マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

旧街道滝本道にある2体の地蔵石仏巡りに思いを馳せる

2023年11月30日 08時22分55秒 | 天理市へ
知人の写真家Kさんを待つ場は、下滝本バス停付近。

所在地は天理市滝本町。

天理ダム側にある桃尾の滝口に近い方が上滝本。

下れば下滝本。

下の豊井町からてくてく歩く道は旧街道。

南側に新道を新設されてからは車の往来は地元住民の利用ぐらいだろうか。

滝本道とも呼ばれる旧街道に、2体の地蔵石仏がある。

並んでいるのではなく、まま距離を置いたところに建っている。

小雨になった時間帯。

到着を待っている間に撮っておきたい濡れた地蔵石仏。

これまで何度も見てはいたが、じっくり拝見するのは初めてだ。

雨が止もうとした状況に、余裕の時間ができた。

その時間の有効活用に撮っていた。

豊井から福住に向かう新街道は奈良交通の定期バスが運行する。

天理駅を出発して豊井、二本松、滝本、長谷口、仁興口苣原、福住を経由して旧都祁村の針インターへゆく新道を走るバス旅もあれば、旧街道にある地蔵石仏巡り歩きもいいだろう。

支柱を立て、覆屋設えの場に立つ高さ1.5mくらいの地蔵菩薩立像。

蓮華座に立つ上の地蔵菩薩立像は、顔面は削られたのか、それとも風化なのか、目鼻立ちのない地蔵石仏は、室町中期の作と推定されているようだ。

道中の安全を願い、じっくり拝ませてもらった。

真新しい供物台は近年に造られたのだろう。

信仰深い人たちがお花を立てていた。

その地蔵石仏からほんの少し登った場に山の水が流れ落ちていた。

石で組んだ水路に跨げる竿は太い竹。

流れる谷水を流す竹は半割り。



ずいぶん前に据えたと思われる竹の風情に思わず、これも民俗や、と声があがった。

一般的には塩ビパイプを敷設しそうなものだが、当地の心遣いは太い孟宗竹。

自然利用の谷水流しに思わずシャッターを押した。

湧き出る谷水の水流に勢いがある。

当地は、明らかな急こう配地区。

人力で登る急こう配に足があがらない。

一歩、一歩を登るごとに心拍数が急激に上昇する急こう配に、土地に住む人たちは毎日がたいへんだろう、と思うが・・・。

ここより下って、もう一つの地蔵菩薩立像を見に行く。

すぐ下に民家がある。

立ち位置からほとんど見えない民家に石の階段がある。

その階段もまた急こう配。

上にちょっとだけ見える玄関口までが遠い。

伺う気力もないから、その立ち位置から眺める石段横にある大きな岩。



苔むした岩に表札らしきものが隠れているのでは・・と、思ったが・・。

見上げたその大岩の頭上に、いがぐりが三つ、四つ・・。

1週間も経てばポロリと落下するのでは。

栗の実が落下する時期は、地域によって若干の幅はあるが、だいたいが夏の終わり。

かつて9月初めに長距離ロードをしていた。

5年続けた毎年の愉しみに、いつもこの時期に見る美味しい落下物。

走行する車道に落っこちているいがぐりくん。

実成りに手はだせないが、落下物はいただきもの。

裂け目のあるいがぐりを両靴に挟んで割る。

ひょっこり顔出しした栗の実だけをポケットに入れて、再び走っていった。

肝臓の手術。

退院後のリハビリ。

一年後になんとか復帰できた45歳から49歳にかけて走っていた
当時を思い出す走行路は、5カ所。

琵琶湖一周、嵯峨・嵐山往復、淡路島一週しまなみ海道往復山口県半周

いい思いでもあれば、突然のごとく近海に発生した台風に難儀したことも・・。



思い出話は、それくらいにしてさらに下った旧街道。



鬱蒼とした場のすぐ傍にあった二体目の下の地蔵菩薩立像。

上の地蔵菩薩立像の面はのっぺらだったが、下の地蔵菩薩立像の表情は、風化摩耗もせずに、端正なお顔。

右手に錫杖をもつ地蔵菩薩の石仏。

高さはおよそ1.3m。

明らかにわかる舟形光背を背負う下の地蔵菩薩立像。

頭上に座す如来石仏が印象的だ。

上の地蔵菩薩立像。

室町は中期の作とされるが、この下の地蔵菩薩立像は南北朝時代初期の作らしい。



気になるのは、右端に建つ笠形石灯籠の「観世音」。

寺院があったのか、それとも・・・。

当地より、山行きした地に廃寺龍福寺があったそうな。

かつて桃尾山蓮華王院龍福寺(※本尊は十一面観世音菩薩立像)と呼ばれていた大寺であったが、廃仏毀釈の影響を受けて廃寺となった。

その廃寺に向かう参道道があるようだ。



あるブロガーさんは、急こう配の山道を歩いて探した参道。

道標に今も残っている一部の丁石(※ちょうせき・ちょういし)を手掛かりに歩かれた

石灯籠の「観世音」が基点の丁石出発地。

・・・三丁・・・五丁、六丁、七丁、八丁、九丁・・・。

それぞれの丁石に十一面観音の“キャ”の梵字が彫られているそうだ。

ちなみに九丁石には、“キャ”の梵字のすぐ横に、阿弥陀立像の石仏もある。

「寛永十六年・・九丁・・十八日・・當山施主・・」の刻印もある石仏に関係性は見つからない。

急こう配の山登りは、まるで沢登りの様相も見せるらしく、私の身体状況では、到底歩けない無理な地であろう。

九丁石からすぐ近くに布留の滝こと、桃尾の滝があり、さらに登った、そこに建つ大観寺(※本尊は釈迦牟尼仏)。

大正時代、龍福寺故地に建てたそうだ。

故地になった桃尾山蓮華王院龍福寺の本尊は、十一面観世音菩薩立像だった。

大観寺境内に天理観光協会が建てた掲示物に、そう書いてあるようだ。

ようやく判明した、下滝本・下の地蔵菩薩立像右横にある笠形石灯籠の「観世音」。

かつての桃尾山蓮華王院龍福寺に向かう参道の基点がここにあった。

真っ赤な曼殊沙華も咲く基点の地。



当時の様相に、思いを馳せるのもよかろう。

(R3. 9.12 SB805SH 撮影)

