マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

長谷町・T家のサビラキ痕

2022年06月05日 07時59分31秒 | 奈良市(東部)へ
T家のサビラキを取材したのは2年前。

平成30年4月26日だった。

翌年は、当地に出かける機会がなかった。

フクマルもしていると聞いていたが、その痕跡はなかった。

お家の習俗は、中断したのでは、と思っていたが・・・。

サビラキ痕があることでわかる昭和17年生まれのTさんの存在。

先を急がねばならないから、元気な姿は後日とした。

祈年祭でたばった護符を巻いた松苗もあることから、神事もされたようである。

(R2. 8.23 SB805SH撮影)

長谷町の風の祈祷の笹竹

2022年06月04日 07時56分38秒 | 奈良市(東部)へ
水間町から別所町を経て長谷町に向かう。

通り路選んだ街道にある指定文化財の南田原摩崖仏。

2年前にも見た草鞋吊りがあった。

吊りに変化はないが、摩崖仏を保護していた前面の塀は撤去していた。

さらに足を伸ばしたところ長谷町の公民館がある。

その手前のお家に軽トラが停まっていた。

何気に見た荷台に、笹葉のある細竹。

幣を取り付けていたソレを見て、今日は風の祈祷行事があることを知る。

しばらく走ったところで撮影していた豊作願いの印し。

その横を走っていった軽トラの運転は高齢女性だった。

風の祈祷をする場は、急な坂道を登り切った地にある日吉神社。

朝早くに行なわれる風の祈祷に間に合うよう山を登っていったが、追っかけはせず、次の調査地に向かった。

(R2. 8.23 SB805SH撮影)

水間町八幡神社の砂もち

2022年06月02日 07時28分06秒 | 奈良市(東部)へ
史料を漁っていたその中の1枚。

キラリと光ったように見えた史料は水間町八幡神社の年中行事。

入手した日付は平成18年10月1日。

その日は月例祭であるが、当人、当家を決めるフリアゲ神事があった。

フリアゲは年番の3人のうち一人の大当家を決める籤引き神事である。

取材に訪れた際、長老の宮総代からいただいた年中行事に、えっ、と思わせる行事名があった。

14年前にもらったときは、さほど気にしていなかった、その行事名は「砂もち」。

今でもされているのか、とにかく出かけてみなければ、と車を走らせた。

懐かしい神社に辿りついた。

久しぶりに見る景観に、14年前にはなかった景観を見る。

手水にあった竹つくりの龍に一目ぼれ。

ざっと境内を見渡せば、昔と同じ景観がある。

ふと気がついた砂山。

参籠所奥にあった砂山が砂もちなのか。それはなんとも・・。

神社を下りて民家におられた男性Tさんに尋ねた「砂もち」。

それは前週にしていた、という。

朝早ように集まった氏子たち。

竹製のモッコに砂を入れて2人がかりのオーコで運ぶ。

境内は砂利敷。

その砂利を、Tさんは「じゃみ」という。

水捌けが良いように砂利敷にしたそうだ。

では、砂はどこへ。

本殿周りに砂を足す「砂もち」だった。

雨で流れることもあるが、落ち葉掃除とともに砂も掃かれて少なくなる。

そのことによって多少の高低差がでる、低いところは雨水が溜まりやすくなる。

年に一度、砂を補充し、農具のトンボで平たんに均す「砂もち」行事である。

購入した砂土は、2tのダンプトラックで運ばれる砂山。



水間町氏子全員が参加する砂運び。

2時間ほどで終えるそうだが、時間に余裕がる場合は草刈りもしている、と話してくれた。

ちなみに、今年はどことも新型コロナウイルス対策に規模縮小、神事だけとする地域が多いなか、水間町の秋祭りは、カラオケ大会など大勢になるイベントは中止するが、当屋による田楽所作などの神事ごとは実施する予定にしている、という。

平成17年10月9日に伺った秋祭り。

奇妙な田楽所作の印象は強く残る

16年ぶりに出かけてみたい気持ちもあるが、たしか夜中に近い時間帯だったと記憶する。

ただ、今年はカラオケイベントが中止であれば、始める時間帯は繰り上げることも考えられる。

さて、さてどうするか。

(R2. 8.23 SB805SH撮影)

