マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

角柄の旧暦閏年の庚申塔婆・ゴクダイ

2018年11月17日 08時41分09秒 | 桜井市へ
県内各地の旧暦閏年の庚申行事、或いは痕跡などを探してきた。

今年は8月1日に拝見した桜井市箸中の車谷垣内の記念碑になった庚申塔婆で〆るはずだった。

それから1カ月後の9月1日。

宇陀市榛原萩原の小鹿野で行われる行事取材を目的に車を走らせていた。

走る大街道の両脇にある村が気になる。

特に気になるのは宇陀市榛原の角柄(つのがら)である。

通り抜ける際には必ずと云っていいほど左側に建つ地蔵石仏に視線を向ける。

その右端にあるのは祠内の庚申さんだ。

坂道を登っていくが、駆け足のアクセルは踏まない。

左にある庚申さんに目をやれば、あったー、である。



何年ぶりであろうか。

データを繰ってみれば見つかった。

5年前の平成24年の4月14日である。

通りがかった際に、これは何だと、思って撮っておいた。

葉付きの杉の木塔婆は真新しい。

その日か、それ以前であるのか断定できなかった。

集落を訪ねて講中を探してみたが見つからなかった。

榛原の小鹿野は7月初めに講行事をされた。

それ以降にすることもないだろうと思っていたし、榛原方面に向かうこともなかった。

杉の葉の枯れ具合から判断して1カ月前。

7月2日以降にされたと思うのである。

行事をされてから1カ月も経っているが、塔婆の願文は明確に判読できた。

5年前に拝見した願文ははじめに五文字の梵字。

続いて「為青面金剛童子講中家内安全五穀成就息災延命年諸障願愛慈護念」。

今年の願文もはじめに五文字の梵字であるが、本来書くべき箇所の5段削りに書かずに「梵梵梵梵梵 □□□ 為青面金剛童子講中家内安全災延命無障十落愛愍護念」。

5年前の判読が間違っていた可能性もあるし、興味深いのは5年前の塔婆は本来書くべき箇所の段削りがなかったことだ。

ヤド家が書き込む塔婆ツキ。

若干の違いがみられたが、どちらが正しいとはいえないだろう。

ある地域においても変化している事象があることから、前回の塔婆を見本にしているか、或いは原書をもって写しているかの違いであると思う。

ちなみに現在の塔婆は杉の材であるが、かつては桧材だったと話していたのは宇陀市榛原柳のT区長だったことを付記しておく。

角柄の状況を拝見し、すぐ近くの桜井市の吉隠も調べてみたが、何ら変わらず何年か前に立てたときと同じであった。

榛原の篠楽極楽寺垣内も同じく、変化がない。

講中は解散したと思われるのだが・・・。

5年前のH24. 4.14 EOS40D撮影の塔婆とゴクダイを比較する。



違いがわかるだろうか。

(H29. 9. 1 EOS40D撮影)
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いつも三輪山が見守ってくれる麓で素麺作り

2018年11月10日 10時16分05秒 | 桜井市へ
三輪山を眺望しながら素麺作りをする場がある。

そう話してくれて自宅作業場を案内してくださったKさん。

ここから見るのが、一番だという。

季節それぞれの佇まいを見せてくれる三輪山が美しい稜線を描いてくれた。

Kさんとお会いしたのは、この年の7月10日のコンピラサンの後片付けをされていたときだった。

取材の流れでKさんが懇意になった二人の写真家の名を明かされた。

藤田浩氏塚原紘氏の二人はご対面したことはないが、とても有名な方だと認知している。

会えずまま鬼籍に入られたことも内々の人たちから聞いたことがある。

その二人がK家の生業である三輪素麺作り風景を撮りに来ていたという。

当時、よほど気にいったのであろう。



何度もやってきては屋外作業における素麺作りの光景を撮っていたそうだ。

どちらの写真家が撮られたのか聞きそびれたが、「三輪手延 三輪素麺」作りの光景をとらえた映像で「栗光製麺所」を紹介するパンフレットを見せてくださった。



K夫妻が天日で作業をしている姿の向こう側に三輪山が見え隠れする映像。

なんなら時季が来たら、普段なら屋内でしている作業を屋外でも・・・。

特別に一時的な作業として素麺延ばしをしている情景を撮ってもいいと誘ってくれた。

時季は12月か、正月明けの1月から3月のいずれかの日に伺いたいので、是非とも、とお願いした。

畑から戻ってきた奥さんにも了解をもらったが・・・。

屋外干しを評価しない方から注意どころか、指導するという発言があるとFBを通じて知ることになった。

なんということか、である。

その発言は風評被害を招きたくないというのが本音のようだが・・・例え一時的に、特別扱いするのもご法度という態度だけに、K家に御迷惑をかけるわけにはいかない。

残念なことだが、その発言を知って、遺しておきたい地域の風物詩をとらえる気持ちは萎えてしまった。



それにしても作業場の窓から望む三輪山がなんと美しいことか。

窓を開けたら開放的な気分になってより綺麗に見える。

愛宕さんをしていた下垣内のYさんが云っていたように、いつでもほんまに見守っているように思えた秀麗なお姿である。

その窓下の傍らに置いてあった前期作業に残った素麺。



箕にも、粗い網にも盛った白い糸が美しい。

乾燥しきった真っ白な素麺は十分に食べられるという。

半年間も作業場で生きていた素麺である。

暖簾が下がっている作業場は稼動していなくとも暑い。

夏場は暑いに決まっているということだ。

(H29. 8.24 EOS40D撮影)
(H30. 9.29 SB932SH撮影)
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箸中・下垣内の愛宕さん

