マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

室生・おあずけ弁財天石楠花

2018年04月14日 09時13分00秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
この日はおふくろの誕生日。

祝いに宇陀市大宇陀本郷にある椿寿荘に宿泊する。

目的は宿泊だけで済ますわけにはいかない。

遅咲きというか、時季的にだいたいが4月中旬。

場合によっては月末になるかもしれない桜見を兼ねた小旅行である。

宇陀市大宇陀本郷は夕刻までに到着すればいい。

本郷へ行くには西名阪国道の針ICを抜けて国道369号線を南下する。

旧都祁村を通る国道をさらに南下して香酔峠を越えるころには宇陀市榛原になる。

玉立信号から一旦は国道を外れて県道に切り換えてさらに南下。

榛原篠楽からは交差する国道370号伝いにまたもや南下していけば宇陀市大宇陀の道の駅に着く。

そこからちょいと西に入れば本郷であるが、もっと手前の榛原篠楽の信号を東に向きを換えて国道369号線をひたすら走る。

その道は伊勢本街道の幹線道路。

距離的にはさほど遠くない。

地名は榛原内牧。

その東の端に架かるトンネルは弁財天トンネル。

十数年前まではこのトンネルはなかったから、地道の峠越で宇陀市室生田口に出る。

今では真っすぐなトンネル道。

あっという間に旧室生村に突入してしまう。

その弁財天トンネルの弁財天は字地名である。

奈良県には広陵町にも弁財天の字地名がある。

何年か前から脚光を浴びて花見にくる県内外のお客さんが目指すのは弁財天石楠花。

村の人たちが段丘に植樹した花見処。

奈良県観光公式サイトが案内するアドレス表記は宇陀市室生弁財天であるが、そのような地名は見当たらない。

詳しくは宇陀市観光協会に聞け、という具合だ。

一方、大手サイトのじゃらんガイドによればアドレスは宇陀市室生田口元上田口になっているが、弁財天表記は見当たらない。

どうやら室生田口元上田口にある垣内名のようである。

じゃらんが示す弁財天の地は弁財天トンネル入り口手前にある地道を行くようになっている。

弁財天に来るのは何年ぶりになるのだろうか。

私が残したメモを手繰れば平成19年の4月26日

そのときの咲き具合は1分咲きだったとメモっていた弁財天石楠花の丘。


(H19. 4.26 Kiss Digtal N撮影)

所蔵する写真蔵から掘り出した3枚。

映像で思い出す林の中にある石楠花の花。

急な山道と思える坂道を登っていった辺りをぐるりと回遊できるように造成した丘。

斜面はきつく、湿り気がない。

お日さんが当たった斜面がカラカラに乾いていた10年前の姿を思い出した。


(H19. 4.26 Kiss Digtal N撮影)

うち、一枚の写真に目がいく。見下ろした先に見える朱の色。

屋根もあることからこれは神社である。

たしか境内近くまで車で登って、そこから回遊した1分咲きの石楠花を拝見していたように思いだす。


(H19. 4.26 Kiss Digtal N撮影)

さて、その神社に登る石段がある。



入山料の500円を求めるさい銭箱を置いてあった神社は金毘羅神社。

祭神は大物主命。

鎮座地は宇陀室生区田口弁財天とある。

「神武天皇東征のとき、弁財天川から2km下流の胎ノ川との合流地点付近の“城(じょう”が河原で、八十梟帥(やそたける)軍団との激戦の上、勝利を納めた天皇は現在地に宮城を築かれ、傷を癒し兵力を貯え暫時政務を執られたと言い伝えがある」と記された由緒書を立てている。



鎮座地の“宇陀室生区田口弁財天”の“室生区”は現在表記されていない。

旧室生村は榛原町に大宇陀町、菟田野町と合併されて宇陀市になった。

平成18年1月、宇陀市になったときの旧室生村名は“室生区”を充てていたが、現在は“区”表記を外しているから、由緒書を書いたのは平成18年当時とわかる。

おふくろに見せてあげたい石楠花はこのさい銭箱から石段を登らなければならないが、身体的に無理がある。

階段が登れなきゃ車でとも思ったが、そこまでしてくれなくとも・・という。

折角、ここへ来て見たものの断念せざるを得ない。

ちなみにこのときに来ていた79歳の男性カメラマンンは、石楠花がどこにあるのかわからなくて、うろうろしていたそうだ。

それも3年ぶり。

記憶がない景観に狼狽えていたと云う。



結局のところお花を観たのは駐車場に咲いていた巨木の白い木蓮。



すぐ近くに咲いていた黄色いレンギョの花を前に集落民家をぼかして撮っておいた。



ちなみに桃色のツツジが咲いていたので撮った写真の向こう側に石楠花があることを付言しておこう。

(H19. 4.26 Kiss Digtal N撮影)
(H29. 4.27 EOS40D撮影)
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下笠間・T家のカドマツリ