長谷町・T家のサビラキ

2020年04月28日 09時05分39秒 | 奈良市(東部)へ
風景写真家のYさんが、この日の朝にFBにアップされた「イロバナ」に目が引き込まれた。

田植え初めに供えたサビラキのあり方である。

映像でわかるその地は日笠町。

その苗代田を覗きたくなって車を走らせた。

今日の暦は先勝。

農家の人は大安の次のえー日になるらしく一粒万倍である。

もしや、と思って、先に目指すほぼ同地域になる奈良市長谷町。

いずれも田原の里と呼ぶ地域。

田んぼに水を張っているところもあれば、田植えをしている農家さんもいる。

目的の地は、以前から承知しているTさんの田んぼ。

平成25年の5月12日に拝見していたウエゾメ(植え初め)の様相である。

後日にお会いしたTさんは、それを「サビラキ」と呼んでいた。

田に水を張っているが、サビラキは・・・まだのようだ。

その付近で苗箱を洗っていた婦人にお声をかけたら、なんと、Tさんの奥さんだった。

Tさんは77歳。

村の神社行事(塔の森参り・日吉神社の虫の祈祷/チョウナはじめ風の祈祷)とか庚申講行事取材などで世話になった人。

写真家のKさんやSさんも存じているTさんである。

奥さんが云うには、この日の午後に始めた田植え。

もうすぐ上の田んぼが終わって、いつもサビラキをしているこの場所に戻ってくる。

戻ったら、御田祭でたばった「幣に松苗、次いでイロバナも立てはるで・・」と、いう。



下見のつもりで出かけたら、今からするっていうから緊急取材である。

久しぶりにお会いしたTさん。

「それなら今から栗の木を取りに行こう」、とすぐさま動く。



家に咲いている花を集める。

ハナズオウ、ユキヤナギ、ツバキ、ヤマブキにシャガの花である。



自宅は茅葺家。

縁で幣つくりをされて、ぱっぱっと作っていた。



奥さんの手元にあるのは、近隣村になる茗荷町天満神社行事の祈年祭にたばった松苗である。

隣村の大野町もまた氏子領域にあり、平成23年の3月27日に行われていた子ども涅槃取材の際に拝見した松苗に護符を挟んだ漆棒も記録として撮っていた。



護符の文字は「御年大神」。

天満神社の護符であるが、サビラキに立てるのは松苗だけだ。

「ほな、立てよか」と云いつつ、いつものところに立て。



特に詞章はみられず黙々と立てる。

「田圃の神さんに、今年もよろしゅうと、豊作を願いますねん」という。

以前はフライパンでモチゴメを煎って作る“ハゼコメ(爆ぜ米)”をパラパラ落としていたそうだ。



サビラキは、田植えのえー日にする。

日和がえー日だという日は大安とか先勝。

タネマキは一粒で万倍の日に植えている、と話してくれた。



平成25年に拝見したときと同じようにフキダワラは見られないが、この年の3月11日に地区の御田祭でたばった松苗も立てた。

こうしてサビラキの行為をし終えてから、田んぼに入れた田植え機に乗る。



しばらくは田植え機で何往復もする器械的田植えが続く。

T家の作付け品種は粳米のキヌヒカリ

苗箱は215枚。

苗代つくりもしていた時代もあったが、現在は手間を省いてJAの農協買いの苗を植えていく。



田んぼはここにも上にもある。

1ヘクタールの広さに田植え作業は3日間もかかる。

働くTさんの田植え作業姿をとらえていた、そのときである。

上から下ってきた乗用車が急ブレーキをかけて車を停めた。

車から降りた黒いスーツ姿の男性に女性が尋ねたことは、この花は何でしょうか、である。

これは田植え初めにおける農家の豊作願い。

「田主はこれをサビラキと呼んでいます」、と代弁したら、つい先ほどまで峠を越えた天理市山田町も田植えをしていたが、このようなモノはなかった、という。

農家さんの田植え作業の取材を終えて事務所に戻るときに見つけた豊作のあり方に興味をもたれた一行。

「どうか、取材をお願いできないでしょうか」、と私に言われてもなんなので、田主のTさんに声をかけて願い人を紹介した。



同じように説明される田主の本音も聞かれたこの人たちは、どこの事務所に所属しているのか。

尋ねてみれば農林水産省近畿農政局奈良支局地方参事官室の3人。

写真を撮らせてもらって近畿農政局のHP掲載許諾もとっていた。

HPの内容は“山田の山間地”の田植え状況。

生産者のTさんの談話も織り込んで紹介してくださった。

こんな機会なんて滅多にあるものではない。

喜んで受けたTさんの姿は、その後に編集されて近畿農政局HPの頁を飾った。

長谷町は28軒の集落である。

今もなおサビラキをしているTさん。



10年前までは村の人もしていたが、今ではたったの一人。

村で唯一だ、という。

T家以外のお家はどうされているのだろうか。

実態は、茗荷町天満神社行事の御田祭で祈祷された松苗に漆棒に挟んだ護符は、いつしか祭る場は神棚に移っていた。

苗代に立てることもなく神棚に供え、翌年の小正月のトンドで燃やす形になったそうだ。

ちなみにT家が属する垣内は、清水垣内。

今では新暦に行われている旧暦閏年の庚申講がある。

かつては9軒の営みであったが、現在は4軒。

4年に一度のオリンピックの年の2月29日に行っている、という。

今も営みを終えた直会にイロゴハンを食べているそうだ。

(H23. 3.27 EOS40D撮影)
(H30. 4.26 EOS7D撮影)
(H30. 4.26 SB932SH撮影)

