マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

久米寺・あじさい祈願の日

2018年07月24日 09時06分59秒 | 橿原市へ
6月14日の奈良テレビ放送。

夕方情報番組の「ゆうドキッ!」が伝えていた情報に、えっである。

橿原市にある久米寺で6月第三日曜日に行われる「あじさい祈願」に祈祷された紙で紫陽花を包んで逆さに吊るす場所はどこでしょうか、というクイズであった。

健康を願うそれはどこに吊るすんでしょうか、というクイズである。

答えは、1.台所、2.玄関、3.トイレ から選んでくださいという問題である。

答えはヒントがなくともすぐにわかった「あじさい祈願」の在り方である。

出題者の脇にいた女性タレントは、これわかりますって云っていた。

そのタレントさんは、たまたま訪れた友人女性の家にそれがあったんです、と云うのだ。

テレビが伝える情報に、取材をしたくなった久米寺には公式HPが見当たらないが、「あじさい祈願」を紹介しているサイトがあった。

橿原市観光協会サイトの「さらら」の情報である。

紹介文に「約40種、約3500株の花が咲き、6月の第3日曜日には毎年“あじさい祈願”が行われます。あじさいは、トイレに1輪を逆さにぶら下げると、1年間も病気を妨げるといわれています。あじさい祈願では、その1年間ぶら下げた紫陽花を護摩で焚き、そして新たに祈願したあじさいをもらう行事です(※一部補正した)」とある。

近畿日本鉄道の「観光・おでかけ」ネットに同文が掲示されている。

また、かしはら探訪ナビというネットも第三日曜と開示していた。

さらに、奈良観光.jpにも載っている。

その他にも多数のネットで開催日を紹介している久米寺のあじさい祈願。

あじさい祈願は久米寺の年中行事になっているように思えるのだが、祈願の申し込み方法はどこにも書かれていない。

直接、久米寺に伺ってお願いするのであろうか。

祈願の日はどのようにされているのか、見聞を兼ねて伺った。

到着した時間帯は午後3時過ぎ。

受付におられた婦人に聞けば午後1時からあじさい祈願の供養法要をしていたそうだ。

本堂内で祈願する法会は見ることもできないと云う。

色とりどりに咲く紫陽花回遊園内で入って見るには入園料が要る。



同寺は入山料をとられていないから、境内見学は無料であるが、本堂拝観は有料である。

私が久米寺に来た目的はあじさい祈願の在り方を拝見することである。

あじさい祈願を知ったのは、ご縁があった山添村に住むご家族である。

行事取材に訪れた民家のトイレにあった逆さ吊りの紫陽花である。

尤も、それより以前に知っていたあじさい祈願は個々のお家でされている習俗行事であった。

お寺さんでされている行事にどのような違いがあるのか。

それを知りたくてやってきた久米寺である。

しばらくは境内を散策していた。

本堂の反対側に庫裏がある。

紫陽花園に咲いていた紫陽花を採って来て、それを祈祷されたお札で包んでいた。

祈祷札、一枚ごとに紫陽花を包む。

包んだ紫陽花は逆さにして庫裏廊下の桟に吊っていた6人の僧侶にお声をかけさせてもらった。

同寺に来て取材を申し出るが、吊っているあじさい祈願の在り方も含めて一切の撮影は不可であった。

祈願した人の名前が書かれているのでご遠慮いただきたいということである。

あじさい祈願について伺った僧侶の話しによれば、吉野町とかの奥吉野の下北山村では、シモの世話にならないよう、或いは中風封じの願掛けに摘んだ紫陽花をトイレに吊るしてきたという。

