マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

滝倉・瀧の蔵神社歳祝いの米寿祝い

2023年01月05日 07時41分47秒 | 桜井市へ
村の伝統行事の数々を取材してきた桜井市の滝倉。

長谷寺の奥座敷とも呼ばれていた滝倉。

長谷寺からダムあがりの道よりも、天理の福住から、或いは西名阪国道・針テラスより南下し西へ。

福住からなら東の方角へ。

合流する地の旧都祁村の並松から南下。

38号線に沿って下る。

桜井市・小夫(おうぶ)の口からちょっと入った地が滝倉。

迷うことのない村の道。

のぼった三叉路を右折れ。

さらに左折れした地に瀧の蔵神社がある。

写真家のどなたも足を踏み入れたくなる見事な姿の一本桜がある。

県指定天然記念物の権現桜は雪が積もる日もあった。

大樹の権現桜を知る人は多いが、村の伝統行事を知る人は極端に少ない。

滝倉は、瀧ノ蔵の上の郷とも呼ばれる地。

年中行事は、実に多様であり、奥は深く、多彩な様相。

平成18年、この日も伺ったときも様々な行事を教えてくださった。

オコナイ頭屋渡し三日講毛掛けヨロコビ虫の祈祷

薬師さんの会式改名祝い十三仏地蔵参り

御分霊頭家入り祭御シメ入り頭屋祭

満願三日講鬼の葬式旧暦閏年の庚申さんのトアゲ

節句のヒシモチ御供物うるう年の塔場アマヨロコビ

先祖さんのタナ風鎮祭ツイタチゴハン華参り朔日参りの御供飯再訪華参り

かつてはこうだった、いう端午の節句カラスノモチ

そして本日は、歳祝いの米寿を祝う村の行事。

事前に話してくださった現一老のOさん。

88歳になられたご本人を村が祝う行事である歳祝いの米寿祝い。

神事の場は、瀧ノ蔵神社の拝殿。

祝いの宴は神社の参籠所内。

この年の1月4日に訪問した際、昼いちばんに行われる、と聞いていたので早めに着いていた。

大樹の権現桜に冬の様相を観ていたときに出会った村の女性。

この日の祝いに参席する、という。

瀧の蔵神社に向かう口にあたる小社に手を合わせていた。

鳥居下階段を上るところにある手水に手洗い。



鬱蒼とした樹林に囲まれている瀧の蔵神社。

目の前に迫ってくるようだ。

そのときだ。



風呂敷に包んだ御供餅にお神酒を持ってきたHさん。

たしか四老だった、と思うが・・・

拝殿を上り、祭壇前に供えていた。

先に来ていた、本日の参席者たち。



右手の場で暖をとっていた。

正月明けてからの顔合わせだろうか。

積もる話題に語らう場が温かい。

コロナ禍であってもしなければならない村の行事。

祝いの神事は、外すわけにはいかない米寿の祝い。

かつては2月1日に行っていた。

その日は、2月の小正月の日であったが、集まりやすい直前の日曜日に移された。

拝殿前、といっても近々の特設的でなく、拝殿との間の境内空間向こうに設けた場に建つ瀧ノ蔵神社。



目を揚げた位置。

石垣の上に威風堂々としたお姿の社殿。

神さん側から見れば、拝殿を見下ろすように建てた拝殿。

一同は、時間ともなれば拝殿に上り、席に就いた。

これよりはじめる儀式は、歳祝いの儀。

祓の儀に祓詞。

御扉開けに、おーぉぉぉぉ・・。

警蹕は、森林、深山の遥か遠くまでに届いているだろう。



粛々と行われる献饌。

祝詞を奏上され、玉串奉奠。



現宮司は、数年前まで祭主をされていたI宮司の娘さんだ。

十数年、一老を務めながら、亡くなられるまで祭主を務めていたI宮司の跡を継ぎ、この年、この月より宮司を務めることになった。

と、同時に、前二老だったOさんは、座を繰り上がり一老に就いた。

88歳になられたOさんは、本日の歳寿ぎに迎えられ、玉串を捧げた。

撤饌、警蹕、閉扉を経て、歳寿ぎ神事を終えた一同は、参籠所に移動する。



その間に風呂敷に包んだ御供も下げて、参籠所の縁に並べた。

例年であれば、この御供餅は、直会を終えた直後に御供撒きをされるのだが、コロナ禍の状況では、密を避けて手渡しに替えた。

御供桶に盛った餅の数々。

見ると、ひと際大きい餅がある。

その餅は、平らな形。この餅は「ゴヘイモチ(※御幣餅)と、呼んでいた。

続く営みは、直会(なおらい)。

区長の挨拶に続いて、米寿祝いのOさんも、挨拶。



「本日は、米寿の祝いに・・・」などと、朗々と語られた。

なんと、その場に座るだけでもありがたいのに、区長からひとこと挨拶を願われた。

「滝倉に訪れるようになって早や20年。当時はまだ50歳だった私も頭が真っ白の坊主姿。この年に70歳に、Oさんは88歳。これからも、いや、いつまでもお元気でおられるよう祈念します」と、挨拶した。

