マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

つるまる饂飩針テラス店の冷製ぶっかけうどん

2015年02月28日 08時55分08秒 | 食事が主な周辺をお散歩
別所町で長居をしてしまった。

午後は山添村の菅生であるが昼どき。

中間地点にあるのは針テラス。

トイレ休憩も含めて、何度も立ち寄るありがたい場である。

駐車場は広く休日ともなればバイクツーリングで溢れている。

この日はやや少なめだった。

針テラスには食事処が数々あるが、いつも同じ店のつるまる饂飩店。

この日はどんよりしているが気温は30度を越していた。

暑い日にはもってこいのぶっかけうどんの冷たいのを注文する。

1月にも立ち寄ったつるまる饂飩。

前回に頼んだぶっかけうどんは280円だった。

4月の消費税アップによって290円になっていた。

少しずつ上昇している。

冷製であってもトッピングは生姜に天かす盛り。

味が濃くなると思ってそうしている。

つるつる喉越しが良いうどん麺。出汁の量は少ないが、美味いのである。

コシもいつも通りのぶっかけうどん。

価格は10円上がったが美味しさは変わらない。

満足して山添村に出かけた。

ところが残念なことに井戸替えは実施されていなかった。

墓地の清掃もされていないから、まだなのであろう。

(H26. 8. 3 SB932SH撮影)
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別所町の花咲かせ運動

