呼んだ。

「のぐっつぁん」である。

「たん」でなく「つぁん」である。

「つぁん」は「さん」呼びから、云いやすいように訛ったものだろう。

つまりは「おとうさん」を「おとっつぁん」と呼ぶようなものだ。

私の名は「田中」であるが、初めて勤めた工場の先輩たちは「田中はん」と呼んでいた。

これもまた「さん」が訛ったものである。

「はん」、「たん」、「つぁん」も本来は「さん」が転じた呼称。

落語の「はっつぁん、クマさん」である。

ちなみに「たん」で思い出したのが、例えば野菜の「炊いたん」である。

今月の7月10日に箸中中垣内で行われたコンピラサンの後片付けをしていた86歳のKさんは、史料記載と同じ「野口」と呼んでいた。

「さん」も「たん」も付けない「野口」であった。

前置きが長くなってしまったこの日のノグチ行事。

當家を務めるのも中垣内のK家。

16歳の次男さんが務め。

作業場は国津神社の社務所。



鉢巻を〆て手伝っている男子は19歳の長男さん。

3年前の16歳のときも務めた當家である。

兄は経験者だったから手伝いができる。

母親は角(ツノ)の飯を作っていた。

やや柔らかめに炊いたご飯を五号舛に詰めて押し寿司のように作る。

角の飯と呼ばれるが四隅の角(ツノ)らしきものはない。

これを二つ作って一升飯とする。

史料にあった麦集めの量は一升である。

かつては小麦を村各戸から集めていた。

『大和の野神行事(下)』によれば、ノグチ行事の朝は家ごとに、2把の小麦藁をカドグチに立てて集めやすい環境にしていたようだ。

ヤド家を務める當家の前庭に広げてジャを作っていた。

集めた小麦は地元の麦麺屋に売り、代金を行事費用に替えて、購入した米で強飯(こわめし)にしていた。

強飯は、一般的に餅米を蒸して作ったおこわ(御強)と呼ぶが、粳米を単に蒸して作ったご飯もまたおこわである。

一方、その横で牛の絵馬を描いていたのは次男さん。

今年の當家である。



今どきの農耕に牛を見ることはない。

牛の姿を描くにしても難しい時代は下絵の鉛筆デッサンに沿って黒い線を引いているように思える。



黒のサインペンで塗りつぶす塗り絵。

もう一枚は唐鋤などの農具。

鍬も描いていた。

その横では母親ができあがった角(ツノ)の飯御供を並べていた。



手前左に一尾のサシサバがある。

開きの干しサバでサシサバと云えば、サシサバをもう一尾の頭に挿しこんだ二尾を生き御魂に供えるお盆の習俗を思い起こすが、この場での紹介は省く。

ただ、当時の史料によれば、かつてはトビウオの干し魚であった。

国津神社の境内の一角。

敷き詰めたブルーシートの上で作業をしていた。

大方、ジャを作っていたのは自治会の役員さん。

當家を務める家の祖父も昔取った杵柄をもってジャ作りを支援していた。

翌年のノグチに対象者はいない。

いなくともノグチ行事をする。

そのためにも役員たちが村の文化財を継承する。

そういうことに決めたそうだ。



大方できたところに作り方を伝える役員さん。

今日の経験を発揮するのは何十年後になるのだろうか。

ジャの原材料は小麦藁。

束にした小麦藁を繋いでいくように作っていく。

束と束のつなぎ目は48カ所。

その繋ぎ部分が結び目になる。

以前はそうしていたが、今はベースになる曲げた青竹を先に作る。

細く割った青竹を丸くする。

数本重ねて外れないように結び目をとる。

どうやらその結び目が藁束の結び目になるようだ。

丸い輪にした小麦藁のジャ。

史料によれば、当時はジャジャ馬(※以降、現在呼称のジャと表記する)と呼んでいた。

結び目は輪の外側に突き出たような形に。

これを足という。

その数は48本。

輪の両方に突き出た数が12本ずつ。

合計で48本の足は、昔も今もかわらない。

なぜに48本と聞けばヤスデと返す。

ヤスデの足は48本。

つまりはムカデであるというが、実際、ジャに足は何本あるのだろうか。

できあがったジャ(若しくは円形に組んだムカデ)はすべての葉を落とした青竹に括って外れないように仕掛ける。



国津神社の拝殿屋根に立てかける。

その下には祭壇に供えた神饌御供。



