マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

櫟本廃寺不動寺

2011年12月31日 08時07分34秒 | 天理市へ
送迎患者の一人にKさんがいる。

現在は白土町に住む人であるが、生まれも育ちも宇陀の地。

宇陀水分神社の氏子でもある。

家庭の事情から息子さんが住む町に住まいすることになったと話す。

そのKさんは毎月21日には天理市の櫟本に自転車で出かけていく。

そこは櫟本不動(ふどうさん;不動山)と呼ばれる小高い山裾で高塚公園(遺跡公園)の東の端。

かつて不動寺があったが現在は廃寺。

バケツにその名が残されている。

弘法大師の碑があって、傍らには大師を讃える和讃の文字がうっすらと読める。

その奥は竹やぶで石仏がたくさんある。

話によればこの地で四国八十八か所巡りができる八十八の石仏だそうだ。

Kさんは数年前からそこの世話人をかってでた人で、毎月21日には朝から清掃されている。

役の行者像や不動明王(明治七年建之であろう)もある櫟本廃寺の不動寺。



東方の天理街道辺りにこの地を示す石標がある。

いわゆる立石(たていし)の道標であるが、「右不動山大師云々」に、上半分は看板で隠れて読めない「・・龍講」の文字が。



4月か5月には大峰行者(洞川)修験者が護摩焚きをされ弓矢を打つそうだ。

雨天でも決行するらしい。

いつかはその講中と不動山とどのような関係なのか尋ねなくてはならない。

(H23.11.24 SB932SH撮影)
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続、関西文化の日

2011年12月30日 08時17分43秒 | 民俗を聴く
<花開く寺の郡山時代>
もしかとすればの話だが、大和郡山に都が造られたかもしれないという。

天武五年(676年)の条に「新城に都をつくらむ」が。十一年の条には「新城に幸す」とあるそうだ。それは実際に築造したことでなく天武天皇が新城の地を見に来たのだという。「新城」は現在の新木(にき)町。当地には新城(にき)神社がある。古代の地名がそこにある。

また、挽歌に「(武智の)皇子の命は春されば殖槻(うえつき)が上の遠つ人・・・」がある。殖槻は現在の植槻町のことだ。植槻のオンダで名高い植槻八幡神社の北隣にあったとされる殖槻寺。正倉院文書によれば、天平勝宝五年(753年)の『薬師寺三綱牒』や天平神護元年(765年)の『殖槻寺鎮三綱牒』に記された殖槻寺は別名に建法寺とも。同寺は平城遷都後に衰退し、平安中期の長保五年(1003年)に梵鐘が薬師寺に引き取られていった。しかもだ。土中に埋もれていた本尊の薬師三尊銅像は郡山城築造の際に掘りだされて薬師寺西院堂に移されたという。

植槻町から東へ行けば観音寺町がある。町内には八幡神社があり、その境内には、『僧綱補任抄出』の天武二年(674年)の条によれば、「唐学生、平城観世音寺此僧正建立」と記されているそうだ。此僧というのは智通。天武天皇のために矢田山に金剛山寺を建立したと伝えられている。その観世音寺ゆかりのお堂と考えられている観音堂が同町にある。

また、高田町には高田寺があったとされる。本多政勝時代の城下町拡充にともない形成された東の大門である高田の大門付近。それは後の高田神社横の釈尊寺ではないかと言われている。

孝謙天皇が即位大嘗祭(752年)で詔を発令されたのは羅城門辺りだったそうだ。そこは平城京の南の門。西に向かえば観音寺町、植槻町と続く都大路は今も現存する街道である。北に向かえば西市が。現在は藺町交差点がある中間地辺りには薬草園の地があった。その名が見られる薬園八幡神社は材木町に鎮座する。

奈良時代に花咲く郡山の寺文化は東明寺、金剛山寺(通称矢田寺)、松尾寺・・・平安時代へ。浄土宗が発達していった。世の中が不安になった時代。お釈迦さんが亡くなって「教え」を伝える坊さんが「世の中も末や」と末世を伝導する。それは「正法」の時代から「像法」への時代へ移って「末世」へ。教養がある坊さんは実行をしなくなった時代だと先生は話す。

