マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

下市栃原の波比売神社

2016年07月26日 08時21分29秒 | 下市町へ
大宇陀本郷、吉野町、大淀町、そして下市町を走っていた。

何年か前に見かけたような景観が現われる。

旧西吉野の北部は柿の産地。

なだらかな山々にたわわに稔った柿の実がいっぱいだ。

柿の葉が紅葉しつつあるが、この日は曇天。

美しさは求められない。

標識にあった栃原地区。

そうだここは枝垂れ桜を撮ったことがある地区だ。

久しぶり、というか何年ぶり・・か、である。

そこから少し走ったら三叉路。

角地に大きな鳥居が建っている。

停車して神社名を確かめる。

栃原の波比売(はひめ)神社だった。

昔もここを通ったかも知れないが、思いだした景観とは違うような気がした。

ある情報によれば同神社には宮座があるらしい。

調べてみれば下市町指定文化財の宮座行事のようだ。

10月1日のようだが、今では日程が替わっているかもしれない。

時間があれば集落を訪れて聞取りをしたかったが、先を急ぐ。

(H27.11. 7 SB932SH撮影)

阿知賀瀬ノ上垣内光明寺カキの観音さん

2015年04月21日 07時40分06秒 | 下市町へ
盆入りの7日に弘法井戸を洗って井戸替えをしていた阿知賀の瀬ノ上垣内。

戸数は45戸であるが、井戸替えに般若心経を唱えるのは周辺の16戸。

そのうちの何軒かは観音講の講中。

毎月17日は十七夜講のお勤めもあれば、大祭りと称する年2回の村行事もある。

一つは7月24日の地蔵さん。

安永造立地蔵石仏を光明寺本堂内に納めて法要をされる。

9月18日はカキの観音さんと呼ぶ行事である。

実った柿を本尊に供えることからそのような名がついたようだ。

講中が話していた行事に興味をもったのは云うまでもない。

カキの観音さんの場は平成16年に建て替えた光明寺会館。

下市町瀬ノ上会館とも呼ばれる場である。

日が暮れた時間ともなれば当番の人たちが会館に詰め寄る。

講中の承諾を得て会館にあがらせてもらった。

そこは金箔が眩い本尊を安置していた。

会館を建て替えたときに塗り替えた本尊である。

講中のKさんが話すかつてのカキ(柿)の観音さんの様相。

ご本尊さんを安置している場に幕を張っていた。

柱と柱の間にぐぐっと曲げた太い真竹を設えた。

力いっぱい、二人がかりでアーチ型のように曲げた。

等間隔に穴を開けて心棒を通してローソクを取り付ける。

その数は11本。

仏事は奇数だという本数である。

三段の祭壇に各家が持ち寄る御供を置いていた。

戦後は64、5軒もあった瀬ノ上垣内。

子供がたくさんいた時代である。

お勤めが終わったら、青年団がコジュウタに入れた御供を子供に配っていた。

そのころの子供の人数は65人。

まるでガキがざわめくような感じで、手を差し出して立ちあがる子供にモチを配ったと話す。

現在ではそのような様相ではないが、本尊である聖観音菩薩坐像(伝室町時代作)や左脇侍の阿弥陀如来立像の前には椀に盛った御膳を供える。

水引で括ったシイタケ、コーヤドーフ、オクラ、ニンジンは立て御膳。

洗い米やトウロクマメの椀に麩を入れた汁椀もある。

御供は搗きたてのモチ盛りもある。

傍らにはコジュウタに詰め込んだモチもある。

今年のモチは1斗も搗いたとW婦人が話す。

正面祭壇に置かれた御供の形態は特殊である。

銀色の板に輪ゴムで止めた煎餅のようなお菓子もある。

その横に立てていたハナモチ。

ケトや菊など美しい花盛りの中に串でさしたモチもある。

これをハナモチと呼んでいる。

これらを挿しているのは麦藁を束ねた「ホデ」。

「明治丗年丑八月 願主光明寺 住職」の文字墨書があった木の桶に立てていた。

この形は先月の8月24日に拝見した吉野町丹治の地蔵盆の御供台と同じだった。

