マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

須山町・子供の涅槃講

2018年02月14日 08時00分13秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市の東山間部にある須山町に向かう。

前以ってお願いしていた子供の涅槃講の取材である。

須山の子供の涅槃講は、これまで2度もお伺いしたことがある。

一度目は平成23年の3月27日

二度目がその後、2年後の平成25年の3月24日だった。

実施される日は特定日でなく、涅槃に村を巡る子どもたちが決める日だった。

だいたいが、春休みの期間中のようだった。

いつしか村の子どもは減少への道を歩むことになった。

須山町の子供の涅槃講の対象者は上が中学生までで、下は歩けるようであれば幾つでも、ということだ。

平成23年のときは年長の子どもたちがいたが、中学校を卒業した翌々年は下の子どもたちだけになった。

それも特定家の兄弟姉妹の子ども3人だけである。

それから4年目のこの年もまた兄弟姉妹の3人だけである。

日程は子ども中心に決められるが、家の事情も考慮して家族で決める。

今年も取材をお願いしたら、快く受けてくださった。

3回目の取材になった今回は、写真家Kさん、たってのお願いである。

一か月前の2月28日。

取材許可願いに立ち寄った須山町の時間帯はもう夕暮れどきだった。

呼び鈴を押しても反応がなかった。

振り返れば畑から戻ってきた鍬をもつ向かいの老婦人がおられた。

話しを伺えば、まだ村に通知が来ていないようだ。

だいたいが3月20日過ぎになるらしい。

それから数日後。許可願いするお家に電話を架けたら、そろそろ決めようとしているとのことだった。

待ち望んだ涅槃講の日が確定した。

特定家の子どもは3人。

小学6年生の双子男子に4年生の女の子。

うち一人は前日に風邪をひいたものだから、やむなく欠席。

2人だけが参ることになった。

双子男子は翌月に中学生。

小学生時代最後の涅槃講に参加できなかったのは兄の方だった。

母親は「ねはんこ」と呼んでいた。

「ねはんこ」の「こ」を充てる漢字は「子」だと思っていたそうだが、畑で作業をしていた長老は「ねはんこう」だと云った。

「ねはんこう」を充てる漢字は「涅槃講」。

講の行事であるという。

須山町は13軒の集落。

かつては大勢の子どもたちがいた。

村の家を巡ってお米貰い。

大昔はそうだったという。

いつしかお菓子に移ったお米貰い。

東西、2地区の東出、西出に住まいする子どもたちの地区別競争。

すべてを巡って最後にトーヤ家(当家)の人からもらうご飯盛り。

貰ったら一目散に駆け付ける如意輪観音石像がある地。

如意輪観音や彫りの有る地蔵さん、石塔などにご飯を塗り付ける。

2番手になった地区の子どもたちは先に済ましていたご飯の上から塗ることはできない。

塗り付けたご飯を洗い落としてから塗ることになる。

その日は朝から晩までトーヤ家(当家)で遊んで過ごした。

昼食はカレーライス。

夜の食事はイロゴハンだった。

食事をよばれて、遊び疲れるほど遊んだというのは、当時の経験者である。

涅槃講の日程決めは年長者が、下の子どもらの都合も考慮して決めた。

決めた日程は村各戸に電話を架けて伝えていた。

だいたいが2週間前に通知していたそうだ。

そのようなかつての在り方は、お菓子貰いしている間に話してくださる。

石仏に塗ったご飯はちょびっとでなく、全身に塗ったという人もいる。

手でぐちゃぐちゃ。頭から下まで塗りつけていた。

昼食はキリボシダイコンを炊いた煮物料理もあった

。それにはジャガイモのたいたん(炊いたん)もあったし、ほうれん草も・・。

全部食べ切れずに、余ったものは持って帰っていた。

サラダに寿司もあったというのは西出の人。

キリコの名で呼ぶキリコモチはもう少し前の時代だったから、というAさんは昭和33年生まれ。

以前の年代の人たちがキリコの年代になる。

夜の食事に小豆粥もあった。

アラレ、キリコは大層になったので、お菓子に替わった。

お米も出す家もあったが、炊いてもらっていた。

トゲトゲのタロの箸もあった。

膳に、今年最後の子やからと云われた男性は58歳。

中学2年のときやから、昭和42年から45年ぐらいだったと話す経験を語る。

タロの箸があったとは・・。

少し離れるが隣村にある「矢田原のこども涅槃」行事を思い出した。

タロの木は一般的名称でいえばウコギ科の低木落葉樹のタラノキ(タラの木)であるだ。

春近しのころ、芽生えするタラの芽は春の恵みの一つ。

天ぷらにして食べたらとても美味しい。

近年、3月初めころともなればスーパーでも売ることが多くなったタラの芽であるが、涅槃行事に出てくる形は棘があるままの状態である。

映像も含めて、なぜにトゲトゲのタロの箸が登場するのかは、「矢田原のこども涅槃」行事を参照されたい。

裏山から流れる石清水。



湧水は井戸に溜める。

今でも利用している井戸の水を拝見させてもらったN家。

子どもたちを接待する家はヤド家。

トーヤ家(当家)でもある。

平成21年が最後になったヤド家の接待。

以降、食事接待をすることはなくなったが、塗り付けるご飯を調達するヤド家。

N家は来年の平成30年がヤド家になるという。

かつてはちらし寿司にオムライスもしていたという。

また、カヤの実は秋の稔り。

キリコはホウラクで煎って食べていたことも話してくれた。

西出の集落から東出の家を巡る。



先だって日程はそろそろと云ってくださった高齢の婦人も用意していたお菓子を手渡す。

ここの家には懐かしい光景もある。

右はポンプで汲み上げて蛇口から出てくる井戸水。

水受けする洗面台も懐かしい。



左側は陶器製の大きな口を開けた蛙。

その台も陶器製で「薬売箱」を表記している。

お爺さんが顕在だったころに聞いたその用途。

商売をしているお家から貰ったものだからわからないと云っていた。

子どもたちに付いていくまま数えたお家は13軒。

どの家も温かく受け入れてくれてありがたくお菓子をいただく。

貰ったお菓子は大きな紙袋に詰めてもらう。

両手に抱えて持ち帰るお菓子袋は満載になった。

風邪でお外に出られなかった双子の兄にも分けてあげるだろう。

トーヤ家(当家)に寄ってもらったご飯は丼盛り。



落とさないように抱える妹に箸をもったのは双子の弟兄ちゃんだ。

向かう地はかつて円福寺があったところである。



現在は小堂があるのみになってしまったが、光背のある地蔵菩薩立像、不動明王像などを大切に保管されている。

この日は特別だったが、一年に一度はご開帳。

7月23日の地蔵さんの祭り。

村の女性や子供たちが参拝に集まる。

また、小堂は毎月23日が廻り当番。

お堂に周りも綺麗に掃除をしてお花を立てているという。

円福寺の名残の石仏群に如意輪観音坐像がある。

役行者坐像に地蔵石版彫りに数々の石塔が乱立する。

どこから塗っていっていいのやら、思案にくれる兄妹。

そりゃ、やはり如意輪観世音菩薩だと思う。

ご飯を塗りたくるというよりも、箸で摘まんでくっつけるという感じである。



兄がご飯丼鉢を抱えて、妹が塗り付ける。

この年は兄妹が協力し合ってする飯塗りそのものの行為にどういう意味があるのだろうか。



県内事例に見られない在り方に感動するのだが・・。

ご飯を塗りたくっていたころ。



何人かの大人たちが、どういう具合にしているのか、様子を見に来られた。

お菓子貰いのときに話題になったかつての在り方がどのような形態に移っているのか、実際に拝見したくなったと話していた。

飯付けの〆に作法がある。

塗りたくった箸は二つ折り。



それをちょこんと如意輪観音さんに置いて終えた。

平成25年に取材したときに昭和15年生まれの男性、Mさんが話したこと。

私らの年代がしていた当時は、手で塗りたくっていた。

箸を使うことはなかったという。

この箸折り行為、昔はそうすることはなかったということだ。

箸を置いたら、二人は手を合わせて終えた。



付き添いに廻っていたお母さんも一緒になって手を合わせた。

この子たちも成長していずれは子供の涅槃講を卒業する。

双子の兄弟も4月になれば新中学生。

3年も経てば妹さん一人になってしまう。

そのころには村の次世代を担う赤ちゃんが誕生しているだろうか。

(H29. 3.26 EOS40D撮影)
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丹生町の十六夜山荘