仏像の平安時代から鎌倉時代へ。そして戦乱の室町時代。筒井氏が台頭してきた時代だ。
南北朝にかけての石仏がある。末世への切なる願いで建立した石仏。それは生きている間に造る。その時代はいつなんどきに死ぬのかもしれないと、生きている間に供養する逆修の風習が石仏文化になったそうだ。

額田部額安寺の虚空蔵菩薩座像、金剛山寺の十一面観音立像、浄慶寺の阿弥陀如来座像(密教系仏)。椎木町光堂寺の薬師如来座像(平安中期)、観音寺町観音堂の十一面観音立像へと仏像に関する話が続く。

さすがに有形文化財が得意だけに知らないことがいっぱい。

特に観音堂の十一面観音立像は、西日本にはなく、東北や関東に多い荒彫り(ナタ彫)の線刻痕が見られるそうだ。そのナタ彫は霊仏化現(れいぶつけげん)と呼ばれるもので、木のなかにひそんでいた仏さんが彫る途中に出現したといい平安時代に流行ったそうだ。

そして、武士の時代、城の時代へと移るのであるが講演時間の都合で割愛された。

特に城の時代は民俗的な文化財が数多くあるという。

文化財は尋ねて知ることが大切。

郡山の町は文化財で囲まれている。

白鳳時代の滝寺まがい仏もあり、あらゆる時代が詰まっている郡山。

日本全体の歴史を教えてくれる地域だと、関西文化の日の講演時間は大幅に超えた2時間半であった。

関西文化の日とは直接関係ないが、その夜に福岡(ソフトバンク)ダイエーホークスが日本一になった。

南海ホークスからいった「あぶさん」は今でも現役で活躍している。

37年目だという。

長男が阪神タイガースにいるらしい。

来年は胴上げを久しぶりに見たいものだ。

(H23.11.20 記)
映像はH23.12.22 SB932SH撮影の西町良福寺。
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関西文化の日

2011年12月29日 06時45分38秒 | 民俗を聴く
クリーンキャンペーンの日と重なった関西文化の日。

町内の掃除を済ませて終わるわけではない。

集めたゴミは回収されてようやく班長の役目を終える。

車が来るのはいつも昼からだ。

回収場所は自宅近くだけにときおり玄関先からのぞいてみる。

いつもはその近くで町内の人たちと食宴をして待っているのだが・・・。

それはともかく午後1時半にやっと来た。

大急ぎで向った先は県立民俗博物館。

この日は「大和郡山の歴史と文化」をテーマに大和郡山市文化財審議会会長の長田光男先生の講演がある。

大和郡山に住まいしておよそ30年にもなるが、知らないことばかりだ。

講演の話はそれを少しでも埋めてくれるであろうと思って聴講してきた。

普段の入館料は200円。

それがこの日はなんと無料である。

大和郡山の歴史と文化が一挙に聞ける無料の日。

ありがたい日にありがたい話を聞くのである。

長田光男先生はいつも歩きで探訪している。

85歳の高齢であるにも関わらず足は健脚。

足取りは実に軽やかなお人である。

史跡、文化財、考古と範囲は広い学識をもつ。

あっちこちに出かけては現地で解説をされている。

『奈良点描』など著書も多い。

三の丸歴史愛好会の講義はなんと380回も越えたとされ、その期間といえば18年間。

すごいの一言しか浮かばない。

さて、肝心かなめの講演会はといえば聴講者はおよそ70数人。

会場はあふれる一歩手前であった。

大和郡山の歴史と文化を物語るには時間に限りがある。

近世までは到達できるべくもなく今回は黎明期から中世までで、石の時代の黎明期と寺の時代の花開く文化を話された。

<黎明期の郡山時代>
饒速日尊が登場する旧事本紀や日本書紀。それは矢田の郷ではないかという学説がある。
天の磐船から放たれて落ちたとされる矢田。一ノ矢、二ノ矢、三ノ矢それぞれの地がそこにあるという伝承の地は卑弥呼の里だというのだが、発掘されたものはなく学界では無視されているという。