調整した角の飯に背開きのサシサバ。

表面を上にして供えていたので中身の具合が見えない。

サシサバであれば盆の風習にイキガミさん(生き御魂)に供える干し魚。

背開きした内側に塩をたっぷり塗り込んで数日間漬ける。

何日間も天日干しをすれば日焼けして焦げ茶色に変質する。

この日の取材を終えてから気づいたものだから、未確認のサシサバであるが、前年に取材をされた雑賀耕三郎さんがアップされたブログ写真である。

アップしていたサバの映像は焦げ茶色。

一尾であるが刺し鯖(※二尾の鯖を頭から突っ込むように挿すから刺し鯖)に違いない。

山添村で売っていたサシサバは食べたことがある。

一口食べて、とても塩辛かった味は今でも覚えているが、ここ箸中で夏の盆に供える、或いは食べる習慣はあったのだろうか。

史料によればサシサバはかつて飛魚であったと書いてあった。

実は鯖でなく飛魚の事例もときおり聞くので間違いないと思うが、尤も昔のことだからよほどの高齢者でないとその体験はないだろう。

ちなみにサシサバ風習はなにも奈良だけに限ったものではない。

江戸時代、盆の贈り物だったサシサバ

奈良県では飛魚を贈ったという事例も少なくない。

箸中は飛魚からサシサバに移った。

その移りは山添村で刺し鯖を売る店主も同じように昔は鯖でなく飛魚だったと話していたことを思い出した。

味覚の需要がたぶんに替わったのであろう。



神饌御供を並べたら氏神さんに向かって拝礼する。

元々はヤドを務める當家宅でしていた。

準備も直会の場も含めて、昭和53、4年のころに国津神社の社務所に移した。

そういうことがあって氏神さんに拝む形式に移したのである。

カンジョと呼ばれる地に野口の神さんがある。

そこへ出向く前に仕掛ける練習。



最近になって復活した法螺貝吹きである。

親父さんが息子に伝える法螺貝吹き。

ちょっとした練習で吹いたら鳴動した。

向こうに居る祖父も喜んでいるように見える。

吹く口が壊れたためにしばらくの期間は法螺貝を吹くことはなかったが、最近になって修理されたようだ。



吹けた、と笑顔の當家。

鳴動は明るく高らかに鳴る。

出発前に本日の記念写真。

なんせ取材陣のカメラマンが私も入れて5人。

村の人が所有するデジカメを預かってシャッターを押していた。

どの写真も笑顔が満開になったところで出発だ。



法螺貝を手にしているのは當家の次男。

この日のノグチ行事の主役である。

円形に組んだ大きなジャは青竹に括られている。

長いものだけに重さもある。

担ぐのは2年前にノグチ行事を担った長男。

兄弟二人が並んで出発する。

後方に牛と農具を描いた絵馬を持つ父親が就く。

母親はサカキ。

神饌・御供を分担してもったのは自治会役員に當家の祖父だ。



當家は覚えたての法螺貝を吹いて先頭を行く。

国津神社を出発して村の公道を東に向かう。

しばらくすれば纒向川を対岸に渡って里道を行く。



縦一列に並んだ一行は地区の人たちが畑栽培している畑道をも行く。

平成19年のときは里道を行かずに、ずっと公道を歩いていた。

車谷垣内の出合辺りにある橋を渡っていたことを覚えている。

近年は里道を行くようになったが、元々の行程はどちらであったのだろうか。

この時期は草が生い茂る。



写真にすれば、それが逆に緑一面が広がる景観を生む。

少し歩くだけでも汗が流れる高温の日。



例年、土用丑の日のころは気温が高い。

南北を走る村の公道を渡ってさらに東進する。

そこら辺りからは勾配がややきつくなる。

知人ら写真家は一行の先頭より撮りたいものだが、私の足は動きが悪い。

脈が異常に高くなるが病んでいる身体では足の回転も上らない。

恰好の被写体撮りに私が邪魔をしているのが申しわけない。

到着した地は溜池の井寺池。



ここから眺める景観に大和盆地が広がる。

平成19年のノグチ行事は先にカンジョに参っていた。

昭和60年に調査した『奈良県文化財調査報告書第49集 大和の野神行事(下)―奈良県教育委員会刊―』報告によれば、カンジョに行って供えてから、再びジャや御供を抱えて井寺池に行く行程であった。