2017年09月26日 08時53分09秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
Ⅰ家の隣家になるT家も立ち寄ってみる。

T家もオンボサンを立てているが、奥さんはカドマツリと呼んでいた。

Ⅰ家もT家も伊勢講の講中。

平成21年の12月13日に訪れて、6軒で営みをされていた伊勢講を取材させてもらったことがある。

T家はそのときの送りのヤド家だった。

ご主人は正月のお酒を飲み過ぎて寝ているらしい。

久しぶりなので、お声をかけたいが、かけることもできなくて奥さんにお願いするカドマツリのお話し。

Ⅰ家と同じように3本立て。



オン松、メン松に雄のカシの木を立てる。

雄カシの木の本数は家の男の人数でもあるし、おれば2本だということも。

逆に男が居なければ1本にするという。

このカシの木は家によって異なるようだ。

ホウソの木をする家もあれば、葉の無いクヌギの家もある。

また、雌カシの木をする家もあるというから多種多様のようだ。

三本通しの注連縄を張っているところもカシの木の巻き付け方も、太めの注連縄もある。

昔の松は5段であったという。

段は徐々に減っていって3段。

それから今日の2段になったそうだ。

近所の家では1段で先っちょだけの家もあるらしい。

太めの注連縄には蛭子さんのタイを架けたというからカケダイであろうか。

家のエビスサンに供えているのは生のカケダイという。

生のカケダイは初めて聞くが、当初は、ということであろうか。

串にさしているというから特徴的ではあるが、拝見はできなかった。

干したカケダイはと話題は続く。

そのカケダイは魚屋さんで買う。

昔は桶を担いで村に売りに来た行商から買っていたという。

カケダイの昔。

田籾を蒔いたときのミトマツリ(水口祭り)に食べた。

時期が来て、田植えをする日(植え初め)にも食べた。

その都度に食べたというから2尾だった。

そう、カケダイは2尾の一対腹合わせが特徴なのである。

話しをしてくれた食べる時期は農作の節目。

田植え初めにフキダワラをこしらえていたという。

拝見はできなかった床の間に供える正月祝いの鏡餅の膳は餅にクシガキ、トコロイモ、クリ、コウジミカン、お頭付きタツクリに昆布を供える。

この7品目は家のいろんな処に供える。

雑煮もお神酒も供える元日。

昔の正月は二日間の朝、晩にお節を食べる。

ヒル(昼)はヌキみたいなものだったという。

ちなみにコウジミカンは村に行商に来ていた売り子さんから買っていたという。

今では売りにくることはないから、購入するのは難しいようだ。

ちなみに「オンボサン」の呼び名を聞いたことがある。

平成24年の11月23日に訪れた山添村大塩のKさんが話した「オンボサン」である。

「正月の雑煮を炊く火点けはフクマルの火。雑煮はカシライモ(頭芋)。キナコに塗して食べる。カシの木はヒバシにする」と云っていた。

そのカシの木のことを「オンボサン」と呼んでいたことを思い出した。

その証言に感じる「カシの木」である。

オンボサンではないが、オンボダケの表現があったのは曽爾村の伊賀見。

平成3年11月に発刊された中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』の記事である。

伊賀見のトンドはかつて1月15日の朝だった。

伊勢湾台風襲来による被害があった。

川原に生えていた竹が消えて取りやめになったが、そのトンド組の芯に真竹を立てる。

これをオンボダケと呼んでいた。

また、このオンボダケに書初めした書を括り付けて、灰が高く昇ると手が上がるといって喜んでいた。

燃えて最後にアキの方角に倒すオンボダケ。

割って持ち帰り、味噌樽の上にのせて置けば味噌の味が落ちないとあった。

こうした民俗事例から判断するに、「オンボ」とは心棒。

例えば家長も家の心棒。

重要な位置についている諸々に威厳さをもって「オンボ」と称したのかもしれない。

(H29. 1. 1 EOS40D撮影)
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下笠間・I家のオンボさん

2017年09月25日 09時34分14秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
正月行事の在り方もさまざま。県内各地を渡り歩いて調査していたが、午前中いっぱいの時間まで。