昔からしていたという風習は村の個々のお家でされてきた。

お家でそうされているなら、本寺でご祈祷させていただければ、ということで始まった。

つまり、個々の家でしていた民間信仰を取り入れて、お寺さんがご祈祷してくださるという行事は、今から10年前に始めたそうだ。

毎年の6月第三日曜日の午後1時。

ご祈祷を受けたい祈願者(※主に檀家)は祈祷料を払って申し込んでいただく。

本堂内でご祈祷される僧侶。

その祈祷されたお札を受ける。

寺に咲いている紫陽花を摘んで、茎にあたる部分にお札を巻き付けて括る。

アジサイの花を広げた状態で、つまり花束のような包む形にする。

できあがったお札で包んだ紫陽花は庫裏廊下の桟に吊るす。

申し込んでいたが、本日のあじさい祈願に参列できなかった人のために作っている。

後日に来られた祈願者はこれを持ち帰って、ご自宅のトイレに吊るす。

それから1年後。一年間をトイレに吊るしていた古いあじさい祈願のお札は久米寺にお返しされる。

女性だけの特有の病いに限らず、男女共、シモの世話にならないようにということだと説明してくださった。

この日の行事は終わっていたが、来年はどうぞお越しくださいと伝えられて寺を離れたが・・・。

あじさい祈願の在り方がほぼわかってきた。

帰宅してから「あじさい祈願」をキーワードにネットを検索してみれば、多くの人たちが事例を紹介していた。

紫陽花を吊るす日は6月中の「6」のつく日にすると書いていたブログがある。

魔除けのあじさい祈願の具体的な方法を伝える“魔除け天神“の若狭野天満神社や神社関係者と思われるブログもある。

「万葉ものがたり」というネットに書いてあったあじさい供養がある。

ラジオ大阪の番組で「木村三恵の万葉ものがたり」を取材していた番組アルバムであった。

番組に出演する人が副住職に伺っていた日は平成15年6月14日。

あじさい供養の祈祷料は3000円と書いてあった。

番組出演者のインタビューに答える副住職が話すあじさい供養は「血圧の関係によってトイレで倒れるとか、また、婦人病で、トイレに支障がある場合が多い。昔から紫陽花をトイレに吊すと、それが防げるということでされております。紫陽花の花は一輪。一枝を逆さにぶら下げることで、1年間、病気が防げる。それも、6のつく日にされたら御利益があるということで、それをあじさい供養の日にさせていただくわけでございます。あじさい供養のときに、1年間ぶらさげた紫陽花をもって来ていただいて、護摩でたいて、また新たに祈願をさせていただいて、お札をまいて、また6のつく日にぶら下げていただくという形で、お寺で1人ずつご祈願をさせていただくわけです」とあった。

また、ある人は玄関に吊るしておくと金が入るというが・・。

(H29. 6.18 EOS40D撮影)
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地黄町野神神社・野神祭りの痕跡