また、平成6年の行事調査記録を掲載していた『桜井風土記』も同じ行程であることから、最近になって行く順を替えたと思われるが、ここに一枚の史料がある。

記事はミニコミ誌のようだが確認はとれない。



出典はどこなのか不明であるが、その記事中に「オーサカキング」開催を伝える記事であった。

「オーサカキング」の開催期間は平成16年から平成20年まで。

記事は平成19年に拝見した。

行事の実施日は7月18日(月)とある。

その日、曜日になる年は平成17年。

記事の内容はそれ以前の在り方である。

実施年はわからないが、文中にある行程によれば、出発してから「途中、井寺池へ寄り水門口に青竹を立てる。塚に着いて礼拝が済むと、会所に戻る・・云々」であった。

一時的にそうしたと思われる行程の記録である。



青竹に括り付けたままの形のジャを池内に立てる。

かつては池の中央にある樋まで泳いでいって立てていたが、現在は池堤の水門口辺りに立てる。



それから一旦引き上げて、ジャを操って、池水を飲ませるような恰好をつける。

長い青竹を抱えてジャを水面に漬ける。



まるで泳がせているような感じであった。

儀式が終ればジャを引きあげる。

一旦、堤に引き上げてから青竹は池に。

ジャは池堤のフエンスに立てかけて祭る。



神饌御供などを並べて、一同揃って拝礼する。

これもまた平成19年のときは見られなかった祭り方であるが、以前は當家ら対象年齢の男子だっただけに簡略されていたのかもしれない。

今年の祈念に井寺池の御供並びを一枚。



當家の男子が道中ずっと吹いてきた法螺貝も並べた。

右手に立てた青竹の葉が見えるだろうか。

拝礼を済ませたら今度はカンジョに向かう。

池堤から下ってきた一行を迎える二人。

一人は男子の祖父である。



長老は登り切れなかったようで、木陰に身を寄せて待っていた。

井寺池より下った地にあるカンジョが野口の神さん。



一角に大樹が植わっている地は私有地。

大樹は通称アオキと呼ばれている常緑小高木のハイノキ(灰の木)であるが、『桜井風土記』の記述ではセンダン(栴檀)の大木であった。

センダンであれば6月に咲く淡紫色五弁の花や葉の姿ですぐわかる。

この日に拝見した大木に花(白い花らしい)はなかったが、葉の形から推定してもセンダンでないように思える。

ただ、この大木の右手に植生する樹の葉がセンダンにとても似ている。

もしかとすれば見誤っている可能性もある。

ジャを大樹から突き出る太い分かれの枝に吊るすような形式で架けた。



大樹の下に神饌御供を並べて、一同は揃って拝礼。

村の五穀豊穣や息災円満を祈願して終えた。

昔はこの祭礼を終えてから井寺池に行った。

中央の樋に青竹を立てるには水浴を伴う。

史料に書いてあったような池底の大岩に潜ることもないが、こうして16歳の若者の行事は無事に終えた。

これより社務所に戻って直会をはじめる。

注文していた膳を囲んで両親ともども若者を祝う直会である。

道端で待っていた長老らが17歳だったころのノグチ行事。

直会の場で酒を飲んでいた。

ノグチ行事は大人入りの儀式でもあった。

水中深く潜るのも大人入りの儀式であったろう。

長老らが体験したときのヤド家は當家。

座敷で料理膳をよばれて酒を飲む。

家で夜遅くまで飲んでいてベロベロに酔っていたにも関わらず、勢いで長谷寺詣りに出かけた。

周りの人から「今日からはオトナやど」と云われたそうだ。

直会ではないが、この日の當家の母親の話しによれば、嫁さんを貰った家が主催の食事でイロゴハンの摂待があったそうだ。