2015年02月27日 08時56分07秒 | 奈良市(東部)へ
かつては七日に行われていた奈良市別所町の弘法大師の井戸替え。

七日盆の井戸替えはいつしか第一日曜に移った。

この日がそうだと認識して出かけた別所町。

集会所の前には人だかり。

軽トラには花を積んでいた。

寺や神社行事に度々伺っている別所町。

村の人に聞いた答えは前週に済ませたと云うのだ。

取材は来年に持ち越しだ。

で、この日の集まりはと聞けば、臨時の人足作業。

別所の墓の土手が崩れたことから人足が出動する。

修復作業を委託するには村の費用が要る。

村人のできる範囲であれば人足の作業。

たいがいはそうしていると云う。

別所の人たちは結束力をもって結集する。

この日はもう一つの作業もある。

村に彩りで紡ぐ花壇作りだ。

いっぱい買ってきたお花で村に潤いを広げるということである。

花壇はすでにある会所の前。

プランター花壇に花を植え替える。

それで終わり、ではなく辻ごと3カ所に花壇を設けるのである。

村に帰ってくるときも、客人が来るときも花があれば心が癒される。

村に潤いを与える花咲かせ運動の第一歩である。

人足に出費はないが、お花は買う。

村の出費は大きな金額。

補助金がでるわけでもない花壇の花植作業である。

土手崩れ修復作業の人足は12人。

花植作業は10人だ。

区長・副区長の挨拶とお願いを受けて、力仕事の修復作業は若手が向かった。

花植作業はどちらかと云えば年寄りと婦人たち。

力はそれほど要らないが、手間がかかる作業である。



決めていた辻の一つで始まった作業。

田起しをするように鍬を入れて雑草を掘り起こす。

土を均して整地した場に杭を打ち込む。

長さを測った側板をそこに嵌めこむ。



一方、会所前にあったプランターの植え替え。

Yさんが見立てた並びに買ったポット苗のお花を並べた。

背丈の高い植物に赤やピンク、黄色の花をつけたランタナ類の寄せ植え。

赤い花をつけていた小さなケトは掘り起こして家で再生利用すると云って除けた。

軽トラに積んだ土は山土。

大きい・小さいなど小石がふんだん含まれている。



プランターにポット苗が入る程度に穴を開けて植えていく。

土も入れる植え替え作業は揃って座り込んだ。

その間も次の辻へ向かう男性たち。

道路脇にと決めた場所の地面を掘り起こす。

アスファルトの路面近くだけに小石がごろごろでてくる。



堅い地面はツルハシの出番。

力がいるなと云いながら掘り起こす。

一方では測量した側板を作っている。

丁度の大きさに作った花壇がすっぽりはまるように作業を進める。

花壇作りは地面を均すことから始まる。

雑草を刈り取って均す。

木製の花壇を作る人。

雑草を刈り取る人。

地面を均して花壇を設置する人。

それらの作業が終われば花植え作業。

Yさんと婦人がそれを担う分担作業である。

こうした花壇作りをする合間に別所の景観に見惚れていた。



田んぼの稲はすくすく育って穂をつけだした。

来月半ばには収穫できるであろう。

集落民家をバックに撮っておいた。



少し歩けば角にヤマユリが咲いていた。

近くに寄れば香ってくる甘い香り。

稲の葉の香りもいいが、やはりヤマユリでしょという「・・♪匂いやさしい白百合の♪・・」の唄声が聞こえてきそうだ。

ここも集落民家をバックに撮っておいた。



赤いノアザミや黄色い花も咲いている長閑な別所の田園に癒される。

黄色い花はキク科のルドベキア。



咲いている場から考えれば、植えたルドベキアの零れ種によって野性化したものと思われる。



違う種類のルドベキアも咲いていた。

花壇作りをしていた辻にも民家が建つ。



石垣で組んだ上に建つ白い土壁で囲んだ民家の姿が美しい。



外庭にはアクセントになるヤマユリが咲いている。

正面からも斜めからも、どこから見ても美しい民家の前に壕がある。



黒い鯉が泳ぐ壕にはアオサギが飛んできて食べてしまっては困るからと鳥除けのピアノ線を引いている。



民家の前の田んぼ傍にはアゼマメを植えてあった。

近年はあまり見かけなくなったアゼマメ栽培である。

別所では六所神社の宵宮祭の際に供えるエダマメがある。

神事を終えた座中は当家が配るエダマメをいただく。

これがそうかも知れない。

マツリにエダマメを食する地域は少なくない。山添村切幡では「マメタバリ」という呼び名もあるぐらいだ。

しばらく歩いてみた別所の集落。

点々と建っているが、それほど遠くない。



コスモスの花が咲いていた民家の前には赤い郵便ポストがある。

どことなく風情を感じる山里の景観である。



もう少し下れば郷愁を誘う萱葺き家があった。



屋根は寄せ棟の萱葺き。

別所にはもう一軒の萱葺き民家がある。

度々伺う二老さんの住まいだ。



この映像は平成24年4月21日に撮らせてもらった。

こうした萱葺き民家は隣村の杣ノ川や水間にもあるらしい。

集落民家の散策は心地いい。



午前中は雨も降らずの曇天。

ピーカン照りであれば汗も吹き出すであろう。

散策している間も花壇作りは進んでいる。

木製の花壇を設えて山土を入れる。

スコップで降ろしていたが、面倒だと云って積んでいた軽トラを動かした。

レバーを動かしてダンプを作動する。



一挙に滑り落ちる山土。

レバー操作の程度が難しい。



山土を入れたら買ってきた培養土も入れる。

土をまぜこぜして固まらないようにする。



土が入れば花植え作業。

赤い花が咲く背の高い食物は後ろ。

手前はそれより低い色とりどりの花を植える。



こうしている間も男性たちは移動して辻の花壇に山土、培養土を入れていく。

土入れが終わればそこへ移動する花植えたち。

一挙にできるのは土入れだが、花植えはそうはいかない。

花を植えて水やり。

たっぷりとジョウロの水を注いでいく。

辻の花壇の道路には土が被っており雑草が生えていた。

それも奇麗にしようと動きだす。



力尽いた長老は花植え作業を見ながら一休み。

後方にも民家が建っている。



奇麗に並んだ赤花にピンク色の花が美しいランタナ。

黄色いランタナは数週間後には花を咲かせるであろう。

ひと息いれた長老も花植えをする。

残りは六所神社に向かう角地。

疲れた身体を癒す時間もとれずの作業はもうひと踏ん張り。



アジサイ花は枯れどきだったが新しい花で明るくしてくれる。



花壇手前には大き目の土管を寄せた。

土管には底がない。

土を入れる迄に位置づける。



孫を連れて散歩していた長老。

今回の役目は担っていない。

作業を見届けて腰をさすりながら去っていく姿が愛おしい。

花植えだけでも4時間ぶっ通しの作業だった。

墓の土手改修の人たちは午後もかかると云う。

雨が降らなければいいのだが・・・。

そう云えば作業中に村人が話したこと。

植えた花は黄色いランタナ以外は一年草。

枯れてしまえばどうするのか。

水やりもいるし、維持管理は決めてなかったと云う。

(H26. 8. 3 EOS40D撮影)
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加守の旧暦七月七日の七夕飾り

