マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

庵治町・出垣内/茶垣内のゴウシンサン

2018年09月04日 10時02分51秒 | 天理市へ
Kさんが独り参拝をしていた天理市庵治町・旧木之本のゴウシンサン。

御供の状態を見届けてすぐ近くになる出垣内に向かう。

前年の平成28年7月16日に立ち寄ってみたものの、行事はとうに終えていたようで、設営も砂盛りもすっかり消えていた。

たぶんに午後6時であろうと思って出かけた出垣内。

何人かの人たちが集まっていた。

伺えばもうすぐ始めるという。



二人の代表にお願いした急な取材であるが、昨年の顛末を伝えたら、よう来てくださったと受けてくれる。

ありがたく受けてくださった代表は年当番のMさんとNさん。

Mさんは四国が出身。

50年前にイリクをしたという。

この日は氏神さんを祭る菅原神社の氏子役員の総会があるから、いつもより早めてもらったという。

ちなみに庵治町に神社が三社も鎮座する。

春日地区は春日神社。

北垣内、南垣内の旧木之本地区は伊勢降神社。

ここ出垣内に茶垣内は菅原神社が氏神さんであった。

集まった人たちは出垣内(14軒)に茶垣内(11軒)の氏子たち。

祓の詞を奏上するにわか神主役を務める当番が主となってゴウシンサン行事が行われる。

出垣内の地に建つ大神宮石塔は「太神宮」。

「天保四乙未(1833)十一月」の年代記銘の刻印があった。

太神宮の前に設えた提灯立ては屋根付き。

いわゆる高張提灯に「太神宮」の文字をあしらった提灯を吊るした。

その前にも提灯を吊るすが、これらは家の提灯。

それぞれ固有の家紋がある提灯である。

白いのは近年に新調しなおしたものであろう。

渋い色調の提灯は古い提灯。

たかだか40年前に新調した提灯でも、ここら辺りでは新しい方、もっと古いのは飴色になるという。



火を灯すのも当番の男性。

一つずつ口を広げてローソクに火を点けていく。

ゴウシンサン行事に捧げるサカキ。



お神酒に塩、米を供えて、まずは2礼2拍手1礼。

壁際に並んだご婦人たちも合わせて2礼2拍手1礼。

次が石上神宮の神職に書いてもらったという祓の詞を広げて奏上する。

その場合は座って奏上される。



みなも揃って手にした祓の詞を奏上する。

「かけまくも かしこき はらいどの おおがみたち ・・・」など、わかりやくすく、読みにふりがなを書いてあった。

どことなく愛おしさを感じた神事に心が温まる。

このような在り方は珍しいのではないだろうか。

これまで県内各地のさまざまな行事を取材してきたが、初見の在り方に感動した。

ちなみに菅原神社にも行事を務める五人衆制度があるようだ。

隣垣内の伊勢降神社にも五人衆組織があると聞いているから一度拝見してみたいと思った。



神事を終えたら御供のお菓子などを配る。



子どもたちが歓ぶお菓子を手にして戻っていった太神宮に塩と米を盛った。

ちなみにお神酒は清めに辺りに撒いていた。

(H29. 7.16 EOS40D撮影)
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庵治町・旧木之本のゴウシンサン御供

2018年09月02日 09時06分12秒 | 天理市へ
先月の6月18日にも訪れていた天理市の庵治町。

上街道沿いに建つ旧木之本にゴウシンサン行事があった。

ゴウシンサンにお供えをしていたのは太神宮ではなく八王子社であった。

ずっと昔から、そうしていると話していた太神宮は北垣内に建っている。

6月18日に訪れた際に表敬訪問したKさんが話していたゴウシンサン行事。

実は平成28年が最後になって、今年はもうすることはないと話していた。

ただ、それでは寂しいだろうから、お供えだけはしたいと云っていたので、その状態を拝見したく立ち寄った。

お洗米に塩。マッカ瓜に黄マッカ。

長ナスにキュウリ。袋に詰めたスルメにシイタケ。

神饌御供をお盆に盛って供えていた。

ローソクに火を点けていたと思える痕があった。

Kさんが云っていた通りに独り参拝をしていたのだろう。

(H29. 7.16 EOS40D撮影)
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勾田町・40日後の苗代田