2017年12月24日 09時32分44秒 | 奈良市(東部)へ
平成27年9月、奈良市丹生町にお住まいのFさんから封書が届いた。

消印日付けは9月9日。

五節句のひとつである重陽の節句の日でもある。

封書に「十六夜山荘(いざよいさんそう)はお住まいと同じ番地だ。

封書に同封していた通知文に、県芸術祭参加イベントに2企画の催しをしているとあった。

しかもだ。

恒例になった十六夜山荘の観月会・お茶会もしていると書いてあった。

結びに「奈良の隠れ里 丹生の秋を満喫していただければ・・」とあった。

十六夜山荘は農家民宿。

平成27年の2月に農家民宿の許可を取得した。

四季を通じた農業体験、これまで続けてこられたお茶事に、日本の伝統文化を伝える宿としてお待ちしておりますとある。

婦人と初めてお会いしたのはずいぶん前のことになる。

平成22年の7月7日。

奇しくも五節句のひとつである七夕の日だった。

その日に取材した丹生町の行事は「三日地蔵」の風習。

F家でしばらく滞在していたお地蔵さんは隣家に運ばれる。

孫を連れた娘さんが送る情景を撮らせていただいたことがある。

ご縁をいただいたF家が話してくれた正月の膳もありがたく取材を受けてくださった平成23年の1月1日の正月。

元日の朝、家族揃って元日の朝を迎えて正月の膳をする様子を撮らせてもらった。

F家のイタダキの膳はミカヅキサンにツキノモチ、ホシノモチがあった。

でっかいカシライモの雑煮もご厚意によばれることになった。

その年の3月27日は孫さんの1歳の誕生日祝い。

滅多に拝見することのない初誕生の習俗までも取材させてもらった。

なにかと世話になったF家。

当時はいつもにこやかな旦那さんがおられた。

旦那さんは蜂捕り名人。

この日は保存していた蜂の料理までいただくことになった。

平成24年は丹生神社の宵宮行事にも訪れていた。

参拝に来られていた娘さん家族にお会いした。

ご両親は家で孫の面倒をみてもらっていると話していた。

元気で孫さんと遊んでいる姿が目に浮かんだが、立ち寄ることはなかった。

それから月日が経った。

風のたよりに旦那さんが亡くなった知らせが届いた。

なんということだ。

「十六夜山荘」の案内状が届いたのは、平成27年9月10日。

携帯電話に架けてみたが、不在で留守電になった。

その夜である。

Fさんが架けた電話が私の携帯電話にかかった。

あれから旦那は亡くすし、家族状況も大きな変化があった。

負けてられない、と一念発起したのが「十六夜山荘」の設立だった。

ご近所に食事ができる処ができた。

心地いいお宿は自宅を若干の改造をして立ち上げた。

お気に入りの自宅は特徴ある田の字型の座敷

早く来てもらって写真を撮ってね、と云われるが・・。

食事処に御宿。

二人のオーナーが協力し合って丹生町の発展寄与、また、大和茶の応援に立ち上がった、Fさん。

ガンバッている声に発奮したいが、そのころの私は、心臓手術で退院したばかり。

当分は経過措置の治療、リハビリの身。

身体あってのこともあり、お互いボチボチやねと言葉を交わしていた。

この日の午前中は月ヶ瀬桃香野八幡神社の祈年祭を取材していた。

ここからさほど遠くない地に丹生町がある。

いい機会に立ち寄って元気になった姿をみせたい。

それもあるが、十六夜山荘を知りたくて表敬訪問した。

不在である可能性もあるが、とにかく出かけてみる。

確かにあった「十六夜山荘」の立て看板。

門屋にある呼び鈴を押した。

在室していたFさんとお会いするのは、実に6年ぶり。

料理に使う陶器を整理している最中にお邪魔して、盛況ぶりを聞かせていただく。



今年の2月15日で3年目を迎えた十六夜山荘。

口コミで固定客も増えた。

リピーター利用者も多く、しかも外国の方々が来られるようになった、という。

ヨーロッパや台湾にマレーシアなどの国々の人たちもあれば、奈良市内に住まれるある若夫婦の人たちからは、私たちの故郷になってください、といわれるまでに愛されるようになったそうだ。

来客は大人だけでなく、奈良市小学校の在校生徒が利用する農家民宿体験もある。

町住まいの子どもたちにとっては、貴重な体験にたいへん喜んでもらっている、と話しながらもお茶で接待してくださった。



えーことずくめの盛況ぶりにエールを贈られたのは私の方だった。

明日か明後日ぐらいになれば、廻り地蔵が十六夜山荘にやってくる。

だいたいが、1年に2度は廻ってくるというお地蔵さん。

あれから7年。

大きく育った孫の女の子は中学生。

娘の代わりに地蔵さんを背負えるぐらいに成長した、と目を細めていた。

(H29. 2.17 SB932SH撮影)
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冷たい風にフウセントウワタ

2017年08月06日 07時13分28秒 | 奈良市(東部)へ
晴れている時間帯は温かい。

防寒と思っていたボア的な服は脱いでしまった。

置いたままにしておいた服にしまった、と思っても、もう遅い。

平坦とは3度から5度も違うと云われている大和高原の地では曇り空。

日陰に風が吹けば桶屋は儲かるが、私は寒い、である。

奈良市茗荷町の郵便局に立ち寄った友人が畑地を指さした。

その先にある木材は竹であろうか。

何本もの木材を石垣塀に立てて並べている。

細いものもあれば、やや太いものも。

朽ちて落ちているものもある。

これは何をするものだろうか。

気になれば足が自然と動き出す。

家屋の傍にある畑地に婦人がいる。何かを収穫しているのであろう。

近寄って尋ねてみれば、それはカボチャ栽培に立てた道具。

ここら辺りはイノシシが多くなった。

夜間に出没しては作物を喰い荒らす。

それを避けるためにカボチャに支柱を立てた。

カボチャは瓜科の蔓性植物。

で、あれば地面に這っていく蔓は上にも伸びるだろうと誘った。

実際に登っていって実をつけた。

つけるにはつけたが味は旨くなかったからやめた、というのだ。

上空に揚がったカボチャは水分を吸い上げられなかったのだろう。

瑞々しさがなければ美味しくない。

そう思うのである。

その場所に生えていた植物に目が点になった。



薄い緑色の玉がある。

数は多い。

玉は大きめである。

この植物がどこかで見たことはあるが、名前は知らない。

奥さんの話しによればフウセントウワタ

充てる漢字は風船唐綿。

声をかけたら塀から顔を覗かせた旦那さんが云った。

貰ったタネを四月に植えたらどんどん成長する。

やがて実をつけたフウセントウワタに白い液体がつく。

それは毒だから触ってはいけないとネットに書いてあったという。

あんたにあげると云われて枝ごと伐ってくれた。

(H28.12. 1 EOS40D撮影)
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無残な大柳生のハナガイ