酒杯に乾杯した語らいの場。



宴のさなかに動いた。

数個ずつの御供餅を袋詰め。



席に置いていく配布。

コロカ禍の対応に配る手段に切り替えられた。

1時間ほどの歳寿ぎ宴も無事に終えた村の人たち。



歳寿ぎのOさんも、またお家に戻っていった。

帰る際、O夫妻からいただいた紅白饅頭。

内祝いのしるしに「よーきてくれた」と受け取った米寿祝い。

餅に、下げた神饌も。



神さんに捧げた昆布にスルメもありがたく頂戴した。



この場を借りて感謝申し上げる次第だ。

(R3. 1.31 EOS7D/SB805SH撮影)

滝倉に聞き取るカラスノモチ

2022年12月03日 07時36分05秒 | 桜井市へ
O婦人の出里は奈良市旧都祁村の大字来迎寺。

大字の白石、南之庄住民が、話してくれたカラスのモチの記憶証言。

繰ったネットに見つかった論文『都祁村の民俗と社会(その二)―甲岡・来迎寺調査報告―』(シオン短期大学都祁村調査班森謙二)の114頁にカラスのモチの記載があった。

「カラスは琴平神社の金比羅さんの使いとされている。藁の中に12個の餅を詰め、ススキの先につけて、“カラスこい”と言って、金比羅さんにお供えする。その後に、火打ちをする」とある。

正月4日の行先は、桜井市滝倉。

カラスノモチを10数年前に県文化財記録収録した、と写真家のKさんが伝えてくれたその件。

奈良県教育委員会が、調査し、発刊した『奈良県の祭り・行事』調査報告書に記載していた。

行事名は、正月頭家(※オコナイ)。記録日は平成21年2月1日から6日。

カラスノモチは、「一臼目に搗く餅は、5cmほどの平たい餅。二臼目はマイダマ(※繭玉)を搗き、三臼目がカラスノモチ(※烏の餅)とセンゴクマンゴク(※千石万石)。カラスノモチは、長さが45cmほどの藁ヅトにビー玉大の小餅を12個。旧暦閏年の場合は13個。このカラスノモチを藁ヅトに収める。そして社務所裏に樹勢する適当な木に括りつける。なお、カラスノモチは、なくなるまでずっと吊るしておく。(※筆者要約しカラスノモチ記とした)」

実は、私もその正月頭家行事を取材していた。

但し、平成18年の2月5日行事だけだったが・・・

だが、カラスノモチは、5日でなく別の日に行われていたようだ。

今頃になって知った、桜井市滝倉のカラスノモチ習俗。

平成18年の初取材行事。

当時、行事の情報は主たる行事しか知らず・・・今さら遅いが、悔やんでも仕方ない。

滝倉はその後も度々訪問取材してきたが、六人衆の高齢化、死去により若手加入もしてきたが、頭家をする家もないほどに村の戸数が激変した。

この日、お会いした当時二老だった現在88歳のOさん他は、座員の死亡。

長らく勤めておられた一老兼神職宮司のIさんも昨年の5月に亡くなった、と聞き、寂しくなった。

平成28年の8月1日。

華参り行事が最後のIさんの姿を収めていた。

いずれ、その先の村の戸数は3軒になるやろなって、云ってた。

そんな状況であるが、かつてされていたカラスノモチは回顧談の記録に、と思って訪問した。

さて、報告書記載にあるカラスノモチである。

「行事の一環に千本杵で餅を搗く。マイダマ(※繭玉とも)にカラスノモチ、センゴクマンゴク(※千石万石)と称する餅をつくり、それぞれの儀礼に用いた習わしだった」、と伝えている。

習わしの有様を詳しく述べる。

「マイダマはシダの木の枝にくっつけるようにした餅。カラスノモチは、藁ヅトに小玉大の餅を12個、閏年は13個詰め、社務所裏に育つ樹木に吊るしておく。やがて鳥獣がやってきて啄む餅。これをカラスのモチという」

実は、平成18年取材に社務所で行われていた千本杵餅搗きも、藁敷きに搗いた餅並べもオコナイの華つくりも拝見していたのに、カラスノモチのことは、まったく触れず。

あぁーーー振り返っても仕方ない。

当時の私の聞き取り力は、まだまだだった実力不足。

残念な思いは、今後の取材に力を注げばいい。

そう思うことの方が大事だろう。

その話題に思い出してくれたO家のカラスノモチ。

他の地区と同様、12月28日若しくは30日に搗く正月の餅の日であるが、卯の日は搗かないそうだ。

カラウスで餅を搗いていた時代にしていたカラスノモチ。

何十年も前の体験談。

「カーカー鳴きよるから、8個、8個入れよ」、と云われて庭にあった柿の木に吊った。

屋敷内にもあった柿にも吊るした。
柿の木に吊るす行為は、この正月の2日に伺った天理市長滝・Y家のあり方と同じである。

奥さんも思い出された出里のカラスノモチ。

出身は奈良市旧都祁村の白石近くになる大字都祁来迎寺地区。

実家でしていたカラスノモチは船の形に折り曲げた藁ズト、左右の藁にそれぞれ餅を8個ずつ入れていた、と話す。

その形、都祁白石に商店を営むT夫妻が、話してくれた形と同じである。

個数の違いはあるが・・・

今では見ることもない、カラスノモチ民俗が次々と繋がっていくのに驚き、また、すごく感銘したここ数日間に亘って調査した天理市上仁興長滝、奈良市都祁白石に桜井市滝倉。

地域ぐるみの行事もあるが、民家の民俗調査が、今いちばんの喫緊の調査課題であろう。

お年寄りの体験・記憶が後継者に継がれることなく消えていく民家の民俗行事。

情報を得たら、直ちに行動をとらなければならない。

ところでOさんは88歳。

これまでいくつもの滝倉の年中行事を話してくださった。

村が米寿の祝いをしてくれる。

場は瀧蔵神社。

例年は、石垣の上からゴクモチを投げるのが常であるが、今年はコロナ禍。

袋に詰めた御供餅をもってゴクマキをするか、それとも手渡し、或は個々に配るか、区長も悩んでいるらしい。

是非、来てや、と云われる歳祝い行事は、この月の31日。

躊躇いなく、スケジュールを入れた。

(R3. 1. 4 EOS7D撮影)