2018年07月13日 08時06分53秒 | 天理市へ
天理市勾田町で水口まつりの様相を取材させてもらった2カ月前。

4月30日である。

それからの40日後辺りに田植えをすると話していたM夫妻。

田植えのすべてを終えて、残った一把の苗さんを持ち帰って、家の大黒さんに供えると云っていた奥さん。

その際、茹でたソーメンを苗に振りかけるように供えると話していた。

お家の中のことだから取材は遠慮していただきたいとお断りがあったが、売田んぼの様相を見たくて足を伸ばした。

苗代の苗はすくすく育ったようで、H家の苗もすっかり消えていた。

田植えはもう終わっていたのである。

その場を流れる綺麗な池の水。

この日も勾田新池の堤を開けて下の田んぼに流していた。

その流れる水路に、である。



白い花が水中花のように咲いていた。

特徴ある形の野草は大和郡山の矢田山下の里山畦道で見たことのあるアゼムシロの呼び名もあるミゾカクシ。

水田に咲く多年草で名前の通りに、水田の溝が隠れてしまうほどにはびこるようだ。



ミゾカクシを撮っていた上の段丘もまた苗代田があった。

青々に染まった苗の色がとても張りがある。



幌を外していることから、明日には田植えをされるだろうと思った苗代に枯れたイロバナにヤナギの木枝に挟んだ護符があった。

M家、H家以外にも水口まつりをしているお家があったのだ。

M家、H家の水口まつりは4月30日だった。

この苗代田はおそらく5月初めの連休中にされたのだろう。



どうでしょうか、と尋ねた地蔵さんは答えてくれない。

もちろんそうだが、右隣にある石仏が気にかかる。

刻印になにやら文字が見えるが、判断できたのは「童」。

わらわの童ではないだろうか。

その右手にある壺に柔らかい穂をつけたチガヤを立てていたので、その風情に思わずシャッターを押した。

(H29. 6.10 EOS40D撮影)
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別所町・苺農家の水口まつり