2015年02月26日 08時47分51秒 | 葛城市へ
葛城市當麻加守に鎮座する倭文(しとり)神社<葛木倭文坐天羽雷命神社>は機織りの姫を祀る。

隣村の染野は機を織っていた。

ここら辺りは機織り古宮の里。

毎年旧暦の七月七日に祭礼される「神衣祭(かみこさい)」は七夕の祭りでもある。

14時ころに子どもたちがやってきて、ヤマモモの木に笹竹を取り付けていく。

お参りに来てくれた子どもにはお菓子を配る。

その間、宮司はたった一人で神事を執り行われると聞いていた。

平成21年7月31日のことだった。

話してくれたのは蟹守男志人宮司だった。

話しを聞いてから5年も経過していた。

台風12号は大きくそれたものの九州・四国は大雨。

近畿地方も昨夜から降り出した雨は止まずであったこの日に訪れた加守の地。

実に5年ぶりである。

この日に訪ねた倭文神社境内。

水平に横たえた長い葉付きの笹竹があったが、どなたも現れない。

なんとなく妙だと思って神社社務所の呼び鈴を押せば、若い男性が出てこられた。

先代の蟹守男志人宮司はこの年の2月に亡くなったと云うのだ。

神衣祭の呼び名・神事を引き継ぐこともなく旅だったと息子さんの蟹守敬之宮司は話す。

この日は村の子供たちが七夕の願いを込めた短冊や飾りものを笹竹に括りつけると云う。

水平に横たえていたのは子供らが短冊を括りつけやすいようにしたと云う。

この日は雨がしとしと降っていた。

しとしとの「小雨なので実施されると思います」と云われて1時間ほど待った。

母親とともにやってきた子供たちは8人。

倭文神社の氏子圏は広く、加守の他、畑、磯壁、狐井、良福堂、北角、別所、瓦口の九カ村だが子供は数人。

350戸からなる加守の村の子供は倍ほどおられるようだが「来るのはこれぐらいや」と云う。

小学6年生の男の子は春祭りの御田祭で子供牛の役をしていたと云う。

加守のおんだ牛は親牛が二人で誕生する子牛も二人。

いずれも当麻小学校の6年生が担っているそうだが、不足する場合は5年・4年生に下ろす場合もあると云う。

子供たちがやってくるころには、神社総代・役員に区長らが集まってくる。



そろそろ始めよかと云いだして短冊を取り付けていく。



傘が必要なこの日の被写体は撮りにくい。



役員らも童心に戻って短冊を括りつけていく。



予め子供会が準備しておいた短冊をひととおり括りつければ、ロープを引っぱって笹竹を立てる。



立ててみれば立派な七夕飾りである。



役員たちから「記念に撮ってや」と願われてシャッターを押す。

七夕の日に七夕飾りをしているのは大多数が保育園、幼稚園や公民館イベント。

七夕の飾り付けをしている村行事は聞くこともないくらいだ。

隣村の太田の棚機神社では公民館に立てられた子供会の七夕飾りを貰ってきて飾っている。

最近では葛城市のマスコットキャラクターが来るようになってイベント化しつつある。

加守の行事を拝見して、どことなくほのぼのとした。

奈良県図書情報館所蔵の『明治25年 古社祭典調』によれば「一、神衣祭六月十六日俗ニ七夕祭ト称ス庶人賽物ニ竹葉ニ五色ノ絹木綿紙切等ヲ垂レ神前ニ献備ス本殿式ニハ青筋ノ布麻等ヲ献供ス舊例アリ開起年代不詳」とある。

生前に先代の蟹守男志人宮司が話していた神衣祭のことであるが、いつしか七夕飾りになったのでは・・と思った。

(H26. 8. 2 EOS40D撮影)
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三谷の花つみ参拝