2017年06月12日 09時43分27秒 | 奈良市(東部)へ
平成28年10月16日現在、奈良県でもなく奈良市にも文化財指定されていない大柳生の祭り。

そもそも長老や太鼓踊りを復活させたいと云っていた自治会長はどう思っているのか・・・。

こんな怒りをもってしまった大柳生の祭りである。

この日に通りがかった奈良市大柳生は祭りの最高潮。

時間的に間に合ったので立ち寄った。

祭りの場は夜支布山口神社。

今や神事が始まろうとしていた場には長老らが並んでいた。

右広庭には大勢の人たちが集まっていた。

お酒も入っているのだろう。

怒号とまではいかないが、とても賑やかな様相である。

それはともかく社殿下の拝殿である。

神輿の前に並べていた神饌御供がある。

お参りをさせていただいてはっと気がついた。

目に入ったのは豪華な盛りである。

二段の重ね餅やとても大きな生鯛にも度肝を抜かれるが、稔りの盛りである。

柿の盛りに蜜柑やバナナの盛り。

とかく目立つ色合いの盛りではなく収穫したばかりと思える野菜などの盛りである。

左奥には枝豆の盛り。

その次は土生姜の盛り。

クリにシイタケもある。



その中央辺りにあった盛りはたぶんにもぎたて柘榴である。

奈良県内の神饌御供は数々あれども柘榴はとんと見ない。

大柳生に柘榴があったことを初めて知る日であった。

神事を終えたら仮宮に向かう行列がある。



その際に配られる花笠は青空に広げるように置いていた。

その下辺りに落ちていた紫色のヒラヒラがある。

これは氏神さんに神事芸能を奉納する8人のガクウチが装着するハナガイに付いている御幣である。



御幣が落ちていることはどういうこと。

神事芸能はこれより始まる神事中に奉納される。

落ちているということはもぎ取ったということか。

それとも・・・。これは数分後にわかった。

神事に並んだガクウチの何人かがよれよれなのだ。

酒に酔っているのがわかる。

着用している装束の素襖の着こなしがとんでもない状態だった。

一目でわかる上下が逆。

いったいどういうことなのか。

しかもだ。

噂に聞いていたハナガイの装着である。

「旧木津川の地名を歩く会」がアップしている平成24年の実施模様がある。

その年、すでにハナガイはハナガイの意味を失くしていたことを知って愕然とする。

それが異様とも感じないのが実に残念なことだ。

民俗行事を知らない人たちは始めて見るそれが本当だと思ってしまうことも残念なのである。

私が大柳生の祭りを取材した年は平成18年10月15日である。

青年たち入り衆が当屋家に素晴らしい「田の草取り」と呼ぶ田楽芸を所作していた。

拝見したハナガイはまさに牛の鼻につけるハナガイと同じようにしていたのである。

この姿に感動したこともあって平成21年9月28日に発刊した初著書の『奈良大和路の年中行事』に掲載させていただいた。

一年間の大役。

「廻り明神」の祭りである大柳生の秋祭りで紹介した。

祭りはハナガイを装着するガクニンの当屋入り衆、奉納神事スモウ、当屋家で行われる祝いのセンバンに練り込む太鼓台に祭りが明けたのちに行われる当屋渡しの儀式などだ。

発刊した『奈良大和路の年中行事』の160頁から163頁を見ていただきたい。

ハナガイの装着がまったく違うことに気づいて欲しい。

この年もそうであったが、なんとなんとである。

平成29年1月のことである。

この「大柳生の宮座行事」」が奈良県の無形民俗文化財に指定されたのである。

指定文化財概要文書(PDF形式)がネッ上トに公開されているので参照されたい。

ハナガイは頭にするものではない。

誤ったままのハナガイを挿入写真に掲載していること事態に憤りを感じる。

醜い状態であるにも関わらず指定したこと事態が問題である。

答申担当者もさることながら文化財審議官はどこをどう見ていたのか、はなはだ疑問ばかりである。

祭りは余興イベント的になってしまった。

ハナガイはガクウチ全員がキャップ被り。

ガクニンも人足も服装があまりにも乱れすぎ。

そう話していた地元民の女性。

「長老たちは注意することもなく、神事を神事とも思わないようにしてしまった」と嘆いていた独白が胸に残る。

(H28.10.16 EOS40D撮影)
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南庄町・腰痛地蔵の奉納ツチノコ

2017年02月13日 08時38分14秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市南庄町に地蔵尊がある。

そこにはたくさんの木製の槌がある。

形の大きさ、長さ、太さがさまざま。

材もカシやヒノキのようだ。

ざっと数えただけでも215本。

地蔵堂には棚もあるからそこにも多数の木槌がある。

所狭しに並べた木槌は願掛けのお礼に奉納されたもの。

腰痛が治れば奉納する。

そういう言い伝えがあるから腰痛地蔵の名がある。

そのことを知ったのはずいぶん前のことだ。

南庄町の行事を始めて取材した日は平成16年の12月31日

大晦日の日に村総出で結った勧請縄を神社下の鳥居付近にある大杉にかける。

取材した日は特になんでもなかった日だった。

午前中いっぱいかけて結った勧請縄は見事な形になった。

そうこうしているうちに雪が降りだした。

降り積もった雪はまたたく間に風景を真っ白にした。

道路はとてもじゃないが走れそうにない。

半端な量に積もった雪は道路を塞ぐ。

しばらく待ってもやみそうにもない。

仕方なく村に滞在した。

雪はやんだが解けることもない。

焦った。

車のタイヤはノーマルタイヤ。

とてもじゃないが走れない。

夕方になろうとする時間までには動きたい。

道路はなんとか走っていったタイヤの重みで轍が解けている。

なんとかなるだろうと車を走らせた。

実際は走るという感覚でなくトロトロ坂道の道路はカーブもある。

周りが樹木のところは解けが少ない。

何カ所かで見た放置の車。

一旦、止まれば再び動くことのない車は崖側に放置。

そんな様子を見ながらトロトロ。

川上町辺りに来たときはほっとしたもんだ。

その年以降はいつ降るやもしれない雪にスタッドレスタイヤを入れ替えることになった自然の恐怖日だった。

それはともかく久しぶりに目にする南庄町の腰痛地蔵。

もしや、この日であるかもと思ってやってきた。

村の人たちは清掃を終えて腰痛地蔵を祭っている地蔵堂の付属建物内で寛いでいた。

取材したい旨を伝えて撮らせてもらう。

本来は7月24日であった腰痛地蔵の地蔵祭り。

祭りと云っても行事にはそもそも名前がないから敢えてこう呼ばしてもらう。

南庄町は上、中、下の3垣内。

かつて24戸の村であったが、現在は22戸。

それぞれの垣内が毎年交替されて地蔵尊に奉納されている木槌は一本、一本取り出して清掃する。

午後のある時間にすべての木槌を取り出して埃を取り去る。

汚れは水道水にシャワー刷毛で洗う。

その場は膝裏に延久四年(1072)奉始造・佛師越前國僧定法などの墨書銘がある県指定有形文化財の木造阿弥陀如来坐像を安置する公民館。

かつてお寺があったというから調べてみればおそらく廃寺となった常福寺であるかも知れない。

回収した木槌はすべてを戻すのではなく、申しわけないが撤去するものもある。

と、いうのも奉納、奉納とくれば場をとることになる。

溢れてしまうことになる。

一年間も経てばそうなる。

とにかく増え続ける奉納の木槌は古いものは選別されて撤去しているという。

そういうわけがあって木槌は元の位置には戻らない。



実は木槌の形を形成していないものもある。

それは亜流の木槌になるそうだ。

本来の木槌はヨコツチ。

木槌はワラウチ(藁打ち)に使われるヨコツチの形である。

ちなみにお話を伺った南庄町の人たちは木槌と呼ばずにツチノコと称していた。

これらは南庄町の人たちが奉納されたものでなく、奈良市内、生駒市、大和高田市の人たちである。

7、8年前に寄進された紺地の幕を見ればわかるが、寄進者の名の他に「高田市」の糸文字があることや、奉納したツチノコにもどこそこの地名が書かれていた。

洗っていれば目につく在所の地名でわかったそうだ。

ローソクや線香に火を点けて参拝者を迎える。

私が訪問した時間帯は午後5時を過ぎていた。

それより1時間前ぐらいから参拝者を待っている。

もう1時間もすれば終えるという。



そのころにやってきた参拝者は村の女性。

時間の都合がとれなくて遅れたと云う。

お参りを済ませば当番垣内の人がお下がりのお菓子を手渡す。

丁重なお礼に頭を下げた婦人が走り去ったあともお参りがあった。

保育園に通っている我が子を迎えに出かけた母親が戻ってきた。



車から降りてすぐさま地蔵さんに駆け寄る二人の女児は手を合わせて拝む。

お菓子がもらえるから拝んでいるようには見えない女児の参拝。

たぶんにいつもそうしている自然体の参拝に感動する。

昔の昔は地蔵さんに呼び名はなかっただろう。

いつしか慣例が発生したことによって呼び名がついたと思われる腰痛地蔵。

腰痛になった人がいた。

この地蔵尊にあった1本のツチノコ(木槌)を家に持ち帰った。

持って帰った木槌を痛みがあった腰をトントンと打って叩いた。

すぐに効果がでるものではなかったが、何日も続けていた身内のおばあさんが治ったという。

こりゃご利益があったのだと新しいツチノコを作って地蔵さんに奉納した。

どれぐらいの間があるのかわからないが、何べんもそうしていると若い女性がお参りに来た。

そういう効果があると聞いて同じように持ち帰って腰をトントンと叩いていたら治った。

そういうことから始まった願満のお礼。

時代は不明であるが、願掛けで治ったというありがたい地蔵さん。

ご利益があったと伝わって広まったものと考えられる民間信仰。

洗うのも処分するのもたいへんであるが、信心する人たちのご利益に貢献できるのが嬉しいと当番垣内の人が話す。

この日の行事を終えた当番垣内の人は幕や地蔵さんに着せた涎掛けは次の垣内に廻すという。

なお、前述した勧請縄掛けの行事日は大晦日ではなくなったという。

4、5年前になにかと忙しい大晦日を外してその直前の日曜。

つまり12月の最終日曜日に移したという。

(H28. 7.18 EOS40D撮影)
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矢田原町春日宮神社月次祭の余韻