2018年05月18日 08時05分50秒 | 天理市へ
二日前の3日に立ち寄った季節販売の採れたて苺を売っているお店である。

奈良の特産苺の一つであるあ・す・か・ル・ビ・ーを販売しているお店である。

毎週の通院に必ず通る街道沿いにある、そのお店が気になって、窓越しに店外に並べる苺パックの値段を見ていた。

今年こそは、と思って狭い停車地に車を停めて品定め。



どれもこれも美味しそうな苺。

我が家で食べる量を考えて1パック250円の苺を買った。

売り子は高齢婦人。

奥の部屋でパック詰めなどをしていた婦人に苺栽培の難しさなどを聞いていた。

話せば住まいは天理市の別所町。

苺ハウスがある地も別所町。

婦人が云うには、苺は季節もん。筍も掘る時季母とにかく忙しいが、稲作栽培もしているという。

もしや、と思って尋ねてみたら、水口まつりをしているという。

築400年の家。かつてはみしろ(※筵)百枚も敷いていたと話す。

敷いた場は、おそらくカド。

収穫した玄米を筵に広げて干していた。

場がカドであるから、これをカド干しと呼んでいた。

旧村農家の人たちは、どこでもそう呼んでいた場である。

かつては“なえまっつあん”を苗代に立てていた。

“なえまっつあん”とは言い得て妙な名前である。

稔った稲が穂をつける姿に見立てて松葉を束ねて作った“苗松”さんを“なえまっつあん”と呼んでいた。

今でもその名残もあって、石上神宮が祭祀されるでんでん祭のお田植祭の松苗も“なえまっつあん”と呼んでいた。

時期は聞かずじまいだったが、家にある荒神さんに“なえまっつあん”を奉っていたらしい。

正月飾りの注連縄を燃やすとんど焼き。

焼いた灰を畑に蒔いたら豊作になるという習俗も話してくださった。

今年の5月5日は孫とともに苗代作りの作業をするという。

二日前に教えてもらった苗代田に行ってみた。



風除け、日除けの幌も被せていた。

この状況では、苗代作業のすべてが終わっている証拠。

どなたもおられない苗代田に呆然と立っていた。

朝早いと云っていた時間帯は6時。

作業をはじめだした2、3時間が作業の終わりぐらいであろう、と思ってやってきた午前9時。



使用していた農具はそのままの状態で残っている。

がらんとした雰囲気を拝見して、田主さんらはどこかに行かれたような状態にあった。

待っている間には、どなたかが戻って来られるだろうと思って、作業を終えた苗代田の情景を撮っていた。

その場にあった不思議なもの。



これってなぁに、と思った不思議である。

これまで県内各地でさまざまな苗代田を拝見してきたが、見たことのない不思議な様相。

私がこれまで見た限り、前例のない在り方。

これはいったいなんであろうか。

幌を被せた水苗代の四方に4カ所。

それぞれの場所に不特定な葉付きの枝木を挿していた。

葉は萎れているから、挿した間際でない。

時間はどれくらい経過しているのだろうか。

葉が萎れている状態から判断する。

摘んで、挿して、それから今に至る経過時間は30分。

いや、そうでもなくて1時間・・・。

いくら待っていても時間が経過するばかり。

田主さんが不在であれば、婦人が居られる苺売り場に行くしかない。

行って、こういう状態だったと伝えたい。

いや、それは文句ではなく、田主さんの所在を尋ねることである。

まさか、今、私が見ている苗代田は苺売り婦人の所ではないかもしれない。

そんなことはないと思うが念のため、苺売り場に移動する。

そこには婦人も居られたが、軽トラに乗ったまま休んでいた旦那さんもいた。

話しを聞けば苺農家の朝は早い。

真夜中の1時に起きて苺を収穫している。

息子さんもおられるがたいへんな作業。

朝方までかかって収穫した苺は息子さんが奈良県中央卸売市場に出荷する。

苺の収穫作業を終えた親父さんは朝の6時から娘たちの力を借りて苗代作りをした。

作業は7時に終わって、ようやく一段落。

車内で身体を休めていたという。

私を待っていたかどうかは別にして、ついてこいという。

先を走る軽トラに離されないように、かつ慎重な運転でついていく。

狭い道をあちこち曲がって線路も渡る。

ここら辺りの旧道は天理街道だったと思う。

随分前に通ったことがあるから、どことなくわかる旧道。

線路を渡った西。

そこは苺ハウスでもなくいろんな作物を栽培している畑だった。

おもむろに動いた親父さんは咲いていたお花の摘み取り、と思ったが、そうではなかった。



先にし出した作業は栽培する苺苗の水やりだ。

この日はカンカン照り。



暑くなった日には幌を捲って風を通す日課作業である。

ハサミを持った田主は奥にある花畑に。



黄色い花に花しょうぶも摘み取る。

何本かを摘んで軽トラに乗った。

すぐに向かうと思ったが、そうではなかった。

車を停めた場所で立ち話である。

40年前のこと。

当時の苗代田に“ナエノマツ”の名で呼んでいた松葉を束ねた模擬苗を立てていた。

模擬苗は別所町の氏神さんである山邉御縣座神社(やまのべみあがたにいますじんじゃ)行事に奉っていた。

おそらく祈年祭であろう。

その模擬苗をたばって苗代田に立てていた、と話す。

山邉御縣座神社は別所町の他に天理市西井戸堂の地にもあるが、正式神社名は山邉御縣坐神社である。

別所町の山邉御縣座神社の本殿は明治期まで建築されることなく、背後の尾崎山をご神体に岩座跡の石組遺構が。