東鳴川町春日神社・座のマツリ

2019年02月05日 10時01分32秒 | 奈良市(東部)へ
前夜の宵宮に訪れた奈良市東鳴川町の春日神社。

この日もまた特殊な御供があるマツリに寄せていただいた。

朝早くからの作業に一老、二老に当家(※当夜とも)が集まってくる。

マツリが始まる時間帯は午前11時。

座中が参集されるまでに準備しなくてはならない作業がある。

一つは御供作り。

昨夜はシトギ作りのシラモチ。

大きな円形にバランの葉のせが特徴である。

この日のマツリは同じお米でもシトギ作りでなく蒸し飯作りになる。

御供の名称は宵宮と同様のシラムシ(※白蒸し)であるが別名にモッソがある。

充てる漢字は“盛相”である。

収穫したばかりの新米のヒノヒカリで作る白蒸しモッソの量は2升。

昔は5升、あまりにも多いという意見が出て3升になったが、いつしかそれもまた2升に落ち着いた。

塩水を垂らした大量の米を炊いて蒸していたというから相当な作業量である。

御供の量はともかく、大量にあった白蒸しモッソはどうしても余る。

余ったモッソはその場でおにぎり飯にして食べる人もあれば持ち帰る人も・・・。

ヒノヒカリは県推奨の粳米の品種。

昨今、どこの地域でもその名を口にされることが多い。



当家を手伝う若手の手伝いさんが作り始めた白蒸しモッソ。

蒸し飯を詰める容器は高さ5cm、一辺が140cmの桝である。



しゃもじで掬った蒸し飯を詰め込んでいく。

かつてはこれよりもっと大きな桝だったようだ。

詰め込む量はすり切れでなく、やや盛り状態にしておく。



取っ手のある蓋板を被せてぐっと押す。

親指を蓋に他の指は枠に手を当てながら抜く。

いわゆる押し寿司のようにぐっと力を込めて押し抜く。

できあがりはどうだろう。

みなが心配そうに見守るなか、そっと蓋を外したら、四隅も綺麗な白蒸しモッソが顔を出した。



ほっとして次もまた白蒸しモッソ作りである。

白蒸しモッソは2段重ね。

出来上がったらそれぞれをラップ包みにする。

それを四つも作るので調整時間はままかかる。

四つ作るのは「春日さんの神さんは四柱だから」という。

押しモッソは当家を手伝う若者の作業。

一方、作った2段重ねの白蒸しモッソに飾り付ける藁括りは大人の出番だ。



二老とともに当家の父親と調整作業。

先に施す三隅を半紙囲い。

その半紙の裏から廻した藁で括る。

藁括りは2段。

藁の端を中央に寄せて締める。

2段の藁先を揃えるように直立させる。

https://blog.goo.ne.jp/mnjr05gob/e/e1b8b4ac1f8b51f406a00ff643591a1f

ピンと立てたらできあがりであるが、前部を見ていただいたらわかるように、細く切った前部の半紙を結びにしている。

湿り気のある白蒸しモッソに直接触れる部分は柔らかくなるのはいいが、無理をすれば破れてしまうこともある。



丁寧さが求められる調整作業である。

作り終えてから拝見した大き目の桝はかつて使用していたモッソ容器である。

高さは7.5cmに一辺が17cm。

一回り大きいという具合であるが構造に違いが見られる。

現在使用中の桝は奈良県内各地に拝見した蓋押し構造。

それを押して枠から押し出す。



東鳴川のこれは押し出し式でなく、底の板が引き出せる引き出し式の構造である。

これまで見たことのない構造に感動した。



一方、白蒸しモッソと併行して注連縄を坦々と結い始めたのは当家を務める昭和60年生まれのIさん。

モチワラを慣れた手つきで結っていく。

ほぼできあがる少し前。

座中の一人が社務所下にある倉に納めている所蔵品を見せてくださる。

一つはゾーク(造営事業)の際に社殿に納めていた棟札である。



時代は大正八年拾年拾貳年。

「奉謹請 祭神(※春日四柱) 斎主社掌岡野半次郎 大工稲垣安太郎 守護攸」とあった。

もう一つは二つの太鼓。



太鼓革が破損したのか張り替えることなく残していた。

時間があれば内側の墨書を見ておきたかった代物である。

太鼓は現在の宵宮、マツリに用いることはないようだ。また、かつては6月26日に虫送りをしていたという。

太鼓を叩いて「虫よ、あっちへいけ」と囃していたという虫送り。

戦前まであったと伝わる。

御供や注連縄ができあがったころを見計らって出かける地がある。

そこは山の神の地とされる“嵩山”である。

下見兼ねて訪れた際、東鳴川の行事のことを教えてくださった宮総代・一老であるOさんが示す方角に山の神の地がある。

そこへ行くには道がわからない。

そこまでは歩きでなく、みなは軽トラに乗っていくという。

ついていくには無理があるから乗ってください、と云われてありがたく乗車する。

軽トラで行けるところまで行って、そこからは緩やかな山登り。

道筋に生えていた雑草は綺麗に刈り込んでいた。

当家のIさんは親父さんとともに草刈り作業をしていたという。

距離はそれほどもない山の神の地に大木がある。

集落からは見えにくい位置にある巨木はヒノキ。

そこが山の神の地。



白いカワラケを置いて、塩、洗い米にお神酒を供える。

当屋に次期当屋務めの男性に手伝いさんも。



神式に則り拝礼をした。



神事を済ませたら、ヒノキ周りに供えた塩、米、お神酒を撒いて終える。