「うちの家の正月は何時になったら始めるんや」の声が取材地まで届きそうな気配がする。

できる限りのことだが、同行する写真家のKさんに観ていただきたい民俗事例がある。

山添村松尾のイタダキから天理市福住や室生小原のカンマツリもそうであるが、室生に来たなら下笠間と思って足を伸ばす。

下笠間にはこれまで幾度となくお家の民俗を撮らせてもらったお家がある。

その家は正月の膳はあるし、竃にもお供えをする。

エビスダイコクさんにはカケダイも吊るしている。

もう一つは県内事例で他所には見られないオンボさんの門松立てがある。

元日の朝から突然の訪問に驚かれることだろう。

お年賀も準備した表敬訪問である。

実は気になっていたのがご夫婦のお身体だ。

前年の平成28年5月21日に訪問したときの奥さんは腰痛で難儀しておられた。

その後の状態は克服されているかもしれない。

ご主人はお元気な様子だったが気になる年齢である。

今年もオンボさんの門松を立てておられたのでほっと安心した。

I家のオンボさんを拝見したのは平成25年の12月31日

慌ただしい大晦日の日に取材させてもらった。

オンボさんの存在を初めて知ったのはその年の1月11日だった。

オン松、メン松にカシの木の三本を立てる。

注連縄を張って、カシの木には長くなった注連縄をぐるぐる巻き。

ウラジロにユズリハもあれば、幣もある。

なんとなく注連飾りの発展型のようにも思えるが、「オンボ」さんとは一体何ぞえ、である。

オンボさんの祭り方は、今もかわらないので平成25年取材の記事を参考にしていただきたい。

オンボさんを先に拝見して表の玄関から声をかける。

屋内から聞こえてくる奥さんの声。

扉を開けたら玉手箱、ではなく私であるから驚かれたことであろう。

年賀の挨拶をさせていただいて玄関に入る。

ご主人は奥の居間で寛いでいたが、身体を壊されていた。

交通事故に遭われて手術もした。

気力も衰えていながらも炬燵から出ようとされたので、無理しやんといて、と思わず静止した。

なんとも、辛い正月の顔合わせになってしまった。

奥さんの腰痛も治ることはないという。

不自由な身になってもお家の正月飾りをしているご夫婦にただただ頭が下がる思いだ。

奥さんは昔も今もよく話してくださる。



「戌亥の井戸の若水をいただく。薬を飲むときは朝に飲め。若水に注連縄に餅とコウジミカンを供える。家の神さんにも仏さんの水にも井戸の若水。すべての椀に入れる」という。

Ⅰ家に立ち寄る際に必ずといっていいほど竃を拝見させていただく。

今でも現役であるが、そこにある大鍋の蓋にたいがいの場合にお供えをおましている。

節目、節目に竃の神さんに捧げる御供であるが、この日は当然ながらの鏡餅。

三段重ねの鏡餅は暮れの28日に家で搗く。

例年そうしているⅠ家である。



「いつもニコニコ仲睦まじく」の10個の干柿を串挿ししたクシガキにトコロイモ、ゴマメ。オンボさんと同じようにウラジロに輪〆の注連縄で奉っている。

これらを丸盆に載せている。

その隣にも丸盆。

いつの時代も湯飲みを三杯置いている三宝荒神さんのお正月である。

奥さんがいうには「三宝荒神さんはすべてが三つ。餅もトコロイモもコウジミカンもクリも皆三つ」である。

そこへもってもう一つのお供えは元日と十五日のお酒である。

イタダキの正月の膳は床の間。

療養中のご主人がおられる居間は遠慮して、ダイコクサン(大黒)とエビスサン(蛭子)のお供えを拝見する。

これは必ず見ておかないといけないカケダイ。



年末にカケダイを作って販売している宮崎商店さんのカケダイとの比較である。

宮崎さんに聞いて始めて知ったⅠ家のカケダイは商店で買ったものではない、ということだ。

それを再確認したくて撮らせてもらった。

造りはよく似ているが、なんとなく違う雰囲気をもつが、ツノムスビ(角結び)は同じ結びのようだ。

後方に吊っている注連縄はたぶんにご主人が作られたものであろう。

どことなく違うのは藁の形作りである。

カケダイの鯛はたぶんに真鯛。



横にある赤い色の幟旗に三重県の「名張八日市蛭子祭」の白抜き文字。

2月8日は「えべっさん」の祭りで大賑わいする祭りの日に買ってきたもの。

奥さん曰く「カケダイは昨年のもの。

名張で売っていたものを買ってきた」というから間違いない。

ちなみにダイコクサン(大黒)とエビスサン(蛭子)のお供えはカケダイだけでなく下にもある。



コウジミカンにクシガキにトコロイモ。

餅は2枚である。

傍にはトーフとズイキの煮物も添えていた。

(H29. 1. 1 EOS40D撮影)
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室生染田フイゴの祭り

2017年07月15日 10時08分45秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
2カ月前の平成28年9月17日