その場を玉垣宮と称した斎宮であったようだ。

例祭は10月1日。

今では村行事のお渡りがあるようだが、かつては神社付近の御一統(※宮座組織であろう)で神社を護っていた。

一統は10軒であったが、一統を抜けるとか、病に伏して引退するなど、徐々に縮退し、昨年にはたったの3軒になったという。

当時のお渡りにトーヤが就く白装束姿だった。

一老、二老は終身制。亡くなるか、引退しなかぎり一統中を務めていた。

一統入りを認めてもらう「イリク」祝いの行事もあったという村座である。

明治21年、赤と白の二分に分かれたときは40人。

歴史ある神社行事は廃れる部分もあるが、今でも装束を着てお渡りをしているようだ。

その様相を詳しく知りたくなった山邉御縣座神社は、一度伺いたいと思った。

イロバナを摘み取った田主のNさんは、乗っていた軽トラのエンジンを始動した。

こからから苗代田に戻ってハナを立てるというから、再び、遅れないように後ろにくっついて走る。

戻ったところで聞いてみた苗代田に挿してある枝木の目的。

それは並べる苗箱の端を示す位置にある。

東の苗代に2カ所。

北と南の端にそれぞれ1本ずつ。



そこらに生えていたなんでもない枝木を折って挿した。

一方、西側にも同じように北と南の端に挿した。

それらは苗箱を並べるときにズレはないように挿した印であった。

距離を測るために挿したという。

なるほど、である。

つまりはチョナワを張らなくとも、その枝木の印をもって距離をとるということは、幌被せをしてもわかるということになる。

並べた苗箱は205枚。



すべてが熊本産のヒノヒカリだという苗代田。

育った1カ月後の6月10日ころに田植えをするという。

昭和11年生まれのNさん御歳81歳。



水口辺りの場に立ったままの姿で花を立てる。

普通であれば、膝を曲げて屈んでするが、膝は伸ばしたままである。



水口を挟んだ両端にそれぞれイロバナを立てた。



なかなか見事な立ちっぷりである。

Nさんが云うには、たばってきた石上神宮の苗ノ松を立てる場合もあるらしいから、再訪してみなければならない。



使ったか、使わなかったのか聞かずじまいのチョナワや櫛歯のレーキなどを片づけ始めたNさん。

今年は遅霜だった。

キュウリやスイカ畑にキャップはなかなか外せなかった、といいつつ畑に出かけた。

(H29. 5. 3 SB932SH撮影)
(H29. 5. 5 EOS40D撮影)
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竹之内町の苗代マツリ

2018年05月17日 09時32分41秒 | 天理市へ
昨年に訪れたとき、田主が私に云った。

神社行事に祈年祭のオンダ(御田植祭)がある。

場所は山の辺の道にある環濠集落。

天理市の竹之内町である。

オンダと云っても牛は登場しないし、所作もない。

あるのは村の戸数分の40セットを作って奉った松苗があるだけだ。

行事の前日までに4人トーヤが山中に入ってチンチロ付きの雄松を採取して2本を藁縄括り。

参拝者が持って帰った松苗はイロバナとともに苗代田に立てる。



そんなことをしているのはうちだけやと云っていた柿農家の男性に背中を押されて今年初めてオンダの行事を拝見した。



苗代田は昨年と違って隣家でもしていた。

(H29. 5. 4 EOS40D撮影)
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乙木町の苗代イロバナ

2018年05月16日 09時02分15秒 | 天理市へ
かつて天理市の乙木町に御田植祭があったと云われる。

小正月の1月15日に一老が牛男となって祭祀を務めた。

御供に握り飯があったとされるが今は行事すらない。

ずいぶん前に中断したと聞いたことがある。



御田植祭がなくとも苗代田にイロバナがあった。

花は白色のカラー。

後方の白い幌と同じなので目立たない。

目立たないが目についた。

田主に話を聞いてみたいが、付近には誰もいない。

再訪する機会があれば、行事も含めて尋ねてみたい。

(H29. 5. 4 EOS40D撮影)
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豊井町の苗代マツリ

2018年05月15日 08時50分03秒 | 天理市へ
大和郡山市を離れて天理市に足を運ぶ。

はじめに見ておきたい地域は豊井町。



ここら辺りではたぶんにこの田主しかしていないと思われる苗代田がある。

今年も端っこの角に奉っていたケッチン行事の松苗である。

ケッチン行事は1月19日に行われる豊日神社の結鎮行事。

ヤナギの枝に結わえたごーさん札も奉るが、なぜか苗代まつりに登場しない。

結鎮行事をされていた村の人らはカッチンと呼ぶチンチロ付きの松苗とともにイロバナを立てると云っていたが、ヤナギの枝に結わえたごーさん札は話題に上らなかった。

上らないということはしていないということになる。

豊作を願って奉った松苗の1束が風に煽られて苗代水面を移動していた。



折角なので、元の場所と思えるところに戻してあげた。

(H29. 5. 4 EOS40D撮影)
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中之庄町の水口マツリ