解体工事の前に見納め、撮り納めに撮っておきたい天理・南六条北方の環濠集落景観

2023年09月15日 07時56分45秒 | 天理市へ
奈良県内・平坦盆地部に見られる環濠集落。

数々あれど(※推定200~250地)、いちばんのお気に入りは、天理・南六条。

旧地名を「元柳生」と呼んでいる天理市南六条の北方の地。

伝統行事の取材に幾たびも訪れた天理・南六条。

特に、気に入っていた環濠は、西の環濠

昔しながらの風情を遺していた環濠も今や、大きく変貌しようとする時代が・・・とうとう・・

出里が、北方だった知人が伝えてくれた取り壊しの件。

「元柳生の旧家。戦国時代から伝わる森家の居宅。集落にある工務店、買い取った邸宅と田んぼ。そのうちの一部の建物の傷みが酷い状態にあった。リニューアルするにも難しい状態に、特に西の環濠に寄り添う形に佇まう土蔵の姿は、おそらくすべてを撤去するであろう」と、伝えてくれた。

「森家側の環濠に、夕景の時間帯をはじめに雨の日、晴れの日、またお盆のあり方も含めて、できる限り、機会を設けて撮っておきたい」と伝えたが、解体工事はまったなし。

しかも、土蔵の解体とともに、石垣で組んでいた環濠も、コンクリートによって固められるとも・・

この月の29日に予定している、と聞いた解体工事・・・

失念せんように、早めに、思ったところで撮影に走った7月22日。

行事の下見に出かけた室生小原室生染田

さらに、旧都祁村の白石から下った奈良市・今市を経て到着した天理・南六条。



メールで連絡してくださったFさんが、伝えてくれた通りの環濠側から見た家屋が崩れた状態に、ここまできていたか、とため息。



見納め、撮り納めに撮らせてもらった景観。



撮影データの整備に追いまくられ、携帯画像であるが、選んだ3枚をFさんに送り、またイチガンカメラでとらえた映像も遺しておく。

(R3. 7.22 SB932SH撮影)

柳本町・鳥居町/片原町の大神宮祭

2023年09月01日 07時56分53秒 | 天理市へ
天理市柳本町新町の太神宮祭を終えて、すぐさま駆け付けた柳本町・鳥居町。

新町から上街道を南に400m。

車を停められる場に駐車させてもらって、早速の取材に代表の自治会会長に急な取材申し出に挨拶ならびに自己紹介。

取材目的の場は、大神宮石塔。

平成30年7月16日に訪れたときと同じく四方竹を設営していた大神宮

この日は、すでに神饌御供に餅御供もある。

ゆっくり落ち着いて拝見する時間も、お聞きしたい行事のことも、行事を終えてからだ。

大神宮石塔は風化厳しく、建之した時代さえはっきりしない。

石塔の材はもろい。

風化の様相から岩石を同定しようと思ったが・・断念。

彫られた文字、一部が判読できた。

北にあった「町中・・」。

南は「天和皇太宮」であろうか。

天和年間とすれば、1681年~1684年。

天明時代であれば、1781年~17年。

おかげ参りの年代と重なりにくい。

天保時代であれば、1830年~1844年。

「文政のおかげ参り」が流行った年代とほぼ合致するが、結論は出ない。

さて、祭主の伊射奈岐神社笠松健宮司を迎えてはじまった大神宮祭。

神事の進行は、先ほど斎行された新町の太神宮祭に同じく、神式に則り、祓詞に修祓。

蝋燭を灯した祭壇に供えたお神酒の口開け、献饌。



そして、昨年から続くコロナ惨禍の退散を願い、祝詞を奏上する。

宮司から玉串を受けとった2人の自治会長。



鳥居町、片原町それぞれの地区代表として奉奠された。

当祭典に、主体になる自治会は鳥居町自治会。

もう一つが片原町自治会。

鳥居町は東地区が16戸。

西に12戸。

また、片原町は40戸からなる。

話の様相から伺えば、古くから大神宮石塔を崇めていたのが鳥居町で、後にここより南側に、新しく(※とはいっても時代はずいぶん前のように思える)できた新町の片原町が、後に組み入れたのでは、と思った。

柳本を南北に貫く上街道。

眞面堂(まめんどう)のすぐ北は新地。

その向こうに市場垣内がある。

街道沿いに町家が増え、南に、南に町家を形成していったのであろう。

そしてここは、垣内データベースによれば「鳥居垣内」である。

なぜに鳥居かといえば、東に鎮座する伊射奈岐神社に向かう道。

つまり、ここ鳥居垣内からは神社に向かう参道に他ならない。

今では面影は見られないが、ここに大きな一の鳥居が建っていた、と考えられる垣内名など、あらためて町の歴史、変遷を聞き取りしてみたい事項である。

神事終えたら供えた白餅を町内各家に配られる。

コロナ禍のない、本来であれば、参列者はここで直会をされるのだが・・。

神饌御供のスルメやコンブは人数分を切り分け。

お神酒をいただく直会場に、やってきた町内人らが列をなして餅を受け取るのだが、この時代ではパック詰めの白餅配り。



鳥居町も片原町も、この場に参列された役の人たちが餅を配る数は、班の戸数などに振り分けるよう地区に戻っていった。

(R3. 7.16 SB805SH/EOS7D撮影)