およそ20年前まではしていたという箸中の嫁入り接待であろう。

ところでカンジョ場である。



その地を雑賀耕三郎さんは「神上」であると話していた。

「神上」は小字名であろう、と思って奈良女子大が製作した小字データベースに、その小字名があるのか探してみた。

確かに小字「神上」はあった。

あるにはあったが、なんとなくおかしい地。

ジャ(若しくはムカデ)を供えたその地とは場所が違う。

小字データベースでの「神上」は纒向川のすぐ傍なのだ。

そこから下に視線を下ろせば、あれぇ、である。

細い道の先にあったその小字名は「神木」。

まさにノガミの木が植わる地である。

「神木」の読みは「かみき」なのか、それとも「しんぼく」であるのか、わからないが、その小字神木がカンジョ場であった。

調べた小字データベース地図をキャプチャ化したので公開しておくが、私の知る範囲の勧請綱掛けは川切りである。



現在の小字名にある「神上」は纒向川のすぐそばの南の地である。

名残が小字名にあると推定とするならば、そこがカンジョウの地であろう。

昭和14年調査の『和州祭礼記』に野神祭・神縄祭と記しているらしいカンジョである。

もう一つ、気にかかる点がある。

『大和の野神行事(下)』の記述に「『奈良県磯城郡誌』(大正四年刊)第9章町村“織田村箸中”の項に“神上古墳 官有芝地にして四、五十年前迄は老杉一樹あり、八王子塚にある大杉と相対して大綱を掛くるの旧式あり、其神上の称あるは貴人を埋葬せる上なるに困り、又其綱を掛くるはこれを潰ささらんが爲なりと言ふ”。“八王子古墳 面積六歩、芝地にして神上古墳と相対し、蓋し八王神の転訛ならん”とあり、神上古墳の神上は箸中字神上(かんじょう)に因むものと考えられる。八王子古墳の位置は現在不明である」とある。

気になる神上古墳である。

参照したのは、桜井市教育委員会が平成27年3月に発刊した『茅原大墓古墳発掘調査報告書』である。

その記事中に「神上塚古墳」の所在地が記されている。その地は小字「神上」でもなく、「神木」でもないJR桜井線の東際。

踏切より北にすぐの地は国津神社より西側である。

一般的に小字名を古墳名とする場合があるのだが、ノグチのカンジョ場と“神上”の関係性がわからなくなってきた。

ブログ・ちょっと寄り道第2回「箸中のノグチサン」がある。

箸中のノグチに関して多くの人がネットで紹介しているのか探してみた。

ほとんどは問題のない記述で安心したが、これはとんでもないと思ったブログがある。

ご本人は懸命に調べたのであろうと思うが、誤りというか、何十年も衰退して消滅した事項まで揚げている。

このブログに27人もの読者がついているが、その過ちに気がつくことはないだろう。

一つは下永のキョウの日程である。

第三日曜とあるが第一である。

二つ目の箸中のノグチは現在日曜日辺りに移っている。

三つ目はとんでもない。

安堵町を安堵村。

岡崎のウシマワリは戦前に途絶えている。

四つ目に大和郡山市上三橋を上三条と書いてある。

奈良市の三条添川の転記ミスであろうと考えられるが、上三橋は10年以上も前に中断した。

このブログ人の情報は足で稼いでいるのか、それとも史料だけに頼っているのか・・・知らないが、発信情報にえー加減さは受信した人たちに誤った認識を植え付けてしまう危険性があることに気がつかないのだろうか。

(H29. 7.16 EOS40D撮影)
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岡・祭り終えの産の宮探訪