2018年11月09日 10時02分31秒 | 桜井市へ
午後4時、大きな箱に包んだ御供はあるが、人は居ない。

この場は桜井市箸中の下垣内。

すれ違ったやや高齢の婦人かも・・・お供えをとりあえず置いて家に戻っていったのではと思ったが。

その御供は熨斗紙で包んでいた。

納めた団体は箸中下垣内第一班とある。

饅頭屋さんの奥さんの話しによれば垣内は五つに分かれているし、当番の人しかお参りせんだろうという。

その当番はいつ戻ってくるやもしれないが、その場でずっと待つわけにはいかない。

これまでの行事取材で、体験した不審者扱い。

誰一人いない祭事場で待っていたら不審者扱いになった。

体験例は2例もある。

こうした体験事例は、これ以上増やしたくない。

動きがあったのはダイヤ通りに運行される列車にお日さんの進展ぐらいなものだ。

樹木の陰が徐々に東へ伸びていた。

昨年の平成28年8月24日に拝見した愛宕さん。

この日と同じように提灯を立てていたが、夕立を気にしてかビニール袋で保護していたことを覚えている。

ただ、時間帯が正午過ぎだったから、どなたもおられない。

夕方に集まってくるまでは待てないので場を離れて他所に向かっていた。

陰すらなかった愛宕さん。

それから半時間後の午後4時半ともなれば半陰状態で提灯は陰に入った。

それから20分後の午後4時50分。

もしかとして午後6時であるなら、他所の実施状況でも調べたい。

時間が無駄に過ぎるのももったいないと思って隣家の旧家を訪ねる。

ここであれば下垣内。

事情をしっていると判断して呼び鈴を押した。

屋内から婦人が出てこられた。

奥さんの話しによれば下垣内は5区あるそうだ。

当番の区は毎年交替している。

順番にあたるその年の当番の人がお参りをする。

一人か二人かどうかはそのときの当番の区によって違うようだという。

ちなみに今年の7月16日に訪れた大神宮には提灯もなく、なにもなかったと伝えたら「している」と答えた。

もう一つの質問は地蔵盆である。

それなら7月24日にしていると話してくれた。

夕方の5時か6時かわからないが、待っておればどなたかが来られるはずですから、と云われてしばし待っていたら婦人たちが集まって来た。

この日は夕方の5時に集まろうということにしていた。

お供えを運んでいたのは、私が丁度に来たときだったすれ違いである。

朝は7時ころからが暑さ厳しくなる。

この日は愛宕さんの祭りだから綺麗にしておこうと朝5時に草刈りをしていたという当番のYさんは昭和12年生まれ。

この年の当番組は1班。

普段は家近くに住んでいるのに会うことが少なくなったという。



話しする機会がないから、こういう祭りのときはおしゃべりに夢中になる。

いつも家を見守ってくれている三輪山。

台風で屋根が飛んだこともあったが、無事だった。

近くを車で通ったときも見てくれていると思っている三輪山の存在がありがたいという。

暑さしのぎの日陰の時間帯。

日が傾いて徐々に日陰が伸びていた午後5時が丁度いい。

愛宕さんの前で談笑していた婦人たち。

そろそろコーヒーでもいただきましょうと、と云ってカップに注いだ冷たいコーヒーを配る。



お神酒でもなくコーヒーを味わう直会である。

ここ下垣内には愛宕さんもあれば大神宮さんの灯籠に地蔵さんもある。

大神宮さんの日は一日遅れの7月17日が下垣内の縁日。

また、地蔵さんは7月24日

子どもたちも参ってくれると話していた三つの行事はいずれも夕方の5時。

いつかは地蔵さんの祭りも伺ってみたいと思った。

(H29. 8.24 EOS40D撮影)
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箸中車谷垣内・悪霊払いの数珠送り

2018年10月15日 10時26分49秒 | 桜井市へ
桜井市箸中の年中行事は神社行事もあるが、それぞれの地区単位でされる行事もある。

すべての地区がしている地蔵盆の他、地区特有の講行事もある。

中垣内のこんぴら講の行事がそれだ。

また、野神行事のノグチさんもある。

特筆すべき行事をしていると聞いたのは平成29年の4月9日

車谷垣内の地蔵盆の在り方を調べていた際に伺ったOさんが話してくれたその行事はたぶんにここ車谷垣内でしか見られない特殊な在り方だ、と思ったお盆の習俗である。

箸中は車谷垣内の他に中垣内、南垣内、下垣内があるが、お盆のときに数珠繰りをしていると聞いたのは車谷垣内だけのようだ。

数珠繰りがあるなら、何某かの講中行事が考えられる。

講中が集まる当番の家でしていると思うのが一般的な考え方であるが、車谷垣内では屋内でなく、屋外である。

屋外といえば、例えば地蔵堂の内部、或いは堂前にゴザなどを敷いた場で数珠繰りをするのが一般的な概念。

どこの地区でもそのような形式でされる。

ところが、車谷垣内は街道沿いに建つ集落民家の家の前の道が数珠繰りの場であった。

お家の前で2回ほど繰る数珠繰り。

終えたら隣の家の前に移動してそこでも数珠繰りを2回する。

さらに下った隣の民家の前でも数珠繰りを2回。

これを集落すべてに亘って順番に移動していく数珠繰りというのだから驚愕である。

車谷垣内は、一般的概念を覆す道が数珠繰りの場であった。

しかも特定、固有の場でなくお家の前の道路に、である。

車谷垣内の戸数は40戸。

そのお家、一軒、一軒巡って、道路に立ったままするという数珠繰り。

あり得ない様相に驚いたものだ。

是非とも取材したいと、平成29年7月24日に行われた地蔵盆取材の際に取材願いを申し出た。

取材拒否をされる人は皆無だったが、数珠繰りをする日は曖昧だった。

15日なのか、それとも・・・と思って、8月1日に訪れて尋ねたKさん。

地蔵盆のときは家族揃って参拝していたK家である。

8月14日の夕刻近い時間帯にしているということだった。

お盆の14日であれば、施餓鬼と思われるが、お寺さんは登場しない。

念仏はただただなんまいだーを繰り返す数珠繰りである。

夕刻に打ち鳴らす鉦を合図に始める車谷垣内の数珠繰り。

出発地点は集落端の東の先と聞いていた。

そろそろ集まってくる時間帯が訪れる。

Oさんが云っていた集まり方。

下の組の人たち纒向川下流の方から歩いてくる。

一方、上の組の人は上流の方からになると・・。



数人の婦人たちが寄り添って歩いてきた。

いずれも望遠でとらえた婦人たち。

下の組の婦人はてぶらであるが、上の組の婦人たちは数珠を手にしていた。

この先にあろうと思われる上の家で数珠繰りをしていたのだろうか。

7月の地蔵盆にお会いした婦人たちにこの日の取材に寄せてもらったとお礼を伝えて撮影に入った。

この日の行程、数珠繰りの在り方を初めて拝見する車谷垣内のお盆の数珠繰りにワクワクしながら同行させていただいた。



いきなり始まった道端で作法する数珠繰り。

数珠玉の房が手元にくれば頭を下げて次の人に送る。

数珠繰りに調子をとる鉦の音色がある。

カーン、カーン、カーン・・・・。

数珠の繰り方は早い方だと思える。打つ鉦の音で、念仏を唱えていたかどうか聞きとれない。

鉦を打っていたKさんにお話しを伺った。

Kさんが云うには、かつて車谷垣内に念仏講があった。

講元の女性が亡くなり、最後の年はたったの3人になった。

高齢の女性の先々を考えて講は解散した。

解散はしたが、これまでずっと使っていた鉦と数珠が残された。

鉦と数珠は葬儀のときにも使う。

今後のことを考えて、K家で預かることにした、という。

この日の数珠繰りに鉦を打つのは村の男性。

保管、管理をしているKさんと敬神講十人衆を務めるKさんの二人が交替しながら集落を下る。

そのときに拝見した鉦に刻印記銘があったので記録しておく。



刻印は「念仏講中 箸中村 室町住出羽大掾宗味作」である。

これまでの取材した先々で、数々の「室町住出羽大掾宗味作」記銘の鉦を拝見した。

中でも特筆すべきなのは大和郡山市白土町の念仏講が所有する鉦である。

「和州添上郡白土村観音堂什物 奉寄進石形壹 施主西覚 □貞享伍ハ辰七月十五日 室町住出羽大掾宗味作」とあった。

貞享五年は西暦年でいえば1688年。数えること330年前の鉦である。

奈良市今市町・小念仏講、奈良市南田原町・公民館、大和郡山市杉町・会所、大和郡山市井戸野町・常福寺、大和郡山市石川町・観音講、大和郡山市南郡山町・仲仙寺、大和郡山市額田部南町・K家、桜井市小夫・秀円寺(旧念仏衆)、宇陀市榛原戒場・戒長寺、宇陀市榛原篠楽・上垣内薬師堂、宇陀市榛原萩原小鹿野・地蔵寺、平群町福貴畑・S家にもあった「室町住出羽大掾宗味作」記銘の鉦であるが、いずれも年代は見られない。