長谷寺門前通りのしめ縄を経て奥座敷の瀧倉へ

2022年12月02日 07時39分01秒 | 桜井市へ
初山に向かう数日前につくる曲げた注連縄。

そこに供えていたお神酒どっくり。

宇陀市榛原の角柄の地にお住いのY家がしていたあり方。

拝見した日は、前々年の平成30年の1月6日

走行中に偶然見かけたしめ縄。

90度以上も曲げた、と思われるしめ縄に吊っていたお神酒どっくり。

山行きに山の神参りに捧げる祭具。

その形態は、平成26年の12月7日に取材した奈良市柳生町の山脇垣内。

山行きは拝見できなかったが、山仕事の安全や無事を願って拝む山の神の場。

拝んでから山に入っていた、という場で行われた一連のあり方を取材した。

山の神に植生する南天に下げたお神酒どっくりに初めて出会ったのは、平成21年だった。

その形を覚えていたから、見つけられたお神酒どっくり。

正月明けの4日くらいにはしているだろうと立ち寄ったが不在だった。

近くまで来たのなら久しぶりにお会いしたい夫妻が住む桜井市滝倉の地にハンドルをきった。

角柄から下った長谷寺門前通り。

その道を経由して走るルート。



長谷寺の奥座敷になる滝倉に向かっていたときに目に入った正月のしめ縄。

しめ縄にウラジロ、ユズリハの飾りつけ。

市販のしめ縄もあるが、手つくり感のあるしめ縄も・・・

長谷寺門前通りに建つ民家や商売屋さん。

さまざまな形態で歓迎してくれるしめ縄に目が停まり、車も停めて撮っていた。

長谷寺門前通りは長谷寺行きの参詣道。

何軒かのしめ縄を撮っていたときの気づき。



時季は節分になるが、昨年にかけたヒイラギイワシ(※柊鰯)も見つかった。

尤も、鰯はとうの昔にどこかに行った。

日照りがキツイ日の撮影は難しい。

コントラストの差があまりにも違いすぎるが、記録は記録。



北側に建つ民家に映る影絵を見るのも、いーだろう。



こういう気象事象だからこそ見ておきたい陰の映像。

後年に催されたスタンプラリーマップを参考に散歩してみるのもいいだろう。



ちょっとした時間に拝見した門前通りの民俗。



まだまだありそうだが、先を急ぐ。

(R3. 1. 4 EOS7D撮影)

箸中中垣内・雨天対応のコンピラサン

2020年10月26日 09時00分16秒 | 桜井市へ
たぶんこの日にされるだろうと思って出かけた桜井市箸中の中垣内。

えっ、ここに祭りごとが・・。

初めて知った日は平成28年7月10日

集落辻にあった石塔。建之は江戸時代末期の嘉永元年(1848)。

金平大権現の刻印からわかったコンピラ講であるが、講中がどこの家であるのか、手がかりなく・・・

翌年の平成29年7月10日にも再訪した中垣内のコンピラサン。

運よくお会いできた当時84歳のKさん。

お会いできたのもよかったが、祭りごとは終えて後片付けに来たと話していた。

Kさんが話すコンピラ講。

講中みなが御供、参拝をするわけでなく四垣内に分けた当番制で行っている、ということだ。

毎年に替わる年番に担当する垣内の組のもんが担うそうだ。

行事日程は、7月9日に10日。9日の朝。

当番垣内の組が決めた時間に、葉付きの笹竹を立てる。

石塔脇に2本を立てて水平に竹を置く。

その竹は垣内の提灯を吊る。

砂盛りをして祭壇を組み、花立を置き、お花を飾る。

朝の間にそうしておいて夕方に法要し、翌日いっぱい、飾っておき、夕刻に片づける。

昨年は、突然の雷雨を予想し、片付け時間を早めた。

法要に来ていただく僧侶は、慶雲寺の住職というから、すぐ傍に建つ浄土宗三輪山慶雲寺。

聞いていた時間はもうすぐであるが、来られる気配がない。

まさか、と思って訪ねた慶雲寺。

お寺さんのご婦人がいうには、朝は快晴だったそうだ。

提灯も吊るしていたが、午後の時間帯になったころ、なんと、警報が発令された。

突然に雲行きが怪しくなった。

雨降りに提灯を吊るしておけば水浸し。

夕方にする予定だった法要は、急遽早めた午後4時に繰り上げした、という。

法要を終えた時間帯。予報通りの土砂降り雨。

法要を済ませ、提灯はすぐに降ろして、慶雲寺に保管した、と話してくれた。

(H30. 7. 9 EOS7D撮影)