瀬ノ上垣内より3kmぐらい離れる両地域で同じ形態の御供桶があったのだ。

桶の民俗文化は地域分布も調べなくてはならなくなったのである。

この日のカキの観音さんには「柿」が見当たらない。

この件についてもKさんが話してくださった。

かつてはほとんどの家が柿を供えていた。

自宅で実った柿であろう。

今ではまず見ることがなくなった柿はトチワラガキと呼ぶ柿だった。

この柿はとても甘かった。

赤くなろうとしていた柿は供えるのだが、先に子供が食べてしまったぐらいに美味しかったと話す。

時間ともなれば大勢の村人がやってくる。

赤ちゃんや子供連れの母親が多い。



男性二人が本尊前に座って導師を勤める。

木魚を叩いて法要をする間もやってくる人もいる。

総勢40人余りの人数に膨れ上がった。

はしゃぐ子供の声で法要の念仏は聞こえなくなる。

光明寺は浄土宗。唱える勤行も浄土宗である。

およそ5分間のお念仏を経て般若心経になった。

大慌てで大数珠を広間に広げる講中。

これより始まるのは子供たちが参加する数珠繰りだ。

数珠繰りには数取りは見られない。



五巻の般若心経を唱える間はずっと繰っていく。

木魚を打つリズムはどちらかと云えば早い。

数珠もそうしているように見える。

数珠の房がくれば頭をさげる講中。

五巻の般若心経は8分間。ずっと繰っていた。

その後も法要を続ける導師。

木魚を打つ長丁場のお念仏は30分。



すぐさま打ち鉦に替えて「ないまいだぶ なんまいだぶ」を唱えて法要を終えた。

Kさんの話によれば観音さん、阿弥陀さん、地蔵さんの三仏を唱えたようだ。

法要を終えれば御供下げ。



コジュウタに盛ったモチやお菓子を参拝者に配っていく。

何人もの講中は慌ただしく動き回る。

参拝者は帰られてお堂を奇麗にかたづける講中。

椅子を運んで広間を掃除機で清掃する。

ハナモチやお花も取り外して御供桶も仕舞う。



その間に拝見した伏し鉦には「天下一出羽大掾宗味」の刻印があった。

県内各地でこれまで拝見した鉦に「天下一」の称号がある。

刻印より年代が明白な鉦に大和郡山市額田部町・地福寺の「天下一宗味」の六斎鉦は慶安二年(1649)。

奈良市八島町の「天下一二郎五郎」六斎鉦は寛永十八年(1641)がある。

「天下一」の称号は織田信長が手工芸者の生産高揚を促進する目的に公的政策として与えたものである。

その後、「天下一」の乱用を防ぐために、天和二年(1682年)に「天下一」称号の使用禁止令が出されたのである。

そうした歴史から想定するに、瀬ノ上垣内の光明寺にあった伏し鉦は天和二年(1682年)以前の作と考えられる。

額田部町・地福寺の六斎鉦は「宗味作」。白土町にある六斎鉦の一つに貞享五年(1688)・室町住出羽大掾宗味作の刻印がある。

同一人物の製作と考えて、光明寺の鉦は慶安二年(1649)後~貞享五年(1688)辺りの作であろうか。

(H26. 9.18 EOS40D撮影)

阿知賀瀬ノ上弘法大師の井戸替え

2015年03月01日 07時28分58秒 | 下市町へ
この日は立秋。暦の上では秋に入ったが、秋の気配を感じるどころか朝から日差しがきつく汗が流れおちる。

立秋の翌日からは残暑となるわけだ。

『大和下市史』によれば、「下市町阿知賀(あちが」には、瀬の上・西中村・上村・野々熊・岡の五垣内に弘法大師が開いたという井戸がある。いずれもきれいな水が湧き出ている。岡以外の四垣内の大師井戸には、かたわらに弘法大師の石像を祭り、毎年四月二十一日のお大師の日にはお祭りをして、握り飯を子供たちに喜捨(きしゃ)する。瀬の上の井戸は、どういうわけか、水につかった石は赤く色がついている」とあった。

大和郡山市天井町の弘法井戸の井戸替えとともに、下市阿知賀(あちが)の瀬ノ上弘法大師井戸の井戸替えの様相をとらえた映像が奈良県立民俗博物館にビデオ映像で残されている。