山の神参拝を済ませた一行が神社に戻ってきた。

集まった座中は注連縄張り。

左右に高張提灯を立てた鳥居に注連縄をかける。

当屋が結った七・五・三注連縄はシデに麻緒を垂らしていた。



前夜の宵宮に出仕された宮司から授かったシデ、麻緒を取り付けていた。

この日は宮司の出仕はない。

宵宮かマツリか、出仕はいずれかの日に相談して決めるそうだ。

社殿に納めた御供はできたばかりの白蒸しモッソと前夜の宵宮と同じく五菜である。



葉付き大根に人参(若しくは生姜)、葉付き牛蒡、生椎茸、昆布の5品。

奉書に包んでモチ藁で括る。

漆の木で作った箸は四膳。

四柱の神さんに食べていただく五菜も四つである。

その手前に並ぶ四品。

紅白の水引で括った半紙包みの御供は五つの栗に柿と2個の蜜柑である。

塩、洗い米にお神酒を供えて神事を始める。



燈籠の蝋燭に火を灯して参拝。

ただ、一同が揃って参拝することなく、めいめいが四神に向かって手を合わせる参拝である。



東鳴川は下の5戸を入れて全戸が23戸の集落。

座入りした長男の人だけが座の行事に参集する。

一同が座ったところで記念撮影。



実は前夜の宵宮に出仕された石田武士宮司からのお願いである。

これまで揃って写真を撮ったことはない。

本日のマツリなら手伝いの二人も揃うからと伝えられていたご下命の記念撮影である。

尤も、座中は全員でなく、一人がやむない事情で参列できなかったのが申しわけなく思う。



まずは手伝いさんがお神酒注ぎに廻って一同の乾杯。

一老の挨拶、口上をもって下げたお神酒をいただく。



こうして座の会食が始まった。

座食は宵宮と同じ3品。

重箱に詰めた調理の品々は酒の肴である。



棒状に切った牛蒡にすり胡麻を振りかけた酢牛蒡。

醤油味で煮込んだコンニャク。



三角に捻りコンニャクの2種盛り。

もう一品が青野菜のおひたし。



この日は胡麻を振ったほうれん草のおひたし。



上座に座る一老、二老らの順に手造りの肴を盛ったお重を廻す。



三種の肴はめいめいが箸で摘まんで小皿に盛っていただく。

酒の肴が廻っている間に早くも動き出した3人。

四神に供えた白蒸しモッソも酒の肴にいただく。



三方を囲っていた半紙を取り除いてモチ藁を紐解く。

モッソを包んでいたラップも取り除いた。

供えたときと同じように二段重ねもモッソを中皿に盛る。



まずは上座に運んで一老、二老の順に添えた漆の木で作った箸でつまんで分ける。

白蒸しモッソは炊いてから時間が長く経過すると固くなる傾向にある。

この日の白蒸しモッソは朝に炊いて2時間ほど前にモッソにしていたので柔らかい。

尤もご飯のような食感でなくやや固めの印象であるが、品種はヒノヒカリ。

甘くて美味しいお米である。

座中がいうにはモッソも酒の肴。

それだけで酒が飲めるという。

美味しいモッソはお代わりの要求があちこちから座中が声をあげる。

その都度、モッソの膳を廻ってくる。



やや太めの漆の木の箸は持ちにくい。

漆といえば被れる人も多いやに聞くが、それは生木。

木肌の汁が直接肌にかかったらかぶれること間違いなし。

モッソを分ける漆の箸はカラカラに乾かしたもの。

一老は山に入って自生する漆の木を伐採して持ち帰る。

漆は長い期間をかけて干す。

汁気がまったくない状態のカラカラ干し。

そうなれば大丈夫。

皮を剥いで削れば白い木肌が現れる。

東鳴川では本日のマツリ以外にもモッソが登場する。

一年に何度か酒の肴にいただくモッソ。

この日に使った漆の箸は捨てて、次の年中行事のときにまた新しい漆の箸が登場する。

1行事に対していちいち作っているわけにはいかないので、一年分の箸を作っておいたいう。

尤も実際は2年分。

一老の任期が2年間のお勤めになるから、その期間中のすべての箸を前もって作ったそうだ。



三品のお重にモッソ。

いつになく美味しいからといって食も酒もようすすむわ、と話していた。

実は、であるが、この席には親子三代で参列している人がいる。



三代でなくとも親子で参列する組も。

親子で飲み交わす座の宴。

お家のなかではなかなか親子で酒を酌み交わすことはあまりないそうだが、この座では当たり前のように酌み交わす。

おそらく他村では見られない、際立って珍しい形態ではないだろうか。

しかもこの席に座するすべての人たちが長男である。

格式を重んじてきた東鳴川の座。

貴重な座の在り方に、寄せてもらってことに感謝申し上げる次第である。

座の〆に配られる蜜柑。

御供下げのデザートも美味しくいただいた。

ちなみに東鳴川を流れる川はその名通りの鳴川。

下流に注ぐ赤田川を経て大川の木津川に流れていくそうだ。

村には寺の跡があった。

耕す田んぼの名に旧寺の名があるという。

坊が多かったそうで「鳴川千坊」と称していた。

尤も県西部の平群町もまた鳴川の地があるから間違えそうにもなる同名の地。

調べによれば東鳴川にあったは南都仏教寺院。

興福寺一乗院に属した大伽藍の鳴川千坊があったそうだ。

東鳴川をはじめとする付近一帯は南都僧侶が山中に籠って修行をしていた。

この地は行基さんが49院を創立。

そのことから鳴川千坊の名が付いたようだ。

(H29.10. 9 SB932SH撮影)
(H29.10. 9 EOS40D撮影)