2018年07月23日 08時31分13秒 | 橿原市へ
来月の7月21日に講演するストーリーを練っていた。

主宰の奈良民俗文化研究所代表からお願いされて決めた講演テーマは「橿原(市)の年中行事」。

伝承されてきた民俗行事を紹介するストーリーにどうしても現状を見ておかねばならない場がある。

場所は橿原市地黄町である。

行事は大和における野神祭り行事の一つである地黄町のススツケ祭であるが、平成22年を最後に中断したまま現在に至る。

中断したワケは旧村の子供が激滅したことによって、中断せざるを得ない状況にあった。

新参の子どもを入れることも考えられたかどうか存知しないが、保存会会長の決断で中止を決められた。

ただ、中止をしたのは人磨神社境内でしていた煤(現行は墨汁だった)ツケの行為だけである。



映像は平成21年5月4日に撮ったもの。

この年が最後になったときの行事スケジュールである。

これもまた貴重な記録になってしまった。

本来の野神祭りは地黄町集落外にある野神神社に参ることである。

そのお参りは明け方前の午前3時半ころと聞いている。

旧村の子どもが牛耕している農耕の様相を絵馬に描いて神社に奉納する。

その際持ち込むのが藁で作った蛇であり、魚の鰤である。

鰤は丸太の一本ではなく、頭と尾だけを奉る。

蛇は御幣を挿した形状で野神神社に供える。

ススツケ行事は中断したが、野神行事は継続しているのかどうかは奉納された痕跡の有無でわかる。

有れば継続しているし、なければこれもまた中断である。

シナリオストーリーを執筆していてどうしても確かめたくて立ち寄った。

野神神社の前は東西に繋ぐコンクリート道。

散歩する人や自転車で闊歩する人も多いが、神社の様相を拝見することもないだろう。

何故なら神社は旧村にとっては大切な神社であるが、近年は地黄町旧村集落を囲むように新築移転者が圧倒的に増えている。

居住地の建物を見ればすぐにわかる民家の様相である。

旧村の人であれば野神神社に参る。

新規に移転した人たちには関係のない場。

参ることはない。

神社前に車を停めて鬱蒼とした神社地に入る。

辺りはやや暗いが、なにやら形的なものが見える。



野神祭りをしていた痕跡があった。

行事日は5月4日。



1カ月以上も経過していたが、崩れもせず綺麗な形で遺っていた。

思わず手を合わせた野神さんである。

大蛇を彷彿させようと思える藁はとぐろを巻いている。

青竹に取り付けた御幣もある。

何枚も重ねた御幣は紅白の水引で括っていた。

青竹の御幣は2本だ。

その前に青竹のオーコがある。



両端にあるのが板書に描いた農耕絵馬であるであるが、気にかかるのは牛耕姿の描写である。

平成16年の5月5日。

つまり奉納したその日である。

13年前に奉納した描写とまったく同じであった。

(H21. 5. 4 SB912SH撮影)
(H29. 6.18 EOS40D撮影)
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吉野軽便鉄道廃線址

2017年07月21日 07時46分13秒 | 橿原市へ
畝傍御陵前より吉野口まで狭軌鉄道が走っていた。

そう話してくれたのは高取町丹生谷に住むNさんである。

今ではまったく面影も見られない新興住宅に挟まれた幅の狭い道である。



云われて見なければ、この道の昔に鉄道が走っていたなんて知る由もない。

帰宅してからネットをぐぐってみれば「100年前に走った奈良の軽便鉄道」が見つかった。

鉄道の歴史経緯から路線なども詳しくPDFで挙げている。

当時の映像写真もあるので興味は湧くがこの方面に手を伸ばす力量も時間もない。

専門的に行ってみたいと思う人は、その土地、土地を巡るのもよかろう。

他にもレイルストーリーの一つとして橿原神宮前駅について述べておられるHPがある。

この日に教えてもらった路線を探索している廃線跡探訪者もいる。

(H28.11.16 SB932SH撮影)
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古川町の農神祭

2016年10月31日 08時56分20秒 | 橿原市へ
北海道、東北では雪が舞う。

奈良の朝の気温は9度。

前日よりもぐんと下がって6度。

冷え込むうえに風がきついし手はかじかむぐらいの気温。

体感温度は否が応でもサブイ(寒い)を連発する。

晴れ間が見えたときだけ温かさを感じるが、風が吹けば桶屋が儲かるではなく、冷たい風が肌を通り抜ける。

記録では最高気温が16度であるが、防寒具が欲しかったと思う日だった。

古川町の農神祭を訪れるのは実に8年ぶり。

前回は平成20年4月29日だった。

産経新聞のアーカイブでも取り上げた橿原市古川町の農神祭である。

下見に初めて訪れた日は平成19年4月30日だった。

前日に行われた農神祭に供えたゴゼンサン(御膳)はここに残してあるから見てみるか、と云われて・・・・。

腰を抜かすぐらいにびっくりしたことを思いだす。

このときは一眼レフカメラを持ち合わせていなかった。

当時の下見はだいたいがそうであった。

あるのか、ないのか、実態を知る聞き取りが主だった。

人の顔をした野菜造りのゴゼンサンはメモ代わりのケータイ画像で撮っておいた。

その画像を新聞に載せるとは予想もしていなかった。

掲載された誌面。講中の奥さんから電話があった。

新聞を見た人たちから「あんたらこんなえーことしてはんねんな、と、そこらじゅうからあったんやで。ありがたいし、うれしいし」の言葉に誌面を飾ってほんまに良かった今でもそう思っている。