大和郡山市天井町の弘法井戸は何度か取材してきたが、阿知賀は初めてである。

昨年は場所だけでも・・と思って探してみた。

阿知賀の弘法大師の井戸は瀬ノ上集落内の湧水場であった。

垣内住民の何人かが、早朝に集まって沈殿する石コロを取り出して洗っていたそうだ。

七品の生御膳を供えて念仏を唱えていたと井戸所有者の奥さんが話してくれた瀬ノ上の様相をあらためて拝見したく再訪した。

朝8時半から始めると話していたが、それより早く集まって作業をされていた。

瀬ノ上集落は45戸であるが、井戸周辺の16戸は毎月21日に弘法大師さんを祭っていると云う。

毎月交替する当番さんは段取りもあるし、生御膳も用意しなくてはならない。

7日は盆入りで清らかな湧水がこんこんと流れ出る井戸の排水栓を開けて溜まった水を流す。

作業初めに塩を撒いて清める。



水を抜いた井戸の底にある石を拾い上げて金属タワシで洗う。

その数はとても多い。

底面にある石は拾い上げることなく、金属タワシで水洗いをする。

水路の蓋も上げてデッキブラシでゴシゴシと水洗いする。

この日に集まったのは男性が3人に女性が8人だ。

女性の指示に従って作業を進めていた男性たち。

気心の知れた集落の人たちであるゆえの和気あいあいの作業である。

一番上の女性は75歳。「いつもこうしていますんや」と云う。

男性も混じっているのは、「定年を迎えたからや」と云われるが、40歳代の男性も加わって作業をしていた。

男性の話しによれば、父親・母親とも亡くしたので、跡を継いで集落の行事は積極的に参加していると伝える。

水を抜いた井戸には鰻が住んでいると云う。

「ついさっき見かけたで」と云われるが、石の隙間に入り込んだようだ。

何やら紐みたいなものも出てきた。

何の紐であろうかと見ていたら、それは動いた。

全長30cmぐらいもあるハリガネムシである。

ハリガネムシは類線形動物で寄生虫。

宿主のハラビロカマキリ(カマドウマの場合もある)に寄生するムシであるが、人間に寄生することはない。

以前、自然観察会でハラビロカマキリを見つけたので、お尻を水に浸けたらニョロニョロで出てきた様子を観察したことがある。

ピンと張った状態から一転して、くねくねするハリガネムシの動き。

初めて見た人はたいがいが「キャー」と云ってその場を離れる。

見慣れていた婦人は手にしたハリガネムシをそっと水路に捨てられた。

「やまとの名水」に指定された弘法大師の湧水は山から湧き出る奇麗な水。

ありがたい湧水であると所有家の先代祖父が弘法大師さんを祀ったと云う。



やや朽ちかけていることから水を濡らした布で汚れをふき取る。

「こすったら壊れるさかい、丁寧にしてや」と声がかかる。

手早い水洗い作業は30分間で終えた。

例年の作業は実に手慣れている。



祭壇の石板に花を飾って御膳を供える。

お供えの三方は2年ほど前に新調した。椀も朱塗りで美しい。



一つはシイタケ・コーヤドーフ・ヤマイモ・インゲンマメ・ニンジンを水引で括った立て御膳だ。

昨年に拝見した立て御膳はナス、アスパラガス、ニンジン、オクラ、シイタケにコーヤドーフだった。

特に決まりはないと話す。



洗い米や煮た小豆の椀もあれば梨1個の盛りもある。

画像では判り難いが、ミツバと麩を入れた汁椀もある。

かつてはハスの葉に供えていたというからお盆御供の在り方であったのだろう。

ハスの葉はなかったが、飾った花にはハスの蕾や実が見られる。



ローソク・線香に火を灯して導師が前に就く。

ご真言、一巻の般若心経を唱えて「なーむだいしへんじょうこんごう」を5回繰り返して終わった。

9時前に終わった集落の人たちはひとまず解散する。

何人かが残って次の観音講の営み日程や御供をどうするか相談されていた。

おばあさんが云うには、「お大師さんの行事以外に17日に行われる十七夜講とか、光明寺で営む地蔵盆、カキ(柿)の観音さんもしてますんや」と話す。

機会があれば、是非とも再訪したいものである。

(H26. 8. 7 EOS40D撮影)