2016年12月14日 08時50分17秒 | 奈良市(東部)へ
もしかとしてこの日にトウヤ(戸座)送りが行われるのではと思って出かけた奈良市矢田原町の春日宮神社。

着いた時間は午前10時。

境内にはどなたもおられなかったが、ガラス越しに見えた社務所に人影が。

近づけば男性が声をかけられる。

事情を伝えたら、トウヤ送りは六軒それぞれが個々にしていたという。

トウヤを充てる漢字は戸座。

六軒あるから六戸座。

これまで一年間も担った6人のトウヤはそれぞれにあたる次のトウヤに送る。

送るのは話の内容から想定して、箱のように思える。箱にはトウヤ勤めの素襖衣装や烏帽子などを納めてあるように思った。

送りの箱を受け取った家がこれから一年間を勤める。

いわゆる引き渡しであるが、儀式らしきものはないという。

「今日のトウヤ送り、お願いします」と云ってそれぞれが引き渡す。

すべての引き渡しが終わればトウヤ長と呼ばれる六戸座の代表が幣をもって神社で祓うらしい。

生憎、拝見できていないので想像をかきたてる。

今年は朝早くに行われたが、その時間帯を決めるのもトウヤ長の役目。

金を集めて決めるようだ。

戸座は籤で決めるわけではなく、家の廻り。

集落の垣内戸数の関係もあるが、だいたいが10~12年の廻りになるらしい。

戸座の出番は10月のヨミヤとマツリ。

ヨミヤの朝は御供餅搗きから始まる。

六戸座、それぞれの家で餅を搗く。

一戸座当たりの餅米の量は決まっている。

三升に一臼。

餅を盛るのは半切り若しくはフゴ。

いずれであってもオーコを担いで神社まで運ぶそうだが、時間帯は特に決まっていない。

御供を運んでからの夕刻。

というよりも夜時間になるころになれば六戸座それぞれのお渡りがあるらしい。

家を出発した戸座の人たちは烏帽子被りに白装束。

装束は素襖(裃かも)のように思える。

戸座だけなのか、他の人ももつのか、聞きそびれたが何人かが松明を持って神社まで向かうようだ。

神事後を終えたらゴクマキをすると話していた。

また、翌日のマツリに供える神饌にザクロやショウガ、ドロイモ、ユバにコブもあるという六人衆。

88歳の一老から82歳の六老までの長老は年齢を感じさせないお顔だ。

一同が揃っているので撮ってほしいと願われてシャッターを押す。

その中におられる一老のKさん。

本日の朝8時にトウヤ送りされた衣装箱を受け取ったそうだ。

ところでこの場におられる白い服を着た男性がおられる。

どこかで見たことがあるご仁である。

男性はこの日の神社行事の月次祭を斎主された宮司さん。

「何年か前に連載してはった産経新聞の記事を保存している」というのである。

産経新聞といえばたしかに、執筆・連載していた。

「やまと彩祭」のシリーズ名で奈良県内の伝統行事を紹介してきた。

平成22年の1月初めより、あしかけ1年間の毎週、48回に亘って紹介してきた新聞を保存しているという人はこれまで何人かおられることは知っている。

まさか、この場で遭遇するとは・・・。

そこで思いだしたのが男性のお顔。

平成22年3月24日に新聞紙上で発表した「奈良市田原の祭文語り・おかげ踊り」に登場されていた錫杖振りのMさんだった。

Mさんが神職であったことはまったく知らなかった。

矢田原町でお会いするとはまさに奇遇である。

この場でお聞きする戸座のことやマツリ行事などの他に村行事も教えていただいた。

六人衆が立ち会う行事に正月初めの初祈祷がある。

念仏があるのか、所作はどうなのか聞きそびれたが、愛宕さんやお伊勢さんに参る代表者を決めるフリアゲがある。

いわゆる代参決めである。

愛宕さんやお伊勢さんに出かけてお札を拝受されて村に持ち帰る人はそれぞれ2人。

籤を入れて茶碗でフリアゲする茶碗籤は是非とも取材したいと思った。

ちなみに今年の代参が授かってきた火迺要慎(ひのようじん)の護符がある。

3月20日に行われたこども涅槃の会場になる集会所の炊事場でも拝見した護符は神社社務所の炊事場にも貼ってあった。



炊事場は火を使う場所。

防火のために拝受した火迺要鎮の護符は京都の愛宕さんでもらってきたもの。

火伏の神さんの愛宕さんは「阿多古祀符(あたごしふ)」。

一度見れば目に焼き付くお札の文字である。

ちなみにこの一枚は、平成28年10月29日から12月11日まで行われた奈良県立民俗博物館の企画写真展の「わたしがとらえた大和の民俗―住―」に展示させてもらった。

春日宮神社は20年に一度のゾーク(造営)がある。

前回のゾークは平成18年3月25日。

記念の写真を掲げていた。



それより以前のゾーク祭典には獅子舞も登場した。

獅子舞の組は天理市櫟本に住んでいたとされる「タダケンジ組」。

30年前のことであるが、現在は解散されたのか来ることはないようだ。

「タダケンジ組」の名は他村でも聞いたことがある。

平成24年4月に訪れた奈良市誓多林町の住民が話していた組の名は伊勢の大神楽と云わずに「多田ケンジ」だった。

おそらく同一人物の組であったであろう。

(H28. 6. 1 EOS40D撮影)
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矢田原の子供ねはん

2016年10月04日 08時35分40秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市の東部山間地域に数多くの子どもが主役の行事がある。

彼岸の中日ともなれば各地域の子どもたちはもてなく「ヤド」の家に集まって一日中遊んだという。

それが子どもの涅槃。

涅槃講が訛って「ねはんこ」或は「ねはんこう」と呼ぶ地域もある東部山間は昭和32年に奈良市に合併するまでは添上郡田原村(明治22年合併)と呼ばれていた。

属する村は茗荷村、此瀬村、杣ノ川村、長谷村、日笠村(※1)、中ノ(之)庄村、誓多林村、横田村、大野村(※1)、矢田原村、和田村、南田原村、須山村、沓掛村(※1)、中貫村の15ケ村。

うち、子どものねはん(子供涅槃)が行われている地区は、日笠村、中ノ(之)庄村、横田村大野村、矢田原村、和田村、南田原村、須山村、沓掛村の9ケ村である。

昭和30年より以前に途絶えた茗荷村にもかつてはあったようだ。(※1)は涅槃図を掲げる地区

矢田原の子供ねはんに訪れるのは実に10年ぶり

彼岸の中日は春分の日の祝日。

この年は3月20日の日曜日。

この日に県内で行われる行事は35事例もある。

私が知る範囲内でこの数。

調べてみればそれぞれの地域でもっと多くの行事があるに違いない。

行事日が重なる場合、取材地はどこを選ぶのか悩ませる。

仮に一年に一例とすれば35年間も要する。

とてもじゃないが、私の今後の人生期間に間に合うわけがない。

2度目はたぶんに行けないだろうと思っていた矢田原の子供ねはん行事はたまたまの出合いで優先することにした。

神戸からわざわざ来られる写真家のKさん。

滋賀県の民俗取材が主なフィールドで腰を据えているが、奈良県はもとより三重県、兵庫県、京都府、大阪府、和歌山県、福井県、石川県、鳥取県、岡山県、香川県、愛知県、岐阜県・・・長野県・・・群馬県・・・東京都までも。