2015年02月25日 07時17分47秒 | 桜井市へ
瀧倉の華参りの在り方を拝見して三谷に向かった。

1日から15日まで毎日当番の人がシキビを供えるって聞いていた。

『桜井市文化叢書 民俗編』によれば、2週間に亘ってシキビの葉を供える三谷の風習を「花つみまつり」と書いていた。

氏神さんの菅原神社に四本の竹を立てて簾の台を設える。

スダレ台は今では構造物になったが、台部分は簾のような形である。

一日、三回もシキビを仕替える。

『桜井市史 民俗編』では、葛つみ(花つみ)講による行事であったようだ。

8月1日から14日までの毎日。

文化叢書と同様に一日三回もシキビを取り替えていた。

3回目の晩は燈明に火を灯して拝んでいた。

葛つみ講には大字の人の名を記した「花つみ札」があった。

参拝すれば、そのお札を納める箱に入れた。

14日の参拝を終えた人は札箱ごと家に持ち帰って保管する。

翌年に回された隣家が1日に参るということである。

1日から始められると知ったのは平成24年7月28日だった。

その日は「お庭造り」と称して境内を清掃するなどお盆に入る前に村の所用な場を整えておく日だった。

清掃を終えるころに前述したシキビ台を調えていた。

台の呼び名は「ハナツミ」である。

午後を過ぎた時間帯の三谷。

昨年と同様に花つみ台を設えていた。

台の下の籠には葉付きシキビが数本納めてあった。

花つみ台の上には枝付きシキビが17本。

葉の枚数はおよそ90枚だった。

毎日を一日交替で毎朝、毎晩に当番の人がシキビの葉を並べると話していた昨年。

縦に9枚、横に9枚を並べて合計81枚のシキビの葉であるが、どうも枚数が違うように思えて仕方がない。

(H26. 8. 1 EOS40D撮影)
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瀧倉の華参り

2015年02月24日 08時20分07秒 | 桜井市へ
8月1日から始まる瀧倉の華参り。

一老は1日、二老は2日・・・・五老は5日、六老は6日に毎日交替する瀧ノ蔵神社のお勤めである。

7日はお礼参りだと云って一老が勤めている。

10年ぐらい前までは7日以降の毎日を勤めていたのは下の六人衆であった。

七老は7日、八老は8日・・・・・十老は11日、十一老が11日、十二老は12日。

それぞれ6人が毎日交替していたが、若い衆でもある下六人衆の仕事はサラリーマン。

平日に当たることが多く、どうしても仕事を休むことはできない身。

毎日を勤めることは無理があると意見がでて廃止したそうだ。

そういうことがあってお礼参りの7日で終えるようになったと云う一老は〆の役目だ。

華参りは朝6時と昼ごろ。

神さんにサカキを奉ってローソクを灯す。

そして、太鼓を打って般若心経を唱えるのである。

この日参られた一老は太鼓をドン、ドン、ドンと三回打ち。

これを12回打ち続けると云う。

昨年に話してくれた二老の話しによれば、瀧倉ではこれを「華まいり」或いは時を告げる「華の番」と呼ぶそうだ。

「昔、昔のことだ。長谷寺でしていることを瀧倉でもせよ」と云われて続けてきた行事だと話していた。

本来は陀羅尼経を唱えるのであるが、簡単にということで明治時代からは般若心経になったと云っていた。

13日はオショウライサン迎えだ。

おそらく盆が始まる日・時を告げる役目だったのでは・・・と思ったのである。

この日は朝6時に来て太鼓を打って一旦は家に戻っていたと話す一老。

昼前にやってきてツイタチゴハンに般若心経を唱えていた。

それからしばらくして12時ころにご飯を食べて、昼寝をする。

これをお籠りと云う。

起きて太鼓を打つ。

一人でするから般若心経は太鼓打ちを終えてからだと云うのだ。

ツイタチゴハンをされた四老の奥さんが帰るころには一老の奥さんがお籠りに食べる風呂敷に包んだご飯を持ってきた。

奥さんは嫁入りしたときからの毎朝。

欠かさず米・塩・水を供えていると云う。

雪の日や大雨の日ではお参りはしない。

「日課ですが、無理をせん程度にしています」と話すのが奥さん。

ついこの前に股関節の手術をして退院したばかりの身体である。

足をあげるのも苦痛であるが、リハビリを兼ねて杖をついてやってきた。

それは「おかちゃんの意思で参ってるんや」と云ったのは旦那の一老だ。

85歳の一老の朔日参りも欠かせないが、奥さんの毎日の参り方には頭が下がるのである。

おもむろに太鼓を打ちだした一老。

ドン、ドン、ドンと三回打つ。

これを繰り返すこと12回打ち続ける。

後ろの席についたのはおかちゃんだ。

一老も何年か前に腰に鉄板を入れる大手術をした。

歩くのも困難な身であるが、おかちゃん同様に杖をついてやってきたのだ。



おかちゃんは持ってきたご飯を供えた。

オニギリ、玉子焼き、焼いた魚肉ソーセージにギョウザ。

生姜の塩漬物も盛っている、あり合わせの家の食事だと云う。

摘みたてのトマトも供えてローソクを灯す。



そうして般若心経を三巻唱える。

何度も来ている瀧倉であるが、おかちゃんも一緒になって唱える一老の姿は初めて見た。

夫婦が揃って拝殿でよばれる昼籠りの食事。



おかちゃんが優しい眼差しで見つめていた。

ところで、二老の作法は夕暮れにもしていると話していたので、それぞれの老中によって異なるかもしれない。

お礼参りと云って7日にも参られる一老は〆の太鼓を打って般若心経を唱える。

奉ったサカキは6日間で12本。

華参りを済ませたときにはすべてのサカキを捨てると話していた。

(H26. 8. 1 EOS40D撮影)
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瀧倉のツイタチゴハン