阿知賀桧皮蔵の寒行

2014年07月05日 08時42分37秒 | 下市町へ
下市町に寒施行があるやも知れないと思って現地を探しまわったのは昨年の1月27日

あっちこち、ぐるぐる探しまわった。

墓地近くに立ち寄った場にクワで耕していた男性がおられた。

その男性が話した状況に、これやと思った立ち話。

「ここにな、なんかわからんのやけど新聞紙に載せた俵型のアズキメシがありましたんや」と云ったのである。

「三角のアブラゲも置いてたんやけど、何ですのん」と逆に質問を受けた。

それは間違いなくセンギョの御供である。

「どなたがされているのか判らない」と云った男性に背中を押されて、数時間かけて探した桧皮蔵(ひわだ)地区は大字阿知賀の一つでほぼ住宅街。

付近を歩く住民に尋ねて、区長宅を訪問した。

先ほど聞いた田主の話しも伝えて尋ねたセンギョの在り方。

当地では、「寒行(かんぎょう)」と呼んでいたが、されている行為は間違いなく「カンセンギョ(寒施行)」である。

だいたいの様子を伺って来年に取材したいと申し出ていた。

桧皮蔵の寒行は、大寒入りした日曜日辺りに行っていると云う。

直前に聞いていた実施日は大寒前の19日の日曜日であった。

22戸の桧皮蔵地区の人たちが、お金を供出されて区長婦人の他数人の女性らがこの日の昼過ぎに作った俵型のアズキメシ。

モチゴメを一割程度混ぜて炊いたアズキメシはセキハンと呼んでいた。

アブラアゲは調理をしない生御膳である。

これらは2枚のコウジブタに入れて若い者が担いでいくと云う。

何十枚も作っておいたのは御供に敷く新聞紙だ。

これも区長の奥さんが予め作っておいた。



通達していた時刻ともなれば摂待家を提供しているお家に集まってきた。

例年の場合はお神酒を一杯飲んで出かけるのであるが、この年はふるまいのぜんざいも準備されていた。



出発前に皆でいただくぜんざいは美味しい。

一個のお餅を入れたぜんざいに身体が温まる。

お神酒は大人の飲み物で、ご婦人や子供たちはぜんざいをいただく。



白地に墨書した「寒中寒行 施行 桧皮蔵町」と墨書した幟をもって先導する「寒行」には、町内の医王山日光寺の住職も同行される。

この年は下市のケーブルネットワーク(こまどりケーブル)の撮影隊も来ているからと、集合した人たちに寒行の謂れなどを話された。

後日に放映される取材であるが、地元だけのケーブルテレビは観ることはできない。

かつて長老が囃していた寒行の掛け声は「センギョロー センギョロー」であったと区長が話していた。

「センギョロー」と云うだけに、寒行は間違いなく、かつては「センギョ」と呼んでいたのである。

この日に囃していた台詞は、ほとんど人が「カンギョ カンギョ」と云うのだと、区長から聞いていたが、実際に発声した掛け声はご住職と区長の奥さんだ。

いつのころか、判らないが「センギョ」はいつしか「カンギョ」に換わったと思われる台詞であった。

かつては、提灯に火を灯して寒行をしていたが、今では足元を照らすのは懐中電灯だ。



真っ暗な時間帯に寒行をする行程は日光寺の裏道や天神山辺りまで登る。

真っ暗な中ではピントも合わすことができず、ヘッドライトを装着しての撮影行程だ。

街灯の灯りもときおり利用するが、「カンギョ カンギョ」を囃して歩いていく姿を捉えることは難しい。



山道、ケモノ道、畑道など原野は、いずれも真っ暗な道中である。

数か所では二手に分かれて寒行される。

数えていた供える場所は、途中から数が判らなくなった。



山から下っていけば、街の灯りが見えてくる。

これから先はグラウンドに上がる。

隣町の原野(わらの)地区を抜けて、お堂にも置いていくアズキメシ。

急坂を登っていく道すがらの何か所も御供をする。

年配の婦人もおられるし、赤ちゃんを抱いた父親もついていく町内の行事。

総勢27人の集団がぞろぞろと連れもって歩いていく。