広範囲に亘る民俗行事取材の行動範囲に圧倒される彼女に同行させていただくことにした。

矢田原は1・2組と3・4・5組に6・7組の三つに分けていると話してくださったのはこの年の年番さん。

今ではねはんの場と云えば村の集会所であるが、かつてはもてなす「ヤド」と呼ばれる家で行われていた。

彼岸の中日に行われている子どものねはんであるが、会式もなく涅槃図を掲げることもない。

旧田原村で行われているねはん行事に涅槃図を掲げる地区は日笠、大野、沓掛の3地区だけだ。

涅槃行事ではあるが、どことも彼岸の中日でもなく、お釈迦さんが入滅した15日でもない。

学校が休みの春休み期間中に行われている。

当番家の「ヤド」は1・2組と3・4・5組の2軒。

ご主人だけでなく婦人も。

それぞれの「ヤド」家とは別に「アト」と呼ばれる前年の「ヤド」家もあれば、「サキ」と呼ばれる翌年に「ヤド」家を務める家もある。

いわば「アト」は経験者で「サキ」は見習いである。

しかもだ、3・4・5組には「ヤド」が2軒。

「本ヤク」と「前ヤク」である。

「本ヤク」は今年の務めで「前ヤク」は「前もってのヤク」の意であろうか、「サキのヤド」でもありそうだが、複雑な当番ヤドの決めごとは何回聞いても難解で、整理するところまではできなかったように思える。