小正月に巡る慈恩寺、脇本、谷の民俗

2020年09月16日 10時14分27秒 | 桜井市へ
山間地のとんど焼きを撮り終えて街道を下ってきた桜井市。

高架バイパス道路を気持ちよく走っていたら目に入った景観にえっ。

下りる処はずいぶん先にある。

ぐるっとまわってUターンし、里道の路から探してみたらあった。



稲刈り痕にどかんと組んでいたとんど。

何人かの村の人を見つけては尋ねてみる実施日。



ようやく3人目でわかった本日の午後5時半より火点け。



アキの方角に向けて火点けする慈恩寺地区のとんどは昔も今も1月14日。



急ぎの用事があるから断念するが、ふと思い出して隣村に。

たしかここらへんに立てていたと思って探してみたら・・・あった。



竹は青々しているからつい最近のもの。

脇本は頭屋制度を解体したと聞いている。

ほとんどの年中行事は中断したが、魔除けの矢立ては継続していた。

悪霊が村に入り込まないように地区の東と西の村境界に立てる。

今も継承していた脇本の民俗行事。

頭屋制度は解体したが、自治運営をもって継承しているように思えた。

慈恩寺、脇本の旧村民俗を拝見して帰路に就く。

ふと思い出した市街地地区にある谷である。



実は、正午から始まる粟原(おうばら)のとんど取材の前に立ち寄っていた谷。

日中の光線を浴びていた勧請縄に見惚れていた。



美しい姿、形の勧請縄は、谷に鎮座する若桜神社前、道路向こうの樹木にかけている。

設置場所は旧来の形態ではないように思える都市型のカンジョ場。



考えられるのは道路拡張工事である。

と、いうのもここより数百メートル。

南に向かえば旧来の道幅を思われる場に遭遇する。

たぶんにその道幅が元々の地道であったのでは、と思うのだ。

道幅が狭く、その道の両脇に樹木があったとしよう。

いわゆる道切りの勧請縄。

もしかとすればそこに水路もあったのでは、と推定する。

で、あれば川切りの勧請縄。

都市化構造にやむなく勧請縄をかける位置が換わった。

そう思えて仕方ない谷の勧請縄。

現在は、舗道切りの位置。

家寄りに生えるポプラの樹にかけ、一方は新道道路寄り。

しかも金属製ポールにかけている。

かつては植生する樹木であったが、道路拡張工事にやむなく伐採。

それに代わって立てたポールと推定できよう。

現在は第二日曜日にかけている、と聞いている谷の勧請縄かけ。

当地では綱掛けと称しているようだが・・。

(H31. 1.14 SB932SH撮影)
(H31. 1.14 EOS7D撮影)

吉隠・結鎮祭は中断したが前年祭具は残された

2019年05月17日 09時26分42秒 | 桜井市へ
旧暦の1月8日に行われてきた桜井市吉隠の春日神社行事。

祭祀してきた5軒の特定家の営みは宮座行事。

朝の8時に参集して神饌などを調整する。

神饌ものは弓矢に松苗。

それと春日神社の文字がある護符作りである。

護符は「牛玉 春日神社 寶印」。

いわゆるごーさん札である。

午前10時にケイチン弓打ちをする。

ケイチンは“結鎮”と書いてそう呼ぶ神事ごと。

梅の木で作った弓にススンボで作った矢を射る行事。

続いて行われるオンダ祭の所作は、籾撒きに松苗植え。

座中に斎主の桑山俊英宮司が所作される。

直会はヨバレの座。

祭りごとを終えた弓矢に松苗とごーさん札は玄関軒に飾ると聞いたのは前年の平成29年4月14日

庚申講の営みを調査にやってきた吉隠。

動きはわからなかったが、ある家が玄関に飾っていた弓矢を目撃したことから同家のご婦人が話してくださった宮座行事。

屋内に保管していた松苗にごーさん札も見せてくださった。

吉隠の春日神社で宮座による結鎮祭が行われていると初めて知った日は平成26年の2月11日

同市和田で行われている祈年祭を拝見した日である。

吉隠にも出仕されている祭主の桑山俊英宮司が話してくださった行事である。

もとは旧暦の1月8日であったが、昨今は成人の日の前日。

つまりは日曜日である。

成人の日が来るまでに、予め確認しておきたい行事日程。動いていることも考えられるので再訪問した結果は中止だった。

この日も応対してくれた婦人の話によれば、年寄りばかりになったことから体力的に難しくなった。

5軒で決めた決断が中止である。

なんということか。

1年早ければ拝見できたものが、時すでに遅し、であった。

おそらくは二度と見ることのない吉隠・宮座の結鎮祭。

「もう1本は家に残してあるからあげる」と言ったHさん。

行事は中断になったが、準備していた1本のナエカズラをくださった。

ナエカズラは藁でこしらえたもの。

稲に見立てた松苗に紙に包んだ籾種にススンボ竹で作ったケイチンの矢もあるナエカズラ。

貴重な1本は大切に残しておきたい吉隠の民俗。



挟んでいた護符も拡げて記録に残す「牛王 春日神社 宝印」の書。

朱印はスタンプに移ってはいるもののまさにごーさんであった。

平成29年の4月14日
に立ち寄った際に聞いた護符。

おばあさんがお元気だった生前のころ。

苗代をしていたころは、このナエカズラ立てていたという。

いつしかJAから苗を購入するようになってからは苗代作りもナエカズラ立てもしなくなったと話していたことを思いだした。

(H30. 1. 4 EOS40D撮影)