グラウンド場は峯山と呼ばれる地だ。

そこで一旦休憩をする。



御供のアズキメシをいただいてしばらくの時間を過ごす。

「あんたも食べてや」と云われていただいたアズキメシは塩味が利いて美味しかった。



その場で婦人が話した桧皮蔵の寒行。

57年前に嫁入りしたころのことである。

明治22(若しくは23)年生まれの姑さんが話していた謂れ話し。

「私が48歳のときに聞いた桧皮蔵の寒行は、新町で火事があったことからカンギョを始めた。それから火事は発生せずに済んだ」と話すのである。

「ありがたいことやからこうして今でも寒行をしているのです」と云う。

姑さんが話した火事は当時のことであるのか、それとも伝承であるのか、判らないと云った。

「地区に災いがあってはならん、できる間はずっとこれからも続けていきたい桧皮蔵の年中行事のひとつは大切に守っていきたい」と話す区長の思いが伝わってくる。

「阿知賀以外にもあったと長老から聞いたことがあるが、在所は未だに判っていない」とも云う。

小休憩を挟んで再び動き出した寒行。

グラウンドから僅かに下った道に置いたアズキメシの御供。



それが昨年に男性が話していた場であったのだ。

一年後に拝見した寒行の様相が現認できたのである。

そこから下は阿知賀の集合墓地。

シカやイノシシが出没する地区は、「荒らされてたまりません」と話していた。

寒の施行は一般的にいえば狐の施行。

キツネさんには施しをするが、田畑を荒らす害獣のシカやイノシシには施さない。



墓地の下、地蔵さん、六地蔵さんにも施しをする桧皮蔵の人たち。

町に戻っていく道すがらも供える。

町内に祭っている、下の地蔵さんや大日堂にも供えて終えた。

作ったアズキメシの最初の個数は120個。

前半は2個ずつであったが、休憩中に食べた数はおよそ30個。

差し引きして数えれば40カ所におよぶようで、およそ1時間あまりの行程であった。

ついてきた子供たちには金一封が渡される。

町内の人たちの心遣いや風情に浸った桧皮蔵の寒行に温もりを感じた。

7月の第二日曜日には模擬店の夜店も出店される町内の夏祭りのコンピラサンもあると云う。

(H26. 1.19 EOS40D撮影)

阿知賀瀬ノ上弘法大師の井戸替え

2013年11月30日 09時29分04秒 | 下市町へ
天井町の井戸替えとともに、奈良県立民俗博物館にビデオ映像が残されている下市阿知賀の瀬ノ上弘法大師がある。

今でも行われているのか、それを知りたくて出かけた下市町の阿知賀(あちが)。

瀬ノ上の集落内にあった弘法大師の湧水場。

朝8時に集まった住民たちは湧水場の石をあげて石洗い。

山から流れてくる弘法大師の湧水を止めて、沈殿する石コロを取り出して洗っていたそうだ。

始めるにあたって塩を撒いて清めてから、丹念に洗っていた。

数時間かけて奇麗に湧水場に七品の生御膳を供えて念仏を唱えていたと家主の婦人が話す。

お供えは洗い米に小豆。

七品の生御膳はナス、アスパラガス、ニンジン、オクラ、シイタケにコーヤドーフの立て御膳。

汁椀はミツバと麩である。

汁椀の汁は沸かした湯ではなく、奇麗な湧水の水を使う。

御膳を供えるのは毎月の21日。

但し、9月と10月は第二土曜にしている。

14、15軒からなる瀬ノ上の住民が交替して勤める当番さんが供えるが、普段は五品らしい。

お供えの三方は2年ほど前に新調したという。

「やまとの名水」に指定されたこともあって、渕周りを調えて屋根もこしらえた。

弘法大師の湧水は山から湧き出る奇麗な水。

ありがたい湧水であるとW家の先代祖父が弘法大師さんを祀ったと云う。

かつてはその場にタライが並んで洗濯をしていた。

奇麗な湧水は夕方ともなればお風呂の水にしていたそうだ。

今では石に藻も発生し、湧水も濁りがあるように見えるまでになった。

原因は掴めていないと話す。

(H25. 8. 7 EOS40D撮影)