2018年08月27日 08時59分10秒 | 楽しみにしておこうっと
飛鳥民俗調査会が調査され、昭和62年3月に発刊された報告書『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』がある。

明日香村を多方面に亘って調査した年中行事に目が釘付けになった行事があった。

「岡に産の宮と呼ぶ安産の神を祀る祠がある。岡本神社ともいい、祭神は高皇産霊神・素戔嗚神・神功皇后であるという。7月14日に祭典が行われ、明日香村内だけでなく近郷からも妊婦がお参りにくる。元は、花井家三軒と上田家5軒とで祭祀していたが、数年前からは大字で祀るようになった。昼ごろから清掃を行い、孟宗竹の鳥居を立てる(※現在は常設)。妊婦は竹の鳥居に腹帯を吊るし、安産を祈る。夕方に神職による祭典が行われ、おさがりのゴクマキをする。このゴクをいただいても安産に御利益があるという。元は、当屋の主人が、当日の朝、吉野川でミソギをして、鮎を買って帰り供えたという」。

紹介されていた行事は今もされているのだろうか。

されているとすればその在り方を見ておきたい。

そう、思って大字岡を目指すのであるが、神職が夕刻とあるから、その時間帯までに到着して場所探し、とでも思っていたが、結論からいうとお昼過ぎの時間帯にしていたということだった。