2015年02月23日 07時19分40秒 | 桜井市へ
8月1日から7日までの毎日は、瀧ノ蔵神社に参って太鼓打ち・般若心経を唱えていると二老さんが話していた。

どのような形でされているのか様相を拝見したく訪問した。

集落に入ったところの作業場にいた四老さん。

畑で栽培したキュウリを箱に詰めていた。

二老から聞いていた話しを伝えたら、「今日は初日で一老さんが行っているはずや」と云う。

「うちの奥さんはアカゴハンを持っていってツイタチゴハン(朔日ご飯)をしている」と云うので先を急いだ。

神社拝殿に一老さんと四老さんの奥さんがおられた。

アカゴハンを供えて参るのは決まった順で廻っている当番家。

この日は四老家であったのだ。

毎月1日はツイタチゴハン。

11時にアカゴハンを供えて、「一老さんに般若心経を唱えてもらっていた」と云う。

一升枡いっぱいに盛ったアカゴハンはセキハンとも呼んでいるようだ。

桜井市瀧倉はムラで生まれた長男の家が宮座を営んでいた。

宮座は諸役とも呼ばれる十二人衆が勤めていた。

年長順に一老から六老までは上六人衆、以下を下六人衆と呼ぶ。

さらに下六人衆を寺僧(じそう)とも云うようだ。

また、寺僧のなかから宮さんの使い役として就く行司(ぎょうじ)もいた。

かつてはトーヤ(頭屋)受けをしたジソウ(寺僧)とも呼ばれるトーニン(頭人)が一杯のアカゴハンを供えていたと話す。

また、もう一人のトーニン(頭人)はお神酒を供えていた。

それぞれをゴハントーニン、オミキトーニンと呼んでいた。

その場にはギョウジと呼ばれる六人衆の小遣い役が就いていたと話す一老さん。

お神酒を供えていたトーニンやギョウジ制度を止めてゴハン当番だけになったと云うのだ。

ゴハン当番のトーニンはジソウとも云うから、前述した「寺僧」の呼称もある下六人衆だ。



先に帰ると云われて風呂敷に包んで持ち帰る一升枡盛りのアカゴハン。

一升枡は忘れないように次の当番家に引き継いでおく。

引き継ぎを失念していた家があったこともあった。

そのときは大慌てで洗い米とアズキを盛って供えたと話す。

(H26. 8. 1 EOS40D撮影)
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筒井町うなぎの大門

2015年02月22日 09時22分25秒 | 食事が主な周辺をお散歩
夏の土用の丑の日はうなぎを食する。

暑い時期に疲れた身体を吹き飛ばす鰻喰い。

栄養価の高い鰻を食べる習慣は万葉集にも詠まれているらしい。

この年は7月29日だった。

曽爾村からの帰り道。

いつもの火曜日はイオン大和郡山店でタマゴの購入。

朝9時、午後2時、5時に販売される特価のタマゴ売りだ。

魚介売り場はごった返していた。

何かと云えば鰻である。

パック詰めされた鰻を求めて大勢の買い物客で溢れている。

鰻はほとんどが中国産、であろう。

国産であれば数倍もする売り値。

平日販売価格よりもこの日は高値だ。

中国産が台頭するようになってからは買ったことがない。

この日も買う気は起こらない。

帰宅して「鰻が食べたい」とかーさんが言った。

何年も食べていないから食べたくなったということだ。

久しぶりにでかけてみるかと向かった先は大和郡山市筒井町にある「うなぎの大門」。

前回に入店したのは平成23年4月だった。

この日は私の退職祝いの送別会の食事だった。

頼んだのはうな重定食の上(当時1600円)だった。

家族で出かけた日はそれよりもっと前の平成22年6月だった。

実に4年ぶりの鰻喰い。

息子も誘って暖簾を潜った。

昼どきの席が満員になっていた大門。

送迎中に度々お会いする店主のTさんは覚えているだろうか。

ラボ・パーテイを運営している奥さんは顔馴染み。

勤めていた市の施設を毎週利用してくださっていた。

ついてきた娘さん、息子さんも大きくなっただろう。

数年も経っているから成人になっている年代だと思う。

待っている間も来客がある。

しばらくして案内された席は畳みの席。

10人は入れると思われる広い場はたったの3人。

申しわけないと思うのだ。

注文は決めていた。

送迎中に拝見するお店にはうなぎ丼にきつねうどん若しくはざるそばがセットになった格安メニューは900円。

らーめんであれば1100円だが、売り切れだった。

何か月前に見た貼り紙は1000円だったと記憶する。

値が上がったようだ。

注文してから何分間待つ鰻焼きは時間がかかる。

ミニ鰻丼にうどんがついたセットメニューを頼んだ息子。

鰻はまだでうどんセットだけが配膳された。

セットにはシソ青葉に乗せた玉子焼き、煮もののカボチャに白菜の漬物がついていた。

うどんはきつね。

大きなアゲが入っている。

麺は美味いかと聞けばノーマルと云う。

細麺は一般的なスーパーで売っているような感じだ。

味は特別でもなく、これもまたノーマルと返す。



しばらくして1600円のうな重並がやってきた。

4年前は上が1600円。

並がいくらだったが覚えてないが、今では上が2600円。

格段に上昇していた。

これを鰻登りといったかどうか定かでない。



私が頼んだざるそばがセットのミニ鰻丼。

丼はミニではなく鰻が三つ乗ったミニである。

うな重とえらい違いである。

うな重とミニ丼の鰻に違いがあるのか、ないのか。

替えことしょと云ってひと切れ交換したが、味は同じだ。

皮がパリパリでじゅわと感じる鰻の味は替りなく、量が大きく異なるだけだ。

ざるそばのそばはどないみても市販品だが、氷水に浸したのかコシがある。

出汁はややカラ目の味。

カツオでもなく、昆布でもない味。シイタケ味でもない出汁だが、なぜだかそばが美味いのである。

ツルツル食感が食欲をそそって完食した。

食事後に立ち寄ったスーパートライアルの魚屋さんに鰻のパックがあった。

いずれも中国産で千円未満だが買うことはない。

とんでもない某国の仕事ぶりをニュースで報道された映像を見て「誰が買うんや」と思わずテレビに向かって突っ込んだ。

(H26. 7.31 SB932SH撮影)
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サッポロ一番塩カルビ味焼きそば