東鳴川町春日神社・座の宵宮

2019年01月25日 09時57分06秒 | 奈良市(東部)へ
座の行事のことを教えてもらってからずいぶん年月が経過してしまった。

祭事の場は奈良市東鳴川町に鎮座する春日神社・社務所である。

行事のことを話してくださったのは、同市の柳生町におられる石田武士宮司。

さまざまな地域に出仕される宮司。

兼社が多い関係もあるから秋祭りをはじめとして祈年祭や新嘗祭の時季は集中することから宮司に出仕していただく日程、時間を調整される。

東鳴川町のお供えに特徴がある。

主に宵宮の御供であるが、本祭にも特殊なお供えがあると聞いた年は平成21年であったが、東鳴川町を訪れたのは翌年の平成22年3月19日だった。

それからご無沙汰すること8年間。

再び訪れたのが先月の9月24日だった。

再訪のきっかけになったのは同月の19日である。

南山城村高尾の調査後に表敬訪問した際に話してくださった東鳴川町の御供。

座中が食する三品のお重盛りである。

背中を押してもらって一週間後に訪れた東鳴川町。

村神主こと座一老;・宮総代を務めるOさんに出会えたのもいい機会だった。

座の在り方、行事の状況や御供など、詳しく教えていただいた。

宵宮は午後7時より始まる。

それまでに御供などの準備を調えるOさんを筆頭に当家(※当夜とも)のIさんらが動く。

当社で行われる祭事のお供えは予め、である。

午後6時、社殿に納めた御供を先に拝見したく早めに訪れた。

指定された駐車場は毎月の第一日曜日に公開されている東鳴川町の不空羂索観音坐像を拝見見学者用。

数台で満車になる駐車場であるが、期日が重ならなければ、ということで停めさてもらった。

尤も宵宮であれば時間帯は重なることはない。

一老の了解をいただいて拝見した御供。

夕の光が射しこんで美しさが映える。

中央に2段重ねの鏡餅。

右手は果物盛りの上にのせた五菜。葉付き大根に人参(若しくは生姜)、葉付き牛蒡、生椎茸、昆布の5品は奉書に包んでモチ藁で括っておく。

そこに漆の木で作った一膳の箸も添える。

左手は円盤のような形に仕立てたシラモチ。

大皿に盛っている。

手前下に供えた2品。

一つは座一老が大切に育ててきた根、稲籾付きの三品種。

早稲に中生、晩稲である。

それぞれを1束ずつ揃えて奉書に包む。

紅白の水引で括った稲御供である。

その手前にあるのが生鯖。

お神酒1本を供えて座中を待つ。



座中より先に着いていた二老、当家たちとともに拝見した鍵。

古くから伝わる海老錠をよく見れば刻印があった。



みなも一緒になって拝見した刻印文字は「寛文十三年(1673)二月三日」。

裏に「イヌノトシヨリ 一老 久兵衛」。



「イヌノトシヨリ」と判断したが、どうも腑に落ちない表現である。

一つ考えられるのが「戌」の年である。

寛文十三年は「子」の年であるが、3年前の寛文十年が「戌」の年。

一老が就任した年が「戌」の年。

つまり「戌の年より務めた」と、判断するのも一つの考え方であるが・・・。

いずれにして、刻印から年代を溯ること、346年前からずっと使い続けてきた海老錠の歴史に感動するのである。

一同が揃ったところで宵宮の神事が始まった。



祭主は当神社行事の御供などを教えてくださった柳生の石田武士宮司。

厳かに祝詞を奏上される。

神事を終えたら御供を下げて社務所の下座に並べる。



これより始まるのは座の直会である。

一老の乾杯の音頭に下げたお神酒を飲み干す。

そして座の食事が始まる。

座食は3品。

重箱に詰めた調理の品々は酒の肴。



棒状に切った牛蒡もあればササガキ牛蒡に胡麻振りした酢牛蒡。

醤油味で煮込んだコンニャク。



形は三角に捻りコンニャク。

もう一品が青野菜のおひたし。



今夜は胡麻和えの白菜。



上座の宮司、一老、二老から順にお重を廻される。



お重盛りの肴はめいめいが箸でつまんで小皿に盛っていただく。

貴方もどうぞいただいてくださいとご相伴に与る。



煮込みコンニャク、たたき牛蒡、白菜のおひたしはいずれも家庭の味。

優しい味付けがとても美味しい。

白菜のおひたしは底になるほど味がしゅんでいて、味は濃く感じる。

これら三種のご馳走は当家が当番する。

翌日の祭りの膳も当家の勤めになるという。

座食が始まってから10分後。

当番の人が動いた。

御供下げした大皿のシラモチを炊事場に移動する。



コンロに網焼き。

大きなシラモチは下に敷いていたバランの葉とともにコンロで焼く。



焦げ目がついたら裏返してまたも焼く。

シラモチはお米を挽いてすり潰したものを水かお湯で練って作ったもの。

現在はお米でなくできあがりの上新粉を使用しているようだ。

これをシトギと呼ぶ。

いくつかの県内行事例に見られるシトギである。

しかもバランの葉にのせて焼いて食べる事例はままある。

一つは奈良市柳生町山脇で行われている山の口講の山の神行事

もう一つは旧五ケ谷村の一村になる奈良市興隆寺町八坂神社で行われる祈年祭である。

もう一つの事例は奈良市佐紀町・亀畑佐紀神社の宵宮祭

バランの葉はあるが、焼くことなくシトギそのものを少しずつ割って食べる。



シトギの味は米そのもの味がする。

バランの葉とともに焼いた場合は香ばしくて味が濃くなる。



焼け焦げたシラモチはパリパリのカリカリ焼き。

箸で突っついて割ろうとするが、手に負えないから手で千切ってわける。



表面はパリパリのカリカリだが内側は柔らかい。

ひと摘まみごとに分け合っていただく。



直会は1時間ほど。



ほどよく飲んで座食を味わった直会も終われば一老は神事の場を清めるに塩と酒を撒いていた。

(H29.10. 8 EOS40D撮影)

須山町・子供の涅槃講

2018年02月14日 08時00分13秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市の東山間部にある須山町に向かう。