そう思ったときに話された「アト」「サキ」。

昔は「ヤド」だけであって、「アト」「サキ」という制度はなく、親戚や兄弟を呼んで賄ったというのだ。

おそらくは時代変遷とともに変革があったのだろう。

平成21年3月に奈良県教育委員会が発刊した『奈良県の祭り・行事 奈良県祭り・行事調査報告書』に書いてあった矢田原地区のかつての区割り表記。

大きく分けて上・下地区がある。

上は村を南北に流れる川を挟んで川西と川東両地区に分けていた。

下地区は北と南に分かれていた。

現在の区割り表記は組単位。

上地区の川西は1・2組。

川東が3・4・5組で下地区は6・7組であった。

この年の年番さんが云うには上村の1・2・3・4・5組は「甲番」。

6・7組の下村は「乙番」に分けているという。

矢田原の子供ねはんは1・2組の上村・川西、3・4・5組の上村・川東に下村の6・7組、三つそれぞれの地区ごとで行われていた。

お堂でしていたという6・7組の子どもねはんは昭和10年の記録によれば女子も参加していたようだ。

下村にあったお堂は茗荷町との境目辺り。

駐在さんの近くにあったお寺だという。

寺名は万(萬)福寺。

本堂には阿弥陀さんが安置してあったそうだ。

また、下村の南地区では特殊な膳もなく、子どもたちがいただくご飯のタネになるお米集めをしていた。

村の各戸を巡ってお米やお金を貰う動きもあったが、平成13年ころに途絶えた。

それより以前の平成元年。

少子化の時代を迎えて子どもたちの姿が少なくなった。

時代に対応できるようにと1・2組と3・4・5組は合同で行うようになった。

1・2組は20戸。

3・4・5組は30戸。

それぞれが持ち回りで「ヤド」家を務める。

この年に務めた1・2組の「ヤド」は昭和44年生まれのNさん。

かつては特殊な膳とか飯を投げることもなかったという。

そういうえた体験がなかったということだ。

20戸で廻る「ヤド」家で経験したときの記憶であるが、今年は膳も飯投げもある。

Nさんがいうには一旦は途切れて、20戸を一回りして元に戻った年に復活したという。

一方、3・4・5組の「ヤド」は昭和25年生まれのIさん。

昔からずっと膳もあったし、飯投げもあったという。

組によっては在り方が違うようだ。

ところがだ、1・2組のNさんが云うには飯投げの記憶がある。

お椀に盛った飯を天井に目がけて投げた。

米粒が天井に付いたら願いが叶う。

天井板をぶち抜くぐらいの勢いで投げるよう周りにいる人から声がかかる。

かつては「ヤド」の座敷で飯を投げていた。

勢いがついて蛍光灯に当たったら怪我でもする可能性があると思われた家は外していたという。

天井に当たった米粒はネズミのエサ。

天井裏に住む福神さんへ捧ぐ飯でもある願いは子どもの繁栄というから子孫繁栄のことだろうか。

飯が天井に当たれば村は五穀豊穣。

そういうときは大人の人たちから褒められたと話す。

飯投げをするのは中学生。

15歳で卒業するまでのひと仕事である。

話したNさんは昭和28年生まれ。

先に話し手くださった「ヤド」家のNさんより一回り以上の年齢は17歳差。

膳や飯投げ経験の有無は年齢の差であったことが判った。

上座のテーブルに置かれた膳は二つ。

左にある膳は朱塗り椀に盛った飯が二杯。

一つは粳米で炊いたシロゴハン(白飯)。

もう一つは餅米に小豆を入れて炊いたセキハン(赤飯)である。

いずれもラップで包んでいる。

右にある膳が特殊である。

手前に置いてある二本の枝木。

それはタロの木の枝で作った一善の箸である。

タロの木は一般的名称でいえばウコギ科の低木落葉樹のタラノキ(タラの木)だ。

春近しのころに芽生えするタラの芽は春の恵みの一つ。

天ぷらにして食べたらとても美味しい。

近年、3月初めころともなればスーパーでも売ることが多くなった。

場合によっては揚げたて天ぷらとして売り出すスーパーもあるタラの芽である。

このタラの芽はすくっと立つ直立する一本木。

それには棘が何本も出ている。

これが痛いのである。

痛い棘があるタロの木が何故に箸であるのか。

後ほど行われる子供の所作で理解できる。

棘があるタロの木の枝はもう一つある。

一本を縦に半分に割ったものだが、半切りした一本の断面に朱塗りをしていた。

反対側には色塗りしない白木のままだ。

不思議な形と思ったソレは「ツケモノ」、或は「オカズ」でもあり、その形から「ゴボウ」とも。

いずれであっても食品をイメージしているようだ。

今では20cmぐらいの長さであるが、昔は5cmにカットしたものだったという。

その大きさで白いカワラケ皿に盛っていたようだ。

3組・・・5組もあった記憶があるから大きめの皿のような気がする。

もう一つの記憶がある。

飯はシロメシだけやったというのだ。

60歳前後ともなれば記憶は定かであろうが、先に挙げた『奈良県の祭り・行事 奈良県祭り・行事調査報告書』には載っていない。

その膳にはもう一品ある。

食べ物なのか、何なのか。

細長くくねくねした植物。

周りはイガイガ。

葉っぱのような形と思えば、そうでもあるが・・・。

麻苧のような紐で括っているのは広がないように、であろう。

この植物は「キツネノシッポ」と呼んでいたが、一般的な名称は「ヒカゲノカズラ」だ。

地域によっては「キツネノタスキ」の名がある。

実は平成18年に訪れた際は「キツネノタスキ」と呼んでいた人もいたのだ。

「シッポ」であっても「タスキ」であっても毛皮のように首に巻き付けたらえらいことになる。

ところが実は、「ヒガゲノカズラ」は柔らかいのである。

イガイガのように見える部分は尖がってはいない。

硬くもない。

見た目がそう思えるだけであるが、タロの棘は間違いなく痛い。

かつては「キツネノシッポ」も「タロ」も子供が採取していた。

中学生が生えている処へでかけて採取して集める。

持って帰ってきた材は小学生の年長さんが作る。

年上の者が年下の子どもに伝えていく在り方だったが、今では大人が行く役目。

植生する場所が限られているし、高く育ったタロの木を伐採するには手が届かない。

そういうことで大人がしているという。

なお、子どものねはんに参加できる一番下は歩けるようになった小児から。

大昔は男児ばかりだったが、昭和10年代はすでに男女児とも参加していたようだ。

こうしてお膳立てが調えば作法が始まる。

上座に着いた子どもは二人。

上はこの4月1日に小学四年生になる子ども。

下の子どもは一年生である。

先に挙げた『奈良県の祭り・行事 奈良県祭り・行事調査報告書』によれば、3・4・5組の川東では中学生が所作していた。

中学三年生が飯を投げて二年生が膳で受け止めるのだ。

飯を投げる子どもは「イグイ」若しくは「イグイサン」の名があった。

史料によれば「イグイ」は涅槃講において招かれる立場にあったそうだ。

二年生が受け止めることを考えてみれば、行事を終えて卒業する三年生から二年生に代の引継ぐ所作のように思える。

が、この年は二人の小学生が真剣な顔で登場した。

対象となる年齢の子どもがいなかったのであろう。

ちなみに同じく史料によれば、1・2組の川西の「イグイ」は高等小学校(尋常小学校)の二年生までであった。

高等小学校の二年生といえば修了時点で14歳。

この最年長者を「イグイ」若しくは「イグイサン」と呼んでいた。

始めの所作は棘がいっぱい出ているタロ製の箸を持つ。

棘があるから持ちにくい。

刺されば痛いのである。

その箸を持って椀に盛られた飯を食べる真似事をする。

「ツケモノ」若しくは「ゴボウ」の名があるおかずも食べる真似をする。

この年は小学一年生の子どもがなぜか所作をする。



なんとも持ちにくいタロの箸に目が白黒、或は点か。

どうしていいものやら悩みながらも所作を終える。

次は飯投げだ。

年長の「イグイ」はセキハン(赤飯)を盛った椀を持つ。

年少の子どもは膳をもつ。

天井を目がけることなく相手側が持つ膳が目標。

ふわっと上に放り投げた。

膳で受け止めれば拍手喝采。

次はシロゴハン(白飯)を投げる。



こういった作法を見つめる少女たち。

視線は投げられた飯の放物線を追う。

「イグイ」を充てる漢字は「飯喰い」であろう。

実際に喰うことはないが、まさに「イグイ」投げの所作であったが、ラップを外すことなく行われた。

ラップなんぞなかった時代はどうであったのか。

たぶんに飯は握って、握って硬くしていたのであろう。

次の所作はキツネノシッポばらし。

括っていた麻苧は鋏で切ってはいるものの、キツネノシッポがイガイガなのでなかなか捗らない。

しっかりと縛った麻苧は絡みつくようになっている。

立てたり横にしたり二人で行う共同作業。

作った人は大人。

外れにくいように括っている。



先が見えないシッポばらしに苦労する。

それを見ていた女児は退屈を覚える。

大きな女児は真剣に見つめている。

その眼差しが美しく光ったかのように思えた。

すべてを外し終えたのは始めてから10分後だった。

簡単には解けないシッポの先がようやく見えてきた。

すべてを解けば内部に詰めていた黄楊(ツゲ)の枝葉が出てきた。

それには麻苧の紐に通した穴の開いた硬貨がある。

「ヤド」家が用意した硬貨は五円玉に五十円玉の二種類。

五百円玉は入れていないと「ヤド」らが云う。



それを持ってあげた子どもの目が笑っていた。

やり遂げたあどけない顔はとても嬉しそうだ。

手に入れた枚数は五円玉が40枚。

五十円玉は30枚だ。

合計金額は1700円。

作法を終えた「イグイ」はこの場に居た子どもたちに分配された。



この年は13人。

町に出た家族も実家に戻って子どもねはんに参加する。

割り切れる金額ではなかったのであろう、「イグイサン」は少々多かったらしい。

分配を決めるのはその年に役する「イグイ」の心もちで決まる。

定めはないということだ。

こうして儀式を終えた子どもたちは「ヤド」の人たちが心をこめて作った料理をいただく。

一列になった子どもたちがよばれるお昼のメニューはヤド家が丹精込めて作ったオードブル料理。ワカメやアオノリのおにぎりにサケのおにぎりもある。

オードブルはカラアゲ、ポテトフライ、ニヌキタマゴ、マカロニサラダ、ソ-セージ、ハム、チキンナゲット、エビフライにプチトマト。

あんたらも食べてやと云われて席につく。

どれもこれも美味しくいただいたお昼のメニュー。

食べ終わってから子どもたちが座ったテーブルを見渡す「ヤド」の人。

料理が残ったものもある。

口に合わなかったのか、それとも多かったのか、翌年の課題にしているそうだ。

今ではこのようなオードブル料理であるが、かつてはイロゴハンだった。

具材はいろいろ。

味付けは聞かなかったがたぶんに醤油と味醂であろう。

そして夜はカレーライス。

昼と同様に集会所でよばれるカレーの味は甘口、辛口もあるらしい。

それからしばらくして3・4・5組の若い男性が昭和63年に行われたときの写真を持ってきてくださった。

私たちが取材にきていたことを親父さんに伝えたら当時の写真を見た方がいいと云って持ってきてくれたのだ。

若い男性は昭和55年生まれ。

親父さんは65歳というから私と同年代になる。



その年は集会所ではなく、Ⅰさん宅の「ヤド」家であった。

シロメシ、セキハンに長めのゴボウが膳にある。



セキハンを投げる「イグイ」の姿も撮っていた。

記念の写真は貴重な記録。

大切にしてくだされとお返しした。

なお、Iさんのご厚意をいただいて当ブログに掲載させていただく。

ちなみに1・2組「前ヤド」の昭和28年生まれのNさんの話しによれば今では上村に鎮座する春日宮神社はかつて下村にあったそうだ。

何時の時代か判らないが、洪水が発生したら神社が流されるおそれもあると決断されて上村に遷したそうだ。

ネットによれば元地は「ミヤイナバ」。

おそらくI家があった場ではないだろうか。

(H28. 3.20 EOS40D撮影)
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大平尾に佇む

2015年11月13日 07時34分49秒 | 奈良市(東部)へ
下見に出かけた奈良市東山間。

萱葺き民家の屋根に雪が残っていた。

神社行事を尋ねた村人。

さっぱり判らないと云う。



バス停付近を散策したら石仏が並んでいた。

(H27. 2. 5 EOS40D撮影)
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柳生山脇山ノ口講の山の神

2015年09月01日 09時36分10秒 | 奈良市(東部)へ
5年前の平成21年12月19日に訪れた奈良市柳生町山脇。

大きな岩下に山の神を祀った祠があった。

その前にナンテンの木が植生する。

そこにぶら下げていた斜めに切った細い竹を二本重ねたモノ。

名前は判らないが、山の初仕事に入る前に赤い実をつけたナンテンの枝木を挿していた。

村人の話しによれば、山の神に参って、山仕事の安全や無事を願って、拝んでから山に入ったと云う。

山脇垣内の他、7軒の人たちそれぞれがぶら下げて、山に入り、もう一つの竹に挿したナンテンを供えていると話していた。

日程は固定でなく12月初めの日曜日。

早朝に参った数時間後の11時に参集する。

米粉を水で練ったシトギを重箱いっぱいに入れて供えて拝む。

シトギはとんどを燃やして焼く。

そのままでは焼くことができないのでバランの葉の上に置いて焼く。

味はないと云っていた。

そのような話しを聞いて5年目。

山の神参りの様相を拝見いたしたく第一日曜日の7日に訪れた山脇垣内。

当番にあたる男性が山の神の下でとんどを燃やしていた。

昔から第一日曜日だったと云う。

山の神を祀った祠は平成25年に建て替えた。

屋根は恒常性を保つため銅板に葺き替えた。

内部には小幣を祭っている。

その祠の背部が山の神だと思うと話す。

背部は大きな岩である。

かつては自然崇拝として崇めたのであろう。

いつから山の神に参るようになったのかは若い私たちは聞いていない。

山の神と云えばとんどを燃やして賑やかだった。

とんどにサツマイモを埋めて焼いた。

それが美味しかった。

もう止めようかと思っていたが、今年もすることにしたと話す当番さん。

前回に供えていた竹の筒を見本にして作ったと云う。

本来なら節と節の中央辺りを竹の皮一枚残してそぎ取って背中合わせするのであるが、この年は簡略化されて二つに割って先を斜めに切ったものを背中合わせに括った造りにしたようだ。