室生染田の田んぼで偶然に出会った田主さんは野鍛冶師。

毎度ではないが、何かと出会うときがある。

この日は退院してから9カ月目。

久しぶりに顔を合わす話の弾みに写真家Kさんの願いを叶えたくてフイゴの祭りの再取材。

これまで2回も取材させてもらっている。

1回目は平成18年11月8日

2回目は平成23年11月8日だった。

2回目に至る前年の平成22年。

その年の毎週水曜日に発刊される産経新聞の奈良版の連載。

奈良支局の依頼で始まった奈良県の伝統的な民俗を紹介するコーナーを受け持った。

連載は一年間。

シリーズタイトルは「やまと彩祭」であった。

執筆にあたって毎週、毎週の奈良の民俗をどういうものを季節に合わせて計画した。

意識したのはできうる限り、貴重な県内事例を伝えたい、である。

それより一年前の平成21年は人生にとって初の著書である『奈良大和路の年中行事』の刊行である。

編集・出版は京都の淡交社。

裏千家で名高い出版社である。

奈良支局から依頼されたときにすぐさま頭に描いたのは著書では紹介できなかった民俗行事である。

表現も新聞記事らしくしようと思って毎週の発行に合わせる行事を計画した。

そのひとつに挙げたのが宇陀市室生染田で行われているフイゴの祭りだ。

野鍛冶師がフイゴに感謝する記事を書きたい。

そう思って描いたのは大昔から今にも続く農耕の在り方である。

農具、民具は寄贈された民俗博物館などにカタチとして残される。

カタチで残された文化的所産物は有形文化財。

民俗文化財は衣食住、生業、信仰、年中行事などに関する風俗慣習、民俗芸能、民俗技術など、人々が日常生活の中で生み出し継承してきたモノモノ。
有形は「モノ」として残されるが、無形はいわば「流れ」。

固定化されたモノでもない。

時代、文化の興隆衰退によって変革する。

有形もそうであるが、無形分野を形で残すには写真、動画、文字・・などしかない。

私にできるのはそれしかないと思ってしたためた。

48年前。

私が卒業した高校は大阪府立東住吉工業高等学校。

選択した科は第二機械科である。

第一機械化は鋳物関係。

第二機械化は旋盤関係。

大きくわけるとそんな感じだ。

卒業してからずいぶんと日が経つが、体験したことは身体が覚えている。

機械科だからこそ同じ鉄を扱う鍛冶仕事を気にかけたい。

記事化に選んだ理由は機械科卒であるからだが、執筆する記事に誤りや食い違いがあってはならない。

したためた原案をもって染田の野鍛冶師さんにみてもらった。

大まかにいえば問題はなかったが・・・若干の指摘を修正し、記事になった。

平成22年11月7日に発刊された新聞記事は新聞社の校閲もあって読みやすく、わかりやすくしていただいた。

元原稿は手元に残している。

公開された記事と読み比べてみれば恥ずかしくも思う文である。

恥ずかしくもあるが、ここにそのままの原文を残しておく。

「弥生時代はより安定した生活を営むため水稲耕作が広まった。農耕具が木製から鉄器文化に移ったことが普及の一因で、それは小国家のクニの始まりであった。稲作鉄道具は荒地を開拓するのに適し、より広大な土地を耕すことで文化水準が一挙に高まった。その鉄農耕具に携わる生業、戦後まもない時期までは野鍛冶が村の花形だった。生活文化が変わり、農業生産は効率的な農機具に移っていった。今ではその普及によって、その姿を見ることが少なくなった。所狭しにさまざまな鍛冶師の道具が並んでいる。」

「鍛冶屋の仕事場は火床(ひどこ)。火を起こすフイゴや金床、金槌、ハサミ道具、万力、ボール盤、円砥石がある。ベルトハンマーが回転する槌(つち)打ち機械が動き、松炭でまったりと焼けた鋼(はがね)を取り付けた野鍬の先を叩きつけるハンマーの音。親爺さんから二代目を継いだ室生染田の野鍛冶職人は今でも現役。クワ・ナタ・カマなどを修理する野鍛冶仕事に精を出す。(※)焼けた鋼や炭の色で目利きするその姿は巧みの技師だ。四方に飛び散った火花は清廉で、真っ直ぐな線を描く鉄一筋の伝統技が生きている。

奈良県では戦後間もない頃、野鍛冶を営んでいた鍛冶屋は約2在所ごとに一軒というからそうとう多数あったそうだ。それが現在は僅か数軒になった。その鍛冶屋が信仰する祭りがフイゴ祭。新暦の11月8日に行われている。一日ゆっくりフイゴを休ませて、フイゴとともに一年の労をねぎらい鍛冶仕事に感謝する日だ。

田畑を耕す鍬や鎌は農業を営む人にとっては欠かせない大切な道具。鍛冶屋はそれを作り出したり、打ち直して機能を長持ちさせる職業で、農家とは密接な関係にある。」

「鍛冶屋にとってなくてはならない道具がフイゴ。火を起こし、風を送る。鉄工所を営む鍛冶屋はフイゴの前に神棚を用意して、里、山、海の幸の他に7品の神饌を供えた。フイゴを神のように見立てて「一年間、鍛冶仕事で家族を支えていただいたお礼と次の一年も商売繁盛になりますよう」手を合わせ感謝の気持ちを込めて祈願する。仕事場の四方や道具に洗米、塩、お神酒を撒いて、神式に則り2礼、2拝、1礼で拝んだ。」で締めた。