天理市柳本町・新町の太神宮祭

2023年08月30日 07時36分07秒 | 天理市へ
7月16日と伺っていたが、前週の日曜日に移った天理市・武蔵町の「郷神さん」

行事調査は、来年廻し。

その足で調べておきたい天理・柳本の太神宮祭。

コロナ禍の時代に、さまざまな行事は中止されているが、ここ柳本はどうされているのだろうか。

天理市の柳本の民俗調査をしていた際、ネットに見つかった史料がある。

見つかった史料は、PDF形式の『やまとし美し(※うるはし) 柳本』。

柳本町の略歴史に、年中行事や観光施設を案内する観光マップである。

柳本町自治連合会町づくり推進委員会と奈良県地域デザイン課が共同作成したマップは平成27年3月に発行したとある。

これまで調査したことがある県内事例の一つに「だいじんぐう(太神宮)」がある。

大方の地域で行われている「だいじんぐう(太神宮)」行事は、毎年の7月16日。

行事場は、地区に建つ「太神宮」石塔、若しくは「大神宮」石塔である。

地区に構成する伊勢講、若しくは村自治会が営む「だいじんぐう(太神宮)」行事。

かつてというか江戸時代に流行ったお伊勢参り。

集団、あるいは講中から選ばれた人たちが、伊勢を目指す行幸の出発に、行程の安全を願い、無事に戻ってこられるよう拝んだとされる「だいじんぐう(太神宮)」石塔である。

「伊勢街道(※古来は上ツ道と呼ばれていた上街道)沿いに建つ常夜灯の前に参集。江戸時代から続いている伊勢行きの安全を祈願する行事(※若干補正)」とある「だいじんぐう(太神宮)」参拝の日程は7月下旬とある。

平成30年7月10日に訪れた柳本

五智堂傍に建つ薬師堂行事を尋ねていた

話者は、上街道と新道が交差する十字路角地に建つたばこ屋さんの奥さんだった。

7月16日に行われる太神宮祭は、伊射奈岐神社宮司が出仕される。

上街道はお伊勢さんに参る道。

ここ柳本は、上街道沿いに、太神宮石塔は何カ所かに建っているが、祭礼をしているのは新町、鳥居、戎、片原、上長岡になる、と話していた。

それから4日目の7月16日も訪れた柳本。

伊射奈岐神社を西に下った上街道と交差する地に、四方竹を張っていたのだ。

上街道辻に近い位置に建つ石塔は常夜灯。

その並びにあった石塔。

欠損ではないが、風化激しく彫った文字は判断できないが、状況からみれば大神宮石塔。

通りがかりに撮っていた時間は、午後4時半。

もう少し待っておれば、お供えなどが拝見できるのだが、この日は予定がある。

これから向かう先は、明日香村豊浦甘樫垣内の大神宮行事

聞き取り調査する時間もなく立ち去ったが、16日は確実にしているとわかったから、武蔵町の「郷神さん」を外した次の行先と思って車を走らせた。

ところが、先に見つかったのは、新町の太神宮祭だった。

上街道を通り抜けようと思ってハンドル切りかけた辻。



お供えをしている状況に、取材チャンスを見捨てるわけにはいかない。

地区代表の新町自治会自治会長他、長老らも許可をいただき、早速の突撃取材。

17軒の新町自治会。

口々にしゃべりはじめた「まめんどう」。

ここにある建物が「まめんどう」に果てさて・・。

「まめ」みたいなお堂なのか、それとも「めんどう」な建物なのか・・・。

ここがそうやと、指さしたその建物は珍しい形態の傘堂。

「まめんどう」をキーにネットをぐぐったら「五智如来を表す不思議建築の『長岳寺五智堂』・・」が、一本足で建つ不思議な建造物は、国の重要な文化財。

真ん中の柱は心柱。

一本の柱で支える建造物は、どっちを向いても正面に見えることから。

「まめんどう」と呼ばれている、と話す。

充てる漢字が「眞面堂(まめんどう)」。

管轄は、東に数キロメートル離れた地に建つ長岳寺

心柱上部に、四佛の梵字額があり、全体で五智如来を表しているそうだ。

今日の目的は、「眞面堂」でなく、辻際に建つ石塔である。

西に「太神宮」、南に「天満宮」。

北に「永代常夜燈」。

それぞれの方角から拝礼する石塔。

「太神宮」は、伊勢神宮に。

「天満宮」は、柳本の氏神社である伊射奈岐神社に・・・。

かつては、まめんど川と呼ぶ小川の傍に建っていた。およそ50年前。

この辻から東を南北に走る国道19号線と結ぶ拡幅新道の工事。

それまでの道、つまり村の里道は、石塔の際々を東西に向かう旧道が一般道であった。

新道を地図で見ればよくわかるが、もともとある里道から、大きくうねって作道されたバイパス道である。

86歳のNさんがいう。

75年前のここは小学生のころの集団登校の集合場所。

柳本小学校に集団登校していた3地区(※笠堂とも呼ばれる真面堂”まめんどう”村と新地に新町地区)の子どもらが集まる場だった。

当時の子どもらは、太神宮塔の周りをぐるぐる廻ったり、石塔に攀じ登って遊んでいたそうだ。

また、現在は、ここに石塔はあるが、実は移築したもの。



元の位置は、四つ辻のど真ん中に建っていた、という。

台座に「新町中」。

東の面に「天保八年(1837)」□□建之」とある歴史建造物。

今から185年前の住民。

新町中の人たちが、「文政のおかげ参り」が流行った8年後に建之したもようだ。



さて、お供えを並べて、祭主を待つ新町地区の人たち。

予定時間を、少し過ぎたころに到着した笠松健宮司。

本社の伊射奈岐神社行事の大神宮祭を終えてからやってきた、という。



宮司の到着を待ってローロクに火を灯した。

コロナ禍の今年は、新町中の厄払いも兼ねて行われた太神宮祭。

神式に則り、祓詞に修祓。



蝋燭を灯した祭壇に供えたお神酒の口開け、献饌、祝詞奏上、代表者による玉串奉奠。

撤饌を経て神事を終えたらお神酒を口にする直会。



その場で立ったままの直会。

コロナ禍の今年は、あっさりと締め括られた。

祭壇などを片付け、すぐに解散された。

宮司は、次の祭典場に直ちに移動。

次の場の取材に、車で後を追っかけた。

(R3. 7.16 SB805SH/EOS7D撮影)