2015年02月21日 08時54分55秒 | あれこれインスタント
久しぶりにカップ麺を持ちこんで車中食。

曽爾村小長尾のセンゲンサンを聞きとってほっとする。

時間は丁度の昼どき。

木陰がある場に車を停車させて早速作業に移る。

作業といっても持ってきたポットのお湯をカップに注ぐだけだ。

3分間待ってお湯捨て。

麺は白っぽい。

そこへ粉末のソースを落として麺にからめる。

ソースには黒胡椒なども入っているが細かいので見えないし、色もない。

絡めた様子がさっぱり判らない。



添えつけのオイルを落としてまたもやからめる。

これもまた色がない。

色はなくともしっかりとした味がついている。

麺はもちもちでコシがある。

絡めたソースが混ぜってなかったのか、味を感じないときもある。

レモン味があると云うがそれほどでもない。

旨みがある牛肉も入っているが、これもまた舌が感じないが、キャベツはシャキシャキ感があって、なぜかもちもち麺に合うのである。

(H26. 7.29 SB932SH撮影)
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小長尾のセンゲンサンを訪ねて

2015年02月20日 07時20分01秒 | 曽爾村へ
奈良県内における富士講および浅間講を調査している。

これまで奈良市柳生町柳生下町および奈良市都祁上深川に水行、或いは水垢離と呼ぶ作法を拝見してきた。

つい最近は、奈良市阪原の富士講の作法を調査してきたばかりだ。

柳生は富士講と呼ばずに、あくまで十二人衆が行う土用垢離と呼んでいるが、上深川は富士講が行う富士垢離である。

かつては奈良市都祁小倉町にも富士垢離があったようだと聞くが、いつのころか講は廃れて、八柱神社の石段の下に浅間さんの石碑が残っているだけになった。

富士講或いは浅間講の石碑は山添村広瀬・吉田・勝原や天理市長柄など県内各地にその存在を現認してきた。

この年の7月8日に取材した古市町の仙軒講も講のひとつとしてあげられるが、水行は行われていない。富士講碑でなく、浅間神社を奉る地域もある。

末社に浅間神社がある在所は奈良市鹿野園町・八阪神社、三郷町薬隆寺・八幡神社などが知られる。

ひとつ気になっていた地域がある。曽爾村の小長尾である。

平成21年11月に天神社で行われた例祭収穫祭を取材したときである。

小長尾では毎月の25日に月参り御膳を供えられる。

弥勒さん、山の神、辻の神さん、せんげんさんに秋葉さんなど10カ所に月当番組が供えるのだ。

その一つであるセンゲンサンこと浅間神社は青連寺川を渡った対岸の山の頂上に鎮座すると氏子長老のYさんが話していた。

小長尾にはかつて浅間講があった。

40年も前のことだ。

土用の一週間、長蓮寺に籠もっておしょうじ(精進)会式をしていた。

魚や肉は一切口にしない精進である。

曽爾川とも呼ぶ青連寺川に行って水垢離の行をしていた。

現在は日を決めて村役員が向かいの山に登って般若心経を唱えている。

せんげんさんは大日如来を祀るから心経を唱えるのだというYさんは、先代の親父さんから神主役を引き継いで20年間勤める村神主。当時は84歳だった。

今でも元気に山へ登ってセンゲンサンをされているのかどうか気になりだした。

そう思って、4年ぶりに訪れた小長尾である。

この日は土用入り後の丑の日。

鰻喰いたしの買い物客で鮮魚売り場はごった返す。

もしかとすればこの日であろうと思って出かけたのである。

Yさんの家を探してみるが久しぶりの小長尾は思い出せない。

寛文四年(1664)に勧請した棟札が残される天神社すら場所が判らなくなっていた。

坂道を降りたり上ったり彷徨う道すがら人影が目に入ったので訪ねてみたⅠ家にセンゲンサンの件でやってきたことを伝えた。

それなら数日前の24日に行ったと云う。

夕方近い時間帯に宮さん関係者が参ったそうで、Ⅰさんも宮総代の一人だった。

センゲンサンに参った地はここより丁度南側にある山の頂上。



曽爾トンネルが貫通している山の頂だ。

手前にある山で三角のようになっている山だと云う。

ここら辺りの標高は460m。

奈良盆地平坦の気温は32.6度にも達していたが、小長尾は涼しい風が通り抜ける。

汗もかかない小長尾でも数日前は暑かったと云う。

その日は25、26日。

平坦での気温は37度近くにもなっていた。

センゲンサンに参った日は24日。

平坦では34度だった。

Ⅰさんは腰痛だったが、汗をかきながら登ったと云う。

センゲンサンの正式名称は浅間講。

かつては長蓮寺で籠りをしていた。

白装束に着替えて青連寺川(小長尾では曽爾川)で水垢離をしていたそうだ。