その矢田の近くになる小泉の地。火災にあったまま放置された弥生時代中期の住居跡が見つかっている慈光院裏山遺跡。土の屋根やパオ状の板壁が発見されたそうだ。石室はドーム状で大陸系の古墳だったとされる。4世紀後半に築造されたそうだ。

古墳内からは長さ50cmぐらいの舟形埴輪があった。その形は外洋航海にも耐えうる構造船を模した埴輪であろうとされる。遥かなる国からやって来たと思われる人たちは船団で日本海を渡り瀬戸内を航行してきた。それは難波津から大和川を遡上し富雄川へと。そこは大倭国の鳥見の地。住み着いた人が築造したのではないかという。

尤も現在の富雄川は城(じょう)、外川上流辺りから小泉までは江戸時代に築造して繋げたものだけにその時代の様相は大きく異なる。その古墳からは鉄器や砥石、武具も出土したそうだ。

鉄の文化がそこにあったわけだが、鉄製の農具はいつから始まったのだろうか。稲作は条里制とも関連すると先生は地図を広げて話題を展開する。

大化の改新(646年)以後の稲作は大宝律令が発布(701年)される50年前。稲作生産は食料や経済の主食である。慈光院裏山遺跡は丘。丘陵地では稲作は難しいから平地に移っていったという。

そういえば大和中央道を作る際に発掘されたのは弥生遺跡の東城(ひがしんじょ)遺跡。平成16年にオープンしたアピタショッピングセンターの開発前に畑地を発掘された田中垣内遺跡。それも弥生後期の遺跡である。
郡山はどこから開けていったのかということだ。

(H23.11.20 記)
映像はH23. 1.16 EOS40D撮影の矢田三ノ矢塚。
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北白木高オカミ神社女座のお渡り

2011年12月28日 06時44分33秒 | 桜井市へ
カシワゴハンが出されてからも北白木の女座は続く。

それから1時間。

外は真っ暗になっていた。

「ながい間、ごっつあんでした」と太夫が一言挨拶をされて座は仕舞われた。

座に集まる祭に婦人たちが持ってきた高張提灯を手にした。

拝殿には吊るされた提灯に灯りを燈されて出かけていく。



一部の提灯持ちには男性が混じっているが大勢は婦人たち。

目指すはトーヤの家だ。

暗闇の道は足元が見えない。

懐中電灯を照らしてトーヤに向かって歩くこと6分ほど。

玄関先に竹を立てて注連縄を張っていたその家に着いた。



太夫は家内で祀っていた御幣を取り出した。

神棚に向かって一礼を済ませると玄関に飾っていた二本のうちの一つの注連縄を取り外した。

そのころ高張提灯にはローソクの火が燈された。

そうして始まった暗闇道中のお渡り。

トーヤの家で祀っていた神さんを迎えに来たというのだ。

9日に受けた神さんは12日の夜に再び神社へ戻っていく夜のお渡り。



提灯の明かりが北白木の夜道を照らす。

神社への階段を登ってあがる。

先頭はトーヤが持つ神さんだ。

奇しくもこの年は仮の太夫を勤められた人がトーヤだったのだ。

到着すれば玄関に飾っていた竹の注連縄とともに神さんは本殿に納められた。



それを見守る高張提灯を持つ婦人たち。

座といい、提灯持ちといい女座の夜はこうして幕を閉じた。

かつては受けトーヤの家で座が行われていた。

そのころは着物姿だったという。

(H23.11.12 EOS40D撮影)
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北白木高オカミ神社女座