その場にやってきた婦人は昭和12年生まれ。

山の神の左手にある家で生まれ育ったと云う。

嫁入り先は柳生町。

近くに住んでいるので毎年こうしてやってくると云う。

婦人が話すに、山の神に集まるのは山脇垣内周辺の他垣内を含めて7軒。

山の口講と呼ぶ7軒は山をもっている家だそうだ。

昔は山行き。

ナンテンの実を供えて炭焼きとか、山の仕事に行くときにナンテンを供えて山の神さんを拝んでから山へ出かけていったと云う。

山に入るのは割り木を作ったり、炭焼きをするのが仕事。

ヤマキリ(山伐り)の仕事に行くときはナンテンを挿した竹筒を山に持っていく。

「お酒も供えたやろな」と云う。

ナンテンの実を添える竹筒は三つだったと思うと話す。

婦人が子供のときからしていた。

家の前だったからとんどの火にあたっていた。

これが楽しみだったと云う。

とんどには講中以外の村人も火にあたりに来たそうだ。

はっきりとは覚えてないが、「12月7日やったかな」と話す。

バランの葉にシトギを乗せて焼く。

シトギはお米を水に浸けて柔らかくした。

スリバチに入れてスリコギで細かくすり潰す。

とろーんとしたシトギをバランに乗せて焼いて食べる。

その日は「やまのくち(山ノ口) やまのくち(山ノ口)」と口々に云っていたと思いだされる。

そのような話しを伺っていた時間帯。

子供を連れた人たちや老婦人もやってきた。

さっそくあたるとんどの火。

囲んで談笑する。

賑やかな様相になってきたとんどに長老も。

山の神の横にある家のご主人は今でも山行き仕事をしている。

ナンテン添えの竹筒は二つ用意する。

一つは山に行く人が出かけた山に持っていってぶら下げる。

もう一つが山の神さんのナンテンの木にぶら下げる。

昔はいっぱい吊っていたと云うだけに山仕事の人たちが多かったのであろう。

山の神さんに参る日は12月初めの申の日だったと云う男性は昭和15年生まれ。

先ほど昔の様相を語ってくれた婦人のお兄さんだったのだ。

男性はナンテンの実を添えた竹筒は「ゴンゴ」と呼んでいた。

「山ノ口講」は山行き仕事をしていた7軒。

山入りする日は「山の口」。

いわゆる山の口開きであろう。

その名を付けた山の仕事仲間の講中が「山ノ口講」だったのだ。

ちなみに当番のTさんを手伝っていたもう一人の若い男性は息子さん。

親父さんから始めて聞いた「山の口」の日である。



その場をハイカーが通っていった。

「今日はイベントですか」と云うハイカーたちには山の神参りのことは知ろうともせずに680m先の「一刀石」に向かっていった。

「一刀石」の場は柳生町在住の石田武士宮司の案内を受けて平成22年8月22日に訪れていた。

拝見した場は天岩立神社手前の山の石仏。

ここで役行者さんたちがサカキ立てをされてお坊さん(おそらく真言宗立野寺)が錫杖を振って作法をする雨乞いの行事であると聞いた。

聞いてはいるものの未だに訪れる機会を得ていない。



山の神参りはそれぞれの講中単位だ。

そろそろ始めようかとローソクに火を灯した当番が声を掛けた。

家族連れ、或いは個々に手を合せる山の神参り。



念仏を唱えることもなくただただ手を合せて交替する拝礼である。

かつては老婦人の何人かが山の神の前で念仏を唱えていたらしい。

「もう忘れてしまった」と云って手を合わした。

お参りはこれだけだ。

供えることもなかったセキハン。

モチゴメで炊いたセキハンであるがアカメシと呼んでいた。



お重に詰めたセキハンは箸で摘まんで手渡す。

受けるのは手だ。

いわゆるテゴク(手御供)の作法であろう。

受けたセキハンはバランの葉に乗せていただく。

手で掴むことなく葉を口元に寄せていただくのだ。

もっちりしたセキハンは甘くて美味しい。

私も味わうありがたい御供いただきである。

セキハンをいただいたバランの葉。

今度はシトギが配られる。



お玉で掬ったシトギをバランの葉に注ぐのだ。

どろりとしたシトギは平らに広げる。

べたーとした感じに盛るのだ。



それを下火になったとんどで焼く。

直に焼けば葉が燃えてしまうので鉄製の編み焼きをとんどに置いていた。

そこにめいめいが置くシトギ乗せのバラン。



火の勢いで燃えることもある。

しばらくすれば周りに焦げ目がついたシトギ。

白っぽかったシトギは半透明色になった。

もう少し焼けばひびが入る。

そういう状態になれば食べごろである。

焼けて焦げたバランごといただくシトギの味。

まるでカキモチのような味である。

カキモチもシトギも原材料はお米。

甘くて美味しいお米の味なのだ。

当番が云った。

「今年は隠し味を入れてみた」である。

どおりで甘い味がするシトギに感動する。

とんどを囲んで世間話をする婦人たち。

柳生では「ハミ」を「ハメ」と呼んでいたので驚いたという婦人の出里は山添村だった。

とんど場の横に立ててあった二股の木。

それを「マタギ」と呼んでいた。

洗濯干しにも使う「マタギ」はクリやカキの実を採る道具にもなる。

その場合は「ハサンバリ」と呼んでいる。

「ハサンバリ」は「挟み張り」。

枝が張っているからそう呼ぶと云う。



そのような会話をしていた「山ノ口講」の人たち。

時間ともなれば会食に出かける。

かつては当番の家でもてなす会食の場であったが、負担を避けるために近くの料亭を利用するようになったと話す。

山脇の長老が「ゴンゴ」と呼んでいた竹筒。

この月の1日に訪れた奈良市茗荷町。

イノコのクルミモチを作っていたOさんも同じように「ゴンゴ」と呼んでいた。

茗荷町を含めた田原の里の幾つかの地域では山の神参りがあるらしい。

1月10日辺りだったという山の神参りは「山の口」。

いわゆる山仕事に入る日である。

参る際には「ゴンゴ」と呼ぶ竹で作った筒に酒を注いて供える。

節目、節目を残して竹を伐る。

中央は竹の皮一枚を残して伐る。

細くなった部分を曲げてできあがった竹筒に酒を注ぐと話していた。

「ゴンゴ」は決して「五合」が訛ったものではないようだと云ったのは奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲さんだ。

写真家のKさんが調べた室生市史によれば「ゴンゴ」と書いてあったそうだ。

また、十津川の大字旭では竹筒を「タケノゴンゴ」と呼ぶようだ。

「ゴー」と呼ぶのは大字竹筒であると「十津川かけはしネット」に書いてあったが「ゴンゴ」を充てる漢字は一体何であろうか。

類似例を調べなくてはならない。

(H26.12. 7 EOS40D撮影)
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茗荷町イノコのクルミモチ

2015年08月31日 08時47分45秒 | 奈良市(東部)へ
先月の11月16日に「なら民博ふるさとフェスタ」で千本杵の餅を搗いていたOさんは田原の里の住民だ。