それから浅間神社を目指して山を登る。

時間にしてみればおよそ15分だが、急坂道。腰痛の身では堪えたと云う。

浅間神社には桜の木があるそうだ。

大日如来も祀る山の頂き。

そこで般若心経を唱えていたと云う。

今年も4年前に話してくださったYさんが登ったと云う。

90歳になったYさんはいたって元気でほいほいと登ったらしい。

住まいはと聞けば長蓮寺下の家だと云う。

訪ねた家にYさんがおられた。

4年前に拝見したときと同じの黒光りのお顔。

元気な姿をみせてくれる。

今年はネンギョ(年行)と呼ばれる年番さんとともに出かけた。

宮さん関係者の10人が登る一時間前に到着して神社周りを清掃していたそうだ。

ヤカタがある石碑にお神酒や御膳を供えて祭典をしていた。

般若心経は七巻。

いつもYさんが導師となって唱える。

Yさんも話したかつてのセンゲンサン。

長蓮寺に籠って「行」をしていた。

昼ごろになれば白い着物に着替えて川に向かって歩いた。

川に浸かって般若心経を唱えていた。

今では無住寺となった長蓮寺は江戸時代後期の創建で融通念仏宗派。

Yさんの時代だったそうだ。

小長尾には氏神さんを祀る天神社がある。

今年は造営の年になる。

本殿は大工棟梁の作業場に移して宮造りをしているそうだ。

造営には槌打ちの儀式がある。

槌を打つのは法被姿の村の子供たち。

Yさんの孫たちも儀式に出仕され槌を打つという。

9人も孫が参加するというから外孫も入っているのだろう。

槌打ちは男の子だけでなく女の子も参加する。

0歳児は親が抱っこして参加する。

上は15歳までと決まっている子供が槌を打つ造営はこれまで取材した地域には見られない様相である。

スケジュールオンしたのは云うまでもない。

ここら辺りの景観はとても美しい。



ここでも咲いていた黄色い花のルドベキア。

今年は行き先々で拝見する。

向こう側に見えるのが長蓮寺だ。

シカ除けのネットを張っている稲田。

稲穂が膨れるにはもう少しの期間が要るであろう。

手前に咲いていた紫の花。

細い葉だけに軸一本で立っているように見える花の名は知らない。

ノコンギク、いや違う。

カノコソウに似ているが葉付きがまったく違う・・・ヒヨドリソウ・・・それも違う。

背丈からマツムシソウと思ったか花付きが違う。

花図鑑を坊主めくりしても見つからない夏の花。

田んぼ傍にあったので園芸種なのか。



後日に判ったヤナギハナガサ。

盆の時期によく見かける花である。

四角い茎はザラザラ、細葉はギザギザの対性で判るそうだ。



辺りを見渡せばヤマユリが盛んに花を広げていた。

自然に生えていると思われるヤマユリは、大神宮の石塔場にも咲いていた。

「手入れはしてないのに勝手に広がっているんや」と云うヤマユリは花の大きさが日本最大級。



ササユリには見られない点々とした赤い斑点が特徴。

カサブランカは1970年代に日本原産のヤマユリ・カノコユリ・ササユリを原種にオランダで交配・作出されたそうだ。

そこへ軽トラでやってきた住民は83歳のⅠさん。

先祖さんは漢方医で、村の役員を勤めたこともある。

ご主人は乗ってきた軽トラを走らせて南紀まで出かけることもあると云う。

乗り慣れている軽トラであれば腰に負担もかけないと云って、つい先日も遠出をしたそうだ。

Ⅰさんの話によれば8月半ばは長蓮寺で施餓鬼が行われると云う。

同村の塩井の住職が法要されると云う。

長蓮寺は融通念仏宗派。

かつては11月ころに大阪平野大念仏が来村される大和ご回在があった。

今ではそういう行事もなくなったが、弾けるザクロの実が懐かしいと話していた。

長話に盛りあがる小長尾。

訪ねる家は元区長家のOさん。ぐるりと廻って家に辿りついた。

やっとのこさ思い出したのである。

訪ねてみれば作業場で奥さん、息子さんとともに野菜の袋詰めをされていた。

今年の11月23日は20年に一度の造営事業を行う。

この年はネンギョ(年行)にあたる同家。

前日の22日は朝から集落下の作業場でゴクツキをする。

ゴクツキと云っても器械で搗く。

半々の分量にしたコメコにモチコでゴクを搗く。

それをネコモチのような棒モチにこねて伸ばす。

少し堅くなったところでモチを輪切りにする。

モチと云ってもコメコ、モチコであるから、いわゆるダンゴである。

ちなみに隣村の長野はダンゴでなく、カサモチや十円玉を入れたモチを撒くそうだ。

(H26. 7.29 EOS40D撮影)
(H26. 7.29 SB932SH撮影)
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阪原の富士講午後の部