2011年12月27日 08時15分54秒 | 桜井市へ
桜井市の東部山間には高龗神社と呼ばれる神社が数社ある。

高龗と書いて「たかおかみ」と呼ばれる氏神さんを祀る地域は萱森、和田、中谷、中白木、北白木などの旧上之郷村。

昭和31年の市制の際に編入された。

北白木の集落は16戸。

高龗神社の座の営みが行われている。

この夜は女座と呼ばれる行事がある。

女座と書いて「おなござ」と呼ぶ行事は12日に行われることから十二日座とも呼ばれている。

女座というだけに婦人の集まりでもあり、社務所に上がった人たちは座の人も加わって14人。

「こんな寂しい年はなかったのでは」と話す人たち。

「これほど少なかったら解散式でもせなあかんな」という。

この年は2軒の服忌が多くあった。

それであれば祭礼には出席できない。

戸数が少ないだけに維持するのも困難になったと話すが、たまたま重なったようだ。

座の中央、上座には太夫(たゆう)と呼ばれる長老が座る。

その人も服忌であっただけに年齢は若いが仮の太夫だと言って席に着いた。

周りを囲むのは婦人たちに座の六人衆の席。

「今夜は少ないからもっと寄ろうや」と席を詰めて座った。

それぞれの席にはパック詰め料理。



そこへ温められた甘酒を給仕当番の婦人たちが配る。

昨年に収穫したウルチ米を蒸して麹菌を入れた。

それを沸かして味噌を作るような感じで発酵器に入れる。

2日間そうしておくと柔らかくなっている。

それを炊いてできあがった甘酒はとても甘くて美味しい。

米の粒が残っていて口当たりもいい甘酒だ。

実は甘酒が神さんだという。

9日は宵宮で甘酒入れの行事があった。

六人衆とトーヤ受けに給仕が拝殿で登る。

そこで甘酒の上澄みを掬いとって女の神さん、男の神さんに遷します。

甘酒は足されて繰り返すこと3回。

それがトーヤ受けの儀式で神さんを受けるのだという。

カワラケに注がれた甘酒の汁を三三九度のように回し飲む。

それが受ける儀式なのであろう。

カワラケは蓋をして神さんと呼ばれる箱みたいなものに納めて家で祀るそうだ。

翌日の10日は私祭(おとさし)と呼ばれる行事で、六人衆が神社の祭礼を行っていた。

ノコギリや備中グワなど農具の七つ道具を作って山の神に参拝したそうだ。

そうした行事を経て12日となった女座の日。

座を広げる数時間前までは神社で神事が行われていた。

そのときに供えたのがオシゴクと呼ばれるメシ。

八合ぐらいと思われる枡にメシを詰める。

その枡の角に詰めるのだ。

メシの量は適当だが蓋で押してできたゴクは三角形だったそうだ。

座はお酒がすすんで会話が弾む。



1時間半も経過したころだろうか。

給仕は大釜で炊いたカシワゴハンを椀によそっていく。

「水をちょっと入れすぎたからべちゃべちゃになった」と給仕は話すがとんでもない。

具材は鶏肉とアゲ、ネギだけで炊いたカシワゴハンは味にコクがある。

ヒネの親鳥の鶏肉を使っているだけに出汁が濃いのだろう。

六升も炊いたから余計に美味くなったのであろう。



何杯もおかわりをしてしまうカシワゴハンは贅沢な味の料理であった。

温かいトーフ汁や手作りの香物の器にもお箸が伸びる。

(H23.11.12 EOS40D撮影)
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都祁南之庄国津神社上棟祭

2011年12月26日 06時48分31秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
20年に一度の村の祭りは数えること数百人。