かつては5月3日にされていた古川町の農神祭は平成14年より4月29日に行われている。

古川町の農神祭がどの場所でどのように行われているのか。

この行事を存じている人はどこにおられるのか、である。

判らないことは地元の人に尋ねるしかない。

そう、思ってやってきたのは平成19年4月30日だった。

畑を耕していた人に尋ねれば、その行事は前日の4月29日だったという。

「詳しいことはトーヤさんに聞いたらえーで」と教えてもらった家を訪ねる。

訪ねた家はM家。

午後5時ころだった。

玄関から出てこられたのは婦人。

「そーですねん。昨日でしたわ」と、いう。

農神祭は前日に終わっていたが、なぜかお供えが、家にまだ残っているという。

奥から玄関に運ばれたお供えはなんと、なんとの野菜で作った「顔」だった。

普段なら行事を終えたら始末する。

始末といっても野菜だけに調理されて口に入る。

そう話していたお供えは「御膳さん」と呼んでいた。

玄関入ったところでは暗がり。

もっと明るい処で撮るためには場を移動しなければならない。

了解をいただいて塀の下に置かせてもらってシャッターを押した。

撮ったカメラはケータイ電話だが、とっぽな口が特徴のダイコン顔が鮮明に撮れた。



この野菜の御膳には、今年の流行り言葉でいえば「びっくらぽん」、である。

とにかく強烈なインパクトで迫ってくるダイコンで作った人面顔は平成19年の4月30日に撮ったものである。

トーヤによっては作り方・飾り方が毎年違う。

そのときに旬の野菜で形作ると話していたことを思いだす。

農神さんを祭る祠は大正二年に建てた瓦葺。

重さに耐えかねて銅板葺きに仕替えた。

そのときに取り換えた古瓦はすぐ傍に置いている。

風雨に晒されても傷みは見られない。

その瓦材で作られたのが祠前に立つ灯籠である。

「大正二年 松田商店」と「五月吉日 細工人瓦留」だ。

当時、講中であった一人が火鉢屋の松田商店に作ってもらった瓦製灯籠。

あまり見ない形式である。

数年前までは6軒の講中であったが、やむをえず脱退されて5軒の営み。

平成20年に取材させていただいたこともある行事である。

送迎ドライバーの仕事をしていた3年前の平成25年のときだ。

行事当日の12時40分ころにMさんから電話があった。

今からノガミ塚に参るけど・・・という電話だったが、今から追っかけるには無理がある。

その後も仕事で重なった29日の祝日。

送迎の仕事は退職した。

いつでも出かける状況になった。

電話をもらったこともあって古川町の農神祭を久しぶりに拝見したくなって出かけた。

早めに着いた古川町。

農神祭に供える御膳作りは公民館で行われる。

早く着いても扉は閉まっている。

まずは数年間も失礼しているMさんにご挨拶だ。

久しぶりの顔を見られた婦人が云う。

そろそろ講中が集まるから・・・。

ついさっきまでは閉まっていた扉が開いている。

お声を掛けて上がらせてもらったら、

御膳の調整が始まっていた。

懐かしいお顔の講中に変わりはない。



仕掛り中の御膳を拝見しながら撮らせてもらう。

中央に皮付きのタケノコを配してキュウリやナスビを立てる。

赤いニンジンに緑のピーマンも立てる。

正面はコーヤドーフに串挿しのシイタケだ。

形作りは特に決まりはない。

当番の人の創意工夫で作る立て御膳である。

そういえば平成20年に寄せてもらったときの同じような作り。

講中によれば毎年がこういう形になっているというに対して思わず発した声は「えっ」である。

平成19年にMさんが見せてくれた御膳はダイコンを立てたとにかくユニークな顔だったことを伝える。

そうすれば「そんなことはない。

それはダイグウサンに供えたときのんとちゃう」と云う。

ダイグウサンの行事はこれまで2度、取材したことがある。

一つは平成19年5月16日

もうひとつは平成19年7月16日

月一回の廻りで参る家は違うが、御膳の形は2度とも立て御膳ではなく寝かせていた。

まして、ダイコン顔の御膳を拝見したのは4月30日。

ダイグウサンは毎月の16日である。

2週間以上も経った30日までそのままの状態で残せることは不可能だと思うのだ。

何かの思い違いの勘違い。

産経新聞に紹介した記事にウソ有りになってしまいそうだが・・・これ以上のツッコミはしない。

御膳さんが出来あがればノガミ塚に向かう。

前回に訪れたときは作った御膳は三方ごと抱えて歩いた。

神饌ものは一輪車に乗せて運んだ。

久しぶりに訪れた今年は車に積み込んで運んだ。

ノガミ塚周りはすっかり変貌していた。

北、東側にはつい数年前に新設された広い農道もある。

当地は国有地の0番地になるという。

毎月の清掃があるノガミ塚。

雑草がはびこれば刈り取る。

ゴミが落ちていれば拾う。

祭っているサカキは入れ替える。

オヒカリのローソクに火を灯して手を合す。

それが月当番の役目だという。

大きくなったヨノミの木は伐採したが、すぐにニョキニョキと若葉があがってくるらしい。

着いてすぐにこれまでと同じように御膳さんはノガミの祠に置く。



前にはテーブルを組み立ててそこに神饌や御供を置く。

ローソクに火を灯す。



そうしてノガミさんの前に並んで般若心経を唱える出雲講の女性たち。

冷たい風が吹きぬくなかでの唱える心経は手が凍えそうになった。

(H28. 4.29 EOS40D撮影)
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曽我町天高市神社の夏越大祓