大字岡をカーナビゲーションにセットして車を走らせる。

中心部は岡本寺付近の駐車場辺りで「到着しました」のアナウンス。

さて、どうするか、であるが、外を歩いている様子はない。

ないと思えたが散歩されていた女性に「産の宮」さんがある場所を尋ねてみた。

女性がいうには本日の午後1時に祭典があって飛鳥坐神社の飛鳥宮司が祭祀を務めていたという。

「今日来られたのは安産祈願ですか」と云われたが、いやそうではなく民俗行事の探訪ですとお伝えした。

「産の宮」さんは八阪神社であるという。

それならこの日は祇園さん。

夏祭りと称する神社もあるが、7月14日は京都祇園社の祇園さんが名高い。

奈良県内においても八阪神社、八坂神社に牛頭天王を祀る素盞嗚系の神社ではこの日は祇園さんと称する夏祭りが多くみられる。

「産の宮」さんの祭典の行事名は聞かずじまいだったが、祇園さんの夏祭りと考えていいと思った。

女性が教えてくださった「産の宮」がある地。

ここよりに行くには細い道を行かねばならない。

左折れに道を曲がって、すぐでてくる三叉路を左折れ。

急な坂道を下って右に曲がる。

その道は岡寺に向かう参道道。

そこからは細い道。

両サイドにお寺が見えたらすぐ近く。

さらに細い道を左に行けばあると教えてくださった通りに下る。

右側に「花井」の表札が見えた。

その家の下にたまたまおられた老婦人にも宮さんの場所を尋ねる。

そこはここの細い道を行った先にある。

距離は遠くない目と鼻の先。

ふと見上げた電信柱に表示があった矢印の先にある。

車は一時停車もできないくらいの参道道。

老婦人が云った。

下ってきた道の上流に駐車場があるから、そこへ仮停めしていいと云われて駐車させてもらう。

とはいっても民家の駐車場。

場所がわかったので写真を撮るだけと思って一時的仮駐車。

参道を下ったら老婦人が待っていてくれた。



ありがたいことで、案内してあげると云われて後につく。

たしかにあった高台の上に鎮座していた「産の宮」。

社殿はさらに高い高台にある。



社殿下にあったのが孟宗竹で作った鳥居である。

記事の通り、常設のようであるが、付近には切断した数本の青竹が置いてあった。

伐りとった竹片もあることから、近日に建てた竹製の鳥居であろう。

社務所らしき小屋が建っている。

改築した年号は・・・。

これらだけを撮って参道に戻ったら呼び止められた。

「産の宮」さんへ行く道を教えてくださった女性だった。

場所がわかるかどうか、気になって車を出したそうだ。

女性がいうには停めていた駐車場の車が出られなくなっているという。

こりゃえらい迷惑をかけてしまった。

ぎりぎりいっぱいまで寄せていた女性に頭を下げて、即急に対応する。

狭い参道の切り返しが難しかったがなんとか脱出。

もう一度頭を下げて申し上げございませんと声をあげたら笑顔で返してくれた。

短時間にお会いした大字岡の女性の対応に感謝するばかりだ。

だいたいの様相がわかってきた「産の宮」さんの行事であるが、7月14日と安産祈願の関係性が見えない。

八阪神社名は明治時代になってからの名である。

日本全国どこでもそうだ。京都の八坂神社も元の社名は祇園社。

県内事例の多くを見てきたが、まず間違いなく牛頭天王社、若しくは素盞嗚神社。

素盞嗚神社を充てる漢字は違うところも多くあるが、いずれも江戸時代は牛頭天王社。

灯籠などのその痕跡が残っている。

大字岡の「産の宮」さんにそうした痕跡があるのかどうかわからないが、「産の宮」の名は何かのおりに訛ったものではないだろうか。

つまりは〇〇のさんの宮さん。

しかし、〇〇は何であろうか、さっぱりわからない。

ではなく、先にあげた記事中に祭神は三神の高皇産霊神、素戔嗚神、神功皇后とある。

とすれば三神を祀る宮さん。

そう解したら「三神の宮さん」から、神を略して「三の宮さん」さんに産前か産後に参った女性に御利益があったと伝聞さされる。

伝聞はお産の神さんとなって崇められ、いつしか変化した「産の宮」さんではないだろうか。

いささか、勝手な推測であるが・・・。

さて、「サンノミヤサン」で思い出した行事がある。

同じ明日香村の大字平田である。

平成25年11月5日に取材した庚申講の「サンノンサン」行事

地元の話しによれば、お祭りをされる猿石の一つ。

「山王権現」を崇敬する地元民は親しみを込めて「サンノンサン」と呼んでいた。

(H29. 7.14 EOS40D撮影)
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大阪一眺望良しの絶景大坂城

2018年08月26日 09時26分20秒 | むびょうそくさい
視界に広がる大阪のお城。

肉眼で見ていた13階フロアーにずっと佇んでいたい。

ぞくぞくするぐらいの感動を与えてくれる。

大阪市内に絶景があるなんて、この日、はじめて知った。

ガラケーで写真を撮ってはみたものの、まなこ(眼)に焼き付けた残像とは大違い。

絶対的な違いは肉眼の範囲が圧倒的に広い広角眼。

・・・う~ん、である。

その日、何を思ったのか、さっぱり記憶にない文を書いていた。

そのテーマは線虫であった。

「匂いに敏感な線虫がいるらしい。その線虫は人間の尿を嗅いで“がん”が内在しているかどうか検出してくれる。ステージ0から4まであるが、発見的中率が93%にもなるとか。また血液中のたんぱく質を光らせてステージ0のがんを発見する臨床試験をしているというような報道を番組の特集で取り上げていた。ただ、発症しているがんの部位を見つけるところまでは至っていないらしい」と書いていた。

(H29. 7.11 SB932SH撮影)
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箸中・中垣内のコンピラサンの夏祭り