上棟祭とも呼ばれている都祁南之庄の国津神社の造営祭典の受付を済ませて、巫女が酌をされる祝いの樽酒をいただく。

さて、祭典はといえば高い舞台の上。

両側には大きな弓矢が見られる。

弓始式で行われるカブラ矢だ。

そこからは鳥居を経て向こう先まで紅白の綱が引かれている。

参拝者はその下から見上げるほどに高く、そこで行われる祓いの儀、降神の儀、祝詞奏上、造営工事を請け負った棟梁の祝詞奏上などの神事を拝見することはできない。



僅かながら舞台下からその作法を垣間見る切麻(キリヌサ)の儀、撒米(サンマイ)の儀、槌打ちの儀、撒餞(さんせん)の儀。

撒かれた撒餞は紅白の紐で括られた五円玉。

それは重さがあるだけに遠くまで飛んでいく。

手に入れようと歓声が飛び交い村人の手が舞う。



手水の屋根まで届いた撒餞もある。

槌打ちの儀では20年後には若者になる代表者として小学生も参列される。

次の時代の造営の後継者だと紹介された。

宮守さんや宮造りに従事した人たちが並んで槌を持つ。



「せんねん、と おー」でトン。「まんねん、と おー」でもトンと打つ槌音。

さらに「えいえい、とー おー」と目出度い槌打ちの儀は「まんねん」が2回で「えいえい」は3回も繰り返された。

宮造りに従事した人たちの玉串奉奠を経て撒餅(さんぺい)の儀。



それは造営の挨拶を経て行われたモチマキである。

手に入れようと集まった村人たち。

南之庄は40戸の地区。

滅多に見られない村の風景は人、人、人の群衆である。



目出度い御供モチは一戸あたり250個になるよう寄進された。

大量のモチは群がる人たちで境内も埋め尽くす。

そうして村の祭典を終えた氏子たちは御幣や記念品を貰って帰る。

この日は親戚中も集まって各家の祭りごとに転じていった。

(H23.11.12 EOS40D撮影)
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都祁南之庄国津神社20年ぶりのゾーク

2011年12月25日 09時25分52秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
春日大社では平成27年11月5日に第六十次の式年造替(ぞうたい)が行われる。

明治時代に社殿が国宝や重要文化財に指定された関係から江戸時代の造替を最後に破損に応じた修理を重ねてきた。

そのような形式で造営(ぞうえい)を繰り返す大和奈良の寺社が多い。

多いがそれは奈良の東側。西側に位置する葛城辺りではそれは行われていないそうだ。

神職が集まる会合でそのことを知った友田や針の宮司。

その宮司が管轄する神社ごく当然なように造営をしていたのでとても驚いたと話す。

葛城の笛吹神社や長尾神社の宮司がいうには「葛城は大阪寄り。東側は伊勢に近いからそれがあるのでは」と話す。

その造営の式典を大和奈良では「ゾーク」と呼ぶ人が多い。

奈良市都祁南之庄に鎮座する国津神社は20年ぶりにその造営が行われた。

「これを拝見するのは20年ぶりで足腰も弱くなった年齢になったけどありがたいことだ。」と話した老婦人。

それだけ健康でおられた証しであろう。



造営の祭典が行われるのは高く組み立てられた舞台。

本殿の屋根まで届く高さで紅白の幕が張られている。

中には大御幣が3本、鶴紋入り日ノ丸御幣は40(42)本ぐらいもある。

さらに小御幣は66本もある。

日ノ丸御幣は造営委員ら神社役員が、小御幣は村の人が祭典後に貰って帰る。

その場には紅白の餅が桶に入れられている。

これは祭典の際に撒かれる御供モチで2石4斗も搗いたという。

その桶には造営の証しがある。

裏側に墨書された文字にはその都度寄進された年月日が記されていたのであった。

祭典が始まるころには続々と集まってきた村人たち。

普段の神社では役員たちだけだが、この日は見たこともない人数で瞬く間まもなく埋まっていく。

境内は溢れて外までいっぱい。

目出度い日であるだけにキモノ姿の婦人も多い。

子供も多く境内は寿司詰め状態である。

それを見守るかのように並べられた槌が36本。

槌の両側には牛玉宝印の印であろう炎のような朱印がある。

神仏混合の名残であろうか。



この造営を記念して新たに作成された略記。

「天延二年(974年)、社の傍らに御堂を建之し、薬師、釈迦像を安置したとされる観音堂があった」と記されている。

その印しは神仏混合の時代の名残であるかも知れないと宮守たちは話す。

(H23.11.12 EOS40D撮影)
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菅生のおかげ踊りの予行