2018年05月13日 09時21分29秒 | 天理市へ
5月3日は水口まつりの調査に天理市の和爾町や森本町を流離っていた。

付近は圃場が広がる田園地。

何カ所かに白い幌を被せた苗代田がある。

集落民家に近いところにもある。

念のためにと思って探してみたが、イロバナなどは見られない。

その近くに農小屋があった。

声がするので伺えば、隣の家は苗代を作って、明日にはイロバナを立てるという。

そう話す天理市の中之庄町の男性。

うちは明日に苗代をするという。

しかもだ。

煎った米を蕗の葉にのせて祭るというから色めいた。

中之庄町は京都二条家の荘園だった。

代々が宮家か宮司を務めていた。

昔は伊勢神宮との関係があった。

また、平安神宮の調書に柿本人麻呂の住居があったと記されているという由緒ある旧村。

集落中央に位置する場にある神社は天神社。

そこより東南の集落端にある小社は宇迦内入之大神(稲荷社)。

大和郡山市の稗田町の稗田神社の宮司が出仕されて祭祀を務めているそうだ。

さて、煎った米を蕗の葉にのせてイロバナを添えて奉るという苗代のまつり。

苗代田に水を入れ、逆に流す水口。

水苗代の育苗に必要な水を出し入れする口である。

その水口にイロバナを添えているなら水口まつりと称していいだろう。

予め、家でフライパンに入れた米を煎っておく。

これをイリゴメ(煎り米)と呼ぶ。

予めしておく訳は、苗代作りの作業に長靴を履くことである。

一旦、長靴を履いたら家には戻り難い。

イロバナを立ててイリゴメをするのは苗代作りの最後の工程になる。

いちいち戻ることが難しいので、先に準備しておくということだ。

ちなみにイリゴメの米は粳米でなく、糯米である。

籾種にする糯米をフライパンで煎ると爆ぜる。

爆ぜる米は飛び散る。

ばらばらに飛んでしまわないようにザルを伏せて抑えているそうだ。

弾けるというか、爆ぜる米である。

これを蕗の葉にのせて水口に祭る。

つまり田んぼの神さんに供えるのは糯米であった。

昔は、山に住む人が来た。

その人たちは苗取りをしていた。

その作業から“ナエトリサン”と呼んでいた。

ナエトリさんは束にした苗は水を湛えた田に投げていた。

田植えをしている人の前に投げて手にしやすくしていた。

その時代は直播きだったという。

このような話題を提供してくれたTさん。

中之庄町の集落から西になる旧村は森本町。

そこにある碑文は大峯山に33回も登った先達の記念碑だという。

さて、翌日の4日である。

苗代作りのすべてを終えてから水口まつりになるので昼前になる、と話してくれたが、苗代作りの一部始終を拝見したく朝一番に訪れた。

T家の育苗箱は170枚。

品種は粳米のヒノヒカリに糯米のアサヒモチである。

T家の苗代作りの場から少し離れたところにイロバナがあった。

白い幌を被せて苗代作りを終えた。

そのお家はモチゴメの御供はなかったが、アヤメやシャガ、コデマリなどのお花でイロバナをしていた。



先ずは均しておいた苗床にチョナワを張る。

チョナワは俗称であるが、農家の人はまず間違いなく田植え縄のことをチョナワ(※ミズナワと呼ぶ人もいる)と呼んでいる。

T家のチョナワ張りは苗床の縦に一筋。

苗床の中心ではなく端っこである。

これまで拝見した県内事例ではたいがいが中央であるが、T家のような端っこは事例的に少ないのかもしれない。

次の工程は穴開きシート置きである。



苗床際の側面を一直線に張ったチョナワを基点に穴開きシートを広げていく。

ロール状の穴開きシートを広げるには二人がかり。

腰を屈めて転がしてシートを伸ばす。

泥田の苗床だからぺちゃっ、とくっつく。