角柄の旧暦閏年の庚申塔婆・ゴクダイ

2018年11月17日 08時41分09秒 | 桜井市へ
県内各地の旧暦閏年の庚申行事、或いは痕跡などを探してきた。

今年は8月1日に拝見した桜井市箸中の車谷垣内の記念碑になった庚申塔婆で〆るはずだった。

それから1カ月後の9月1日。

宇陀市榛原萩原の小鹿野で行われる行事取材を目的に車を走らせていた。

走る大街道の両脇にある村が気になる。

特に気になるのは宇陀市榛原の角柄(つのがら)である。

通り抜ける際には必ずと云っていいほど左側に建つ地蔵石仏に視線を向ける。

その右端にあるのは祠内の庚申さんだ。

坂道を登っていくが、駆け足のアクセルは踏まない。

左にある庚申さんに目をやれば、あったー、である。



何年ぶりであろうか。

データを繰ってみれば見つかった。

5年前の平成24年の4月14日である。

通りがかった際に、これは何だと、思って撮っておいた。

葉付きの杉の木塔婆は真新しい。

その日か、それ以前であるのか断定できなかった。

集落を訪ねて講中を探してみたが見つからなかった。

榛原の小鹿野は7月初めに講行事をされた。

それ以降にすることもないだろうと思っていたし、榛原方面に向かうこともなかった。

杉の葉の枯れ具合から判断して1カ月前。

7月2日以降にされたと思うのである。

行事をされてから1カ月も経っているが、塔婆の願文は明確に判読できた。

5年前に拝見した願文ははじめに五文字の梵字。

続いて「為青面金剛童子講中家内安全五穀成就息災延命年諸障願愛慈護念」。

今年の願文もはじめに五文字の梵字であるが、本来書くべき箇所の5段削りに書かずに「梵梵梵梵梵 □□□ 為青面金剛童子講中家内安全災延命無障十落愛愍護念」。

5年前の判読が間違っていた可能性もあるし、興味深いのは5年前の塔婆は本来書くべき箇所の段削りがなかったことだ。

ヤド家が書き込む塔婆ツキ。

若干の違いがみられたが、どちらが正しいとはいえないだろう。

ある地域においても変化している事象があることから、前回の塔婆を見本にしているか、或いは原書をもって写しているかの違いであると思う。

ちなみに現在の塔婆は杉の材であるが、かつては桧材だったと話していたのは宇陀市榛原柳のT区長だったことを付記しておく。

角柄の状況を拝見し、すぐ近くの桜井市の吉隠も調べてみたが、何ら変わらず何年か前に立てたときと同じであった。

榛原の篠楽極楽寺垣内も同じく、変化がない。

講中は解散したと思われるのだが・・・。

5年前のH24. 4.14 EOS40D撮影の塔婆とゴクダイを比較する。



違いがわかるだろうか。

(H29. 9. 1 EOS40D撮影)

いつも三輪山が見守ってくれる麓で素麺作り

2018年11月10日 10時16分05秒 | 桜井市へ
三輪山を眺望しながら素麺作りをする場がある。

そう話してくれて自宅作業場を案内してくださったKさん。

ここから見るのが、一番だという。

季節それぞれの佇まいを見せてくれる三輪山が美しい稜線を描いてくれた。

Kさんとお会いしたのは、この年の7月10日のコンピラサンの後片付けをされていたときだった。

取材の流れでKさんが懇意になった二人の写真家の名を明かされた。

藤田浩氏塚原紘氏の二人はご対面したことはないが、とても有名な方だと認知している。

会えずまま鬼籍に入られたことも内々の人たちから聞いたことがある。

その二人がK家の生業である三輪素麺作り風景を撮りに来ていたという。

当時、よほど気にいったのであろう。



何度もやってきては屋外作業における素麺作りの光景を撮っていたそうだ。

どちらの写真家が撮られたのか聞きそびれたが、「三輪手延 三輪素麺」作りの光景をとらえた映像で「栗光製麺所」を紹介するパンフレットを見せてくださった。



K夫妻が天日で作業をしている姿の向こう側に三輪山が見え隠れする映像。

なんなら時季が来たら、普段なら屋内でしている作業を屋外でも・・・。

特別に一時的な作業として素麺延ばしをしている情景を撮ってもいいと誘ってくれた。

時季は12月か、正月明けの1月から3月のいずれかの日に伺いたいので、是非とも、とお願いした。

畑から戻ってきた奥さんにも了解をもらったが・・・。

屋外干しを評価しない方から注意どころか、指導するという発言があるとFBを通じて知ることになった。

なんということか、である。

その発言は風評被害を招きたくないというのが本音のようだが・・・例え一時的に、特別扱いするのもご法度という態度だけに、K家に御迷惑をかけるわけにはいかない。

残念なことだが、その発言を知って、遺しておきたい地域の風物詩をとらえる気持ちは萎えてしまった。



それにしても作業場の窓から望む三輪山がなんと美しいことか。

窓を開けたら開放的な気分になってより綺麗に見える。

愛宕さんをしていた下垣内のYさんが云っていたように、いつでもほんまに見守っているように思えた秀麗なお姿である。

その窓下の傍らに置いてあった前期作業に残った素麺。



箕にも、粗い網にも盛った白い糸が美しい。

乾燥しきった真っ白な素麺は十分に食べられるという。

半年間も作業場で生きていた素麺である。

暖簾が下がっている作業場は稼動していなくとも暑い。

夏場は暑いに決まっているということだ。

(H29. 8.24 EOS40D撮影)
(H30. 9.29 SB932SH撮影)