白土町の鉦を基準にするのも難しいが、風合いなどを拝見した状態から判断して、同年代であろう。

鉦とともに下った次の家の前で数珠繰りが始まった。



一軒、一軒と下っては数珠を繰る。

その度にカーン、カーン、カーン・・・・の音色が街道筋に聞こえてくる。

杖をついてやってきた下の組の婦人も合流する数珠繰り。

みなの笑顔が広がっていた。

7月24日に取材した車谷垣内の地蔵盆。

会食を摂った会所にモノクロ写真を掲示していた。



時代はいつのころかわからないが、当時の数珠繰りの様相である。

掲示写真はカラー写真撮りもあった。



髪型、服装から同時代の写真ではなさそうだ。

モノクロ判は19人。

カラー判は25人の人たちで数珠を繰っていた。

9割方がご婦人たち。

その場に子どもは数人。

大人の男性は1人だった。

いずれにしても貴重な写真である。

車谷垣内の戸数は40戸。

この時点でまだ半分も満たない。

一軒、一軒と下って家の前にくれば数珠を繰る。



輪の広がりは数珠の長さもあるから限定される。

およそ20人を超えたあたりから窮屈さを感じるようになる。

大人の背丈で数珠を繰るから子供にとっては背伸びするしかない。

それでも届かないから繰る腕は上方にある。

地蔵盆のときも家族総出で加わっていたが、数珠を繰る人数は制限されるから脇で拝見するしかない。

建て直した家もあるし、昔の風情をみせる旧家もある車谷垣内の佇まいに見惚れることなく数珠を繰る。



この地で生活をされている村の人たち。

普段の服装でしている姿が美しく見える。



街道の勾配はどれぐらいだろうか。

少し歩いては立ち止まって数珠を繰る。

さらに下って地蔵尊・庚申石仏がある処まできた。



杖をついて数珠を繰る婦人はもう一方の手で繰っているが、まったく苦になっていないようだ。

とにかく皆が愉しんでしているように思えた数珠繰りはおよそ40人に膨れ上がった。

疲れたら交替してもらう。

大人数であるからこそ交替してもらえる数珠繰り。



40戸の家前でそれぞれ繰る回数は2回。

終えたときには80回になる計算だ。

さらに下って三叉路に着く。



その角で子どもさんも混じって数珠を繰る。

三叉路の北筋に行けば穴師に巻野向に繋がる本道になる。

車谷垣内の東の端の小字は古屋敷・屋敷。

上流の笠の地に繋がる旧街道を下れば、小字平田、カハラケ、白、白原草、大手、平田、車谷、青谷、西脇、平山、北垣、三分、観音田、桶水、大報田、畦クラ、赤井、観音講田などだ。

小字三分が三叉路。

南の里道は観音田、大報田、赤井に繋がる。

三叉路下ともなればそれこそ旧道。

いわゆる村の里道である。



纒向川に沿って下った集落。

ここもまた一軒、一軒に立ち止まって数珠を繰る。

下れば下るほど視界が広がる。

半分の戸数は済んだように思えるが、先はまだまだである。



ここら辺りの景観、佇まいがとても気に入った。

天候が良ろしければもっといいと思うが・・。

この日はお盆。

照りはなくとも暑さは厳しい。

婦人たちは汗を拭いつつも数珠を繰る。

輪から離れた人もタオルで汗を拭い、団扇で煽いでいた。

三叉路での数珠繰りを済ました人。

およそ1/3の人たちは解散して家に戻っていった。

たぶんに上の組の人たちだろう。

下の組の人たちは「送ったってんのに、帰らはったようです」と云っていたから違いないだろう。

それでも大方20人以上も居る。



里道になれば道幅が狭くなる。

数は少ないが車の往来もある。

その都度に数珠繰りを止めて道端に寄り添って退避していた。

鉦の音はカーン、カーン、カーン・・・・。

ときおりツクツクボウシの鳴く音も聞こえる。

お盆辺りから泣き始めるツクツクボウシの声を耳にする度に、大阪・南河内郡の母屋で夏休みを過ごした子どものころを思い出す。



背景に笠山が見える地まで下ってきた。

道歩きのときも鉦を打つ。



すくすく育った稲田が広がる田園地の景観にほっこりする。

数珠繰りの回数は1軒辺りに2回であるが、不幸ごとがあった家の場合は3回になるという。

40年以上も前に車谷垣内に嫁入りした婦人。

そのときからずっと参加して繰っているという。

解散した念仏講の営みは、昔も今も村全戸の行事として継承してきた。

戸数が40戸の車谷垣内。かつてはもっともっと、子どもが大勢居たと話していた。

ところで数珠繰りの回数はどうやって数えているのだろうか。

一般的に座して行う数珠繰り。

数取りの道具はさまざまである。

木札、算盤のような珠。

葉っぱ、マッチ棒などなど実に多彩であるが、立ったままでされる車谷垣内では繰る房の回数を数えているという。

頭を下げるのが2回。

単純な数取りであった。

さらに纒向川沿いの道を下っていく。

道幅はさらに狭くなる。



ここも三叉路であるが、西方の葛城山系の北。

二上山の重なりが見えてきたが、距離は見えるほど近くない。

ずっと下って出合辺りにある橋近くに建つ家も数珠を繰る。

その一軒に懐かしい一品、ならぬ三品を収納していた。



形、機能から見て暖房用具のアンカである。

明治、大正から昭和の時代までを系譜するアンカは瓦土製。

内部に土製の火入れを置いて布団で覆う。

燃料は炭団とか木炭。

子どものころの我が家でも使っていたアンカ。

現在の観念では危険極まりないが・・。

この形式、アンカではなく置炬燵を格子状の木枠で囲む櫓炬燵の部類ではないだろうか。



広い道に出たその場でも数珠を繰る。

いよいよあと数軒になった車谷垣内の数珠繰り。

今年は曇り空で良かったと口にでる。

昨年はカンカン照りに夕立も発生したから難義したというが、今日もまた額から流れ落ちる汗の量はかわらない。

さて、一番西の端になるお家の前の数珠繰りである。



最後にした数珠繰り回数は3回。

これで村から悪霊を追い出したという。

そういえば、今月2日に立ち寄った際に話してくれた中垣内のK婦人。

車谷垣内の人たちは数珠繰りするときには玄関の扉を開けて悪霊を家から払いだしていると云っていたのを思い出した。

各家におった悪霊は数珠にのって垣内外れの西に追い出した、という、つまりは悪霊祓いの数珠送り行為であった。

東の端から西の端までずっとしていた婦人は汗だく。

住む上の組の家に戻るのもまた汗が出る。



戻って双子の孫さんを抱っこする娘さんとともに地蔵さん、庚申さん、大神宮さんに手を合わせていた。

悪霊を追い出して、村中安全、家内安全に感謝して村の守り神に拝んでいたのだろう。

この区間を移動した万歩計は4472歩。

距離に換算してきれば2.9kmだった。

(H29. 8.14 EOS40D撮影)
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箸中・車谷垣内K家の閏年の庚申塔婆

2018年09月19日 11時19分47秒 | 桜井市へ
箸中の地蔵盆はほぼ垣内単位でされている。

隣村の芝もある。

祭りごとには法要どころか数珠繰りも見られない。

ただ、坦々という感じで村人それぞれがやってきては手を合わせるだけである。

垣内によってはそれもせずに地蔵さんの前に座るなり、立つなりしておしゃべりの所もある。

ここ車谷垣内に地蔵盆をしていると知ったのは前年の平成28年のことだ。

地蔵盆のことは別途に伝えておくが、珍しいのは地蔵盆の日に右の庚申さんに「青面金剛」の文字を書いた提灯をぶら下げることだ。

地蔵盆には庚申講の人は現れない。

ずいぶんと昔に解散されたようだが、提灯を吊るしてお供えもする。

地蔵盆の際に庚申さんにも提灯を立てていた桜井市箸中の車谷垣内。

東西を貫く街道筋に40戸の集落。

かつて三輪素麺の原料である小麦を水車でコトコト米ツキならぬ麦ツキをしていた垣内。

今では小さな小川のようになっているが、各戸の家の前を流れる谷川に水車を構築していた。

収穫した小麦を大量に挽いて小麦粉化する水車が多くあったことから「車谷」の名になったという名称事例である。

垣内名の由来を話ししてくださる村人は多い。

なかでも旧家母屋に居を構えるお家の門屋に見慣れた塔婆が残されていた。

庚申講は解散されたが、旧暦閏年の庚申トアゲの塔婆がある。

母屋のご主人の許可を得て撮らせてもらった塔婆に願文がある。

上から五文字の梵字に続いて「奉修 青面金剛童子 天下和順日月清明風雨以時災厲不起國豊民安兵戈無用崇徳興仁務修禮譲 庚申講中功徳成就」であるが、年号は見当たらなかった。

これもまた、庚申講の記念碑である。

(H29. 8. 1 EOS40D撮影)
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箸中・車谷垣内の地蔵盆