2016年05月13日 08時50分21秒 | 橿原市へ
橿原市小綱町のノージンサン調査の日だった。

京奈和道路より小綱町へ向かう道すがら。住宅街の一角に行事案内を貼りだしていた掲示板に目がいった。

隣町の曽我町に鎮座する天高市(あめのたかち)神社の行事案内だった。

それには茅の輪を潜る写真もあれば、人形(ひとがた)に息を吹きかけて祓う写真もある。

案内に「国の隆昌・大和の国の安泰・曽我の郷の安全を願い、地域の人々の罪や災いを清々しく祓い清めお幸せにお過ごしいただきますよう、謹んで斎行します」とあった。

天高市神社は平成20年2月に祈年祭・御田植祭を取材したことがある。

同神社で夏越大祓が行われていることは存知していなかった。

数年ぶりであるが、是非とも伺いたくスケジュール・オンした。

斎行される時間までに到着しておきたいと思っていた曽我町の天高市神社。

鎮座地は覚えているが、どこをどう通っていくのかすっかり忘れていた。

迷いに迷って到着した神社に禰宜さんがおられた。

ご挨拶をさせてもらったら、どなたか判らないがやってくると思っていたと話す。

それが私であったのだ。

神さんに導き招かれたようにやってきたようだ。

摩訶不思議なご縁である。



斎庭に立てた茅の輪は夏越大祓に潜る。

平成26年より復活された茅の輪になると話す。

それまでは神職が大祓詞を唱えるだけだったそうだ。

復活を願って氏子に持ちかけた。

賛同されて昨年から始めたという。

材料の茅は曽我川すぐ近くの田に植生していた。

氏子たちが刈り取って、二日前の日曜に竹組をするなどして設えた。

両端に立てている茅の輪は30日の午前中に立てた。

二日間の差がある茅の色落ちでその状況が判る。



この日は雨天。神職も氏子もテント内で斎行される。

夏越大祓は氏子も揃って唱和する大祓詞から始まる。

宮司はかつて祈年祭・御田植祭を取材させていただいたことを覚えておられた。

つい先日に行われた小綱町のすももの荒神さんにも出仕されたという。



その次は禰宜さんによる修祓だ。

幣で茅の輪や氏子を祓ってくださる。

祓った幣はパキパキと折って焼き納めの釜に入れる。

次も同じく禰宜さんが作法をされる。



布を切り裂く「はらえつもの(祓えつ物)」の儀式だ。

布の端を掴んで一気に切り裂く。

これを八回繰り返す。



水平に構えてぐっと引き裂く。

繰り返し、繰り返し、細くする一瞬の作法である。

この日は雨天。雨が降ることからテント内で行われたが、本来なら祓戸社の前で行われる。



禰宜さんは神さんのオヒカリを提灯に遷す。



その火を焼き納めの釜に納めていた諸々に移して火を点ける。

取り出した人形(ひとがた)。



氏子たちが息を吹きかけて穢れを遷した身代わりの人形を手にした禰宜さんはふっと息を吹きかけ釜に落とす。



何度も何度も繰り返す。

締めであろうか、奉っていた黄色いお札のような「疫神斎」の束で煽ぐ。



この間、宮司は大祓詞を奏上し祓い清めていた「浄火焼納祭」。

身代わりの人形を神火で焼納されて天に昇っていった。

歳神さんを迎えた注連縄などを燃やすトンドと同じように天に昇っていく。

罪や穢れを祓う人形は名前と年齢を書いていた。

昨今は車形も登場する時代になったと教えてくださる。



人であれば名前を書くが、車形ともなればプレートナンバーを書くようだ。

「水無月(みなづき)の 夏越(なごし)の祓(はら)えする人は 千歳(ちとせ)の命(いのち) 延(の)ぶというなり (拾遺和歌集)」を唱和しながら茅の輪を潜る。



半年間の罪や災いを祓う茅の輪潜りの神事。



まずは潜って左側に廻る。



戻って次は右廻り。

再び戻って左廻りの3回潜る。



茅の輪は祓具。

最後に正面に向かって拝礼し無病息災を祈る。

地域によっては2回目に潜るときは「思ふ事 みなつきねとて 麻の葉を きりにきりても 祓ひつるかな」。

3回目に「蘇民将来 蘇民将来」を唱えるところもあるらしい。

前列に座った氏子の茅の輪潜りが終われば後列の氏子に入れ替わる。

茅の輪潜りを終えた氏子たちは茅の輪の両端に立てていた茅をもらって帰る。

家の神棚や門口などに供えつけて魔除けにする人もおられる。



昨年に貰って家の魔除けをした茅はどうしたらいいのか、尋ねる氏子もいる。

トンド焼きのときに燃やすのがいちばん良かろうということだ。

曽我町のトンド焼きは1月14日の夕刻。

曽我川と高取川が合流する川原で行われていることを付記しておく。

祭典が終わって解散された。

その直後から本降りになった。

絶好なタイミングだった。

(H27. 6.30 EOS40D撮影)
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小綱町ノージンサンのジャ