下市の寒行を尋ねて

2013年05月07日 08時34分42秒 | 下市町へ
旧大塔村から下って下市へと向かう。

収穫を終えた柿の山々をぬうように施設された道路。

遠くに見える金剛山山麓が美しい。

山間を下れば町中。

下市町を貫くメインロード。

信号待ちをしていたときに気がついた提灯は初市の文字がある。

本町通りに鎮座する蛭子(ひるこ)神社の初市は2月12日。

2週間も前から灯している提灯だが人影は見当たらない。

目的地はここではない。

ここら辺りだと思うのだが東側へ向かう道がどうも判らない。

曲がってみればなんとかなるだろうと思ってハンドルを右に切った。

細い道なりに東へ向かれば墓地があった。

広大な墓地を通過すればメインロードに出てきた。

ぐるりと一周してきたのである。

その間に出合う人は誰もいない。

仕方なく戻った墓地を通過した。

畑地を整備されている男性なら判るかもと思って尋ねてみたセンギョの件。

アズキメシとかアゲサンを存じていたらと思って伝えた答えは・・・。

先週のことだと話すKさん。

草むらの上にあったという。

新聞紙の上にあったアズキメシは俵型だったそうだ。

三角のアブラゲもあったと話す。

その後の状態。

毎日に見ているわけにはいかない。

気がつけばなくなっていたという。

Kさんが語ったその場所で見つけた5年も昔の正月前。

コンクリートの間に何かが挟まっていると思って取り上げたら祝儀袋が2枚。

何なのか判らないから開けてみればうん万円のお札。

それぞれに入っていたという。

落とされた人が見かければと思って連絡先の電話番号を書いた手紙を張っていた。

1か月間も待ったが変化はなかった。

このままにしておくわけにはいかないと考えて最寄りの警察署に届けたという。

Kさんが示した場所には祠もない草むらである。

もしかとすればここから北にある地区と想定されたセンギョの行い。

センギョはキツネや山の獣に施す習わし。

ぐるりと地区を周回して供える場の一つに違いない。

その場を知るのは施行をしていた人でなければ判らない場所である。

Kさんが発見したその場所の先向こうは下市病院。

もしかとすれば願掛けをしていたのではないだろうか。

通るたびに病いが治るようにと手を合わせていた。

願いが叶ってお礼に捧げた祝儀袋と考えた。

であれば該当の地区の人に行き当たるが願掛けが叶っても取りには来ない。

そんな推定をしてみたセンギョ(施行)の場。

すべての謎が解けたと喜ぶKさんは本通りの大峯町住民。

県立民俗博物館に頼まれて家にあった木製の看板や杓子を展示協力したことがあるという。

現在は新建材店を生業にしているがかつては神社手水鉢の杓子を仕入れて販売していた。

大塔の繰り抜き杓子も売っていた。

ときには輪島塗の杓子も販売していたという。

天川村の洞川が仕入れ地だった。

大峯町と所縁のある洞川の地には金峯山寺蔵王堂がある。

戦前のときに蔵王堂の柱を寄進した先代。

戦後に寺を尋ねたが柱の件は判らず仕舞い。

立ち話に盛りあがったその場を離れて丘向こうの地に向かった。

新興住宅地を抜けて旧道へ。

いつしか阿知賀の原野。尋ねた地はそこではない。

それほど遠くない距離の間にある桧皮蔵がそこにあった。

桧皮蔵と書いて「ひざわ」と呼ぶが、Kさんは「ひわだ」と呼んでいた桧皮蔵は材木商が多かったという。

桧皮は「ひわだ」。

それが「ひざわ」に訛ったのかも知れない。

桧皮の蔵であったのかも知れない地域だ。

木材に密接した下市の本通りには吉野杉材の箸作りで名高い。

平成17年には杉箸神社で行われた箸祭りを取材した地もここにある。

祠社の傍にあった伝言板で判った桧皮蔵地区であるが付近を歩く人はいない。

たまたま外出されようとした人に聞いた区長さん。