2018年09月13日 08時29分38秒 | 桜井市へ
桜井市箸中の車谷垣内に地蔵盆があると知ったのは前年の平成28年7月24日だ。

大字箸中の地蔵盆はここで紹介する車谷垣内の他、下垣内に中垣内がある。

しかも中垣内には南垣内もあれば川垣内、上垣内の分かれ垣内もある。

垣内によっては23日、24日の両日もあれば、24日だけに限っている場合がある。

車谷垣内は後者になる。

東西を貫く街道筋に40戸の集落が建ち並ぶ車谷垣内。

かつては三輪素麺の原料である小麦を水車でコトコト米ツキならぬ麦ツキをしていた垣内。

今では小さな小川のようになっているが、各戸の家の前を流れる谷川に水車を構築していた。

収穫した小麦を大量に挽いて小麦粉化する水車が多くあったことから「車谷」の名になったという。

この水車は玩具である。

装置していた場は現在の主街道ではなく、元々あった里道(里道)に流れる水路にしていた。

水路とは反対側に建ち並ぶ民家裏手にある川はせせらぎ。



ずっと下っていけば国津神社前に着く。

地蔵盆の日であるが、右にある庚申さんに「青面金剛」の文字を書いた提灯をぶら下げた。

地蔵盆には庚申講の人は現れない。

ずいぶんと昔に解散されているのだが、提灯だけが今もこうして吊っている。



毎日の夕刻に廻り当番がやってくる。

当番を示す道具に蝋燭、線香、マッチに賽銭収納箱がある。

それを持って地蔵尊や庚申さんに大神宮の石塔に燈明をあげる。

それが当番の在り方である。

4月に尋ねた婦人はいつも番が廻ってくるたびに線香鉢を掃除していると話していた。

線香の残り灰が鉢に溜まる。

溜まれば線香を立てるのが難しくなる。

そうであれば、毎回清掃している。

かたや、ある婦人は家で栽培している花を飾る。

地蔵尊に赤い涎掛けがある。

その涎掛けを洗う人もいるという。

心優しい人たちで守られている地蔵さんは年に一度の祭りがある。



御供は当番の人が先に供えていた。

日暮れはまだまだ時間はあるが、何人かがやってきて地蔵さん、庚申さんに手を合わせる。

垣内の上から、下からやってくる。

皆は歩いてやってくる。



独りでくる人もおれば声をかけた隣同士で連れ合ってやってくるのは高齢のご婦人たちだ。

若いお母さんは子どもの手を引いてやってくる。

孫さんも連れてくる家族もおられる。

来る人、来る人に了解を得て撮らせてもらう。



乳母車に乗せた赤ちゃんもやってくる。

一挙に膨れ上がった地蔵盆の参拝者。

これほど大勢の人がやってくるとは・・・。



高齢者、若い夫婦、子供に幼児。

ここでも交わされる言葉は「あんた大きゅうなったね」だ。

参拝を済ませたら、会所に寄り合って、持ってきた家の料理をよばれる。

女性ばかりの会所に男性は居辛い。



それにしても今年の会所に提灯が見られない。

昨年に訪れたときは6個も吊っていた。

そのことを当番さんに伝えたら、そうでしたか、である。



昨年の平成28年7月24日に撮影していた会所の提灯である。

今年はこれがまったくなかった。

会食を終えた子どもたちは楽しみにしていた金魚すくいがお待ちかね。

お弁当を食べて時間を持て余す子どもたちは、会所の外で地蔵さんの記念写真。

ではなく、自撮りである。地蔵さんは被写体になっていない。



微笑ましい子どもたちの様相がとても素敵で思わずシャッターを押した映像は、もちろん地蔵さんを入れて、である。



垣内の地蔵盆の〆は金魚すくい。

小さな子どもから小学生の子どもに混じって大人の女性も参加する金魚すくいに盛り上がる。



初めて体験する幼児も上位の子どもがすくう仕草を真似して、一匹すくえたーと喜ぶ顔が膨らんだ。

名人の誕生に一歩近づいた金魚すくい。



すくった金魚はナイロン袋に入れて持ち帰る。

すくった金魚は川に流さず、予め用意していた水槽に入れて見るのも楽しみの一つ。

水温に注意しておけば長生きするだろう。



こうして夏の始めの地蔵盆を楽しんだ村の人たちは家路についた。

(H29. 7.24 EOS40D撮影)
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芝・北ノ町のダンジングサン