福住町中定・ハツオージの垢離取り

2023年08月10日 07時34分43秒 | 天理市へ
天理市杣之内町に住むNさんが編集の一員としてまとめた『天理市の歳時記』の控えが手元にある。

平成22~23年度・天理市社会教育委員会(生涯学習・人権部会)が編集した史料(仮版)に、福住町・中定で行われている地域行事がある。

紹介されている行事名は「八王子さん氷とり」。

まさか“氷“を取りに行くって・・・。

近くに都祁氷室神社がある。

7月1日に献氷祭をされているが、”氷とり“ではない。

また、氷室神社から東に数キロメートル離れた地に、”氷“をつくる復元氷室(※平成11年~)がある。

その氷室から”氷“を取り出すことを、”氷とり“とは呼ばないだろう。

両行事とも拝見したことはあるが、”八王子さんの氷とり”のことは聞いたことがない。

歳時記によれば「33枚の南天の葉を八王子山の麓から山頂の社まで、村人が並んで手送りをする」とある。

続けて「(氷とり)直会を中定会所でする」とあり、行事日程は、「7日に近い日曜」だ。

全文を読んで、ハタと思った。

南天の葉を33枚。

これだけでわかった、歳時記に記載する”氷とり“は”“垢離取り”の誤植。

“氷室“が近いだけに、“垢離取り(※こりとり若しくはこおりとり)”を”氷とり“と考えた。

そのようなことはあり得ない。

誤植としか考えられない33枚の数。

垢離取りとは、神仏への祈願や祭りなどの際に冷水を浴び、身を清めること。その行為、つまり水行による禊を水垢離と呼ぶが、垢離の回数は33回。

県内などで行われている垢離取りの回数は、どの地域であっても33回。

何故に33回なのか、未だにわからない、悩ませる数字である。

宇陀市大宇陀の栗野で行われている田休みの垢離は33回。

神社裏を流れる小川の水に葉を浸け、その葉を供える。

これを33回繰り返す。

桜井の修理枝での願掛けは、化粧川にある小石を33個運んで八王子神社の神社裏に置いていた。

小石を拾う負荷を軽減するために複数人に。

もっと減らして小石は1/10の3個に。

その代わりに数取りは、榊の葉で数えることにした。

大宇陀の野依もまた、白山神社に供える垢離取りは、神社下を流れる宇陀川の小石だった。

山添村の北野

神社下にあった小川に浸した葉は椿の葉だった。

奈良市都祁相河町では薬師籠り前の願掛けに33回の垢離取りをしていた。

近くを流れる小川に出でて南天の葉を水に浸けていたが、護岸工事によって汚れた川になったことからバケツに汲んだ水に替えた。

旧都祁村の上深川は、風の祈祷に33回を数える道具は竹箆である。

また、広陵町の小北稲荷神社境内で願掛けしていた人は、同じく竹箆だった。

数える祭具は、まちまちであるが、いずれも何故にその回数なのか知る人はいない。

中定の村行事を初取材した令和2年8月23日。

十輪寺の地蔵盆に参集された宮総代、区長代理他多数。

行事前に話してくださったのが、ハツオージさんのコオリトリ。

かつては、各家がめいめいにしていたコオリトリ。

南天の葉を水に濡らして往復33回。

氷室神社同様に、竹箆で回数を取る家もあったようだ。かれこれ40年前、バラバラだった作法を、南天の葉を手送りする形に一本化した。

一人で33往復するのもたいへんだから、バトンリレーのように葉を手送りにしたというコオリトリは、7月7日の朝6時にはじめる、と話していた。

朝早くの取材は、事情で行けないから、時間を遅らせて自宅を出発した。

行事をされているなら、痕跡が見つかるかも・・と思って出かけた。

到着した時間は、午前9時。

はてさて、茶畑の上の方にあると聞いていた八王子社は、どこに・・

水道水を流してお店のシャッターを洗っていたIさんに、ハツオージさんのことを尋ねてみたら、今朝7時にしたと、いう。

かつてほとんどのお家は、朝の5時からしていたが、Iさんが子どものころは、朝方どころか、夜に起こされて、行かされた、という。

さて、ハツオージさんに行くには・・・。



あそこに見える「都祁氷室の旧跡」が集合地。

そこからみなが登っていく。

正面に民家がある。

そこら辺りに八王子山に登る道がみつかるはずだ、と言われてここまで来た。

先ほど拝見した「都祁氷室の旧跡」は旧神社跡地行きの道しるべ。



そこは山のてっぺんにあるのだろうか。

白い標柱は、平成3年に建てたようだ。

都祁の氷室神社は、標柱に書いた方角にあるのではなく、この地からみれば、もっと西に鎮座する。

それはともかく、道なりにいけば民家に・・。

といわれてきたが、それ以上は、玄関向こう。

突き進むわけにはいかない玄関口にそれはないだろう。

民家を背に、道なりの道を戻っていけば、右手に畑道が見つかった。

草刈りするなど、綺麗にしている畑道。

その右手にあった建物。



視線の行先は、収穫した玉ねぎ吊るし。

軒下に吊った玉ねぎ干しの景観に見惚れていた。

畑地に野生の動物が侵入しないよう電柵を張っている。その先にも電柵が・・。

低めに設置した電柵。

鹿対策でなく、猪の侵入を喰いとめる電柵であろう。



低く設営していた電柵の向こうにも、「都祁氷室・・・」は旧神社跡地行きの道しるべ。

標柱に行きたいが、生い茂る背高のっぽの草むらに阻まれたここで足止めをくらった。

後にわかったことは、「都祁氷室の旧跡」の位置である。

都祁氷室神社の秋祭りに御旅所に向けてお渡りをする神幸祭がある。

実は、その御旅所地が、氷室の旧跡であった。

平成17年10月15日に行われた神幸祭。

神職を先頭に、祓主、警護、御社旗、高張、楽太鼓、楽人、天狗、獅子舞、甲冑、神前旗、太鼓、大玉串、日月旗、五色大御幣、白大御幣、御神輿、宮司、神楽巫女、護衛、三組の当屋座(当主、当任子)衆、神饌箱、吹抜、甲冑ら歩く大行列の行先が、氷室の旧跡だった。