掲載された新聞記事文は無駄をそぎ落として読みやすくなっているのがよくわかる。

フイゴの祭りは昔も今も変わらずに続けてきた。

神饌を並べてローソクに火を点ける。

その前にあるのが野鍛冶師の仕事場。



フイゴ道具がある火床を祭る祝詞は神式に則り、「かけまくも十一月八日は、鍛冶職人のふいご祭りとして、ふいごの神様、火床の神様、金床の神様、もろもろ道具の神様。昨年十一月八日より本日まで、火難と災難なく平穏な一年を過ごさせていただき、誠にありがとうございました。また、本日より来年の十一月八日まで、火難なく大難を小難、小難無難にお守りくださることと、一家の商売繁盛と家内安全を賜りますよう御祈願申し上げます」を述べた。

ところで今回の取材である。

願っていた写真家のKさんは急遽入った仕事の関係でやむなく断念。

それとは関係なくもう一人の客人が取材に来るという。

現れた客人は本物の新聞記者であった。

記者は朝日新聞社の古澤範英氏。

FBでのトモダチの一人になる古澤氏は現役記者。

後日の11月27日に発行された記事を読ませていただいたら、さすがに構成が上手いなと思った。

しかもだ。朝日新聞はデジタル化されてネットでは動画も拝見できる。

シンプルな纏め方に、カン、カン、というか、トン、トン・・・一日千回。

坦々としている情景がとても素敵だと思った。

同じような表現はここではできない。

と、いうよりも、野鍛冶師が新聞記者に説明しながら野鍛冶をしている行程を撮ることに専念した。

記録した160枚余りの写真を選別。

この写真は産経新聞に取り上げることのなかった(※)印の<参考 工程概略>に沿って公開することにした。

1.炉とも呼ばれる火床(ひどこ)の火起こし。



  火起こしの燃料であるコークス(昔は松炭)を入れて着火する。



2.鍬の磨り減った部分に軟鉄を補充し火床で焼き金床の上でハンマーを打ち、平らにする。



3.ハガネを鍬先の幅に切断して取り付ける。

4.取り付ける接合剤は鉄鑞(てつろう)粉。

  鉄鑞は硼砂(ほうしゃ)やホウ酸、ヤスリ粉が用いられる。

5.火床(ひどこ)から焼けた鍬を取り出して、ハンマーで叩くと火花が散る。

  この火花は鉄鑞粉が焼けて飛び散っている証しで一回だけ発生する大火花(1,000℃)。

  この工程を<仮付け>という。

6.更に鍬を焼いてハンマーで叩く。



  これを<沸かし付け(本付け 1,200℃)>という。

7.もう一度同じ工程を踏んでハンマーで叩き鍬の形を整える。

  これを<のし打ち>といい、6回ほど繰り返す。

8.冷ました鍬をグラインダーとヤスリで仕上げる。





9.鍬の先を火床で焼き、水槽の中に入れ急冷する。(焼き入れ行程 800℃)



10.粘りを与えるため鍬先の鋼の部分を火にあてる。(焼き戻し行程)



11.ラッカーで色付けをした後、鍬に柄を付ける。(完成)



(H28.11.11 EOS40D撮影)
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下笠間の虫送り

2017年01月02日 09時16分02秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
経過良好だがなんともいえない脈拍である。