2011年12月24日 08時40分03秒 | 山添村へ
平成4年3月6日に県指定された菅生のおかげ踊り。

2週間後に迫った芸能大会の披露に最後の練習が始まった。

平成8年に三重県紀伊長島で披露された大会のビデオ記録を見て当時を懐かしむ。

あれから15年も経った。

当時出演していた人たちも15年前の映像で歳月を確かめる。

それからは若い人も加わっておかげ踊りを続けてきた保存会。

後継者も力がついてきたのでそろそろ引退する時期がきたと話す婦人も目を細めて映像を見る。

これを見るのは舞台演出だ。

かつての映像には「ヤマ」も「旗」もあった。

おかげ踊りは、代参を終えた伊勢講が戻ってきたときにヤドの家でそれを祝って踊っていた。

そのヤドでは出発する際に「ヤマ」を作って代参を見送っていた。

戻ってきたときにもてなして酒を酌み交わす。

仮装の衣装を着てオドリコミをしていたのである。

輪になって踊りこんだという。

その人数は座敷に入ることができないくらい大勢いだったから溢れた踊り子は「カド」で踊ったそうだ。

その「ヤマ」を舞台で演出しようというのである。

15年前、それを勤める男性たちは登場していない。

そういうわけでビデオ映像を確認されたのである。

当時の仕掛は台車を土台に使っていた。

それを白い布で覆って「ヤマ」に見立てた。



踊りの練習をしている間は設計図作り。

装飾にも拘る設計図だ。

旗といえば赤い布。

竹に取り付けた旗には「奈良県無形民俗文化財 菅生おかげ踊り保存会」の文字がみえる。

手作りの旗に胸がときめく。

踊り子たちは舞台袖にたつ。

舞台の関係上、二手に分かれて登場するという想定で始まった予行の練習。

まずは舞台に置かれた「ヤマ」に向かって伊勢代参の男性たちが参拝をする。

神事と同じように2礼2拍手に1礼だ。

そして始まったおかげ踊り。

囃子の唄い手は三人に太鼓打ちがドン、ドンと叩くリズムが心地よい。

「アーヨイサー お陰阿波から ヨイセ、コラセー  踊りはー河内 アーヨーイセー コラセー せんぎょ(ナヤー) 初めはヨイリャ 大和から ササヤートコ セイノヨイヤナ コリャ アレワイサッサ コレワイサッサ ササナンデモーセー」の1番歌に続いて2番、3番と舞う踊りはシナイを右手でもって左手で支え、振り回すように踊る。