撮影当時、福住中学校裏山であったことは、朧気ながら思い出した。

あれから15年も経った今、すっかり記憶から消えていたが、思わぬ出会いに、当時の情景が瞼に甦った。

八王子山に向かう道は、どうやらこの畑道ではなかったようだ。

もう一度、教えていただきたくお店番をしていたIさんに、正しい道を・・。

左ではなく、右や、という道。

民家の門の右際にある細い道。

いや、道とは言えないような民家の所有地の通路が、入口だ、という。

なるほどであるが・・・。

さて、八王子山に登る道は、村の道なのか、それともその民家の所有地なのか。

そのことについては、気にかけても仕方がない。

Iさんが、指示された通りに、民家の庭から山登りと続く参拝道。

いきなりぶつかる急な坂道。



村の人が登りやすいように、その民家の方が、予め草刈りをしていた山道。

道とも思えない急こう配の山道に、いきなりぶつかる。

地面は数日前に降った雨によって濡れている。

一歩、踏み出す、二歩、三歩に運動靴ではずずっと滑りそうだ。

手すりのない自然体の山道。

右側はがけ下。

おそるおそる登っていくが、心拍数が異常に高鳴り、足はどうにもこうにも動かない。

この坂道が見える範囲内でも、足が止まること、3回も・・。

そろり、そろりと登る急こう配の山道。

目的地は、どこにあるのだろうか。

Iさんの話によれば、それほど距離はない、というが、勾配は予想以上だった。

ここも足が止まった一地点。

右側に見た景色に眺望が開けた。



足元あたりは茶畑。

そう、昨年に聞いていた茶畑だ。

腰を下ろして眺めてみたいが、じゅくじゅく道。

踏ん張って観た右に拡がる景勝地に、茅葺の家屋がある。

それは、近年になって多くのカメラメンが押し寄せるようになった枝垂れ桜が美しい融通念仏宗派の西念寺である。

平成26年4月20日に立ち寄った西念寺。

ピンク色に染まった枝垂れ桜が満開。

雨降りの日であったが、本堂の茅葺屋根の補修に、茅葺職人さんがカヤサシ作業をしていた

西念寺の枝垂れ桜を初めて拝見したのは4年前に遡る平成22年4月15日

西念寺の枝垂れ桜は遅咲き。

平たん部地域、あちこちの桜が咲き終わった4月半ば辺りが、西念寺の枝垂れ桜が見ごろになる。

そう話してくれた平成20年11月13日

取材していた西念寺の十夜会法会の際に教えてもらった。

平成22年当時は、まだ知る人ぞ知る、というくらい、カメラマンにはまず知られていなかった枝垂れ桜。

茅葺本堂と相成った情景を醸し出す枝垂れ桜って、県内では数少ない景勝例であるが・・。

枝垂れ桜はそこまで。

本来目的の垢離取りに話を戻そう。

もう少しで八王子社が建つ平たん地になる。

登りだしてから5回も身体を休めた急こう配。

目と鼻の先にやっと近づいた。

その地の奥に建っていた社。



辺りを見渡したそこに枝木が見つかった。

葉っぱがまったくない枝木といえば、本日の垢離取りに使った南天の木しか考えられない。

その枝木付近に南天の葉はない。

付近を探してみたが、同じような枝木もなく、他にあったのは枯れた枝ばかり。

垢離取り行事の痕跡が見つかった。



これだけでも十分と、思ったが、なんと、南天の葉っぱは社に供えていた。

枚数は数えていないが、垢離取りの回数を示す33枚であろう。

登る前にIさんから聞いていたこと。

この葉付き南天を用意し、先に供えておくのは一年任期の区長の役目。

南天の木は、予め探しておき、伐っておく。

また、垢離取りに必要な道具がある。

それは水を入れたバケツ。

今年は、バケツが用意されてなくて、ばたばた慌てたらしい。

そのバケツは、神社下にということだから、参集地である。

一枚の南天の葉。

バケツの水に浸した南天の葉を手にして登坂。

八王子社にその一枚を供えて、山下り。

次の葉を水に浸けて、登坂し、供える。

これを繰り返すこと往復33回。

私は、たった1度の往復であったが、これを33回も繰り返すのは苦行そのもの。

人数はともかく、負担軽減に往復回数を減らす複数人によるバトンリレーのような手送りの垢離取りにしたのは、納得できる。

短い距離だが急勾配。



下りは、特に滑りやすい。

誤って道を踏み外したら、大怪我どころか、場合によっては、怪我では済まされないような状況に陥るとも限らない。

「水の祓浄力を利用し、不浄をとり去る行為」が垢離。

水垢離、塩(海水)垢離、寒垢離に湯垢離など、みな水の祓浄力。清浄な川の水を利用し、身を清める禊祓えの垢離作法。

これまで私が見聞きした民俗調査の範囲内では、水垢離でなく、お百度参りのような形式。

33回、ぐるぐる周回する願掛けもある。

八王子山をそろり、そろりと下って、再びお会いしたIさんに垢離取りの痕跡が確認できた、と伝えた。

それなら、来年はもう来なくていいだろ、といわれたが、それは未達。

村の人が作法される実際の垢離取りは未だだから・・。

身体状態と起床時間が、なんとか間に合うようであれば、また寄せていただきたく・・と、伝えて、氷室神社に向かう。

昨年の風の祈祷行事取材の折、宮総代が話してくれた氷室神社での垢離取り

混雑しないように垣内ごとに参拝時間を決め、

垢離取りをしていたそうだ。

手水に竹箆を浸して神社に参る垣内単位の垢離取り。



垣内は、ここ中定の他、浄土、上入田(※1)、下入田、別所、南田、井之市、鈴原、小野味がある。

Iさんは、中定はしていない、といっていたが、いずれかの垣内が、氷室神社において垢離取りをしているように聞く。

9垣内、それぞれの区長さんに伺って垢離取りの状況を聞き取りしたい気もあるが・・。

ちなみに(※1)を印した上入田だけが集会所、他はみな公民館を会所にしているようだ。

(R3. 7. 4 SB805SH撮影)