2015年02月19日 09時08分20秒 | 奈良市(東部)へ
もくもくと白い雲が山の稜線から顔をみせてきた。

そのまま成長するのかと思っていたが、すっと消えた。

入道雲になりそこねたのか、それとも幻影だったのか。

夏の景観の入道雲を捉えたくて期待してはいるもののなかなか遭遇しない。

午前中は岩陰で肉彫りが見えにくかった北出来迎阿弥陀磨崖仏。



午後はうってかわって彫り込まれた石仏に陽があたっていた。

午後の部は16時ころから行われた阪原の富士講。

昼寝を済ませて一旦帰宅した講中は再び公民館に参集していた。

帰宅した際は普段着姿だったが水行は白装束。

公民館で着替えて斎場に向かう。



午前の部と同じように忌竹の廻りを囲ってご真言を5回唱える。

3度目の水行の撮影位置は講中のほぼ背中から。

ここはついさっきまでマムシがいた場所である。

マムシは小さなトノサマガエルを飲み込んでいた。

脚がマムシの口からはみ出していた。

満腹であっても危険なマムシに近寄ることは避けたい。



午前と同じように川に浸かって「ひー、ふー、みー、よー、いーっ、むー、なな、やっー」と声を掛けながら川水を川面に飛ばす人もおれば、水辺際にある岩に乗ってかける人もいる。

午前中とは違う位置で水行作法である。

水行を終えた講中の一人。

川から上がって岩に登ろうとした際に滑って体勢を崩された。

身体ごと川にドブンである。

雪駄は底面が滑りやすく「こういうことになりますんや」ということだが、決定的写真は・・・ない。

川面にはハグロトンボが飛び交っていた。

生息はわりあい多いようだ。



こうして3度目の水行を終えた講中はこれで終わることなく、柄杓にいっぱいの川水を汲んで長尾神社に向かっていく。

数年前までの水行。

終えたときには草鞋の鼻緒を切って川に流したそうだ。

午後の部に参集された講中は6人。

一人は役所の仕事の関係もあってやむなく断念された。



先頭を歩いていく講中は唯一草鞋を履いていた。

長尾神社へ向かう道は村の里道。

急坂な里道を歩く。

この日の最高気温は36.8度。

立っているだけでも汗が流れ落ちる日である。



そこより数百メートル先にあった井戸。

この場所がかつて水を汲んでいたといいます谷脇だそうだ。

「高台であるのになんで井戸に水が湧くのが不思議だ」と云う。



水行場より250メートルも歩けば長尾神社に辿りつくのだが、急坂な道ではけっこうな体力を要する。



長尾神社の鳥居を潜って本殿に向かっていく。

本殿は春日大社の本殿を遷した社殿になるそうだ。



着いた順に柄杓の水を少し垂らして手を合わせる。

八幡社、愛宕社、天照皇大神宮社、御霊社、戸隠社、厳島社、五穀社、白山比社、金刀比羅社、稲荷社、愛宕石塔、八王子社、天照皇太宮石塔、恵比須社などそれぞれの神さんにも水を垂らして参る。



こうした行為は柳生にも上深川にも見られない阪原特有の在り方である。

それにしても柄杓に入る水量はそれほど多くない。

しかも歩いている途中で少しずつ減っていくと云う。

零したのではなく、竹筒柄杓の隙間から抜けていくのだと云うのだが、それぞれの神さんに分けるぐらいの量が残っているのは、なんらかの技があるのでは、と思った。

氏神さんに参ったあとは公民館に戻ってくる。

講中の作法は神社参拝で終わることなく、川で掬っておいた水を持参したボトルに入れていくのだ。



講中は群がるような感じで水器に集まる。

講中が持参したポットとかボトルに柄杓で掬って入れ合う。

この時点の水は普通の川の水。



富士山の掛軸を掛けた斎壇に供え、ご真言を5回唱える。

こうして川の水は「ご神水」に転じたのである。



ありがたいご神水は家に持ち帰り、おかいさん(粥)を炊いて美味しく食べると云って解散した。

これもまた、阪原特有の在り方である。

しばらく歓談してこの日の水行を終えた講中は講箱等を次の当番の人に引き継がれる。

特に儀式もなく、この日のことを講帳に記載して引き継ぐそうだ。

(H26. 7.26 EOS40D撮影)
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