箸中・下垣内の愛宕さん

2018年11月09日 10時02分31秒 | 桜井市へ
午後4時、大きな箱に包んだ御供はあるが、人は居ない。

この場は桜井市箸中の下垣内。

すれ違ったやや高齢の婦人かも・・・お供えをとりあえず置いて家に戻っていったのではと思ったが。

その御供は熨斗紙で包んでいた。

納めた団体は箸中下垣内第一班とある。

饅頭屋さんの奥さんの話しによれば垣内は五つに分かれているし、当番の人しかお参りせんだろうという。

その当番はいつ戻ってくるやもしれないが、その場でずっと待つわけにはいかない。

これまでの行事取材で、体験した不審者扱い。

誰一人いない祭事場で待っていたら不審者扱いになった。

体験例は2例もある。

こうした体験事例は、これ以上増やしたくない。

動きがあったのはダイヤ通りに運行される列車にお日さんの進展ぐらいなものだ。

樹木の陰が徐々に東へ伸びていた。

昨年の平成28年8月24日に拝見した愛宕さん。

この日と同じように提灯を立てていたが、夕立を気にしてかビニール袋で保護していたことを覚えている。

ただ、時間帯が正午過ぎだったから、どなたもおられない。

夕方に集まってくるまでは待てないので場を離れて他所に向かっていた。

陰すらなかった愛宕さん。

それから半時間後の午後4時半ともなれば半陰状態で提灯は陰に入った。

それから20分後の午後4時50分。

もしかとして午後6時であるなら、他所の実施状況でも調べたい。

時間が無駄に過ぎるのももったいないと思って隣家の旧家を訪ねる。

ここであれば下垣内。

事情をしっていると判断して呼び鈴を押した。

屋内から婦人が出てこられた。

奥さんの話しによれば下垣内は5区あるそうだ。

当番の区は毎年交替している。

順番にあたるその年の当番の人がお参りをする。

一人か二人かどうかはそのときの当番の区によって違うようだという。

ちなみに今年の7月16日に訪れた大神宮には提灯もなく、なにもなかったと伝えたら「している」と答えた。

もう一つの質問は地蔵盆である。

それなら7月24日にしていると話してくれた。

夕方の5時か6時かわからないが、待っておればどなたかが来られるはずですから、と云われてしばし待っていたら婦人たちが集まって来た。

この日は夕方の5時に集まろうということにしていた。

お供えを運んでいたのは、私が丁度に来たときだったすれ違いである。

朝は7時ころからが暑さ厳しくなる。

この日は愛宕さんの祭りだから綺麗にしておこうと朝5時に草刈りをしていたという当番のYさんは昭和12年生まれ。

この年の当番組は1班。

普段は家近くに住んでいるのに会うことが少なくなったという。



話しする機会がないから、こういう祭りのときはおしゃべりに夢中になる。

いつも家を見守ってくれている三輪山。

台風で屋根が飛んだこともあったが、無事だった。

近くを車で通ったときも見てくれていると思っている三輪山の存在がありがたいという。

暑さしのぎの日陰の時間帯。

日が傾いて徐々に日陰が伸びていた午後5時が丁度いい。

愛宕さんの前で談笑していた婦人たち。

そろそろコーヒーでもいただきましょうと、と云ってカップに注いだ冷たいコーヒーを配る。



お神酒でもなくコーヒーを味わう直会である。

ここ下垣内には愛宕さんもあれば大神宮さんの灯籠に地蔵さんもある。

大神宮さんの日は一日遅れの7月17日が下垣内の縁日。

また、地蔵さんは7月24日

子どもたちも参ってくれると話していた三つの行事はいずれも夕方の5時。

いつかは地蔵さんの祭りも伺ってみたいと思った。

(H29. 8.24 EOS40D撮影)