天理・上山田に時季遅れの山桜に出会い、農産物直売所の「みちくさ」に旬の春の味を求める

2023年05月12日 07時31分24秒 | 天理市へ
お礼を伝えた天理の中山田

次の目的地にハンドルをきった。

名阪国道の福住ICに行く途中に立ち止まり。

思わず急ブレーキかけた畑の桜。

雪洞のような桜の花は八重。

淡い緑色の葉もきれいな八重の山桜の雰囲気がいいね!。

奈良市の長谷に向かう峠道まで走ってまた戻ってきた。

と、いうのも三叉路辺りにあった小屋に目が潤んだ。



割った薪を綺麗に積んだその情景。

火力に用いる薪の材を伐採した木を運ぶ。

屋根のある小屋のような建物の軒に積んだ薪。割るための台は丸太。

伐りだした材から取った丸い台。

割り木を縦に立てて斧を振る。

薪は、かつて竈やお風呂の火ダネに使っていたが、今はよほどのことでなければ、屋内に設置した薪ストーブに暖をとる材であろう。

今の若者は、薪の割り方さえ体験することはない。

斧や大ハンマーを振る動作は、腰を使い、道具の重さを利用して下ろすのだが・・・

BBQの火に燃やす薪は、つくるのではなくアウトドア用品売り場に求める時代。

薪割り体験すれば、わかるが体力は相当なもんだ。

昔、昔、我が家に木製の風呂があった。

火ダネは、ご近所にあったお風呂屋さんがもっていきな、と云われた捨てるくらいの端材をもらって、家にあった斧で割っていた。

そんな時代がとても懐かしく感じる私も70歳の身。

今じゃ斧も振る力はなくなった。

薪置き場からすぐ近く。

三叉路にある地産地消の野菜を売っている上山田・農産物直売所の「みちくさ」に立ち寄る。



店舗前の棚に並べていた採りたて野菜。

棚にあるときと、ないときもある。

売り切れなのか、それともその日の持ち込みがなかったのか・・・

さて、何を選んでお家の土産に・・・。



いちばんに目が動いたソレは、葉の部分を切り落とした葉たまねぎ。

新玉らしいから、そう判断した葉たまねぎは、3玉が100円。

正味大好きなわけぎも100円。

家庭食に常備している青葱も100円。

滅多に買うことのない150円の蕗の茎も買っていた。

代金は、左下に置いているカンカンに収める。

お釣りを要する場合は、店舗におられる売り子さんにお願いして硬貨に替えてもらう。

朝採り新鮮野菜。

ほんまやったら、ぜんぶ買いたいところだが、そこはぐっと我慢した。

基本が無人販売の上山田の「みちくさ」はこれくらいにして再出発した。

走った瞬間に停車。

まさかここに見事な山桜が咲いて板とは・・・

ここもまた、時季を替えてやってくると思いがけない美の世界に出会える。



大木の山桜。

カメラのレンズに収まらないほどの大きく育った山桜。

横から撮った一部の姿も美しい。



杉林に埋もれてしまいそうな山桜。

心に焼き付けておこう。

(R3. 4.25 SB805SH撮影)

取材のお礼に巡る癒しの景観①天理中山田

2023年05月10日 08時17分37秒 | 天理市へ
取材・撮影のお礼に印刷したプリントをもって出かけた。

1軒目に訪れた天理市・中山田のK家。

電話中のご主人に代わって屋内から出てこられた奥さんのTさんに手渡した。

撮影の中心人物は、田植え祝いのさなぶりに田の神さんに手を合わせていた昭和8年生まれの母親。

この地に生まれ暮らしてきた母親Sさん。

こんなにえー顔で撮ってくださって。

いつもと同じ顔ですと、喜んでくれた娘のTさん。

今年も元気で暮らしている、と伝えてくれた。

そのとき、娘さんを呼ぶ声。元気なお声をもらった。

当時、取材中のおばあちゃんは、フキダワラをつくりながら、話してくれた暮らしの民俗。

カメラ撮影と同時に収録していた携帯カメラで撮った録画。

そのデータも、USBに落として差し上げた。

お家から下ってきた道沿いに見る中山田の景観。



暮らしのひとつ小さい畑に野菜つくり。

大きくなった蕗の葉。



前年取材にもって帰りと渡された蕗。

大量の蕗の佃煮つくりは初体験。

たいへんだったが、またつくりたくなるけど・・・。

ハウス内に育った苗はもうすぐ始まる田植行き。



また、今年も田植え祝いのさなぶりをされることだろう。

(R3. 4.25 SB805SH撮影)