そして、4番の囃子を終えたときに扇に持ち替える。



そのとき、シナイは背中に挿す。

両手が空いて二枚の扇で舞い踊る。

優雅な踊りに拍手喝采する。

踊り終えると唄い手が口上を述べられた。

それを受けて踊り子が語った口上は「誉めて貰ったら、そのお礼の向上もするのです」という。

その年ごとに異なる口上。

「なにを述べるのか4年ごとに考えた」と話す唄い手の一人。

「おまんは上手いこと言うな」と考えた口上には「花づくし」や「お茶づくし」、「松づくし」、「青ものづくし」などで目出度い言葉が散りばめられているそうだ。

その口上の一部が残っていると話す太鼓打ちのUさん。

菅生の記録を整理して残さねばと話す。

そのUさんが所属しているのが隣村の春日で奉納されている申祭りの能狂言者。

菅生の春楽社の一人である。

おかげ踊りの予行をされた集会センターで毎週火曜日に申祭りの練習をしているそうだ。

(H23.11.11 EOS40D撮影)
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鍛冶師の仕事

2011年12月23日 08時30分58秒 | 民俗あれこれ(職人編)
それから1年後、再び訪れた染田の鍛冶屋さん。

フイゴの祭りを終えて、おやじさんの仕事話を聞く機会を得た。

日本には鍛冶屋が三つあるという。

刀(刃)を造る刀鍛冶、大八車の車輪を造る車鍛冶に農具を造る農鍛冶だという。

小学校の生徒に話す機会があってからある道具を作った。

それはペットボトルで6分割した筋を入れている。

下から幼、小、中、高、大、一般と書かれている。

それに水を入れていく。

その際にわざと水をこぼすように入れる。

「しっかりと聞いていないとこのようにこぼれる」のだと話す。

「先生の話を聞いていないとこぼしてしまうのだ」と優しく話す。

そうすると生徒はこっちを向いてくれるという。

大人になれば新しいことはこぼれて入らんと付け加える。

ごもっとも。

尤も小さいころの記憶はいつまでも残っている。

なるほどとうなずく。

「教えることは二度目の習い」。

そういう気持ちで話しているから歳がいっても勉強なのだという。

染田のおやじさんに教わること、訪れるたびに感心することが増えるが一向に実践できていない。

人生している限り勉強しなくちゃ、と思うのだけど・・・。

他にも「財、病、離、義、宮、劫、害、吉」の語呂。

人間は岩になり心は花になるということだそうだが、奥が深くて貧弱な私の頭では想像がつかない。

また、今の世の中は物で栄えて心は滅びるという話もあったがこれまた難しく・・・どうにもこうにも・・・・。

そうして話題はいつしか農具に移った。

商売の糧となる注文を受けた農具が並んでいる。

そこには昔から使われてきたクワが多い。

スキ(犂)もあるが鉄製の鍬だ。

光っているクワもあるがそれも鉄製。

ステンレスのように見えるがそれも鉄。

磁石がくっつく。

そのクワはDIYのホームセター園芸店で買われたモノであろう。

畑を耕す道具がそこにあるが造りが大きく異なる。

そのクワは一枚でできていて柄が取り付けられているヒラグワだ。

おやじさんが扱っているのはそういう一枚鉄ではない。

木製部分と鉄部分に分かれているのだ。

木製にあたる部分を単体で呼ぶ場合は「ヒラ」という。

樫(アラカシであろう)の木でできており甲の部分は高くなり周囲はほどよくひし形のようで丸くなっている。

これを「マルヒラ」と呼ぶ。

柄が挿しこまれる部分は四角い。

そこは適度な角度がありクサビで止める。

柄も含めた木製部分はカタギ(堅木)屋さんが作る。

鍛冶屋さんはそのマルヒラに合わせて耕す部分の鉄を作る。

それも単体で呼ぶ場合をヒラグワという。

木製部が鉄部に入る部位には溝が刻まれている。

溝を切るのはタガネを用いる。

こうして切っていくのだと実演してくれた。



いろいろな鍬があるがそれぞれに異なる柄の角度。

微妙に違っている。

話によれば畑を耕す場合と急斜面の地荒起こしする場合と違うという。

畑を耕すヒラグワを使えば角度が大きいから斜面で使う場合には不適である。

それよりももっと急な角度であるのだ。

そんな違いをこの歳になるまで知らなかった。

感動と驚きの教えであった。

(H23.11. 8 EOS40D撮影)
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フイゴ祭りに感謝

2011年12月22日 06時47分28秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
室生の染田は度々訪れる。

昨年の11月17日、産経新聞で野鍛冶師のことを紹介した。

取材が5年前だったフイゴ(鞴)の祭りのことである。

『弥生時代は安定した生活を営むため水稲耕作が広まった。農耕具が木製から鉄製に移ったことが普及の一因だ。鉄製農耕具は荒れ地を開拓するのに適し、より広大な土地を耕すことで文化水準が一挙に高まった。そんな農耕具を作る野鍛冶は戦後間もなくまでは村の花形だった。しかし、その姿は農作業の機械化に伴いほとんど見られなくなった。・・・・。』

『田畑を耕す鍬や鎌は農業を営む人にとっては欠かせない大切な道具。鍛冶屋はそれを作り出し、打ち直して機能を長持ちさせる職業で、農家とは密接な関係にある。鍛冶屋にとってなくてはならない道具が鞴で、火をおこし、風を送る。・・・』など、長文を書いた。

その記事を大切に保管されているF氏。

ありがたいことだ。

サブタイトルは「火おとし 感謝の一日」。

これは新聞社の人に作ってもらった。

数文字で私が言いたいことのすべてを表す。

これにも感謝した。

(H23.11. 8 EOS40D撮影)
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