2018年09月01日 09時47分41秒 | 桜井市へ
大字箸中で行われたノグチ行事を拝見していた。

その次に訪れたのは箸中の中垣内にあるという転がし地蔵石仏

所在地を確認した次はどこに行けば民俗に遭遇するのか。

車が向かった先は箸中の隣村になる桜井市の大字芝である。

昨年の7月24日は箸中それぞれの垣内ごとに地蔵盆があるとわかった地蔵さん巡り。

行事場の確認にぐるりと巡っていた。

その一角に隣村の大字芝に地蔵盆をしていることがわかった。

すぐ近くの和菓子屋さんの北橋清月堂の通りはかつての古道。

その名も上ツ道と呼ばれた古代の幹道である。

やがて時代を経て長谷寺詣でに通る上街道の名で呼ばれる古道である。

大字芝で拝見した仕掛り中の地蔵盆は芝の人たちの行事である。

街道を隔てた東側に大神宮の石塔が建っていた。

この日は7月16日。

たぶんにダンジングサンの行事をしている可能性がある。

そう判断して車を走らせたら、数人の人たちが集まって行事の準備をしていた。

午後4時に提灯を調えて笹竹を立てる。

大神宮の石塔には御供も揃えておく。

それから1時間後には拝むだけやという神事が執り行われる。

そう話してくださった北ノ町の人たちに急遽お願いした行事取材である。



かつて岩田村と呼ばれていた桜井市芝は、北垣内、中、南、西の垣内の他、寺垣内があるようだ。

当番の組は垣内の廻り。

4年に一度の廻り当番の垣内組が御供などを持ち寄って祭事を行う。

7月24日の地蔵盆も同じように廻りの当番班があたる。

実は遭遇する数時間前にも芝に来ていた。

ダンジングサンの様相を確かめに来ていたのだ。

箸中のノグチ行事を拝見してから中垣内の転がし地蔵の場の確認。

それから食事を摂りに橿原市のまほろばキッチンに向きを替えて戻ってきた。

その行程に一軒の家を訪ねていた。

そのお家におられた男性は箸中のノグチを遠目で拝見していたという。

見終わって自宅に戻って涼んでいたところに私がやってきたということだが、お家でお会いするのが初めてだったAさん。

ダイジングサンをする班でないからこの日の行事は参加しないというが、ほぼほぼの時間帯を教えてもらっての再訪である。

提灯を調えていた当番の人たち。

その提灯を立てる提灯棒に「大神宮提燈棒 平成11年7月吉日 第14班寄贈」とあったから現状は班分けのようだ。

この年の代表は9班のNさん。

とても元気な70歳は単車に乗って、連絡ごとなどで忙しく駆け廻っている。

行事を始めるまでの時間を過ごす当番の人たちが佇む大神宮の石塔は、風化はしているものの自然石でできているという。

周囲を見渡してみたが、年代を示す刻印は見られなかったが、「畑 奉納 杉本熊次郎」の名を刻んでいた。

一般的に大神宮の石塔はいわゆる常夜燈型。

ローソクを灯せるように火袋はあるが、ここ芝の大神宮は珍しい自然石そのものの形態。

火袋なぞはない。



木箱に古き時代を示す墨書があった。

「明治三十三年七月吉日 新調 大神宮 北 町内安全」とあるから北垣内の所有物。

今から118年前に新調された御供箱に損傷は見られない。

大切に引き継がれたと伺える木箱である。

ダンジングサン(大神宮)に祭壇を組んで御供を並べた。

御供餅も昆布もお頭付きの干しイワシもすべて袋入り。

行事を終えて垣内に配られる御供であるが、清潔さを保つために袋詰めしていた。

次の壇は袋入りのお菓子を。

その下はペットボトル茶に大きなカボチャ。



最下段も朝取野菜がどっさり並べた。

最近流行りのムラサキシシトウにシシトウ、ゴーヤ、ピーマン、キュウリ、2種のトマト。

艶があるから美味しそうに見える。



そろそろみなが集まってきたから始めよう、と一同が揃ったところで拝礼した。

予定の時間よりも早くに始まった拝礼はローソクを灯してから・・・。



2礼、2拍手に1礼をして終わった。

参拝を済ませた一同は場を移す。

西日の日差しを避けた場は樹木の陰。

涼しく風が通り抜ける場に囲むように座った。



乾杯の合図にお神酒をいただく。

仕出し屋料理店に頼んだ料理を囲んでダイジングサン行事の直会。

大人に混じって子どもも参加している直会だった。



30年ほど前までは家で作ったおにぎりにおかずを詰めた重箱持参の直会。

みんなそうしていたという直会は「籠りの弁当喰い」だった、と話していた。

ちなみにこの日に参列していたご婦人が橿原市の十市郷の行事を話してくれた。

行事の一つに愛宕さんがあった。

掛軸があって変なものがあった。

子どものころのことやからはっきりと覚えていないが、お日待ちもあったという。

お日待ちの籠りの夜は食べあかしていたというから、おそらく北八木町では、と思った。

平成22月の8月24日に取材した八木町の住民がそう云っていたことを思い出した。

婦人が子どものときの記憶の変なものは、おそらく特殊な形で作る御供であろう。

(H29. 7.16 EOS40D撮影)
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箸中・中垣内の転がし地蔵石仏

2018年08月31日 09時25分44秒 | 桜井市へ
桜井市箸中の垣内は3垣内。

下垣内に中垣内、車谷垣内の3垣内であるが、さらに分割された垣内分けもある。

特に、中垣内は南垣内、川垣内、上垣内の分かれ垣内もあるから実にややこしい。

前年に訪れた際に知り得た中垣内のコンピラサンの夏祭りがある。

行事日はその日であろうと判断して再訪したが、垣内の人は来そうにもないような雰囲気だった。

待ち続けて1時間。

軽トラでやってきた男性に聞けば、盛大な行事ではなく、提灯を吊るす、笹を立てて花を飾る。

前日はすぐ近くの慶雲寺住職が法要される。

参列者は4年に一度の廻りの中垣内当番組の数軒だけだという。

86歳になるその男性が云うにはコンピラサンから歩いてすぐ。

川向うの集落内に地蔵さんがある。

コモリと呼ぶマツリをしていると話していた。

その地蔵さんを「転がし地蔵さん」と呼んでいる。

話しから想定するに分離できる丸い石仏のようである。

土台から降ろした場で石仏を転がしていたからそう呼ぶようになったのかわからないが、コモリの場にゴザを敷いて自前の弁当を食べていたという。

話しの展開から思うに、随分と昔の様相にように思えたが、転がし地蔵さんに興味をもった。

8月24日にしていると男性が話していたので出かけてみたが、誰一人現われなかった。

近くに住んでいる男性を訪ねたら、「そうだっか、おかしいなぁ。」と返答する。

しばらくしたら奥さんが畑から戻って来られた。

同様に今日と聞いていた地蔵さんのマツリは・・。

「7月やったと思う」だ。

映像は7月16日に撮ったもの。

枯れる寸前のお花が残っていることから、少なくとも信仰する人がおられるということだ。

(H29. 7.16 EOS40D撮影)
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箸中のノグチ

2018年08月28日 09時44分34秒 | 桜井市へ
平成19年以来、久しぶりに拝見する桜井市箸中のノグチ(野口)行事である。

三輪山麓北西部の桜井市箸中で毎年の夏に行われるノグチ(野口)であるが、対象年齢に達した男子がなければ行われない。

対象年齢は数えの17歳。

今では満年齢で数える16歳の高校1年生が対象になる。

平成6年は6人もいたが、年々が少子化。

その後の年は3人。

平成19年に取材したときも3人。

以降、対象者なしの年(平成21年、22年、23年、24年、25年、28年)もときどきあったものだが、2人のときもある。

箸中に誕生する子どもの人数は常に一定でない。

現状、このまま誕生しない年が続くようにでもなれば、と危惧した村は、対象の子どもがいなくとも、延々と継承してきたノグチ(野口)の民俗文化を潰えることなく、後世に伝えるべく自治会役員が継承していくことにしたという。

この日は朝一番の作業に神社前の竹林から青竹を伐り出していた。

子どもがたくさんいた時代は、子どもたちの手によってジャやツノメシを作って、「ノグチ(野口)」の神前に供えていた。

徐々に少子化に移ったころは、作り手の子どもも減少するなどで、親御さんが手伝うようになった。



平成17年に拝見したときは3人。

うち年長の子どもがいる家がヤド(当家)を務めていた。

ノグチ(野口)を行う日は暑い盛りの土用の丑の日であったが、近年は学校が休みの日になる日曜日若しくは土曜日。

場合によっては関係者の都合状況によって予定した日を替えることもある。

平成27年は対象の男子が2人もいると教えてくださった雑賀耕三郎さん。

熱いガイドをするカリスマ的存在の奈良まほろばソムリエの会の理事である。

箸中のS区長と交流がある関係で対象の男子がいるとわかってFBに伝えていた。

ありがたい情報に「7月26日日曜朝9時ころ、8年ぶりに出かけてみようと思います」と連絡したが、叶わぬ夢で終わった。

その年の7月10日に突如の如く発病した僧帽弁逸脱による弁膜異常によって入院、手術

退院したのは8月15日だった。

それから2年後の平成29年。

前年の平成28年の対象者はなかったが、今年は1人で実施されると再び教えてもらって訪れた桜井市の大字箸中である。

平成17年当時の取材である。そのときにお世話になった前区長のMさんが、箸中の昔を村の人が記録した史料があると見せてくださった。

箸中の氏神さんを祀る国津神社。

神社の年中行事(元旦の拝賀式・祈年祭・風鎮祭・秋祭り・新嘗祭・桧原祭)、講の行事(二日正言講、正言講、初午祭、九日講、祭當夜、)に続いて書かれていたのが、村で一体となって行われる行事の「野口の儀式」であった。

他にも亥の子、昔の風日待、十四日の大とんど、十五日朝の小豆粥、灌漑用貯池の箸中大池の魚の取勝ち(四ツ手網・たま・投網・うぐひ・ごっかり・さで)、溜池(※井寺池)の築造、百度石及び百燈明、昔の雨乞い祈願、箸中区の風水害、その他大地震災害、娯楽行事、神籠り、階差、変わった行事、箸中の偉人である杉本徳蔵、的場兵吉(小字宮ノ前)に大正時代のいろは歌留多まで書いてあった。

縦書き便せんにびっしり文字を埋めた史料はおよそ100頁にもなる。

当時の箸中の文化・歴史を記した史料は重要な文献。

現在は見ることのない、麦集めなど当時の様相がありありと浮かぶ事例は、後世に伝えたく抜粋した「野口の儀式」を下記に一部補足した上で書き写して遺しておく。

「我が箸中村には昔より野口の儀式があり、何故この様な、仕来りが出来たか分からない。恐らく、五穀豊作、害蟲の被害が無き様に、亦、一方では十七才となり、一人前の大人になる元服式であろうと思ふ。明治、大正、昭和の初期に行われた野口祭を述べて見よう」と、前書きである。

「野口祭は、半夏生、十日目の休みから始まる。休とは稲苗植付後、荒櫂(※あらくじとルビを振っていたが、あらがいであろう)、二度櫂も終って次にならし(※均し)にかかる。中間の時期の時に休みと休みの仕直しと二日間、農家は仕事を休む。この日に當年十七才になった男子の持つ親が一堂に集り、當家を規める。或る可くならば中垣内の長男で広い家屋を定める」。

「この日當年十七才になった男子達は法螺貝を吹き鳴らしながら、小麦一升宛、村内各戸より集める。この小麦を四斗俵に詰めて、この俵謄(※担)ぎの力だめしをする。そうしてこの小麦を製粉業者に賣り、其の代金を以って白米に買替する。」