出会い、遭遇、縁つなぎの天理本通り

2022年12月20日 07時59分54秒 | 天理市へ
これまで2度も大雪予報が外れた。

今度ばっかしは、間違いなく降るだろう。

これまでのこともあるから、起きてみなきゃわからないが・・。

起床時間に屋外に出た午前6時の時間帯は雨がポツポツ振り出した程度だった。

ところが30分後に降る雪にあっという間に道路は真っ白。

こりゃいかん。

只今、車検中。

代車はノーマルタイヤ。

リスク回避にバス、電車、バスを乗り継いで病院へ行く。

2カ月たんびの通院日に雪アタリ。

久しぶりに見る午前8時の冷たい雪はぼたん雪。

列車から見た白い大平原。

帰りに見たその地は、曼荼羅模様。

一般道路は、ノーマルタイヤでもすいすい走っていた車を見て・・・・・今日は何ていう日だ

暖まった大阪王将天理店から出たお外は寒い。



路地裏に見た小路に積もる雪。

ここも冷たい風が吹く。

天理本通りを歩く人は少ない。

通りにあるお店のほとんどがシャッターを下ろしている。



初めて体験する天理本通りに一抹の寂しさを感じるなか、ほっこりするモノがあった。



POPに書いてあった「マスク差し上げます」に目がいく。

「石西呉服店様(三島町)より自社製造のマスクを寄贈していただきました」に続いて「」マスクは大人用、子ども用、大人用・子ども用セットの3種類ございます」と丁寧に伝えている。

マスクは晒しの生地で作っている。

使用する場合は、マスクの間にキッチンペーパーなど挟み込んでご利用ください、とある。

我が家も自家製の布マスク。

間にキッチンペーパーを挟んでいたが、聞き取り取材に口が動く。

その度に挟んだペーパーの顔出し。

予備のマスクに替えても同じだった。

もういいや、と思ってペーパーなしで今も利用している洗いの布マスク。

心ある呉服店の人がつくった晒し生地のマスク。

思わぬプレゼントに温もりを感じ、一枚のマスクを懐に収めた。

外気温は冷たいが、懐は温かくなったような気がする。



帰宅してから読んだお店の口コミ。

店主の人柄がわかるような気がする。



さらし布製のマスクを懐に入れてほっこり。

そこからほんのちょっと歩いたところに食料品店(日の本食料品店)があった。



通りかかる人に、少しでも目につくように通路近くに・・。

思惑とおりになった私の足。

箱売り商品は袋入り。

その他の商品もみな目の下に見える棚売り。

スーパーにみられるような陳列棚はなく、昔ながらの売り場。

商品は三輪そうめんのふし。

大袋入りが250円、150円の小袋入りに思わず手が伸びた。



地産商品を売る「よってって」にあった大サイズなら350円。

なんとお安いことか。

店主に料金を渡したそのときである。

蓋がガラス板の棚にあった商品は1580円のヒダラ。

都祁白石の辻村商店にもあったヒダラ

これもまたスーパーでは見かけることはない。

買う人がおられるから売っている。

もしか・・と思って尋ねた・・・「お盆のときにみかけるサシサバはありますか・・」の答えは「毎年売っていますよ」だった。

店主の奥さんがいうには、「今でも馴染のお客さんが、買ってくれはる。昔は焦げ茶のような色やった。匂いもあるから今はヒダラと同じように袋入り。それも1枚単位で売っている」という。

まさかの出会いが、ここにあった。

仕入れは福井県から取り寄せている。

7月半ばのころだったら棚に出している、という。

実は、と名刺を渡し取材主旨をお伝えしたサシサバ民俗。

その時期、写真に撮らせてもらってもいいですか、の答えは、えーよ、だった。

小躍りしたいくらいに胸が熱くなる。

このお店でサシサバと出会える。

本通りの魚屋さんに売っているサシサバを買って食べている、と聞いたのは、奈良市旧五ケ谷村の中畑に住む、平成27年当時82歳のIさん。

「お盆の8月14日に“サシサバ”を食べている。普段は“サッサバ”の名で呼ぶ食べ物は塩漬けしたサバをカンカラカンに干したもの。両親が揃っている家では開きの“サッサバ”をもう一尾のサバ頭に挿しこむ。平坦盆地部の大和郡山や天理市・斑鳩町で聞き取りした旧村在住の高齢婦人たち。懐かしい味は忘れられないと話していた戦前の幼少期の体験である。今でもその“サッサバ”を食べている中畑在住の2人の高齢者。あまりにも塩辛いから、家族はその味に遠慮。仕方ないから隠れて食べている。“サッサバ”は赤黒い方を「酢」に浸し、柔らかくなれば塩抜きをする。その味は、しょっぽくて辛い。」だった。

今まさに、Iさんが話していたお店であろう

本通りに生もんの魚介類を売る店はないから、この食料品店に違いないだろう。

また、Iさんは、ここ本通りで常に着こなしているモンペとヒッパリも買っていた。

5年もかかって到達した本通り。

まだまだ暮らしの中の民俗が見つかる可能性を秘めているようだ。

食事も摂った大阪王将天理店。

天理本通りもこの日が初めてのお出かけ日。おまけに、夏の民俗を象徴するサシサバを売る店も出会えた。

(R3. 1.12 SB805SH撮影)