今年もしていたというセンギョは寒行(かんぎょう)と呼ぶ地区の行事。

18、9人の人たちが山の里道(りどう)やケモノ道を歩いて供える三角オニギリのセキハンとアブラゲ。

新聞紙を敷いてそこに置くという話はKさんが見たものと同じであった。

自治会組織が行っている寒行は大寒の日の夜に巡る場所は20カ所。

かつては提灯で照らして巡っていたが今は懐中電灯。

セキハンとアブラゲはコジュウタに入れて持ち歩く。

およそ1時間もかかるという。

「カンギョ カンギョ」と唱和して巡るが囃す人は多くない。

年寄りは「センギョ センギョ」と云っていたというから寒の施行である。

(H25. 1.27 SB932SH撮影)

新住のお仮屋

2011年10月25日 06時40分07秒 | 下市町へ
前週に建てられた下市町新住(あたらすみ)のお仮屋。

当地ではこれをお仮宮と呼んでいる。

八幡神社の祭りに際して今年の頭家に当たられた家の庭にそれがある。

氏神さんの分霊を祀るお仮屋である。

巨大で特異な形を建てるには工務店を営んでいることから車の出し入れを考慮した場所を設定された。

四方を竹とクリの木で囲った土台を築き大きな青竹を立てる。

周りには上下にたくさんの檜葉を竹で編んだものに括り付ける。

中心に太い孟宗竹、後ろ側は斜めに水差しの筒を挿し込む。

これは神さんが遷ったご神体のサカキや葉の付いた笹などが枯れないようにする水入れである。

後からサカキを通すので挿し込み具合は加減が要る。

そこに水を注ぐのだが、その水汲みは毎日のことだ。

氏神さん八幡神社は山の方角。

氏神が鎮座する宮山から流れる水は地下水となって吉野川に注ぐ。

水が昏々と湧きでる大自然の清水は「風呂の場」。

温めだからその名が付いたようだ。

味はまろやかでコーヒーに丁度いいのだと話す頭家のN氏。

お仮屋は正面に御簾(みす)を据えて、下部は斜めに竹矢来を、さらにその下の檜葉を切り取って間に加える。

そうして恵方の方角に鳥居を、右横に木製の燈籠を立てて杭を打ち込み、周りは二重の竹囲い。

吉野川の川原で集めてきた玉砂利石を敷き詰め飛び石を配置して苔を置いてできあがった。

平成20年に取材させていただいた時の様子はそうであった。

この年も同じように設計図を基に建てたようだ。



その夜。とはいっても日付けが変わった午前3時。

頭家は人に見られないように八幡神社へ行って神遷しされたサカキ(宮山で採取)を手にして戻ってきた。

「お遷りください」と神さんに申して帰った。

それをお仮屋の頂点に挿し込んで注連縄を張った。

それからの毎日はお神酒、洗米、塩を供えて灯明に火を点けて手を合わせる。

神社へ参拝するときと同じ作法でそれをされる。

夕刻も同じようにするが、木製の燈籠にローソク一本を立てて、火を灯す。

ご婦人とともに手を合わされた。



こうして頭家の参拝は9日の仮宮祭の営みを経て翌月16日の本祭まで続けられる。

かつて新住の宮座は上座が8軒、下座も8軒であった。

昔はアンツケモチを作って村内60戸に配った。

その量といえば八斗も搗くというから相当なモチの量である。

現在は村の行事になったことから年中行事の詳細を記した「新住八幡神社祭典行事誌 宮座講」として纏められつつある。

つつあるとしたのは誰でも理解し判りやすいようにさらに工夫を凝らしているからだ。

50頁以上にもなる誌料は立派なものであった。

その頭家では古い寺などの改築工事を担うことが多い。

そこから出てくる廃材の一つに鬼瓦がある。

捨てるには惜しいと貰って帰ってくる。

江戸期のものも相当数ありさまざまな形がある。

所狭しに並べられた瓦は屋根の上。

まるで瓦の博物館のようだ。瓦の研究者にとっては垂涎で貴重な文化財であろう。

(H23. 9.25 EOS40D撮影)