「そして土用の丑の日に村人一軒より角(ツノ)の飯と飛魚一匹を供えた。當家の家へもらひに来る。この角の飯を食せば、夏の疫病にかからないと申傳えて居る」。

「土用丑の日、朝から十七才の男子は村から集めた小麦藁にて、ジャジャ馬の様なもの(これは害虫にしつらへたもの)を造る。そして半紙に牛や唐鋤の絵を書き、これも持参す」。

「先登(※先頭)に法螺貝を吹鳴し、角の飯、御酒、塩、洗米等続いて、害虫に。しつら(※え)た小麦藁のジャジャ馬を葉付の青竹に通して、牛や唐鋤の絵も共に、一行は神域山の麓にある野口の神様の神前に御供へをして、大人の仲間入りと、村内の五穀豊穣、息災円満を祈禱する。其の後、青竹だけ持って一丁余り上方の井寺池へ水浴に行き、そして池底の深き所に大岩ありて、一同は水中深くもぐり、この岩に持って来た。青竹を突き立る。これは何の意味をするか分からない。(古人に聞く、これは水の神様に祈願・・)。私の判断では、立派に成長した身体。そうして水中深くもぐる忍耐を示した行事と思ふ。これで野口祭の行事は終る」。

「太平洋戦争が始められて、村内より小麦を集めることや角の飯の強御飯(※こわごはん)の配布は休止となったが、だが、其の外の行事は毎年毎年昔通りに取り行わて居る」と文を締めていた。