2018年08月25日 09時41分42秒 | 桜井市へ
桜井市の箸中にコンピラサンの行事があると知ったのは前年の平成28年の7月10日だった。

午後の5時半には、祭りの飾りのなにもかもが消えて、砂盛りだけが残っていた。

近くにおられた方の話しによれば、正式な講中の名は判らないが「コンピラサン」の講だと云う。

7月8日、9日、10日の三日間はコンピラサンの夏祭りをしていると云っていた。

コンプラサンの行事はどのような形式でされているのか知りたくて再訪した。

訪れる時間帯は午後5時半より前。

1時間半前の午後4時ころであれば、どなたかが参っているだろうと想定して自宅を出た。

到着した時間はジャスト午後4時。

「金毘羅大権現」の刻印がある石塔の前に花を立てていた。

前年に訪れた際である。

たまたま通りがかった午後1時の時間帯と同じように花を立てていた。



いずれも人影はない状態に被写体を撮っていた。

何らかの動きがあるのはこれからであろうと思うが、何時になるのかまったくわかっていないから、この場で立ちん坊状態である。

この金毘羅大権現すぐ傍に建つお家がある。

所在地に、であればコンピラサン行事について何らかのことをご存じと思われたので呼び鈴を押した。

屋内から出てこられたNさんに尋ねた結果は、父親の後を継いでいるが、詳しいことはわからないという。

それからも待つこと十数分。

走って来た軽トラが金毘羅大権現の前に停まった。



何をするかといえば撤収の片付け作業である。

作業中にコンピラサンについて教えてもらった。

金毘羅大権現に葉付きの竹を立てて提灯を吊るす。

花を立てて慶雲寺の住職に法要をしてもらう中垣内のコンピラ講行事である。

4年に一度の廻り当番の組が設えなどすべてを仕掛ける。

中垣内を四つの組に分けている。

例えば北の組は中垣内の北といい、南の組は中垣内の南になるらしい。

北と南があれば、残りの組は東に西が想定されよう。

ところが後日に聞いた垣内は南垣内に川垣内、上垣内の分かれ垣内であるという。

実にややこしいと思った。

今年の当たり当番になったKさんは中垣内の住民。

今年、86歳になっても家で素麺作りをしているという。

その素麺作りをしている作業の様相を撮りたいといってきた写真家は二人。

藤田浩氏と塚原紘氏の二人。

当時、よほど気にいったのか、度々やってきては屋外作業を撮っていたそうだ。

ちなみに藤田浩氏の写真で紹介していたシリーズ本がある。

編集工房あゆみが1995年(平成7年)に発刊した『奈良花ごよみ遊歩シリーズ』である。

気にいったシリーズは5冊とも買ったことがある。

かつては箸中に素麺を製造する事業者は15軒もあった。

衰退の一方で現在は5軒になったという。

コンピラ講の当番は、毎日にローソクを灯す。

手提げの燈明箱の廻りがやってきたら交替する。

夏のコンピラサンに提灯を吊るすが、提灯を納めている缶ごと慶雲寺に預けている。

そういえば昨年に拝見した缶は、すぐ横にある土塀造りの車庫にあった。



缶に「金毘羅大権現 天照皇大神宮」と書いてあったことを思い出した。

この日の10日は後宴。

夕方になれば撤収する。

コンピラサンは前日の9日の両日が行事日。

9日の朝に設えて祭る。

提灯を吊るすのは夕刻に行われる法要のときである。

お供えをして慶雲寺住職の法要がある。

昨日は夕方に大雨が降る予報が出たので、急遽、昼間に繰り上げて、3軒が集まったらしい。

法要が終わったら、いつなんどきに雨が降ってもいいように提灯は引き上げて缶に納めたという。

かつてはコンピラサンの日は、そこに架かる橋の上で弁当を食べていたそうだ。

中垣内に伊勢講があった。

現在は解散しているが、歩いてお伊勢さんに参っていたという。

帰りは長谷まで迎えにいっていたという伊勢講。

どれぐらい前のことであろうか、話しはどうも釈然としない。

伊勢講は衣装を着て遷宮に出かけた。

行先は元伊勢の檜原神社といえば、地元三輪になる。

実は檜原神社で行われる箸中の行事を取材したことがある。

一つは8月28日に行われる檜原祭である。

箸中も隣村の芝も檜原神社の氏子。

郷中行事に参列する。

もう一つは神道主分講と仏教系講の敬神講の合同祭事として行われる正言祭である。

(H29. 7.10 EOS40D撮影)
(H28. 7.10 EOS40D撮影)
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もう一つあったイワヒバ