2016年04月15日 09時11分28秒 | 橿原市へ
6月28日に行われる「すももの荒神さん」の運営も小綱町文化財保存会に移った。



「浴衣まつり」でもあるので役員さんも浴衣姿になると話していた。

記録用に撮った写真に赤いモノが見えた。

なんだろう。気になったら眠りから覚めるので一週間後に再訪した。

その部分を拝見すれば・・・。

赤いモノは「ジャ」の舌ではないだろうか。

藁束を二股にした部位は「ジャ」の頭であろう。

ヨノミの葉で覆われているので手で除けながら光を当てて撮っておいた。

これも記録用として撮っておいた。

ちなみに奈良県教育委員会が記録作成事業報告書に纏めた『大和の野神行事』がある。

昭和59年度から昭和60年度の二年間に亘って調査してきた報告書に「小綱町ノグチサン(ノーグッツアン)」がある。

昭和57年当時に記された史料によれば、野神祭りは座中当屋、神主、総代らによって行われていたとある。



6月4日の当日までに蛇作り材料のモチワラ・縄、天秤棒の青竹を調達して、半紙に牛・農具を描いた。

蛇作りは座の先座、後座の二人が作った。

担いで歩くのもこの二人だ。

4日当日は各農家から昼食時に経費を徴収していた。

昼食を済ませた午後1時は蛇作り、輪作り、御幣作りなどの作業を行う。

午後2時ともなれば、当屋家より野神塚へ向かう。

蛇の参進には作った蛇をオーコで担いで歩いていた。

今では想定できないぐらいにかつての蛇は太かった。

重さがある蛇はヨノミの木の前に置いて納めた。

現在のように巻き付けることはなかった。

そして神主による祈祷・お祓いがあったもようだ。

祭典を終えた午後3時には近所の子供たちにお菓子を配って終わる。

戦前までの子供たちには野神祭の役目があった。

田んぼに生えていた麦の畝の中に隠れていた子供たちは、野神塚へ参進する一向に土や泥を投げつけるなど大暴れしていた。

その行為を避けるために一行は手ぬぐいをほうかぶりして防いでいた。

座の家(当屋であろう)は野神塚から戻ってきたら、作っておいた串団子をあげたという一連の調査報告に時代の変遷を感じる。

(H27. 6.11 EOS40D撮影)
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転換する小綱町のノージンサン