前以ってお願いしていた子供の涅槃講の取材である。

須山の子供の涅槃講は、これまで2度もお伺いしたことがある。

一度目は平成23年の3月27日

二度目がその後、2年後の平成25年の3月24日だった。

実施される日は特定日でなく、涅槃に村を巡る子どもたちが決める日だった。

だいたいが、春休みの期間中のようだった。

いつしか村の子どもは減少への道を歩むことになった。

須山町の子供の涅槃講の対象者は上が中学生までで、下は歩けるようであれば幾つでも、ということだ。

平成23年のときは年長の子どもたちがいたが、中学校を卒業した翌々年は下の子どもたちだけになった。

それも特定家の兄弟姉妹の子ども3人だけである。

それから4年目のこの年もまた兄弟姉妹の3人だけである。

日程は子ども中心に決められるが、家の事情も考慮して家族で決める。

今年も取材をお願いしたら、快く受けてくださった。

3回目の取材になった今回は、写真家Kさん、たってのお願いである。

一か月前の2月28日。

取材許可願いに立ち寄った須山町の時間帯はもう夕暮れどきだった。

呼び鈴を押しても反応がなかった。

振り返れば畑から戻ってきた鍬をもつ向かいの老婦人がおられた。

話しを伺えば、まだ村に通知が来ていないようだ。

だいたいが3月20日過ぎになるらしい。

それから数日後。許可願いするお家に電話を架けたら、そろそろ決めようとしているとのことだった。

待ち望んだ涅槃講の日が確定した。

特定家の子どもは3人。

小学6年生の双子男子に4年生の女の子。

うち一人は前日に風邪をひいたものだから、やむなく欠席。

2人だけが参ることになった。

双子男子は翌月に中学生。

小学生時代最後の涅槃講に参加できなかったのは兄の方だった。

母親は「ねはんこ」と呼んでいた。

「ねはんこ」の「こ」を充てる漢字は「子」だと思っていたそうだが、畑で作業をしていた長老は「ねはんこう」だと云った。

「ねはんこう」を充てる漢字は「涅槃講」。

講の行事であるという。

須山町は13軒の集落。

かつては大勢の子どもたちがいた。

村の家を巡ってお米貰い。

大昔はそうだったという。

いつしかお菓子に移ったお米貰い。

東西、2地区の東出、西出に住まいする子どもたちの地区別競争。

すべてを巡って最後にトーヤ家(当家)の人からもらうご飯盛り。

貰ったら一目散に駆け付ける如意輪観音石像がある地。

如意輪観音や彫りの有る地蔵さん、石塔などにご飯を塗り付ける。

2番手になった地区の子どもたちは先に済ましていたご飯の上から塗ることはできない。

塗り付けたご飯を洗い落としてから塗ることになる。

その日は朝から晩までトーヤ家(当家)で遊んで過ごした。

昼食はカレーライス。

夜の食事はイロゴハンだった。

食事をよばれて、遊び疲れるほど遊んだというのは、当時の経験者である。

涅槃講の日程決めは年長者が、下の子どもらの都合も考慮して決めた。

決めた日程は村各戸に電話を架けて伝えていた。

だいたいが2週間前に通知していたそうだ。

そのようなかつての在り方は、お菓子貰いしている間に話してくださる。

石仏に塗ったご飯はちょびっとでなく、全身に塗ったという人もいる。

手でぐちゃぐちゃ。頭から下まで塗りつけていた。

昼食はキリボシダイコンを炊いた煮物料理もあった

。それにはジャガイモのたいたん(炊いたん)もあったし、ほうれん草も・・。

全部食べ切れずに、余ったものは持って帰っていた。

サラダに寿司もあったというのは西出の人。

キリコの名で呼ぶキリコモチはもう少し前の時代だったから、というAさんは昭和33年生まれ。

以前の年代の人たちがキリコの年代になる。

夜の食事に小豆粥もあった。

アラレ、キリコは大層になったので、お菓子に替わった。

お米も出す家もあったが、炊いてもらっていた。

トゲトゲのタロの箸もあった。

膳に、今年最後の子やからと云われた男性は58歳。

中学2年のときやから、昭和42年から45年ぐらいだったと話す経験を語る。

タロの箸があったとは・・。

少し離れるが隣村にある「矢田原のこども涅槃」行事を思い出した。

タロの木は一般的名称でいえばウコギ科の低木落葉樹のタラノキ(タラの木)であるだ。

春近しのころ、芽生えするタラの芽は春の恵みの一つ。

天ぷらにして食べたらとても美味しい。

近年、3月初めころともなればスーパーでも売ることが多くなったタラの芽であるが、涅槃行事に出てくる形は棘があるままの状態である。

映像も含めて、なぜにトゲトゲのタロの箸が登場するのかは、「矢田原のこども涅槃」行事を参照されたい。

裏山から流れる石清水。



湧水は井戸に溜める。

今でも利用している井戸の水を拝見させてもらったN家。

子どもたちを接待する家はヤド家。

トーヤ家(当家)でもある。

平成21年が最後になったヤド家の接待。

以降、食事接待をすることはなくなったが、塗り付けるご飯を調達するヤド家。

N家は来年の平成30年がヤド家になるという。

かつてはちらし寿司にオムライスもしていたという。

また、カヤの実は秋の稔り。

キリコはホウラクで煎って食べていたことも話してくれた。

西出の集落から東出の家を巡る。



先だって日程はそろそろと云ってくださった高齢の婦人も用意していたお菓子を手渡す。

ここの家には懐かしい光景もある。

右はポンプで汲み上げて蛇口から出てくる井戸水。

水受けする洗面台も懐かしい。



左側は陶器製の大きな口を開けた蛙。

その台も陶器製で「薬売箱」を表記している。

お爺さんが顕在だったころに聞いたその用途。

商売をしているお家から貰ったものだからわからないと云っていた。

子どもたちに付いていくまま数えたお家は13軒。

どの家も温かく受け入れてくれてありがたくお菓子をいただく。

貰ったお菓子は大きな紙袋に詰めてもらう。

両手に抱えて持ち帰るお菓子袋は満載になった。

風邪でお外に出られなかった双子の兄にも分けてあげるだろう。

トーヤ家(当家)に寄ってもらったご飯は丼盛り。



落とさないように抱える妹に箸をもったのは双子の弟兄ちゃんだ。

向かう地はかつて円福寺があったところである。



現在は小堂があるのみになってしまったが、光背のある地蔵菩薩立像、不動明王像などを大切に保管されている。

この日は特別だったが、一年に一度はご開帳。

7月23日の地蔵さんの祭り。

村の女性や子供たちが参拝に集まる。

また、小堂は毎月23日が廻り当番。

お堂に周りも綺麗に掃除をしてお花を立てているという。

円福寺の名残の石仏群に如意輪観音坐像がある。

役行者坐像に地蔵石版彫りに数々の石塔が乱立する。

どこから塗っていっていいのやら、思案にくれる兄妹。

そりゃ、やはり如意輪観世音菩薩だと思う。

ご飯を塗りたくるというよりも、箸で摘まんでくっつけるという感じである。



兄がご飯丼鉢を抱えて、妹が塗り付ける。

この年は兄妹が協力し合ってする飯塗りそのものの行為にどういう意味があるのだろうか。



県内事例に見られない在り方に感動するのだが・・。

ご飯を塗りたくっていたころ。



何人かの大人たちが、どういう具合にしているのか、様子を見に来られた。

お菓子貰いのときに話題になったかつての在り方がどのような形態に移っているのか、実際に拝見したくなったと話していた。

飯付けの〆に作法がある。

塗りたくった箸は二つ折り。



それをちょこんと如意輪観音さんに置いて終えた。

平成25年に取材したときに昭和15年生まれの男性、Mさんが話したこと。

私らの年代がしていた当時は、手で塗りたくっていた。

箸を使うことはなかったという。

この箸折り行為、昔はそうすることはなかったということだ。

箸を置いたら、二人は手を合わせて終えた。



付き添いに廻っていたお母さんも一緒になって手を合わせた。

この子たちも成長していずれは子供の涅槃講を卒業する。

双子の兄弟も4月になれば新中学生。

3年も経てば妹さん一人になってしまう。

そのころには村の次世代を担う赤ちゃんが誕生しているだろうか。

(H29. 3.26 EOS40D撮影)