相も変わらず安静状態であれば40拍前後。

身体を動かせば50拍を超える。

超えることは良いのだが激しい運動はできない。

民俗行事の取材は復活したものの動きが少ない行事を選んでいる。

そうはいっても出かけて状況を知ることも必要だが、お世話になった村の人に顔出しも必要だと思っている。

これまで幾度となく伺っている宇陀市室生の下笠間。

近隣の取材であっても時間があれば車を停めて顔をだす民家がある。

そうしたいと思って出かけたが、この日の行事は火を点けた松明を村境の場まで練って送っていくのだが、お渡りと同様についていくことは避けたい。

そう判断してこれまで拝見してきた場より少し離れて村から見ればどうなるのか、一度は見ておきたいと思って出発直前にやってきた。

村の集落は出発するトンド場よりも高台にある。

道路に面した場にも家々があるが、ほとんどが高台である。

そこから眺めたい下笠間の虫送り。

九頭神社裏から行きかけたが、目に入ったのは村の消防車である。

赤い色で塗装された車両は3台。

うち2台が消防車である。

今か、今かと出動時間を待っている。

そこを通り抜けていった自転車乗りの男性。

先に枯れた杉の葉を詰め込んだ竹製の松明を肩から担いで走っていった。

それを追いかけるかのように出発した村の消防団には消防道具などを管理している倉庫のような建物がある。

造り構造はどの村にいっても同じような形である。

内部に火消し道具があった。

奈良県立民俗博物館の企画展に「私がとらえた大和の民俗」がある。

平成28年のテーマは“住”である。

そのテーマを受けて私が挙げたテーマは「火の用心」だ。

「火の用心」に欠かせない初期消火活動がある。

それは住んでいる地域の在り方である。

10月の展示には発表するが、火の用心のお札や消防バケツなどを紹介するつもりで情報やデータを整備しつつある。

なかでも火消し道具も紹介したいと考えていた。

地域を火災から守ることも大切だが、火の手が上がれば消防団の登場。



消防車は当然であるが、火消し道具も重要だ。

ここに居た機会は逃さず写真に納めておいた。

あんばい見ている時間もないので撮るだけにしたが、これはなんだろうか。

代表的道具の「とび口」は形で判るが桟に架けている他の道具は見たことがない。



輪っかのような形をもつ道具はどういう場合に使うのか。

それも知りたいものだ。

そろそろ出発時間が迫ってくる。

高台に向けて歩きだした。

そこへ走ってきた自動車。

運転手のお顔はわかる。

その人も私がわかったようで車を停めてご挨拶。

久しぶりにお会いした春覚寺住職のSさんだった。

これより直行していたのは虫送りの先頭役を務める僧侶。

住職がいなければ虫送りは始まらない。

ご苦労さまですと云って見送った。



街道に松明をもっていく家族連れもおられる。

小さな子供が大きな松明を持っている。

いざ、出陣である。



高台からは親父さんかお爺さんについていこうとして下っていった子供たち。

松明をもつまでにはもう少しの成長を要するようだ。

とんど場には続々と村の人たちが集まってきた。

下笠間の山々に霞がでてきた。

じっとりした湿度が高い日である。



オヒカリに松明を寄せて火を移す。

枯れた杉葉に火が点いてメラメラと燃えだした竹で編んだ松明。

それぞれがそれぞれの松明を持って出発した。

松明の煙が上昇する。

霞と煙の二重奏だ。

その場には消防団員の姿もある。

火の手が上がれば危険状態。

火が枯れ草などに移らないようにその場で監視している。



後続につく太鼓打ちも出発した。

松明の火をとらえるカメラマンたちは絶好の場所でシャッターを押す。

そして、ついていく。

虫送りをする人数はとにかく多い下笠間の人たち。



老若男女に子供たちも。

長くなった行列は松明の火が点、点・・。

それと同時に煙も上昇して周囲に広がっていく。

火点け時間は午後7時。

最後尾につく人たちが出発したのは3分後だった。

すべての人が虫送りに出発すれば火の始末。

消防団の出番に消防車。



団員は倉庫から持ってきたと思われる「とび口」を手にしていた。

毎年、こうして虫送りする村の情景を見ている婦人がいる。

玄関前にある椅子に座ってずっと見ている。

毎年が楽しみだというIさんは足腰を痛めた。

前月の5月21日に訪れたときにそう話していた。

その後も変わらずの状態であるにも関わらず、お茶でも飲んでいけというが今夜は遠慮。

不自由な身体で世話してもらうのが申しわけない。

そう思って遠慮した。

(H28. 6.19 EOS40D撮影)
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室生小原の田の虫送り

2014年12月30日 07時54分20秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
我が家ではキリギリスが鳴き始めたこの日。

例年通り村の人たちは松明を持ってやってきた宇陀市室生小原。

集まる場は推定300年余りのエドヒガンの枝垂れ桜で名高い極楽寺だ。

明治32年に焼失した極楽寺は、のちに再建されたが無住寺。

それまでは住職(融通念仏宗派であろう)もおられて虫送りの祈祷もされていたと聞いている。

田の虫送りが始まる前に打つ太鼓。

「ドン、ドン、ドンドドドン」の太鼓の音色は小原の里に広がる。

鉦の音も聞こえることから境内で行われる数珠繰りも始まったのであろう。

「なんまいだ」念仏の虫祈祷を終えて松明に火を点ける。

先頭を行くのは村の役員が勤める鉦叩きと太鼓打ち。

オーコに担がれた太鼓は相当な重さ。

他所では軽トラで運ぶようになったが、小原では今でもオーコ担ぎ。

肩が食い込みながらも田の虫送りに巡行する。

「キン、キン、キンキキキン」と打つ鉦の音に合わせて太鼓は「ドン、ドン、ドンドドドン」。



寺を出発した一行は南に下って東に向かう。

かつては「おーい おーい たのむしおくり おーくった」と囃しながら行列を組んでいた。

「おーい おーい」は呼びかけの「おーい」でなく、虫を「追う」である。

その田の虫送りの唄を知る人は多くない。

松明は遠目で見ても判るように大きくはならない。

枯れた竹一本がほとんどである。

稀に大きな火が燃える松明もある。

それは枯れた竹を割って束ねた手作りだが、おそらく2本だけであったろう。

村の子供たちも虫送りに参加する。

安全性を考えて竹一本の松明にしたと聞いている。

それらは燃えやすいように脂を染み込ませている。

田んぼの方に向けてではなく、上に燈す子が多い。

まるでトーチのように見える。

かつての松明は松のジンがつきものだった。

それゆえ「松明だというのだ」と話していたことを思い出す。

割木、シバなどで松明を作っていたと話していた松明は水平に抱えて田の虫を送っていた。



こうして送った松明はトンド場で燃やされる。

ポンと一回鳴ったその場は村の行事を終えて直会に移る。

いつものようにスルメとジャコでお酒をいただく。

解散後の20時過ぎともなれば笠間川のホタルが飛び交う。

(H26. 6.20 EOS40D撮影)
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室生下笠間のオンボさん