この日の行事を紹介してくださった雑賀さんに頭を下げるとともにS区長も挨拶する。

S区長とは平成26年2月4日に取材した二月初午祭以来のご無沙汰である。

取材した後に初午に揚げる幟のすべてを新規に入れ替えたという。

話しを切りだしたのは御供のハタアメである。

例年、近くの饅頭屋に頼んでいたが、今年は入手できなかった。

ちなみにここ箸中は大神神社に関係する。

箸中も隣村の芝も檜原神社の氏子。

8月28日に行われる檜原祭に出仕される神職は大神神社の禰宜さん。

また、大神神社の崇敬会でもあることから成願稲荷神社で行われる初午祭のハタアメのことも存じておられた。

箸中は二月の初午。

三輪は三月の初午。

二月の初午にハタアメが手に入らなかったので、大神神社に出向いて見せてもらったハタアメの形に愕然としたそうだ。

長年に亘って箸中で見てきたハタアメと形が違う。

大きな違いは竹の太さである。

その太さを見て不細工だと思ったそうだ。

確かに私もそう思う太さ。

それは長年に亘って製造供給してきた事業者が撤退したことによる。

なんとか三輪の初午にハタアメをと、特別に大神神社の依頼で製造した事業者の手によるものであった。

元々のハタアメそのものを見ていないからそっくり同じものはできるはずがない。

その件についてはブログに書き遺したので興味のある方は、是非・・。

本日の話題であるノグチに戻ろう。

ノグチの行事名称である。

平成21年3月に奈良県教育委員会が発刊した『奈良県の祭り・行事』での記載名称は箸中の「ノグチサン」である。

同じく奈良県教育委員会が昭和61年に発刊した『奈良県文化財調査報告書第49集 大和の野神行事(下)』も箸中の「ノグチサン」である。

箸中の「野口ったん」と記載していたのは著者の栢木喜一氏が平成8年に桜井市が発刊した『桜井風土記』である。

辻本好孝氏が昭和19年に発刊した『和州祭禮記』もまた箸中の「野口たん」である。

前述した箸中の住民が記した史料では「野口」の儀式である。

箸中の「野口たん」は「野口」をさん付けしたものである。

粥を「おかい(粥)さん」と呼ぶのも、いなり寿司を「おいなりさん」と呼ぶのも、芋を「おいもさん」と呼ぶのも、普段食べているものに親しみを込めているからだ。

ではなぜに「野口たん」なのか。

村の長老は「野口たん」をこう呼んだ。

「のぐっつぁん」である。

「たん」でなく「つぁん」である。

「つぁん」は「さん」呼びから、云いやすいように訛ったものだろう。

つまりは「おとうさん」を「おとっつぁん」と呼ぶようなものだ。

私の名は「田中」であるが、初めて勤めた工場の先輩たちは「田中はん」と呼んでいた。

これもまた「さん」が訛ったものである。

「はん」、「たん」、「つぁん」も本来は「さん」が転じた呼称。

落語の「はっつぁん、クマさん」である。

ちなみに「たん」で思い出したのが、例えば野菜の「炊いたん」である。

今月の7月10日に箸中中垣内で行われたコンピラサンの後片付けをしていた86歳のKさんは、史料記載と同じ「野口」と呼んでいた。

「さん」も「たん」も付けない「野口」であった。

前置きが長くなってしまったこの日のノグチ行事。

當家を務めるのも中垣内のK家。

16歳の次男さんが務め。

作業場は国津神社の社務所。



鉢巻を〆て手伝っている男子は19歳の長男さん。

3年前の16歳のときも務めた當家である。

兄は経験者だったから手伝いができる。

母親は角(ツノ)の飯を作っていた。

やや柔らかめに炊いたご飯を五号舛に詰めて押し寿司のように作る。

角の飯と呼ばれるが四隅の角(ツノ)らしきものはない。

これを二つ作って一升飯とする。

史料にあった麦集めの量は一升である。

かつては小麦を村各戸から集めていた。

『大和の野神行事(下)』によれば、ノグチ行事の朝は家ごとに、2把の小麦藁をカドグチに立てて集めやすい環境にしていたようだ。

ヤド家を務める當家の前庭に広げてジャを作っていた。

集めた小麦は地元の麦麺屋に売り、代金を行事費用に替えて、購入した米で強飯(こわめし)にしていた。

強飯は、一般的に餅米を蒸して作ったおこわ(御強)と呼ぶが、粳米を単に蒸して作ったご飯もまたおこわである。

一方、その横で牛の絵馬を描いていたのは次男さん。

今年の當家である。



今どきの農耕に牛を見ることはない。

牛の姿を描くにしても難しい時代は下絵の鉛筆デッサンに沿って黒い線を引いているように思える。



黒のサインペンで塗りつぶす塗り絵。

もう一枚は唐鋤などの農具。

鍬も描いていた。

その横では母親ができあがった角(ツノ)の飯御供を並べていた。



手前左に一尾のサシサバがある。

開きの干しサバでサシサバと云えば、サシサバをもう一尾の頭に挿しこんだ二尾を生き御魂に供えるお盆の習俗を思い起こすが、この場での紹介は省く。

ただ、当時の史料によれば、かつてはトビウオの干し魚であった。

国津神社の境内の一角。

敷き詰めたブルーシートの上で作業をしていた。

大方、ジャを作っていたのは自治会の役員さん。

當家を務める家の祖父も昔取った杵柄をもってジャ作りを支援していた。

翌年のノグチに対象者はいない。

いなくともノグチ行事をする。

そのためにも役員たちが村の文化財を継承する。

そういうことに決めたそうだ。



大方できたところに作り方を伝える役員さん。

今日の経験を発揮するのは何十年後になるのだろうか。

ジャの原材料は小麦藁。

束にした小麦藁を繋いでいくように作っていく。

束と束のつなぎ目は48カ所。

その繋ぎ部分が結び目になる。

以前はそうしていたが、今はベースになる曲げた青竹を先に作る。

細く割った青竹を丸くする。

数本重ねて外れないように結び目をとる。

どうやらその結び目が藁束の結び目になるようだ。

丸い輪にした小麦藁のジャ。

史料によれば、当時はジャジャ馬(※以降、現在呼称のジャと表記する)と呼んでいた。

結び目は輪の外側に突き出たような形に。

これを足という。

その数は48本。

輪の両方に突き出た数が12本ずつ。

合計で48本の足は、昔も今もかわらない。

なぜに48本と聞けばヤスデと返す。

ヤスデの足は48本。

つまりはムカデであるというが、実際、ジャに足は何本あるのだろうか。

できあがったジャ(若しくは円形に組んだムカデ)はすべての葉を落とした青竹に括って外れないように仕掛ける。



国津神社の拝殿屋根に立てかける。

その下には祭壇に供えた神饌御供。



調整した角の飯に背開きのサシサバ。

表面を上にして供えていたので中身の具合が見えない。

サシサバであれば盆の風習にイキガミさん(生き御魂)に供える干し魚。

背開きした内側に塩をたっぷり塗り込んで数日間漬ける。

何日間も天日干しをすれば日焼けして焦げ茶色に変質する。

この日の取材を終えてから気づいたものだから、未確認のサシサバであるが、前年に取材をされた雑賀耕三郎さんがアップされたブログ写真である。

アップしていたサバの映像は焦げ茶色。

一尾であるが刺し鯖(※二尾の鯖を頭から突っ込むように挿すから刺し鯖)に違いない。

山添村で売っていたサシサバは食べたことがある。

一口食べて、とても塩辛かった味は今でも覚えているが、ここ箸中で夏の盆に供える、或いは食べる習慣はあったのだろうか。

史料によればサシサバはかつて飛魚であったと書いてあった。

実は鯖でなく飛魚の事例もときおり聞くので間違いないと思うが、尤も昔のことだからよほどの高齢者でないとその体験はないだろう。

ちなみにサシサバ風習はなにも奈良だけに限ったものではない。

江戸時代、盆の贈り物だったサシサバ

奈良県では飛魚を贈ったという事例も少なくない。

箸中は飛魚からサシサバに移った。

その移りは山添村で刺し鯖を売る店主も同じように昔は鯖でなく飛魚だったと話していたことを思い出した。

味覚の需要がたぶんに替わったのであろう。



神饌御供を並べたら氏神さんに向かって拝礼する。

元々はヤドを務める當家宅でしていた。

準備も直会の場も含めて、昭和53、4年のころに国津神社の社務所に移した。

そういうことがあって氏神さんに拝む形式に移したのである。

カンジョと呼ばれる地に野口の神さんがある。

そこへ出向く前に仕掛ける練習。



最近になって復活した法螺貝吹きである。

親父さんが息子に伝える法螺貝吹き。

ちょっとした練習で吹いたら鳴動した。

向こうに居る祖父も喜んでいるように見える。

吹く口が壊れたためにしばらくの期間は法螺貝を吹くことはなかったが、最近になって修理されたようだ。



吹けた、と笑顔の當家。

鳴動は明るく高らかに鳴る。

出発前に本日の記念写真。

なんせ取材陣のカメラマンが私も入れて5人。

村の人が所有するデジカメを預かってシャッターを押していた。

どの写真も笑顔が満開になったところで出発だ。



法螺貝を手にしているのは當家の次男。

この日のノグチ行事の主役である。

円形に組んだ大きなジャは青竹に括られている。

長いものだけに重さもある。

担ぐのは2年前にノグチ行事を担った長男。

兄弟二人が並んで出発する。

後方に牛と農具を描いた絵馬を持つ父親が就く。

母親はサカキ。

神饌・御供を分担してもったのは自治会役員に當家の祖父だ。



當家は覚えたての法螺貝を吹いて先頭を行く。

国津神社を出発して村の公道を東に向かう。

しばらくすれば纒向川を対岸に渡って里道を行く。



縦一列に並んだ一行は地区の人たちが畑栽培している畑道をも行く。

平成19年のときは里道を行かずに、ずっと公道を歩いていた。

車谷垣内の出合辺りにある橋を渡っていたことを覚えている。

近年は里道を行くようになったが、元々の行程はどちらであったのだろうか。

この時期は草が生い茂る。



写真にすれば、それが逆に緑一面が広がる景観を生む。

少し歩くだけでも汗が流れる高温の日。



例年、土用丑の日のころは気温が高い。

南北を走る村の公道を渡ってさらに東進する。

そこら辺りからは勾配がややきつくなる。

知人ら写真家は一行の先頭より撮りたいものだが、私の足は動きが悪い。

脈が異常に高くなるが病んでいる身体では足の回転も上らない。

恰好の被写体撮りに私が邪魔をしているのが申しわけない。

到着した地は溜池の井寺池。



ここから眺める景観に大和盆地が広がる。

平成19年のノグチ行事は先にカンジョに参っていた。

昭和60年に調査した『奈良県文化財調査報告書第49集 大和の野神行事(下)―奈良県教育委員会刊―』報告によれば、カンジョに行って供えてから、再びジャや御供を抱えて井寺池に行く行程であった。