丹生町の十六夜山荘

2017年12月24日 09時32分44秒 | 奈良市(東部)へ
平成27年9月、奈良市丹生町にお住まいのFさんから封書が届いた。

消印日付けは9月9日。

五節句のひとつである重陽の節句の日でもある。

封書に「十六夜山荘(いざよいさんそう)はお住まいと同じ番地だ。

封書に同封していた通知文に、県芸術祭参加イベントに2企画の催しをしているとあった。

しかもだ。

恒例になった十六夜山荘の観月会・お茶会もしていると書いてあった。

結びに「奈良の隠れ里 丹生の秋を満喫していただければ・・」とあった。

十六夜山荘は農家民宿。

平成27年の2月に農家民宿の許可を取得した。

四季を通じた農業体験、これまで続けてこられたお茶事に、日本の伝統文化を伝える宿としてお待ちしておりますとある。

婦人と初めてお会いしたのはずいぶん前のことになる。

平成22年の7月7日。

奇しくも五節句のひとつである七夕の日だった。

その日に取材した丹生町の行事は「三日地蔵」の風習。

F家でしばらく滞在していたお地蔵さんは隣家に運ばれる。

孫を連れた娘さんが送る情景を撮らせていただいたことがある。

ご縁をいただいたF家が話してくれた正月の膳もありがたく取材を受けてくださった平成23年の1月1日の正月。

元日の朝、家族揃って元日の朝を迎えて正月の膳をする様子を撮らせてもらった。

F家のイタダキの膳はミカヅキサンにツキノモチ、ホシノモチがあった。

でっかいカシライモの雑煮もご厚意によばれることになった。

その年の3月27日は孫さんの1歳の誕生日祝い。

滅多に拝見することのない初誕生の習俗までも取材させてもらった。

なにかと世話になったF家。

当時はいつもにこやかな旦那さんがおられた。

旦那さんは蜂捕り名人。

この日は保存していた蜂の料理までいただくことになった。

平成24年は丹生神社の宵宮行事にも訪れていた。

参拝に来られていた娘さん家族にお会いした。

ご両親は家で孫の面倒をみてもらっていると話していた。

元気で孫さんと遊んでいる姿が目に浮かんだが、立ち寄ることはなかった。

それから月日が経った。

風のたよりに旦那さんが亡くなった知らせが届いた。

なんということだ。

「十六夜山荘」の案内状が届いたのは、平成27年9月10日。

携帯電話に架けてみたが、不在で留守電になった。

その夜である。

Fさんが架けた電話が私の携帯電話にかかった。

あれから旦那は亡くすし、家族状況も大きな変化があった。

負けてられない、と一念発起したのが「十六夜山荘」の設立だった。

ご近所に食事ができる処ができた。

心地いいお宿は自宅を若干の改造をして立ち上げた。

お気に入りの自宅は特徴ある田の字型の座敷

早く来てもらって写真を撮ってね、と云われるが・・。

食事処に御宿。

二人のオーナーが協力し合って丹生町の発展寄与、また、大和茶の応援に立ち上がった、Fさん。

ガンバッている声に発奮したいが、そのころの私は、心臓手術で退院したばかり。

当分は経過措置の治療、リハビリの身。

身体あってのこともあり、お互いボチボチやねと言葉を交わしていた。

この日の午前中は月ヶ瀬桃香野八幡神社の祈年祭を取材していた。

ここからさほど遠くない地に丹生町がある。

いい機会に立ち寄って元気になった姿をみせたい。

それもあるが、十六夜山荘を知りたくて表敬訪問した。

不在である可能性もあるが、とにかく出かけてみる。

確かにあった「十六夜山荘」の立て看板。

門屋にある呼び鈴を押した。

在室していたFさんとお会いするのは、実に6年ぶり。

料理に使う陶器を整理している最中にお邪魔して、盛況ぶりを聞かせていただく。



今年の2月15日で3年目を迎えた十六夜山荘。

口コミで固定客も増えた。

リピーター利用者も多く、しかも外国の方々が来られるようになった、という。

ヨーロッパや台湾にマレーシアなどの国々の人たちもあれば、奈良市内に住まれるある若夫婦の人たちからは、私たちの故郷になってください、といわれるまでに愛されるようになったそうだ。

来客は大人だけでなく、奈良市小学校の在校生徒が利用する農家民宿体験もある。

町住まいの子どもたちにとっては、貴重な体験にたいへん喜んでもらっている、と話しながらもお茶で接待してくださった。



えーことずくめの盛況ぶりにエールを贈られたのは私の方だった。

明日か明後日ぐらいになれば、廻り地蔵が十六夜山荘にやってくる。

だいたいが、1年に2度は廻ってくるというお地蔵さん。

あれから7年。

大きく育った孫の女の子は中学生。

娘の代わりに地蔵さんを背負えるぐらいに成長した、と目を細めていた。

(H29. 2.17 SB932SH撮影)