2014年05月18日 07時56分08秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
室生の下笠間。

昨年の正月明けに訪れた民家の庭先に砂盛りが三つあった。

「これって何ですか」と尋ねれば「オンボサンや」と答えた婦人。

それは一体どういうものなのか。

確かめたくて、忙しい御主人と奥さんに無理を云ってお願いして撮らせてもらった。

20日に予め作っていた手編みの注連縄を玄関に取り付けて、オンボサン作りに移った。

3本の杭を地面に打ち付けてオンマツ、メンマツ、葉付きのカシの木を括りつける。



その順は玄関からみての並びで3本に掛けたのは注連縄で、その間にウロジロをやユズリハを取り付ける。



右端に立てたカシの木の「オンボサン」だけには房垂れのある注連縄と紙垂れを付けた注連縄を掛ける。

砂盛りはそれらの作業を終えてからだ。

おもむろに始めた砂撒き。



山砂を撒くのは場を清めるためだと云う。

「オンボサンは当家の男の数だけや」と云ってカシの木の2本を立てた。



オン松・メン松は家の門松に違わないが、「オンボサン」は何故に祭ってきたのか。

「昔からずっとやっているが、意味は判らん」と云う当家の隣家にも見られたが、注連縄は張っていなかった。

話しによれば、どれほど家がされているか判らないが、カキ、クリ、ホウソ、フクラシ(フクラギとも)、ナラなどさまざまのようである。

正月三日間立てておいた「オンボサン」は翌日の四日には倒す。

倒したカシの木は家で一年間も保管しておく。

一年前のカシの木は枯れて、正月三日間の火焚きに使っていた。

「昔はもっと大きかったから三日間の火焚きはそれで充分やった」と云う竃の火焚きに再利用していたのである。

昨年に拝見した穴があった砂盛りの在り方は、僅かであるが、ようやく光が見えてきた。

ご主人の正月飾りはまだ続く。

前庭にあるお稲荷さんにもオン松・メン松を立てる。

手編みして作った小注連縄は玄関の他、農器具、トイレなどにも数多く掛ける。



調ったところで拝見したトシハジメの膳。

座敷の神さんの前に置かれているのはイタダキサンだ。

お正月の迎えた午前0時、若水を汲んできた家長は財産目録や通帳を膳に乗せて、アキの方角に向かい両手で頭の上に捧げて拝むトシハジメの膳である。

同家では暮れの28日に正月に供えるモチを作る。

翌日の29日は「苦」が付く日なのでモチはこしらえない。

七つのモチを並べた膳には長い髭のような根があるトコロイモやゴマメの田作りもある。

昔は雑魚を川で採って来てそれを炊いていたと話していたのは奥さんだ。

この時間帯は春覚寺で一切講のお念仏をしている。

ミカンは葉付きのコウジミカンが2個。

クリは3個である。

いつもニコニコ、仲睦まじくの語呂合わせの10個の串ガキも置いてある。



輪っかの注連縄で飾ったウラジロを添えた膳はイタダキサン、ダイジングウサン、ダイコクサン、エビスサン、サンポウコウジンサン、センゾサン、ミズコサン、イナリサンなど8品もある。

例年こうして作っておいた膳でトシハジメを祝う。

柱に掛けてあった「カケダイ」と呼ぶ干した2尾のタイ。



ダイコクサンとエビスサンに供える。

まさに恵比須さんが釣った鯛のようで、豊作始めとされる11日に食べる家があったが、同家では田植え始めと4月末頃の田植え仕舞いに食べるそうだ。

(H25.12.31 EOS40D撮影)
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無山九頭神社の朔日参り

2013年09月29日 08時24分18秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
6月ともなれば村の人がめいめいでこしらえたチマキを供えていた室生無山の九頭神社。