苣原町・手造り蒟蒻店

2022年12月04日 08時45分06秒 | 天理市へ
桜井・滝倉からの帰り道は天理・福住から山下り。

途中にある苣原の地で必ず停車して、村の月行事を拝見している。

5日はケイチン、9日はオコナイ。

平成21年に取材ケイチン行事は(宮本の)長老らだけで行われていた。

あれから、時の経過は、もう10年以上か・・・

メンバーもずいぶん代わっているだろう。

そこから20m下ったところに仮設売り場。

手造り蒟蒻の看板に釣られて停車。

どんなんですかと尋ねた売り子さん。

「あんた、昔に閏年の庚申トアゲに来てくれて講中全員揃ったところで記念写真撮ってくれたなぁ」って。

「あれぇ・・・」、にご自宅はと聞けば、あそこだと指差し。なんとその当時お世話になったN区長の家。

写真はうちにあるからよく覚えている、と・・・

久しぶりの出会いに話が弾む。

元々は爺ちゃんが使っていた小屋になるそうだ。

亡くなってからその場に、なにかができないか・・・

6年前から販売している手造り蒟蒻のお店だった。

栽培は元区長のNさん。

蒟蒻つくりは奥さん。

販売に際しては、栽培の勉強から作り方を受講、保健所の許可もとって、現在に至る、という。

これまで6年間、しょっちゅう走っていたこの地でしていたことまったく気づかず・・・

今日が初めての気づき。

実は、毎日が開店でなく、手造りの場はお家に籠ってしているそうだ。

売り場の面倒は代わりがおらんのでシャッターは下ろしている、と・・・

そりゃぁ、タイミングがずっと悪かったんだ。



手造り蒟蒻は水酸化カルシウムを混ぜて作ったものが1個200円。

木灰がほしいからそのときに買ったダルマストーブで木材を燃やし。

その木灰から作ったうわずみを混ぜてつくった蒟蒻が300円。

舌触りは木灰仕様が、えー感じでした。



ちなみにダルマストーブ向こうに貼っている京都・愛宕さんの火の用心札。

数年前までは村代表の愛宕代参3人が京都まで出かけて全戸数のお札を購入していたそうだ。

今はしなくなった愛宕さんの代参。

ここにあるお札は、以前区長をしていたときに少し残していたもの。

売り場にストーブを置いているので貼った、と・・・に、素晴らしい。

ところで、一昨年の暮れ。

12月25日に通りがかった際に見たみしろ(※筵/むしろ)干し

水防フエンスにかけ、干していた。

思わず、車を停めて撮っていた。

背景に見える民家の風情にちょうどはまった干す民俗の一場面。

すごく、えー感じでしたので・・・と伝えたら、それワシがしたんや、と・・・

餅ではなく、採り入れた豆を干していた、というから正月用の黒豆であろう。

今度、豆干しも見せて、といえば、吊るし柿もあるで、と話してくれた。

買って持ち帰ったYTさん手造りのこんにゃく。

一日おいて、5日の食事は家人調理。



尤も、初回の調理は、お造りこんにゃく。

どこのお店で買ってきても、初回の味わいはお造り。

自家製のからし酢味噌味で食べる。

手造りの蒟蒻屋のお造り生がプリプリコリコリ。

からし酢味噌の味にぴったし。

家人はおかずに、私は酒の肴。

2食目は、7日。

手でちぎった塊こんにゃく。

味がしみやすい形は、包丁切りでなく、手でちぎってごつごつした形。



牛蒡に牛肉入れて佃煮風に仕上げる。

牛肉の旨味に佃煮味がしみこんだコリコリ蒟蒻が美味しい。



これもおかずに酒の肴になった。

3食目も手でちぎったこんにゃく料理。

煮もの料理に大根も。



味がしみこんだ大根に、これまた旨いこんにゃく料理。

(R3. 1. 4、 5、 7、20 SB805SH撮影)

長滝町・九頭神社神輿の修復

2022年11月26日 07時47分23秒 | 天理市へ
カラスのモチ習俗の話題を提供してくださった天理市長滝の住民。

うちは現区長家だが、分家のY家。

本家にも立ち寄ってほしい、と願われて、急坂の道を下っていった。

長滝町に鎮座する氏神社は九頭神社。

3年後にゾーク(造営事業)があり、保管庫にずっと寝かして(※保存)いた神輿を再生することに決めたそうだ。

損傷激しい神輿修復にかかる費用は高額。

村に大工さんがおるので、そこでやってもらうことにした。

その大工さんは宮大工でもなく、建物建築。本家のY家さん。

顔合わせて、修復中の神輿を見てや、と云われ、尋ねた現一老のY家。

やっぱり、このお家や、と思わず声が出たY家。

過去、何度も伺い、取材させてもらった長谷の年中行事。

中でも、未だに記憶が鮮明に遺っているコンコンサンの行事。

山に、そして急こう配の山道にも雪が積もった日のコンコンサン

行事の場は、山中にある稲荷社。

登りに村の人たちが困らないように、手すりとして張ったロープ。

その状況下に運動靴で登るのは無理。

取材は諦め下山しよう、と・・

そのことを気遣ってくれたY夫妻。

その日、にわか神主役を務めたYさん夫妻。

急いでお家に戻り、わざわざ登山口まで長靴を持ってきてくれたK夫妻。

ほんとに心から感謝する日だった。

久しぶりにお会いするお二人に、あらためて年賀の挨拶。

10年前、行事取材に世話なった当時の区長さん。

しゃべっている間に私のことを思い出したようだ。



時間を割いて見せてくれた神輿の彫り物が凄い。

ところが欠損多く、顔もわからん。

なんとか見本になるようなものをネットなどに見つけて彫り出した、という彫り物。

屋根から見下ろす姿は下がり龍。



迫力を感じる龍が屋根お支えている。

武将でもないような釣竿持つ人物の愛くるしい姿に思わずシャッターを押す。

左手に扇をもつ立ち姿。前に大きな甕。



水甕でなく酒甕のよう思える立ち振る舞い。

宴に舞う酔客なんだろうか。

神輿の周り、狭間四面、4カ所に設える彫り物。

大波に人物。



右端に線描き入れた人物顔スケッチ。

少しずつ補修されている。

隠れている裏側にも数々の彫り物があるから、見せてあげよう、と重機稼動。

拝見した雲板4カ所それぞれに力士の姿。



神輿の土台を支える姿に圧倒される。

このように力士が支える形は、稀に見る。

力士が支えるのは、狛犬の台座とかに見られる。

各地の神社。くまなく探せば見つかる”支える力士”の姿に力強さを感じる。

上手くできあがったら、声をかける、というが、ちと不安な気持ちも浮かぶも・・。

翌年の5月に再訪し、伺った神輿の修復状況。

神輿は云十年前、それこそ50年前になる。

担ぎ手が少なくなり、担ぐことなくずっと保管してきた神輿。

来年のゾーク(造営事業)に披露できるよう、修復してきたが、ちょっと無理な状況。

ガラスの眼を埋め込んでいた神輿の4隅に設えていた獅子。

眼玉を作る、と息子さんもそう云ってたが、それも無理なような状況にきている、と・・・・・

(R3. 1. 2 SB805SH撮影)