そんなことで外れないように端を抑えておく必要性もない。

くるくる回して少しずつ広げていく。

この日の苗代作りに応援する人がいる。

コウノトリが飛ぶ町として名高い兵庫県豊岡から駆け付けた娘婿さん。

孫さんも手伝う家族ならではの苗代作りはどことなく温かくてほのぼのする。

水口まつりはすべての作業を終えてされる豊作願いの行為。

それまでの工程をこうして拝見させていただくことに感謝する。

苗床が調えば農小屋に納めていた苗箱運びである。

何枚か重ねて運ぶ人海戦術もあるが、運ぶ距離が徐々に伸びていくから体力も余計に増えていく。

体力負担を避けるためには運搬機が要る。

その運搬機に運べる苗箱の量はしれている。

段数を数えてみれば3×6枚の18枚だ。



まずは近場から。

運搬車から取り出して抱えた苗箱は奥さんに手渡す。

基点のチョナワの線に沿って、一枚をまず苗床に置く。

次の苗箱も奥さんに手渡す。

奥さんは苗床の向こう側に立つご主人に手渡す。

ご主人はその位置で苗箱を下ろす。

その際、先に置いた苗箱の角を合わせて下ろす。

なるほどである。

こうして作業を繰り返していけば、張ったチョナワ線通りのぶれない苗箱置きができるというわけだ。

ただ、手渡す際に、どうしても中腰にならざるを得ない距離がなんとも辛い。

これまで各地で拝見してきた苗箱置き。

中腰が一番辛い。

腰を痛めていたご主人は、これがなんとも耐えられない作業だった。



運搬車のプレートに「Robin」の文字がある。

型番はEH12番。

型番はロビンエンジンであったが、キャタピラ駆動の運搬車はどこの製造会社だろうか。

名称もわからないので、ロビンEH12エンジン搭載キャタピラ駆動運搬車と呼んでおこう。



徐々に運ぶ距離が伸びていく。

積みだし作業に運搬作業。

その間は腰かけて身体を休めるご主人。

そうしないとますます腰を痛めることになるから少しでも休憩しながらの作業である。



置き場に到着した苗箱はこれまでと同じように、一枚、一枚の手渡しでおいていく。



この日は青空が一面に広がる快晴日。



真っ青な空に白い雲がふわふわ移動する。

次の工程は風除け、鳥除けのトンネル覆い。

白い幌を被せるが、その前にしておきたいぐにゃっと曲がるポール立て。

一方を苗床すれすれの泥土に差し込む。

もう一方は曲げて同じように差し込む。

差し込みが浅いと外れる場合もあるから深く、ぐいと押し込むように挿す。



ご主人に、このポールの名前を尋ねたら、特に名称はなく、グラスファイバー製だという。

ただ、新品のグラスファイバーであれば、なんともないが、長年使って、古くなったポールは経年劣化に、ピッ、ピッと毛が立つ。

細かい毛がいっぱいあるから素手で掴んだら怪我をする。

棘が刺さったとなればたいへんなことだ。

そういうポールであるから取り扱い注意。

写真でもわかるように軍手ではなく、厚めのゴム手袋に履き替えて作業をしていた。

ポール立て作業にもう一つの道具が登場する。

写真でわかるようにポールを立てる位置に定規を充てて距離を一律にとっている。

定規は幅が同じ長さの板である。

ざっくりとした距離でなく正確に間隔をとりたいということである。

すべてのポール立てをし終えたころ。

向こうのハウスからトコトコ歩いてくる婦人がいた。



朝に出かけた婦人の畑。

農作業をしてちょっとした収穫野菜を持ち帰っていた婦人。

畑作業をするのもそうだが、こうして毎日動いているのがイチバンだと笑っていた。

T家のすぐ近くに住んでいると話していたご高齢の婦人。

昔はうちでもしていたが・・と。