2016年04月15日 08時55分07秒 | 橿原市へ
早い年であれば朝7時半かもしれないと聞いたのは平成19年のときだった。

訪れたときにはすでに「ジャ」はトグロのように2代目ヨノミの木に巻きつけられていた。

かつて「座」当屋・神主・総代らで行われていたノージンサンは水利組合に移ったと聞いていた。

昭和55年10月に記された『座当屋年中行事帳』によればノージンサンは野神祭の字が充てられているそうだ。

ノージンサンが行われる場は野神塚(のうじんづか)であることからそう呼ばれたのであろう。

それから8年間も経過した。

仕事や所要が重なりようやく再訪することができた小綱町。

ヨノミの木は垣根の木に遮られて存在も判らなくなっていた。

前年に掛けられたと思える「ジャ」が残っていた。

しかしだ。待てども、待てどもどなたも来られない。

もしかとすれば時間帯が替わったかもしれないと思って野神塚区域に建つ民家を訪ねた。

8年前にも尋ねたN家である。

婦人が出てこられて「今年から自治会運営に移ったようだと聞いている」という。

行事の前にはヨノミの木の下を清掃するなどしていたが今年は見なかったという。

野神塚は公有地。

史跡化する予定で境界指標が立てられたのであった。

状況に変化があったノージンサンはこれが最後の姿になるかもしれないと考えられたので記録用の写真を撮っておいた。

そうして訪れた元総代家。

「すももの荒神さん」行事のときにもお世話になったNさんを訪ねた。



元総代は6年前に辞められたが今でも地域の水利組合長をされている。

小綱町のノージンサンは民俗文化財に指定されていることもあり史跡化する計画があるという。

ヨノミの木の周りを整備し町の文化財として保存することになったと話す。

平成23年5月・小綱町文化財保存会を立ちあげて正蓮寺大日堂や入鹿神社などを整備してきた。

保存会は「いにしえの先祖から引き継いだ貴重な町の文化財を後世に正しく伝承する目的」にあるという。

今年の11月には史跡・整備化が完成する予定の野神塚もその一環にある。

ただ、「ジャ」を巻き付ける行事は水利組合がしていたが、今のところ継承する考えはないようだ。

もしかとすれば神社の注連縄を掛けるときに同じような形でする可能性もあると云われる。

保存会顧問をされているNさんから野神塚の現況を記録してほしいと願われて再び訪れた。



葉が生い茂っている状況ではあるが、なんとか昨年に巻き付けられた「ジャ」を撮っておいた。

(H27. 6. 4 EOS40D撮影)
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大谷町の行事

2016年03月14日 09時18分02秒 | 橿原市へ
畝火山口神社・大谷宮司が7年前に話していた橿原市大谷町の農神祭。

一度は拝見したいと思って訪れた。

場は八幡神社。

聞いていた時間になっても訪れる人はいない。

この日、苗代作りをしていた婦人が話すには数年前に中断したという。

参拝・ゴクマキをしていた場は八幡神社内。

注連縄を張った玉垣に囲まれた場はご神木が立っている。

その場を「ノガミサン」と呼んでいた。



3升のモチを杵で搗いていたのはトーヤ家。

モチを供えていたようだ。

婦人がいうには八幡神社に宮座もあった。

「座」に揃えた椀の数は50枚以上。

「料理を作るのはたいへんやったが、子供たちが喜んで食べていた」という。

伊勢に代参したときに授かったケンサキでトーヤ決めのクジを引いていた。

トーヤ送りの夜は祝いの宴をしていたがこれも中断したという。

その年より一切合切の神事行事をしなくなった。

その年、併せてゴクマキをしていた1月、7月、10月の16日の「ダイジングサン(大神宮)行事も中断したそうだ。

(H27. 5. 5 EOS40D撮影)
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出合町で念願の祝い杉穂のコイノボリ

2016年02月23日 09時00分19秒 | 橿原市へ
知人のMさんから連絡があった。

「橿原のほうに杉の葉があるコイノボリを見た」というのだ。

これは行かねばと思って急行する。

だいたいの地を教えてもらったが判るだろうか。

たしかパン屋の近くだったと云っていた。

ひとまず駐車してみようと思って辺りを見渡せばコイノボリが泳いでいる。

てっぺんは確かに杉の葉っぱがある。

ここはどこだろうか。

もっと近づいてみようと思うが近くに寄れない。

ぐるぐる細い道を通り抜けたら広い敷地。

真新しい支柱は間違いなく杉の木。

話しを伺いたく呼び鈴をピンポーン。

出てこられた奥さんは35歳。

取材目的を伝えて伺う。

これまでマンション住まいだったと話す奥さん。

生まれたときは団地サイズのミニコイノボリを揚げていた。

旦那さんの仕事先の関係もあって広い敷地がある当地に移った。

子供は5歳、2歳の男児に成長していたが、新築した機会に念願の杉穂をつけたコイノボリを揚げることにした。

奈良では誕生祝いに実家が贈る風習がある。

奥さんは長男初誕生に杉穂つきの支柱を立ててコイノボリを揚げる風習を知っていた。

母親に頼んで贈ってもらった。

憧れだったという。

「長年の思いがやっと叶いました」と話す。



コイノボリは真鯉に緋鯉、紺色の長男鯉に緑色の次男鯉も青空に泳いでいる。

丸字にミツガシワは家紋。

コイノボリを製作するお店で作ってもらった吹き流しは親の真鯉とともに大空を泳ぐ。

「広重名所江戸百景」に描かれているコイノボリは真鯉が一尾。

江戸時代はそれだけであったようだとテレビのニュース映像が伝えていた。

子供は成長して幼稚園児になっていたが、念願のコイノボリは彼岸が明けた「いい日(大安)」に揚げたという。



広い敷地に立てたコイノボリ。

距離を離してみても、どこからでも見られる。

幼稚園児らはこの下にゴザを敷いてママ友たちが作ったお弁当を食べていた。

みなが喜んでいたのが嬉しかったという。

コイノボリの支柱の杉葉は時期が終われば降ろして伐りとる。

そして来年は矢車に替えて揚げる。

奈良県内で度々耳にするこれもまた風習だ。

ちなみに奥さんが云うには三重県には子供の名前を記した武者絵のノボリが見られると話していた。

(H27. 4.26 EOS40D撮影)
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北妙法寺のツナクミ・蛇巻き