箸中車谷垣内・悪霊払いの数珠送り

2018年10月15日 10時26分49秒 | 桜井市へ
桜井市箸中の年中行事は神社行事もあるが、それぞれの地区単位でされる行事もある。

すべての地区がしている地蔵盆の他、地区特有の講行事もある。

中垣内のこんぴら講の行事がそれだ。

また、野神行事のノグチさんもある。

特筆すべき行事をしていると聞いたのは平成29年の4月9日

車谷垣内の地蔵盆の在り方を調べていた際に伺ったOさんが話してくれたその行事はたぶんにここ車谷垣内でしか見られない特殊な在り方だ、と思ったお盆の習俗である。

箸中は車谷垣内の他に中垣内、南垣内、下垣内があるが、お盆のときに数珠繰りをしていると聞いたのは車谷垣内だけのようだ。

数珠繰りがあるなら、何某かの講中行事が考えられる。

講中が集まる当番の家でしていると思うのが一般的な考え方であるが、車谷垣内では屋内でなく、屋外である。

屋外といえば、例えば地蔵堂の内部、或いは堂前にゴザなどを敷いた場で数珠繰りをするのが一般的な概念。

どこの地区でもそのような形式でされる。

ところが、車谷垣内は街道沿いに建つ集落民家の家の前の道が数珠繰りの場であった。

お家の前で2回ほど繰る数珠繰り。

終えたら隣の家の前に移動してそこでも数珠繰りを2回する。

さらに下った隣の民家の前でも数珠繰りを2回。

これを集落すべてに亘って順番に移動していく数珠繰りというのだから驚愕である。

車谷垣内は、一般的概念を覆す道が数珠繰りの場であった。

しかも特定、固有の場でなくお家の前の道路に、である。

車谷垣内の戸数は40戸。

そのお家、一軒、一軒巡って、道路に立ったままするという数珠繰り。

あり得ない様相に驚いたものだ。

是非とも取材したいと、平成29年7月24日に行われた地蔵盆取材の際に取材願いを申し出た。

取材拒否をされる人は皆無だったが、数珠繰りをする日は曖昧だった。

15日なのか、それとも・・・と思って、8月1日に訪れて尋ねたKさん。

地蔵盆のときは家族揃って参拝していたK家である。

8月14日の夕刻近い時間帯にしているということだった。

お盆の14日であれば、施餓鬼と思われるが、お寺さんは登場しない。

念仏はただただなんまいだーを繰り返す数珠繰りである。

夕刻に打ち鳴らす鉦を合図に始める車谷垣内の数珠繰り。

出発地点は集落端の東の先と聞いていた。

そろそろ集まってくる時間帯が訪れる。

Oさんが云っていた集まり方。

下の組の人たち纒向川下流の方から歩いてくる。

一方、上の組の人は上流の方からになると・・。



数人の婦人たちが寄り添って歩いてきた。

いずれも望遠でとらえた婦人たち。

下の組の婦人はてぶらであるが、上の組の婦人たちは数珠を手にしていた。

この先にあろうと思われる上の家で数珠繰りをしていたのだろうか。

7月の地蔵盆にお会いした婦人たちにこの日の取材に寄せてもらったとお礼を伝えて撮影に入った。

この日の行程、数珠繰りの在り方を初めて拝見する車谷垣内のお盆の数珠繰りにワクワクしながら同行させていただいた。



いきなり始まった道端で作法する数珠繰り。

数珠玉の房が手元にくれば頭を下げて次の人に送る。

数珠繰りに調子をとる鉦の音色がある。

カーン、カーン、カーン・・・・。

数珠の繰り方は早い方だと思える。打つ鉦の音で、念仏を唱えていたかどうか聞きとれない。

鉦を打っていたKさんにお話しを伺った。

Kさんが云うには、かつて車谷垣内に念仏講があった。

講元の女性が亡くなり、最後の年はたったの3人になった。

高齢の女性の先々を考えて講は解散した。

解散はしたが、これまでずっと使っていた鉦と数珠が残された。

鉦と数珠は葬儀のときにも使う。

今後のことを考えて、K家で預かることにした、という。

この日の数珠繰りに鉦を打つのは村の男性。

保管、管理をしているKさんと敬神講十人衆を務めるKさんの二人が交替しながら集落を下る。

そのときに拝見した鉦に刻印記銘があったので記録しておく。



刻印は「念仏講中 箸中村 室町住出羽大掾宗味作」である。

これまでの取材した先々で、数々の「室町住出羽大掾宗味作」記銘の鉦を拝見した。

中でも特筆すべきなのは大和郡山市白土町の念仏講が所有する鉦である。

「和州添上郡白土村観音堂什物 奉寄進石形壹 施主西覚 □貞享伍ハ辰七月十五日 室町住出羽大掾宗味作」とあった。

貞享五年は西暦年でいえば1688年。数えること330年前の鉦である。

奈良市今市町・小念仏講、奈良市南田原町・公民館、大和郡山市杉町・会所、大和郡山市井戸野町・常福寺、大和郡山市石川町・観音講、大和郡山市南郡山町・仲仙寺、大和郡山市額田部南町・K家、桜井市小夫・秀円寺(旧念仏衆)、宇陀市榛原戒場・戒長寺、宇陀市榛原篠楽・上垣内薬師堂、宇陀市榛原萩原小鹿野・地蔵寺、平群町福貴畑・S家にもあった「室町住出羽大掾宗味作」記銘の鉦であるが、いずれも年代は見られない。