冷たい風にフウセントウワタ

2017年08月06日 07時13分28秒 | 奈良市(東部)へ
晴れている時間帯は温かい。

防寒と思っていたボア的な服は脱いでしまった。

置いたままにしておいた服にしまった、と思っても、もう遅い。

平坦とは3度から5度も違うと云われている大和高原の地では曇り空。

日陰に風が吹けば桶屋は儲かるが、私は寒い、である。

奈良市茗荷町の郵便局に立ち寄った友人が畑地を指さした。

その先にある木材は竹であろうか。

何本もの木材を石垣塀に立てて並べている。

細いものもあれば、やや太いものも。

朽ちて落ちているものもある。

これは何をするものだろうか。

気になれば足が自然と動き出す。

家屋の傍にある畑地に婦人がいる。何かを収穫しているのであろう。

近寄って尋ねてみれば、それはカボチャ栽培に立てた道具。

ここら辺りはイノシシが多くなった。

夜間に出没しては作物を喰い荒らす。

それを避けるためにカボチャに支柱を立てた。

カボチャは瓜科の蔓性植物。

で、あれば地面に這っていく蔓は上にも伸びるだろうと誘った。

実際に登っていって実をつけた。

つけるにはつけたが味は旨くなかったからやめた、というのだ。

上空に揚がったカボチャは水分を吸い上げられなかったのだろう。

瑞々しさがなければ美味しくない。

そう思うのである。

その場所に生えていた植物に目が点になった。



薄い緑色の玉がある。

数は多い。

玉は大きめである。

この植物がどこかで見たことはあるが、名前は知らない。

奥さんの話しによればフウセントウワタ

充てる漢字は風船唐綿。

声をかけたら塀から顔を覗かせた旦那さんが云った。

貰ったタネを四月に植えたらどんどん成長する。

やがて実をつけたフウセントウワタに白い液体がつく。

それは毒だから触ってはいけないとネットに書いてあったという。

あんたにあげると云われて枝ごと伐ってくれた。

(H28.12. 1 EOS40D撮影)

無残な大柳生のハナガイ

2017年06月12日 09時43分27秒 | 奈良市(東部)へ
平成28年10月16日現在、奈良県でもなく奈良市にも文化財指定されていない大柳生の祭り。

そもそも長老や太鼓踊りを復活させたいと云っていた自治会長はどう思っているのか・・・。

こんな怒りをもってしまった大柳生の祭りである。

この日に通りがかった奈良市大柳生は祭りの最高潮。

時間的に間に合ったので立ち寄った。

祭りの場は夜支布山口神社。

今や神事が始まろうとしていた場には長老らが並んでいた。

右広庭には大勢の人たちが集まっていた。

お酒も入っているのだろう。

怒号とまではいかないが、とても賑やかな様相である。

それはともかく社殿下の拝殿である。

神輿の前に並べていた神饌御供がある。

お参りをさせていただいてはっと気がついた。

目に入ったのは豪華な盛りである。

二段の重ね餅やとても大きな生鯛にも度肝を抜かれるが、稔りの盛りである。

柿の盛りに蜜柑やバナナの盛り。

とかく目立つ色合いの盛りではなく収穫したばかりと思える野菜などの盛りである。

左奥には枝豆の盛り。

その次は土生姜の盛り。

クリにシイタケもある。



その中央辺りにあった盛りはたぶんにもぎたて柘榴である。

奈良県内の神饌御供は数々あれども柘榴はとんと見ない。

大柳生に柘榴があったことを初めて知る日であった。

神事を終えたら仮宮に向かう行列がある。



その際に配られる花笠は青空に広げるように置いていた。

その下辺りに落ちていた紫色のヒラヒラがある。

これは氏神さんに神事芸能を奉納する8人のガクウチが装着するハナガイに付いている御幣である。



御幣が落ちていることはどういうこと。

神事芸能はこれより始まる神事中に奉納される。

落ちているということはもぎ取ったということか。

それとも・・・。これは数分後にわかった。

神事に並んだガクウチの何人かがよれよれなのだ。

酒に酔っているのがわかる。

着用している装束の素襖の着こなしがとんでもない状態だった。

一目でわかる上下が逆。

いったいどういうことなのか。

しかもだ。

噂に聞いていたハナガイの装着である。

「旧木津川の地名を歩く会」がアップしている平成24年の実施模様がある。

その年、すでにハナガイはハナガイの意味を失くしていたことを知って愕然とする。

それが異様とも感じないのが実に残念なことだ。

民俗行事を知らない人たちは始めて見るそれが本当だと思ってしまうことも残念なのである。

私が大柳生の祭りを取材した年は平成18年10月15日である。

青年たち入り衆が当屋家に素晴らしい「田の草取り」と呼ぶ田楽芸を所作していた。

拝見したハナガイはまさに牛の鼻につけるハナガイと同じようにしていたのである。

この姿に感動したこともあって平成21年9月28日に発刊した初著書の『奈良大和路の年中行事』に掲載させていただいた。

一年間の大役。

「廻り明神」の祭りである大柳生の秋祭りで紹介した。

祭りはハナガイを装着するガクニンの当屋入り衆、奉納神事スモウ、当屋家で行われる祝いのセンバンに練り込む太鼓台に祭りが明けたのちに行われる当屋渡しの儀式などだ。

発刊した『奈良大和路の年中行事』の160頁から163頁を見ていただきたい。

ハナガイの装着がまったく違うことに気づいて欲しい。

この年もそうであったが、なんとなんとである。

平成29年1月のことである。

この「大柳生の宮座行事」が奈良県の無形民俗文化財に指定されたのである。

指定文化財概要文書(PDF形式)がネッ上トに公開されているので参照されたい。

ハナガイは頭にするものではない。

誤ったままのハナガイを挿入写真に掲載していること事態に憤りを感じる。

醜い状態であるにも関わらず指定したこと事態が問題である。

答申担当者もさることながら文化財審議官はどこをどう見ていたのか、はなはだ疑問ばかりである。

祭りは余興イベント的になってしまった。

ハナガイはガクウチ全員がキャップ被り。

ガクニンも人足も服装があまりにも乱れすぎ。

そう話していた地元民の女性。

「長老たちは注意することもなく、神事を神事とも思わないようにしてしまった」と嘆いていた独白が胸に残る。

(H28.10.16 EOS40D撮影)