また、平成6年の行事調査記録を掲載していた『桜井風土記』も同じ行程であることから、最近になって行く順を替えたと思われるが、ここに一枚の史料がある。

記事はミニコミ誌のようだが確認はとれない。



出典はどこなのか不明であるが、その記事中に「オーサカキング」開催を伝える記事であった。

「オーサカキング」の開催期間は平成16年から平成20年まで。

記事は平成19年に拝見した。

行事の実施日は7月18日(月)とある。

その日、曜日になる年は平成17年。

記事の内容はそれ以前の在り方である。

実施年はわからないが、文中にある行程によれば、出発してから「途中、井寺池へ寄り水門口に青竹を立てる。塚に着いて礼拝が済むと、会所に戻る・・云々」であった。

一時的にそうしたと思われる行程の記録である。



青竹に括り付けたままの形のジャを池内に立てる。

かつては池の中央にある樋まで泳いでいって立てていたが、現在は池堤の水門口辺りに立てる。



それから一旦引き上げて、ジャを操って、池水を飲ませるような恰好をつける。

長い青竹を抱えてジャを水面に漬ける。



まるで泳がせているような感じであった。

儀式が終ればジャを引きあげる。

一旦、堤に引き上げてから青竹は池に。

ジャは池堤のフエンスに立てかけて祭る。



神饌御供などを並べて、一同揃って拝礼する。

これもまた平成19年のときは見られなかった祭り方であるが、以前は當家ら対象年齢の男子だっただけに簡略されていたのかもしれない。

今年の祈念に井寺池の御供並びを一枚。



當家の男子が道中ずっと吹いてきた法螺貝も並べた。

右手に立てた青竹の葉が見えるだろうか。

拝礼を済ませたら今度はカンジョに向かう。

池堤から下ってきた一行を迎える二人。

一人は男子の祖父である。



長老は登り切れなかったようで、木陰に身を寄せて待っていた。

井寺池より下った地にあるカンジョが野口の神さん。



一角に大樹が植わっている地は私有地。

大樹は通称アオキと呼ばれている常緑小高木のハイノキ(灰の木)であるが、『桜井風土記』の記述ではセンダン(栴檀)の大木であった。

センダンであれば6月に咲く淡紫色五弁の花や葉の姿ですぐわかる。

この日に拝見した大木に花(白い花らしい)はなかったが、葉の形から推定してもセンダンでないように思える。

ただ、この大木の右手に植生する樹の葉がセンダンにとても似ている。

もしかとすれば見誤っている可能性もある。

ジャを大樹から突き出る太い分かれの枝に吊るすような形式で架けた。



大樹の下に神饌御供を並べて、一同は揃って拝礼。

村の五穀豊穣や息災円満を祈願して終えた。

昔はこの祭礼を終えてから井寺池に行った。

中央の樋に青竹を立てるには水浴を伴う。

史料に書いてあったような池底の大岩に潜ることもないが、こうして16歳の若者の行事は無事に終えた。

これより社務所に戻って直会をはじめる。

注文していた膳を囲んで両親ともども若者を祝う直会である。

道端で待っていた長老らが17歳だったころのノグチ行事。

直会の場で酒を飲んでいた。

ノグチ行事は大人入りの儀式でもあった。

水中深く潜るのも大人入りの儀式であったろう。

長老らが体験したときのヤド家は當家。

座敷で料理膳をよばれて酒を飲む。

家で夜遅くまで飲んでいてベロベロに酔っていたにも関わらず、勢いで長谷寺詣りに出かけた。

周りの人から「今日からはオトナやど」と云われたそうだ。

直会ではないが、この日の當家の母親の話しによれば、嫁さんを貰った家が主催の食事でイロゴハンの摂待があったそうだ。

およそ20年前まではしていたという箸中の嫁入り接待であろう。

ところでカンジョ場である。



その地を雑賀耕三郎さんは「神上」であると話していた。

「神上」は小字名であろう、と思って奈良女子大が製作した小字データベースに、その小字名があるのか探してみた。

確かに小字「神上」はあった。

あるにはあったが、なんとなくおかしい地。

ジャ(若しくはムカデ)を供えたその地とは場所が違う。

小字データベースでの「神上」は纒向川のすぐ傍なのだ。

そこから下に視線を下ろせば、あれぇ、である。

細い道の先にあったその小字名は「神木」。

まさにノガミの木が植わる地である。

「神木」の読みは「かみき」なのか、それとも「しんぼく」であるのか、わからないが、その小字神木がカンジョ場であった。

調べた小字データベース地図をキャプチャ化したので公開しておくが、私の知る範囲の勧請綱掛けは川切りである。



現在の小字名にある「神上」は纒向川のすぐそばの南の地である。

名残が小字名にあると推定とするならば、そこがカンジョウの地であろう。

昭和14年調査の『和州祭礼記』に野神祭・神縄祭と記しているらしいカンジョである。

もう一つ、気にかかる点がある。

『大和の野神行事(下)』の記述に「『奈良県磯城郡誌』(大正四年刊)第9章町村“織田村箸中”の項に“神上古墳 官有芝地にして四、五十年前迄は老杉一樹あり、八王子塚にある大杉と相対して大綱を掛くるの旧式あり、其神上の称あるは貴人を埋葬せる上なるに困り、又其綱を掛くるはこれを潰ささらんが爲なりと言ふ”。“八王子古墳 面積六歩、芝地にして神上古墳と相対し、蓋し八王神の転訛ならん”とあり、神上古墳の神上は箸中字神上(かんじょう)に因むものと考えられる。八王子古墳の位置は現在不明である」とある。

気になる神上古墳である。

参照したのは、桜井市教育委員会が平成27年3月に発刊した『茅原大墓古墳発掘調査報告書』である。

その記事中に「神上塚古墳」の所在地が記されている。その地は小字「神上」でもなく、「神木」でもないJR桜井線の東際。

踏切より北にすぐの地は国津神社より西側である。

一般的に小字名を古墳名とする場合があるのだが、ノグチのカンジョ場と“神上”の関係性がわからなくなってきた。

ブログ・ちょっと寄り道第2回「箸中のノグチサン」がある。

箸中のノグチに関して多くの人がネットで紹介しているのか探してみた。

ほとんどは問題のない記述で安心したが、これはとんでもないと思ったブログがある。

ご本人は懸命に調べたのであろうと思うが、誤りというか、何十年も衰退して消滅した事項まで揚げている。

このブログに27人もの読者がついているが、その過ちに気がつくことはないだろう。

一つは下永のキョウの日程である。

第三日曜とあるが第一である。

二つ目の箸中のノグチは現在日曜日辺りに移っている。

三つ目はとんでもない。

安堵町を安堵村。

岡崎のウシマワリは戦前に途絶えている。

四つ目に大和郡山市上三橋を上三条と書いてある。

奈良市の三条添川の転記ミスであろうと考えられるが、上三橋は10年以上も前に中断した。

このブログ人の情報は足で稼いでいるのか、それとも史料だけに頼っているのか・・・知らないが、発信情報にえー加減さは受信した人たちに誤った認識を植え付けてしまう危険性があることに気がつかないのだろうか。

(H29. 7.16 EOS40D撮影)
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箸中・中垣内のコンピラサンの夏祭り

2018年08月25日 09時41分42秒 | 桜井市へ
桜井市の箸中にコンピラサンの行事があると知ったのは前年の平成28年の7月10日だった。

午後の5時半には、祭りの飾りのなにもかもが消えて、砂盛りだけが残っていた。

近くにおられた方の話しによれば、正式な講中の名は判らないが「コンピラサン」の講だと云う。

7月8日、9日、10日の三日間はコンピラサンの夏祭りをしていると云っていた。

コンプラサンの行事はどのような形式でされているのか知りたくて再訪した。

訪れる時間帯は午後5時半より前。

1時間半前の午後4時ころであれば、どなたかが参っているだろうと想定して自宅を出た。

到着した時間はジャスト午後4時。

「金毘羅大権現」の刻印がある石塔の前に花を立てていた。

前年に訪れた際である。

たまたま通りがかった午後1時の時間帯と同じように花を立てていた。



いずれも人影はない状態に被写体を撮っていた。

何らかの動きがあるのはこれからであろうと思うが、何時になるのかまったくわかっていないから、この場で立ちん坊状態である。

この金毘羅大権現すぐ傍に建つお家がある。

所在地に、であればコンピラサン行事について何らかのことをご存じと思われたので呼び鈴を押した。

屋内から出てこられたNさんに尋ねた結果は、父親の後を継いでいるが、詳しいことはわからないという。

それからも待つこと十数分。

走って来た軽トラが金毘羅大権現の前に停まった。



何をするかといえば撤収の片付け作業である。

作業中にコンピラサンについて教えてもらった。

金毘羅大権現に葉付きの竹を立てて提灯を吊るす。

花を立てて慶雲寺の住職に法要をしてもらう中垣内のコンピラ講行事である。

4年に一度の廻り当番の組が設えなどすべてを仕掛ける。

中垣内を四つの組に分けている。

例えば北の組は中垣内の北といい、南の組は中垣内の南になるらしい。

北と南があれば、残りの組は東に西が想定されよう。

ところが後日に聞いた垣内は南垣内に川垣内、上垣内の分かれ垣内であるという。

実にややこしいと思った。

今年の当たり当番になったKさんは中垣内の住民。

今年、86歳になっても家で素麺作りをしているという。

その素麺作りをしている作業の様相を撮りたいといってきた写真家は二人。

藤田浩氏と塚原紘氏の二人。

当時、よほど気にいったのか、度々やってきては屋外作業を撮っていたそうだ。

ちなみに藤田浩氏の写真で紹介していたシリーズ本がある。

編集工房あゆみが1995年(平成7年)に発刊した『奈良花ごよみ遊歩シリーズ』である。

気にいったシリーズは5冊とも買ったことがある。

かつては箸中に素麺を製造する事業者は15軒もあった。

衰退の一方で現在は5軒になったという。

コンピラ講の当番は、毎日にローソクを灯す。

手提げの燈明箱の廻りがやってきたら交替する。

夏のコンピラサンに提灯を吊るすが、提灯を納めている缶ごと慶雲寺に預けている。

そういえば昨年に拝見した缶は、すぐ横にある土塀造りの車庫にあった。



缶に「金毘羅大権現 天照皇大神宮」と書いてあったことを思い出した。

この日の10日は後宴。

夕方になれば撤収する。

コンピラサンは前日の9日の両日が行事日。

9日の朝に設えて祭る。

提灯を吊るすのは夕刻に行われる法要のときである。

お供えをして慶雲寺住職の法要がある。

昨日は夕方に大雨が降る予報が出たので、急遽、昼間に繰り上げて、3軒が集まったらしい。

法要が終わったら、いつなんどきに雨が降ってもいいように提灯は引き上げて缶に納めたという。

かつてはコンピラサンの日は、そこに架かる橋の上で弁当を食べていたそうだ。

中垣内に伊勢講があった。

現在は解散しているが、歩いてお伊勢さんに参っていたという。

帰りは長谷まで迎えにいっていたという伊勢講。

どれぐらい前のことであろうか、話しはどうも釈然としない。

伊勢講は衣装を着て遷宮に出かけた。

行先は元伊勢の檜原神社といえば、地元三輪になる。

実は檜原神社で行われる箸中の行事を取材したことがある。

一つは8月28日に行われる檜原祭である。

箸中も隣村の芝も檜原神社の氏子。

郷中行事に参列する。

もう一つは神道主分講と仏教系講の敬神講の合同祭事として行われる正言祭である。

(H29. 7.10 EOS40D撮影)
(H28. 7.10 EOS40D撮影)
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