2015年10月24日 08時11分15秒 | 橿原市へ
昭和59年から2年間もかけて調査記録した奈良県教育委員会発刊の『大和の野神行事』報告書がある。

その史料では橿原市北妙法寺町のノガミ行事を「ノガミサン」と書いてあった。

農の神とされるヨノミの木に巻き付けるジャ綱である。

かつては旧暦2月7日であった。

いつしか新暦の正月7日に移った。

今では集まりやすい第二日曜日になったノガミサン行事を村では「ツナクミ」と呼んでいる。



およそ20mの長さの蛇の胴体ができあがれば、耳や口もある蛇頭を取り付ける。

運搬用の金属製梯子の上でぐるぐる巻きにして調えた。

ジャができあがれば公民館で一時間ほどの休憩をとる。



「奉納」文字は幣に括りつける。



まずは見本に隣についたお爺さんがカマやスキ、クワを書いていく。



子供たちは見よう見まねで牛の姿を描く。

双子の女児はツナクミを見ていた二人だ。

小学校低学年の子供の腕では牛に見えるような・・とも言えない牛の姿。

愛嬌がある姿は奉納の絵馬である。



こうでないという特別な決まりもなく子供たちは自由奔放に書をふるう。

枚数も決まりはないが竹の幣に挟める程度にしているようである。

北妙法寺町では今月末に初庚申が行われている。

平成26年1月に取材させてもらったときだ。

気になっていたモノがある。

「和州小泉庚申堂」の文字があった青面金剛像の掛軸の奥にあった木の棒である。



それには「奉修大青面金剛尊七難即滅七福即生交通安全祈攸」の文字があった。

上五段は梵字。

県内事例から推測するに「キャ、カ、ラ、バ、ア」。

「すべては万物から成り立っている」とされる「地、水、火、風、空」であろう。

材は硬いサンショの木に違いない。

現在の庚申講中ではなく、昔の講中がしていたようだとTさんは云った棒は初庚申の際に奉っていたのであろうか。

横に大和小泉庚申堂の祈祷札がある。

かつては小泉の庚申堂に参って受けてきたお札であるが、現在は「ならまち」の庚申堂に参っているようだ。



蛇、幣、絵馬ができあがれば集落南にあるヨノミの大木に運んでいく。

蛇を巻き付ける場は八釣川の畔に立つ巨木のヨノミ。

一年前に掛けた蛇は残したままで外すことはない。

昨年の取材の際に聞いていた道中の在り方。

蛇を巻きつけたままの人を近鉄電車付近にあった壕に放り込んだと話していた。

この日も話題になったかつての在り方。

嫁さんが来た家とか婿養子が来た家に出向いて土足で家まで上がり込んで家人に蛇を巻きつけたそうだ。

隣村の地黄町の近くまで蛇を持ち込んでいたともいう。

昔の蛇運びは夜6時ころだった。

運ぶ際には村人と顔を合わせないように出かけた。

今では公民館前でツナクミをしているが、昔は「トヤ(当家)」の家の前でツナクミ作業をしていた。

トヤ家では接待があった。

子供のころだと思いだす村人の記憶はお神酒にツキダシがあったようだ。

お神酒は蛇の口に注いだ。

蛇がまるで飲むような感じだったそうだ。

着いたらヨノミの木に梯子を掛けて昇って蛇頭をロープで縛るトヤ(当屋)さん。

充てる漢字に変化が見られる。



幣・絵馬はアキの方角に取り付ける。

この年は西南西である。

お神酒を蛇頭に垂らして樹上の作業を終える。



それから胴体をぐるぐる巻きにする。

その姿はまるでジャ(蛇)が天に昇っていくように思えた。



蛇を巻いた場は村の入り口。

疫病が村に入ってこないように、祈願の意味が込められているのだろう。

(H27. 1.11 EOS40D撮影)
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