節句の習わしであったと思われる日は6月5日だった。

今はそれもしなくなったと話す氏子たちは1日に参るツイタチ参りは欠かせない。

ツイタチを充てる漢字は朔日であろう。

村の行事は負担がある。

何年か前に改正されてチマキを作って供えることもなくなったと話す。

挽いた米粉を水で練る。

蒸した米粉は笹の葉(カヤかも)に包む。

崩れないようにイグサ(藺草)で巻く。

5本ずつ作って2束。

合計で10本のチマキを供えた後に食べる。

そのままでは堅くて味気もないから蒸してからゴマシオで食べるのが一番美味いと口々に話す婦人たち。

かつては毛掛けのコモリに供えていた御供があった。

三角の形にしたご飯は、その形から「スズキ」と呼んでいた。

稲刈りを終えて刈りとった藁を積んでいる。

その姿は県内各地で「ススキ」若しくは「スズキ」と呼んでいた。

その形状から名付けられた「スズキ」のご飯であった。

いつしか「スズキ」は洗い米に小豆をぱらぱらと落とした朔日参りでの御供に替った。

かつては「スズキ」に「セキダモチ」もあったと話す婦人も居た。

朔日参りは朝8時半ころに集まって参籠所で歓談をしていた。

4月にはヨゴミ(ヨモギ)でヒシモチを搗いた。

形は二段で上には白い丸餅を置いていたという。

これも村の改正でしなくなったと話す。

隣村の上笠間では田植えを終えた残りのナエサンを広げてカシワモチの葉を置いた。

葉にはご飯を乗せてキナコを掛けていたという。

出里のことだから今ではしていないと思うと云う。

そのような農村の風習を聞いた参籠所には木製の手桶があった。

マツリの際に使われていたと想定される手桶は使っていない。

そこには木で作られた当番札がある。

昭和22年9月1日に作られた当番札には「献燈順番札」とある。

九頭神社の毎月朔日、15日は「さへ」の日。

この日の朔日参りもそうであった。

当番の札が回ってきた家は九頭神社に献火を灯す「サヘの献燈桶」である。

(H25. 6. 1 SB932SH撮影)
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室生無山サシナエの日

2013年09月26日 06時50分32秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
かつてはオソナエもあった。

田植えを終えれば村人が九頭神社に集まる行事である。

オソナエの形は細長いユキダルマのようなオニギリだったと話したのはN婦人である。

それを「ススキ」と呼んでいたような気がするがはっきりしない。

この日はサシナエの作業をしていた。

この年の5月1日、2日辺りは霜が降りて寒い日であった。

済ませていた田植えの苗は赤い色になって枯れた。

その部分が空いたのでサシナエをしていると云う。

正月初めの無山の行事がある。

牟山寺で行われる初祈祷のオコナイである。

7年間に取材した行事では本堂で鬼の的をめがけて矢を射った。

その矢と祈祷したヤナギの枝木を苗代に挿す。

そのような話を聞いていた7年前。

ご婦人に伺えば、そのようなことをしているのはただ一人だけではないだろうかと話す。

牟山寺から下った田んぼにあるだろうと云っていたが見当たらない。

あるにはあるが、数年前に挿したものであろう、それが朽ちていた。

田植え終いもしていないという婦人は三重県名張の夏見(なつみ)が出里。

青連寺川から名張川へと川名が替る地辺りの山里。

そこではナエサンを束にして、炊いたマメゴハンを入れたフキダワラとともにオクドサン(竃)に供えていたと云う。

今でもしているかどうかは判らないくらいの時代のことのようだ。

お嫁さんとともに作業をされていたサシナエの風景を撮り納めて、九頭神社にあがった。

参籠所では数人の村の人が集まっていた。

この日は毛掛けコモリ。

神事をするわけもなく、風呂敷包みを抱えて参拝する村には参籠所へ上がって毛掛け籠りの会食をする。

ホトトギスが囀るこの日は夏の訪れ。

「田植えも無事に終わって、秋には実りを待つだけ」と伝える区長の挨拶。

パック詰め料理を食べ時間を過ごす。

無山を離れて多田から小倉へのワインディングロードを走行中にクマゼミが鳴いた。

(H25. 5.26 EOS40D撮影)
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下笠間のおんぼさん

2013年04月20日 08時36分43秒 | 宇陀市(旧室生村)へ
甘くて美味しいカキモチをよばれた室生下笠間のⅠ家。

11日は耕作初めの日だそうだ。

出里の隣村である山添村の毛原でもそう呼ぶ。

下笠間ではする家は見当たらないが毛原で行われていた「なるかならんか」。

家のカキの木にアズキのおかいさんを供えた。

父親が「なるかならんかよ」と云うので出かけた。

カキの木にナタをあてるような格好で「なるかあー ならんかー」と声を掛けた。

それに対して婦人が「なります なります」と応える。

「大きな声で言えよ」と父親に云われてしていた「なるかならんか」は小学校にいく前の幼少の頃。

ずいぶんと前のことである。

カキの切り口にはアズキガユを供えていたと云う。

そんな記憶話をしてくれたⅠ家の前庭にあった砂盛りの痕跡。

中央には穴が開いている。

そこに立てたのは葉付きのカシの木。

男の人数分の砂盛りは「おんぼさん」と呼ぶ。

大晦日に立てる家の門松だそうだ。

各家庭によってはクリ、ホウソ、フクラキが用いられると云う。

(H25. 1.11 SB932SH撮影)
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