そのころに娘さんがやってきた。



今から水口に立てるお花を採りにいくというからついていく。

実はイロバナにツツジの花を用意していたが、茎が短くて水を吸い上げることができなくて、花が萎れてしまった。

仕方ないからお花の採取にもう一度ということである。

ここ苗代の場からちょっと歩いて県営圃場整備事業竣工に合わせて造った農道にまで行く。

そこにあったT家の畑。

稲作は苗代の地でするが、野菜やお花などはここで栽培している。



向こうの山々は奈良市・旧五ケ谷村になる。

気持ちが良い天気の日の花摘みは矢車草に大きなボタンの花。

抱えるようにして戻ってきた。

その間にも作業は進展する。

先ほど立てたポールの上からゴツ目生地の白い幌を被せていく。



この日は無風状態。

風があれば幌の下に空気が入って幌は煽られる。

強風であればなんとも作業し難い状況であるが、本日は風がまったくない。



幌の縁を折りたたんだところに抑えのポールを立てる。

ぐいと押し込んで、それこそ抜けないように強く挿しこむ。

こうなると孫さんの出番がなくなる。



暇を持て余してスコップで掘り起こし作業。

さて、何をしているのだろうか。

幌のすべてを被せて、また風で飛ばされないように裾部分をしっかり押さえる。

抑えに使う道具は鉄棒。

それが見えないように幌の端に置いて、くるくる巻いた。

合計で170枚のヒノヒカリとアサヒモチのすべてを並べ終えた。

娘婿、孫にも手伝ってもらった苗代作りは目途がたった。

そろそろ始めますと云ってくれた奥さんの声に慌てて動く。



お家で煎ってきたモチゴメを蕗の葉にパラパラと落とす。

煎ったお米の形はまるでまるでポップコーン。

蕗の葉を優しく手で包んだ漏斗状態。

毀れないようにそこにパラパラ落とした。

粳米なら煎ってもここまで爆ぜない。

その点、糯米はフライパンで煎るだけでこのように爆ぜてくれる、という。

できあがった水苗代の水口に持っていく。

そこに娘さんが採ってきた矢車草とボタンの花を立てる。

爆ぜコメをのせた蕗の葉を広げた。

これまで見てきたイロバナの中では一番豪勢なボタンの花が見事である。

水口まつりをする前から風が吹き始めていた。

立てたイロバナは風に煽られないが、軽い蕗の葉はすぐにめくれ上がる。



風がおさまったときの一瞬にシャッターを押す。



その様子を上空から見つめているカラスがいた。

人がいなくなれば降りて来て爆ぜたお米を喰うらしい。

その場を離れたら、すぐに飛んできてかっさらっていくから、この一瞬しか撮れない。



朝一番に撮っておいた隣の苗代。

お花だけになっていた理由はカラスの仕業であったろう。

(H29. 5. 4 EOS40D撮影)
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和爾町・農免道路沿いの苗代イロバナ

2018年05月09日 09時06分46秒 | 天理市へ
天理市の和爾町のエリアは広い。

苗代作りをしている処があるかもしれないと思って五ケ谷に向かう農道を走る。

この農免道路は西名阪国道に繋がる道。

往来激しい車路はしょっちゅう利用していたが、白い幌を見るのはこの日が始めてである。

通り抜ける苗代に色があった。

まぎれもない、それはイロバナ。



Uターンして戻ってきたそこにあったが、松苗は見られない。

先ほど拝見した高齢者夫婦同様に春祭りの御田植祭には参列していなかったのだろうか。

(H29. 5. 3 EOS40D撮影)
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森本町の禊ぎ川