白土町の鉦を基準にするのも難しいが、風合いなどを拝見した状態から判断して、同年代であろう。

鉦とともに下った次の家の前で数珠繰りが始まった。



一軒、一軒と下っては数珠を繰る。

その度にカーン、カーン、カーン・・・・の音色が街道筋に聞こえてくる。

杖をついてやってきた下の組の婦人も合流する数珠繰り。

みなの笑顔が広がっていた。

7月24日に取材した車谷垣内の地蔵盆。

会食を摂った会所にモノクロ写真を掲示していた。



時代はいつのころかわからないが、当時の数珠繰りの様相である。

掲示写真はカラー写真撮りもあった。



髪型、服装から同時代の写真ではなさそうだ。

モノクロ判は19人。

カラー判は25人の人たちで数珠を繰っていた。

9割方がご婦人たち。

その場に子どもは数人。

大人の男性は1人だった。

いずれにしても貴重な写真である。

車谷垣内の戸数は40戸。

この時点でまだ半分も満たない。

一軒、一軒と下って家の前にくれば数珠を繰る。



輪の広がりは数珠の長さもあるから限定される。

およそ20人を超えたあたりから窮屈さを感じるようになる。

大人の背丈で数珠を繰るから子供にとっては背伸びするしかない。

それでも届かないから繰る腕は上方にある。

地蔵盆のときも家族総出で加わっていたが、数珠を繰る人数は制限されるから脇で拝見するしかない。

建て直した家もあるし、昔の風情をみせる旧家もある車谷垣内の佇まいに見惚れることなく数珠を繰る。



この地で生活をされている村の人たち。

普段の服装でしている姿が美しく見える。



街道の勾配はどれぐらいだろうか。

少し歩いては立ち止まって数珠を繰る。

さらに下って地蔵尊・庚申石仏がある処まできた。



杖をついて数珠を繰る婦人はもう一方の手で繰っているが、まったく苦になっていないようだ。

とにかく皆が愉しんでしているように思えた数珠繰りはおよそ40人に膨れ上がった。

疲れたら交替してもらう。

大人数であるからこそ交替してもらえる数珠繰り。



40戸の家前でそれぞれ繰る回数は2回。

終えたときには80回になる計算だ。

さらに下って三叉路に着く。



その角で子どもさんも混じって数珠を繰る。

三叉路の北筋に行けば穴師に巻野向に繋がる本道になる。

車谷垣内の東の端の小字は古屋敷・屋敷。

上流の笠の地に繋がる旧街道を下れば、小字平田、カハラケ、白、白原草、大手、平田、車谷、青谷、西脇、平山、北垣、三分、観音田、桶水、大報田、畦クラ、赤井、観音講田などだ。

小字三分が三叉路。

南の里道は観音田、大報田、赤井に繋がる。

三叉路下ともなればそれこそ旧道。

いわゆる村の里道である。



纒向川に沿って下った集落。

ここもまた一軒、一軒に立ち止まって数珠を繰る。

下れば下るほど視界が広がる。

半分の戸数は済んだように思えるが、先はまだまだである。



ここら辺りの景観、佇まいがとても気に入った。

天候が良ろしければもっといいと思うが・・。

この日はお盆。

照りはなくとも暑さは厳しい。

婦人たちは汗を拭いつつも数珠を繰る。

輪から離れた人もタオルで汗を拭い、団扇で煽いでいた。

三叉路での数珠繰りを済ました人。

およそ1/3の人たちは解散して家に戻っていった。

たぶんに上の組の人たちだろう。

下の組の人たちは「送ったってんのに、帰らはったようです」と云っていたから違いないだろう。

それでも大方20人以上も居る。



里道になれば道幅が狭くなる。

数は少ないが車の往来もある。

その都度に数珠繰りを止めて道端に寄り添って退避していた。

鉦の音はカーン、カーン、カーン・・・・。

ときおりツクツクボウシの鳴く音も聞こえる。

お盆辺りから泣き始めるツクツクボウシの声を耳にする度に、大阪・南河内郡の母屋で夏休みを過ごした子どものころを思い出す。



背景に笠山が見える地まで下ってきた。

道歩きのときも鉦を打つ。



すくすく育った稲田が広がる田園地の景観にほっこりする。

数珠繰りの回数は1軒辺りに2回であるが、不幸ごとがあった家の場合は3回になるという。

40年以上も前に車谷垣内に嫁入りした婦人。

そのときからずっと参加して繰っているという。

解散した念仏講の営みは、昔も今も村全戸の行事として継承してきた。

戸数が40戸の車谷垣内。かつてはもっともっと、子どもが大勢居たと話していた。

ところで数珠繰りの回数はどうやって数えているのだろうか。

一般的に座して行う数珠繰り。

数取りの道具はさまざまである。

木札、算盤のような珠。

葉っぱ、マッチ棒などなど実に多彩であるが、立ったままでされる車谷垣内では繰る房の回数を数えているという。

頭を下げるのが2回。

単純な数取りであった。

さらに纒向川沿いの道を下っていく。

道幅はさらに狭くなる。



ここも三叉路であるが、西方の葛城山系の北。

二上山の重なりが見えてきたが、距離は見えるほど近くない。

ずっと下って出合辺りにある橋近くに建つ家も数珠を繰る。

その一軒に懐かしい一品、ならぬ三品を収納していた。



形、機能から見て暖房用具のアンカである。

明治、大正から昭和の時代までを系譜するアンカは瓦土製。

内部に土製の火入れを置いて布団で覆う。

燃料は炭団とか木炭。

子どものころの我が家でも使っていたアンカ。

現在の観念では危険極まりないが・・。

この形式、アンカではなく置炬燵を格子状の木枠で囲む櫓炬燵の部類ではないだろうか。



広い道に出たその場でも数珠を繰る。

いよいよあと数軒になった車谷垣内の数珠繰り。

今年は曇り空で良かったと口にでる。

昨年はカンカン照りに夕立も発生したから難義したというが、今日もまた額から流れ落ちる汗の量はかわらない。

さて、一番西の端になるお家の前の数珠繰りである。



最後にした数珠繰り回数は3回。

これで村から悪霊を追い出したという。

そういえば、今月2日に立ち寄った際に話してくれた中垣内のK婦人。

車谷垣内の人たちは数珠繰りするときには玄関の扉を開けて悪霊を家から払いだしていると云っていたのを思い出した。

各家におった悪霊は数珠にのって垣内外れの西に追い出した、という、つまりは悪霊祓いの数珠送り行為であった。

東の端から西の端までずっとしていた婦人は汗だく。

住む上の組の家に戻るのもまた汗が出る。



戻って双子の孫さんを抱っこする娘さんとともに地蔵さん、庚申さん、大神宮さんに手を合わせていた。

悪霊を追い出して、村中安全、家内安全に感謝して村の守り神に拝んでいたのだろう。

この区間を移動した万歩計は4472歩。

距離に換算してきれば2.9kmだった。

(H29. 8.14 EOS40D撮影)