2018年08月24日 08時58分03秒 | 我が家の花
すっかりその存在を忘れていた。

その場は玄関と駐車場に挟まれた、というか、昔は紫陽花がを植えていたところだ。

いつしか枯れることになったその場はすっかり変容した。

昨今は今夏に抜いてしまったユキノシタが占領していた場。

傍にはタイワンホトトギスの鉢もある。

これらに隠れていたイワヒバが生きていた。

なにもせずに生きていた

よくよく見れば中庭にあるイワヒバとは違う品種。

ここも雨に打たれて生き生きしていた。

それからほぼ一週間の天候はカラカラ天気。



中庭のイワヒバもそうだが、カラカラ空気が続けばイワヒバは葉を萎める。

頭も下げて肩も丸める。

雨が降るまでそうして息をひそめて生きている。

雨が降れば再び顔を持ち上げる。

ただ、それだけだ。

それから二日後の19日に梅雨が明けた。

(H29. 7.10 EOS40D撮影)
(H29. 7.17 EOS40D撮影)
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息を吹き返すさまざまなセッコク

2018年08月23日 09時41分08秒 | 我が家の花
セッコクに興味をもち始めたのはいつだったろう。

長年に亘って購入してきたセッコクを一度整理しなくてはと思って、当時利用していたケータイ電話のデジカメで収録していた。

機種はシャープ製のJ-PHONE SH-53。

懐かしくもある100万画素のデジカメを備えたケータイ機種である。

当時は一眼レフのデジタルカメラはもっていない。

メモを撮る程度なら、これで十分だと思って、せっせと撮っていた。

そのSH-53を活用して我が家のセッコクを撮っていた。

バックにブルートーンの下敷きを立てて撮っていた。

撮り方はいちいち気にしていないから、アンダー部分にセッコクを置いた玄関前土間の赤レンガが見える。

セッコクがどういうものなのか、わかればいいと思って撮っていた平成15年の7月26日

今から14年前のセッコクはどこに置いていたか。

置いていたというよりも吊るしていたという場所はガレージの屋根下に、である。

そこも吊るしていたが、ガレージの門扉にも吊るしたことがある。

車があればガレージに吊るしていたセッコクは見ることはない。

ガレージから出動してはじめて見ることのできる吊るし場。

家の前を散歩する人の何人かが云ってくれた。

通りがかりに見せてもらっています、だ。

その数はいったい何鉢あったのだろうか。

毎年の5月GWは鉢替え。

あまりの多さに丸一日しておれば腰が痛くなる。

三日間かけての鉢替えは全部で150鉢。

写真撮りが忙しくなってすべての栽培は放棄。

鉢替え苦労の一切を捨てた。

捨てても山野草は自前で生きている。

いつしか南面に吊っていたセッコクは中庭に移した。

そのことはすでに枯れるものも多く、残っていたのは十鉢ぐらいだ。

日差しがあたる南面ではどうにもこうにも育つはずがない。

残っていた十鉢は半日陰の中庭に転居。

そこは乾きがまったくない。

湿地ではないが、ある程度の湿気がある。

あってもカビが生えるところでもない。

雨が降れば湿気は保水になる。

その場が適していたのか、終息ぎみのセッコクが息を吹き返した。

白花セッコクも天紫晃も万里江も蘇った。

高芽も出だしたセッコクもある。

他にも数種類のセッコクが成長し始めた。


        < 仮名A >


        < 仮名B >


        < 仮名C >


        < 仮名D >


        < 仮名E >


        < 仮名F >


        < 仮名G >

芽生えてきたセッコクの名はわからないが、とりあえず仮名の「A」~「G」を付けて残しておこう。

(H29. 7.10 EOS40D撮影)
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花後のセンリョウ

2018年08月22日 08時01分43秒 | 我が家の花
昨年の平成28年11月8日に撮っていた赤い実のセンリョウ記事をブログにアップしていた。

その記事を見て我が家の今の時期のセンリョウはどういう状態であるのか。

生えている中庭をパソコン室から振り返ってみる。

いつ咲いたのかまったく記憶がない。

と、いうか見過ごしているのである。

いつの間にか花の時期は終わって小っちゃな実になっていた。

花後というか、雨後のセンリョウであるが、これも記録のうちと思ってシャッターを押した。

(H29. 7.10 EOS40D撮影)
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