家族総出でやってきた。

県立大和民俗公園内に動態保存されている旧臼井家住居前広場で披露されていた。

訪れた人たちがリョウブ(サルスベリ)の木の千本杵で餅を搗いていた。

1回目は興味をもった人たちが群がるように搗いていた。

搗いた餅はふるまい。

キナコを付けた餅を味わっていた。

キナコの原材料は青大豆。

スーパーで一般的に売られている。

この年の「私がとらえた大和の民俗」写真展は「食」が大テーマだ。

私は「干す」をテーマに3点を発表した。

キリコモチ・キリボシダイコン・カンピョウにソーメンの天日干し景観である。

その後も探し続けてきた「干す」モノモノ。

稲架けもあれば梅干し、吊るしカキもあった。

11月ともなれば畑でハダに掛けてあった豆干しもある。

干した豆はどのような形の「食」になっていくのか、農家の作業を通して記録しておきたいと思った。

「キナコ」が引き金に思い出した亥の日に作られるイノコのクルミモチ。

毎年の12月1日は家で作って食べているというOさん。

平成19年にも伺ったことがあるO家のイノコのクルミモチ。

千本杵で餅を搗いて石臼で挽いた大豆を餅に塗して食べるのだ。

挽いた大豆は大量の砂糖を塗して餅にくるむ。

東山間の民家では「クルミモチ」を作って食べる家は割合ある。

何軒で行われている事例を収録させていただいた。

多めに作ってくださったイノコのクルミモチはパックに詰めてもらって持ち帰った。

その味がとても気にいったかーさん。

もっぺん食べたいとこの季節になれば口にする。

そんな話しをすればO婦人が食べにおいでと云うのだ。

ありがたい言葉についつい甘えてしまう。

O家に関係する学芸員や知人のカメラマンにも声をかけた。

Oさんは田原の里の情景をとらえているカメラマンにも声をかけた。

その人たちもともに行動することもある知りあいである。

奥さんの都合もあるし、仕事の都合もあって午後にセットしたイノコのクルミモチ作り取材。

モチ搗きは早めたいと電話が入った。

仕事は休むわけにはいかない。

直ちに手配して3名は先に行っていただくことにした。

仕事が終わったのは午後1時過ぎ。

昼食を摂る時間もなく急行する。

1名は昼過ぎに着いていた。

搗いたモチは千本杵。

Oさん夫妻とともに搗いたそうだ。

できあがったモチは砂糖をいっぱいいれたクルミで食べていたと話す。

O家のクルミは茹で大豆。

クルミの実も入れて挽いたそうだ。

搗いた餅をある程度の大きさにちぎる。

手で丸めていく。

どっさり作って下さるO夫妻。

ミキサーで挽いた茹で小豆を上から落として塗す。

砂糖は混ぜなかったので上から振りかけた。

少々では美味さを引き立てられない。



たっぷり落として食べたイノコのクルミモチはやっぱり美味しい。

とろとろ感もあってクルミモチは1個ですまない。

何個も何個もよばれてしまう。

皿にはキナコモチもあるが、断然うまいクルミモチ。

前回に挽いてもらった豆は青大豆だった。

こっちのほうが香りもあって上をいく。

この日は毎月初めに六人衆がいとなむツイタチ参り。

パック詰め料理をいただいたとテーブルに置いてあった。

仕出し料理なのか、それとも手作り料理なのか聞くことも忘れてよばれてしまう美味しさだ。

茗荷町には氏神さんを祀る天満宮がある。

秋祭りは隣村の中之庄町に鎮座する天満宮で両町合同で行われる。

宵宮に千本杵で餅を搗いて夜には子供相撲があると聞いている。

その日だったか、宵宮だったか覚えてないが、マツリの最中に当家渡しが行われることも聞いている。

Oさんがいうには「ネンニョ」の引き継ぎのようだ。

今年に勤めたネンニョは3人。

次のネンニョを勤める人も3人。

向かい合わせに座って酒を飲む。

酒杯を注ぐのは自治会長。

波々と酒を注いで飲み干す。

その際にはザザンダーと呼ぶ謡曲を披露される。

一曲謡って飲み干す。

これを繰り返すネンニョの引き継ぎに使われる酒盃は「武蔵野」と呼ばれる朱塗りの盃である。

武蔵野膳に置かれた大小5枚の盃。

どの盃で飲むのかはネンニョが希望する大きさだ。

酒好きなら大を。

少し落として3杯目の盃になる場合もあるらしい。

酒を飲んで次のネンニョに残り酒を渡す。

次から次へと飲み渡す。

いわゆる廻し飲みである。

こうして引き継ぎをされる。

何故に盃を「武蔵野」と呼ぶのか。

武蔵野はとても広くて見尽くせない。

大きな盃に注いだ酒は「のみつくせない」。

とてもじゃないが、ひと息では飲みきれない大きな盃という洒落でその名がついたようだ。

奥さんが炊いてくれた栗ご飯もでてきた。

ほくほくの栗ご飯も美味しいのだ。

酒杯をいただきたいが、そういうわけにはいかない。

飲酒運転では帰れない。

辛いが香りだけとする場はまるで忘年会のような感じになってきた。

この前に干したというズイキを持ってこられた。

太めのズイキは赤ズイキ。

細めの棒に挿して吊っていたそうだ。

ズイキは水に浸けて戻す。

熱湯で茹でてアク抜きをする。

アゲとともに炊いて味付けする。

それより美味しいのは酢和えである。

甘酢に浸けていただくズイキは酒のアテによろしい。

それがいちばんだと話すOさんが続けて話した風習。

干しズイキは産後の祝いの土産折りの上に乗せて持っていったそうだ。

ズイキを寄せた祝いの品は「血が湧く」という意味がある。

産後は貧血症に陥りやすい。

そういうわけがあって産後祝いにズイキを寄せるのである。

田原の里には各地域で十九夜講がある。

以前は毎月の19日が集まりの日。

寄ってくるのは若い婦人たち。

姑の悪口を言える場でもあった。

昨今は地域によって異なるが中之庄では春(3月)、夏、秋の三回。

いずれも19日にしていると云う。

朝に境内などを清掃して昼ごろには炊き込みご飯を炊いてよばれる。

それから唱える十九夜念仏。

「きみょうちょうらい・・・」の念仏を思い出す。

十九夜講は此瀬町にもあるという。

田原の里の幾つかの地域では山の神参りもあるらしい。

1月10日辺りだったという山の神参りは「山の口」。

いわゆる山仕事に入る日だ。

参る際には「ゴンゴ」と呼ぶ竹で作った筒に酒を注いて供える。

節目、節目を残して竹を伐る。

中央は竹の皮一枚を残して伐る。

細くなった部分を曲げてできあがった竹筒に酒を注ぐ。

柳生で聞いた神酒入れ竹と同じ様相である。

柳生では木の枝にぶら下げていた。

中之庄では山の神を祀る祠がある。

そこに参るようだ。

でかけるのは男たちだけだ。

山の神は女。

婦人は参ることはできない。

逆に十九夜講は婦人だけ。

男はその場に加わることはできない。

マツリ参拝に男女の棲み分けである。

話題はつきないイノコの日。

この年の亥の日は3日であるが、茗荷町では12月1日に決まっている。

O家の前は旧伊勢街道。

かつては往来する伊勢参りの人たちで賑わったそうだ。

今では旧街道を行く人は文化歴史を訪ねる人しか見られない。

多くは北にある車道を闊歩する。

横田町を通り抜ける車道は昭和の時代に新設された。

完成したときには祝いの渡り初めがあった。

渡り初めをする人は夫婦三世代。

揃ってなければ渡ることはできない式典であったと話す。

そのような式典は月刊「田原」に書いてあるらしいが探すのは困難だった。

開けた昭和11年2月の記事には多くの子供たちが寄せた「大じしん」があった。

マグニチュード6.4の大地震は大阪・奈良府県境で発生した河内大和地震であったろう。

奈良県内の地震に昭和27年7月18日に発生した吉野地震があった。

そのころはまだ一歳だった私はまったく記憶がない。

話題はあっちことに飛んでいく。

「天然の麹菌を見たことがあるか」、である。

天然どころか麹菌そのものは見たことがない。

Oさんの話しによれば、実った稲穂が出穂するころに黒い粒が着く。

それがカビの塊の麹菌。

「稲霊(いねだま)」と呼ばれる麹菌が出穂すれば豊作になると云われているが関係性は証明されていない。

平坦ではおそらく天然の麹菌を見ることはなさそうだ。

薬剤散布によって発生することはない麹菌。

自然農法では希に発生すると云い、脱穀しているときに見つかる場合もあると話す。

黒い塊に混じって自然発酵した麹菌は白っぽかったそうだ。

黒と白を分けるのが一苦労したと云う。

話題は尽きないO家。



そろそろ始めようかとわざわざ座敷に置かれた石臼。

挽く棒はないから上部の石を手で回すしかない。

ぐるぐる回す石臼回転は反時計回しだ。



茹でた豆を穴に落とし込んでぐるぐる回す。

けっこうな力が要る。

「あんたが今回の発案やから、やってみなはれ」と云われてぐるぐる回す。

始めは重たい石臼。

しばらく回せばやや軽くなった。



豆が挽かれて汁がでる。

それで軽くなるのだ。

茹で汁を入れてやればもっと軽くなるといってスプーンで掬った茹で汁を投入した。

明らかな違いがでる。

何度も何度も回転していけば上部・下部の合せ目から液体がずるずると出てきた。

これが大豆を挽いた、というよりもすり潰した液体状のクルミである。

かつておばあさんは一人でこなしていた。

左手で臼を回して右手で茹で大豆を落としながら作業をしていたと云う。

何十回も臼を回していたら汗がじんわりと湧いてきた。

労働は汗をかくものだ。

労働体験は汗を流して民俗を知る。

クルミの液体は下に流れ落ちる。

どろっとした固体がクルミになる。

それを包丁の刃でぬぐい取る。

今回はスプーンでしたが、それでは取り難い。

知人たちも入れ替り立ち替わり交替して汗を流す。

この日の体験は講演など身振り手振り、なんらかの形で伝えていきたいと思うのである。

貴重な体験ですり潰したクルミ大豆はきめが細かい。

お土産にいただいたクルミはミキサー挽き。

食感は石臼に軍配を挙げる

(H26.12. 1 EOS40D撮影)
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