2018年05月08日 10時31分10秒 | 天理市へ
先に訪れた天理市の中之庄町

私にとっては初の村入りである。

村入りと云っても足を入れただけである。

そこで発見した苗代田のイロバナに目が点になった。

近くに村の人がいるだろうと思って探してみれば、作業小屋におられた。

話しを伺えば、明日に苗代作りをするというTさんだった。

Tさんが云う苗代にイロバナを立てる。

その際に供えるイリゴメがある。

イリゴメは粳米をフライパンに入れて煎る。

油は入れない空煎りである。

するとお米は熱さで爆ぜる。

ある地域ではハゼコメ(爆ぜ米)と呼ぶようだ。

Tさんはさらにいう。

その煎った米は皿代わりの蕗の葉に乗せるというのである。

これこそ見ておきたい民俗に取材願いをしたのはいうまでもない。

翌日の愉しみに心が躍った中之庄町。

集落を西に真っすぐ下れば森本町に出る。

たぶんそうであろうと車を走らせる。

左手に流れる川がある。

それが森本川。

奈良市山町の下山では毎年の10月に八坂神社の当家祭が行われている。

祭りの日の朝6時。

当家(トヤ)は森本川に浸かって清めの禊ぎをする。

ずいぶん昔に聞いた禊ぎの件であるが、今でもしているのだろうか。

森本川は禊ぎの川である。

その禊ぎ場がここであるのか、確証を得るには村の人の話しを聞かねばならない。

上流から流れてきた水流は大きな角度で蛇行する。

地図で見た森本川は急カーブ。

角度でいえば60度くらいであろうか。

その辺りに2社の神社がある。

右岸に恵比須神社。

左岸に姫大神社とあるから稲荷社関係になるだろう。

森本町にはもうひとつの神社がある。

氏神さんを祀る森神社である。

これもまたずいぶん前でのことであるが、ノガミ行事調査に足を運んだ際におられた数人の村の人。

神社行事を伺っても、何もしていないような素っ気ない返答だった。

中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』がある。

中でも特筆すべきことが書いてあった第七章の「農耕生活と祭り」。

その項にあった行事ごとは大晦日に行われるフクマル(福丸)迎えである。

恵比須垣内のK家の行事である。

大晦日の夕飯が済み次第に始められる「ホコマルトリ」。

家の男たちがお膳に洗米と蝋燭を置き点火する。

その際に発声する詞章は「フクマルコイコイ」である。

その詞章を言いながら、大川(菩提仙川)に出かけて、入水する。

そこで雌とされる赤い石を。

雄石は黒い石。

川にある石を探して持ち帰って竃の蓋の上に置く。

同町西垣内のM家では一升枡に炊きたての白飯を入れて、提灯と蝋燭を抱えて大川の橋の手前にある大木のヨノミの木(榎)の根元に供えていた。

その場に生えている笹の葉をちぎって立てる。

そして、大川に入水して丸い3個の石を拾い、枡に入れて持ち帰る。

家人は門屋を開けて待ち構えている。

迎え入れるとすぐに扉を閉めて、正月期間中は開けることもない。

帰る際、燈明の火を提灯に移して消えないように持ち帰る。

神聖な火は竃の火点けのマメギ(豆木)に移す。

堅炭を一杯添えて正月の朝までもたせて、朝に元日の雑煮を炊く。

拾ってきた丸い石は米櫃の上に枡ごと供え、正月が済んでから米蔵に移す、とあった貴重な記録である。

その件を調べたくてずいぶん前の大晦日に訪れたが、何ら気配がなかったことを思い出す。

記事にある恵比須垣内すぐ近くの曲がり川。

その地に碑文が建ててあった。

読みは判読できなかったが、その前に端の皮を剥いだ青竹があった。

その竹に輪っかの注連縄があった。

何であろうか。聞きたくとも村人は歩いていない。

しばらくすれば南の方からこちらに向けて歩く婦人の姿が見えた。

その婦人に声をかけたら、私を知っているという。

なんということだ。話しを伺えば、天理市楢町在住の婦人。

平成28年11月8日に行われた興願寺の十夜だった。

その取材に来ていた私を覚えているということだ。

婦人の息子が祭りにトーヤを務めた。

祭りは楢町に鎮座する楢神社の行事である。

そのときのトーヤ務めにこの森本川に来て入水したという。

入水した川にある石を拾って持ち帰る。

入水は禊ぎである。

フクマルといい、まさに禊ぎの川。

ここにあった輪っかの注連縄は禊ぎ場の印しであろうか。

さて、この碑文である。

2面あるが、1面はかろうじて「和州北嶺講建之 森本後援」が判読できた。

刻印はどことなく白墨かなにかで傷つけたのか、白い線があるから判別できた。

もう1面は、どことなく詩を謡っているようにも見える。

年号は「昭和二年卯□春大峯官長覚□」の通り、昭和2年に建之したことがわかる。

偶然であるが、二日後の5日に苗代のイロバナ立てを取材させてくださった別所町の苺農家を営むNさんが、教えてくださった。

碑文は森本町の大峯北嶺講・講元のM氏が、33回の大峰山詣記念に建之したと話してくれた。

碑文の揮毫は当時の大峯官長の書であろうか。

また、隣村の中之庄町で水口まつりを撮らせていただいたTさんも先達が大峯登攀の33回記念に建てたと云っていた。

(H29. 5. 3 EOS40D撮影)
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